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2006年8月31日 (木)

国語教育を素朴に語る(03)

言葉には慎み深さが必要だ

 ずっと昔、戸板康二さんの『ちょっといい話』(文春文庫)を、書名に引かれて読んだことがあります。ほほえましくなるような話がいっぱい詰まっていました。
 最近は書名が、このような名付けとは逆の方向に進んでいます。書店で目につく『超~』とか『○○先生の~』というような名の本を、私は読む気にはなれません。慎み深さが欠けていて、自分に酔ってしまっているような印象がぬぐい去れないからです。何とかして本を買ってもらいたいという姿勢だけが強くあらわれています。
 このような書名は、売り上げを考えて出版社が要請したということもあるでしょうが、最後は著者が了解したはずだと思います。
 テレビの番組表に見られる、《極端に大げさな言葉を選んで、しかも誇張した言い回しをして、たくさんの感嘆符や疑問符などを駆使して、視聴者を無理やり引っ張り込もうとする言い方》も同じです。実は、この《 》の中の言葉は、大げさな言葉をちょっと真似てみたのですが、白々しく響くではありませんか。
 自己を表現することは大切です。けれども、大げさな言い方をすれば効果が生まれるということではないはずです。
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 これも、ずいぶん昔のことになるのですが、教員の口から出た言葉を聞いて驚いたときの記憶が、今でも鮮明に残っています。
 ある人の「お姉さんも教員をしています」という言葉と、別のある人の「奥さんに相談してから決めます」という言葉でした。何のためらいもなく口をついた言葉でしたから、よけいに驚きました。
 ふざけた表現としての「(私の)奥さんが怖い」などというのは、おかしいとは思いませんが、真面目な顔をして「お姉さん」「奥さん」と言われると、聞く側が立ち往生してしまいます。そして、このような言葉遣いは確実に広がっています。
 町では「さんぱつ屋さん」とか「ケーキ屋さん」とか、自分で自分を「さん」付けで呼んでいる店が増えてきました。やわらかい響きはありますが、お客さんは誰なのかと言いたくなります。「みっちゃん」とか「太郎さん」とかいう、飲み屋の屋号などとは明らかに違っています。
 人が言ってくれる前に、自分に(あるいは、自分の側の人に)敬意を込めて言うことは、日本語の歴史の中には、なかったことです。
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 表現するときには、誰でも、それによってもたらされる効果のことを考えています。それとともに、表現は人間関係に配慮することも大切です。
 生徒たちは社会の言葉の状況に影響を受けていますが、望ましくないものは排除するように、きちんと指導したいと思います。
 誇大な言葉は、商品の宣伝などに使えば効果はあるかもしれませんが、人にかかわる場合は、その人の品位にかかわってきます。
 自分で、自分に酔うことは避けましょう。自分の言葉に酔いしれてしまっては、読む人を引きつけたりはしません。自分はこんなに素晴らしいのだなどということは、自分の口からは言わない方がよいでしょう。表現は、その場の効果とともに、後に残るものも大切です。抑制の利いた表現こそが人の心をうつということは多いのです。
 誇大な言葉を使う人は、言葉の力を信じていないように見えます。言葉の持っている力を信頼するなら、ありのままの言葉を使って表現したいものです。それに付け加えるものがあるとすれば、誇張ではなく、慎み深い言葉遣いです。国語科の教員が、そのような見本となる表現をしたいと思います。

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2006年8月30日 (水)

国語教育を素朴に語る(02)

