2020年9月27日 (日)

ことばと生活と新聞と(219)

「甘じょっぱい」は東京語?


 自分たちの地域では使わないし、書き言葉の文章でもお目にかかることが少ないような言葉に出くわしたときには、一見、共通語のように感じられるけれども、それは東京の方言ではないかと思うことがあります。
 東京の方言という意味は、東京の人(たぶん)によって書かれた言葉が、全国で通用するような意識で使われているということです。そのような言葉はいくつもありますが、今回は並べあげることはしません。
 甘辛いということを「あまじょっぱい」というのもその一つのように感じています。こんな文章がありました。

 冷たくつるんとしたのど越しのよさで、食欲のスイッチを入れてくれる夏の定番「玉子とうふ」。多くの人が、暑い季節の名脇役と認識していることでしょう。
 ところが青森のスーパーでは通年の人気商品。たっぷりの具材に甘じょっぱい味つけ、容量も豆腐並みと、玉子とうふとしてはいささか不思議な存在です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月22日・朝刊、be7ページ、「お宝発見ご当地食」、菅原佳己)

 「しょっぱい」は国語辞典にきちんと記載されていますから、東京方言と言わなくてもよいのかもしれません。けれども関西では「からい」が主流であって、「しょっぱい」の意味は理解できますが、その言葉を使うことは少ないと思います。
 上に引用した「あま(甘)じょっぱい」は甘辛いということなのでしょう。ところが一瞬「あま(甘)ずっぱい」という意味かと間違えそうになりました。「あまずっぱい」という言葉には違和感がないからです。私たちの地域では「あまずいい」と言うことが多いのですが、「あまずっぱい」と聞いても違和感はありません。
 幾種類かの小型国語辞典で確かめてみますと「あまずっぱい」は載せていても、「あまじょっぱい」は載せていないようです。「しょっぱい」に比べて「あまじょっぱい」を使うことは極端に少ないのかもしれません。
 微妙な味わいを、地域で使われている言葉を使って表現することは、望ましいことだと思います。そのような文章を読むと、特別な味のようすが感じられたりします。詩的な表現のよさを感じたりするものです。けれども、ニュース的な文章に求められるのは、すべての人に等しく伝わるということかもしれません。

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2020年9月26日 (土)

ことばと生活と新聞と(218)

「行けたら行く」と「考えときます」


 言葉遣いというものは、自分で工夫するのではなく、他人が使っているのを真似て使うことから始まります。その言葉の持つ意味合いをきちんと教えられない場合がありますが、そのときは自分で意味を想像しながら使うことになります。
 あまりにも簡単な言葉遣いであれば、そこに特別な意味合いが込められているとは考えないで、日常生活の場面で使うことがあります。
 何かの催しに誘われたけれども、その日の都合がうまくいくかどうか判断できないことがあります。出欠の判断を即座に求められることがあって、その時、「行けたら行くけど、まだ決められない。」と答えたことがあります。そういう答えをした場合は、行ける・行けないの判断ができた段階になってから、「出席する」とか「出席できない」とかの連絡をしたことがあります。
 近年になって、「行けたら行く」という言葉は、行かない(欠席する)ということを、やや遠回しに伝える言葉であるということを知りました。私は、文字通りに「行けたら」(行く条件が整ったら)行くという意味で使っていましたが、そういう含意があると知って驚きました。私は断ったつもりではないのですが、その言葉を受け取った側は、断ったと理解していたのかもしれません。
 もうひとつ、私が同じような使い方をしていた言葉があります。「考えときます。」という言葉です。この言葉も私は、今は答えられないけれど、しばらく考えた後に判断するという意味で使ってきました。もちろん、再び問いかけられることがなく、忘れてしまったこともあるかもしれません。けれども、即座に断るつもりはまったくなかったことは確かです。
こんな文章を読みました。

 大阪の商売人は、相手に頼みごとをされたとき、次のように答えます。
 「ほな、考えときますわ」
 よかった、考えてくれるんだな、と相手はほっとします。でも、何日かして、「先日お願いした件はどうなりましたか」と尋ねると、また、「考えときますわ」と言われます。
 つまり、「考えときます」というのは、「だめ」の意味なんですね。考えるけど、やらない、ということ。それに気づかない人は、何度もむだに訪問することになります。
 (飯間浩明、『日本語をつかまえろ!』、毎日新聞出版、2019年11月30日発行、130ページ)

 大阪の話であって全国の話ではないかもしれません。商売人だけの言葉遣いかもしれません。けれども、こういう文章を読むと、関西人はみんな、そういう意味を込めて使われている言葉であるということを知っていなければ、大人の言葉遣いができないように感じてしまいます。
 国語辞典編纂という専門的な仕事に携わっている人が書いておられるのです。この本は、もともと小学生向けに書かれた文章を集めたようです。子どもにもこういうことを教えておこうという意図が、私にはよくわかりません。
 「行けたら行く」や「考えときます」を、表面的な意味で使ってはならないということを、子どもたちにも教えておかなければならないのでしょうか。私はそのようには思いませんが、私のように表面的な意味だけで使う大人ができてはいけないという配慮なのかもしれませんね。
 もっとも、そんな私でも、政治家たちが使う「前向きに検討します」や「善処します」が、ほんとうはそんな意志を持たずに発言していることはすぐにわかります。
 『日本語をつかまえろ!』には業界用語や、特殊な使い方や、難しい用語・用字などの例も次々に登場します。そんな話題を列挙して「日本語をつかまえる」ことよりも、正しい日本語を理解し、それを使って表現するために必要な話題を提示する方が子どもにとっては大事なことであると思います。報道や商業などに対応する知識を並べることよりも、日本語の指導に力を注いだ著述の方がうんと大切なことだと思います。

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2020年9月25日 (金)

ことばと生活と新聞と(217)

外国語の、日本語への訳し方


 外国で使われている言葉を日本語の文章の中で書く場合に、カタカナ外来語として書くことがずいぶん多いのが現実の姿です。日本語に訳して書くのが面倒であったり、適切な表現が見つからない場合であっても、安易にカタカナ外来語として書いてほしくありません。
 ところで、日本語にある言葉を組み合わせて表現する場合は、どのような経緯でその表現を選ぶのでしょうか。時には、筆者によって使う言葉が異なる場合もあります。
 次のような表現を見かけて、そのことが気になりました。

 「飛び恥」という言葉が温暖化対策で欧米では話題になるほど、飛行機が出す二酸化炭素(CO2)は他の移動手段に比べて多いが、どうしたら減らせるのか。九州大学や近畿大学のチームが、日本航空(JAL)と全日空(ANA)の日本発着の国際線のCO2排出量を分析したところ、燃費の良い機材導入による効果が最も高かった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月24日・夕刊、3版、3ページ、「ぶらっとラボ」、神田明美)

 欧米で「飛び恥」という言葉が話題になっているというのですが、この言葉を多くの筆者が同じ言葉遣いで使っているのでしょうか。カタカナ外来語でなく日本語の言葉で表現していることは望ましいと思いますが、原語が示されておりませんから、この訳語がふさわしいのかどうか、わかりません。
 けれども「飛び恥」という言葉遣いにはなんとはなしに違和感を覚えます。「〇恥」というように「恥」という文字が後ろに来る熟語は、大恥、赤恥、面恥(つらはじ)、などで、しかも「恥」の前に動詞が来るのは、生き恥、死に恥、ぐらいのものでしょう。
 もちろん、いろいろな言葉を作ってもかまわないのでしょうが、二酸化炭素の排出量の多さは、「恥」という言葉の表す内容とは少し違っているように思います。「飛び恥」には、不都合だという意味が込められているかもしれません。けれども、二酸化炭素の排出量の多さは、「恥」という言葉の本来の意味、すなわち、面目を失ったり、不名誉になったりするような意味ではないと感じられるのです。
 今後、他の筆者がどのような言葉を使うのか、興味を持って注目していきたいと思います。

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2020年9月24日 (木)

ことばと生活と新聞と(216)

「踊る市場」という言葉から受ける印象


 言葉は、国語辞典に書かれているような意味のまま使うことがありますが、比喩の使い方や文学的表現などをすることもあります。当然過ぎる言葉遣いでは面白くありませんから、通常の使い方とは異なるような表現をすることもあります。
 今年はサンマが不漁であると言われておりましたが、実際その通りで、庶民の口には届きそうにありません。こんな見出しの記事がありました。

 踊る サンマ市場 / 初競り最高値 昨年の5倍
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月24日・夕刊、3版、9ページ、見出し)

 「踊る サンマ市場」という言葉を見ると、大盛況のような印象です。取扱量が多く、値段も高くなっているような感じです。それにしても、「踊る」という、称えるような表現するのですから、何かの意味が込められているようです。本文を読んでみると、次のようになっています。

 代表的な秋の味覚であるサンマの棒受け網漁の初競りが24日、北海道厚岸町の厚岸漁港市場であった。1キロ当たりの最高値は1万1千円(金額はいずれも税抜き)となり、昨年の初競りの最高値2330円の5倍近い値がついた。
 厚岸漁港で23~24日にあった中型船4隻による初水揚げは約900キロ。昨年の同じ漁の初水揚げ約40トンの2%強にとどまった。 …(中略)…
 サンマの漁獲の大部分を占める棒受け網漁が急回復しない限り、庶民には縁遠い「高級魚」の状態が続きそうだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月24日・夕刊、3版、9ページ、大野正美)

 「おどる」という言葉は「踊る」の他に「躍る」の文字遣いもありますが、どちらの文字であっても、読者にとって心おどるような内容が欲しいと思います。記事を読み終わった印象では、今年のサンマは高くて口に入りそうにないという寂しさだけが残ります。「踊る」というのは、高値であるということだけのようです。漁業者も市場関係者も、「踊る」ような心は持てなかったのではないでしょうか。
 これは大阪本社版の見出しですが、同じ記事が全国の紙面に掲載されたことでしょう。他の本社版の掲載記事の見出しはどうなっているのでしょうか。知りたいと思います。

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2020年9月23日 (水)

ことばと生活と新聞と(215)

