2019年6月17日 (月)

言葉の移りゆき(422)

名詞に「る」「する」を付けて動詞にするやり方


新聞を読んでいると、次々に新しい言葉が出てきます。そんな言葉を理解できなければ、記事の内容がわからないということになります。
 外来語や名詞に「る」「する」を動詞にするという言い方が行われています。「サボる」や「パニクる」などに倣って、様々な言い方が広がっています。
 こんな記事を読みました。


 「空前絶後のディスり合戦開幕!」。話題の映画「翔んで埼玉」のうたい文句です。埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ、と東京都民から埼玉が過激にディスられる架空の設定ながら、なぜか地元で大ウケ。 …(中略)…
 「現代用語の基礎知識2019」によると、「ディスる」は「軽蔑する、けなす」の意で、英語の「disrespect(ディスリスペクト)」から。 …(中略)…
 いま風の造語法のようにもみえますが、辞書編集者の神永暁さんは「江戸時代に、すでにこのようなことば遊びに近い感覚で新語が作られている」と著書「悩ましい国語辞典」で解説、例として「ちゃづ(茶漬)る=茶漬けを食べる」などを挙げています。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月18日・朝刊、13版、13ページ、「ことばサプリ」、奈良岡勉)

 「ディスる」と「茶漬る」とを同類のようにする考えに賛成ではありません。「茶漬け」という言葉は日常的な言葉であり、誰でも知っている言葉です。そこから「茶漬る」という言葉が生まれても、理解は行き届くでしょう。「事故る」などという言葉も同じです。
 「ディスる」は「disrespect(ディスリスペクト)」から生まれたとしても、「茶漬る」の生まれ方とはまったく異なっています。「ディスリスペクト」は日常語になっておりませんし、その言葉の後半部をぶった切って、「る」をつけるというのは、一部の人の好みで作られた言葉に過ぎません。
 このような言葉が生まれることに対して、新聞が正当性を保証するような意見を述べると、ますます蔓延していって、歯止めが利かなくなるでしょう。
 新聞社は、言葉を短く使いたがっています。それは記事のためではなく、見出しを短い言葉で表すためです。それによって、新聞社は日本語をかき乱しているということに気づかなければなりませんが、「ディスる」などという言葉を見出しで使わないように願いたいと思います。

| | コメント (0)

2019年6月16日 (日)

言葉の移りゆき(421)

「そうだ」という助動詞の上接語

 作家の町屋良平さんを紹介する記事を読んでいて、おやっと思う表現に出くわしました。ちょっと違和感がありましたが、若い人たちの間では、こんな言い方も広がっているのでしょうか。
 様態を表す「そうだ」という助動詞への繋げ方のことです。


 昨夏の芥川賞の選考会で次点だった「しき」は、高校2年の男子が、曲に合わせてダンスする「踊ってみた」動画を投稿するまでの春夏秋冬を活写する青春小説。登場人物は、誰の目にも留まらなそうな高校生だ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月4日・朝刊、13版、24ページ、「亥のいちばん年男」、宮田裕介)

 この部分は町屋さんの発言ではなく、記者の書いている文章です。気になったのは、「留まらなそうな」という表現です。
 「そうな」(終止形は「そうだ」)という言葉は、動詞の連用形、形容詞の語幹、形容動詞の語幹に接続します。動詞に続く場合は「起こり・そうな・事件」、形容詞に続く場合は「面白・そうな・本」、形容動詞に続く場合は「元気・そうな・様子」というようになります。
 「留まら・な・そうな」という使い方はちょっと特殊です。打ち消しを表す助動詞「ない」を挟むからです。
 その場合の使い方は、例えば、「頼りなさそうな答弁」などの例からわかるように、「留まら・なさ・そうな」とするのが、これまでの表現だと思います。
 言葉の変化で最も速いのは語彙(単語)ですが、文法もゆっくりと変化をしています。新聞などで「留まらなそうな」という表現が多く見られるようになったら、人々の使い方も変わっていくことになるかもしれません。

| | コメント (0)

2019年6月15日 (土)

言葉の移りゆき(420)

関西の言葉の使い方


 方言は、それを実際に使っている人でないと、その機微に触れることができないというようなところがあります。例えば、次に引用する文章には間違いはありません。けれども、細かなところになると異議がないわけではありません。


 「何さらしとんねん」。きわめて乱暴な言いかたとして大阪が舞台の映画やドラマの中で耳にすることがある。使用地域は他の関西圏や、周辺の北陸、中国・四国まで広がっているが、実際の日常会話で使う機会はあまり多くないようである。
 この「さらす」、他人がすることを卑しめて言ったり、ののしって言う時に使う。また、「死にさらせ」などのように、動詞と組み合わせれば相手をさげすんだ言い方になる。共通語で言えば「死にやがれ」といったところだ。 …(中略)…
 「なんぬかしさらしてけつかるねん!」と言うと乱暴さもMAXに達するのである。
 (読売新聞・大阪本社発行、2017年4月14日・夕刊、3版、4ページ、「方言探偵団」、篠崎晃一)

 「さらす」という言葉は、他人がすることを卑しめて言う、ののしって言う、相手をさげすんで言う、という説明は間違っていません。けれども、「共通語で言えば『死にやがれ』といったところだ」という説明には納得できません。「死にさらせ」という言葉は、「死にやがれ」というよりは、「死んでしまいやがれ」というニュアンスです。冒頭に書かれている「何さらしとんねん」は、何をしてしまったのだという感じです。
 つまり「さらす」には、その動作が完了するというような意味合いも込められているように思われます。そのような意味が込められていますから、短い言葉を発するだけで、相手に言いたいことが伝わるのです。
 「なんぬかしさらしてけつかるねん!」という例文は、じょうずに作文されていると思いますが、実際にこのように言うことはないように思います。「なんぬかしさらすねん」や「なんぬかしてけつかるねん」とは言いますが、そのあたりが限度です。
 関西の言葉は簡潔を旨としています。「なんぬかしさらしてけつかるねん!」というほど長く言葉を重ねて言うほど、のんびりしていません。前回(419)でも話題にしたように、できるだけ短くて、わかりやすくて、相手の心に伝わるような言葉を使っているのです。

| | コメント (0)

2019年6月14日 (金)

言葉の移りゆき(419)

「大阪弁、言葉で人を触りにくる」に同感!


 言葉は、論理的に述べれば心に響くというわけではありません。整った表現をすれば賛同の気持ちを得られるわけでもありません。
 とりわけ、日常の言葉、つまり話し言葉に近いようなものは、人の心と心をつなぐ働きを考えることが大切です。
 次の文章はコラムの全文引用です。文章の末尾が「大阪弁、言葉で人を触りにくる。」と締めくくられています。まったく同感です。


 「かみます」  動物園の立て札
 大阪圏の動物園では猛獣の檻の前にこんな立て札があるそうだ。そういえば大阪府警の痴漢防止ポスターは「チカンアカン」。いずれもとにかくストレート。ただ、「おっちゃん、いてるか」と訊かれたら「いてる、いてる」と語を重ねる。「一回だけではあいそがないという気持ちが働く」からだと、日本語学者の尾上圭介は『大阪ことば学』で言う。大阪弁、言葉で人を触りにくる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月9日・朝刊、14版、1ページ、「折々のことば」、鷲田清一)

 関西のあちこちで見られる「捨てたらアカン」というのは、空き缶などを道端などに捨てることを防止する看板です。山形県酒田市の公園で、同じ言葉を書いたものを見かけたときは嬉しくなりました。
 缶のことは、関西では「カンカン」と言うことも多いのですが、これも「一回だけではあいそがない」ということと関係があるのかもしれません。
 「言葉で人を触りにくる」という表現にびっくりし、同感しました。人の心の奥底までを貫くことをせず、「触る」ほどのことをして、大きな効果を上げる言葉の働きにこそ、その力強さを感じます。

| | コメント (0)

2019年6月13日 (木)

言葉の移りゆき(418)

