2019年3月24日 (日)

言葉の移りゆき(337)

「こてこて」というオノマトペ①
 「こてこて」という言葉は、関西弁や大阪人と結びつきやすいようです。その「こてこて」はどのような意味をそなえた言葉なのでしょうか。
まずは、使用の一例を引用します。ある人の様子を描写した表現です。
 コテコテの関西弁で本音をズバズバまくし立てる。正しいと思えば一歩も引かない頑固な面もある。よく笑い、すぐ泣き、急に怒る。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年2月23日・夕刊、3版、8ページ、「ハレルヤ!西成 メダデ物語」、上村真也)
 まさに「コテコテ」の面目躍如というような使い方です。
 ところで、「こてこて」とはどういう様子を表す言葉なのでしょうか。小野正弘編『日本語オノマトペ辞典』(小学館)の「こてこて」の説明は次のようになっています。
 ①数や量がむやみに多いさま。過度に濃厚でくどいさま。
 ②ある性質などを深くもっていて、いかにもそれらしいさま。
 ③たどたどしく不器用にものごとを行うさま。
 そして、②の用例として「東京の下町の人間である私は、コテコテの大阪人が大好きだ」と、「こてこての大阪弁で、しゃべらはる」が挙げられています。「ある性質などを深くもっていて、いかにもそれらしいさま」という説明に従うならば、「こてこての東北弁」や「こてこての江戸っ子」というのもありうるのですが、そのような表現に出くわすことは少ないと思います。
 記事にある「コテコテの関西弁」という表現は、この辞典の説明の①にある「過度で濃厚」という要素も含まれているように思います。けれども、過度に濃厚というのは、関西弁や大阪人だけにふさわしいというわけでもないでしょう。
 「こてこて」という言葉は、もしかしたら、〈多くの関西人が持っている人柄や言葉遣い〉に限定して使われている言葉のようにも聞こえるのですが、いかがでしょうか。
 けれども、関西人すべてにあてはまるわけではなく、「こてこて」の人柄や言葉遣いを感じさせるのは、関西人の中でも限られた人たちだけであると言ってもよいでしょう。
 「こてこて」という言葉は、国語辞典によって説明の仕方が異なるように感じます。次回は、そのことに注目してみたいと思います。

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2019年3月23日 (土)

言葉の移りゆき(336)

訂正する姿勢、改訂する姿勢
 私はこのコラムに書いたものを、最近は、朝日新聞社にはすべての回を、三省堂には一部の回をメールで送っています。読んでもらわなくてもかまわないという気持ちです。けれども、新聞は「読者の声に耳を傾け、読者とともにある」ということを標榜しているのを忘れてはいないでしょうね。
 朝日新聞の記事「ことばのたまゆら」は、私の指摘による訂正が2回ありました。「ことばのたまゆら」の筆者からは丁寧な回答がありました。それ以外はまったくの「梨の礫」です。
 三省堂からは、このたび次のようなメールがありました。
 平素は小社の辞書をご利用いただき、まことにありがとうございます。
 さて、『三省堂国語辞典』についてのメール2通を頂戴しまして、恐れ入ります。
 編者ともども拝読し、「身元」「紙面」「手作り」の語釈についてのご指摘はごもっともと存じ、今後の改訂で改善してまいります。
 『三省堂国語辞典』の次回の改訂版を楽しみにしております。
 国語辞典編集部は丁寧に書物の内容を検討している、新聞社は毎日の取材に追われている、という立場があるのでしょう。対応の仕方に違いがあっても仕方がないかもしれません。
 けれども、次のような訂正記事を見て、驚きました。
 8日付経済面、三菱航空機の副社長退任を伝える記事で、副社長と業務執行責任者の退任が「4月1日付」とあるのは「3月31日付」の誤りでした。確認が不十分でした。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月9日・朝刊、13版、38ページ)
 この程度の間違いは日常茶飯事です。地方公務員などの異動が紙面に載ったとき、氏名や日付の間違いはありますが、そんなものが訂正されたことはありません。
 私はこのコラムで、新聞の言葉遣いの間違いなども指摘していますが、ほとんど無視を続けています。
 有力企業から強く抗議を受けた場合などは即座に訂正記事になるのでしょうが、一般読者の声などに耳を傾ける姿勢はないように思われます。上記の記事がそれを雄弁に物語っているように思います。

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2019年3月22日 (金)

言葉の移りゆき(335)

東京人の「気づかない方言」
 関西人は、「なおす」(収納する、元に戻す)、「めぐ」(壊す)、「めげる」(壊れる)などは全国に通用する言葉のように思っている節がありますが、地域的な言葉です。一方、関西の言葉だと思っている「しんどい」(疲れた様子)などは、もはや全国共通語に組み入れられたと言ってもよいでしょう。方言を使うことと、その人の意識にはズレが生じることがあるのです。
 こんな文章がありました。
 カットだけのコースや、カラーシャンプーをするコースに混じって〈あてるコース〉というのがあります。
 この意味が何だか分かったら、おそらくあなたは関西の人か、香川県など西日本の特定地域の人です。
 正解は、パーマをかけるコースのこと。関西などの地域では、「パーマを当てる」と表現します。 …(中略)…
 方言の言い回しであることを知らずに使う人も多いのです。「気づかない方言」と言われます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2017年5月13日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)
 特定の地域内でしか通用しないのに、全国で通用すると思って、気づかないままに使っている言葉はたくさんあります。
 けれども、東京の力が大きいですから、東京の方言は「気づかない方言」と認識されることは少なく、〈東京で使うのに、地方で使わないのがおかしい〉というような傲慢さが見られます。
 一例を挙げます。「柿の実をもぐ」とか「漬け物がしょっぱい」とか言うのは東京の「気づかない方言」ではないでしょうか。関西人にとっては、柿の実は「ちぎる」のであり、漬け物は「塩辛い」のです。
 もちろん、全国で「もぐ」や「しょっぱい」を使う地域はあちこちにあるでしょう。それは「パーマをあてる」という地域があるのと同様な現象なのです。
 平安時代に使われていた「いぬ」(去る、帰る)という動詞は、今でも関西では現役です。「よさり」(夜)や「おとがい」(顎)などという古い言葉を使うこともあります。かつての中央語であったものを、使用地域が狭まったから「方言」だと烙印を押すのは考えものです。同様に、現代東京語にないものを「方言」だ(あるいは「気づかない方言」だ)と言うのも、おかしな考え方であると思います。
 「気づかない方言」という判定は、東京人がすることではありません。地域の人自身が、そう言えばこの言葉は他の地域の人には伝わらない言葉なのだなぁと感じたときに、自分たちの使っている言葉を「気づかない方言」と認識すればよいのです。

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2019年3月21日 (木)

言葉の移りゆき(334)

「事実」の中に含まれる「事実でないこと」
 こんな文章を読みました。ちょっと不思議な気持ちになりました。
 よく例に出るが「あす台風が本州に上陸する」これは事実ではない。「あす台風が本州に上陸すると言われている」これは伝聞である。「あす台風が本州に上陸すると思う」これは推測。「あす台風が本州に上陸すると気象庁では言っている」これは事実である。私たちは日常、児童・生徒・学生に対して、言葉・表現の細部にまで神経をとがらせて伝えているだろうか。
(『OFオフ・40号』、新学社、2019年3月1日発行、17ページ、「ことばの扉」、梅津正樹)
 一読して、述べられている通りだと思うのですが、しばらくして、疑問が生じてきます。「あす台風が本州に上陸すると気象庁では言っている」というのは事実である、と述べています。けれども、その前に「あす台風が本州に上陸する」は事実ではない、と述べています。あすのことは推測しかできないのです。
 つまり、「あす台風が本州に上陸すると気象庁では言っている」という表現のうちの、「あす台風が本州に上陸する」までは事実とは言えないのです。ということは、気象庁は事実とは断言できないこと(すなわち、推測)を言っているのですから、「あす台風が本州に上陸すると気象庁では言っている」という表現の全体は「事実」とは言えないことになります。
 私たちは、新聞や放送のニュースに接して、ニュースソースがしっかりしている場合は、そこで述べられていることの全体を、間違いのないものとして信じてしまいがちですが、決してそんなものではないということに気づかなければならないと思います。
 「あす台風が本州に上陸する」が事実でないのなら、「あす台風が本州に上陸すると気象庁では言っている」も事実ではないのです。
 政治の世界だけではありません。世の中には、このような表現が蔓延しているということに気づかなければなりません。

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2019年3月20日 (水)

言葉の移りゆき(333)

