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2006年10月31日 (火)

教員志望者に必要な読解力・表現力(16)

【第6回】伝えて相手の心を動かす力を磨く[その2]

想像する力と構想する力
 さて、先ほど述べたように、児童・生徒が何を、どのように考えたり感じたりしているのかということを想像する力が、教員には必要です。
 読書などをする場合には、言葉に書かれていることを理解するだけではなく、行間も読まなければならないと言われます。児童・生徒の心の中を理解することも同じだと思います。彼らが発する言葉だけで判断してはいけません。身振りや表情などを含めたすべてのものが判断の材料になります。そういうことは心理学の分野に立ち入っていることになるのかもしれませんが、教員にはそのような力も必要です。
  そして、次に、どのように指導していくかという筋道を組み立てる力、いわば構想する力が大切です。教科指導においては学習指導案を作成して、授業のシナリオを描きます。最近は、教員採用試験で学習指導案を書かせる都道府県が増えてきました。私は、そのことを喜んでいます。限られた試験時間の中では、詳細な学習指導案などを書く余裕はありませんから、求められているのは略案に過ぎません。けれども、略案であっても、指導の目標や、指導の中心点や、指導過程の骨子を書かなければ、学習指導案とは言えません。授業を構想する力が求められていて、それを教員採用試験では問うているのです。
 そして、その構想力は、教科指導の場合に限って必要なのではありません。学校教育のあらゆる場において、指導の全体像を構想する力が、一人一人の教員には求められているのです。生徒指導、進路指導、教科指導をはじめ、あらゆる分野での望ましい指導の方向を構想し、それを実際に指導していく力を磨いておかなければなりません。
 言うまでもないことですが、学校教育は、一人一人の教員がばらばらの方針で取り組んだのでは効果がありません。大勢の教員がいろんな考えを出し合って協議し、一定の方向を決めて指導を進めていかなければなりません。けれども、その前提として、一人一人の教員が確固とした考えを持っていなくてはなりません。他人のまねをして、後ろからついて歩いていこうという気持ちでは、教員は務まりません。
 この構想力は、表現力というものと密接につながっています。指導の筋道が確立したら、具体的にどのように指導するかということが肝要になってきます。児童・生徒は一人一人が異なった性格や能力などを持っています。その児童・生徒にどのように接すれば効果が上がるのかを考えなければなりません。どのように接するか、どういう言葉を発するかということが、教員としての表現力であると言ってよいでしょう。

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2006年10月30日 (月)

教員志望者に必要な読解力・表現力(15)

【第6回】伝えて相手の心を動かす力を磨く[その1]

 連載の最終回を迎えました。この連載のサブタイトルには「読解力・表現力」という言葉を使ってきました。そのことについて、改めて述べておこうと思います。
 読解という言葉も、表現という言葉も、書き言葉における読解・表現だけではなく、話し言葉も含めたものとして使ってきました。そして、それは言葉の教育に限定したものとして使ったのではありません。「読解」という言葉を「理解」という言葉に置き換えて考えてみてください。
 理解(読解)するというのは、自分が他者を知ることであり、表現するというのは、自分を他者に知らせることである、と私は考えています。
 学校教育の場における理解(読解)というのは、児童・生徒が心の中で考えていることや感じていることを理解することを含んだものとして考えたいと思います。そして、表現というのは、教員としての自分の思いなどを児童・生徒に伝えるということです。言葉が中心になることは言うまでもありませんが、言葉以外のもの、すなわち、表情、しぐさ、その他のことも加わります。
 そして、それらの理解力(読解力)や表現力は、メインタイトルに示したように、教育の場における「指導力」として不可欠なものでありますから、その力を身につけるために、教員志望者は不断の努力を続けようということを、この連載では言い続けてきました。その努力は教員となった段階で終わるものではありません。教員であるかぎりは研修を続けなければならないことは言うまでもありません。

