2018年6月23日 (土)

地域の言葉について思うこと(3)

発音も個性、語彙も個性

 

 ある新聞のコラムに次のような文章がありました。

 

 東北地方の温泉宿に泊まった夫婦が散歩に出た。玄関で番頭が「じいさん、ばあさん、お出かけ」と言った。夫婦は黙っていたが、帰った時、再び「じいさん、ばあさん、お帰り」と言ったので、さすがに注意した。「ひどいではないか」。番頭はそんな失礼なことは言わないと否定する。調べると夫婦の部屋番号が十三番。福島、宮城、山形あたりでは「じ」も「ず」も「じゅ」も同音になりやすく「十三番さん」と言っていたのだが、相手には「じいさん、ばあさん」と聞こえた。言語学者の金田一春彦さんが書いている。

 

 このコラムを読んで、思い出した文章があります。同じ金田一春彦さんに関わる話です。金田一さんが、どこかの食堂で食事をしていたら「金田一さん」と呼ばれました。あたりを見回しましたが知っている人はいないので不思議に思いました。しばらくすると、また「金田一さん」と呼ばれましたが、やっぱり知り合いはいません。そのうちに、その謎が解けたそうです。「金田一さん」という呼びかけに聞こえた言葉は、実は食堂の人が、注文を受けて、早口に「チキンライス、一丁」と伝えていた言葉であったというお話です。よく似た発音を、私たちは誤解して受け取ることがあります。

 七十年近く前に山形県鶴岡市で行われた調査では、猫のことを「ねご」と言うと答えた人が三十七%あったのに、最新の調査では三%に減ったのだそうです。ところが「鶴岡弁らしく発音してみせて」と言うと、今でも九割近い人が「ねご」と言うのだそうです。私たちは状況や相手によって共通語と方言を上手に使い分けているようです。

 方言はしだいに消えていくというのが通説です。福島原発事故の地元では、地域社会の人たちの避難先が多方面にわたり、方言の語彙で消滅する恐れがあるものがいくつもあるということを、東北大学の研究者が調査して、危惧しています。

 私たちの日常生活は方言の上に成り立っています。語彙は共通語と同じものをたくさん使っているでしょうが、音韻(発音)、文法、アクセントなどは、その地域がはぐくんできたものからは抜け出すことが難しいでしょう。それが、その地域の言葉の個性です。語彙も発音もアクセントも、共通語になびく必要はありません。文法ですら、共通語とは異なる特徴を備えていることもあるのです。

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2018年6月22日 (金)

地域の言葉について思うこと(2)

「真逆」という言葉

 

 私は、新しい言葉に抵抗感を示すことが多いのですが、「真逆」という言葉は少し違ったとらえ方をしています。

 何年か前の文化庁の「国語に関する世論調査」の結果などによると、今では「真逆」は「正反対」をしのぐ勢いなのだそうです。「真逆」を一語であるとすると、訓読み(「ま」)と音読み(「ぎゃく」)が交ざった湯桶読みをする言葉です。

 関西では一音節の言葉を長音にする傾向が強くて、「真」は、しばしば「まあ」となります。「まあ後ろ」「まあ前」とか「まあ東」「まあ西」と言います。(「まん前」というような言い方もないわけではありません。)その場合、「まあ後ろ」の「まあ」と「後ろ」は密接な一語になっているという印象ではなく、「まあ」と言って瞬間的な呼吸を置いてから「後ろ」にかかっていく、修飾語のような働きをしているように感じられます。

 例えば「まっ正面」は一語になってしまっているように感じますが、「まあ正面」は、「正面」を「まあ」が修飾しているように感じるのです。「真逆」にあたる日常語は、私の感覚では「まあ反対」であって、これも一語に熟してしまっているようには感じません。また、「まあ逆」と言っても違和感はありません。

 「真逆」と文字に書くことと、「ま逆」という共通語の発音と、「まあ逆」という長音化した日常語の使い方とは、それぞれ異なった印象を受けるのです。「まあ逆」は滑らかな響きを持つ言葉であると思います。

 言葉にも、地方分権的な視点を持つことは大切なことだと思います。

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2018年6月21日 (木)

地域の言葉について思うこと(1)

「ん」で始まる言葉

 

 大型であれ小型であれ、国語辞典に収められている言葉の最初の見出しは「あ」です。「あ」の見出しで並んでいる言葉は、感動詞の「あ」や、造語成分の「亜」や「阿」などです。

 それでは、国語辞典に収められている言葉の最後の見出しは何かといえば、辞書によって異なるでしょうが、「ん」で始まる言葉であることに間違いはありません。

 私は、仕事の必要から、十種類以上の国語辞典を手元に置いておりますが、改訂のたびごとに新版を買い求めることはできません。『広辞苑』は第4版のままです。その版の最後の見出しは、「んとす」であって「終りな-」という用例が載っています。まさに一冊の辞典が終わりなんとしている場所に置かれた用例です。その版では「ん」ではじまる見出しは、「ん」(4項目)、「んす」、「んとす」の合計6項目です。

 『広辞苑』はこの度、第7版が刊行されて、さまざまなことが話題になっていますが、最後の見出しは「んぼう」になりました。「赤-」などという言葉の造語成分です。今後、これより後の見出しが誕生するかどうか、興味がわくところです。

 もっとも、『新明解国語辞典・第4版』には、既に「んぼ」の見出しがあって、「甘え-」「おこり-」「立ち-」「けち-」「隠れ-」などの用例がどっさり載っています。

 極めつきは『三省堂国語辞典・第3版』の「んんん」という感動詞で、〔ひどくことばにつまったときの声。〕という説明がされています。

 国語辞典の最初と最後の言葉が感動詞であるということには納得しますし、そこまで言葉を拾い上げた辞書編集者に感服します。

 感動詞は、話し手の感動を表したり、呼びかけ、応答、掛け声、挨拶などに使われたりする言葉ですから、感動詞の語数は広がっていく可能性があります。

 さて、全3冊の『日本方言大辞典』は全国各地の方言を集めたものですが、「ん」で始まる見出しには、沖縄の言葉を中心にして百八十余があげられています。兵庫県にも関係がありそうな言葉をあげると、打ち消しの過去を表す「んかった」、ある動作をしなければならないということを表す「んならん」、尊敬の意味を表す「んす」、などです。私が勝手に用例を作り上げれば、「昨日はテレビを見んかった。」「明日は神戸へ行かんならん。」「事務所におりんすのは、どなたですか。」というようになります。方言辞典には「んんん」の見出しが現れないというのも面白いことです。

 ちょっと話が広がりますが、朝日新聞・大阪本社版の夕刊に「勝手に関西遺産」という企画があって、関西特有の言い回しなど、言葉の話題も積極的に取り上げています。かつて取り上げられていたのに「んなあほな」という言葉があります。

 上方落語協会の情報誌のコラムに「んなあほな」というタイトルがあるのだそうです。真面目な人が反論するならば、その言葉は「そんな阿呆な」という発音が崩れたに過ぎないということになるでしょう。けれども、関西の言葉では「そんな」ではなくて、実際の発音は「んな」になっていることは否定できません。

 この記事では、「いきなり『あほな』はキツいけど、前に『んな』って付けると、ノリツッコミのようになるんじゃないかなあ。」というコメントも紹介されています。

 関西では「んな」という連体詞が面白い味わいを出しています。「んなこと言われても、何ともならん。」とか、「んな話やったら、わしも一口乗りまっせ。」などと言います。理屈を言えば、共通語の「そんな」という形容動詞の「そ」が抜け落ちたに過ぎないということになるのかもしれませんが、そこまで言うと、関西言葉の味わいにケチをつけることになってしまいます。

