2019年1月17日 (木)

言葉の移りゆき(271)

威張るな、「である。」

 

 文体には、「です、ます体」があり、「だ体」があり、「である体」があります。文末の表現形式のことです。

 例えば、次の文章を読んでみてほしいと思います。

 

 背筋が伸びて、表情もきりりと締まる。そんな佇まいを表現するのに稟という字をよく使う。辞書を引いていて、この語に「寒気の厳しいさま」の意味もあることを知った

 りりしさと凍りつくような冷たさと。今の季節に両方を感じていたのだろう。高村光太郎である。〈新年が冬来るのはいい〉。その名も「冬」と題する詩は冒頭からそう言い切る

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月11日・夕刊、3版、1ページ、「よみうり寸評」)

 

 文末は、「締まる」、「使う」、「知った」……と、リズミカルな文章です。ところが、唐突に「高村光太郎である」という文が現れます。リズムはぶち切られて、読者はとまどいます。エラい人が訓示を垂れているような雰囲気に包まれます。

 文末が用言や助詞・助動詞などで歯切れよく続いている中に突然のように現れる「である。」は異様です。

 他の例を挙げましょう。

 

 〈震度七眠れぬ夜を車上泊闇にヘリ音波打つ大地〉。1月に刊行された『震災万葉集』である。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月14日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 さて彼には、そんな風景が目に入っていたかどうか。刑務所から逃げ出し、しまなみ海道を車で北上、向島に潜伏していた平尾龍磨容疑者である。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月2日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

「我輩は猫である。名前はまだ無い。」というのは「である体」の文です。けれども、ここに挙げた文は、明らかにそれとは異なっています。

 新聞記者が書いた文章には、体言止めやら、舌足らずの表現やらが多いのですが、ある箇所で唐突に「である。」が出現するのです。

 訓示を垂れているような言い方、知識を誇示しているような言い方です。不思議なことに、新聞のコラムに多く現れます。一定の地位を得た人の書く文体なのかなぁ、と勘繰りたくもなります。

 朗読をしてみればわかるでしょう。この部分に来ると、文章に違和感が生じます。朗読に耐えられる文章ではありません。

 このような表現を、筆者は一種の倒置法だと考えている場合もあるのかも知れませんが、どちらかと言うと、肝腎な言葉を後ろに持ってこようとする〈じらし〉表現と言うのが当たっているような気がします。そして、何よりも、このような表現には品位が欠如しています。

 

【追記】

 私は、このブログの連載で、新聞の言葉の使い方などを中心に、気づいたことを書いています。朝日新聞が多くなっているのは、60年以上にわたっての購読者であるからです。他の新聞は、駅売りなどを随時、買い求めています。

 朝日新聞からは、これまで、「ことばのたまゆら」の筆者をはじめ、何人かの人から反応の返事があり、「ことばのたまゆら」の文章が訂正されたこともありました。

 「天声人語」の表現に関しては、何度も書きました。けれども天声人語の筆者のようなエラい人からは何の反応もありません。自己の文章に矜持を持っている人には当然のことなのでしょう。(もちろん、皮肉です。)

 私は高等学校の国語教育の場で、NIEなどという言葉が生まれるずっと前から、朝日新聞を中心にして、記事を教材に使ってきました。けれども、しだいにそれをためらうようになったのは、新聞の文章の質の低下が理由です。

 「天声人語」の文章については、私は、兵庫県高等学校教育研究会国語部会()『自己を開く表現指導』(右文書院、1995年5月20日発行)168ページで、功罪両面のことに触れて書いております。

 天声人語の筆者は変遷していますが、教室で扱う価値がしだいに(あるいは、急速に)薄らいできたと思っています。天声人語だけでなくすべての記事についても言えることです。(ただし、社外の人の署名入りの文章は同一視しようとは思っておりません。)

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2019年1月16日 (水)

言葉の移りゆき(270)

「無料で振る舞う」という表現の居心地

 

 他動詞の「振る舞う」という言葉が気になっています。端的に言うと、「ふるまう」というのは無料で提供することではないかと思うのですが、世の中は、そうでもないのでしょうか。

 

 一年の無病息災を願う「七草がゆ」が7日、大阪市の阪神百貨店梅田本店で無料で振る舞われた。会場前には早朝から列ができ、300人が味わった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月8日・朝刊、13版、30ページ、「青鉛筆」)

 

 「振る舞う」という言葉に、わざわざ「無料で」という説明が必要なのでしょうか。

 他動詞の「振る舞う」を、手元の国語辞典で確かめてみます。

 

 『広辞苑・第4版』  もてなす。馳走をする。

 『岩波国語辞典・第3版』  もてなす。人にごちそうする。

 『三省堂国語辞典・第5版』  ①もてなす。ごちそうする。②(みんなに)気前よく あたえる。

 『新明解国語辞典・第4版』  来客に対して、酒・食事を出して、もてなす。

 『明鏡国語辞典』  人にごちそうする。おごる。もてなす。

 『現代国語例解辞典・第2版』  もてなす。接待する。

 

 どれを見ても、代価を取って提供するという意味は書かれていません。それが共通認識であるのならば、「無料で振る舞われた」という書き方は、同じことを2度述べていることになります。「有料で振る舞われる」こともあるのか、と言いたくなるのです。

 オリンピックの開催地が東京に決まったとき、「おもてなし」という言葉が広く使われました。あの「おもてなし」という言葉は、外国からの客に対して、旅費・宿泊費などを無料にして接待する、という意味ではなかったはずです。「おもてなし」は心遣いに重点を置いた言葉であったでしょう。

 とは言え、上記の国語辞典のすべてで使われている「もてなす」には、有料という意味が含まれているのでしょうか。そんなふうには考えられません。「振る舞う」も有料ではないはずです。

 もし、例外があるとすれば、原価1000円の料理を、有料の100円で提供したときなどは、「振る舞う」と使えそうにも思いますが…。

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2019年1月15日 (火)

言葉の移りゆき(269)

国語辞典は「やっぱり」冷酷だった

 

 「やっぱり」という言葉を国語辞典で引いてみます。『現代国語例解辞典・第2版』は「⇒やはり(矢張)」と書いてあるだけです。『三省堂国語辞典・第5版』には、「『やはり』の気持ちを強めた言い方。」とあって、その「やはり」がどういう意味であるのかは、その項目を引き直さなければわかりません。『明鏡国語辞典』には「『やはり』のくだけた言い方。」とあって、「やはり」の意味は説明されていません。

 国語辞典は親切な書物なのですが、こういう場合には腹立たしさを感じます。「やはり」の意味を説明した上で、その意味を強めたとか、それをくだけて言ったと書くべきでしょう。どの辞典を見ても、やっぱり同じような説明の仕方をしているのです。これ以外の辞典を見ても、やっぱり同様でしょうから、引いてみる気持ちが喪失します。(「強める」と、「くだける」とは、異なった働きですが、ここではそのことに立ち入らないことにします。)

 「やっぱり」に執着するのは、次のような見出しを見たからです。

 

 限定5万枚→やっぱり5.1万枚 / 記念硬貨 造幣局が抽選作業ミス

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181128日・朝刊、13版、33ページ、見出し)

 

 記事には、「当選者5万人を抽選で決定。期限までに入金を確認できた人に今月、記念貨幣を送った。だが、1296人の入金を見落とし、キャンセルと勘違いしていたことが発覚。すでにその分を繰り上げ当選させてしまっていたため、5万人を超えてしまった。」とあります。

 記事の中に使われていない「やっぱり」を使った意図は何なのでしょうか。造幣局は「やっぱり」ミスを犯すところだ、ということでしょうか。「やっぱり(やはり)」は、前から思っていたとおりという意味がありますから、造幣局が甘く見られているということになりそうです。

 けれども、その場合は「やっぱりミス(を犯す)」と書くべきでしょう。「やっぱり5.1万枚」とは何なのでしょうか。公称5万枚であるはずがない、きっと5.1万枚は発行するはずだと新聞社が予想していたのでしょうか。主観的で、根拠のない見出しの付け方であるように思います。

 やっぱり見出しの付け方はルーズだ、と言ったら叱られるでしょうか。

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2019年1月14日 (月)

言葉の移りゆき(268)

「コーチ」という言葉

 

 運動競技などには、監督やコーチがいます。競技を指導する中心に監督がいて、コーチはそのもとで具体的な技術を指導する人だろうと思っていました。プロ野球にはピッチングコーチやバッティングコーチなど、細分されたコーチがいます。

 次の記事を読んで、コーチは、監督とは異なる目的を持った人であるように思いました。

 

 スポーツ競技のコーチは、指導者として自ら習得した技術を選手に教えるというイメージが強い。しかし「コーチに必要なのは教えることではなく、対話によって目標や実現可能性について、本人が考える機会をつくり、気づきを与えることだ」と、コーチング専門会社コーチ・エィの研究所に勤める藤崎育子さん。

 コーチ(coach)は馬車が語源。馬車は乗っている人を目的地まで送り届けるのが役目だ。そこから、目標達成を促し支援する人をコーチと言うようになった。近年、スポーツ選手に限らず、コーチをつける経営者が増えているという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181128日・夕刊、3版、7ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 この文章は、相手に話を聞いて質問するのがコーチの役割だ、という方向に話が展開していきます。その考えは、コーチの役割の一部を強調した論であるのかもしれません。けれども、国語辞典は「コーチ」のことをどう説明しているのか、気になってきました。国語辞典の記述を列挙します。

 

 『新明解国語辞典・第4版』  ①指導すること。②(運動競技などの)指導者。監督。コーチャー。

 『三省堂国語辞典・第5版』  〔競技に出る選手やチームの〕指導をする・こと()。監督。コーチャー。

 『明鏡国語辞典』  運動競技の技術などを実地に指導・助言すること。また、その人。

 『現代国語例解辞典・第2版』  ①運動競技の技術を指導したり教えたりすること。②コーチャー。

 『岩波国語辞典・第3版』  スポーツの技術などを指導すること。また、その人。コーチャー。

 『広辞苑・第4版』  ①競技の技術などを指導し訓練すること。②コーチする人。コーチャー。

 

 すべての辞典に共通するのは「指導」という言葉です。指導する内容は、競技の技術であるようです。

 「監督」と同義であると記している辞典があるのが気になります。小さなチームでは監督もコーチも一人で兼務することがあるでしょうが、監督とコーチの両者がいる場合の区別(言葉の上での違い)は何なのでしょうか。説明がありません。

 ひとつの辞典を除いて、「コーチャー」と同義であると記していますが、これも気になります。「コーチャー」は、野球の場合では、1塁ベース、3塁ベースの横の区画にいて、走者(や打者)に指示を与える人のことを言いますが、他の競技ではコーチもコーチャーも同じものを指すようです。それでは「コーチ」「コーチャー」という2つの言葉が必要ではないということになります。

 「コーチ」という言葉は、わかったつもりで多くの人が使っていますが、国語辞典の世界では、まだよくわからない言葉(使い方・用例などがしっかり確立していない言葉)なのではないでしょうか。

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2019年1月13日 (日)

言葉の移りゆき(267)

「ヘタウマ」の意味・用法は?

