2018年11月21日 (水)

言葉の移りゆき(214)

カタカナ書きの横行

 

 二つの記事の見出しを紹介します。

 ひとつめは、JR西日本が新幹線のトンネル内に社員を座らせて、最高時速300キロの車両の通過を間近で体験させる研修をしているとニュースです。

 ふたつめは、来年の干支「亥」をかたどった干支ボトルのウイスキーの製造が、蒸留所で本格化しているというニュースです。

 

 新幹線300キロ間近で「安全意識向上」 /JR西 キケン?な研修

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181021日・朝刊、13版、35ページ、見出し)

 

 もうすぐウリ出し

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181023日・朝刊、13版、6ページ、見出し)

 

 ふたつめの見出しを見たときは、一瞬、何かの掛詞であるのかと思いましたが、関連する言葉はありませんでした。

 どちらの場合も、見出しをカタカナで書くべき理由は待ったり見当たりません。本文にカタカナ書きがあるわけではありません。最近、見出しだけにこのような傾向があるように思います。たぶん、記事を整理する人の個人的な好みなのでしょう。このようなことを繰り返していると、日本語そのもののだらしなさに結びついていくでしょうが、そういうことには気付いていないようです。

 外来語のカタカナが増えて、新聞の文章にはカタカナが増えています。記事全体の中でカタカナの占める割合はいくらぐらいでしょうか、記事全体の中での割合と、見出し語の中での割合とを比べたら、圧倒的に、見出し語に占めるカタカナの割合の方が大きいでしょう。その上に、アルファベットの略語も多くなっています。

 そのうち、見出しから漢字が消える日が来るのでしょうか……。というような皮肉を言いたくなってきます。

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2018年11月20日 (火)

言葉の移りゆき(213)

校正漏れか、意図的用字法か

 

 読書について書かれたエッセイの中に、こんな一文がありました。一文と言うにはちょっと長い文ですが…。

 

 いやしくも小説家とあろう者が愚かな気付きを、と思うけれども、携帯電話が自分の手元に着た十八年前から、メール好きの友人とずっとやりとりしていて、スマートフォンを持ったらもう、無限に読むべきものややるべきことが手の中に入ってしまったのは事実だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181022日・夕刊、3版、4ページ、「となりの乗客」、津村記久子)

 

 この文の「携帯電話が自分の手元に着た十八年前」という表現の「着た」というのは、校正ミスなのでしょうか、それとも筆者が意図的にこのような文字を使ったのでしょうか。

 校正ミスと考える場合は、二通りのことが考えられます。「着」の訓読は、きる・きせる、つく・つける、です。「携帯電話が自分の手元に来た十八年前」という「来()た」の文字を同じ発音に引かれて「着()た」としてしまったというのが、ひとつ。「着()いた」という表現の送り仮名「い」が脱落してしまったというのが、もうひとつです。

 校正ミスでないということも考えられないわけではありません。私がもらった手紙の中にも「来た」と書くべきところを、「着た」と書いたものがありましたから、世間では「来た」と「着た」の文字遣いの混同が始まっているのかもしれません。こちらに「来()る」のは、すなわち、こちらに「着()く」ということと同じようなことなのですから。

 と、鷹揚なことを書きましたが、やっぱり間違いは間違いです。文化庁が行っている言葉の世論調査などに加えたら、どんな結果が現れるのでしょうか。

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2018年11月19日 (月)

言葉の移りゆき(212)

年号の表記法

 

 日本の新聞の文章は、基本的に縦書きです。縦書きには縦書きとしての制約があります。例えば、2桁の数字は半角で書き入れることはできますが、3桁以上の数字を1文字分で書くことはできません。

 4桁の西暦年号は、4文字を使って書いていますが、新聞の文字数としてはもったいないという気持ちがあることでしょう。そのために、下2桁を半角で書くことが広く行われています。その場合、それが1900年代の下2桁の年号なのか、2000年代の下2桁であるのかは、どこかできちんと明示して、読者を混乱させないようにする工夫が必要です。

 「99年」と書いてあるとそれは1999年のことだろうと判断し、「03年」を2003年だろうと判断するのは、ごく常識的なことでしょう。けれども、「50年」は過去の1950年なのか、未来の2050年のことを言っているのかは文脈で判断しなければならないでしょう。

 さて、オリンクピックの国内聖火リレーのルート選びのことが話題になっている記事がありました。前回のオリンピックは1964年で、次回は2020年ですから、その前後のことを下2桁の年号で表記しても混乱が起こらないだろうという判断があります。

 けれども、次の文章は、どうでしょうか。

 

 前回の東京五輪で聖火リレーの最終走者を務めた坂井義則さんは、広島県三次市出身。広島に原爆が落とされた45年8月6日に生まれ、14年に亡くなった。市の担当者は「地元の子どもたちに夢と感動を与えたい」と訴える。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181111日・朝刊、13版、35ページ)

 

 聖火リレーのコースは三次市を含むルートにしてほしいという要望があるということを言っている記事のようです。

 東京オリンピックの話題は1900年代と2000年代に限られると言えばそれまでです。けれども、〈45年8月6日に生まれ、14年に亡くなった〉というのは、数字だけ見ていると、不思議な文章のように思えます。1964年当時の聖火リレー走者の中には、1800年代終わりの頃に生まれた人もいなかったわけではないと思います。〈99年生まれ〉で、60代半ばで聖火リレーを経験し、〈01年に亡くなった〉という百歳以上の高齢者がいても不思議ではありません。

 ともかく、〈45年8月6日に生まれ、14年に亡くなった〉というような、表面の数字だけ見ていると転倒しているような文章が、これからは増えていくのでしょうか。私は、受け入れたいという気持ちはありません。

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2018年11月18日 (日)

言葉の移りゆき(211)

「とてもそう思う」という不思議な日本語

 

 大学入学共通テストで導入される記述式問題は、採点に時間がかかるのは当然のことです。大学に成績が提供されるまでの時間も、現行の大学入試センター試験に比べて増えるのは当然のことです。時間がかかるから止めましょうとか、経費が増えるから導入しないでおきましょうとか、教育とは関わりのないことを理由にして、本末転倒の議論が噴出するかもしれません。

 さて、ここでは、そのような問題ではありませんが、記事の中に不思議な日本語を見つけました。

 

 朝日新聞と河合塾の共同調査「ひらく 日本の大学」で今夏、全国691大学の入試担当者に「大学への成績提供が遅くなる」かを聞いたところ、82%が「とてもそう思う」「そう思う」と回答した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181116日・朝刊、13版、6ページ、「教えて! 変わる大学入試③」、増谷文生)

 

 「そう思う」という言い方に問題はありません。ところが、「とてもそう思う」という言い方には、新聞社が関係するアンケート調査の回答項目の言葉としては唖然としてしまいます。意味は理解できますが、「とてもそう思う」などという日本語は存在するのでしょうか。

 「とても」は副詞です。程度が甚だしいさまを表します。「とても」は「そう」を修飾しているのでしょうか。それとも、「思う」を修飾しているのでしょうか。「とても・そう」などという言葉はありませんし、「とても・思う」もおかしな表現です。考えられることは、「そう思う」という連文節を、「とても」が強めているという解釈しかできません。それにしても、「思う」の程度が甚だしいというのは、どういうことでしょうか。「強くそう思う」という日本語は成り立ちますが、「とてもそう思う」という日本語は、あり得ないと思います。

 「とても」を使った言葉遣いの大半は、「とても・熱い」「とても・素晴らしい」というように形容詞にかかる場合、「とても・元気だ」のように形容動詞にかかる場合、「とても・大きな・人」のように連体詞にかかる場合などです。動詞にかかることもありますが、それは「とても・よく・効く」などのように影響力が強いことを表します。

 「とても・思う」などという不思議な日本語はありません。こんな日本語を見せつけられていると、日本語の感覚が麻痺して、こんな日本語を許容してしまう人が増えていくに違いありません。新聞社がそれを牽引しているのです。

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2018年11月17日 (土)

言葉の移りゆき(210)

漢字、カタカナ、アルファベット

 

 「JAPANツウ」という言葉だけが目に入ったとき、その言葉の意味がわかりませんでした。日本語をカタカナで書いたりアルファベット(ローマ字)で書いたりすることがありますから、「JAPAN」に続く「ツウ」がいったい何なのか理解できなかったのです。次のような文章でした。

