2018年9月21日 (金)

言葉の移りゆき(153)

ひたちなかのコキア

 

 名前はイメージをかき立てます。小さな国語辞典に「コキア」という言葉は載っていません。発音からは、ごつごつした感じがしないでもありませんが、それが観賞用のものだと言うのならば、外国からやって来た、新しい花かもしれないと思います。

 次の記事の一文目を読んだときの感想です。

 

 茨城県ひたちなか市の国営ひたち海浜公園で、コキアがライトアップされ、訪れた人たちを楽しませている。コキアは和名でホウキグサとも呼ばれる直径六、七十センチほどの球状の一年草。約1・4ヘクタールに植えられた約3万本が、赤色や黄色など、色とりどりに照らされる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月18日・夕刊、3版、7ページ、関田航)

 

 ところが二文目でびっくりします。ホウキグサのことだと言うのです。

 箒草は一年草で、茎を乾燥させて草ぼうきを作ります。私が幼い頃は、近所でごく普通に見かけた植物です。今はわざわざホウキグサから箒を作る人はいませんが、かつては実用のものでした。

 古くは箒木(ははきぎ)とも呼ばれて、「源氏物語」の巻の名にもなっています。日本の人たちにとっては身近なものでした。そのような名前を捨てて、コキアとは何事でしょうか。その方が格好良いのでしょうか。

 箒木の大群落は見てみたいという気持ちになります。日本の風景だからです。コキアの群落は見ても見なくてもよいのです。どうせヨーロッパ風の景色だろうと思うからです。名前を変えても実体は変わりません。けれどもイメージは見事に転換してしまいます。観光用・商売用に言葉をいじることには賛成ではありません。

 ついでながら、「ひたちなか」という平仮名の市名も、その方が格好良いのでしょうか。常陸や那珂という漢字表記を捨てて、発音だけで記すというのは、どういう理由によるのでしょうか。各地に平仮名地名があるから真似ようというのでしょうか。読みにくいから平仮名にするという理由は成り立たないと思います。常陸という旧・国名も、那珂川や那珂湊という地名も広く知られています。国までが真似をして「国営ひたち海浜公園」と命名しています。日本語を安易に、安易に考えています。

 日本を「にっぽん」と書くことがあります。けれどもそれは正式の表記ではなく、「日本」という正式表記が存在します。「ひたちなか」はそれが正式の表記になってしまっているのです。

 コキアという名前を見てしまったら、目の前の草から箒木を思い浮かべる人はいるのでしょうか。

 「ひたちなかのコキア」は、日本語の将来に大きな警告をしているようです。

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2018年9月20日 (木)

言葉の移りゆき(152)

名詞から感動詞に移行した「やばみ」

 

 新聞の広告に、「若者言葉がわからない」という文章が載っていました。文中の「国語研究で注目のテーマ」という言い方は大げさだと思いますが、おもしろい文章です。

 

 お盆休みを利用して、娘夫婦が帰ってきた。仕事の都合で正月は帰省できないので、会うのは1年ぶり。もちろん、孫娘もいっしょだ。

 スマホの動画で毎日見ているとはいえ、やはり本物は格別である。女房が「ばあば」と呼ばれて抱きつかれ、感涙にむせんばかりに「やばみ~」とうめいた。

 最近の若者が、感動したときにも「やばい」を使うのは知っている。それが「やばみ」に変化しているのか?

 「あら知らないの?いま中高生の間で流行ってるらしくて、一度使ってみたかったのよ」おおかたご近所の井戸端会議で仕入れたネタに違いない。 …(中略)

 「ほかにもつらみ、しんどみ、うれしみとか“み”を付けたほうがかわいいんだつて」 …(中略)

 そういえばこの前の同窓会で、予備校で国語を教えているという旧友に会ったっけ。試しに電話してみると、案の定、食いついてきた。

 「日本語に“楽しみ”はあるのに、“うれしみ”はなかった。学者の間ではむしろ、なぜ今までなかったのかが問題になっていて、国語研究で注目のテーマなんだよ」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月1日・夕刊、3版、7ページ、グーグル合同会社の広告)

 

 「楽しい」という形容詞は、「楽しさ」や「楽しみ」という名詞形に変化させることができます。「辛()い」も、「辛さ」や「辛み」になります。「辛み」は「恨み辛み」のような言葉に取り入れられています。「〇〇み」という名詞形の言い方である「やばみ」「しんどみ」「嬉(うれ)しみ」などの言い方も成り立つはずです。

 広く使われていない場合に異様に感じるだけで、多くの人が口にすれば違和感はなくなっていくでしょう。「可笑(おか)しみを感じる」の「可笑しみ」、「赤みを帯びている」の「赤み」など、市民権を得ている言葉はあります。

 けれども、「楽しみ」「可笑しみ」「赤み」などは名詞として使われています。形容詞から派生した「〇〇み」という言葉は、あくまでも名詞(…ということ、…という様子)という意味です。

 感涙にむせんばかりに発したという「やばみ~」は、語尾をのばして感動詞としての使い方をしています。名詞的用法と一線を画した、このような「〇〇み」の感動詞的用法は、新しく起こってきた現象だと言うべきでしょう。

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2018年9月19日 (水)

言葉の移りゆき(151)

「ムラ社会」は忌避すべきものか

 

 地方創生が叫ばれて久しいのですが、それが思うように進まず、逆に東京一極集中が加速しているような気がしないでもありません。地方の町や村が明るいイメージをまとって、魅力ある姿を見せることが大切だと思います。

 ところが、その町や村に明るいイメージを付与するのとは全く逆のことが、文章に書かれています。しかも、肩書きが新聞社の編集委員となっている人の文章です。

 いろいろなスポーツ団体のパワハラなどの問題が大きく報じられています。そのうちの一つの論評です。

 

 「上」の意向がメンバーや代表の選考に直結するスポーツ団体は、排他的なムラ社会になりやすい。選手は指導者に従い、選手を国際社会に送り出す指導者は競技団体に従う。そうやって、独裁体制がつくられてしまう。 …(中略)

 有効な監視機能は必要だろう。ただ、その構築を含めた健全性確保への筋道は、国ではなく、スポーツ界が主体となってつくらなければならない。そのために、まずは脱ムラ社会である。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月15日・朝刊、13版、14ページ、「縦横無尽」、中小路徹)

 

 見出しまでもが〈スポーツ界健全化へ  まずは脱ムラ社会へ〉となっています。

 スポーツ界について、この文章で述べられている趣旨には賛成です。けれども、なぜ村のことを徹底的に貶す必要があるのでしょうか。

 ムラ社会とは、有効な監視機能も持たない独裁体制の社会である、と言っておいてから、スポーツ界が、そのムラ社会に陥っていると言っているように思われます。

 カタカナの「ムラ」と漢字の「村」とは違うのだというようなことは理由になりません。日本の村のことを、これほど悪く言った文章は少ないと思います。日本の村は忌避すべき体質を持った、救いようのないものに見えるではありませんか。地方の明るい未来というイメージを徹底的に崩し去る言葉遣いです。

 この文章を読んだあとに残るのは、スポーツ界が仮に健全化しても、日本の「ムラ社会」は救いようのない体質をそなえ続けているということに他なりません。

 学問の世界で「ムラ社会」という言葉がどのような意味で使われているかは知りません。けれども、新聞社を代表するような人が一般の人に向けて、偏見に基づくような言葉を、強調して使ってよいのでしょうか。

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2018年9月18日 (火)

言葉の移りゆき(150)

台風でハウスがめげた

 

 関西では、壊すことを「めぐ」、壊れることを「めげる」と言います。「ボールでガラスをめんだ」とか、「台風で看板がめげた」とか言います

 共通語では、気持ちがくじける、元気がなくなる、ということを「めげる」と言いますが、関西では、そのような場合に「めげる」と言うことは少なく、他の表現、例えば「しょぼんとする」「やる気が失せる」などと言います。

 台風21号によって大阪・泉州の水茄子が大きな被害を受けたという記事がありました。

 

 数百万円の損失だけでなく、ハウス修理に約1千万円はかかりそうだという。「一生懸命に育ててきたし、お客さんも楽しみにしてくれていた。自然は怖いが、めげたら終わり。これからも頑張って泉州の名産を守っていく」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月11日・夕刊、3版、1ページ、岡田匠)

 

 この文章を読んだとき、記者は関西の出身か、首都圏(または他の地域)の出身か、ということが気になりました。記事のカッコ内の文章はおかしな言い方ではありません。論理は通っています。

 けれども、新聞記事で一続きのカギカッコの文章として書かれている内容は、いくつかの発言を集めて、組み立てられているかもしれません。

 ふと、こんなことを考えました。記者が何かの質問をしたとき、水茄子農家の人が「めげたら終わりや」と短くつぶやいたとします。その言葉を聞いたとき、関西人なら、ハウスがめげたら(壊れたら)栽培してきた努力は終わり(大打撃)だ、という意味に受け取ります。