 

 世の中には、国語辞典の改訂版が出るたびに買い替えている人がどれほどあるのでしょうか。私は国語辞典は、『日本国語大辞典』から小学生向けのものまで10種以上を使っています。古語辞典や漢和辞典も同様です。したがって、よほどのことがない限り、折々に入手した辞典をそのまま使うことが多く、いちいち買い替える余裕はありません。

 その辞典に載っている・載っていないということについては古い情報に基づいているのですが、語義の説明が大幅に書き換えられることは少ないので、すこし古い版に基づいて発言していることも多いのです。

 さて、「ヘタウマ」という言葉は、私の手元にある国語辞典にはまだ載せられていません。「ヘタウマ」は、下手だ・巧いという言葉を合わせた言葉ですから、辞典を見なくても大きな誤りを犯すことにはならないでしょう。まったく下手だという意味ではなく、正真正銘に巧いという意味でもないからです。

 ところで「ヘタウマ」は、厳密に言えばどういう意味なのでしょうか。私が推測したことを申します。ひとつは、全体的には下手なのであるが、それでも人々を惹きつけるような巧さも隠されている、ということです。もうひとつは、巧い作品を作る人であるが、その中に意図的に下手な部分を加えている、ということです。それ以外の解釈もできるかもしれません。私はそのうち、前者の意味だろうと思っていました。

 次のような文章がありました。

 

 徳川幕府の礎を築いた3代将軍家光の水墨画2点の実物が来年3月、東京・府中市美術館の「へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで」展で初めて公開される。家光の作品はこれまで10点弱しか見つかっていないが、いずれも素朴な画風だといい、金子信久学芸員は「意図して下手に描いたのかはわからないが、これが家光のスタイルだった」と話す。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181220日・夕刊、3版、12ページ、森本未紀)

 

 この記事の見出しは「家光の絵 ヘタウマだった?! 3月初公開」となっています。見出しの「ヘタウマ」は、記事の言葉の「意図して下手に描いた」にあたるのでしょう。どんな国語辞典の最新版が「ヘタウマ」を見出しに採用しているのか、またその意味を「意図して下手に描くこと」としているかどうかを、確かめてみたいと思います。

 それにしても、この言葉を府中市美術館が展覧会のタイトルに使うということは、既に浸透している言葉であると判断したのでしょう。「ヘタウマ」は、いささか「へそまがり」の範疇に含まれるということなのでしょう。

 「ヘタウマ」がどのような分野で使われるのかということにも、私は興味を持ちます。美術(絵画・彫刻など)や書道に対してこの言葉が使われても違和感はありませんが、文章(散文や韻文)に対しても使うのでしょうか。音楽作品に対しても使うのでしょうか。演劇やスポーツなどのように体を使って表現するものにも使うのでしょうか。興味は広がっていきます。

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2019年1月12日 (土)

言葉の移りゆき(266)

「ばえる」の欠落感

 

 年末になると「今年の〇〇」というような企画が発表されます。言葉や文字に関するものもいくつかありますが、一過性の感じがしてそのうち忘れられてしまうでしょう。言葉の場合は、人々の共感を得られないものは、文字どおり「今年の」ものに過ぎないと思います。数年経っても命脈を保つのは少ないはずです。

 こんな記事を読みました。

 

 「今年の新語2018」(三省堂)の大賞は「ばえる(映える)」だった。ここでいう新語とは、今後も多くの人に使われ、辞書に載せる候補になるだろうと判断したものを指すのだと言う。そのため「辞書を編む人が選ぶ」というサブタイトルもついている。定着するかどうかわからない流行語とは一線を画す位置づけとなっている。

 「ばえる」の語釈の一つに「SNSのインスタ映えの『映え』を動詞化したもの。写真や映像などが、ひときわ引き立って良く(おしゃれに)見える」とあり、「おもにSNSで写真を投稿し合う人たちの間で用いられる語」といった注釈もつく。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181219日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 「辞書を編む人が選ぶ」というサブタイトルがついているのですから、よほどの自信があるのでしょう。けれども、「ばえる」は国語辞典に載るほど定着する言葉なのでしょうか。そんなふうには思えません。

 「ばえ」の付く言葉は、インスタ映え、夕映え、出来映え、見映え、などがありますが、いずれも複合的な言葉の後ろ半分です。「は()えある優勝」などと言うことはありますが、「はえ」が名詞として使われることは少ないのです。

 連濁によって「ばえ」となった言葉を動詞にして「ばえる」と言うのは、何とも不安定な言葉です。よちよち歩きの言葉です。

 「映える」という言葉はしっかりとした安定感のある言葉です。それに対して、「ばえる」は複合的な動詞の後ろ半分だという感じは否めません。前にある言葉が欠落しているのです。その不安定感が、この言葉の致命的な欠陥だと思います。

 濁音で始まる動詞であっても「だま()す」「ばれる」などには欠落感はありません。「ばえる」がそれらの言葉と肩を並べる力を持つはずはありません。

 「ばえる」。それは新語・流行語としてしばらくは使われるでしょう。記事にあるように、「おもにSNSで写真を投稿し合う人たちの間で用いられる語」であって、仲間内の言葉に過ぎません。一年経って、今年の歳末に「ばえる」がどのような運命になっているか、それをぜひ記事に書いてほしいと思います。

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2019年1月11日 (金)

言葉の移りゆき(265)

「まるでケーキ」なサンド

 

 「綺麗な」とか「元気な」とか言う場合の「な」は、形容動詞の活用語尾(連体形)です。「綺麗」という名詞はありませんが、「元気」は名詞としても使えます。「まるで元気がない」というように言うことができます。

 その「まるで元気がない」という表現について考えます。「まるで」は副詞です。副詞ですから、「元気」という体言(名詞)を修飾しているのではありません。語順を変えて「元気がまるでない」という表現も可能であることからわかるように、「ない」という用言(この場合は形容詞)にかかっていくのです。

 「まるで」という言葉は、後ろに伴う「…のようだ」とか「…みたいだ」とかの言葉と呼応することもあります。

 さて、ここからが本題です。次のような記事がありました。

 

 代表作は、生クリームで飾ったデコレーションケーキのような「ハムとチーズのケーキイッチ」だ。バラのように巻かれた生ハムと青々としたベビーリーフが華やか。パンの間にハムとチーズが挟まり、切り分けると、サンドイッチらしい断面が現れる。「ショートケーキのイメージがイメージが裏切られるので、一番衝撃的かも」と唯根さん。

 (読売新聞・大阪本社発行、20181212日・夕刊、3版、4ページ、「いま風」、斉藤保)

 

 唯根さんが工夫をした創作料理の説明ですから、すぐさまその姿を想像できないかもしれませんが、紙面には写真が載っています。

 文章の筆者とは関係の部署で作られたのかもしれませんが、この記事の見出しは、次のようになっています。

 

 「まるでケーキ」なサンド

 

 カギカッコの外に置かれた「な」は、いったい何なのでしょうか。カギカッコ内で表現がいったん完結しているのなら、「まるで」という副詞は、「ケーキ」という体言(名詞)を修飾していることになり、破格です。

 「まるでケーキ」という部分を形容動詞の語幹と考えると(これも破格ですが)、「まるでケーキな」の「な」はカギカッコ内になければなりません。「まるでケーキな」という修飾語が「サンド」にかかっていく構造なのでしょう。それにしても不思議な日本語です。

 話を複雑にする必要はないのかもしれません。「まるでケーキのようなサンドイッチ」と言いたいのでしょう。見出しの字数の制約によって、おかしな日本語を作り上げることになったのでしょう。

 本文に問題が無くても、見出しが日本語を混乱させる働きをしてしまっていると言わなければなりません。字数制限があるからということが理由であっても、おかしな日本語表現が許されるはずはありません。

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2019年1月10日 (木)

言葉の移りゆき(264)

名前なのか、説明なのか

 

 例えば、店頭で、「生産者の姿が見える産地直送、無農薬にこだわった、旬の季節限定、とれたて新鮮完熟トマト」という名称のものが並んでいたら、買おうという気持ちになるでしょうか。ぶっきらぼうに「トマト」と書かれたものが横に並んでいたとしたら、どちらを買おうと思うでしょうか。

 言葉には、素直に受け取れるものと、疑ってかかるのがよいものと、2種類があります。あまり言葉が過ぎると、眉に唾をつけたくなるものです。

 人間には、美辞麗句とわかっていても、それに操られてしまう心理があります。だから、売る側も言葉を飾ろうとするのでしょう。

 ところで、長ったらしい商品名は、それが全体として名前であるのでしょうか。それとも説明(修飾語)なのでしょうか。きちんと区別はつけにくいように思います。

 こんな文章を読みました。

 

 食べ物の名前が長くなったなあ。

 と、コンビニの棚の前で思う。「なんとかにこだわった」「どこそこ産の」「なにダシ仕立ての」「一日分の野菜が取れる」「まるごと」「もちもち」「行列ができる」。多種多様な(と言いつつパターン化した)修飾語が、複数組み合わさってラベルに並んでいる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181015日・夕刊、3版、5 ページ、「季節の地図」、柴崎友香)

 

 食べ物だけではありません。本の名前にも同じような傾向が見られます。元日のいくつかの新聞は、1ページの下に書籍広告が並んでいます。『子どもには聞かせられない 動物のひみつ』『東大教授がおしえる やばい日本史』などという書名の広告があります。興味を引きつけたり権威付けをしたりするところは、食べ物の広告と変わるところがありません。

 

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2019年1月 9日 (水)

言葉の移りゆき(263)

「休工中」と「解除中」の違い

 

 もとの話題に返ります。「休工」という言葉です。連載の中で、私は次のように述べています。

 

 関西で一般に見かけるのは「解除中」という言葉ですから、関東で初めて「休工中」というのを見たときには、珍しい言葉に接したという思いがしました。

 私にとって、「解除中」は見慣れた言葉であるから写真に撮る必要はなかったのですが、「休工中」を見たときには、その都度カメラを向けました。しかし、関東圏では「休工中」というのがごく自然な表現のようで、この言葉に出会うたびに珍しがる必要もないということが、次第にわかってきました。「休工中」の例を、東京都、横浜市、鎌倉市、平塚市、神奈川県箱根町の写真で紹介します。

 静岡県富士市では「現在規制なし」という表示を見ました。工事によって「片側交互通行」になっているようです。「工事中」という言葉には「休工中」が対応しますが、「片側交互通行(の規制)」という言葉には「休工中」がそぐわないという気持ちから、「規制なし」という言葉が選ばれたのでしょう。

 ホームページで、同じ業者が、「解除中」と「休工中」の両方のマグネット・ステッカーを販売しているのを見かけました。関東と関西では、どちらを注文するのかということが対照的になっているのかもしれません。

