2018年7月20日 (金)

言葉の移りゆき(90)

「話す」という語義の広がり

 

 言葉の生活では「話す」「聞く」「書く」「読む」の4つの活動をしていると言われますが、その4つは対等の重さを持つものではないようです。1日中の言葉の運用を振り返って、その4つの活動のどれが多いかと尋ねると、個人個人によって答えは違ってくるだろうと思います。

 けれども、いま話題としたいのは、語義の範囲としての「話す」です。「聞く」は聞くことに限定され、「読む」は読むことに限定されるかもしれませんが、「話す」というのは言語活動の広い範囲のことを意味しているように思えるのです。

 例えば、「あなたは英語を話せますか」という質問は、「話す」ことに限定してはいないと思います。話したり聞いたりする力がありますか、もっと広げると、書いたり読んだりする力も備えていますか、と尋ねられているようです。答える側もそれらの力を総合して考えて、「話せます」とか「少ししか話せません」と答えるはずです。

 また例えば、紛糾している問題に「話をつける」と言いますが、それは言葉を使って議論や調整を尽くして、決着をつけるということでしょう。話すことも聞くことも書くことも読むことも含めて、互いに交渉力を発揮しているはずです。

 つまり、「話す」ということの語義、「話をする」ということの語義は、話す、聞く、書く、読むという活動のすべてを包括しているように思えます。

 次のような記事を読みました。

 

 「最近、彼女とはLINEでしか話してないからなあ」

 電車を待っているホームで、耳に飛び込んできた会話の一節。電話機能もあるのでそのことかと思いきや、「いまLINEしてみるわ」と、文字を入力し始めた。

 リアルタイムのやりとりは、まさに文字でおしゃべりする感覚。雑談とかおしゃべりという意味のチャット(chat)ということばがぴったりだ。「メールで話す」とは言わない。「LINEで話す」はこの感覚の違いを表現しているんだな、と思いつつ電車に乗り込んだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月25日・夕刊、3版、7ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 LINEで「話す」というのはおかしいだろう、LINEに「書く」だろう、という意見もあるでしょう。上の文章の筆者は〈「メールで話す」とは言わない。〉と述べています。

 けれども、LINEであろうとメールであろうと、言葉で何かを伝え、その返信を受けることを広義の「話す」と言ってもおかしくないでしょう。

 科学技術の発達によって、現在とはちがう伝達手段も出現してくるでしょうが、言葉を交わし合うことはすべて「話す」ことの範疇に含まれてしまうのではないでしょうか。ただ、残念なのは、狭義の「話す」ことが少なくなり、「打つ(書く)」や「見る(読む)」だけで意思疎通がなされるのは残念なことです。リアルに「話す」ことが減少し、「リアル」などという言葉が、珍しい現象を指すかのように使われ始めている今、科学技術の行き過ぎに歯止めをかけなければならないと、人々は気づかなければなりません。

 

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2018年7月19日 (木)

言葉の移りゆき(89)

「えげつい」と「えげつない」とは同じ意味

 

 「半端ない」という言葉の原点が滝川二(滝川第二高等学校)のサッカー選手であるとするなら、この言葉は私にとっては、ずいぶん身近なところから発祥したということになります。

 滝川第二高等学校の所在地は神戸市西区です。神戸市のうち垂水区と西区は、もとは明石郡であった地域が神戸市に合併したところです。明石郡は旧・播磨の国に属します。言葉でいえば播磨方言の地域です。もっとも、滝川第二高等学校は私立高校ですから、生徒の出身地に制限はありません。この言葉を発した生徒がどこの出身であったのかは知りません。

 そうではありますが、「半端ない」を播磨方言の使い方と関連して考えておきたいと思うのです。広く言えば関西方言全体とも関連しているかもしれない事象です。

 「えげつい」という言葉を例にします。えげついとは、思慮分別や思いやりがなくて露骨である、図々しくて下品である、というような意味です。「えげつい勝ち方をした」と言えば、ルールから外れていないが、褒められた試合展開ではなかったということです。その場合、「えげつい」という言い方の他に「えげつない」という言い方もあります。「えげつない」の方が使用頻度は高いかもしれません。「えげつい」=「えげつない」。つまり、「ない」という部分が有っても無くても同じ意味なのです。

 似たような例を探してみます。「おもろい漫才を見た」は「おもろないな漫才…」と同じであり、「しんどい仕事をした」は「しんどないな仕事…」と同じであり、「どくしょい(無慈悲な)叱り方をする」は「どくしょないな叱り方…」と同じです。「ない」が有る場合も無い場合も意味に変わりはありません。性質・状態や、感情・感覚などを表す言葉(すなわち、形容詞や形容動詞)にはこのような用法が、方言にはあるのです。

 形容動詞に広めて言えば、「元気な走り方をする」は「元気ないな走り方…」と同じ意味と受け取ることができます。

 そこで、ちょっと言い過ぎになるかもしれないことを敢えて言います。「半端な力しか持っていない」は「半端ないな力…」と言っても同じ意味になります。そのように考えると「半端ない()」は評価を低めて言っているということにもなりかねないのです。

 滝川二の選手が口にした「半端ない」は、「半端ないな」と言っていないから、褒め言葉として使われたことに間違いはないでしょう。けれども、播磨方言(関西方言)を使い慣れた者からは、逆の意味を思い浮かべることがあっても不思議ではないということを言いたかったのです。

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2018年7月18日 (水)

言葉の移りゆき(88)

「半端ない」という言葉の意味・用法

 

 「半端」という言葉には、名詞としての使い方と、形容動詞としての使い方とがあります。一般的な意味は、ある基準でまとめた数量や種類などがきちんと揃っていないということです。半端物と言えばあまり望ましい品物ではありませんし、半端な時間は扱いに困ることになるかもしれません。中途半端という言葉からもわかるように、どっちつかずではっきりしないという意味で使うこともあります。気が利かなく間が抜けているという意味で使うこともあります。いずれにしても、あまり歓迎すべからざる内容です。

 「半端ない」は、それを打ち消した言葉ですから、きちんと揃っている、はっきりしている、気が利いている、という意味でしょう。

 すなわち、サッカーの試合で使われた場合は、実力が見事にそなわっている、、能力のあることがはっきりしている、対応力がついている、という意味なのでしょう。それらを合わせると、並みの選手の持ち合わせていないものを、見事にそなえた選手だということを称えた言葉であるのでしょう。

 そこから、意味が拡大していくようです。前回(87)に引用した「手がける企画の数が半端ない」は、数のことですから、多いという意味になっているようです。けれども、並はずれたということでは共通しているようです。

 この「半端ない」は、「半端」が無いと言っているのではないでしょうから名詞としての使い方ではありません。半端でないということでしょうから、「半端だ」という形容動詞の使い方です。

 名詞の用法ならば「半端・ない」という言い方は許容できますが、形容動詞の用法で「半端で・ない」の活用語尾「で」を省くのはちょっと乱暴なようにも見えます。

 けれども、名詞・形容動詞の両方の働きをそなえた言葉「元気」と比べて考えてみますと、体力を消耗したり、気力が落ち込んだりしている様子を「元気ない」と言いますから、あながち破格の用法でもないような気がしてきます。

 と、ここまで書いてきても、私の胸の中では、「半端ない」という言葉の意味・用法をすんなりとは受け入れたくないという気持ちが残っています。

 それは、前回(87)に引用したように、この言葉の原点が滝川二という播磨地域の学校であることと関係があるのですが、それは次回に述べることにします。

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2018年7月17日 (火)

言葉の移りゆき(87)

話し言葉から書き言葉への昇格

 

 まずは、ある新聞記事の冒頭の段落を引用します。

 

 手がける企画の数が半端ない。運動が苦手な人も楽しめる「ゆるスポーツ」、義足をつけた女性たちのファッションショー、高齢のアイドルグループなど、ゆうに10は超える。生涯や老いに光をあてるプロジェクトの仕掛け人。本業は、大手広告会社のコピーライター兼プロジューサーだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月14日・朝刊、be1ページ、「フロントライナー」、佐藤陽)

 

 書き言葉をもとにして流行して定着していく言葉もありますが、話し言葉がもとで社会に広まっていく言葉の方が圧倒的に多いと思います。

 「半端ない」という言葉も、話し言葉をを原点にして、打ち言葉(インターネットやスマートホンで使われる言葉)を経て、書き言葉になっていくのでしょう。

 ところが、そのスピードがあまりにも速いと思います。新聞記事(書き言葉)の冒頭にこの言葉が現れているのです。記事の中で記者が積極的に使い始めているのです。

 この言葉の由来を記した記事がありました。

 

