2019年8月23日 (金)

言葉の移りゆき(460)

歯止めが利かなくなる外来語の「意味」


 商品の宣伝のために、外来語の意味がつぎつぎと拡大して使われることがあります。その宣伝文句を見て、新聞・雑誌・放送などがそのまま使うことがあります。そうすると、一般の人は、そういう意味で使ってよいのだという意識を持って使うことになります。
 一例として、「クラフト」という言葉があります。クラフトとは、工芸とか工芸品という意味です。手仕事によって作られるものです。
 商品の宣伝文句として「手作り」という言葉が使われますが、本当に一つ一つ手作りしているのか疑わしいものにも、この言葉が使われます。手作りハムだの手作り豆腐だの、店頭にはこの言葉があふれています。食べ物は工芸品ではありませんが、クラフトビールなどという言葉が氾濫しています。大手メーカーによるのではない「地ビール」をクラフトビールと置き換えているのでしょう。
 この言葉を好意的に見たのが、次の記事です。


 「クラフトビール」に、「クラフトジン」。お酒に親しくない方も耳にしませんか。「クラフト」は、辞書では「手仕事による製作」で、「ペーパークラフト」など工作や手芸の分野で使われましたが、最近では「職人技」に加えて「個性」も感じさせる言葉となっています。 …(中略)…
 最近では「クラフト調味料」という言葉も出現。みそや醤油といった発酵食品は、地域や、醸造する蔵、さらには樽や桶の一つ一つにすみ着いた菌の違いが、味の差となるそうです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年12月5日・朝刊、10版、13ページ、「ことばの広場 校閲センターから」、薬師知美)

 言葉の一つ一つについて、意味が拡大使用されることを望ましくないと考えることもありますし、その程度の拡大は許容してもよいと考えることもあります。その考えは、一つ一つの言葉によって異なりますし、同じ言葉についても人によって考えが異なることもあります。
 言葉の意味や使用範囲は変化するものであることは認めなければなりませんが、無秩序に広がって、歯止めが利かなくなることには賛成できません。しかも、一般の人々の感覚の変化ではなく、宣伝文句などによって拡大されていくことは望ましいことではありません。

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2019年8月22日 (木)

言葉の移りゆき(459)

「環境」を「包装」する


 私たちは地球という自然環境に住まわせてもらっているのですから、その自然環境を大切に扱わなければなりません。「自然保護」などという言葉も使われますが、人間の力で自然を保護するなどと言うのは、思い上がりに過ぎないでしょう。
 今年の猛暑も人間の生活が引き起こしている現象かもしれませんから、自然環境への配慮が足りないことを猛省しなければならないでしょう。
 ところで、「おにぎり全品、環境包装 / セブン、植物性プラ採用」という見出しの記事がありました。本文は次のようになっています。


 コンビニエンスストア最大手のセブン-イレブン・ジャパンは7月中をメドに、おにぎり全品の包装を植物由来の原料を配合したバイオマスプラスチック素材に切り替える。石油由来の素材を減らし、プラスチック使用量を削減する。プラスチック製品の規制が強まるなか、コンビニ主力商品の環境対応の強化で、消費財の脱石油素材の動きが広がりそうだ。 …(中略)…
 消費財では日清食品がカップ麺の容器、ファミリーマートがサラダ容器の一部で植物性プラを使うなど消費者が求める環境配慮への対応を進めている。
 (日本経済新聞・東京本社発行、2019年6月24日・朝刊、13版、1ページ)

 本文で「環境」という言葉が使われているのは、「環境対応の強化」と「環境配慮への対応」の2箇所です。「環境包装」という言葉はありません。「環境対応を強化した包装」、「環境配慮に対応した包装」が「環境対応」という言葉になったのでしょうが、ちょっと行き過ぎのように感じられます。
 この言い方を拡大すれば、環境に配慮した生活は「環境生活」になりますし、(老朽化したビルなどを)環境に配慮しながら破壊することは「環境破壊」になりかねません。

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2019年8月21日 (水)

言葉の移りゆき(458)


シロクマと、真っ白な制服


 毎年、その時期になると必ずそれが報道されたり、その写真が掲載されたりすることがあります。
 5月15日に開催される京都の葵祭りは1000年以上の歴史を持つものですから、それが報道されるのは当然でしょう。
 けれども、他の方法もあるのに、同じ記事や写真が繰り返されることもあります。新聞社もそれを自覚していますが、改まらないことがあります。こんな記事がありました。


 記録的な日照不足となった梅雨が明けると夏本番。漫画のように「ソラ、またやってきた!」とポーズをとるわけはないが、猛暑にうだるシロクマが毎年のように新聞に登場してきたのは事実だ。
 朝日新聞への初登場は1903(明治36)年8月15日。上野動物園で「北極グリンランド産の白熊」が「炎暑に苦しむ」とある。 …(中略)…
 昭和に入ると、写真でも登場。28(昭和3)年6月15日には、上野動物園の「大暑がりのシロクマさん」の写真が掲載された。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月27日・朝刊、be3ページ、「サザエさんをさがして」)

 関西では、元旦の記事として写真入りで報じられるのが、京都・八坂神社の「をけら詣で」です。大晦日から元旦にかけて、神社の篝火を、参拝者が火縄に移して、消えないようにくるくる回しながら持ち帰るのです。この写真を、朝日新聞をはじめ、全国紙も地方紙も写真入りで掲載します。葵祭りと同じような行事だと言えばそれまでですが、各紙が同じ歩調をとるのは珍しいことです。それが東京本社発行の紙面にまで反映されているのかどうかは知りません。
 シロクマと同じようなことも行われています。毎年、冬服から夏服への衣更えが行われるとき、写真が撮られて、朝日新聞の夕刊紙面に掲載されるのは、神戸の松蔭女子学院中学校・高等学校の女生徒たちの写真です。全身真っ白の制服が心地よく感じられるのでしょうが、夕刊写真の定番になっています。新聞社は、他の学校のことは考えずに松蔭女子学院の制服に心を奪われるのでしょう。似たような制服の学校もないわけではないでしょうが、松蔭の白い夏服はシロクマのように扱われているのです。

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2019年8月20日 (火)

言葉の移りゆき(457)

「!」と「?」の共存


 作家の故・井上ひさしは、日本語の文章に「!」という符号を使うことを嫌ったようです。ところが、現在の文章には「!」を2度重ねた符号もよく見かけます。
 さらに、宣伝文句などには、「!」と「?」とを並べた符号もあります。効果を狙おうと思いつつ、符号の過多で何の効果も見せない場合もあります。
 「!」と「!」とか、「!」と「?」とかの二重の符号は、新聞記事には似つかわしくないと思っていました。けれども、今ではそんなことには抵抗もなく使っている新聞があります。見出しで、このような使い方をされると、新聞もチラシの宣伝文句のような記事を書いているのかと思ってしまいます。しかも、スポーツ面や芸能面ではなく、堅いはずの経済面に現れているのです。
 こんな見出しの記事がありました。


 老後2千万円もいらない!? / セミナー盛況 金融機関も試算 / 75歳以上 食事・外出減る / 1515万円で十分 分析も
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月30日・朝刊、14版、6ページ、見出し)

 老後に2千万円が必要だとして資産形成を促した金融庁の審議会の報告書が出たことを機に、ほんとうに老後資金はいくら必要なのかという話題がにぎわっています。2千万円という数字が適切なものであるのかという議論も盛んです。
 パソコンでは、!?を2文字として打つことになってしまいますが、新聞では2つの符号を1文字としています。
 さて、この見出しの1行目は横書きなのですが、この符号はどういう意味なのでしょうか。「老後2千万円もいらない」に「!」と「?」が付いています。強調しておいて疑問を投げかけているのです。この強調と疑問は、同時に起こる思いなのでしょうか。それとも「!」の後に「?」の気持ちが生じているのでしょうか。
 私はこの見出しを、「老後2千万円もいらない!」というのは「?」(本当)か、という意味に解釈しましたが、それで正しいのでしょうか。「1515万円で十分」だという分析もあるということは記事に書いてありますが、その試算が正しいというようには断言されていません。要するに、記事全体として、一定の結論を述べるわけにはいかなくて、符号を並べてお茶を濁しているのです。
 符号で誤魔化すような記事は、大きな問題点を、抱えていると思います。

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2019年8月19日 (月)

言葉の移りゆき(456)

「目が離せない」という言葉


 「目が離せない」という言葉は、「幼い子どもからは、始終、目が離せないからたいへんだ」というような使い方をして、いつも注意や監督をして、見守っていかなければならないという意味です。
 この言葉は、近頃は、宣伝用語として使われることが多くなったように思います。「この商品からは目が離せない」という言葉は、注目させて、購入させようという意図が強い言葉だと思います。
 「目が離せない」は、それを表現している人の思いを述べる言葉だと思いますが、他の人の行動を促す言葉に変化しようとしているのです。
 こんな記事がありました。


