2018年2月19日 (月)

奥の細道を読む・歩く(266)

弥陀ヶ原から山頂へ

 

 「八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏でのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶、身こゞえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。

 谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に劍を淬とかや。干將・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜の、つぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花、爰にかをるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々、短冊に書。

   涼しさやほの三か月の羽黒山

   雲の峯幾つ崩て月の山

   語られぬ湯殿にぬらす袂かな

   湯殿山銭ふむ道の泪かな  曾良 」

 

 八合目という言葉からは、山頂は近いような印象を受けますが、山頂までは6㎞近い石ころ道を登らなければなりません。芭蕉は「木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏でのぼる」と書き、その距離を「八里」としていますが、それは月山八合目よりはずっと下からの距離です。それにしても「日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶、身こゞえて頂上に」着くことになるでしょう。月山は盛夏でも雪が残っているところがあるのです。

 駐車場のあるところから石段を登ると、そこからは弥陀ヶ原の湿原が広がっています。しばらく行くと御田原参籠所があり、月山中ノ宮があります。このあたりでは、団体で訪れている白装束の参拝者をたくさん見かけます。参拝を済ませて出発すると、ちょっと雨模様になりました。

 広い湿原ですが、木道や細い石ころ道を進みます。この湿原を一周して観察する道も作られていますが、そんな時間の余裕はありませんので、月山山頂への道をたどります。

 黄色いニッコウキスゲ、紅紫色のハクサンチドリをはじめいろんな花が目を楽しませてくれます。あちこちに小さな池もあります。小さな石が凸凹に敷かれているのを踏み、右へ左へ身をよじらせて、大きな石は迂回しながら、ゆっくり登っていきます。小雨が霧に変わり、それが止んでも、なかなか青空にはなりません。

 参籠所のあたりから1時間余りして、やっと鳥海山が、雲の間から見えるようになりました。姿の美しい鳥海山も山頂の辺りには、雪の縦縞が見えます。こちら月山も、目の下に雪が残っている部分があります。そうこうしているうちに道が雪の下に消えています。ここは雪の上を歩きます。大勢がここを歩いていますから雪が黒く見えるところがあります。このあたりは背の低い灌木だけになって、見晴らしが良くなりました。

 ようやく月山九合目に着き、仏生池小屋で休憩し昼食をとります。標高1743メートルと書いてあります。頂上までの道のりの半分が終わったのですが、予想していたよりも時間が速く過ぎています。とはいえ、疲労回復のためにゆっくりと食事をします。

 ハクサンシャクナゲの白い花が目立つようになりました。小さなイワウメも咲いています。オモワシ山の麓を経て、行者返しをかきつくように登り、また木道を歩いたりします。山頂が近付くと、また雪の上を歩きます。少しずつ溶けている雪ですから、洞穴のようになっいるところもあります。山頂の堂宇見えるようになって、やっと月山山頂に着きます。登ってくる途中は人をあまり見かけなかったのですが、山頂の周りには大勢の人たちが休んでいます。

 月山神社に参拝します。拝観料(お祓い料)を払うと、お祓いをしていただいて、登拝認定証をいただけます。「あなたは、標高1984mの出羽三山の主峰月山を踏破し月山頂上鎮座、月山神社本宮を参拝されました。其の健脚を称え、ここに認定証を授与します。」と書いてあります。八合目からは、歩く以外の方法はないのです。頂上の境内をぐるりと一周しますが、ここは撮影禁止になっています。

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2018年2月18日 (日)

奥の細道を読む・歩く(265)

月山を目指す

 

 芭蕉の旅は馬や舟に助けられることはありましたが、それ以外は自分の足で歩いています。芭蕉に比べると軟弱な現代人である私たちは、月山八合目まではバスで行きます。羽黒山から月山まで歩くのは、登山を専門にしている人たちぐらいなものでしょう。

 宿を出ると、近くに芭蕉出羽三山句碑があります。「涼しさやほの三か月の羽黒山」「雲の峯幾つ崩て月の山」「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の3つの句が、ひとつの碑に刻まれています。このあたりにはいくつもの宿坊が並んでいます。宿坊が受け入れる人は、地域ごとに分かれているのでしょうか、「青森県全域、岩手県九戸郡・久慈市・二戸郡・二戸市・旧東磐井郡 受持宿坊」などという看板を見かけたりします。

 そこからしばらく歩くと、羽黒山随神門に着きます。随神門から羽黒山頂へは長い石段が続いているのですが、石段で疲れてしまってはいけません。羽黒随神門前のバス停から、石段からは離れて走る羽黒山頂行のバスに乗ります。そして月山八合目行のバスに乗り継ぐのです。

 この旅に出発する前に、バスのことが心配になりました。もしも満員で乗り切れなかったらどうなるのかと、庄内交通バスの案内所に電話で問い合わせたところ、そんな事態は起こりませんとの返事でした。月山を目指す乗客は、私たち以外は数人でした。朝一番のバスであったからかもしれません。

 バスは、羽黒山頂近くの休暇村やビジターセンターの前には停まりましたが、そこから先は八合目終点まで乗降するところはありません。けれども、運転手は無線で連絡を取りながら、まるで列車のように、月山四合目(強清水)や月山六合目(平清水)を通過する時刻をきちんと守って走っています。狭い登山道路ですから、八合目から降りてくるバスとすれ違うところが設定されているのです。

 四合目、六合目と高くなるにつれて、霧が深くなったり晴れたりします。

 冷気に包まれた月山八合目に着いたのが、ちょうど9時です。駐車場が設けられ、ここから先は車は入れません。磐梯朝日国立公園・月山八合目という石碑もありますし、環境省や山形県が立てた案内板などもあります。

 いよいよ山登りです。ここから先、月山山頂を経て湯殿山神社までは、自分の足以外に交通機関はありません

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2018年2月17日 (土)

奥の細道を読む・歩く(264)

ドレミファそら日記(49)     2017年7月24

 

0916分 東海道新幹線、新大阪駅発。ひかり514号・東京行。

1210分 東京駅着。

1240分 上越新幹線、東京駅発。Maxとき321号・新潟行。

1450分 新潟駅着。

1508分 JR白新線、新潟駅発。いなほ7号(秋田行)(時刻表では1501分発)

1820分 鶴岡駅着。(時刻表では1651分着)

1837分 庄内交通バス、鶴岡駅前発。羽黒随神門行。

1911分 羽黒荒町着。

1915分 多聞館着。

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2018年2月16日 (金)

奥の細道を読む・歩く(263)

羽黒山の麓

 

 「奥の細道」は、立石寺、大石田、最上川、羽黒山、月山、湯殿山という順で歩いています。私たちもなるべくその順序で辿りたかったのですが、月山と湯殿山は標高も高く、夏の間しか登ることができません。バスが運行される期間が限られています。後回しにしていた出羽三山を、7月下旬に敢行することにしました。

 芭蕉が羽黒や月山に泊まったのは、旧暦6月3日から9日まで、この年の旧暦を新暦に直すと、7月19日から25日までです。当時の山登りにどのような制約があったのかはわかりませんが、出羽三山にさしかかったのは、山に登るのに望ましい時期でした。羽黒では幾夜も泊まっていますが、月山と湯殿山を歩いた途中は、月山で1泊しているだけです。

 3泊4日の私たちの計画は、羽黒山麓、湯殿山参籠所、鶴岡市内にそれぞれ1泊です。関西から鶴岡を往復するのにはずいぶん時間がかかります。東海道新幹線、上越新幹線を経て、新潟から在来線の特急を利用しますが、その移動だけでほぼ一日が必要です。

