2020年7月 6日 (月)

ことばと生活と新聞と(136)

「お疲れ様です」と「お疲れ様でした」


 日常的な挨拶の言葉に悩むことがあります。「ご苦労様」をすべての人に向かって言うのはよくない、「おはようございます」は何時頃までなら使えるのだろう、「こんにちは」という短い挨拶は失礼ではないか、などと考えると、思案をしてしまうことがあります。
〈疲れてなくても「お疲れ様です」 便利だけど…?〉という見出しの記事がありました。海外経験のある赤塚りえ子さんに聞いた話をまとめたものです。次のようなことが書かれていました。

 2006年に12年間過ごした英国から日本に戻った時、驚いたのが「お疲れ様です」の嵐でした。メールはもちろん、オフィスのあいさつも電話もです。そんなに疲れているとは思えない朝から、一日中「お疲れ様です」が続くので、「一体これは何なんだろう」と不思議で、辞書やネットで語源や使い方を調べたほどでした。 …(中略)…
 「みんな疲れている」という共通認識があるから、「お疲れ様です」とねぎらい合っているのかもしれない。そう感じるようにもなりました。
 最初のうちは、どのタイミングで使うのかが分からず、戸惑いの連続でした。でも少しずつ、「こんにちは」とか「さようなら」のような軽いあいさつの代わりなんだ、と理解しました。確かに、メールの書き出しが「こんにちは」だと、ちょっとなれなれしい。「お疲れ様です」はすごく便利な言葉だと分かりました。今では「とりあえず書く」まで日本社会に順応してしまい、あいさつでも、うまく使えちゃう自分がいます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月4日・朝刊、13版S、11ページ、「論の芽」、田中聡子)

 疲れているかいないか分からない人に向かって「お疲れ様」は使いにくいと思います。私は、メールの冒頭に「お疲れ様です」と書いたり、帰りの電車で出会った友人に「お疲れ様です」と言うことはしません。私がこの言葉で挨拶をされたときの気持ちは複雑です。疲れていないよ、と言いたいときがありますが、そんな言葉は口には出しません。単なる挨拶語だと思っているからです。挨拶として「お疲れ様です」を使うことは、私の場合は、ありません。書き言葉として「お疲れ様です」と書くことはありません。押しつけがましいと感じるからです。
 けれども、「お疲れ様」を全く使わないかと言うと、そうではありません。相手が確実に疲れていると思われているときには「お疲れ様でした」と言います。その人の仕事ぶりなどに一日中、接していた場合などには、腹の底から「お疲れ様でした」と言います。
 ここまで書くとお分かりになったと思いますが、私は「お疲れ様です」という現在表現の軽い挨拶言葉は使いませんが、本当に疲れていると思われるときには「お疲れ様でした」という過去表現で、ねぎらいの気持ちを表すことはするのです。職場の同僚に「お疲れ様でした」という別れの挨拶をすることには抵抗感は持ちません。
 【ブログの文章は、前もって書いたものを、1日につき1編ずつを載せています。この文章は、あらかじめ7月3日に朝日新聞社東京本社あてにメールで送りました。その翌日7月4日の朝刊に、この話題についての特集記事が掲載されました。】

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2020年7月 5日 (日)

ことばと生活と新聞と(135)

アベノマスクよりも国語辞典を


 今の日本の首相は、「積極果断な」政策を、「躊躇なく」「間髪を入れず」「一気呵成に」実行しているという自負があるようです。このような言葉を何度も口にしていますが、国民の耳には届きません。国民が聞く耳を持っていないのではなく、発せられる言葉があまりにも空虚であるからです。本人の心の中から出てきた言葉ではなく、周辺の者が書いた言葉を読んでいるだけだからかもしれません。
 もうすぐ「首相用語集」がまとめられて、その意味も記述されるかもしれませんが、その意味・用法は一般の国語辞典と大きく異なるところがあるように思われます。その「首相用語集」が国民に配られたら、言葉の意味の軽さに国民は驚くに違いありません。
 お礼に、国民は首相に、ごく一般的な国語辞典を一冊、差し上げたく思うでしょう。日本語の一つ一つの言葉にはこのような意味・用法があるのだと知っていただくために、差し上げたくなるのです。
 アベノマスクというものが届きましたが、マスクに多額の予算をかけたり、GO TOキャンペーンの取扱手数料を多額に準備したりするよりも、この際、全国の家庭に良質な国語辞典を配付する方が、国家予算の使い方としてはよほど優れたように思います。
 井上ひさしさんの連載広告文を集めた、「ことばの泉」という題名の文章がありますが、その中にこんなことが書かれていました。

明治の初期、新政府は『英和対訳辞書』を作り開拓使学校全生徒に配った。惣郷正明氏の研究によれば、その数は四千部。大学南校(東京大学の前身)も学生に和英辞典を無料配布したらしい。こちらは二千。時代がちがうから同日の談ではないが、これは検討に値する。たとえば全国の中学生に質のいい国語辞典を無料で配るのだ。
 (井上ひさし、『井上ひさし発掘エッセイコレクション 社会とことば』、岩波書店、2020年4月10日発行、136ページ~137ページ)

 これは冗談半分の提言ではありません。ばかげた使い道を考えるよりも、効果のうんと高い予算の使い方だと思います。首相の言語能力の向上にも役立つはずです。全国の中学生ではなく、全国の家庭のすべてに配ればよいのです。

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2020年7月 4日 (土)

ことばと生活と新聞と(134)

贋物の音声がはびこる


 新型コロナとは関係なく、以前からテレビで贋物の音声がはびこっていました。音楽やお笑い番組などで、実際にその場で起こった歓声や拍手などではなく、効果音を取り入れている番組が多くなっていました。効果音と言うと肯定的な言葉になりますが、実際にはそこにない音を追加するのですから、これは状況の作り替えであり、意図的な改変です。内容の異なったものに仕立て上げるのであり、贋物づくりです。こういうことがなぜ責められないのだろうと思っていました。
 相撲やプロ野球などが無観客で行われると、これまでのような大観衆のもとでは聞き取れなかった音が聞こえて、新鮮な気持ちになりました。相撲の行司などの声、力士の声やぶつかったときの音など、野球のバットやボールから出る音、ボールがミットにおさまる音、あるいは選手同士の掛け声などです。無観客ゆえの臨場感が生まれます。
 そのようなことに反して、わざと音声を作り出そうという営みがあることを知りました。こんな記事がありました。

 「いけー」「頼むぞ」。23日のプロ野球・千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズの試合。観客のいないZOZOマリンスタジアム(千葉県美浜区)に歓声が響く。千葉ロッテの井上晴哉選手が九回に同点打を放つと、拍手や声援はひときわ大きくなった。
 活用されたのは楽器メーカー大手ヤマハ(浜松市)が開発した「リモート応援システム」。スマホなどのアプリから「歓声」「拍手」など4種類のボタンを押すと、右翼席のスピーカー3台から、あらかじめ録音された約100種類の男女の声援や拍手がランダムに再生される仕組みだ。ボタンを押した人が多くなるほど音量も大きくなる。
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年6月27日・夕刊、3版、8ページ、有留貴博・新田修)

 「あらかじめ録音された約100種類の男女の声援や拍手がランダムに再生される仕組み」というのですから、その球場で出た音(これまでの試合で録音された音)ではなく、作り出した贋物の音です。しかも、「右翼席のスピーカー3台から」出る音というのは、相手チームにとっては、試合をかき乱される音です。
 この記事を書いた記者は、このような応援作戦を肯定的に捉えているようですが、実際の観客の声援とはまったく異なります。試合を妨害する行為です。こういうことが拡大していけば、純粋にスポーツを楽しむことが阻害されかねません。スポーツ精神に反する行為であるのですから、排除しようという声があがることになるかもしれません。
 新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、人々の助け合おうとする態度や、自分から進んで行動を慎もうという姿勢などが、私たち国民の持つ特性として認識されました。しかし一方で、この機に乗じて金儲けを企てたり、相手に打ち勝とうと作戦を練ったりする者が現れています。スポーツの場にふさわしい行為とは思えません。どのようにすることが社会に貢献することになるのかということをよく考えてほしいと思います。

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2020年7月 3日 (金)

ことばと生活と新聞と(133)

どうして毎年、同じ時期に同じ記事・写真なのか


 元旦の新聞の社会面の片隅に必ずと言っていいほど掲載される記事と写真があります。朝日新聞などの全国紙の大阪本社発行の紙面に、ほぼ例外なく掲載されるのです。他の本社発行の社会面には載せられていないかもしれませんが、大阪本社版は十年一日のごとき様相です。いいえ、10年どころではないのかもしれません。
 それは、京都の歳末の風物詩の「をけら詣り」の様子です。ちょっと注目すべきは昔々は「おけら」という仮名遣いであったものが今は「をけら」になっていることぐらいです。京都には寺社がたくさんあり、大晦日の行事もいろいろ行われているのに、毎年毎年「をけら」だけを載せる理由が私にはわかりません。
 例えば、5月15日に行われる「葵祭り」は古くからの伝統を引き継ぐ行事ですから、毎年、その日の夕刊に写真と記事が掲載されるのは当然だと感じています。「をけら」も古い伝統を引き継ぐものでしょうが、新聞社は大晦日の寺社行事の取材をそれに限定してしまっているように思われるのです。
 さて、別の話題に移ります。他の地域にお住まいの方はお気づきでないと思いますが、毎年、衣更えの時期になると必ずと言っていいほど写真が掲載される学校があります。これは、その学校が広報活動をして各新聞社に情報を流して、新聞社がそれに飛びついているのかもしれません。この記事・写真は毎年載るかどうかは確認しておりませんが、かなりの頻度であることは確かです。たくさんの学校があるのに、特定の学校のことばかり報道するのは、まるで癒着があるかのような印象を受けます。
 今年の記事を引用します。

 神戸市灘区の私立松蔭中・高校で26日、衣更えがあり、マスクを着けた生徒たちが、伝統の白いワンピース姿で登校した。
 もともと今月18日から夏服に切り替える予定だったが、新型コロナウイルスの影響で休校が継続。分散登校で学校が再開したこの日から衣更えとなった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月26日・夕刊、3版、7ページ、遠藤美波・西岡臣)

 たまたま通りがかりに衣更えの中高生を見たというのではなく、きちんと計画を立てて記事にしていることは、文章を読んでもわかります。
 白一色のワンピースですから、写真としても見映えがよいのですが、神戸市内にはたくさんの学校があるのに、毎年のように記事にするのはこの学校のことなのです。記事にしやすいという気楽さで、毎年続けて載せるのであれば、記者の怠慢のようにも思います。それとも学校と新聞社とに深いつながりがあるのでしょうか。これも十年一日のごとき記事の作成です。

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2020年7月 2日 (木)

ことばと生活と新聞と(132)