 お金は誰のものになるのか。そもそも夫はどうして殺されたのか-。行く末が気になる一方、「あなたたちは闘うの」と3人をあおるハウスの管理人役、夏木マリの快演からも目が離せない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月4日・朝刊、14版、28ページ、「試写室」、黒田健朗)

 あるテレビドラマを紹介する記事の結末の部分です。「目が離せない」は、筆者の思いを述べているだけでなく、ドラマのPRの言葉になっています。商品のPRと同じ働きをしています。しかも、自分の作った商品でないものをPRしようとしています。
 「目が離せない」は、対象物に注意したり監督したりする意味を離れて、対象物を売り込む意味に変化しているのです。

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2019年8月18日 (日)

言葉の移りゆき(455)

「多目的」には、いくつ目的があるのか

 初めて「多目的トイレ」というのを見たとき、その意味がわかりませんでした。トイレは大便・小便の用をたすところですが、多目的トイレは従来のものより広く作られているようです。車椅子で入れるようになっていると思ったのですが、それなら「車椅子用トイレ」と言えばよいことで、それ以外のどんな目的を持ったものであるのか、わからなかったのです。
 こんな文章を読みました。


 鉄道の駅がバリアフリーを推進していて、エレベーターが設置されることが多くなった。トイレも車椅子で入れるような広いトイレが設置されている。赤ん坊のオムツを取り替えることもできる。大変便利である。
 で、そういうトイレにも名前を付けなければならなくて、ある私鉄が付けた名前が、多目的トイレという。
 多目的トイレ。何だか変ではなかろうか。オムツを取り替えるのは、確かにトイレ本来の目的とは異なる。だから多目的であるという。下校した高校生たちが、制服から私服に着替えて街に繰り出す。そういうためにも確かに使える、しかし、それで「多目的」であろうか。
 (金田一秀穂『金田一秀穂の心地よい日本語』、KADOKAWA、2016年3月24日発行、57ページ)

 「多目的」という言葉は、今では「多目的ホール」とか「多目的広場」とかの使い方もされています。
 「多目的」の「多」という言葉は、3つや4つの数字だけではない、もっと多くを思わせます。「多目的ホール」や「多目的広場」はどういう目的にでも使えそうです。実際にそういう使われ方をしているのなら、言葉どおりでしょう。
 けれども「多目的トイレ」は違うはずです。そのトイレを使ってできる事柄は限られているでしょう。バリアフリーということの宣伝にはなるでしょうが、大袈裟な言葉であることは否定できません。まして、車椅子やオムツ以外の、勝手な用途に使われたら、名付け方が良くなかったと言わなければなりません。
 今日の私の文章も「多目的」でいきます。金田一秀穂著、『金田一秀穂の心地よい日本語』という書名は、ちょっとくどいように思います。最近はこういう書名が増える傾向を感じます。短い書名の方が印象に残ります。

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2019年8月17日 (土)

言葉の移りゆき(454)

短く言うことが礼儀ではない


 固有名詞を短く言うことが、報道機関では、当たり前のことのように行われています。人名を短く言ったり、2人の名前を合わせて短く言うことは、親しみを込めたと言うよりも、失礼な言い方であると感じることがあります。
 会社名や機関名なども同様な言い方をされています。見出しには文字数の制約がありますが、その制約のない文章の中でも短く言おうとしています。
 その文章の中で何度も繰り返されるものは略して言うこともあってよいでしょうが、長い記事の中でわずか2度ほどしか現れないものを、略して言う必要はないと思います。次に引用するのが、その例です。


 過去の災害について記された古文書の知見を防災に役立てる研究で、読み解くのが難しい「くずし字」で書かれた古文書をインターネットで公開し、市民が協力して読解する取り組みが成果を上げている。 …(中略)…
 東大地震研で20日に開かれたシンポジウム。国立歴史民俗博物館(民博)の橋本雄太助教(人文情報学)が期待を込めて言った。 …(中略)…
 この取り組みは民博と東大、京都大が2017年に始めたプロジェクト「みんなで翻刻」。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月25日・朝刊、13版、26ページ、小林舞子)

 長い記事の中で2度しか現れない国立歴史民俗博物館という名称を、2文字に略すことはほとんど意味がありません。略さないで、きちんとその名称を記すことこそ、礼儀に叶ったやり方です。
 そして、翌日、略称について、その訂正記事を出すのは何とも無様です。


 25日付科学面「防災へ みんなで古文書読み解く」の記事で、国立歴史民俗博物館の略称が「民博」とあるのは「歴博」の誤りでした。民博は国立民族学博物館の略称でした。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月26日・朝刊、14版、30ページ、「訂正して、おわびします」)

 略称などを書く必要がないのに、書いて間違いをしでかしているのです。記者のミスでもありますが、ここでも、校閲の力が働いていないと感じます。校閲とは、書かれたものを辿って読むだけの仕事ではありません。「略称一覧」か何かの資料と照らし合わさなければ、間違いを見つけることはできません。社内に、校閲の仕方が徹底しているようには思えません。
 「訂正して、おわびします」に書かれていることは、間違いの一部に過ぎないということは、新聞を丁寧に読んでいる人にはじゅうぶんわかっていることなのです。

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2019年8月16日 (金)

言葉の移りゆき(453)

趣旨が一貫しないコラムの続出


 かつて「天声人語」は高等学校などの国語の授業で教材として盛んに使われました。NIEなどという言葉すらなかった時代に、私も高等学校の国語の教材としてずいぶん活用しました。
 担当する筆者が変わったのだから仕方のないことなのですが、いまの「天声人語」は教材に適しているとは思えません。文章の初めのマクラの部分だけに注力して、その後に続く文章の趣旨が分裂しているようなものを読まされるのは困ったものです。教材には使えないでしょう。
 例えば、こんな文章がありました。


 江戸は八百八町だが、大阪は八百八橋といわれるほど橋が多い。その多くを町人が架けたというのが大阪人の自慢である。行政が形づくった東京と違い、大阪は民間の手によるまち。お上、何するものぞの気風がある …(中略)…
 阪急電車の梅田駅を見れば実感できる。JR大阪駅と至近なのに完全に独立したターミナル駅で、かつてはアーチ型の天井で知られた。阪神電鉄とともに大阪駅ではなく地名の「梅田駅」を」名乗ってきた
 それが10月からは「大阪梅田駅」に変更されることになった。同じところなのに駅名が違うのは紛らわしいとの指摘は以前からあったが、決め手になったのは外国人観光客の増加という。インバウンドの魔法である
 外国人でなくても大阪初心者は梅田ってどこ、キタとミナミって駅はあるの、と迷う。そこもまた、このまちならではの味わいだと思っていた。駅名まで変えなくても……とは、よそ者の勝手な言い分か。河原町駅も「京都河原町駅」に変更される
 各地に外国語表示が増えるのは大いに結構。でも土産物店に忍者グッズがやたら増えたり、外国人にはカジノが必要だと力んだりするのは、どうだろう。「そんなに無理せんでも」と言いたくなる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月1日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 ▼印によって段落分けがされていますが、そのうち2番目の段落を除いて、全てを引用しました。(2番目の段落は、説明的な役割で、論旨に影響はありません。)
 文頭から、5番目の段落に至るまでは、論旨は一貫していると思います。ところが最終段落にいたって、趣旨は混乱します。要らないことを急に付け加えた感じです。
 考えようによっては、5番目の段落まではマクラで、最終段落に書いていることが、最も言いたいことなのかという疑問も生じます。
 外国語表示のこと、土産物店のグッズ、カジノのことは、突然現れるのです。筆者は何を考えて、この文章を書いたのだろうという疑念が大きくなります。
 最近の「天声人語」は、このような傾向が強くなっています。マクラが全体の半分以上を占めて、言いたいことが脈絡無く、押し込められているような文章が多くなっているのです。
 こういう「天声人語」に対して、社内では何の反応もないのでしょうか。校閲と同じような現象が起きているのではないかと、私は推測しています。「天声人語」の筆者に向かって、今回の文章はよくないということを言える人がいなくなっているのでしょう。
 かつての筆力に相当するものを持っている筆者がいなくなったのかもしれませんが、その筆者の周辺にいる人が、文章の中身を吟味してきちんと意見を告げる態勢がなくなってしまったのでしょう。責任を持って文章を校閲できる人がいなくなったのでしょう。
 1ページの看板コラムがこの状況では、他の記事に欠陥が見つかるのも当然でしょう。

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2019年8月15日 (木)

言葉の移りゆき(452)

記事の内容が校閲の対象となっていない

 ここに述べる事柄も、校閲と関わる問題点です。記事に書かれていないことを、編集部門の人が論評しても、読者は唖然とするしかないでしょう。
 8月9日の長崎原爆の日に関わる報道です。

 「人の手」で造られ「人の上」に落とされた。だからこそ「人の意志」で無くせる。長崎市長の平和宣言に頷く。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月9日・夕刊、3版、1ページ、「素粒子」)

