2020年11月28日 (土)

ことばと生活と新聞と(281)

打ち言葉の台頭


 言葉の活動を4つに分けると、話す、聞く、書く、読むです。もちろん、その4つの他に、自分ひとりだけで考えたり感じたりするときにも言葉を使っています。言葉は、考えるときに必須のものです。
 ところで、メールとかツイッターとかで使うのは話し言葉でしょうか、書き言葉でしょうか。どちらとも言えない、中間的なものだという意見もあると思います。ある人は、「話す」でも「書く」でもない、別物だと考えました。それを「打つ」と考えました。話すや書くから大きく離れていないけれども、新しい文体が使われているという考え方には同感をします。今では、打ち言葉が広がっているとも言えるようです。
 こんな記事がありました。

 肉まん、あんまん、ピザまんと多様な商品を取りそろえる井村屋(津市)。新たに商品化すべく進めているのが「具のない中華まん」だ。
 9月14日、井村屋のツイッターアカウントがこうつぶやいた。
 「秋冬の入り口になると思いだすのが、このツイート。もう6年前ですか…… やっぱり中華まんの具なしVer(つまりガワだけ)が欲しいいいいいい! オリジナル具材を用意し、楽しみたいいいいいいい! (開発部、このツイート見ていないかな……)」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月21日・夕刊、3版、5ページ、「朝デジから」、若松真平)

 言葉は、考えや感情などを他人に伝える役割を果たします。手紙のような個人宛のものと違って、ブログやツイッターなどは不特定多数を相手にしています。個人宛のものは人間関係に基づいて、くだけた表現もあり得ます。けれどもブログやツイッターなどにも既知の人宛の言葉と同様な表現が使われ、しかも、発音を重視したような書き言葉となっています。特別な文体です。自分の名前などを明確に示さない発信人ですから、表現の自由度が高まっているのです。
 例えば「い」という文字をいくつも続けて表現することは、その個数に制約がなく、勝手気ままに連ねることもあります。「!」の符号などをやたらたくさん並べているのを見ると、読む側は気分が悪くなることがあります。
 打ち言葉は、勝手気ままな要素を多分に含んでいるのです。
 それを書き言葉が真似てよいとは思いませんが、真似る傾向が広がりつつあるようにも思います。例えば、この記事の見出しは、〈具なし中華まん「すまん!!」 / 井村屋つぶやき 商品化検討〉となっています。具のない中華まんを社内では「すまん」と呼んで商品化をめざしているようです。「すまん」という名前を、記事の見出しは「すまん!!」と書いているのです。商品名(となるかもしれない名称)に勝手に「!!」を加えているのです。新聞記者も「打ち言葉」を身に付け始めているようです。

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2020年11月27日 (金)

ことばと生活と新聞と(280)

日本の言葉は本当に大丈夫か


 言葉は時代とともに変化していくものです。一つ一つの現象を乱れであると考えなくてもよいのかもしれません。けれども現今の日本語の様子は、自然な変化ではなく、意図的なものがたくさん含まれています。あまりにも酷いと思うものがあります。
 こんな文章を読みました。

 英語話者から見れば奇っ怪な言葉が我が国に氾濫しているようだ。改善を求めて通訳や研究者が「日本の英語を考える会」を発足させた。そのウェブサイトを見ると「Go To トラベル」がやり玉にあがる
 toの後に来るべきは、京都や学校といった目的地を表す名詞だからだ。ウィズコロナやハローワークなど和製英語は世に多く、必要な情報が外国人に伝わらない恐れがあるという。変な英語もご愛敬と言ってはいられないか
 カタカナ語でもう一つ気になるのは、悪い印象を薄める意図をときに感じることだ。国民総背番号がいつしかマイナンバーになり、感染爆発でいいのにオーバーシュートと言う。行政発の新語にはとくに用心したい
 いまカタカナで人々を煙に巻くとしたら……。えー、コロナとエコノミーの問題に関しましては、Go Toイートとマスクをコラボさせることによりソリューションを見つけたい、かように考えます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月20日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 ここに書かれていることにはすべて賛成です。和製英語やカタカナ語だけに問題があるのではありません。和製英語やカタカナ語を使うことを止めればすむ問題ではありません。日本語そのものに大きな悪影響を与え続けています。
 行政やマスコミがおかしな日本語を使い続けています。そのことは私のブログの連載で指摘を続けているとおりです。さらに、国語辞典の編纂者が興味本位の言葉を探し出してあおりたてることもしております。行政、マスコミ、国語辞典編纂者には、気持ちのよい日本語を使おうという姿勢が欠けてしまっています。
 新聞が行政を批判するのはよいと思います。けれども新聞自身の反省が行われていないのは問題です。
 行政の使う言葉がおかしいという判断を新聞が下せないというのは情けないことです。たとえ行政が使おうと、新聞はおかしいと思う言葉は使わないで、新しい表現を工夫すべきです。行政の言葉遣いに対する批判もしないで、行政が使う言葉をそのまま使って、読者に伝えています。しかもカタカナ語を短く省略したり、アルファベット略語を作ったりして、悪影響を増幅して、行政に迎合しているのです。
 私は、新聞や放送が日本語を壊す役割を果たしていると、これまでにも書いてきました。日本語を気持ちのよい方向に育てようとする姿勢が欠けていると思うのです。
 引用した「天声人語」の内容には賛成しますが、それでおしまいではありません。新聞を代表するコラムは、行政批判で終わってはいけません。新聞社の、日本語に対する姿勢を変化させるように働きかけなければ、このコラムの役割は果たせていないと思います。

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2020年11月26日 (木)

ことばと生活と新聞と(279)

日本語の「むつかしないな問題」


 言葉のことを扱った記事で、「せわしない」のような言い方をする言葉のことが取り上げられていました。こんなことが書かれていました。

 師走の背中が見え始め、せわしなくお過ごしの方も多いかもしれません。……あれ、「せわしなく」って、「せわしい」のに、なぜ「ない」がついているのでしょう。
 「せわしない」を辞書で引くと、「いそがしい。落ち着かない」そして「せわしい」。「ない」がつけば逆の意味になるはずなのに、「せわしない」と「せわしい」はやっぱり同じ意味じゃないか……。頭がこんがらがっていたところ、国立国語研究所の柏野和佳子教授(日本語学)の言葉が大きなヒントになりました。「せわしないの『ない』は、否定の意味ではないんです」
 柏野さんによると、この「ない」は、性質や状態を表す語に付いて意味を強調する接尾語。否定を表す「ない」とは、同じかたちで意味が違う言葉だそうです。 …(中略)…
 ややこしい!というのは昔の人にとっても同じようで、説話「今昔物語集」の江戸時代の写本にも「半無(はしたな)く」と、「無」という表記が見えます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月21日・朝刊、13版S、13ページ、「ことばサプリ」、青山絵美)

 この文章では、同じような働きをしている語の例として、「せつない」「ぎこちない」「あどけない」などの例が挙げられています。
 さて、私の日常生活(方言生活)では、「こんな むつかしないな 問題は わからへん。」というような言い方をします。「難しい」は清音で「むつかしい」と言うのですが、「むつかしい」に比べて、「むつかしないな」はより複雑で難度が高いという語感を伴っています。
 「だいじ(大事)ない 物を 貰(も)ろーて 申し訳おまへん。」と言う場合の「物」は、「だいじな 物」より程度が上がると感じられます。「たいせつ(大切)ない」と「たいせつな」との関係も同じです。「ややこしない(または、やいこしない)」と「ややこしい(または、やいこしい)」の関係も同様です。程度が深まる(上がる)と考えるべきでしょう。「……ない」となる方は、ほとんど活用することはないので、連体詞として扱うべきでしょう。接尾語というようには感じられません。
 上記の引用した文章では、「せわしい」=「せわしない」のようにされていますが、ちょっと違うと思うのです。柏野さんの説明にもありますように、「ない」は、性質や状態を表す語(つまり形容詞や形容動詞など)の意味を強調する働きをしていますから、「……ない」という形の方が、意味は深くなっているのです。
 それにしても、この話題はなかなか面白い問題を含んでいますから、新聞の読者の方々も興味を持たれたのではないでしょうか。
 それに比べると、同じ日に掲載された、もう一つの言葉の記事は知識の投げ売りの感じがしました。こんな文章です。

 かつては、たばこが吸える店が普通で、禁煙の店は「禁煙店」とわざわざ強調してお客を呼んでいました。今後は、逆に喫煙店のほうに表示義務が生じるのですから、世の中の常識の変化を感じます。
 以前から普通にあったものを、新しいものと区別するため、改めて名前をつけ直すことがあります。「レトロニム」と言います。「禁煙可能店」などもレトロニムです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月21日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 カラーテレビが出現したときに、それをテレビと呼び、以前からのものを白黒テレビと呼びました。炬燵も今は電気炬燵しかありませんから、昔の物は「たどんを入れた炬燵」でしょう。そんな言葉はいくらでもあります。レトロニムなどという言葉を教えていただく必要はありません。
 それにしても、「禁煙可能店」などという言葉は見たことがありません。これは誤植で、筆者も校閲担当者も気付かなかった誤りでしょう。「禁煙可能店」という例があったら、ぜひ写真で拝見したいと思います。

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2020年11月25日 (水)

ことばと生活と新聞と(278)