 (東京法令出版『月刊国語教育・368号』、201011月1日発行、8283ページ、「文字に書かれた言葉の地域差⑭」、橘幸男)

 

 工事中に対して「休工中」というのは、現在は工事をしていないという状況を伝えているだけです。交通規制が行われていないという意味に直結するわけではありません。

 「解除中」というのは、通行者に対して、工事をしていないから交通規制は解除しているということを伝えているのです。理屈を言えば、こちらの方が親切でしょう。

 関西の「解除中」と関東の「休工中」はどこで入れ替わるのでしょうか。歩いて観察したことによれば、愛知県・岐阜県あたりは2つが微妙に入り混じっていました。関西に入れば「解除中」です。

 ただし、これは、2008年~2010年頃の状況です。10年経てば、その勢力範囲にも変化が現れているかもしれません。

 方言は、主として話し言葉の世界のことです。地域による差を認識することがあります。一方、一見して全国的に差がないように見える共通語にも、地域による使い方の差があるということを認識しなければなりません。書き言葉や共通語を、東京の視点だけで見ることは正しくないということに気づかなければなりません。

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2019年1月 8日 (火)

言葉の移りゆき(262)

東京の言葉が異例であることもある

 

 前回の続きですが、その前に、私の言葉(用例)採集のことについて書いておきます。

 『言語生活』という雑誌がありました。筑摩書房発行の月刊誌です。その雑誌に「目」「耳」「カメラの散歩」というページがあって、読者の投稿を載せていました。私はある時期、その欄への投稿を続け、掲載してしただくことが多くありました。辞書編集者の見坊豪紀さんの「ことばのくずかご」も連載されていました。そのようなご縁で、私は見坊さんと手紙のやりとりを続けていた時期があります。

 その後、私は『ひとりの雑誌・現代語』というのを作りました。「目」「耳」に向けて幾つも書き送っても各号に掲載されるのは1つか2つです。できるだけたくさん載せるために個人で作ろうと思ったのです。まだワープロが普及する前ですから、手書きで作りました。何かで知っていただいた方から連絡があったときに、お送りするということをしておりました。

 面白い言葉、興味のある言葉を見つけたときは必ず写真で撮ることを習慣にしていました。数えたことはありませんが、既に何千枚も貯まっているはずです。

 話は飛びますが、中学・高校教員向けの雑誌『月刊国語教育』(東京法令出版)に私はいくつかの連載をしました。巻頭のカラーグラビア(4ページ)10回以上にわたって連載したのは「神戸圏の文学散歩」であり、随想風に書いた「国語教育を素朴に語る」(1ページ)50回を超える連載になりました。その後に連載したのが「文字に書かれた言葉の地域差」(2ページ)15回にわたって、写真入りで書きました。

 取り上げたのは「モータープール」、「駅下り・駅筋・駅入口・駅前」、「山側・海側・浜側」、「国道」、「深夜・早朝」、「入口」、「交通弱者用押ボタン・ほか」、「東詰・西詰など」、「先発・次発・次々発」などです。「地名の短縮形」や、「地名+私鉄名の組み合わせ」なども扱いました。その中の一つに、「解除中・休工中」がありました。

 私は、学会参加・その他で1年に2回前後は東京に行っておりました。ずいぶん前から、関西と東京を比べると、文字として書き記される言葉に差があることということが気になっていました。「解除中・休工中」もその一つです。

 もう一つ、大きな違いがあると感じたのは、「入口・前」です。例えば、明石市役所の近くにバス停や交差点があるとします。関西では明石市役所前ですが、東京では〇〇区役所入口です。関西で、市役所入口と言うと、市役所の門や玄関の辺りのことです。ところが東京では、少し離れている場所が区役所入口です。

 詳しい道路地図を見ると交差点名が記されていますから、それだけを辿っても調査はできるのですが、私は歩いて、バス停名、交差点名だけでなく、広告板・その他を見てみようと思いました。

 私は歩くことが大好きですから、江戸時代の5街道を歩くことを考えていました。ある時、決断して、「文字に書かれた言葉の地域差」を観察しながら、東京・日本橋から京都・三條大橋に向かって歩き始めました。東京で見る「入口」はどの地域から関西風の「前」に変わるのか。東京で見る「休工中」はどの地域から「解除中」に変わるのかということをはじめ、いくつもの関心項目がありました。見つけしだい写真に撮って、東海道を上っていったのです。(蛇足ですが、私はその後、東海道だけでなく、中山道、日光道中、奥州街道、甲州道中をすべて、端から端まで、自分の足で歩きました。)

 関西人から見ると、東京の言葉が異例に思われることがあります。そのような言葉が日本全体の標準であるかのように考えられ、国語辞典にそのように書かれることには異存があるのです。

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2019年1月 7日 (月)

言葉の移りゆき(261)

言葉の「東京一極集中」

 

 政治も経済も、東京への一極集中が進んでいます。それはよくないからブレーキをかけよう、という意見がないわけではありませんが、東京一極集中を享受している人が述べたのでは、本気で言っているのかどうかも疑問です。効果があろうはずがありません。

 スポーツも同じです。箱根駅伝のような関東地区の大学だけを対象にした催し物を全国に中継して、大きな行事として盛り上げるのですから、何をか言わんやです。地方分権などというのは掛け声だけのものでしょう。

 そして、言葉の世界も同じです。東京言葉がまるで日本の言葉であるかのように考えて、辞書の編集に反映されていることを知って仰天しました。

 国語辞典を作ることは大変な作業です。用例を採集し、それを辞典項目に取り上げるのですから根気のいる仕事です。けれども、それは東京という土地で、東京人の視野で行われているようにも感じられるのです。

 辞書づくりに携わっておられる方の本を読みました。例えば、こんな文章が目にとまりました。

 

 道路工事を示す看板に〈休工中〉と書いたシールが貼ってあるのも、ごくありきたりです。

 -いや、ちょっと待ってください。「休工」は、そんなにありきたりのことばでしょうか。試しに、お手持ちの国語辞典で「休工」を引いてみてください。

 私が調べた範囲では、「休工」を載せる国語辞典は、20種のうち2種しかありません。そのうち『日本国語大辞典』第2版には、〈仕事を休むこと。休業〉とあり、明治初期の用例が出ていますから、現代とは違う意味の言葉です。もう1種はわが『三国』第6版で、〈工事を休むこと。「-期間」〉という説明を入れてあります。この意味では古い用例が見当たらないことから、比較的新しく生まれた意味と考えられます。

 (飯間浩明『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』、ディスカヴァー・トゥエンティワン、20131230日発行、163ページ)

 

 「いや、ちょっと待ってください。」と言いたいのは、私のほうです。「道路工事を示す看板に〈休工中〉と書いたシールが貼ってあるのも、ごくありきたりです。」というのは、東京で長く生活をしている人の感覚です。「休工」という言葉は、一定の地域で使われている言葉に過ぎません。関西では「休工中」というシールは貼りません。工事が行われていないときは「解除中」というシールを貼って、交通規制を行わない措置をとります。

 驚いたのは、『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』という本に載せられている内容は、東京都内(と東京ディズニーランド)での用例採集に基づいて書かれていることでした。いや、驚くべきことではないかもしれません。これまでの国語辞典は東京の視点で作られていたのだということを再認識すべきなのかもしれません。

 この「休工中」については、私が2010年に書いた(すなわち、その2~3年前から用例収集を続けた)文章がありますから、次回以降にそれを紹介することにします。

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2019年1月 6日 (日)

言葉の移りゆき(260)

「うまい」を表現する方法

 

 お正月には美味しいものが食べられるから待ち遠しいというのは、私が子どもであった頃の話です。現在は飽食の時代ですから、テレビを見ていると、晴れや褻の区別なく、美味しいものを食べ散らかしている人がいるように思います。

 美味いものを食べて「美味しい」「うまい」という言葉を発するのは、自然なことだと思います。けれども、それは日常生活での話です。

 テレビに氾濫する食べ物の番組で、毎日毎日、同じような感想の言葉を聞かされたのではたまりません。

 こんな記事がありました。

 

 土井善晴の美食探訪 ★BS朝日 夜7・00

 食べ物を口にした瞬間、芸能人が目を見開いて「ん~、うまいっ!」。そんな光景に正直、辟易する。 …(中略)

 老舗のあんこう鍋や上海蟹の姿蒸し、手間ひまかけたビーフカレー。垂涎の料理を出されても、土井は「不機嫌なのか?」と思うくらい静か。しかし「フフ……」と頬が緩む。はしのえみが必要以上に出過ぎないのが、落ち着いた雰囲気に一役買っている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月9日・朝刊、13版、20ページ、「試写室」、山本悠理)

 

 テレビの場合、食べ物は目の前に映し出されています。例外はあるにしろ、たいていは美味いものを紹介しようとしています。「うまい」という言葉が発せられるのは当然です。テレビには、それを「うまい」という言葉以外でどう表現するかが試されているのです。出演者だけではありません。「うまい」という言葉で満足してしまうような制作者も落第です。

 「うーん」とか「うまい」しか言わない人間は、言葉を失っているとしか思えません。目の前に映像があっても、それだけでは伝えられないことがたくさんあるはずです。それを伝える努力が必要です。伝える義務が、出演者や制作者にあるのです。伝える方法は、言葉、表情、しぐさ、その他いろいろです。それが工夫されている番組、それを伝えることができる出演者でなければなりません。

 私は、人前でものを食べるシーンに出演する人間の心理はよくわかりませんが、そのような番組ばかりに出演している人をよく見ます。料理の説明などは抜きにして、食べるだけが仕事という人がいます。そのようなとき、単に「うまい」という一語や、洒落言葉だけで済ませてしまうと、続きを見る意欲が減退します。この新聞記事で紹介されているテレビ番組は、お見事!と言いたくなる番組のようです。

 一方、同じような内容をラジオで伝える場合は、目の前に映像がありません。その食べ物がどのようなものであるかという説明に基づいて、聴取者は想像を働かせることになります。食べ物の説明をしないで、むしゃむしゃ食うだけを仕事にしているラジオ出演者は、見当たらないと思います。ちゃんと言葉で伝える努力をしているのですから、説明を尽くした後に一言「うまい」があっても気にはなりません。

 

 ところで、テレビ番組を紹介する記事にも同じことが言えます。筆者自身が勝手に興奮したり、キャッチフレーズだけを振りかざして書いたりした記事は、「ん~、うまいっ!」の一言と同類です。それに比べて、この「試写室」の筆者は、番組の内容や雰囲気をきちんと伝えてくれています。(引用したのは記事の一部です。)

 私はこの番組を見たわけではありませんが、この記事で、画面が想像できるように思います。AIに書かせたら、このような記事は生まれません。

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2019年1月 5日 (土)

言葉の移りゆき(259)

「亥」と「猪」の関係

 

 2019年は「亥」の年です。「亥」という文字が書かれた年賀状をいただきましたが、干支のイノシシのイラストなどが書かれた年賀状もたくさんいただきました。亥は十二支の十二番目で、動物では「猪(イノシシ)」にあたります。けれども、亥イコール猪、というわけではありません。