元号はフィーバーの対象か


 元号については、やっぱり新聞や放送などが煽り立てているという印象が強いのですが、こんな文章もありました。


 元号「令和」が発表された翌日の4月2日、地元の運転免許センターで免許証の更新手続きをした。免許証の有効期限は「令和6年」ではなく「平成36年」。ちょっと拍子抜けした。
 同じことを考えていたのだろう。周囲の人も免許証を見て苦笑いしたり、窓口の職員に問い合わせたり。今月5日以降に手続きをした人から記載が令和に切り替わっているという。
 免許証は正当な理由なく再交付できないが、記載が平成のままの人からは再交付を求める問い合わせもあり、令和フィーバーはまだしばらく続きそうだ。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年5月14日・夕刊、3版、8ページ、「キーボード」、長野祐気)

 拍子抜けでもありますまい。元号「令和」が発表された翌日の4月2日に、免許証の有効期限が「令和6年」と書かれるはずはありません。ものごとには準備期間が必要です。3月下旬に免許証の更新手続きをした人は、そんなことは考えもしなかったことでしょう。
 元号のことになると、どうして、そんなに神経質になるのでしょうか。いや、実際はそんなに神経質になっていなくても、そんなふうに書いてみたくなっただけでしょう。
 そして、こんな些細な、何の問題もないような事柄を取り上げて、「令和フィーバー」などという言葉を使うのでしょうか。
 フィーバーとは、熱狂的で過熱状態にあることです。免許証を見て苦笑いしたり、窓口の職員に問い合わせたりする程度のことが、フィーバーであるはずがありません。大袈裟な言葉を使い、人々を駆り立てるような行動をしているのは新聞や放送に携わる人であるということに気づかないのでしょうか。
 「平成最後の…」と書き立てたものを何年か後に改めて読んでみてください。「令和」のことを熱狂的に書いたものを何年か後に改めて読んでみてください。書いた本人も、馬鹿らしく感じるに違いありません。

| | コメント (0)

2019年6月12日 (水)

言葉の移りゆき(417)

テレビを批判する前に


 「改元の放送 テレビは? / NHKは3日間33時間 / 『お祭り騒ぎ』『天皇制議論あまりなく』」という見出しの記事がありました。こんな文章で始まっています。


 30年前に引き続きテレビは今回も改元一色に染まった。NHKの場合、放送時間は4月29日からの3日間で定時ニュースを除き33時間。何が読みとれるのか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月3日・朝刊、14版、22ページ、鈴木友里子・真野啓太)

 この記事の中に、次のような一節があります。


 メディアが改元を「一つの時代の幕開け」として過度に演出したことを懸念するのは、水島久光・東海大教授(メディア論)だ。「現行憲法下の日本では主権は国民にある。天皇の交代によって時代が変わるという価値観とは本来は相いれないはずだ。そこに配慮しないばかりか、何カ月も前から『平成最後』を連呼し、『元号』を『時代』と意図的に読み替え、あおったのは問題だ」とみる。
 (上記と同じ記事。)

 批判すべきはテレビだけではありません。新聞自身もまったく同様です。こんな文章がありました。


 「10連休中は猫の手も借りたいくらいです」。にぎわいが続く岐阜県関市の「道の駅平成」で、うれしい悲鳴を聞いた。連日、遠来の客たちが「平成ラーメン」や「平成弁当」を食べ、「平成しいたけ」「平成メモ帳」を買う …(中略)…
 私たちがいま目撃しているのは、近代史にもまれな、過度の自粛を伴わぬ「代替わり」である。「道の駅平成」を訪ね、平成最後の日々をまるで歳末のように楽しむ姿が、何とも新鮮に思われた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月30日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 NHK総合テレビは4月30日の夜、改元をまたぐ時間帯に「ゆく時代くる時代」というタイトルの番組を作りました。歳末の「ゆく年くる年」は、1年の終わりと始まりですから納得できます。けれども、2019年の4月に時代が終わり、翌日に新しい時代が始まるというのは勝手な区切りです。
 「天声人語」も、「近代史にもまれな、過度の自粛を伴わぬ代替わり」として、「平成最後の日々をまるで歳末のように楽しむ」と書いています。
 一般の人たちは、このようなテレビや新聞の姿勢に導かれて、そんな気持ちになっているのです。日常生活の中では、人々の実感として、これで一つの時代が終わったとか、新しい時代が始まったなどという言葉が交わされることはほとんどなかったと思います。
 放送・新聞、そして商売の世界で活用されたことは確かであり、それに引きずり込まれたのが一般の人々であったように思います。

| | コメント (0)

2019年6月11日 (火)

言葉の移りゆき(416)

文字を発見することが重要なのではない


 国語辞典はどのようにして編纂されているのでしょうか。国語辞典編纂者という肩書きの人のコラムを読んで疑問が高まりました。
 「『れ足す』の文字を発見」という見出しが付けられたコラムを読んだからです。こんなふうに書いてありました。


 大分で夜のバスに揺られていた時のこと。車内の前方にあるディスプレイに目が止まりました。〈これからも皆様のお役に立てれるよう……〉と、不動産会社の広告が表示されています。
 あ、「れ足すことば」だ、と気づきました。全国共通語では「お役に立てるよう」と言うところですが、それに「れ」が足されているので、「れ足す」と呼ばれます。 …(中略)…
テレビでもたまに聞かれますが、広告文の例を見たのは、今回が初めてでした。「れ足すの文字発見!」と慌てて撮影したので、少しブレてしまいました。広告文でも違和感がないほど、この地域では定着しているということでしょう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月8日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「ら抜き言葉」と同じように「れ足す言葉」は、もう20年以上前から話題になっています。方言の世界では関西でも使われていますし、共通語の世界でも「テレビでもたまに聞かれます」という筆者の言葉通りです。
 私はこの文章の初めに「コラムを読んで疑問が高まりました」と書きましたが、それは、次のような理由です。
 国語辞典の編纂者が、実際の用例を記録し、それを大切に扱うのは当然のことです。けれども、その実際の用例が、書き言葉に偏重し、東京の言葉に偏重していることについては、私はこれまでに何度も書いてきました。
 テレビで聞いても、それを言葉の用例とすることを見逃しておいて、カメラに収めてはじめて「『れ足す』の文字を発見」と心を躍らせる姿勢が納得できないのです。
 別の観点からいうと、国語辞典は(あるいは三省堂国語辞典は)、話し言葉(音声言語)を軽視して、書き言葉(文字言語)に頼っているということの態度表明であると感じたからです。
 方言研究は話し言葉の研究です。方言はどれだけ文字化されているでしょうか。映像化や文字化がされていない言葉を軽んじるという姿勢では、共通語を扱う国語辞典といえども、大切な部分を見落としていることになるでしょう。
 大分だけではなく、関西でも「お役に立てれる」は違和感なく、日常の言葉に出てきます。筆者は、「広告文でも違和感がないほど、この地域では定着しているということでしょう」という文末の言葉を忘れないでほしいと思います。話し言葉の世界では、それが当たり前の言葉遣いになっているのに、文字になっていないと気づかないままなのです。
 ところで、「立てれる」は、「立てる」の「れ足す言葉」と断言して良いのかという問題もあります。「立てられる」からの「ら抜き言葉」という考えはきちんと排除できるのでしょうか。そのあたりのことも、きちんと検討してほしいと思います。
 新聞は、読者と対話をしていくということを宣伝文句にしています。読者の声を大切にするとか、読者の疑問に答えるとか言っています。けれども、「B級言葉図鑑」にはそのような姿勢が見られないのは残念なことです。

| | コメント (0)

2019年6月10日 (月)

言葉の移りゆき(415)

「竣功」のイメージ


 工事が終わって建造物ができあがることを「竣工」と言います。完工や落成という言葉もありますが、橋には「竣功」と書かれていることが多いようです。
 このことについて書かれた文章を見ました。