 例えば、応答のときに使う言葉の「うん」は、「うん」という発音もしますが、人によっては、あるいは場合によっては、はっきりと「ん」とか「んん」と発音することがあります。鼻音の発音です。感動詞の「ん」は、文のはじめに出てきますから、「んなあほな」と言うのと似た性格をそなえています。

 私は今、『明石日常生活語辞典』を作っていますが、「ん」で始まる語を取り上げています。目立たせようとして積極的に取り上げたわけではありません。自然とそのように発音する言葉があるからです。例えば、名詞の「んま()」は「うま」と言う方が多いでしょうが、「んま」もきちんと残っています。打ち消しの意味の助動詞の「ん」は、例えば、「明日は行かつもりや。」などと言って、「ん」以外の何ものでもありません。格助詞(準体助詞)の「ん」は、例えば「その本はわし()や。」と言います。「わしのや」とか「わしのんや」とも言います。

 『明石日常生活語辞典』では、やや複合的な言葉も含めると、二十語ほどを、「ん」で始まる見出し語として取り上げています。

 

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2018年6月20日 (水)

言葉の移りゆき(64)

「想定」ということの不安定さ

 

 大阪北部を震源とする地震が起きました。関西にとっては阪神淡路大震災以来の大きな地震ですが、大震災以降は、さまざまな災害を「想定」した訓練などが増え、それなりの効果をあげていると思います。

 「想定」という言葉は、仮にある状況や条件などを考えてみること、という意味です。起こっていないことを予め考えるということです。

 大阪府教委が府立高校入学者に、英語の「スピーキングテスト」を在学中に課す方針を決めたというニュースがあり、そのテストの内容や取り扱い方が紹介されていました。

 

 受験教育を手掛ける民間事業者に委託して独自のテストや教材を作り、教員自らが評価する想定。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年6月16日・夕刊、3版、11ページ、芝村侑美)

 

 たぶん府教委の発表に「想定」という言葉が使われていたのでしょう。評価という重要なことを「想定」(どうするかは確定していない)というレベルで考えて、テスト実施そのものを決めてしまうというのは粗っぽいやり方です。公立学校のテストや教材を民間事業者に委ねてしまうということ自体に違和感を覚えますが、「教員自らが評価する」ことも想定に過ぎなくて(つまり、仮に考えただけであって)、そうでないこともありうると言っているようです。教員が評価するのではなく、ひとりひとりの生徒を民間事業者が評価する可能性もあるのでしょう。

 同じ記事には、英語授業に詳しい大学教授の話というコメントが添えられていました。

 

 話す能力を鍛えるには目的や場面、状況などを想定しながら自分で考えて話す経験が重要。

 (出典は上記に同じ。)

 

 こちらの「想定」はごく自然な意味で使われています。何の違和感もありません。

 大災害の場合の「想定」と、教育の場における「想定」とを同じように考えてはいけないでしょう。人智を超える災害に「想定」で対応するのは仕方ありませんが、教育の場の生徒たちを「想定」で左右するのは望ましいことではありません。

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2018年6月19日 (火)

言葉の移りゆき(63)

書名は不当表示にならないのか

 

 例えば、食品や薬品の販売で、「あなたは健康に蝕まれている」、「この食品(または薬品)を使えば回復する」と言えば、大問題になるでしょう。世の中の商品の大半は、不当表示が規制されていると言ってよいでしょう。

 ところが、書籍などの場合は、まったく好き勝手なことを言っても問題にならないようです。「あなたは馬鹿です」から「この本を読めば、たちどころに賢くなります」と言わんばかりのことが行われています。書名の付け方にも、そのような傾向があります。

 

 「知らないと恥をかく世界の大問題」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月9日・朝刊、13版、2ページ、KADOKAWA・広告)

 

 恥をかこうと人の勝手なのですが、恥をかくからこの本を読みなさいと言わんばかりの書名です。人の弱点につけ込んで、本の購入を勧めようという姿勢は見え見えです。「あなたは健康に蝕まれている」というのと違いはありません。こういう書名は出版元がつけるのでしょうが、著者の了解なしには行われていないはずです。「知らないと恥をかく…」というのはシリーズで何冊も出ているようです。著者お好みの言葉のようです。

 この広告には出ていませんが、同じ著者には、「なるほど!日本経済早わかり」とか「そうだったのか!現代史」などという書名もあります。「なるほど!」や「そうだったのか!」は誰の感想でしょうか。著者ではなく読者のはずです。ということは、著者の述べることは素晴らしく、読者がそれに納得するという構図です。著者は何でも知っていて、知識の足りない読者が驚くということが書名に現れているのです。

 私はこのような書名の本を読みたいとは思いません。話は変わりますが、「〇〇先生のナントカカントカ」というように、自分のことを先生と言って、人を引きつけようとする本も同じです。書名に抑制力がはたらかないような人の文章は、あてにならないと思っています。

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2018年6月18日 (月)

言葉の移りゆき(62)

国語テストの三択問題

 

 首相がテレビ番組で語ったというニュース記事がありました。その一部分が、次のような文章になっています。

 

 一方、学校法人「森友学園」「加計学園」問題について、「私の分からないところで『これは首相が言っているんだから』ということは起こっているかもしれない」と述べ、…………。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年6月16日・夕刊、3版、1ページ、古川宗。ただし実際には、…………の部分には言葉が書かれていた。)

 

 ここで、問題です。「…………」の部分には、どのような言葉が書かれていたのでしょうか。次の3つの中から選んでください。

 () 自身の関与を重ねて否定した。

 () 自身の関与をしぶしぶ認めた。

 () 自身の関与を否定も肯定もしなかった。

 

 国語のテスト問題にはこのような形式のものがあります。文脈から考えて、ここにはどのような言葉が入るのが適切かと問うているのです。(現実には、時事的内容が問題になることは少ないと思いますが…。)

 これはテレビ番組を見たか見なかったかとか、首相の人間性がどうであるかとかは関係ありません。純粋に言葉の問題です。

 カギカッコの中はテレビ番組で語ったことが記されており、その意味では客観的事実です。「…………」の部分には、その発言に基づいて記者が下した判断が書かれているはずです。どれを選べばよいでしょうか。

 国語のテスト問題としては、答えの選択に迷います。「関与」という言葉の重みによって、ますます迷いが生じるでしょう。とはいえ、選択肢は、否定、肯定、曖昧返答の3つです。どれかを選ばなければなりません。

 正解は、意外に思われるでしょうが、()です。国語のテスト問題の場合は、もともとの文章に書かれていた言葉が正解です。それ以外は誤答ということになります。「…………」の部分には「自身の関与を重ねて否定した。」と書かれていたのですから、それが正解です。

 けれども、これは国語のテスト問題にするには適切でなかったと思います。問題はこの文章表現にあるのです。表面的な発言とは裏腹に、内心が見え見えであったというのならば、「と述べつつも、」とか「と述べるにとどめ、」などという表現をした上で「…………」の部分につなげていかなくてはならないでしょう。そういう言葉を取り払ってしまって、記者としての結論を書くのは性急であったと言わなければならないでしょう。

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2018年6月17日 (日)

言葉の移りゆき(61)

「自撮り」と「自画撮り」

 

 「自撮り」とは、自分のカメラで自分を撮ることです。と言っても、シャッターを押すことを他人に頼んで、自分のカメラで自分を撮ってもらっても自撮りとは言わないでしょう。三脚を立ててシャッターのタイマーを使うのは自撮りの範疇にはいるのでしょうか。自撮りというのは、自分のカメラのシャッターを自分で押して自分を撮るということなのでしょうね。「自撮り」は写真を撮るときの方法についての言葉です。