 毎年、干支の縁起物のことが話題になります。例えば、次のような記事があります。

 

 大阪府和泉市の地場産業で、縁起物の干支のガラス細工に今年はピンクのブタが仲間入りした。高さ約3・5センチで、一つ税込み4860円。親子もある。

 日本では「亥」はイノシシのことだが、中国ではブタを指す。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、13版、38 ページ)

 

 亥は、文化の違いなどによって、イノシシになったりブタになったりするのです。ということは、「今年の干支は、猪」と断言しにくいのです。新聞社は、干支に関する表現に気を使っているようです。

 こんな文章があります。

 

 縁起がよいとされる「えとの置物」。2017年は「酉年」で、 …(中略)… 秋から暮れにかけて、動物の置物づくりが話題になります。同時に、校閲記者の直しの手も忙しくなります。

  × 2017年のえと「酉」の置物

  〇 2017年のえと「酉」にちなんだ置物

 なぜ「にちなんだ」と直すのでしょう。

 現代の生活でえとといえば「今年のえとはとり年、来年はいぬ年」というように十二支を指し、動物を思い浮かべることが多いと思います。しかし、もともと動物とは関係ありませんでした。

 (毎日新聞校閲グループ『校閲記者の目』、毎日新聞出版、2017年9月5日発行、111112ページ)

 

 十二支を覚えやすいように、子=ネズミ、丑=ウシ、…… 戌=イヌ、亥=イノシシ、というように当てられたのです。だから、「干支のイノシシの置物」という言い方を、新聞社の校閲記者は見逃さないで朱筆を入れることになります。

 私のもらった年賀状も、「今年の干支にちなんだイノシシ」がたくさん書かれていたと表現するのが望ましいというわけです。

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2019年1月 4日 (金)

言葉の移りゆき(258)

「会社への取材でわかる」という表現の不思議

 

 お持ち帰り(テイクアウト)でなく、商品を手にするには宅配という方法もあるのですが、お正月早々に、注文していたお節料理を食べられなかった人がいます。元日の新聞記事が伝えています。(テレビは、31日に報道していました。)

 

 物流大手のヤマト運輸(東京)がおせち料理を運搬する際、本来冷凍だったのに冷蔵で運んだため、計1268個を北海道内の顧客に届けられなくなったことが31日、同社などへの取材で分かった。

 (神戸新聞、2019年1月1日・朝刊、15版、30ページ)

 

 ヤマト運輸(東京)がおせち料理を運搬する際、本来冷凍だったのに冷蔵で運んだため、計1268個を北海道内の顧客に届けられなくなったことが31日、同社などへの取材で分かった。

 (産経新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、14版、31ページ)

 

 宅配便大手「ヤマト運輸」(東京都)が要冷凍のおせち料理を誤って冷蔵設定のトラックで運んだため、計1268個が北海道内の顧客に届けられなくなったことが31日、同社などへの取材で分かった。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、13版、31ページ、石井尚)

 

 ヤマト運輸が関東から北海道に冷凍おせち料理を運送する際、誤って「冷蔵」として運ぶミスで鮮度が落ち、1268個分の配達を中止していたことが31日、わかった。

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、13S、38ページ)

 

 ニュースの書き方で不思議に思うことがあります。「計1268個を北海道内の顧客に届けられないという事態になった。」という書き方が、ニュースでよく見る書き方です。ところが、このニュースに関しては、4紙がすべて「31日、分かった。」と書いています。(朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊には、このニュースが載っていませんでした。)

 どうして「31日」という日付を明確に示して、「分かった。」と書くのでしょうか。「会社が発表した」と書いてあるわけでもないのに、どうして「分かる」のでしょうか。しかも各紙が同じ表現をとっています。ニュース記事の不思議です。

 さらに、読売新聞以外は、「同社などへの取材で」と書いています。毎日新聞には記者の名が書かれています。神戸新聞と産経新聞は、共同通信の配信記事であろうと推測するのですが、ある日、突然、新聞社や通信社が同時に「同社など」に対して取材するというのは、何となく不自然です。

 前年の大晦日のことを新年の記事にしたから「31日」と書いたわけではないと思います。新聞には「15日、分かった。」などという書き方を見かけることがあるからです。もしかしたら、テレビ(や一部の新聞など)に先を越されて、報道されてしまったから、やむを得ず、このような表現になったのかもしれません。

 それにしても、このような、口裏を合わせたような表現をするのは不思議です。報道各社が独自に取材したように装うのも不思議です。ニュースの書き方には、暗黙の了解に基づいた書き方が存在しているようです。

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2019年1月 3日 (木)

言葉の移りゆき(257)

お正月にも「テイクアウト」

 

 昔は正月三が日は商店などが閉じられているのが当たり前でした。神に捧げるものという性格を持つお節料理は、その期間の食べ物でもあったのです。けれども今は、食べるものがなくなったらコンビニや飲食店に駆け込むような世相になってしまいました。打算的な人間が増えれば、風習なども廃れていってしまいます。

 

 さて、食べ物を店頭で受け取るときの言葉としては、「テイクアウト」などと言うより「お持ち帰り」の方が好ましいと思います。敬意が有るのか無いのかわからない「テイクアウト」よりも「お持ち帰り」という言葉の響きが嬉しいではありませんか。

 けれども店員さんの言葉に引かれて、「お持ち帰りの弁当を3つ、ください」と言うのは少しおかしいと感じます。店員さんは客に対して使っているのですが、客自身が敬意を込めたような「お持ち帰り」を使うのは避けたいと思います。

 次のような表現も同様だと思います。

 

 幼少のころ、お気に入りの絵本があった。里山や街の風景が断面になっていて、地上と地中の動植物や建物内部の様子が、素朴なタッチで描かれている。普段は見ることができない世界に想像をかき立てられ、繰り返し眺めた。

 (毎日新聞・大阪本社発行、201812月5日・夕刊、3版、11ページ、「憂楽帳」、山下修毅)

 

 「あなたのお気に入りの本は何ですか」と尋ねるのは自然な表現ですが、その質問に引かれて「私のお気に入りは…」と答えるのはいかがでしょうか。まして、対話としての表現でない場合に、文章中に使うのは行き過ぎではないでしょうか。

 「お持ち帰り」や「お気に入り」の「お」は、「お正月」や「お酒」の「お」とは異なるはずです。前者は尊敬語であり、後者は丁寧語(美化語)です、自分が主語となる場合に、「お持ち帰りになる」や「お気に入りである」という意味を込めた「お持ち帰り」や「お気に入り」はそぐわないと思います。

 「おめかし(する)〔=お化粧(する)〕」などは、自分が主語の場合でも、丁寧語(美化語)の範疇に近いかもしれませんが、「お持ち帰り」「お気に入り」はその範疇を出ているように感じるのです。

 「お健やかに新年をお迎えのことと存じます」とか、「今年一年もどうぞお元気にお過ごしください」と書かれた年賀状が届きます。けれども、自分のことを「お健やかに」とか「お迎え」とか言うことは決してありません。それと同じことだと思うのです。

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2019年1月 2日 (水)

言葉の移りゆき(256)

見出しの「勇み足」は依然として続く

 

 今日は新聞の休刊日です。昔は、一年のうちで1月2日だけが休刊でした。それでも、寂しい思いをしたものです。

 現在は、新聞の購読者が減っているのに関わらず、休刊日が月例行事になってしまいました。新聞配達員に月1回の休息日を与えるというのは口実であるのが明瞭です。それなら、土曜日・日曜日の新聞は駅売りに限って発行を続ければよいのです。放送の世界は年中無休ですから、新聞もできないはずはありません。新聞離れを加速させている理由の一端に、新聞社の姿勢があることは否定できません。

 

 さて、新聞の見出しが日本語を壊す役割を果たしているということを、私は何度となく指摘してきました。

 引用するのは、芸能人がまったく関わっていないのに、いかにも芸能人が推奨しているかのように思わせる宣伝広告についての記事です。

 

 「マツコも驚いた」「坂上忍も絶賛」「たけし『天才だね』」。こうしたタイトルのブログ記事で健康食品や化粧品などを宣伝するネット広告の中に、実際にはテレビ番組で紹介されておらず、芸能人もまったく関わっていないものがあるとして、広告会社などでつくる「日本広告審査機構」(JARO)が問題視している。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181114日・朝刊、13版、9 ページ、栗林史子)

 

 この記事の見出しは、次のようになっています。

 

 「お墨付き」広告 虚偽横行 / 「マツコも驚いた」「たけし『天才だね』」 / ブログに掲載 JAROが注意喚起

 

 引用したのは、記事全体の一部分です。記事は引用部分の5倍ほどの長さです。この記事の中には、「お墨付き」という言葉はどこにも使われていません。引用した記事の中の言葉を使って、この見出しを批判してみましょう。

 「こうした〔見出し〕で〔記事内容を表現しようとしているもの〕の中に、実際には〔記事の中では使われておらず〕、〔記者自身もまったく関わっていないもの〕がある」ということです。見出しを付ける人が、自身の判断で(記者の了解を取っているか否かは知りませんが)、言葉を選んでいるのです。

 見出しの力は大きいと思います。見出しの言葉は、記事内容に「お墨付き」を与えることにもなりかねません。しかし、記者の側からすれば「虚偽」の(=記者本人にとっては心外な)言葉が使われている(横行している)かもしれないのです。

 「お墨付き」とは、権威のある人から得る保証のことです。健康食品や化粧品の専門家でない芸能人が、仮に宣伝に関わったとしても、それは宣伝のフレーズに過ぎず、「お墨付き」とは言えないでしょう。この記事を書いた記者が「お墨付き」などという言葉を使わなかったのは、正しい言語表現であると言うべきでしょう。

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2019年1月 1日 (火)

言葉の移りゆき(255)

初春の年賀状に思うこと

 

 新しい年が明けました。年賀状が届くのは嬉しいことです。葉書を書くのも楽しいことです。

 けれども、私は昨年から年賀状を取りやめることにしました。ただし、親戚とか大先輩とか、こちらから取りやめを申し出るのがためらわれる状況もありますから、それらの方々は例外です。それでも、昨年末に書いたのは、これまでの3分の1ぐらいになりました。歳末にすることが減って、ちょっとラクになりました。

 私は手紙・葉書などをいただくのも差し出すのも大好きです。そうであるのに取りやめた理由は2つあります。私は、パソコンを使って文面を印刷しますが、宛名書きは自筆です。宛名書きまでパソコンに委ねるつもりはありません。

 年賀状を取りやめた理由のひとつは、同一の文面で大勢の方に送ることに飽きてきたからです。虚礼とは思いませんが、流れ作業のようにも感じたのです。これまでにも、一人一人に宛てて異なった文面で書き送ったことはありますが、そのやり方に専念しようと思ったのです。