 あなたのご近所に橋がありますか。銘板を見ると、〈〇年〇月竣功〉と書いてありませんか。「竣工」は一般の文章でよく使われますが、「竣功」は見慣れませんね。
 国語辞典では、同一項目に「竣工・竣功」と表記が並んでいます。つまり、同じ意味の言葉です。「工」も「功」も仕事の意味があり、「竣」は終えることです。
 ただ、私の観察では、「竣工」は一般のビルや住宅に、「竣功」は神社や橋などに使うことが多いようです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月11日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 ここに書かれていることに異存はありません。
ただ、「功」には、優れた仕事とか、手柄という意味もあります。本文にもあるように「竣功」は神社や橋などに多く使われています。神社を建てるというたいへんな仕事が終わったときに「竣功」を使う気持ちは理解できます。
 また、川に橋を架けることは、建て物を建てることに比べると、難工事が多かったと思われますから、これにも「竣功」を使いたい気持ちは理解できます。
もうひとつ、気になることがあります。国語辞典には、確かに「竣工・竣功」と表記が並んでいますが、時代による変化について辞書では言及されていません。けれども、古くは「竣功」と書かれることが多く、しだいに「竣工」が多数派を占めるようになったという時代の流れもあるのではないかとも思います。橋も、だんだん「竣工」が増えてきているのではないかと思いますが、それは想像の域を出ません。

| | コメント (0)

2019年6月 9日 (日)

言葉の移りゆき(414)

さまざまな表記は望ましくない


 外務省が使う国名の基準となる「在外公館名称位置給与法」の改正法が成立して、外国名から「ヴ」がすべて消えたというニュースがありました。「カーボヴェルデ」が「カーボベルデ」に、「セントクリストファー・ネーヴィス」が「~ネービス」になると言います。
 このことに関する記事に、こんなことが書かれていました。


 現代では、日本語を母語とする人は「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」と「バ・ビ・ブ・ベ・ボ」とを区別して発音する場合はほとんどありません。 …(中略)… これは、日本語の「音韻」にvがなく、bで置き換えられるためです。 …(中略)…
 朝日新聞社は、国名表記に限らず基本的に「ヴ」を使いません。ところが国名表記は必ずしも政府と一致していません。今回の2カ国も「カボベルデ」「~ネビス」と音引き無しで書きます。どう発音するかということと併せて、独自に決めているケースも多いのです。人名や地名の表記もメディア各社で様々。読み比べてみると面白いかもしれません。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月11日・朝刊、13版S、15ページ、「ことばサプリ」、田島恵介)

 日本語を母語とする人は「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」と「バ・ビ・ブ・ベ・ボ」とを区別して発音する場合はほとんどない、というのはその通りですから、「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」という表記をなくすことに異存はありません。
 ただ、表記は、どう発音するかということと併せて、新聞社が独自に決めているケースも多いということには賛成ではありません。
 文学作品や論文などで異なった表記をすることはかまいませんが、小学校から高等学校に至る学校教育の立場からすると、異なった表記は避けてほしいという気持ちが強いのです。
 文末の「人名や地名の表記もメディア各社で様々。読み比べてみると面白いかもしれません。」という表現は、逃げ口上としてもふさわしくありません。面白いという次元ではなく、紛らわしいことであると思います。同じものの表記が異なるだけだと容易に判断できるものもあるでしょうが、それができないものもあると思われます。

| | コメント (0)

2019年6月 8日 (土)

言葉の移りゆき(413)

「私の立場」「私の考え」ではなく、「私目線」


 自分の考えを述べるときに、自分を強調して述べる場合に使っていた言葉は、かつては「私の立場から言えば…」とか、「私の考えにそえば…」というような言葉遣いであったと思います。
 この頃は、「目線」とか「軸足」とか「立ち位置」というような言葉が使われるようになって、その人の姿勢(目に見える姿)が強調されるようになってきていると思います。目とか足とか、文字通り目に見えるものの上に立ったような表現が多くなりました。
 たとえば、次のような使い方がありました。


 私目線からしたら、クラスメイトの子たちと一緒に近所の神社のお祭りに行って盆踊りの輪に入れてもらうなどもすごくいい思い出だっただろうと思うのだが、娘たちがいつも話すのがこの雑巾がけだつたりするので、よほど衝撃的だったのだろう。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年2月5日・夕刊、3版、2ページ、「いま風」、野沢直子)

 この文章の筆者はしっかりした考えの持ち主だと思いますが、言葉遣いは気になります。「私目線」という言葉から受ける感じは、頭の中でじっくり固めた考えや、胸の奥に存在するしっかりした考えなどではなく、自分が見ている視線のようなものに立脚した思いなどを述べようとしているように感じられることです。テレビ時代の、目に見えるものを重んじる姿勢が、こんな言葉遣いにも現れてきているということかもしれません。
 気になるのは、このような言葉遣いが多用されることによって、深くものごとについて考えることが避けられるようなことになれば、寂しいことになるのではないかと思います。
 テレビにはトーク番組がありますが、言葉のやりとりに終始して、深みを求める姿勢が欠如してきているのは嘆かわしいことです。トークが娯楽に堕落するのだけは避けてほしいと思います。

| | コメント (0)

2019年6月 7日 (金)

言葉の移りゆき(412)

自虐の言葉は2種類あるのでは…


 自虐の言葉が注目を浴びているそうです。銚子電鉄の「まずい棒」というお菓子や、鳥取県知事の「スタバはないけど砂場はある」という発言は、私も聞き知っています。
 埼玉県を「ダサイタマ」と言うことが「ださい」という形容詞に結びつくということも読んだことがあります。
 「最強の」「全国一の」「絶賛の」などという言葉は、もはや言葉の遊びに過ぎないと感じる人たちにとって、自虐の言葉には真実や面白みが込められていると思っても当然でしょう。
 こんな記事がありました。


 ダサイタマにクサイタマ。埼玉をおとしめる言葉が繰り返される映画「翔んで埼玉」が人気だ。怒り心頭かと思いきや、県民は、まんざらでもない様子。その真意は。 …(中略)…
「埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ!」などのセリフもあるが、先月中旬までの集計では動員の約25%は県内。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月19日・朝刊、14版、35ページ、「ニュースQ3」、笠原真)

 この記事には、全国の「自虐」の例というのが載っていますが、茨城県のPRの「のびしろ日本一」や、志摩スペイン村の「並ばないから乗り放題」などはプラス面と結びつけられます。
 北海道の観光協会の「元気ないです十勝川温泉」は自虐が過ぎるのではないでしょうか。「ダサイタマ、クサイタマ」も同様です。
 ところで、この「ダサイタマ」もテレビや新聞が強調しているような気がします。こんな記事もありました。


 東京のインスタ映えスポットや流行のファッションにめっぽう弱いという埼玉女子。司会の指原利乃の「おのぼりさんっぽい」というひと言にスタジオゲストは思わず沈黙する。「ダサイタマ」、実は認めているのか。
 (読売新聞・中部支社発行、2019年3月27日・朝刊、12版、38ページ、「試写室」、吉田拓也)

 いつまでもダサイタマと言い続けているわけにはいきますまい。ダサイタマを、プラス面と結びつけること、例えば、タサイ(多彩、多才)タマに変えることも必要なのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2019年6月 6日 (木)

言葉の移りゆき(411)

お父さんを「預かる」こと


 昔は、たいていの駅前に「自転車預かり所」がありました。クルマの時代になった今でも、通学生のために有料・無料の駐輪所が設けられているところがあります。
 自転車を「預かる」という表現には違和感はありません。幼児を「預かる」ということになると多少の違和感を持ちます。「預かる」という言葉が、他人の所有物を保管したり面倒を見たりして、責任を持って守るという意味であるからです。
 犬を預かると言っても抵抗感はありませんが、子どもは「預かる」と言ってよいのでしょうか。
 格段に飛躍した言葉遣いがありました。次のような記事です。


 連休の人混みでゆっくり休める場所がない中、荷物の預かりならぬ「お父さん預かりサービス」が大阪・難波で始まった。大人1人1時間500円で5月6日まで。
 オフィスビル内の貸会議室「難波御堂筋ホール」が閑散時のスペースを活用。寝転べるマットやマッサージ器の他、子どもが見られるDVDも用意した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月29日・朝刊、14版、22ページ、「青鉛筆」)