不完全な文が連続する「天声人語」


 前回の続きです。まずは6月1日の「天声人語」を引用します。原文は▼印で段落が変わる形になっていますが、段落は行を改めて引用することにします。

 「大人も初めてのピンチにどうすればよいかわからず、なやんでいます。みなさんは歴史の当事者です」。そう呼びかけたのは1年3組の担任の先生。群馬県邑楽町にある長柄小学校では4月から、先生が交代で思いを学校のサイトに書いてきた
 内容は自由。飼育係の先生は「にわとりのミルクと小雪はとても元気です」。チョコの箱の写真とともに「銀のエンゼルマークが出たんです。あと4枚必要です(笑)」という楽しいメッセージも
 図書室の先生はお気にいりの詩を途中まで紹介し、「続きを読みたい人は、学校が始まったら図書室に来てください」と誘った。小林淳一校長(57)は「休校、再開、また休校と目まぐるしい変化でした。子どもたちを何とか励ましたくて始めた試みです」
 授業はなかったけれど、各地で先生たちは知恵を絞った。慣れないラジオに出演して語りかけたり、町役場に出向いて防災行政無線で言葉を贈ったり。10人でダンスする動画の投稿もあった
 さあ6月。きょうから久しぶりに学校へ戻る人も多いだろう。新しいクラスは溶け込みやすいかな。担任の先生はどんな感じ? 遅れた授業はどうなるの。だれしもドキドキハラハラのはず
 「心っていう漢字ってパラパラしてていいと思わない? 心は乱れて当たり前」。絵本『きんぎょがにげた』の作者、五味太郎さんの言葉をみんなに贈りたい。教室に戻るのがつらかったら無理は禁物。あせらず、あわてず、学校生活を取り戻していこう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月1日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 例えば第1段落の文章は、1文目は引用文だけで、2文目は体言止めの文です。3文目でやっと普通の文章になります。これは新聞記者特有の表現であって、学校教育に持ち込んで真似をしてもらうような書き方ではありません。
 それでは、前回に書いた箇条に沿って指摘していきます。
 「①句読点がきちんと施されていません。段落の最後に句点がありません。」については、すべての段落が該当します。このような新聞特有の書き方は、学校教育とは相容れません。
 「②体言止めの文や、文末を省略してしまっている表現が多くあります。また、活用語をきちんと最後まで表現していない文も多くあります。」については、短い文章の中に次々と出てきます。第2段落の1文目の「自由」、3文目の最後の「楽しいメッセージも」、第4段落の2文目の「贈ったり」、など尻切れトンボの日本語が続出しています。子どもたちに対して、こんな文章も許されるということを教えているのです。
 「③主語と述語が対応していない文が多く、特に、述語を省略している不完全な文が多いのです。」については、第2段落の2文目の「飼育係の先生は」という主語に対する述語がありません。第3段落の2文目は「小林淳一校長(57)は」の述語が省かれています。わかっているなら書かなくてよいという理屈は成り立ちません。
 その他に気づいたことを書きます。第3段落の1文目に来て、やっと整った文が書かれました。けれども漢字・仮名の使い分けで言うと「お気に入り」は漢字で書くのが普通です。「今日」を「きょう」と書くのも新聞の用字です。単に文字数合わせのために利用されているのかもしれません。第5段落の「ドキドキハラハラ」の片仮名も新聞の用字でしょう。文末の「ドキドキハラハラのはず」も尻切れ表現です。第6段落の「無理は禁物」も尻切れで、いささか舌足らずな文章です。
 「天声人語」は中途半端な文字数を設定しています。きちんとした日本語にしようという意識よりも、その文字数に過不足なく合わせようとして、執筆者が遊んでいるのです。そのようなものが学校教育の手本になるはずがありません。昔の「天声人語」に立ち帰ることを考えなければなりません。
 このようなことは、ここに引用した文章だけのことではありません。毎日毎日、同じようなことが繰り返されています。それを、模範的な文章として書き写させようとしているのです。大人には通用するでしょうが、子どもたちにこのような文章の書き方を広めてはいけません。
 こんなことを指摘しても、新聞社は読者の意見などに返事を書こうという意志などはお持ちでないことはわかっていますが、このまま書き続けられると学校教育(国語指導)との関係において問題が大きいと思っております。

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2020年7月 1日 (水)

ことばと生活と新聞と(131)

記者特有の文章を学校教育に持ち込まない

 6月1日の朝日新聞の「天声人語」は、多くの文字に振り仮名を施しています。振り仮名を付けなくても中学生・高校生には読めるはずですから、この措置は小学生にも読んでほしいという願いが込められていると思います。
 「天声人語」には書き写すためのノートも準備されていて、執筆者は自分の書いた文章が学校教育にとっては手本になるものであるという自負を持っておられるようです。
 けれども、私は「天声人語」の文章は学校教育において手本になるようなものではないと思っています。こういう文章を教室に持ち込むことはやめてほしいと思っています。
 誤解がないように申しておきますが、かつての「天声人語」は教室で扱うことができました。問題を感じるのは現在書かれているような文章のことです。文字数が少なくなって、不適切な表現になってきているということです。
 私はこのコラムで「天声人語」の文章を折りに触れて批判してきました。朝日新聞社にもそれらの文章は送りましたが、返事をいただいたことはただ一度もありません。大新聞社の優秀な担当者が書く文章に文句を言うな、という姿勢であることを強く感じております。けれども、学校教育に役立つ文章表現というのは、このような文章ではありません。
 「天声人語」の文章は、記者がニュースなどの紙面に書くような文章の体裁から抜け出してはおりません。誤解のないように書かれていますが、文章としては整っていないのです。子どもたちが、文章を書くときの手本にしてはいけないのです。
「天声人語」の文章が不適切なものであるということを、いくつかの点から申します。①句読点がきちんと施されていません。段落の最後に句点がありません。②体言止めの文や、文末を省略してしまっている表現が多くあります。また、活用語をきちんと最後まで表現していない文も多くあります。③主語と述語が対応していない文が多く、特に、述語を省略している不完全な文が多いのです。
 「天声人語」は半端な文字数で書かれています。その文字数を守って、文章を書き続けておられる執筆者の努力には感服しますが、それは新聞社の紙面構成の都合による字数制限でしかありません。学校教育では、そんな半端な字数で文章を書かせることはありません。学校教育で行う字数制限とは、根本から目的が異なっています。そして、コラムはその文字数に合わせるために、おかしな文を書き連ねて、一つの文章にしているのです。
 「天声人語」を大人が読めば、意味を誤解することはありません。洗練された文章になっていると思います。けれども、この文章を教室で使うということは、文章の書き方の手本であるという意味が加わります。とりわけ国語の教材として扱おうとすれば、厳密な意味できちんと文法を守ったものでなければなりません。その意味では「天声人語」(少なくとも現在書かれているもの)は落第です。手本にはなりません。
 きちんとした文法などに沿わない文章が、毎日毎日、書き続けられているのです。大げさな言い方をすれば、美しい日本語の表現を崩していくような営みを続けているのです。学校教育で参考にしてほしいと言うのなら、そういうことをきちんと守って書かなければなりません。
 このように言えば、執筆者はお気づきにならなければなりませんが、いっこうに文章の書き方が改善されません。ひとつひとつを細かく指摘することは心苦しいのですが、次回は、6月1日の文章を例にして述べることにしたいと思います。

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2020年6月30日 (火)

ことばと生活と新聞と(130)

略語の意味の進化の例


 同じことを表現しても、使う言葉によってイメージが変化することがあります。その言葉がもともと持っていた語感が消えない場合もあるのです。
 こんな表現を目にしました。

 新型コロナウイルスの感染拡大後、家での食事が増える中、時短で作れる野菜たっぷりのレシピを、大阪府立大栄養療法学専攻の学生約20人が考案した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月25日・朝刊、14版、20ページ、「青鉛筆」)

 記事の文に「時短」という言葉が使われています。「時」は時間、「短」は短縮です。けれども、「時短」は単に時間短縮をあらわす言葉ではありませんでした。労働時間短縮という言葉を短く「時短」と言っていたはずです。そういう文脈の中で使われ続けてきた言葉です。
 大阪府立大栄養療法学専攻のホームページを見ると、このレシピが公開されていて、「手間をかけず時短調理につなげるため、どこの家庭でもよく使う野菜を中心に、調理済みの缶詰なども使ったメニューを考案」などという表現があって、「時短」が使われています。そして、電子レンジなどを使って短い時間で作れるように工夫した料理のレシピが31種、並んでいます。
 けれども、「短い時間で手際よく作れる野菜たっぷりのレシピ」という表現をすれば、料理を作る人の愛情も感じられるのですが、「時短で作れる野菜たっぷりのレシピ」という表現は、労働時間を短縮して作り上げる料理という感じで、工場生産か何かの意味がただよわないわけではありません。言葉がもたらすイメージとはそのようなものです。
 もともと労働時間短縮という意味を持っていた「時短」が、さまざまな事柄における時間短縮という意味に使われるようになったという、略語の意味の進化の一例ということになるでしょう。けれども、もともとの意味を浮かべ続けている人にとっては、料理の時間にまで使われるのは意外だと思われるに違いありません。
 料理の時間を短くすることの他に、今では、「目的地までの時短のために飛行機に乗る」とか、「富岳コンピュータが計算の時短に貢献する」とか、「飛び級進学で勉強の時短を図る」とかの言い方が認められるようになっているのでしょうか。

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2020年6月29日 (月)

ことばと生活と新聞と(129)

略称はどのように作られるのか


 鉄道会社の略称に近鉄(近畿日本鉄道)、相鉄(相模鉄道)、西鉄(西日本鉄道)などという「〇鉄」というのがあります。また、江ノ電(江ノ島電鉄)、広電(広島電鉄)などという「〇電」と呼ぶものがあります。
 兵庫県内にある準大手私鉄に山陽電気鉄道と神戸電鉄(古い名称は神戸電気鉄道)があります。神戸電鉄について、新聞記事などで昔は「神電」という呼び方が使われていた記憶がありますが、会社側がPR誌などで「神鉄」という呼称を使って今ではそれが一般の人たちにも定着しています。山陽電気鉄道の略称は昔も今も「山電」のままです。「〇電」に市街電車のイメージを持つのは私の思い過ごしかもしれませんが、姫路から神戸を経て大阪梅田まで15分おきに特急列車を運転している鉄道が「山電」というのは軽い感じがしないでもありません。(もっとも、国有化前の鉄道会社に山陽鉄道がありましたから、山陽電気鉄道を「山鉄」と呼ぶのには抵抗感があるとも言えます。)
 会社や団体などの略称はどのようにして定着していくのでしょうか。一般の人たちの呼び名が定着したり、会社・団体などが自分で呼ぶ名前が広がったりするのでしょう。
 けれども、もう一つ大きな力があります。報道機関が勝手に略称を作り上げるということです。特に、長い名前を短く言う場合に、報道機関が無理(無茶?)をすることがあります。話題になっている一般社団法人サービスデザイン推進協議会などという団体を、今のところ略称で呼んだりしていませんが、そのうちにおかしな呼称を付けるかもしれません。思いつくのは「サ推協」とか「サデ協」のようなものです。
 童謡の歌詞について書かれた記事の中に、農業・食品産業技術総合研究機構という団体名が書かれていました。会社名の短さに比べて、団体名にはやたら長いものがあります。そんな長い名称を記事の中で何度も書かねばならないというのは大変なことですが、ではどのような略称を使うのでしょうか。指示語で「この研究機構」などと言うことはできますが、報道機関は略称を使うのが好きです。
 この記事では、次のようになっていました。

 「ゆうやけこやけの あかとんぼ」(三木露風作詞「赤とんぼ」)、「うさぎおいし かのやま」(高野辰之作詞「故郷」)、「さくらさくら やよひのそらは」(日本童謡「さくらさくら」)……。学校で子どもに歌い継がれてきた童謡・唱歌には、自然豊かな日本の原風景のイメージがたびたび現れる。
 そんな歌に注目した農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)の研究チームが5月、研究成果を生態系に関する国際学術誌エコシステムサービス…(中略)…に発表した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月16日・夕刊、3版、1ページ、杉浦奈実)