「一生に一度」は何度でもある
 小学校の卒業式に袴姿で出席する女子児童が増えているそうです。関西では、学校や教員委員会がその対応に苦慮しているといいます。そのことを大きく取り上げた記事の中に、こんな文章がありました。
 卒業式を控えた「前撮り」。薄くメイクをしてもらった女児は「友達も皆、着物。かわいいので本番が楽しみ」と話した。母親(43)は「派手なようにも感じるが、一生に一度のことだし」と笑顔で見守った。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年3月12日・夕刊、3版、9ページ)
 学校教育という場にはさまざまな家庭の子どもがいます。他の人への配慮が欠如してはいけません。子どもの気持ちにブレーキをかける役割を果たすのが親であるはずですが、親が助長する側にまわってしまってはいけません。
 「一生に一度のことだ」と言われると、なるほどその通りだという気持ちになりかねません。けれども、小学校の卒業式は1度ですが、今度は中学校入学式、卒業式、高等学校入学式、卒業式……に同じ論理を振り回すかもしれません。「一生に一度」は何度でもあるのです。人生は一度限りの道を歩んでいるのですから。
 成人式や大学卒業式では晴れ着が当たり前になっているかもしれませんが、それは大人の世界のことです。小学校の卒業式に袴姿にさせて、「一生に一度」というのを論拠にしている親の考えが、子どもに伝播していくと、恐ろしいことになりかねません。

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2019年3月19日 (火)

言葉の移りゆき(332)

新聞の見出しも、誇大広告化している

 

 〇〇さんも使っている、△△さんも効果を感じている、◇◇さんも絶賛している、というのは、有名人に名を借りた広告の常套手段です。

 「高知県民のおやつ マツコさん絶賛」というフレーズがありました。広告欄ではありません。新聞の見出しです。

 

 ミレー 人気 あがってます/ 高知県民のおやつ マツコさん絶賛 / 発売60年超

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月19日・夕刊、3版、11ページ、見出しの言葉)

 

 記事には、次のように書かれています。

 

 「ミレー」といえば、フランス人なら「落ち穂拾い」。だが、高知県民にはビスケットだ。発売以来60年以上愛されてきたおやつは、タレントのマツコ・デラックスさんの絶賛も後押しして、人気は今も全国に拡大中。

 (同紙、同日、清野貴幸)

 

 地元で長く愛されてきたお菓子を、たった一人のタレントの手柄であるかのように過大に評価し、その個人の名前だけを挙げて、「絶賛」などという広告用語的な言葉を見出しにする…。マスコミというのは、そのようなものなのでしょう。名もない県民一人一人が愛着を持って食べ続けてきたということよりも、たった一人のタレントが有名にしたということを強調したいのでしょう。

 たった一人の人間がほめ称えたら、それについていく人々がいるということも問題でしょうが、それに輪をかけたような報道をすることの方が、もっと問題でしょう。タレントのことなどに触れずに、このお菓子の真の姿を説明すればよいのです。

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2019年3月18日 (月)

言葉の移りゆき(331)

音読に耐えられない文章の横行

 

 私はこの連載で、文章は音読してもよくわかるものでなければならないということを、何度か書いてきました。

 けれども、新聞記者の目には届いていないのでしょう。尻切れトンボの表現が目につきます。例えば、段落の最後をぶった切って、文字数を少なくしようとする方法は、いまだに一部の新聞で横行しています。

 

 羽生教授は「一般の人は『何も起きていない状態』を『平和』とイメージしがちだが、現実的にはいろんな国の思惑や利害関係の政治的駆け引きの中で、平和的均衡を保つことが求められる。一方的な批判を超えた議論の先に、民主主義社会における平和の構築を目指すのが、平和賞の意義では」。 …(中略)

 ノーベル委員会が嫌がるようなものばかりで、前嶋教授は受賞の可能性は低い、とみるが「受賞できなくても『自分を選ばないノーベル委員会が悪い』『フェイク・アワード(うその賞だ)』と決めつけ、アピール材料にできる」。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月20日・朝刊、13版、29ページ、「NEWSニュースQ3」、飯島健太・仲村和代)

 

 これは、全体が大きく3つのブロックに分かれている記事の、2番目のブロックと3番目のブロックの末尾を引用したものです。

 主語に対して述語の無い文というのがおかしいことは、小学生でも知っていますが、新聞記者にはわかっていないようです。この文体が、新聞特有の文体であると考えるのは、新聞記者だけの「井の中の蛙」であるに過ぎません。

 たぶん、記者はこんなおかしな文を書いていないでしょう。記事を整理する段階で粗っぽい処理をしているということは目に見えています。こんな不完全な文章を書く新聞を、教材にしてほしいなどというNIEの主張は引っ込めてほしいと思います。

 

 しかし、良心的な記者もいます。言葉は目で見て理解するためのものとは限らないということがわかっている人です。目が不自由な人のために新聞記事を読み上げるという活動に関する記事です。

 

 音で理解する人にとっては、「修飾語が長い」「主語と述語が離れている」など、特に意味が頭に入りにくい文章の特徴がいくつかあるという。文字を目で追うのと違い、分かりにくい点があっても前に戻って読み返すことができないためだ。 …(中略)

 記事が、読む人だけではなく、聴く人にも伝わりやすいか。声に出して確認するよう心がけている。

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年3月12日・夕刊、3版〇、8ページ、「キーボード」、行田航)

 

 私は、目の不自由に人のために朗読することだけを言っているのではありません。どんな場合であれ、おかしな日本語表現をなくさなければならないと思っています。そのためには、できあがった文章を音読して、それに耐えられる文章を最終稿とすべきであると思っています。

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2019年3月17日 (日)

言葉の移りゆき(330)

「あげる」という補助動詞

 

 補助動詞と言うか、造語成分と言うか、「あげる」という言葉があります。「て」を介して「道案内をしてあげる」「ご馳走してあげる」というのは敬語表現ですが、そうではない、別の働きもあります。

 「て」を介さない使い方もいろいろです。「(荷物を)担ぎあげる」は上下の方向性が感じられ、「(スマホを)取りあげる」には外からの力が感じられ、「(仕事を)切りあげる」には決断するというような語感が漂います。

 ところで「勤めあげる」という言い方にはどういう意味が込められているのでしょうか。

 「65歳まで勤め上げた全日空の客室乗務員 大宅邦子さん(65)」という見出しの記事がありました。本文には「勤め上げる」という言葉はありません。

 

 全日空で、65歳まで働いた初めての客室乗務員となった。 …(中略)

 入社後6年間で同期の半分以上は辞めた。 …(中略)

 ジム通いを欠かさず、60歳の時、母と姉に「まだ元気なら」と後押しされて、もっと働くことにした。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月13日・朝刊、13版、2ページ、「ひと」、丸山ひかり)

 

 「勤め上げる」には、それによって成功したという意味が込められているようには思われませんが、単に、それをかろうじて、無事に終えたという意味でもなさそうです。

 転職とか途中採用とか言い、働き方改革などという言葉が目につきます。従来からの働くスタイルが音を立てて、崩れて変化しているようです。金銭感覚のようなものが目の前にちらつく言葉です。

 ひとつの仕事に打ち込んでそれを続けていくのは尊いことです。ひとつの仕事を生涯にわたって続けるということが当然であるかのように思って生きてきた世代のひとりとして、私は、「勤め上げる」という言葉に愛着を感じます。

 「勤め上げる」というのは、その仕事を全うして、それを十分に果たし終える、というような意味でしょうか。人生の長い時間が凝縮されたような言葉であるように思います。金銭感覚ではなく、人生感覚(人生哲学)が投影された言葉のようにも感じるのです。

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2019年3月16日 (土)

言葉の移りゆき(329)

「出身」の使用範囲

 

 「出身」というのは日常的な言葉です。意味も使い方も、迷うことはありません。けれども、どの範囲まで使うのかということを、国語辞典で確認してみます。

 

 『明鏡国語辞典』  その土地の生まれであること。また、その学校・団体などの出であること。

 『現代国語例解辞典・第2版』  その土地またはその学校などから世に出ること。また、その出所。

 『新明解国語辞典・第4版』  その土地で生まれ・(その学校を卒業し)たなどという経歴があること。

 

 興味深いのは句末です。「生まれであること」、「世に出ること」、「経歴があること」というバラエティがあります。どれも間違っていません。国語辞典にはこのような違いがある方が面白いと思います。

 上のような説明によれば、「神戸市の出身」、「神戸のボーイスカウトの出身」、「神戸大学の出身」などと言えることがわかります。

 もう少し範囲を広げている国語辞典もあります。

 