 元になったのは2009年の全国高校サッカー選手権準々決勝。大迫擁する鹿児島城西に敗れた滝川二(兵庫)の選手が叫んだ。「大迫半端ないって、あいつ半端ないって。後ろ向きのボールめっちゃトラップするもん。そんなのできひんやん普通」。この様子がテレビで放映され、注目を浴びた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月21日・朝刊、13版、32ページ、河崎優子)

 

 この記事の見出しは〈「大迫、半端ないって」ネット拡散 / 元ネタは高校時代の対戦相手〉となっています。これが事実であるのなら、言葉の流行の原点がこれほど明確になっている例は稀少だと思います。

 「半端ない」が2009年発祥だとすれば、本年までの9年間、この言葉がどのような命脈を辿って、2018年の流行語に台頭したのかも興味あるところです。きっと誰かがそのあたりのことを明らかにしてくれるだろうと期待しています。

 さて、同じ日の夕刊記事の見出しは〈大迫 やっぱり半端なかった / 押し相撲も圧勝■練習相手の監督「なんだ、こいつ」〉となっており、記事の冒頭は次のような表現になっています。

 

 中学生で大学生相手にゴールを決め、おまけに相撲も強かった-。サッカーワールドカップ(W杯)ロシア大会で格上のコロンビアから決勝ゴールを決め、日本を勝利に導いたFW大迫勇也(28)=独1部・ブレーメン=は、若いころから「半端ない」逸話を残してきた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月21日・夕刊、3版、11ページ、カザン=堤之剛)

 

 次回は、この「半端ない」という言葉についての私の思いについて書きます。

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2018年7月16日 (月)

言葉の移りゆき(86)

文化財とは何か

 

 文化財保護法は、有形文化財、無形文化財、民俗文化財、埋蔵文化財などの章にわかれています。実際の調査などに費やされる予算は、埋蔵文化財には多額が注がれますが、民俗文化財は軽んじられています。目に見えるものが重視され、目に見えないものは軽視されているのです。国も都道府県も市町村も、習俗や方言・俚言の調査・保存に力を入れているところは稀少でしょう。

 こんな記事がありました。

 

 文化財保護法の改正案が国会で可決され、来年4月から施行される。文化財を町づくりなどに積極的に活用していこうという趣旨だが、観光への活用ばかりが注目されている印象だ。5月に東京で開かれた日本考古学協会の研究発表会でも、様々な疑問の声が上がった。

 大阪大の福永伸哉教授は「文化財に『勝ち組』と『負け組』が出てくるのでは」と、文化財の価値が話題性や集客力で評価されることに懸念を示した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月13日・夕刊、3版、10ページ、「葦 夕べに考える」、今井邦彦)

 

 目に見える文化財でもこの通りです。目に見えない文化財の価値などは無視されているに等しいのです。「勝ち組」「負け組」というように区別するなら、民俗や言葉という貴重な文化財は、はじめから「負け組」に分類されているのです。

 体育には教育的要素が強いのですが、スボーツは金儲けの手段に堕しています。国全体がそちらに向かって急傾斜しています。体育の日をスボーツの日と改める、オリンピックの日程は報道や投資の観点から決められる、大学もスポーツを宣伝の材料にする……。

 それと同じことが、文化財にも起こるとすれば、「文化財保護」という言葉は換骨奪胎です。文化財を商売にされたのではたまりません。そして、目に見えない文化財(言葉や習俗など)が消え去ることなどを何とも思わないようになったら、日本の伝統も文化も風前の灯火になるでしょう。

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2018年7月15日 (日)

言葉の移りゆき(85)

坊さんが屁をこいた

 

 「ぼ・ん・さ・ん・が・へ・を・こ・い・た」。綺麗な言葉ではありませんが便利な言葉です。例えば、ビー玉が100個近くある場合、その個数を数えるのに、子どもたちはこの言葉を使いました。何回か繰り返して唱えて、数えていきます。

 一つを一音ずつで発音しますから、「いち・に・さん・し・……」と数えるよりも少しは速く数えられます。別に急いで数える必要がなくても、この言葉をよく使いました。しかも、坊さんが屁をこいた、という驚くような内容の言葉ですから、楽しみながら数えていけます。私たちが子どもの頃の言葉ですから、もう消えてしまっている言葉かもしれません。

 一字一音での読み方には「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と」もありましたが、これは「ぼ・ん・さ・ん……」を唱えるのをはばかる女の子たちが使っていたようにも思います。

 さて、こんな文章を読みました。

 

 幼い子どもに、ぼうやはいくつ? と歳をたずねると、以前は、みっつ、とあどけない言葉がかえってきたものだ。だが、今では、三歳という言葉がかえってくる。ひ、ふ、み、よ、という言葉と、いち、に、さん、しとどちらが美しいひびきを持っているかと問えば、その答えは自ずから明らかだろう。

 (中央公論新社編『わたしの「もったいない語」辞典』、2018年1月25日発行、中央公論新社〔中公文庫〕、240241ページ、「ひ、ふ、み、よ、」、小川英晴)

 

 言葉は、伝達の機能を果たせばこと足れりというわけではありますまい。「ひ・ふ・み・よ…」の美しく滑らかな響きを快く感じる心も大切ですし、言葉を使うことを楽しむ気持ちも大切だと思います。

 テレビのニュースなどで、小学生にインタビューしているのを見ると、大人が使うような漢語が飛び出してきて、驚くことがあります。かつての子どもたちよりも高度な言葉を身に付けていると感心すべきか、大人びた言葉遣いの陰に純朴さが失われていると嘆くべきか。言葉はその年齢にふさわしい言葉遣いをしながら、ゆっくり少しずつ育っていってほしいと願わないではおれません。

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2018年7月14日 (土)

言葉の移りゆき(84)

「特別」への疑義

 

 前回に続いて、「特別」について考えます。出発点は次のような記事です。

 

 「障害者」の表記について、「害」ではなく「がい」や「碍」にした方がいい、という議論がある。2010年の常用漢字表見直しの際にも「碍」を入れて「障碍」という表記にすべきだとの意見が出た。「碍」には「さまたげ」という意味がある。 …(中略)… そもそも目の不自由な人にとっては「しょうがい」という音をどう表記するかではなく、ことばそのものに疑義があるかもしれないのだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月13日・夕刊、3版、6ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 表記の問題ではなく「しょうがい」という言葉を使うことに疑義があるという論旨に同感です。

 さて、今、特別支援学校というものがあります。法律で決まっているからでしょう、全国の学校の校名が盲学校、聾学校、養護学校から、視覚特別支援学校、聴覚特別支援学校、特別支援学校に改められました。どうしてここに「特別」の語を加える必要があるのでしょうか。小学校や中学校が一般であり、障害児学校は特別だと意識が働いているからでしょう。都道府県の中には、「特別」を省いて視覚支援学校、聴覚支援学校、支援学校という名称を使っているところがありますが、その方が自然に聞こえます。

 今となっては信じられないかもしれませんが、()文部省はこの分野の教育を特殊教育と称していました。平成10年代でも、横須賀市にある国の研究・研修機関の名前は国立特殊教育研究所でした。一般の教育からはずれた特殊なものだという意識があったのでしょう

 「特殊」を「特別」に替えても、国の体質は変わっていないように思います。地方公共団体が「特別」を省いて、支援学校と称することの方が望ましいように思います。

 「しょうがい」と同様に「支援(教育)」という言葉が望ましい言葉であり続けられるかどうかということは、別の問題として存在しますが、「特別」という言葉は排除するのがよいのではないでしょうか。

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2018年7月13日 (金)

言葉の移りゆき(83)

「一般の人」という書き方

 

 若くして名を知られている人がいます。例えば、芸能人、スポーツ選手、評論家、研究者、……と並べて、それらの人が結婚するという報道をする場合、相手が「一般の人」であるという書き方をするでしょうか。評論家や研究者の結婚相手は「一般の人」であっても、ことさらに「一般の人」とは書かないでしょう。スポーツ選手の相手を「一般の人」と書くことはあるかもしれませんし、書かないかもしれません。

 ところが芸能人の場合は、ずいぶん様子が異なります。「一般の人」と結婚するのが特異な現象であるかのように書かれます。そのような書き方は、記者の偏見であるのかもしれませんし、芸能界がそのような世界であるからなのかもしれません。