 ところで、山に登るための装備は、特別なことはしません。これまでの旅支度に、防寒の要素を少し加えるという程度です。芭蕉が登ったのだからと高をくくっているわけではありませんが、この時期は登山者とともに修行のために山へ行く人も多いはずです。日程的に少し苦しいことは覚悟の上で、月山から湯殿山へのルートを辿るつもりです。

 「奥の細道」は、「六月三日、羽黒山に登る。…」という文章と、「八日、月山にのぼる。…」という文章に分かれていますが、私たちは月山・湯殿山を歩き終えてから羽黒山上に立ち寄るつもりですから、「奥の細道」の引用も逆転させます。

 前日までの強雨の影響だと思いますが、羽越線の特急が、新潟を出たところでのろのろ運転や停車を繰り返しましたので、鶴岡からのバスに遅れはしまいかとはらはらしたのですが、なんとか間に合いました。

 鶴岡駅前から羽黒までのバスは45分ほどですが、山深いところを走るわけでもなく、ごく普通の田園や集落を縫って、羽黒荒町に着きます。泊まるのはかつて宿坊であり、今は旅館となっているところです。車中で一日を過ごしましたが、2日目からが山登りになります。

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2018年2月15日 (木)

奥の細道を読む・歩く(262)

ドレミファそら日記(48)     2017年6月29

 

0800分 東横イン敦賀駅前発。

0815分 笙の川・三島橋。

0830分 来迎寺。(0845)

0855分 神明社、石田波郷句碑。

0905分 気比海岸。

0915分 気比の松原、高浜虚子句碑。(0930)

0955分 敦賀港、州崎の高灯籠。

1010分 小公園で一休み。

1025分 芭蕉翁月塚。

1035分 旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)(1050)

1055分 人道の港敦賀ムゼウム。(1120)

1125 金ヶ崎宮。(1135)

1135分 金前寺。(1145)

1205分 気比神宮。(1245)

1245分 お砂持ち神事の像。

1255分 西方寺跡。「奥の細道」碑。

1320分 「建」で昼食。(1350)

1423分 JR北陸線、.敦賀駅発。新快速・姫路行。

1628分 大阪駅着。

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2018年2月14日 (水)

奥の細道を読む・歩く(261)

気比神宮

 

 「その夜、月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すゝめられて、けひの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂、霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかわかせて、参詣往来の煩なし。古例、今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍ると、亭主のかたりける。

    月清し遊行のもてる砂の上

 十五日、亭主の詞にたがはず、雨降。

    名月や北国日和定なき 

 

 海岸の地域を離れて、鉄道の引き込み線を渡ってから、金ヶ崎城跡の方へ歩き、石段を上って金崎宮へ詣ります。金ヶ崎城は戦国の世の、信長・秀吉・家康の頃に歴史に登場しますが、時代の流れの中で今、金崎宮は難関突破と恋の宮という役割を果たしているのだそうです。そして、下って金前寺へ行きます。境内の一画に芭蕉翁鐘塚があり、「月いづく鐘は沈める海の底」の句が刻まれています。南北朝時代、敗れた南朝軍の陣鐘が海に沈み、海士に探らせたが引き揚げることができなかったという伝説に基づく句です。

 少し歩くと気比神宮に着きます。芭蕉は名月の前日の夜に参詣しています。「けいさん」と親しまれる神宮は702(大宝2年)の創建で、北陸道の総鎮守です。正面の木造大鳥居は美装化工事中で囲まれてしまっています。これ一つの工事で1億円を超える事業費だそうですが、その下をくぐって境内へ入ります。

 境内にある芭蕉の像は、笠を胸の前に持って、右手でしっかり杖をついて歩み出している、力強い姿です。横から見ると、大きな袂の僧衣で、視線ははるか前方に向かっています。像の台座に刻まれている句は「月清し遊行のもてる砂の上」です。「芭蕉翁月五句」というのも刻まれていて、「名月や北国日和定なき」も並んでいます。一つ一つの独立した句碑も建てられています。

 「月清し遊行のもてる砂の上」は、気比神宮の周辺が泥沼になって参詣者が難儀をしているのを見て、行脚中の二世の遊行上人が浜から砂を運んで参道を設けたという故事に因んで、代々の遊行上人は気比を訪ね境内に砂をまくのが慣わしになったというが、その砂の上を月光が清らかに照らしている、という意味です。芭蕉はここへ来てはじめて、遊行の砂持ちの由来を聞いています。

 翌日の中秋の名月の日は、雨で、「名月や北国日和定なき」と嘆いています。見られなかった名月を詠み込むのも一つの風雅ということでしょうか。

 気比神宮の境内は、本殿、摂社、末社、古殿地、旗掲松などを見て回りましたが、奥の細道三百年記念献句というのが板に書かれて掲げられているのも見ました。もとの鳥居をくぐって出て、道路を渡ったところに、遊行の砂持ちの像が設けられています。二人で棒を肩に掛けて砂を運んでいる像と、砂を掘っている像とがあります。二人の像は、前は上人で、後ろは手伝っている人物のようです。

 駅に向かって戻る途中で、西方寺跡に、奥の細道の敦賀の文章を刻んだ碑がありました。

 

 「十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云もの、破籠・小竹筒など、こまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法華寺あり。爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ感に堪たり。

    寂しさや須磨にかちたる浜の秋

    浪の間や小貝にまじる萩の塵

 其日のあらまし、等栽に筆をらせて寺に残す。」

 

 前述のように、種の浜へは行きませんでしたので、この一節については後日の楽しみとしておきます。

 

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2018年2月13日 (火)

奥の細道を読む・歩く(260)

鉄道資料館と人道の港ムゼウム

 

 日本海有数の港町だった敦賀は、「だった」と書くのが辛いほど、交通の要衝として歴史の流れを見つめてきた町です。金ヶ崎地区には、赤煉瓦倉庫をはじめとして、歴史の息遣いを感じます。「奥の細道」からはるか後のことですが、是非とも見学したいところです。

 とんがり屋根で、可愛らしい感じのする建物ですが、近づくと歴史を感じさせる敦賀鉄道資料館には、明治・大正・昭和・平成の鉄道の歴史が展示され、鉄道ファンの私には楽しい場所です。時刻表、切符、服装、鉄道部品の実物や、模型、映像、解説板などで埋め尽くされています。敦賀に、日本海側初の蒸気機関車が走ったのは1882(明治15)でした。

 敦賀鉄道資料館は、旧敦賀港駅の駅舎です。もとの駅名は金ヶ崎駅で、1882(明治15)3月に敦賀への鉄道が開通したときに作られました。

 今では想像もできないことでしょうが、1902(明治35)に、敦賀からロシアのウラジオストクへの直通航路が開かれています。1904年にシベリア鉄道のウラジオストク~モスクワ間が全線開通し、ヨーロッパ各国との交通網と接続しました。従来のヨーロッパへの航路に比べて大幅に短縮され、新たな幹線として期待されたのでした。1912(明治45)からは、東京・新橋と金ヶ崎との間に欧亜国際連絡列車が運行されました。

 大正に入ってすぐに、鉄道桟橋に金ヶ崎駅を移転し、もとの金ヶ崎駅が敦賀港駅となったのです。

 少しだけ離れたところに人道の港敦賀ムゼウムがあります。敦賀港には1920(大正20)に、動乱のシベリアで家族を失ったポーランド孤児が上陸しています。2年後までに合計763人にのぼったと言います。