「政権」という言葉の頻用


 安倍首相から菅首相に移りました。とはいえ、「アベノミクス」「アベノマスク」になぞらえて「アベノマ(ン)マ」などという言葉もささやかれているようです。政権交代のような大きな出来事も、言葉の遊びに堕しているようです。
 それというのも前首相が、言葉を正確に、重々しく使ってこなかったことに由来しているのかもしれません。言葉が宣伝材料になってしまっていたと言ってもよいのかもしれません。
 前首相の時代に気になったことの一つは、「安倍政権」という言葉を自分の口からしばしば述べていたことです。しばしばではなくて、しょっちゅうと言うべきかもしれません。
 政権とは、国の政治を行う権利のことです。内閣などは、国の政治を行う権利を持っているのか、国の政治を行う義務を果たさなければならないのか、考え方はいろいろあってもよいと思います。政権という言葉があるのですから、それを権利と考えることがあってもよいのでしょう。
 けれども、政権という言葉を使うのはどんな人でしょうか。これまでは、首相の位置にある人が、自分は政権を握っているなどと言うことは少なかったように思います。一般の人や報道機関などが、政権という言葉を使ってきたように思います。
 前首相は、ことあるごとに政権という言葉を使い、しかも自分たちのことを「安倍政権」という言葉で表現してきました。そして、経済政策に自分の名を冠して「アベノミクス」とも称してきました。まったくコマーシャル・メッセージのごとく扱って、自分を崇め奉るように表現してきたように思います。
 政治家は議論をする場合に、相手のことを悪く言ったりすることがあります。仕方のないことでしょう。けれども、議論をする前に自分たちのことを優れた存在であるがごとくに飾ったり、権威づけたりすることはやめてほしいと思います。
 新しい首相が、自分たちのことを政権呼ばわりすることは、多分ないだろうと思います。「安倍政権」とか「アベノミクス」とかに類する言葉は、政権内部から発する言葉ではありません。この8年ほどの期間の特異現象として、将来は忘れ去られるべき言葉であると思うのです。

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2020年9月22日 (火)

ことばと生活と新聞と(214)

「今ほど大事なときはなさそうだ」という表現


 テレビなどのニュースを見ていると、お詫びの画面は日常茶飯事となっています。したがって、問題を起こせばお詫びをすればよいではないかと考えている人もいるように感じられます。本心からお詫びをしていない人は、瞬時に化けの皮がはがれているようにも感じられます。
 そもそもお詫びの言葉が定型化していて、言葉だけで済ませようとしている人も多いと思います。お詫びの言葉は、「深くお詫びします」、「心からお詫びします」、「謹んでお詫びします」などという言葉で綴られています。深くないお詫びや、心からでないお詫びや、謹んでいないお詫びなどはありえません。けれども「深く」、「心から」、「謹んで」という言葉を使えばよいと考えている人もいるようです。中には、「深く、深く、深く……」などと言う人もいます。言葉を重ねたらよいというものではありません。
 話題が少し変わりますが、こんな文章を読みました。

 かつての貴族や大金持ちの贅沢ではなく、人々の小さな贅沢が経済を回すのが現代である。コロナ終息後にやりたいもののリストは長くなるが、当面の役には立たない。雇用の悪化を止める政府の役割が今ほど大事なときはなさそうだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月18日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 これはコラムの最終段落の全文です。「コロナ終息後にやりたいもののリストは長くなるが、当面の役には立たない。」とありますが、「コロナ終息後にやりたいもののリストは長くなる」という意味が理解できません。膨大なものになるという意味なのか、すぐには提示できないという意味なのか、理解ができません。「当面の役には立たない」というのも何を言っているのかわかりません。
 そして、末尾の言葉「雇用の悪化を止める政府の役割が今ほど大事なときはなさそうだ。」という表現は、言葉だけで強調していることの典型的な見本です。「雇用の悪化を止める政府の役割が大事だ。」と言いたいことは理解できます。それを「今ほど……なときはなさそうだ。」と言うのは言葉だけで強調している表現です。
 「今ほど」というのは文章を書いている時点です。文章を書いている人の頭の中はそういう思いでいっぱいなのでしょう。ちょっと時間が経過したら、また違った思いも浮かんでくるかもしれません。「今が大事だ」「今ほど大事なときはない」というのは、強調表現であるというに過ぎません。「今が」とか「今ほど」というのは、言葉のあやでしかないと思います。今という瞬間が、本当に岐路に立つようなときであるのなら、きちんと説明して、理解を得るような表現が必要です。
 しかも「今ほど大事なときはない」と断言しないで、「今ほど大事なときはなさそうだ」という回りくどい表現(一歩、引き下がったような表現)は何なのでしょうか。自信がないのに強調しているだけの文章です。コラムの文章を、文章の模範であるかのように考えて、読者に書き写させようとするのなら、もっと熟した文章を書いてほしいとお願いします。

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2020年9月21日 (月)

ことばと生活と新聞と(213)

~ の記号について


 文章を口に出して読む場合に、記号にあたるものをどう読むのか迷うことがあります。口に出して読まない場合でも、どういう意味かということに迷うこともあります。
 口に出して読む場合は、% は例外なく「パーセント」と読むようですが、…… を「てんてんてん」と言ったり、「 」 をわざわざ「かぎかっこ」と言ったりします。
 さて、~ という記号は、何と読むのでしょうか。また、どういう意味であると考えればよいのでしょうか。
 実際の例を引用します。メヒシバという植物を紹介する記事です。

 畑や空き地、道端の土のある所ならどこにでも見られるイネ科の一年草。細い茎が地面をはい、節から根を出して立ち上がる。草丈30~90センチ。
 長さ約8~20センチ、幅0.5~1.5センチの細く薄い葉は、柔らかくつやがない。
 7~11月、茎の先に米粒のような小穂をたくさんつけた長さ5~15センチの穂を3~8本出して、放射状に広がる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月13日・朝刊、「第2兵庫」ページ、13版、20ページ、「野の花通信」、片山佳子)

 ~ の記号を「ないし(乃至)」と読むのが口癖の人がいました。「草丈30ないし90センチ」「長さ約8ないし20センチ」というわけです。「ないし」は両端を示して範囲を限定する言葉ですから、意味を正確に伝えることにはなりますが、ちょっと硬い(古い)言葉であるという印象は否めません。
 ~ の記号を「から」と読むことが多いように思いますが、その場合は、「草丈30センチから90センチ」「長さ約8センチから20センチ」となって、前に置かれている数字にも単位(センチ)を補わなければなりません。しかも、「草丈30センチから90センチまで」「長さ約8センチから20センチまで」の「まで」が省略されているという感じになります。
 同じ日の同じ紙面に、谷川岳山岳資料館(群馬県みなかみ町)を紹介する記事がありました。その記事から引用します。

 毎年5月~11月末まで開館。木曜休館。入館無料。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月13日・朝刊、「第2兵庫」ページ、13版、20ページ、「わがまちお宝館」、木下こゆる)

 「毎年5月~11月末まで開館」の ~ は「から」または「より」と読むのでしょうが、「毎年5月から11月末まで開館」と書く方が自然でしょう。わざわざ記号を使う必要はありません。開館期間を示すのなら「毎年5月~11月末」という表現の方がよいように思います。
 ~ の記号の使い方などは、些細なことのようには思いますが、書く人が自由に使ってよいというわけでもないと思うのです。

 なお、この新聞の「第2兵庫」ページは、兵庫県内の記事も載りますが、地域とは関係のない全国記事も掲載されて、ずさんな編集になっています。記事の少ないときには適当に記事を探して埋めているようです。編集の方針なども示されないまま、読者は記事を読まされているのです。

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2020年9月20日 (日)

ことばと生活と新聞と(212)

「ジャンヌ」と「ラリー」の、国語辞典の扱い方


 日本航空のジャンボ機墜落事故から35年を迎えたというニュースに、こんな記事と見出しがありました。

 宝塚歌劇団出身の俳優だった長女由美子さん(当時24)を亡くした吉田公子さん(86)=東京都大田区=は、尾根の墓標を毎年訪れていたが今年はかなわなかった。それでも「少しでも娘の近くにいたい」と、ふもとの村までやってきた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月12日・夕刊、3版、1ページ)

 この記事の見出しは「ジェンヌだった娘 悼む」となっています。「ジェンヌ」というのは「宝塚歌劇団出身の俳優」、つまり元・タカラジェンヌです。「ジェンヌ」という言葉はどんな言葉とも結びつくわけではないと思いますが、パリジェンヌなどはよく聞きます。
 ところで「ジェンヌ」だけの説明は、国語辞典でどのように書いているでしょうか。驚くことに、『広辞苑・第4版』、『岩波国語辞典・第3版』、『現代国語例解辞典・第2版』、『明鏡国語辞典』、『三省堂国語辞典・第5版』、『新明解国語辞典・第4版』、『旺文社国語辞典・改訂新版』には、項目が見当たりませんでした。

 別の言葉に移ります。こんな記事がありました。

広島市佐伯区内の店舗を利用しカードにスタンプを集めれば割引券として利用できる「まちの魅力応援スタンプラリー」が、始まっている。
 (西広島タイムス、2020年7月24日発行、12ページ)

 この記事の見出しは「スタンプ集め12店舗応援 / ラリーして割引券に活用 / 広島市佐伯区で」となっています。本文の「スタンプラリー」を短く「ラリー」と言っています。
ところで「ラリー」だけの説明を、国語辞典ではどのように書いているでしょうか。例えば、『三省堂国語辞典・第5版』は次のように説明しています。

 ①〔卓球・テニス・バレーボールなどの〕ボールの打ちあい。
 ②〔自動車の〕耐久競走大会。

 上記の新聞の言葉遣いは、②の意味を比喩的に拡大したものでしょう。けれども、スタンプラリーなどという行事は盛んに行われており、それを短く「ラリー」と言うこともしばしば目にします。拡大した意味も、きちんと国語辞典に書くべきでしょう。
 『広辞苑・第4版』だけは、上の①②に加えて、「(共通の関心による)大衆集会」という意味を書いていますが、『岩波国語辞典・第3版』、『現代国語例解辞典・第2版』、『明鏡国語辞典』、『新明解国語辞典・第4版』、『旺文社国語辞典・改訂新版』はいずれも、『三省堂国語辞典・第5版』と同じような2項目の説明です。
 国語辞典は、ひとつひとつに個性があるようには思いますが、大同小異であって、役に立たない項目(言葉)の説明もあるのです。
 国語辞典編集部には、このような声が届かないのでしょうか。あるいは、直接に編集部に声を届けなくても、人々の声や反応などを汲み取る仕組みができていないということなのでしょうか。
 私はこれまでにも、国語辞典の記述内容について、ブログにたくさんの文章を書き続けてきました。たぶん見ていただけていないように思います。

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2020年9月19日 (土)

ことばと生活と新聞と(211)