 もうひとつの理由は、前記の理由と関連することですが、一人一人に異なった葉書を書くためには時間がかかります。年頭という時期にこだわらずに、ゆっくり書きたいと思うのです。年に一度ぐらいの消息の交換はしたいと思いますから、正月が過ぎてから、ゆっくり書こうと思うのです。

 そのやり方に、自分でも抵抗は感じています。いただいてから返事を書くのですから、自己本位です。けれども、同一の文面よりは、ゆっくり一人ずつに宛てて書くということを選びました。

 今年いただく年賀状は、減るだろうと思います。でも、ゆっくり返事を書くのは嬉しいことです。姿勢を明らかにするために年賀葉書ではなく通常葉書を使います。

 

 さて、年末のコラムで、こんな文章を読みました。

 

 受取人の住所、差出人の名をはがきのどこに書くか答えなさい-。9年前、全国学力調査で出題されると、小6の3人に1人が誤って答えた。結果は日本郵便の社員に衝撃を与える。翌年から始めたのが、希望に応じて郵便局員らが教室に出向く体験授業だ

 最も多いのは小学校。昨年度は全国300万人に手紙のイロハを教えた。 …(中略)

 いやはや手紙のやり取りが細るわけである。それでも、相手を思い、手間をかけ、季節を運ぶ手紙という文化はそうそう簡単には滅ぶまい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181228日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 誤答の多さに衝撃を感じなければならなかったのは、日本郵便の社員ではなく、父母や教員こそでなければなりません。手紙・葉書を書かない父母が子どもに教えることはできず、教員も教えていないということでしょうか。家庭教育や学校教育がなおざりになっているのです。教えるということは、身に付くようにするということです。

 郵便局員が全国300万人に体験授業をするのを、傍観していたのは父母や教員ではないでしょうか。驚きを通り過ぎて、怒りを感じます。ひと任せの指導をしていてはなりません。

 外国語教育やパソコン指導をする前に、しなければならないのは日常の言語生活の指導です。文部科学省から一般市民まで、考え直さなければならないことはいっぱいありますが、これも端的なひとつの例です。

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2018年12月31日 (月)

【掲載記事の一覧】

 このブログは、次の3つのことにおいて「ギネス記録」になっています。(本当! えっ、本当?) ギネスに申請をしていないだけであって、本当なのです。

 その1。このブログは、2006年8月29日に開設しましたから、12年半になろうとしています。その間、1日も休み無く記事を掲載してきました。長期間にわたって無休を続けているブログは実に稀少です。

 その2。1日に複数の記事を掲載したこともありますから、現在までの掲載記事数は5683本に達しています。

 その3。記事のうち、「明石日常生活語辞典」は2605回に達しており、単一のテーマでの連載では抜群に多い連載回数です。なお、この連載は2019年に武蔵野書院から書籍として出版の予定です。

 さて、最近は写真の掲載を行っていませんが、この12年間の画像数は6381枚です。

 また、このブログへのアクセス数は、58万回に迫っています。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでにブログに連載した記事を、内容ごとに分類して、一覧を記します。掲載日をもとにして検索してください。

 

【日本語に関する記事】

 

◆言葉の移りゆき ()(254)~掲載を継続中

    [2018年4月18日 ~ 最新は20181231日]

 

◆日本語への信頼 ()(261)

    [2015年6月9日 ~ 2016年7月8日]

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日 ~ 2010年3月10日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)

    [201310月1日 ~ 20131031日]

 

◆ところ変われば ()()

    [2017年3月1日 ~ 2017年5月4日]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日 ~ 2009年6月4日]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日 ~ 2007年7月7日]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日 ~ 2012年7月8日]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日 ~ 20071030日]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日 ~ 20061226日]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日 ~ 2012年1月4日]

 

 

【兵庫県明石市などの方言に関する記事】

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(2605)

    [2009年7月8日 ~ 20171229日]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日 ~ 2011年9月13日]

 

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-

                        ()()

    [20171230日 ~ 2018年1月7日]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日 ~ 2007年9月29日]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日 ~ 2007年8月20日]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日 ~ 20061015日]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日 ~ 2007年9月12日]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日 ~ 2007年5月7日]

 

 

【郷土(明石市の江井ヶ島)に関する記事】

 

◆名寸隅の船瀬があったところ ()()

    [2016年1月10日 ~ 2016年1月14日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)

    [2012年9月20日 ~ 2013年9月5日]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日 ~ 2011年6月1日]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日 ~ 2014年4月12日]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日 ~ 2008年1月18日]

 

◆名寸隅舟人日記 ()(16)

    [2016年1月1日 ~ 2016年4月2日]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

 

【『おくのほそ道』に関する記事】

 

◆『おくのほそ道の旅』【集約版】 ()(16)

    [2018年3月18日 ~ 2018年4月2日]

 

◆『おくのほそ道』ドレミファそら日記【集約版】 ()(15)

    [2018年4月3日 ~ 2018年4月17日]

 

◆奥の細道を読む・歩く ()(292)

    [2016年9月1日 ~ 2018年3月17日]

 

 

【江戸時代の五街道に関する記事】

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日 ~ 2015年3月31日]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58)

    [2015年4月1日 ~ 2015年6月23日]

 

◆奥州道中10次 ()(35)

    [20151012日 ~ 20151121日]

 

 

【ウオーキングに関する記事】

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日 ~ 2014年5月9日]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日 ~ 2014年5月30日]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日 ~ 2012年5月3日]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日 ~ 2009年6月30日]

 

 

【国語教育に関する記事】

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日 ~ 20071212日]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日 ~ 2008年7月20日]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日 ~ 200610月4日]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日 ~ 2007年8月10日]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日 ~ 200612月7日]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日 ~ 20061222日]

 

 

【教員養成に関する記事】

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日 ~ 2008年9月24日]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日 ~ 20061011日]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日 ~ 200611月2日]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日 ~ 2007年6月6日]

 

 

【花に関する記事】

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日 ~ 2009年6月22日]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日 ~ 2009年5月8日]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日 ~ 2009年3月16日]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日 ~ 20081113日]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日 ~ 20081215日]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日 ~ 2007年6月30日]

 

 

【鉄道に関する記事】

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日 ~ 2007年7月31日]

 

 

【その他、いろいろ】

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日 ~ 20061231日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日 ~ 2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日 ~ 2013年8月28日]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日 ~ 2009年9月10日]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日 ~ 2008年1月10日]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日 ~ 20081125日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日 ~ 2010年1月3日]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日 ~ 2007年8月27日]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日 ~ 2007年8月30日]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日 ~ 2012年9月19日]

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言葉の移りゆき(254)

世間を無視した駅名「ゲートウェイ」

 

 言葉に関して今年一番の腹立たしいと思ったことについて書きます。

 JR山手線に建設が進んでいる新駅の名前が決まったというニュースがありました。その名前を歓迎する意見は少なく、強い批判にさらされました。

 

 JR山手線・京浜東北線田町-品川駅間(東京都港区)2020年春開業する新駅の名称が、「高輪(たかなわ)ゲートウェイ」に決まった。JR東日本が4日に発表した。新駅は山手線では1971年の西日暮里駅、京浜東北線では2000年のさいたま新都心駅以来で、カタカナを含んだ駅名はどちらも初めてとなる。

 JR東によると、今年6月の駅名公募に約6万4千件の応募があり、最多は「高輪」(8398)で、「芝浦」(4265)、「芝浜」(3497)が続いた。計約1万3千種類の駅名について、深沢祐二社長ら社内の選定委員会が最終選考した。

 「高輪ゲートウェイ」は36件で130位だったが、深沢社長は「この地は江戸の玄関口として栄え、明治期には国内初の鉄道が走った。過去と未来、日本と世界をつなぐ結節点としてふさわしい」と説明した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月5日・朝刊、13版◎、34ページ、細沢礼輝)

 

 まっ先に感じることは、約6万4千件の応募で、約1万3千種類の駅名が提案されたということです。奇抜きわまりない駅名も無数にあったことでしょう。関西ならば洒落っ気たっぷりの提案もあるでしょうが、こんなに多数の種類に分かれることはないでしょう。首都圏の人間の多様さ、無秩序さに驚くばかりです。深沢祐二社長ら社内の選定委員会は、提案された駅名の奇抜さに慣れてしまって、自らも奇抜な言葉を選んだのでしょう。

 「高輪」(8398件、1位)と、「高輪ゲートウェイ」(36件、130)の差は歴然としています。選定委員会は目がくらんでいたとしか言いようがありません。「芝浦」であれば納得する人も多いでしょうが…。

 高輪は「江戸の玄関口」であったかもしれませんが、すべての駅はそれぞれの土地の「玄関口」です。馴染めない駅名をつけられたら迷惑です。百歩譲って「高輪玄関口駅」の方が、ましであると言わねばなりません。とは言え、「過去と未来、日本と世界をつなぐ結節点としてふさわしい」という、取って付けたような説明には、開いた口が塞がりません。

 「高輪駅」が、白金高輪駅や高輪台駅と紛らわしいのなら「JR高輪駅」とか、東京都に因んで「いちょう高輪駅」とすれば良いでしょう。JR西日本の命名法(JR難波駅、さくら夙川駅など)を見習えばよいのです。定着していない外来語に飛びついて駅名にするというのは非常識です。

 結局は、駅名公募という形を取りながら、応募者を無視して、はじめから原案ありきであったのでしょう。応募した人たちを愚弄するような結果になりました。

 JR東日本の社長や幹部の意向が選定委員会に反映されて、強行突破をしたとしか思えません。そうでないと言うのなら、今からでも間に合います。改めて提案をすべきでしょう。何年も経ってから改名すれば、多額の費用が発生してしまいます。

 言葉は、権威だの権力だのというものとは無縁です。無理やり決めても人々の口に上らなくなったらお終いです。「E電」がそれを物語っています。誰も「高輪ゲートウェイ」と呼ばなくなって、駅舎や駅名板が「負の遺産」として残るだけです。

 駅名も地名のひとつです。一部の人が勝手に決めてよかろうはずはありません。みんなの共有財産であるということを忘れてはいけません。

 普通に考えれば、「高輪ゲートウェイ駅」という白々しい名前を使わず、単に「高輪駅」と呼んだり、「JRの高輪駅」「山手線の高輪駅」と呼んだりする人が多くなるでしょう。それでも、少数の人たちは、「高輪ゲートウェイ駅」と決めたことを手柄のように思い続けるのでしょうか。

 馬鹿は、死ななきゃ治らない。「高輪ゲートウェイ」も、死ななきゃ直らない。そんなふうに思います。

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2018年12月30日 (日)

言葉の移りゆき(253)

「通勤特急」と「直通特急」

 

 「特急」とは特別急行という意味ですが、JRから「急行」や「準急」が姿を消して、特急列車と普通列車という姿になってしまいました。もちろん普通列車が細分されて、各駅停車、快速、新快速という、停車駅の異なるものを走らせている状況もあります。