 長崎市長の言葉に注目しました。記事を読んで、その言葉を確かめようとしましたが、見当たりませんでした。記事は次のように書かれていました。

 田上市長は平和宣言で、「積み重ねてきた人類の努力の成果が次々と壊され、核兵器が使われる危険性が高まっている」と指摘。「唯一の戦争被爆国の責任」として日本政府に核兵器禁止条約への署名、批准を迫った。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月9日・夕刊、3版、1ページ、田中瞳子)

 「素粒子」に書かれている発言は、記事には書かれていません。「素粒子」の筆者は、記事にどのようなことが書かれているのかということを確認したり調整したりすることなく、文章を書いたのでしょう。校閲部門の人も、記事に触れられているかどうかの確認をしなかったのでしょう。暢気な校閲です。
 この、「人の手」で造られ…の言葉が記事になったのは、翌日の朝刊です。

 田上市長は平和宣言で初めて被爆者の詩を引用し、「原爆は人の手によってつくられ、人の上に落とされた。だからこそ人の意志によってなくすことができる」と言及。核軍縮と逆行する国際情勢に危機感を示した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月10日・朝刊、14版、1ページ、田中瞳子)

 この記事を読んで私が感じたことは、「人の手」でつくられ…の言葉は、市長の言葉ではなく被爆者の詩の引用であるのかということでした、この文をそのように解釈したのです。
 後のページに「長崎平和宣言(全文)」という記事がありました。平和宣言では冒頭に、「目を閉じて聴いてください。」という言葉で始まる詩が置かれています。詩の最終行「どんなことがあっても……」という言葉の次は、こんな言葉が続いています。

 これは、1945年8月9日午前11時2分、17歳の時に原子爆弾により家族を失い、自らも大けがを負った女性がつづつた詩です。自分だけではなく、世界の誰にも、二度とこの経験をさせてはならない、という強い思いが、そこにはあります。
 原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく、私たち一人ひとりの心の中です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月10日・朝刊、14版、29ページ)

 これを読むと、「人の手」でつくられ…の言葉は、詩の中の言葉の引用ではなく、市長自身の言葉であることがわかります。この日の1ページの記事の文章は、間違った表現ではありませんが、意味を誤解される要素を持っていたのです。これも、校閲で気づけば、改めることはできたでしょう。校閲の関係者が丁寧に文章を検討すれば、誤読が少なくなるのです。

 さて、最後に一言。
 こういう指摘を繰り返しても新聞社には反省の色はありません。前回に触れた、校閲部門の人が書いた文章の大きな誤り記事については、、記事は訂正されました。私にも連絡はありました。
 私はこのブログの記事を新聞社に送っています。新聞社は、前記の致命的なミス以外は、ほとんど全部、指摘を「無視」する姿勢で貫いています。読者の指摘に謙虚に対応する、というのはキャッチフレーズとして成り立っても、現実はまったく異なった姿勢で、新聞社は動いているのです。

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2019年8月14日 (水)

言葉の移りゆき(451)

中学生でもわかる間違い -校閲の機能不全-


 「公立的に運用する」とか「緊密に強調する」とかの表現は、ありえません。そんなことは中学生でもわかることです。そんな基礎的な間違いをして、記事を訂正するというのは大新聞として屈辱的なことであるということが認識できているのでしょうか。
こんな訂正記事が、同じ日に2つ並びました。同じ日の記事についての訂正です。


 ▼9日付総合3面「ルポ現在地2019参院選③公文書」の記事で、公文書管理法第1条の文書管理の目的を説明したくだりに「行政が適正かつ公立的に運営されるようにする」とあるのは、「行政が適正かつ効率的に運営されるようにする」の誤りでした。
 ▼9日付総合4面「韓国大統領、対抗措置示唆」の記事で、韓国外交省の関係者が記者団に説明したくだりで、国際社会と緊密に「強調し」とあるのは「協調し」の誤りでした。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月10日・朝刊、14版、30ページ、「訂正して、おわびします」)

 記事を書いた人は、「効率的に運用する」や「緊密に協調する」という表現をしようとしていたと理解できます。パソコンの変換ミスでしょう。ここまでは、よくあることであると思います。
 記事を書いた人は、当然、文章の点検をしたでしょう。その際にこの単純ミスを見落としてしまったのでしょう。よくないことですが、人間のなすことにはうっかりミスもありますから、こういうこともあるのでしょう。
 問題はその次です。新聞社として情けないことをしでかしたのです。新聞社には校閲部門がありますが、この人たちが機能をまったく果たしていないのです。これは新聞社として致命的なことです。
 私は、校閲のミスのことをこれまでも指摘してきました。校閲部門の高い位置にある人が書いた文章が、私の指摘で書き直されたことがありました。この連載を読み返していただけば、それがどのようなものであったかは理解できるでしょう。
 新聞社によって校閲部門の質は異なっているようです。毎日新聞社の校閲部門の質の高さについて、かつて述べたことがあります。朝日新聞社の校閲部門は、記事内容に間違いがないかどうかを調べることはおろか、ありふれた表現の間違いすら指摘できない状態を露呈してしまったと思います。
 中学生にもわかるような誤りを見過ごしてしまう校閲部門の非力さを徹底的に反省し、校閲部門を建て直さなければなりません。NIEなどということを声高に宣伝する資格はないと思います。

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2019年8月13日 (火)

言葉の移りゆき(450)

真似をして使う方がよろしいようで……


 幾つかのことを並べあげるときに、「あと」という言葉を使うことは、従来は行われていませんでした。今では、放送などで聞いていると、かなりの地位の人も使っているようです。耳障りな言葉の一つです。
 似たような例について書かれた文章を読みました。


 「こちらにサインの方をお願いいたします」「お砂糖の方はご利用ですか」のように、世の中には「方」という言葉があふれている。「方」には多くの用法があるが、これらは「物事をぼかして言う用法」、つまり婉曲の用法だ。
 この「方」は本来、「お体の方はいかがですか」のように、遠回しな言い方が礼儀の上で好ましい場合に使われる。だが現実には冒頭のように、別になくてもよさそうな場面で使われることが多い。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月10日・朝刊、13版S、28ページ、「川添愛の言葉スムージー」、川添愛)

 ここに書かれていることは、まったくその通りだと思います。けれども、どうしてそんなにしばしば使われるのかということになると、「方」も「あと」と同じではないかと思います。
 短い名詞などを挙げて、「のぞみ号は、神戸や大阪、あと岡山、広島、あと小倉に停まります。」などと言って、「あと」という言葉でつないでいく言い方があり、長い文を「あと」でつなぐやり方もあります。
 そのような言い方をしている人を真似て、使うようになって、ぐんぐん広まっていったのだろうと思います。話し言葉の場合は、人真似がしばしば行われます。どこが発祥かわからないが、広がっていく速度ははやいように思います。

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2019年8月12日 (月)

言葉の移りゆき(449)

図や写真でなく、言葉で伝える


 テレビの時代です。けれども、画面で伝えることによって、言葉の力が弱くなっているという現象が起こっているように思います。
 グルメ番組花盛りです。テレビの場合は、食べているものも映し出されますから、「うーん」とか「うまい!」とかの言葉だけを吐いていても、番組は成り立ちます。そんな出演者が多いことも事実です。
 ラジオでは、それは成り立ちません。どんな材料を使って、どのように作り上げられた料理で、どんな味や香りがして、食べた人はどのような感想を持つのかを伝えなければなりません。
 料理の番組に限りません。テレビの出演者は、言葉の力が弱くても、他の要素に支えられて、なんとか成り立っているのです。もちろん、テレビ出演者の中には、すばらしい言葉の力をお持ちの方もおられますが、画面に支えられているだけの人もいます。
 こんな文章を読みました。ドイツ人のリュディ君という人のことを述べています。


 ドイツの形態学は昔から定評がある。動物の構造を、ものすごく細かくていねいに観察し、その結果を黒インクを使って、きわめて美しく、詳細で正確、それでいて分かりやすい図として描く。彼の博士論文を見せてもらったが、電子顕微鏡写真の他に、彼が描いたたくさんの図があり、その美しさに舌をまいた。 …(中略)…
 ところがである。聞いてみると、写真も図もグラフも一切なし。発表会会場には、映像機器を持ち込むことは許されず、黒板も使用できない。ただしゃべるだけ。彼の研究は形の記載なのである。百聞は一見にしかずで、形を分からせるには見せるのが一番の近道なのだが、それは許されないのだという。
 (本川達雄『おまけの人生』、阪急コミュニケーションズ、2005年6月19日発行、113~114ページ)

 後半は、博士論文発表会のことを述べています。写真も図もグラフも一切なしで、研究内容を発表するのだと言います。
 自分が食べている献立を言葉だけで説明するのはたいへんでしょうが、この研究発表に比べたら、かなり易しいことでしょう。テレビで伝えることに比べたら、ラジオで伝えることの方が、うんと、言葉の力が必要でしょう。
 鉄道紀行文で有名な故・宮脇俊三さんは、旅行記で写真を使うことを排除し、文章で説明し続けました。言葉だけで伝えることこそが、ほんとうの言葉職人だというわけです。報道関係者や学者にとっても、それは重要なことだと言えるのでしょう。

