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2006年9月30日 (土)

国語教育を素朴に語る(33)

話し言葉に立脚した言語環境の整備を

 教職課程の大学生が教育実習をさせていただいている中学校・高等学校に出かけて、授業を見せていただき、指導をしてくださっている教員の話をうかがう機会があります。
 先日、ある教科の実習生の授業を参観したときに、気になる話し方がありました。例えば、「第二次世界大戦、が終わったのは、一九四五年、のことで翌年、一九四六年、に、日本国憲法、が公布されたのです。」というような話し方で、それが授業時間すべてにわたっていました。あとで、その学校の先生にうかがうと、「そのような話し方をする教員がいるので、その真似をしているのかもしれない」ということでした。実習生がベテラン教員の話し方をすぐに採り入れたことを、誉めるべきか否か、複雑な気持ちになりました。
 このような話し方をする理由は明白です。重要な語句を口にした段階で一呼吸いれて強調し、理解しやすくしているのです。
 けれども、日常生活では、このような話し方を、ほとんどしません。放送のニュースなどでも、重要な語句を強調する工夫はしていますが、重要語である名詞の後で区切って、次の部分が助詞から始まるようなことはしていません。
 どの教科であれ、このような話し方の授業を受け続けたら、生徒はそれを奇妙な話し方だとは感じなくなってしまうでしょう。
     ◆   ◆   ◆
 これに関連して思い浮かべたのは井上ひさしさんの戯曲「国語事件殺人辞典」、「花子さん」などでした。そこには言語不当配列症、音連合症、言い間違い症などの人物が登場します。戯曲ですから、話し言葉の世界です。
 書き言葉と話し言葉は同じではありませんが、話し言葉の区切り方や、言葉の順序を軽く考えてはいけないと思います。修飾語と被修飾語が離れた場所にあることや、長い文のはじめと終わりが対応していないことなどは望ましいことではありません。書き言葉の文章の誤りは厳しく指摘しながら、話し言葉を軽く見てしまうのはよくないことです。
 書き言葉の文章では同じ言葉をたびたび使うことを避けるように指導しますが、話し言葉では何度も出てくる言葉、つまり口ぐせのようなものを回避することは強く指導していません。話し言葉に甘いという指導姿勢は改めるべきではないでしょうか。
 放送などでも、「まず」が何度も出てくることがあります。場面が変わるごとに、その場面ごとの「まず」が口に出るのです。「さっそく」も場面の展開ごとに何度も使われることがあります。放送終了後(というよりは、収録終了後で、放送開始前)にテープを聞き直して言葉遣いをチェックすることをしていないのでしょう。番組によっては、チェックをしても、修正することができないほど多出しています。
 学校では、教員はこのような話し方をしないように心がけるとともに、生徒への指導もていねいに行いたいと思います。
     ◆   ◆   ◆
 昨年、成立した「文字・活字文化振興法」では「言語力」という言葉が強調されました。今、改訂作業が進められている次期学習指導要領では、すべての教科指導の基盤に「言葉の力」が置かれるようです。母国語の指導をていねいに行ってこなかったことを反省し、「言葉の力」を育成する指導をすべての教科の基盤に置こうとするのは当然です。教科を超えて、あらゆる場面で、言葉に関わる様々な力を育成しようとする指導を深めることは意義深いことです。そして、それらの指導に、国語科はこれまで以上の重要な役割を果たさなくてはなりません。
 学ぶことは真似ぶことですから、言語環境が生徒に果たす役割は大きいのです。言語環境は、その学校のすべての教職員で作り上げているのだという意識を強く持つことと、日常的な言語活動、とりわけ、話し言葉の分野において、生徒に手本を示すことが肝要です。話し言葉に立脚した言語環境の整備こそ重要なことだと、私は考えています。

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2006年9月29日 (金)

国語教育を素朴に語る(32)

電車の中の風景を元に戻したい

 電車の中の風景が変化しています。車中で飲食をする人が目立ち、化粧に熱中する女性が急増しました。人々から、たしなみの心や、自分を客観視する姿勢が失われつつあるのでしょうか。舞台裏をさらけ出そうとしないのが人間の自然な心持ちだと思いますから、衆人環視の中でメイクをして、変身を遂げる行動を見せつけられると、こちらが戸惑ってしまいます。
 もう一つ、足早に変化した風景があります。高校生や大学生が車内での時間を活用するために手にするものが、書物から携帯電話に移っています。大人たちの一部も同じです。大人はともかく、年若い人たちがこれではよかろうはずがありません。
 書かれている内容はさまざまでしょうが、車内では本や雑誌や新聞を読むというのが、人々の長い間にわたる習慣でした。向かい側に座っている三、四人が、携帯電話を突き出して、いっせいに指を動かしているのを見ると、異様な感じがします。
 世の中には、一刻を争うような火急の事態は多くありません。生徒には、時間を惜しんでメールをやりとりするようなことよりも、ゆったりした時間の中で活字に親しむことの方が意義深いのだということを認識させたいと思います。メールで特定の誰かとの関係を保つことも大事でしょうが、読書はもっと広範な人間関係を教えてくれます。
 もとより携帯電話は現代生活に不可欠な機器になっています。通信手段としてだけでなく安全対策にも活用されています。通信販売物の購入も、音楽のダウンロードもできます。利用方法はますます広がっていくでしょう。
けれども、活字に親しむ時間以上に、携帯電話に触れる時間が必要だという人は、ごく一部に限られるはずです。
 本を読むのは受身の行為であり、メールを打つのは能動的な表現である、というように弁護する気持ちにはなれません。
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 この状況には対策が必要ですが、特効薬などあろうはずはありません。例えば環境問題などと同じように、小さなことを積み重ねるしかないと思います。ちょっとしたエネルギーの節約が積み上げられると、環境破壊の速度を緩めるというのと同じです。生徒に向かって、本を読もうとする努力を促すことを、息長く続けたいと思います。指導の積み重ねが効果を招くことを期待したいと思います。
 多くの学校で取り組んでいる「朝の読書」が成果を上げています。そして、本を読む楽しみを、朝の時間枠から日常生活全体へ広げていきたいものです。
 車内風景のことを例にして話しましたが、それは生活時間の一部にすぎません。けれども、このことを生徒の知的生活の象徴的な現れであると認識してもいいのではないかと思います。
  クルマを運転して通勤する教員が増えています。電車通勤に比べて二十分とか三十分とかの時間が節約されるという理由でクルマを使う教員もいるようです。
 マイカー通勤をすると、学校の行き帰りに生徒と肩を並べて歩いたり、車内で顔を合わせるということがなくなります。生徒の実情を知ったり、生徒に注意を与えるということも減っていきます。生徒といっしょの電車に乗るのがいやだから電車通勤をしないという教員もいると聞きますが、驚くべき感覚です。
 生徒の生活習慣の改善に関して、教員がさりげない日常の中で果たす役割が大きいということを忘れてはならないと思うのです。
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 ふと気が付いたら、盛夏の季節に「緑陰読書」という言葉が使われていたのは昔話になっていました。木陰を通り過ぎてくるそよ風に吹かれて読書を楽しむという習慣は、もはや隔世の感がします。涼しい車内や快適な部屋にいても、にらめっこしているのは書物ではなく携帯メールであるという風景を思い浮かべると、涼しさを通り越して背筋の寒さを覚えます。

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2006年9月28日 (木)

国語教育を素朴に語る(31)

考えや思いは多様であるはずだ

 多くの生徒は、国語の勉強で、さまざまな文章を読んで、考えたり感じたりすることを楽しいと思っていることでしょう。自分の力で考えることも、大勢で議論をすることも、思いがけない発見をもたらしてくれます。
 けれども、試験になると得点がはかばかしくなくて、設問の正解がなぜそのようになるのかということで悩んでしまう生徒が多いことも事実です。その気持ちが強まれば、国語という教科をとらえどころのないもののように感じてしまうことになります。
  試験では、正解として認める幅を狭めないと、採点の際に行き詰まるという事情があります。けれども、一定の範囲内にある答え以外のものを正解と認めないという姿勢を強めると、生徒は国語という教科を窮屈なものと感じることになるでしょう。
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 文章を書いた人の心の中は、その考えや思いを文字に定着する寸前まで、右に左に大きく揺れ動いていたかもしれません。考えたり感じたりしたことを、無数に広がる語彙の中から言葉を選んで、できるだけ自分に忠実に表現したことでしょう。揺れることのない意味だけを伝えて、解釈の余地がない文章というのは、ほとどないと思います。
 したがって、文章はいろいろな読み取り方ができるはずです。授業中には、いろいろな意見を出し合ったりして生徒が話し合うことを推奨しながら、試験では答えを一つ(もしくは、狭い範囲)に決めてしまうのは、ちょっと可哀想ではないでしょうか。
 試験の結果は点数化するから、その目的のためにはやむを得ないことなのだと考えてしまっていいのでしょうか。
 窮余の策として、答えが幾通りも考えられるような設問を避けて、無難な箇所を出題することもあります。授業中の膨らみや深まりはどこへやら、平板な設問が顔を並べることにもなります。授業中に重点をおいて指導したことを、試験では出題できないというジレンマに陥ることもあります。
  これらのことは、私自身の反省も込めて言っているのです。
     ◆  ◆  ◆ 
 国語の教員は、文章の読み取り方などに一定の枠組みや方向性を作り上げつつ生徒を指導しているのではないかということを反省する必要があるように思います。教材を客観的に教えているという認識を持ちながらも、望ましい考え方とか、ふさわしい感じ取り方とかを、生徒に向かって強く指示していることがありはしないでしょうか。力を入れて指導すればするほど、その傾向が強まることにもなるのです。そのような指導を受けると、生徒は、解釈や鑑賞に一定の方向性を示されて、その線上で心を動かさなければならないという辛さを味わうことにもなります。
 例えば文学作品は、いろいろな解釈やさまざまな感じ取り方ができるように工夫されていることが多いと思います。登場人物たちは、活きた人間です。ところが、試験になると、それらを普遍化するような方向に導いていく設問が現れることもあります。
 論理的な文章であっても、筆者が書いているのは、考えや思いの、ひとつの筋道です。そこから派生して揺れ動いている考えもないわけではないでしょう。
 文章の内容に一定の方向を与えてしまう危険が伴っているということを、国語の指導過程では認識しておくべきだと思います。
     ◆  ◆  ◆ 
 同じ入試問題を扱っていても、それらの問題を集めた本によって解答例が異なることがあります。その場合、どの出版社の作った解答が望ましいとか、あるいは誰が作った解答が優れているとかを比較することは必要かもしれませんが、解答の多様性を尊ぶことも必要でしょう。
 答えが多様なものは、指導する価値が劣るわけではないと思います。国語の学習から大らかさをなくすことの方にこそ問題があると考えるべきではないでしょうか。

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2006年9月27日 (水)

国語教育を素朴に語る(30)

制約の中で、深みのある表現を紡ぎ出す

 テレビのチャンネル数が増えて、多彩な番組が放送される時代になりました。ところが、それに伴って、ひとりが見る番組の幅は、逆に狭くなってきているとも言われています。
 チャンネルが一つとか二つしかなかった時代には、その放送局の作るさまざまな種類の番組を、人々は見続けていました。チャンネルが増えることで、野球好きはあちらこちらから野球放送を探し出して見ることができます。囲碁・将棋番組ばかり、映画番組ばかりを選ぶこともできます。そのようにすると、見る番組の幅が狭まってきます。
 チャンネルが増えるにつれて、番組制作は気軽に進められているようにも思われます。食べ物を扱った番組が競って放送されていますが、その中には、食べ物を粗末にしたり、不作法な食べ方をしたりするものがあります。食べたときの感想が「おいしい」や「うまい」だけですまされてしまうこともあります。番組の進行や言葉に深みがないものは興ざめです。
   ★   ★   ★
 日本語に限らず、どの言語も語彙は時代とともに増え続けています。死語となるものがあっても、人々が使う言葉の総数は、時代を経るにつれて多くなっていきます。国語辞典の収録語数は増加の一途をたどっています。
 けれども、一方で、現代人の語彙の乏しさや、表現の貧しさを嘆く声を聞きます。日本語全体で言葉の数が増えても、ひとりが使いこなせる言葉は少ないのかもしれません。
 食べ物の番組に出演する人が、「おいしい」などという平凡な言葉に頼らずに、表現を工夫しようという気持ちで臨めば、言葉の深みが増すでしょう。実感の伴わない空疎な言葉は使えなくなるでしょう。けれども現実は、出演者や制作者の努力に脱帽するような番組は多くはありません。言葉の重みが失われてしまうのは残念なことです。
   ★   ★   ★
 国語教育は、言葉を適切に表現し、正確に理解する力を育てて、伝え合う力を高めることを目標にしています。表現力や理解力を育成するために、国語の教員はさまざまな指導の実践をしています。
 私は、表現する際に何らかの制約を課して、その中で表現を工夫するという指導をすべきだと思います。ありふれた言葉を使わない、誰もが思いつくような表現を避ける、というような課題を与えたら、言葉と格闘しなければならなくなります。特定の語句を使用禁止にするということを課した場合も同様です。
 課された重荷を払いのけて表現を工夫することによって、使いこなす言葉の幅を広げていくことができます。また、発想法を変えて、ものの見方や感じ方を異ならせていくことにもなります。そのようにして深みのある表現を紡ぎ出して、伝え合う力を高めるようにしたいと思います。
 それは、禁止区域を設けてガチガチに束縛しようとしているのではありません。むしろ、心を柔らかく、もみほぐす働きをしていると考えるべきだと思います。
 言うまでもないことですが、俳句は十七音という制約の中で、緊張感をはらみ、新しいものを生み出してきました。制約を設けるというのは、表現の芽を摘み取るように見えるかもしれませんが、それは力をためて、次へ飛躍する土台を作ることにもなっています。
   ★   ★   ★
 中学校や高等学校では、古典の指導をしています。古文や漢文に触れてものの見方、感じ方、考え方を広くして、人生を豊かにすることを目指しています。
 それとともに、現代よりも語彙の少ない時代に書かれた文章でありながら、見事な言葉遣いをして、現代人の心を揺り動かしているということに気づかせることも大切なことです。古典は表現教材でもあるのです。
 優れた表現というのは、使っている言葉の数に左右されるのではなく、その言葉のひとつひとつをどのように使いこなしているかということにかかっているのだと思います。