 農業・食品産業技術総合研究機構のホームページを見ますと、「農研機構は、我が国の農業と食品産業の発展のため、基礎から応用まで幅広い分野で研究開発を行う機関です。」と書いてあります。
 「農業」の次に「・」がありますから、「農業」と「食品産業」とが対等になっているように思われます。そして、その「技術」を「総合研究」する「機構」のようです。
 「農食」という2文字を対等にする呼称がよいように思われますが、機構自身が「農研機構」という略称を使っているのですから、外部から意見を述べることはできません。
 ただし、それとは別に、このような略語の作り方について、新聞社はルールを設けているのかどうか、知りたいと思います。(今回の話題は機構自身が略称を作ったことですが、そうでない場合に新聞社が略称を作ることはいくらでもあるのです。)

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2020年6月28日 (日)

ことばと生活と新聞と(128)

「うまい」料理と「おいしい」料理


 私は、テレビの料理番組などで出演者が「うまい、うまい」と叫びながら食いついている姿を見ると、男女に関わらず、「おいしい」と言いなさいと言いたくなります。けれども、文章に書かれたものを読む場合は「うまい」であっても抵抗感は少ないのです。テレビの場合は無作法なしぐさが目についてしまいますが、書き言葉の場合は食べている姿は想像するしかなく、美しい動作を思い浮かべるからかもしれません。
 井上ひさしさんの連載広告文を集めた、「ことばの泉」という題名の文章がありますが、その中にこんなことが書かれていました。

 たとえば「うまい」と「おいしい」では、どこがどう違うのか。これまでの辞典は、〈「おいしい」は「うまい」より丁寧で、多く女性が用いる。〉と書くだけだったが、『大辞泉』(小学館)は一歩その先を行く。右のほかに、〈「うまい」には、上手だ、手際がよいの意があるが、「おいしい」はこの意では用いられない。また「おいしい話」には、利益になるという意がつよい。〉と、その使い分けをはっきりと示す。引いてよかったと表紙をなでたくなるのは、こういうときだ。
 (井上ひさし、『井上ひさし発掘エッセイコレクション 社会とことば』、岩波書店、2020年4月10日発行、134ページ)

 「うまい料理」には、美味しい料理という意味の他に、上手に作られた料理、手際よく準備された料理という意味が込められて表現されることがある、と考えられるのです。
 「おいしい料理」には、それを食べてもらって利益を得ることになる料理という意味が込められて表現されることがある、と考えられるのです。
 そうなると、「うまい料理」と「おいしい料理」は、場面によって使い分ける必要があるということにもなります。
 新型コロナウイルス感染症の拡大に伴って、店内で飲食させることをしていた店が、持ち帰り食の販売に乗り出しています。手際よく準備された「うまい」ものを販売して、利益を得る「おいしい」商品に舵を切っているのです。

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2020年6月27日 (土)

ことばと生活と新聞と(127)

「現場」ということばの嫌悪感


 こんな思いを持っているのは私だけかもしれません。けれども、やっぱり言わずにはおれないという気持ちが強いのです。話題にしたいのは平凡な言葉です。けれども、その言葉を使う際の意識が問題だと思うのです。それは「現場」という言葉です。日常の言葉としてはしょっちゅう使われています。
 例としての文章を引用しますが、これは一例に過ぎません。

 コロナ、コロナの単色だった暮らしにも、変化が訪れつつある。遊園地や動物園が再開したニュースが各地から届く。百貨店などが営業を始める一方、まだ自粛を求められている店がある。変化はいまだ、まだら模様である。
 まだらがいちばん気になるのは全国の教育現場であろう。教室にはビニールの幕、教員にはフェースガードと、再開準備を進める学校が首都圏にある。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月24日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 「現場」という言葉と対になる言葉はどんな言葉なのでしょうか。「現場」にいる人たちと対になる立場の人はどんな人なのでしょうか。その対語を提示することは難しいとは思います。言葉の問題ではなく、意識の問題であると思います。
 「現場」という言葉を使う人は、「現場」にいる人よりも上の位置にいる人たちのように感じられるのです。そのことが、「現場」という言葉への嫌悪感になっています。
 新聞のコラムは、学校の枠外にいる人が書いています。そして教育に懸命にいそしんでいる人たちの営みを「現場」と言っています。枠外から、学校を俯瞰して使っている言葉のように感じられます。上にいる立場はぬぐい去れません。
 この言葉に嫌悪感を抱くきっかけは、学校に勤めていたときに、「現場」とか「学校現場」とかの言葉を聞いたときです。私は自分が学校で生徒たちに対応しているところを現場という言葉で表現するとは思っていませんでした。誰がどのような場面で「現場」という言葉を発したのか、その記憶はさだかではありません。けれども、注意してみるとしばしば「現場」という言葉を聞くようになりました。「学校現場を指導する」とか「現場を視察する」とかの立場の人がいることがわかってきました。いうまでもなく教育委員会事務局に籍を置く人たちです。学校に勤めている自分たちが使わない言葉を、使う立場の人がいるということです。
 学校に勤めている人たちやそこでの教育活動を教育委員会の人たちが「現場」と言います。新聞社で机に向かっている人たちが学校教育にいそしんでいる場所を「現場」と言います。考え方は同じように思います。
 ただし、学校に務めている人たちで「現場」という言葉を使う人が皆無であるということではありません、教員が「現場」を使うことはあるでしょうが、私は使う気にはなりません。
 「現場」という言葉がなくなってほしいと言っているのではありません。「5年前に悲惨な事件が起きた現場」などという言い方は、「現場」という言葉の使い方としては自然なものです。事件が起きるまでは何でもない場所であったかもしれませんし、時が経てば忘れられていく場所であるかもしれません。そういう場所に「現場」という言葉を使うことに抵抗感はありません。特定するひとつの位置を示している言葉です。
 毎日毎日、一生懸命に働いている場所を医療現場だとか教育現場とか言う人の意識の中には、自分から離れた場所だという、突き放したような見方や、自分の位置より下にある場所だということが無意識に働いているように感じられてならないのです。

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2020年6月26日 (金)

ことばと生活と新聞と(126)

「枕ことば」の意味は、国語辞典で説明されているか


 「枕詞」は和歌の修辞技巧の一つとして万葉集の時代には既に多くが使われていました。枕詞は主として5音の言葉で、次に現れる言葉にかかっていく言葉です。例えば「ともしびの」は「明石」にかかる言葉です。同じようなものに「序詞」がありますが、これはもう少し長い言葉です。古語辞典には枕詞一覧表が載っていますが、序詞一覧表は載っていません。枕詞が誰でも同じような使い方をしたのに対して、序詞は歌人ひとりひとりが異なった言葉遣いを工夫して使ったからです。
 その「枕詞」(表記は「枕ことば」「まくら言葉」など)という言葉は、現代でも使われますが、上に述べたような意味とは違った使い方をされるのが普通です。
 例えば、次のような使い方です。

 「名品」とは何ぞや。重要文化財? 美術の教科書に載っていた? 「昭和チックで、権威主義的な言葉。何を『名品』とするかで時代は変わるし、人によっても違う」と兵庫県立美術館の西田桐子学芸員。「超・名品展」と銘打つ開館50周年記念展は、そんな枕ことばに対する一つのアンチテーゼのようだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月19日・夕刊、3版、3ページ、「蔵出し美術展」、田中ゑれ奈)

 この文章で使われている「枕ことば」の使い方は、どう解釈すればよいのでしょうか。「開館50年展」の枕ことばとして「超・名品展」という言葉が使われているという解釈ができそうですし、「名品」という言葉が枕ことばの意味を持っているという解釈もできそうです。
 国語辞典で「枕詞」の説明を見ると、次のようになっています。この文章の冒頭で述べたような意味(和歌の修辞)を、仮に〔A〕と書くことにします。
 『明鏡国語辞典』『現代国語例解辞典・第2版』『新明解国語辞典・第4版』『岩波国語辞典・第3版』には、〔A〕の意味だけが書かれています。
 『三省堂国語辞典・第5版』には〔A〕の他に、次のような説明があります。

  ②話のはじめに添えて言う決まり文句。

 また、『広辞苑・第4版』には〔A〕の他に、次のような説明があります。

  ②転じて、前おきのことば。
③ねものがたり。

 2つの国語辞典だけに「枕詞」の説明が載っているということは、ちょっともの足りない気持ちがします。現代語の文章にも使われる言葉ですから、国語辞典は、外来語の見出しを増やすことに努力するよりも、日本語の言葉の意味の記述を充実させる必要があります。
 ところで、「枕詞」は、落語のマクラとは性格が異なります。「話のはじめ」に出てくるとか、「前おきのことば」とかの説明は、少しおかしいと思います。
 上記の新聞記事は、文章の冒頭を引用しましたが、「枕詞」は話の初めに出てくるとは限りません。しかも、「決まり文句」ではありません。「商売の都市・大阪」とか「煙の都・大阪」とか「お笑いの町・大阪」とか言うことがありますが、「大阪」という言葉の前に置かれたのを「枕詞」と言ってよいでしょう。けれども、「大阪」の前に置く言葉は、文脈に沿っていろいろ言い換えられます。決まっているのではなく、無数の表現が可能です。
 枕詞とは、後ろに出てくる言葉をわかりやすくイメージさせたり、象徴的に説明したりする言葉です。修飾語の働きをしている言葉です。国語辞典には、そのような説明が必要なのではないでしょうか。
 引用した文章では、「『超・名品展』と銘打つ開館50周年記念展」という表現をしています。「名品」=重要文化財、美術教科書の掲載作品、というような考えを「枕詞」という言葉で表現し、開館50周年記念展は、そのような「枕詞」をうち砕く「超・名作」の作品展だと言おうとしているのでしょう。

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2020年6月25日 (木)

ことばと生活と新聞と(125)

「つなぐ」と「つなげる」は同じ意味か


 このコラム(111)回で「つなげる」という言葉を取り上げました。東日本の言い方が全国共通語に定着したという考え方に、反論するようなことを書きました。
 その「つなげる」という言葉について、「時間感覚の磨き方」という特集記事の中で、こんな表現を見つけました。

 毎日、簡単な日記を書き、週の終わりには科目ごとの達成状況も評価し、翌日・翌週につなげる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月14日・朝刊、「EduA」1ページ)

 中学生や高校生の学習状況について、指針を示したような書き方になっていますが、ここに書かれていることができる生徒は、ごく少数だろうと思います。2週間に1度ずつ配付される「EduA」という別刷りは、優秀な生徒や恵まれた家庭向けのもので、一般の生徒・家庭向けではありません。
 それはともかくとして、「つなげる」という言葉のことについて考えます。まず、「つなげる」という言葉を、国語辞典はどう扱っているかを列挙します。

『新明解国語辞典・第4版』
 (項目がありません。)
『三省堂国語辞典・第5版』
 つなぐ。
『現代国語例解辞典・第2版』
 つないだ状態にする。つないで一続きにする。
『岩波国語辞典・第3版』
 一つながりに結び合わせて長くする。つなぐ。
『広辞苑・第4版』
 切れ、または離れているものを続け合せる。つなぐ。
『明鏡国語辞典』
 〔一〕①結びつけて一続きにする。つなぐ。②つながるようにする。特に、何かと何かがあるかかわりをもってつながるようにする。
〔二〕〔「繋ぐ」の可能形〕つなぐことができる。