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2019年8月11日 (日)

言葉の移りゆき(448)

まったく意味のない顔


 こういうことを何という言葉で表現するのかは知りません。けれども、テレビではしょっちゅう現れて、目障りです。民放が興味本位で始めたのでしょうが、NHKもその真似をしています。
 集合写真を撮ったときにたまたま欠席していた人の写真を、片隅に四角く区切って載せることがあります。あのやり方をテレビ画面で日常的に行っているのです。
 一例を挙げます。NHK総合テレビの「シブ5時」という番組で 画面がある状況を映し続けているのに、その時の司会進行者の顔を画面に出し続けています。何秒か置きに、顔が変わります。珍しい顔ではありません。毎日、見ている顔です。見る必要のない顔を入れ替えて出し続けることに、どんな意味があるのでしょうか。
 時々その顔が何かのコメントをつぶやくこともありますが、たいていは顔だけを映し続けます。視聴者が見ているのは中央の画面です。けれども、次々と切り替わりますから、隅っこの部分も気になります。視聴者の注意力を妨げる役割を果たしているのです。
 番組制作者の意図を優先して、視聴者のことなどは考えていないのです。しかも、その制作者の意図も不明です。

 ついでに、もう一つ、気になることを申します。
 気象や災害などで緊急に知らせる必要があるときに、画面の上部や左側を区切って文字を流すことがあります。緊急の場合には役立ちます。けれども、その状態をいつまでも続けるのは問題です。ドラマの周りに文字が流れ続けていると、やはり集中力をそがれます。両方を気にしなければならないからです。
 ほんとうに緊急事態であるのなら、ドラマの放送を中止して、その気象・災害の報道に切り替えるべきです。さほど緊急でないのなら、ドラマだけの放送を続けるべきです。二兎を追うことが視聴者のためにならないことを認識すべきです。
テレビは少しでも多くの情報を流すことに意味があるのではありません。テレビ局に必要なのは、判断力と集中力であると思います。

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2019年8月10日 (土)

言葉の移りゆき(447)

「あおりの文化」は排除すべきだ


 ときどき、テレビ番組の「嘘」が問題になることがあります。自然な取材を装いながら、実際には「やらせ」があったりしています。
 けれども、このように現実を脚色して放送することは、日常茶飯事として行われています。これも「嘘」であると思いますが、改まるどころか、ますます増大しています。NHKとて例外ではありません。
 どうして、このような状態に対して非難する姿勢(自己批判)がないのかと思っていましたが、同じような考えの方の文章を読みました。


 いわゆる「あおり系」「あおりの文化」が嫌いで、テレビのバラエティー番組で観客の笑い声を入れたり、司会者がはしゃいだり、若者が通りでふざけている感じがあまり好きじゃない。
 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年6月19日・夕刊、3ページ、「美とあそぶ」、吉村萬壱)

 この文章では、司会者がはしゃいだり、若者が通りでふざけたりしていることも述べられていますが、そんな場面は低俗であっても、事実をそのまま放送しているのでしょう。けれども、観客の笑い声を入れるのは虚偽であり、事実の歪曲です。これは、してはいけないことであるのですが、放送局には、その認識がありません。
 例えば新聞に載せられる写真で、そこに居合わせた人の人数が1人であるのに、それを数人に作り替えて掲載するのに等しい行為です。新聞はそんなことはしていません。テレビは、写っていないところに大勢がいて、一斉に笑い声を出しているという「嘘」を作り上げています。たとえバラエティー番組であっても、してはいけないことです。
 現在は、ニュース番組もバラエティー化していて、作為的な画面を作ったりしています。事件の現場に居合わせた人がいたということが未確認であっても、ドラマ仕立てでニュースの一場面を作り上げたりしています。事実と「嘘」との間が、曖昧になってしまっています。
 このような作為は、観客の笑い声を挿入するというような行為から出発して、ますますエスカレートしています。テレビ番組制作者が、「嘘」を作るということに不感症になってしまっているのです。
 面白ければそれでよいのだ、という姿勢から抜け出さなくては、テレビの将来が恐ろしい世界になってしまうように思います。

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2019年8月 9日 (金)

言葉の移りゆき(446)

「店前」は「みせさき」と読むべきか


 文章を読んでいると、その文章の筆者の考えに釣り込まれて、信じてしまいそうなことがあります。写真まで添えられると、その効果は増大します。今回は、「店前」という熟語をどう読むかという話題です。
 こんなふうに書かれていました。


 観光地のみやげ物店。何か食べながら店をのぞくお客が多いらしく、注意書きが出ています。〈店前での飲食はご遠慮ください〉。
 もっともだと、と思いつつ、私は例によって細かいところに注意が向きます。「店前」は何と読むのか。「みせまえ」? 「てんぜん」? …(中略)…
 「店前」は、ちょっと古風な人なら「みせさき」、若い人なら「みせまえ」と読むのではないでしょうか。読み方で年が分かる、とまでは言えないかもしれませんが。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月6日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 常用漢字の音訓表にあろうとなかろうと、「前」の文字を「さき」と読むことは知っています。「弘前」などの地名もよく知られています。
 けれども、この注意書きを書いた人は、「みせさき」と読ませようとして書いたのでしょうか。場合によっては「みせさき」と読むこともできる、という程度の判断しかできません。
 この文章は、書かれた文字の読み方を推測しているのです。逆に、「みせさき」という言葉を、一般にどういう漢字で表すかということを無視しています。
 「みせさき」という言葉に、国語辞典は、どのような文字をあてているでしょうか。小型の国語辞典の『三省堂国語辞典・第5版』は、「店先」だけです。「店前」という文字は書いていません。中型の『広辞苑』には「店先」と「見世先」が、大型の『日本国語大辞典』には「店先」だけが載っています。いずれも、「店前」はありません。
 この文章の見出しは「読み方で年が分かる…?」となっていますが、そんな判断はできないでしょう。国語辞典にこの用字が載っていない限り、そんな判断は乱暴すぎると思います。

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2019年8月 8日 (木)

言葉の移りゆき(445)

一部の人の使う言葉を煽り立てないように


 「暑すぎるから、今日は何もする気が起こりません」というような酷暑が続く季節になりました。
 鮨が好きで好きでたまらない人の前に、3人前が出されたら「多くて嬉しい」と言うでしょうが、10人前を食べろと言われたら「多すぎて食べられません」ということになるでしょう
 「すぎる」という表現は、「悲しすぎて、涙も出ません」とか、「映画を見すぎて、目が疲れた」とか、度を越して、望ましくなくなったときに使う言葉だと考えてよいでしょう。
 こんな文章を読みました。


 コンビニエンスストアの店頭に、飲料の広告が出ていました。〈コクすぎて、/余韻すぎて、/うれしい!〉。ここに出てくる「すぎる」の使い方は新しいですね。
 従来の文に翻訳すると、「とてもコクがあって、とても余韻があって、うれしい」。でも、これでは、人目を引く広告になりません。 …(中略)…
 さらには、「イベントに行きたかったすぎる」という例も。行けなくてとても悔しい気持ちを表そうとしています。「すぎる」は、程度の激しさを表すことばとして、表現の自由度を広げてきたのです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月29日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 この文章の結論として述べられている「『すぎる』は、程度の激しさを表すことばとして、表現の自由度を広げてきた」ということでしょうが、異議を唱えたいと思います。
 「すぎる」は、「暑すぎる」とか「多すぎる」とか、望ましくない場合に使われるのが多い言葉でした。それが、望ましい場合の強調表現として使われるようになってきたということでしょう。そんな有様を「表現の自由度を広げてきた」と賞賛すべきなのでしょうか。
 「〈コクすぎて、/余韻すぎて、/うれしい!〉。ここに出てくる「すぎる」の使い方は新しい」というのは、その通りだと思います。名詞に直接「すぎる」を付ける乱暴さは確かに「新しい」のです。これまでの語法を破っています。「新しい」という褒め言葉ではなくて「間違っている」と言いたくなります。従来の文に「翻訳」が必要な表現を、「人目を引く広告」と称えるのは問題です。
 「イベントに行きたかったすぎる」というような表現は、広く行われているのでしょうか。ごく一部の人たちが使っている表現を採り上げて、全国に読者がいる新聞に書くのはどうでしょうか。まるで煽り立てているような印象すら感じてしまいます。
 辞典編纂者が言っているのだという理由付けで、一般の人たちが疑問を感じなくなってしまうでしょう。そんな言葉を平気で紹介しないようにしてほしいと思うのです。

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2019年8月 7日 (水)

言葉の移りゆき(444)

「世相が軽くなる」とは?