 同じ言葉を首都圏の人が聞いたら、気持ちを滅入らせる(めげる)ことをしたら、栽培することが終わりになる(復活する気持ちがなくなる)、と聞こえるかもしれません。そして、「これからも頑張って泉州の名産を守っていく」という決意であると判断するのです。

 関西人が、気持ちがくじけることを、日常的に「めげる」と言うことがあるのかなぁという疑問の気持ちから、こんなことを考えました。

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2018年9月17日 (月)

言葉の移りゆき(149)

「?」をどう読むのか

 

 文章の中にさまざまな符号などを使うことが多くなっています。「これは新発見だ!」などと書いてあっても「!」は発音しないで済ませてしまいます。「どちらへ行くの?」の「?」も同様です。

 ところが、「どうも気持ちがしっくりしない……」というような、曖昧な気持ちを表している場合は「しっくりしないテンテンテン」と読んで、その状況を表現することがあります。

 このような符号などが句末に置かれている場合は、発音しないのも一つの方法でしょう。けれども、文章中に置かれている場合は、発音しないで通り過ぎることはできません。どう読めばよいのでしょうか。例えば、次のような場合は。

 

 お葬式の「?」をさまざまなイベントで探る「おてら終活祭」が2526両日、大阪市天王寺区下寺町1丁目の浄土宗應典院(秋田光彦住職、http://www.outenin.com)で開かれる。通夜や葬儀の再現、多宗派僧侶のトークや相談などがある。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月10日・夕刊、3版、3ページ)

 

 この記事の見出しは〈お葬式の「?」宗派超え探る〉となっていますから、よけいに目立ちます。しかも、カッコ付きで「?」と書かれています。

 記事を読む限りでは、行事の名前に「?」が使われていたようには思えません。記事の中にはこの1箇所しか「?」は使われていません。記者が勝手に「?」を使ったようです。

 そこで、改めて「?」の読み方を考えてみます。これを「疑問符」だの「クエスチョンマーク」だのと読む人はほとんどいないでしょう。疑問の助詞「か」と読む人もいないでしょう。思い浮かぶのは、「(お葬式の)疑問」「なぜ」「はてな」などです。つまり、品詞で言うと、名詞、副詞、感動詞などです。読み方が確定しません。

 勝手な想像を広げると「問題点」「疑問点」「行い方」など、無数に広がって行くでしょう。そうなったら、止まるところがなくなってしまいます。

 この記事は、文章は目で読むものだという前提で書かれています。「読む」とは本来、発音するものです。発音できない(あるいは、発音に著しい揺れが生じる)表現はすべきではありません。

 要するに、どう発音すればよいのかと、読む人の心を惑わせるような表現はやめたいと思います。奇抜さを狙うだけの表現は遠慮してほしいと思います。

 新聞の記事は、街にあふれるビラやチラシとは一線を画した日本語で書いてほしいものです。

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2018年9月16日 (日)

言葉の移りゆき(148)

「徹底的」の後ろに否定が来てもおかしくない

 

 「〇〇的」という言葉は、安易な言葉遣いであって、私の好きな言葉ではありません。けれども新聞や放送はもちろん、街角にもあふれています。こんな文章を読みました。

 

 制汗剤の広告は以前に取り上げましたが、これも興味深い例。〈ワキ、徹底的ににおわせない〉というコピーです。

 「徹底的」と言えば、「徹底的にやる」「徹底的に追及する」など、後ろには多く否定形が来ます。それが、意外にも「におわせない」と否定形になっています。 …(中略)

 「徹底的」の後ろが否定形というのは、絶対的なルールとまでは言えません。作家の町田康さんは、作品の中で〈徹底的に関係がなかった〉と表現しています。もっとも、その後に〈妙な言い方だ〉と書き添えていますが(「宿屋めぐり」)

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月8日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 「徹底」というのは、態度や行動などが中途半端ではなく、一つの考え方や方針で貫かれていることです。もともとは、自分自身などの姿勢を表す言葉です。「的」が付いて「徹底的」になっても、それは同様でしょう。

 〈徹底的に臭わせる・臭わせないない〉は、自分のことでなく相手(対象)に関わることです。臭わせようとか、臭わせないようにしようとか試みても、自分の意思を貫くことはできません。〈徹底的に関係がある・関係がない〉という表現も、自分の意思で完結できることではなく、様々な要素が関わっているのです。

 ところが、自分の意思(意志)に関わることであれば、後ろに否定形が来てもおかしくはありません。どこまでもやりぬくつもりであるのなら、「自分の意見は徹底的に曲げない」と言ってもおかしくはありません。「私は徹底的に事故を起こさないつもりで運転している」という表現もおかしくはないでしょう。

 「この町からは徹底的に火事を出さない」と言っても、広い町のどこかで起こるかもしれません。「デフレは徹底的に起こさないようにする」と言っても、社会の情勢によって、思い通りにならないことがあるかもしれません。そもそも、他者の動向に左右される事柄に「徹底的」を使うこと自体がおかしいのではないでしょうか。

 この言葉の用例は、もっと徹底的に調べた上で、結論を出さなければならないでしょう。「徹底的に調べる」とは、自分の意思で、可能な限りの努力をして調べることです。何か便利な方法で用例が無数に集まったとしても、他者から得た資料であれば「徹底的に調べた」ことにはならないでしょう。

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2018年9月15日 (土)

言葉の移りゆき(147)

机や椅子の具合は自分で確かめろ

 

 何にでも「大丈夫」を使う若者言葉について、面白い報告を読みました。朝日新聞の「いわせてもらお」という投稿欄です。

 

 ある研修会に出席し、資料を読んでいると「大丈夫ですか」と声が。はて、具合でも悪そうに見えたかなと思っていたら、「隣に座っていいか」との意味だった。若者言葉では「いいですか」も「いりません」も大丈夫、というらしい。それって本当に、大丈夫か?

 

 単に「大丈夫ですか」だけでなく、「そちらの席、大丈夫ですか」と言われることもあります。誰かの荷物などが置かれていないのなら、空席だから座ってよいはずです。「大丈夫ですか」にはほとんど意味が無く、隣に座らせてもらいますという挨拶にすぎないと思いますが、それにしては大げさな言葉だと思います。

 「はて、具合でも悪そうに見えたかな」という思いを持つのが当然でしょう。救命救急の実技研修でも、倒れている人にかける第一声は「大丈夫ですか」だと教えられました。

 投稿のような状況ならば、隣の席の机や椅子が大丈夫(壊れていない)かどうかは、自分の目で確かめて座りたまえ、と言いたくなります。

 注文した料理を運んできて並べて、「これで大丈夫ですか」と確かめられることがあります。注文した料理が過不足ないかどうかを確かめるのは、係員の役割だろうと言いたくなります。食べても大丈夫かどうかと思うような料理は提供してはいけないから、客に「大丈夫か」と聞くまでもないことだと怒鳴りたくもなります。

 そもそも、こういう場合になぜ「大丈夫」が使われるようになったのでしょうか。「これでよろしいか」の「よろしい」を、すこし大がかりな言い方にしたのが「大丈夫」ではないでしょうか。これで敬意が高まったとでも思っているのでしょうか。

 隣の席(に座って)よろしいでしょうか、お料理(は、これですべてで)よろしいでしょうか。それが「大丈夫」に格上げされたように感じるのです。何だかちぐはぐな、店員教育用のマニュアル言葉が、社会全体に広がってしまったような印象を受けます。こんな日本語の使い方が「大丈夫」であるはずがありません。

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2018年9月14日 (金)

言葉の移りゆき(146)

机や椅子の具合は自分で確かめろ

 

 何にでも「大丈夫」を使う若者言葉について、面白い報告を読みました。朝日新聞の「いわせてもらお」という投稿欄です。

 

 ある研修会に出席し、資料を読んでいると「大丈夫ですか」と声が。はて、具合でも悪そうに見えたかなと思っていたら、「隣に座っていいか」との意味だった。若者言葉では「いいですか」も「いりません」も大丈夫、というらしい。それって本当に、大丈夫か?