上に挙げた辞典のうち、『新明解国語辞典・第4版』はこの言葉を全国共通語と認めていないようです。この処置の仕方には納得します。
 『三省堂国語辞典・第5版』は実に粗っぽいやり方で、「つながる」=「つなぐ」と言っているだけで、言葉の説明にはなっていません。2つの言葉が意味・用法の上でまったく重なるなどということはあり得ません。
 『現代国語例解辞典・第2版』『岩波国語辞典・第3版』『広辞苑・第4版』は、「つなぐ」と同じ意味だということを説明していますが、東日本の言い方だということは書かれていません。
 特筆すべきは『明鏡国語辞典』です。「つなげる」という言葉を詳しく説明しており、〔一〕の②の意味や、〔二〕の意味は他の辞典には書かれていないことです。この辞典の説明にはじゅうぶん納得できます。
 上記の記事の「翌日・翌週につなげる」という表現の意味は、『明鏡』以外には書かれていないのです。国語辞典は、言葉の意味・用法をつぶさに説明しているように見えても、実際にはそうではないのです。
 さて、改めて「翌日・翌週につなげる」という表現を見てみます。この表現を「翌日・翌週につなぐ」と言い換えられるでしょうか。「翌日・翌週につなぐ」と言うと、今日の行動はそこでいったん途切れることになります。『明鏡』のいう「つながるようにする。特に、何か(=今日までの行動)と何か(=翌日・翌週の行動)があるかかわりをもってつながるようにする。」ということこそ大切なはずです。
 国語辞典の編纂者は、外来語や流行語や俗語などに注目することよりも、ごくありふれた言葉をきちんと説明することの方に、力を注いでくださることをお願いしたいと思います。
 引用した記事の文を「つなげる」を使わないで表現するとすれば、「翌日・翌週につながるようにする」「翌日・翌週につないでいく」などの言い方が考えられます。

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2020年6月24日 (水)

ことばと生活と新聞と(124)

エラそうに聞こえます


 「大学目薬」という名前の目薬があって、これはなじみの商標のようになっていますが、似たような例として、次の記事を見ました。

 「教授マウススプレー」という口腔ケア商品を、サプリ販売会社「ナチュレ・ホールディングス」(大阪市)が4日、通販サイトで発売した。
 効果は実証済み。口内菌には広島大の二川浩樹教授(口腔生物工学)、口臭には近畿大の野村正人名誉教授(天然物有機化学)の研究が生かされた。
 市場に出にくい大学の研究に利益を還元したいと、同社が販路を提供した。「学術的に保証された質の高さを実感して」と担当者。税込み2862円。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月6日・朝刊、14版、24ページ、「青鉛筆」)

 「市場に出にくい大学の研究に利益を還元」するという意図のようですが、「教授……」と名づけた商品を、消費者はどのように感じるでしょうか。売れてほしいとは思いますが、どのような売れ行きになるのか、結果を知りたいと思います。
 そんなふうに思うのは、理由がありまして、書名に『(大学)教授の……』とか『先生の……』と名づけたものが売り出されることがあります。「〇〇の権威者が書いた……」というような宣伝文句もありますが、ずばり書名に書かれると、私は買いたくなくなってしまいます。「大学の研究に利益を還元」するというような目的ではなく、その本を売らんがための名付けだと思うのです。まして、出版社が勝手に名づけたのではなく、著者の了解があってのことです。極端な場合は『リンボウ先生の……』というような名づけもあります。権威主義的であると思いますとともに、著者の思い上がりも感じて、私は内容に興味がある場合でも、買い求めるのは遠慮してしまいます。
 朝日新聞にも同じようなタイトルの連載記事があります。「千田先生のお城探訪」というのが地域版で続いています。「先生」の、髭を撫でている顔写真が毎回、載っていますが、読む気にはなれません。
 ついでに言うと、『あなたが知らない……』とか『読まないと損 ……』とかの書名にも、著者の思い上がりを感じます。読者の知らないことを著者は知っている、教えてやるから読め、と言わんばかりの書名です。そのような書名をシリーズにしている著者もいます。
 本を次々に書く人は、売れたらよい、そのための宣伝だと思っているのかもしれませんが、そのような書名を目にすると(書店で見ることもありますし、新聞広告で見ることもあります)、著者にちょっとした心の細やかさがそなわっておればよいのにと、残念な気持ちになることがあります。

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2020年6月23日 (火)

ことばと生活と新聞と(123)

読み方の改変も、地名の改変と同じである


 宮崎県の西都原(さいとばる)古墳群の名称をはじめとして、九州では「原」を「はる」と読む地名がたくさんあります。同じ宮崎県に航空自衛隊の新田原基地がありますが、「にゅうたばる」と読みます。「新」を「ニュー」と読むのは英語読みのように思われるかもしれませんが、「新田」を「にった」と読むのはごく普通です。新田原も「にったばる」と読むのは普通の読み方であり、「にったばる」が「にゅうたばる」となるのも日本語の発音として自然な変化であると思います。
 常用漢字の音訓表などのなかった時代に、文字の読み方がいくつかあっても不思議ではありませんし、風土記が編纂されるときよりも古くからある地名なら、後に文字を当てはめたに過ぎないのです。地名は文字も大事ですが、読み方はもっと大事です。もちろん、その読み方が時代を経て変遷してきていることは言うまでもありません。
 私は江戸時代の5街道をすべて端から端まで自分の足で歩きましたが、日光街道を歩いて徳次郎宿を通ったのは2015年5月のことでした。宿場の名前は「とくじら」ですが、交差点名の読み方には「Tokujiro」と書いてありました。江戸の昔から言い習わしてきた「とくじら」を現代風の「とくじろう」に改めたのは行政であろうと思い、残念な気持ちになりました。
 その徳次郎のことが、新聞に取り上げられていました。

 宇都宮市北西部に「徳次郎町」という地名がある。行政上の読み方は「とくじろう」だが、地元では昔から「とくじら」が常識だった。地元自治会は4月、「本来の読み方に戻してほしい」と、市に要望書を出した。あまり例のない読み方の変更はかなうのか。
 「『とくじら』じゃなきゃダメでしょ」。地元で生まれ育った会社社長斎藤光重さん(62)はそう言い切る。通った保育園、地域に残る戦国時代の城跡、高齢者施設、三つのバス停、商店の屋号--。至る所で昔ながらの呼び方が使われてきた。 …(中略)…
 昨秋、読み方の変更が可能なことがわかった。地元自治会が4月に要望書を提出。市は9年ぶりに市住居表示等審議会を設置することになった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月15日・夕刊、3版、7ページ、「地域発 栃木県から」、中村尚徳)

 行政が一方的に変更しておいて、元に戻すのは煩雑な手続きが必要だというようなことでは、筋が通りません。
 私の地元、明石市に「和坂」という地名があります。もともとは「かにがさか」と読み、地名の由来には古い言い伝えが残されています。
 今は、「かにがさか」と読む「和坂」の他に、「わさか」と読む「和坂」「和坂稲荷町」があります。同じ「和坂」が2つあるのは紛らわしいようですが、「かにがさか」と読む方はJR西明石駅と電車区の用地内のようで区分ははっきりしています。行政のやり方は、「かにがさか」という読み方を見えないようにして、一般の住宅のある地域の「わさか」という呼び名を広めようとしているのです。姑息なやり方のように思われます。
 けれども、読み方の場合はまだ軽症です。古くからある地名を消して、新しい名前に変えてしまうことが各地で行われました。現在も行われ続けています。これは文化の抹殺に等しい行為だと思います。

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2020年6月22日 (月)

ことばと生活と新聞と(122)

食べ物番組について思うこと


 川崎洋さん(1930年~2004年)はやさしい言葉で、美しい作品をお書きになる詩人でした。例えば、「美の遊び歌」という詩は、こんな面白い作品でした。

 〈美しい〉の中に / 恣意 / 気ままな基準によるということで
 〈美意識〉の中に / 四季 / その境目はあいまいになりつつあり
 〈美談〉の中に / 鼻(び) / 鼻もちならない例もあり
 〈美食家〉の中に / 職(しょく) / それを売り物にして稼いでいるむきもいて
 〈美少女〉の中に / 障子 / 純日本風な子は近頃少なくて

 /を入れたところは、実際には改行されており、その3行と次の3行との間には1行の空白が設けられていましたが、ここではスペースを少なくして引用しました。
 おわかりのことと思いますが、「美(うつく)しい」という言葉の一部に「恣意(しい)」という発音が含まれているということに興味を持った詩です。5つのまとまり(連)はいずれも、そのような発想で書かれています。
 私は「〈美食家〉の中に / 職 / それを売り物にして稼いでいるむきもいて」というところに、深く同感します。美味いものだけを食い散らかしているタレントや料理人がいます。食べ物の中にはとりたてて美味くないものもありますが、それは誰が食べたらよいと考えているのでしょうか。食べ物を大切にしない〈美食家〉には腹立たしい思いがします。
 それとともに、そんな〈美食家〉を持ち上げるように書いている文章にも苛立たしさを覚えるのです。
 例えば、こんな記事がありました。

 宅配ピザの大手チェーンが販売している全42種のピザを、ファミレスなどのメニューを食べ尽くす番組企画の常連たち「ウワサオールスターズ」が、人気ランキングの順に次々と平らげていく。具だくさんのピザが画面いっぱいに並ぶさまは、まさに「飯テロ」番組だ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月12日・朝刊、14版、30ページ、「試写室」、大野拓生)

 「飯テロ」という語がどういう意味の言葉であるのかは知りませんが、次々に食べて、その感想の言葉を吐き続ける番組なのでしょう。こういう番組には人気ランキングなどという企画が付き物のようです。
 「ウワサのお客さま」という番組の紹介記事の一部分を引用したのですが、時間ごとの番組欄にも、過激と思われるような言葉が並んでいます。番組欄は通信社の配信をそのまま載せているのでしょうが、「試写室」という紹介記事は、自社の記者が書いたものでしょう。この番組を選んで紹介しようと判断したのも新聞社の方でしょう。
 番組の出演者だけでなく、記者もこの番組を「売り物」にしようという意図で文章を書いているようです。
 料理の材料の細かな紹介や、それがどのような心と技を込めて料理に仕立てられたのかというようなことを抜きにして、できあがった料理に食いついて、「美味い」「よし」「グー」などという平板な言葉を吐き続けるタレントが出演し、それをグルメ番組と称することが多くなっています。味や香りや舌触りなどを細かく、美しく語る言葉が欠如してしまっている人間が、騒ぎ合っているのです。
 新型コロナウイルスの感染で、私たちのこれまでの生き方を変えるように求められています。食い散らかして、表面的なおもしろさだけを売り物にする番組などは、根本から考え直すべきだと思います。もし、この番組が真面目に料理を良さを伝えようとしている番組であるのなら、そのような紹介の仕方を考えてほしいと思います。試写で番組を見ているのは、記事を書いた記者だけなのですから。

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2020年6月21日 (日)

ことばと生活と新聞と(121)

下品な言葉「ぶら下がり取材」


 ある職業の方々だけに通用する言葉というものがあります。業界の中だけで使うのなら便利な言葉でしょうが、外の世界の人には通用しないことがあります。一般に通用しなくても、業界内で便利な言葉ならどんどん使ってよいだろうと思います。
 そのような言葉を、外の世界の人向けに使うと、意味がわからなかったり、誤解を生じたりすることがあります。それから、もうひとつ考えておかなければならないのは、業界用語は能率よく伝えようとする目的の言葉が多いので、部外の人には下品に感じられるような言葉があります。
 まったく下品だなぁと思われる言葉が報道の世界にあるようです。こんな記事がありました。