 こんな記事がありました。

 

 「一般男性と結婚」が気になる。「一般」の反対語は「特別」「格別」などだ。この女性はメディアへの露出も多い「特別な人」だが、結婚相手はそうではない。だから相手への取材などは控えてほしい、という意味合いを発表資料に込めているように思える。ならば、記事に「一般」と書く必要があるのだろうか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月20日・夕刊、3版、6ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 芸能人を特別視するのなら「特別」と言ってよいかもしれませんが、私たちの大多数は、いわば一般の人間です。一般の人をわざわざ「一般」と言う必要はあるでしょうか。特別だ、一般だと区別しようとするから、芸能人の相手を「一般の人」と言いたくなるのでしょう。上の記事の文末は、〈「〇〇さんが結婚したことが明らかになった」で、十分じゃないかな。〉と結ばれていますが、その通りだと思います。

 もうひとつ言うならば、芸能人の結婚を一大事件のように報道しようとする姿勢こそにも問題があるということに気づいてほしいと思います。

 上の記事に、「相手への取材などは控えてほしい、という意味合いを発表資料に込めている」とありますが、発表資料を読むのは限られた人だけでしょう。

 限られた人向けに資料を配り、その限られた人が記事を書くのであって、ファンが取材をするわけではありません。狭い世界で記事は書かれており、記者は「一般の人」「特別な人」と意識してしまうような土壌の上にいるのでしょう。

 読者が知りたがっているから書くのだ、という論理は捨てて、書くべきか書かざるべきか、書くならどう書くべきかということをじゅうぶん吟味してほしいと思います。

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2018年7月12日 (木)

言葉の移りゆき(82)

便利な言葉、具体性のない言葉

 

 文部科学省の私立大学支援事業の対象校に選定されることの見返りに、自分の子を大学入試で合格させてもらったという、信じられないような事件が起きました。次の2つの文は、そのニュースを伝える、1面トップ記事のリード文です。

 

 関係者によると、選定を依頼したのは東京医科大学(東京都新宿区)の関係者だという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月5日・朝刊、13版、1ページ)

 

 文部科学省の私立大学支援事業をめぐる汚職事件で、事業の対象校に選定されるよう前科学技術・学術政策局長の佐野太容疑者(58)に依頼していたのは東京医科大学の臼井正彦理事長(77)だったことが、関係者の話でわかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月6日・朝刊、13版◎、1ページ)

 

 ニュース源を秘匿するという趣旨は理解できますが、その場合に「関係者」という言葉は使い勝手のよいもののようです。

 同時に、明らかになっていない(もしくは、明らかにすることをはばかる)人物のことを指す場合にも「関係者」は便利な言葉のようです。

 けれども、読者からすれば、この言葉によって内容をあいまいにされているという気持ちが生じます。

 5日付けの文は、「関係者によると、……の関係者だという。」という、あいまいさに輪をかけたような表現です。読み返して表現を改めようという気持ちが生じなかったのだろうかと、首を傾げます。

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2018年7月11日 (水)

言葉の移りゆき(81)

「蛇」という比喩

 

 西日本各地で起こった土砂崩れや河川氾濫は、被害の全容が明らかになるにつれて平成以降では最悪のものになりそうです。「崖崩れ」や「土砂崩れ」という言葉は古いものではなく、古人はそれを「蛇崩れ」と言ったようです。

 『日本国語大辞典』では、『甲陽軍鑑』の「霖(ながあめ)にてじゃ崩して、重宝なる土が必人を殺すは、過てあしき事也」という例文と、『武将感状記』の「折しも二三日雨ふりつづき夜に入りて川岸にわかに崩れて水中におちいる音おびただし。是を俗語に蛇崩と云ふ」という例文とを載せています。堤防(河川)や崖などの土砂が緩んで崩れることです。昔は治山治水が進んでいなかったから「霖(ながあめ)にて」とか、「二三日雨ふりつづき」とかの状況で被害が生じたのでしょう。

 『広辞苑』にも「蛇崩れ」は載っており、〈がけなどの崩れること。また、その崩れた所。山くずれ。〉という説明があります。堤防の決壊よりも山崩れに重点を置いた説明ですが、例文はありません。

 この「蛇崩れ」などを引用した文章に出会いました。

 

 かつて土砂崩れは「蛇崩れ」「蛇落」などと呼ばれた。大きな蛇の出現になぞらえたものだと、歴史学者の磯田道史さんが著書で述べていた。ものすごいスピードで人家に迫り、人間の暮らしをのみ込むさまを表したのだろう

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月8日・朝刊、13版●、1ページ、「天声人語」)

 

 筆者の言う「ものすごいスピードで人家に迫り、人間の暮らしをのみ込むさま」を蛇に喩えたというのは理解できます。けれども「蛇崩れ」という言葉を、私はちょっと違った感じ取り方をしています。の

 昔の川は「蛇行(だこう)」しているのが常でした。また、平地と山(や丘や崖)との境界線も一直線ではありません。私は「蛇」という比喩から、くねくねと曲がって連なっている線のことを思い浮かべてしまいます。その曲がりくねった形をしている河川や崖などが崩れることを「蛇崩(じゃくず)れ」「蛇落(じゃらく)」と言ったのではないでしょうか。

 もっとも、磯田道史さんがどの著書で述べているのか書かれていませんから、さしあたっては調べようがありません。その著書の何ページに書かれているのかはともかくも、せめて著書名ぐらいは書いておくのが親切というものだと思います。

 「蛇落」という言葉は『日本国語大辞典』にも『広辞苑』にも載っていません。この言葉を調べてみたいという欲求が生じましたが、今のところ、手がかりはありません。

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2018年7月10日 (火)

言葉の移りゆき(80)

「劇勝」とは何か

 

 日本チームが敗退しても、ワールド杯サッカーの報道は縮小される気配がありません。新聞も放送も、準備を整えていたのだから、報道を続けなければ損害が発生すると言わんばかりの状況です。新聞の場合は、ワールド杯に割くページ数が多く、スポーツ面だけでなく、フロントページも社会面も見境なく、サッカーの話題に占領されています。

 記事の数が多いということは、見出しの本数も多いということです。自社に限っても同じような見出しを何度も使うわけにはいかない、他社の見出しを真似るわけにもいかない、という事情があるのでしょう。時々は、意図のわからない見出しや、その言葉を使った人の自己満足のような表現もあります。

 「劇」という言葉に注目します。

 

 サッカーW杯開幕の話題をさらったのはスペインの監督交代劇だった。就任以来20戦無敗のロペテギ前監督(51)が初戦を2日後に控えて解任された。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月17日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 「監督交代劇」という場合の「劇」の使い方に違和感はありません。けれども、「劇」という言葉には、筆者の考え方が強く反映されています。「……スペインの監督交代だった。」と言えばよいものを「劇」と見なしたのは筆者です。一種の芝居のような出来事だったと判断したから「劇」という言葉を挿入したのです。

 ついでながら、「前監督が……解任された」という表現はおかしいと思います。解任された結果、「前監督」になったのです。

 

 さて、次のような見出しの記事がありました。

 

 20年ぶり劇勝 まさかじゃない / 耐えて焦らせ 終了間際にオウンゴール

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月16日・夕刊、3版、7ページ、見出し)

 

 「激勝」という言葉は時々、目にします。それに対して、「劇勝」とはどういう勝ち方のことでしょうか。「劇的な勝利」を約めたのでしょうか。そうだとしたら、乱暴な言葉遣いです。

 そもそも本文には使われていない言葉です。本文にあるのは次のような表現です。

 

 その後も、イランはゆっくり選手交代をしたり、けがで試合が止まると再開を遅らせたり、徹底的にモロッコを焦らせた。その成果が、相手の不用意な反則で奪ったFKのチャンスであり、相手のミスによるオウンゴールだった。

 (上記の記事と同じ、河野正樹)

 

 記事の表現が見出しに反映されていますが、「劇勝」だけが浮き上がった感じです。ゆっくりした行動で相手を焦らせたことが、劇(芝居)の筋書きを実践したように見えたと言うのでしょうか。

 最近の新聞は、新聞記事の本文を離れて、見出しだけが高揚感を見せる表現が多くなりました。悪く言うと、見出しの一人芝居です。それは、このブログでたびたび指摘してきたことです。

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2018年7月 9日 (月)