 1940(昭和15)にはユダヤ人難民が上陸しています。リトアニアの日本領事館にビザを求めた人たちが押し寄せ、杉原千畝領事代理は外務省に背いてビザ発給を決断します。ビザを手にして敦賀港に上陸した難民はおよそ6000人にのぼります。杉浦千畝のことはしだいに広く知られるようになりましたが、その功績の大きさはもっと認識されなければならないと思います。

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2018年2月12日 (月)

奥の細道を読む・歩く(259)

気比の松原に向かう

 

 敦賀駅から北西の方角に向かい、白銀広場を通って、まずは気比の松原に向かいます。少し距離がありますから、急がずに歩を進めます。笙の川に架かる三島橋を渡って、少ししてから見当をつけて右折し、海岸の方向に歩きます。

 最初に立ち寄ったのは来迎寺です。「芭蕉翁 遊行の砂持ち 神事」という石柱があって、「月清し遊行のもてる砂の上」という句も彫られています。古い伽藍ですが、人もなく静まっています。この寺には敦賀城中門が移築されています。

 出発してから1時間ほどして、海岸に出ました。松原公園という石碑も立っています。この松原は南北は400メートルほどですが、東西は1500メートルにもなります。もともとは気比神宮の神苑でもあったようです。もとは76ヘクタールあったのが、学校用地や道路に使われたりして、現在は32ヘクタールに半減していると言います。黒松が主に海岸沿いに、赤松が主に内陸側に生えており、赤松の割合が高くなっています。

 海岸に出ると、敦賀湾の左手に色の浜(種の浜)から敦賀原発のある辺りが広がっています。芭蕉は舟で種の浜に出かけたのですが、マイカー時代はバスの便が極端に少なく、行って帰るだけに一日を充てなければなりませんから、今回は諦めました。

 高浜虚子の句碑などを見たりしながら、広い気比の松原の中を西に向かって歩き、駐車場のようになっている辺りで引き返します。

 気比の松原からは、東に向かって海岸に近いところを歩いて、洲崎の高灯籠、みなとつるが山車会館、萬象閣跡などの辺りをたどります。

 市民文化センターの前に、芭蕉翁月塚があって、「国々の八景更に気比の月」の句が刻まれています。あちこちの国を巡って八景と賞される美しい景色を見てきたが、更にこの地で気比の月を眺めることだ、という意味です。敦賀で名月を眺める期待を高めているのです。

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2018年2月11日 (日)

奥の細道を読む・歩く(258)

ドレミファそら日記(47)     2017年6月28

 

0740分 東横イン福井駅前発。

0800分 越前北ノ庄城址、柴田公園、柴田神社。(0815)

0820分 足羽川・幸橋。

0825分 左内公園。洞哉宅跡。

0840分 顕本寺。

0850分 西光寺。

0910分 橘曙覧記念文学館。(0930)

0949分 福井鉄道、足羽山公園口駅発。普通・越前武生行。

0958分 ベル前駅着。

1010分 玉江の郷。(1015)

1028分 福井鉄道、ベル前駅発。普通・越前武生行。

1036分 浅水駅着。

1045分 朝六つ橋。(1050)

1106分 福井鉄道、浅水駅発。普通・越前武生行。

1136分 越前武生駅着。

1210分 札の辻。

1210分 蔵の辻。(1220)

1228分 越前市市民バス、蔵の辻発。西ルート。

1246分 紫式部公園着。

1250分 紫式部公園。(1310)

1310分 藤波亭で昼食。(1350)

1358分 越前市市民バス、紫式部公園発。西ルート。

1419分 武生駅前着。

1431分 JR北陸線、武生駅発。普通・敦賀行。

1440分 湯尾駅着。(1445分、峠に向かって歩き始める。)

1505分 湯尾谷川を渡る。

1520分 湯尾峠への登り口。

1525分 馬の水飲み場。

1530分 峠御膳井跡。

1535分 湯尾峠。孫嫡子神社。(1605)

1620分 湯尾峠登り口。一里塚跡。

1645分 今庄宿、矩折(枡形)

1655分 京藤甚五郎家。堀口酒造(鳴り瓢)

1700分 若狭屋(旅籠)

1705分 明治天皇行在所。昭和会館。

1720分 今庄宿(京都側入口)。折り返して、細い道へ。

1730分 JR今庄駅。

1745分 芭蕉句碑。山本周五郎文学碑。D51機関車。

1800分 再び、今庄駅。

1822分 JR北陸線、今庄駅発。普通・敦賀行。

1836分 敦賀駅着。

1845分 東横イン敦賀駅前着。

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2018年2月10日 (土)

奥の細道を読む・歩く(257)

今庄の芭蕉句碑

 

 先ほどの街道筋には「鳴り瓢」という造り酒屋がありましたが、引き返して歩く細い道沿いには「白駒」という酒屋があります。

 いったん今庄駅に着いて、鉄道の時刻などを再確認してから、線路の向こう側に行こうと考えます。ただし、駅は通り抜けられませんから、少し戻って、陸橋で線路を越えます。ちょうど駅の裏側に当たる位置に、南越前町の今庄総合事務所があって、そこに芭蕉句碑があるのです。

 句碑には「義仲の寝覚の山か月かなし」が刻まれています。木曽義仲が籠もって、平家に攻められた古戦場が燧が城です。今庄宿の背後にある愛宕山にあった小高い山城です。ここに平家の10万の大軍が押し寄せたと言います。この句は、義仲が夜半の寝覚めに眺めた山がここであると思うと、月も悲しげに感じられる、という意味です。義経や義仲に対して、芭蕉は深い愛着を抱いているようです。

 芭蕉の句碑の近くには、「虚空遍歴」の跡を訪ねて、という山本周五郎の文学碑も建てられています。

 ちょっと離れたところにD51が保存されています。手入れが行き届いていて、現役であるかのように感じられます。今は北陸トンネルが貫いていますが、かつての敦賀~今庄間は、北陸線随一の難所です。そこを、時には三重連で列車を牽引した機関車です。蒸気機関車は全国のあちこちで保存されていますが、地域の発展に寄与してくれたという思いの強さが、保存へとかき立てるのでしょう。

 敦賀~福井間の開通は明治29年で、明治天皇の北陸巡幸は明治11年のことでした。

 敦賀の宿で見た夜のテレビで、「福井地震69年 体験を語り継ぐ」というニュースが流れていました。

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2018年2月 9日 (金)

奥の細道を読む・歩く(256)

湯尾峠を越える

 

 湯尾駅で敦賀行き電車を降りたのは私たち二人だけでした。この駅から湯尾峠を越えて今庄の町へ歩きます。湯尾駅のホームには10センチ刻みの物差しが立てられていますが、冬には雪がかなり積もるのでしょう。湯尾駅と今庄駅の間にはトンネルになっていますが、そのトンネルの上に湯尾峠があります。

 このあたりの国道は305号と365号の併用となっているようで、そのような標識が立っています。集落を通って、小さな湯尾谷川を渡って、湯尾宿高札場跡や明治天皇湯尾御小休所を過ぎると、湯尾峠入口という小さな木柱があります。

 こんなところにも「クマ出没注意」の警告が出ていますが、草に覆われた道を登っていくと、血頭池があります。南北朝時代の合戦場です。熊の脅威は感じません。馬の水飲み場や、峠ご膳井跡などを過ぎると、意外に早く峠の頂上に着きます。峠入口からわずか15分ほどです。

 「月に名を包み兼ねてやいもの神」の芭蕉句碑があります。いもの神とは疱瘡の神で、疫病神です。湯尾峠の茶店では疱瘡(天然痘)除けのお守りが売られていたと伝えられています。この句は、いつもは人目を避ける「いもの神」も月の下では隠しきれないのか、名を表に出している、という意味です。