 では「自画撮り」とは何でしょうか。こんな記事がありました。

 

 一都九県でつくる関東地方知事会議が二十三日、都内で開かれた。都の提案で、中学生や高校生らが自分の裸を撮影して他人に送り、画像が悪用される「自画撮り」被害を防ぐため、国に法改正を求めることで一致した。

 (東京新聞、2018年5月24日・朝刊、22ページ、したまち版、川田篤志)

 

 自画撮りとは、記事にあるように、自分の裸を撮影することのようです。これは自分でシャッターを押すとは限らないと思います。タイマーを使ったり、他人にシャッターを押してもらったりすることも含まれるでしょう。「自画撮り」は写真の中身(対象)についての言葉で、とりわけ「裸」がキーワードになっているのでしょう。

 観点の違う内容を、よく似た言葉で表すと、混乱が起こることがあります。「自撮り」と「自画撮り」は、一見同じことを表すようにも取れます。「国に法改正を求める」とありますから、今後、しばしば目にする言葉になるかもしれません。「自画撮り」は、他の言葉を工夫して使うようにするのがよいのではないかと思われます。

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2018年6月16日 (土)

言葉の移りゆき(60)

実感できる数字と、架空のような数字

 

 今朝の気温は昨日の朝よりも5度高いというニュースを聞くと、なるほどその通りだと実感します。数字が現実を再認識させてくれるのです。

 平均年齢が延びたというニュースを聞くと、我が身には実感しませんが、嬉しいことだという思いになります。数字のもたらす効果です。

 ところが、次のような数字は、私には何の思いも与えてくれません。

 

 定期的なウオーキングに寿命を延ばす効果があることが知られている。最近の米ペンシルベニア大などの研究でも、1日に座っている時間を30分でもウオーキングなどの運動に振り替えると死亡リスクが5年間で51%も減少すると報告されている。 …(中略)

 ゆっくり歩く人に比べて平均的な速さで歩く人は全死亡リスクが20%低く、速く歩く人(速いとより速いを合わせて)では全死亡リスクが24%低いことが分かった。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年6月14日・夕刊、3ページ、「100歳への道」、白澤卓二)

 

 「死亡リスクが5年間で51%も減少する」とか「全死亡リスクが20%低く」「全死亡リスクが24%低い」とか述べていますが、どういうことを言っているのか、実感はゼロです。

 上記は、記事の文章の冒頭から引用しています。この文章には現在の年齢のことは触れられていませんから、すべての年齢の人を対象にしているのでしょう。死亡リスクという言葉の説明はありません。「死亡リスクが51%減少する」ということは、死亡率が半分になるということではないとは思いますが、リスクが半分になることと「寿命が延びる」こととの関係はどういうことなのでしょうか。「5年間で」という設定もよくわかりません。

 研究成果の中身を紹介しているのですから、間違ったことは述べていないでしょう。けれども、いくら数値を並べてもらっても、ごく普通の人にとっては実感が乏しいのです。ウオーキングをすれば効果がある、ということは理解できますが、それによって、どのように「寿命が延びる」のかは説明できていないと思います。リスクが何%低くなるというのは架空の世界の話のように聞こえるのです。

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2018年6月15日 (金)

言葉の移りゆき(59)

「伸びしろ」と「糊代」

 

 この頃、「伸びしろ」という言葉を聞くようになりました。スポーツに関しての場合が多いように思います。「この選手の伸びしろはまだ残されていると思う。」と評論したり、「私にはまだ伸びしろがあります。」と選手本人が言ったりしています。こういう文脈では、まだこれから伸びる余地(可能性)のことを述べているように思います。

 私は「伸びしろ」を聞くたびに「糊代」という言葉を思い浮かべてしまいます。「しろ」という造語成分は、「身代金」とか「飲みしろ」とかのように、代価・代金・代替品の意味をあらわしたり、あるいは、「糊代」とか「縫い代」とかのように、あることをするために確保しておく必要な部分のことを言ったりしていました。それが従来の使い方であると思うのです。

 民泊のことが話題になっていますが、仲介サイトの社長へのインタビュー記事がありました。スポーツなどで使われるのと同じ用法です。

 

 「まだまだ伸びしろはある。今は東京や大阪、京都に集中しているが、地方で増やせる。簡易宿泊所の許可を取った物件もある。旅館やホテルなど既存の施設の掲載も増やしていく方針だ。パリやロンドンなどと比べても伸びる余地があると考えている」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月13日・朝刊、10版、26ページ、「聞きたい 田辺泰之氏」、森田岳穂)

 

 この談話において、「伸びしろ」と「伸びる余地」は同じような意味で使われていると思います。「糊代」や「縫い代」は、糊を付けたり縫ったりすることによって、全体は狭まります。それに対して「伸びしろ」は広がっていく可能性を表しています。この言葉は見過ごして構わないようにも思いますが、なんだか変だなぁという気持ちも残ります。

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2018年6月14日 (木)

言葉の移りゆき(58)

「目が点」の意味は広がりつつあるのか

 

 「目が点になる」という言葉は比較的、新しい言葉です。だから、国語辞典を見ても説明がないものもあります。マンガで、目を点のように描いて、表情をあらわしたことがもとになっている言葉だと言います。

 そのことから考えると、びっくりする、驚くという意味が基本だろうと思います。拡大していけば、考えが浮かばなくなる、ポカンとしたりキョトンとしたりする、度肝を抜かれる、呆気にとられる、というあたりまで広がることでしょう。

 それにしても、この言葉の表す守備範囲はどこまでなのかが、よくわかりません。国語辞典はその範囲を示さなければならないでしょう。どこまで広がってもよいというものではありません。

 例えば、次の文章は、上に述べた意味範囲の中に入るのでしょうか。

 

 朝から晩まで同じ話を繰り返す。情報番組とはそんな風である。日大アメフト問題がようやく鎮火したら、次は「紀州のドン・ファン」変死事件。朝も昼もワイドショーはもちろん、NHKの「ニュース9」まで連日トップニュースで報道して、目が点になった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月13日・朝刊、13版、29ページ、「キュー」、島崎今日子)

 

 この文脈で、筆者が何を言おうとしているのかは理解できません。「紀州のドン・ファン」事件をほとんどの局が、昼夜を分かたず報道したから「驚いた」ということを言っているようには思えません。そんな単純な意味ではないでしょう。「度肝を抜かれた」というのは大げさです。テレビ局が一つの事件に集中して放送することは、これまでの常套手段であったのですから。

 この文章を読んだ瞬間、私が感じたのは、(同じ話題ばかりが報道されるので)「視野が狭くなった」とか「他のものに目が行かなくなった」とかの意味だろうかということです。けれども、そういう用例があるのかどうか、私にはわかりません。

 

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2018年6月13日 (水)

言葉の移りゆき(57)

彫刻像の「来日」

 

 横浜美術館で開催中の「ヌード」国際巡回展について、3人の専門家のコメントを特集した記事に添えられた写真。その写真説明は異例の長さですが、次のような言葉でした。

 

 初来日したロダンの大理石彫刻「接吻」(190104)は今回の目玉作品の一つで、報道内覧会の時から注目を集めた。その官能性ゆえ、戦前の日本ではブロンズ版を専門家だけに見せたことも=横浜市西区の横浜美術館

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月25日・朝刊、13版、28ページ、「クロスレビュー」)