 

 単に「大丈夫ですか」だけでなく、「そちらの席、大丈夫ですか」と言われることもあります。誰かの荷物などが置かれていないのなら、空席だから座ってよいはずです。「大丈夫ですか」にはほとんど意味が無く、隣に座らせてもらいますという挨拶にすぎないと思いますが、それにしては大げさな言葉だと思います。

 「はて、具合でも悪そうに見えたかな」という思いを持つのが当然でしょう。救命救急の実技研修でも、倒れている人にかける第一声は「大丈夫ですか」だと教えられました。

 投稿のような状況ならば、隣の席の机や椅子が大丈夫(壊れていない)かどうかは、自分の目で確かめて座りたまえ、と言いたくなります。

 注文した料理を運んできて並べて、「これで大丈夫ですか」と確かめられることがあります。注文した料理が過不足ないかどうかを確かめるのは、係員の役割だろうと言いたくなります。食べても大丈夫かどうかと思うような料理は提供してはいけないから、客に「大丈夫か」と聞くまでもないことだと怒鳴りたくもなります。

 そもそも、こういう場合になぜ「大丈夫」が使われるようになったのでしょうか。「これでよろしいか」の「よろしい」を、すこし大がかりな言い方にしたのが「大丈夫」ではないでしょうか。これで敬意が高まったとでも思っているのでしょうか。

 隣の席(に座って)よろしいでしょうか、お料理(は、これですべてで)よろしいでしょうか。それが「大丈夫」に格上げされたように感じるのです。何だかちぐはぐな、店員教育用のマニュアル言葉が、社会全体に広がってしまったような印象を受けます。こんな日本語の使い方が「大丈夫」であるはずがありません。

 

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2018年9月13日 (木)

言葉の移りゆき(145)

新聞が言葉を公認してしまう

 

 表現の自由がありますから、新聞が何を書こうと問題にされることはありません。けれども、日本語の表現ということに限って考えると、新聞にもいろんな問題があることは否定できません。

 〈「はぴばー」気軽な敬意 / 天皇誕生日前後 投稿続々〉という大きな見出しの記事がありました。

 

 「はぴばー!」。12月の天皇陛下の誕生日前後には、ツイッターに1020代の若い世代によるお祝いの投稿があふれる。陛下の写真や模様や絵文字などでコラージュした画像もある。 …(中略)… 若者たちは皇室への関心をそれぞれの形で表現しているようだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月10日・朝刊、13版、3ページ、「平成と天皇」、中田絢子・多田晃子・緒方雄大・島康彦)

 

 若者と皇室の関係はどのようであってもかまいません。ほほえましい現象が起こっていると言ってもよいでしょう。また、ツイッターでどんな言葉が使われようと、それはまだ閉鎖的な社会での言葉であると言えましょう。

 ところが、新聞がその言葉を取り上げて報道すれば、まして大きな見出しを付けて掲載すれば、その言葉が社会的に公認されたことになります。言葉を興味本位で、大げさに扱うと、日本語に影響を与えることになります。新聞にはそのような自覚が必要です。

 「あけましておめでとう」を「あけおめ」と言ったり、「ハピー・バースデー」を「ハビバ()」と言ったりすることは、知っています。若者用語でしょう。けれども、それを新聞が取り上げて記事にすると、その言葉を承認したような空気が漂います。限られた世界の言葉が、おおやけの言葉に昇格してしまうのです。まして、それに大きな見出しを付けたりすると、その言葉が一人歩きを始めます。

 しかも、外来語由来のカタカナ表記の言葉であるはずの「ハピバー」を、平仮名で書くことを認めたことになります。

 NIEを声高に主張するなら、一つ一つの言葉やその表記を、若い人たちが見ているということを忘れてはいけません。教育の現場で記事を使うことを勧めるのなら、用語も表記も文法(表現の仕組み)も、若者たちの基準になりうるものを心がけなければならないでしょう。

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2018年9月12日 (水)

言葉の移りゆき(144)

わからなかったら、自分で調べなさい

 

 新聞社は、自社のデジタル紙面のアクセスランキングを1面記事として掲載し続けたり、紙面の記事の続きを有料デジタル版で読ませようと画策したりしていますから、わかりにくい言葉であっても、インターネットを使って、自分で調べなさいという姿勢のようです。紙面で完結しないで、あとはインターネットにお任せという姿勢のようです。こんな記事がありました。

 

 終戦記念日に合わせて関連番組が増える時期。時勢に敏感なEテレビ「バリバラ」(日曜夜7時)も5日は「障害者×戦争」がテーマ。 …(中略)

 ご意見番の玉木幸則は、「戦争のときは、戦争の役に立つか立たないか。今は今で、経済的な活動の役に立つか」と指標の存在を語り、 …(中略)

 30分の放送枠で、昨今の世相まで斬った巧みな構成。安易に使われ過ぎだけど、真の〝神回〟とはコレでしょ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月11日・朝刊、13版、24ページ、「よこしまTV」、中山治美)

 

 ここに書かれている「今は今で、経済的な活動の役に立つか」否かということが指標になってしまっているという指摘はもっともなことで、私も、そのような現代社会を憂えています。玉木氏を私は存じませんが、天下を諫める「ご意見番」を務めている方なのでしょうか。

 ところで、「バリバラ」という番組名の意味がわかりません。「神回」には「かみかい」というルビが振ってありますから、まだ馴染みの少ない言葉かもしれませんが、私には理解できません。

 知らないのは自分のせいなのでしょうが、突然のように「神回」と言われてもポカンとするだけです。調べるしかありません。

 バリバラというのは、障害者のための情報バラエティというような意味のようです。2012年4月の放送開始だそうですが、「バリバラ」という略語の作り方は、なんだか茶化している感じがします。

 神回というのは、主にテレビ番組で傑出した出来映えの放送回を賞賛して述べる言い方だそうです。何でもかでも大げさに「神」と称する言葉遣いの一翼を担っているのでしょう。

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2018年9月11日 (火)

言葉の移りゆき(143)

「不」の連鎖

 

 「スズキ、検査の半数不正 /排ガス・燃料測定 30車種6400台」という見出しの記事がありました。本文には「不正」という文字が10か所以上出てくるのですが、このような内容の記事は、記者もうんざりした思いなのでしょう。同じ言葉の連続では、読む方もうんざりです。こんな表現の工夫がされていました。

 

 「抜き取り検査」という工程で、データを測定するために車を走らせる速度が国のルールから外れていた。検査条件を満たさず、得られたデータは本来は無効とすべきだが、有効なデータとして処理していた。 …(中略)

 検査条件を確認するのに必要な機器の性能が不十分で、検査員の判定ミスを招いたと説明している。鈴木俊宏社長は記者会見で「これだけの台数の誤った処理をしていたことは大きな問題。チェック体制の不備で、会社に責任がある」と陳謝した。 …(中略)

 石井啓一国交相は9日、「燃料・排ガスの検査は環境性能を保証する重要なプロセス。これが不適切であったことは極めて遺憾」とのコメントを出した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月10日・朝刊、13版、1ページ、木村聡史・伊藤嘉孝)

 

 このニュースの関連記事が同じ日の7ページの紙面にありますが、その見出しは「スズキ、チェック不全 / 2年前も燃費測定不正」です。会社の機能が「不全」であったというのです。

 「不正」の他に「不十分」「不備」「不適切」「不全」というように、「不」という言葉が次々と使われています。こんなにたくさん使われると、一つ一つの言葉の意味の違いなどを厳密に考えることなどはせずに、使えそうな言葉を次々と繰り出したように思われます。

 しかも、「不〇〇」だけでは足りなくて、他の表現を工夫しなくてはならないようになったのです。

 「国のルールから外れていた」というのは不正行為そのものでしょう。「得られたデータは本来は無効とすべきだが、有効なデータとして処理」したのも不正です。「機器の性能が不十分」で「検査員の判定ミスを招いた」というのは言い訳ですが、不正につながっています。「誤った処理をしていた」「チェック体制の不備」も不正の原因です。国交相の言葉は、「不正」を遠慮がちに「不適切」と言い換えているようです。

 けれども、このように表現を違えていくことは考えものです。不正を行った側の言い訳に加担しないように心がけなければなりません。

 

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2018年9月10日 (月)

言葉の移りゆき(142)

 

「否定も肯定もしない」とは

 

 手に入れるのが困難なコンサートチケットをめぐって、ネット販売サイトでチケットを買い占めるプログラムの実態が明らかになったというニュースがありました。業者の男性と話をしたという記事に、こんな表現がありました。

 

 男性は「客から依頼を受けたチケットの購入を代行しているが、買い占めはしていない」と説明する一方、買い占めプログラムの使用については「否定も肯定もしない」と語った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月3日・朝刊、13版、31ページ)

 

 「否定も肯定もしない」という言葉は不思議です。相反する二つの言葉「否定」と「肯定」の両方を打ち消しているのです。

 このような取材に対して、「ノーコメント」という答えもあり得るのですが、ノーコメントというのは悪印象を与えてしまいます。質問に対する答えを拒否しているからです。買い占めプログラムを使っていることを公言したくないから、ノーコメントと言っているのだろうという推測が成り立ってしまいます。

 それに対して「否定も肯定もしない」というのは、質問に答えているから悪印象は緩和されます。けれども、あいまいな答えです。

 「否定しない」イコール「肯定する」、ではありません。「肯定しない」イコール「否定する」、ではありません。けれども、否定しきれない事情が存在するのでしょう。「否定も肯定もしない」というのは、全否定と全肯定の間で揺れているということでしょう。買い占めプログラムの使用をしなかったわけではないというのが本音なのでしょう。