ランキングと世論調査


 大晦日の紅白歌合戦の時期が近づいてきました。一大行事のようですが、NHKの番組に過ぎません。誰に出場させるかと判断は、NHKの内部で、ある意味では厳正に討議されているのでしょう。視聴者から、〇〇という歌手を出してほしかったというような不満が出るかもしれませんが、そんな要望にすべて応えることはできないでしょう。
 ところが、前回取りあげたランキングのようなものになると客観性が必要です。記事によると「各地の認知度や訪問経験など84項目について約3万2千人から回答を得て、地域や人口比などを考慮して再集計した」とあります。84項目がどのような内容であるのかは読者にはわかりませんし、約3万2千人がどのような地域の、どのような年齢層であるのかなどはわかりません。それを地域や人口比などを考慮して再集計しても、その集計の仕方に客観性があるのかどうか判断できません。
 世論調査に関して、こんな解説記事がありました。

 今もネット上で多くの調査が行われていますが、その方法は様々です。サイト上にアンケート画面があって、誰でも回答できるようになっているのを見たことがあるでしょうか。 …(中略)…
 しかし、こうしたやり方では、そのサイトやツイートを見た人しか回答しないため、世論調査とは言えません。どうしても、そのサイトやツイートの内容に興味や関心を持つ人たちの回答に偏りがちです。
 世論調査では、対象者全体が全国の「縮図」となるよう、無作為(ランダム)で選ぶ必要があるのです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月26日・夕刊、3版、7ページ、「世論調査のトリセツ」、江口達也)

 調査対象者が無作為で選ばれていないような「47都道府県の魅力度ランキング」の順位にどれほどの信頼性があるのでしょうか。調査対象者が無作為に選ばれていても、菅内閣の支持率は、報道各社でかなりの差が出ているのです。それは新聞社自体が右寄りであるとか左寄りであるとかということではないでしょう。質問の文言ひとつで答え方にも影響が出るのです。
 しかも、新聞社や放送局などが行う世論調査は、それぞれの項目ごとに結果が示されますが、「47都道府県の魅力度ランキング」のように全部まとめて順位を付けるというのは乱暴です。そんな総合順位は意味を持たないということがわかっていないようです。
 「ブランド総合研究所」というところは、ひとつの話題作りを行っているに過ぎず、県知事などが真剣に対応しなければならないものではないでしょう。しかも、新聞社がこのような話題を大げさに取りあげるのは、どういう理由があるからなのでしょうか。

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2020年11月24日 (火)

ことばと生活と新聞と(277)

民間調査会社による都道府県魅力度ランキング②


 前回は、47都道府県の「魅力度ランキング」の取りあげ方が大げさすぎるということを書きました。ところが、それに輪をかけたような記事が出ました。〈調査会社が年1回実施。今年は茨城が最下位を脱出した〉という見出しで、前回の記事と趣旨は変わりません。茨城、栃木、群馬の北関東3県のことを話題にしています。
 うんざりするような記述で、変わりばえがありませんが、引用します。

 20~70代の約3万人にインターネットで、アンケートに答えてもらうんだ。都道府県または市町村を20ずつ組み合わせたアンケートが53種類あって、どれが配信されるかわからない。魅力度に関する質問は84もある調査項目のうちの一つ。「とても魅力的」「やや魅力的」「まったく魅力的でない」などの5段階で答えてもらう。会社側が人口を考慮して順位を決める。 …(中略)…
 (茨城県は)営業戦略部を新設して観光地や特産品をPR。今夏には「いばらきビリ県脱出連携会議」を立ち上げ、官民で取り組んだ。 …(中略)…
 入れ替わりに最下位になった栃木県の福田富一知事は「魅力や実力を測るのに適正な指標なのか」と調査会社に抗議した。40位の群馬県の山本一太知事も「ランキング自体不適切で、名前を変えてもらいたい」として県庁にランキングを検証するチームを設置したんだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月17日・朝刊、13版S、2ページ、「いちからわかる!」、佐野楓)

 同じような趣旨の記事を2回も掲載する新聞社の考え方が理解できません。このような一面的なランキングは無視するべきでしょうが、それを興味本位で報道する姿勢に問題があります。
 新聞社自身は、こういうランキングを日常的に作って、それを報道していますから、その差別性などの問題に麻痺してしまっているのでしょう。
 もうひとつ、問題があります。ランクの下位の県が正面から取り組んで、ランクを上げようという努力をしているのは滑稽です。税金を使って、馬鹿げた取り組みをしないでほしいと思います。
 アンケートが53種類あろうと、調査項目が84あろうと、客観性の担保にはなりません。「会社側が人口を考慮して順位を決める」のなら、どうにでも順位を動かせるのです。調査をした研究所が信頼できる存在であるかどうかわかりません(そのことについては何も報道されていないのです)が、そんなことよりもランキングの決め方自体は信頼できないと思います。
 そんな程度のランキングを大きく取りあげる新聞にも問題がありますし、そんなものに正面から取り組もうとしている県の姿勢も、滑稽に見えてきます。

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2020年11月23日 (月)

ことばと生活と新聞と(276)

民間調査会社による都道府県魅力度ランキング①


 民間調査会社による2020年の47都道府県の「魅力度ランキング」というものが発表された、と新聞などが報じました。昨年まで7年連続で最下位だった茨城県が42位に上がり、最下位になったのは栃木県だそうです。
 記事の一部を引用します。

 ランキングは「ブランド総合研究所」(東京都港区)が6~7月、ネット上で各地の認知度や訪問経験など84項目について約3万2千人から回答を得て、地域や人口比などを考慮して再集計した。茨城県は13年から昨年まで最下位が続いていた。
 茨城県は、 …(中略)… 今年7月には、民間主導の「いばらきビリ県脱出連携会議」も発足して、汚名返上に、官民で取り組んできた。 …(中略)…
 一方、最下位になった栃木県の福田富一知事は県庁で記者団に、「結果に『えっ』と驚いた。魅力や実力を測るのに適正な指標なのか、改めて疑問を感じた。(回答者には)栃木県にあまり縁がなかった人が数多く選ばれたということだと思う」と不満を示した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月15日・夕刊、3版、9ページ、片田貴也・池田拓哉)

 どういう目的でランキングを作っているのかということは記事には書かれていません。回答者がどのように選ばれたのかということも書かれていません。回答者の人数が多くても客観性のある調査かどうかは疑問です。しかも、どうして民間調査会社の作ったランキングがニュース価値を持つのでしょうか。調査をしたのはどのような会社なのでしょうか。疑問だらけで、その答えを探ることのできないニュース記事です。
 47都道府県のランキングを作れば、首位があり最下位があるのは当然のことです。興味本位でない、きちんとした目的があって行っていることなのでしょうか。しかも、そんなランキングに県民などが過剰に反応しているのはなぜなのでしょうか。過剰な反応があったような書き方をしているのは新聞記者なのです。
 新聞やテレビは、このようなランキングをしょっちゅう作って報道しています。上位だけを報道することもあります。
 これは世論調査のような客観性はそなえていないでしょう。「魅力度ランキング」の魅力度とはどういう意味なのでしょうか。観光地としての魅力と、居住する魅力とは異なります。居住の魅力も、観点によって評価が異なります。そんなものを総合して得点化したのかもしれませんが、総合得点には意味や価値がありません。
 新聞が、そのようなことについて何の説明もせずに、ランキングの上位の都道府県と、下位の県を並べる表を、無責任に掲載する意図が理解できないのです。首都圏の都県が下位に来ることはないのです。だから安心して、こんな記事が書けるのでしょう。

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2020年11月22日 (日)

ことばと生活と新聞と(275)

カタカナ語でもアルファベット略語でもない言葉


 新聞はカタカナ語やアルファベット略語が大好きですが、そんな言葉を使わない例が、わずかですが、あります。
 その言葉についての例を、3か所から引用します。

 原発から出る「核のごみ」(高レベル放射性廃棄物)の最終処分場をめぐり、梶山弘志経済産業相は17日、国の選定プロセスの第1段階である「文献調査」を、北海道の寿都町と神恵内村で始めるための計画を認可した。 …(中略)…
 核のごみの後始末は原発を使い始めた当初からの懸案。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月18日・朝刊、14版、1ページ、小坪遊)

 「核のごみ」問題で久しぶりに動きがあった。原発の使用済み燃料から出る高レベル放射性廃棄物の処分地選びをめぐり、北海道の寿都町と神恵内村が調査に手を挙げた。 …(中略)…
 核のごみは、10万年は隔離する必要があり、世界でも地下深くに埋める地層処分が採用されている。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月15日・夕刊、3版、5ページ、「e潮流」、佐々木英輔)

 原発の使用済み燃料から出る「核のごみ」、高レベル放射性廃棄物の最終処分地選びをめぐる動きが北海道で相次いでいる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月5日・朝刊、13版S、7ページ、「記者解説」、佐々木英輔)

 「核のごみ」の問題は日本だけにある問題ではありません。それをどういう言葉で表現するかということになりますと、新聞社の従来のやり方は外国語(多くの場合は英語)の表現をカタカナ書きにしたり、原語の綴りから何文字かのアルファベット略語を作るということでした。どうして「核のごみ」が日本語で書かれているのかはわかりません。
 けれども、このような書き方に接すると、新しい概念や物などについて、カタカナ語で表したり、アルファベット略語で表す必要はないように思われるのです。「核のごみ」という言葉で意味が理解できますし、アルファベット略語を覚えたり、カタカナ外国語の意味を理解する必要はないのです。日本語のままで通じるのです。
 ひとつの記事の中で、同じ言葉を何度も使う必要がある場合にアルファベット略語を使うということが多いのですが、「核のごみ」という言葉を何度も使っても、文章は不自然なものにはならないと思います。短い日本語を工夫すればよいのです。
 これから後に、「核のごみ」という言葉を、カタカナ語やアルファベット略語に置き換えることはしないでください。このままの方がよいと思います。そして、できることなら、カタカナ語やアルファベット略語で表現しているものも、短い日本語で表現するように工夫して、日本語の文章を守ろうとする姿勢を示してほしいと願うのです。
 専門用語を使う必要がある場合は、外国語を紹介することがあってもよいでしょうが、たいていの表現は日本語でこと足るはずです。日本語は優れた言葉ですから、外国語に頼る必要はないと思います。