 記事で見る限りは、「預かる」という行為であるようには思えません。場所を提供して、自由に使っていただくということのようです。
 臨時的なものであり、遊びのような言葉遣いであることは認めます。目くじらを立てなくてもよいのかもしれません。
 けれども、「お父さん預かり」という言葉遣いが、どこまで広がっていくのかはわかりません。そのうち、「社長さん預かり」や「大臣さん預かり」にまで発展していくかもしれません。
 前回の「平成最後の」「令和最初の」と同様に、こういう言葉は、新聞・放送用語であり、商売のための言葉であるのでしょう。一般の人がこんな言葉遣いをするとは思えません。

| | コメント (0)

2019年6月 5日 (水)

言葉の移りゆき(410)

新聞・放送、商売用語としての「平成最後の」

 天皇の崩御ではなくて元号が変わるのは、こんなにも穏やかなことであるというのを、私たちは初めて経験しました。
 西暦と元号の二重生活は、どちらが主でありどちらが従であるということではなくて、両方ともうまく活用すればよいと思います。
 けれども、平成の終わりは時間の区切りであっても、生活内容が変化するというようなものではありません。
 平成の30年間の生活や文化の変化というものはあるでしょう。また、令和の時代へ移行するに際して、これまでの反省や次への展望は、個人のレベルでも社会全体においても、いろいろとあることでしょう。けれども、2019年の4月末と5月初めは、一続きのものにすぎないはずです。
 作家の黒井千次さんが述べていることには同感します。その一節を引用します。


 それにしても、この転機を前にして、「平成最後の」という飾り言葉が様々なものに冠せられるのには驚いた。それほどこの元号に別れを惜しんでいるとは思えないのに、食べ物から様々な催し物に至るまで、この飾り言葉が冠せられ、プロ野球の試合が「平成最後の××戦」などと対戦両チームの名前にまで冠がのせられるのに接すると、首をかしげざるを得なかった。
 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年5月1日・夕刊、3ページ、黒井千次)

 私たちは日常生活において、隣人たちとの会話の中で、「平成最後の」などという言葉を次々と発しているわけではありません。その言葉を何回かは言った人があるかもしれませんが、毎日、そんな言葉を発していたら、周りの人が奇異に思うでしょう。
 それに対して、新聞のそれぞれの紙面や、テレビの題目や宣伝文句には、その言葉が何日にもわたって現れ続けていました。もうひとつは、商売の宣伝文句です。平成最後だと言えば購買意欲が増すと思ったのでしょうか。
 「平成最後の」や「令和最初の」は、新聞・放送用語であり、商売のための言葉であると考えると、素直に納得できるように思われます。だから、すぐに消えてなくなる言葉であるのです。

| | コメント (0)

2019年6月 4日 (火)

言葉の移りゆき(409)

新聞は社会の動きだけを伝えるものではない

 新聞や放送は、社会の動きを伝えることが最大の使命であると考えているような傾向があります。そのことは否定しませんが、それによって大切なことが見失われてしまっては困ります。
 社説をはじめとして、社会の動きを論じる文章はあふれています。一方で、人の生き方の不易に当たるような事柄は、書かれているスペースがごく限られたものになっています。朝日新聞の「天声人語」などは、社説の後追いをする必要はないと思います。
 朝一番に読むことが多いコラムが、昨日今日の出来事を、暗いタッチで論じていたのでは、もの寂しい一日の始まりになります。いつの時代にも変わらない、人の生き方などについて、ふと立ち止まって考えるような話題を提供してもらえれば、一日の始まりの力になります。
 4歳で視力を失った、エッセイスト・三宮麻由子さんの言葉を引用して書かれた文章はさわやかでした。一部分を引用します。


 滝の水の流れる音。草原が風に揺れる音。松ぼっくりが落ちる音。自然が発する声に耳を傾けながら、風景を描いていく。三宮さんの文章には、視覚のみではつくりだせない奥行きがある。風の運んでくるさまざまな匂いも、そこに加わる
 目から入ってくる情報ばかりに頼るようになった。そう言われて久しい現代社会である。スマートフォンで写真を撮ってインスタ映えを競うのも、視覚優位の現れかもしれない。だからこそ、ときには立ち止まってみたい。咲く花の香りを求めたり、若い葉の手触りを試したりと
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月6日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 「目から入ってくる情報ばかりに頼るようになった」現代社会において、新聞はテレビの後追いをする必要はありません。目から入ってくる情報に価値を置くような報道に、そろそろ区切りをつけて、新聞はテレビとは異なる道を歩み始めるべきではありませんか。
 新聞の現状は、目から入ってくる情報をますます拡充しようとしているように、私には見えます。そうではなくて、新聞は、文字の力を発揮して、人々の想像力や創造力を深めていくような媒体になってほしいと願っております。

| | コメント (0)

2019年6月 3日 (月)

言葉の移りゆき(408)

「ググってみる」とはどういう意味?


 言葉というものは、一語や二語の意味がわからなくても、たいていは文脈で理解できるものです。
 けれども、思いつくままに書かれた文章や、冗長な文章では、何を述べているのかわからないこともあります。
 次の文章は、冒頭からをそのまま引用したものですが、筆者の考えがどういう方向に向かっているのか、なかなか理解しにくい文章です。


 タイトルからして謎である。
 「八画文化会館」?
 いったい何の雑誌なのか。文化会館というぐらいだから、地方の行政施設の広報誌? と思ったら表紙の肩のところに小さな文字で「いけないことに憧れて。」と書かれてある。いけないこと? なんか怪しい。
 では、八画とは何のことか? ググってみると画数の説明の次に「八画文化会館」が出てきた。だからその八画が知りたいの! 堂々巡りだよ。単に縁起のいい数字とか、そういう話?
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月1日・夕刊、3版、3ページ、「宮田珠己の 気になる雑誌を読んでみた」、宮田珠己)

 別記として、その雑誌についての解説文や写真が載っていますから、かろうじて理解できるようになっています。筆者は、多くの文字数を使いながら、行ったり来たりしているのです。
 ところで、「ググってみる」とはどういう意味なのでしょう。普通の国語辞典には出ていないようです。文脈から理解することは難しいようです。インターネットで調べようなどという気持ちは生じません。そこまでしなければ、新聞は読めなくなってしまったのでしょうか。
 現在の新聞は、わかる人だけがわかればよいという姿勢が強まっているようです。昔は新聞の隅から隅まで読むという人がいました。読んだら理解できたのです。現在の新聞は、ページ数が多くなっても、読める部分が少なくなってきているのかも知れません。
 これは、新聞の信頼性に関わる事柄なのですが、新聞社自身が、そんな信頼性などを作り上げようとしなくなっているかのように感じられます。

| | コメント (0)

2019年6月 2日 (日)

言葉の移りゆき(407)

「杖を使う」、「電車を使う」、「駅を使う」

 

 

 わからない言葉に出合ったとき、国語辞典を使って調べます。歩くことが困難である場合には、杖を使うことがあります。小さな物体である国語辞典や杖については、「使う」と表現することがあります。
 ふだんの生活では電車に乗ります。電車に乗るためには駅へ行きます。けれども、「電車を使う」とか「駅を使う」とか言うことはありません。これはあくまで私の言語感覚です。
 「使う」という言葉には、ある事柄にある物を役立てるという意味や、操ったり思い通りに動かしたりするという意味があります。駅や電車は、自分の手で操るためには大きすぎるのです。
 「駅よ、使いやすく」という大きな文字がテーマになっている記事がありました。3人の意見が掲載されていましたが、そのうちの一つには、次のような言葉がありました。

 

 