単に遠慮して断ることを「辞退」とは言わない


 ごくありふりふれた言葉ですが、「辞退」の意味は、国語辞典によって説明の仕方が異なっています。
今年夏の高校野球地方大会は異例の事態になりましたが、兵庫県の場合はベスト8を決めるまでの日程で行われました。その県大会に、3年生部員がわずか2人であったために出場しなかった学校があります。その学校を取りあげた記事の見出しに、「3年生2人 高校野球独自大会辞退の淳心学院」とあり、記事には次のような言葉がありました。

 休校もあって約100日間、練習ができていない。グラウンドを広く使えるのは週2回。梅雨で練習ができない日もあるだろう。練習時間が確保できない状況でけがや熱中症が心配だ。浜田監督は覚悟を決め出場辞退を2人に伝えた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月10日・朝刊、「神戸」版、14版、21ページ、滝坪潤一)

 このような場合に使う言葉は「不参加」とか「不出場」ではないかと思います。今春の選抜で選ばれた学校が、甲子園球場で1試合ずつ戦うという大会が行われましたが、選ばれていた学校がこの大会に「出ない」という意志を表明したら、それは「辞退」でしょう。
 申し込んだら出場できる大会に「出ない」(=申し込まない)のは「辞退」に相当しないと思います。
 国語辞典の説明と用例を引用しますが、『三省堂』と『旺文社』の説明は不十分であると思います。それ以外の国語辞典の説明は微妙に違いがあって、それが面白いと思います。

『三省堂国語辞典・第5版』
 えんりょして ことわること。
 「就任を - する」
『旺文社国語辞典・改訂新版』
 ①遠慮して引き下がること。②いやだと言って断ること。
 (用例の記載、なし)
『現代国語例解辞典・第2版』
 命令や依頼などを自分にふさわしくないとして断ること。また単に、断ること。
 「就任を辞退する」
『明鏡国語辞典』
 他人の勧めや与えられた権利などを受けられないとして引き下がること。
 「立候補を - する」「個人の遺志により供花の儀はご - 申し上げます」
『岩波国語辞典・第3版』
 人の勧めを断って引き下がること。遠慮すること。
 (用例の記載、なし)
『新明解国語辞典・第4版』
 〔勧め・資格・権利などを〕自分の意志で断ること。
 (用例の記載、なし)
『広辞苑・第4版』
 へりくだって引き下がること。(任命・勧誘などを)ことわること。遠慮。
 「謝礼を - する」
『日本語 語感の辞典』
 遠慮して断る意で、やや改まった会話や文章に用いられる漢語。
 「出場 -」「入学 -」「役員に推薦されたが - する」

 「辞退」は単に、遠慮して断ることではありません。断る前に、その前提となるものがあるのです。それを国語辞典は、任命、命令、勧誘(勧め)、依頼、権利、資格という言葉で説明しているのです。そういうものがない場合は、遠慮して断る(=申し込まない)ことにしても、それは「辞退」に相当しないと思います。
 用例を見ると、任命、命令、勧誘(勧め)、依頼、権利、資格などが前提になっていることは明白です。要請されていないのに「就任辞退」などという言葉は使えませんし、合格通知をもらっていない学校に「入学辞退」をすることもあり得ません。

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2020年9月18日 (金)

ことばと生活と新聞と(210)

コロナの「持ち込み」という言葉


新型コロナウイルスの感染が広がっている中で、私たちひとりひとりがマスクを着けるのは、もし自分が感染していたら周りの人たちに感染させないためであり、もし周りの人たちが感染していたら自分が感染しないためです。その気持ちに偽りはありません。
 一方、新型コロナウイルスは日本国内が発生源ではありません。外国から帰国した日本人、または日本に入国した外国人によって、日本国内にもたらされました。日本の玄関口である東京に感染者が多いのは理解できます。
 帰国者や外国人が(主として)東京を経由して、全国各地に移動しましたから、感染者が全国に広がったことは理解できます。東京に感染者が多いこと、Go Toトラベル事業で東京着発を除外したことは、そういうこととも関連しているでしょう。
 けれども、今となっては、全国に広がってしまっているのですから、周りの人に感染させない、周りの人から感染させられないという心構えで、感染防止に取り組まなければなりません。
 次のような記事はどう考えるべきなのでしょうか。

 徳島県では7月29日にJR徳島駅のビルに入る物産店員の50代女性の感染が判明し、その後に女性の娘と、別の物産店員の女性の感染もわかった。飯泉嘉門知事は同30日、「『Go Toトラベル』でお客さんが増え、県外からの(ウイルスの)持ち込みが多い」と発言。8月1日からは徳島空港で到着客に対するサーモグラフィーによる検温が始められた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月6日・朝刊、14版、25ページ)

サーモグラフィーによる検温は、ホールや球場やデパートなどでも実施されていますが、それは一つの手段でしかありません。体温が平常である人は感染していないとは言えないでしょう。私たちはいくつもの「次善の策」を重ねてコロナ禍に対応しようとしているのでしょう。
 ところで、「県外からの持ち込み」ということを言うのならば、すべての都道府県が同じ主張ができるように思います。東京にしても元々は「国外からの持ち込み」によるのでしょう。
 「(国外や県外からの)持ち込み」は厳然たる事実として存在するのですが、そして、感染者の何%かは明らかに「県外からの持ち込み」と断定してよいのでしょうが、私たちはそのような、あからさまな表現を避けてきているのだと思います。
 これまで感染者のいなかった市町村に初めて感染者が見つかった場合は、「あの人が、私たちの地域にコロナを持ち込んだ」ということになってしまいます。たとえ個人のプライバシーが守られるにしても、「誰かが持ち込んだ」という意識(思い)は残るでしょう。
 インフルエンザなどでは「持ち込み」などという言葉を使うことはなかったと思います。新型コロナウイルスでそんな言葉を使うのは、敏感な意識のあらわれなのでしょうが、言葉遣いが敏感になるのは考えものです。

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2020年9月17日 (木)

ことばと生活と新聞と(209)

小学生にふさわしい内容の文を提示しよう


 学習指導について書かれている文章は、普通の場合はその児童・生徒向けに書かれているものだと思います。けれども、不思議なことに、そうでなくて大人(親)向けに書かれているのがあります。それは、親がそのように指導するようにと仕向けているのです。
 小学生の勉強の仕方は、小学生にわかるように指導しなければなりません。そのようにして小学生が自立して勉強の姿勢を身に付けるものだと思います。
 朝日新聞の「EduA」という紙面に連載されている「国語のチカラ」は、小学生が読んでも、理解できないような文章です。ということは、親に対して、こういうふうに指導せよと命じているのです。どうして、直接、小学生が理解できるような文章を書けないのでしょうか。子どもたちの自立心にそって、自分で勉強するように仕向ける書き方ができないのでしょうか。たぶん筆者は、小学生や中学生は親が手を貸してやるものだという考えにとらわれているのでしょう。そして「EduA」の編集者も、私立中学校などへの進学はそういうふうにして指導するのだということを盲信しているのでしょう。
 こんな書き方になっています。

 国語の読解問題には、大きく分けて「どういうこと」かを説明させる「説明型」と、「なぜか」を問う「理由・原因型」とがあります。
 前回ご紹介した「説明型」に続き、今回は「理由・原因型」の問題の解き方や因果関係の探し方などについてお話ししたいと思います。 …(中略)…
 〔問題〕 次の、---と~~~が原因と結果の関係になっているものには〇、そうでないものには×で答えなさい。(ただし、結果が後に述べられているとは限りません)
 ①芸術でもスポーツでも初めてやるときはゼロの状態である。そのため、決まりごとを受け入れることから始まる。
 ②日本に田を含む名字がたくさんあるのは、昔から田で作るコメが社会の基本になっていたからだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月13日・朝刊、「EduA」5ページ、「国語のチカラ」、南雲ゆりか)

 国語の読解問題に「説明型」と「理由・原因型」とがあると書かれています。この場合の「読解問題」という言葉にどういう意味が含まれているのかよくわかりませんが、文章はそんな簡単な読み方では済まないと思います。そのような設問が多いというのなら、それは設問を作る側の努力不足でしょう。子どもたちが文章を読む場合に、そのような先入観を与えることは避けなければなりません。
 〔問題〕は、全4問のうち2問を引用しました。傍線を施せないので省略しましたが、それぞれの文の前半と後半に分けて、---と~~~が施されていると考えてください。
 ①②とも、答えは〇だそうです。つまり、原因と結果の関係になっているというのです。
 ①は、「芸術でもスポーツでも初めてやるときはゼロの状態である」が原因であり、「決まりごとを受け入れることから始まる」が結果であると言うのでしょう。
 ②は、「昔から田で作るコメが社会の基本になっていた」が原因であり、「日本に田を含む名字がたくさんある」が結果であると言うのでしょう。
 問いかけの「原因」という言葉には違和感を覚えます。「理由」と言う方が抵抗感が少ないのですが、「理由」というのも行き過ぎの感があります。ある事実をありのままに書いただけなのかも知れません。
 たぶん問題に使った文は、筆者が作って書いたものでしょう。
①は、「(芸術でもスポーツでも)決まりごとを受け入れることから始まる」というのは強引な言い方です。国語の問題文とは言え、こういう考えを植えつけるのは問題ではないでしょうか。
 ②についても、「コメが社会の基本になっていた」というのはずいぶん粗っぽい表現です。こんな文を書く人はいないでしょう。「コメが社会の基本」などということが小学生に理解できるでしょうか。何でもよいから文章の書き方の関係を理解せよと強要しているように思われます。
 つまり、書かれている内容を深く吟味することなく、文章を「問題」に使って「答え」を書かせることが国語の指導である、と考えるのはよくないことです。国語の指導者は適切な言葉遣いをして、望ましい読解指導を心がけなければなりません。「EduA」編集部は、そのようなことにも目を注いでほしいと思います。

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2020年9月16日 (水)

ことばと生活と新聞と(208)

文字を見たら納得できる「線状降水帯」


 気象情報で嬉しいことは、おかしなカタカナ語を使わないで、日本語で表現しようとしていることです。それが新しい言葉遣いであっても、よくわかるように工夫されていると思います。新型コロナウイルスの感染に関わるニュースにはカタカナ語が氾濫していますが、気象情報は日本語を工夫して使っているように思います。
 「センジョウコウスイタイ?」という見出しの記事がありました。引用します。