 『三省堂国語辞典・第5版』  その・土地(学校・身分)の出であること。

 『岩波国語辞典・第3版』  その土地の生まれであること。その学校の卒業であること。その身分を経てきていること。

 『明治書院精選国語辞典・新訂版』  その土地・学校・社会層・地位などの出であること。

 

 ここまでくると、「弁護士出身の国会議員」などという使い方ができることになります。

 それでは、国語辞典が示していないものを挙げてみましょう。同じ世界でありながら所属が変わる場合です。

 使い方の具体例を引用します。

 

 「安くて美味しくてハズレないのが大阪料理」と語る店主の橋本治さんは、京都の老舗料亭・菊乃井の出身。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月5日・夕刊、3版、3ページ、「味な人」、姫路まさのり)

 

 同類として、「巨人出身で阪神に移籍した〇〇選手」などという言い方が考えられます。要するに、同じ仕事を続けて、所属が変わるだけであっても、「出身」を使う例は多いのではないでしょうか。

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2019年3月15日 (金)

言葉の移りゆき(328)

成り立ちのわからない略語を使わせられる苦しさ

 

 アルファベットの略語が氾濫しています。新聞や放送は、新しい略語が使われ始めると、批判力を持たずそのまま受け入れます。しかも、政府がそんな略語を広める役割を果たしていますから、手に負えません。

 こんな記事がありました。

 

 2020年度から始まる大学入学共通テストでは、「読む・聞く・話す・書く」という英語の4技能を測るため、民間試験が導入される。異なる試験の成績を比較するのに、文部科学省が使うのが「ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)」という耳慣れない仕組みだ。 …(中略)

 CEFRの正式名称は「外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠」。欧州内で他国とのコミュニケーションが重視されるようになり、20年以上の研究を経て、欧州評議会が2001年に正式に発表した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月13日・朝刊、13版、31ページ、「変わる大学入試2020」、氏家真弓)

 

 そもそも「ヨーロッパ言語共通参照枠」という日本語自体が理解できません。さらに「外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠」と書かれても、理解の範囲外です。「参照枠」とは何なのでしょうか。何かの直訳でしょうが、そんな日本語は定着していません。

 CEFRという略語となった元の言葉が紹介されずに、理解不能の直訳を示して、「CEFR」という言葉を流布させようという、この乱暴さは何なのでしょうか。

 この記事には、〈英語力の尺度「CEFR」とは?〉という見出しが付いています。いわば、入門・啓蒙の記事です。そうであるのに、言葉を押し付ける役割しか果たしていません。

 新聞や放送は、これから、「外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠」という言葉を使わないでしょう。なぜCEFRという略語になったのかという成り立ちも示さないで、この略語を使い続けるでしょう。すべては見出しの短縮のためなのです。こんなふうにして、日本語の仕組みを壊そうとしているのです。

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2019年3月14日 (木)

言葉の移りゆき(327)

死語というもの

 

 たとえば「炭団(たどん)」という物をまったく知らない世代なら、国語辞典にその言葉が載っていなくても不自由はないでしょう。「ケセラセラ」という、人の心の様子を表す言葉の場合も同じでしょう。

 炭団もケセラセラも、今ではよほどのことがない限り、その言葉を使うことはないかもしれません。けれども、若い世代の人が、何かの折りにこの言葉に出会って、国語辞典を引いたとき、それが載っていなかったら、困るでしょう。高齢世代にとっては、炭団もケセラセラも身近な言葉であったように思います。

 小型の国語辞典の場合、炭団はかろうじて載っていますが、いずれは消える運命にあるのかもしれません。ケセラセラはもはや載っていない辞典があります。(ケセラセラは、はじめから載らなかったのかもしれません。)

 このような言葉は死語と言われることがありますが、言葉は、完全に使われなくなるということは、あり得ないことでしょう。

 アンケートをもとにした「あなたは楽観派?悲観派?」という記事の中に、こんなことが書いてありました。

 

 日本人は悲観派が多いと記者は感じていたが、回答者の55%は楽観派だった。人生を達観したような様々な言葉が楽観派から相次いだ。

 最も目立ったのは「何事もなるようにしかならない」と、ほぼ同義の「ケセラセラ」。下手の考え休むに似たり、人事を尽くして天命を待つ、人間万事塞翁が馬……といった格言も並ぶ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月16日・朝刊、be10ページ、「between読者とつくる」、辻岡大助)

 

 この記事の小見出しは「ケセラセラな人生」となっています。記事を読む限り「ケセラセラ」の意味は推測できるようになっていますが、この言葉だけを聞いたら、理解できない人が多いかもしれません。

 言いたいことは、言葉を辞書から消し去る場合には、慎重さが必要だということです。とは言え、国語辞典の収録語数が増える一方であるということも悩ましいことであろうと思います。

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2019年3月13日 (水)

言葉の移りゆき(326)

「立ち席特急券」と「立ちそば」

 

 新幹線に立席特急券というのがあります。東北の「はやぶさ」「はやて」「こまち」、北陸の「かがやき」は全車指定席で、自由席がありません。そのような列車にも立席特急券を買えば、指定席券がなくても乗車することができます。立って乗れるのです。「立ち乗り席」ということでしょう。

 さて、こんな文章がありました。

 

 駅前のそば屋さん。横書きで2行に〈立ちそば〉と書いてあります。言わずと知れた「立ち食いそば」のことです。「食い」はいったいどこへ行ったのでしょうか。 …(中略)

 「立ち木」が「立った木」であるのと同様、「立ちそば」は「立ったそば」のようにも感じられ、おかしみがあります。「立って食べるそば→立ちそば」のように「立って〇〇する××→立ち××」という例が他にないか、目下探しています。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月2日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 立って食うそばが「立ちそば」ならば、立って乗る席が「立ち席」です。(この場合は、「席」と言っても、実際には通路でしょうが…。)新幹線の場合は「立ち乗り席」を「立ち席」と略しているのです。そば屋では「食う」ことが目的であり、新幹線では「乗る」ことが目的です。その「食う」「乗る」という動詞が省略されています。

 「立ちそば」が立ったそばのように感じられるというのは穿ちすぎではないでしょうか。新幹線では、席が水平でなく、立ち上がっているようには誰も感じないでしょう。

 あまり好ましい例ではありませんが、立って行う小便を、「立ち小便」と言います。この場合も動詞が省略されていると考えて良いでしょう。

 「立ちそば」だけが特殊な例というわけではないのです。

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2019年3月12日 (火)

言葉の移りゆき(325)

「多行書き」という言葉

 

 縦書きで書かれている新聞に横書きの見出しがある、というのは日本語の特徴のひとつでしょう。

 こんなことを聞いたことがあります。横書きというのは、縦書きの文章が1文字ずつで改行されたものと見なすことができる、というのです。右からの横書きの場合は、確かにそんな解釈ができますが、左からの横書きの場合は、ちょっと無理な考えになります。

 短歌は、ふつう、1行で書かれます。1行の文字数が少ない印刷物では、2行にわたって印刷されることがありますが、作った人は1行のつもりでしょう。

 その短歌を意図的に行分けして書くことがあります。古くから行われていることですが、やり方によって「2行書き」と言ったり「3行書き」と言ったりしています。

 最近の歌集を紹介する文章の中にこんな言葉がありました。今橋愛さんの歌集『としごのおやこ』について書かれた部分です。

 

 多行書き、しかも平仮名を多用することによって、視覚を喚起する効果をもたらす。子どもと母親という垣根を取り払って、対等に向き合っているからこそ、自然に言葉が生まれるのだろう。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月3日・朝刊、13版、11ページ、「うたをよむ」、外塚喬)

 

 1行でなく、2行以上のことを「多行」と言っているようです。引用された歌は、5・7・5・7・7をかなりオーバーした音数を使った歌です。それでも、4行にわたるものはありません。それを「2行書き」や「3行書き」と言わないで、「多行書き」というのは、どういう理由によるのでしょうか。よくわかりません。

 「多」というのは、どのような数以上のものを言うのでしょうか。対象とするものにもよりますが、一般には、5や6という数字は「多」の範囲には入らないでしょう。1行で書くの普通である短歌においては、「1」以外はすべて「多」なのでしょうか。

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2019年3月11日 (月)

言葉の移りゆき(324)

「外販」という言葉

 

 販売というのは、商売として品物などを売ることです。当然のことですが、売るのは外に向かってです。だから、「外販」という言葉を見たとき、それとは違った、特別の意味が込められているのかと思いました。

 例によって、見境もなく新しい言葉遣いをする新聞見出しに、それがありました。

 

 自動運転技術トヨタ外販へ / 標準化 開発加速ねらう

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月9日・朝刊、13版、6ページ、見出し)

 