 杖を使えばなんとか歩けたものの、以前の自分とはまったく違います。 …(中略)…
 当時、東京の自宅の最寄り駅は地下鉄の駅でしたが、電車はできるだけ使わないようになりました。 …(中略)…
 階段を使うとなればもっと大変です。 …(中略)…
 体が不自由な人やベビーカーを使う人が、公共交通機関が使いにくいために行動の範囲を制限される現状は残念です。 …(中略)…
 たとえ杖や車椅子を使うようになっても、行きたいところに行ける社会であってほしいものです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月26日・朝刊、13版S、15ページ、「耕論」、かじやますみこ、聞き手・高重治香)

 

 この他に、「電車を使わない」という表現がもう1箇所ありました。この記事は、語っている人と「聞き手」とは別人です。語っている人の言葉遣いが正確に文字化されているかどうかは、わかりません。テーマの「駅よ、使いやすく」に合わせて、「使う」という言葉の使い方が広がっているかもしれません。
 「電車を使う」「駅を使う」という言葉遣いには、人間の思い上がりがあると思います。何でも自分の思い通りにできるというような感覚です。
 言葉は、使う範囲や使い方にも、十分な配慮が必要だと思います。意味が通じたらそれでよい、というようなものではありません。

 

| | コメント (0)

2019年6月 1日 (土)

言葉の移りゆき(406)

「綿菓子」と「綿飴」(続き)


 この連載(391)回で、「綿菓子」と「綿飴」のことを書きました。
 朝日新聞の連載コラム「B級言葉図鑑」では、「東では『わたあめ』、西では『わたがし』という感じがします。」と結論づけて、この食べ物について、「東西で違う証拠を撮った」という見出しの記事でした。
 私は、それほど大それた区画があろうはずはないという考えで、東京に「わたがし」があっても、関西に「わたあめ」があっても、何の不思議でもないだろうと書きました。
 その後、作家・吉村昭さんのエッセイ集『人生の観察』を読みました。吉村さんは1927年の東京生まれで、2006年に没しています。「道を引返す」と題した短い文章は、雑誌『オール讀物』の1981年11月号に掲載された文章のようです。その中に、次のような表現があります。


 町の高台にある諏訪神社の例祭が毎年おこなわれ、家々の軒先に提灯が吊された。私も揃いの浴衣を尻はしょりし、鉢巻をしめ、白足袋をはいて神社にお参りに行った。夜は長い参拝路に縁日の露店が並び、人ごみにもまれながら歩く。海草のホオズキ、蜜柑飴、綿菓子、蛍、廻り燈籠などさまざまなものが、カーバイドの灯を浴びてつぎつぎに眼の前に現れてくる。
 (吉村昭『人生の観察』、2014年1月30日発行、河出書房新社。201ページ)

 東京生まれの作家が、少年時代を懐古した文章です。そこには「綿菓子」という言葉が使われています。戦後すぐの東京で「綿菓子」と呼んでいた証拠のひとつになるでしょう。東京で「綿飴」という言葉を使っていた人も多くいたでしょうが、「綿菓子」も生きていた言葉であったのでしょう。
 言葉は、目に見えるもの(写真に写せるもの)で証拠づけることも大切でしょうが、もっと大切なことは、人々の心の中に生き続けているもの、(それは、ふとした言葉遣いの中に現れ出るもの)ということであると思います。
 私自身も、旅をしながら、言葉に関する写真を撮り続けています。けれども、写真があるからという理由で、言葉の分布などを結論づけることは早計であるということを戒めながら、撮り続けています。

| | コメント (0)

2019年5月31日 (金)

言葉の移りゆき(405)

「訳ありの」は、褒め言葉か貶し言葉か


 ものを売るときの言葉は、その売り上げに影響をします。たいていは、良い品物であることを宣伝する言葉が使われますが、時には、問題をはらんでいる品物であることを自称する場合もあります。
 「訳ありの品」と言われたときは、格別の理由をそなえた絶品(褒め言葉)と判断するでしょうか。それとも、何かの欠点を持っている劣等品(貶し言葉)と判断するでしょうか。
 『三省堂国語辞典・第5版』は、「わけあり」を見出しにして、次のように説明しています。


 特別な事情があること。「- の仲・今度の異動はどうも - だ」

 この辞典の用例から判断すると、良い・悪いの評価を抜きにして、通常の様子とは違っているという意味が強く出ているように思います。むしろ、その事情を直接的に表面に出さないで述べようとしているような傾向を感じます。
 買う側からすれば、「訳ありの美味しさ」とか「訳ありの便利さをそなえた品」とか言われても、具体性が乏しいと感じるでしょう。
 逆に、「訳ありだから……値引きして売る」となると、「訳」の内容しだいでは、買うことを検討してみようという気持ちになるかもしれません。
 それにしても、「訳あり」という言葉だけでは、「訳」の内容が説明されていないのです。それが宣伝文句になるのが不思議です。

 ちょっと古い記事ですが、「買いたくなる食品の売り文句」というランキング記事がありました。(朝日新聞・大阪本社発行、2015年5月30日・朝刊、be2ページ、「beランキング」、中島鉄郎)
 そのランキングは、1位「産地直送」、2位「新鮮な」、3位「季節限定」、4位「無添加」、5位「旬の」……となっていて、15位に「訳ありの」が入っていました。これは「訳ありだから……値引きして売る」という貶し言葉の文脈ではなく、褒め言葉として宣伝している場合のように感じられます。
 「訳あり」の「訳」の内容が説明されていないのと同様のものとしては、このランキング20位までに並んでいる「新鮮な」「天然の」「とれたて」「こだわりの」「老舗の」なども同様かもしれません。「無添加」「無農薬」「ヘルシー」などもどこまで信用できるか、わからないのかもしれません。
 この記事には、「信用できない」言葉ランキングというのも載っていて、1位「秘伝の」の他に、「本格派」「絶品」「こだわりの」「天然の」「訳ありの」「無添加」「無農薬」「本場の」「厳選素材」と続くと書いてあります。
 「買いたくなる」ランキングにも、「信用できない」ランキングにも、同じ言葉が入っているのです。売る立場に立つ人は、言葉遊びはやめた方がよいと考えるべきであるのかもしれません。

| | コメント (0)

2019年5月30日 (木)

言葉の移りゆき(404)

「いろいろあった」で、良いではないか


 平成の終わりに、新聞や放送は、その30年間を区切ろうとする姿勢を強く持ったように思います。30年間にわたるのですから「いろいろあった」のですが、格別なものがなくても不思議ではありません。世の中には、そんなに格別なものが満ちあふれたりはしていません。そのうえ、格別のように感じるものは、人によって異なるのです。それを無視して記事を書いてはいけないでしょう。
こんな文章がありました。


 電車内で見かけた栄養ドリンク剤の広告です。〈いろいろあった平成の30年〉。平成時代を振り返る趣旨の内容です。
 平成時代の日本は、長い不況や、2度の大震災を抜きに語ることはできません。でも、ドリンク剤の広告で、それらに触れるのは難しい。 …(中略)…
 誰もが「これ」と思う象徴的な出来事は。あまりなかった気がします。昭和の東京五輪や新幹線開業に匹敵するようなものは……。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月27日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 このコラムの見出しは「平成の明るい話題トップは」となっています。
 話題になっているのは栄養ドリンク剤の広告ですが、そのような広告でなくても、平成の30年間は、「いろいろあった」と振り返れば、それでよいではありませんか。
 明治の40余年間、大正の10数年間、昭和の60余年間、平成の30余年間に、格別の物事が散りばめられるはずはありません。令和が何年続いたとしても、そこにも格別なものが配置されるとは限りません。
 上の文章で筆者は、昭和の東京五輪や新幹線開業を象徴的な出来事と捉えていますが、多くの人がそれに同感するでしょうか。(とりわけ、若い世代の人たちは。)
 平成を振り返る記事の中で、新聞や放送が取り上げたような〈平成時代の特筆すべきこと〉にどれだけの人が同感したでしょうか。平成時代には「いろいろあった」のです。その「いろいろ」は人によって、それぞれ異なったものであったはずです。新聞や放送が、時代を振り返ることはかまいませんが、みんなが同じように考えたり感じたりしていたはずだと結論づけてはいけないと思います。
 そもそも「平成の30年間」という区切りを設けることが、良いことであるかのように感じているのは、新聞や放送の関係者だけであるのかもしれません。

| | コメント (0)