言葉の移りゆき(79)

「書き込む」ではなくて「落とし込む」

 

 例えば地図の中に、調査の結果を幾種類かの記号に分けて書き込んでいくとします。かつては手書きであった作業が、パソコンの操作でたやすく行えるようになったのは嬉しいことです。手作業の場合は「書き込む」作業であったのですが、今では…。

 

 「まいかた」ちゃうで、「ひらかた」やで-。読み間違えられることが多い大阪府枚方市が、市名の知名度について全国調査している。9月末まで続け、結果を落とし込んだ全国地図を作製。難読名をPRに生かすべく、年内の公表を目指す。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月15日・夕刊、3版、12ページ、古田寛也)

 

 私たちはパソコンで文章を書くことをしていますが、それを「書く」とは言わないで「打つ」と言うことがあります。言葉の生活には「話す」「聞く」「書く」「読む」の4つの他に「打つ」という活動があるという説まで現れています。つまり、手書きで伝えるのとパソコン(や携帯電話、スマートホンなど)で書いて伝えるのとでは、行動そのものが違うし、文体などにも違いが生まれてきているという考えです。

 同様に、記号などを「書き込む」ことも、パソコンを使えば行動が違うというのでしょうか、「落とし込む」という言い方がされています。記号を書き入れる場合も「書き込む」「打ち込む」でもかまわないと思いますが、それを「落とし込む」と言うのはなぜでしょう。

 この「落とす」の意味は、上から下へ物を移動させるという意味で、手に持っている資料(調査結果)からパソコン画面に移動させるという意味でしょう。けれども、書き込むという丁寧さではなく、次々と無造作に移動させているというイメージがないとは言えません。「突き落とす」や「蹴り落とす」などという印象と重なるからでしょうか、

 同じ動きであることが「書く」「打つ」「落とす」と表現がさまざまになることを、日本語の豊かさとして歓迎すべきか、あまり望ましくない言葉が増えていくと考えるべきか、言葉を発信する側でちょっと立ち止まって考えてみることも必要なのではないでしょうか。

 

 なお記事には、枚方の地名について、『播磨国風土記』に、「河内国茨田郡枚方里」と記されているという記述があります。

 『播磨国風土記』(新編日本古典文学全集、小学館発行)を読んでみますと、揖保郡の項に、「枚方の里。枚方と名づくる所以は、河内の国茨田の郡枚方の里の漢人、来到りて、始めてこの村に居みき。故れ、枚方の里と曰ふ。」とあります。河内の枚方の地名が、播磨の枚方の地名の由来になっていることがわかります。

 また、『播磨国風土記』の飾磨郡の項には、「枚野の里」という地名があります。「枚方(ひらかた)」「枚野(ひらの)」ともに、「枚」は「ひら」と読んでいますから、「ひらかた」という読みは、ずいぶん古くから定着していた読み方なのです。

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2018年7月 8日 (日)

言葉の移りゆき(78)

「密着」の気持ち悪さ

 

 「密着」という言葉は、ぴったりとくっつくことを表しています。愛し合っている男女ならともかく、一般に人は、他の人から密着されるのは気持ちのよいことではないと思います。

 ところがテレビは、「密着」して取材することがまるで手柄であるかのように、この言葉をふりかざして宣伝文句に使います。「密着」は褒め言葉であり、評価を高めることであるかのように聞こえます。

 どれほど気楽にカメラを回していても、取材が1週間続けば、それは「1週間の密着取材」という言葉になるようです。言葉どおりに「密着」すると、取材される側は悲鳴をあげざるをえないでしょう。

 ところが、そのようなテレビ用語を、受け売りで新聞も使い始めています。

 

 俳優の佐々木蔵之介(50)が、カンボジアの農園でコショウづくりに情熱を傾ける日本人に密着取材した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月14日・夕刊、3版、2ページ、杢田光)

 

 これは宣伝広告の文章ではありません。きちんとした記事です。新聞記者はどこまで確かめたのか知りませんが、密着取材をしたのだと言っています。

 文章を読むと取材の様子は述べられていますが、俳優自身は「私は密着取材をした」とは言っていません。記者がテレビ局の宣伝文句をそのまま使って、番組を盛り上げようとしているように感じられます。

 しかも、この記事の見出しは、〈カンボジアで「夢」密着 / 佐々木蔵之介 コショウづくり取材〉となっています。人に密着したというよりは、その人の夢に密着したというのです。心の中まで密着されたらたまりません。

 現今の新聞は、客観取材や客観表現という立場を離れて、宣伝媒体という立場に傾斜を深めていっているのでしょうか。芸能だけでなく、スポーツ記事にもこの傾向は顕著であるように思います。

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2018年7月 7日 (土)

言葉の移りゆき(77)

「丁字路」と「T字路」

 

 タイの洞窟で行方不明になっていた少年など13人の生存が確認されたというニュースは明るい話題でした。それを伝える記事に、「タムルアン洞窟の捜索状況(イメージ)」という図が添えられていましたが、その図の中の説明に次のような文字が使われていました。

 

 丁字路

 丁字路まで約3㎞

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年7月3日・夕刊、3版、11ページ)

 

 「十字路」「丁字路」は漢字の文字の形に添った言い方ですが、その「丁字路」は「T字路」という文字遣いも目にします。「丁字路」と「T字路」は、文字の形も似ていて、発音も類似していますから、文字の置き換えも容易です。「丁字路」の他に、「丁字定規」や「丁字帯」などの言葉もありますが、それらも「T」に置き換えられている場合もあります。

 「T字路」にあたる英語表記は「three-forked road」とか「three-way junction」が主流です。「T-junction」という言い方もあるようですが少数派のようです。「T字路」は和製の表記ということになるのでしょう。

 「丁字路」は道路交通法などの法律にも使われている言葉ですから、「丁字路」の言い方がすたれることはないでしょう。NHKは「丁字路」「T字路」両方の表記を採用しているようですが、今回の事故についてのニュースをホームページで見ると、「丁字路」と「T字路」の両方が各社の方針によって使われているようです。

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2018年7月 6日 (金)

言葉の移りゆき(76)

どんなに長くても「的」は使えるのか

 

 現代語の文章の中に横行する「的」という文字は、もともとは「romantic(浪漫的)」などの「tic」の部分を日本語で書き表すために考え出されたものだと言われます。それは優れた考案であったのですが、「的」の使い方がこんなに広がるとは、昔の人は考えなかったでしょう。「私的には、こう考える」とか、「夏目漱石的なものの考え方」とか、止まるところがないほどの広がりを見せています。

 大学入試の英語が変わるということを論じた文章の中に、こんな表現がありました。

 

 その入試がついに変わる。「戦後最大の改革」という人もいる。だが変化が大きい割に、大人たちの多くはひとごとみたいだ。「それで話せるようになるなら、いいんじゃない?」的な声も聞く。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月3日・夕刊、3版、7ページ、「英語をたどって」、刀祢館正明)

 

 述べている意味はわかりますが、こんな表現を野放しにしてよいのでしょうか。「的」の前の言葉は、本来は名詞のような言葉が一つだけであったように思います。「異国的な風景」とか「根本的な改革」とかの短い表現が、すこし長くなって「長崎情緒的なたたずまい」のようになりました。けれども、「的」の守備範囲はそのあたりが限界ではないでしょうか。上の記事では、ひとつの文の全体を「的」が受けた表現になっています。しかも「?」すら含んでいるのです。これを見過ごせば、段落全体を「的」が受けることにもなるでしょう。

 〈「なんたらかんたら、なんたらかんたら、そして、なんたらかんたら」的な主張をする人がいます。〉などという表現があらわれるかもしれません。「的」の安易な使い方です。

 新聞が新しい表現を開拓していくことは理解できます。けれども、言葉の乱れを牽引するようなことだけはやめてほしいと願います。

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2018年7月 5日 (木)

言葉の移りゆき(75)

インターネット上の伝達でも「口コミ」か

 

 「口コミ」というのは「マスコミ」をもじった言葉ですが、評判や噂などが口から口へ伝えられて広がることです。対面して行われるコミュニケーションです。ところが最近、「口コミ」という言葉が人間関係の上に築かれていることを“悪用”した言葉遣いが見られます。実際にはそうでないものに、「口コミ」という言葉の表す長所だけを利用しているのです。

 

 訪日客には、西日本の観光地が人気-。旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」は12日、訪日客に人気の観光地トップ30を発表した。 …(中略)

 トリップアドバイザーの広報担当者は「口コミが新たな口コミを呼び、上位の観光地を訪れる人が増えている」という。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月13日・朝刊、13版、8ページ、久保田侑暉)

 

 このようなサイトがあっては困るとは思いませんが、これを「口コミサイト」と自称するのはおかしいと思います。広告も掲載され、効果も計算されたサイトは立派なマスコミです。「口コミ」という言葉を使うことによって、何ものにも歪められずに生の意見が反映されているように装うのはおかしいと思います。「口コミ」という言葉を利用して宣伝効果などを上げるのは控えるべきでしょう。

 効果があると思われるものに飛びついて、自分たちの利益を上げようとするのが現代の風潮です。同時に誇大広告は規制されています。誇大でなくても、口コミでないものを口コミと称するのは、言葉の上での明らかな「違反」と考えるべきでしょう。

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2018年7月 4日 (水)

言葉の移りゆき(74)

「見える化」は報道・商業用語?