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2006年9月26日 (火)

国語教育を素朴に語る(29)

季節を実感させる国語の授業に

 風さわやかな五月になりました。この季節になると、「卯の花の匂う垣根に時鳥はやも来鳴きて…」の『夏は来ぬ』や、「屋根より高い鯉のぼり……」の『こいのぼり』などの歌が口をついて出てきます。どちらも古くから歌い継がれている唱歌ですが、私の身にも染み込んでしまっているのでしょう。
 キュウリやトマトが一年中、店先に並んでいます。冬の最中に水着のファッションショーが開かれたという報道に接することがあります。
 はしりのものにいち早く接することとと、季節はずれを喜ぶこととは、まったく別物だと思います。季節はずれを受け入れたくはないのですが、今の世は、商業主義に押し流されて、季節はずれを珍しがり、尊ぶような姿勢が根づいてしまっているようにも思います。また、季節感が失せたと言いつつも、それによって便利になった生活を享受しているという面は否定できません。
 そうではあっても、季節感は喪失してしまってよいものであるとは思いません。この頃の生徒たちには季節感が乏しくなったという声を聞きますが、それは無責任な大人の批判かもしれません。季節感を教えたり季節の巡りに沿った生活を意識させるのは学校や家庭の務めです。生徒たちのせいにしてしまってはなりません。
       ★  ★  ★
 季節感の中は、実際にその季節に巡り会わないと実感の伴わないことがあります。しかも、季節感は、単なる説明ですませるわけにはいきません。季節の風物や行事などは、実感して、体で覚えていくものです。今がその季節だというタイミングをとらえた指導を工夫したいと思います。
 教科書がカラフルになって、俳句などの単元の参考として、季語に対応した写真などが掲載されています。けれども安心は禁物です。写真と実物は違います。実物に接することのできる時に指導しなければ、ひととおりの説明に過ぎなくなってしまいます。季節をとらえて指導すべきものには、花や木の香り、鳥や虫の音色や姿かたち、季節ごとの天候や寒暖、空や雲の色や形などなど、対象は無数にあります。
 俳句などは、ひとつの単元として、教科書の特定の場所に収められています。まとまった指導をするためには、そのほうが効率よいことはわかりますが、四季のすべてを一括して学習させることになります。
 古文も同じです。徒然草の「折節の移り変はり」も、枕草子の「春はあけぼの」も、学習指導の系統性に基づいて教科書に登場します。これらの文章を読んで、季節の流れや、季節ごとの違いを大づかみにするのは大事なことです。
 その上で、表現されている個別の季節を感得することは、もっと大切なことだと思います。既に学習を終えているにしても、後から学習することになっているにしても、それにぴったりの季節に出会ったら、その文章の内容についての指導をするのがよいと思うのです。
       ★  ★  ★
 そのためには、その年度に指導する教科書を年度初めにきちんと読んでおくことが必要です。教科書に収められている現代文・古文・漢文の作品をあらかじめ読んでおくことは、教員としての当然の務めです。読んでみると、季節に関わる事柄の多さに驚くことがあります。韻文だけでなく、散文にも、季節をあらわす表現はあちらこちらに散りばめられています。古典作品は、現代文よりももっと比重が高いはずです。古典では、旧暦と新暦の違いなども留意して指導しなければなりません。
 季節に関する指導は、一回の授業の始めか終わりの二、三分間を利用すればできることだと思います。既に学習したことを振り返ったり、これから学習することを先取りしたりして、ちょっと季節を意識させる指導を続けてみることは、楽しいことではないでしょうか。

〔この文章は、雑誌の5月号に掲載されたものです。〕

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2006年9月25日 (月)

国語教育を素朴に語る(28)

手を動かすことは頭を動かすこと

 今の世の中は、少ない労力で大きな効果を得ることに価値があると考えている風潮があります。また、人間の活動を金銭に換算したり、経済効果という側面から考えているような傾向もあります。
 マスコミは、いろんな分野で地道に努力している人たちのことよりも、ヒーローや有名人のことを大きくとり上げています。投資ファンドなどが巨利を手にしたことや、プロスポーツ選手が高額の年俸を得たことなどを、大きな見出しで報道しています。金銭的な欲望を露骨に表現しているように思えてならず、なんだか品位のない社会になってしまったように感じます。
 新聞を「社会の木鐸」だと言ったのは、遠い昔のことのようです。今では、良きにつけ悪しきにつけ、新聞は現代社会の風潮を拡大する働きをしているように見えます。テレビのことは、もはや論外です。
 若い人たちが、苦しい状況を克服しながら真面目にこつこつと努力していこうという気持ちになれないとすれば、それは私たち大人の責任です。努力が報われる社会、小さな喜びを大切にする社会を作り上げなければなりません。
       ★  ★  ★
 社会に蔓延する経済至上の考えや、能率本位のやり方を、教育の世界に持ち込んではならないと思います。心身ともに汗を流して、こつこつ努力を重ね、その結果すこしずつ進歩していったことを喜び合う。そのようなことに価値を置くのが教育の世界です。
 けれども、もしかすると、教育の世界にも、能率主義や省力化が入り込んでいるかもしれないという危惧を感じています。以前に比べると、教員自身が省力化を進めているようにも思われます。そのことは生徒にも影響を与えないではおれません。
 教科書会社の提供するCD-ROMを利用して補助的な教材を編集したり、試験問題を作ったりすることが当たり前の時代になっているようです。汗を流して資料を探し回って教材を作り上げたり、あれこれ悩んだ末に評価のための問題を仕上げたりするようなことが少なくなってきているように思われてなりません。近年、教員になった人は、それが当然だと錯覚しているかもしれません。
 インターネットなどの発展は、たかだかここ十年ほどのことです。これまでに、手仕事のようにして作り上げてきた国語科教員の指導技術の蓄積は、現今の情報化の中で、もろく崩れ落ちるほど、いい加減なものではないはずです。
 国語教育に限りませんが、生徒の手を動かすようにする指導をもっと重視すべきです。手を動かすことは、頭を動かすことに通じます。教員が自分の手や頭を動かすとともに、生徒にも手や頭を動かすようにし向けたいと思います。
       ★  ★  ★
 教員がたくさんの資料を精力的に作って、それを生徒に配って授業を進めることは、いかにも能率的で効果があるように見えます。授業中に詳細な板書をして、それを生徒が書き写していくような授業も同様です。
 けれども、教員の親切心によって、生徒が、自分から進んで動かなくても、いろいろなものを与えてもらえるという気持ちになるとしたら困ります。他から与えられる状況に浸からせずに、知的な飢餓感を持った生徒が手と頭を動かしていく授業を工夫したいものです。
 文章表現の指導も能率を優先させるべきではないと思います。いったん書いた文章を何度も推敲させて、加除訂正をしながら完成させていく過程は重要です。
 時間をかけて手を加えていったものを、最後にもう一度、清書させることの意味は大きいと思います。コピーをしたりキーをたたいたりするのではなく、一字一字書いていく清書です。自分の手を動かして、一つのものを完成させていく経験が大切です。それは、一見、能率が悪いように見えるかもしれませんが、手を動かし頭を動かすことをしなければ、体に覚え込ませることはできないと思うのです。

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2006年9月24日 (日)

国語教育を素朴に語る(27)

遠慮せずに生徒に強く指示を与えよう

 高等学校の国語教科書に関して、疑問に思っていることがあります。どこかから教科書編集者に対して強い働きかけがあったのか、自主的な真似が広がっているのかは知りませんが、どの教科書も同じ言い回しで埋め尽くされています。偶然の一致とはとうてい思えないのです。
 それは、教材の後ろに添えられた「学習の手引き」というような箇所での指示の仕方のことです。例えば、「…を説明してみよう」「…を文章にまとめてみよう」「…について気づいた点を話し合ってみよう」というような言い方が並んでいます。
 なぜ、「説明しなさい」「まとめなさい」「話し合いなさい」と言わないのでしょうか。生徒を穏やかに導こうとしているのでしょうか、それとも、強く指示をする自信がないのでしょうか。
   ★   ★   ★
 土佐日記の冒頭に「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」とあります。この「してみむ」は、自分の気持ちを表現しているのですから、意志の強さを感じます。
 けれども、他者に対して「してみよう」と誘うのは、それとは異質なものです。水を向けたという程度のものでしかありません。
 辞書を引くまでもありませんが、「てみる」という言葉は、試しにやってみるというような語感を伴っています。
 「してみなさい」という指示を受けた場合は、きちんと実行しなくても、強くとがめられることはないのではないでしょうか。生徒の学習指導をするということは、そのようなものなのでしょうか。それが生徒の自主性を重んじていることになるのでしょうか。
 最近、問題集にも、これと同じ口調のものがあることに気づきました。「カタカナの部分を漢字に書き直してみよう」などという指示があります。仮名書きでも漢字でもどちらでもいいけれど、強いて漢字にすればどうなるのか、と尋ねているようにも見えます。このような問いかけであれば、イヤだと思えば答えなくてもいいのでしょうね、と皮肉も言いたくなります。
 この甘ったるい指示の仕方はなぜ改まらないのでしょうか。遠慮をしている教員や、自信のない教員が、生徒をきちんと指導することはできないと思います。
   ★   ★   ★
 若者たちの読解力や表現力の欠如が問題視されています。その原因にはいろいろなことが考えられるでしょう。
 どの教科書も 右にならえの姿勢で「してみよう」という言い方に終始し、生徒が「しなくてもいいのか」と思い、教員が「させなくてもいいのか」と考えてしまうようなことになっては、指導の根本が崩れてしまいます。このような言い方の蔓延が、腰砕けの指導姿勢を象徴しているように思われて、私は寒々とした気持ちになってしまいます。もっと厳しく、読解力や表現力を身につけさせるように実践しようではありませんか。
 教員は、それぞれの教材の指導目標を定めて、生徒に向かって働きかけをしています。基本的な事柄は徹底して教えていますし、それぞれの教材には核になる内容があって、避けて通ってはならない学習活動をきちんと指導しているはずです。してもしなくてもいいとか、試しにちょっとやればいいとかいうような指導姿勢を助長したのでは、生徒の自主性や創造性を育てることにならないと私は考えております。
 私が言おうとしているのは、教員が命令し、生徒が服従するというような図式ではありません。けれども、押しつけがましくならないようにという配慮を行き届かせるのと引き換えに、厳しく指導する姿勢を失ってしまってはなりません。もっと自信に満ちた言い方をして、生徒に強い指示を与えるべきだと思うのです。

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2006年9月23日 (土)

国語教育を素朴に語る(26)