2019年5月29日 (水)

言葉の移りゆき(403)

「マッチョ」は正統な文章語であるか


 新聞の文章は、基本的には文章語(書き言葉)で綴られているものであると思います。その中に話し言葉、とりわけ国語辞典に掲載されていないような言葉遣いに出くわすと、違和感を覚えることがあります。
 どうしてもその言葉でなければならないような場合は別ですが、いくらでも表現の仕方があるのにと思うような場合は、嫌悪感すら感じてしまいます。
 例えば次のような文章です。


 高度成長を支えるにはタフでなければならない。浅黒い顔で声は低く、ひげが濃くて胸毛があって、みたいなマッチョこそが男だと、父は思っていた。筋肉質で足も速く病気もしなかったけれど、色白で声が高かった僕は、その範疇から外れていた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月27日・夕刊、3版、5ページ、「1956 太陽族」、前田安正)

 「マッチョ」という言葉に接することはありますが、正確な意味は理解できていませんから、国語辞典を引いてみました。どの辞典にも載っているような言葉ではありません。『三省堂国語辞典・第5版』に、次のように書いてありました。


 マッチョ(形動ダ)(macho) 力強くて男っぽいようす。

 「浅黒い顔で声は低く、ひげが濃くて胸毛があって」という様子が「マッチョ」という言葉の中身を表しているのなら、改めて「マッチョ」などという言葉を使う必要はありません。「マッチョこそが男だ」という表現に、辞典の説明文を代入すれば、「力強くて男っぽいようす」こそが男だ、というおかしな文になります。
 流行語、俗語、外来語を多用するのは、新聞記者にとっては望ましいことではないと思います。正統な文章語として認められたような言葉だけを使っても、言いたいことは表現できるはずです。

| | コメント (0)

2019年5月28日 (火)

言葉の移りゆき(402)

旅行者数や旅行平均費用の算出の仕方

 いつも不思議に思って眺める数字があります。旅行者数や旅行平均費用についての数字です。これらのうち、間違いがないだろうと思うのは海外への旅行者数だけです。空港を経由する人数であるからです。
 こんな文章がありました。

 いよいよ異例の10連休が始まった。
 JTBの調査によると、国内、海外ともに旅行者数は大型連休としては最高になるという。
 旅行の平均費用は国内で3万6800円、海外で26万8000円。いずれも昨年の同時期に比べ1・5%以上多い。今年は、改元記念ツアーに参加する人や神社にお参りする人も目立つようだ。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年4月27日・夕刊、3版、2ページ、「とれんど」、是枝智)

 「いずれも昨年の同時期に比べ1・5%以上多い」などと言われると、いかにも正しい数字であるかのような錯覚を覚えます。けれども、旅行費用がいくらになるという費用は、きちんと計算されたものなのでしょうか。これはJTBのツアーに参加する人の平均値なのでしょうか。
 旅行者のツアーに参加する人は、すべての旅行者のうちの何割ぐらいであるのか知りません。(さらにJTBのツアー参加者は、全旅行者の何%にあたるのかも知りません。)
 海外旅行をする人は旅行社の世話になることは多いのでしょうが、国内は自分で計画して手配する人も多いことだろうと思います。3万6800円という数字は、ごく一部の人たちを対象にした数字であるのではないかと思うのです。けれども、一旦、数字が新聞に出るとそれが一人歩きを始めてしまいます。
 新聞は、数字が大好きです。けれども、それらの中には、他者(たとえば旅行社など)の受け売りが多いのです。それらが正しい数字かどうかを検証しないで掲載することが多いように思います。時には、その数字がどのようにして計算されたものであるのかということを、きちんと説明してほしいと思うのです。

| | コメント (0)

2019年5月27日 (月)

言葉の移りゆき(401)

答え方が見つからないような質問

 前回の続きです。大学入学共通テストの2回目の試行調査の国語の記述式問題のことです。
 問1は、「【文章Ⅰ】の傍線部A『指差しが魔法のような力を発揮する』とは、どういうことか。三十字以内で書け(句読点を含む)。」という質問です。
 傍線部は、次のような文脈にあります。


 ことばのまったく通じない国に行って、相手になにかを頼んだり尋ねたりする状況を考えてみよう。この時には、指差しが魔法のような力を発揮するはずだ。なんと言っても、指差しはコミュニケーションの基本なのだ。

 この質問に対して、「正答例」として示されているのは、次の表現です。

 ことばを用いなくても意思が伝達できること。(21字)

 この「正答例」は、平凡な答えです。「魔法のような力」という力強さは、どこにも表現されていません。
 そして「正答の条件」として3つのことが示されています。

 ①30字以内で書かれている
 ②ことばを用いない、または、指さしによるということが書かれている
 ③コミュニケーションがとれる、または、相手に注意を向けさせるということが書かれている

 ①は当然です。
 ②の「または、指さしによるということが書かれている」というのは不可解です。傍線部に「指差し」という言葉が使われているのですから、それとは違った言葉を用いようとするのが、受験生の心理というものでしょう。
 ③については、傍線部が「魔法のような力を発揮する」と言っているのですから、「コミュニケーションがとれる、または、相手に注意を向けさせる」という答えは弱いと思います。
 長文になるので引用していませんが、引用部よりも前で書かれていることを読み取れば、〈言葉を用いず、頭や目の向きも用いない状況であっても、指差しひとつで、相手になにかを指し示したり、相手の注意を向けさせたりできること〉を「魔法のような力」と言っているのです。はっきり言うと、正答条件として挙げている「コミュニケーション」というのは、傍線部より前の部分では使われていない言葉です。
 結論として言うなら、問1は、設問として成立しない(30字以内で書くことはできない)ということになるでしょう。
 こういう問題であれば、大学入試センターの考えと、受験生の自己採点に大きな差が生まれるのも当然でしょう。
 私は、だから国語の記述式問題はやめるべきだとは思いません。受験生を惑わすような設問を差し控えて、正答と誤答の見分けがつくような出題に磨きをかけなければならないと思うのです。

| | コメント (0)

2019年5月26日 (日)

言葉の移りゆき(400)

19行の中に20回も同じ言葉が出る文章


 人はどのような文章を書いても、他人から文句を言われることはありません。それが表現の自由というものでしょう。だから、以下に問題とする事柄について、その文章の筆者を批判するつもりはありません。
 昨年11月に実施された大学入学共通テストの2回目の試行調査の採点結果が、4月初めに公表されました。3問あった国語の記述式問題で、生徒の自己採点と大学入試センターの採点結果が一致しない割合が、いずれも約3割に達したことが問題視されています。
 この試行調査の国語採点結果という報道を、(朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月5日・朝刊、13版S、19ページ)で見ましたが、まずは、出題された文章について問題を感じます。
 第1問の【文章Ⅰ】の出典は、鈴木光太郎『ヒトの心はどう進化したのか -狩猟採集生活がうんだもの』だそうです。一部表記を改めたところがある、という注記があります。
 この文章は、引用された範囲では、次のような文章で始まっています。


 ヒトは、ほかの人になにかを指し示すために指差しをする。驚く人もいるかもしれないが、これをするのはヒトだけである。

 この「指差し」という言葉には「ポインティング」という振り仮名が付けられていますが、この文章(新聞記事では19行)には、「指差し」という言葉が20回も使われています。このうち16回は「指差し」という名詞であり、4回は「指差した」という動詞+助動詞の表現です。平均すれば1行に1回ずつ「指差し」という言葉が現れる文章を、大学入試の出典にふさわしいと判断した理由が理解できません。
 筆者は、読む人にわかりやすく理解してもらうために、同じ言葉を繰り返して使っているように思われます。筆者の意図はじゅうぶんに理解できます。
 けれども、そのことによって、大学入学共通テストに使う文章にふさわしいということにはならないと思います。
 これまでの大学入試センター試験に使われた文章に比べると、実にわかりやすい文章になっています。質問も、難解なものから、易しいものになっています。その落差に驚きます。読解するための設問ではなく、表現するための設問だということが理由になるのでしょう。けれども、難解なセンター試験の過去問に慣れた受験生が、そんな馬鹿げた答え方でよかろうはずはないと思って、答え方を工夫すればするほど、答え方を誤ってしまう可能性があると思います。
 具体的なことは次回に述べることにします。

| | コメント (0)