 安倍晋三首相は21日、大阪、京都、兵庫3府県の緊急事態宣言の解除を決めたが、記者会見は開かなかった。7都府県に宣言を出した4月7日以降、全国拡大や39県の解除などの節目で4回会見し、質疑を合わせて1時間程度語ったが、この日は全体で約7分間の記者団の「ぶら下がり取材」の中で、約4分間話しただけだった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月22日・朝刊、14版、4ページ、岡村夏樹・山下龍一)

 記者が「ぶら下がり取材」という言葉を使い、この記事の見出しにも同様の言葉が使われました。次のように書かれていました。

 3府県解除 首相、会見せず / 緊急事態宣言 「ぶら下がり」のみ

 会場を設定しての記者会見ではなく、適当な場所で記者たちが群がってインタビューをしている場面をテレビ・ニュースなどで見ることがありますから、それを「ぶら下がり取材」と言っているのだろうということは理解できます。
 それを「ぶら下がり取材」と称するのは、報道関係者の間で使われている言葉だろうということも理解できます。けれども、その言葉を記事で使うのはどうかと思います。
 「ぶら下がる」という言葉は、上端で支えられて垂れ下がるという意味です。記者が押しかけていって、誰か一人に「ぶら下がる」と表現するのは、いかにも下品な言葉です。迷惑を考えないで、人につきまとっている印象です。本人にはぶら下げようという意思がないのに、記者が勝手にぶら下がってくるのです。
 正式の記者会見においても、自分の言葉で語ることがない首相ですから、「ぶら下がる」ことをして真意を聞いてみたいということは理解できますが、それを「ぶら下がり」と表現するのは下品です。河井夫妻が逮捕される前に、行きずりの場で記者が群がってインタビューをしようと試みていましたが、あのような場面のことも「ぶら下がり取材」と言うのでしょうか。
 「ぶら下がり取材」という言葉を使うのは、政治家が対象でしょうか。ノーベル賞の受賞者や、スポーツの選手や、犯罪で犯人と思われるような人や、一般の市民などにも、足を止めさせて取材をすれば「ぶら下がり取材」という言葉に該当するのでしょうか。狭い範囲の人たちの間で使われている言葉のようですから、その言葉の意味・用法がよくわかりません。記事に堂々と使うような言葉ではないでしょう。
 要するに「ぶら下がり」などという言葉を使う記者は、自分が、人にとっては迷惑な行為をしているということを、きちんと認めているということになるのです。人の迷惑などを考えていたら取材などはできないのかもしれませんが、「ぶら下がり取材」などという言葉を使うことは、取材相手の迷惑のことなどは眼中にないということを表明しているあらわれかもしれないと感じるのです。

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2020年6月20日 (土)

ことばと生活と新聞と(120)

コラムの文章末に注意


 文章表現の順序で気になるものがあります。理由や根拠を最後に(あるいは、後回しにして)述べるやり方です。
 文章を例示します。

 文字にすると「ツツピー、ツツピー」と書くらしい。シジュウカラのさえずりである。その弾むような声を聞くことが毎朝の楽しみになった。運がよければ、胸にネクタイ模様のある小さな姿を、電線の上に見ることもできる …(中略)…
 身近な音楽家をさがして、にわか探鳥家になるのも悪くない。16日まで愛鳥週間。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月13日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 文章の冒頭と末尾とを引用しました。どうして最後に「16日まで愛鳥週間。」と書くのでしょうか。読み始めたらすぐに、愛鳥週間にちなんだ話題だと気づく人は多いと思います。愛鳥週間ということをどうしても書こうとするならば、はじめの方に書くことが多いと思います。最後に書くのはどうも嫌味に見えます。この文章は愛鳥週間に関する話題なのですよ、みなさんは気づきましたか、というような響きが残ります。
 これは新聞記者特有の文体であるように思います。新聞のコラムなどにこういう書き方の文章を見かけることが、時々あります。
 ニュースでも、「AからBへの贈賄の事実が判明した」というような内容のことを詳しく書き連ねておいてから、そのあとで「捜査関係者への取材でわかった」ということを書くことがあります。捜査関係者への取材によって贈賄の事実が明らかになったという順序で、文章を書かないのはなぜなのでしょうか。新聞の文章は読みやすい形で書かれています。だから、自然な順序で書き進めていく方がよいと思うのです。
 新聞記者の書く文章は、事実を伝えるものや、軽いエッセイが大多数だと思いますが、新聞記者スタイルの文章というものがあるように思えるのです。先輩から後輩へ伝授されているのかもしれません。
 落語のオチのような働きにはならないような言葉を最後に書くと、ちょっとガッカリした気持ちで文章を読み終わることになるように思うのです。

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2020年6月19日 (金)

ことばと生活と新聞と(119)

「時間の嵩」を失う現代人


 新型コロナウイルスの感染拡大という状況の中で、仕事や人間関係や教育などを含めて、広い分野にわたってオンラインという言葉がもてはやされています。
 リモートワークによって生産性を落とさないようにしよう、ふだんの生活は不自由になってもオンラインで人間関係を確保しよう、児童・生徒・学生のひとりひとりに機器が行きわたるようにしよう、などということが言われています。
 現在の状況下においては、いずれも、やむを得ないことであると思います。けれども、コロナ禍をきっかけに生活の有様を変えてしまおうとしても、それはうまくいくのでしょうか。学校の9月入学(新学期)にしても、その場の思いつきに過ぎませんでした。リモートワークで働くことで、働く喜びは得られるのでしょうか。オンライン飲み会のようなものは一時しのぎのことに過ぎないでしょう。教育は人と人とが体と心をつきあわせて成り立つものです。
 人間関係をますます希薄なものにしていって、人々の暮らしは成り立つのでしょうか。生きる喜びは得られるのでしょうか。コロナ禍を契機に、人々がこれまでに失ってしまっているものを発見して、見直すことは大切なことであると思います。
 「会えない今 手紙書こう」という見出しの記事がありました。メールやSNSですぐさま連絡を取り合えるのは、そんなに喜ばしいことでしょうか。緊急の連絡には大きな役割を発揮してくれますが、大切なことが忘れられてしまっているかもしれません。
 この記事から、一部を引用します。

 大型連休も、感染拡大を避けるため、家族の元に戻らない単身赴任者や、実家に帰省しない人が多かった。会いたい人に会えない。そんな時こそ、手紙を書いてみては--。 …(中略)…
 「会えない相手に、会いたいと思って、ゆったりとした時間の中で書くのが手紙。今の私たちに必要なのは、そんな豊かな時間かも知れません」。夏目漱石ら文豪の手紙を研究している中川越さん(65)は話す。 …(中略)…
 メールやSNSと違って、手紙には、マテリアル(物質)を通して、人と人との心が通い合うことの妙味がある、と語る。
 「便箋を探し、手紙を書いて、切手を貼り、ポストまで行く。その時間のカサが真心として届けられ、その相手は、それを確かな重さと肌触りとぬくもりのある分身として受け取ることができるように思います」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月8日・夕刊、3版、7ページ、斉藤佑介)

 この記事に書かれていることは、隅から隅まで大賛成です。オンラインと手紙の違いは、この記事に書かれている言葉を使えば、「時間のカサ」が大きく異なるということでしょう。パソコンを叩くだけで用が済むということを、能率的だと誤解してはいけません。簡単に用が済むということは、相手も簡単に受け取っているということです。わからなければ何度でも発信・受信を繰り返すことができますが、人間関係は、あるいは心の中の動きは、軽いものになってしまいます。
 私たちの世代は、若い頃に「文通」ということをしました。国内の友との場合もあり、海外文通もありました。大人になってからも手紙でのやり取りに慣れていました。一刻を争うようなときの通信は、電話や電報でした。けれども、それは高額なものでした。
 手紙を書いたときは何度も読み返して投函しました。大事なことを書き忘れたら、そのやりとりで改めて何日もの日数が必要になるからです。自分の心の中を何度も往復させながら書く手紙はまさに「時間のカサ」のたまものであったのです。
 コロナ禍に際して言われたことに、この際に読書をしようということもありました。インターネットで簡単に情報を得ることに慣れてしまっている人たちは、ゆったりとした時間を読書にあてるという習慣を思い出したでしょうか。これも「時間のカサ」の、もう一つの側面です。
 記事の中に、ただひとつ気になる言葉がありました。「マテリアル(物質)」です。これは便箋や切手などのことを指しているのでしょうか。それとも別の意味が込められているのでしょうか。中川越さんの言葉の中にあったのかもしれませんが、この記事には不釣り合いな言葉のように感じました。

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2020年6月18日 (木)

ことばと生活と新聞と(118)

カタカナ言葉の多寡による、文章の印象


 近頃の文章は、新聞も含めて、かつて漢字で書くことが多かった言葉をひらがな書きにする度合いが高まっているように思います。それとともに、外来語などのカタカナ書きの言葉も増えています。けれども、ひらがな書きの増加とカタカナ書きの増加とは、文章を読むときの印象としては、同じようには感じられないものがあります。
 36人の短い文章を集めた本の中に、江國香織さんの「九州@東京」という文章があって、次のような言葉で始まっていました。

 ゆうべ〝博多うどん酒場〟という惹句のついた店に入った。場所は東京都渋谷区。賑やかで活気があり、壁いちめんに品書きが貼られている。おきゅうととかまぼこのバター焼きをつまみにビールをのみながら、私はおお! と思った。おお! 東京にいるのに九州に来たみたいだ、と。かまぼこのバター焼きというものを私ははじめてたべたのだが、とてもおいしいものだった。縁がピンクのかまぼこであるところにも、風情を感じた。
 (『ちょこっと、つまみ』、河出書房新社、2020年3月30日発行、90ページ)

 この文章も、ひらがな書きが多い文章です。飲むとか食べるとかをはじめ、漢字で書いてもよいと思われる言葉がいくつもあります。
 それとともに、キャッチフレーズという言葉が主流を占める時代に「惹句」が使われ、メニューは「品書き」です。こういう文章に出会うと、カタカナの言葉を無制限に使おうとはしていないということに気づきます。バター、ビールなどはもう日常語です。ピンクは「桃色」と書くことはできますが、これももう日常語です。ほとんど誰でも使うような言葉はカタカナ言葉のまま使うとしても、普通の日本語で表現できる言葉はカタカナ語を使わなくてもよいように思うのです。そのようにして書かれた文章が少なくなると、カタカナ言葉の少ない文章には気品のようなものが感じられるようになるかもしれません。
 私自身も、「複写」のことはコピーと言い、「試合」のことはゲームと言うことが多くなっています。コピーやゲームは、もはや日常語になってしまっていますが、複写や試合と言っても通用します。
 私のこのブログの文章も、できるだけカタカナの言葉を使わないようにしていますが、「できるだけ」という程度です。もはや日本語の中に位置を占めるようになっているカタカナ言葉を、わざわざ避けようとはしていません。
 けれども、知っている外来語を無制限に使おうという姿勢で書いた文章と、それを抑えようとした文章とは、読んでみると印象が異なります。次々とカタカナの言葉が出てくる文章は、凝縮度に欠けるような気がします。ひらがな書きの多い文章の柔らかさと、カタカナ書きの多い文章の機械的な印象とは、明らかに異なったものであると感じられるのです。

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2020年6月17日 (水)

ことばと生活と新聞と(117)