 

 日本にまつわる素朴な謎を、番組が「JAPANツウ」と名付けた専門家たちが解き明かす。

 日本人のマグロ好きの理由を解説するために招かれた「ツウ」は、目利きとして知られる鮮魚店主。 …(中略)… 歴史学者の磯田道史さんによる、その背景の説明もあり、自分も「マグロ通」になった気分が味わえた。

 (読売新聞・東京本社発行、20181022日・朝刊、12版、32ページ、長野県向け番組ページ、「試写室」、多可政史)

 

 「JAPANツウ」とは専門家のことだと言い、鮮魚店主がその「ツウ」に祭り上げられているようです。言われた人は気持ち悪くありませんから、その言葉を嫌がったりはしないのでしょう。

 「ツウ」という不思議な日本語表記は、「通」、すなわち、ある物事によく精通している人のことだとわかるようになっているのですが、どうしてカタカナ書きにする必要があるのでしょうか。

 テレビ番組の「やらせ」が問題になっています。それは番組の演出などに関わることだけではありません。日本語をいじくり回して、おかしな日本語や表記法を作り出していることも、歴とした「やらせ」です。けれども、日本語破壊作戦が糾弾されないのは不思議なことです。それは報道機関全体が日本語破壊作戦に参戦しているから、特定の番組を糾弾できなくなっているということなのだろうと思います。

 もっとも、新聞のテレビ・ラジオ欄は、いかにも客観的な記事であるように装いながらも、放送局の宣伝媒体になってしまっておりますから、放送局や番組のことを悪く書くことなどは、はじめから、ありえないことなのです。

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2018年11月16日 (金)

言葉の移りゆき(209)

形容詞の語幹の用法

 

 「っぽい」という接尾語があります。さまざまな言葉に付いて形容詞を作ります。名詞に付いて「子供っぽい」とか「男っぽい」、動詞に付いて「飽きっぽい」とか「忘れっぽい」、形容詞や形容動詞に付いて「安っぽい」とか「派手っぽい」となります。

 こんな文章に出会いました。

 

 最近のファッション誌で目にした「女っぽ」という見出しへの違和感でした。何か共通の女性像をおしつけられているんじゃないか? 「女っぽ()」の変化が気になり、同じ雑誌の10年前と最新号を比べてみることにしました。 …(中略)

 当初、「女っぽ」に違和感を覚えた私ですが、この変化が「男ウケ」だけを考えるより女性の自立につながるのなら、アリかなとも思いました。

 10年後のファッション誌には「女っぽ」の代わりに「自分っぽ」という見出しが踊っていたらいいなと、期待しています。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181020日・夕刊、3版、2ページ、関ゆみん)

 

 私は〈「女っぽ」という見出しへの違和感〉でなく、「女っぽ」という言葉に違和感を持ちます。これはファッション誌が使い始めたのか、それとも別の出自があるのか、わかりません。

 形容詞や形容動詞の語幹は、「あっ、熱(あつ)」、「おお、寒(さむ)」、「まあ、綺麗(きれい)」などと言って、とっさの気持ちや感動を表現することがあります。これはごく自然な用法です。

 「女っぽ」も詠嘆的な表現なのでしょうか。それとも、記事にあるように「女っぽさ」という名詞の「さ」を省いたものなのでしょうか。どうも落ち着きのない言葉のように感じられます。

 この「女っぽ」は、「男っぽ」「自分っぽ」「現代人っぽ」などというように増殖しているのでしょうか。

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2018年11月15日 (木)

言葉の移りゆき(208)

「ザ」は団体名や連語にだけ使うのではない

 

 「ザ」というカタカナと、普通の日本語とを続けて使う言い方が広がっています。世界遺産を紹介するテレビ番組のタイトルは「ザ世界遺産」(関西ではMBSで放送)です。「ザ〇〇」という言い方と「ザ・〇〇」の両方があるようです。

 たとえば、こんな記事がありました。石田紀郎さんを紹介した文章です。

 

 京都大で「農薬ゼミ」を主宰し、後に大学院教授も務めたのに学会から距離を置いた。「内輪で拍手し合ってもねえ」と言って。反公害に徹し、学者というより「ザ・市民運動家」。琵琶湖の水質浄化から農薬被害の告発、干上がる中央アジア・アラル海周辺の植林まで市民とつながる活動ばかりだ。

 (毎日新聞・大阪本社発行、201811月8日・夕刊、3版、9ページ、「憂楽帳」、高村洋一)

 

 このコラムは題名も「ザ・市民運動家」となっています。

 この「ザ」のことを見だしに載せている国語辞典は少数派のようです。その少数派の辞典の説明もちょっと舌足らずです。

 

 『三省堂国語辞典・第5版』  (接頭)the〕〔英語では、定冠詞〕団体の名にかぶせて使うことば。「- ビートルズ」

 『新明解国語辞典・第4版』  (造語)the=英語の定冠詞〕①団体の名にかぶせて使う。「- ビートルズ」②英語から入った外来語の連語の一部に使う。「オン  ロック・バッターイン  ホール」

 

 この2つの辞典の説明は、団体名や、外来語の連語に使われると言うのですが、新聞記事の用例は、そのどちらにも当てはまりません。

 「ザ世界遺産」も「ザ・市民運動家」も、外来語ではない言葉の頭部に置かれています。意味を推測すると、〈それが典型的なもの、あるいは代表的なものであることを表すときに、その言葉の上に付けるもの〉あるいは、〈その言葉に安定感を与えるために、その言葉の上に付けるもの〉ということになるでしょう。

 国語辞典の編集者は、新しい言葉を見つけて、それが社会の中に定着していく姿を追って、たいへんな苦労をされていることと思います。それと同時に、ごくありふれた、何でもない言葉にも注目しなければなりませんが、それが意外な落とし穴になっているような気がします。

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2018年11月14日 (水)

言葉の移りゆき(207)

いろいろな「宣言」

 

 季語に「初雪」があって、その冬に初めて降る雪のことを言います。芭蕉に「初雪や水仙の葉の撓むまで」という句があります。暖地に住む者にとっては、ちょっとでもチラチラしたらそれが初雪かもしれませんが、富士山などではきちんと積もってはじめて「初冠雪」ということになるのでしょう。

 富士山にとっては「初冠雪」が冬の季節の到来かと思っていたら、それとはべつに「初雪化粧」があるのを知りました。

 

 富士山(標高3776メートル)の7合目から山頂までが15日朝、雪で覆われた。ふもとの山梨県富士吉田市は「初雪化粧」を宣言した。宣言は昨年と比べて11日早い。 …(中略)

 甲府地方気象台によると、山頂の15日午前7時の気温は零下8・6度。13日に気圧の谷が通過し、雨が降ったことでまとまった雪になった。山頂が雪をかぶる「初冠雪」は9月26日に同気象台が発表したが、その後、暖かい日が続き、夏山の姿に戻っていた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181015日・夕刊、3版、1ページ、河合博司)

 

 気象台が発表する「初冠雪」は観測データに基づいたもので、客観性を持っているように思いますが、「初雪化粧」はずいぶん情緒的な言葉のように思います。山梨県側と静岡県側との「初雪化粧」の宣言がずれても、おかしくはないのでしょう。

 季節を表すいろいろな言葉があるのはおもしろいことです。むしろ季節の推移を知らせてもらえるから、ありがたいことかもしれません。

 けれども、ちょっと不思議に思うことがあります。台風などでも何時にどこに上陸したという情報は伝えられますが、その後は「日本海に抜けた」という程度で、何時にどこから抜けたのかということはわからないことがあります。「冠雪」や「雪化粧」はしっかり伝えられますが、いつ積雪が完全になくなったというようなことは伝わってきません。気象台では観測しているのでしょうが、新聞などが重視していない情報であるのかもしれません。

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2018年11月13日 (火)

言葉の移りゆき(206)

記念日はいくらでも認定できる

 

 何かを証明したり認定したりするという行為は、どのような根拠によって成り立っているのでしょうか。こんな記事がありました。

 

 語呂合わせで9月2日は「おおきにの日」、3月9日は「ミックスジュースの日」-。大阪の言葉や食文化を知ってもらおうと、大阪市中央区のコーヒー販売店が申請した記念日が日本記念日協会(長野県佐久市)に認定・登録された。11日、協会から記念日登録証が授与された。 …(中略)