 

 「来日」とは外国人が日本に来ることです。彫刻が人体像だから擬人法を使ったのだと言えるかもしれませんが、記事の中で使われていない言葉であるのに、写真説明で言うことには違和感があります。

 このような言葉の順序では「初来日したロダン」という解釈も成り立ってしまいそうですし、「初来日した大理石彫刻」という言い方にも問題がありそうです。

 外国の作品が海を渡ってきて、日本での展覧会に出品されることをどう言えばよいのでしょうか。普通は「日本で初公開」などと言うでしょう。「来日」と言ってしまえば、展覧会が終わって像が帰っていくことは「離日」になるのでしょうか。

 些細なことですが、気になるものはやっぱり気になるのです。

 

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2018年6月12日 (火)

言葉の移りゆき(56)

「ある」と「存在する」の違い

 

 物事が「ある」という言葉は、ごく日常的な表現です。「ある・なし」はすぐにわかります。けれども、物事が「存在する」という言葉は、なかなか難しい内容を含んでいるようです。「存在する・しない」は目や耳などを研ぎ澄ましても確認できないようなことがあるようです。目の前にあっても、存在しないのですから、なかなか厄介なことです。

 こんな記事を読みました。

 

 国家公務員になって間もない頃、机上に配られた紙を見て、首をかしげた。右上に「ノンペーパー」と書いてあった。上司に意味を質問すると、こんな答えが返ってきた。「紙はここにある。しかし、存在はしないことにするという意味だ」。こうした文書はだいたい、政治家や他省庁との生々しいやりとりといった公表したくないものだ。

 改ざんの発覚を受け、今後、各省庁は決済文書に政治家とのやりとりなどは盛り込まないよう徹底するだろう。「ノンペーパー」であっても開示を迫られるかもしれないと、生々しい事実は極力口頭で伝えられる可能性がある。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月9日・朝刊、13版、8ページ、大日向寛文)

 

 「ノンペーパー」についての質問に対する上司の回答は、わかりやすいと思います。「ある」ということと「存在する」ということの違いを簡潔明瞭に述べています。

 上司から新入公務員に対しての回答(説明)は「あり」ましたが、何かの都合で、「そんな説明をした憶えはない」ということにしなければならなくなったときは、回答は「存在しなかった」ことになるのでしょう。

 文書だけのことではありません。国会のやりとりを見ていますと、いろいろな出来事が「あった」はずですが、それがいとも簡単に「存在しなかった」ということにされているようです。「存在しない」という言葉は万能の言葉として使われています。

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2018年6月11日 (月)

言葉の移りゆき(55)

目で見て、耳で聞いて、抵抗感のある言葉

 

 専門にしている人だけにわかればよい言葉がアルファベットの略語で書かれていても仕方がありません。けれども、日常的な食べ物で、純粋に日本の食べ物であるものが、そのような書き方であったら違和感を覚えます。

 岡山県美咲町の第三セクターが運営する食堂が話題になっている記事がありました。

 

 ご飯に卵を落とし箸でぐるぐるっと混ぜ、しょうゆをちょい。口の中で黄身のコクとご飯の甘さがマッチング。かけ値なしの卵かけご飯だ。ご飯と卵はおかわり自由。 …(中略)

 08年の開店時「実は3カ月で閉店かと思っていた」と川島さん。だが10年間でのべ72万人が訪れ、卵かけご飯は町の名物に育った。「『たまごかけごはん』の8文字で誰にでも中身が伝わるシンプルさがよかったのかも」 …(中略)

 もしかして、現代こそが黄金期なのかもれない。専用しょうゆが発売され、「TKG」の愛称も誕生。昨年は白身を泡立てる調理玩具「究極のTKG」が話題を集めた。 …(中略)

 福島県二本松市の「PPQC研究所」は、卵の品質管理検査と研究を行う。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月22日・夕刊、3版、7ページ、「生で食べるをたどって 1」、大村美香)

 

 「PPQC」という言葉が何を意味するのかわからなくても気にはなりませんが、「TKG」が「たまごかけごはん」だと言われたら仰天です。「TKG」は「たまごかけごはん」を輸出するようなことになった場合、国外向けに使ってくださいませんか。

 「TKG」という略語を誰が考え出したのか知りませんが、記事にもあるように「『たまごかけごはん』の8文字で誰にでも中身が伝わるシンプルさがよかった」はずです。目で見て何の機械を表しているのかと小首を傾げるような言葉、耳で聞いて「ティーケージー」という無味乾燥な発音。そんなものがはびこっては困ります。

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2018年6月10日 (日)

言葉の移りゆき(54)

消えていかない言葉

 

 新しい言葉が生まれていく一方で、古い言葉は消えていきます。けれども、消えて当然であると思われるのに、いつまでも残り続ける言葉があります。しかも小型の国語辞典を見ても意味がきちんと説明されていないから厄介です。

 悪質タックル問題を契機として、日本大学の体質が問題になっています。そんな報道が目立つようになりました。

 

 日大帝国の崩壊  関東学連、労組、警視庁、文科省…狭まる包囲網

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月5日・朝刊、13版、10ページ、『週刊朝日・6月15日号』広告)

 

 日大を「帝国」と表現しているのですが、この言葉は別の記事にも現れています。

 

 米映画市場で両社のシェアは計4割になり、「ディズニー帝国」の肥大化が恐れられてもいる。ディズニーは、売り上げの分配や最低上映期間をめぐり強気な条件で知られるだけに、劇場側は身構える。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月8日・朝刊、13版、8ページ、「けいざい+WORLD」、江渕崇)

 

 とっくの昔になくなったはずの「帝国」が生きています。しかも、帝国とは無縁であったアメリカにすら帝国があるのです。

 「帝国」は皇帝などが統治する国というのが原義でしょう。そのような説明しかしていない国語辞典もあります。

 「帝国」が比喩的表現であることはわかります。けれども、どのような場合に「帝国」という言葉が使われるのか、「帝国」という言葉からどのようなイメージを導き出すのかがわからないのです。明るいイメージや、望ましいイメージでないことは確かですが…。

 小さな国語辞典の中で、すこし詳しい説明をしているのがあります。『新明解国語辞典・第4版』がそれです。引用すると、次のとおりです。

 

 ①一つの国が強大となり、他の幾つかの国を合わせて、さらに大きな国家となったもの。〔狭義では、大日本帝国の略称。〕

 ②専制政治が行われる国の異称。

 

 日大やディズニーを「帝国」と呼ぶのは、強大な組織であるとともに、専制的な経営が行われているということでしょうか。その組織に、他の弱小なものを踏みにじろうとする姿勢があるということでしょうか。どんな場合に「帝国」を使うのかが明確ではありません。

 マスコミが「帝国」を使い続けるのは、批判するのに便利な言葉であるからでしょう。きっと、使い勝手が良いのでしょう。有無を言わさず、強く決めつけてしまうような響きがあることは否定できません。外来語が氾濫する中で、「帝国」は独特の雰囲気を漂わせて残り続けるのでしょうか。

 それにしても、こんな言葉を使うのは一般市民ではありません。マスコミ用語でしかありません。

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2018年6月 9日 (土)

言葉の移りゆき(53)

「まんまんなか」のやわらかさ

 

 野球の実況中継でしばしば耳にする言葉に「どまんなか」があります。「速い球をどまんなかに投げ込む。」とか「ストライクゾーンのどまんなかの球を空振りする。」とか言っています。豪快な感じを「どまんなか」で表現しているのかもしれませんが、品のない言葉だなぁと思います。