 「南海地震は10年以内に起こるかもしれない」ということについて、「否定も肯定もしない」または「否定も肯定もできない」というのはやむを得ないことです。未来のことですから断言できないのです。それに対して、買い占めプログラムの使用についての質問は過去の事柄に関することです。過去のことを「否定も肯定もしない」のは、明らかにできない事情が存在するということを表明したことになるのでしょう。

 「否定も肯定もしない」はきちんと答えたことにならず、尋ねた人に推測を促してしまいますから、結局は、「ノーコメント」と同じような結果になるのではないでしょうか。

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2018年9月 9日 (日)

言葉の移りゆき(141)

セミナーやコンサルタントの役割

 

 人は、他人から指導を受けたり、技術を教えられたりすることも大切です。それによって人間性を磨いたり技能を深めたりすることができるからです。

 けれども、セミナーやコンサルタントというものの現状を見ると、疑問に思うこともあります。

 

 7月に都内で開かれた医学部受験セミナーは、真剣なまなざしの高校生や保護者でいっぱいでした。 …(中略)

 適性や意欲を確かめるのに、東京大は今春、主に医学部へ進む理科3類の前期日程試験から11年ぶりに面接を復活。学科の得点にかかわらず、面接の結果次第では不合格にする場合もあるそうです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月1日・朝刊、13版、6ページ、「東洋経済の眼」)

 

 大学合格を目指してセミナーを受けるのでしょうが、合格するということだけが目標になっているとしたら、それはセミナー主催者も参加者も大きな思い違いをしていると言わざるを得ません。医者としての適性がないのに学科試験の成績だけで医学部に合格させるのは困ります。成績よりも人間性です。

 制度が変わると今度は、医学部受験者のための面接セミナーというものが開かれるようになるかもしれません。適性や意欲を確かめるための面接も、合格するための技術のひとつになってしまうのです。「適性や意欲を高めるためのセミナー」などと銘打つことがあっても、その中身は、面接技術の伝授となるでしょう。

 話題は変わりますが、同じ日の新聞の隣のページに、こんな記事がありました。

 

 ここのところ謝罪会見が目白押しだ。 …(中略)

 それに伴い注目を浴びているのが会見での対応の巧拙だ。謝り方次第で世論の反感を買って大炎上することもあれば、事態を沈静化するだけでなく好印象さえ与えてしまうケースもある。かくして、いかにも誠実な謝罪らしく見える姿を演出するべく一挙手一投足を指南するコンサルタントが活躍する。 …(中略)

 プロのアドバイスで組織防衛されたのでは、世間の良識による評価メカニズムが機能しなくなってしまう。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月1日・朝刊、13版、7ページ、「経済気象台」)

 

 そんなコンサルタントが存在するとは驚きです。そんなコンサルタントの前職は何なのでしょうか。人々のために働いて後、退職すれば勝手知ったところを利用して、悪知恵を他人に伝えようとするのでしょうか。「世間の良識による評価メカニズム」を揺るがすためにもコンサルタントは存在しているのです。

 どんな仕事でも、他人の役に立っています。大事なことは、自己利益を得ようとするための僅かの人だけに役立つのか、大勢の人たちに役立つのかということです。一部の人だけに役立ち、大勢の人たちを欺くような仕事をしてはいけません。

 国語辞典の「セミナー」や「コンサルタント」の意味解説に、きれい事ばかりを書いておれないような時代になってきました。

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2018年9月 8日 (土)

言葉の移りゆき(140)

「治山」は植林関連用語?

 

 「治山治水」は古くから使われている言葉です。「治水」は、水害を防ぎ、水運や灌漑を便利にするために、河川の水流や水路を改良したり整備したりして管理すること、という意味で使われています。

 では、「治山」とはどうすることでしょうか。小型の国語辞典では、植林などをして山を整備すること、というのが基本的な意味として書かれています。

 西日本豪雨などで注目されたのに「治山ダム」というのがあります。これは、植林などのために役立つダムのことではないと思います。東広島市のダムのことを書いた、こんな記事がありました。

 

 治山ダムは、森林を守り山崩れを防ぐ目的で設置されている。27日の調査で、同市の同じ谷筋にある治山ダム6基のうち2基(いずれも幅約30メートル、高さ約6メートル)が、ダム機能が失われるほど壊れたことがわかった。最下流のダムは、ほとんど形が残っていなかった。

 (読売新聞・大阪本社発行、2018年7月28日・夕刊、3版、9ページ)

 

 今回の豪雨で注目されたのは、治山ダムを巨石(コアストーンと呼ぶのだそうです)が破壊してしまったことでした。「治山」が山を整備するという意味であっても、「治山ダム」は土石流や流木などを受け止める機能を持ったものであったようです。それが耐えきれなかったのです。

 そこで、「治山」の意味を、災害を防ぎ、森林資源を活用するために、植林をしたり山崩れや土石流を防ぐ構造物を作ったりして管理すること、というような意味に変更する必要はないのでしょうか。(このような書き方をすると、「治水」とのバランスも保たれます。)

 けれども、「治山」はもとのままの意味にしておいて、「治山ダム」という言葉だけに防災の意味を与えるという考えもあるのかもしれません。

 新しい言葉を国語辞典に加えるということに世間が注目し、改訂版が出るたびに話題になります。それに隠れて、古い言葉の意味説明を変更していくことはあまり話題になりません。けれども、こういうことも国語辞典の重要な働きであると思います。

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2018年9月 7日 (金)

言葉の移りゆき(139)

「ほぼほぼ」と「半端ない」

 

 私の日常語では、「ビールの缶」や「鯖の缶(缶詰)」を、ビールのカンカンと言い、鯖のカンカンと言います。使用頻度はほぼ半々と言ってよいでしょうか。

 だから、自分では使ったことがない「ほぼほぼ」という言葉の話題を読んだときにも、大きな違和感はありませんでした。

 

 「ほぼほぼ」という言い方、あなたは使いますか。「ほぼ」を強調した言い方です。ここ数年で、特によく耳にするようになりました。

 知人で、この言い方が絶対に許せないという人がいます。一方、優秀な校閲者が口頭で「ほぼほぼ」を使うのを聞き、「定着したな」と感慨を持ったこともあります。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月30日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 「缶」とカンカンのどちらも使うように、「ほぼ」と「ほぼほぼ」も同じように使っても抵抗感はありません。

 すぐに思い浮かべたのは、「是非」を強調するときに「ぜひぜひお願いします」と言うのと同様かと思ったのです。「ぜひに、ぜひにお願いします」と言えば、同じ言葉を2回使ったことになりますが、「ぜひぜひ」は1語と見なしてもよいでしょう。「さても、さても不思議な話だ」と言えば2語ですが、「さてさて」は1語と見ることができます。

 2音節の言葉にはそのような使い方があるということが基盤になって「ほぼほぼ」が広がったと見て良いでしょう。

 ただし、そのような使い方のできる言葉は限られたものでしょう。「瓶」をビンビンとは言いませんし、「もうすぐ来るでしょう」と言うときの「もう」を「もうもう」と言ったりはしないでしょう。

 この「ほぼほぼ」が、同じ飯間さんから、再び話題として提供されている記事がありました。

 

 一昨年に一気に浸透した『ほぼほぼ』は、実は前からある言葉ですが、連載コラムで取り上げると反響が半端なく、大半が『気持ち悪い』など否定派でした。面白かったのは50代の男性から、小学生の娘に『ほぼ』とのニュアンスの違いを聞いたら『ほぼほぼ』しか聞いたことがないと言われた、というお便りがきたことです。そのうち『ほぼ』を古くさい、と感じる人が多くなるかもしれません

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月29日・朝刊、10版、11ページ、「オピニオン&フォーラム」。飯間浩明さんへのインタビュー記事、聞き手は中島鉄郎)

 

 面白いと思ったのは、前の記事で〈優秀な校閲者が口頭で「ほぼほぼ」を使うのを聞き、「定着したな」と感慨を持ったこともあります。〉とありますが、後ろの記事で〈連載コラムで取り上げると反響が半端なく、〉とあります。「ほぼほぼ」は容認してもよいと考えている私ですが、「半端ない」は断じて認めたくはありません。けれども、国語辞典の編纂者が「半端ない」をお使いになるのだから、この言葉遣いも既に定着してしまったのだなぁと思いました。

 この長文のインタビュー記事の見出しに〈日本語は「半端ない」?〉と大きく書かれているのですが、日本語が半端ないというのはどういう意味なのでしょうか。反響が「半端ない」というのは理解できても、日本語が「半端ない」というのは、まったく理解できません。「半端ない」という言葉の意味が拡大し続けているのでしょうか。

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2018年9月 6日 (木)

言葉の移りゆき(138)

勝手に自称する時代

 