 本文には、「トヨタ自動車は7日(日本時間8日)、開発中の自動運転技術を他社の車など外部に提供する考えを明らかにした。」とあります。この記事の中には、「業界の中にも提供できれば」とか、「自社の技術を広く使ってもらうことで技術を標準化し」とかの表現はありますが、「売る」とか「販売する」とかの言葉は使われていません。「外販」は見出しだけが突出した表現をしているという感じです。

 実際には、無償提供ではないでしょうから「販売」になるのでしょうが、販売は他社(つまり、外)に向かって行うことです。その「販売」を「外販」と言う理由が理解できません。

 「外販」と言うのなら、対語として「内販」という言葉があるのでしょうか。「内販」という言葉を聞いて、思い浮かぶのは、自社の従業員向けの(優待的な)販売ということですが、そんな言葉を聞いたことはありません。

 「外販」を載せている国語辞典はほとんどありませんが、例外的な『三省堂国語辞典・第5版』は次のように説明しています。

 

 〔 ←外交販売〕会社・団体などを回って販売すること。外売り。外売。

 

 この国語辞典の説明に従えば、トヨタは、ご用聞きや売り込みをするというようなイメージになります。

 この国語辞典には、「外交販売」という見出し項目はありません。また、「外売り」の見出し項目はなく、「外売」という見出し項目には、「外販」とだけ説明しています。

 「外売り」というのは、正規の販売ルート以外で販売するというイメージがないわけではありません。

 ともかく、「外販」「外売り」「外売」などの言葉は、一般的にはまだ使われていないような言葉です。

 新聞が勇み足のように使ったから、国語辞典編纂者が拾い上げて辞典に載せる、それによって一般の人も使うようになる、というサイクルは、日本語にとって望ましいことなのでしょうか。新聞の勝手な表現が、そのうちに、社会に定着していくという悪循環はやめてほしいと思います。

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2019年3月10日 (日)

言葉の移りゆき(323)

「大・小」があって「中」がない

 

 ものの大きさを分けるときに、大・中・小という言葉を使うことがあります。例えば、大型・中型・小型と言います。人の場合にも、大人・中人・小人と言って、入場料などで中人という区分をすることがあります。

 ところで「大・小」があるのに「中」がないという分け方もあります。その例のひとつとして、形容動詞の「大ぶり」「小ぶり」があります。ホットプレートを紹介する記事に、こんな表現がありました。

 

 使用頻度が高くなる一番の理由は、小ぶりな大きさ。37・5センチ×23・5センチ、高さも14センチなのでテーブルを占領しすぎず、2人分の卓上料理にちょうどいい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月10日・朝刊、10版、25ページ、「そばに置きたい」、東海左由留)

 

 大きさや分量などを表す接尾語(造語成分)の「ぶり」は、ちょうど適切であるという場合には使わないようですから、「中ぶり」はありません。

 

 『三省堂国語辞典・第5版』で、「大ぶり」「小ぶり」を引くと、次のように書いてあります。

 

 「大ぶり」……〔他と比べて〕すこし大形なようす。

 「小ぶり」……〔他と比べて〕すこし小形なようす。

 

 この場合の〔他と比べて〕というのは、どのような意味でしょうか。2つしかない皿を比べて、ひとつを「大ぶり」と言い、他のひとつを「小ぶり」と言ってもおかしくはないでしょう。

 けれども、例えば20ほどある皿の場合は、そのうちのいくつかを「大ぶり」と言い、別のいくつかを「小ぶり」と言い、その他のもの(普通のもの)は、「大ぶり」とも「小ぶり」とも言わないでしょう。

 すなわち、〔他と比べて〕というよりは、〔普通のもの・標準的なものと比べて〕という視点で、「大ぶり」「小ぶり」を使うのではないでしょうか。

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2019年3月 9日 (土)

言葉の移りゆき(322)

国語辞典は進化していく

 

 私は何冊もの国語辞典を使っています。だから、すべての辞典を最新版に買い替えることはできません。

 使い続けてきた『三省堂国語辞典・第5版』は、いまだに箱のオビが付いたままです。なにげなくオビを眺めていると、こんな言葉が目に入りました。

 

 元読売新聞用語幹事・金武信弥氏による「国語辞典比較調査」で、使いやすい辞書の第1位!

 ◆中学生から社会人までの生涯学習に。

 ◆2色刷の見やすい紙面。

 ◆「表外漢字字体表」(国語審議会答申)に準拠。

 

 こんな比較調査があったことは知りませんでした。「用語幹事」というのはどういう役割の人なのか、よくわかりません。

 ところで、ここに使われている宣伝文句について、その辞典を引いてみると「生涯学習」の説明はありません。「生涯教育」には次のように説明されています。けれとも、「教育」を「学習」に置き換えてすむようには思えません。

 

 「生涯教育」……社会人がよりより生きるために、一生涯にわたって受けられる教育(を保障する考え方)

 

 「紙面」とは何なのでしょうか。次のように説明されています。

 

 「紙面」……①紙の表面。「- のよごれ」

       ②新聞の、記事をのせたページ。「- をにぎわす・- を割く」

 

 この辞典の紙面というのは、①②のどちらにも当てはまりません。「紙面」というのは、「紙の表面」でもなく、「記事をのせたページ」でもなく、〈印刷された文字〉そのものではないのでしょうか。

 また、この国語辞典の箱の裏側には、こんな言葉が書かれています。

 

 ●膨大な用例カードにもとづく手作りの国語辞典の全面改訂版。

 

 「手作り」とは何でしょうか。用例カードは言うまでもなく手作りです。けれども、国語辞典の一冊一冊が手作りであるはずがありません。食べ物が手作りであるというのとは、まったく違います。この国語辞典が「手作り」でないとは言いませんが、この辞典に載っている「手作り」の説明は、書き変えなければならないでしょう。次のように書かれています。

 

 「手作り」……手で作・ること(ったもの)。手製。

 

 国語辞典は改訂のたびに進化を遂げています。最新版は、このような疑問を乗り越えて、きちんとした説明がされていることだろうと思います。私はそろそろ新版に買い替えなければならない時期が来ているのかもしれません。

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2019年3月 8日 (金)

言葉の移りゆき(321)

東京で使わない言葉はすべて「方言」なのか

 

 日常生活から出るゴミの量は意外に多いものですが、その回収は週に2回行われています。ゴミを集めるところはゴミステーションです。ずっと昔から、そのように呼んでいます。

 その「ステーション」について、こんな文章がありました。

 

 京都大学の構内で見かけた表示。ごみ置き場に〈リサイクルステーション〉とあります。このようにごみ集積場を「〇〇ステーション」と言う例が多くなりました。東京でなく、地方でよく目にします。 …(中略)

 ネットを見ると、「ごみステーション」は北海道の方言と考える人が多いようです。でも、それ以外の地域でも使われています。

 全国の県庁所在地でごみ置き場をどう呼ぶかを調べたサイトがあります。それによると、「ステーション」は、東日本では札幌のほか宇都宮・千葉ぐらいしかありませんが、名古屋以西~九州にはわりあい広く分布しています。

 英語の輸入のしかたに、東西の地域差があるようです。カタカナで書くことばですが、これも一種の方言と言っていいでしょう。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月2日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 本文にあるとおり、これだけ広く、各地で使われている言葉であっても、東京で使われていなければ「方言」であるのでしょうか。言葉に「東西の地域差がある」のは当然のことです。北海道でも使われ、関西はもちろん、九州でも広く使われている言葉を、「東京でなく、地方でよく目にします」という理由で、「方言」だと断じているのです。(「一種の」という修飾語は、いざの場合の逃げ口上だろうと感じます。)

 これは実に横暴な考え方です。東京在住の、国語辞典編纂者の、極端な偏見であると思います。このような考え方が世間で通用するのなら、東京方言集を国語辞典と銘打って刊行してもよいということになります。偏見に満ちた考えが、著名な国語辞典の編纂者から発せられることを、なさけなく感じております。

 それとともに、新聞社も東京から情報を発信して、このような考え方を広げています。全国紙であっても、各地の本社や支社からの発信をもっと多くするとともに、東京から発せられる偏見を取り除く努力をしなければなりません。

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2019年3月 7日 (木)

言葉の移りゆき(320)

「とげ」と「とげとげ」と「とげとげしい」

 

 私たちの地域の方言では、缶詰の缶などのことを「かんかん」と言います。「かんかんを開ける」とか「かんかんで手を切った」というように言います。方言ですから国語辞典には載っていませんが、関西では広く使われる言葉です。