 峠の右手の小高いところに孫嫡子神社があり、左手を少し上っていくと湯尾城址がありますが、木柱が立っているだけです。この峠にも明治天皇御小休蹟という石柱が立っています。鉄道開通前に全国を巡幸した明治天皇の旅は大変なことであったのでしょう。

 峠からは前方に今庄の町が見えます。登りと同じような坂道を下っていくと、途中に一里塚跡の木柱がありますが、塚の面影はありません。線路際まで下りてくると、北陸線を駆け抜ける特急に出会います。

 今庄宿の入口で道がカーブを描いているところは枡形(矩折)です。ここから街道の古い町並みが始まります。今庄宿プロジェクトと書いて、古い民家に手を加えている現場があります。問屋場跡を過ぎたところに、塗籠の外壁に越前瓦の古民家・京藤甚五郎家があります。造り酒屋、旧旅籠屋(若狭屋)、明治天皇今庄行在所、脇本陣跡などを通って、上木戸口(宿場入口)まで来ましたので、別の細い道を引き返してJRの今庄駅に向かうことにします。

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2018年2月 8日 (木)

奥の細道を読む・歩く(255)

武生と紫式部

 「奥の細道」に出てくる次の地名は「鶯の関」です。どこにあったのかは諸説があるようですが、武生と湯尾峠の間にある関の原というところだという説もあります。芭蕉は武生のことは何も書いていませんが、せっかくだから、私たちは武生の紫式部公園に立ち寄ることにします。

 武生は今立町と合併して、越前市になっています。越前和紙、打刃物、箪笥などで知られています。歴史の古い町ですから武生の市名が消えたのは残念ですが、駅名は武生のままです。

 バスを待つ間に、越前府中札の辻や、白壁の蔵に囲まれた「蔵の辻」のあたりを巡ります。紫式部の歌を刻んだ碑も建っています。そして、蔵の辻から市民バスで紫式部公園に行きます。

 紫式部が越前国司に任ぜられた父とともに武生に来たのは996(長徳2年)で、都人にとって北陸の季節や風土を体験することは厳しいものがあったかもしれません。

 公園は、寝殿造りを模した敷地に池や築山を配して、伸びやかな空間になっています。紫式部像は日野山に向かって建てられています。十二単衣を着て桧扇をかざし、長い髪が背中に伸びています。金色に輝いているのは、ちょっと目立ちすぎだという気がしないでもありません。周りには谷崎潤一郎揮毫の紫式部歌碑、円地文子揮毫の碑などがあります。谷崎も円地も源氏物語の現代語訳を行った作家です。

 池の畔には再現された釣殿があります。月の出ている夜の公園も趣が深いだろうと思いつつ、日野山を借景にした公園をあとにします。

 ランチを食べたレストランには、越前和紙で手作りした紫式部の公家女房装束(十二単衣)の等身大の人形が飾ってありました。

 

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2018年2月 7日 (水)

奥の細道を読む・歩く(254)

あさむずの橋、玉江を歩く

 

 「漸、白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾峠を越れば、燧が城、かへるやまに初雁を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。」

 

 白根が嶽(白山)が見えなくなり、比那が嵩(日野山)が見え始めたと書いていますが、芭蕉は等栽と一緒に敦賀に向かっています。

 「奥の細道」は、「あさむずの橋」、玉江の順に記述していますが、手前にあるのは玉江です。福井から武生に向かう路面電車に乗ります。

 玉江について、藤原俊成は「夏刈りの葦のかりねのあはれなり玉江の月の明けがたの空」と詠んでいます。葦と月の名所として知られていたのでしょう。

 神社の境内に「玉江の郷」という石柱が建っています。この近くに玉江の橋があって、その川に生えているのが玉江の蘆です。芭蕉も「月見せよ玉江の蘆をからぬ先」と詠んでいます。この蘆が刈り取られないうちにしっかり月見をしておこうという意味ですが、芭蕉は名月を敦賀でと考えています。

 次は「あさむずの橋」です。再び電車に揺られます。駅名は浅水です。西行が橋のたもとで歌を詠んだのが朝六つの時刻だったことが橋の名の由来ですが、朝六つというのは午前6時頃です。

 細い浅水川に架けられた短い橋ですが、枕草子にも登場します。橋のそばには「朝六つ橋の碑」が建っています。碑には、「越に来て富士とやいはん角原の文殊がたけの雪のあけぼの」という西行歌と、「朝六つや月見の旅の明けはなれ」という芭蕉句とが刻まれています。芭蕉の句は、月見の旅に出て、夜が明ける朝六つの刻にこの橋を渡ることだという意味です。あるいは、明け方まで月見を楽しんだという気持ちも込められているのかもしれません。

 この橋の北には陣屋があり、橋の南には人馬継ぎ立てを行う問屋があって、宿場町として発展したところです。橋の近くには「本陣跡」の碑も建っています。

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2018年2月 6日 (火)

奥の細道を読む・歩く(253)

橘曙覧の独楽吟

 

 同じ苗字のよしみというわけでもありませんが、私は曙覧の「たのしみは」で始まり「とき」で終わる連作が大好きです。独楽吟と言われています。

 「たのしみは艸のいほりの筵敷きひとりこころを静めをるとき」「たのしみは珍しき書人にかり始め一ひらひろげたとき」「たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけしとき」「たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふとき」などの52首には、穏やかで無欲な人柄があらわれています。歌には花鳥風月を詠み込むことがごく普通であった時代に、日常生活の場面を詠んで、かえって共感を呼ぶものになっていると思います。平成天皇が米・クリントン大統領と会ったときの、「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見るとき」を用いたスピーチは、当時、話題になりました。

 館内には曙覧と子供の像や、独楽吟の情景を人形で再現したものなどがあって、彼の生活が目の前で展開しているような思いになります。

 橘曙覧は1812(文化9年)の生まれ。早くに父母と死別し、28歳で家督を弟に譲って、足羽山に隠棲し、歌と国学に打ち込んでいます。亡くなったのは1868(慶応4年)ですが、明治がスタートする年でもあります。

 折しも、明治維新を前にして、国を憂えて詠んだ和歌を紹介する企画展が開かれていました。独楽吟のイメージとは異なって、新たな時代の幕開けを待ち望んだ熱い思いを感じ取ることができます。

 後の予定との関係で、滞在時間20分ほどでしたが、他の来館者もなく、自筆資料や解説などを静かに見て回ることができて、来てよかったと思いました。

 芭蕉の旅の心も時代を超えて人々に訴えかけるものを持っていますが、曙覧の心も時代を超えて共感させられます。構えることなく、わかりやすい言葉で組み立てられた三十一音は、現代語と少しも変わらないような響きをそなえています。

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2018年2月 5日 (月)

奥の細道を読む・歩く(252)

等栽の福井

 

 福井は恐竜王国ですから、駅のベンチにまで恐竜が腰をかけています。朝の駅は忙しく人々が行き交っていますが、福井の町では訪ねたいところはたくさんありますから、私たちも足早に次々と場所を変えていきます。

 まずは駅からさして遠くない「北の庄」に向かいます。画家の平山郁夫さんは柴田勝家の末裔に当たるそうで、越前北ノ庄城址という碑文を揮毫されています。柴田神社のあたりは、石垣なども残されて、公園として整備されています。お市の方の像とともに、茶々、初、江の3姉妹の像も建っていますが、姉妹の末の江は、まだあどけない少女のおもむきです。