 関西の私鉄でも、特急と普通が主体になっているダイヤ編成が見られます。その代わり、特急の種別が色分けされて、新しい呼び名が生まれています。

 阪神電鉄と山陽電鉄が神戸高速鉄道を介して、大阪-姫路間に走らせているのが「直通特急」です。複数の鉄道会社を通して運転する特急というわけで「直通」と呼び、15分ヘッドの運行です。

 阪急電鉄が、桜や紅葉の頃に京都嵐山に向けて臨時運行する列車を「直通特急」と呼んでいます。嵐山線はふだんは桂-嵐山間の折り返し運転ですが、行楽シーズンに神戸や大阪などから乗り換えなしに運行するので、一つの会社内での運転ですが「直通」と言っているのです。

 一方、阪急電鉄では「通勤特急」という呼称も使っています。神戸から大阪に向かう特急が朝の時間帯に通常とは違う一駅(塚口駅)に追加して停まるものを、そのように呼んでいるのです。

 その「通勤特急」の名を使った列車がJRにも生まれると言います。

 

 JR神戸線の大阪-姫路間で来春、通勤特急「らくラクはりま」が運行を始める。JR西日本が30日発表した。平日朝に大阪行き、夕方に姫路行きを1本ずつ走らせ、新快速の混雑を避けたい通勤客の利用を見込む。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月1日・朝刊、13版、36ページ、波多野大介)

 

 関西の私鉄は、特急も普通も車両は共通運用ということが多く、特別な車両で運用する観光列車だけで、特急料金を取っています。もちろんJRの通勤特急も特別車両を使うのですから特急券や指定券が必要です。

 関西の私鉄では、急行に限っても、快速急行、急行、通勤急行、区間急行、準急、区間準急などの呼称があって紛らわしいのですが、これからは特急の呼称も細分化されていくのでしょうか。

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2018年12月29日 (土)

言葉の移りゆき(252)

地元の言葉と全国向けの言葉

 

 全国共通の言葉であっても、その使い方しだいで地方色が伴う言葉はいろいろあります。「お好み焼き」という言葉は、広島では、いわゆる広島焼きを指すのであり、それを「広島焼き」と称することは好まれていないようです。

 こんな文章がありました。

 

 帰りにおいしいお好み焼きを堪能できました。広島ではあの薄いクレープ状の一枚から始まるお好み焼きこそがノーマルであり、広島風や広島焼き、とは呼ばないんですよね。

 ところがです。お店のメニューにわざわざ「カキ乗せ・広島焼き」などと名前が書いてありました。おそらく「こう書けば観光客にもわかりやすかろう」という、お店の方のサービスなのでしょう。「広島焼き」は、あえてのやさしい固有名詞というわけです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181130日・夕刊、3版、2ページ、「まあいいさ」、清水ミチコ)

 

 地元で「お好み焼き」と言っている食べ物を「広島焼き」と書くのは、全国(観光客)向けの言葉であるというのです。

 同じような粉モンにたこ焼きがあります。たこ焼きには2種類があって、明石発祥のものと、大阪などで食べられているものとは別物です。地元の明石では「玉子焼き」と言っています。

 2種類のたこ焼きを混同してはいけませんから、出汁につけて味わう、明石発祥のものを「明石焼き」という看板で売っている店がありますが、それは全国向けの言葉です。地元の店には「玉子焼き」と書いてあります。B-1グランプリなどでも「明石焼き」と称するのですが、それも全国向けの言葉です。

 つまり、広島焼きという言葉も明石焼きという言葉も似たような状況にあるのですが、ただひとつ異なることがあります。「お好み焼き」は広島だけでなく、大阪をはじめ各地で使われている言葉であり、「玉子焼き」は類似する、紛らわしい言葉がないということです。弁当などで好まれるタマゴヤキは「卵焼き」と書くのです。

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2018年12月28日 (金)

言葉の移りゆき(251)

日本語の主語を、英語の主語と比べる必要はない

 

 文化にも政治・経済などにも、英米に倣えというような論調があふれています。言葉という、民族独自の精神構造に立脚するものにまで、そういう議論を見聞することがあります。

 日本語そのものを論じているような文章の中にも、その影を見ることがあります。

 

 駅のホームに〈わたし、英語が伸びてきた!〉という塾の広告が出ていました。このうち、主語に当たる部分はどこだと思いますか。

 主語とは、「犬が()歩く」の「犬が()」に当たる部分。英語の場合、単純な1つの文に出てくる主語は1つです。

 ところが、この広告文では、主語らしき部分として「わたし」「英語が」の2つがあります。英語式に考えれば、まことに非常識です。

 国語の授業では、こういう文は取り上げられません。でも「わたし、英語が伸びてきた!」「日本語は主語が2つある?」など、この種の文型は日本語にありふれています。

 大ざっぱに言えば、日本語の文には、全体的な主語(題目)と、部分的な主語とがあります。この広告では、「わたし」が題目、「英語が」が部分的な主語になります。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月1日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 引用した文章に重大な誤りがあることを、まず指摘しておかなければなりません。「国語の授業では、こういう文は取り上げられません」というのは、国語教育をご存じでない方の言葉です。新聞の文章には、学校教育の内容についての無知がそのまま現れることがありますが、これもその例です。「象は鼻が長い」というような文は、文法を扱う場合にはおなじみの表現(文例)です。

 確かに学校教育では「主語らしき部分」などという言い方はしません。けれども、「この種の文型は日本語にありふれています」という表現内容(文型)を避けて、きれいごとの文法説明をしているわけではありません。

 主語というと、すぐに英語と比較して、日本語には主語があるとかないとかということを言う人がいます。そして「英語式に考えれば、まことに非常識です」という判断を目にすることがあります。日本語の文法を英文法に準拠して考えることの方が、非常識なのです。

 主語とは何かという定義にはさまざまな説明がありますが、『広辞苑・第4版』の説明にそえば、「述語に対して主格となる語」です。「花咲く」「成績が良い」の「花」「成績が」がそれに当たると例示しています。このことをしっかりと確認すれば、文法説明が混乱することはありません。

 引用した記事にある〈わたし、英語が伸びてきた!〉に主語が2つあるとすれば、主語の数がもっと多い文を作ることはできます。「わたし、今日は、体が疲れている。」と言えば、主語が3つです。主語が4つの文も作れます。

 学校教育では「連文節」という概念が取り入れられています。「わたし」が主語(主部)であり、「英語がのびてきた」が述語(述部)です。述部の「英語がのびてきた」を分けて、「英語が」を主語、「のびてきた」を述語と考えるのです。全体の主語(主部)は1つしかありません。

 主語が2つ(あるいは、3つ、4つ)という考え方は生徒を混乱させるだけです。そんなことを言えば、大人だって混乱するでしょう。

 「日本語の文には、全体的な主語(題目)と、部分的な主語とがあります」という表現は間違っているわけではありませんが、「主語」「述語」「修飾語」などという文法用語と、「題目」という表現とは、同一基盤上で使われる言葉でないように思われます。

 「わたし、今日は、体が疲れている。」の場合は、「わたし」が主語、「今日は」が修飾語、「体が疲れている」が述語(述部)です。述部の中がもう一度〈主・述〉の関係になっているのです。

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2018年12月27日 (木)

言葉の移りゆき(250)

擬声語・擬態語のもつ語感

 

 擬声語や擬態語について、小型の国語辞典は代表的な言葉を載せていますが、その数は多くはありません。小型辞典だけではありません。大型の国語辞典でも扱いは冷淡なように見えます。載せ始めると際限なく広がってゆくでしょうから、制限しようとする意識があるように感じられます。それは仕方のないことです。

 とは言え、時には、なぜその言葉が、そのような意味で使われるのか、確かめたくなる場合もあります。

 一例を述べます。「きんきん」という言葉です。

 

 シャープは11月、飲み物用の保冷バッグを発売した。ペットボトルのジュースや炭酸飲料を入れておくと、シャーベット状になる。ビールや日本酒ならキンキンに冷やせる。液晶の研究過程で生まれた蓄冷技術を応用した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181130日・朝刊、13版、8ページ、米谷陽一)

 

 ここに使われている「キンキン」というのは、どういう様子を表す言葉でしょうか。

 「きんきん」を見出しにしている国語辞典から引用します。

 

 『三省堂国語辞典・第5版』  ①音や声が高くひびくようす。「- した歌声」②頭や耳がするどくいたむようす。「頭が  いたむ」

 

 『広辞苑・第4版』  金属的で耳に鋭くひびく高い音声。「女の  した声」

 

 この2つの辞典には、冷たいという意識に結びつく説明は載っていません。

 そこで、擬声語や擬態語を専門にしている辞典を見てみます。

 

 ①金属的で、鋭く、耳にひびくようなかん高い音や声。

 ②かたく張りつめたさま。そのような感覚を生じるさま。

 ③鋭く張りつめたように光るさま。

 (小野正弘()『日本語オノマトペ辞典』、小学館、20071031日発行、80ページ)

 

 この辞典には用例は豊富ですが、ここでは用例を省略して引用しました。②には、「キンキンに冷えたビール」という用例が載っています。

 

 ここからは、私の感覚について述べます。『三省堂国語辞典』の〈②頭や耳がするどくいたむようす〉と、『日本語オノマトペ辞典』の〈②かたく張りつめたさま。そのような感覚を生じるさま〉とに関係があります。

 例えば、かき氷を頬張ったりしますと、その冷たさが一瞬のうちに頭の芯まで届きます。頭の中に痛みが生じるように感じます。耳も痛く感じるかもしれません。ジュースなどの液体では、よほど冷えていないと、頭の芯まで痛むような感覚にはなりません。

 まさに〈頭や耳がするどくいたむようす〉なのですが、『三省堂国語辞典』が冷たさによってそれが生じる用例を挙げていないのが残念です。『日本語オノマトペ辞典』は「ビール」の用例を挙げていますが〈かたく張りつめたさま。そのような感覚を生じるさま〉という説明には物足りなさを感じます。

 〈頭や耳がするどくいたむようす〉という説明に、〈冷たさなどによって…〉という言葉を加え、その上で、「ビールをキンキンに冷やす」「かき氷を食べたら(頭が)キンキンする」という例文を挙げてもらえたら嬉しいと思います。「キンキン」は形容動詞であり、サ行変格活用動詞でもあるのです。

 もっとも、この「キンキン」という言葉の使い方には、地域差による変化があるのかどうか、私にはわかりません。

 

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2018年12月26日 (水)

言葉の移りゆき(249)

辞書にない言葉「出稿」

 

 文字を見れば意味の察しはつくのですが、国語辞典にない言葉があります。そのひとつが「出稿」という言葉です。「稿」は原稿のことでしょうから、原稿を出すのが「出稿」でしょう。

 とは言え、これは、筆者が出版社に原稿を提出するという意味にも取れますし、出版社が印刷所などへ原稿を届けるという意味にも取れます。

 小型の国語辞典はたいてい「出稿」を載せていませんが、その例外が『三省堂国語辞典・第5版』です。つぎのように書いてあります。

 

 原稿を出版社や印刷所などに渡すこと。

 