 ある朝、まだ寝床にいたときのことだ。テレビのニュース番組から、「センジョウコウスイタイが発生するおそれがある」と警戒を呼びかける声が耳に入ってきた。
 画面の情報なしに、もうろうとした状態でまず思い浮かべたのは「戦場」だった。取材で「線状降水帯」を見聞きしていたにもかかわらず、頭がついていかなかった。洗浄、船上、扇状、扇情……考えてみれば、同音異義語はたくさんある。普段は使わない単語が二つ並び、線なのに帯なのもわかりにくい。
 備えを促すのに、この言葉をあえて使う必要があるだろうか。「激しい雨が続いて災害になるおそれ」ではだめなのか。 …(中略)…
 自戒を込めていえば、メディアは目新しい言葉、目を引く言葉に飛びつきやすい習性がある。それにしても最近、災害のたびにこうした専門用語があふれすぎてはいないか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月20日・夕刊、3版、5ページ、「e潮流」、佐々木英輔)

 線状降水帯というのは新しい言葉です。昔は線状降水帯がなかったわけではありませんが、この言葉で説明しようとしているのは最近のことであるようです。説明が詳しくなっていくのに伴って、使う言葉が増えるのはしかたがないことです。「線状降水帯」を「激しい雨が続いて災害になるおそれ」と表現すると、言っている内容が異なったものになってしまいます。
 筆者の言う「自戒を込めていえば、メディアは目新しい言葉、目を引く言葉に飛びつきやすい習性がある」は、まったくその通りだと思います。目新しい言葉、目を引く言葉ではなく、従来からの日本語に工夫を凝らした表現を心がけてほしいと思います。
 ところで、どんな言葉であっても、初めて見聞きしたときには違和感を覚えたり、理解が行き届かなかったりするものです。日本の言葉であっても外来語であっても同じです。けれども「線状降水帯」という文字遣いは印象に残って、わかりやすく伝わってきます。円周のように広がるものではなく直線状に広がって、、しかも何㎞も帯状に連なっているということが理解できます。
 カタカナを連ねた言葉の場合は、その言葉の由来や、意味している内容などがわからないことが多いのですが、漢字が並んでいる場合は意味(言葉の使い方)がわかります。
 カタカナ外来語のままで使うのは、日本語で表現しようという努力を放棄していることに他なりません。新しい内容や概念などを表す言葉を、カタカナ外来語を離れて作り出すことも試みてほしいと思います。気象情報などに、カタカナ外来語が少ないというのは喜ばしいことです。やってできないことはない、ということの見本のように思われます。

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2020年9月15日 (火)

ことばと生活と新聞と(207)

ほんとうの言文一致体


 文章の言葉遣いを話す言葉に一致させることが「言文一致」ですが、明治時代初期に二葉亭四迷、山田美妙、尾崎紅葉らが試みて次第に普及してきました。現代の口語文は、言文一致の営みの成果だと言われていますが、書き言葉を話し言葉に近づけることは、どこまで可能なのでしょうか。
 昔に比べると、書き言葉と話し言葉の差が小さくなっていると思いますが、それをまったくなくすことは無理かもしれません。あるいは、話し言葉をそのまま文字にすると、おかしな日本語になってしまうかもしれません。
 そんなことをいろいろ考えさせるような文章があります。

 ご近所の幼稚園の話らしい。ちょっと感動した~、と言うのだ。ママさんが。小学校のPTA室で。お便りのホチキスどめをしながら、マスクをしたお母さん、3人だ。(わたしも含む。わたしお母さんだった。時々忘れる……)
 「下の子の幼稚園で、年少さん、年中さん、年長さんのチョーを決めたんだけど」
 「チョー?」
 「長。まとめ役というか」
 ほう、ほう。あったね、そういうの。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月4日・朝刊、13版S、21ページ、「オトナになった女子たちへ」、伊藤理佐)

 この連載は毎回、このような言葉遣いで綴られています。この日の文章の冒頭部分を引用しました。会話文が話し言葉そのままで書かれることはごく普通のことですが、この文章は、地の文も会話文も同じような書き方です。頭に浮かんだままを文字にしているのです。究極の言文一致かもしれませんが、非常に珍しい書き方です。
 書き言葉の文章と異なるところは、頭の中に思いつく順序のままで書き並べたという体裁です。長い文もありますが、極端に短い文もあります。これを書き言葉にする場合は、どういう順番で書いていこうかということを考えて整理するはずですが、それが行われていません。この程度の長さの文章であると、読み誤る(意味を誤解する)ことはないと思いますが、内容が複雑なものになったら、支離滅裂という印象になるかもしれません。言文一致とは言え、書き言葉として表現するときには、それなりの作法(方法)があるということを、改めて感じさせられました。

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2020年9月14日 (月)

ことばと生活と新聞と(206)

「賢人」という言葉の持つ意味


 近頃は、素晴らしい人々が量産されています。例えば「名人」とか「達人」という言葉にしても、かつては多くは使わなかったように思います。本当にその言葉に該当するのか検討して使ったように思います。現在は、名人、達人などという言葉はあふれていますし、大家、英才、異才、偉人、権威者、巨匠、英雄などと安易に名づけ、さらにエキスパート、ヒーローなどのカタカナ語も氾濫しています。言葉の意味などは気にかけず、大げさな言葉遣いをしています。新聞・放送を真似て、政治・経済の世界でも広く使っています。
 こんな記事がありました。

 中小企業と大企業の共存共栄の道を探る「賢人会議」は、昨年12月から今年2月にかけ、経済産業省で3回開かれた。 …(中略)…
 賢人会議のメンバーは11人。座長の三村氏のほか、大企業と中堅・中小企業、地銀の経営者だ。中小企業庁と日商が、個人の立場で意見を言う「賢人」たちを選んだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月7日・朝刊、14版、7ページ、「けいざい+」、諏訪和仁)

 「賢人」とは、かしこい人という意味には違いありませんが、本来は、知恵があって行いの優れている人、すなわち、聖人に次いで徳のある人のことです。政治・経済の世界になると「行いの優れている人」という基準などは無視していると思います。
 組織などの代表ではなく、「個人の立場で意見を言う」人のようですが、そのような人を「賢人」と称すのは、言葉遣いとしては正しいとは思えません。専門家会議などと称するのにくらべて、賢人会議には何ともいえない不快さが伴うのは、私だけのことでしょうか。

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2020年9月13日 (日)

ことばと生活と新聞と(205)

言葉の取り合わせ


 「饂飩蕎麦」というものを食べたことはありますか。「カレーライスハヤシライス」はどんな味でしょうか。「コーヒー紅茶」を味わったことはありますか。--こんなことも言ってみたくなります。
 これは2行書きのメニューをつないで書いたものです。それは、こんな文章を読んだからです。

 飲食店のシャッターです。〈とんかつコーヒー〉の文字を思わず凝視しました。一体どんなコーヒーだろう。まさか豚カツ入りの?
 こう言うと、「それは、豚カツとコーヒーだろう」と笑われるかもしれません。それはそうです。ちゃんと2行に分けて書いてあります。
 私は「ウインナコーヒー」を連想したのです。子どもの頃、ウインナーソーセージ入りのコーヒーがあると思っていました。それなら、豚カツ入りがあっても……と、頭に一瞬よぎったわけです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月6日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 この文章はずいぶん個人の感覚に基づいたものです。2行書きのものをひとまりに続けて解釈するなどということをすれば、言葉の取り合わせはいくらでも広がります。飲食店のお品書きからは、いくらでもおかしな組み合わせを取り出すことができるでしょう。
 「とんかつコーヒー」でなくて、「コーヒーとんかつ」と書かれていれば、コーヒー味の豚カツを思い浮かべるのでしょうか。言葉のルールなどを無視した解釈は、いくらでも可能なのです。
 「いちご大福」や「カレーパン」になると、イメージが定まっています。けれども、そういう言葉も、初めは、どんなものか分からなかった人がいたかもしれません。熟した意味を持つようになった言葉は価値がありますが、言葉をもてあそぶような解釈はすべきではありません。とりわけ国語辞典編纂者がこういう文章を書くことは避けてほしいと思います。

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2020年9月12日 (土)

ことばと生活と新聞と(204)

意味はわかるが国語辞典にない「お盆玉」「じいじ」「ばあば」


 新型コロナウイルスの感染拡大に関して、新聞には俳句、短歌、川柳などをはじめ、いろいろな投稿が掲載されています。こんな作品が掲載されていました。一読して、内容は理解できます。

  リモート帰省
 お盆玉は送ってね!
          --孫
 じいじ・ばあばへ
     (新居浜・てんまく)
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月14日・朝刊、13版S、6ページ、「かたえくぼ」)

 私は、生まれも育ちも現住所も同じところです。親戚の住まいも東播磨(瀬戸内沿岸)から神戸にかけてです。子や孫も近くに住んでいます。つまり正月やお盆の帰省などということとは無縁の生活を続けてきました。
 正月にお年玉をもらう・あげるという習慣はありますが、私の場合、お盆に同じことをする習慣はありません。
 さて、上に引用したものに「お盆玉」という言葉があります。言葉の意味はすぐにわかりますが、私は使ったことはありません。耳にしたり目にしたりしたことがないとは断言できませんが、私の語彙にはない言葉です。
 「お盆玉」という言葉と、「お」を省いた「盆玉」という言葉を、『広辞苑・第4版』、『岩波国語辞典・第3版』、『現代国語例解辞典・第2版』、『明鏡国語辞典』、『三省堂国語辞典・第5版』、『新明解国語辞典・第4版』、『旺文社国語辞典・改訂新版』で引いてみましたが、どの辞典にも出ていませんでした。
 投稿者は愛媛県新居浜市の方のようですが、地域的な言葉(方言)であるのかどうかはわかりません。新聞の編集者にとっては自明の言葉であって、全国の誰にも理解できる言葉であるという判断をしているように思われます。(そうでなければ掲載しないでしょうから。)
 もし、この言葉が全国で広く使われているのならば、国語辞典の編纂者が共通して見落としている言葉であると言わなければなりません。
 ついでながら、「じいじ(=祖父)」「ばあば(=祖母)」という言葉は、全国で使われている言葉でしょう。けれども、この言葉も上記の国語辞典のすべてが記載していない言葉でした。
 少なくとも「じいじ」「ばあば」については、祖父や祖母に対して親しみをこめて呼ぶ言葉であるという説明を、国語辞典はすべきでしょう。カタカナ語や新語・流行語を追い求めるよりも、ごく普通の日本語についてきちんと説明するということを、国語辞典は心がけてほしいと願っております。

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2020年9月11日 (金)

ことばと生活と新聞と(203)

学歴とは何か


 「あなたの〈学業に関する経歴〉を教えてください。」と言われたら、どのように答えるべきなのでしょうか。
 例えば「幼稚園から始まって小学校、中学校、高等学校を経て大学まで行きました。その他に、先生についてピアノを10年間教わりました。」というような答えが聞こえてくるようです。
 それに対して、「あなたの〈学歴〉を教えてください。」と言われたら、「大学まで行きました。」というような簡単な答えが聞こえてくるようです。あるいは、大学の固有名詞を言う人がいるかもしれません。
 実は、「学歴」という言葉を国語辞典で確かめると、次のようになっています。