 福井交通の路面電車も走る幸橋を渡って、足羽川の南側に出ます。地図を頼りに左内公園を探します。ここには、幕末の福井藩士・橋本左内の墓と像があります。そして、公園の一角に「芭蕉宿泊地 洞哉宅跡」という碑があります。奥の細道の等栽という文字とは異なっていますが、当時のエピソードが紹介されています。貧しい暮らしのため、芭蕉が訪れたときも枕が無く、近くの寺院でお堂を建てていたので、頃合いの木片を貰ってきて芭蕉の枕としたという話ですが、まさに「あやしの小家」であったのでしょう。宅跡というのは大まかな推定のようです。江戸で出会って師弟関係を結んだ二人ですが、この後は敦賀まで行動を共にすることになります。洞哉宅跡の説明板の近くに、近くに「名月の見所問ん旅寝せむ」の芭蕉句碑も設けられています。

 公園の近くにある顕本寺に立ち寄りますが、ここがお堂を建てていた寺院のようです。続いて、柴田勝家、お市の方の菩提寺である西光寺に寄って、墓を拝みます。資料館には遺品が展示されているようです。

 そして、揚水ポンプ場として建てられ、今は水道記念館となっている建物の前を通って福井市橘曙覧記念文学館を探しましたが、たどり着くのにちょっと時間がかかりました。彼が住んだ「黄金舎」のあった足羽山の愛宕坂に記念館は建っています。石垣に山吹の花が咲き誇っていたから黄金舎と名付けたようです。

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2018年2月 4日 (日)

奥の細道を読む・歩く(251)

ドレミファそら日記(46)     2017年6月27

 

0900 湯快リゾート・山中グランドホテル発。

0915分 白鷺大橋。

0938分 京福バス、山中温泉しらさぎ橋発。永平寺おでかけ号。

1030分 永平寺(井の上)着。

1040分 永平寺。(1225)

1235分 「山侊」で昼食。(1310)

1331分 京福バス、永平寺発。永平寺口行。

1345分 永平寺口着。

1350分 えちぜん鉄道、永平寺口駅発。普通・福井行。

1355分 松岡駅着。

1405分 天龍寺。(1445)

1455分 えちぜん鉄道、松岡駅発。普通・福井行。

1511分 新福井駅着。

1525分 養浩館庭園。(1600)

1605分 福井市立郷土歴史博物館。(1630)

1635分 福井城趾。(1645)

1650分 東横イン福井駅前着。

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2018年2月 3日 (土)

奥の細道を読む・歩く(250)

福井の庭園を歩く

 

 「福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそかれの路、たどたどし。爰に等栽と云、古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋。遙十とせ余り也。いかに老さらぼひて有にや、将、死けるにやと、人に尋侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に、夕顔・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木々に戸ぼそをかくす。さては、此うちにこそと、門を扣ば、侘し気なる女の出て「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは、此あたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋給へ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと、裾をかしうからげて、路の枝折とうかれ立。」

 

 永平寺から福井までは3里ほどですから、3時間近く歩かなければなりませんが、芭蕉は夕飯を食べた後、黄昏の道を歩いたと書いています。日の落ちるのが早くなりつつある時期ですが、芭蕉はなかなかのことを敢行します。

 福井では等栽のことを書くのに終始しているようです。このあたりの文章は源氏物語の夕顔の巻になぞらえています。「あやしの小家に、夕顔・へちまのはえかゝりて」と述べ、「むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れ」と述べているのは意識的な表現だと思われます。等栽の「あやしの小家」に「二夜とまりて」、次は敦賀へと心がはやります。

 私たちは新福井駅から歩いて、養浩館庭園を見ることにします。養浩館庭園は、かつての福井藩主の別邸で江戸時代初期から中期にかけて造られました。池を中心にして、数寄屋造りの屋敷が設けられています。池には中島がありませんから伸びやかな水面が広がっています。その水は屋敷の建物の軒下まで繋がっていて、屋敷の中から眺めると、舟に乗っているような気持ちにもなります。鯉がすぐそこに群れ集まっています。こんな落ち着いた庭園が福井にあることを最近まで知りませんでした。

 養浩館庭園を出て、御泉水公園を横切って、福井市立郷土歴史博物館で福井の町の歴史にふれます。そして、福井城址を歩いて福井駅に向かいます。

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2018年2月 2日 (金)

奥の細道を読む・歩く(249)

扇を引き裂く余波

 

 バスとえちぜん鉄道とを乗り継いで着いた松岡駅からしばらく歩くと、天龍寺の真っ黒な山門が見えてきます。「古き因」のある大夢和尚と会うために訪れたのですが、この地に俳句が広まるきっかけになりました。山門の前にある芭蕉塚は1844年に芭蕉150回忌に建てられた者です。

 その傍らに、地元の「余波の会」が建てた、松岡天龍寺「おくのほそ道紀行」芭蕉曽遊三百二十年記念の句碑があります。住職と副住職の句も含めて19句が彫られています。

 境内には芭蕉と北枝の石像があって、余波の碑と名付けられています。やや前屈みの芭蕉の前に、立花北枝がひざまずいて扇を水平に広げて、うやうやしく持っています。芭蕉の被っている頭巾が何となく中国風に見えます。そして近くの木の陰に「物書て扇引さく余波哉」の句碑が建っています。

 夏に用いた扇が秋になって不用になりますから、「捨扇」という言葉が秋の季語になっているのですが、引き裂くほどのことをしなくてもよいでしょう。「扇引さく」は、実際に扇を引き裂いたのではなく、引き裂かれるような思いになったということでしょう。二人の像は、北枝が扇を差し出しているようにも見えますが、そうではなくて芭蕉から扇を受け取っていると見るべきでしょう。別れの思いを伝えて扇を贈るという姿です。「余波」という言葉にも、「折節あはれなる作意など聞ゆ」ことをしてくれた北枝との別れを惜しむ気持ちが込められています。

 この寺には、松岡藩主の像が安置された御像堂がありますが、禅宗のお寺ですから坐禅をするお堂も建てられています。

 松岡駅から再び、えちぜん鉄道に揺られて、新福井駅に向かいます。なお、本文に「丸岡天龍寺」とあるのは、松岡へ行く途中に丸岡というところがあるので混同したのだろうと言われています。

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2018年2月 1日 (木)

奥の細道を読む・歩く(248)

形あるものは変わっていく

 

 参拝券を買い求めて、建物の中に入ります。参拝者が集められて、流れ作業のように、まず全体的な説明を聞きますが、あとは三々五々に歩を進めていきます。傾斜の付いた廊下は写真などでなじみの景色です。

 展示物や絵天井の間などがある傘松閣を通ってから、修行道場としての七堂伽藍が始まります。文殊菩薩が安置されている僧堂は、坐禅のできる席が設けられています。お釈迦様が祀られている仏殿には、正面上に「祈祷」の額が掲げられています。法堂は、説法などが行われる場です。道元のご真廟である承陽殿は、曹洞宗の聖地のようなところです。食事を調えるところである大庫院を過ぎると、大きな擂り粉木が吊されています。私語せず沐浴することになっている浴室は、身も心も清浄になるになるための修行の場です。

 寺の表玄関である山門は、七堂伽藍の中では最も古い1749年の造立だと言います。ということは、芭蕉が訪れた頃の建物は残っていなくて、すべては次々と建て替えられているということです。人々が次々と命をつないでいくのと同様に、伽藍なども継いでいっているのです。精神や教えは変わらずとも、形あるものは流転しています。

 私たちは芭蕉の旅に少しでも近づきたいと思っているのですが、自然の悠久さに比べて、人事のはかなさを感じざるをえません。芭蕉も、西行などの足跡をたどりつつも、その変化を感じていたことでしょう。