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2020年11月21日 (土)

ことばと生活と新聞と(274)

既知の略語と同じ「DX」


 〈「未知数X」に情報革新のヒント〉という見出しで、「DX」という言葉を説明する記事がありました。こんなことが書かれています。

 新型コロナウイルスの感染拡大で、在宅勤務やオンライン会議の導入が加速しました。ネットを通じた重要な情報の集約や活用も、盛んになりました。そんな変化を支えるキーワードは、「DX」です。
 DXとは「デジタルトランスフォーメーション」の略です。訳して「デジタル化による変革」。情報通信技術を発展させて使いこなし、社会生活の向上を目指すものです。2018年に経済産業省がDXの必要性や基準を示し、企業などが取り組み始めています。
 英語のつづりはDigital Transformationですが、見聞きする略称はDX。なぜDTとは言わないのでしょうか。 …(中略)…
 trans→across→cross→Xという連想から、いつしかtransをXと表記する慣習ができたというのです。DXという呼び名には、一種の言葉遊びが隠されていたわけです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月14日・朝刊、13版、13ページ、「ことばサプリ」、小汀一郎)

 「経済産業省がDXの必要性や基準を示し、企業などが取り組み始めています。」とありますが、DXという略称を経済産業省が示したのではないようですね。DTではなくDXとなった理由が詳しく書かれていて、それは理解できますが、どうしてこんな略称を使う必要があるのかということは納得できません。
 「デジタルトランスフォーメーション」という文字数の多い言葉を略してDXと書けば、新聞の見出しなどでは好都合であることはよくわかります。けれども、そんな理由だけで、こんな略語を広めないでほしいと思います。DXとはどういう意味が込められた言葉であるのかということが理解されないままで、略語が広がっていく可能性があります。「デジタルトランスフォーメーション」という言葉では何のことか分からない人も多いと思います。訳すと「デジタル化による変革」になるということであるのなら、その言葉(日本語)を使うべきです。その言葉の方がイメージを浮かべやすいと思います。
〈「未知数X」に情報革新のヒント〉という見出しを書いた気持ちは理解できます。けれども、情報革新のスピードの速さと同じように、アルファベット語導入のスピードも速くなり、日本語破壊が加速度的に進展しようとしています。新聞は、そういう実情に警告を鳴らすという役割を捨てて、日本語破壊を助長しようとしているのです。
 言うまでもないことですが、DXという略語は既に使われています。デラックス(deluxe)ということをDXと書く習慣があります。海外放送などの遠距離受信という意味でも使われているようです。そういうことには目を向けないで、DXという表記に、さらに新しい意味を重ねて使おうとしているのです。
 DXなどという新語を定着させようとするのは、情報革新という美名のもとで、既存の言葉を破壊しようとする企みのように見えてきます。

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2020年11月20日 (金)

ことばと生活と新聞と(273)

「ふつう」とは、格別にという意味か


 自分が作った料理に対して「普通に美味しい」と評価されたら、嬉しく思うでしょうか、残念な気持ちになるでしょうか。「普通に美味しい」とは、美味しさが普通、すなわち中級ということになるように思います。人並みの料理が作れるようになったと喜ぶ場合もあるでしょうし、人並みのもの作れなかったと落ち込むこともあるかもしれません。
 漢字の「普通」ではなく、平仮名で「ふつう」と書けば、異なった意味を持つのでしょうか。テレビ番組を紹介する、こんな記事がありました。

 日本一ふつう美味しい植野食堂   ★BSフジ 夜7:00
雑誌編集長の植野広生さんが、この料理ならばこの店が日本一だと信じて疑わない店を訪れてレシピを聞き、店主と一緒に作る。今回は東京都豊島区池袋の店の調理場へ。ナスと旬の野菜の料理「なすミソ」は、無駄な物をそぎ落とした店主の人生そのものだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月16日・朝刊、14版、19ページ、「きょうの番組から」)

 番組名を考えたのはテレビ局ですが、記事を書いた人は「ふつう」という言葉にどのような意味が込められていると思ったのでしょうか。
 番組内容の説明を見ると「植野広生さんが、この料理ならばこの店が日本一だと信じて疑わない店を訪れてレシピを聞き、店主と一緒に作る」と書かれています。普通(中級)という段階での「日本一」ではなく、最上級という意味での「日本一」なのでしょう。「ふつう美味しい」とは、格別に美味しいという意味のようです。
 いつから、「ふつう」はこのような意味で使われるようになったのでしょうか。こういう意味が、もうすぐ国語辞典にも載るようになるのでしょうか。
 テレビが日本語の混乱を取り仕切り、新聞はそれに対して何も感じないような社会に変化しつつあるのでしょうか。
 政治や経済の現状に対して厳しい批判の目を向ける新聞が、言葉の有様については何の批判的な姿勢を持たないことが不思議に思われます。新聞社同士でも、テレビ局に対しても、あるいは新聞社の社内でも、言葉遣いに対して厳しい目を持って指摘し合うことが必要だと思います。

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2020年11月19日 (木)

ことばと生活と新聞と(272)

飛び飛びの「縦断」


 例えばデパートの催し物である駅弁大会に、北海道から九州までの駅弁が並んでいても、それを全国縦断駅弁大会と言うことはないでしょう。全国からの品物を一カ所に集めたということなのですから。
 さて、新聞1ページを使った、こんな広告がありました。

 全国縦断お土産まつり
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月8日・朝刊、13版S、5ページ、全面広告)

 菓子類販売促進コンソーシアム(全国菓子工業組合連合会)が主催する展示直売会だそうです。たぶん全国各地のお菓子が並んでいるのでしょうが、「全国縦断」と言うからには、北から南までの各地で点々と開かれるのだろうと想像しましたが、会場は札幌・東京・新潟・名古屋・広島・福岡の6都市で、それぞれ1カ所のデパートが会場のようです。
 「縦断」という言葉は、細長いものの、長い方の端から端までを通り抜けることを意味しています。日本の地理で言うと、北から南までを通り抜けることです。桜前線や紅葉前線が日本列島を縦断して進むとか、映画を列島各地の映画館を縦断して公開するとか、そんな言い方をします。全国6カ所で開く展示即売会を「縦断」と言えるのでしょうか。例えば、美術展を全国3カ所の美術館で開催しても「縦断開催」とは言わないでしょう。
 数少ない場所で、飛び飛びに開くようなものを「縦断」と言うのは行き過ぎでしょう。テレビ局が少しだけ丁寧に取材した程度のものを「密着取材」だの「独占取材」だのと言うのに似ています。
 商業的には何でも大げさな言葉を使え、という考えが広がっていますが、人々はそんな言葉に踊らされることはないでしょう。奥ゆかしい言葉遣いの方が人々の心をとらえることが多いということを心得た方がよいでしょう。

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2020年11月18日 (水)

ことばと生活と新聞と(271)

「映(ば)える」を何としても見出しに書きたいという気持ち


 こんな見出しの記事がありました。

 打倒コロナ 映える神戸牛 / 売り上げ9割減 付加価値で勝負 / たい焼き風生地でサンド / 南京町に持ち帰り専門店
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月6日・朝刊、「神戸」版、14版、19ページ、見出し)

 「映える」は「はえる」と読みたいと思いますが、それでよいのでしょうね。記事にはこんなことが書かれていました。

 テイクアウトのメニューには、おかず系具材をはさんだ「甘じょっぱ系」や、新鮮な果物やあんこなどを詰めた「スイーツ系」がある。かわいい牛の形をした生地と色鮮やかな具材で写真映えを狙う。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月6日・朝刊、「神戸」版、14版、19ページ、橋本佳奈)

 「写真映え」は連濁によって「しゃしんばえ」と読みます。流行語と関係はありません。したがって、見出しは「はえる」と読みました。
 さて、別の記事です。夕刊1面がニュースではなく、読み物になっているのですが、こんな見出しでした。スマートフォンのカメラ機能の先駆けとなったカメラ付き携帯電話が開発されてから20年になるという記事です。

 写メ誕生20年 映えるまで / 若者文化に着目 最初は「ドット絵」 / サービス発展 社会経済に影響
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月28日・夕刊、3版、1ページ、見出し)

 このページのトップ見出しの「映えるまで」の「映」という文字の隣には「ば」という振り仮名が書かれていました。記事にはこんなことが書かれていました。

 10年には写真共有サイト「インスタグラム」がサービスを開始。写真に「映える」かどうかが、モノやサービスの売れ行きを左右するまでになった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月28日・夕刊、3版、1ページ、森田岳穂)

 記事の中でも「映」に「ば」という振り仮名が書かれていました。記事の中で「映(ば)える」という言葉が使われているのは、この1カ所だけです。
 新聞は、ことほど左様に、流行語を追い、それを大きな文字で見出しにしたがっているようです。
 言葉を研究する人の中には、何年何月何日の紙面にはじめて「ばえる」が載った、などと言う人がいますから、こんな紙面づくりもしなければならないのでしょうね。「ばえる」などという言葉の生命力は、長持ちするとは思えませんが…。

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2020年11月17日 (火)

ことばと生活と新聞と(270)