 同協会は1991年に発足。協会によると、審査に合格すれば、申請者が原則として1件10万円(税別)を支払い、登録される。現在、登録されている記念日は約1700件。昨年だけで200件以上の記念日が登録され、近年、増える傾向にあるという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年1月11日・夕刊、3版、1ページ、半田尚子)

 

 このような協会に審査してもらって記念日として認定される、というしくみが理解できません。民間の協会が登録料で成り立っているのであれば、記念日はいくらでも増殖することになるでしょう。

 「記念日協会って何物?」という見出しの記事がありました。1月11日の記事と関係があるのかどうかはわかりませんが、疑問を持っても当然でしょう。

 

 「信濃の国」県歌制定の日、牛たんの日、ドラゴンクエストの日、難病の日-。これは企業や自治体などが今年、一般社団法人日本記念日協会に登録した記念日の一部です。審査に合格する記念日は年間200件以上。協会って何? 審査ってどうするの? 詳しく話を聞いてみました。

 代表理事で長野県佐久市在住の加瀬清志さん(65)は放送作家。 …(中略)

 申請のあった記念日は毎週月曜日、インターネット電話の会議で審査されます。加瀬さんが仕事などで知り合った主婦や会社経営者、学生といった様々な肩書を持つ「普通の人たち」が出席。 …(中略)… 加瀬さんを除く6人のうちの過半数の同意で合格します。 …(中略)… 最終的には加瀬さんが判定します。

 昨年は8割強が合格。私も審査員をしたくなりましたが残念ながら募集はしていないそうです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月28日・夕刊、3版、2ページ、鈴木智之)

 

 公的な記念日も、この協会に申請しなければならないのでしょうか。それにしても、閉鎖的な僅かの人数で審査するとは驚きです。年間200件以上、登録料が2000万円を超えるのですから、効率的なビジネスです。

 人間というものは、他者から証明や認定を受けなければ、気持ちの上で安定感を得られないのでしょうか。その記念日が多くの人に支持され認められれば、このような協会の厄介になる必要はないと思うのですが…。

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2018年11月12日 (月)

言葉の移りゆき(205)

誰が何を認めるの?

 

 大阪市港区にある、標高4・5メートルの天保山を、地元住民でつくる山岳会が「日本一低い山」とうたって登山証明書の発行を始めてから20年を迎えたというニュースがありました。発行枚数は約6万枚になったそうです。一種の遊びだと言ってしまえば、笑ってすむ話です。記事に、こんなことが書いてありました。

 

 天保山は1831(天保2)年ごろ、河川工事で出た土砂を積み上げてできた人工の山だ。大阪湾を望む公園にあり、入り口から1分足らずで山頂に着く。証明書の発行は、地元の橋本誠さん(66)ら有志の数人でつくる「天保山山岳会」が1998年から始めた。 …(中略)

 国土地理院によると山の明確な定義はなく、地元で昔から山と呼ばれているか、などが地形図への掲載基準。日本一低い山がどこかの公式見解はない。

 天保山に対抗し、「自然の山としては日本一低い」とPRするのが標高6・1メートルの弁天山(徳島市)だ。NPO法人「弁天山保存会」の山下釈道理事長(55)は「地元に誇りを持ち、競い合いながら盛り上げていければ」とエールを送る。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年8月22日・夕刊、3版、9ページ、竹田迅岐)

 

 「日本一低い山」ということを証明するものが何もないのに、その山に登ったということを証明するというのは、矛盾に満ちた遊びのようです。

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2018年11月11日 (日)

言葉の移りゆき(204)

言いたい放題の数値主義

 

 もし大阪で万国博覧会が開催されることになったら、もし阪神タイガースが優勝したら、もし北陸新幹線が大阪まで延伸されたら、そのときの経済効果は何億円(あるいは何兆円)になるという計算が行われて、発表されることがあります。関西ではある特定の大学教授の計算が重んじられているようで、その方の名前を見ることが多いのです。

 けれども、その経済効果をどのようにして算出されたのかということを詳しく説明したものに接したことはないように思います。その数値が正しいのか正しくないのか、後になって検証されたという話も聞きません。人目を引くようなことを言って、結果的には言いたい放題であったような気がしないでもありません。

 さて、似たようなことを報じる記事があります。

 

 神戸市は、2017年に市内の観光地やイベントを訪れた人が過去最多の3933万人だったと発表した。 …(中略)

 市観光企画課によると、内訳は観光地が前年比10・5%増の2394万人、行事やイベントが同15・5%増の1539万人。観光地を訪れた人のうち、日帰り客は同18・6%増の1858万人で、宿泊客は同5・9%増の536万人だった。観光消費額は同260億円増の3442億円。消費額単価は日帰り客が8108円、宿泊客が3万6117円だった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月27日・朝刊、「神戸」版、13版△、27ページ、野平悠一)

 

 県は昨年度に県内の観光地を訪れた人が1億3905万人だったと発表した。前年度より488万人増え、記録の残る1980年度以降で最多を記録した。 …(中略)

 最多は阪神甲子園球場(432万人)で、明石公園(246万人)、姫路城(182万人)、淡路ハイウェイオアシス(167万人)が続き、前年度と順位は変わらなかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月27日・朝刊、「神戸」版、13版△、27ページ、川田惇史)

 

 喜ばしいニュースには違いありませんが、どのようにして集計したものか、わかりません。「イベント」に参加した人数は、計算しようとすればできるかもしれません。けれども「観光地」を訪れた人数は、どのようにして集計したのでしょうか。

 阪神甲子園球場はきちんとした入場者数をはじき出せるでしょうが、明石公園のように出入り自由で、地元の人が日常的に使っている場所はどのようにして計算するのでしょうか。姫路城は入場料を払って登閣した人だけでしょうか、周囲を散策した人を含めているのでしょうか。淡路ハイウェイオアシスはわずか数分間で買物をした人も計算の中に入れているのでしょうか。

 消費額についても同様です。宿泊料はともかくも、日帰り客の消費額など算出できるものなのでしょうか。

 兵庫県の計算で不思議なのは、1億3905万人のうち、上位の4か所の合計は1027万人に過ぎません。その10倍ほどの人を集める観光地が県内に散らばっているのでしょうか。まったく実感が伴いません。

 人出が多かったとか、人出が増えてきたとか言うだけでは具体的でありませんから、何でも数値で示したくなる気持ちは分かります。けれども、計算の仕方によって数値に格段の相違が現れることもあるでしょう。総計1億何千万という数字が半減することもあるかもしれません。こういう数値は言いたい放題のような気がしないでもありません。

 報道機関も、何の疑いもなく、発表された数字を受け売りしているように思われてなりません。

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2018年11月10日 (土)

言葉の移りゆき(203)

どのような言葉に落ち着くか

 

 大規模な災害によって街頭の信号機が停電して混乱するという事態が起きました。そのことに関連したニュースで、非常用電源付きの信号機の整備率が低いことについて、こんな談話がありました。

 

 災害時の交通計画を研究している東北大災害科学国際研究所の奥村誠教授は「費用がかかるため、重点的に配備を進めていくべきだ。信号機をあまり必要としないロータリー型の環状交差点を整備することも有効だ」と話している。

 (毎日新聞・大阪本社発行、20181012日・夕刊、3版、7ページ)

 

 談話の後半では、外国で整備が進んでいる〈信号機を必要としないロータリー型の環状交差点〉のことを述べているのですが、ちょっと長い言葉になっています。これを短くすれば、〈ロータリー型環状交差点〉となったり〈環状交差点〉となったりするのでしょうか。今後、どのような言葉に定着していくのか見守りたいと思います。

 そこで気になるのは、まったく新しい言葉が導入されることです。それは、言うまでもなく、外国語をそのまま取り入れるという愚直なやり方です。外国語の、無批判な取り込みです。〈ロータリー型交差点〉や〈環状交差点〉で意味はじゅうぶん理解できるのですから、第三の言葉を使わないでほしいと思います。外来語の氾濫を阻止するためには、ひとつひとつの言葉ごとに「阻止」の姿勢を持つことだと思います。

 別の記事を引用します。

 

 長野県軽井沢町、飯田市など全国16市町で構成するラウンドアバウト普及促進協議会は2526日、同町でラウンドアバウト(環状交差点)サミットを開催する。 …(中略)… 町内の六本辻ラウンドアバウトの視察を予定し、600人弱が参加する見通しだ。