 祠堂殿などを通ってから、外に出ます。それにしても、ここは大きな木々に囲まれた深山です。人々は観光地と同様に訪れていますが、寺の内外が俗塵に流されないようにと思わざるを得ません。

 龍門の近くに「本山元標 距福井停車場四里」という大きな石柱が建っていて、ここには近代の香りがします。そうか福井駅まで16㎞程かと、我に返ります。

 永平寺から福井駅までの直行バスもあるのですが、私たちは天龍寺に寄るために、松岡駅に向かいます。

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2018年1月31日 (水)

【掲載記事の一覧】

 『明石日常生活語辞典』の連載は終了しました。全体の加筆・修正を行い、2019年には出版するつもりです。折しも2019年は明石市が市制を施行してちょうど100年の節目に当たります。

 「奥の細道を読む・歩く」の連載を再開しました。毎日、掲載をするつもりですが、たぶん3月頃まで続くと思います。

 「言葉と言葉」という連載をしようと計画しています。当面は、ときどき、「奥の細道」と併載するつもりです。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでに連載した内容の一覧を記します。

 

◆奥の細道を読む・歩く ()(247)~継続予定

    [2016年9月1日開始~ 最新は2018年1月31日]

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(2605)

    [2009年7月8日開始~ 20171229日]

 

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-

                        ()()

    [20171230日~2018年1月7日]

 

◆ところ変われば ()()~継続予定

    [2017年3月1日開始~ 最新は2017年5月4日]

 

◆日本語への信頼 ()(261)~再開の可能性あり

    [2015年6月9日開始~ 最新は2016年7月8日]

 

◆名寸隅舟人日記 ()(16)~再開の可能性あり

    [2016年1月1日開始~ 最新は2016年4月2日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)~再開の可能性あり

    [201310月1日開始~ 最新は20131031日]

 

◆名寸隅の船瀬があったところ ()()

    [2016年1月10日~2016年1月14日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)

    [2012年9月20日開始~ 最新は2013年9月5日]

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日~2010年3月10日]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日~2011年9月13日]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日~2014年5月30日]

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日~2014年5月9日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日~2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日~2013年8月28日]

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日~20071212日]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日~2008年7月20日]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日~2009年9月10日]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日~2012年1月4日]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日~2012年5月3日]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日~2009年6月30日]

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日~20061231日]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日~2008年1月10日]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日~20061226日]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日~2009年6月4日]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日~2008年1月18日]

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日~2007年7月31日]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日~20081125日]

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日~2009年6月22日]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日~2009年5月8日]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日~2009年3月16日]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日~20081113日]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日~20081215日]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日~2007年6月30日]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日~2010年1月3日]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日~2012年7月8日]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日~2011年6月1日]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日~2014年4月12日]

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日~2008年9月24日]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日~200610月4日]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日~20061011日]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日~200611月2日]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日~2007年6月6日]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日~2007年8月10日]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日~2007年7月7日]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日~20071030日]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日~20061015日]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日~2007年8月20日]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日~2007年9月12日]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日~2007年9月29日]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日~200612月7日]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日~2007年5月7日]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日~20061222日]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日~2007年8月27日]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日~2007年8月30日]

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日~2015年3月31日]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58)

    [2015年4月1日~2015年6月23日]

 

◆奥州道中10次 ()(35)

    [20151012日~20151121日]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日~2012年9月19日]

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奥の細道を読む・歩く(247)

深山の永平寺

 

 「丸岡天龍寺の長老、古き因あれば、尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて、此処までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今、既別に臨みて、

    物書て扇引さく余波哉

 五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆゑ有とかや。」

 

 芭蕉は、汐越の松、天龍寺、永平寺の順に歩いていますが、私たちは汐越の松を既に見ておりますから、天龍寺と永平寺に行きます。しかも永平寺が先です。

 現代の交通機関を利用しますから、やむを得ない状況もあるのです。山中温泉でゆっくりした翌朝、一日にたった1本だけある、山中温泉から永平寺に向かう直通バスに乗ります。山中温泉の白鷺大橋の近くにバス停がありますが、白鷺大橋からは、昨日歩いた黒谷橋が見えます。

 国道364号を走って、石川県から福井県に入ります。沿道に「よう来なったの。福井」という看板が見えます。

 道元によって13世紀に開かれた坐禅修行の道場である永平寺は、四方を山に囲まれた幽谷の地にあります。芭蕉は「五十丁山に入て」と書いていますが、これはどこからの距離なのでしょうか。丸岡天龍寺からの距離が50町ほどになるという説があります。

 京都生まれの道元は、20代半ばで中国に渡り、帰国後、京都に寺を建てたりしましたが、越前に移って永平寺を開いたことを、「邦機千里を避て」すなわち、都に近いところを離れて、と言っているのでしょう。それにしても永平寺の記述は、心を動かされたような筆遣いにはなっておりません。

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2018年1月30日 (火)

奥の細道を読む・歩く(246)

ドレミファそら日記(45)     2017年6月26

 

0740分 JR東海道線、大阪駅発。特急・サンダーバード5号。

0959分 加賀温泉駅着。

1045分 加賀温泉バス、加賀温泉駅発。栢野行。

1127分 栢野着。

1130分 菅原神社、栢野の大杉。(1200)

1205分 栢野大杉茶屋(栢野大杉草だんご)(1220)

1230分 平岩橋。

1245分 紅葉谷橋の上。

1305分 無限庵の前。

1310分 こおろぎ橋。橋の周辺および橋の下。(1335)

1350分 采石巌。

1400分 川床のあるところ。

1405分 あやとり橋の下。

1410分 あやとり橋。

1420分 芭蕉の館。(1455)

1500分 泉屋の趾。菊の湯。

1505分 山中座(菊の湯たまご)(1515)

1520分 芭蕉句碑。

1525分 石川屋(娘娘万頭)(1540)

1545分 黒谷橋。

1550分 芭蕉堂。(1600)

1610分 医王寺。(1635)

1640分 白山大橋。 

1650分 湯快リゾート・山中グランドホテル着。

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2018年1月29日 (月)

奥の細道を読む・歩く(245)

黒谷橋から医王寺へ

 

 山中温泉は僧・行基が発見したと伝えられ、兵乱で荒廃するという憂き目に遭った時期もあるようですが、名湯として発展してきました。昭和6年に大火があって、その後は温泉街の面目を一新したようです。

 菊の湯という共同浴場がありますが、そこで温泉卵をいただきます。そして、そこからは、芭蕉の句碑を探したり、名物の娘娘万頭をいただいたりしながら、ぶらぶら歩きをします。

 芭蕉の道というところを歩いて、石で作られた黒谷橋に出ます。欄干には「此の川のくろ谷橋ハ絶景の地や 行脚のたのしみ奚にあり」という芭蕉の言葉が書かれています。この橋は、多くの人たちに見送られて芭蕉が那谷寺に向かった、別れの橋であるとも伝えられています。このあたりが、徒歩旅の頃の山中温泉への出入り口であったのでしょう。

 こおろぎ橋から黒谷橋までの鶴仙渓はおよそ1300メートルの距離です。このあたりも渓谷となっていますが、橋から下っていくと芭蕉堂があります。これは明治の末年に、芭蕉を慕う全国の俳人によって建てられたと言います。堂の中には小さな芭蕉像が、赤い布団の上に置かれています。

 黒谷橋から同じ道を少し引き返して、医王寺に向かいます。階段を上って高台に出ます。紫陽花の花ざかりです。曾良の日記によれば、芭蕉は旧暦7月28日に医王寺を訪れています。ここにも芭蕉の句碑をはじめたくさんの句碑があります。寺の裏手の墓地に泉屋・桃妖の墓があります。ご住職に案内してもらって墓を拝見すると、周孝桃妖居士・梵海潮音大姉各霊位の文字が刻まれていました。