教室を特別な世界にしない

 国語という教科に限ったことではありませんが、授業展開の中で大切な働きをするのは発問と板書です。
 発問は、授業を展開する核になるものであって、適切な発問ができるかどうかによって、効果が大きく左右されます。どのような発問をして授業の効果を高めていくかは、授業をする者にとっては重要なテーマです。
 けれども、気をつけなければならないのは、それだけではありません。
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 発問をして、生徒に答えさせるとき、求めていた答えに近いものが生徒の口から出た場合に、どのような反応をしているでしょうか。正答に近いものが生徒の口から出たとき、すぐに「正しいですね」とか「よろしい」とかいう言葉で、生徒との言葉のやりとりを直ちに終えてしまってはいないでしょうか。
 キーワードにあたる部分だけで正しい・誤まっているということを判断する姿勢は改めなければならないと思います。授業展開の能率は上がりますが、言葉の指導という点では逆効果を生んでいます。求めていた単語ひとつを聞いただけで、生徒の発言をさえぎると、不完全な表現になります。そのような授業展開が続けば、生徒は、単語などを一言、二言述べれば答えたことになるという気持ちになりかねません。授業中にそのようなことを繰り返していたのでは、「職員室に提出物を持ってきても、『先生、これ』と、単語でしかものが言えないんだ」と生徒を批判する資格はないと思います。
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 教室での言葉遣いが、日常生活の言葉遣いとかけ離れたものになってはいけません。道ばたで「駅へ行くのは、どの道を通ればよいのでしょうか」と尋ねられたら「向こうに見える交差点を右に曲がって、100メートルほど歩けば駅です」と答えるでしょう。ところが教室では、「この文章の中に変格活用の動詞がありますが、どれでしょう」という質問に対して、生徒がただ一言「去ぬ!」と答えれば、にっこりと「その通りです」と反応してしまいます。親切に、一単語で答えればすむような質問を用意している場合もあるでしょう。日常生活での対話は文の形で行われているのに、授業中の問答が単語の形で進められていくならば、教室はずいぶんと特別な世界であると言わなければなりません。話し方指導とは縁遠い現象が起こっているのです。
 言葉としてまとまりのあるものを生徒に答えさせるようにしたいと思います。そして、生徒の発言を途中で遮ることをしないで、言おうとしていることが完結するのを待ちましょう。助け船を出すことによって、視点が変わって、先ほどまでの不完全な表現が途中で放置されてしまうということもあります。生徒が言い終わるのをゆっくりと待つことが大切なのです。極端な言い方をすれば、待つことのできない授業は、言語環境を壊す役割を果たしていることになります。
 一語文などという言葉がありますが、その一語文の世界を作り出すことを助けているのが他ならぬ教員自身であってはなりません。
 完全学校週5日制になって時間が足りないと言います。授業は能率を上げる必要があるでしょう。けれども、それを理由にするなら、ここに述べたような状況は少しも好転しません。
 日常生活で大切なのは、話のやりとりです。自分の考えを文章に書き表すことも大切ですし、難しい文章を読解することも大事でしょう。けれども、そればかりが国語の指導の大きな比重を占めてしまってはなりません。
 生き生きとした言葉遣いを生徒に示してやりましょう。それが、国語教育を専門にしている者の務めでもあると思います。

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2006年8月29日 (火)

国語教育を素朴に語る(01)

言葉の流れをサラサラにする

 血がドロドロになると血管が詰まって、いろいろな病気の原因になります。野菜などをたくさん食べると血がサラサラになります。こんな食生活の勧めを聞くことがあります。
 言葉も同じだと思います。言葉もサラサラと流れ続けてほしいと思います。滑らかに流れなければ、意思や感情が自分の手元で詰まってしまって、相手の心の中に伝わっていきません。
  言葉は、自分と相手とをつなぐものです。難しくてわかりにくい言葉を使うことは、相手に失礼です。また、相手に正しく伝わらないかもしれないという不安が生じます。何かの表現をするときには、きちんと相手に伝えようとする心遣いが大切です。
 「やさしい」言葉を使いましょう。易しい言葉は価値の低い言葉ではありません。易しい言葉で高度な内容が語れないことはないと思います。易しい言葉は、相手を思い遣った優しい言葉でもあります。
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 私たちは国語の教員です。易しい言葉遣いをすることが、言葉の専門家である私たちにできないはずはありません。
 連載の初回に、このようなことを申すのには理由があります。
 本誌(雑誌「月刊国語教育」)の実践提案や論文を読んでいると 国語の教員が書いた文章でありながら、難解でわかりにくいと思うことがあります。巻頭にある随筆の文章とは好対照です。同じ一冊の雑誌であるのにと思います。書かれている実践提案や論文を参考にして、その実践を真似たり発展させたりしてみようと思っても筋道がわからないことがあります。国語の教員が書いて国語の教員が読む文章に、意味が通じなかったり、誤解が生じたりするようなことがあってはなりません。ちょっと工夫をすれば改善できると思うのです。
 本誌は国語教育についての実践や研究の発表の場です。どのような分野でも同じでしょうが、いかに優れた個人が現れて大きな成果を残したとしても、それがみんなの大きな財産になるかどうかはわかりません。一つの先進的な営みが、同じ時代の人たちや、後に続く人たちに受け継がれて、それを改善し発展させていくのが文化だと思います。小さな実践や研究から輪が広がって、いろいろな創意工夫が加えられていき、共有財産になるのだと思います。私は、国語教育の雑誌が存在する意味を、そのように考えております。
 だからこそ、みんなにわかるように書いてほしいと思います。この雑誌に発表される方々は、優れた実践をし、卓越した考えを持っておられることはわかります。けれども、そのことが読者である国語教員に正しく伝わっているかどうかについては疑問が残ります。
 国語教育に携わる人なら誰でも心得ておかねばならない内容なら、注釈も何も必要ないでしょう。ところが、筆者が独自で考えたことや実践したことは、わかりやすく丁寧に説明しなければなりません。
 本誌に発表される文章が、筆者の自慢話であったり、わかる人だけにわかってもらったらよいという内容のものであるのなら話は別です。そうでないのなら、わかりやすい言葉を使って、理解しやすい書き方をしてほしいのです。ほんとうは、自慢話やひとりよがりは、このような雑誌に発表するのがふさわしいとは思いません。他の人に影響を与える内容のものこそ価値があるのだと思います。
 教員である私たちは、やさしい言葉遣いをしましょう。それがそのまま、生徒たちの言語環境を形づくっているのだということを忘れないようにしましょう。

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