おかしな理屈


 政治家たちは、自分に都合のよいような理屈を作り上げたり、質問には正面から答えなかったりするようなことを繰り返していますから、国民がそのような理屈や話し方をもてあそんでも仕方のないことなのでしょうか。
 謝罪という行為についても、「私に責任がある」とか「申し訳ない」とか言いながらも、その後の姿勢を改めなかったり、責任の取り方を明らかにしなかったりすることをしています。それが国民にも伝播しています。
 こんな記事がありました。

 お笑い芸人の岡村隆史さんがパーソナリティーを務める「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン(ANN)」(ニッポン放送)は14日深夜の放送で、今後は相方の矢部浩之さんを加えた「ナインティナインのANN」として番組を継続すると発表した。
 岡村さんは4月23日深夜の放送で「コロナが明けたら可愛い人が風俗嬢をする」などと発言し批判を浴び、番組で謝罪していた。 …(中略)…
 スタッフの話し合いで矢部さんの合流が決まり、提案を受けた岡村さんが「今の時代のラジオに変えていくにはそれしかない」と判断。岡村さん自ら矢部さんに電話で打診し、快諾されたという。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月15日・夕刊、3版、8ページ)

 発言を「謝罪」したとありますが、頭を下げたり、「すみません」と言ったりすることで、「謝罪」が成り立つのでしょうか。それならば「謝罪」は実に簡単な行為だと思います。政治家が行う「発言の取り消し」よりはましですが、良くないことを言った場合は頭を下げればよいということになってしまいます。まったく理屈が通っていません。
 放送局も安易な姿勢を取っています。「今後は相方の矢部浩之さんを加え …(中略)…番組を継続する」というのは、例えば、聴取率が落ちたから番組を改編するというのと変わりがありません。「岡村さん自ら矢部さんに電話で打診し、快諾された」というのは子供の使いの約束のように聞こえます。放送局に責任感が感じられません。タレントの発言だから仕方がない、その程度のことで人々は了解するだろうと甘く見ているのでしょう。

 話は変わります。「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン(ANN)」という表記は「オールナイトニッポン」を短く「ANN」と表記するということでしょうが、「ナインティナインのANN」という表記を「ナインティナインのオールナイトニッポン」と読めというのは強引な要求ではないでしょうか。「ナインティナインのエーエヌエヌ」と読むのが普通ではないでしょうか。何でもアルファベット略語に変えてしまうというのは勝手な要求です。
 毎日のように記事に登場する「世界保健機関(WHO)」という言葉は、2度目からは「WHO」という簡単な表記になります。その記事では「WHO」という文字を見るたびに「世界保健機関」と読み替えて読むことはしないでしょう。「ダブリュエイチオー」と読んでいるはずです。
 放送の世界では、ANNというアルファベット略語は別の意味として定着しています。テレビ朝日系列26局のANNニュースというのがあります。アルファベット2文字や3文字の略語は組み合わせ数に限界があるのですが、それでもどんどんアルファベット略語を作るという行為は拡大していくのでしょうか。これは新聞社が繰り広げている「おかしな理屈」だと思います。短く表現すればよいという姿勢は改めるべきです。

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2020年6月16日 (火)

ことばと生活と新聞と(116)

無意味のマスクと、無目的・無制限・無計画の博物館

 

 

 小さな小さなアベノマスクが、やっと6月14日午前、郵便局のタウンプラスで届きました。粗品のような簡単なものを1世帯2枚ずつ配って何千億円もかかるとは驚きです。リーフレットには、「3つの密を避けましょう! ①換気の悪い密閉空間 ②多数が集まる密集場所 ③間近で会話や発声をする密接場面」と書いてあります。
 さて、はっとさせられる文章に出会いました。

 

 博物館には、〝役に立つ〟とは正反対の〝三つの無〟という理念が根付いている。無目的・無制限・無計画だ。「研究には使わないから」「もう収蔵する場所がないから」「今は忙しいから」--。今の人間の都合で博物館に収める標本を制限してはならない、という戒めのような言葉だ。
 博物館の仕事は、標本を収集・保管し、未来に残していくことにある。未来の人々が必要とするものを、今の私たちが想像することはできない。百年後の人々に「この記録が残されていてよかった」と思ってもらうためには、あらゆるものを無尽蔵に集め続けるしかないのだ。
 研究だって同じだ。将来どんな研究が重要になるかを知ることはできない。誰にでも価値がわかる重要そうな研究ばかりになってしまえば、いつの間にか、未曾有の事態に立ち向かえる科学者が絶滅してしまうことになるかもしれない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月13日・朝刊、13版S、23ページ、「郡司芽久のキリン解体新書」)

 

 私たちの現在の生活にとって重要なのは「3つの密」ですが、長い目で人間の営みを見るなら「3つの無」が大切であるというのです。
 現在の生活にとっては「無目的・無制限・無計画」なものは弊害があるでしょうが、それは「今の人間の都合」でしかありません。「未来の人々が必要とするものを、今の私たちが想像することはできない」「将来どんな研究が重要になるかを知ることはできない」という指摘には同感します。博物館は、これまでの人間にとって重要だと思うものを収蔵していると思っていましたから、「あらゆるものを無尽蔵に集め続ける」という姿勢には、目を開かれる思いがしました。
 話題は狭くなりますが、言葉に関することも同じであると思います。私が書いているこのブログ記事は、現在の私の興味に沿って書いているに過ぎません。お読みくださる方々にとっては、価値の薄いことを書いていると思われるものがあるにしても、百年後の人たちにとっては、昔こんなことを考えていた人がいるのだというふうに思ってもらえるかも知れません。
 私は昨年秋に『明石日常生活語辞典』を刊行しました。この本の中で私は書いているのですが、この辞典は現在役立つというよりは五十年後、百年後に、資料として参考にしていただければ嬉しいと思って刊行しました。現在、蔵書としていただいている公立図書館・大学図書館の数は少ないのですが、それでも東京および近辺の図書館では、国立国会図書館、国立国語研究所、東京都立図書館、神奈川県立図書館、早稲田大学、学習院大学、東洋大学、國學院大学、専修大学、文教大学、跡見学園女子大学などの蔵書になっています。関西ではもっと多くの図書館で収蔵いただいています。こんな本は役立つのだろうかと思われても、後世の人の興味・関心を引けば嬉しいと思っています。
 さて、はじめの話題に戻ります。新型コロナウイルスの感染拡大に伴って配付されたアベノマスクも博物館に収蔵すべきものの一つでしょう。それが計画されてから実際に配付されるまでにどれくらいの時間がかかったのか、その品物は現実に役立つものであったのかということの記録とともに収蔵しておくべきでしょう。優れた判断であったか否かは後世の人が判断すればよいのですが、後世でなくても、現時点でも評価が下されつつあります。

 

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2020年6月15日 (月)

ことばと生活と新聞と(115)

「以上」という言葉の無機質さ


 物事を確認して復唱することは大切なことです。食べ物を注文したときに、間違ったものを出されたら困りますから、店員さんがきちんと確認してくれると嬉しくなります。
 けれども、そんなとき、「〇〇と、□□と、◇◇ですね。以上で、間違いありませんか。」などと言われると、あまり気持ちよくはありません。「そうです。間違いありません。」などと答えますが…。
 気持ちよくないのは「以上」という言葉です。物品には違いないのですが、食べ物に関することです。無造作に確認をしている言葉遣いだという印象はぬぐい去れません。「〇〇と、□□と、◇◇ですね。しばらくお待ちください。」という言葉遣いの方が印象は良いように思われます。
 これは、食べ物に限るのかと言うと、そうでもないような気もします。いくつかの文房具を注文した場合にも、「A、B、C…、以上を承りました。」と言われたら、もうすこし場面にふさわしい言葉はないのだろうかと思います。こちらの頼んでいることを、「以上」と一括されることに、少し不愉快さを感じるのです。
 関連したことを申します。ときどき見かける看板ですが、関西では、「丼物一式」とか「麺類一式」とかの言葉があります。いろいろな丼や、いろいろな麺類をお出しできますという気持ちはわかりますが、「一式」と言ってほしくないと思うのです。文房具一式とか寝具一式とかの言い方はよろしいでしょうが、食べ物を「一式」とは言わないでほしいのです。
 食べ物のチェーン店などの接客用語についての指摘は、ずっと以前から続いていますが、改善されたようには感じられません。「こちらがカレーライスになります」だの、「1000円からお預かりします」だのという言葉は、簡単に改められるはずですが、いっこうに改善されていません。
 こういうことについては、あちこちで指摘する文章を読みます。けれども、食事時に、店員さんに向かって直接に指摘することをしないから、改まらないのかもしれません。それ以前の問題としては、店が作っている接客マニュアルなどに例示してある言い方を改めなければならないのでしょうが、それができていないようにも思います。

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2020年6月14日 (日)

ことばと生活と新聞と(114)

「ご安心」と「ご安全」


 「皆さまの安全・安心のために、私たちは力いっぱい努力をいたします」というように、「安全」と「安心」を並べた表現が多くなっております。言いたい気持ちはわかります。けれども、「安全」と「安心」は並列できる言葉なのでしょうか。
 人々の「安全」のために努力するということはわかります。けれども「安心」する度合いはひとりひとり異なりますから、「安心」をすべての人に保障することなどは無理でしょう。「安全」は客観的な度合いであり、「安心」は心の状態なのです。
 「ご安全」という言葉について書かれたコラムがありました。

 集団内では当たり前の習慣が、外部の人から見るともの珍しい、ということがあります。業界特有の挨拶なんかもそうです。
 山口県徳山の工場に〈今日も一日「ご安全に!」〉という看板が掲げてありました。一般に「安全」には「ご」をつけないので、珍しい使い方と言えるでしょう。 …(中略)…
 安全確認が最重要の職場では、「ご安全に」は広まるべくして広まったのでしょう。「安全第一」では少し硬い。「お大事に」のような柔らかさを持たせた言い方です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月22日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「一般に『安全』には『ご』をつけないので、珍しい使い方と言える」ということについて考えてみます。「どうぞご安心ください」のような言い方は広く行われていますから、「安心」に「ご」はつけられますが、「安全」に「ご」はつけにくいということになります。このことは、「安全」と「安心」は同列に扱えない言葉だということのひとつの理由づけになります。
 ところで、上記の引用文にある「安全第一」や「お大事に」は、「ご安全に」と重なり合う言葉でしょうか。「安全第一」は職場全体を覆う方針のようなものですが、「ご安全に」は働く者同士が声をかけあう言葉のように聞こえます。「お大事に」は病気や怪我をした人をいたわるような響きがありますから、日常の職場でかけあう言葉ではないでしょう。「今日も一日、安全に気をつけて働きましょう」というような気持ちを、短く、「ご安全に」という言葉で表したのでしょう。
 そして、この「ご安全に」は仲間内の挨拶言葉から離れて、多くの人々向けに交わされる言葉になっても不思議でないように思われます。新型コロナウイルスに苦しめられている人たちがお互いにかけあう言葉として、「ご安全に」という言葉が広がってもよいようにも思われます。
 ところで、「一般に『安全』には『ご』をつけないので、珍しい使い方」だと判断する理由はどういうことなのでしょうか。似たような傾向を持つ言葉で考えると、「ご健康」「ご安産」などは「ご」をつけても違和感はありません。「ご安全」という言葉があまり使われてこなかったから、珍しいと感じただけなのかもしれません。
 挨拶言葉という観点に立てば、「ご安全に」以外にも、仲間内だけで使われている言葉が、他にもいろいろあるかもしれません。それらは、普通の言葉のルールに従わない場合もあることでしょう。

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2020年6月13日 (土)

ことばと生活と新聞と(113)