 国鉄の時代には駅名の付け方にも厳格な決まりがあって、例えば兵庫県西脇市の加古川線・日本へそ公園駅を命名するときには、例外的な措置を加えてやっと決まったという話を聞いたことがあります。地名を入れていない駅名であったからです。

 ところが、JRになって後はかなり自由度が増したようです。これまでは考えられなかった駅名がどんどん生まれています。兵庫県内だけを見ても、播磨新宮駅(姫新線)に対して「はりま勝原駅」(山陽線)、姫路駅(山陽線)に対して「ひめじ別所駅」(山陽線)、西宮市内に「さくら夙川駅」(東海道線)があります。播磨や姫路を仮名書きにする理由が、私には納得できません。桜の名所だからそういう名付けをするとなると、全国で際限なく宣伝を意図した駅名が増殖していくでしょう。このような名付けには、目立ちたいという理由がありそうに思います。

 さらに百花繚乱であるのが、大学の学部名や学科名です。言いたい放題、つけたい放題と言っても過言ではありません。いちいち書いていたらキリがありませんから、書くつもりはありません。日本語(漢字)と外来語(カタカナ)とがごちゃ混ぜというものもあります。従来の呼称とどう違うのか、たぶん説明できないのが多いと思います。これも目立つための策略なのでしょう。

 人の肩書きにも同じような現象が現れています。次のような文章がありました。

 

 評論家にしても作家にしても、あるいはエッセイストにしても、別に免許が要るわけでもなく、自称して名詞の肩書きにそう書けば一丁上がり、です。肩書きといえば、〇〇研究家というのもあります。 …(中略)

 のみこみにくいのが、コメンテーターという肩書きです。テレビのワイドショーなどで、なんでもコメントします。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月29日・夕刊、3版、4ページ、「こころの水鏡」、多川俊映)

 

 この文章に、全く同感です。

 誰からも評論家であると認められている人、作家と認められている人、エッセイストと認められている人はいます。けれども今では評論家は無数に枝分かれして、家事評論家、おもちゃ評論家、駅弁評論家、文房具評論家、などなど。いったい評論とは何なのか、評論家というのはどういう働きをする人なのか、というようなことは置き去りにされて、自称「評論家」が跋扈しています。

 ライターというのもあります。ライターは肩書きになるのでしょうか。ライターとは文章を書くことを職業としている人たちの総称のはずです。作家やエッセイストも、ライターに属する職業のひとつです。何かひとつ文章を書いて、新聞に載ったからとて、ライターという肩書きを使うのはおかしいと思います。

 コメンテーターも同じです。番組に出て喋っている限りはコメンテーターですが、放送局から出ればコメンテーターという職業ではありません。

 野球の選手が打席に入ればバッターですが、そうでない場合は投手であったり、一塁手であったり、すなわち野球選手(あるいは、プロスポーツ選手)であるはずです。バッターは肩書きではありません。中学生でも高校生でもバッターになれます。

 ちょっとした文章を書いただけでライターと称するのや、数分間だけ喋ってコメンテーターと称するのは、ちょうどバッターと同類の言葉を使っているということでしょう。

 肩書きも、好き勝手に自称する時代が訪れてきているようです。

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2018年9月 5日 (水)

言葉の移りゆき(137)

自分で「お若いですね」と思ったら「年齢同一性障害」?

 

 年齢を重ねると、自分の様子が他人にどう見えているかということが気になるものです。こんな文章を読みました。

 

 「お若いですね」。社交辞令だとは知りつつも、そう言われると悪い気はしない。しかしあるとき「ちょっと待てよ。このせりふは、若い人には使わないよな」と思ったとたん、見かけを褒められその気になっていた自分が、気恥ずかしくなった。ちょうど平坦な道でつまずいた時のように。友人は「そこまで考えなくても、素直に受け止めれば?」と言ってくれたのだが……。

 岩波書店「広辞苑第七版」の編集者平木靖成さんに話すと「中古の建物を美築と言ったり、中古品を美品と言ったりしますしねえ」。「えっ、それはやや難ありを言い換えたってことなんですか」「まあ、そういうことかもしれませんね」。ショック! 聞くんじゃなかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月18日・夕刊、3版、6ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 それならば、他人に判断されるまでもなく、自分から進んで若い姿をして、自分で納得しておればよいのかもしれません。ところが、おっとどっこい。意外な敵が現れました。

 

 団塊世代の周辺で最近話題になっているのが「年齢同一性障害」という言葉だ。「性同一性障害」で悩んでいる方も多いので、心して使わなければならない言葉ではあるのだが、「生きている限り青春」と思っている世代は年を取った自覚が少なく、年齢と行動形態が伴っていないという意味なのだという。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年7月27日・夕刊、4ページ、「もう一度花咲かせよう」、残間里江子)

 

 「年齢同一性障害」とはずいぶん大げさな言葉だと思います。若いのに老成したように見える人もこの範疇に入るのでしょうか。

 それはともかく、何でもかでも、障害だの症状だの病気だのと名付けたくて仕方のない人がいるのでしょう。そんなことに名前を付けなくてもいいだろうと言いたくなります。けれども、病名がわからなくては不安だというのが患者の心理であるとすれば、何かの名称を付けて、世の中には同類の人がいるのだというのも、安心感をもたらすひとつの方法かもしれません。そんな気持ちになるのは、やっぱり老年期に入った証拠なのでしょうか。

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2018年9月 4日 (火)

言葉の移りゆき(136)

「必ず治る」とは言えないから…

 

 かつての医薬品の広告には、「〇〇が、ぴたっと治る」「必ず治る」「絶対に治る」というような言葉が横行していましたが、最近はなくなりました。薬の効き目は人によって異なるから、ということではないと思います。「治る」という言葉が誇大な宣伝にあたるからでしょう。

 けれども、医薬品業界は、言葉を巧みに操って人々の気持ちを惹きつけようとします。新聞2面を使った、こんな広告がありました。広告ですから、大きな文字で、個条書きのように書かれています。

 

 ひざが痛い  腰が痛い  肩が痛い

 痛みに5つの効果

 5つの効果効能

  1 関節痛に効く

  2 筋肉痛に効く

  3 神経痛に効く

  4 手足のしびれに効く

  5 眼精疲労に効く

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・朝刊、別刷り全面広告、Aページ及びBページ、富山常備薬グループの広告)

 

 この広告の言葉は、「痛い」ときには飲んでほしいが、「治る」とは書けないからの苦肉の策でしょう。

 「効果」には、逆効果という言葉もあるぐらいですから、良い方に向かう効果だけとは限りません。

 「効能」にも、効能書きという言葉があって、言っているほどの効果がないというようなニュアンスでの使い方があります。

 キーワードとなっている「効く」という言葉は、効果や効能が現れることです。薬が効くことにも使いますし、冷房が効くことにも使いますし、宣伝が効くことにも使います。

 その薬が効くか効かないかは私にはわかりませんが、宣伝が効くことを願っていることだけはよく伝わってきます。

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2018年9月 3日 (月)

言葉の移りゆき(135)

「日本だけ」のバイキング?

 

 いろんな種類の料理をテーブルに並べて、好みのものを好きなだけ取り分けて食べる形式のものを「バイキング」と言います。豪華な宴席の場合もあれば、ビジネスホテルの朝食サービスの場合もあります。そのバイキング料理のことを説明した記事がありました。

 

 「バイキングという言葉に『食べ放題』の意味があるのは、日本だけです」と教えてくれたのは、バイキングの歴史やマナーに詳しい「バイキングコンシェルジュ」の今井寛司さん。

 1958年、帝国ホテルが新館を開業するにあたり、その時の社長さんが「みんなに注目されるようなレストランを作ろう」と考え、日本で初めて、定額で「好きなものを好きなだけ食べる」レストランを作ったんだって。 …(中略)

 よく「ビュッフェ(ブッフェ)」という言葉も聞くよね。これは「立食」という意味のフランス語。より高級感を演出するため、ホテルを中心に2000年代ごろから使われ始めたらしい。細かく言うと、ビュッフェには「食べ放題」の意味はなんいんだよ。キキッ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月1日・朝刊、13版、1ページ、「帰ってきたモンジロー」)

 

 バイキング料理という名称は海外でも使われているのでしょうか。説明の図表・写真などもある、長文の記事ですが、バイキングの名称の広がりはどこにも書かれていません。「バイキング」と言いながら、食べ放題でないものが海外にはあるのでしょうか。

 「バイキングコンシェルジュ」という資格があることを初めて知りました。「バイキングという言葉に『食べ放題』の意味があるのは、日本だけです」と書いてありますが、海外に「バイキング」が無ければ、「食べ放題」という独自性を強調する必要はありません。「食べ放題」をバイキングと言う、と思っているのが、一般の受け取り方だろうと思います。

 「ビュッフェ(ブッフェ)」という名前の立食に「食べ放題」の意味はない、というのは、この際、無関係のことを持ち出しているに過ぎません。このような、論理的に成り立たないことを述べている文章は、読後の後味が悪いのです。