 この後は、白山神社の前を通って、今宵の宿に向かいます。

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2018年1月28日 (日)

奥の細道を読む・歩く(244)

曾良に別れ、桃妖に別れる

 

 別れに際しての曾良の句「行々てたふれ伏とも萩の原」には、倒れ伏すまで芭蕉と一緒に旅をしたいという解釈、同じ倒れ伏すのならば萩の原でと願う解釈などがあります。しかし、それらは少し大げさな感じがしないでもありません。これからひとり旅になるけれども、病身ゆえに倒れ伏すことになるかもしれない、けれども萩の花の咲いている野原でそうなっても風流で、私にとっては本望だ、というぐらいの意味でよいのかもしれません。

 それに対して芭蕉は「今日よりや書付消さん笠の露」と詠んでいます。書付というのは笠の「乾坤無住、同行二人」の文字のことです。本来の意味は、天地の間にとどまるところはなく、仏と自分が一体となって旅をするという意味ですが、ここでは芭蕉と曾良の二人の意味に用いて、これからは二人でなくひとりの旅になるから書付を消そうというわけです。「露」は秋の季語ですが、人間関係のはかなさや、別離の涙をにおわせる言い方になっています。

 二人の別れの場面を再現した石像のある「芭蕉の館」から近いところに、芭蕉が逗留した泉屋の趾があります。宿の主人・久米之助はまだ14歳でしたが、芭蕉の俳号・桃青に因んで桃妖の俳号を貰い、のちの加賀俳壇において蕉風の発展に尽くしています。「旅人を迎に出ればほたるかな」などの句が伝えられています。

 泉屋の碑の傍に、芭蕉の句「湯の名残今宵は肌の寒からむ」が書かれています。この湯もこれが最後で、ここから余所の地へ移る今宵はさぞ肌寒く感じることであろうという意味です。「山中湯上りにて桃妖に別るゝ時」という前書きがあります。この辺りを「芭蕉の小径」と呼んでいるようです。

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2018年1月27日 (土)

奥の細道を読む・歩く(243)

延命の効能ある山中温泉

 

 白山は開山1300年になりますが、山中温泉も開湯1300年だそうです。山中は神戸の有馬温泉に次ぐ効能だと書いていますが、それは句にも響いているのです。

 「山中や菊はたをらぬ湯の匂」と言いますが、芭蕉が訪れたときは、菊の季節には少し早いようです。けれども、ここでは菊を詠み込みたかったのでしょう。

 山中は固有名詞には違いないのですが、菊の咲く山道を連想させています。菊は匂いも良く、延命の効果があると昔から言われていて、それに因んだ行事も広く行われています。菊を手折って延命を祈るというのは自然な行為なのですが、山中温泉は湯の効果が大きいので、菊を手折る必要もないという意味になっています。

 私たちは栢野から引き返して、バスで上ってきた道を離れて、大聖寺川を平岩橋を渡って反対側の道をたどります。平岩橋の名が書かれているところが、芭蕉の「かがり火に河鹿や波の下むせび」の句碑にもなっています。細い川が深い谷を作っています。

 大名書院造りの無限庵の庭園の傍を通って、こおろぎ橋へ行きます。ここは元禄時代より前から架かっている橋だそうで、総桧造りの橋は温泉客が必ずと言ってほど訪れる景勝地です。橋を渡った向こう側には、先ほどと同じ「かがり火に河鹿や波の下むせび」の句碑があります。川へ下りていく道があって、下から眺める木の橋も風雅なものです。

 いったん上がって、建物の間の道を歩きますが、しばらく行くと、鶴仙渓遊歩道というのが始まって、川の流れの傍をたどる道になります。中国風に采石巌と名付けられたところもあり、観光客向けの川床が設けられているところもあります。

 現代的な捻れた鉄骨の橋「あやとり橋」があるので、上っていってその橋を渡って、対岸に出ます。このあたりの川が道明が淵と呼ばれているところです。

 橋を渡ると、山中温泉の中心街という雰囲気になって、「芭蕉の館」があります。館の前に、芭蕉と曾良の別れの像があります。芭蕉は両腕を拡げてどんと構えて座っています。曾良は頭を下げて両手を揃えて、別れの言葉を述べているような風情です。全体が真っ白い石の像ですが、曾良の方に重量感を感じます。館内の展示室をひととおり拝見します。

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2018年1月26日 (金)

奥の細道を読む・歩く(242)

曾良と別れる山中温泉

 

 「温泉に浴す。其効有明に次と云。

    山中や菊はたをらぬ湯の匂

 あるじとする者は、久米の助とて、いまだ小童也。かれが父、俳諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて、世にしらる。功名の後、此一村、判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。

 曾良は腹を病て、伊勢の国、長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、

    行々てたふれ伏とも萩の原   曾良

と書置たり。行ものゝ悲しみ、残ものゝうらみ、隻鳬のわかれて雲にまよふがごとし。予も亦、

    今日よりや書付消さん笠の露 」

 

 「奥の細道」の足どりは、小松、那谷寺、山中温泉、全昌寺、汐越の松、天龍寺、永平寺という順ですが、今回の私たちの旅は山中温泉から始まります。3泊4日の旅を重ねるという日程を組んでいますから、順番を組み替えなければならなかったのです。全昌寺と汐越の松は既に訪れていますから、山中温泉、永平寺、天龍寺という順にたどります。

 芭蕉たちは、山中温泉に旧暦7月27日に着いて8泊もしています。新暦に直すと9月の中頃になります。泊まったのは山中の温泉宿・和泉屋で、その主人が若い久米の助です。

 山中温泉で芭蕉と曾良は別れることになるのですが、曾良は山中に着く前から健康を害していて、それは日記にも書かれています。芭蕉と曾良の人間関係の行き違いに理由を求める説もあるようですが、ここは素直に「奥の細道」の文章に従って理解しておきたいと思います。苦楽を共にした長旅も終わりに近づき、曾良は健康を害した自分が一緒にいては迷惑をかけると考えたのでしょう。金沢からは北枝が随行しているということもあって、曾良は芭蕉より先行し、伊勢の長島で病を養うことになります。

 私たちは加賀温泉駅からバスで山中に向かいます。バスは栢野行ですから、山中温泉の中心街を通り過ぎて、終点まで行きます。栢野からゆっくり道を下って山中まで歩こうという計画です。

 天然記念物である栢野の大杉は樹齢2300年と伝えられています。幹の周りが11.5メートル、高さは55メートル。群立していないのに空を覆わんばかりです。石柱には「天覧の大杉」とありますが、昭和2210月に行幸がありました。

 浮橋参道を歩くと、その先に菅原神社があります。路傍にある栢野大杉茶屋で草だんごをいただいてから、山中温泉に向かって下ります。

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2018年1月25日 (木)

奥の細道を読む・歩く(241)

ドレミファそら日記(44)     2017年5月25

 

0600分 アパホテル小松発。

0630分 小松天満宮。(~6時45)

0655分 葭島神社。

0725分 アパホテル小松着。

0845分 アパホテル小松発。

0900分 JR北陸線、小松駅発。普通・福井行。

0930分 大聖寺駅着。

0940分 全昌寺。(1045)

1115 加賀温泉バス、大聖寺駅前発。塩屋行。

1132分 吉崎着。

1220分 汐越の松(芦原ゴルフ場内)(1255)