2019年5月25日 (土)

言葉の移りゆき(399)

東京人の文章

 新聞記者といえども、東京人は、東京以外の地域に住む人の心がわかっていないのではないか思うような文章に、ときどき出合います。
 これも、その一つです。途中に、デカルトの言葉「われ思う、ゆえにわれあり」が引用されていますから、「思うたい、だけん、あるばい」はそれを九州の言葉で言ったもののようです。それは理解できます。


 九州でわたしは、狩猟民として鹿や猪、鴨を追い、生活面の連載「アロハで猟師してみました」に報告してきた(22日が最終回予定)。たしかに山の中で命を取っていると、「思うたい、だけん、あるばい」と訳した方が、命の重さが伝わる。渋谷の109前、浮薄と喧騒の中でならでけえ声で「思うじゃんか、だから、あんじゃね?」。
 ちょっと違うかな。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月19日・夕刊、3版、11ページ、「取材考記」、近藤康太郎)

 「思うじゃんか、だから、あんじゃね?」というのは、デカルトの言葉を東京の言葉で言ったのでしょうか。最後に疑問符が付いていますが、何を言っているのか、よくわかりません。東京語というのは難しい言葉のようです。
 その上、「渋谷の109前」というのは東京人には十分に理解できている言葉であっても、田舎の人間には理解できません。「でけえ声」という表現が新聞社の編集委員の口から出るのも、どうかなと思います。
 この記事の見出しは、「渋谷でわれは叫ぶ 思うじゃんか、だから、あんじゃね?」となっていますが、文章で表現しようとしたことの意図が理解できません。最後の「ちょっと違うかな。」という表現は、何に首をかしげているのでしょうか。私には理解できません。
 とにもかくにも、東京の人の使う言葉は、難しいということだけが心に残りました。東京は全国共通語の中心地ということだけでなく、言葉の仕組みが難しいところだと思いました。

| | コメント (0)

2019年5月24日 (金)

言葉の移りゆき(398)

言葉を短縮することで、言葉が軽く扱われている


 流行語によって平成の時代を振り返る記事がありました。その連載で、女性の人権をテーマにした回に、次のようなことが書かれていました。
 1989年、セクシャル・ハラスメントが流行語になって、それを巡る訴訟があったということを述べて、原告の晴野まゆみさん(61)の言葉を紹介しています。


 晴野さんは、ネット社会になり、セクハラ被害者へのパッシングがひどくなったと感じる。セクハラやパワハラなどと言葉を短くすることで、言葉が軽く扱われていると懸念。「人権侵害という認識と距離が出てしまう。人権とは何か、もう一度考える必要がある」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月23日・夕刊、3版、8ページ、「平成代替わり 流行語でたどる」、伊藤繭莉)

 「言葉を短くすることで、言葉が軽く扱われている」という懸念にはまったく同感です。そのような傾向を牽引しているのは新聞や放送です。きちんと「セクシャル・ハラスメント」「パワー・ハラスメント」という言葉を使うべきです。記者はきちんとした言葉を使っているとしても、整理部が短い言葉にしてしまうという事情があるのかもしれません。見出しの文字は少なくするというのは原則かもしれませんが、何でも略してしまえという方針は間違っていることに気づかなければなりません。
 このことは、私は、この連載で何度も指摘してきました。けれども改まるどころか、ますます酷くなっていると感じています。


①「あおり運転」摘発1.8倍 / 昨年 ドラレコ映像も活用
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月23日・朝刊、14版、1ページ、見出しの言葉)

②プラに印刷 まるで金属 / 特殊技術、中小が開発
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月23日・朝刊、14版、6ページ、見出しの言葉)

③モラハラ=心への暴力 見えない支配 / 無視や嫌み…話し合えない夫 / 「私が悪い」自分責めうつ病に
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月23日・朝刊、13版S、23ページ、見出しの言葉)

 ある日の新聞の見出しの一部です。①の「ドラレコ」はドライブレコーダーです。ドラレコなどという発音は下品きわまりない発音ですが、そんなことへの配慮はありません。言葉が短くなれば、それでよい、あとは知ったことではないという姿勢です。②の「プラ」はプラスチックです。
 ③の「モラハラ」は配偶者など親密な関係の中で起きる暴力の中で、「モラルハラスメント」と呼ばれる精神的な暴力のことだそうです。比較的に新しい言葉だと思いますが、略語で登場です。「モラルハラスメント」という言葉の重みは、「モラハラ」と略すことで軽くなり、日常茶飯事の出来事かと思われるような感じになります。「言葉を短くすることで、言葉が軽く扱われている」ことを、新聞が実践しているのです。

 元の文章「平成代替わり 流行語でたどる」は、その文章全体の末尾を引用しました。「…と懸念。」などという尻切れトンボの文の次に、「 」で引用文が続いて、それでお終いという、尻切れトンボの二重奏です。晴野さんの言葉を軽く引用しただけの印象で文章全体が終わっています。NIEとして使えば、失礼な文章の見本、日本語の原則を無視した文章の見本ということになります。
 記者はこんないい加減な文章を書いていないはずです。もし、書いていたのなら、「どうせ、このような形に加工されるのだ」ということを知っていて書いたのでしょう。新聞記者は本質的にこんな文章を書かないと思います。すべては整理部の仕業だろうと思います。そして、そんな表現が新聞紙上を跋扈しているのです。情けないことです。

| | コメント (0)

2019年5月23日 (木)

言葉の移りゆき(397)

「最後の未開の地」って、どこのこと


 テレビは、まるで自分が天下を動かしているような気取りで、どこへでも入り込んでいきます。少し前までは、遠慮をしていたところへも、無遠慮に入っていきます。
 これまでになかったような場面であれば視聴者が喜びます。それを大義名分にして、とんでもないところへもカメラを入れて、視聴者を喜ばせようとします。すぐに飽きられることがわかっていても、短期間だけでも視聴率を取ればよいと考えているようです。そんな風潮をNHKも追随するようになってしまったのが嘆かわしいことです。
 家庭の風呂に入れてもらうという番組があるそうです。それを紹介する記事にこんなことが書いてありました。


 NHKの北川朗チーフ・プロデューサーは、番組の狙いについて「ネットを使えば地球上のあらゆることが調べられる時代でも、各家庭の風呂についてはネットでほとんど出てこない。最後の未開の地である家庭風呂に注目することで、市井のみなさんの人生を深く見つめることができると思った」と説明する。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月22日・朝刊、14版、18ページ、「フォーカスオン」、鈴木友里子)

 ネットに出てこないから、それが未開の地だという論理は、一般人の論理ではなく、テレビ人特有の考えでしょう。何でも絵(テレビ画面)になるという考えのもとでは、家庭風呂は、まだ絵になっていない「未開の地」であるということなのでしょう。そんな場所に入り込んで番組を作るべきではないという自戒の心はまったく喪失してしまっています。
 家庭の風呂のことがネットに出てこないということの方が、うんと正常です。この紹介記事には、番組を讃える言葉が散りばめられていますが、新聞記者にも、家庭の風呂にカメラが入り込むことの自戒心はまったく存在しないようです。
 「最後の未開の地」という大袈裟な言葉は滑稽以外の何ものでもありません。こんな言葉を使うプロデューサーは、これを最後に番組づくりをやめるのでしょうか。それとも、次々と「最後の」地を開発していく能力の持ち主なのでしょうか。もし開発力を持っているのなら、家庭風呂が「最後」であるはずがありません。言葉のまやかしです。
 馬鹿げた言葉遣いを紹介することが、新聞の質を下げることにつながるということにも、記者は注意をしなければなりません。

| | コメント (0)