 立ち席のビュッフェは、東海道新幹線の1964年の開業当初からありました(現在は、廃止)から、ビュッフェが2000年代ごろから使われ始めたらしい、というのも、腑に落ちない説明です。

 この文章はずいぶん下品です。ときどき、突然のように「キキッ」「ウキャ!」というような猿の鳴き声が挿入されますが、「モンジロー」という猿は、鳴き声だけのためのキャラクターで、何の意味もありません。文章をぶち壊す働きだけをしています。

 文章には、論理的な正確さや、書き方の上品さがなくてはなりません。

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2018年9月 2日 (日)

言葉の移りゆき(134)

「底なし」は褒め言葉か

 

 アジア大会の水泳競技における、池江璃花子選手の華々しい活躍は新聞や放送で大きく取り上げられています。その様子を伝える新聞記事の見出しです。

 

 池江 隙なし底なしの18 / 連戦の疲労「金メダルとると吹っ飛んだ」 冷静に0秒07差で逆転

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・朝刊、13版、20ページ。見出し)

 

 記事全体は池江選手の冷静なレース運びを称える文章です。本文中に「隙なし底なし」の言葉はありません。

 さて、「隙なし」はわかりますが、「底なし」はこの状況にふさわしい言葉でしょうか。「底なし」には、「底なしの沼」のように、どこまで行っても底に届かないほど深いことという意味があります。それとともに、別の意味もあります。その「別の意味」を国語辞典から書き抜きます。

 

 『明鏡国語辞典』  きりがないこと。程度がはかりしれないこと。「-の大酒飲み」

 『現代国語例解辞典・第2版』  際限のないこと。「飲ませたら底なしだ」

 『新明解国語辞典・第4版』  そこぬけ。

 『岩波国語辞典・第3版』  きりがないこと。「-に食う」

 『三省堂国語辞典・第5版』  かぎりがないこと。「-のお人よし」

 『広辞苑・第4版』  転じて、際限のないこと。「-の大酒飲み」

 

 池江選手が際限のない力の持ち主であることは誰もが認めるところでしょう。けれども、それは「底なし」という表現にふさわしいでしょうか。言葉の意味は正しくても、印象の良くない言葉です。

 それは、幾つもの国語辞典の用例が、良い印象のことがらを表していないことからもわかるはずです。用法(用例)のことを考えたら、この言葉を使うべきではありません。記録が伸び進んでいる選手は、「底(下限)」がないというのではなく、むしろ「上蓋(上限)」がないという表現がふさわしいのではないでしょうか。

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2018年9月 1日 (土)

言葉の移りゆき(133)

「仕切る」と「仕切り」

 

 動詞は、連用形にすると体言化して、もとの動詞を名詞の意味に変えることができます。「走る」が「走り」になり、「読む」が「読み」になるなどです。たいていの場合は、動詞の意味とかけ離れることはありませんが、例外もあります。

 

 鹿児島県の三反園訓知事が、7月下旬にブラジルであった現地県人会との夕食懇談会の席上で、会の仕切りをしていた旅行会社の女性社員を呼び捨てにして怒鳴りつけていたことがわかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月1日・朝刊、13版、27ページ)

 

 この文章で、「仕切りをしていた」というのは、どういうことをしていたのでしょうか。小型の国語辞典で「仕切り」を引くと、〈区切ること。取引や帳簿をしめくくること。相撲で、土俵上の力士が立ち合いの身構えをすること〉というような意味が並んでいます。上の文章では、会場を区切る作業をしていたとは考えられません。

 一方、「仕切る」という動詞は、上記の名詞の意味に対応する意味の他に〈ある範囲内の一切を掌握し、責任を持って処理する〉という意味が書かれている国語辞典はありますが、必ずしもすべての国語辞典に載っているわけではありません。

 つまり、〈ある範囲内の一切を掌握し、責任を持って処理する〉という動詞の意味がじゅうぶんに認知されていないのですから、〈ある範囲内の一切を掌握し、責任を持って処理すること〉という名詞の意味は、ほとんど認知されていないように思います。

 それにしても、このような記事で、「仕切る」「仕切り」というような俗っぽい言葉は避けた方が良いでしょう。

 話題は転じますが、「…ことがわかった。」というのは、どういうことを表しているのでしょうか。「…ことがあった。」という文脈では書けないのでしょうか。

 「…ことがわかった。」という言葉から受け取る印象は、我が社は他社より遅れて情報を得たということか、もしくは、私は取材の努力をしなかったけれどそんな情報が耳に入ったということか、ともかく、あまり褒められたことではないということを言い訳がましく呟いている感じです。

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2018年8月31日 (金)

言葉の移りゆき(132)

差別意識丸出しの高校野球報道

 

 ひとつの学校の硬式野球部の監督が身を引くことが、これほど大きなニュースになるとは思いませんでした。記事のスペースは大変なものですが、見出しだけを引用します。

 

 高嶋監督が勇退 / 智弁和歌山 甲子園最多68

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・夕刊、3版、1ページ。見出し)

 

 打撃優位の平成象徴 / 高嶋・智弁和歌山監督勇退

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・夕刊、3版、7ページ。見出し)

 

 「野球への情熱すごかった」 / 高嶋監督勇退 名将ら惜しむ

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月26日・朝刊、13版、14ページ。見出し)

 

 「ノックできなくなった」 / 智弁和歌山 高嶋監督引退

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月26日・朝刊、13版、31ページ。見出し)

 

 1面、社会面、スポーツ面に大きな見出しで、長文の記事を載せています。

 4本の記事のうち最後のものは「引退」になっています。

 「引退」とは、現役から退くことですが、特別の職業や地位から身を引くことに使われる言葉です。「勇退」とは、後進に道を開くために自分から進んで身を引くことです。監督本人の気持ちは、引退に近いのか勇退に近いのかはわかりませんが、4本目の記事の見出しの場合は、「ノックできなくなった」と「勇退」とは矛盾するように感じられますから、「引退」としたのでしょう。

 ところで、この日は、全国高等学校軟式野球選手権大会が明石市内と姫路市内の球場で開催中でした。硬式野球の場合は朝刊・夕刊を問わず、取るに足りないような内容でも大げさな記事にして連日、1面トップに掲載し続けたのに、軟式野球の場合は8月25日・夕刊には、それに関する記事は何一つ掲載されていません。8月26日・朝刊には、「野球への情熱すごかった」の記事の下部に、それよりも少ないスペースで、6試合の結果がささやかに掲載されているだけです。たったひとりの監督の引退の方が、軟式野球の全国大会に比べて、何倍ものニュース・バリューがあるのです。もちろん、それは新聞社が報道価値を決めているのです。

 ほとんど年がら年中、高等学校の硬式野球に記事を載せ続けおりながら、軟式野球は全国大会であっても軽々しい扱いにしています。年間を通じて見ると、軟式野球の報道スペースは、硬式野球の100分の1にも満たないことは明白です。これはいったいどういう考えに基づいているのでしょうか。突き詰めて言えば、高等学校のスポーツを、教育的な観点を含めて報道する姿勢に欠けています。硬式野球だけを新聞社の方針にして、センセーショナルに商業的に、そして勝利至上主義的に報道しているように思います。眼中にあるのは、特定の強豪校であり、注目を集める一握りの選手たちであるような報道姿勢です。あまりにも差別意識の強い報道姿勢です。もちろん、記事のひとつひとつは、綺麗な言葉に彩られていました。

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2018年8月30日 (木)

言葉の移りゆき(131)

「カリスマ」の量産

 

 世の中には「カリスマ」が大勢います。あまりにも多数ですから、「カリスマ」の価値は下落しています。それでも「カリスマ」を量産しています。

 よほどの変わり者でない限り、自分で自分のことを「カリスマ」などと言う人はいません。「カリスマ」を量産しているのは新聞や放送です。この言葉には、毎日のように出会います。

 

 サラダ主体の総菜店「RF1」を全国展開し、会社は調理済み食品を持ち帰って食べる「中食」市場を切り開いた。そのカリスマ創業者の岩田弘三氏から一度は託されたものの、経営環境が不透明になったとして差し戻しに。「この2年間の成長をみて機は熟した」(岩田氏)と、再登板を告げられた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・朝刊、13版、7ページ、「新トップ2018」、久保田侑暉)

 

 「カリスマ」は、英雄や支配者などが持っている、人々を心服させて従わせる資質や能力のことです。小型の国語辞典では、「人々を惹きつけ従わせる超人的な資質・能力」となっていて、英雄や支配者に限らず、どんな立場の人にも使えるらしいのです。だから、カリスマ美容師なども登場するのでしょう。