 

 言葉は的確な意味を伝えるべきですが、それを曖昧にしてしまうようなことをする場合があります。

 言葉を短くしようとする場合に使われる「的」「性」「化」などはその代表です。「社会的な問題をはらんでいる」「子どもたちに社会性を指導する」「遊びを通じて社会化を図る」などという表現の「社会化」「社会性」「社会化」は、意味が広がって、焦点がぼんやりしてしまって、肝心なところが明確でないことが多いのです。

 この「的」「性」「化」などを使わないように努めることによって、すなわち、他の言葉を使って表現しようと工夫することによって、言葉は伝えようとする力が強くなってゆくと思います。

 新聞の見出しは、1文字でも節約したいという欲求があるからでしょうか、漢語で短く表現しようとする傾向があり、「的」「性」「化」がどんどん現れてきます。

 

 はじめて目にしたときには新鮮さを感じた「見える化」という言葉も陳腐になり、曖昧な表現に感じられるようになりました。

 

 片付けや時間の使い方について講演を重ねる整理収納アドバイザー、井田典子さん(58)=神奈川県相模原市=は問いかける。

 「まずは3日間、時間の使い方を記録して、目に見えるようにしてみましょう」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月7日・朝刊、10版、23ページ、松尾由紀)

 

 この記事は90行近い文章ですが、どこにも「見える化」という言葉は使われていません。見出しだけが独自に、

 24時間 「見える化」しよう

と書いてあります。記事にある「目に見えるように」することが「見える化」すると置き換えられているのです。記事を整理した人が「見える化」という言葉に飛びついたのでしょう。この場合の「見える化」は、文字や図表に表すということでしょう

 「見える化」という言葉に飛びついた例は次の記事にもあります。これは、「見える化」という言葉をセールスに結び付けたものです。

 

 勉強すればするほど「やる木」が育ちます-。文具大手のコクヨが、鉛筆に装着して文字や数字を書いた量を「みえる化」する文具「しゅくだいやる気ペン(仮称)」を開発中だ。 …中略…

 子供の努力の量をアプリで「見える化」し、宿題に取り組む習慣作りを手助けするのが狙いだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月8日・朝刊、13版、9ページ、久保田侑暉)

 

 この場合の「見える化」とは、グラフか何かで表すということでしょう。「見える化」と言っても特別なことではないように思います。

 これまでは「視覚化」などと言っていたものを「見える化」としたときには新鮮に感じました。けれども、動詞に「化」を付ける言い方は「見える化」以外に広がりはありませんから、いずれは消え去っていく用法であるのでしょう。「見える化」自体も使い捨てられる運命にある言葉でしょう。

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2018年7月 3日 (火)

言葉の移りゆき(73)

人生の「峠」と「坂」

 

 自分が年齢を重ねてきたせいかもしれませんが、年齢を表す数字に「峠」や「坂」という言葉が付いた表現に出会うと、いったい何歳あたりのことを表しているのだろうかと、立ち止まって考えるようなことが多くなりました。

 

 80歳の坂をこえたあたりから昼寝を貪るようになった。朝食をとったあとや昼めしをすますと眠くなる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月9日・朝刊、be9ページ、「生老病死」、山折哲雄)

 

 「峠」というのは、高くなっていって、そこから低くなっていくところです。変化が起きる地点です。例えば「80の峠にさしかかる」と言うと、70歳台が終わって、80歳台という新しいステージを迎えることだろうと思います。「80の峠を越えた」も同じように受け取られます。

 一方、「坂」というのは一方が高く一方が低いところです。また、傾斜そのものも表します。例えば、「80の坂にさしかかる」と言うと、80歳台が始まるということでしょう。それは誤解なく伝わると思います。

 ところが、「80の坂をこえる」と言うのは、80歳台が始まるということでしょうか、80歳台が終わるということでしょうか。少しあいまいに聞こえます。

 「78の坂」とか「79の坂」という言い方をする人はありません。それによって、「80の坂」という言い方は、細かく区切ったものではなく、おおまかに80歳台を指しているようにも受け取れます。80歳という1年間を意味するのではなく、おおまかな80歳あたりを指しているようにも感じられるのです。そのおおまかな数字が、80歳台(10年間)というあたりまで広がって解釈されることもあり得ると思います。つまり、「80の坂」をこえたら「90」ではないかということになるのですが…。

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2018年7月 2日 (月)

言葉の移りゆき(72)

「熱視線」は国語辞典に載るか

 

 NHK大阪放送局が制作している番組に「かんさい熱視線」というタイトルがあって、関西のさまざまな話題を取り上げています。この「熱視線」という言葉はまだ国語辞典には取り上げられていないように思います。

 その「熱視線」を続けざまに、新聞の見出しで見ました。

 

 神戸発 水素発電に熱視線 / 市街地に供給 世界初 / 大林組・川重が実証

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月5日・朝刊、13版、8ページ、見出し)

 

 流転の巨大砂時計 / 8年前 大阪駅から明石へ 「大きすぎ」休眠 / 砂のまち鳥取 PRへ熱視線

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月8日・夕刊、3版、12ページ、見出し)

 

 大阪万博を再び 熱視線

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月9日・朝刊、13版、21ページ、見出し)

 

 立て続けに「熱視線」という言葉が使われています。共通することは、記事の中には「熱視線」は使われずに、見出しだけで使われていること、そして、関西を話題にしている記事で使われていることです。

 「熱視線」がどれほど広く使われ始めているのか、私にはよくわかりません。全国的な使われ方なのか、関西で主に使われているのかもわかりません。けれども、記者が文章の中で使っていない言葉を、記事を整理した人が見出しとして使っていることから考えると、注目を引きやすい単語であるということは確かでしょう。これは特定の新聞の傾向かもしれませんし、記事を整理した人の個人的な好みであるのかもしれません。

 この言葉はたぶん、「注目を集めている」ということの強調表現でしょう。強い関心を持って見つめられている、期待や好意を持った眼差しが感じられる、ということでしょう。ところで「熱視線」に続く動詞は何と言うのでしょう。熱視線を集める、熱視線を受ける、熱視線を注ぐ、熱視線を浴びせる、…。いずれの表現もしっくりとした感じにはなりません。述語との関係を考えるよりは、上記の見出しのように、「熱視線」という単語だけをぽつんと放り出すような使い方がふさわしい言葉であるのかもしれません。

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2018年7月 1日 (日)

言葉の移りゆき(71)

△は格好良いか

 

 新聞は中学3年生が読めるように作られていると聞いたことがあります。政治・経済・文化・その他の専門用語をじゅうぶんに知っているわけではありませんから、あくまでも文章の難易度についての話です。けれども、新聞を読まない若者が増えて、新聞を読む力は低下しているかもしれません。

 一般の大人にとっても、経済面は経済の知識などがなければ読解できない部分があるでしょうし、スポーツや芸術などについても同様だろうと思います。それに対して、社会面などは、格別の深い内容の専門用語や流行語・隠語などを知らなくても読めるように書かれているはずだと思います。

 サッカーのワールドカップを報じる記事にこんな表現がありました。

 

 セネガル戦で同点弾を決めた本田圭佑(32)にも「本田はいらないって言ってごめんなさい」という謝罪や「本田△」を「ほんださん、かっけー」と読ませる称賛の投稿が多く見られた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月26日・朝刊、13版、32ページ、高野遼、河崎優子、平山亜理)

 