 この説明には納得するのですが、多くの国語辞典の編集者は「出稿」を、自分たちの業界用語のように考えて、辞典に収めることをしなかったのでしょうか。

 ところで、もうひとつ別の意味で使われている「出稿」があります。

 

 総務省がまとめた国内放送業界の2017年度の収支状況によると、NHKを除く地上波テレビ・ラジオ計194社のうち、純損益が赤字になったのは22社と前年度比で13社も増えた。大半がラジオ局で、複数の大口スポンサーの広告出稿の見合わせが相次いだことが原因だという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181127日・朝刊、10版、30ページ、河村能宏)

 

 これは『三省堂国語辞典』も載せていない意味です。

 推測すると、スポンサーが新聞・雑誌・テレビなどに広告を出すという意味のようです。広告の文案や文章を作って出すという意味で「出稿」という言葉が使われ始めたのでしょうが、実際の状況としては、原稿を出すということよりも、スポンサーとして金を出すということになっているのではないでしょうか。

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2018年12月25日 (火)

言葉の移りゆき(248)

「つなげる」という言葉

 

 「つなげる」という言葉が気になっています。繋げる、です。変哲のない言葉といえば、それまでです。

 『三省堂国語辞典・第5版』の「つなげる」は、実に素っ気ない説明です。引用します。

 

 つなぐ。

 

 たった一語、置き換えの言葉しか載っていません。他の項目に比べて、目立った扱いのようにも見えます。ちょっとひどいではないか、と言いたくもなります。

 さて、私の日常生活では、「つなぐ」を使っても「つなげる」を使うことはほとんどありません。「つなげる」は、私にとっては可能動詞なのです。関西の言葉遣いの傾向なのか、私個人の傾向なのか、判断は難しいと思います。

 『明鏡国語辞典』の「つなげる」は詳しい説明になっています。引用します。

 

 一〔他下一〕 ①結びつけて一続きにする。つなぐ。「ひもを -・げて長くする。」

 ②つながるようにする。特に、何かと何かがあるかかわりをもってつながるようにする。「最後のチャンスを大量得点に -・げよう。」

 二〔自他下一〕 〔「繋ぐ」の可能形〕つなぐことができる。「ビデオの配線なら一人でも -」

 

 この説明には納得します。私の使わない用例「一」と、私の使う可能動詞「二」とが、明確に区別されているのです。

 さて、新聞記事を引用します。

 

 2020年にアラブ首長国連邦(UAE)のドバイで開催される国際博覧会(万博)に向け、日本政府の代表団が25日、参加国の会議のため訪れたドバイで記者会見を開いた。25年に大阪での万博開催が決まったことを受け、中村富安代表は「大阪にもつなげることができる工夫を考えていく」と述べた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181126日・夕刊、3版、7ページ、ドバイ=高野裕介)

 

 「つなげることができる」という言い方は、『明鏡国語辞典』の「一」の使い方に「できる」という言葉を続けた表現です。「二」の使い方では、「つなげる」の一語で同じ意味を表せるのです。この発言者はどこの出身者なのかは知りませんが、関西なら「大阪にもつなげる工夫」といえばよいものを、「大阪にもつなげることができる工夫」と言っているようです。

 この記事の見出しは、「政府代表団『大阪につなげる』 ドバイ万博」となっています。見出しは可能動詞の感覚で付けられたと見ることもできるでしょう。

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2018年12月24日 (月)

言葉の移りゆき(247)

文章中にも振り仮名付きで「コミュ力」

 

 (241)(243)回の続きです。「コミュ力」の増殖は続きます。文章中は「コミュニケーション能力」であるのに、見出しが「コミュ力」である例です。

 

 「コミュ力高い」に無言の抗議 / 順大前で学生ら 【見出し】

 「女子のコミュニケーション能力が高い」ことを理由にあげた点に抗議するため、キャンドルを手に沈黙して実施。医学生ら15人が参加した。 【本文】

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181215日・朝刊、13版、35ページ)

 

 そして遂に、とどめを刺すような文章が現れました。見出しではなく本文で、「コミュ力」の「力」に「りょく」という振り仮名を付けての表現です。

 

 ついこんな言い方をしてはいないだろうか。「女性はお花がお好き」「女性は感覚が繊細」。最近のニュースでは「女子はコミュニケーション能力が高い」との言葉もあった

 順天堂大学医学部の入試で、女子に不利な扱いをしていた理由として責任者が述べていた。女子の方がコミュ力が高いので、面接の点数が良くなってしまう。男子を救うためにゲタをはかせた、ということらしい  《注。「力」に、「りょく」という振り仮名が付いている。》

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181217日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 これは朝日新聞の「顔」とでも言うべき「天声人語」の文章です。新聞社として、このようか表現、このような表記をするということを公式に宣言しているように感じます。

 本文の文章に振り仮名を付けるということは、まだ馴染んでない言葉で、読み方を誤りやすいという配慮からだろうと思います。そうでありながらもこの言葉を使おうとするのは、何としても「コミュ力」という言葉を定着させたいという意図があるからでしょう。

 新聞の力は絶大です。個人が、そんな表現、そんな表記はおかしいと言っても、耳を貸さない姿勢を持っているのです。政治の権力と同じようなものを、新聞も権力としてそなえているということに気付かなければなりません。

 

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2018年12月23日 (日)

言葉の移りゆき(246)

「ほとんど」とは、どれぐらいの割合か

 

 「こじらせていた風邪が、ほとんど治りました。」というような場合の「ほとんど」の使い方は気になりません。「そうですか。よかったですね。」という言葉を返したくなります。

 それでは、「私の考えに、ほとんどの人が賛成してくれました。」という場合はどうでしょうか。「ほとんど」という言葉と数値との関係はどうなっているのでしょうか。

 北海道地震で休校になっていた学校が再開したというニュースがありました。「ほとんどが再開し…」と書いてありました。再開できなかったのが1~2校であるような印象を持ちました。記事には、こう書いてありました。

 

 道内の公立学校はほとんどが再開し、休校は1割弱に減った。札幌市東区の小学校では、通学路に損傷が残る中、登校する子どもの姿も見られた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月10日・夕刊、3版、1ページ)

 

 「ほとんど」という言葉と、数値とが書かれている珍しい例だと思います。この記事では、9割の数値に達したことを「ほとんど」と表現しています。私の感覚とはだいぶ隔たりがあります。数値で区切ることはできませんが、98%前後になったら「ほとんど」が使えるのではないか、というのが私の感覚です。

 国語辞典は、「ほとんど」についての説明で、数値は示していませんから、やや専門的な書物を見てみます。

 

 全体の九割以上の感じで、会話にも文章にも使われる和語。〈- が知らない名前だ〉〈出席者の  が賛成した〉

 (中村明『日本語 語感の辞典』、岩波書店、20101125日発行、979ページ)

 

 この書物には、9割以上と書いてあります。最低数をとれば、9割に達しておれば、「ほとんど」が使えるというのです。これは新聞記事と符合しますが、私の納得の域には達しません。

 例えば、「ほとんど8割(80)ほどが、できあがった。」というような言い方を目にすることがあります。これは 80()×0.972() というような計算ではおかしくなるわけで、限りなく80%に近いことを表しているように思います。

 続いて、別の書物を開いてみます。

 

 全部とまではいかないが大部分、事柄に対して用いれば、完全とまではいかないが九分九厘、の意味になる。

 (森田良行『基礎日本語 意味と使い方』、角川書店、19771030日発行、416ページ)

 

 この書物には、1ページ以上にわたって詳しい解説がありますが、私の感覚と一致します。

 二つの書物の刊行時期には30年以上の隔たりがありますが、この言葉に関しては、時の流れによって変化したと言うよりは、著者の考え方の隔たりの方が大きな要因であるように思います。

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2018年12月22日 (土)

言葉の移りゆき(245)

「少子」も「多死」も、「金」に関わる問題意識

 

 世界の人口が膨張していることを懸念しながら、日本に関しては「少子」を嘆くという論調が続いています。長い歴史の中で日本の人口が1億人を超えたのは、そんなに昔の話ではありません。「少子」の問題点は、これまでのような金儲けができなくなるとか、税や保険などの負担が増えるとか、要するに「お金」がらみの問題であるようです。

 そもそも「少子」とは何なのでしょうか。ひとりの母親が生む子どもの数の平均は下降線をたどっていますが、日本の国から子供の数が瞬時に減るわけではありません。少しずつ減るのなら、それに応じた対応をすればよいわけです。「少子」というのは乱暴な言葉です。まるで、あっと言う間に子どもがいなくなるような印象さえ与えかねない言葉です。煽り立てるような言葉、強調しすぎる言葉と言って良いかもしれません。

 それと対応する言葉をマスコミが使い始めました。「多死」です。人口が1億人あれば、1年間に亡くなる人が多いのは当然です。これも「お金」がらみで使う言葉のようです。煽り立てる言葉、強調しすぎる言葉ということにおいては、「少子」とまったく同じです。

 こんな記事がありました。

 

 身寄りのない人の葬儀にかかる費用を、公的にどう賄えばいいのか。都市部の大半の自治体が、国のルールに反するやり方で、身寄りがない人の葬儀代を生活保護で賄うことを慣例化していた。自治体側からは「ルールが実態にあわない」との声が出ている。「多死社会」を前に、専門家は「弔いのあり方を整理するべきだ」と指摘する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月28日・朝刊、13版、1ページ、中村靖三郎・山田史比古)

 

 本格化しつつある「多死社会」。亡くなった人の親族捜しや遺体の保管を余儀なくされている自治体からは、かさみ続ける負担に悲鳴があがる。 …(中略)

 国立社会保障・人口問題研究所の推計では、17年の約134万人から、最も多い40年には約168万人という「多死社会」が見込まれる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月28日・朝刊、13版、3ページ、中村靖三郎・山田史比古)

 

 約134万人から、約168万人になることが「多死」なのでしょうか。昔から、人はどんどん生まれて、どんどん亡くなっているのです。

 社会において「少子」や「多死」という現象が起こるということは、〈多い-少ない〉ということではなくて、〈増える-減る〉ということでしょう。「増減」と「多少」という言葉を混同して使っているのです。

 そして、それらをいずれも経済面への影響だけで考えているのです。

 「少子」も「多死」も、生きるということに関わる根本問題です。けれども、この言葉が使われている場面には、生きる哲学も倫理も介在しません。金儲けができなくなるとか、経済的負担が増えるとかのレベルに終始しています。

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2018年12月21日 (金)

言葉の移りゆき(244)

「妨げるものではない」という言い方

 

 障害者などというときの「害」の文字には否定的なイメージが伴うとして、不快感を持つ人がいます。「障碍」や「障がい」の文字遣いを見ることが多くなりました。「碍」の文字を常用漢字表に加えるべきだという話がありましたが、それについての記事が載っていました。

 

 2020東京パラリンピックを見据え、法律で障害を「障碍」と表記できるよう「碍」の1字を常用漢字表に加えるよう求めた衆参両院の委員会決議に対し、文化審議会国語分科会は22日、追加の是非の結論を先送りし、「自治体や民間組織が『碍』を使うことを妨げるものではない」とする考え方を示した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181123日・朝刊、13版、29ページ、上田真由美)