 そもそも、今では、他の人よりちょっとだけ抜きん出ていたら、「超人的」という言葉を使っていますから、一般の人と「超人の人」とは紙一重です。そして、一般の人と「カリスマ」も紙一重です。この言葉を使う人がカリスマだと思えば、それで「カリスマ創業者」は成立するのです。「人々を惹きつけ従わせる」ようなワンマンに近い姿勢があれば「カリスマ」の資格は具わっていることになるのでしょう。

 人々を驚かせるに足りる「カリスマ」という言葉は、もはや何の稀少価値も持ち合わせることかせなくなってしまったのです。さて、新聞や放送は、次はどんな言葉を使い始めるのか、興味のあるところです。

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2018年8月29日 (水)

言葉の移りゆき(130)

「普通車」と対になる言葉

 

 前回の「全車」に触発されて、書いておきたいことがあります。

 鉄道で、「普通車」という言葉があります。この言葉と対になる言葉は、どういう言葉でしょうか。「全車禁煙」は高松・岡山あたりの話題でしたが、「普通車」というのは姫路・神戸あたりの話題です。

 姫路から神戸までを結ぶ山陽電気鉄道は、神戸高速鉄道を経て、阪神電気鉄道の大阪(梅田)まで直通特急を走らせています。阪神の直通特急も、山陽の姫路まで乗り入れています。

 その山陽電鉄は、駅の電光掲示や、駅や車内のアナウンスで「普通車」という言葉を使っています。「この特急は、明石()で、姫路行きの普通車に接続します。」というアナウンスや、「東二見()までは普通車が先に着きます。」という電光掲示などです。普通電車のことを「普通車」と言っているのです。

 一般に言えば、「普通車」の対は「グリーン車」「座席指定車」などだろうと思います。ひとつの編成の中で、普通車と、その他の種類の車両とが分けられるというのが通常の考え方でしょう。ところが山陽電鉄には「グリーン車」などはありませんから、混乱は起こりません。

 また、山陽電鉄では特急電車のことを「特急車」と言っています。「普通車」の対は「特急車」なのです。「普通電車」「特急電車」と言えばよいのにと思いますが、ずっと昔から、「普通車」「特急車」のままです。

 別の見方をすれば、普通列車仕様の車両が「普通車」で、特急列車仕様の車両が「特急車」という区分けも成り立つと思いますが、山陽電鉄は、編成両数の違いはありますが、すべての車両は普通列車にも特急列車にも運用が可能です。設備などの仕様で普通・特急に分ける必要がないのです。

 というわけで、普通列車としてのダイヤで運行する電車が「普通車」です。私は、このような呼び方を他の鉄道で見聞したことがないのですが、類似の例はあるのでしょうか。

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2018年8月28日 (火)

言葉の移りゆき(129)

 

「全車禁煙」は珍しいか

 

 喫煙を禁止する言葉は、生活環境の至るところに見られます。ほんとうは、そんな禁止の言葉がなくても、人の多いところでは喫煙を遠慮するのが、現代人の感覚のはずです。ところで、こんな記事を見かけました。

 

 高松発岡山行きの快速「マリンライナー」に乗り、一息つきました。前方の電光掲示板に〈全車禁煙〉という文字が流れていきます。

 ふと、「この『全車』は国語辞典になさそうだ」と気づきました。

 「全車」とは「全部の車両」または「電車全体」のこと。いたって普通のことばです。一般人の注意をひくことはまずないでしょう。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 「一般人」の私ですが、「禁煙」を広く徹底させるために、「全」を使った言葉はあちらこちらにあることに気付きます。ホテルなどの「全室禁煙」、ビルディングなどの「全階禁煙」、レストランなどの「全席禁煙」などです。

 筆者が、「全車」が国語辞典になさそうだ、と気付いたということは、新しく載せる候補にしたいという気持ちなのでしょう。言葉の用例を収集することは、私も日常的に行っています。「全車禁煙」という言葉を見たことはありますが、ああそうか、全部の車両が禁煙か、という程度で見過ごしてしまっています。

 『明鏡国語辞典』を見ると、「全車」はもちろん、「全室」「全階」「全席」も載っていません。飯間浩明さんの編集する国語辞典の最新版には「全室」「全階」「全席」は載っているのでしょうか。もし、そのうちのどれかが載っていなければ、「全車」とともに他の言葉も一括して載せてほしいと思います。

 けれども、「全〇」という言葉を網羅しようとしたら、その数は大変なものになるでしょう。「全車」はあるのに「全室」はない、「全席」はあるのに「全階」はない、と言い出したらキリがありません。「全車」という言葉は当たり前すぎて、何の新しみもないと感じている私は、「全室」や「全席」が国語辞典になくても、不自由さは全く感じません。

 

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2018年8月27日 (月)

言葉の移りゆき(128)

京阪神と東名阪

 

 京都・大阪・神戸は比較的、近接した都市です。京阪神という言い方はしばしば目にします。京阪神という言葉は京都・大阪・神戸の3都市を指すこともあれば、京都から大阪を経て神戸までの地帯を指すこともあります。「京阪神に1箇所ずつ拠点を設ける」というは前者、「京阪神を強い揺れが襲った」というのは後者の意味です。

 芸能生活50周年を迎えた落語家の月亭八方さんが話題になっている記事がありました。

 

 「50年の節目はさすがにやり過ごせない」との思いもあり来月から東名阪で記念落語会も開催。次世代へのバトンの渡し方も意識している。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月28日・朝刊、13版、9ページ、「TV笑ケース」、中西正男)

 

 道路名の東名高速や、鉄道(近畿日本鉄道)の名阪特急の名でわかるように、東名や名阪は2点間を結ぶものです。地帯を表しているのです。神奈川県下から静岡県下までの東名高速道路を利用することがあり、三重県下の駅から奈良県下の駅まで名阪特急を利用することもあります。

 東名阪を東京・名古屋・大阪の3都市と解釈することはできるでしょうが、その3都市は比較的、遠い位置にあります。京浜(東京と横浜) や阪和(大阪と和歌山)とは状況が違います。都市の頭文字を結んだ言葉を作ることが許されるなら、札東福(札幌と東京と福岡)などという言葉も成り立つことになります。

 月亭八方さんが、東京・名古屋・大阪の3都市で落語会を開くのか、東名阪(太平洋ベルト地帯)のあちこちで開くのかは、情報がないので、わかりません。

 

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2018年8月26日 (日)

言葉の移りゆき(127)

新聞の見出しは丁寧に

 

 新聞は小・中学生向けの国語教材を提供してくれます。新聞の見出しは、本文を読む前に情報を提供するものですが、見出しを読んで、頭が混乱することがあります。

 そこで、問題です。次の2つの見出しの「史上初2度目」と、「51年ぶり勝利お預け」というのは、それぞれどういう意味でしょうか。

 

 大阪桐蔭 春夏連覇 / 史上初2度目

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月22日・朝刊、13版、1ページ。見出し)

 

 東大出身・宮台 全力マウンド / 五回途中2失点 51年ぶり勝利お預け

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月24日・朝刊、13版、16ページ。見出し)

 

 第1例は、「初」と「2度目」の関係がわかりません。答えとして、〈「史上初」を「2度」も達成した〉、〈「史上初」と「2度目」とを達成した〉、〈「2度目」達成は「史上初」である〉、……、などが考えられます。もちろん理屈の通らない答えもありますが、そもそも見出し自体が、理屈の通らない表現なのです。

 第2例は、「宮台選手」と「51年ぶり」の関係がわかりません。主語が明確でないから、誰が「お預け」を食ったのかが謎です。答えとして、〈入団から「51年ぶり」に初めて「勝利」しようとしたが、それはお預けになった〉、〈前回の勝利から「51年ぶり」に再び「勝利」しようとしたが、それはお預けになった〉、……、などが考えられます。けれども宮台選手は51歳を超えたりはしていません。なんとも不思議な言葉遣いです。

 さて、第1例は、本文に、「史上初となる2度目の春夏連覇を達成した。」とあります。第2例は、本文に「東大出身投手が勝利すれば、これも1967年の井手峻(中日)以来、51年ぶりだった。」とあります。

 第1例は、助詞・助動詞などを省いて「史上初」と「2度目」という体言のような言葉を並べただけの、舌足らずな表現です。

 第2例は、離れた位置にある見出しの言葉、「東大出身」と「51年ぶりお預け」とが関係しているのです。こういう場合に「51年ぶり」と言うのが何とも不思議です。「お預け」を食ったのは、いったい誰なのでしょう。宮台選手でしょうか、それとも東大野球部(もしくは、東大OB選手)でしょうか、それともプロ野球ファンでしょうか。あいまいです。

 独りよがりの見出しは、読む人を混乱させます。もっと丁寧な言葉遣いが求められます。

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2018年8月25日 (土)

言葉の移りゆき(126)

「…しかない」という言い方

 

 「行くしかない」「読むしかない」という言い方は、そのような行動を避けることができないという意味です。

 この「…しかない」という言い方の例に、2つ出会いました。

 