 同じように、毬栗や薔薇の棘(とげ)のことを「とげとげ」とも言います。これも国語辞典には載っていません。

 ところで、態度や言葉遣いなどが荒くてきつい感じを含んでいることを「とげとげしい」と言いますが、この言葉は国語辞典に載っています。

 これは私の勝手な想像ですが、「とげ」という言葉が重なって「とげとげ」となり、それが発展して「とげとげしい」という形容詞になったのではないかと思います。

 「とげとげ」は地域的な言葉でしょうか、それとも全国で使われている言葉なのでしょうか。

 こんな記事がありました。

 

 首に鋭いトゲが生えた新種の草食恐竜の化石が、アルゼンチンで見つかった。研究チームは、背中にかけて2列のトゲが並んで生えていたと想像しており、肉食恐竜から身を守ったり、異性をひき付けたりするためだった可能性があるという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月7日・夕刊、3版、1ページ、小堀龍之)

 

 本文中に使われているのは「トゲ」ですが、見出しは「トゲトゲ恐竜  異性にアピール?  アルゼンチンで新種発見」となっています。

 見出しの「トゲトゲ」は関西バージョンなのでしょうか、それとも他の本社発行の紙面にも「トゲトゲ」が使われているのでしょうか。興味のあるところです。

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2019年3月 6日 (水)

言葉の移りゆき(319)

「報道陣」と「記者団」

 

 何か新しいものができると、一般の人に先立って報道陣に公開されるようです。海外で首脳会談が開かれると、多くの記者団が派遣されるようです。

 たとえば、こんな記事があります。

 

 西日本高速道路は5日、昨年9月の台風21号で強風にあおられたタンカーの衝突で破損し、造り直している関西空港連絡橋の新しい橋桁を堺市の工場で報道陣に公開した。

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年2月5日・夕刊、3版、8ページ)

 

 ところで、「報道陣」と「記者団」とは、同じ人たちのことでしょうか。使い分けがあるのでしょうか。「報道団」という言葉や「記者陣」という言葉はあまり見かけないようですが、それはなぜなのでしょうか。

 『三省堂国語辞典・第5版』で、「団」と「陣」の意味を確かめてみます。辞典の説明のうち、造語成分として書かれているものを引用します。

 

 「団」……①臨時に作った集団。「観光 -・議長 -」

      ②〔臨時に参加する者もふくめた〕組織。「消防 -」

 「陣」……相手に何かをしかける・(その仕事に当たる)ひとびと。「質問の第一 -・教授 -」

 

 「団」は集団や組織のことであり、「陣」は人々のことであるということには納得します。確かに「団」や「陣」に属する人たちは、入れ替わり立ち替わりで変化していくのでしょうから「臨時」の要素が強いのでしょう。

 けれども、一般的な印象として、報道陣の人たちは、ぐるりと取り巻いて何かを眺めているような風情があり(つまり、やや受動的であり)、記者団に属する人たちは、鋭い質問を発したりしている(つまり、やや能動的である)ような感じがあります。

 

 それにしても、「報道陣」や「記者団」という言葉を使うのは、他ならぬ「報道陣」の中にいる人たちであり、「記者団」に属している人たちです。一定の枠組みの中にいる、守られた人であり、他の人たち(一般人)を寄せ付けない位置にいる人たちです。自分たちで、この言葉を振りかざしているようにも見えるのです。新聞や放送に携わる人たちは、他の人たちとは違った特権を与えられているということを、露呈している言葉のようにも思われるのです。

 西日本高速道路は、新しい橋桁を堺市の工場で、一般の人も対象にして公開することにして(実際には、一般の人はほとんど参加せず)、報道関係者だけが詰めかけて、新聞や放送のニュースになったということになればよいのにと思います。梅の花が満開であるという公園はすべての人に公開されていて、それをたまたま新聞がニュースとして取り上げることがあるのです。

 「報道陣に公開」と断られた記事は、作り上げられたニュースという印象を否めません。

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2019年3月 5日 (火)

言葉の移りゆき(318)

自然と笑みがこぼれること

 

 何とはなしに、自然と笑みがこぼれてくることがあります。そんな様子を何と表現しますかと尋ねた場合、「それは、自然と笑みがこぼれる、だろう」という答えが返ってきても、しかたがありません。

 けれども、それを端的に表す言葉があります。関西の言葉ですが「わらける」です。笑けるという一語の中に、動詞と、自発の意味の助動詞とが一体となったような感じが漂います。

 中学校の教員として、生徒との交流を描いたエッセイの中に、この言葉が出てきました。筆者は大阪府の出身で、赴任したのは京都府の日本海側、丹後の中学校です。

 

 講演自体は、人前で話すことに慣れていない妹は緊張しまくっていたし、私は自分の妹が話していることがおかしくてわらけてしかたなかったし、生徒たちは、妹が施設でのことを一生懸命説明したのに、「先生は子どもの頃どんなお姉ちゃんやったん?」とか、「彼氏はおんの?」とかしょうもない質問しかしなかったし、うまくいったかどうかは不明だ。

 (瀬尾まいこ『ありがとう、さようなら』、メディァファクトリー、2007年7月7日発行、162ページ)

 

 ありがたいなあと、一生懸命メッセージを読んでいたら、生徒は「それ一応お守りやで、あんまり中身出したら効き目切れるで、しまっておかな」と言う。なんのためにメッセージ書いてん!と笑けてしまうけど、それ以来ちゃんと大事にお守りを持ち歩いている。

 (同書、166ページ)

 

 「わらけて」と「笑けて」、漢字書きと仮名書きとになっていますが同じ言葉です。『日本方言大辞典』に「わらける」の見出しがないのが残念です。

 『都道府県別・全国方言辞典』(三省堂発行)には、京都府の項に「わらける」があって、「つい笑ってしまう」とあります。大阪府の項には「わらかす」があって、「笑わす」とあります。けれども、そんな府県の区別はなく、関西では「わらける」も「わらかす」も使っています。

 「わらかす」は、共通語では「わらわす」です。けれども、「わらける」を一語で表す共通語はないでしょう。「わらえる」が近いのかもしれませんが、「わらえる」は可能の意味が強く出てしまう言葉のように思います。

 共通語にない言葉で、各地にふさわしい言葉があったら、それをどしどし共通語に取り入れましょう、というのが私の意見です。「わらける」の、頬が緩んでくる雰囲気は、共通語に取り入れて、すぐに使えそうな言葉です。

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2019年3月 4日 (月)

言葉の移りゆき(317)

「無視する」言葉が跋扈する

 

 前回のブログで、「(真摯に)受け止める」という言葉は、自分(政権)に向かってくるもの(埋め立て阻止)を「止める(ふせぐ)」という意味だということを書きました。

 どのような解釈をしようとも、この言葉は自己本位の言葉であることに変わりはありませんが、次のような解釈もあるようです。

 

 「無視する」という言葉には類語が多い。「耳を貸さない」「受け流す」「聞き流す」「知らん顔する」「どこ吹く風」などなど。人を無視することのひどさをごまかすため、色んな言葉が編み出されてきたか

 最近は「スルーする」との言い方もある。もしかしたら、こちらもいずれ類語に仲間入りするかもしれない。「真摯に受け止める」。おとといの沖縄の県民投票の結果を受けて、安倍晋三首相や閣僚らが口にし始めた

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月26日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 「無視」とは、見えない、という意味ではありません。子ども向けの『チャレンジ小学国語辞典・第4版』が、わかりやすく、次のように説明しています。

 

 そこにあるものを、ないかのようにあつかうこと。相手にしないこと。

 

 沖縄には大きな問題(課題)があるのです。問題が「ないかのように扱っ」て、埋め立てを続行しようとするのは、国民を「相手にしない」ということなのです。相手にしているのはアメリカ政府なのでしょうか。子どもたちにわかるような論理を無視して、一国の政治が成り立つわけがありません。

 そう言えば、閣僚や官僚などが発したメッセージ、「答弁は差し控えさせていただきます」や「次の質問をどうぞ」も、「無視する」の類語であることに変わりはありません。

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2019年3月 3日 (日)

言葉の移りゆき(316)

「シンシに」って何? 「受け止める」ってどうすること?