1341分 加賀温泉バス、吉崎発。加賀温泉駅行。

1358分 大聖寺駅前着。

1431分 JR北陸線、大聖寺駅発。普通・福井行。

1500分 福井駅着。

1543分 JR北陸線、福井駅発。特急・サンダーバード30号。

1736分 大阪駅着。

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2018年1月24日 (水)

奥の細道を読む・歩く(240)

越の松とは、どれなのか

 

 係の人に案内されて、ゴルフクラブに来ている人たちを横目に海岸に向かって歩きます。ここから先は自分で行くようにと指示をされてから、しばらく歩くと松林の向こうに真っ青な海が見えてきます。段丘になっていて、海からは高い位置であることがわかります。

 海岸に近づいたところで左に折れて少し行くと、「奥の細道汐越の松遺跡」という石柱があり、木の札も立っています。右横の小さな祠には仏像がおさまっています。

 碑の向こうに、枯れた古い木が横たえられています。木と言っても残骸のようなものです。松の木はたくさん立ち並んでいるのですが、わざわざ朽ちた古木が横たえられているということは、これが汐越の松だという意思表示のように思われます。

 ただし、汐越の松は、一本の松のことなのか、数本あるいは数十本の松のことなのか、いろいろな説があるようですが、特定の一本というわけではないようです。西行の歌に詠まれているような情景が特定の一本で見られたということではないでしょう。この辺りは強い風にさらされるのでしょうか、巨木は見当たりません。

 崖の下に広がる日本海はあくまで青く澄んでいます。崖の下まで、背の低い木や草が続いていますから、西行が目にしたのは、もっと下の方にある松であったのかもしれないと思ったりします。芭蕉はもちろんですが、西行もあちらこちらの地に足を運んでいるのだなあと感心します。

 ゴルフクラブでいただいたリーフレットには、越前海岸国定公園、北潟湖などの文字はありますが、汐越の松のことは何も書かれていないのが残念なことでした。

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2018年1月23日 (火)

奥の細道を読む・歩く(239)

汐越の松に向かって歩く

 

 「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。

    終夜嵐に波をはこばせて

     月をたれたる汐越の松   西行

 此一首にて数景尽きたり。もし、一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。}

 

 大聖寺の駅前からバスに揺られて汐越の松を尋ねます。吉崎というバス停で降りて、そのまま松林のある方向に向かって歩き始めましたが、どうも様子が違うなぁと思い始めました。汐越の松は、芦原ゴルフクラブの場内にありますので、予め電話で依頼をしています。方向が怪しくなって、電話でクラブに確かめると、やはり方向が違っており、しかも、かなり離れていることがわかりました。乗り継ぐようなバス路線はありませんから、歩きます。

 芭蕉は「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。」と書いていますが、そのような優雅な舟もありません。バスを降りたところは石川県ですが、少し引き返してから、福井県境を通り、蓮如上人の吉崎御坊の建物などが集まっているところを通り過ぎます。しばらく行くと北潟湖が広がり、小さな浜坂漁港を過ぎます。この湖が「吉崎の入江」です。

 上り道にかかるところに石の道標があって「おくのほそ道 汐越の松碑 ここから右、九〇〇メートル」と書いてあります。汗をかきながら上っていくと、やっとゴルフクラブの入り口に着きます。

 さて、西行の歌ですが、嵐が一晩中吹いて汐越の松に波が打ちかかる、その水が松の枝から滴り落ちるところへ月の光が射すと、まるで月が松の枝から垂れ下がったように見える、という情景です。

 ゴルフ場で来意を告げると快く案内をしてくださいます。けれども、海は見えませんから、更に少し離れたところまで歩かなければならないことを覚悟します。

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2018年1月22日 (月)

奥の細道を読む・歩く(238)

一夜違いの曾良と芭蕉

 

 全昌寺の境内には、「大聖寺の城外、全昌寺といふ寺にとまる。」から、「草鞋ながら書捨つ。」までの「奥の細道」本文を記した碑があります。芭蕉の自筆を刻んだものです。そして「終宵秋風聞やうらの山」の曾良の句碑と、「庭掃て出ばや寺に散柳」の芭蕉の句碑とがあります。

 曾良の「終宵秋風聞やうらの山」は、師と別れて今夜はひとり寺に泊まったが、一晩中眠ることができず、裏山に吹く秋風を聞きながら夜を明かしたと詠んでいます。技巧も凝らさず、ありのままの様子を述べているのです。

 曾良の残した句を芭蕉は目にしたはずですが、曾良に呼応した句は作っていません。「庭掃て出ばや寺に散柳」は、寺を出立しようとすると庭の柳が散ってきた、せめてこの柳だけでも掃き清めてから発ちたいものであるという、感謝の気持ちを込めた挨拶の句になっています。「心早卒にして堂下に下る」という言葉には、曾良を追って先を急ぎたいという気持ちも込められているようです。

 師弟の句碑の近くには、「全昌寺、芭蕉忌における深田久弥(九山)作・全句」と題した句碑があります。「翁忌や師をつぐ故に師を模さず」をはじめとする11句が刻まれています。大聖寺は日本百名山などで知られる登山家、また、山の文学者である深田久弥の出身地です。「翁忌や」の句だけ独立した別の句碑も作られています。

 本堂の左前の方に羅漢堂があって、江戸時代の末期に作られた517体の五百羅漢が安置されています。本堂には芭蕉坐像があり、芭蕉が泊まったとされる部屋を復元して芭蕉庵と名付けている一隅があります。

 7万石あるいは10万石と言われる小さな城下町であった大聖寺ですが、九谷焼をはじめ独自の文化や美意識が開花しました。その落ち着いた町をゆっくり歩いて駅に戻ります。駅のホームの片隅にある芭蕉句碑には「山中や菊はたをらぬ湯の匂」が刻まれています。

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2018年1月21日 (日)

奥の細道を読む・歩く(237)

全昌寺へ向かう

 

 「大聖寺の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶、加賀の地也。曾良も前の夜此寺泊て、

    終宵秋風聞やうらの山

と残す。一夜の隔、千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う、読経声すむままに、鐘板鳴て、食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかゝへ、階のもとまで追来る。折節、庭中の柳散れば、

    庭掃て出ばや寺に散柳

とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。」

 

 芭蕉と曾良は山中温泉で分かれて、曾良が先に泊まった全昌寺に、芭蕉も一日遅れで泊まります。

 曾良の日記によると、曾良は8月5日の夕刻に全昌寺に着き、6日も滞在し、7日朝に寺を出発しています。「曾良も前の夜此寺泊て」というのを事実とすれば、芭蕉は7日夜に全昌寺に着いたことになります。

 小松で泊まった私たちは、朝の間に、小松天満宮に行って「あかあかと日は難面もあきの風」の句碑などを見て、葭島神社などを巡ってから、電車で小松から大聖寺に向かいます。

 大聖寺という駅名は、北陸線の拠点駅か何かのように印象に残っている名前ですが、古びたような印象で、大きな駅ではありません。かつては、山中温泉方面への電車が発着していましたから、特急も停まるような駅であったのでしょうが、今では加賀温泉駅からのバスが山中、山代などの温泉を結んでいます。駅構内のプラットホームの片隅に芭蕉句碑がありますが、これは鉄道としては珍しいことだと思います。

 大聖寺駅から歩いて10分ほどで全昌寺に着きます。全昌寺のことを、山麓の高低差のあるところに堂宇があるよう、私は勝手に想像していました。「鐘板鳴て、食堂に入。」から「心早卒にして堂下に下る」というあたりの文を、建物を下り降りているように解釈していたのです。実際は平坦な土地にあります。

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