無限に広がる「〇〇活」「〇〇ハラ」


 この連載の(260)回で、文化庁の国語世論調査のことを書きました。引用した記事の中には、〈近年よく聞かれる「〇〇活」、「〇〇ハラ」という新しい表現についても調べている。いずれも5割以上の人が「自分は使う」としており、浸透していることが明らかになった。〉と書いてあります。
 誤解してはいけません。「自分は使う」という意味は、いくつかの「〇〇活」や「〇〇ハラ」という言葉を知って、使っているに過ぎないのです。「〇〇活」や「〇〇ハラ」の使い方が無限に広がっているのではありません。一般の人たちは、さまざまな言葉を組み合わせて「〇〇活」や「〇〇ハラ」という言葉を自作しているのではありません。新聞や放送で使う言い方を覚えて使っているのですから、「〇〇活」や「〇〇ハラ」として使う言い回しは限られたものに過ぎません。
 ところが新聞は誤解して、どんな「〇〇活」「〇〇ハラ」を使ってよいと誤解しているのです。まるで自分たちが言葉の先駆者であるかのような思い違いをしているようです。
 「〇〇活」にこんな例がありました。〈「ラン活」 ネットでも安心サービス〉という見出しの記事の本文を引用します。

 小学校の入学を控えた子どもにあったランドセルを探す「ラン活」。今年はコロナ禍で影響を受けた家族も多かったようだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月5日・朝刊、14版、8ページ、「新型コロナ 揺れる経済」、神山純一)

 「〇〇ハラ」にこんな例がありました。〈「リモハラ」へ武器 どう使う〉という見出しの記事の本文を引用します。

 コロナ禍が本書への共感を広げる。リモートワークが普及した結果、威圧的な態度や、仕事の「むちゃ振り」など「リモハラ」が顕在化している。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月7日・朝刊、13版、21ページ、「売れてる本」、常見陽平)

 活動に関するものは何であれ「〇〇活」と言ってしまえ、ハラスメントに関するものは何であれ「〇〇ハラ」と言ってしまえ、と考えていたら、とどまるところがありません。新聞がそんな姿勢を示してよいとは思いませんが、新聞には、まったく制御する姿勢が見られません。校閲の担当者は見て見ぬふりを続けているのでしょう。新聞が日本語のあるべき姿を導いているというような気持ちは皆無なのでしょうか。
 読者の中には、新聞が使っているのだから公認された言葉遣いだと思う人も多いことでしょう。NIEを通じて、若い人たちにも悪影響を及ぼしているのです。

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2020年11月16日 (月)

ことばと生活と新聞と(269)

「~」と「から」


 新聞記事は、たとえ1字でも少なくしようという努力が重ねられているように思います。そのために、無理な省略語が多用されたり、記号が使われたりしています。時には、当然必要だと思われる言葉が省略されたりしています。
 誤解が生じなかったり、言葉の品位が保たれておればよいのですが、問題を感じることもあります。
 簡単な内容の文章を引用します。

 透明な画面を窓の前に設置し、映像も景色も楽しめる自動運転車が21日、大阪府吹田市の万博記念公園で公開された。23日から11月16日の金~月曜に走る。
 定員11人のバスを改造し、画面を挟んで最大5人が座る形に。50年前の大阪万博や園内の日本庭園を紹介する映像を流しながら、20~30分で回る。無料。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月22日・朝刊、14版、30ページ、「青鉛筆」)

 気になるのは、「23日から11月16日の金~月曜に走る」という表現の、「23日から」に対応する「11月16日まで」の「まで」が表記されていないことです。「から……まで」の「まで」は省略してよいという社内の取り決めがあるのでしょうか。それとも、社会では「まで」を省略する習慣が成立していると考えているのでしょうか。「まで」の省略は、紙面でかなり広く行われているように感じています。
 また、「金~月曜に走る」と「20~30分で回る」の「~」は、文章を口に出して読むときはどう発音すればよいのでしょうか。
 例えば「売価は1500円~」と表記される場合は「1500円から」と読むのが普通で、「1500円以上」と読むこともあるかもしれません。
「金~月曜に走る」は、「金曜から月曜まで」と読まないと誤解されるでしょうが、その場合は「~」を、「から……まで」と2度、読むことになるのでしょうか。「20~30分で回る」は「20分以上、30分以内」という意味でしょう。読み方は、「20分ないし30分」または「20分以上、30分以内」と読まないと、誤解が生じるでしょう。
 目で読む限りは、誤解が生じることはない文章ですが、新聞記事は、口に出して読まれることを想定しないで、文章が書かれているのでしょうか。
 このような表記法に関して、新聞社の考えが述べられているものを読んだ記憶がありません。言葉に対する新聞社の方針説明は、しなければならない必須の義務であると思います。

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2020年11月15日 (日)

ことばと生活と新聞と(268)

文字が「目」のものになっていく


 どこの国の言葉であっても、言葉は文字のない世界で生まれ、のちに文字が考案されました。口で話し、耳で聞くのが言葉でした。今では文字で書かれた言葉を朗読することが少なくなりました。
 文字は目で読むものという意識が強くなりました。耳で聞いたら区別のつかない言葉であっても、目で見たら区別がつけばよい、というような考え方も強くなりました。新聞やテレビの世界でそれが増幅しているようです。
 こんな記事がありました。

 今回は衣小に注目したい。ちなみに衣装でなく〝衣小〟と表記するのは、貴金属類、カバン、靴、眼鏡など小道具も衣装の一部と捉えて表される造語だ。そんな衣小を決めるのは、「衣小合わせ」と呼ばれる撮影前の重要行事。単に試着や採寸をするだけでなく、衣小を通して、キャストとスタッフが一枚岩となって役柄のイメージを作り上げ、役に命が吹き込まれる始まりの場である。 …(中略)…
 そんな七人を彩る個性豊かな〝衣小〟にもぜひ注目してほしい。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月13日・朝刊、14版、25ページ、「撮影5分前」、浜田壮瑛)

 「こだわり抜いた〝衣小〟」という見出しがついていました。一見しただけで意味が理解できた人は皆無に等しいでしょう。
 この記事を書いたのはテレビ朝日のプロデューサーです。「衣小」という文字遣いが特定のテレビ局で使われているのか、どのテレビ局にも広がっているのかは知りません。たとえそれが、どちらであっても、こんな稚拙な文字遣いを公にしてほしくはありません。わざと「衣装合わせ」という言葉と同じ発音をして、狭い世界で得意になっているだけのことでしょう。
 仲間内の言葉遣い、文字遣いをすることはいっこうにかまいません。それによって仕事の能率が上がるということもあるでしょう。けれども、そんなものを広く一般向けに知らせてほしいとは思いません。「私たちはそれを仲間内で〝衣小〟と呼んでいます」というような、謙遜した言葉遣いならかまいません。「個性豊かな〝衣小〟にもぜひ注目してほしい」と、堂々と発言されると、おかしな文字遣いを流布しないでほしいと言いたくなります。「街のB級言葉図鑑」の筆者なら、飛びつきたくなる文字遣いであるでしょうが…。

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2020年11月14日 (土)

ことばと生活と新聞と(267)

「総合的・俯瞰的」という言葉


 首相が交代して、唐突に持ち出された言葉が「総合的・俯瞰的」です。総合という言葉の意味、俯瞰という言葉の意味はよくわかりますが、そんな言葉が現れ出なければならない理由が理解できません。人をごまかすには便利な言葉ですが、政治は人をごまかすためにあるわけではないでしょう。
 こんな文章を読みましたので、引用します。

 総合的・俯瞰的。菅義偉首相が繰り返すその言葉は、どんな意味を持つのだろう。辞書を引くと、総合は個々別々のものをまとめることで、俯瞰は全体を上から見ること。なるほど木でなく森を見よ、ということか
 日本学術会議の会員候補から6人を除外したのは「総合的・俯瞰的な活動を確保する観点から」だと首相は説明する。6人はものごとの全体を見る力のない人たちだと言うに等しい。彼らの学問をどう吟味したら、そういう判断になるのか
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月13日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 日本学術会議の問題には強い憤りを感じます。言葉遣いに限って言っても、俯瞰とは高いところから見下ろして眺めることです。俯瞰という言葉は、見る人の位置を示しています。首相が偉そうに人々を見下ろしているという印象です。常用漢字に入っていない漢字を無理に使って悪い感じを与えるのは下手ややり方です。
 さて、コラムの文章です。「6人はものごとの全体を見る力のない人たちだと言うに等しい。」という表現は、間違っていないでしょうか。
 首相は210人の全委員を「総合的・俯瞰的」に見ると、全体として良いとは言えないから6人を外した、と言っているのではないでしょうか。6人の一人一人を「総合的・俯瞰的」に見て判断したと言っているのでしょうか。(もっとも、6人を外した名簿を見たのだという詭弁を弄していますが…。)
 何人かをまとめて人選するときに「総合的・俯瞰的」という言葉の使い方は、全体として眺めてみる、という意味であると思います。一人一人を「俯瞰的」に見るというようなことは言わないでしょう。一人の人間を「総合的に見て判定する」とは言いますが、「俯瞰的に見る」などと言うことはないでしょう。そんな思い上がったような言葉遣いをする人は、政治の世界にもいないように思いますが、政治の世界はそんな優しいものではないのかもしれませんね。
 「6人(の一人一人)はものごとの全体を見る力のない人たちだ」というのではなくて、「6人が加わったら、ものごと(会議)の全体があやしい方向に動きかねない」というのが首相の考えなのではないでしょうか。それにしても度量の狭い、学問の価値のわからない政治家であることには変わりはありません。

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2020年11月13日 (金)

ことばと生活と新聞と(266)

カギカッコの頻出する文章


 小さな子どもが書いた文章には、強調するためのカギカッコが多用されることがありますが、そんな文章は大人の書いたものにはありません。
 ところが、新聞記者の書いた文章にそれが現れたので、驚きました。17文字×52行の文章の中にこんなにしばしば使われていました。会話の引用のような部分を省いても、こんなにカギカッコが使われていました。部分部分を引用しますから、全体の文脈は取りにくいかもしれません。けれども、今回はカギカッコの使い方を話題にしていますから、その点は了解してください。