 私の日常語では、「まあまんなか」と言います。「長椅子のまあまんなかに座る。」などと言います。「まあ()」を使う言葉には、他にも、「まあ後ろから声をかけられてびっくりした。」「まあ前にあるのに気がつかなんだ。」などがあります。「ま真ん中」とか「ま前」「ま後ろ」と言わないで、「まあ(まー)」と長音にします。しかも、「まあ(まー)」と次の言葉(「まんなか」「まえ」「うしろ」)との間に一呼吸を置くような言い方もします。「まあ(まー)」が次の言葉を修飾しているような感じです。

 この言葉について書いた文章に出会って、嬉しく感じました。

 

 子どもの頃、ふつうによくつかっていたことばに〈まんまんなか〉がある。

 〈まんなか〉を強調した言いかただが、いまでは日常語の中で、ほとんどきくことがないのは、少しさびしい。

 かわりに一般的になったのは〈どまんなか〉という言い方で、「いまのはどまんなかの直球ですね」などと野球の解説者が言う。いかにもずばっとしたことばの感じが好まれているようだ。むかしは「まんまんなかの直球」と言われてもいたのである。 …(中略)

 ひとがつかっているのはかまわないが、自分で口にするのをためらうのは、どこか恥ずかしいという気持ちがあるからだろう。

 (中央公論新社編『わたしの「もったいない語」辞典』、2018年1月25日発行、中央公論新社〔中公文庫〕、280281ページ、「まんまんなか」、小野耕世)

 

 一つ一つの言葉をどう感じ取るかは、人により異なることでしょうが、私はこの文章の筆者の考え方・感じ方に同感します。

 怒り狂ったときに相手を「ド阿呆」と怒鳴りつけるのは当然でしょうが、ごく自然な会話の中で「ド真ん中」は使いたくはありません。「まんまんなか」とか「まあまんなか」とかいう言葉にはやわらかさを感じます。

 「中心」という言葉には幾何学的なものを感じ、1ミリの狂いもないような位置を指しているように思います。同様に、「どまんなか」も、びしっと決めつけるような位置であるように感じます。

 「まんまんなか」「まあまんなか」は、ものごとの一番の芯になるようなところを指しているような、伸びやかさがあります。

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2018年6月 8日 (金)

言葉の移りゆき(52)

「普通に」はプラスかマイナスか

 

 何かの作業を終えて「あー、しんどかった。」と言うと、「どれぐらい、しんどかったの。」と尋ねられることがあって、そのときに「しんどさは、まー普通や。」などと答えることがあります。ごく自然な日常会話の姿です。

 「普通にしんどい」ではなく、「しんどさ(の程度)は普通や」という、文の仕組みです。この場合の「普通」は、プラスでもマイナスでもなく、ごく一般的なとか、平均的なという意味です。

 「普通においしい」という言葉を取り上げたコラムがありました。

 

 「普通においしい」という言い回しをよく耳にするようになりました。普通の味なのか、おいしいのか。年配者にはまだ抵抗感のある表現ですが、「予想外に」「当たり前に」などの意味で定着しています。

 いつごろ生まれた表現なのでしょう。小学館元国語辞典編集長の神永暁さんは、2000年以降に生まれたのは確かなようだとみています。「平均的、一般的であるという意味で使われ、ニュートラルか、ときとしてマイナスの意味合いで使われてきた。ところが、プラスの意味にとらえられて普通においしい、普通にかわいいのような言い方が生まれた」とします。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月6日・朝刊、10版、13ページ、「ことばの広場 校閲センターから」、越智健二)

 

 「普通においしい」という言い回しを耳にするようになったと言っても、どうもそれは、テレビやラジオから聞こえてくるようです。

 単に「おいしい」ではなく、「普通においしい」という用法は、「普通に」を付けることによって、ニュートラルではなく、一種の強調表現となってプラスの感覚を与えることになるのではないでしょうか。「ときとしてマイナスの意味合いで使われてきた」というのに同感はできませんが、「予想外に」「当たり前に」というのは、少しであってもプラスの色合いが出ていると感じられます。

 考えてみると、「普通に」と表現する内容が「おいしい」とか「かわいい」とかであるから、多少のプラスを感じるのかもしれません。

 「普通に汚い」と言えばどうなるのでしょう。少し汚いという程度ではなく、かなり汚いという感じを表すことになると思います。「普通に醜い」も同様でしょう。すなわち、「普通に」は、普通を超えて、それより少し程度が進んでいるのではないでしょうか。

 もっとも、「汚い」というようなマイナス・イメージを備えた言葉に、「普通に」は付けないのだと言われれば、それまでですが…。

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2018年6月 7日 (木)

言葉の移りゆき(51)

「カンキレ」でイメージが浮かぶか

 

 二つの形容詞や形容動詞を並べて表現する言葉があります。私の場合、小さい頃から聞き慣れてきた方言の言葉に、「あまからい(甘辛い)」「あまずいい(甘酸っぱい)」「うっとぐらい(鬱陶しくて暗い)」「あかぐろい(赤くて黒い)」などがあります。

 今は、それを4音で表す言い方が広がっているようで、「辛しび油そば」という言葉を引き合いに出した、次のような文章がありました。

 

 「辛い」「しびれる」のように、複数の形容語句を縮める言い方は、多いようで、あまり実例が集まりません。以前、「エロカワ」(エロくて可愛い)という言葉が流行しましたが、これと似た「キモカワ」(気持ち悪いが可愛い)、「ブサカワ」(不細工でも可愛い)などが代表例でしょうか。 …(中略)

 外国人留学生が「安くてうまい」の略「安うま」を報告してくれたことがあります。言われてみると、わりあいよく使われています。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2016年4月9日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 京都で、着物の愛好者を増やそうとする試みがされているというニュースがありました。そこにも同類の言葉が使われています。

 

 京都府も動き出した。簡単できれいに着られるように改良した「カンキレきもの」の開発に力を入れる。 …(中略)

 京都府染織・工芸課は、2年後に開かれる東京五輪を、着物をアピールする絶好のチャンスととらえている。「カンキレきもの」をきっかけに、ゆくゆくは伝統の技を施した着物にも興味を持ってもらえればと期待を寄せている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月18日・夕刊、3版、1ページ、佐藤慈子)

 

 これは記者が作り出した言葉ではなく、役所が使っている言葉のようです。簡単で綺麗だから「カンキレ」と言うのですが、初めて聞いたときに簡単・綺麗という言葉が思い浮かぶかどうか、ちょっとアピール力は弱いように思います。「カン」はよいとしても、「キレ」は「切れ」とか「布」が浮かんでしまうかもしれません。定着するのが難しい言葉でしょう。

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2018年6月 6日 (水)

言葉の移りゆき(50)

漢字の「略し読み」

 

 若い頃、信濃路の旅をしていたときに、国鉄長野駅前でアナウンスを聞きました。「しんだいの〇〇さん、いらっしゃいましたら……」という呼び出しでした。こんなところにも神大(神戸大学)の関係者がいるのかとびっくりしたのですが、ここは長野県、信大(信州大学)の地元でした。校名を略して読むときには同じ発音のものがいくつもあることでしょう。新潟大学や神奈川大学も「しんだい」なのでしょうか、違うのでしょうか。

 さて、「鰻重」を「うなじゅう」と言い、「鰻丼」を「うなどん」と言うような、漢字の「略し読み」が話題になっている記事を読みました。

 

 茨城大学の略称は「茨大」ですが、これは「いばらだい」ではなく「いばだい」と読むのだそうです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年2月3日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 漢字で書く場合は2字が印象よく見えますが、発音する場合はどうやら5音よりも4音の方が落ち着くという事情があるようです。