「一定の」というのは僅少のことだ


 政府の官房長官などの記者会見を聞いていると、「一定の賛同が得られた」などという表現に出会うことがあります。この言い方を聞くと、「80%の議員の賛同があった」とか「4割程度の賛成があった」とか言うよりも、もっと数値が低いのを隠して、言葉でごまかしているような印象があります。
 この「一定」という言葉に注目したコラムがありました。題目は「一定評価したい」であり、見出しには〈「基本、」と同様 どんどん副詞化〉とあります。

 政策などについて、「一定評価したい」などという言い回しを目にすることがあります。「一定の評価をしたい」または「一定程度評価したい」というのが自然な気がします。
 似たような言葉に「基本」「原則」などがあります。これらも「基本的に」「原則として」というのが一般的だったものが、「基本、家にいます」「原則、認められない」のように、文全体に副詞的にかかる使い方が広まっています。 …(中略)…
 小木曾さんによると、「ある程度」という副詞的表現が広く使われ日常語化していったために、その改まった言い換えとして「一定程度」という表現が使われるようになり、そこから「程度」がとれた「一定」だけで副詞的用法をもつに至ったと考えられるそうです。 …(中略)…
 新聞でも「原則」「基本」などについては副詞的な用法も使われるようになっています。「一定」も今後書き言葉にまで広がるのか注目していきたいと思います。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月9日・朝刊、13版S、11ページ、「ことばサプリ」、竹下円)

 この「一定」という言葉について「副詞化」とか「副詞的用法」と言っていますが、それは正しいのでしょうか。
 「基本、家にいます」という例文は、「私は日曜日には、基本、家にいません」と言えます。「原則、認められない」という例文は、「崩し字の書き方はいろいろありますが、どの書き方も、原則、認められる」と言うこともできます。それに対して、「一定(程度)評価したい」という言い方を打ち消しにして、「一定(程度)評価しない」などという言い方はできないように思います。つまり「一定」は、「程度」や「評価」のような名詞を修飾する働きをしているのであって、それは「基本」や「原則」とは異なる働きをしているのです。つまり、「一定」は副詞的な働きをしているのではなく、連体詞と同じ働きをしているのです。(「一定」は、「評価したい」という用言的な部分にかかるのではなく、「評価」だけにかかっていく言葉です。)
 次に、「『ある程度』という副詞的表現が広く使われ日常語化していったために、その改まった言い換えとして『一定程度』という表現が使われるようになり、そこから『程度』がとれた『一定』だけで副詞的用法をもつに至ったと考えられる」という説明にも疑問があります。
 「ある程度」という言葉には、数値の膨らみがあります。信頼感の持てる数値のように聞こえます。それに対して、「一定程度」という言葉は、「その改まった言い換え」などではなく、異なった程度を表す言葉でしょう。数値を隠して、逃れやすくしておこうという意図が感じられます。この言葉は、政府の会見などで耳にするのが多いからかもしれません。そもそも、信頼できる論文などで「一定程度」などという言葉を使うことはありません。(「ある程度」という言葉も、気楽に使う日常用語に過ぎません。)
 「一定程度」というのは、現在の内閣特有の表現であり、僅かばかりの数字を大きく見せかけるための言葉遣いのように見えるのです。「一定」が書き言葉などに広がってほしいとは思いません。

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2020年6月12日 (金)

ことばと生活と新聞と(112)

「降り場」は全国どこにでもある  -東京人の言語感覚-


 バスの停留所(乗り場)は、乗降客が少ないところでは同じ場所で降りることも乗ることも行われています。けれども、ターミナル駅前を発着点とするところでは、到着したバスの乗客をすべて降ろしてから、バスを移動させて、新しい乗客を乗せます。降り場と乗り場とが少し離れた場所に設定されているのです。到着したバスの乗客をすべて降ろしてから、同じ場所で新しい乗客を乗せるようなことは効率のよいことではありません。タクシーの同じです。降り場で下ろしてから、乗り場で新しい乗客で乗せるのです。大きな駅の前では、その降り場と乗り場とが別々の場所に設けられているのが普通です。全国どこでも、大きな駅の周辺などではそのようになっていると思います。
 次のような文章を読んだとき、私は、書かれている内容が信じられませんでした。

 京都市営バスの停留所で〈おりば〉という文字を初めて見かけたのは1999年のこと。珍しいと思って写真を撮ったのがこれです。
 終点で、降りる人しかいない停留所でした。降車場ということですね。地元の人には普通の言い方かもしれませんが、東京の私の住む周辺では、今も目にしません。気をつけて見ているつもりなのですが。
 「おりば」はその後も京都でしか見かけなかったので、一種の関西方言かな、と思っていました。ところが、最近になって、別の土地で立て続けに実例を目撃しました。
 ひとつは岐阜駅前。〈タクシーおりば〉という新しい標柱が立っていました。あるいは、北海道の富良野駅前。〈タクシー 一般車両 おりば〉という標識がありました。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年9月7日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 すべての停留所が「降り場」と「乗り場」に分かれているわけではありませんが、大きな駅前ではきちんと区別されています。停留所の表示などに書かれているのよりは格段に大きな文字で「バス 降り場ば」と書かれているところもたくさんあります。
 降り場という表示がなくても、到着したバスの乗客がすべて降りる場所があるとすれば、それは降り場です。「降り場」という表示があるかないかということとは別です。降り場はあるのです。「ここは降り場やさかい、ここからはバスに乗られへん。乗り場はどこやろう」などという会話は日常茶飯のことです。
 本文に書かれている、「地元の人には普通の言い方かもしれませんが、東京の私の住む周辺では、今も目にしません。」というのは、東京人の勝手な判断に基づく表現です。本当はそうでないかもしれません。筆者だけが気づいていないことかもしれません。
 「降り場」を「関西方言」と書くのは、やはり東京人の勝手なものの見方です。全国のあちらこちらにあるのに、東京では言わないということです。「降り場」という表現がないというということが「東京方言」の特徴ということになるでしょう。
 「乗り場」という言葉が国語辞典に載っているのに対して、「降り場」が乗っていないのは辞書編纂者の怠慢です。「降り場」という項目が載っていなくても不便はないだろうというのは弁解に過ぎません。日本語に「降り場」という言葉があるのなら乗せるべきです。「乗る」と対になる言葉の「降りる」は辞典に載っていなくてもわかるだろうという理屈と同じです。
そもそも「降り場」という言葉を筆者が1999年に発見したというのは、私にとっては、驚き以外の何ものでもありません。ずっと昔から使われていた言葉(しかも外来語ではなく、純粋な日本語)を知らなかったというだけのことです。
 前回のコラム(111)回にも書きましたが、これも「東京人の国語辞典編纂者」そのものの姿勢です。
 いろいろな表現の場で、いわゆる差別的な表現などは避けようという気運が高まっています。男女差別、人種差別、部落差別などなど、広い分野にわたって努力が続けられています。けれども、方言に関しては、そのような思いやりがありません。東京にないものは地方の方言だという考えが、国語辞典編纂者に強く残っているのです。これは歴然とした言語による差別意識に他なりません。東京中心意識を捨てて、国語辞典の編纂は行うべきでしょう。

 「降り場」という言葉が国語辞典に載せられていないことを確認する作業をしていましたら、面白い項目を見つけました。『三省堂国語辞典・第5版』に「おりのり〔降り乗り〕」という項目があって、次のように説明されていました。

 (乗り物に)乗っている人が降りてから乗ること。

 余計なお世話だと言いたくなりました。「降り乗り」の説明は、乗り物から降りることと乗り物に乗ること、でよいではありませんか。乗降のルールを説明することが国語辞典の役割ではないように思うのです。「降り乗り」という言葉はどこまで普及しているのでしょうか。普通は「乗り降り」を使います。
 「降り乗り」を国語辞典に載せるより先に「降り場」を載せるべきだと思います。

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2020年6月11日 (木)

ことばと生活と新聞と(111)

「つなげていこう」は、東京人の感覚の押し売り


 「読む」の可能動詞は「読める」で、「走る」の可能動詞は「走れる」です。同様に、「つなげる」というのは「つなぐ」の可能動詞です。
 その「つなげる」という言葉を、「東日本の言い方が定着」という見出しで説明したコラム記事がありました。

 東京五輪・パラリンピック直前の風景と言えるでしょう。通りに沿って、のぼり旗が立っています。〈みんなの輝き、つなげていこう〉
 「つなげる」は、ひと頃よく批判されました。「ひもをつなげる」でなく「ひもをつなぐ」と言うべきだ、というのです。「つなげる」では「つなぐことが可能だ」の意味になってしまう、と。 …(中略)…
 元は東日本の言い方で、西日本の人はなじみがなかったかもしれません。
 「つなげる」については、すでに1950年代に指摘があり、とりわけ80年代以降によく議論されました。やがてこの言い方も定着し、五輪のキャッチフレーズに使われるまでになったわけです。
 ただし、「つなげる」は「つなぐ」とは少し語感が違います。次世代に「つなぐ」よりも、次世代に「つなげる」ほうが難しいのです。単につなぐのでなく、努力してつなぐ感じです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月18日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 東日本の言い方が、今では全国に通用する共通語に定着したというのは、強引な結論だと思います。
 まず、文末に書かれている「『つなげる』は『つなぐ』とは少し語感が違います。次世代に『つなぐ』よりも、次世代に『つなげる』ほうが難しいのです。単につなぐのでなく、努力してつなぐ感じです。」ということについて述べます。それは当然のことです。
 はじめにも書いたように「つなげる」は可能動詞です。「次世代につなげる」というのは、次世代につなぐことが可能であるかどうか、可能になるように努めるという意味ですから、「努力してつなぐ感じです。」というのは当然です。そう言うことが可能なら、「つなぐ」と「つなげる」の意味を同一視することは誤りなのです。
 さて、次に、残念なことですが、のぼり旗の写真の撮影場所が書かれていません。関西では見たことがありませんから、東京の近辺での撮影だろうと推測します。のぼり旗が首都圏対象のものならば、東日本の言い方を使ったに過ぎません。仮にこの言葉ののぼり旗を全国に配付したとしても、作ったのは東京の人間でしょう。「つなげる」という東日本の言い方が全国に定着したという理由にはなりません。
 以前にも書いたことがありますが、もう一度書くことにします。国語辞典は東京人が作って全国向けに販売しています。東京人という言葉は、東京生まれの人間という意味ではありません。全国のどこの出身者であれ、東京で仕事をするようになって、東京が日本の中心だという意識を強めることになり、東京の言葉が全国共通語の中核をなすものだという感覚に陥ってしまうのです。そんな東京人の感覚だけで、日本語の姿を解釈されたら困ります。
 「つなげる」という言葉に違和感を持つ人がいても、それは地方に住む人の感覚だと判断して、東京人の考えを押し通そうとします。東京の言葉は、全国から見れば方言の一つに過ぎないのだというような感覚は喪失してしまっているようです。
 そして、五輪ののぼり旗に使われるようになったから、それは共通語として定着したなどという錯覚を持ってしまうのです。「やがてこの言い方も定着し、五輪のキャッチフレーズに使われるまでになったわけです。」などと断言してよいのでしょうか。
 私たちは、国語辞典によって、東京人の感覚を押しつけられていることがあるのだということを認識して、時には警戒する必要もあるようです。
 新聞記事についても、東京人の言語感覚で書かれた文章が、全国に向けて発信されているということに気を付けなくてはなりません。

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2020年6月10日 (水)

ことばと生活と新聞と(110)