 初めて「本田△」という文字遣いを見た人には、意味がわかったでしょうか。「△」を「さん、かっけー」と読ませていることはわかっても、「かっけー」の意味は理解できたでしょうか。

 私は、NHKラジオの「NHKジャーナル」でこの言葉のことを聞いていましたから、わかりました。「さん、かっけー」の「かっけー」は「かっこいい」の音変化だそうですが、文字からは分かりにくいと思います。このような文字遣いをしている人はどれぐらいの人数に上るのか、また、それを理解できる人はどれほどの人数なのでしょうか。記者はそういうことを考えて、記事を書いているのでしょうか。

 それにしても「本田△」は称賛の文字遣いに見えるでしょうか。「本田◎」と書けば、説明不要の称賛の表現です。「本田〇」よりも「本田△」は下位にあたると理解してもしかたないでしょう。

 「△」を使い始めた人の感覚や、それに追随して使っている人の心理が、いまひとつ私には納得がいかないのです。

 

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2018年6月30日 (土)

言葉の移りゆき(70)

我田引水の文章

 

 中元の季節が近づいて、それに関する文章を目にする時期になりました。その中にこんな文章がありました。

 

 ギフトコーディネーターの冨田いずみさんによると、お中元は3年は続けるのが礼儀という。1度だけ贈りたい場合は「お礼」として。時期を逸したら「暑中御見舞」、その後、9月初旬までは「残暑御見舞」として贈る。西日本では8月前半までは「お中元」、その時期を過ぎたら「残暑御見舞」。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月26日・朝刊、10版、22ページ、栗田優美)

 

 ここに書かれている内容のすべてが驚きです。ギフトコーディネーターという肩書きにどのような権威があるのかは知りません。けれども、お中元は3年は続けるのが礼儀とか、1度だけの場合は「お礼」とするのだというのは、どういう考えに基づいて述べているのか理解ができません。ギフトコーディネーターというのが公式の肩書きであるのなら、その業界の都合が働いているのかもしれません。

 「お中元」の時期を逸したら「暑中御見舞」、9月初旬までは「残暑御見舞」として贈るというのは、手紙・葉書のことをうまく利用して言っているのでしょうか。それとも、他に、独自の理由があるのでしょうか。

 もしかしたら、お中元という習慣も、バレンタインデーのチョコレートも、立春の巻き寿司の丸かじりも、このような業界宣伝から発祥しているのかもしれません。言葉の起源・発祥として考えると、ささいなことがどのように拡大していくのかという面白さはありますが、どうも無責任な発言のように思われてなりません。

 このような記事は、誰かの個人的な考えを広めるのではなく、記者がじゅうぶんに吟味してから書くべきではないでしょうか。

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2018年6月29日 (金)

言葉の移りゆき(69)

言葉の定義するもの

 

 「男」「女」という言葉の語義を論じた文章を読んで、考えさせられることがありました。その文章の中に、こんなことが書かれていました。

 

 広辞苑の編集者・平木靖成さんは「辞書は共通部分を抽出する作業だ」という。

 ことばは、物事を定義する道具となる。あるものを定義すれば、そこから外れるものが出てくる。仮に「鳥は空を飛ぶもの」とすれば、ペンギンやダチョウは鳥という枠から除外される。意識すべき溝とは物事をどう定義するか、ということにもつながる。時にこの枠を取り払って、そのあわいにあるものに思いをはせたい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月6日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 引用したのは、文章の末尾、いわば結論にあたる部分です。

 この文章の筆者がいう「言葉」は名詞に限定されているのではないでしょうか。「男」だの「女」だの「鳥」だのということを詳しく定義しても、定義をし尽くすことはできません。そこから漏れる部分を「あわい」と言っているようですが、言葉は「あわい」に満ちています。「あわい」の広がりこそが、言葉の奥行きであるのです。

 言葉にはたくさんの品詞があります。例えば形容詞や形容動詞のことを考えてみれば瞭然です。「赤い」や「おもしろい」や「快い」の形容詞の表す範囲を限定することなどできません。「元気だ」や「静かだ」の形容動詞の表す範囲も同じです。私たちは基本的な意味範囲を理解していて、それらの言葉を使っているのです。「あわい」の範囲は無限に広いのです。他の品詞についても同様です。「辞書は共通部分を抽出する作業だ」というのは、そういうことを言っているのでしょう。

 名詞は、極度につきつめて考えていけば、その語義を詳しく言い表すことができるかもしれません。けれども、名詞と同じように、他の品詞についてもそれが可能だと考えるのは思い違いであると思います。ひとつの言葉の説明が、国語辞典によって異なることこそが日本語の(あるいは、全ての言語の)の豊かさを表しているのだと考えるべきでしょう。

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2018年6月28日 (木)

言葉の移りゆき(68)

カギカッコと感嘆符の省略

 

 最近は、すぐに感嘆符を付けたがる表現が多くなりました。また、カギカッコを付けるべきところに付けない表現も多くなりました。

 カギカッコの省略という現象を、品詞の変化という観点から解釈することも行われているようです。こんな文章に出会いました。

 

 ビールメーカーK社の広告看板です。〈あなたの一番うまい!になる〉と書いてあります。 …(中略)

 ビール会社の広告で「うまい」を名詞として使うのは前例があります。A社は〈すべては、お客様の「うまい!」のために〉と10年以上前から言っています。S社にも〈うまいをつくる〉という広告があります。この業界では「うまい」が名詞なのはもはや常識でしょうか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月23日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 筆者は「この業界では『うまい』が名詞なのはもはや常識でしょうか。」と述べていますが、それはビール業界だけでなく、食品すべてにあてはまることでしょう。しかも、この「うまい」という言い方を名詞化と解釈するのは行き過ぎであると思います。

 S社の〈うまいをつくる〉という表現は、「うまいものをつくる」の「もの」が省略されたに過ぎません。「うまい」が名詞になったわけではありません。あるいは、これも〈うまい!をつくる〉という表現の感嘆符が省略されたのかもしれません。

 さて、その感嘆符を伴う表現のことですが、S社の表現は〈「うまい!」をつくる〉のカギカッコを省略した言い方です。そのことは、A社の〈すべては、お客様の「うまい!」のために〉を見れば明瞭です。ここに挙げられているビール3社の表現はすべて、本来はカギカッコが必要です。K社も〈あなたの「一番うまい!」になる〉とカギカッコを付けるべきです。

 この記事にはK社の写真が添えられていますが、〈あなたの / 一番うまい! / になる。〉という3行書きが示されています。「一番うまい」がひとまとまりの表現であって、「一番」は「うまい」にかかる連用修飾語です。感嘆符を付けて、感動の意味を伴っていても、「うまい」はどこまで行っても名詞にはなれません。

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2018年6月27日 (水)

言葉の移りゆき(67)

坂本龍馬や吉田松陰は「用語」なのか

 

 歴史は暗記科目なのか、覚えることが多すぎないかという提起があり、議論を呼んでいます。歴史教科書に出ている概念を表す言葉やキーワードなどを精選しようという考えです。それに関して、こんな記事がありました。

 

 「高校の世界史や日本史で覚える用語が多すぎ、暗記科目になってしまっている」。こう考えた高校や大学の教員らで作る団体が、用語の絞り込みについてインターネット上などでアンケートを実施したところ、6割以上の回答者が教科書の用語削減に賛成だった。 …(中略)

 昨秋にも、教科書本文に載せる「最低限の用語」のリスト案などを公表し、「坂本龍馬」「吉田松陰」らの人名を削除したことが議論を呼んだ。 …(中略)

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月3日・朝刊、10版、17ページ、氏岡真弓)

 

 学界で使われているような専門「用語」を覚えさせたり、それを入試問題として尋ねたりすることに歯止めをかけようとしていることには賛成です。歴史の教育の目標は、歴史の流れを理解させ、考えさせることにあるはずで、それは「用語」の多寡とは必ずしも比例しないでしょう。

 政治・経済や文化・社会現象などを表す「用語」は多岐にわたります。何でもかでも覚えることが大切だというような考えには賛成できません。けれども、それらの「用語」と、地名や人名は同じものではないと思います。

 覚えさせようとしている地名や人名の数を減らそうということには反対ではありません。けれども、坂本龍馬や吉田松陰を一律に「用語」から外す・外さないという議論は何だかおかしいと思います。まるで高校教科書が大学出題リストであるかのような考えです。概念を表すような言葉と地名・人名などとを一律に「用語」という言葉で括ってしまって、それを減らそうという議論に、硬直したものを感じます。