 私の周囲の高等学校の校名を話題にしますと、加古川東高校は「かことん」、東播磨高校は「ひがはり」、須磨東高校は「すまひ」という発音をよく聞きます。同じ「東」の読み方が違っているのが面白いと思います。東を2音の「ひが」で止めてしまうのは「茨大」と共通した現象です。須磨東も「すまひが」と言えばよいように思いますが、末尾が「が」となるのは格助詞の「が」とぶつかって、避けたのでしょうか。

 ちょっと本題からはずれますが、姫路西高校は「ひめにし」ですが、明石西高校は「めいせい」です。これは訓読・音読で統一しようという意識が働いたかどうか。播磨南高校は「はりなん」と湯桶読みです。言葉を一つの法則でくくろうとするのは難しいことです。固有名詞はなおさらです。

 神戸大学は「しんだい」ですが、神戸高校は「じんこう」です。清音・濁音の区別にも法則はなさそうです。

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2018年6月 5日 (火)

言葉の移りゆき(49)

昔「公害」、今「ハラスメント」

 

 国政レベルから日常生活まで、「ハラスメント」という言葉の大合唱が続いています。政治家や官僚のセクハラ感覚が、一般国民の感じているレベルとは大違いであるということもよくわかりました。

 それにしても「ハラスメント」は、セクハラ、パワハラ、アカハラをはじめ、あらゆる分野に拡大しているように思います。「ハラスメント」と言っておけば、相手を非難し、自己を防衛できる大きな武器になるようです。

 次のような「ハラスメント」に出会って、驚きました。麺類をすする音についての記事です。

 

 音を「不快」とする「ヌードル・ハラスメント」という和製英語も生まれている。日清食品は昨年、麺類用のフォークを開発した。すする音を感知すると、音楽が流れて音を隠す仕組みだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月1日・朝刊、10版、21ページ、江戸川夏樹)

 

 小型の国語辞典にはまだ「ハラスメント」という言葉が載せられていないこともあるのに、「ハラスメント」の用法は拡大を続けています。

 それにしても、麺をすする音が「ハラスメント」に当たるというのはどういう感覚なのでしょうか。不快であるというのはわかります。けれども、それによって何を侵害しているのでしょうか。

 以前、気に入らないものを何でも「公害」という言葉で非難した時代がありました。「あんたの長話は、みんなが迷惑している。公害だ。」というように。

 今は「公害」という言葉ではなく、「ハラスメント」という言葉がその代役を買って出ているようです。風鈴に情緒を感じることもできなくなったような人間が、風鈴公害と言って非難したことがあります。今度はそれを風鈴ハラスメントと言うような時代になってきているのです。

 一方、仮に「ヌードル・ハラスメント」という言葉が一部の人の間で使われているにしても、それを取り上げて、その言葉を拡大再生産していくのが報道のあり方かと言えば、ちょっと首を傾げざるをえません。

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2018年6月 4日 (月)

言葉の移りゆき(48)

じっとしていても「稼働」

 

 サッカーJ1のヴィッセル神戸の本拠地であるノエビアスタジアム神戸に、ハイブリッド芝が導入されたという記事がありました。

 

 ハイブリッド芝は地中に人工芝の繊維を置き、その上に天然芝を植えこむ形で作られる。 …(中略)… 芝生の専門家で日本スポーツターフ事務局長の杉沢幹生さんによると、「天然芝では年間800時間の稼働が精いっぱいだが、ハイブリッド芝ならば2倍以上の2千時間は使えることになる」という。 …(中略)

 まだ芝生のピッチが少ない日本で、稼働時間を多くし、芝生に触れる機会を増やすことができる。また、芝生が傷むため敬遠されがちな音楽イベント開催なども可能になり、スタジアムの稼働率を上げることも期待されている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月12日・朝刊、be4ページ、「be report」、河野正樹)

 

 「稼働」という言葉は、人が稼ぎ働くことが元の意味であって、機械を動かすこと、機械が動くことにも使われています。

 「スタジアムの稼働率を上げる」という言い方には異議はありません。スタジアムという施設・設備がどのように動いているかという割合であるからです。

 けれども、植え込まれた芝生の上で試合が行われるのを「稼働」と表現するのは抵抗感があります。芝生は試合に役立っているのですが、じっと酷使に耐えているだけです。「稼働」は機械や施設・設備などが動くという印象が強いので、そのものの積極的な働きかけがなくても「稼働」と言えるのか、疑問です。

 人がお金(お札)を使って投資などをして、利益が上がった場合に、お金(お札)の稼働率などという言葉が使われるかもしれませんね。お金は機械ではなく、自分から動いたりはしていないのですが。

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2018年6月 3日 (日)

言葉の移りゆき(47)

掌上の「たたずまい」

 

 竹で作られた物差し、すなわち竹尺は、無機質な感じではない文房具です。私は、日常はプラスチック製のものを使っていますが、子どもの頃に手に入れた竹尺は捨てるに忍びがたくて、手元に置いています。

 竹尺の使い勝手をそのままに、真鍮でできた物差しがあるそうで、それを紹介した記事がありました。書かれている言葉の一言一言に同感して読み進めましたが、文末の言葉だけは気になりました。

 

 机の上に置いた時のたたずまいが昔懐かしく、これが何ともよいのだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月13日・朝刊、10版、23ページ、「そばに置きたい」、納富廉邦)

 

 このような狭い空間における「たたずまい」という言い方をときどき目にするのですが、その都度、こんな場面で使う言葉だろうかと首を傾げます。

 「たたずまい」は、立っている様子や、身を置くところなどを表す言葉です。動詞の「たたずまう」は、じっと立っている、立ち止まり続ける、という意味です。「歌のたたずまい」などと言うことがありますが、それは、その歌に詠まれている世界全体を表します。「生きているたたずまい」と言って、人生で過ごしてきた日々の流れを視野に入れて表現することもあります。激しい動きのあるものには使いません。ゆったりと落ち着いた、広がりを感じさせる言葉であると思うのです。宿場町のたたずまいとか、夕暮れ時の海岸のたたずまいとか言うように。

 さて、机上の竹尺は、ほんとうに狭い世界です。一つの物が部屋全体を引き締めるというような場合に「たたずまい」を使うのが、この言葉の限界で、掌の上か、それよりも少しだけ広い場面で「たたずまい」を使うのは、場面にそぐわない気がするのです。

 もっとも、この感覚は、私の方が間違っているのかもしれません。今では、掌上の様子にも「たたずまい」を使うようになっているのでしょうか。

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2018年6月 2日 (土)

言葉の移りゆき(46)

複数の島々

 

 瀬戸内海にはたくさんの島々がありますが、その中のまとまりごとに〇〇諸島などと呼んでいます。そのような仲間に入らない島もあります。

 兵庫県姫路市に属する家島は、日常的には家島群島と言ったり家島諸島と言ったりしています。どちらでもかまわないのでしょうが、どちらかに決めたらどうかという気持ちもあります。

 群島と諸島はどう違うのかという記事がありました。

 

 地図を作る国土地理院や、海図を作る海上保安庁海洋情報部によると、このような配置なら諸島、といった決まりはなく、歴史的な名称や現地での呼び方に従って地名を決めているとのことです。

 実際、両方が使われていて混乱があった場所もあります。

 歯舞や鹿児島県の奄美は、近年まで地図や海図で諸島・群島の両方の呼び名が混在していました。 …(中略)