 「重い」の反対語は「軽い」です。けれども、「世相」が重いとか、軽いとか言うのは、どういう意味なのでしょうか。理解ができません。こんな文章に書かれていました。


 きょうは戦後歌謡界の巨星、美空ひばりの命日である--と書いても、若者のなかには曲を知らない人が少なくないだろう。亡くなったのは平成が始まった年だった。30年のうちに、この歌姫が体現した昭和の哀歓は少しずつ記憶から遠のき、世相は軽くなったのだ。
 (日本経済新聞・東京本社発行、2019年6月24日・朝刊、13版、1ページ、「春秋」)

 「この歌姫が体現した昭和の哀歓は少しずつ記憶から遠のき」という表現は理解できます。ところが「世相は軽くなったのだ」という表現は、どういうことを述べようとしているのか、私には理解不能です。
 「世相」とは、世の中の有様とか、社会の風潮とかいう意味です。「現代の世相を反映している」というような言い方をしますが、世相が軽くなる、または重くなる、という表現となると、わけがわからないのです。
 「記憶から遠のいた」ということを、「世相が軽くなった」と言っているようには思えませんから、いろいろ考えてみましたが、結局、わけがわかりません。
 せいぜい考えられることは、そのような世の中でなくなったとか、社会の風潮が変化したとかいう意味ぐらいですが、それならば「世相が軽くなる」という言い方では表現できないだろうと思います。
 新聞人特有の言い方なのか、経済人特有の言い方なのかしりませんが、少なくとも、日本語の自然な表現ではないということだけは言えると思います。

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2019年8月 6日 (火)

言葉の移りゆき(443)

こんなものを「情熱」とは呼べない


 制作する側は一生懸命になっていますが、見る側は白けてしまう番組というものがあります。ここに紹介されている番組を見たことはありませんが、紹介記事を読んで、唖然としました。こんな文章です。


 毎週脱帽する。街角で会った一般人の自宅にタクシー代などを払う条件でついていき、その人の人生を聞き込む。東京系の「家、ついて行ってイイですか?」だ。 …(中略)…
 この日の放送では家までついて行ったものの、話を結局聞き出せなかった模様も珍しく紹介された。よくあることだという。そもそもロケ自体を断られることも多いだろう。毎週ドラマチックな内容を複数放送するためにかけている手間、時間、人員。何げなく見てきたが、表には見えない情熱が支えているのだと感じさせられた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月21日・朝刊、14版、19ページ、「記者レビュー」、黒田健朗)

 最大級の褒め言葉の羅列です。見出しには〈「家について行く」情熱〉と書いてあります。
 この記事の筆者は、テレビ番組制作者と同化してしまっています。そういう目で見ると、番組制作が「情熱」とうつるのでしょう。恐ろしいことです。
 番組制作の姿勢として、これほど迷惑なことはないでしょう。「街角で会った一般人の自宅に……ついてい」くという行為を、自然なことであると考えるほど、現代人はテレビ局の行為を認めて(許して)いるのでしょうか。そのようには信じられません。
 筆者は、その番組作りは制作者の「情熱」によって支えられていると言っていますが、それは迷惑行為を浄化する働きをしているようです。「情熱」という綺麗な言葉で押し隠してしまっていると思います。
 そもそも「街角で会った一般人の自宅に……ついていき」ということが、実際に行われているのでしょうか。たまたま街角で出会った人がすべて、人を感動させる物語を持っているとは思えません。声をかけられた人が、簡単に取材受け入れのサインを出すとは思われません。
 予めさまざまなことをして、対象となる人物を探し出して、対象者を決めておいてから、たまたま街角で出会ったようなふりをしているのなら、それは演出ではなくて、虚偽です。人生の出来事などを話してテレビに映し出されることを、人は簡単に受け入れるでしょうか。熟慮した後に判断することだと思います。
 ある人のたどってきた経験や考え方・感じ方などに焦点を当てた番組が、人々の心を打つことはわかっています。けれども、それを、「家、ついて行ってイイですか?」という娯楽作品の乗りで作ってよいとは思いません。それを賞賛する記事にも、間違った視点が含まれているように思います。

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2019年8月 5日 (月)

言葉の移りゆき(442)

中味を表さない名前


 コンビニなどのレシートを見て、何を買ったのか確認しようとして、「ホッカイドウコンブノダシノ」などという言葉で途切れて、金額が印字されていることがあります。北海道産の昆布でダシをとったラーメンのことかと、気づくまでにしばらくの時間が必要なことがあります。
 修飾語が長くて、肝心な品名が隠されてしまっているのです。例えば、チョコレートという名前の前に、いろんな言葉が書かれていて、それを忠実に入力すると、こんなことになってしまうのです。店の側からすると、いろいろなチョコレートを売っていますから、それを区別する必要があるのでしょうか。
 こんな文章を読みました。


 食べ物の名前が長くなったなあ。
 と、コンビニの棚の前で思う。「なんとかにこだわった」「どこそこ産の」「なにダシ仕立ての」「一日分の野菜が取れる」「まるごと」「もちもち」「行列ができる」。多種多様な(と言いつつパターン化した)修飾語が、複数組み合わさってラベルに並んでいる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年10月15日・夕刊、3版、5ページ、「季節の地図」、柴崎友香)

 消費者の側からすると、「どこそこ産の」というのは必要な情報かもしれません。「一日分の野菜が取れる」とか「なにダシ仕立ての」とかも、役に立つことかもしれません。けれども、「なんとかにこだわった」というのは生産者の勝手な姿勢が述べられているだけであったり、「行列ができる」と言われても信じられない気持ちになることがあります。「まるごと」「もちもち」などは、使い古された言葉が並んでいるだけの印象でしょう。
 商品名が、商品名にとどまらず、宣伝文句と化しているのです。短く、気のきいた言葉で名付けるのではなく、だらだらした言葉を付けられると、いらだちすら覚えます。
 こういう名前の商品を見ると、これまでとは違った商品だから買い求めようと思う気持ちと、わけがわからないもののように見えるから敬遠しようと思う気持ちとで、揺らぐことがあります。名前を付ける側も、そのあたりの心理を勉強すべきであると思われます。短い方がよいのは、スピーチだけのことではありません。

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2019年8月 4日 (日)

言葉の移りゆき(441)

「令和」の「令」の文字


 「平成」の伸びやかさに比べて、「令和」の堅い印象について、いろいろな意見が述べられていますが、一つの時代を表す言葉として使われ続けることになるのでしょう。
 こんな文章がありました。


 「令」は、明朝体などの活字では最後が縦棒になりますが、手書きでは「マ」のように点を打つ形が一般的です。小学校の教科書でも「令」の下側は「マ」の形です。
 一方、官房長官が公式発表した楷書の「令」は、活字と同じく最後が縦棒になっていました。もちろん、こう書いてもよく、書き取りのテストでもマルになりますが、普通は「マ」のように書きます。
 ところが、今では、街で見かける手書きの「令和」の「令」のほとんどが、最後を縦棒にしています。公式発表の文字が美しかったため、誰もがそれを手本にしているのでしょう。下側を「マ」にしている手書きの実例はきわめて少数です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月15日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 私は、新元号発表のとき、まず「レイワ」という発音を聞き違和感を抱き、次に官房長官が掲げる文字を見ても、それは消えませんでした。「令」に美しいという意味があることはわかっていますが、そんな使い方よりも、命令、律令、法令など、熟語の後半の文字として使われることが大半であるからです。「令」の文字の最後が「マ」であれば、文字としても不安定な形に見えます。縦棒にして、やっと落ち着いた形になります。縦棒は苦肉の策と思われます。
 けれども、手書きは「マ」です。縦棒を間違いとは言いませんが、縦棒で書くのは「令和」だけではないでしょうか。命令の「令」を縦棒で書くことなどは、現在のところ、皆無(もしくは、稀)ではないでしょうか。
 明朝体は活字に過ぎません。手書きとは別ものです。財前謙さん編著の『手書きのための漢字字典』(明治書院)では、「令」の文字の縦棒に×印を入れています。当然でしょう。
 「令」の文字の縦棒を認めるならば、「冷」「零」「齢」「玲」「鈴」などの文字も同じようになります。そのような文字まで、縦棒で書く人は増えていくでしょうか。そうは思えません。
 活字と手書きは別物です。例えば「衣」という文字は6画です。活字通りに書いて7画とするのは間違いです。私は、教科書体の活字が広がってほしいと思いますが、急には無理でしょう。それなら、手書きと活字は別物だという考え方が浸透していくことを期待するしかありません。

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2019年8月 3日 (土)

言葉の移りゆき(440)