朗読する力を伸ばせば表現力に役立つ

 ある大学で、二年間にわたる「国語科教育法」(八単位)を担当しています。その講義の中で六~七回分を使って、自分が選んだ文章をもとにして問題(設問)を作るという演習を行っています。試験問題を解く側にいた学生にとって、問題作りは新鮮な体験になるようで、真剣に取り組んでいます。
 文章は、書物から選ぶということでもよいのですが、新聞に限定しました。筆者名が明示されている文章(記者の名前のものは除く)で、中学生・高校生に読ませる価値があると思われる文章を選ばせることにしました。
 新聞に限定した理由は、新聞を読まなくなってきている学生を、何とかして新聞に引き寄せようとしたことと、できるだけ新鮮な話題を選ばせようとしたことです。
 選んだ文章は、手書きかパソコン入力によって、改めて文章全体をたどったのちに、その文章を選んだ理由や、文章の価値などを書き添えます。時間をかけて苦闘して、体裁の整った問題として練り上げて、正解や採点基準なども用意します。そのようにして進めていくにつれて、その文章を使って指導することの手応えを感じ始めるようです。
 一人一人の発表が終わるまでには何時間もかかります。それぞれの発表を聞いて議論を重ねていくうちに、文章を読解し、問題を作成する姿勢に変化が現れてきます。少しずつ指導力が育っていくように思われるのです。
   ★   ★   ★
 発表にあたっては、最初に、選んだ文章を朗読させます。問題作りは緒についたばかりですから、作問に対する厳しすぎる批評は避けますが、朗読には細かな注意をします。
 朗読の拙さに驚くことがあります。ぎこちなく、例えば文節ごとに区切ってしまう者がいます。朗読の習慣が身についていないのでしょう。また、読点で忠実に切って読む者がいます。読点を、読むときに息をつぐための符号であると心得ているようです。そのような硬直した読み方にはびっくりします。
 すべての句読点で同じように一旦停止したり、全体を同じスピードで読んだりすることが優れた朗読の仕方であるとは思いません。
 句読点(とりわけ読点)は、文章を目で追って読むときに誤解が生じないようにする働きをしています。すなわち、視覚に訴えかける要素が強いのです。
 それに対して、朗読は聴覚に訴えるものですから、意味のまとまりで切らなければなりません。読点で切ると文の流れが途絶えてしまうようなことも起こります。また、読点がない箇所でも一瞬の間(ま)をおく方がよい場合もあります。
 文章の読み方には緩急が必要です。筆者の意図を推し量りながら読むならば、一本調子の朗読になるはずはないと思います。
 朗読を、手元の文章を見ないで聞くということは大切なことです。文字を追いつつ聞くのではなく、文章を耳だけで受け取るのです。そのような聞き方をして、どのような書き方をした文章を、どのように朗読するのが理解しやすいかを考えてほしいと思います。
 朗読には間(ま)が大切です。一つの文を読み終えて、覆い被さるように次の文を読み始めるのは、望ましいことではありません。聞いている人にとっては、一つの文が終われば、そこまでをひとまとまりの内容として頭に収めて、次はどのように展開していくのかという期待や予想を瞬間的に考え、そのときに次の文が耳に届き始めるのがよいのだと思います。そのような間(ま)を設けない読み方は、聞く人の頭を混乱させてしまいます。
   ★   ★   ★
 朗読は、文字などの読み誤りがないことを確認するために行うものではありません。文章に込められた筆者の意図を読みとって、それを聞いている人に伝えることの方がもっと大切なことです。
 そのように考えれば、朗読は、筆者の側に立って考えるという姿勢を育てることになります。きちんとした朗読を指導することは、表現力を育てることに役立つはずだ、と私は考えています。 

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2006年9月22日 (金)

国語教育を素朴に語る(25)

聞いて納得し共感することが肝要だ

 人は、自分ひとりで生きていくことはできません。知恵を出し合ったり助け合ったりするのが人の世の常です。そんなことは誰にもわかっているのですが、現実は必ずしもそうではありません。自意識が強くなったり、何かの分野で成功したりすると、謙虚さと無縁になってしまう人が、世の中には大勢います。
 「頭のいい人、悪い人」とか、「勝ち組、負け犬」とか、露骨で品性のない言葉を使う人が急激に増えました。平気で他者を批判する人や、弱肉強食を絵に描いたような論理でものを考える人があふれています。マスコミも、このような言葉や社会状況を無批判に増幅させています。謙虚さを失った人が幅を利かせる社会になりつつありますが、教育の世界は、そうであってはならないと思います。
  最近の教員採用試験では、教科指導や生徒指導の難しさに対処するために、面接試験を強化して、自己主張の強い人や、他者への押しの強い人などを重んじているようです。考えの深さや心の温かさというようなことを高く評価していないように思います。勇ましい言動の人や、他人に対する強引さをそなえた人が、教員として優れているとは、私は考えておりません。教員は、他者に学ぶ姿勢を持ち続けたいものです。
     ◆   ◆   ◆
 自己主張が強くて、聞く耳を持ちあわせていない教員が、謙虚さをそなえた生徒を育てることができるとは思えません。教員は自己主張の強い人たちだと思われていますが、実際、そのような人が多いのだと思います。
 教育は、指導する立場にいる人たちが知恵や力を出し合うことが必要です。連絡・打ち合わせ・協議などに際しては、互いの考えを聞き、考えを述べ合う姿勢を持たなければなりません。周りの人たちの考えていることをきちんと理解し、それを受け入れることも大切です。教員は、強くて筋の通った考えも持たなければなりませんが、それは他者の考えに耳を傾けないということではありません。
 余談になりますが、私はいくつかの大学で講義を担当しています。そこで感じることは、高等学校などとは比較にならないほど、大学の講義担当者間では連絡や協議が希薄であるということです。ひとりひとりがそれぞれの領域の専門家であると自任し、他者と話し合う価値を重んじていないからなのでしょう。
     ◆   ◆   ◆
 国語教育は、聞くことの大切さを見過ごしてきていると思います。聞くことの指導を行っていないというわけではありませんが、論旨を聞き取るとか、相手の考えの不備なところを見出すとかいうことに力を注いでいるように思います。相手の表現の細部までを聞き取って味わい、相手の考えに納得し共感し、学ぼうとする姿勢を育てることが希薄になっています。相手の考えをうち砕いて、自己主張の方法を身につけさせることが、聞くことの目的になってはいけないと思います。
 理解とは、自分が他者を知ることであり、表現とは、自分を他者に知らせることです。表現と理解の重要さに、軽重はありません。相手の言うことを正確に聞き取るための指導をもっと強めていかなければなりません。相手に学ぼうとする姿勢を放棄し、相手を攻撃するような方法を学ばせるのでは、聞くことの意義が消え去ってしまいます。
 しかも、相手の言うことがわかるだけでは意味がありません。共感したり、納得したり、反発したりしながら、自分の中に取り入れていって、自分の考えを深めることが大切です。
 そして、そのためには指導する教員自身も、聞き取る力と、相手を尊重する姿勢を高めなければならないと思います。

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2006年9月21日 (木)

国語教育を素朴に語る(24)

事実と想像とをきちんと区別しよう

 「機体を揺らす『ドーン』というごう音に続き、窓の外で噴き出す白い煙と赤い炎が見えた。」
 これは、航空機がエンジン破損事故を起こしたときの機内のようすを書いた文章の一部です。記者は、その瞬間に居合わせていないのに、ちょっと大きな事件・事故の報道になると、記者が渦中にいたかのような文章が新聞にはあふれます。臨場感を意図して、詳細に書かれたものもあります。このような文章では、どこまでが事実で、どこからが想像なのか、区別がつかない場合があります。
 事故の記事だけではありません。スポーツ選手の試合中の心理状態や、政界の裏の場でのやりとりなどの記事は、想像たくましく書いている部分があるようです。そして、それを事実であるかのように報道しています。
 もちろん、大部分の記事は、きちんとした取材に基づいて、裏付けが得られているのでしょう。けれども、取材をしたからといって、記者の勝手な想像を加えてまとめ上げてよいわけではありません。
 往々にして、この種の想像記事は、表現が型にはまっています。自分の目で確かめることができなかった事柄について書くのですから当然でしょう。文学作品とは違って、ほんとうの意味での想像力が欠如した、型どおりの文章になってしまう危険があるのです。
     ◆   ◆   ◆
 一方で、テレビ・ニュースの中には、ひどいものがあります。資料映像と断りながらも、過去の映像や、その事件とは無関係の映像までを織り交ぜて、事件・事故を興味本位に再現して、それがまぎれもない事実であるかのように伝えます。出来事をドラマ仕立てにして、それをニュースという名で放送していることもあります。面白く見せればよいという姿勢が露骨にあらわれているのです。ニュースを取材している記者が画面に顔を出して、走り回ったりしながら、感情丸出しの金切り声をあげているのには、うんざりします。記者がニュースを演出する必要はありません。
 読者や視聴者は、事実と、事実でないものとの境界線があいまいなままで、情報を受け取らざるをえない場合があるのです。
 今年も、報道のあり方を問われる事件が数多く起こりました。他社のことは厳しく糾弾しても、自社には甘いのが報道機関に共通する姿勢です。
     ◆   ◆   ◆
 報道機関で社内教育がどのように行われているのか知りませんが、私たちは、国語教育において、このような表現の指導をしてはいけないと思います。
 国語教育においては、事実と意見とをきちんと分けて書くようにということを指導しています。事実と意見とを織り交ぜて書けば、筆者の考えが正しく伝わりません。
 そして、それと同様に大切なことは、事実である事柄と、想像や解釈を加えた事柄(すなわち、事実であるとは断言できないもの)とをきちんと分けて書くこと、その違いを明確にして書くことが大事です。
     ◆   ◆   ◆
 以上は、表現に際してのことですが、同時に、理解(読解)に際しても同じことが言えます。事実と意見を峻別しながら読むこととともに、事実と想像とを区別して読み取ることが大切です。
 NIE(教育に新聞を)などの分野で、メディア・リテラシーということが言われます。意図的に構成された表現に気づいて、批判的に読み解いていくことだと言います。それは大切なことに違いありませんが、NIEを推進する報道機関の側の身勝手さも見え隠れしています。意見の正しさを検証するということならまだしも、報道内容の正しさを見分けてほしいということには、報道機関の責任逃れの姿勢も垣間見えています。
 事実、想像、解釈、意見などをきちんと区別して文章表現をすることは、国語教育にとっては重要なことであるということを忘れないようにしたいと思います。

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2006年9月20日 (水)

国語教育を素朴に語る(23)

試験と作品提出とでは効果が異なる

 私は、ある大学で、日本語日本文学を専攻する学生の必修科目である「文章表現法」を担当しています。高等学校を卒業したばかりの学生を相手にした、二単位の講義・演習です。その期末試験では、二つの問題を出しましたが、その一つは次のようなものでした。
 最近のニュースなどで話題になっていることや、自分が普段から関心を持っていることの中からテーマを選んで、自分の考え(主張)が強く出ている文章を書きなさい、という問題です。テーマは何でもよいのですが、何でもよいと言ってしまうと、かえってテーマを設定しにくいのではないかと思って、このような指示をしました。
 それに関連して、原稿用紙(解答用紙として配付)に八〇〇字以上で書くこと、構成は起・承・転・結の流れに沿って段落設定にも留意すること、などを指示しました。
 この問題は予め提示をして、しかも講義の最終回には、それに向けての指導もしました。
  この程度のものであれば、作品(レポート)を提出させて評価するという方法もあります。学生にとっては、試験よりも作品提出の方が気楽であるに違いありません。けれども、持ち込み無しの試験を行いました。
  そして、なぜ、そのような方法を採るのかということを、前もって説明しました。
     ◆   ◆   ◆
 作品(レポート)として出来上がったものを提出するのなら、そのために費やす時間の制限はありません。他人に相談することもできますし、何度も推敲することも可能です。言葉に自信がなければ辞書で確かめることもできます。
 それに対して、試験の場できちんとした文章を書くためには、自分の主張しようとする内容を頭の中に整理しておかなくてはなりません。論理を考えて、述べる順序などを決めておく必要があります。
 誤字・脱字、仮名遣いの誤り、言葉の誤用、文法上の誤りなどを防ぐためには、正しい言葉遣いを身につけなくてはなりません。
 試験の対策としては、きちんとした文章を下書きして、それをそのまま覚えておけばよいのかもしれません。けれども、たとえ八〇〇字余りといえども、一字一句を暗唱することは難しいと思いますし、そんなことをしてほしいとは思いません。
 同じような内容の文章が出来上がるにしても、試験と作品(レポート)提出とでは、一人一人が頭の中に文章の全体像を収めて、それを改めて表現していくという作業が異なっているように思います。学習の効果が違うといってもよいでしょう。
     ◆   ◆   ◆
 試験では、自分が表現しようとしている文章の全体像を頭の中に置いて、それを検討しながら、原稿用紙に記していきます。
 そうしているうちに、新しいことに気づいたり、誤りを見つけ出したりすることもあるでしょう。そして、試験の制限時間内で、まとまりをつけようとして苦しまなければならないかもしれません。
 文章の完成度は、作品(レポート)提出の方が高いはずです。試験時間内では、推敲も点検も中途半端に終わる可能性があります。
 けれども、国語教育の観点からは、そのようにしていったん構想した文章を、頭の中から再び紡ぎ出して、改めて書き記していくことの意味は大きいと思います。
 そのようなことを何回か繰り返せば、表現に取り組む姿勢や能力が変化していくはずだと思います。構想した文章全体を頭の中にとどめておく時間の長さが、効果をもたらすであろうと思うのです。
     ◆   ◆   ◆
 学生の中には、中学校や高等学校の国語科教員を目指している者が大勢います。
 大学生を相手にした試験としては、やや幼い方法であるのかもしれませんが、表現に体ごとぶつかっていくような姿勢が少しは身につくのではないかと思っているのです。