 ラウンドアバウトは2014年9月の道路交通法改正以降、各地で運用が始まった。

 (日本経済新聞・東京本社発行、20181023日・朝刊、「長野」版、35ページ)

 

 法律で既に「ラウンドアバウト」という言葉を使っているのかもしれません。けれども、法律は厳密な規定を求められますから、この言葉が必要であるとしても、日常語の中に侵入させなくてもよいはずです。

 例えば、海外旅行案内でも「ロータリー」という言葉でじゅうぶん、用が足りています。

 

 都市部でも田舎の道でも、信号ではなくロータリーが多く設置されている。交通量の多いロータリーは手前に前方優先の標識が出ているので、一時停止して安全を確認してから入る。

 (ブルーガイド海外版編集部、『わがまま歩き26 フランス』、実業之日本社、2007年8月10日発行、419ページ)

 

 〈ロータリー型交差点〉や〈環状交差点〉や〈ロータリー〉など、既に日本語の中に定着した言葉で表現できるのなら、新しい言葉を導入する必要はありません。官庁や報道機関が率先して外来語の氾濫に加担することだけはやめてほしいと思います。

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2018年11月 9日 (金)

言葉の移りゆき(202)

1400億年の「安泰」

 

 「安泰」という言葉は、無事で安らかなことを表します。危険を感じたり心配などが生じたりしないことです。

 この言葉の具体的な使い方を考えてみます。母子ともに安泰だ、と言ってもせいぜい何年か何十年という長さでしょう。武士の世の中が安泰だ、の場合は長く見積もって何百年というところでしょう。極端な場合は、期末試験が済んでしばらく安泰だ、と言うようにわずか数日間のこともあるでしょう

 「安泰」は、人間の心の中のありさまに関わる言葉です。客観的事実を示す言葉ではないと思います。

 次のような記事がありました。

 

 宇宙はこのまま静かに広がり続けるのか、それとも速く広がり過ぎて引き裂かれてしまうのか--。すばる望遠鏡で多くの銀河を精密に観測した結果、少なくともあと1400億年は「安泰」だと分かった。東京大学と国立天文台などのチームが26日、論文を公開した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月26日・夕刊、3版、7ページ、東山正宜)

 

 「少なくともあと1400億年」というスケールは、「無常」だの「常住」だのという考えの及ぶところではありません。一人一人の人間の人生観・世界観をはるかに超えています。そのような先まで心配する人はいませんから、どんな情報を得ても、無事で安らかであって嬉しいと感じる人はいないでしょう。「ああ良かった。これで安心した」と胸をなで下ろす人がいないような事柄に、「安泰」という言葉はふさわしいのでしょうか。

 記事では「安泰」にはカギカッコが付けられています。いわば比喩表現だということを表明しているのでしょう。

 それでは、このような場合にどんな言葉を使えばよいのかということになると、まったくわかりません。1400億年というスケールのもとで、「安泰」に代わる、ふさわしい言葉があるようには思えません。そんな時間のスケールにまで人間の思いが到達していないのですから、言葉があるはずがありません。考えてみたことがないから当然です。

 ここは、「変化がある」とか「ない」とかの、客観的な言葉しか見つからないように思えるのです。

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2018年11月 8日 (木)

言葉の移りゆき(201)

「当局」から「放送局」へ、現代の伏せ字

 

 かつての時代の伏せ字は、「当局」の指示によるものが多く、教科書などにも墨が塗られたりして、印刷物の暗黒時代がありました。

 伏せ字は、明記することをはばかる場合に使われましたから、現代にあっても不思議ではないのかもしれませんが、そこには読者への配慮が無くてはいけません。

 テレビの画面には、制作者の勝手な思惑によって、あるいは視聴者に興味を抱かせるようにしむける作戦によって、「〇〇」のような表記が横行しています。そして、新聞の番組表(局別、時間帯別の表)にもその傾向が見られます。

 次は、一般の文章の中に「〇〇」の伏せ字が現れるかもしれないと危惧しておりましたが、遂に現実のものとなりました。やっぱりテレビ番組に関する記事です。

 

 徳光和夫の名曲にっぽん ★BSテレ朝 夜7・00 松原のぶえは、自分の命を救ったきっかけは、ある匂いだったことを告白する。麻倉未稀は、乳がんの早期対策を語る。また、橋幸夫が今一番夢中になっている〇〇を公開する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201811月2日・朝刊、13版、21ページ、「きょうの番組から」)

 

 現代の伏せ字は、当局ではなく「放送局」によって画策されているようです。しかも、意図が不純です。明記するのをはばかるから伏せ字にしているのではなく、その番組を見るように誘導するための方策に過ぎません。

 日本語に関する限り、勝手気ままにし放題となっているテレビ番組に歯止めがかかっている気配はありません。話し言葉が混乱している番組もありますし、画面の字幕が勝手気ままな番組もあります。それが新聞記事にまで影響し始めました。

 新聞社は、番組紹介記事を、他社からの配信記事としてそのまま載せるのではなく、自主的な規制をすべき時期に来ていると思います。

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2018年11月 7日 (水)

言葉の移りゆき(200)

東京の一極集中

 

 「総務相『東京一極集中はもう限界』」という見出しの記事を読みました。その通りです。東京の一極集中は是正の方向へ持っていかなければなりません。ところが、その記事に書かれていることには驚きます。短い記事ですから、全文を引用します。

 

 石田真敏総務相は4日、省内の新旧大臣の交代式で「東京一極集中はもう限界に来ている」と述べ、「本当に安心安全な快適な首都とはどういうことか、東京都、全国の皆さんと考えなければいけない」と訓示した。さらに「先日の台風で(都内では)駅前に人があふれていた。あの台風でこういう混乱が起こるのかと。もし、予想される大災害が起こったらどうなるのか」とも語った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月5日・朝刊、13版、4ページ、「政界ファイル」)

 

 「東京一極集中は限界に来ている」だから一極集中をやめよう、という考えではないのに驚きます。「東京一極集中は限界に来て」安心安全でなくなっているからその方策を考えて、さらに一極集中を推進しようという考えのようです。

 東京一極集中をやめるためには、東京が安心安全な都市ではないということを徹底して広報し、地方への分散を図るべきでしょう。東京の一極集中(安心安全な首都)のことを、「東京都」だけでなく「全国の皆さんと考えなければいけない」という主張は的外れもはなはだしいと思います。

 安心安全が欠如してはいけませんが、東京(および首都圏)をもっと不便な都市にすることが必要です。「台風で駅前に人があふれて」「混乱が起こる」ような都市だということを徹底して知らさなければなりません。東京に欠陥があることを広報することが、東京一極集中を回避するためのひとつの方法だと思います。

 東京を、地方都市や田舎よりももっともっと暮らしにくい場所にしなければなりません。東京にばかり国家予算を注ぎ込むことを止めて、地方都市や田舎が快適になるようにしなければなりません。東京の思い上がりが極まった感じがします。

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2018年11月 6日 (火)

言葉の移りゆき(199)

願望の押し付け

 

 ときどき見かける言葉遣いですが、それがいくつも並ぶと、心の中を押し付けられているように感じてしまいます。こんな広告がありました。いくつものツアー企画の一つ一つに添えられている言葉です。

 

 一生に一度は泊まりたい至極の宿ミステリー4日間

 人生で一度は見てみたい14景 充実の四国

 加賀・飛騨一度は訪ねたい8名所

 (読売新聞・大阪本社発行、201810月9日・夕刊、3版、Bページ、広告特集、クラブツーリズムの広告)

 

 「泊まりたい」「見てみたい」「訪ねたい」というのが、ツアーを企画した人の願望であるのなら問題はありません。その場合は、広告などを出さずに、企画者本人が旅に出ればよいのです。

 これが広告である限りは、あなたは「泊まりたい」「見てみたい」「訪ねたい」という願望を持っているはずだと押し付けているのです。「泊まりたい」「見てみたい」「訪ねたい」という気持ちを持たないのなら、あなたはおかしい。願望を持って旅に出るべきだと言っているのです。そうでなければ、こんな広告を出す必要はありません。

 考えてみれば、広告はすべて、このような心理操作を行っているのかもしれませんが、こんなに次々と言われたら、反発する気持ちも湧いてきます。

 この広告には、他に、「ご好評により出発決定多数!」「総合満足度93%」とか、不思議な言葉で満たされています。あなたにとっても好評なはずだ、あなたも満足するはずだ、と言わんばかりの表現です。