2019年5月22日 (水)

言葉の移りゆき(396)

「予定調和」という一刀両断


 「予定調和」という言葉は、哲学説の根本原理として使われた言葉だそうです。そのような言葉を日常語として使ってはいけないというわけではありませんが、この言葉を聞くと、簡単に物事を切り捨ててしまうような響きを感じます。
例えば、こんな文章がありました。


 半世紀を超える地上波の演芸番組を語ろう。いや予定調和な大喜利ではない。TBSの「落語研究会」だ。
 明治からの伝統を継ぐ同名の落語会で高座を収録している。現在は地上波(関東ローカル、第3日曜早朝)、BSTBS、CSのTBSチャンネルと多重に放送している。 …(中略)…
 長岡杏子アナウンサーは、自分の意見を最小限にとどめて質問する。そうだ、聞き役に徹する奥ゆかしさも、ツッコミ全盛のテレビが失いつつある伝統だった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月19日・朝刊、14版、31ページ、「記者レビュー」、井上秀樹)

 「予定調和な大喜利」という表現の意図が理解できません。
 予定調和という言葉は、観衆や関係者などの予想する流れに沿って事態が動き、予想通りの結果になることを表す言葉のようです。途中に異常な存在が現れても、最後にはごく当たり前の結末になることのようです。意外性がないということのようです。伝聞の形で書くのは、こんな言葉を使ったことはありませんし、正確な表現意図を理解できないからです。
 この言葉は、映画、演劇、小説などの世界から、政治、経済に至るまでに使える言葉のようです。もしそうであるのなら、わが国の政治のあり方などがその典型と言えるようです。
 「笑点」という長寿番組を批判する言葉として「予定調和な大喜利」という表現は効果的なのでしょう。けれども、ある番組を「予定調和な番組」という言葉を使って貶すなら、立つ瀬がありません。このような言葉遣いをするのなら、現在のテレビ番組はほとんどすべてが「予定調和な番組」ということになるでしょう。
 私たちの歩んでいる人生も「予定調和な何十年間」という言葉で言われかねなくなります。一刀両断な言葉です。
 「落語研究会」というのは半世紀を超える番組だそうですが、地上波が関東ローカルで、しかも月1回の早朝時間帯の番組だそうです。いかに価値ある番組と認めたとしても、関東以外の人たちにとっては、知らない番組です。東京で書かれる記事にはこのような傾向があります。全国向けに書いている意識があるなら、こんな記事は書かないはずです。
 「長岡杏子アナウンサーは、自分の意見を最小限にとどめて質問する。聞き役に徹する奥ゆかしさ…」というのは日本人(日本語)が持っていた特性でした。新聞記者もその特性を失って、大袈裟な言葉を振り回す時代になってしまっているのです。

| | コメント (0)

2019年5月21日 (火)

言葉の移りゆき(395)

「100%再生可能エネルギー運行」とは

 

「再生可能エネルギー」とは、有限な資源である石油、石炭、天然ガスなどの化石エネルギーとは違って、太陽光、風力、地熱などの、自然界に常に存在するエネルギーのことです。
 全列車をそのエネルギーによって運行する試みが始まったというニュースがありました。

 

  東京急行電鉄(東京)は25日、東京都内を走る世田谷線で、電力の100%を再生可能エネルギー由来とする取り組みを始めた。東北電力グループが水力と地熱で発電した電力を供給する。東急によると、全列車を再エネだけを使って通年運行するのは日本の都市型電車では初めて。 …(中略)…
 東急によると、今回の取り組みは、従来の電気料金より割高になるが、運賃には反映させない。
 (毎日新聞・中部本社発行、2019年3月26日・朝刊、13版、6ページ)

 

 このような取り組みは、もちろん望ましいことではありますが、東京急行電鉄の取り組みによって日本全体の再生可能エネルギーの割合が上がることになるのでしょうか。そうではなくて、現状としての割合の中で、東急は再生可能エネルギーのうちの水力と地熱で発電したものを使うということなのでしょう。
 従来の電気料金よりも割高になるが、それのみを使うという考えは賞賛すべきなのでしょうが、いったいどのようにして送電されるのでしょうか。専用線を使うのでしょうか。いろいろな方法で発電されたものが一括して送電されているのなら、何だか理屈が通らないような気持ちがしないではありません。
 再生可能エネルギーだけを使うという企業が増えた場合、太陽光、水力、風力、地熱などの発電でまかなえる態勢となるのでしょうか。東急の営みは今後を考える長い長い営みの先導役であるような気がします。
「再生可能エネルギー」だから略して「再エネ」などということではなくて、もっとしっかりした言葉が生まれてほしいと思います。

 

| | コメント (0)

2019年5月20日 (月)

言葉の移りゆき(394)

「2連ポスター」は違反でないと言うが…


 選挙が告示されていないのに候補者の顔と名前を売り込もうとするポスターが氾濫しました。これって違反でないそうですが、それを違反でないとする法律自体がおかしいと思います。


 ポスターをよく見ると、「立候補予定者」は「別の人」と並んでいる。党首や国会議員だったり、著名人だったり……。その下や脇のスペースには、党のキャッチフレーズや演説会の案内などがある。
 業界で「2連ポスター」と呼ばれるものだ。あり方について議論はあるが、違反ではない。 …(中略)…
 総務省選挙課によると、2連ポスターは個人の名前や顔を表示していても、政党の政治活動のためのポスターとみなされる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月27日・朝刊、「神戸」版、13版△、31ページ、「探る!統一地方選」、西見誠一)

 統一地方選挙に至る期間に、立候補予定者と別の人とを並べたポスターが町中に氾濫しました。それをべたべたと何枚も何枚も張り並べる立候補予定者もいました。選挙前には汚らしさが極点に達しました。それでも違反でないというのは、そんなルールを作るのも政治家であるからなのでしょう。
業界で「2連ポスター」と呼んでいるとありますが、業界とは、どんな業界のことなのでしょうか。ポスターを作る印刷業界でしょうか、それとも、候補者の業界でしょうか。
 名前と顔が町中に大きく張り出されているのは、重大犯罪の犯人の手配と、もう一つは立候補予定者のようです。ポスターだけではなく、選挙が済んでも看板(置き看板)が町のあちこちに残されています。
 政治家は美に対する意識を持ち合わせていないのだろうかと思います。とりわけ、国会議員のポスターは、長い期間にわたって張り続けられますから、汚くなったものもそのままです。

| | コメント (0)

2019年5月19日 (日)

言葉の移りゆき(393)

「チーズ」と「らりるれろ」


 写真を写すときに「はい、チーズ」と言います。「チーズ」という発音が、口を横に広げてにっこりした顔つきにさせるからです。けれども、その発音とともにシャッターが切られることは少ないようで、本当ににっこりとした写真ができあがることは少ないようです。
 それに比べると、こちらは効果覿面の言葉のようです。


 「・・・・・」「もっとはっきり」「らりるれろ」
 うなずく刑務官に礼を言う受刑者。隣の受刑者が、同じように刑務官から薬を受け取る。
 錠剤や粉薬を舌の上に乗せてそこにあることを示し、水と一緒にのみ込んだ後、何もなくなった舌を再び刑務官に見せる。最後に言う言葉が「らりるれろ」だ。
 「こうした言葉を言わせるのはいかがか、各自の称呼番号で十分ではないかという議論もありました。でもそれだと薬を確実に飲んだかわからない。舌の裏まで確認できる『らりるれろ』には一定の合理性がある。薬をため込んで人にあげたり、大量に飲んだりする事案を防ぐためです」と細川隆夫所長が説明する。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月21日・夕刊、3版、1ページ、「密着Document」)

刑に服する人も高齢化して、病気がちの人も多いそうです。睡眠薬、軟便剤、降圧剤など多くの薬が必要になると言います。
 確かに「らりるれろ」を発音している人の口もとを見れば、口の中の様子がよくわかります。「舌の裏まで確認できる」という効果は、その通りだと思います。

| | コメント (0)

«言葉の移りゆき(392)