『明鏡国語辞典』
 学業に関する経歴。
『現代国語例解辞典・第2版』
学業に関する経歴。
『広辞苑・第4版』
 学業に関する経歴。
『旺文社国語辞典・改訂新版』
 その人の学業に関する経歴。
『岩波国語辞典・第3版』
 学業についての経歴。

 これらの国語辞典の説明は、ちょうど履歴書に書く内容のことを言っているようですから、間違った説明ではありません。
 けれども、世間で使われる用例を考えると、そういう説明では足りないように思います。例えば「学歴が高い」というのは、最後に卒業した学校の段階のことを言っているようですし、「学歴を詐称する」というのは、卒業した学校の名前を偽った場合に使うように思います。
 新聞に、「『学歴なんて関係ない』本当でしょうか?」という見出しの記事がありました。その記事に、こんな文章がありました。

 私は、むしろ記者になってから「学歴」を意識させられています。卒業して十何年もたって「どこの大学?」「何学部?」と聞かれると、値踏みされているように感じることがあります。「学歴なんて関係ない」という言葉には、実態が伴っていない気がするのですが……。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月8日・朝刊、13版S、11ページ、「論の芽」、田中聡子)

 「学歴社会」とか「学歴偏重」という言葉には、最後に卒業したのが大学であるか否か、また、その卒業した大学が何大学であるのか、というところにまで及んでいるように思われます。そうすると、国語辞典の上記のような説明にはちょっと不満が残ります。別の国語辞典の説明を引用します。

『新明解国語辞典・第4版』
 その人が、どういう学校を卒業したかの経歴。
『三省堂国語辞典・第5版』
 ①(学校で)学問をおさめた経歴。②最後に卒業した学校の段階。

 この2つの国語辞典の説明にある、〈どういう学校〉〈最後に卒業した学校〉という表現が、高等学校や大学という校種であるとともに、学校の固有名詞をも含むという意味であるとすれば、現実に合っているということになるでしょう。
 もっとも「学歴社会」という言葉の中には、大学のランク付けを含むような意味もないとは言えないようなところが、引用した新聞記事には現れているような気がします。名実ともに「学歴なんて関係ない」という社会が到来してほしいと願わずにはおれませんが、それはいつになるのでしょうか。

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2020年9月10日 (木)

ことばと生活と新聞と(202)

「合わせ鏡」という言葉の使い方


 自分で使ったことのない言葉は、どのような場合に使ってよいのかわからないことがあります。まして、その言葉の用例が国語辞典に載っていない場合には困ってしまいます。そのような言葉は使うことを避けることになりがちです。
 けれども、そのような言葉を使っている文章を読むことがあります。それが正しい使い方であるのかどうか、わからないことがあるのです。
 私にとっては、「合わせ鏡」という言葉が、それに当たります。こんな文章を読みました。

 白状すると、わたしは満腹感が曖昧であるのと同様、空腹感も曖昧である。いわば合わせ鏡だ。胃に隙間があると感じると、隙間の大小にかかわらず、わたしは「お腹が空いている」ことにする。つまり、「もう動けない」状態以外は空腹にしてしまうのだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月18日・朝刊、be7ページ、「作家の口福」、朝倉かずみ)

 ここに書いてある内容は私も同感です。私も若い頃は、胃に隙間があると「空腹」の範疇に入れていたように思うのです。
 さて、言葉の問題です。『三省堂国語辞典・第5版』を見ると、「合わせ鏡」とは、「うしろすがたを見るために前後から鏡でうつすこと。」と説明されています。他の国語辞典もほぼ同じ説明で、用例は記載されていません。つまり、「鏡」という物体の名であったり、「うつすこと」という動き・状況のこととして説明しています。
 上記の文章は、満腹感が曖昧であることと、空腹感が曖昧であることとを「合わせ鏡」と表現しています。心理状態のようなことを「合わせ鏡」と表現してもよいのか、その場合はどんな関係にあるものを「合わせ鏡」と表現してよいのかが、わからないのです。
 小型の国語辞典に比べると、『日本国語大辞典』には、さすがに詳しい説明が載っています。こんな書き方です。

 ①二枚の鏡を合わせ、後ろ姿などを見ること。また、前面の鏡に対し、柄のついた小さな手鏡をいう。
 ②相手の気に入るように、調子を合わせること。お座なりに言葉の銚子を合わせること。おせじ。
 ③二枚の鏡に同じ物を映したように、きわめて似ていること。瓜二つ。

 上記の文章で使われている意味は、①②ではなくて、③ですが、形のあるものについて述べる場合はわかりますが、形のないもの(心理状態など)を「合わせ鏡」と言ってよいのかどうかが、判断できません。
 そして、満腹感が曖昧であることと、空腹感が曖昧であることとは、「曖昧であること」は共通しているのですが、「満腹感」と「空腹感」とは瓜二つとは言えないと思います。このような使い方の当否を国語辞典によって判断したくても、それに答えてくれないという言葉の例は、他にもいろいろあるのでしょう。

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2020年9月 9日 (水)

ことばと生活と新聞と(201)

「お上」と皮肉


 コロナ禍によって営業時間などを短縮されるのは、経営者にとってはたいへんなことでしょう。従いたくはなくても、従わざるを得ないという状況になると、不平も言いたくなるでしょう。
 こんな記事がありました。

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、街はひっそりと静まりかえりました。あるバーの店頭にこんな貼り紙が出ていました。
 〈お上のお達しにより当分の間臨時休業致します〉 …(中略)…
 『三省堂国語辞典』の「お上」の項目は〈政府。官庁。役所〉と説明し、〈庶民が多少の皮肉をこめて言う〉と書き添えています。「表面上、奉っているだけ」という意味合いが「お」に込められています。
 「お」は、尊敬や丁寧の意味だけでなく、皮肉な意味も表します。「お偉いさん」「いいとこのお嬢さん」「お決まりの文句」などもそうで、必ずしも褒めていません。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月18日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「お上」というのは、上の記事の場合は〈政府、官庁、役所〉という解釈でよいと思いますが、一般にはもっと広い意味で使われることもあるように思います。例えば、一般の会社員から見て〈会社の中枢にいる、社長など〉にも使うでしょう。「給料をもらっているから、お上の言うことには反対できない。」などと言うことがあります。
 「お上」という言葉を使うときの気持ちは、「表面上、奉っているだけ」という意味合いは理解できますが、それは〈皮肉〉だけでしょうか。皮肉を言うほどの元気のない場合にも使いますから、〈あきらめ〉という気持ちが込められている場合もあるでしょう。
 皮肉というのは、わざと反対のことを言ったり、遠回しに意地悪いことを言ったりすることです。〈政府、官庁、役所〉は、人々より下にあるのに、わざと「上」と言っているのではありません。「お上」という言葉はストレートな表現で、遠回しな言い方ではありません。自分たちより上にある存在には抵抗できないという気持ちが現れている、すなわち、どうしようもないものへの〈あきらめ〉が込められた言葉ではないでしょうか。
 例えば〈当局の指示により当分の間臨時休業致します〉などと言うよりも、〈お上のお達しにより〉の方こそ、あきらめや、それに対する抗議の気持ちが強いように思います。実は〈お上〉だけでなく、〈お達し〉という言葉にも、その気持ちが凝縮されているように感じられるのです。

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2020年9月 8日 (火)

ことばと生活と新聞と(200)

「浮動票」とは言ってくれるな


 政党が使い始めたのか、新聞・放送の用語なのか知りませんが、「浮動票」という言葉に違和感を持ってきました。『三省堂国語辞典・第5版』では、この言葉を「だれに投票されるか、候補者につかみにくい票。」と説明しています。
 そうであるのなら、候補者が(内々に)使うことはかまいませんが、報道機関が使うべき言葉ではありません。投票をする主権者ひとりひとりは「浮動」しているのではなく、最後の最後まで考え抜いて決断しようとしているのです。新聞がよく使う表現である「浮動票の行方によって当落が決まる」というのは当然のことであり、そこに有権者の声が反映されているのです。それを「浮動票」という言葉で表すと、まるで気まぐれで投票しているようにも見えるのです。実に失礼な表現であると思い続けてきました。
 私は政党員ではありませんし、いつも同じ政党を支持し続けているわけではありません。候補者にとっては、計算しにくい一票です。私の一票が「浮動票」と位置づけられていることを、候補者には脅威と受け取られることは差し支えありませんが、新聞や放送から意志の定まらない(政党員でもなければ、特定の候補者の強い支持者でもない)人間と見なされることには腹立たしさを感じています。
 かつて今東光さんの選挙事務長を引き受けた川端康成さんの言葉がコラムに書かれていました。

 有名人候補が頼りにするのは組織票というより「浮動票」だが、その呼び名に川端はかみついている。「有権者に無礼極まる、無神経極まる」言葉であり、「自由票」あるいは「自主票」「独立票」と改めるべきだと。支持してくれた人への敬意なのだろう
 さて、目下の自民党総裁選でいうと、自由票、自主票に近いのは、全国の党員・党友による投票であろう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月31日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 私は、自由票、自主票、独立票などの言葉にも賛成できません。ひとりひとりが自分の意志で候補者を選ぶのが投票です。新聞・放送が当落を占う過程で使う言葉が「浮動票」です。自由、自主、独立という言葉と、組織という言葉は対立する言葉ではありません。報道機関がひとりひとりの投票行動を見守って、その結果を報道することに心がけるのであれば、安易に浮動票だの組織票だのという言葉を使うべきではありません。政党員などで組織票として数えられる人も、組織という枠組みの中で自由を奪われた人ではないと思います。
 それにしても、投開票する前から当選者が決まっているような自民党総裁選挙は、派閥という組織の前に、選挙という民主的な行為が踏みにじられていることが明白です。総裁は総理になるのですが、行政の最高権力者選びが、自民党の地方票を無視して行われており、大多数の国民は蚊帳の外に置かれているのです。

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2020年9月 7日 (月)

ことばと生活と新聞と(199)

「いなす」とは、逃げたり活用したりすることではない


 「災害『いなす』防災へ」という見出しのついた、小さな記事がありました。全文を引用します。

 地球温暖化に伴うとみられる気象災害が世界各国で起こっており、環境省と内閣府は、気候変動のリスクをふまえた防災・減災の戦略をまとめた。ダムや堤防などのハード対策の強化よりも「危ない土地には住まない」「自然の機能を活用する」など「災害をいなす防災」を重視する。30日、小泉進次郎環境相、武田良太防災担当相の共同メッセージとして発表した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月1日・朝刊、14版、4ページ)