 誇大広告が問題となって、その規制も行われるようになりました。けれども、旅に出て、その旅に満足するか不満の心を持つかについては、個人差が大きいと思います。願望やその達成感については、誇大広告であるかどうかの判定は難しいと思います。だから、旅行企画の広告は何を言っても良いのだ、という考え方でキャッチフレーズを作られたのでは困ります。

 旅先の各地の魅力を語りかけるような広告は作れないのでしょうか。広告を受け取る側の心に寄り添った表現はできないのでしょうか。計画は粗製濫造で、人数を集めて「はい出発」というようなツアーはそろそろ反省期に入っていると考えるべきではないでしょうか。

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2018年11月 5日 (月)

言葉の移りゆき(198)

「言葉が立ち上がり」、「アイデアが立っている」

 

 たまたま同じ日の、同じ新聞の記事ですが、「立つ」という言葉の使い方を見ました。大げさに言えば、ちょっと身震いする感じです。

 

 今回、「私」が久々に立ち上がったことは注目に値する。2016年以降、所信表明演説でも施政方針演説でも、なぜか「私」という主語を明示した語りかけが消えていたのだが、堂々たる復活を遂げた。「激動する世界を、そのど真ん中でリードする日本を創り上げる。次の3年間、私はその先頭に立つ決意です」

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181029日・朝刊、13版◎、4ページ、「政治断簡」、高橋純子)

 

 「新聞に載るような大事件ではないが、市民のみなさんのアイデアが立っている事実」を扱うと、新井秀和プロデューサーは改編説明会で語った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181029日・朝刊、13版▲、22ページ、「フォーカスオン」、真野啓太)

 

 一つ目の記事。演説の中で「私」という言葉が使われるか、使われないかということは、言わんとする演説の強さを左右します。「私」という主語の有無は重要です。記事の趣旨はわかります。

 けれども、こういう場合、主語が立ち上がるとか、言葉が立ち上がるとかの表現するのでしょうか。言葉がむくむくと頭を持ち上げてくるような印象で、不気味な表現であると思います。見出しは「飲まなきゃ聴いてられん」となっていて、記事全体はその見出しに象徴されるような書きぶりです。論調については批判しません。けれども、〈「私」が久々に立ち上がる〉などという日本語を真似るような人が出てこないことを祈るだけです。

 二つ目の記事。「アイデアが立っている」という意味、含意、語感が理解できません。アイデアにあふれているということと、どう違うのでしょうか。こんな言葉を次々と使うような人が番組を作る中心にいるのかと思うと、唖然とするのです。人と違った言葉を使わないと自分の存在感が示せないということなのでしょうか、頭に浮かんだ言葉を深く考えないで口にしてしまったのでしょうか、それとも、放送の世界だけの特殊な言葉(隠語)なのでしょうか。いずれにしても、こんな言葉が日本語の中に入り込んでこないようにしなければなりません。

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2018年11月 4日 (日)

言葉の移りゆき(197)

「封鎖」と「閉鎖」

 

 大阪の御堂筋を全面歩道にすることを目指して、その側道の一部を通行止めにする実証実験が始まりました。それを伝える新聞記事です。

 

 大阪市中央部を南北に貫く御堂筋は長さ約4・2キロ、幅約44メートルの国道で、大阪市が管理する。実験対象は道頓堀川の南側から千日前通までの約200メートルで、東側の側道を封鎖する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月9日・夕刊、3版、8ページ、半田尚子)

 

 実験区間には御堂筋本線(4車線)とは別に、両側に1車線ずつ側道があり、このうち東側の側道(幅約5メートル)を閉鎖し、歩道にする。

 (読売新聞・大阪本社発行、201810月9日・夕刊、3版、12ページ)

 

 同じことを報ずる記事ですが、使う言葉が違って、「封鎖」と「閉鎖」になっています。

 「閉鎖」は、出入り口などを閉ざしたり、施設などを閉じたりして、その機能を停止させることです。「封鎖」もほぼ同様の意味だと思いますが、受ける印象は同じではないように思います。

 「封鎖」という言葉には、かつての学園紛争の時代にあった「大学封鎖」とか、沖縄の辺野古の埋め立て工事を行わせないようにする「道路封鎖」とか、強い力が働いているような印象が伴います。非常事態への対応と言ってよいかもしれません。

 それに対して「閉鎖」は、インフルエンザによる「学級閉鎖」とか、経営不振による「工場閉鎖」とか、やむをえない事情が伴った、自然な成り行きのようにも感じます。

 逆の言葉遣いをしてみましょう。「大学閉鎖」は学生の減少などによる結果かもしれませんし、「工場封鎖」は紛争による措置かもしれないと感じてしまいます。

 朝日新聞の場合は、見出しも「御堂筋 側道200メートル封鎖 / 歩道化へ実証実験」となっていて、力ずくの「封鎖」の印象が強いのですが、添えられた写真には看板が写っていて、そこには「東側側道を閉鎖し、自転車歩行者道を拡幅しています」という文字が見えます。この「封鎖」は記者が選んだ言葉であるのかもしれません。

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2018年11月 3日 (土)

言葉の移りゆき(196)

新聞や国語辞典が混乱していないか

 

 今回は、新聞記事を先に引用します。なんでもない言葉です。

 

 トヨタ自動車と携帯電話大手ソフトバンクは4日、自動車の次世代技術で提携する方針を固めた。「ライドシェア(相乗り)」や自動運転など広範囲な分野で協業するとみられる。

 (毎日新聞・大阪本社発行、201810月4日・夕刊、3版、1ページ)

 

 トヨタ自動車とソフトバンク。日本を代表する大企業が、自動運転車を使った移動サービスの実現に向けて手を携える。 …(中略)

 中核を担うのが1月に披露した自動運転車「eパレット」だ。相乗りにも使え、この分野で協業する米ウーバー・テクノロジーズへの出資を表明した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月5日・朝刊、13版、11ページ、生田大介・竹山栄太郎)

 

 2つの記事で使われている「協業」という言葉は、異なる会社が力を合わせて事業を展開することのようで、文脈に違和感はありません。けれども、このような場合に、連携とか共同開発とかの言葉を使っても、「協業」という言葉をあまり見かけなかったように思います。

 念のため国語辞典を引いてみました。びっくりしました。

 

 『三省堂国語辞典・第5版』  農家や小さな会社・商店が、おかねを出しあって、共同で事業の経営をすること。

 

 この定義に従えば、「日本を代表する大企業」が「協業」するというのは、おかしいではありませんか。他の国語辞典を見てみます。

 

 『現代国語例解辞典・第2版』  労働者が、一定の生産を行うために仕事を分担、協同して組織的に働くこと。

 『明鏡国語辞典』  一定の生産過程で労働者が仕事を分担し、協同して組織的に働くこと。また、その生産形態。

 『新明解国語辞典・第4版』  同一の・(相関連する)生産過程で、労働者が同一計画の下に協同作業を行うこと。

 『岩波国語辞典・第3版』  ある生産工程を、大勢の労働者が、分担し合って組織的に働くこと。

 

 『三省堂』以外の辞典の定義は、「労働者が」「組織的に働く(または、協同作業をする)こと」という点で共通しています。会社同士の関係ではないようです。

 「広辞苑」は少し詳しい説明になっており、「協業経営」「協業組織」という言葉も載せられています。農業との関連が強いような説明です。

 

 『広辞苑・第4版』  一連の生産工程を多くの労働者が分担して協同的・組織的に働くこと。単純協業。→分業

   協業経営 農業経営の全部門または一部の部門を複数農家が協同で行う経営。

   協業組織 農機具の共同利用などのように農業生産工程のうち一部を複数農家が協同で行うこと。

 

 整理をすると、次のようになります。

①毎日新聞、朝日新聞……大会社と大会社の間で行うこと。

②『三省堂国語辞典』……農家や小さな会社・商店が共同で行うこと。

③上記のその他の辞典……(一定の組織内で)労働者が分担して行うこと。

 「協業」というのは難しい言葉ではありません。それ故に、かえって、自由な使い方が広がっていきそうな危うさを感じざるをえないのです。

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2018年11月 2日 (金)

言葉の移りゆき(195)

「善戦」とは誰が評価するのか

 