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2006年9月19日 (火)

国語教育を素朴に語る(22)

ごく普通の文化の担い手として

 万葉集に収められている東歌や防人歌などは、その歌を詠んだ本人が書き記したものではありません。口伝えされた作品が、後になって文字に記されたのです。だから作者もわかりません。その時代のたいていの人は、自由に文字の読み書きができなかったのですから、当然のことです。
 古典を読んでいると、貴人などが都の郊外に出かけたときに、その辺りに住む人々のようすを書き記した文章に出会うことがあります。けれども、都の郊外に生きている人々の姿などを書いているのは、むしろ例外で珍しいことであると言われます。古典の作品で述べられている内容は、身分の高い人や、知識などに恵まれた人たちの、ものの見方や感じ方に基づいていることが多いのです。歴史物語や王朝文学では、読者は勇者や貴人の感覚などを身にまとって読み進んでいるのかもしれません。
 古典を学ぶ人も教える人も、そのようなことをあまり深く意識していないようです。さまざまな時代の人々の目を経て、生き延びてきた一流の作品が古典であるというのは、まぎれもない事実です。古典に接することによって、例えば千年も昔の人々や社会のありさまを手に取るように知ることができます。けれども、それぞれの作品が、どのように生きて、どのようなものの見方や感覚を持っている人によって書かれたのかということは認識しておかねばならないと思います。
     ◆   ◆   ◆
 それぞれの時代を牽引した人たちが中心になって、日本の文化や、日本人のものの見方・考え方が発展してきました。現代に生きる人は、それらを受け継いで、さらに発展させていく役割を担っています。
 これは、国宝や重要文化財になっているような品々や建物などが、有力者の手で作られ伝えられてきたということに似ています。現代人はそれらの文化財を享受し、次代に伝えていく責務があります。
 とは言え、やっぱり私たちは、古典を読みながら、文字を熟知し読み書きをした知識人や貴人の感覚に寄り添って追体験をしているように思います。ある古典作品で述べられている考え方や感じ方の中に、ごく普通の人たちの感覚とは離れたものが含まれている可能性があっても、それをその時代の典型的な日本人の心のありさまなのだと思ってしまう危険性があるかもしれないのです。
     ◆   ◆   ◆
 ひるがえって現代の新聞や放送を眺めてみますと、一流の人や、名前の知られた人についての報道は、驚くほど手厚くなっています。
 落雷によって電車の運行が止まって、大勢の人々が二、三時間、足止めを食って困り切ったという出来事があっても、そんなニュースは紙面の片隅にわずか数行で片付けられることがあります。一方、アメリカの球界で活躍する選手については、なかなかヒットが打てないというニュースでも、何気なくつぶやいた一言の内容でも、大きく紙面を飾ることがあります。ニュース価値の軽重を判断する客観性などは消え去ってしまっていて、この有名人偏重の報道姿勢はどこまで突き進むのか、恐ろしいほどです。
 そして、落雷による交通混乱も、大都市圏のことなら大きく扱われ、地方都市のことなら軽んじられるという二重構造があります。
 それが人生というものだ、それが社会というものだと言われればそれまでですが、心からは納得できない気持ちです。
     ◆   ◆   ◆
 貴人や勇者や有名人の感覚や考え方に学ぶところは多いのですが、国語教育の目的は、それらの人に近い感覚や考え方を育てることではないと思います。ごく普通の文化の担い手を育てることにあるのです。
 教材ひとつを選ぶにしても、ひとつの教材を用いて教えるにしても、人を見る目のバランス感覚は持ち続けたいと思います。それが、名もない一人の人間としての、私の思いです。

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2006年9月18日 (月)

国語教育を素朴に語る(21)

読書の世界に生徒を引き入れる

 芸術の秋だとか、スポーツの秋だとか、秋という季節は、いろいろなものに結びつけられます。ぐったりとするような酷暑が過ぎて、意欲が回復してくる季節だからなのでしょうか。読書の秋というのも、その一つです。
 読書に縁遠い生徒にとっては、秋を読書の季節だとは感じないかもしれませんが、読書好きにとっては、秋の夜長は嬉しい時期です。読書に関連する行事もいろいろ行われます。
 なんとかして、読書の世界に生徒を引き入れたいものだと思います。無理やりに引っ張り込まれた、読まされたという気持ちにさせることなく、たくさんの本を読ませてしまいましょう。自然にそのようにさせてしまうような指導力こそが、教員には必要でしょう。
 授業中に、さりげなく、本の話題をいっぱい持ち出したいものです。何か一つの教材を指導すれば、関連する本は何冊もあります。それらを紹介して、生徒の知的好奇心を刺激しましょう。読みたいという気持ちがつのってくるような紹介を心がけたいと思います。
 本を紹介するのは、勇気がいることです。教員自身の生き方や、読書の姿勢などが反映されます。けれども、それぞれの本を、ひとごとのように紹介するのはやめたい、と私は考えています。こんな本がある、あんな本があるということを羅列するだけでは説得力がありません。
 自分は、この本をこのように読んだ、この本からこんなことを学んだ、この本を読んでこんなことを考えさせられたというようなことを伝えたいと思います。本を語ることは、自分を語ることにもなりますから、辛い話になることもあるでしょう。読書の苦しい体験を語って、読書はしんどいものだということを生徒に実感させることも大事なことです。
     ◆   ◆   ◆
 私は若い頃には、本は借りるものではなく、買って読むものだと考えていました。精読した本は、いつまでも手元に置いておきたいという気持ちがありました。けれども、買った本の置き場所に困り切っている今では、図書館の本を存分に活用するようになりました。
 ありがたいことに、全県のセンターとしての役割を果たしている県立図書館と、自分の住んでいるところの市立図書館と分館とが、電車とか自転車とかで三十分以内の距離にあります。これを利用しない手はありません。
 週に一度ずつ講義に通う、三つの大学にも、立派な図書館があります。新しく接し始めた図書館は魅力がいっぱいです。隅から隅まで探検したいような気持ちになって、足繁く訪れています。借り出す冊数も多いのです。
 読書を堅苦しく考えないようにしましょう。読書には、一冊をはじめから終わりまで通して読むこともあれば、一冊の中の一部を読んで目的が達せられることもあります。今の私は、一冊を通読することよりも、何かを調べたり確かめたりするために、一冊の中の必要な部分だけを読んでいることが多いのです。こういう読書も推奨したいと思います。
     ◆   ◆   ◆
 調べることに関しては、インターネットで検索すればこと足りる場合もあります。その方が手っ取く能率が上がることもあります。インターネットで情報を得させることも国語教育の大切な指導です。けれども、インターネットと本では、深みが違うということを感じさせることは、もっと大切なことだと思います。本に向かうときの気持ちのあり方について考えさせたいと思うのです。
 現実を眺めると、中学校や高等学校の図書館が、生徒の欲求を満たすものになっているかどうかは疑問です。限られた予算のもとで、必要な本を買い揃えられないという、悲しい現実があります。
 それなら、近くに公立図書館などがあれば、それらを自分の学校の付属図書館のような気持ちで利用するようにし向けましょう。公立図書館などもそのことを歓迎してくれるはずです。

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2006年9月17日 (日)

国語教育を素朴に語る(20)

話すときには、その場面から離れまい

 記者会見というのは、不自然な形を備えたものだと思います。事件・事故や重大な出来事に際して、官庁・会社・団体などの責任ある立場の人が、報道機関の限られた人数の記者などを前にして、しかし、全国の不特定多数の人を相手に想定して話すという緊張を強いられます。記者からは、意地悪で、ぶしつけな質問も飛び出します。
 陳謝しなければならない内容があるときなどは、原稿を準備して、棒読みに近い形で話を進めている姿を見ることがあります。言い落としてはいけない内容をメモに書き、話す順序に気を配り、一語一語を選んで表現しなければならないこともあるでしょう。その結果、原稿やメモを気にするあまりに、話し方がぎこちなくなり、書面に目をやる度合いが高くなることもあるようです。
 その様子をテレビで見た人が、会見には心がこもっていなかったという批判をすることがあります。深々と頭を下げても、形だけのお詫びをしているような印象になってしまうこともあります。
     ◆   ◆   ◆
 国語教育では、読むこと・書くことに重点を置きがちですが、聞くこと・話すことの指導にできるだけ多くの時間を充てたいと思います。日常生活では、話すことを求められる場面が多いのです。授業時間が乏しいなどという理由だけで、話すことの指導を軽んじたくはありません。書く力を培えば、話すことなどは簡単にできるはずだという考えには賛成できません。大勢の人に向かって、まとまった内容を話すという力は、誰もがそなえておかなければならないものであり、指導によって向上するはずだと思います。
 文字で書かれた文章は、既に文章全体が完成したものを読みます。書く人は、いったん書き終えてからも、読む人の目に触れるまでに推敲を重ねることができます。
 それに対して、話すということは、話す人が話し始めた瞬間に、聞く人が聞き始めています。話す人が話し終えたときに、聞いていた人は聞き終えます。話す人と聞く人との関係を軽視していたのでは、話すことの指導はできません。
     ◆   ◆   ◆
 スピーチなどの指導をするときに、あらかじめ原稿を作るようにという指示をすることがあります。話をするには準備が必要だという指導は、当然のことです。
 けれども、どのように準備を整えても、書き言葉としての口調の強い話や、準備が行き届いて言葉が固定してしまっているような印象を与える話は、聞いている人の心を揺り動かさないことがあります。話をしている場面から遊離してしまっていることが原因です。
 一言一言までの原稿を準備して、その原稿に心を引かれてしまうと、話のみずみずしさが損なわれてしまうことになりかねません。話すことには、言葉以外の表情や身振りなども伴っているのに、言葉を優先してしまうからです。
 話すための原稿を推敲することも大切でしょうが、話すことの練習にこそ、準備の重点を移すべきだと思います。原稿を一語一語、頭の中に入れて、それを再現することに意を注げば、話のみずみずしさが失われていくということは誰もが経験していることです。話す人と聞く人の人間関係よりも、話す言葉を優先させてしまうことの弊害だと思います。
 大切なことは、書いた原稿の内容と順序を頭に入れて、あとはその場に臨んだつもりで練習を重ねる方がよいと思います。話は、話す人のペースで進みますから、ゆっくり、はっきりと話して、重要な部分は繰り返したり強調したりして、注意を促すというようなことこそ、話す技術であると思います。
 話した内容が充実していたかどうかということだけで評価をすることは、話すことの正当な評価になっているのだろうかという疑問を、私は強く持っています。

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2006年9月16日 (土)

国語教育を素朴に語る(19)