 私たちが目にし耳にする地名や人名はどんどん拡大していきます。それは「用語」というようなものではなく、経験として広がっていくものです。試験のために地名・人名をたくさん覚えさせようとすることには賛成できませんが、覚えなくてもよいと判定するような地名・人名があるわけではありません。地名・人名は「用語」ではありません。

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2018年6月26日 (火)

言葉の移りゆき(66)

人は「届けられる」存在か

 

 大阪北部地震では、駅と駅の間で緊急停車した列車に長時間閉じこめられるということが起こりました。JR西日本では143本の列車が停止し、その乗客数は約1万6千人だと発表していましたが、その後、閉じこめ乗客数が約14万人であったと訂正したというニュースがありました。「他の数字と取り違えたとみられる」というのが理由のようですが、まったく常識はずれです。大都市近郊の通勤時間帯の電車の乗客が、1本につき100人程度ということはありえないということに気づかなかったのかと、驚くほかありません。

 さて、そのことを伝えるニュース記事の中に、こんな言葉がありました。

 

 徐行運転で最寄りの駅まで乗客を届けた列車もあったが、一部は乗客を列車から下ろし、社員の誘導で社員の誘導で線路沿いを歩いて避難した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月20日・夕刊、3版、9ページ、波多野大介)

 

 ひとつの文の中の動詞の使い方が気になります。列車が「届け」、係員が「下ろし」、乗客が「避難した」というように、主語がめまぐるしく変わる文になっています。

 それとともに「乗客を届けた」という言い方が気になります。品物は届けるものでしょうが、乗客は届けられるものでしょうか。小さな子供を「学校に送り届ける」と言うことはありますが、大のおとなを「駅に届ける」と言うでしょうか。「送り届ける」と言えば違和感は緩和されますが、「届ける」とは、物を持っていって先方に渡す、という意味です。

 人を「届ける」というのはおかしいと思いますが、「届ける」には、運ぶという意味が含まれていますから、運輸機関の働きとして「届ける」という言葉を使いたくなったのかもしれません。乗客を運ぶという言い方は、普通に行われているからです。

 さて、「乗客を届けた」という表現は避けてほしいと思いますが、どう言えばよいのでしょうか。「届ける」という一語に置き換えることができる言葉は、すぐには見つかりません。とっさに思いつくのは、「(乗客を乗せたまま)運転する」というような言い換えしかありませんが…。

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2018年6月25日 (月)

言葉の移りゆき(65)

「良いこと」は「悪いこと」?

 

 かつて、自然災害などが発生したときに目にした表現に、「通信線の回復にしたがって被害が拡大する見込みだ。」というのがありました。この言葉を額面通りに解釈すると、〈通信線が回復すると被害は拡大する。だから、通信線は回復しない方が望ましい。〉ということになります。そんなはずはありません。

 この表現の意味は、通信線が回復すると被害状況が克明になるから、被害の数字はもっと多くなるだろう、という意味であるのですが、端折った表現であるから真意が伝わらないということであるのです。

 さて、公立図書館について、次のような文章がありました。

 

 砂蒸し温泉で有名な指宿は、平成の大合併で1市2町が新たに指宿市となった結果、市域は約150平方キロメートルまで広がりました。となると、簡単には図書館に足を運べないという人たちが出てきます。

 (神戸新聞、2018年6月21日・夕刊、3ページ、「未来の図書館を探して 8」、岡本真)

 

 この文章は何だか変です。いくつもあった小学校が統合されて学校数が減ったりすると通学が不便になります。そういう事情とは違います。

 指宿市の市域が広くなっても図書館の所在地は変わっていないはずです。ホームページで見ると、市内には指宿図書館(旧・指宿市内)と山川図書館(旧・山川町内)の2つがあります。旧・開聞町内に図書館はありません。このことは合併前と変化がないようです。市域が広がったから図書館へ行くのが不便になったということではありません。合併したから不便になったというのは筋道が通りません。

 私たちは往々にしてこのような文章を書くことがありますし、読む側もその通りだと納得してしまうことがあるかもしれません。

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2018年6月24日 (日)

地域の言葉について思うこと(4)

擬声語や擬態語

 

 携帯電話のことは漢字で書くほかに「ケータイ」と書く用法が広がっています。「ケイタイ」「けーたい」「けいたい」は広まっていません。どうして「ケータイ」だけが広まってしまったのかというのは興味のあるところです。

 震災をきっかけに広く使われるようになった「みぞう」も未曾有という漢字で書かれることは少ないように思います。

 私たちは、言葉を仮名書きにすることによって、もともとの言葉の意味や由来を忘れてしまうことがあります。その言葉の由来や成り立ちを意識しないままで、その言葉を使っていることもあります。

 雪が「こんこんと降る。」と言うときの「こんこん」は何なのでしょうか。「こんこん」という言葉には、今は漢字で書かなくても、「昏々と眠り続ける」とか、「泉が滾々と湧き出る」という表現があります。けれども「雪が〇〇と降る」の場合の漢字はないようです。このような形容動詞にはもともとは意味に沿った書き方があったのですが、雪の降り方には漢字がありません。純粋な擬声語や擬態語なのでしょうか。「咳がこんこんと出る。」とか「ドアをこんこんとノックする。」とか「狐がこんこんと鳴く。」は擬声語ですが、雪はこんこんと音を立てるのでしょうか。(「雪や、来む、来む」という呼びかけだという説を、どこかで読んだ記憶はあります。)

 関西の言葉には、擬声語や擬態語が多いと言われます。「百メートル歩いてから、きゅっと右へ曲がって進め。」と言われたとき、どのような行動をするでしょうか。わずかに進む方向を変えるのではありませんが、くるっと引き返すような方向になるのでもありません。ほぼ真横に向かって、機敏に方向を変える動作を表しています。擬声語や擬態語を漢字で書くことはしない(できない)のが普通です。

 食をテーマに開かれているイタリアのミラノ国際博覧会へ行ってきたという新聞記者が書いた文章を、コラムで読んだことがあります。

 

 「だしスープの実演です」とスタッフが呼びかけると、イタリア人ら一〇〇人余がわらわらとステージ前に集まった。鍋につけた昆布やだしのとりかたを土居さんがイタリア語で話し、カップでだしを配ると、「ボーノ(おいしい)!」とあちこちから。

 「予想以上の食いつき」と土居さん。

 

 「あちこちから。」で文を終わりにするのは報道の文章などにはよく見られるのですが、品の良い書き方ではありません。また、「予想以上の食いつき」というのは、ちょっと乱暴な言葉です。たとえ土居さんがそのような言葉を使ったとしても、別の言葉に置き換えて書いてほしいと思います。けれども、それはそれとして、言いたいのは別のことです。

 「わらわらと」という言葉は普段はあまり使いませんが、「わらわらと集まる」というのは、どういう様子なのでしょうか。

 『広辞苑・第4版』の「わらわら」の説明は、「散りみだれるさま。ばらばら。」です。一箇所からあちこちへ散らばっていく場合には使うでしょうが、あちこちから一箇所に向かって集まる場合に使うことがあるのでしょうか。

 『日本国語大辞典』の「わらわら」は、「①乱れたさま、破れ乱れたさまを表す語。②陽気なさまを表す語。」と書いてあります。①の意味なら、やっぱり破格です。もしかして筆者は、②の意味で、陽気なイタリア人が浮き浮きしながら集まってきた様子を書いたのでしょうか。けれども、文脈から②の意味をかぎ取るのは難しいと思います。

 『日本国語大辞典』には方言の意味も書かれています。それを見ると「急いで走るさま」や「あわてて走るさま」という意味で使う地域があるようです。東北地方や茨城、静岡の地名が記されています。ひょっとしたら、この文章の筆者はその地域の出身者なのかもしれません。

 「わらわら」は、広く使われていた言葉が使われなくなったのか、日常生活ではほとんど使わない言葉であるのか。どちらにしても、「わらわら」を使った文章の意味を前後の文脈から意味を類推することは困難です。けれども、私たちは、そんなことに気も止めずに文章を読み過ごしてしまうことも多いように思います。

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2018年6月23日 (土)

地域の言葉について思うこと(3)

発音も個性、語彙も個性

 

 ある新聞のコラムに次のような文章がありました。

 