「バウムクーヘン」と「神戸」


 神戸は洋菓子の町です。バウムクーヘンも神戸の名物です。けれども、これから述べるのはお菓子の話ではありません。こんな文章を読みました。


 空港の売店で見かけた看板です。〈ひとくちバーム〉。自然すぎて、担当編集者も、どこが注目点なのかピンとこない様子でした。
 「バーム」は略語ですね。ドイツ語に近い発音では「バウムクーヘン」。バウムは木、クーヘンは菓子です。木の年輪のように層になった菓子なので、この名があります。
 これを日本語では「バームクーヘン」とも言います。略して「バーム」。日本語での言い方であり、誤りではありませんが、元のドイツ語からは距離が生じています。
 「ハウス」は「ハース」と言わないのに、「バウム」が「バーム」になるのは不思議です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月1日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 外来語は、原語の発音を無視するわけにはいきませんが、日本語のカタカナ書きをする場合にはかなり鷹揚になっていると思います。そんなことがあるから「マシーン」と「ミシン」の意味するものが異なったものを指すことにもなるのです。
 〈ドイツ語に近い発音では「バウムクーヘン」〉というのは、原語を知っている人の意見であり、たいていの人は。原語でどういう発音であるのかということなどには拘泥しないで使っているはずです。
 日本語としての原則を作るなら話は別です。「神戸」は「コウベ」という仮名書きになるから、「バウムクーヘン」も「バウム……」と書くというような原則です。後の部分も「……クウヘン」と書くというような原則です。もともと日本語には長音(ー)の表記はしない習慣がありましたから、「ウイスキイ」とか「ビイル」と書けばよいのです。
 「東京」は「トウキョウ」と書いて、実際の発音は「トーキョー」です。大阪は「オオサカ」と書いて、発音は「オーサカ」です。神戸は「コウベ」と書いて、発音は「コーベ」です。ドイツ語の発音を問題にするよりも、日本語の表記の原則に従うのが良いでしょう。
 けれども、現実の問題としては、私は、細かい原則を作る必要はないと思います。「バウムクウヘン」でも「バームクーヘン」でも良いと思います。それなりの時間を経て、どちらかの表記に落ち着いていくでしょう。「ハウス」を「ハース」と書いた時代もあったかもしれません。〈「ハウス」は「ハース」と言わないのに、「バウム」が「バーム」になるのは不思議〉というのは了見が狭すぎるのではないでしょうか。
 国語辞典にはたくさんの見出し語を並べるわけにはいきません。「バウムクーヘン」を見出し語にしたからといって、「バームクーヘン」という言葉は存在しないなどと言う人は現れないでしょう。
 そんなことよりも、この文章に添えられている「ひとくちバーム」という言葉の方がわかりにくいと思います。「バウムクーヘン」を短く「バーム」と言い、それに「ひとくち」を付けた言葉、「ひとくちバーム」はどんな菓子なのか、即座に理解できる人は少ないのではないでしょうか。

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2019年8月 2日 (金)

言葉の移りゆき(439)

「言及」という言葉の使い方


 言葉は、その言葉の持つ意味とともに、用法も大切です。政治家などは自分勝手な言葉遣いをすることがありますが、一般の人々においては、あるいは教育の世界では、正しい言葉遣いが求められます。
 こんな文章を読みました。


 梅雨の訪れとともに、千葉県の銚子漁港には年間を通じ最も脂がのったマイワシがやってくる。旬は6月末から7月半ば。地元では「入梅いわし」と呼ぶ
 銚子市水産課に聞くと、江戸後期の文献でも言及されているという。「銚子では誰もが知っている言葉です」と長谷川政代さん(61)。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月12日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 コラムの文章の冒頭の部分ですが、「銚子漁港には年間を通じ最も脂がのったマイワシがやってくる」という表現は正しいのでしょうか。まるで銚子漁港を目指してマイワシが自分の意思で押し寄せる印象ですが、実際はそんなことはありますまい。周囲で獲ったマイワシの水揚げが銚子漁港ということでしょう。
 ところで、2番目の段落で使われている「言及」というのは、どういう意味でしょうか。「入梅いわし」という呼び方が、江戸後期の文献に見えるという意味でしょう。
 「言及」という言葉の意味は、例えば『チャレンジ小学国語辞典・第4版』には、次のように書かれています。

 話を進めて、あることについても意見や考えを述べること。例「インタビューの中で、政治の問題点について言及する。」

 言及というのは、話題がある事柄に及ぶことを表す言葉です。何らかの話のまとまりがある場合に使います。文献の中に、呼び方が紹介されているというような場合に、「言及」という言葉を使うのはふさわしくありません。
 入試問題に使ったり、問題集の例文に引用したりする場合は、言葉遣いを厳密に検討するでしょう。そうした場合、この文章は、難点を含むということになってしまうでしょう。

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2019年8月 1日 (木)

言葉の移りゆき(438)

メディアの人たちの感覚


 メディアに携わる人たちの感覚と、一般の人たちの感覚とが大きくかけ離れつつある、ということを感じています。新聞や放送で生活している人たちは、自負を持っておられるようですが、それが一般人の考えや思いとは別の方向に向かっているようなところがあるのです。
メディアの関係者にもそれを自覚しておられる人があるようです。こんな文章を読みました。


 ほんとうの日本人とはだれか。
 国籍が日本の人? 否。国籍を得ても、外国出身者は差別される。稀勢の里の昇進で19年ぶりの「日本出身」横綱と、わざわざ発明した苦しい形容でメディアが驚喜した。日本人らしい容姿か? 否。日本語が不得手な女子テニスの大坂なおみに、「日本語で答えて」と会見で迫るのも、わたしたちだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月3日・夕刊、3版◎、7ページ、「現場へ! ほんとうの日本人①」、近藤康太郎)

 正直に、「わざわざ発明した苦しい形容でメディアが驚喜した」と書いています。言葉を作り出すのはメディアです。望ましい言葉も、そうでない言葉も、連日のように作り出しています。そして、「日本出身」という、がんじがらめの言葉を使って、そうでない人たちと厳格に区別しようとする姿勢を持つのもメディアの人たちです。
 「『日本語で答えて』と会見で迫るのも、わたしたちだ」と言っていますが、「わたしたち」とは一般の人たちではありません。一握りのメディアの関係者です。一般の人たちが「会見で迫」ったりはできないからです。
 この文章の筆者には「編集委員」という肩書きが記されています。新聞社を代表するような人の感覚がこのようであるのならば、一般の記者たちはなおさらであると思います。

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2019年7月31日 (水)

言葉の移りゆき(437)

「入社」と「入庁」


 会社に就職することを「入社」と言いますが、やめるときは「退職」です。毎朝、会社に出勤することを「出社」とも言い、退勤することを「退社」とも言います。この、「入」「出」などは、きちんと対応した言い方にはなっていないと思いますが、こういう言い方が定着してしまっているのですから、変えるわけにはいきません。
 ところで、この就職先が、会社ではなくて市町村などの役場である場合はどう言えばよいのでしょうか。「入社」に対応する言葉は何と言うのでしょうか。
 こんな表現がありました。「てるてる坊主の館」館長を務める人の紹介記事です。


 1959年生まれ。82年に長野県池田町役場に入庁。教育委員会や総務課長を経て2019年に退職。4月から館長として勤務。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月11日・朝刊、13版S、11ページ、「リレーおぴにおん 雨にうたえば③」)

 海上保安庁や県庁などに就職すれば「入庁」もすんなり響くと思います。就職先に上下の位置関係はありませんが、町役場に「入庁」というのは、なんとも違和感を感じてしまいます。言葉遣いの問題です。「入庁」という言葉を載せている国語辞典もすくないと思います。
 「82年に長野県池田町役場に入る」と言えばよいと思いますが、この紹介を書いた人の意識が高かったからなのでしょうか。
 文字で読む場合は意味を誤解することはないでしょう。けれども「池田町役場にニュウチョウ」と耳で聞いたときには、正しく理解できるでしょうか。違和感が伴う言葉遣いです。「82年から池田町役場に勤める」の方が、誤解なく伝わるでしょう。
 目で見ても、耳で聞いても、わかりやすい言葉を使いたいと思います。漢字の熟語(漢語)は引き締まった感じをもたらしますが、誤解を招くこともあります。わかりやすい日常の言葉(和語)を広く使いたいと思います。

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2019年7月30日 (火)

言葉の移りゆき(436)

「水無月」と「水月」


 睦月、如月、弥生…と続く、月の異名は、現代人にとっても常識的な言葉でしょう。五月雨は、梅雨を指します。五月晴れは、梅雨の晴れ間です。
 梅雨が明けると水無月の季節ですが、水無月について書かれた文章を読みました。


 今日から6月。6月の異名は「水無月」というのはご存じの方も多いでしょう。雨の多いこの時期が「水が無い」とは妙だな、でも旧暦の6月は今の7月ごろで、梅雨も明けて暑くなる頃だから「水が無い」月なのだろうと思っていました。
 ところが、そうではないようなのです。辞書などには複数の語源説が示されていますが、大阪大学の蜂矢真弓助教(国語学)は、この語の成り立ちを「ミ〔水〕」+連体助詞ナ+ツキ〔月〕」という語構成で、「水底」(水の底)、「港」(水の門)などと同様に「水の月」の意とする説が主流だと指摘します。 …(中略)…
 したがって「みなづき」の「無」の字は「無い」という意味ではなく、別の成り立ちの「水無瀬川」(表面に水が無い川)などの表記に影響された一種の当て字と考えてよいと蜂矢さんは分析します。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月1日・朝刊、13版S、13ページ、「ことばサプリ」、竹下円)