 食べテツ&飲みテツに加え、鉄道がらみキャラクターを愛するキャラテツでもある私にとって、「これしかない!」と思える奴がいた。奥のとトロッコ鉄道(石川県能登町)のキャラ「のトロ」をフィーチャーしたカップ酒「清酒宗玄剣山」だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月29日・朝刊、be7ページ、「食べテツの女」、荷宮和子)

 

 「これしかない!」というのは、たぶん、最高の褒め言葉として使われているのでしょう。

 それでは、次のような表現をどう考えるべきでしょうか。明石商業高校が全国高等学校野球選手権大会の西兵庫予選で優勝したときの、応援団の様子を書いた文章です。

 

 七回には中軸の連打で3得点。応援団の嶋谷蒼君(1年)は「最高でしかない!」と跳びはねた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月28日・朝刊、第2兵庫()13版▲、24ページ、山崎毅朗)

 

 この記事の見出しは、〈七回「最高でしかない!」 / 明石商応援団〉となっていて、文章よりも前に見出しが目に留まるのですが、この言い方は理に叶っているのでしょうか。これも、最高の褒め言葉には違いありません。生徒の言葉を取り上げて記事にしているのですから、その言葉があったことは確かなのですが、それを見出しにして、言葉に市民権を与えたのは新聞社の判断です。

 この「…しかない」という言葉は、名詞、動詞、形容詞、形容動詞などに接続するようです。

 名詞の場合は、例えば「これしかない」のように、それが唯一の選択肢であることを表しています。褒め言葉のように使われることもあれば、二進も三進もいかなくなって残された唯一の道というような場合もあります。プラスとマイナスの両面を表すことができる言葉です。

 動詞の場合は、終止形に接続して、例えば「買うしかない」「逃げるしかない」のように、そうすることが唯一残された道であるという意味です。どちらかというとマイナスのイメージが伴います。

 形容詞の場合は、終止形に接続して、例えば「舞台の照明は、眩(まぶ)しいしかない」のように使われ、「舞台の照明は、美しいしかない」という表現には首をかしげます。すなわち、よくない評価を、強調して表現する場合には使われますが、望ましい評価を表現することには違和感を覚えるのです。プラスに使われることは少ない言葉だと思います。

 形容動詞の場合も、連用形に接続して、例えば「最低でしかない」のような、良くない評価には使われますが、「最高でしかない」には賛成できないのです。この場合も、よくない評価を、強調して表現する場合には使われますが、望ましい評価を表現することには違和感を覚えるのです。プラスに使われることは少ない言葉だと思います。

 というわけで、「最高でしかない!」という表現を認めることは、新しい使い方を認めるということになるのだろうと思います。

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2018年8月24日 (金)

言葉の移りゆき(125)

「もふもふ」は平仮名で書いてほしい

 

 例えば、毛糸で編んだものの手触りや目にした様子、動物の毛並みの手触りや目にした様子を、「ふわふわ」「ふんわり」「ふさふさ」などと言うのは昔からの言葉遣いです。「もこもこ」などと言うこともあります。

 そういう感触を表す言葉に「もふもふ」があることは、最近まで知りませんでした。

 NHKテレビに「もふもふモフモフ」という番組があり、それを紹介する記事がありました。

 

 犬や猫など、見た目が「ふわふわ」「もふもふ」している生き物たちを「もふもふ」と呼び、そんなもふもふの、かわいらしい姿や、面白い行動、うるっとさせてくれるエピソードが次々と登場する。

 全国の看板娘・息子として活躍する犬や猫を訪ねる「看板もふもふ」のコーナーでは、忍者の町・三重県伊賀市のお茶屋さんの看板娘が登場。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月10日・朝刊、13版、36ページ、「試写室」、鈴木友里子)

 

 難解な新語が多い中で、「もふもふ」は一見して、すぐに語感が理解できる言葉です。「もこもこ」と「ふわふわ」などが合わさった言葉のように感じますが、由来として正しいのかどうかはわかりません。先行する言葉とは無関係に、突如として湧き上がってきた言葉かもしれません。

 後日、この言葉を取り上げた記事がありました。

 

 犬や猫、ウサギ、アルパカ……。動物の豊かな毛並みの様子を、「モフモフしている」と表現しているのを見たことがありませんか? 毛足の長い動物をなでることを「モフる」、動物そのものをさして「モフモフ」と呼ぶこともあるようです。

 いかにも柔らかそうな雰囲気のあるこのことば、書籍の国語辞典にはまだ見当たりません。一方で、NHKでは動物番組のタイトルとして使われたり、SNSでは動物の写真に添えられていたりと、何かと目にする機会が増えています。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月25日・朝刊、10版、13ページ、「ことばの広場 校閲センターから」、市原俊介)

 

 けれども、「もふもふ」は平仮名で表記してほしい言葉です。「モフモフ」では外来語由来のようにも見えますし、やわらかさが損なわれます。

 余談ですが、〈書籍の国語辞典〉とは、ずいぶん寂しい表現です。まるで国語辞典の主流を電子書籍に奪われてしまったような印象が漂います。携帯電話の陰に隠れて、昔からあった電話機が「固定電話」になったり、ネットショッピングの隆盛によって、昔から長く続いてきた本屋さんが「リアル書店」と呼ばれたりと、言葉の変容は急激です。

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2018年8月23日 (木)

言葉の移りゆき(124)

公立高校が活躍する大会に

 

 100回を迎えた全国高等学校野球選手権大会は、何か月も前から全国の新聞で特集記事なども組まれて、お祭り気分に巻き込まれた感じでした。それが終わりました。

 今大会では、久しぶりに昔に戻ったような紙面に出会いました。

 ひとつは、秋田魁新報の2018年8月21日・電子版号外です。見出しは、〈金足農 準優勝 / 悲願の大旗に届かず〉です。誰がヒーローだなどという言葉はありません。先発メンバー9人の氏名・学年・出身中学校名が書かれています。全員が秋田県内の中学校の出身です。みんなで勝ち得た準優勝こそ称えるべきことです。ヒーローが生まれることが大会の目的ではないでしょう。

 もうひとつは、日本農業新聞の2018年8月21日・電子版号外です。見出しは、〈金農 殊勲の準優勝 / 感動ありがとう / 大阪桐蔭に2-13〉です。文章の末尾には「金農は、甲子園と農高に新たな伝説を刻み、次への扉を開いた。」と書かれています。全員のひたむきな努力が新しいページを開いていくのです。将来のプロ選手が生まれるかどうかということが大会の注目点ではないでしょう。人々は、強いものに感動しているわけではありません。

 けれども、新聞や放送の報道は、勝ち負けにこだわり、特定の選手の活躍ぶりを特筆します。観客や読者はほんとうに、そんなことだけを求めているのでしょうか。高校野球の精神はどこへ行ったのでしょうか。

 100年記念の記事は新聞にあふれていましたが、前身の全国中等学校野球大会がどのような目的や趣旨で生まれ、それが100年間どのように受け継がれてきたかということを詳しく報じる記事には出会いませんでした。第何回の大会でどの学校とどの学校が対戦し、どんな名勝負であったというような記事は数限りなくありましたが、この大会の教育的価値などが語られることは少なかったように思います。強い学校に注目し、ヒーローを称え上げるという姿勢に終始していました。その傾向は100回を迎えて、ますます大きくなっています。

 あるテレビ番組は、金足農業の18人の選手は全員が秋田県内の出身であるのに、大阪桐蔭の部員は北海道から沖縄に跨り、18人の選手のうち大阪府内の出身は5人だけだと伝えていました。勝つために全国から選手を集めることに、どのような教育的価値があるのでしょうか。かつては、熊本県の代表になった高校の18人に、熊本県出身者はゼロであるということが話題になりました。

 スポーツマンシップとかフェアプレイということが話題になりますが、高校野球にはフェアな精神が欠如しています。それは選手に欠如しているのではありません。大会関係者に欠如しています。学校の所在地だけで、その都道府県の代表校になるという慣行は改める時を迎えているでしょう。その都道府県の在住している生徒が、代表にならなければなりません。「スポーツマンシップ」や「フェアプレイ」は、言葉だけでなく、実質が伴わなければなりません。

 高校野球が大学野球やプロ野球に繋がり、商業主義に彩られたものであるのなら、野球部を柱にしている学校を集めて、全国私立高校野球選手権大会を、神宮や東京ドームで開催すればよいでしょう。その場合は、生徒の出身地などは問いません。どうぞ、全国から選手を集めて、チームを編成して戦ってください。

 金足農業のような公立高校が活躍できる大会がよみがえってほしいと願います。このようなチームが脚光を浴びるのが何年とか何十年とかに一度であってはなりません。

 それにしても、名だたる私立高校をなぎ倒して進撃した秋田県立金足農業高等学校の野球部はほんとうに立派でした。

 

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