 首相の一挙手一投足を追う「総理番」として、7年8カ月余り続いた安倍政権の終わりを間近で取材した。 …(中略)…
 明らかな「おかしさ」を確信したのは、8月12日午後。広島への原爆投下後に降った「黒い雨」をめぐる訴訟で政府が控訴し、その理由を「ぶら下がり」で尋ねた時だった。 …(中略)…
 それまでもたびたびあった「はぐらかし」とは違い、質疑がまったくかみ合っていなかった。 …(中略)…
 取材メモには「2秒沈黙」など細かな状況を加えた。 …(中略)…
 森友・加計学園の問題などで政権批判にさらされた局面を、衆院解散とその後の総選挙の勝利で変えようとした2017年のように、内閣改造など何らかの手で「リセット」してくると考えていた。「まさか」を痛感した。
 安倍政権には功罪ともに多くの「遺産」がある。 …(中略)…
 安倍政権を「継承」した菅義偉首相は就任後、昼夜休日を問わず、精力的に動き回る。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月7日・夕刊、3版、6ページ、「取材考記」、楢崎貴司)

 上記の引用で、カギカッコを施すのが普通であると思われるのは「黒い雨」ぐらいでしょう。この文章には取材用語なども多用されていますが、業界用語を避けて一般的な書き方をしようというような姿勢が見られません。「総理番」「ぶら下がり」「2秒沈黙」などという言葉を平気で使っています。
 「おかしさ」「はぐらかし」「リセット」「まさか」「遺産」「継承」にカギカッコを付ける理由は理解できません。こんな文章を経験を積んだ記者が書くとは思えません。きっと年若い人が書いたのでしょう。ある特定の言葉や特定の部分を強調して述べたいときには、表現の仕方を工夫すればよいのです。カギカッコなどは子どもじみています。
 こういう文章は、朗読した場合、カギカッコの存在は感じられません。新聞の文章が朗読に適しないというのは大きな欠陥です。文章は目で読むためだけにあるのではありません。

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2020年11月12日 (木)

ことばと生活と新聞と(265)

内容が重複した記事


 新聞と言えども、人間が作るものですから間違いがあるのは当然のことでしょう。けれども、こんなことも起こるのかという、驚くようなことがありました。
 こんな訂正記事がありました。

 6日付金融情報面「経済気象台 虚偽情報が拡散する理由」は10月13日付で掲載したものと内容が重複していました。編集作業を誤り、確認も不十分でした。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月7日・朝刊、14版、32ページ、「訂正して、おわびします」)

 いえいえ、別に驚きませんよ。前日の夕刊に載せた記事と、ほとんど内容の異ならない記事を翌日の朝刊にも載せるということが横行しています。夕刊廃止の前提条件を作ろうとしているのだろうと思っていますから、夕刊廃止の日が来るまでそれを続けてください。 それにしても、同じ場所に載せる記事が重複していたなどということは、なかなか起こることではありませんから、貴重な例になりました。新聞社には校閲部があるのですが、校閲の機能が働いていないことが明らかになりました。社内の何人もの目がそれを見逃していたのです。外部から指摘されて、やっと気がついたということでしょうから、恥ずかしい限りです。校閲の不備については、私のこのブログでも指摘してきましたが、やっぱり校閲というのは形だけのものであったのだと納得しました。前回のブログに書いた「政治的方言」という言葉遣いも、校閲にあたったすべての人が見過ごしてしまったことなのでしょう。
 私がブログに書いたものは常に新聞社に知らせていますが、まったく返事はありません。新聞社の姿勢そのものが大きな問題をはらんでいるのです。一人一人の読者の言うことなどは無視せよという指示が、会社の上層部から出ており、記者はそれを忠実に守っているのだろうと思います。メールの宛先を、記事に署名されている記者本人あてにしても、返事を書く気持ちなど持ち合わせていないようです。
 さて、上の訂正記事と同じ11月7日の別の記事も、内容が重複しています。いろんな文章でしきりに話題になっている内容を、またもや読まされたという印象です。こんな文章です。

 ビルの壁面に、ACジャパンの大きな広告。白血病から復帰したサッカーJ2リーグの早川史哉選手が〈〔骨髄ドナーのおかげで〕僕は再びこの場所に戻ってこれた〉とドナー登録を呼びかけています。
 広告に力強さを与えているのは〈戻ってこれた〉の部分。教科書的には「こられた」となるところですが、会話体の「これた」のほうが選手の肉声という感じがします。
 「食べられる」を「食べれる」、「こられる」を「これる」と言うのは、いわゆる「ら抜きことば」です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月7日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 写真は最近に撮られたものでしょうが、記事として載せる値打ちはありません。「ら抜き言葉」はもう20年も30年も前から話題になっていたことです。陳腐限りない話題です。なぜこんな文章を載せるのでしょうか。校閲がきちんと行われていないような気がします。校閲をして、こんな記事を出すことを筆者に思いとどまらせることはできなかったのでしょうか。書き言葉としての「こられる」が話し言葉では「これる」になることは、しばしば起こっているのですが、話し言葉では「ら抜き」の方が多いと言えるのか、断言できないと思います。「ら抜き」で話したくないと考えている人たちも多いはずです。
 記事の中で使われている「教科書的」という言葉と「会話体」という言葉は、対になるものではありません。
 最近の「街のB級言葉図鑑」は、話題が底をついてきて、こんな話題でも書かなければならなくなってしまったのでしょうか。校閲部の「思いやり」から、このような批判は筆者に届かないようなしくみになっているのでしょうか。

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2020年11月11日 (水)

ことばと生活と新聞と(264)

方言の価値をおとしめる、悪意に満ちた表現


 私が小学生の頃、秋の運動会で「部落対抗リレー」というプログラムがありました。小学校の校区を地域別に分けて、選手を選んでリレー競技を行うものです。部落という言葉が被差別地域のことを指すなどということは小学生にはわからないことであり、教員にもそういう認識がない時代のことでした。部落は、地域という意味であって、日常で使う言葉でした。
 のちになって「部落」が同和教育で使われるようになってからは、この言葉を使うときは格段に留意をしたことはもちろんです。
 同じ言葉を使っても、その言葉をどのような認識のもとで使うかということによって、問題をはらんでくることがあります。差別用語というようなものでなくても、差別的意識や悪意を加えることは容易なのです。
 以下に述べることは「部落」のことではありません。「方言」という言葉の使い方についてです。もちろん「方言」は、差別に関わるような言葉ではありません。けれども、その言葉の使い方によって、ずいぶん差別意識を込めた使い方になることがあるのです。
 〈「政治的方言」に慣らされない〉という、大きな見出しの文章が、新聞社の編集委員の手によって書かれました。
 文章には、こんな表現が使われています。

 とりわけ近年は恥ずかしげもない作文棒読みがはびこって、国会議論は貧相にやせ細るばかりだ。
 そのような生気を欠いた、模倣的で陳腐な文体や言い回しを、英国の作家ジョージ・オーウェルは「政治的方言」と呼んでいた。演説者の喉から音は出ているが「自分で言葉を選んでいる時のような頭の働きがそこには加わっていない」と手厳しい(「政治と英語」から)。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月8日・朝刊、13版S、3ページ、「日曜に想う」、福島申二)

 今の首相の、原稿を棒読みする演説や、補佐する人から手渡されたメモを読む答弁には驚いてしまいます。情けないことと思っています。
 けれども、そのことと、上に引用した文章とは別個のものとして考えなければなりません。
 東京に住み日常的に東京語を使っている、偉い人からすれば、それぞれの地域の人たちが使っている「方言」などは、蔑むべき言葉なのでしょう。
 「生気を欠いた」、「模倣的で陳腐な文体や言い回し」であり、「自分で言葉を選んでいる時のような頭の働きがそこには加わっていない」ものが「政治的方言」であると言うのです。「政治的言葉」や「政治的共通語」ではなく、「政治的方言」と言うからには、「方言」という言葉に蔑んだ意味が込められていることは明確です。方言とは、そんなに軽蔑されなければならない言葉なのでしょうか。
 筆者は「方言」という言葉の使い方をジョージ・オーウェルのせいにして、堂々と「方言」という言葉を蔑んだ意味で使っているのです。
 ジョージ・オーウェル(1903年~1950年)の生きた時代や英国で「方言」という言葉がどのような意味で使われていたかという問題ではありません。そのまま、現在の日本社会の中で、「方言」という言葉を、こんな差別的な意味で使ってよいのかという問題なのです。
 私はジョージ・オーウェルを批判しているのではありません。その言葉をうまく引用しながら、地域の言葉(方言)をこき下ろした見方で貫いている筆者(新聞社の編集委員)に大きな問題を感じているのです。
 私は、地域の方言に興味・関心を持って、その記録と継承に取り組んでいます。そんな私からすれば、方言のことを、これほどまでに悪意を込めて、差別的認識に満ちた言葉遣いをする人に、はじめて出会ったように思います。
 私は言葉についてブログに書き綴っています。ブログに書いた文章は、これまで何回も新聞社に送り続けましたが、新聞社の姿勢は一貫して「無視」でした。今回も同様のことになるかもしれません。
 それでも私はいつもの通り、ブログに書いた文章を新聞社に送ります。例によって例の通り、私の文章などは無視するかもしれませんが、この問題に関しては、新聞社がどのように対応したかについて、このブログで報告します。「何の反応もなかった」という報告になるかもしれませんが、そういうことになるのならば、そういう実際の姿をそのまま報告するつもりです。

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2020年11月10日 (火)

ことばと生活と新聞と(263)

「勝ちきる」とはどうすること?