 「みなづき」が「ミ〔水〕」+連体助詞ナ+ツキ〔月〕」であるということには異存はありません。「な」が格助詞(連体格)として使われる例は上代に多く、現代でも、水底(みなそこ)、港(みなと)の他にも、眼(まなこ)、水上(みなかみ)、源(みなもと)などが使われています。
 けれども、「みなづき」が「水無月」と表記されるのは、「『水無瀬川』(表面に水が無い川)などの表記に影響された一種の当て字」という考えには、にわかには納得できないという気持ちが残ります。水無瀬神社や水無瀬川という固有名詞に触発されて、月の異名を「水無月」とするものでしょうか。「みなそこ」は水底と書くのですから、「みなづき」が水月と書いてもよいわけで、水月の方が実態を表した表記だと思います。
 「水無月」という表記が広く行きわたっていますから、今更、変えることはできないでしょう。けれども、水無月は本来「水な月」であったという、言葉の成り立ちはしっかり認識するのがよいと思います。

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2019年7月29日 (月)

ふるさと江井ヶ島(30)

「えいがしま」の「が」

 

 

 「えいがしま」の鉄道の玄関口は山陽電気鉄道「江井ヶ島駅」である。駅の南に県道718号の交差点(実際には五差路)があるが、信号機に掲げられている表示は「江井島」である。その交差点から50メートルほど行ったところに郵便局があるが、その局名は「明石江井ケ島郵便局」です。駅名の「ヶ」は小さな文字で、郵便局名の「ケ」は大きな文字である。
 一つ西の西江井ヶ島駅を下車して南に下がると酒造会社の老舗の「江井ヶ嶋酒造株式会社」がある。地域の学校の名前は「江井島小学校」「江井島中学校」である。
 どのような表記をしようとすべて「えいがしま」と読むのであるが、「が」の部分の書き方は異なっている。
 「江井島」「江井ヶ島・江井ケ島」「江井ヶ嶋」の他にも「江井が島」という表記も成り立ちそうである。行政では「江井島」で統一しているが、その他の分野ではいろいろな書き方がされている。
 「えいがしま」の「が」は、格助詞である。前に体言(名詞)があって、後ろの体言(名詞)との仲立ちをして、その二つの体言の関係を示す働きをしている。例えば「我が国」とか「君が代」とかの「が」がそれに当たる。(現代語では、「我が」という語は熟したものとして、一語の連体詞として扱っている。)
 古典を読んでいると「梅が枝」(梅の枝)とか「梅が香」(梅の香り)とかの表現が出てくる。そのような「が」は、「えいがしま」の「が」と同じ働きをしている。
 その「が」と同じような働きをするものに「沖つ白波」(沖の白波)のような「つ」という格助詞や、「目な子」(目の子、熟して一語の「眼(まなこ)」となる)のような「な」という格助詞もある。もちろん「梅の花」のような「の」という格助詞も古くから使われている。
 「えいがしま」の「が」は、「江井」と「島」という二つの体言を結びつける働きをしていて、現代風に言えば「江井の島」ということになる。
 当然のことであるが、「が」「つ」「な」「の」という格助詞は、省略されることなく表記されてきた。けれども、現代では(とりわけ地名表記では)、書かれなくなる傾向にある。阪急・阪神などの「三宮」(神戸市)駅に対してJRは「三ノ宮」を使っているが、JR「西ノ宮」(西宮市)駅は、近年「西宮」に改められた。
 さて、「江井ヶ島」の「ヶ」は面白い働きをする文字である。「西瓜が三ヶある。」と書けば「三こ」と読むし、「会場は三ヶ所に分かれる。」と書けば「三か所」と読む。「桃太郎は鬼ヶ島へ行った。」と書けば「鬼が島」と読む。
 「ヶ」は「こ」「か」「が」と読まれるが、不思議なのは「ヶ」という清音を表す文字が、「が」という濁音にも読まれることである。
 日本語には、かつては濁音が表記されなかったという歴史があるが、「ヶ」に関しては、それとは別の話になる。
 この「ヶ」は、片仮名の「ケ」とは違って、「箇」という漢字、または「个」という漢字を略して表記していると考えられている。漢字の性格を持っているから「ヶ」には幾通りもの読み方があるというわけである。
 「えいがしま」を「江井ヶ島」と書くことはあっても、「江井け島」と書くことはあり得ない。「ヶ」を平仮名で書く場合は、その発音に応じて「こ」「か」「が」のどれかで書き分けなければならない。現在の公用文などでは、「ヶ」に当たる部分は、平仮名の「か」で統一している。
 さて、明石市内の「が」に関わる地名を見てみると、3種類に分けられる。
 ①平仮名の「が」を使っているもの……「大久保町緑が丘」「魚住町錦が丘」「旭が丘」「藤が丘」「松が丘」「松が丘北町」
 ②片仮名の「ヶ」を使っているもの……「魚住町金ヶ崎(かながさき)」
 ③「が」の部分を表記しないもの ……「大久保町江井島」「和坂(かにがさか)」
 自治体の名称に「ヶ」を使っているかどうかを調べてみると、使っているのは、関東を中心とした東日本に見られる。茨城県龍ヶ崎市、埼玉県鳩ヶ谷市(川口市に合併)、千葉県鎌ヶ谷市、千葉県袖ヶ浦市、神奈川県茅ヶ崎市、長野県駒ヶ根市などである。
 「ヶ」を使わないのには、埼玉県越谷(こしがや)市、埼玉県熊谷(くまがや)市、岐阜県各務原(かがみがはら)市、兵庫県尼崎(あまがさき)市などがある。
 「ヶ」を「か」と発音する例には、原子燃料サイクル施設があることで知られる青森県六ヶ所(ろっかしょ)村などがある。
 小さな地名では、国会議事等のある「霞ヶ関」「霞が関」、自衛隊基地のある「市谷」「市ヶ谷」など、地名(住居表示)と駅名などで表記のゆれがあるところはたくさんある。
 「ヶ」の表記を省いても正しく発音される場合は、「ヶ」を省いてもよいと思うが、「ヶ」を省くことによって発音が変化することは考えものです。例えば、岐阜県各務原市には「ヶ」が使われていないが、それを「かがみがはら」でなく「かがみはら」が多くなって、それが定着してしまうと、地名の発音を変化させたことになる。
 「えいがしま」は、たとえ「江井島」と表記しても、「が」を省いて発音しないようにすべきである。「えいしま小学校」などという発音をしてはならないということであるが、今のところ、その心配はないと思われる。

 

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2019年7月28日 (日)

ふるさと江井ヶ島(29)

江井ヶ島の人口


 全国的に人口減少が続いているが、2018年(平成30年)に中核都市となった明石市の人口は微増の傾向が続いている。
 明石郡大久保町、明石郡魚住村、加古郡二見町が、明石市と合併したのは1951年(昭和26年)のことである。今でも、いろいろな統計などでは、本庁地区(合併前の旧・明石市の地域)、大久保地区、魚住地区、二見地区という分類がされている。
 2018年(平成30年)7月1日現在の、住民基本台帳に基づく人口は次のようになっている。(国勢調査などの人口とは異なる。)
合計    30万2026人
  本庁地区  13万92065人
大久保地区 8万3531人
魚住地区  4万9312人
二見地区  2万9977人
 本庁地区よりも、他の3地区の合計の方が数字は大きい。
 大久保地区の人口約8万人は、兵庫県下で言うと三木市やたつの市に近く、魚住地区の人口約5万人は小野市や加西市に匹敵する。二見地区の人口は養父市を超えている。
大久保町に属する江井ヶ島地区(江井島と西島を合わせた地域)の人口・世帯数は次のようになっている。
江井島   6131 人  2690世帯
西島   9877人   4145世帯
 江井ヶ島は人口が1万6千人ほどで、明石市全体の5.5%ほどを占めているのである。

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2019年7月27日 (土)

ふるさと江井ヶ島(28)

ゆうびんきょく【郵便局】


 江井ヶ島郵便局について、その歴史を含めて明快に書かれている記事の切り抜きを保存しています。1982年(昭和57年)1月6日の神戸新聞の記事です。次のようなことが書かれている。