 「善戦」という言葉の意味は、全力を尽くして(あるいは、実力を十分に発揮して)よく戦うということですから、「健闘」という言葉に通じるところがあるように思います。

 したがって、勝者に使ってもよく敗者に使ってもよいはずですが、現実として勝者に使うことはありません。勝者には勝ったことを称えればよいから、使う必要がないのでしょう。

 とは言え、敗者に対して無差別に使えるわけではなく、それなりの判断が必要でしょう。文字通り全力を尽くして戦った場合とか、予想以上の力を発揮した場合などでしょう。

 自民党総裁選挙についての文章がありました。

 

 勝者の安倍晋三首相は争った石破茂元幹事長の健闘をたたえていたが、驚いたのは麻生太郎副総理兼財務相が「どこが善戦なんだ」と言ったことだ。

 いや、得票上の数字の見方はいろいろあろう。あろうが、勝者の側に立つ実力者から発せられた言葉としていかがなものか。 (中略)

 「善戦」というのは「強敵に対して力を尽くして実力以上に戦うこと」と手元の辞書にある。「実力以上に」という言葉の意味するところをちゃんと理解していれば麻生氏も善戦という言葉を氏なりに受け入れられたのではなかろうか。ともあれ自信たっぷり、ストレートに放つ「麻生語」にはしばしば考え込む。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年9月28日・夕刊、2ページ、「昨今ことば事情」、近藤勝重)

 

 「善戦」の使い方を観察すると、勝者が敗者を指して直接、「善戦した」と言うことはないでしょう。「善戦」は第三者が見て評価する言葉です。安倍陣営が石破陣営のことを、「善戦した」「善戦していない」と言うなら、日本語の使い方を間違えていると言わなければならないでしょう。

 しかも第三者が、敗者のことを「善戦していない」というような、打ち消しの言葉で表現することはないと思います。力の差がありありと見て取れる場合は「善戦」という言葉を使いません。この場面に「善戦」という言葉を持ち出し、それを打ち消し表現にしたことが誤りの出発点であると言わねばなりますまい。

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2018年11月 1日 (木)

言葉の移りゆき(194)

軽薄な意味での「厚み」

 

 「厚みがあって、読みがいのある本」とか、「厚みがあって、信頼できる人」とか言うことがあります。「厚み」という言葉は、頼もしさや重々しさをもったものを表すことが多いように思います。客観的な数値などで判断するのではありませんから、その言葉を発する人の主観に支えられた言葉であるのです。

 言葉には長い間に培われてきた語感があります。「厚み」は、「厚さ」とは違うのです。「3・5ミリの厚さの板」というのと、「相当な厚みを持った板」というのとは、その言葉を発する人の思いが異なっています。

 だから、次のような文章には、違和感を覚えます。

 

 65歳以上で一人暮らしをする人の割合は今後、厚みを増すことが予想されている。

 総務省の国勢調査や国立社会保障・人口問題研究所によると、65歳以上の高齢者で一人暮らしをしている人の割合は1990年時点では男性が5・2%、女性が14・7%だった。それが2015年にはそれぞれ13・3%と21・1%に上昇。40年は男性20・8%、女性24・5%になると推計される。

 (日本経済新聞・東京本社発行、20181022日・朝刊、13版、35ページ)

 

 人生経験豊かな高齢者が増えることによって、人口構成に深みが出来て、豊かな社会に役立つというのであれば、「厚み」という言葉にふさわしいと思います。

 けれども、高齢化社会を問題視して、それを忌避したいと考えているような論調の文章では「厚み」という言葉はふさわしくありません。

 総務省や国立社会保障・人口問題研究所などが「厚み」という言葉を使っているのか、記者の判断で使っているのかはわかりませんが、ちょっとした言葉遣いの違いで、発言者の言葉に対する細やかさが露呈してしまうように思われます。

 上の記事には、「厚み増す単身高齢者」という見出しが付いています。数値が増えれば、単純に「厚み増す」と言うのは、いかにも経済紙らしい表現です。

 

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2018年10月31日 (水)

言葉の移りゆき(193)

「波間に浮かぶ」のは小舟のはず

 

 国語辞典を引くまでもなく言葉の意味がわかる場合でも、その使い方に面食らう場合があります。

 「波間に浮かぶ」というときの「波間」は、波のうねりとうねりの間のことです。例えば、椰子の実が波間に漂うことがあります。小さな舟ならば、荒れ狂う海の波間に翻弄されることがあるでしょう。舟よりも高い波頭の間ならば、「波間」という表現がぴったりするでしょう。

 さて、次のような文章は、ふさわしい使い方なのでしょうか。

 

 北海道別海町の野付湾で22日、ホッカイシマエビの秋漁が解禁され、三角形の帆をはためかせた名物の打瀬舟が波間に浮かんだ。

 明治時代から続く夏と秋の伝統漁法。エビが生息する水深2メートルほどの浅瀬の海草を傷めないよう風の力で船を動かし、漁をする。

 午前6時過ぎ、約20隻が沖で次々と帆を広げ、風の向きや強さを見ながら帆を二つ三つと増やしたり折りたたんだりして速度を調整し、漁にいそしんだ。

 (読売新聞・東京本社発行、20181023日・朝刊、12版、37ページ)

 

 記事には写真が2枚、添えられています。船は、わずかに波をうつ水面に浮かんでいるように見えます。弱い風に向かって帆を上げているようです。なんとも長閑な風景です。

 「波間に浮かぶ」のではなく、「さざ波に浮かぶ」と言うのがふさわしい気がします。「波間」は大袈裟すぎるように感じます。

 「波間」には、波が寄せてくるまでの絶え間という意味もあります。けれども、この漁は、そんな折を見計らって出漁したようには見えません。穏やかな天候のように感じられるのです。

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2018年10月30日 (火)

言葉の移りゆき(192)

「裏メニュー」と「裏界線」

 

 テレビに「裏番組」という言葉があります。ほんとうはどちらが表か裏か決められないのですが、話題にしている番組以外はすべて「裏番組」と決めつけて使うようです。

 食べ物屋に「裏メニュー」というのがあって、これは正式のメニューに載っていないようなものを指すようです。お馴染みさん限定という気配がします。

 けれども、隠れないで堂々としている裏メニューもあるようです。

 

 リーグ3連覇に王手をかけた広島カープ。大阪市福島区の広島お好み焼き店「お多福」が、ファンの願いを込めた「裏メニュー」を売り出した。

 名前はずばり、「カープ黄金期広島お好み焼き」。その名前通り、ソースの上に、10センチ四方の金箔4枚があしらわれているのがポイントだ。

 値段は3600円(税別)だが、金箔は「コストが高い」と店主。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月23日・朝刊、13版、31ページ、「青鉛筆」)

 

 名前があって、値段も公表されて、これでいったい、何が「裏」なのかと思います。けれども、こんなお好み焼きがあるなんてと、客の「裏をかく」商法なのかもしれません。

 

 さて、次は、ほとんどの人に知られていないと思われる「裏」の話題です。

 

 建物と建物の間に造られた飯田市街地特有の狭い小路「裏界線」を活用して街を活性化しようと、明治大(東京)の学生たちが21日、裏界線にレッドカーペットを敷いて露店を出し、1日だけの商店街を開設した。 …(中略)

 裏界線は1947(昭和22)年に市街地を焼き尽くした「飯田大火」後に発達した小路。幅2メートルほどで避難路であると同時に延焼を防ぐ防火帯でもある。都市設計を学ぶ同大の「建築・アーバンデザイン研究室」のゼミ生は昨年4月、研修旅行で飯田を訪れた際に裏界線を知り、車が通れない狭さと古い土蔵の壁などが醸し出す風情などに着目。

 (信濃毎日新聞、20181022日・朝刊、23ページ)

 

 「裏界線」には〈りかいせん〉というルビが振られており、飯田大火後の事情も説明されていますから、長野県内でもこの言葉を知っている人は少ないのかもしれません。

 「裏(表通りでないところ)」に、「界(さかい。しきり)」のために設けた、「線(細く長いもの)」であるのでしょう。事務的な言葉で、お役所の命名であるような気がします。けれども今では、街の雰囲気を盛り上げるための、格好の場所になっているようです。

 

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2018年10月29日 (月)

言葉の移りゆき(191)

スポーツで行えば八百長だ

 