 「いなす」には「去なす」とか「往なす」という文字が使われるように、帰らせる、去るようにさせるという意味です。相撲では、身をかわして相手の体勢を崩すという意味で使われています。一般に使われるのは、攻撃や追及を軽くあしらうという意味です。
 共同メッセージにはいろいろなことが述べられているのかもしれませんが、この記事に挙げられている「危ない土地には住まない」というのは、逃げる(敬遠する)ということですから、災害を「軽くあしらった」ことにはなりません。あしらう前に、逃げを打っているのです。
 「自然の機能を活用する」というのは具体的にどういうことをするのか述べられていませんから、具体性に乏しいのですが、活用することは「いなす」ことにはならないと思います。正面から対応することは、「いなす」ことにはならないのです。
 災害を「いなす」という言葉遣いは、災害にうまく対応して(上手に身をかわして)、その災害を少なくする(軽くあしらう)ということでしょう。
 逃げる一方であったり、対応策を作って活用したりすることは、「いなす」という言葉にあてはまらない内容であると思います。
 もとより防災を目指した対応策は必要ですから、しっかりした政策を実施してほしいと思います。けれども、言葉は正しく使ってほしいと思います。新しい使い方の言葉を提示することよりも、正しい言葉遣いで、わかりやすく語ってほしいと思うのです。

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2020年9月 6日 (日)

ことばと生活と新聞と(198)

雑種内容に満ちた文章


 こんな書き出しの文章がありました。

 ある貧乏な書生の話。饅頭を食べたいが金がない。饅頭屋の前に行き、大声を上げてぶっ倒れてみせた。驚いた饅頭屋からわけを尋ねられ、答えた。「饅頭がこわいのだ」。案の定、おもしろがった相手が饅頭を押しつけてきた
 中国の笑話集にある「饅頭こわい」である。おなじみの古典落語はこれをもとに作られたようで、色々と手も加わっている。仲間たちが怖いものを順番に打ち明ける場面があり、蛇、蜘蛛……と来て、まさかの饅頭に至る
 外国の話も、江戸っ子の丁々発止に変えてしまう日本の落語文化である。換骨奪胎の流儀は食にもあり、中華料理から生まれたラーメンは日本食として世界で通る。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月5日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 以上で全体の文書量のほぼ5割に達しているのですが、この文章はどのような方向に発展していくと考えられるでしょうか。
 饅頭こわいの落語は、中国笑話集の換骨奪胎なのかという疑問点は残りますが、それよりも驚くのは、文章展開の方向です。
 この後では、日本のカレーチェーンがインドに進出した話と、米国発のコンビニエンスストアが日本で独自の発展を遂げた話とが書かれていますが、文章の末尾は次のようになっています。

 日本は「雑種文化」だとつくづく思う。国の外から多くを取り入れ、試行錯誤を重ねて血肉とする。もっとも時々、消化不良も起こす。古くは鹿鳴館の欧化熱、最近だとコロナ対策でめっきり増えたカタカナ語とか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月5日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 近頃の「天声人語」は話のマクラに当たる部分が長くなって、本論が言葉足らずになっています。言いたい事柄が最終段落に書かれているのであるのなら、マクラなどは省略して、本論を詳しく説明すべきでしょう。字数合わせの目的だけで文章を書かないでほしいと思います。
 「雑種文化」は国外のものと日本のものとの混交のことでしょうが、この文章はいくつかの内容が雑多に混ぜ合わされて、首尾が整っていません。ひとりの筆者が書いた文章であるのなら、雑種の内容になるのはよくないと思います。突然のように鹿鳴館の欧化熱と言い、カタカナ語の増加と言って、無責任に言い放っている姿勢です。
 カタカナ語は、コロナ対策で増えたとは思いません。これまでも新聞・放送が率先して行ってきたことです。コロナ対策のせいではありません。新聞の責任に目をつぶってはいけません。ひとを批判するのが新聞の役割ではないと思います。新聞自身の姿勢を改める提言などを書いてほしいと念願しています。

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2020年9月 5日 (土)

ことばと生活と新聞と(197)

「ふらふ」という言葉


 全国高校総合文化祭「2020こうち総文」について書かれた記事に「ふらふ」という言葉が使われていました。

 書道部門では、47都道府県の生徒約300人から寄せられた書をつなぎ合わせ、高知の伝統の旗「フラフ」をつくった。子どもの健やかな成長を祈って端午の節句に飾るもので、新型コロナの「病魔退散」の願いも込めた。 …(中略)…
 高知市の高知小津高校で25日、集まった不織布を書道部員らがつなぎあわせて、大きなフラフに仕上げた。 …(中略)…
 8月上旬、県内の清流、仁淀川にフラフを浮かべる様子を動画に撮り、配信する予定だ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月31日・夕刊、3版、1ページ、上原佳久・尾崎希海)

 高知の伝統の旗「フラフ」について、本文では、「子どもの健やかな成長を祈って端午の節句に飾るもの」と説明しています。ところで、「ふらふ」という言葉は私の語彙の中にもあります。
 そこで、『広辞苑・第4版』を開いてみると、「フラフ【viagオランダ】⇒フラグ」と書かれているだけです。「フラグ」の項目には、「フラグ【viagオランダ】旗。」と、こちらも素っ気ない書き方です。「フラフ」という言葉はほとんど使われなくなっているということを意味しているのでしょうか。
 『日本方言大辞典』では「ふらふ」のことをオランダ語の「viag」に由来していると書いたあとで、4項目の説明があります。
 「①旗。国旗。」「②漁船の旗。」として、主として西日本各地の地名がたくさん並んでいます。私の頭の中にあるのは「漁船の旗」という意味で、父などが使っていたと記憶しています。漁船に立てる大漁旗のようなものや、機帆船の船名を書いた旗などが浮かんでくる言葉です。
 「③五月の節句に立てる大きな旗。」として、高知県という地名が書かれています。これは高知県特有の使い方のようです。
 さらに「④広告。」として、岡山県という地名が書かれています。
 オランダ語由来の言葉ですから、全国で使われてもおかしくないと思いますが、今では使われる地域が限られてきているのでしょう。その中で高知県と岡山県では限られた意味合いを持つ言葉として使われ続けてということなのでしょう。

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2020年9月 4日 (金)

ことばと生活と新聞と(196)

「こうと」という言葉


 幸田文さん(1904年~1990年)の『木』というエッセイ集は、筆者が86歳で亡くなった後、1992年に刊行されました。木にまつわる15編の文章が収められている本は、のちに文庫本に収められました。
 その中の1編に「木のきもの」という文章があります。樹木の幹の装いを、木は着物をきていると見なして書かれた文章です。若杉の様子を書いた一節にこんな表現があります。

 木綿一つにもいろいろあるのと同様、樹皮もよく似たものが沢山あるので困る。まずせいぜいがすらりと伸びた若杉に出逢って〝お、これはこれは。お召物よく似合っておみごと。粋で、こうとで、人がらで、いい青年だな〟とみとれて楽しむくらいなところである。
 (幸田文、『木』、新潮文庫、1995年12月1日発行、76ページ)

 「粋で、こうとで、人がらで、」という表現に驚いたのです。「こうと」という言葉は国語辞典に出ていません。私の住んでいる地域(兵庫県明石市)の辺りでは、ときどき使う言葉です。だから、方言だと認識していました。
 けれども、方言とすると、東京生まれの幸田さんと、生まれてからずっと明石に住んでいる私とが同じ言葉を持っているのが不思議です。しかも『日本方言大辞典』を引いても「こうと」は載っていないのです。
 『広辞苑・第4版』には出ていました。

 こうとう【公道】(コウトとも。本来は公平の意)
 ①きちんとしていること。
 ②はででないこと。けばけばしくないこと。じみ。質素。実直。
 ③倹約であること。けちであること。

 方言辞典に載っていなくて、小型の国語辞典にも載っていないということから判断すると、「こうと」はもともと全国共通語であるが、現在はほとんど使われていないということでしょう。幸田文さんの使っている意味としては「②はででないこと。けばけばしくないこと。じみ。質素。実直。」にあたると思います。
 さて、私は『明石日常生活語辞典』にこの言葉を収録しています。引用しておきます。

 こうと〔こーと〕《形容動詞や(ナ)》 着物などが、落ち着いていて地味である様子。質素で上品な感じがする様子。「その・ きもの(着物)・は・ え(良)ー・けど・ あんた・に・は・ ちょっと(一寸)・ こーとと・ ちゃ(違)う・やろ・か。」

 それで思い出すのは「ながたん」という言葉です。これはもともと全国で使われていましたが、今では全国あちこちの地域に方言として残っています。「菜刀」つまり菜を切る刀であり、包丁のことです。「ながたな」の発音が変化して「ながたん」になったのです。東北から九州までのあちこちに残っている言葉ですが、明石では使いません。もともと全国共通語ですが、今では方言という扱いになっています。「こうと」という言葉も、それと同じように考えられる言葉であるのかもしれません。

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2020年9月 3日 (木)

ことばと生活と新聞と(195)

「自分事」と「私色」


 インターネット上で資金を集める「クラウドファンディング」が、新型コロナウイルスの感染拡大で苦境にある人たちの大きな支えになっているというニュースが社会面1ページの半分のスペースで報道されました。その見出しです。

 「自分事」広がるCF支援 / コロナ禍 住まい提供へ1.1億円
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月1日・夕刊、3版、7ページ、見出し)

 この見出しの「CF」には「クラウドファンディング」という振り仮名が付けられています。文章の行数の多い記事ですが、「自分事」などという言葉は記事にはありません。似たような意味の表現を探してみます。

 奥田さんは「コロナ感染に誰もが当事者意識を持ち、『明日は我が身』と困窮者への共感が広がった。特別定額給付金の10万円を寄付に充ててくれた人もいる」と話す。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月1日・夕刊、3版、7ページ、神田誠司)

 文字数は異なりますが「自分事」などという言葉よりも「当事者意識」の方が表現的に優れています。「自分事」という言葉の意味は理解できますが、まだまだ熟していない言葉遣いです。「他人事(ひとごと)」はどのような国語辞典にも載っていますが、「自分事」を載せている辞典は少ないと思います。見出しの文字数にこだわった整理部記者の独断と考えるべきでしょう。
 別の話題に移ります。第44回全国高校総合文化祭「2020こうち総文」についてのニュースの見出しです。

 画面越し 私色響かせて
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月31日・朝刊、14版、27ページ、見出し)

 「私色」という言葉は本文にあります。以下に引用する文章の前の部分で、「世界で君はひとり 自分だけの色を纏って……」という歌詞が紹介されています。

 6月、高知市のライブハウスで動画を撮影した。先輩が歌ったステージとは違い、客席は空っぽ。それでも、「表情を明るくして、自分で盛り上げる」とマイクの前に立った。「自分だけの色を纏って」に励まされ、「私色の歌声」を響かせた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月31日・朝刊、14版、27ページ、上原佳久)

 けれども、「自分だけの色」を「私色」に置き換えた理由がわかりません。「私色の歌声」というのは高校生たちの言葉でしょうか、それとも記者が作った言葉でしょうか。「私色」という言葉も、意味は理解できますが、国語辞典に載っている言葉ではないでしょう。
 私たちが日常生活で使う言葉は、新しい表現をしても、周囲の人が使わなければ、そのまま消えていきます。新聞の言葉は、いったん活字になったら、いつまでも残ってしまいます。気を付けて使うべきでしょう。

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2020年9月 2日 (水)

ことばと生活と新聞と(194)

「前向き駐車」とは、どちら向き?