 郵便局舎としては明石市内で最古の大久保町江井島、江井ヶ島郵便局が十八日から新局舎へ移転する。現局舎は人間で言えば還暦に近く、大正時代末期から地元の発展ぶりを見守ってきた。
 同局は明治三十五年十一月、当時の江井ヶ嶋酒造社長だった卜部兵吉さん(故人)が現局舎の近くで開局。大正十二年三月、当時としてはモダンな現在の木造二階建て局舎(延べ百二十五平方メートル)を新築し移転した。
 近くには西灘と呼ばれた清酒産地があり、同局には今も当時の隆盛を物語る書類が保存されている。開局後間もない明治三十八年三月二十六日付けで逓信大臣あてに提出された「電報受取所設置願い」は地元有志や郵便局長、酒造会社、精米会社などの連名で「現在、当地の清酒は年産三万石(約五千四百キロリットル)あり、他地方との取引もひんぱんになっている。しかし、電報を扱っている国鉄大久保駅からは三千メートルもあり不便きわまりない。これまで配達の遅れで商機を逸したこともある。費用はすべて地元負担とするので、ぜひ電報取扱所を設置してほしい」と書き込まれている。
 前局長の波部アキさんは「昭和四十一年八月までは電報や電話を取り扱っていたが、あのころは本当に大変でした」と懐かしそう。電話がまだ普及しておらず、正月には年賀電報が殺到。二見などまで配達に行ったことも多い、という。
 移転が予定されている新局舎は現局舎の北東約一キロの国道250線近く。木造二階建て約百二平方メートルで、局名も「江井ヶ島郵便局」が「明石江井ヶ島郵便局」に変わる。

 江井ヶ島郵便局は卜部兵吉さんが開局したそうであるが、卜部兵吉さんは江井ヶ嶋酒造の創立はもちろん、江井島小学校の運営にも尽力された。
 江井ヶ島は西灘と呼ばれた酒造地であり、早くから開設された郵便局も金融機関として重要な役割を果たしていたことだろう。電報は国鉄大久保駅が扱っており、江井ヶ島にも電報受取所が必要であるとして、郵便局に通信機関としての役割を付け加えたのも重要な出来事である。
 古い郵便局には電話交換業務があったように思うし、郵便局内に公衆電話の施設があった。何かの用で郵便局へ行ったら、たまたま電信の業務中で、「朝日のア」「子供のコ」「桜のサ」「算盤のソ」「手紙のテ」などという言葉が聞こえてくることも、たびたび経験した。
 移転後の明石江井ヶ島郵便局は山陽電気鉄道江井ヶ島駅の近くにある。もとの江井ヶ島郵便局の跡は、今は民家が建てられている。

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2019年7月26日 (金)

ふるさと江井ヶ島(27)

やない【柳井】


 柳井地区は、元は明石郡魚住村の大字・金ヶ崎の一部であるが、魚住小学校までの通学距離が大きく、江井島小学校が近かった。昭和26年に明石郡大久保町・魚住村、加古郡二見町の3町村が明石市に合併したときに、江井島小学校の校区に変更された。以来、70年ほどになり、もはや紛れもない江井ヶ島地区の一員である。
 江井ヶ島には桜の名所がいくつかあるが、その一つは柳井地区の赤根川沿いの桜並木である。赤根川は大久保町西脇のあたりを経て、柳井を通って、西島で海に流れ入る。柳井のあたりでは右岸に桜並木がある。河畔の道は舗装されていて、小さな車は通れるが、地区の幹線道路ではない。桜にとっては、それがかえってありがたいことになっている。桜の木の下で弁当を広げることはできにくいけれども、そぞろ歩きにはふさわしい場所である。知る人ぞ知る、すなわち、あまり知られていない、静かな名所である。

ふるさと江井ヶ島(28)

ゆうびんきょく【郵便局】

 江井ヶ島郵便局について、その歴史を含めて明快に書かれている記事の切り抜きを保存しています。1982年(昭和57年)1月6日の神戸新聞の記事です。次のようなことが書かれている。

 郵便局舎としては明石市内で最古の大久保町江井島、江井ヶ島郵便局が十八日から新局舎へ移転する。現局舎は人間で言えば還暦に近く、大正時代末期から地元の発展ぶりを見守ってきた。
 同局は明治三十五年十一月、当時の江井ヶ嶋酒造社長だった卜部兵吉さん(故人)が現局舎の近くで開局。大正十二年三月、当時としてはモダンな現在の木造二階建て局舎(延べ百二十五平方メートル)を新築し移転した。
 近くには西灘と呼ばれた清酒産地があり、同局には今も当時の隆盛を物語る書類が保存されている。開局後間もない明治三十八年三月二十六日付けで逓信大臣あてに提出された「電報受取所設置願い」は地元有志や郵便局長、酒造会社、精米会社などの連名で「現在、当地の清酒は年産三万石(約五千四百キロリットル)あり、他地方との取引もひんぱんになっている。しかし、電報を扱っている国鉄大久保駅からは三千メートルもあり不便きわまりない。これまで配達の遅れで商機を逸したこともある。費用はすべて地元負担とするので、ぜひ電報取扱所を設置してほしい」と書き込まれている。
 前局長の波部アキさんは「昭和四十一年八月までは電報や電話を取り扱っていたが、あのころは本当に大変でした」と懐かしそう。電話がまだ普及しておらず、正月には年賀電報が殺到。二見などまで配達に行ったことも多い、という。
 移転が予定されている新局舎は現局舎の北東約一キロの国道250線近く。木造二階建て約百二平方メートルで、局名も「江井ヶ島郵便局」が「明石江井ヶ島郵便局」に変わる。

 江井ヶ島郵便局は卜部兵吉さんが開局したそうであるが、卜部兵吉さんは江井ヶ嶋酒造の創立はもちろん、江井島小学校の運営にも尽力された。
 江井ヶ島は西灘と呼ばれた酒造地であり、早くから開設された郵便局も金融機関として重要な役割を果たしていたことだろう。電報は国鉄大久保駅が扱っており、江井ヶ島にも電報受取所が必要であるとして、郵便局に通信機関としての役割を付け加えたのも重要な出来事である。
 古い郵便局には電話交換業務があったように思うし、郵便局内に公衆電話の施設があった。何かの用で郵便局へ行ったら、たまたま電信の業務中で、「朝日のア」「子供のコ」「桜のサ」「算盤のソ」「手紙のテ」などという言葉が聞こえてくることも、たびたび経験した。
 移転後の明石江井ヶ島郵便局は山陽電気鉄道江井ヶ島駅の近くにある。もとの江井ヶ島郵便局の跡は、今は民家が建てられている。

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2019年7月25日 (木)

ふるさと江井ヶ島(26)

やごう【屋号、家号】


 江井ヶ島は古くからの村落であるから、同じ地域に同じ苗字の家が多くある。西島には、卜部、今井、西海、岸本などとともに橘を名乗る家もある。この地域の墓を見ると江戸時代あたりからの家系が読みとれる家はたくさんある。
 そんな古くからの地域であるから、家号で呼ばれる家も多い。幼い頃、「あんた・は・ せーはったん・とこ・の・ こ(子)・や・なー。」と言われてびっくりしたことがあるが、だんだん家号のことに気づくようになった。漢字で書くと「清八さん」で、「さん」が「たん」になるのは自然な発音変化である。先祖の名前が何代も生き続けている。私の名前は幸男である、発音が崩れると「幸男ちゃん」は「ゆっきょちゃん」になる。小学生の頃は、そのように呼ばれていたし、今でも呼ばれると嬉しい気持ちがする。
 江井ヶ島の「ふるさとの文化を学ぶ会」が発行した『島のみゝぶくろ』には、「ひがっせの家号」「にっせの家号」「ひがしじまの家号」「もりの家号」「にしじまの家号」が、それぞれの地域の地図に書き込んだ形で載っている。「ひがっせ」は東江井、「にっせ」は西江井、その他は東島、森、西島のことである。
 そのうちの「にしじまの家号」地図には40近い名前が挙げられている。その家号を、いくつかに分類してみる。一つ一つの家号の由来を確かめたわけではないから、間違っているかもしれない。
 まず、人の名前(先祖の名前)に基づくと思われるものを、五十音順に列挙する。「くろべはん」「ごえはん」「こさやん」「じゅうべはん」「しょうやん」「せいはっつぁん」「せえべはん」「そうべはん」「たろべはん」「たんちゃん」「にさやん」「はちべはん」「はっちょみさん」「まごべはん」「もよみさん」「よんちゃん」である。「はんだいはん」「まさかど」もここに加わるのかもしれない。「きし」は古岸(こぎし)という苗字の省略形である。筆者の屋号は「せいはっつぁん」である。
 次に、家業に由来すると思われるものを、やはり五十音順に並べる。「うえきや」「おいしゃはん」「かさや」「こんや」「さかば」「すりばちや」「せともんや」「とふや」「はこや」「わたや」である。順に、植木屋、医者、笠屋(傘屋)、紺屋、酒場(酒造業)、擂り鉢屋(窯業)、瀬戸物屋、豆腐屋、箱屋、綿屋と考えられる。「しんば」は新しい酒場かもしれない。
 関連して、店の屋号と思われるものに「いちばや」「かわさきや」「しなのや」がある。「かわじん」というのも屋号かもしれない。
 「アメリカはん」は洋風の住まいの一家をそのように呼んだもの、「てらまえ」は極楽寺の前の家、「やまのうえ」はちょっと高い位置に建っている家、「たんぼなか」は田圃の中の家のようである。珍しい呼び名は「いんきょ」(隠居)である。
 この地図には書かれていないが、「てら」(寺=極楽寺)、「とこや」(床屋=西海理髪)、「みせ」(店=岸本八百屋)という呼び名もあった。

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