 報道機関というものは不思議な存在で、まだ起こっていないこともニュースにすることができます。

 1024日、臨時国会の召集日の夕刊の記事は、まさにそのような書き方でした。

 

 第197臨時国会が24日召集され、安倍晋三首相の所信表明演説が同日午後の衆参各本会議で行われる。首相は来年10月の消費税率10%への引き上げに向け「経済に影響を及ぼさないようにあらゆる施策を総動員する」と表明。

 (毎日新聞・大阪本社発行、20181024日・夕刊、4版、1ページ、高山祐)

 

 まだ発言が行われていないのにカギカッコで表現し、「表明した」とか「表明する」とかでなく、「表明」という言葉で文を終える乱暴さです。

 以下、この記事の、文末表現を列挙します。

 

 〇……改革する意欲を示す。

 〇……与野党協議の進展への期待感を表明する。

 〇……努力を重ねる」と述べ、自民党案の提示を機に議論を深めたいと意気込む。

 〇……新しい国創りに挑戦する」と表明。

 〇……世論の不信感にも配慮する。

 〇……「出入国在留管理庁」に格上げする意向を示す。

 〇……人材が集まる日本を創り上げる」と述べる。

 〇……「復旧を加速する」と表明。

 〇……「3年間集中で実施する」と表明する。

 〇……決意で臨む」と強調する。

 〇……日露平和条約を締結する」と改めて表明する。

 〇……「新たな段階へ押し上げる」と語る。

 〇……結果を出す」と述べる。

 

 1面トップ記事ですが、ここまでシナリオで出来ているのなら、国会でわざわざ時間を費やす必要もないと感じてしまいます。

 同じ夕刊(毎日新聞・大阪本社発行、20181024日・夕刊、4版、10ページ)には「安倍首相所信表明(要旨)」という記事があります。

 引用はしませんが、(朝日新聞・大阪本社発行、20181024日・夕刊、3版、5ページ、別宮潤一)の記事も、ほぼ同じような書き方です。

 一度、このような書き方の文章をスポーツ面でお目にかかりたいと思います。例えば、相撲、レスリング、ボクシングなどで、いかがでしょうか。試合する前から細かな経過がわたっておれば、それは八百長です。

 それが可能であるのが政治の世界であるのでしょう。八百長なのか駆け引きなのか知りませんが、予め発言内容が知らされています。政府から報道機関に向けて、前もって情報がもたらされるのです。政府と報道機関との間の八百長という意識はないのでしょうか。記事を書く側にとって、これほどラクな仕事はないでしょう。

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2018年10月28日 (日)

言葉の移りゆき(190)

「プラットホーム」の土台が揺らぎ始めた

 

 「プラットホーム」の最も狭い意味は、駅などで、客の乗降や貨物の積み下ろしに便利なように、線路に沿って適切な高さに設けた施設のことです。

 こんな記事がありました。多くのヒット曲の作詞をした、もず唱平さんの言葉として紹介されています。

 

 「プラットフォームという言葉を思い出しますわ。水平な台地のことやけど、官公庁の施策では環境や基盤という意味でも使われます。特に中高年の人たちの憩いの場にもなっているスナックは、地域社会の情報が交わされるプラットフォームなのです」

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181018日・夕刊、3版、9ページ、「スナックをたどってⅡ、3」、小泉信一)

 

 「プラットホーム」と「プラットフォーム」という表記の違いはありますが、同一の言葉と考えて差し支えないでしょう。

 この言葉を、駅の施設や、水平な台地の意味で使うのは、一般的と考えてよいでしょう。それに〈環境や基盤〉という意味が加わりました。

 ところが、それにとどまりません。次のような文章があります。

 

 プラットフォームとは、報道機関などが配信した様々な記事がまとめて読める、ヤフーやLINEといったサイトやサービスのことをいいます。

 プラットフォームという言葉は従来、自動車の車台や、鉄道の駅の乗降場といった意味で広く使われてきました。

 一方、「人や装置が動く基盤」の意でも使われ、IT用語としてはウィンドウズなどの基本ソフトや、コンピューターそのものを指します。さらに「ニュースのプラットフォーム」といった使われ方まで広がってきました。 …(中略)

 誰もが情報を発信し、まとめられる時代。記事の正確性に関わる校閲記者として、信頼を集めるニュース発信の「基盤」とは何かを考えさせられました。

 (朝日新聞校閲センター『いつも日本語で悩んでいます -日常語・新語・難語・使い方』、さくら舎発行、144145ページ、桑田真)

 

 プラットホームという言葉が、〈基本ソフトや、コンピューターそのもの〉のことを表し、〈報道機関などが配信した様々な記事がまとめて読めるサイトやサービス〉にまで広がったというのです。

 「プラットホーム」という言葉の意味はどこまで広がっていくのでしょうか。日常語の基本にあった意味(駅の施設)が霞んでしまうように思います。頑丈な施設であったはずの「プラットホーム」の土台が揺らぎ始めています。

 報道機関の基本的な姿勢として、欧米の言葉が変化すれば、それに追随して無批判に受け入れてしまうということがあります。カタカナ語の横行に歯止めをかける姿勢が見られません。そして、ひとつのカタカナ語の意味が多様化していきます。

 コンピュータの世界が進展してきたのは、たかだかここ何十年かの時間に過ぎません。コンピュータ業界が新たに使い始めた意味(用法)をそのまま受け入れたりしないで、適切な日本語で表現してほしいのですが、そのような姿勢が欠如しています。

 もちろん一社だけが別の言葉を使っても効果がありません。新聞や放送の業界が手を携えて、日本語を守ろうとする方策を考えなくてはなりません。わが利益だけを優先する日本社会には、そんなことは夢のまた夢であるのでしょうか。

 日本文化の「基盤」、日本語の「基盤」を考えることも、報道機関の責務の一つであるはずです。

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2018年10月27日 (土)

言葉の移りゆき(189)

「人たらし」とは、どういうことか

 

 「29歳西郷 人たらしの面目躍如」という見出しの記事がありました。もう1本の見出しには「福井藩士へ心遣いの手紙 22日から公開」とあります。

 「人たらし」とはどういう意味なのでしょうか。「女たらし」などという言葉がありますから、よい印象ではありません。「心遣い」という言葉が使われていますから、頭が混乱します。

 記事には、次のような表現があります。

 

 明治維新の立役者の1人とされる西郷隆盛(1828~77)が福井藩士に宛てた書簡の原本が22日から、福井県立歴史博物館(福井市)で初公開される。 …(中略)

 書簡では、西郷は村田と面会したときに打ち解けて話ができたことを喜んだうえで、「却而卒爾之至与奉存候(かえって卒爾の至りです)」と記し、失言があったかもしれないことをわびるなど、西郷のこまやかな心遣いがうかがえる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月20日・朝刊、13版、29ページ、山田健悟)

 

 記事にはもう一カ所「人への配慮や気遣いという西郷らしい一面がうかがえる」という言葉があります。「人たらし」は見出しだけで使われた言葉です。

 「人たらし」という言葉は小型の国語辞典には載っていませんが、『広辞苑・第4版』には「人誑し」が載っています。

 

 人をだますこと。また、その人。

 

 また、『日本国語大辞典』にも「人誑」が載っていて、説明はまったく同じです。

 

 人をだますこと。また、その人。

 

 記事での用法は「人誑し」でないことは確かですが、「人たらし」=「こまやかな心遣い(をする人)」という説明が見当たりません。最近、そのような使い方がされているのかどうか、私だけが知らないことなのかもしれませんが、腑に落ちないままです。

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2018年10月26日 (金)

言葉の移りゆき(188)

「とんがった人材」と「とんがった大学」

 

 前回は、「とんがった人材」について言及しました。「とんがった」という言葉の意味が具体的でない、すなわち、意味範囲が絞られていないと思います。国語辞典でどう説明するかとなると、困るのではないかと思うのです。

 関連して、「とんがった大学」という言葉も見つけました。

 

 大学や入試の改革は何度も必要だと言われてきたし、進めるべきだが、なかなか変わらない。だから、私はまず京都学園大をとんがった学園にし、風穴を開けようとしている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月19日・朝刊、10版、13ージ、「永守重信のメディア私評」、永守重信)

 

 この記事には、コラム欄があって、次のような文章があります。

 