 

 常用漢字表に1字だけ追加したという例はありませんし、常用漢字表の改定は簡単に行えるものではありません。そのことは理解できます。

 今回のニュースは、国会の委員会決議を契機に議論を始めた文化審議会国語分科会が、〈法律〉ではなく、〈自治体や民間組織〉が『碍』を使うことを妨げるものではないという見解を発表したということです。

 私が言いたいのは、「碍」を常用漢字表に加えることの是非ではありません。「『碍』を使うことを妨げるものではない」という言い方のことです。「妨げるものではない」というのは、使うことを認めているのですが、他の者を押さえて服従させる姿勢そのものです。このような場合に、なぜ「妨げる」などという言葉が必要なのでしょう。国民の前で大手を広げている姿が目に浮かびます。しかも、政治団体ではなく、文化審議会国語分科会というところの言葉に似つかわしくありません。

 「妨げるものではない」という大袈裟な表現を、「妨げない」と言い換えても、その姿勢に変わりはありません。とうして「使うことを認める」と言えないのでしょうか。あるいは、もっとやわらかく「使ってよい」と言えないのでしょうか。

 いずれにしても常用漢字表に手を加えないということであり、「碍」の1字を使うか使わないかという問題に過ぎません。使ってよいのなら、「使ってよい」という言葉でよいのではありませんか。

 「妨げるものではない」という言い方には、本当は使ってほしくないという気持ちが丸見えです。それを、法律用語を使って取り繕っているに過ぎないのです。日本語の将来を考える分科会が、こんな言葉遣いをしていてよいとは思えません。

 

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2018年12月20日 (木)

言葉の移りゆき(243)

「コミュ力」は「コミュニケーション能力」に一致するか

 

 前回の続きで、「コミュ力」についての話題です。

 国語辞典で説明されていることに沿うならば、「コミュニケーション力」とは、〈言葉・文字・身振りなどによって、互いに、意思・感情・思考・情報などを、交換・伝達する力〉のことです。

 「街のB級言葉図鑑」で紹介されている文章によれば、〈広告などの文案・文章などを作る力〉が「コミュ力」であるようです。

 その「街のB級言葉図鑑」よりも半年前に、次のような見出しの記事がありました。

 

 コミュ力と言うけれど 【見出し】

 就活真っ盛り。この時期に「魔法の言葉」として飛びかうばかりか、今や人間の価値をはかる物差しのようにさえ使われる言葉が「コミュ力」だ。それっていったい何? 【リード文】

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月23日・朝刊、10版、13ページ、「耕論」)

 

 この特集は、3人の談話を集めたものですが、リード文では、「就活」「魔法の言葉」「人間の価値をはかる物差しのようにさえ使われる言葉」をキーワードにしています。それが「コミュ力」であると言うのです。

 川嶋太津夫さんの言葉を引用します。

 

 日本では、「コミュ力」という省略語で若者の間で日常用語化し、本来の意味から離れつつあります。空気をうまく読んだり、雰囲気を巧みになごませたり、テレビ番組のMCのようにうまくその場を仕切って回したりすることができる対人スキル、という理解が広がっているようです。少なくとも企業が学生に求める能力とは違います。

 (出典は、上に同じ)

 

 斎藤環さんの言葉を引用します。

 

 相手を傷つけず、ほどよい距離感で誰とでもやりとりする。その作法になっていったのが「コミュ力」でした。

 (出典は、上に同じ)

 

 岡田美智男さんの言葉を引用します。

 

 コミュ力とは、不完全な私たちが、お互いを補い、支え合うなかで生じる関係の力です。言い方を変えれば、自分の弱さ、不完全さを上手にそして適度に他者に開示することによって、相手の手助けを引き出していく力とも言えるでしょう。

 (出展は、上に同じ)

 

 引用した記事は 就職活動をテーマにした特集です。けれども、学生たちは「コミュ力」という言葉を、「コミュニケーション力」とは違った、ある限定された意味で使っていることは確かでしょう。「コミュ力」は、自己宣伝や自己擁護にとって都合のよいやり方であり、その能力のことを示しているのです。

 

 さて、最初(241)の話題に戻ります。新聞は、とりわけ見出しは、短い言葉で表現しようとします。「コミュニケーション力」という言葉を、今では特別な傾向を持った言葉になりつつある「コミュ力」という略語に置き換えることは、間違っていると言わなければなりません。

 大学の入学試験までもが、「魔法の言葉」や「人間の価値をはかる物差しのようにさえ使われる言葉 (すなわち、実際には物差しになっていない言葉)」である「コミュ力」ではかられるはずはありません。

 最後に言っておきたいことがあります。医師には、医師としての技術だけでなく、〈言葉・文字・身振りなどによって、互いに、意思・感情・思考・情報などを、交換・伝達する力〉が不可欠です。その力を持ち合わせていない人は医師失格です。その「コミュニケーション力」を強く持っているという女子受験生には、加点こそすれ、減点する必要がありません。順天堂大学は根本から間違っているのです。

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2018年12月19日 (水)

言葉の移りゆき(242)

「コミュ力」が現れるのを待っていた

 

 前回の続きで、「コミュ力」についての話題です。国語辞典編纂者のコラムに「コミュ力」のことが書かれていました。

 

 「コミュニケーション」は、1世紀前から日本語に入っています。よく使う語なのに、なぜか略されることがありませんでした。「マスコミュニケーション」は、さすがに「マスコミ」と略されましたが。

 街で、コピーライター養成講座のポスターを見かけました。〈コピー力は、コミュ力である〉と訴えています。 …(中略)

 ネット時代、お互いのやりとりがこれまでになく頻繁になり、ようやく「コミュ」という略語が現れました。ほかに、コミュニケーション障害を「コミュ障」とも言います。これは失礼にもなる言い方です。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181124日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 コラムの見出しは、「コミュ力 / 1世紀経って略語が現れた」です。国語辞典編纂者からすれば、待って待って、やっと現れてくれたという気持ちであるようです。「コミュニケーション」というような、よく使う語であり長い言葉は、略されて当然という考えが基本にあるようです。それは、日本語に対する、望ましい考え方なのでしょうか。疑問に思います。

 ポスターにある「コピー力」とは、広告などの文案・文章などを作る力のことです。それが「コミュ力」(のひとつ)であると言っているのです。

 それにしても、「マスコミュニケーション」が「マスコミ」と略されるのなら、なぜ「コミ力」にならないのでしょうか。あるいは、どうして「マスコミュ」と略されなかったのでしょうか。たぶん、その時その時の気分のようなものに支配されているのでしょう。

 ところで、国語辞典によれば、「コミュニケーション」の意味は、〈言葉・文字・身振りなどによって、互いに、意思・感情・思考・情報などを、交換・伝達すること〉というのが、おおよその共通認識です。

 たいていの国語辞典が、この言葉を名詞として扱っていますが、『三省堂国語辞典・第5版』には「(名・自サ)」とあります。自動詞であり、サ行変格活用をするという意味です。例えば「伝達」という名詞は、「伝達する」という動詞としても使われます。

 それにしても、「コミュニケーションする」は自動詞でしょうか。そんなはずはありません。自動詞ならば、情報が送り手から受け手に伝わるという意味です。「コミュニケーション能力」などと言う場合は、伝える力のことですから他動詞の働きをしています。順天堂大学の屁理屈も、他動詞でなければ意味を持ちません。

 ところで、「コミュ力」は、このコラムで紹介されたのが嚆矢ではありません。それより前に、朝日新聞が、振り仮名もなく、大きな見出しで使っていた例は、次回で紹介することにします。

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2018年12月18日 (火)

言葉の移りゆき(241)

「力」という文字に振り仮名は必要か

 

 新聞に不思議な欄があります。空間ができてしまうから仕方なく作るような欄です。1ページの片隅に、その日の記事を紹介する欄です。見出し程度のものならば、見過ごしても良いと思います。そうではなくて、何行かの文章を添えて、何ページにどんな記事が載っているかということを紹介する欄です。わずか30ページほどの朝刊であるのに、その欄を見て、読むところを決める読者が存在するというのでしょうか。

 ただひとつの利点は、何日か後に、あの記事はいつの紙面に載っていたのかと思ったときに、見つけ出すのには役立つでしょう。それならば、その検索に役立つような機能を持ったものを開発すべきです。限られた記事の紹介だけでは、検索機能は果たせません。網羅的な機能を備えていませんから、まったく役に立ちません。

 

 話題は変わります。「力」という漢字は、小学校低学年の児童であっても、読み書きはできますし、意味も理解できます。そんな「力」という文字に、どうして振り仮名を施すのでしょうか。「力」という文字に振り仮名を施さなければ誤解をされる、というような記事を新聞は書くべきではありません。

 引用するのは、1ページの題字の下にある、その日の記事を紹介する欄と、同じ日の29ページの記事です。

 

 「女子はコミュ力が高い」波紋 【見出し】 《注。「力」に、「りょく」という振り仮名が付いている。》

 医学部の入試面接で女子に不利な扱いをした理由は「コミュニケーション能力が高い」ため。順天堂大の説明に波紋が広がる。 29面 【本文】

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181212日・朝刊、13版、1ページ)

 

 入試差別に「女子はコミュ力高い」 根拠は? 【見出し】 《注。「力」に、「りょく」という振り仮名が付いている。》  

 「女子の方がコミュニケーション能力が高く、男子を救う必要がある」。医学部入試で女子に不利な扱いをしたことについて、順天堂大がした説明に、批判が起きている。そもそも「女子の方がコミュニケーション能力は高い」という説に、根拠はあるのか。  【本文】

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181212日・朝刊、13版、29ページ)

 

 見出しはどちらも「コミュ力」となっていますが、本文にはその表現はありません。1ページの方は全文引用です。「コミュニケーション能力」という表現が1箇所あります。29ページは長い文章ですが、「コミュニケーション能力」という表現が6箇所あります。

 記事はきちんと書かれているのですが、見出しにするときに「コミュ力」という言い方を採用し、カタカナとの混同を恐れて「力」に振り仮名を付けたのです。

 私は、これまでも、このブログで何度も、新聞の見出しが日本語を乱すきっかけを作っているということを指摘してきました。こんな振り仮名を付けてまで、混乱するような言葉を使いたいのでしょうか。

 「コミュ力」などという短縮語は、日本語にとって望ましいことでしょうか。短く言うことにどれほどの価値があるのでしょうか。せめて「コミュ能力」とでもすれば、馬鹿馬鹿しい振り仮名は必要なかったはずです。見出しは文字数の制約を受けるということを理由にして、おかしな日本語表記をしないようにと願いたいものです。

 さて、以上は「コミュ力」についての最新の話題です。時間をさかのぼって、この「コミュ力」という言葉が紙面に現れたことについて見てみたと思います。それは、次回に書きます。

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