 

 沖縄の普天間飛行場の移設計画を巡って、辺野古沿岸部の埋め立ての是非を問う県民投票の結果が明らかになりました。その結果を、首相や官房長官は「結果を真摯に受け止める」と言っています。

 言葉は正しく使わなければなりませんから、沖縄問題のことがよくわかっていない小学生から、「シンシに受け止める」ってどういうこと?、と尋ねられたら、大人はきちんと答えなければなりません。

 試みに『チャレンジ小学国語辞典・第4版』(ベネッセコーポレーション発行)で、言葉の意味を確かめてみます。「真摯」を引いてみると、載っていません。そうです、「真摯」などというのは大人(政治家)が使う、まやかしの言葉ですから知らなくてよいのです。

 次に、「受け止める」を引いてみます。次のように書いてあります。

 

 ①自分に向かってくるものをとらえて、それが進むのを止める。例・シュートを受け止める。

 ②自分に向かってくることに、にげずに対応する。例・クラス全員の問題として受け止める。

 

 『三省堂国語辞典・第5版』は素っ気ない書き方ですが、主旨は同じです。次のように書いてあります。

 

 ①受けて・止める(ふせぐ)。「ボールを -」

 ②しっかりととらえる。「問題を -」

 

 なんとなんと、政治家は言葉を正しく使っているのです。「沖縄の問題を受け止める」というのは、国語辞典の①の意味なのです。

 自分(政権)に向かってくるもの(埋め立て阻止)を、「止める(ふせぐ)」という意味なのです。

 言葉にいくつかの意味があるとしても、政治家は、②の「にげずに対応する(しっかりととらえる)」ということなど眼中にないのです。

 そういうことを小学生に説明すれば、言葉の意味を正確に理解してくれるでしょう。政治家が、まじめに、ひたむきに努力しているかどうかは別のことです。実は、「まじめに、ひたむきに」というのが「真摯」という言葉の意味なのですが。

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2019年3月 2日 (土)

言葉の移りゆき(315)

「下書き」を上書きする新聞記事

 

 「下書き」の原稿があって、事情が変われば、それに上書きした文章を作る。私たちは、そのようにして書かれた新聞記事を、毎日、読まされているのでしょうか。がっかりします。そんな気持ちにならざるを得ないような記事がありました。

 北海道新聞社が出版した写真集からの引用があったと、朝日新聞が認めたという記事のことです。その記事の中に、次のような表現がありました。記事を読む限りでは、盗用と認めなければならないことは当然であると思います。

 

 社内調査に対して記者は、ギリヤークさんに計3回会って取材したが初回に取材が十分できなかったことなどから、2回目には写真集の記述をもとにした「下書き」も用意した、と説明。取材で下書き部分を確認するとともに、新たな情報を得たら上書きする形で記事を作成したという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月1日・朝刊、13版、26ページ)

 

 この記述は、同じ日の25ページの記事「本紙記事 取り消しの経緯 26面参照」と題する記事にも、同じような表現で書かれています。

 新聞には「予定原稿」というものがあるということは広く知られています。そうでなければ、突然のニュースなどには対応できないでしょう。予め原稿を書いておいて、事実に合わせて修正をして、最終的な文章に仕上げるのでしょう。そのことには何の不思議もありません。

 けれども、新聞記事が盗用によって書かれたと認めざるをえないというニュース記事の中で、新聞記事の書き方を、「下書き」-上書き、というような図式で説明する心理は理解できません。

 「下書き」にカッコが施されているのは、どういう意味なのでしょうか。一般に、下書きとは単なる草稿であって、加筆・修正が予定されている文章のことです。

 今回の場合の「下書き」は、すぐに成稿となるようなものを指しているようです。そして、その「下書き」がそのまま(あるいは、ほんのわずかの修正を経て)記事になったから問題であると弁解しているようです。

 下書き原稿というものは、じゅうぶんに点検し推敲してのちに、最終原稿となるはずですが、その点検や推敲を経たものを「上書き」と言っているのが、何とも軽々しい感じです。

 上書きという言葉にはカッコがついていません。パソコンで更新したデータを書き込むのが、上書きという意味でしょう。ほんのちょっとした字句の修正で、上書きすることもあるでしょう。上書きという言葉は、じゅうぶんな点検や推敲をするという作業が感じられないような言葉遣いです。

 新聞は、取材に基づいて草稿を書き、推敲を重ねて文章を作り上げて、その上で他者の校閲を経て、さらに文章を練り上げるものであると思っていました。そうではなくて、下書き-上書き、というような安易な作り方であると知って、驚きました。真剣に読むべき価値があるのでしょうか、NIEで学校教育の教材にすることに耐えられるのでしょうか。疑問が深まってきました。

 今回の事柄は、担当記者の責任は重いのですが、同時に、担当デスクの怠慢や、校閲部署の不在が表面化したものであることは明確であると思います。

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2019年3月 1日 (金)

言葉の移りゆき(314)

「一つの時代が終わる」を辞典はどう説明するか

 

 日本文化や精神の根底にあるものを追及してきた哲学者・梅原猛さんが亡くなりました。このような場合に使われる常套的な表現に出会いました。

 

 14日夜、京都市内であった梅原さんの通夜に訪れた小松和彦・国際日本文化研究センター(日文研)所長(71)は「子供がそのまま大人になったような、非常に無邪気な方だったが、どんな論争も辞さないという情熱的な部分もあった。一つの時代が終わったという感じがする」と話した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月15日・朝刊、13版、21ページ)

 

 平成が終わって、新しい元号が始まります。新聞や放送は、その30年間を一つの区切りとするような特集を組んだりしています。政治・経済・文化、その他のさまざまな分野において、この30年間が、一つの特徴を持った区切りになると考えてよいのかどうかわかりませんが、報道機関はそんな区切りが好きなようです。

 「一つの時代が始まった」ということを自信を持って断言することは難しいと思いますが、「一つの時代が終わった」という慣用句は、しばしば目にします。

 その場合の「一つの時代」とは何なのでしょうか。平成の場合は30年ほどの一括りです。けれども梅原さんの死を「一つの時代が終わった」と言うのは、どういう区切りで言っているのでしょうか。また、どのような内容が終焉を迎えたと言っているのでしょうか。 人の死は、残された人にとって、大きな喪失感をもたらします。けれどもそれを「時代」という言葉で表現するのはどういうことでしょうか。人の死によって、一人の人生が完結するだけではなく、何か別の大きなものが完結するような語感も伴っています。一人の死で一つの時代が完結するなどということはありえませんが、この言い方が残り続けるのはなぜなのでしょうか。

 国語辞典は「一つ」や「時代」や「終わる」を説明しても、「一つの時代が終わる」を説明しているでしょうか。「一つの時代」の「一つ」とは何なのでしょうか。個人の時代でしょうか、それとも、専門分野における時代でしょうか、あるいは、社会の歴史を区切るような時代のことでしょうか。

 私たちは、情緒的な言葉遣いから抜け出せていないように思いますが、そういうものを整理するのは、国語辞典の役割のひとつであると思います。

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2019年2月28日 (木)

【掲載記事の一覧】

 長期にわたって連載した『明石日常生活語辞典』は刊行を目指して、校正を続けています。小さな文字で800ページを超えます。資料集のような性格での書物ですから、文章を校正するようにすらすらとは進みません。校正が済めば刊行ということになるのですが、初校に3ヶ月を要しました。現在は再校を進めていますがこれにも3ヶ月が必要です。

 今年は明石市制100年の年で、刊行していただく武蔵野書院も創立100年です。今年後半の刊行を目指して力を注ぎます。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでにブログに連載した記事を、内容ごとに分類して、一覧を記します。掲載日をもとにして検索してください。

 

【日本語に関する記事】

 

◆言葉の移りゆき ()(313)~掲載を継続中

    [2018年4月18日 ~ 最新は2019年2月28日]

 

◆日本語への信頼 ()(261)

    [2015年6月9日 ~ 2016年7月8日]

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日 ~ 2010年3月10日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)

    [201310月1日 ~ 20131031日]

 

◆ところ変われば ()()

    [2017年3月1日 ~ 2017年5月4日]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日 ~ 2009年6月4日]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日 ~ 2007年7月7日]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日 ~ 2012年7月8日]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日 ~ 20071030日]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日 ~ 20061226日]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日 ~ 2012年1月4日]

 

 

【兵庫県明石市などの方言に関する記事】

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(2605)

    [2009年7月8日 ~ 20171229日]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日 ~ 2011年9月13日]

 

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-

                        ()()

    [20171230日 ~ 2018年1月7日]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日 ~ 2007年9月29日]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日 ~ 2007年8月20日]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日 ~ 20061015日]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日 ~ 2007年9月12日]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日 ~ 2007年5月7日]

 

 

【郷土(明石市の江井ヶ島)に関する記事】

 

◆名寸隅の船瀬があったところ ()()

    [2016年1月10日 ~ 2016年1月14日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)

    [2012年9月20日 ~ 2013年9月5日]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日 ~ 2011年6月1日]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日 ~ 2014年4月12日]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日 ~ 2008年1月18日]

 

◆名寸隅舟人日記 ()(16)