テストなどの選択肢問題を減らそう

 生徒を相手にして日々の指導をしている立場にいたときには、言わなければならないと思いつつも、正面からは主張できなかったことが、いくつかあります。そういう場を離れてから発言するのは卑怯であるという誹りは免れないと思いますが、やはり言っておくべきだと思うことの一つに、テストなどにおける選択肢問題のことがあります。
 テスト問題の選択肢は、採点の労を軽減する目的で、いくかの設問のうちの一つ、二つをこの形式で実施することが、広く行われています。自由に書かせたら採点の際に収拾がつかなくなるという危惧も理由の一つです。実は、私が作った高校生向けの問題集でも、選択肢問題を散りばめてほしいと要請されて、そのようにした経験があります。意に反してかどうかは別として、定期考査・模擬試験・問題集などには、たくさんの選択肢問題があります。
 もちろん、すべての選択肢問題を否定するつもりはありません。それが効果的に使われていることはあります。けれども、ある一定の目的のためだけに選択肢問題は用いるべきであって、設問のすべてを選択肢で答えさせるのは行き過ぎであると思います。
     ◆   ◆   ◆
 文章の深い内容に関する設問の選択肢は、無造作に作れるものではありませんから、作成の際の労力は大きいと思います。また、選択肢は多様な作り方ができますから、一つずつの選択肢が二、三行にわたる長いものも作れます。選択肢を職人技のように作る教員もいます。
 けれども、どんなに苦心して作っても、選択肢の働きには限界があります。どんな意図を持って作っても、どんな工夫を施しても、出来上がった選択肢の中から生徒が正解を選ぶ作業は、読解という言語活動にほぼ限定されてしまっていると思います。
 表現力のない生徒は選択肢の中から正しいものを見つけ出す力も欠けているということを理由にして、選択肢問題で表現力も判断しているのだという論を聞いたことがあります。答えを探し出す作業の際に、表現力が援用されているかもしれませんが、生徒はその作業で表現活動を行っておらず、表現力を評価することはできないと思います。
 問題を解くのは、本文の内容をじゅうぶんに理解した上での作業であるのですが、選択肢問題は、選択肢相互の表現の違いを理解して、その優劣を判断するというような意味しか感じられない場合があります。
 そうであるなら。選択肢の中から正しいものを選ぶということは、間違い探しに堕してしまいます。一つの選択肢の表現の中にちょっとでも間違った内容が含まれていたら、その文の他の部分に関係なく、その選択肢は正しくないという判断をすることになります。それは、ささいな受験技術の一つに過ぎませんが、そのようにして処理をしていかなければ、高得点にいたらないことになるのです。このような作業には、表現活動は姿をあらわしていません。
     ◆   ◆   ◆
 私が言いたいのは、採点の省力化のためには仕方がないというような、言い訳はやめようということです。選択肢問題がなくなれば、生徒は自分で表現することを求められます。それによって、国語教育の姿も変わってくるかもしれないのです。
 大学入試センター試験の問題は選択肢ばかりで作られています。受験者の人数が多いということが理由でしょう。選択肢問題こそが国語力を調べる有効な方法なのだというような理由づけは難しいだろうと思います。
 受験人数が多いからしかたがないという論理が通用すれば、普段のささやかな国語教育の実践などは、いとも簡単に吹き飛ばされてしまいます。生徒の表現力を嘆く前に、入試・その他のあり方を反省した上で、日々の国語教育の営みを大切にしたいと思うのです。

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2006年9月15日 (金)

国語教育を素朴に語る(18)

紙を書くことの意義を忘れまい

 誰かが誰かに向かって、何かを伝えようとする場合、今では電話、ファックス、メール、その他の通信手段が可能です。電話には電話の話し方が、メールにはメールの文体があります。そして、手紙には手紙の書き方があり、独特の効用があるように思います。
 昨年末に、ある新聞に載った、読者の投稿文を紹介することから始めたいと思います。短いので、全文を引用します。
     ★   ★
 田舎育ちの娘が、この春大阪の大学に入り、一人暮らしを始めた。だが、お互い携帯電話を持っているためか、すぐそばにいるような気がして、寂しさも不安も半減されていた。
 先日、娘の誕生日が近いので、米や冬服とちょっとしたプレゼントを送った。だのに、「届いた」のメールも電話もない。バイトや勉強が忙しくても、「礼のひと言もないのか」と腹が立った。
 こちらも意地になってメールもせず、むしゃくしゃしたまま過ごした翌日、会社から帰ると、なんと娘から手紙が来ているではないか。荷物のお礼や自分の近況、おじいさん、おばあさんへのねぎらいや弟へのアドバイス。何度も何度も読み返し、涙した。あの音さたのない二日間は、これだったのか。メールより何倍もうれしい手紙だった。          (兵庫県丹波市・Aさん)
     ★   ★
 文章には必ず相手が想定されている、ということは誰にもわかっていることなのですが、表現指導の現実はどうかと考えますと、不思議な現象が生じているように思います。
 表現には、不特定多数の人(あるいは、一定の枠内の人たち)に伝えようとして書く場合と、特定の個人やごく少数の人に向かって書く場合とがあります。文章を読むはずの人のことをきちんと想定しないで表現することは正しいとは思えませんが、あいまいなままで指導していることも多いようです。大多数の人に理解できるような文章を書けば、それでいいのだというような考え方です。
 ところで、生徒の書いた文章は、授業中に互いに読み合ったり、文集のような形にしたりして、生徒相互が読んで評価することがあります。けれども、レポートや答案の形になったものは、一人の教員が読んですませることが、案外に多いのです。本来は大勢に向かって書いたはずのものを、一人の教員が読んで、一人の教員が評価しているのです。そして、教員は、それを正常な姿であると思ってしまい、生徒も、そのような状況に慣れてしまっています。
 レポートや答案が、生徒から教員に宛てた私信に近い働きになって、評価をする教員の気に入るような書き方を工夫しなければならないということになれば、いびつな表現指導であると言わなければなりません。
     ★   ★
 逆に、手紙のような私信の指導がおろそかになっていると、私は感じています。不特定多数向けの文章が書けたら、個人の手紙などは書けるはずだという考えが正しいとは思えません。
 私は、手紙をきちんと書けるかどうかということは、表現指導のひとつの典型であると思っています。
 正しい文字を用いて、言葉のきまりにかなった言葉遣いをする。相手と自分との人間関係を考えて、ひとつひとつの言葉や敬語を誤りなく使う。時候の挨拶が必要になる場合もある。一定の形式も意識しながら、その枠内にとどまらない工夫をする。そして何よりも、相手のことを考えて、理解しやすい書き方をする……等。これらは、国語の総合力です。手紙を書くことに慣れる意義は大きいと思います。
 手紙は、一人と一人という簡単な人間関係で成り立ちますが、相手や状況を考えて臨機応変な書き方が求められることも多いのです。
 電話の話し方にも、メールなどの書き方にも習熟させるべきでしょうが、「手紙一本すら書けない」生徒を育ててしまっては、国語科教員としては恥ずかしいことであると思うのです。

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2006年9月14日 (木)

国語教育を素朴に語る(17)

文章の内容は人が評価する

 入学試験で出題する小論文をコンピュータで自動採点しようとする試みが大学入試センターの研究者のもとで進んでいます。実用化されると、採点に時間がかかり、採点者によるばらつきが出やすい小論文の判定に威力を発揮しそうだ、と新聞報道が伝えていました。
 パソコン入力された八百字から千六百字程度の小論文が対象です。それを、①文章の形式、②論理構成、③問題文に対応している内容か、の三つの観点から評価します。①を5点、②を2点、③を3点の計10点満点で判定するのだそうです。
 コンピュータの力を借りて、人の力を省いたり、人の力以上のものを成し遂げたりすることがあたりまえの時代になっています。
 けれども、文章は機械に委ねることには向いておりません。文章を書くときはもちろんですが、文章を評価するときに人の手を経ないというのは納得できないことです。
 表現は、人から人に向かって行うものです。機械に語りかけたり、機械が反応したりするものではありません。そのことを忘れては、国語教育が成り立つはずがありません。表現する際には、相手のことを思いやって、細やかな心遣いを持たなければなりません。また、文章には、書く人のさまざまな考えや思いが込められています。だから、人は苦心して言葉を選んで、表現に推敲を重ねているのです。
 手を省いて採点しようと考えるならば、はじめから小論文を入試の科目に加えないことです。小論文の試験をする限りは、丁寧で行き届いた採点を心がけなければなりません。
 合否を左右する採点業務で、このようなものが本格的に動き出したら、このシステムで理想とされる文章パターンなどを分析して、その攻略法を編み出す者が現れるでしょう。そうすると、何の創造力も想像力も必要としない世界が広がっていくかもしれません。
 文章表現の基礎ができていない若者が増えていますから、それを身につけさせることは、国語教育にとっての責務です。したがって、開発しているというシステムを、表現力養成という目的に使うことには意義があります。
 入学試験においても、「小論文」テストではなく、「文章表現力」診断テストのような形で、国語力の基礎ができているかどうかを調べるのなら、機械での採点も我慢することにしましょう。このシステムの用途には、そのような制限を設けるべきだと思います。
 小論文の採点というのは、表現練習や訓練の評価とは次元の異なることです。文章の内容は機械が評価するのではなく、人が評価するのであるということを忘れてはなりません。
     ★   ★
 この自動採点システムはインターネット上で公開されています。質問文と解答文を入力すると、ただちに採点結果が表示されることになっています。
 試みに、質問文を「小論文の答案をコンピュータで自動採点することの是非を論じなさい。」としました。そして、解答文を前段落の文章全体として入力してみました。
 その結果は、「修辞」(新聞報道の①にあたる)が5点満点で3・5点、「論理構成」(同②)が2点満点で2・0点、「内容」(同③)が3点満点で0点でした。「質問文との関係が希薄であるように見受けられます」というコメントが出ました。質問文と解答文との関係がゼロであるというのには驚きました。
 中学校や高等学校の国語科教員の中に、文章の自動採点システムの普及を心待ちにしている人は少ない、と私は信じています。

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2006年9月13日 (水)

国語教育を素朴に語る(16)

音読に耐える文章を書こう

 はじめに、問題です。次の①~⑧の文は、一続きの文章(ある新聞記事のリード文)を、文の単位でばらばらにしたものです。並べ替えて、元の文章にしてみてください。
 ①詩人の谷川俊太郎さんに聞いた。
 ②今年はもっと本を読もうよ。
 ③本って、すてきだよ。
 ④「憂える」を「喜ぶ」と思っている大学生が多い、との調査結果も。
 ⑤それと関連するのか、日本の15歳の読解力は世界40カ国・地域で8位から14位に転落した。
 ⑥単行本の売れ行きは、毎年のように前年割れ。
 ⑦そんなふうにいわれて久しい。
 ⑧「本が売れなくなった」。
     ★   ★
 実は、正解を答えていただきたいという気持ちはありません。正答率は限りなくゼロに近いと思うのです。
 この文章を載せている新聞社を批判しようというつもりは、まったくありません。これを新聞の文章の典型として考えてみてください。私が言いたいのは、新聞の文章、とりわけ、新聞記者の書いている文章には、このようなものが氾濫していることは否定できないということです。切り詰めた表現になっていて、いかにも歯切れの良い文章、テンポのある文章だという感じを受けます。けれども、文と文を論理で結ぼうという意識はなく、文を次々と積み重ねていっているだけなのです。
 新聞の文章がすべてこのようになっているわけではありませんが、ニュース記事には、これに近い書き方をしているものが多いのです。新聞の読者は、毎日、このような文章を読んでいることになります。
     ★   ★
 文章は書かれている内容によって価値が高まることは言うまでもありませんが、それとは別に、国語教育の中で表現指導をするときには、このような文章は排除したいのです。
 例にあげたような文章には、次に述べる問題点があると思います。
(1)文と文とを結びつける接続の言葉があまり使われません。すなわち、文章の論理を捨て去って、次々と書き並べていっていることになります。
(2)カギかっこだけで一文になっている文が混じることが多いのです。すなわち、書き手の考えと、誰かの発言の引用とが一つの文脈に混在して、文章が続いていきます。引用内容をうまく利用しながら、ちゃっかりと書き手の考えのように装っているのです。あるいは、責任逃れをしているのかもしれません。
(3)文末がきちんと完結せず、体言や、形容動詞の語幹や、助詞などで中断した書き方になっていることが、しばしばです。すなわち、変な日本語がまかり通っています。
 このような文章は、表現指導の手本にできません。私は、このような文章を書きたくありませんし、人に勧めるつもりもありません。
 文章を視覚だけで伝えようとすれば、能率が上がる書き方になっているのかもしれませんが、これまでの日本語の表現をぶち壊す方向に、新聞の文章が突き進んでいることを、私は憂慮しています。
     ★   ★
 はじめの問題の答えは、⑧から①に向かって逆順です。それが、もともとの文章構成なのですが、その順番に必然を感じますか。本来の順序に戻して、音読してみてください。視覚ではリズム感があった文章が、音読すると、ぎくしゃくした、すわりの悪いものになるではありませんか。
 論理が整って、日本語としてきちんとした文章を書くように指導しましょう。音読に耐える文章を書くことが肝要だと思います。

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2006年9月12日 (火)

国語教育を素朴に語る(15)