「責任」は感じるだけでよいものか


 「責任」という言葉が、政治の世界で大変革を遂げているようです。それを端的に指摘する言葉があります。

 「ある」と言いながら取らぬ首相の責任。失政や失言を「誤解」とごまかす閣僚ら。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月25日・夕刊、3版、1ページ、「素粒子」)

「責任」という言葉は、例えば『明鏡国語辞典』では次のように説明されています。

 ①まかされていて、しなければならない任務。
 ②ある行為の結果として負わなくてはならない責めや償い。
 ▼法律では、法に基づく不利益や制裁を負わされることをいう。

 言うまでもないことですが、多くの日本人は、「責任」を国語辞典にあるような意味で使っています。「責任を果たす」「責任を取る」ということは、口先だけで、「私に責任がある」などと言って済まされることではないと、誰もが思っています。責めや償いが伴うもののはずです。ところが政治の世界では、様子が異なっているのです。責めや償いを受けないように、口先だけでごまかして、うやむやにしてしまうことが日常的に行われています。
 そういう人たちにとって、「責任」という言葉は、次のように変化しているようです。

 ①まかされていて、しなければならない任務を、自分が行ったように見せかけながら、他の人に委ねて行わせるようにすること。(すなわち、「責任転嫁」と同じ意味。)
 ②ある行為の結果として負わなくてはならない責めや償いを、弁舌たくましくして、その責めや償いが必要でないように見せかけること。(すなわち、「責任逃れ」と同じ意味。)

 「責任」という言葉は、その言葉だけでは意味を持たず、他の言葉と結びついた使い方になってしまっているようです。アベノミックスなどという言葉を使い続けて、新しい言葉として定着させようとした人は、これまでにきちんとした意味で使われていた言葉の意味・用法を変えるということまでしているようです。もちろん改善・改良ではなく、逆の方向です。この内閣が退陣した後には、日本語の大掃除(修復)が必要なことは言うまでもありません。

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2020年6月 9日 (火)

ことばと生活と新聞と(109)

「突然ですが」という常套句


 毎週金曜日、NHK総合テレビの正午のニュースが終わると、その時刻から始まる番組はBS番組の宣伝の色合いを持ったものです。NHKにも自己宣伝の番組が増えてきています。
 その0時20分になると、「突然ですが…」という声とともに、「突然ですが」という大きな文字が画面に出ます。突然ですがクイズにお答えください、という趣旨で番組が始まるのです。初めて見たときは、番組が突然、クイズの出題で始まるのに驚きましたが、その時は1回限りの趣向なのだろうと思いました。
 けれども、毎週毎週、変わりばえがなく、「突然ですが…」という同じやり方で番組が始まるのには辟易としてきました。視聴者の立場で番組の内容を反省するという姿勢が、この番組の場合には欠如しています。
 テレビというものは、視聴者の心理などには関係なく、突然、画面が切り替わっていきます。ニュースの中に突然、コマーシャルが割り込んで、長々と宣伝した後で、先ほどと同じ画面を再び繰り返した上で、ニュースを続ける、などということは日常茶飯事です。
 突然のように視聴者をかき回すテレビですから、突然の仕業に腹を立てていたら、テレビを見ることはできません。
 その「突然ですが」という言葉は、突然現れた言葉かと思っていたら、そうでもないことがわかってきました。「突然ですが」を番組名にしたものまであるのです。

 突然ですが占ってもいいですか? ★カンテレ 夜10・10
 街で声をかけた一般人を占っていく番組。今夜は3人の占師が登場する。 …(中略)…
 番組冒頭に「番組内での占い師の発言はあくまで占いに基づくもので過去または現在の事実とは異なることがあります」と流れる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月29日・朝刊、14版、26ページ、「試写室」、黒田健朗)

 最近は、各局ともに、街角で突然声をかけて番組の中に引き入れるような、失礼な番組が増えました。しかも「突然」、それを行うのです。「突然ですが」ということが日常的に行われるようになったのです。番組制作者は、そういう方法を、倫理観など関係なしに行っているのです。
 テレビ番組は限定された人間が出演や制作にあたっていますから、出演者は「関係者」です。世の中の大半を占める「一般人」は、番組制作とは無関係です。だから、わざわざ「一般人」などという言葉が使われるのです。芸能人が「一般人」と結婚すれば、この言葉が新聞にも現れます。
 番組冒頭に流れる言葉が記事で紹介されています。この言葉に準じて、こんなことも言えるように思います。「番組内でのコマーシャルの言葉は、あくまで宣伝目的に基づくもので、この商品の過去または現在の事実とは異なることがあります」。
 このことを、視聴者は肝に銘じて画面を見ているのです。過去または現在の事実とは異なる内容を、きれいな言葉で包んで述べるのがコマーシャルというものです。
 一歩進めて言うと、テレビの番組の大半もそういうものであると言っても、あながち間違いでもないような気もします。

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2020年6月 8日 (月)

ことばと生活と新聞と(108)

どうして〈当たり前の言葉遣い〉ができないのか


 ピーナッツと南京豆と落花生は、場合に応じて使い分けられているように思いますが、入り乱れた使い方をしても、別に困ることはありません。さつまいもと甘藷、じゃがいもと馬鈴薯、キャベツと甘藍なども、よく聞く言い方と、そうでない言い方という差はありますが、2通りの言い方があっても日常生活で困ることはありません。
 ところが、気になる場合は気になるもので、じゃがいもと馬鈴薯について書かれた文章がありました。

 ある日ふと、疑問に出合うことがあります。ポテトチップスを2袋食べた後、健康志向の私は原材料名をみました。一つは「じゃがいも」、もう一つは「馬鈴薯」。なぜ?
 じやがいもと書いているのは、日本のポテチのシェアで7割強を誇るカルビー。広報に聞いてみると、「当初は馬鈴薯でしたが、20年ほど前に一般的なじゃがいも名に変えました」と説明してくれました。
 一方、馬鈴薯と書くのは1967年、日本で初めてポテチの量産化に成功した湖池屋です。広報に聞くと、「発売当初からこのままです。役所などでは馬鈴薯がよく使われますので」。 …(中略)…
 農林水産省に聞いてみました。「省内では白書を含めて馬鈴薯を使います。特に法律などで決められているわけではないのですが……。一般的にはじゃがいもですよね。」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月28日・朝刊、13版S、13ページ、「ことばサプリ」、坂上武司)

 私の勝手な解釈を申します。日常生活の話し言葉では、さつまいも、じゃがいも、キャベツを使うのが多いのではないでしょうか。書類などに書く場合は、漢字で、甘藷、馬鈴薯、甘藍と書く方が引き締まる感じがするでしょう。
 ポテトチップスの袋に書いてある原材料名は、どちらに近いかと考えてみます。日常的な食べ物ですから、日常的な話し言葉で言えばよいでしょう。けれども、同時にそれは、文書として書いているのですから漢字表記の方がふさわしいと言えます。農林水産省は文章に書く言葉として馬鈴薯を使っているのでしょう。

 さて、私の話はこれでお終いではありません。新聞記事に沿った書き方をしてみましょう。
 ある時ふと、疑問に出合うことがあります。ポテトチップスについて書かれた文章を読んで、言葉に関心のある私はその書き方をみました。一つは「ポテトチップス」、もう一つは「ポテチ」。なぜ?
 この記事の題名も、「ポテチの原材料表記」と書かれています。本文中の初めは「ポテトチップス」、その後は「ポテチ」です。どうして「ポテトチップス」という丁寧な(と言うよりは、ごく当たり前の)言い方ができないのでしょうか。
 文字数を減らすということが最大の目的で、日本語をかき乱すことなどは眼中にないようです。そもそも「ポテチ」という言葉は美しい言葉でしょうか。私にはそうは感じられません。けれども新聞や放送が「ポテチ」という言葉を使い続けると、それが定着してしまいます。
 新聞社の校閲センターの方は、国語辞典をご覧になっていますか。「ポテトチップス」は載っているでしょうが、「ポテチ」を載せているのはどれぐらいありますか。少ないはずです。国語辞典は、一般的に受け入れられている言葉が載せられているはずです。国語辞典で確かめることもしないで、短く言うことばかり気にしていると、日本語の美しさは失われていきます。校閲の仕事は、美しい日本語を守り、育てていくことも、その仕事の一つだと私は思っているのですが…。
 このようなことを話題にした記事も、時には書いてほしいものだと、私は願っているのです。

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2020年6月 7日 (日)

ことばと生活と新聞と(107)

「秘伝」と「角打ち」  -惰性的な新聞用語-

 新型コロナウイルスの感染不安が、外食の風景に異変を起こしているというニュース記事に、こんな表現がありました。

 大阪・ミナミにある老舗串カツ店「だるま道頓堀店」。5月中旬、1カ月ぶりに営業再開した店のカウンターから、秘伝のソースが入った銀色の缶容器が消えた。代わりにあるのはソース入りボトル。間隔を空けて座った客が、ボトルのソースを串カツに直接かけたり、皿に注いだりしていた。 …(中略)…
 酒屋で飲酒できる「角打ち」も、狭いスペースに客が密集することが多い業態だ。酒屋「いまでや」は、3月末から千葉県や東京都内3店舗での角打ちを休止していたが、5月下旬、JR千葉駅構内の店舗で再開。
 【添えられた写真の説明文】 串カツ店「だるま」の道頓堀店では、卓上にボトルに入った秘伝ソースが置かれている=大阪市中央区
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月3日・夕刊、3版、6ページ、添田樹紀・林幹益)

 大阪本社で書かれた記事と、東京本社で書かれた記事とを合わせたようになっていて、2人の記者名が書かれています。
 「老舗」というのはどれぐらいの歴史を持つものに与えられる称号かということは、ここでは話題から外します。
 「秘伝のソース」という言葉が、本文と写真説明で使われています。どのようなものを「秘伝の」と言うのでしょうか。すべての店のソースの味は異なりますから、すべての店が「秘伝の」ということなのでしょうか。美味しくても「秘伝」、美味しくなくても「秘伝」です。つまり、ソースはすべての店で「秘伝」です。ということは、「秘伝」という最上級のような褒め言葉は、全く意味を持たないことになります。ほんとうに「秘伝」という言葉を使って称えるものならば、その味か製造法の一端でも紹介しなければなりません。
 たぶん、このような表現をしたのは、記者が、食べ物には「秘伝の」という修飾語を付ければ美味しそうに見えるという感覚で、ためらいもなく、惰性的にこの言葉を使ったのだろうと思います。「老舗の店」「伝統の味」「昔から変わらぬ製造方法」「秘伝の料理」などというのは、具体的な説明を抜きにして、簡便な表現法として好まれるのでしょうが、読者には何も伝わってこないことが多いのです。
 話は変わって、「角打ち」という言葉を初めて聞きました。「酒屋で飲酒できる」という説明がついていますから、意味は理解できます。この記事が東京本社管内に掲載されるのであれば、それで問題はありません。けれども、関西の人たちは「立ち呑み」という言葉に慣れていて、「角打ち」はよその言葉のように聞こえます。
 「角打ち」は小型の国語辞典には載っていないように思いますが、もし載せるとしたら、堂々と全国共通語のような書き方で説明するのが、辞典編纂者たちの姿勢です。東京周辺で使っていたら全国共通語であり、関西で使っていたら関西方言であるという判断をするのです。東京方言などと書かれている説明はほとんど見たことがありません。それが辞典編纂者の思い込みです。
 言葉の、間違った中央集権思想です。東京にいる新聞記者にもそのような思い込みが伝わってしまって、このような表現が記事に現れたのではないでしょうか。

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