 「坂道を上りきる」とは、途中であきらめることなく最終的な地点まで上り詰めるということです。「困りきっている」とは、それ以上の状態は考えられないほどの段階にあるという意味です。「相手を信じきる」とは、きっぱりとそういう状態になるということです。これらの事柄は、自分ひとりに関わることを述べる場合に使われるように思います。
 スポーツに関することで言うと、「全力を出しきる」というような言い方はよく耳にします。これも自分(複数の人たちの場合もあります)の立場を表現しています。ところで「勝ちきる」というのはどういう状況を言うのでしょうか。相手との優劣を競う場合の使い方です。
 ひとつの試合の中で、劣性を示すこともなく、始めから終わりまで優位な位置を示すことを表しているとも思いますが、劣性であったものがそれを跳ね返して最終的に勝つことも表すように思います。
 ひとつの試合でも言えそうですし、シリーズとなっている試合でも言えるようです。「勝ちきる」という言葉だけでは、具体的な状況を読み取ることは難しいように思うのです。こんな見出しの記事がありました。

 桐生、勝ちきったのは大きい
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月4日・朝刊、14版、15ページ、「朝原宣治の目」)

 100メートル競走は瞬時に勝敗の決着がつきます。本文では、「日本記録保持者のサニブラウン・ハキームが欠場したとはいえ、桐生祥秀にとって勝ちきったことが大きい。」という1カ所だけに「勝ちきる」が使われています。本文から判断すると、どうやら、10秒27という優勝タイムの始めから終わりまで、優勢を保ったということを「勝ちきる」と表現しているように思われます。
 けれども、「最後まで戦いきって敗れた」という言い方はあるにしても、「勝ちきった」という言い方は、なんとなく耳慣れない言い方です。「勝つ」と「勝ちきる」にどんな違いがあるのかということを考えると、勝者を称える気持ちがこんな言い方を生み出したのかと思われてくるのです。

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2020年11月 9日 (月)

ことばと生活と新聞と(262)

「量」と「分量」は同じ意味か


 こんな記事がありました。「分量」という言葉が使われています。

 和牛やホタテ、増量してお届けします-。新型コロナウイルス禍で売り上げが落ち込む特産品の販売を支援する農林水産省の事業を活用し、ふるさと納税で通常は認められない分量の返礼を贈るキャンペーンが波紋を広げている。
 (神戸新聞、2020年9月10日・夕刊、4版、5ページ)

 特別な言葉ではなく、「分量」という言葉が目につきました。このような記事の場合、たいていは「量」という言葉が使われていると思いますから、「分量」に注目したのです。「分量」という言葉は、「量」という言葉に置き換えてもよいのでしょうか。「分量」には、「量」と違う意味があるのでしょうか。
 日常生活では「分量」という言葉を使うことが多いのですが、書き言葉では目にすることが少ないように思うのです。日常生活で使うことが多いのは、「りょうを増やす」などと言うよりも「ぶんりょうを増やす」と言う方が、耳で聞いてわかりやすいように思うのです。
 「分量」を、例えば『三省堂国語辞典・第5版』は、次のように説明しています。

 ①多い少ないの程度。量。「仕事の - 」
 ②目方。「 - をはかる」

 この説明では、①は「量」と同じ意味ととらえているようです。②は目方(重量)に限定しているようですが、もともとは、この意味で使われていたのでしょうか。
 私の感じていることを申します。「分量」はやはり「分」という文字に引かれますから、全体量のことを「分量」と言うことは少ないと思います。「今年の米の収穫量」のような場合は「量」であって「分量」という印象はありません。
 「バケツの水の分量」とは言っても、「淀川の水の分量」とは言いにくいと思います。「書斎の蔵書の量」とは言っても「分量」は使いにくいと思います。仕事の負担について言う場合も「会社全体の仕事量」、「個人の仕事の分量」と言い分けたいと思うのです。全体の量を任意に分割できるものが「分量」のように思われるのです。
 要するに、「量」はどのような場合にでも使えますが、「分量」を使うとまずいと感じられる場合もありますから、新聞記事などでは無難に「量」を使う度合いが増えているのでしょう。引用した記事の「分量」の使い方は、おかしいわけではありません。

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2020年11月 8日 (日)

ことばと生活と新聞と(261)

国語を「乱しほ」にしてはいけない


 ごくわずかの例をもとにして、まるでそれが社会全体の流れであるかのような紹介の仕方をし続けている連載記事があります。それが毎週のように繰り返されています。これも、その一つです。

 もんじゃ焼きの店の立て看板。〈「飲みほ」単品 ¥1,800〉とあります。「飲み放題」のことですね。「放題」を「ほ」と略すようになったのは、わりあい最近です。 …(中略)…
 「飲みほ」や「食べほ」(=食べ放題)は、今世紀になって広まった言い方です。 …(中略)…
 現在、「放題」を「ほ」と略す例としては、ほかに「総菜取りほ」「クッキー詰めほ」などがあります。飲食関係で多いですね。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月12日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「飲みほ」や「食べほ」が広まったとしても、それは街角での言い方に過ぎません。商売上の、客寄せ言葉のようです。しかも、全国の人々に広まっているとは思われません。記事の見出しには、「仮名1文字で特別の意味」と書いてありますが、「ほ」1文字では意味を持ちません。「飲み」「食べ」「取り」「詰め」など、人間の欲望を表すような動詞と結びついて意味が生じてくる、醜い使い方なのです。
 「街のB級言葉図鑑」の連載をはじめ、この筆者が書いている文章には、その現象が望ましいか否かの判断基準がありません。自分が見つけたから、人々に言いふらしてやろうという気持ちしか感じられません。
 国語辞典編纂者として言葉のありのままの姿を見つめることは大切なことです。けれども、世の中に定着していない言葉を、あちらこちらの連載や本に書き散らし続けていくのは望ましいことではありません。
 かつて見坊豪紀さんが精魂込めて集められた言葉のコレクションとは、性格が異なります。「街のB級言葉図鑑」はちょっと見かけたら、それを話題にして好き勝手なことを書き綴っています。国語の乱れをますます拡散させようとするような書き方です。
 この人の文章は、まるで国語を「乱しほ」にしているとしか言いようがありません。

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2020年11月 7日 (土)

ことばと生活と新聞と(260)

成り行きまかせの「言葉の変化」


 前回の続きです。文化庁の国語世論調査の結果は、年に1回の話題として、新聞は取りあげます。気になるのは、新聞はどのような姿勢でこの話題を報道しているのかということです。1面の報道と同じ日に、社会面にも記事が載りましたが、その見出しは次のようになっていました。

 〇〇活 〇〇ハラ 「使う」5割超 / 「ガン見」のガンは… 「気になる」4割
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月26日・朝刊、14版、38ページ、見出し)

 数値が最大の関心事であるようです。そして、その数字で、新しい表現も、誤用である言葉遣いも、肯定的にとらえようとする姿勢です。記事の文章を引用します。

 文化庁が25日に発表した「国語に関する世論調査」は、近年よく聞かれる「〇〇活」、「〇〇ハラ」という新しい表現についても調べている。いずれも5割以上の人が「自分は使う」としており、浸透していることが明らかになった。 …(中略)…
 「手をこまねく」「敷居が高い」については、本来の意味を選ぶ人が2008年度の調査より減った。
 文化庁国語課の担当者は「この調査は政策に生かすだけでなく、年に1度、家庭などで言葉について考えたり話したりしてもらう機会になることも意識している。コミュニケーションをうまく進めるためにも言葉が変化している状況を認識してもらえれば」と話す。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月26日・朝刊、14版、38ページ、丸山ひかり)

 記者は、%で表される調査結果の数字に大きな関心を持っているようです。そして、言葉の略し方や、意味・用法の誤用などについても、数値が高くなればそれを認めようという姿勢で記事が書かれているように思われます。社会に浸透すれば、誤用であれ望ましくない使い方であれ、それを認めようという考えならば、新聞のリーダーシップなどは消え失せてしまいます。そういう考えであるのなら、世論調査などは不必要であり、言葉の変化はなるがままに任せておけばよいのです。
「〇〇活」、「〇〇ハラ」という表現を5割以上の人が「自分は使う」と言っているにしても、それは自分でそんな言葉を作って使っているのではありません。新聞などがやたら「〇〇活」、「〇〇ハラ」などを使っているのが伝染したのです。みなもとは報道機関です。こんな表現を広げたのは新聞社などであることには、目をつぶった報道姿勢です。他人事のような報道です。
 文化庁国語課の担当者のコメントとして書かれている「この調査は政策に生かすだけでなく」という言葉の意味がわかりません。世論調査が国語政策にどのように生かされたのか、そんな報道は見た記憶がありません。調査が政策にどう生かされたのかについては、きちんと取材して記事を書いてほしいと思います。
 記事を書く際にコメントを聞いたのが、国語辞典編纂者の飯間浩明さんというのは気になります。自社の紙面に連載記事を書いている人に、意見を聞いて、それを記事に散りばめるというのは、あまりにも手軽な取材姿勢です。毎週の連載記事を読めば、この人の国語に対する考えは自明です。連載の気軽な文章が気になっています。もっともっとさまざまな人の意見に耳を傾けるべきです。

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2020年11月 6日 (金)

ことばと生活と新聞と(259)

「乱れてなくない」という言葉こそ乱れている


 2019年度の「国語に関する世論調査」の結果が発表されました。それを報じる記事の見出しを引用します。

 国語 乱れてなくない? / 乱れ感じない人 20年前より20ポイント増 文化庁調査 / SNS普及 多様な表現影響か
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月26日・朝刊、14版、1ページ、見出し)