 東北地方の温泉宿に泊まった夫婦が散歩に出た。玄関で番頭が「じいさん、ばあさん、お出かけ」と言った。夫婦は黙っていたが、帰った時、再び「じいさん、ばあさん、お帰り」と言ったので、さすがに注意した。「ひどいではないか」。番頭はそんな失礼なことは言わないと否定する。調べると夫婦の部屋番号が十三番。福島、宮城、山形あたりでは「じ」も「ず」も「じゅ」も同音になりやすく「十三番さん」と言っていたのだが、相手には「じいさん、ばあさん」と聞こえた。言語学者の金田一春彦さんが書いている。

 

 このコラムを読んで、思い出した文章があります。同じ金田一春彦さんに関わる話です。金田一さんが、どこかの食堂で食事をしていたら「金田一さん」と呼ばれました。あたりを見回しましたが知っている人はいないので不思議に思いました。しばらくすると、また「金田一さん」と呼ばれましたが、やっぱり知り合いはいません。そのうちに、その謎が解けたそうです。「金田一さん」という呼びかけに聞こえた言葉は、実は食堂の人が、注文を受けて、早口に「チキンライス、一丁」と伝えていた言葉であったというお話です。よく似た発音を、私たちは誤解して受け取ることがあります。

 七十年近く前に山形県鶴岡市で行われた調査では、猫のことを「ねご」と言うと答えた人が三十七%あったのに、最新の調査では三%に減ったのだそうです。ところが「鶴岡弁らしく発音してみせて」と言うと、今でも九割近い人が「ねご」と言うのだそうです。私たちは状況や相手によって共通語と方言を上手に使い分けているようです。

 方言はしだいに消えていくというのが通説です。福島原発事故の地元では、地域社会の人たちの避難先が多方面にわたり、方言の語彙で消滅する恐れがあるものがいくつもあるということを、東北大学の研究者が調査して、危惧しています。

 私たちの日常生活は方言の上に成り立っています。語彙は共通語と同じものをたくさん使っているでしょうが、音韻(発音)、文法、アクセントなどは、その地域がはぐくんできたものからは抜け出すことが難しいでしょう。それが、その地域の言葉の個性です。語彙も発音もアクセントも、共通語になびく必要はありません。文法ですら、共通語とは異なる特徴を備えていることもあるのです。

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2018年6月22日 (金)

地域の言葉について思うこと(2)

「真逆」という言葉

 

 私は、新しい言葉に抵抗感を示すことが多いのですが、「真逆」という言葉は少し違ったとらえ方をしています。

 何年か前の文化庁の「国語に関する世論調査」の結果などによると、今では「真逆」は「正反対」をしのぐ勢いなのだそうです。「真逆」を一語であるとすると、訓読み(「ま」)と音読み(「ぎゃく」)が交ざった湯桶読みをする言葉です。

 関西では一音節の言葉を長音にする傾向が強くて、「真」は、しばしば「まあ」となります。「まあ後ろ」「まあ前」とか「まあ東」「まあ西」と言います。(「まん前」というような言い方もないわけではありません。)その場合、「まあ後ろ」の「まあ」と「後ろ」は密接な一語になっているという印象ではなく、「まあ」と言って瞬間的な呼吸を置いてから「後ろ」にかかっていく、修飾語のような働きをしているように感じられます。

 例えば「まっ正面」は一語になってしまっているように感じますが、「まあ正面」は、「正面」を「まあ」が修飾しているように感じるのです。「真逆」にあたる日常語は、私の感覚では「まあ反対」であって、これも一語に熟してしまっているようには感じません。また、「まあ逆」と言っても違和感はありません。

 「真逆」と文字に書くことと、「ま逆」という共通語の発音と、「まあ逆」という長音化した日常語の使い方とは、それぞれ異なった印象を受けるのです。「まあ逆」は滑らかな響きを持つ言葉であると思います。

 言葉にも、地方分権的な視点を持つことは大切なことだと思います。

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2018年6月21日 (木)

地域の言葉について思うこと(1)

「ん」で始まる言葉

 

 大型であれ小型であれ、国語辞典に収められている言葉の最初の見出しは「あ」です。「あ」の見出しで並んでいる言葉は、感動詞の「あ」や、造語成分の「亜」や「阿」などです。

 それでは、国語辞典に収められている言葉の最後の見出しは何かといえば、辞書によって異なるでしょうが、「ん」で始まる言葉であることに間違いはありません。

 私は、仕事の必要から、十種類以上の国語辞典を手元に置いておりますが、改訂のたびごとに新版を買い求めることはできません。『広辞苑』は第4版のままです。その版の最後の見出しは、「んとす」であって「終りな-」という用例が載っています。まさに一冊の辞典が終わりなんとしている場所に置かれた用例です。その版では「ん」ではじまる見出しは、「ん」(4項目)、「んす」、「んとす」の合計6項目です。

 『広辞苑』はこの度、第7版が刊行されて、さまざまなことが話題になっていますが、最後の見出しは「んぼう」になりました。「赤-」などという言葉の造語成分です。今後、これより後の見出しが誕生するかどうか、興味がわくところです。

 もっとも、『新明解国語辞典・第4版』には、既に「んぼ」の見出しがあって、「甘え-」「おこり-」「立ち-」「けち-」「隠れ-」などの用例がどっさり載っています。

 極めつきは『三省堂国語辞典・第3版』の「んんん」という感動詞で、〔ひどくことばにつまったときの声。〕という説明がされています。

 国語辞典の最初と最後の言葉が感動詞であるということには納得しますし、そこまで言葉を拾い上げた辞書編集者に感服します。

 感動詞は、話し手の感動を表したり、呼びかけ、応答、掛け声、挨拶などに使われたりする言葉ですから、感動詞の語数は広がっていく可能性があります。

 さて、全3冊の『日本方言大辞典』は全国各地の方言を集めたものですが、「ん」で始まる見出しには、沖縄の言葉を中心にして百八十余があげられています。兵庫県にも関係がありそうな言葉をあげると、打ち消しの過去を表す「んかった」、ある動作をしなければならないということを表す「んならん」、尊敬の意味を表す「んす」、などです。私が勝手に用例を作り上げれば、「昨日はテレビを見んかった。」「明日は神戸へ行かんならん。」「事務所におりんすのは、どなたですか。」というようになります。方言辞典には「んんん」の見出しが現れないというのも面白いことです。

 ちょっと話が広がりますが、朝日新聞・大阪本社版の夕刊に「勝手に関西遺産」という企画があって、関西特有の言い回しなど、言葉の話題も積極的に取り上げています。かつて取り上げられていたのに「んなあほな」という言葉があります。

 上方落語協会の情報誌のコラムに「んなあほな」というタイトルがあるのだそうです。真面目な人が反論するならば、その言葉は「そんな阿呆な」という発音が崩れたに過ぎないということになるでしょう。けれども、関西の言葉では「そんな」ではなくて、実際の発音は「んな」になっていることは否定できません。

 この記事では、「いきなり『あほな』はキツいけど、前に『んな』って付けると、ノリツッコミのようになるんじゃないかなあ。」というコメントも紹介されています。

 関西では「んな」という連体詞が面白い味わいを出しています。「んなこと言われても、何ともならん。」とか、「んな話やったら、わしも一口乗りまっせ。」などと言います。理屈を言えば、共通語の「そんな」という形容動詞の「そ」が抜け落ちたに過ぎないということになるのかもしれませんが、そこまで言うと、関西言葉の味わいにケチをつけることになってしまいます。

 例えば、応答のときに使う言葉の「うん」は、「うん」という発音もしますが、人によっては、あるいは場合によっては、はっきりと「ん」とか「んん」と発音することがあります。鼻音の発音です。感動詞の「ん」は、文のはじめに出てきますから、「んなあほな」と言うのと似た性格をそなえています。

 私は今、『明石日常生活語辞典』を作っていますが、「ん」で始まる語を取り上げています。目立たせようとして積極的に取り上げたわけではありません。自然とそのように発音する言葉があるからです。例えば、名詞の「んま()」は「うま」と言う方が多いでしょうが、「んま」もきちんと残っています。打ち消しの意味の助動詞の「ん」は、例えば、「明日は行かつもりや。」などと言って、「ん」以外の何ものでもありません。格助詞(準体助詞)の「ん」は、例えば「その本はわし()や。」と言います。「わしのや」とか「わしのんや」とも言います。

 『明石日常生活語辞典』では、やや複合的な言葉も含めると、二十語ほどを、「ん」で始まる見出し語として取り上げています。

 

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