 もう何年も前から、見つけたら写真を撮り続けてきたものがあります。駐車場に、駐車の方向を指示した看板が立てられているのですが、その指示に迷う人も多いようです。「前向き駐車をお願いします」という言葉の意味が、正しく伝わっていないようなのです。駐車場に入ってきて、そのまま前進して止めている車もあれば、出発しやすいような向きにして止めている車もありました。
 この看板が気になりだした頃は、出発しやすい方向に入れ直したものを「前向き」と解釈していた人が多かったように思いますが、近頃はそのまま前進して止めることだと解釈している人が多いように思います。
 もちろんそんな指示に無頓着な人も多いようですし、前に止めた人に見習ってみんなが同じ方向になっているような姿もありました。
 要するに、何のために、どの方向に向けたものを「前向き」というのかが理解できなかったら、迷うということになります。「前向き駐車」という言葉は、別の言葉に改めるのが望ましいことは確かです。
 こんな文章がありました。

 「前向き駐車」は、どんな駐め方を言うのでしょうか。車の前面が見えるようにバックで入れることかと思ったら、実は、前面を奥に向けるのだそうです。どの方向に対して前向きかということが、この呼び方では分からないですね。 …(中略)…
 バックで入れると、背後の住宅などに排ガスがかかって迷惑になる場所もある。そこで「前向き駐車」をするのです。 …(中略)…
 「前向き駐車」も、別の所では「前進入庫」「前進駐車」という表現も使われます。バックの場合は「後進」です。これなら、誤解が少ない表現と言えるでしょう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月22日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「排ガスが迷惑にならないように、前向き駐車をお願いします」と書いているの見かけるようになりました。理由を書けば、すぐに納得できることなのです。言葉は、意味が伝わることも大事ですが、意図が伝わることの方がもっと大事なことです。

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2020年9月 1日 (火)

ことばと生活と新聞と(193)

中学生が国語の教科書で「ならった」名文


 文春文庫に、文藝春秋(編)『教科書でおぼえた名文』(2015年12月10日発行)という一冊があります。カバー裏面の言葉を引用しますと、「昭和二十年代から五十年代までに日本の学校で使われた小学高学年と中学の国語の教科書のなかから、もう一度読みたい三十二篇の古典、小説、随筆をよりすぐった名文集。」ということです。
 私は昭和40年から高等学校で国語を教えました。硬質の文章も多数が収録されている教科書でしたが、当時の中学校教科書のレベルも高かったということを再認識しました。
 例えば、和辻哲郎「偶像再興」、谷崎潤一郎「文章読本」、柳田国男「なぞとことわざ」、夏目漱石「硝子戸の中から」、国木田独歩「武蔵野」、岡倉覚三「茶の本」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、寺田寅彦「触媒」、森鴎外「山椒太夫」などが並んでいるのです。古典では「枕草子」「徒然草」「玉かつま」「論語」などが収められています。
 高等学校の学習指導要領の改訂が話題になっています。文学国語よりも論理国語を重点を置こうというものですが、昔日の感があります。『教科書でおぼえた名文』に収められているような文章を、当時の中学生がどこまで理解したのかはわかりませんが、レベルの高い文章に接していたことは事実でしょう。
 「その文章は、中学校のときにおぼえた」という経験は大切なことでしょう。ふとしたときに思い出して懐かしく感じることもあるでしょう。「中学校のときにおぼえた」ということは、細かなことまできちんと身についていなくても、人間を育てる役割を果たしていたのです。
 ところで、「おぼえる」という言葉は、どういう意味でしょうか。仮に『三省堂国語辞典・第5版』を見ると、このように説明されています。

 ①感じる。気がつく。「寒さを - 」
 ②経験したり習ったりして、頭に・入れる(残す)。( 忘れる)
 ③〔文〕思われる。「おことばとも覚えませぬ」

 残念なことですが、『教科書でおぼえた名文』とか、「中学校のときにおぼえた」とか言う場合の「おぼえる」の意味は、上記の①~③では説明されていません。①や③でないことは明確ですが、②のように「頭に・入れる(残す)」とまではいきません。もっと軽い意味なのです。
 『教科書でおぼえた名文』の本を見て、「そういえば、中学校のときにおぼえたなぁ」と思い出す程度のことです。それでも、中学校の時代に「おぼえた」のは紛れもない事実なのです。「おぼえる」という言葉を「ならう」という言葉に置き換えても差し支えないでしょう。『教科書でならった名文』と言ってもよく、「そういえば、中学校のときにならったなぁ」と言ってもよいのです。
 学習指導要領の言葉を使えば、「履修した」ということなのです。〈学習した〉〈勉強した〉〈ならった〉ということであって、「修得した」段階に達していなくてもよいのです。「ピアノをおぼえたけど、上手には弾けない」というようなこともあります。このような意味での「おぼえる」はしょっちゅう使っていますが、そういう意味が国語辞典に載っていないのは欠陥だと言わねばなりますまい。
 国語辞典の編纂者は、新語や流行語を載せることに一生懸命になる前に、ごくありふれた日本語の意味を漏れなく説明できているかということを確認すべきだと思います。

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2020年8月31日 (月)

【掲載記事の一覧】

 酷暑が続いておりますが、新型コロナウイルスの感染はおさまりません。
安倍首相が引退を表明して、政治・経済の状況も変化を見せようとしています。
 このブログは2006年8月29日に開設しましたから、まる14年が過ぎました。1日の休載もなく、毎日書き続けてきました。掲載記事数は6300本を超えました。
 ブログをお読みくださってありがとうございます。
 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。
    gaact108@actv.zaq.ne.jp
 これまでにブログに連載した記事を、内容ごとに分類して、一覧を記します。掲載日をもとにして検索してください。

【日本語に関する記事】

◆ことばと生活と新聞と (1)~(192)~連載中
    [2020年2月22日 ~ 連載中]

◆言葉の移りゆき (1)~(468)
    [2018年4月18日 ~ 2019年8月31日]

◆日本語への信頼 (1)~(261)
    [2015年6月9日 ~ 2016年7月8日]

◆言葉カメラ (1)~(385)
    [2007年1月5日 ~ 2010年3月10日]

◆新・言葉カメラ (1)~(18)
    [2013年10月1日 ~ 2013年10月31日]

◆ところ変われば (1)~(4)
    [2017年3月1日 ~ 2017年5月4日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(29)
    [2007年1月1日 ~ 2009年6月4日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日 ~ 2007年7月7日]

◆文章の作成法 (1)~(7)
    [2012年7月2日 ~ 2012年7月8日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日 ~ 2007年10月30日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)
   [2006年12月23日 ~ 2006年12月26日]

◆地名のウフフ (1)~(4)
    [2012年1月1日 ~ 2012年1月4日]


【兵庫県明石市などの方言に関する記事】

◆明石日常生活語辞典・追記 (1)~(111)
    [2019年9月9日 ~ 2019年12月31日]

◆明石日常生活語辞典の刊行について (1)~(8)
    [2019年9月1日 ~ 2019年9月8日]

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 (1)~(2605)
    [2009年7月8日 ~ 2017年12月29日]

◆『明石日常生活語辞典』写真版 (1)~(4)
    [2010年9月10日 ~ 2011年9月13日]

◆「入口」はどこまで続くか (1)~(3)
    [2019年11月28日 ~ 2019年11月30日]

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-
                        (1)~(9)
    [2017年12月30日 ~ 2018年1月7日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日 ~ 2007年9月29日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日 ~ 2007年8月20日]

◆兵庫県の方言 (1)~(7)
    [2020年2月15日 ~ 2020年2月21日]

◆兵庫県の方言(旧) (1)~(4)
    [2006年10月12日 ~ 2006年10月15日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日 ~ 2007年9月12日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)
    [2007年2月1日 ~ 2007年5月7日]


【郷土(明石市の江井ヶ島)に関する記事】

◆名寸隅の船瀬があったところ (1)~(5)
    [2016年1月10日 ~ 2016年1月14日]

◆名寸隅の記 (1)~(138)
    [2012年9月20日 ~ 2013年9月5日]

◆朔日・名寸隅 (1)~(19)
    [2009年12月1日 ~ 2011年6月1日]

◆江井ヶ島と魚住の桜 (1)~(6)
    [2014年4月7日 ~ 2014年4月12日]

◆西島物語 (1)~(8)
    [2008年1月11日 ~ 2008年1月18日]

◆名寸隅舟人日記 (1)~(16)
    [2016年1月1日 ~ 2016年4月2日]

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]


【『おくのほそ道』に関する記事】

◆『おくのほそ道の旅』【集約版】 (1)~(16)
    [2018年3月18日 ~ 2018年4月2日]

◆『おくのほそ道』ドレミファそら日記【集約版】 (1)~(15)
    [2018年4月3日 ~ 2018年4月17日]

◆奥の細道を読む・歩く (1)~(292)
    [2016年9月1日 ~ 2018年3月17日]


【江戸時代の五街道に関する記事】

◆中山道をたどる (1)~(424)
    [2013年11月1日 ~ 2015年3月31日]

◆日光道中ひとり旅 (1)~(58)
    [2015年4月1日 ~ 2015年6月23日]

◆奥州道中10次 (1)~(35)
    [2015年10月12日 ~ 2015年11月21日]