 明治に入って、中央集権的な政府が行政区画を定め、外国との境を明確にする過程で、集まる島々をまとめる呼称が求められ、統一基準なく個々に付いていった流れが浮かびます。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2017年7月26日・朝刊、10版、11ページ、「ことばの広場 校閲センターから」、大月良平)

 

 上の記事途中では群島と諸島が話題になっていますが、この他に、列島という言葉もあります。日本列島をはじめとして、千島列島、五島列島 トカラ列島などがあります。小笠原諸島の中が父島列島、母島列島、聟島列島に分けられたりもしています。この列島こそ、「外国との境」に位置する島々であるようにも思います。

 公的な呼び名は別にして、日常的なレベルでは、どのように使い分けているのでしょうか。『明鏡国語辞典』の説明は、3つの説明が同じ文字数で書かれていて、お見事です。

 群島は〈ある海域にまとまって点在する多くの島〉であり、

 諸島は〈一定の区域内に散在するいくつかの島々〉であり、

 列島は〈列をなすように細長く連なっている島々〉です。

 けれども、辞書編集者が説明を書くときに、この3語を比較・対照して検討している気配は感じられません。

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2018年6月 1日 (金)

言葉の移りゆき(45)

「卍」の自在変化

 

 寺院の記号として地図に使われている「卍」は漢字です。「まんじ」と読みますが、それが若者たちを中心に使われていることを知って驚きました。

 

 「信じられない」という意味で使うなら「マジ」だけでいいはずだ。そこにあえて「卍」をつける。「マジ、マジ」という強調表現が「マジ、マンジ」という音の変化となり、「マンジ」が「卍」に置き換えられた、などというもっともらしい解説はできる。 …(中略)

 「マジ卍」以外にも「卍卍」は「イェーイ」、「卍からの卍」は「イェーイからのウエーイ」など、バリエーションは多彩だ。 …(中略)

 JKにとって「卍」が漢字であろうがなかろうが関係ない。感情に合わせて文字を選び、それがどう受け取られるかが重要なのだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月9日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 私が納得できるのは「マジ卍」までです。「卍卍」が「イェーイ」、「卍からの卍」が「イェーイからのウエーイ」であるというのは私の理解能力を超えています。

 「卍」は寺院の記号に使われていますから仏教臭が強いように思われがちですが、もともとは吉祥や瑞祥の印です。また、文字の形から、旋回する様子も表します。「イェーイ」などというのは、それと関連づけることはできないわけではありません。けれども、若者はそういうことを考えたわけではないでしょう。

 記事では、若者が感情に合わせて文字を選んだというように書かれています。若者は、普段は使わない漢字にどのようにして出会い、どういう感情を「卍」に込めたのでしょうか。

 ある思いを持って漢字を選び、その漢字をどう発音するかは別の思いを込めて行う、というのは、最近の人名の付け方(漢字に特異な読みをあてはめること)と共通するようにも思われます。漢字は象形文字とか会意文字とかいう範疇を超えて、感情を表すマークに変化していっているのでしょうか。

 

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2018年5月31日 (木)

言葉の移りゆき(44)

「対面」通行とは何か

 

 「対面」とは、顔を合わせることです。自動販売機の増加で、対面でものを買うことが少なくなりつつあります。「対面」には、互いに向き合うことという意味もあります。

 「対面交通」という言葉は、子どもの頃から聞き慣れた言葉です。歩道や車道の区別のない道路で、人は右、車は左というように、人と車が向かい合って通行することです。

 次のような交通の形にも「対面」を使うのでしょうか。

 

 片側1車線の高速道路で、車が対向車線に飛び出す事故を防ぐため、国土交通省が中央線にワイヤロープを張る実証実験を行ったところ、事故が激減した。国内の高速道路では対面通行が約4割を占めるが、飛び出し事故は年間3000件前後発生しており、同省は実験結果を検証し、今年度から本格的な設置を目指す。

 (読売新聞・大阪本社発行、2018年5月8日・夕刊、3版、10ページ)

 

 道を通るときに相手の人や車を見ないということはありえませんから、すべて「対面」のはずです。

 ところが、人と車の関係では、前述のように、歩道や車道の区別のない道路で、人は右、車は左というように、人と車が向かい合って通行します。高速道路の場合は、「片側1車線」の場合を「対面通行」と呼んでいるようです。

 この二つの場合を比べると、歩道や車道の区別のない道路での「対面交通」、中央に分離帯がない(すなわち、上下線の区別や区切りがきちんと行われていない)1車線道路の「対面通行」という使い方のようです。要は、「区別(区切り)がない」ということを基準にして、「対面」であるかないかという使い分けが行われているようです。そのことは、国語辞典に明確に示されていないように思います。

 

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2018年5月30日 (水)

言葉の移りゆき(43)

2つで1つの「ニコイチ」

 

 古くなった団地の2つの部屋を、1つにつなげて広くなるように改修するというニュースがありました。

 

 隣り合う二つの住居を一つにつなげた上でリノベーション(改造)した物件を、大阪府住宅供給公社が「ニコイチ」と呼んで供給に力を入れている。高齢化や空き家の増加に悩む団地に若い家族を呼び込むための「秘策」は、大阪の外にも広がり出した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月8日・朝刊、13版、6ページ、中島嘉克)

 

 「ニコイチ」というのは、漢字で書けば「二戸一」ということでしょうか。

 私にとって「ニコイチ」という言葉は耳新しいものではありません。今でも使っているかどうかわかりませんが、兵庫県明石市周辺の方言としての「ニコイチ」は、しばしば耳にしたことがあります。漢字で書けば「二個一」であるのかも知れません。

 例えば、乾電池などを一個売りでなく、二個のセットで売っているとすれば、「ニコイチで売っとる。」と言います。まったく同じものでなくても、「(書道の)太筆と細筆がニコイチになっとるのを買()ーた。」というような言い方もありました。二つで一つのセットであるという意味です。

 極端な言い方として、仲のよい友達同士がいつも行動を共にしているのを見て、「あいつらは、いつもニコイチや。」と言ったりもしたように思います。二人で一人前というのではなく、二人が一心同体であるように見えるというのです。

 記事にあるような住宅改修の方式が普及していったとして、横書きの外来語で目新しさを表現しようとするよりは、日本語を工夫して新しい事象を表現しようとすることには賛成です。それが古い言い回しや方言表現と関連があったりすると、ほっとした温もりを感じることになります。「リノベーション」も、「作り替え」や「作り直し」で十分ではありませんか。

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2018年5月29日 (火)

言葉の移りゆき(42)

くだけた言葉の「かも」

 

 「か」という副助詞があります。「誰いませんか。」のように人やものなどを特定しないで指し示したり、「明日明後日に行きます。」のように列挙してそのうちの一つであることを示したりします。

 「も」という副助詞があります。「誰知っている人はいません。」のように一例や全体を示したり、「明日明後日予定が詰まっています。」のように同類の人やものなどを並べたり付け加えたりしたりします。

 その「か」と「も」が合わさると「かも」という言葉になります。「私は出席するかもしれません。」のように、不確かながら可能性があることを表現する場合などに使われます。「かも」を書き言葉の文末に使うこともありますが、くだけた印象は拭えません。

 あるテレビ番組を紹介(批評)した記事の最後が、次のような言葉で締めくくられていました。

 

 気軽な頭の体操は日曜の夜にぴったり。新規ビジネスのヒントになるかも?