    [2016年1月1日 ~ 2016年4月2日]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

 

【『おくのほそ道』に関する記事】

 

◆『おくのほそ道の旅』【集約版】 ()(16)

    [2018年3月18日 ~ 2018年4月2日]

 

◆『おくのほそ道』ドレミファそら日記【集約版】 ()(15)

    [2018年4月3日 ~ 2018年4月17日]

 

◆奥の細道を読む・歩く ()(292)

    [2016年9月1日 ~ 2018年3月17日]

 

 

【江戸時代の五街道に関する記事】

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日 ~ 2015年3月31日]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58)

    [2015年4月1日 ~ 2015年6月23日]

 

◆奥州道中10次 ()(35)

    [20151012日 ~ 20151121日]

 

 

【ウオーキングに関する記事】

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日 ~ 2014年5月9日]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日 ~ 2014年5月30日]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日 ~ 2012年5月3日]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日 ~ 2009年6月30日]

 

 

【国語教育に関する記事】

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日 ~ 20071212日]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日 ~ 2008年7月20日]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日 ~ 200610月4日]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日 ~ 2007年8月10日]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日 ~ 200612月7日]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日 ~ 20061222日]

 

 

【教員養成に関する記事】

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日 ~ 2008年9月24日]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日 ~ 20061011日]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日 ~ 200611月2日]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日 ~ 2007年6月6日]

 

 

【花に関する記事】

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日 ~ 2009年6月22日]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日 ~ 2009年5月8日]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日 ~ 2009年3月16日]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日 ~ 20081113日]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日 ~ 20081215日]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日 ~ 2007年6月30日]

 

 

【鉄道に関する記事】

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日 ~ 2007年7月31日]

 

 

【その他、いろいろ】

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日 ~ 20061231日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日 ~ 2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日 ~ 2013年8月28日]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日 ~ 2009年9月10日]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日 ~ 2008年1月10日]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日 ~ 20081125日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日 ~ 2010年1月3日]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日 ~ 2007年8月27日]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日 ~ 2007年8月30日]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日 ~ 2012年9月19日]

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言葉の移りゆき(313)

自分が「見てござる」のではない

 

 戦後の童謡に「見てござる」という曲がありました。山上武夫・作詞、海沼實・作曲で、川田正子が歌っていたように思います。こんな歌詞です。

 

  村のはずれの お地蔵さんは

   いつもにこにこ 見てござる

   仲良しこよしの じゃんけんぽん

   ホイ 石けり なわとび かくれんぼ

   元気に遊べと 見てござる

   ソレ 見てござる

 

 この歌詞の「見てござる」という表現には違和感はありませんでした。「ござる」は「御座ある」から転じた言葉ですから、「見てござる」というのは、見ていらっしゃる、という意味です。この曲で、見ていらっしゃったのは、村のはずれのお地蔵さんであり、たんぼの中の案山子どんであり、山のからすのカンザブロウであり、夜のお空のお月さんでした。

 自分たちを取り巻くものが、自分たちを見ていらっしゃる、という表現でした。子どもたちに敬語意識を植えつけるという意味でも、格好の教材であったと思います。

 この尊敬表現の「見てござる」に丁寧語の「ます」を付ければ、「見てございます」になります。

 

 少し古いのですが、こんな文章を読んだことがあります。

 

 国会の質疑でいつも違和感を覚える言い回しがある。「思ってございます」「感じてございます」。閉会したこの国会でも幾度となく耳にした。「思ってあります」であれば感じないムズムズした感覚が背中を走る

 「私も以前から気になっていました。文法に照らすと変な言い方ですね」。言語学者の尾谷昌則・法政大教授(43)によると、「ございます」は「あります」を丁寧にした言い方。「思ってあります」とは言わない以上、それを丁寧化した「思ってございます」はおかしな表現となる

 (朝日新聞・大阪本社発行、2017年6月21日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 「天声人語」の文章が掲載された当時、その内容の誤りを指摘する投稿があったかどうか知りませんが、誤りは誤りです。今になって誤りを訂正するというのも潔いことだと思います。

 「思ってございます」という言い方がおかしいと感じるのは、法政大教授の指摘するような理由ではありません。丁寧表現としてのおかしさではありません。「思ってございます」には、尊敬表現としての響きが残存しているのです。思っている本人(すなわち、言葉を発している本人)に対する敬意があることを感じてしまいますから、強い違和感を持つのです。

 そのことを法政大教授が誤り、「天声人語」の筆者もそのまま信じてしまっているのです。このまま放ってよいとは思いません。

 国会議員が口にし、大学教授や新聞記者が少しだけの疑問で放置しておけば、一般の人たちは何の疑いもなく使うことになるでしょう。一般の人は、敬語なのだから問題はない、というような意識を持つことになってしまいます。少なくとも、新聞のコラムだけは、間違ったことを書くべきではありません。

 このコラムの末尾には、「有権者の一人として、いまこの国の政治のありように甚だしい違和感を覚えてございます。」とありました。こんな皮肉を言うために、言葉を弄んではいけません。違和感を覚えている本人に向けて敬語を使ってはいけません。

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2019年2月27日 (水)

言葉の移りゆき(312)

「うまみ」を「スキャンする」とは?

 

 私の住んでいるところ海辺です。埋め立ても行われていなくて、海岸沿いに歩行者・自転車専用道路が作られています。明石川の河口から江井ヶ島海岸まで、1時間余り、海を見ながら散策できます。

 海岸は、明石海峡から西に広がる播磨灘です。鏡のような海面と言いたいのですが、そうではありません。沖合遠くまで海苔養殖のためのイカダが浮かんでいるからです。

 海岸から見るとどれほどの沖合までイカダが並んでいるのか、よくわかりませんが、空から撮った写真を見ると、ずいぶんな沖合までであることがわかります。実は毎年、早春の頃にそんなニュース写真が掲載されるのです。

 今年も、そのニュースがあり、次のような記事が書かれていました。

 

 兵庫県の神戸市沖や播磨灘、淡路島沿岸で、特産のノリの収穫が本格化している。同県明石市沖の海を空から見ると、養殖網がバーコードのように並び、ノリを刈り取る船が白い航跡を描いていた。同県は、有明海がある佐賀県に次いで、全国第2位の産地。収穫は4月末まで続く。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月2日・夕刊、3版、9ページ、小林裕幸)

 

 記事はごく普通の表現です。ところが例によって例のごとし、見出しが突出するのです。見出しの言葉は「うまみスキャン中」です。

 記事に「バーコード」という言葉があるから、突然に「スキャン」という言葉が出てきたのでしょうか。それにしても「うまみ」を「スキャン」するとは、どういう意味なのでしょうか。よくわからない言い方です。

 

 私は小さい頃から新聞の切り抜きを日課としてきて、今も続けています。切り抜きに埋もれるような生活も経験しましたが、今は、切り抜いたものはすべてスキャナーで処理して、新聞の現物は捨てるようにしています。「スキャン」という言葉は、私にとってはスキャナーという機器のことであり、その機器を使ってスキャンするという行為のことです。

 最新版の国語辞典に「スキャン」という言葉がどのように説明されているのかは知りません。けれども、一般的な「スキャン」の意味は、原稿を光学的に読み込んで、それをデジタルデータにすることです。あるいは、走査することでもあります。情報を読み取るという意味であり、「ウイルスをスキャンする」というような場合は、調べるという意味が加わります。スキャンはパソコン用語なのか、もっと広い意味を持つ言葉なのか、よくわかりません。

 さて、新聞の見出しに戻ると、「うまみスキャン中」という表現は、どういう意味でしょうか。「うまみをスキャンしている」の主語は、船なのでしょう。海苔を刈り取る船が海苔網をスキャンしている? 海苔網の上を走り回っている? そんなことをしても海苔の美味さは調べられません。「うまみ」と「スキャン」の関係がわかりません。

 このような言葉遣いは、新聞の訂正記事には載らないでしょう。比喩的表現だと言ってしまえばお終いです。けれども、読者はこの表現に納得するでしょうか。黙って見過ごしているだけでしょう。

 新聞は、読者とともに歩む、などということを言っています。それならば、この表現はこんな気持ちで書いたのだ、というような説明が、読者に向けて行われてもよいのではないかと思います。

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2019年2月26日 (火)

言葉の移りゆき(311)

辞典には「身元」の意味がきちんと書かれていない

 

 「身元をきちんと調べる」と書くと、そんなことはしてはいけない、差別になる、と反論されるかもしれません。

 就職や結婚に際して、身元をきちんと調べなければイエスというサインは出せない、と言えば、確かに差別につながりかねません。けれども、場合によっては、警察が身元をきちんと調べなければならないことがあるのです。