 記事から引用します。

 「ふだんの生活の中で接している言葉から考えて、今の国語は乱れていると思いますか。それとも乱れていないと思いますか」との質問に、「非常に乱れていると思う」と「ある程度乱れていると思う」を選んだ人は計66.1%。乱れていると思う点を複数回答で聞くと、「敬語の使い方」と「若者言葉」がそれぞれ6割を超え、「新語・流行語の多用」「挨拶言葉」がそれぞれ3割を超えた。 …(中略)…
 文化庁は1995年度から毎年、調査を実施。この質問は99年度調査から5度聞いており、「乱れている」は99年度から約20ポイント減り、「乱れていない」も約20ポイント増えた。同庁国語課は「スマートフォンやSNSの普及で人々が文章を発信する機会が増え、多様な表現に触れやすくなった。辞書などで本来の意味とされるものと違うと思っても寛容に受け止める人が増えつつあるのでは」とみる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月26日・朝刊、14版、1ページ、丸山ひかり)

 文化庁国語課のコメントのうち、「辞書などで本来の意味とされるものと違うと思っても寛容に受け止める人が増えつつある」ということに注目したいと思います。「本来の意味とされるものと違う」ものとは、自分が書く言葉ではなく、他人が書いた言葉で目に入ったもののことであるはずです。それは、どんなものでしょうか。
 個人同士のやりとりで使われる言葉ではなく、新聞やテレビなどから伝わってくる言葉のはずです。私がこの連載コラムで取りあげているのは、新聞などに書かれた言葉で「本来とは違う」言葉やその用法の例です。
 一般の人から見れば、「本来の意味とされるものと違う」言葉遣いを新聞などがしているのを見て、違和感を覚えつつも、そんな使い方をしてもよいのだろうという気持ちが、しだいに強くなっていっているのです。そして、新聞などの言葉遣いを「乱れ」と感じないで、「変化」と感じているのです。現今は、新聞の言葉の乱れが顕著になっているのです。
 例えば、この記事の見出し「国語 乱れてなくない?」というような言い方は、本来の正しい表現ではありませんから、新聞がそんな表現を率先して使ってはいけません。新聞は、人々に正しい日本語をきちんと示す姿勢を堅持しなければなりません。
 言葉は時代の流れとともに変化をしていきます。それは当然のことです。けれども新聞は、言葉の変化の先頭を走る必要はありません。言葉の変化の先頭を新聞が走れば、言葉の乱れを振りまいているということになりかねません。

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2020年11月 5日 (木)

ことばと生活と新聞と(258)

ほんとうに教育の中身を考えている文章であるか


 教育ジャーナリストと名乗る人の文章を読みました。大新聞がどうしてこのような文章を掲載するのか、理解に苦しみます。こんな文章です。

 コロナ禍で学校行事が軒並み延期や中止あるいは縮小開催となるなかで、どうやって学校選びをすればいいのかという相談をよく受けます。これは大問題だと私も感じますし、相談を受けるたびに答えに窮しました。 …(中略)…
 中学受験の過熱のせいでむしろ近年、文化祭や体育祭が、学校を知る機会として過大な役割を担わされてしまっていたと私は思います。 …(中略)…
 不安な受験生親子を励ましたいと思うなら、学校はその物語こそを学校説明会やホームページ上で積極的に発信すべきです。学校がどこを向いて意思決定しているかが、そこからわかるはずです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月3日・朝刊、13版S、27ページ、「塾が教えない中学受験必笑法16」、おおたとしまさ)

 塾が教えないが、教育ジャーナリストが教える、という意味を込めたタイトルです。一見したところ、いかにも正当な論理を展開しているように見えます。けれども、連載している文章は、私立中学校(および一部の国立大学付属校)の受験を勧める意図で書かれています。宣伝の文章に過ぎません。
 筆者は、学校に勤めて教育に従事したことがあるのだろうかと疑問を持ちます。学校に勤めたことがあるのなら、学校行事が誰のために行われるものであるかがわかっています。こんな話題を書く必要はないと思います。筆者が学校に勤めたことがないのなら、こんな話題で文章を書いて原稿料を得る仕事をしていても不思議ではありません。どちらにしても、新聞社がこのような文章を載せる気持ちになったことは大きな問題です。全体の中学生の数からすればほんの一握りの私立中学校受験生に向けて、学校選びの方策を丁寧に伝授するような記事などはまったく不必要です。私立校と手を結んだ記事であることは間違いないでしょう。
 学校行事だけを見てその学校を受験させようと考えるような親が、本当にいるのでしょうか。そういう親がいるということを前面に出して、この文章は成り立っているのです。親を〈教育に対する知識のない者〉と見なして文章を書いているようにも思えます。親たちをあなどってはいけません。
 塾や模試などという受験産業というものがあることはわかります。けれども公教育である私立中学校までもを、生徒をかき集める受験産業と見なすことを前提にして、この文章は成り立っているのです。

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2020年11月 4日 (水)

ことばと生活と新聞と(257)

「廃番」は日常生活で使われるようになるか


既に発売しているレコードの製造をとりやめるという意味で使う言葉に「廃盤」があります。そのようになったレコードのことも「廃盤」と言います。レコード自体が既に製造をやめていますから、CDのことについても「廃盤」という言葉を使うのかも知れません。
 ところで、「廃番」という言葉を見ました。「廃盤」に引かれて、類した意味を表す言葉として使われたのでしょう。こんな文脈でした。

 鳥の糞の付いた自転車をわざわざ選んで盗もうと考える人はいないはず--。そんな発想から生まれた盗難防止グッズ「鳥のうんちシール」が「ヴィレッジヴァンガード」(名古屋市)のオンラインストアで販売されている。
 3枚入りで1430円のこのシール。実は5年前にも発売しており、その復刻版にあたる。 …(中略)…
 「思い入れのあった商品だったので、廃番になった後で個人でクラウドファンディングで資金調達して作ったんです」ともときさん。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月30日・夕刊、3版、6ページ、「朝デジから」、若松真平)

 商品番号が付されているのかどうかわかりませんが、商品の製造をとりやめることを「廃番」と言っているようです。
 この言葉を、「廃盤」に引かれた誤用と考えるか、「廃盤」から拡大して用いられるようになった言葉と見るかは、しばらくすれば方向が明らかになるでしょう。「廃番」が定着するかどうかが判断の鍵です。
 国語辞典の編纂者は、カタカナ外来語に血眼になったり、街角の言葉の誤用を大げさに取りあげたりすることよりも、こういう言葉の動向を見つめることの方がうんと大事なことであると思います。

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2020年11月 3日 (火)

ことばと生活と新聞と(256)

言葉について書かれた「天声人語」


 「天声人語」は論文ではありませんから、心に思うままのことを書いてもよいのでしょう。けれども、何百万という人が読むのですから、個人的な判断ではどうかとも思います。9月末の連続した日のコラムの、それぞれ冒頭の部分を引用します。

 相撲は秋の季語だと最近知った。各地の神社などで行われる宮相撲、草相撲は、秋祭りに催されることが多いのだという。〈少年の尻輝けり草相撲〉金澤諒和。地域の若者たちのたくましくも、まぶしい姿が浮かんでくる
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月28日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 「全然大丈夫」という言葉を初めて耳にしたのは20年ほど前だったか。その衝撃を今も覚えている。え、全然は「全然知らない」など否定形につく言葉じゃないの。日本語の乱れここに極まれり。でも肯定で使ってみると面白みも感じた
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月29日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 秋という言葉の由来には、様々な説がある。草木の葉が「紅く」なるからで、アカがアキに転じた。穀物をたくさん収穫し「飽き足る」から。刈り取られた田が「空き」になるから。きのう、収穫を待つかのように色づく稲穂を見た
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月30日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 28日の文章。「各地の神社などで行われる宮相撲、草相撲は、秋祭りに催されることが多いのだという」の文は、一見すると、相撲が秋の季語になっている理由を書いているように見えます。秋の季語になっているのは、宮中で旧暦7月(秋)に相撲節会(すまいのせちえ)が行われたことに由来しています。同じ頃に、農耕儀礼として神前で相撲をとって豊作かどうかを占ったことにもよります。誤解が生じやすい文章の書き方になっています。
 29日の文章。「全然」という言葉について、こういう書き方をしている文章はずいぶんたくさんあります。「天声人語」の文章としては、陳腐な感じが漂います。それより後ろの段落に書かれていることも同様で、既に読んだことのある内容を再び読んでいるという印象です。
 30日の文章。言葉の語源はなかなか難しい問題ですが、ここに書かれているのはいわゆる〈民間語源説〉のようです。説がたくさんあるから安心できるのではありません。語源と信じてもよい理由付けがなくてはなりません。はっきり断言できないものを紹介するのは、ちょっと罪作りです。大野晋さんの『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)では語源未詳としています。

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2020年11月 2日 (月)

ことばと生活と新聞と(255)

「言及」とはどうすることか


 日産自動車のカルロス・ゴーン元会長をめぐる事件の裁判が東京地裁で始まったというニュース記事で、気になる表現がありました。まず、記事から引用します。

 続いて行われた検察側の冒頭陳述では、「主犯の罪」を明らかにしようとする検察の意思がにじんだ。「ゴーンの主導の下……」「ゴーンから指示され……」。検察官がゴーン元会長の名前を約260回読み上げたのに対し、ケリー元役員は約80回。ケリー元役員は時折メモを取りながら静かに耳を傾けた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月16日・朝刊、14版、31ページ、三浦淳・酒本友紀子)