文字を書くことの意義を再認識しよう

 私は文字が下手です。ペン字を習おうとしましたが、長続きしませんでした。そして、間違った文字さえ書かなければいいのではないかという考えに変わってしまいました。
 けれども文字への劣等意識が強いので、ある時期には邦文タイプライターを購入して使いました。パソコンを買えるようになると、すぐにワープロ・ソフトを使いました。機械に救われた思いを抱いて、私のパソコン歴は二十年を超えています。
 けれども最近は、そんな私が驚くことに出会います。かつては銀行の窓口などでもらうメモ書きは達筆ばかりで、文字の美しい人をうらやんでいました。今は、私よりも下手な文字に出くわすことがしばしばあります。
 私は現在、大学で国語科教育法などの講義をしています。学生から「黒板の文字がきれいですね」と言われて、耳を疑いました。その瞬間は冷やかし半分であると感じたのですが、それが本気であると知って仰天しました。学生には、「私の文字は、お世辞にも上手とは言えない。丁寧に書いているだけだ」と答えました。私は、本当にそう思っています。
  現実には、私よりも下手な文字があふれており、手書きには誤字も多いのです。私は高等学校で管理職を務めていた八年間、授業を担当しませんでした。私が教壇に立たない間に、手書き文字の様子が変化していたのです。パソコンなどの普及が大きな理由でしょう。
     ★   ★
 経済協力開発機構(OECD)は二〇〇三年に学習到達度調査を実施しました。四十一の国と地域の十五歳を対象にした、知識や技能の実生活への応用力をみるテストでした。
 その結果が昨年十二月に公表されて議論を呼びました。前回は二〇〇〇年に実施されたのですが、日本は前回八位だった「読解力」が、今回は十四位に低下してしまいました。この調査での読解力は、文章や図表を理解して利用し、熟考する能力のことです。
 原因には、いろいろなことが複合していると思いますが、文部科学省は、読解力の低下に対応するために本年夏までに「読解力向上プログラム」を策定することにしたそうです。
     ★   ★
 国語の教員は、懐手をして、そのプログラムを待っているわけにはいきません。現行の学習指導要領には、基礎基本を重視することが強調されていますが、実際には、以前よりも状況は悪くなっていると思います。パソコンやメールの浸透による手書き文字の減少、娯楽が多様になったことによる読書量の減少、国語の授業時間数の減少…などの理由を並べあげても、指導効果は上がりません。
 国語教育に漫画や映像を取り入れるのは、入門期や一定期間内の指導の便宜であればいいのですが、それが国語教育の大きな比率を占めてはならないと思います。国語教育は言葉(文字)を通じて行わなければなりません。
 以前の生徒に比べると、インターネットなどを利用して資料を集める力は備わったでしょう。けれども、それは国語教育の小さな成果です。ディベートなどにより、断片の意見を積み重ねて自己主張する力は育ったでしょう。それも国語教育の小さな成果です。しかし、それらによって、生徒の知識や能力が向上したというのは錯覚に過ぎないのかもしれないのです。他の文章の真似や、他人の意見の欠点の指摘はできても、自分の考えを組み立てて表現する力は育っていないようです。
 語彙力がない、読解力がない、したがって表現力が育っていないと言われますが、私は、文字を手書きすることの意義を再認識することが必要であると思います。インターネットからボタンひとつでコピーするのではなく、自分で一字一字を書き写すことをすれば、言葉の美しさや、言葉の力強さを実感できるはずだと思います。借り物のような勉強を排斥することこそ、国語教育の根幹であると思っています。

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2006年9月11日 (月)

国語教育を素朴に語る(14)

方言を置き去りにしない国語教育を

 かつてテレビドラマになった船山馨さんの小説「お登勢」が、舞台で演じられることになりました。この舞台の方言指導を担当しておられる大原穣子さんから、淡路方言についてのお尋ねを受けました。原作の会話文は共通語で書かれていますが、舞台では、現実味のある人物像を作り上げるために、方言を使って演じようという意図が働いたのでしょう。
 大原さんは、関西方言もお得意で、『好きやねん、大阪弁』という本も書いておられます。それにもかかわらず、淡路の近くに住んでいる者へご質問をいただきました。地元の言葉は地元に尋ねて確かめようという姿勢に敬服しました。
 私は二年間、淡路島にある学校に勤めましたから、洲本市の厳島神社にある「お登勢」の碑の前にたたずんだことが、何度かあります。役に立ったかどうか自信はありませんが、淡路の言葉について知っていることを申し上げました。
 新春から二月末まで、東京・有楽町の芸術座で、淡路言葉で会話が交わされる場面のある舞台が上演されていることを想像すると、嬉しくなってしまいます。
     ★   ★
 その土地に生きているということだけではなく、その土地の言葉を口にすることによって、登場人物がしっかりとした存在となって、観る人の前に立ち現れてきます。実際には使っていない、よその言葉(共通語)を話したのでは、その人物の存在が薄らいでしまいます。
 このことを考えていくと、日本語のことや、国語教育のことにも行き着きます。
 私たちは文章を書くときに、意識する・しないにかかわらず、できるだけ方言を使わないようにしています。学校でも、生徒に共通語を使わせようと努めています。会話文の中に方言が出てくるのはしかたがないとしても、地の文では方言を避けようというのが、一般の方向です。
 ところが、私たちの日常生活では、できるだけ共通語を使わないようにしようという意識が働く場合があります。よそよそしく、浮き上がったような会話をしたくないと思うときには、方言を多用します。
 そして、その二つのことに矛盾を感じないとしたら、それこそが問題なのだと思います。
 私たちは、方言を使って生活をしていますが、他の地域の人との伝達には共通語を使います。教育の場では、共通語よりは、規範としての働きの強い標準語を使うことを勧めています。日常感覚から離れることになっても、共通語を推奨しているのです。
 共通語を過大視して、共通語こそが正しいと信じてはいないでしょうか。一人一人の生活が方言の上に成り立っているのに、です。
     ★   ★
 方言は、今では小学校の国語教科書にも取り上げられて、肩身の狭い思いをしなくてもすむようになりました。けれども、国語科教員の中には、方言を使うことをためらっている人があるかもしれません。
 私は、改まった場でも、方言をどんどん使うべきだと思います。共通語を基調とした文章の中にも、方言の持っている表現を取り込めばいいのです。豊かな表現力をそなえた言葉、キラリと光る言葉が、方言の中にはたくさんありますから、それを活用しないのはもったいないことです。
 方言は、易しい言葉を組み合わせて日常生活の用を足しています。易しい言葉は、わかりやすい言葉であり、他人に優しい言葉です。
 刻々に新語や流行語が誕生していますが、古いものは作り出せません。長年にわたって人々の生活に根を張ってきた方言を失ってしまうと、取り戻すすべがありません。国語教育の中においても大切に扱いたいと思います。

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2006年9月10日 (日)

国語教育を素朴に語る(13)

教室に言葉をゆきわたらせる

 教壇に立って授業をしているときには気づきにくいが、授業を参観させていただいていると気になることがあります。
 気になるのは、教室内での声の大きさです。教員の声の大きさであり、生徒の声の大きさです。
 声は大きければいいというものではありません。隣の教室まで響きわたる大声は、迷惑です。ものには程度があります。自分の教室全体にゆきわたる声で十分です。
 けれども、小さすぎる声は、大きすぎる声よりも困ります。授業を参観させていただいていて、じれったく思うのは、声の小さな生徒に対して、大きな声を出すようにという指導をしないことです。声の出し方や、発音の仕方の指導などに、国語の教員は無関心すぎることが多いのです。声の大小や発音よりも、質問に対する答の中身の正誤に注目しているようです。
 これは、国語教育にとっての大事なことを忘れている結果だと思います。
     ★   ★
 国語の授業では、教科書の音読(朗読)をさせることがしばしばあります。なぜ音読させるのでしょうか。読み誤りはないかという一点に集中して音読させていることがあります。声の小ささや、たどたどしい読みや、読むときの言葉の区切り方の拙さなどに目もくれず、読み誤りだけを指摘している風景に何度も出会いました。
 教員自身の音読の拙さが気になることもあります。中には、重要な言葉を強調するあまりに、音読が途切れ途切れになっている場合もあります。これでは範読に値しません。
 音読は、言葉を間違いなく相手に伝えるというコミュニケーション活動の一つです。それとともに、書かれた作品を音声で表現するという創造活動の一つです。目的を考えない音読指導は、かえって弊害を生むことにもなりかねません。
 教員と生徒の言葉のやりとりにも、同じようないらだちを感じます。小さな声で生徒が答えたときに、答えの内容を親切に聞き取ってやって、その生徒に代わって教室全体に伝えてやるのは、国語の指導として正しいとは言えません。声の小さな生徒とのやりとりが行われている間は、他の生徒はいわば部外者のような立場になります。教員の親切は、本当の意味での親切になっていません。
 一方で、小さな教室であるのに教員がマイクで授業をしている風景に出会うことがあります。声が出にくいときの臨時の対応であるのならともかく、そんな授業をしばしば行ってはなりません。自分の声をしっかりしたものにするのは、国語科教員にとっては基礎訓練です。
     ★   ★
 なぜ、このようなことになっているのでしょうか。それは、話し言葉の役割を、書き言葉の役割よりも過小に見ているからでしょう。
小学校で力を入れていた音読指導を、中学校、高等学校と進むに従って軽んじていってはなりません。教員も生徒も、自分の声できちんと伝えるという姿勢を忘れないようにしましょう。言葉の出発点は話し言葉です。国語教育の基本も、話し言葉や、発音・音声の指導にあると心得るべきです。
 言葉には緩急が大切です。声の大小も表現効果の一つです。けれども、聞き取りにくい言葉は、コミュニケーションの最低条件を欠いてしまっています。国語教育こそ、声を大事に考えて、きちんと実践する場でありたいと願っています。
 教室に言葉をゆきわたらせましょう。教員も生徒も、自分の声を教室全体に響かせましょう。それによって、生きた言葉のやりとりをしているという実感が得られるはずです。

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2006年9月 9日 (土)

国語教育を素朴に語る(12)

教員の個性に花を咲かせよう

 今回は私ごとから話を始めます。もう十年近く前に作った問題集(難易度に応じた二冊)を改訂するという話が持ち上がりました。改訂とは名ばかりで、実際はすべての内容を入れ替えるというもので、新しい問題集を作るのと同じことです。私が現代文編を担当し、別の方が古典編を担当していたので、そのまま改訂に取り組むことになりました。
 私は、この改訂に当たって、二つのことを出版社にお願いしました。一つは、二冊ともに現代文編を貫くテーマを設けて、それに沿って文章を選ぶということ。もう一つは、問題集といえども、編著者が顔を出して、問題集を使う高校生に語りかけるということでした。要は、少しだけ類書とは異なった特徴を持たせようと思い立ちました。問題集といえども、個性があっていいはずだと考えたのでした。
 幸いに、この提案は受け入れられて、改訂に取り組みましたが、そのもくろみが成功したかどうかはわかりません。出版社名や書名のことは書きませんが、出来上がって日が浅い、この問題集がどの程度の発行部数になるのか、私は不安と期待を持っています。
    ◇   ◇   ◇
 一人一人の国語の教員は、年齢も性別も経験年数も、得意分野も、考え方・感じ方や性格も、みんな違っています。人間としての全体像も、教員としての力量も異なっています。そのような、さまざまな教員が集まって、学校全体の活力が生まれています。もちろん、中には、指導力が不足している教員がいることは否定できませんから、そのような教員は、研修を積まなければなりません。
 教員は、それぞれ個性を持っているのですが、生徒に対する試験や評価ということを考え始めると、とたんに様子が変わってきます。授業の進度を合わせ、同じような内容を教えることに腐心します。互いに連絡を取り、調整し合うことは必要ですが、教える内容や考え方を一定の枠内に収めようとするのは大切なことなのでしょうか。過不足のない教え方にするためとか、公平な評価をするためとか考えているようですが、それが正しい方法なのだろうかと、私は思案してしまいます。
 個性重視の教育が言われています。これに異を唱える人はありませんが、どうすれば生徒の個性を重視する教育ができるのでしょうか。
 選択科目をたくさん設けることや、習熟度別の授業を行うこともよいのでしょうが、それで目的が達せられるわけではないでしょう。
 生徒に個性を求めるのなら、その前に、教員が個性のある人でなければならないと思います。
 教員の個性が魅力にあふれたものであるのなら、担当教員が異なることによって、違った授業が展開されても、生徒は苦情を言ったりはしないだろうと思います。
    ◇   ◇   ◇
 しだいに分厚くなって教材研究の代行業を演じている指導書に頼っていたのでは、魅力のある授業はできません。指導書に書いてあることを絶対視したり、指導のよりどころにすることはやめましょう。指導書は参考書の一つに過ぎません。指導書だけに頼っていたら、ものの見方・感じ方が狭くなっていき、貧弱な授業になりかねません。指導書を執筆した経験のある私は、そのように思っています。
 また、指導書に書いてあることに拘泥しながら、学習指導要領には何が書いてあるのかに無関心であるのなら、本末転倒であると言わなければなりません。
 一人一人の教員が、個性に花を咲かせて、自信を持って授業を展開しようではありませんか。それが、国語科教員に課せられた責務であると思うのです。

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2006年9月 8日 (金)

国語教育を素朴に語る(11)