 「身元」とは何かということを、『三省堂国語辞典・第5版』で確かめてみます。次のように書いてあります。

 

 ①素性。うまれ。そだち。「- 不明」

 ②一身上についてのこと。身の上。「- 引き受け・- 保証人」

 

 他の国語辞典を引用しませんが、他のものを見ても大同小異です。

 この説明では納得できません。つまり、求めている意味が書かれていません。念のため、その説明の中に書かれている言葉を、さらに確かめてみます。

 『三省堂国語辞典・第5版』によれば、「素性」とは、「①その人が生まれた家柄や血筋。②もともとの身分や職業。③今までたどって来た経歴。由緒」です。また、「一身上」とは、「自分の身の上に関することがら」と書いてありますが、要領を得ません。念のため、「身の上」とはどういう意味かと見てみますと、「①〔現在の〕境遇。②一生の運命」と書いてあります。

 ところが、私が求めているのは、「身元」という言葉の、そのような意味ではありません。家柄、血筋、身分、職業、経歴、由緒、境遇、運命などという言葉のどれにも当てはまらない意味なのです。

 よほど特殊な使い方の場合であると思わないでください。「身元」という言葉の、その使い方は、ごくごく当たり前のもので、しかも、毎日のように目にするのです。国語辞典が、みごとに見落としてしまっているのです。辣腕の「ことばハンター」の目にも見えなかったのでしょう。

 では、ごく日常的な新聞記事を引用します。

 

 22日午後11時ごろ、大阪府羽曳野市駒ケ谷の鉄筋2階建ての建物付近から出火、延べ約450平方メートルが全焼した。焼け跡から性別や年齢が不明の2人の遺体が見つかり、羽曳野署が身元を調べている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月23日・夕刊、3版、6ページ)

 

 言いたいことは、もうおわかりでしょう。「身元」というのは、家柄、血筋、身分、職業、経歴、由緒、境遇、運命というような、過去の事柄や歴史を指すものとは限らないのです。そのような勿体ぶったものではありません。火災現場から見つかった人(遺体)の場合は、生前の誰なのかということを調べているのです。亡くなった人の「身元」とは、まぎれもなく、生前の「あの人」だということなのです。生前の家柄・血筋・身分・職業・経歴・由緒・境遇や、この人がたどった運命などとは無関係の事柄なのです。警察は、必死になって、その人の「身元」をきちんと確認しているのです。

 流行語などと違って、「身元」などという言葉の意味は、簡単には変化しません。だから辞典の改訂のときには注目もされないのでしょう。何十年間も同じ説明でよかろうという気のゆるみも生じるのでしょう。国語辞典編纂者は、目新しい言葉を探し続けているのかもしれませんが、そんなことよりも、もっと大事なことがあるということを、この一例からも、認識してほしいと思います。

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2019年2月25日 (月)

言葉の移りゆき(310)

文化庁の国語世論調査は、話し言葉を軽視していない

 

 文化庁が継続して、国語に関する世論調査を実施しています。

 たとえば、5年前の新聞記事を引用します。

 

 例年通り、言葉や慣用句の使い方も調べた。「噴飯もの」を、本来の意味の「おかしくてたまらないこと」で使う人は19・7%で、「腹立たしくて仕方ないこと」と考える人が49・0%と半数近くもいた。

 また、激しく怒ることについて本来は「怒り心頭に発する」と言うところを「怒り心頭に達する」と使う人が67・1%もいた。 …(中略)… 同庁によると「いくつかの言葉は経年で調査していて、結果が報道されると学校で問題が出されたり、酒の席の話題になったりして、本来の意味が広がるようだ」という。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2013年9月25日・朝刊、13版、36ページ、藤井裕介)

 

 記事には他の言葉や慣用句についても書かれていますが、上の例だけでも、いろいろなことを考えさせられます。

 書き言葉も変化していくでしょうが、話し言葉も同様に変化しています。テレビは映像になるものに価値を置き、国語辞典もカメラなどで記録できるものを重視しています。それでは、話し言葉の変化を忠実に追うことはできません。文化庁の後追いはできても、国語辞典がリーダーシップを発揮することはできません。

 カメラに記録したものと同等以上の数量を、話し言葉からも記録して、その変化の様子を国語辞典に反映させるべきでしょう。例えば、同じ言葉であっても、発音が変化することがあります。それを「訛り」とか「汚い発音」とか「地域的な特徴」とかの説明で片付けてはいけません。四ツ仮名の消滅の過程をきちんと記録した国語辞典などはないでしょう。関西の言葉遣いが、東京中心の国語辞典の影響を受けて話し言葉の語彙がどのように変化しているかなどということは眼中にないでしょう。

 東京でどのような新しい言葉が使われ始めているかということ、その一点に関心を持っているのが国語辞典編纂者の姿勢ではないでしょうか。

 記事にある「結果が報道されると学校で問題が出されたり、酒の席の話題になったりして、本来の意味が広がるようだ」というのは調査の効用です。工夫すれば、国語辞典もそのような働きをすることができると思います。

 かつての雑誌『言語生活』には、読者の投稿を中心にした「目」というページがありました。「耳」というページもきちんと設けられて、「目」と「耳」は同じ重さになっていました。その姿勢には、学ぶべきことが、たくさん含まれています。

 時代の先端を走る国語辞典も必要であるのかもしれません。しかし、同時に、後になってから資料としての価値を認められるような国語辞典を作って、残してほしいと思います。流行語の資料ではありません。国語の変化を跡付けられるような資料です。

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2019年2月24日 (日)

言葉の移りゆき(309)

「半端じゃない」という言葉

 

 「半端」とは、まとまった数量や種類などが揃っていないことです。「半端ではない」というのは、その反対で、数量などがきちんと満たされていることです。意味をすこし広げると、〈数量が満たされている〉→〈たくさん、ある〉ということです。

 関西では、ずっと昔から、そのような意味で使ってきた言葉であると思います。「野菜がぎょうさん(仰山)穫れて、半端やないさかい、近所の人にもわけて、食べてもらおうか。」というような言い方をしました。

 仮に、そのような言葉遣いがあっても、それは話し言葉であって、しかも関西方言であるからということで、国語辞典に採り上げられることはなかったのでしょう。

 さて、こんな文章を読みました。

 

 1970~80年代に、若者の間で「半端じゃない」という言い方が広まりました。意味は、「とてもいい、すてきだ」ということです。そこから、さらに意味が変化して、「人の数が半端じゃない(=非常に多い)」などと使うようになったのです。

 「半端ではない」は、それまでの国語辞典にはのっていませんでした。でも、今やテレビの政治番組でも耳にすることばです。辞書にのっていないほうがおかしい。そう考えて、ぼくは説明を書きました。

  〈半端ではない  程度がたいへん大きい。ものすごい〉

 (飯間浩明『ことばハンター 国語辞典をこうつくる』、ポプラ社、2019年1月発行、122ページ)

 

 引用した文章は、私の感覚とは異なっています。「人の数が半端じゃない(=非常に多い)」という使い方がはじめにあって(あるいは、長く使われてきて)、その後に「とてもいい、すてきだ」という意味が派生してきたと思うのです。

 長く使われてきたと言っても、関西方言の、話し言葉の世界のものに過ぎない、と言われればそれまでです。

 「1970~80年代に、若者の間で」広がったと書いてありますが、もしかしたら、関西出身の若者が東京で使ったら、東京の人も真似て使い始めたのかもしれません。(勝手な想像です。)

 

 言いたいことは2つです。

 これまでにも書いてきましたが、東京で使われて、はじめて国語辞典に載るようになるという悪しき慣例が、続いています。東京で使われなかったら(仮に、その後に使われるようになるとしても)、そんな言葉は認知できないというような姿勢があるのです。どうしても載せることになっても、「関西方言で」などという但し書きを加えて載せたりするのです。言葉の「中央集権」です。「半端ではない」という言葉は、とっくの昔に国語辞典に載るべき言葉でした。昨日・今日あらわれたような、東京分布の書き言葉(しかも、文字を見たら理解できても、発音すれば理解不能に聞こえるような言葉)を、国語辞典に載せてほしくはありません。

 もうひとつ。前回にも書きましたが、言葉の「文字言語重視」です。話し言葉への温かな眼差しが見られないのです。話し言葉を凝視(ウオッチ)すれば、国語辞典に載せるべき言葉は続出します。話し言葉を一段、下に見る姿勢を払拭しなければなりません。コミュニケーションの道具としての言葉は、基本的には話し言葉から出発しているということを忘れてはなりません。

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