 ●「とんがり大学」を探す

 親しい経営者や大学の学長、教授らに独自の教育をしている「とんがり大学」がどこかを聞いている。たとえば、国内では先端的なコンピューター教育をしている会津大学や、グローバル人材の育成に特化している国際教養大学などだ。

 (出典は、上記と同じ)

 

 この記事でヒントになるのは、〈風穴を開ける〉とか、〈先端的な教育をしている〉とか、〈人材の育成に特化している〉とかの言葉です。

 前回(187)では、〈創造的思考力が高い〉とか、〈変化を好み、新しいものをつくりだす〉とかの意味が強いのかと感じたのですが、具体的には、その場面(シーン)がどんどん広がってしまいます。

 結局は、「これまでに行われていないことを、新たに行う」ということが、「とんがった」の意味に相当するのでしょうか。風穴を開けるために、特化して、先端的に取り組む、その具体的な内容はさまざまですが、それらをひっくるめて「とんがった」と言っているのでしょうか。

 けれども、仮にそう考えたとしても、そういう意味内容に、なぜ「とんがった」という言葉を当てはめなければならないのかという点では、まだ納得がいきません。

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2018年10月25日 (木)

言葉の移りゆき(187)

「〇〇らしくない」とは、どういう人間像か

 

 男の子は男の子らしくとか、学生は学生らしくとか、政治家は政治家らしくとか言うのは、古い時代の残滓であるようには思います。

 それにしても、次の記事には驚きます。

 

 「みずほらしくない人」を今年の採用基準に掲げたみずほフィナンシャルグループ。内々定を出した学生の資質を調べたところ、狙っていた「創造的思考力」の高い人材が多かったという。   

 ITと金融が融合する「フィンテック」時代に前例踏襲型の銀行員ばかりでは立ちゆかないとして、「みずほらしくない人に会いたい。」をキャッチフレーズに採用活動を展開。坂井氏は「とんがった人材が採れた。異業種との戦いが始まるなか、変化を好み、新しいものをつくり出す集団に変わらなければならない」と話した。 …(中略)

 とんがった若者を受け入れる「懐の深さ」(幹部)が組織に問われることになる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月5日・朝刊、13版、7ページ、榊原謙)

 

 「みずほらしくない人」という否定的な表現が採用基準であるとき、その言葉の真意はどの程度理解できるものでしょうか。これまでの「みずほ」の会社像をすべて、ひっくり返すような意味ではありますまい。それでは、具体的にどのような人間を求めているのでしょうか。

 「みずほらしくない人」を今年の採用基準に掲げたというのならば、前年まで採用基準にしていた「みずほらしい人」の像を提示しなければなりますまい。そうでなければ、これは採用基準ではなく、単なるキャッチフレーズに過ぎません。

 記事から推察します。「みずほらしくない人」イコール、「創造的思考力の高い人」あるいは「変化を好み、新しいものをつくり出す人」というのなら、そういう言葉を採用基準に書けばよいでしょう。前年までは、〈創造的思考力の高い人〉や、〈変化を好み、新しいものをつくり出す人〉を採用しようとしていなかった懺悔のようにも聞こえます。

 この採用基準を、長年にわたって勤めている行員はどう受け止めたのでしょうか。かつての採用基準が否定されて、古い行員の人間像は望ましくないものにされているという苛立ち? それとも、わずかの新規採用者が異なった個性の持ち主であっても、いずれは古い行員に同化されてしまうという安心感?

 それにしても、「とんがった人材が採れた」とか、「とんがった若者を受け入れる『懐の深さ』」とか言うときの、「とんがった」の意味が具体性を帯びていません。細く鋭い感覚を持った人? 鋭敏な神経で感情的な人? 言葉や態度が荒くてきつい感じの人? 相手を刺すような鋭さを持った人? それとも……?

 創造的思考力のある人や、変化を好み新しいものをつくり出す人を、「とんがった」人とは言わないでしょう。「とんがった」という言葉も、キャッチフレーズの域を出ていないように感じるのです。

 この記事の見出しは、いみじくも、こんな言葉です。「『みずほらしくない人』=創造的?」

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2018年10月24日 (水)

言葉の移りゆき(186)

「絶対」と言うから疑念を持つ

 

 前回の続きです。「絶対」という言葉の不安定さについて、同感する文章に出会いました。

 

 ラジオで森山直太朗さんが自身の曲「絶対、大丈夫」について語っていた。「大丈夫」は肯定的な言葉であるのにもかかわらず、「絶対」が付くと何とも言えない不穏な響きになるのだという。 (中略)

 政治家が自身の選挙のスローガンに「正直、公正」という言葉を使うことにも、同じような違和感がある。

 「正直、公正」はどちらも肯定的な言葉で組み合わせも悪くない。けれども、当たり前のことをあえて言い直しているところに、「絶対、大丈夫」と似たような不穏さを感じる。

 例えば、僕のコンサートに「本人、生演奏」というキャッチコピーがついていたらどうだろうか。

 この人以前にそっくりさんを使って、当て振りのコンサートを行ったのではないかという疑念を、多くの観客が抱くのではないかと想像する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月12日・朝刊、10版、29ページ、「後藤正文の朝からロック」、後藤正文)

 

 「大丈夫」というのは、危なげがなく確かな様子を表す言葉です。「大丈夫」という言葉の前に「絶対」を加えるのは、危なげがない・確かだということを信じてもらえないだろうと思っているからです。言葉を付け加えることによって、受け取る側が「不穏」を感じるというのは、納得できます。マユツバであることを自身で証明することにもなりかねません。

 誇大な言葉を信じてもらえないから、更に誇大な言葉を加える。それによって信頼感はますます薄らぐのです。商品のコマーシャルも、政治のメッセージも、それを繰り返しています。

 テレビでは、コマーシャルだけてなく、番組内で使う言葉もこのような言葉で満ちあふれています。なんでもないものに、マル秘・初公開、超特大・超安価、効果絶大・日本一、達人・ベテラン・カリスマ、聖地・秘境、カメラ初潜入・密着……などという言葉を連発するから、信用されないばかりか、自身の価値をおとしめることを招いているのです。発信者が「素晴らしい」という必要はありません。黙っていても、受け取る側が感動するものこそ本物なのです。

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2018年10月23日 (火)

言葉の移りゆき(185)

「絶対」と「万全」

 

 「絶対」ほど、その意味と実態とが遊離している言葉はないでしょう。そんなことはわかっているつもりでも、この言葉に騙されてしまうことがあります。

 騙される側も気を付けなくてはなりませんが、騙す側の方こそ罪深いものです。だから規制する必要があるのでしょう。こんな記事がありました。

 

 医療機関のウェブサイト上の表現が「広告」として規制される。「絶対安全な手術」といった虚偽の内容は罰則つきで禁止され、患者の体験談や未承認薬を使う治療の紹介も原則禁じられる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月1日・夕刊、3版、1ページ、阿部彰芳)

 

 ウェブは患者が自ら検索して閲覧するため、これまで広告と位置づけておらず、美容外科のウェブを中心に「絶対安全」など、虚偽や誇大な宣伝文句が横行してきた。昨年改正された医療法や省令で、ウェブサイトを広告と位置づけ、虚偽や誇大な表現を禁止するなど規制を強化する。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年5月30日・夕刊、3版、11ページ、熊谷豪)

 

 どういう場合でも必ずそうであるという意味の「絶対」は、理論上は言えても、現実社会ではありえないことでしょう。

 「絶対」と共通するような要素を持った言葉に「万全」があります。

 来年10月の消費税率10%への引き上げについて、テレビのニュースを見ていると、景気の落ち込みを防ぐ経済対策の策定などについて、首相自身の口から「万全の対策を指示した」という言葉が語られて、放送ではやむをえず、そのまま流しています。それに対して、新聞は「万全」という言葉を、受け売りの形で伝えていません。「万全」などという空虚な言葉は、「絶対」と同様に、宣伝文句に過ぎないことがわかっているからでしょう。

 「全国津々浦々に」幸せが届くかのように述べた言葉が幻想であったように、「万全な対策」などあろうはずはないと、人々は信じて疑わないでしょう。政治の世界の言葉は、「9」割引か、「90%」オフか、「9割9分9厘」カットで考えないといけないのでしょう。

 記事にあるように、商業的な「広告」は規制されるのですが、政治の言葉は言いたい放題で、規制の対象にはなりません。結果的に嘘であっても、残念ながら、とがめることはできないのです。

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