【ウオーキングに関する記事】

◆放射状に歩く (1)~(139)
[2013年4月13日 ~ 2014年5月9日]

◆新西国霊場を訪ねる (1)~(21)
[2014年5月10日 ~ 2014年5月30日]

◆ことことてくてく (1)~(26)
    [2012年4月3日 ~ 2012年5月3日]

◆テクのろヂイ (1)~(40)
    [2009年1月11日 ~ 2009年6月30日]


【国語教育に関する記事】

◆国語教育を素朴に語る (1)~(51)
    [2006年8月29日 ~ 2007年12月12日]

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 (0)~(102)
    [2008年2月25日 ~ 2008年7月20日]

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日 ~ 2006年10月4日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日 ~ 2007年8月10日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日 ~ 2006年12月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日 ~ 2006年12月22日]


【教員養成に関する記事】

◆教職課程での試み (1)~(24)
    [2008年9月1日 ~ 2008年9月24日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日 ~ 2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日 ~ 2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日 ~ 2007年6月6日]


【花に関する記事】

◆写真特集・薔薇 (1)~(31)
    [2009年5月18日 ~ 2009年6月22日]

◆写真特集・さくら (1)~(71)
    [2007年4月7日 ~ 2009年5月8日]

◆写真特集・うめ (1)~(42)
    [2008年2月11日 ~ 2009年3月16日]

◆写真特集・きく (1)~(5)
    [2007年11月27日 ~ 2008年11月13日]

◆写真特集・紅葉黄葉 (1)~(19)
    [2007年12月1日 ~ 2008年12月15日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)
    [2007年5月8日 ~ 2007年6月30日]


【鉄道に関する記事】

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)
    [2007年7月8日 ~ 2007年7月31日]


【その他、いろいろ】

◆生きる折々 (1)~(45)
    [2020年1月1日 ~ 2020年2月14日]

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)
    [2006年12月27日 ~ 2006年12月31日]

◆百載一遇 (1)~(6)
    [2014年1月1日 ~ 2014年1月30日]

◆茜の空 (1)~(27)
    [2012年7月4日 ~ 2013年8月28日]

◆消えたもの惜別 (1)~(10)
    [2009年9月1日 ~ 2009年9月10日]

◆母なる言葉 (1)~(10)
    [2008年1月1日 ~ 2008年1月10日]

◆足下の観光案内 (1)~(12)
    [2008年11月14日 ~ 2008年11月25日]

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

◆小さなニュース [2008年2月28日]

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや (1)~(13)
    [2009年1月1日 ~ 2010年1月3日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日 ~ 2007年8月27日]

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日 ~ 2007年8月30日]

◆失って考えること (1)~(6)
    [2012年9月14日 ~ 2012年9月19日]

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ことばと生活と新聞と(192)

部分に焦点を当てた教育記事


 夕刊1ページの全面を使った記事に、「大学選びの夏 オンラインの波」という見出しのものが掲載されました。この時期に多く開催されるオープンキャンパスが、新型コロナウイルスの感染拡大でオンライン化が相次いでいるという記事です。各大学の取り組みが詳しく述べられているのですが、最後の部分にまとめのようなものが載っていました。こんなふうに書かれています。

 異例の受験シーズンに向けて、どのように準備すればよいのか。
 河合塾大阪校の山田浩靖校舎長によると、河合塾では、5~6月の模擬試験で、基礎問題を解けない高3生が例年より目立ったという。長期休校によって、多くの学校では1学期はカリキュラムの消化に追われ、学力の定着に至らなかったためだとみる。 …(中略)…
 山田さんは受験生に「新型コロナの終息は見えないが、やれることをやるしかない」とアドバイスする。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月22日・夕刊、3版、1ページ、花房吾早子・長富由希子)

 まとめの文章だけでも27行に及びますが、こういう場合の発言者はどうして予備校関係者なのでしょうか。高等学校の校長や教諭にコメントを求めた記事はごく僅かしか、目にしません。新聞社特約の予備校や私立学校が存在するようです。
 「河合塾では、5~6月の模擬試験で、……」と限定された状況の中では、全体のまとめの記事としては失格です。特定の予備校を受講する高校生で、高校生全体の動向を判断してはいけません。もしかしたら、一部の恵まれた生徒群でしかあり得ないのです。どうして、高校生全体に対する広い視野を持つ、公立高校関係者のコメントを載せないのでしょう。大きな疑問です。
 不思議なのは、「山田さんは受験生に『新型コロナの終息は見えないが、やれることをやるしかない』とアドバイスする。」という表現です。「やれることをやるしかない」というのは、どんな時代にも、どんな人にも当てはまります。これがアドバイスだというのなら、受験指導とは気楽なものと言えるでしょう。受験産業の指導法と、現実の高等学校の生徒指導とはかけ離れたものかもしれません。予備校の見方や指導法は、商業主義に浸かったものかもしれません。

 話は変わりますが、こんな特集記事がありました。

 【特集】あと半年! 働くパパママ 受験の乗り切り方
 コロナ禍が収まらないなか、中学受験の準備が本格化してきました。家族で走り切るために気をつけることは。経験者や専門家に助言してもらいました。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月23日・朝刊、「EduA」1ページ)

 そして「小6秋~冬はやることがいっぱい!」という記事があって、8箇条が羅列されています。2~3ページに経験者や専門家の助言が載っています。裕福な家庭の親たちの取り組みが書かれています。小学校6年生の親たちをけしかけるような内容です。
 全国の小学校の児童にはほとんど関係のない記事です。人間を育てるためには、もっと他になすべきことがいっぱいあるのにと思います。
 首都圏だけで、国立・私立の中学校受験者は5万人ほどのようです。中高一貫校の受験者が2万人ほど、全国にしても僅かの人数でしょう。学校教育(小学校教育)のうちのごく僅かの人向けに、こんな新聞記事は不要です。宣伝・広報の役割を持った「EduA」という新聞は不要です。ごく一部の児童・生徒や私立学校などに焦点を当てて、正規の学校教育をおとしめるような新聞は即刻、廃止にしてほしいと思います。

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2020年8月30日 (日)

ことばと生活と新聞と(191)

〝民間表記〟のこと


 私が幼かった頃、気になった漢字の文字遣いがありました。看板などに「明石公円」と書いてあるのです。明石公園そのものをこのように書くことはありませんでしたが、商店や医院などの所在地の表記に「明石公円前」というように書かれたものをいくつも見ましたから、頭の中に残っています。
 他の地域で、公園のことを「公円」と書くことはしていなかったように思います。当時の看板は手書きのものが多かったように思います。たぶん公園と書くよりも「公円」の方が書きやすかったのでしょう。また、「公円」という書き方を見たから、真似て書くことをしたということかもしれません。
 けれども、子どもでも、正しくは公園と書くのだとわかっていましたから、これは俗っぽい書き方だと思っていました。
 八百屋さんなどの店先に手書きで、白才、人肉、正油などと書いてあっても、ハクサイ、ニンニク、ショウユであるとわかりますから、人々は間違いを指摘することもなく、商店の用語であろうと理解していたように思います。今でも使われています。けれども、スーパーなどではパソコンで処理しますから、このような文字遣いは減っているようです。
 こんな記事がありました。

 焼き肉店にテイクアウトのメニューが出ていました。下の〈B・B丼〉が謎ですが、ビビンバ丼のことらしい。それよりも目を引かれたのは〈白才キムチ〉です。野菜の「白菜」をこう書いています。
 誤字でしょう、と言うのは簡単ですが、それにしてもあちこちのお店で目にします。私が最初に「白才」を見つけたのは2001年です。昔の雑誌『言語生活』1966年7月号にも報告があり、半世紀以上の歴史があることが分かります。 …(中略)…
 これを「民間表記」と呼ぶ人もいます。
 生活のための文字は、素早く書けることも大切です。昔はいろいろな当て字や略字が作られましたが、スマートフォンの普及で知られなくなりました。少し寂しいですね。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月25日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 私は国立国語研究所が編集に関わっていた『言語生活』(筑摩書房)の「目」欄や「耳」欄への投稿に夢中になっていた時期がありますから、この雑誌を〈昔の雑誌〉と書かれるとちょっと寂しい気持ちになります。「白才」は私の感覚では21世紀になるずっと前から使われていたと思います。
 ところで上記引用文の文末「スマートフォンの普及で知られなくなりました。」という表現は、私にはどういう意味なのか、理解できませんでした。スマートフォンの普及によって、どういうことが知られなくなったのでしょうか。
 なお〈B・B丼〉という表記がビビンバ丼をあらわすとすれば、それは私が何度も指摘しているような、新聞見出しのアルファベット略語の濫用ということを真似たものだろうと思います。新聞の見出しが社会に悪影響を与えていることの、一つのあらわれだと思います。

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2020年8月29日 (土)

ことばと生活と新聞と(190)

「字引」と「生き字引」


 「生き字引」とは、〈生きた字引〉ということであって、知識が広く、物事を何でもよく知っている人のことです。言葉をよく知っているという意味ではなく、もっと広い意味で使われています。
 長野県警山岳安全課が山の特徴や注意事項などを記した「信州山カード」(全55種類)を作ったという記事の中に、こんなことが書かれていました。

 昨年までチラシを配っていた。「山に入るのにもらっても邪魔になるでしょう」(県警山岳遭難救助隊の櫛引知弘隊長)と、ポケットに入るサイズに改めた。個々の山の事情に精通しきれていない警察官にとって「字引」的な役割を果たす狙いもある。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月27日・夕刊、3版、5ページ、「地域発 長野県から」、里見稔)

 〈「字引」的な役割〉とは、言葉の意味を教えるという役割ではないことは明らかです。それぞれの山についての特徴や注意事項などを知らせるという役割です。〈「字引」的な役割〉は比喩表現ですが、それでも、「字引」は辞書(国語辞典)という意味を超えています。
 手元の国語辞典で「字引」を引いてみると、たいていは字引=辞書という説明になっています。『三省堂国語辞典・第5版』だけが、〈①字書。②辞書。③事典。〉となっていて、「事典」にまで広げています。
 中村明『日本語 語感の辞典』では、「字引」の項目で、〈「字典」のほか「辞典」をさすことも多いが「事典」は含まない。〉と説明していますが、広い意味を設定しておいた方がよいように思います。
 「字引」の説明に加えるべきこととして、例えば、「それぞれの分野などについての広い知識内容」というようなことも必要ではないでしょうか。
 そうすれば、「信州山カード」には、〈「字引」的な役割〉すなわち、〈それぞれの山についての、広い知識内容(山の特徴や注意事項)を知らせる役割〉があるという意味が明確になるでしょう。

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