あいまいな言い方を避ける

 古典の作品は性感的ではありません。
 冒頭をこのような文で始めると、ドッキリ感をお持ちになった方がいらっしゃるかも知れませんが、私は古典の傾向性の中に、好色的なものがあるとか、ないとかということを言おうとしているのではありません。(という表現を、わざとしてみました。)
 私が言いたいのは「性」「感」「的」などの文字の使い方のことです。これらの文字は、現代語では多用されていますが、古典の文章には現れません。
 明治以後、漢語が多く使われるようになって、新しい言葉が作られたり、同じ言葉に新しい意味づけがされたりしました。日常語で学問の世界を語ることができるのは日本語の大きな利点です。先人の努力によって、日本語は日常会話の用を足すだけでなく、学問を語るに足る言語になりました。先人の功績は大きいのです。
 「的」や「性」や「感」の使い方もそのような中から生まれたものでしょう。けれども、現代語の中でふんだんに使うこれらの言葉が、実は表現をあいまいにしていることに気付いていない人がいるのは残念なことです。古典の文章では、このような言葉を使わないで表現し、あいまいな言い方をしなかったというのは、言い過ぎでしょうか。
 古文を現代語訳するときにも、「的」「性」「感」は使いません。使う必要がないのです。昔の人は、使わないで表現したのです。今でも、日常会話のレベルや、文学表現では「的」などは使うことは少ないと思います。
    ◇   ◇   ◇
 これらの言葉を使うことの弊害の一つは、「シコシコ感」とか「刺激的な味」とかが、どのようにシコシコしているのか、どんな刺激なのかということを追求せずに、大まかな表現ですませていることであると思います。
 二〇〇四年の夏は、全国の暑さも、四国や紀伊半島の降水量も「記録的」でした。何十年に一度というような意味で「記録的」なのでした。一方、海水浴場は昨年の冷夏による人出の少なさを克服して、なんとか「記録的」な人出にはなったようです。「記録的」という言葉は、前代未聞というような意味にも使いますし、これまでとは少し違うというような意味にも使います。程度の差は極端に違うのです。
 「的」は、そのような性質がある、そのような状態になっているという意味ですから、あいまいさが伴います。同様に、「性」は、ものごとの性質や傾向をあらわしますが、大ざっぱな表し方になることがあります。「感」も同じです。似たようなものには、「表面上」の「上」、「営業面」の「面」など、他にもたくさんあると思います。
 言葉は、何かと何かとを区別するためにあるのですが、過度に区別するのは考えものです。すぐにグループを作って表現したがる人がいます。一人一人の意思で行き先を決めているのに「遠出組」「近場派」と分けたり、いったいどの範囲のものを指すのかわからないのに「癒し系」と言ったりするのは新聞や放送の得意とする表現です。このような表現は、真似るに値するとは思えません。
    ◇   ◇   ◇
 教員自身が適切な言葉の使い方をして、それを生徒たちに示すことが大事です。ものごとを易しく表現するように努めるとともに、いいかげんな言い方をしないで、きちんとした言葉を選ぶことを、身をもって示したいと思います。
  最後に余談をひとつ。冒頭の三文字は、「感性的」という順番にすればよかったのかもしれません。「感性」には上品な印象が、「性感」には下劣な印象が伴うとすれば、言葉とはやっぱり不思議なものだと思います。

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2006年9月 7日 (木)

国語教育を素朴に語る(10)

相手のことを考えれば言葉は出てくる

 日本の若者たちは、外国の若者に比べて、自己主張が乏しいと言われます。自分の考えを述べるべき立場に置かれても、それができない日本の若者を、国民性に起因するものであると考えることもあるようです。
 意見を述べる力は、集中的に指導すれば、向上するかもしれません。現に、外国へ語学研修などに出かける生徒に対して、きちんとした考えを持つようにという特訓をしてから出発することもあるようです。
 けれども、外国の若者は自己主張が強くて、話す力があり、日本の若者はそうではないという考えについて、私は全面的に賛成する気持ちはありません。自分と他人とを区別して、自分にとって都合のよいことを主張するのが望ましいことであるとは思いません。
    ◇   ◇   ◇
 自分が相手に近づいていって、相手のことを考えたら、自分の言葉は出てくるはずだ、というのが私の考えです。相手のことを思いやって考えていけば、言わないではおれないものが自分の胸の中に生まれてくると思うのです。逆に言えば、相手のことを思いやって考えなければ、語りかける言葉は出てきません。
 教育は、人間社会の中で、お互いを尊重しあい認め合いながら、生きていくことや、その生きる技術を教えるものであると思います。自分のことを考えるのと同等に、自分の周りにいる人たちのことも考えないわけにはいきません。
 生きる力という言葉が広く使われていますが、生きる力というのは、自分ひとりだけが生き抜いていく力のことではありません。
 どのように社会が変化しても、自分で課題を見つけ、自分で学び、自分で考え、主体的に判断し、行動し、課題や問題をよりよく解決していく資質が、生きる力であると言います。ここまでは自分に関することです。
 しかし、それで終わるものではありません。他人と協調し、他人を思いやる心や感動する心などを持つことも、生きる力なのです。
 一人一人は、無数の人たちで構成する社会の一員であるということを認識すれば、自分一人のこととともに、他人との関係も大事なのです。
    ◇   ◇   ◇
 例えば、文章を書くことを課したときに、「何も書くことがない」と嘆く生徒に向かって、私たちは、どのような指導をしているのでしょうか。
 周りの事物に関心を持てば、書く材料が見つかるはずだという指導は間違っていませんが、そのような助言をもらっても、書けない生徒は書けません。自分と対象物とを区別してしまっているからではないでしょうか。
 他人を思いやる心や感動する心を持つことに基盤を置いた指導を、国語教育の柱にすることが大切である、と私は考えます。それができれば表現指導も容易になるでしょう。
 人や事物に対する関心というのは、それらのものへの思いやりですが、時には反発する心も生まれるでしょう。反発とか批判とかは、感情に流されたものであってはなりませんが、反発や批判は、相手に関心を示しているがゆえに生まれてくるものです。
 心を育てるというのは、人や事物を見る目を育てることであると思います。
 相手をしっかりと見つめておれば、人は何かを語り出すはずだ、語り出さずにおれないはずだと思います。語ることの手助けをするのが言葉の指導ですが、言葉の指導の前に、もっと大きな指導があるべきだと思うのです。
 自分の考えを持てという指導は、相手のことをよく考えよという指導と一体になっているのです。自分の考えを述べるということは、相手にとっても役立つ言葉でなければならないはずなのです。

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2006年9月 6日 (水)

国語教育を素朴に語る(09)

解説や結論づけを減らそう

 テレビでは、分野を問わず、解説者や評論家やコメンテーターが登場します。視聴者に向かって、わかりやすく説明して、課題や結論を示してくれます。事件や事故を報じる番組や、難局に遭遇したときの番組では、解説者はありがたい存在のように見えます。
 スポーツや娯楽の番組でも解説があります。たいていは、視聴者の判断をリードしていくような話をしてくれますから、解説者がいないと寂しい気持ちになることがあります。視聴者自身で判断できることは多いのですが、解説してくれると便利だ、らくに考えていけるというような思いを持ちます。
 そのような解説を聞き続けることによって、視聴者は自分の頭で考えようとする動きを減らしていることに気づいているでしょうか。
 スポーツ中継は、試合のありのままを伝えればよいのであって、高度で専門にわたる解説は蛇足であるかもしれません。視聴者の中に、専門家やプロ選手を目指している人はごくわずかしかいないでしょう。野球はこういう見方をしなければならないとか、サッカーはこういう点に注目すべきだとかいうことを、解説者から与えられなくてもいいはずです。
 解説者がある種の判断を下すことによって妙なことが起こります。選手が懸命に戦ったことに感動を覚えても、解説者の考えに引っぱられて、技術が劣っていたとか、何かが足りなかったとかいう見方をしてしまうことがあります。解説をやめる、あるいは最低限の解説にとどめる、あるいは解説者の個人的な価値判断を言わせないということにすれば、スポーツ観戦はもっと面白く、感動を呼び起こすものになるかもしれないと思います。
    ◇   ◇   ◇
 さて、国語の授業を振り返ってみましょう。不思議なことに、国語の授業で扱う文章は、多少とも難しい文章が選ばれて、一読して意味がわかるような文章は排除されています。易しい文章は内容が乏しいとは思いません。難しい文章は内容が豊富であるとも思いません。けれども難しい文章が選ばれるのは、易しい文章を扱ったのでは国語の教員の出る幕がないからなのでしょうか。
 国語の授業はさまざまな指導方法や技術を駆使して展開していると思いますが、結局のところ、難しい文章の中身を説明し、文章全体の結論を定めることになっているとしたら、ちょっと残念なことだと思います。
 部分部分の説明や、全体としての結論が他から与えられるのなら、生徒自身が考える必要はなくなります。待っておれば結論がやってくるというような授業は、考える力をつけさせません。まして、発問もせずに解説だけをする授業はなおさらです。
 論理に関わる部分はともかく、感性・感覚に関わる部分まで一定の枠組みを作って、ここはこのように感じるのですよというのは、何か変だと思います。
 やさしく丁寧に教えてやるという教員の親切心が、生徒の考えようとする意欲や能力を弱めてはいけません。考える力、感じ取る力というものは、自分から進んで考えたり感じたりしなければ、誰からも与えてもらえないと覚悟をしたときに、力を発揮してくるものだと思います。
 国語の授業において、解説や結論づけが不要であると言っているのではありません。いろいろな場面で示唆を与え、方向づけをしていくことは、教育にとって不可欠なことです。
  けれども、ものを考えない生徒が多くなったとか、生徒の考える力が落ちたとかいう嘆きの原因が、案外に身近なところにあるのかもしれないと思うのです。考えることをしない生徒を育ててきたのはどうしてなのだろうかということを、謙虚に反省する姿勢も、教員には必要であると思います。

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2006年9月 5日 (火)

国語教育を素朴に語る(08)

一つ覚えでない語彙力の指導を

 最近よく使われている言葉の一つに「立ち上げる」があります。現代的な言葉で、便利なようにも感じます。「パソコンを立ち上げる」「会社(や委員会)を立ち上げる」などの言い方は、毎日のように目にし、耳にします。
 「立ち上がる」という言葉は昔からありました。けれども「立ち上げる」は比較的新しい言葉遣いでしょう。新語といえば外来語や漢字熟語が多い中で、「立ち上げる」はそうではありませんから、好感を持ちます。けれども、この言葉は、例えば「スタートさせる」とどう違うのでしょうか。新しい言葉を使い始める理由があるのでしょうか。
 私は、この言葉を使おうとは思いません。使わなければならない必要が生じたら、たぶん別の言い方を探すでしょう。
 私がこの言葉を使いたくない理由は明白です。いろいろな内容を同じ言葉で表現してしまうからです。細かいことを考えずに、使い勝手のよい言葉に飛びついてしまう心理がはたらいているようにも思うのです。
 別の言葉で言うとすれば、パソコンの場合は「起動する」ですむかもしれませんが、会社や委員会は「準備を始める」「設置する」「創立する」「発足させる」「確立する」などと言い分けるはずです。
     ★   ★
 テレビでは旅番組やグルメ番組が花盛りです。考えてみれば、グルメ番組という言い方は奇妙です。グルメが食通とか美食家という意味であるのなら、画面に登場するのはすべて美味いものばかりという方向付けがされています。
 それゆえにでしょうか、出演者が食べた後に述べる感想は、「おいしい」とか「グー」とかであって、どんなに珍しいものを食べても、平凡きわまりない言葉なのです。せいぜい「こくがある」とか「深い味だ」とか「独特の風味がある」と言う程度です。今まさに口にしている食べ物の、その独特の味や風味の描写がありません。画面を見ると食欲をそそるものが並んでいるのですが、出演者の言葉遣いに幻滅を感じて、おいしさが半減してしまうこともあります。
 たぶん、感想の言葉は出演者に任せてしまっているのでしょう。番組制作に携わる者が知恵を集めれば、あんなに薄っぺらな感想の言葉にはならないと思います。テレビの画面によりかかって、言葉を大事に考えていないのです。テレビだからこそ成り立ち、ラジオでは通用しないやり方です。
     ★   ★
 表現するときには、似たような内容であっても同じ一つの言葉で表すことを避けたいと思います。それを表すのに最もふさわしい言葉を選び取って、その言葉と他の言葉を組み合わせて、効果を上げるように努めたいと思います。
 言葉はものごとを区別するために存在すると言ってよいでしょう。非常に近い意味をあらわす言葉でも、まったく重なり合ってしまうものはありません。言葉を区別する力は、表現する際にも、理解する際にも働かせなければなりません。
 言葉の違いや表現の多様さを教えて、それを身に付けさせることは、国語教育の大きな役割です。限られた言葉だけに頼ることはやめましょう。日本語には表現力に富む語彙がいっぱいあるのです。
 放送で使う言葉は、かつては日本語の規範の役割を果たしていました。今はそのような役割を捨て去ってしまったように思います。貧しい言葉遣いが、日本語のお手本になるはずはありません。放送の世界の悲しい現実です。そのような放送を見習っていては、私たちの言葉の生活が寒々としたものになりかねません。