 ゴーンという名前を読み上げた回数が多かったので、それを見出しにしたいと考えたのでしょう。記事には「言及」という言葉は使われていませんが、見出しに「言及」が現れています。

 検察、「ゴーン」言及260回 / 元側近公判で 元会長の罪問う
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月16日・朝刊、14版、31ページ、見出し)

 記事では「読み上げた」と書いていますが、読み上げたことを、見出しでは「言及」と書いているのです。「読み上げる」と「言及」は同じ意味でしょうか。
 「言及」の意味について、例えば、『明鏡国語辞典』は、〈話題がある事柄に及ぶこと。〉と説明し、『三省堂国語辞典・第5版』は、〈話しているうちに、その話題にふれること。話の中で取りあげること。〉と説明しています。
 極端な言い方をすれば、その単語が現れたら(すなわち、読み上げられたら)、「言及」したことになるのでしょうか。そうではなくて、何らかの脈絡の中で、判断や主張が述べられてはじめて「言及」したことになるのだと思います。
 実は一般の国語辞典よりも、子ども向け辞典の方が、納得しやすい説明を書いています。『チャレンジ小学国語辞典・第4版』は、〈話を進めて、あることについても意見や考えを述べること。〉と記していますが、これこそが的確な説明だと思います。
 この日の裁判では、260項目にわたる「言及」(主張)がなされたわけではなく、ゴーンという名前が260回読み上げられただけでしょう。主張は何項目かにまとめることはできるでしょうが、260に及ぶはずはありません。
 私はこのブログで何度も指摘しているのですが、見出しの言葉を短くしようとするために、言葉の意味の逸脱行為を行っているのです。
 新聞の見出しは、もっと言葉数を増やしましょう。短くすることによって、おかしな日本語が氾濫しているのです。旧態依然とした新聞見出しをやめて、もっと伸び伸びした表現をしてください。見出しのスペースを拡大することなどは、簡単にできるはずです。

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2020年11月 1日 (日)

ことばと生活と新聞と(254)

「型崩れした見出し」の横行


 世間は、と言いましょうか、新聞やテレビは、と言いましょうか、Go To支援事業で盛り上がっているようですが、何一つGo Toは利用しておりません。税金を使っての事業ですが、効果があるのでしょうか。
 こんな見出しの記事がありました。

 Go To効果 なお不安 / 日銀短観 / 宿泊・飲食 小幅な回復
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月2日・朝刊、13版S◎、3ページ、見出し)

 「Go To効果 なお不安」という言葉の意味が曖昧です。どういう意味なのでしょうか。2通りに取れるように思います。
 ①Go To事業は効果があったが、(効果は上がっても、) 景気回復などには不安が残っている。
 ②Go To事業の効果を判断すると、(効果は上がっておらず、) 景気回復には不安が残り続けている。
 この2つの意味のうち、どちらなのでしょうか。
 この記事は、日本銀行の9月短観が、6月調査から改善したというニュースですが、「Go To」という言葉が使われているのは、次の2カ所だけです。

 1日には、旅行代金の半額が補助される政府の観光支援事業「Go Toトラベル」に東京都発着が加わり、都外からの客数増が見込まれる。とはいえ、感染防止対策で入場者数を以前の2~3割に抑えざるを得ず、コロナ禍以前とはほど遠い状態が続く。 …(中略)…
 蒸発した需要を取り戻そうと躍起になる政府は今月以降、消費喚起策「Go Toキャンペーン」を拡大させる。飲食店を支援する「イート」では、グルメサイトで予約した人に、次回以降に使えるポイントを還元する事業を1日に開始。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月2日・朝刊、13版S◎、3ページ、友田雄大・高木真也・佐藤亜季)

 上の①②のどちらの意味かは、本文を読んでも判断は難しいと思います。「Go To」の効果があろうとなかろうと、不安がいっぱいだと言いたいのかもしれません。それなら、こんな見出しではなく、別の書き方があったはずです。
 その記事の前日(10月1日)のコラムに、「型崩れした見出しに危惧」という文章がありました。こんなことが書かれています。

 これらの見出しの問題は、いわゆる「てにをは」の基本がなっていない、ということだ。「言語に精通する」とか「日本語力を高める」などと言われるとき、それは得てして、語彙を増やすことや、単語の意味をより深く理解することを指している。しかし、重要なのは語彙だけではない。単語の並べ方、助詞や接続詞の使い方、読点の打ち方など、言葉同士を結びつける様々な技法も、言語を形作る本質的な要素なのである。
 マスメディアは、言葉を武器に公権力とも対峙すべき機関だ。にもかかわらず、報道の場で、型崩れした言葉がこれほどの頻度で用いられていることには危惧の念を抱かざるをえない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月1日・朝刊、13版S、26ページ、「古田徹也の 言葉と生きる」)

 このコラムで述べられていることにはまったく同感します。けれども新聞社は、ひとつひとつの意見は完全に無視して、自分が正しいと思っているようです。私は、このブログの文章をメールで新聞社に送り続けていますが、指摘している内容に対する回答をもらったことがありません。読者は新聞社に対峙できないのです。

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2020年10月31日 (土)

ことばと生活と新聞と(253)

「マイクロ」「極小(きょくしょう)」「極小(ごくしょう)」


 新聞の見出しは、一貫した方針のもとで言葉を選んでいるのではありません。文字数によって言葉を選んでいるということが多いようです。
 「極小ドローン 大活躍」という見出しの記事は、写真中心の紙面構成になっていますが、本文は「マイクロドローン」という言葉が使われています。「極小ドローン」という言葉が広く使われているか否かというようなことは考えずに、文字数で決めているのです。
 本文は、こんな文章です。

 手のひらに載るほど小さなドローン、「マイクロドローン」。その小ささを生かし、様々な分野での活用が始まっている。
 大阪メトロ(大阪市西区)では2月から、41駅のホームで壁面などコンクリート構造物をマイクロドローンを使い点検している。 …(中略)…
 マイクロドローンの導入で、足場も不要になり作業日数やコストの削減も期待できるうえ、一度に点検できる範囲も広がった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月30日・夕刊、3版、2ページ、「SCENE」、白井伸洋)

 ところで、「極小」という言葉は、どう読むのでしょうか。国語辞典に「きょくしょう」と「ごくしょう」が載っている(〇印)か、載っていない(×印)かを調べたところ、次のような結果でした。

『三省堂国語辞典・第5版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう 〇
『現代国語例解辞典・第2版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×
『広辞苑・第4版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×
『岩波国語辞典・第3版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×
『明鏡国語辞典』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×
『新明解国語辞典・第4版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×
『旺文社国語辞典・改訂新版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×

 このうち、『現代国語例解辞典・第2版』は、2項目のうちの前項を、次のように書いています。

 ①極めて小さいこと。ごくしょう。 ←→極大。

 「きょくしょう」「ごくしょう」の両方の読みを書いているのは『現代国語例解辞典・第2版』と『三省堂国語辞典・第5版』だけです。
 『三省堂国語辞典・第5版』から引用します。

 きょくしょう〔極小〕
  ①〔文〕きわめて小さいこと。
②〔数〕数量がだんだんへってきて、これからふえはじめる点。ミニマム。
 ごくしょう〔極小〕
  きわめて小さいこと。「 - 未熟児」

 「極小」の読みなどは、国語辞典で確かめずに適当に読む(黙読の場合は、読み方などに迷ったりしない)ことが多いと思います。
 対の語である「極大」も、「ごくだい」と読む人が増えていくのかもしれませんね。
 ところで、大阪メトロは大阪市内に路線網が広がっていますが、「大阪メトロ(大阪市西区)」という書き方は誤解を招くかも知れません。西区は本社所在地のことを言っているのでしょう。マイクロドローンで点検したのが西区内というわけではありません。

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2020年10月30日 (金)

ことばと生活と新聞と(252)

数字が枯渇するのか


 枯渇というのは、水が涸れるということや、物が尽きてなくなるということを表す言葉です。資源が枯渇する、というような使い方をします。数字や数値が枯渇する、とは言わないように思います。
 こんな文章がありました。

 先日、出勤中にアルファベットが交じったナンバーの車を見かけた。2年前から一般車にも使われるようになったことは知っていたが、見たのは初めてだ。
 導入理由は1998年に始まった希望ナンバー制度にある。一部のナンバーに人気が集中し、枯渇対策としてプレート右上の「分類番号」にアルファベットが導入された。 …(中略)…
 人気ナンバーは抽選対象で、「1」は数十倍の競争率になることも。「1122(いい夫婦)」などの語呂合わせも人気で、富士山周辺では標高と同じ「3776」への希望が多いなど地域性もあるという。
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年10月20日・夕刊、4版、8ページ、「キーボード」、上田友也)

 車のナンバーは文字や数字を使って表しますが、主体になっているのは数字です。数字4桁と仮名文字との組み合わせでは限界があるのは当然ですが、その限界に達することを「枯渇」と言うでしょうか。何でも熟語で表したいという気持ちはわからないでもありませんが、本来の日本語を使って表してもよいでしょう。あてることのできるナンバーが「少なくなった」とか「なくなった」ということでしょう。「枯渇」という文字から受ける印象は、気持ちのよいものではありません。
 もう一つ、別の問題があります。「導入理由は1998年に始まった希望ナンバー制度にある」ということは、希望ナンバー制度を導入しなかったら、こんなことにならなかったということですね。ということは、希望の少ない(あるいは、嫌われる)ナンバーは使っていないということでしょうか。
 もしそうであったら、美味しくないものや新鮮でないものを食べないで捨てている、どこかの国の食料事情と同じように思われます。食品ロスと同じように、数字も使わないで捨てているのでしょうか。手前勝手な国民性がこのまま続いてよいとは思えません。

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