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月4日・朝刊、13版、19ページ、「記者レビュー」、矢田萌)

 

 文章の末尾で「……かも」と言われたら、結論はどうなっているのだろうかと首を傾げざるを得ません。ヒントになると言っているのか、ヒントにならないと言っているのか、わけがわかりません。

 驚くのは、その言葉に「?」が付いていることです。「かもしれない」という曖昧な表現に、さらに疑問符が付くということは、記者は結局、何の判断も持っていないということなのでしょうか。

 

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2018年5月28日 (月)

言葉の移りゆき(41)

「大丈夫です」の違和感

 

 新聞の投稿欄に「大丈夫です」という言葉についての意見が載っていました。54歳の主婦の方です。

 

 若者がよく口にする「大丈夫です」という言い回し。三十代の娘も多用するが、聞くたびに違和感を覚える。 …(中略)

 「結構です」「いりません」「見ません」で十分だと思うが、「結構です」は気取りすぎ、「いりません、見ません」はぞんざいな印象だと娘は言う。どうやら「大丈夫です」は、程良い「丁寧さ」「謙虚さ」があり、断言することを避けたがる日本人的「曖昧さ」が、今どきの感性にマッチして重宝なようだ。

 (東京新聞、2018年5月24日・朝刊、11版、4ページ、皆藤京子)

 

 「大丈夫です」に違和感を覚えるということに私も同じです。「大丈夫です」に程よい丁寧さ、謙虚さがあるという若者の意見は、そのような感じ取り方もあるのかと思います。

 それでもやっぱり、この言葉は使いたくはありませんし、聞きたくもありません。「大丈夫」というのは、もともと、しっかり安定している様子や、間違いなく確実である様子などを表す言葉です。

 「大丈夫ですか」という問いかけは、相手を思いやる気持ちは表れていますが、仰々しく感じられる場合があります。怪我をしている人に「大丈夫ですか」と尋ねるのは自然なことですが、注文した品々を並べあげて「これで大丈夫ですか」と確認するのは大げさ過ぎます。あなたは間違っていませんか、と迫られているような気がしないでもありません。

 一方、「大丈夫です」という答え方は、「はい」という応答のレベルを超えて、私は大丈夫だ、あなたの助力は要りませんというような拒否感すら漂う場合があります。

 言葉は人と人とをつなぐものですが、その場にふさわしい、やわらかい言葉を、場面場面に応じて使い分けたいと思います。

 「大丈夫です」は、いろんな場面に使える汎用語として登場し、言葉を使い分ける能力を失わせる方向に働いているように思われてなりません。

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2018年5月27日 (日)

言葉の移りゆき(40)

「東西」という場所

 

 JRや地下鉄などには「東西線」という名称が使われています。南北に貫くのでもなく、環状に回るのでもなく、ほぼ東西に走る路線であれば、わかりやすい名称です。

 ところで、この「東西」が物議をかもしました。大阪都構想の一環で、区を再編する案の中に「東西区」という名称があったのです。東区・西区・北区・南区なら市全体の中での位置を想像できますが、東西区と聞いて、位置を想像できるでしょうか。このことが報じられると、当然ながら異論続出となりました。

 「東西区」は、東西を貫く細長い区のように聞こえますが、北寄りにあるのか、南寄りにあるのか、想像できません。しかも、名称案では、北区や中央区よりも北側にある地域を「東西区」と呼ぼうとしたのです。言葉の感覚を疑いたくなる名付けです。

 

 都構想の具体案を議論する今月6日の法定協議会では、大阪市を「東西区」「北区」「中央区」「南区」の4特別区に再編する事務局案が示された。しかし、維新市議によると「東西区」の案には「東にあるのか西にあるのか分からない」といった意見が市民から寄せられていた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月27日・朝刊、13版、31ページ)

 

 結局は東西区ではなく「淀川区」という案に変更されました。それにしても、阿倍野・天王寺・住吉・浪速・福島・生野・都島などという旧の区名が、無機質な北・南・中央という名前に変えられてしまいます。古くからの土の匂いのある場所が、コンクリートの街に覆われていくのと軌を一にしているように感じられます。

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2018年5月26日 (土)

言葉の移りゆき(39)

市民権を得ていない「ガチャガチャ」

 

 「ガチャガチャ」というのはクツワムシの俗称です。けれども、もう一つ別の「ガチャガチャ」があります。残念なことにたいていの国語辞典には載っていません。

 

 日本一高いビルのあべのハルカス(大阪市)に、巨大な「ガチャガチャ」が登場した。29日から5月5日まで、5千円の買い物をするごとに1回、挑める。

 高さ4メートル、幅、奥行き各2・4メートル。大当たりのカプセルは直径20センチで、ホテルのペア宿泊券や5万円分の商品券などが入っている。毎日、先着千人。

 黄金週間の集客の目玉にと同ビルが企画した。「はずれ」でもビル展望台の割引券などがもらえる。「日本有数のガチャと絶景を楽しんで」と担当者。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月28日・朝刊、13版、34ページ、「青鉛筆」)

 

 この文章で、どういうものか察しがつくと思います。もともとは、少ない金額で「当てもの」をしてカプセルの中の商品をもらうという、子ども向けのものです。「日本有数の」とありますから、このようなものは全国に普及しているのでしょうか。しかも「ガチャ」という略称まで書いてあります。

 国語辞典の編集者は、新しい言葉を見つけようと細心の努力を続けておられることと思いますが、「ガチャガチャ」に市民権を与えることを忘れているようです。日常語でありますから、国語辞典で見つからないと寂しいものです。

 同様に、大売り出しのときなどの抽選で、取っ手を持ってぐるぐる回して、ポトンと1個の小さな玉が落ちるという器具は、昔からあるのですが、あれは何という名前で呼ばれているのでしょうか。関西では、ガラガラとか、ガラガラポンとか、ガラポンとか言っていますが、この言葉も、国語辞典には見落とされている傾向が強いようです。小型の国語辞典こそ、日常生活と密着した言葉を収めてほしいと思います。ガチャガチャもガラガラも方言であるとは思えないのですが。

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2018年5月25日 (金)

言葉の移りゆき(38)

謙遜で「なんて」を使うか

 

 「なんて」という言葉は副詞または副助詞として使われます。副助詞としての「なんて」は謙遜で使われる言葉なのでしょうか。記事の見出しが、「感動と謙遜の『なんて』」となっているのが気になりました。記事の中の、Aの文例は副詞で詠嘆や驚嘆を表す言葉です。

 

 A「プレゼントありがとう。なんてすてきなんでしょう」

 B「そんなに喜んでくれるなんて、私もうれしい」

 それぞれのセリフに出てくる「なんて」は意味や使い方が違う、別の言葉です。 …(中略)

 Bの「なんて」は、意外な思いを表す言葉です。「わたしなんて、もてるわけがない」のように、謙遜したり、軽く見たりするときにも口にします。「などと」が変化した言い方で、だから「何て」とは書けません。

 (読売新聞・東京本社発行、2018年5月23日・朝刊、12S、12ページ、「なぜなに日本語」、関根健一)

 

 確かに、「わたしなんて、もてるわけがない」というのは謙遜のように見えます。しかし、それはこの話題(文脈)の場合に、そのように感じられるに過ぎません。

 「あんたなんて、嫌いだ」というのは、相手を軽んじる気持ちを表現しています。「わたしなんて」というのは、自分を軽んじる表現なのであって、謙遜というのとは次元が少し違うように思います。

 このコラム名からすると日本語についての啓蒙記事のようですが、品詞(自立語と付属語の違い)などに言及しないで、突然のように意味を(しかも、辞書的な意味でなく、文脈上の意味を)述べるとすれば、言葉についての誤解を与えかねないことにもなります。

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