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2006年9月 4日 (月)

国語教育を素朴に語る(07)

無理強いしない読書指導を

 私たちは今までに何冊の本を読んだのでしょうか。年齢によって異なるでしょうし、興味・関心の方向や度合いによっても異なるでしょう。けれども、教員が、とりわけ国語科の教員が人一倍、多くの本を読んでいるというのは間違いないことでしょう。
 ところで、読書指導には意外な落とし穴があるように思います。国語科の教員は、自分が読書家であるゆえに、誰もがたくさんの本を読むべきであって、読書量が少ないのはよくないことだと考えがちです。
 本の読み方は人さまざまでよいはずです。他者の指示で読書するのではなく、自分の意志によって本に近づいていくのです。
 本を読むことを苦痛に感じさせるような指導はやめましょう。本は楽しんで読めばよいのです。同じ一冊の本でも、仕方なしに読むよりは、自分から進んで読む方が、得るものは多いはずです。課題として与えられた本であっても、どのような姿勢で読むかによって、読後には大きな差が出るでしょう。
 上手な読書指導というのは、たとえ半ば強制に近い形で読ませようと意図する場合であっても、生徒たち一人一人には、自分から進んで読んだような気持ちにさせる指導を工夫することだと思います。読書指導はカウンセリングと共通するものがあると思うのです。
     ★   ★
 私は、一冊の本を読み終えたら何か得るものがあるはずだ、とは思いません。誰でも、自分の経験を振り返ってみればわかることですが、読み終えても格別の感慨を持たない本はあります。新しい知識や考え方の参考にならない本もあります。それは、その本の側に問題があるのかもしれませんし、その本を読んだときの自分の心の状態に起因するのかもしれません。読書をすれば何かを得るはずだ、読書感想文は書けるはずだ、というようには考えたくありません。
 とは言いながらも、時には、一冊の本が与えてくれる感動が、計り知れないほど大きいことがあります。感動したことを何としても他人に告げたい、他人と感想を語り合いたいという思いに駆られることがあります。何十冊もの本を読めば、そんな一冊に出会うことがあります。そのような経験がないのは、読んだ本の数が少ないからかもしれませんし、本の読み方が浅いからかもしれません。そうではあっても、急いで多くの本を読みなさい、読み終えたら考えなさいというように押しつけがましいことは避けたいと思います。
 たとえ少しずつであってもよいのですが、読書によって心の中に蓄積していった財産に気付かせることが、優れた読書指導であると思います。そんな指導が、生徒たちの次の読書を誘ったり、自然な形で読書感想文を生んだりすることもあるのです。
     ★   ★
 本を読むことによって自分の心の中に生まれた考えや感動を書き留めておきたいという気持ちを結晶させたものが読書感想文です。他人に言わずにおれないような感動を得たことが、読書感想文を生みます。
 そのような意味で言うなら、本を読んだ後に読書感想文を書くのは、他人のためにすることではありません。読書感想文を書くという課題を出す場合も、生徒自身のために書くのであるということを忘れさせてはなりませんし、作品はそのことを念頭に置いて評価をしなければなりません。読むこと・書くことによって自分を見つめ直し、改めて自分と出会っているのだということを自覚させるのが読書指導であり、読書感想文の指導であると思います。
 読書を取り巻く指導は、教員自身が大らかな気持ちを持って、工夫を重ねることが肝要であると思います。

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2006年9月 3日 (日)

国語教育を素朴に語る(06)

人生には制約がつきまとう

 会合などで挨拶や説明をするとき、時間に無頓着な人がいます。話し始めると時間の感覚がなくなってしまうのかもしれません。五分でと頼んでおいても、その二倍も三倍もの時間を使って延々としゃべる人がいて、司会者のイライラをつのらせることがあります。
 また、原稿用紙三枚の長さでと執筆の依頼をしたのに、出来上がったものが二枚分であったり四枚分であったりすることがあります。これは、編集する立場の人を泣かせることになります。
 どちらの場合も、周囲に大きな迷惑をかけているのですが、当の本人には、それがあまりわかっていないということがあります。
     ★   ★
 人生には時間や空間の制約はつきまといます。学校での勉強が、これからの人生に必要なことを身に付けさせようとするものであるのなら、時間の制約や、空間(作文の場合は、字数や枚数)の制約を守る練習は避けて通れません。それは、一人一人の姿勢や能力などの基本に関わることであるからです。
 話をしたり、文章を書いたりするのが苦手である生徒たちに配慮して、長すぎても短すぎても注意をしないでおこうという考えもあります。その指導方針は間違ってはいないと思いますが、それは初歩の段階の指導にふさわしい方法だと思います。初歩というのは小学校の段階という意味ではありません。中学校や高等学校でも、内容によっては初歩だと考えるべき段階はあちこちにあります。
 そして、初歩の段階から一歩進めば、甘い姿勢で指導をすべきではありません。中学生や高校生に対する表現指導は、制約をきちんと守らせることが肝要です。ルールや、与えられた条件を守ることが、人間関係の基本にあるからです。
     ★   ★
 話でも作文でも、短くする努力は、内容を凝縮していくことだと私は考えています。凝縮するというのは表現にとっては大切な作業です。それは、重要でない事柄をそぎ落としていくことです。
 逆に、短いものを長くするのは、内容を薄めることになります。内容を薄めないためには、表現のための材料がぎっしりと集められていなくてはなりません。自分の頭で考えたり、周囲から取材したりして、材料をたくさん持っておく必要があります。大盛りになっている内容を凝縮していって、求められている長さに収めるように努力させることが、表現指導の根幹にあることであると思います。
 文章の場合は、原稿用紙の升目とか、ワープロソフトでの字数設定とかの方法で、字数を意識しながら書いていくことができます。推敲を重ねて、所定の字数に収めることは、表現の練習として大事なことです。
 それに対して、話す場合は時計だけが頼りです。とはいえ、しばしば時計を見るのは憚られます。話をする前にも、作文の場合と同じような推敲が必要ですが、それとともに、話す練習を重ねなければなりません。何度も練習しておけば、時間の長さの感覚は身についてくるでしょう。話すための原稿やメモがありさえすれば、極端なアドリブを避ければ、予定時間に収めることは容易でしょう。
     ★   ★
 学校や社会のさまざまな制約やルールを無視してはなりません。予定の時刻を過ぎても話を終えない教員や、原稿の文章がやたら長い(または、短い)教員は、どこにもいます。しかたがないことであるとは、私は考えません。努力をすれば改めることができるはずなのです。それができなければ、話したり書いたりすることの専門家としての教職員の面目はつぶれてしまいかねません。

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2006年9月 2日 (土)

国語教育を素朴に語る(05)

背伸びしないで古典を読む

 古文であれ漢文であれ、古典というのは、長い時代にわたって読み継がれてきた作品です。さまざまな人の、いろいろな目で評価した第一級の作品が古典です。いいかげんな作品はとっくに消え去って、価値のある作品だけが残っています。
 そして、国語の教員は、そのように生き続けてきた古典を、今の中学生や高校生の心の中にも残ることを願って指導をしています。
     ★   ★
 けれども、古典の指導について、考え直したほうがいいのではないかと、私が考えていることについて書きたいと思います。
 例えば源氏物語は、古典の中でも第一級の作品です。それは、ほとんどの人が認めていることです。とは言え、源氏物語の世界を隅から隅まで、高校生に理解させようとは思いません。それを求めても、不可能だと思うのです。
 その理由の一つは、それぞれの古典が基盤にしている社会が、現代とは大きく異なっているということです。社会制度も人間関係も、現代とは違っています。それぞれの時代の社会や人々の心を理解するのは大切なことですが、現代の中学生や高校生には無理なこともたくさんあると思います。
 もう一つの理由は、今に残っている古典は大人の目によって評価されてきたものであるということです。大人の世界の考え方や感じ方などの中には、中学生・高校生には理解できないものがあります。
 私は古典の指導を否定しようとしているのではありません。難しいのは、大人であるゆえに抱く心理や感情などを、若い人たちに理解させようとすることです。
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 古典の指導は、学習する者の年齢に応じて、あまり背伸びしないことが肝要であると思います。大人同士の人間関係や、大人の抱く感情などを、想像しながら理解するのは大事なことですが、それには限度があります。まだ若い生徒たちに、大人の世界の疑似体験を求めすぎるのは望ましいことではないと思います。
 古典の指導は、古典への興味・関心を抱かせることに努めるべきであって、大人の世界の内側を深く描いている古典は、大人になってからゆっくり読めばいいのです。
 このことは、古典の教材の選び方は、現状のままでいいのだろうかという疑問に結びつきます。大学入試に対応できるようにという理由から、難解な作品を選んで、生徒に読ませてはいないでしょうか。
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 テレビの画面などで、ある場所の風景にしばしば接して、行ったことがないのに、その土地を熟知しているかのように錯覚してしまうことがあります。初めて、その土地に実際に行ったときに、感激する心が失せてしまっているという弊害も起こります。
 文学は人生を学びます。大人の世界を頭の中だけで理解して、実際にその年齢になったときに、みずみずしく感じる心が少なくなってしまったとしたら、あるいは、人間関係を理屈で解釈するような気持ちになってしまったとしたら、ちょっと寂しいことだと思います。古典の作品は、高度に熟した内容になっており、それが古典の魅力ではあるのですが、大人の価値観をそなえた作品が多いということを忘れてはならないと思うのです。
 結局は、古典を勉強させることによって、何を得させようとしているのか、何を感じさせ、何を考えさせようとしているのかということを、教員がはっきりと意識することが大切です。

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2006年9月 1日 (金)

国語教育を素朴に語る(04)

外来語と上手につきあう

 外来語のことが話題になっています。国立国語研究所が外来語の言い換え案を発表し、それについて、いろいろな立場からの意見が述べられています。
 外来語を減らすことには賛成です。私は、自分が話したり書いたりするときに、努めて外来語を使わないようにしています。けれども、まったく使わないことなどはできません。
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 ところで、外来語の議論の中に品詞という考え方が入っていないことを、私は不思議に思っています。
 事物や考えに新しいものが生まれたときには、それに伴って新しい言葉が生まれます。従来の日本語だけで表現しきれない場合は、新しい言葉を使わざるをえません。けれども、これまでの日本語にある言葉を組み合わせて表現することをあきらめて、即座に外国語に飛びつく姿勢はよくないと思います。いかにも物知り顔をして、外国語を使い始める人は、日本語の風上におけません。政府や報道機関などがこのような傾向を持っていることも問題です。けれども、名詞に関しては我慢をしなければならないと思っています。
 新しい文物は次々に生まれるでしょうが、新しい動作や感情が生まれることは稀だと思います。私が、できるだけ外来語を使うまいと思うのは、感情や動作をあらわす言葉についてです。品詞では動詞・形容詞・形容動詞にあたります。
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 もう十分に日本語の中に取り入れられてしまった言葉にも、名詞以外の言葉はたくさんあります。「ラッキー」「ルーズ」「デラックス」「デリシャス」などですが、これらは日本語の語彙で十分に表現できます。これらの外来語は印象の新鮮さはありますが、言葉のあらわす内容には新しいものは含まれていません。日本語の語頭にはラ行音や濁音があらわれにくいという伝統は、外来語によって壊されていきました。
 動詞・形容詞・形容動詞の類は、言葉が足りなくなっても、外国語を使おうとする気持ちに歯止めをかけたいと思います。日本語には豊かな表現力があります。古語や方言には含蓄の深いものがあります。そのような言葉から現代日本語(共通語)に輸血することによって、日本語に活力が生まれるはずです。
 使い初めは外来語と同じ方法でよいと思います。外来語を使うときは、何の前ぶれもなく使うこともあるかもしれませんが、何かの説明を加えながら使い始めるでしょう。古語や方言も、何かの説明をして、その言葉を紹介し、使っていけばよいのです。
 外来語に飛びつくことを避けて、日本語の中から言葉を探し出す努力をすれば、日本語の印象が変わってくることは間違いないと思います。
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 生徒に対してそのような表現指導をするのも、自分の表現において実践をするのも、国語の教員の務めです。国語の教員が外来語に依存するような言語生活をしていたのでは困りものです。
 外来語に飛びついてしまう姿勢を振り返ってみれば、それは、日本語が貧困であるからという理由からではなく、自分の語彙力の乏しさにも由来しているということに気づくはずです。
 外来語は最低限のものを使いましょう。外来語と上手につきあうことは、日本語の再発見につながります。それによって、日本語に自信を持つことにもなるはずです。
 外来語を使うことを少なくする最善の方法は言い換えによるのではありません。日本語の持つ表現力の中で、その場にふさわしい表現を工夫する努力こそ大切だと思います。

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