指導の場で生きて働く力を磨く
 指導とはどういうことであるのかを誤解してはいませんか。児童・生徒に何かを伝えたり、指示したりすることだけを、指導であると思っていないでしょうか。
 既に述べたように、指導というのは、「指導したつもり」であってはなりません。児童・生徒に何かを伝える・指示するということにとどまっていては、指導したことにはなりません。児童・生徒に伝えて、彼らを動かしていくことが教員の指導力であるのです。伝えた内容が、児童・生徒の心を動かして、彼らが変わっていってはじめて、指導をしたことになるのです。そのための指導力が求められているのです。
 教員は、採用されて赴任した瞬間から、一人前の教員としての力を発揮することを求められています。初任者研修などは行われますが、児童・生徒や保護者は、採用一年目の教員に対しても、若葉マークの人であるとは見ていません。責任を持って児童・生徒を指導する立場にある人だと見ているのです。
 したがって、教育委員会は、ほんとうに指導力をそなえた人を教員として採用しようとしています。教員採用試験が、一次試験・二次試験を実施し、筆答試験・面接試験などを駆使して、教員志望者の中から、優秀な人物を選び出そうとしているのは当然のことなのです。
 大学の教職課程を終えれば教員の1種免許状の交付を受けることができます。大学院を終えれば専修免許状を受けられます。中央教育審議会などでは、教員はできるだけ専修免許を持ってはどうか、すなわち教員免許状を交付するためには大学のみならず大学院まで卒業することにしてはどうかという意見も出ているようです。けれども、私は、その考え方に、必ずしも賛成ではありません。教育というものは、研究を深めて理論を確立していけば効果があるとは一概には言えません。磨くべきものは、やっぱり実際の場での指導力です。指導するためには、高度な指導技術が必要なのです。
 私は、むしろ大学の教職課程こそ改めるべきであると思っています。大学のゼミや卒業論文のテーマのことを考えれば明白です。それぞれの学部・学科などにおける専門分野を卒業論文のテーマに選ぶのは当然かもしれませんが、教員志望者は、教育内容や教育実践のことをテーマに研究を深めなくてはなりません。けれども、現実には、定められた単位を取得すれば教育免許状の交付を受けることができます。大学の教職課程の関係者も、そのことに格別の疑問も抱かず、教員免許状が量産されていると言っても過言ではないでしょう。
 そのことは、教員志望者に問題があるというわけではないのですが、教員志望者は、学校教育の指導の現場で生きて働く力を、自己の研鑽によって磨いていかなければなりません。教員志望者は、できることならば教科指導、生徒指導、その他の学校教育全般に関することを卒業論文のテーマとして、実践的な研究を深めて、指導技術を磨いていくのがよいと思いますが、大学内にそのテーマを指導する教官がいなければ、どうにもしかたがありません。

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2006年10月29日 (日)

教員志望者に必要な読解力・表現力(14)

【第5回】聞く力を高めて討論の輪に加わる[その4]

他者との関係の中で考えていく力
 さて次に、討論について考えましょう。教員採用試験では、集団面接で討論を課すところが増えています。大勢が討論に参加している場面で、一人だけ縮こまっていたら、合格はおぼつかないでしょう。また、実際に教員になった場合に、教員間の討論に参加できないような人は、教員には向いていないと思います。
 討論に参加する力を身につけなければなりませんが、討論というのは話す力を発揮することであると誤解してはいけません。討論に参加するためには、聞く力がないと対応できません。話す力よりも、聞く力の方が大切だと言っても過言ではないと、私は考えています。もちろん、聞く力の上に立って、話す力も伸ばしていかなければなりません。
 討論の場で、自分の言いたいことだけを主張している人は、自己本位で協調性が欠如していると見られてもしかたがありません。学校は、大勢の教職員が力を合わせて児童・生徒を導いていくところです。独善的な教員では困るのです。他人に対して攻撃的な人も望ましくありません。採用試験の討論の場では、人間性を観察しているのだということを忘れてはなりません。
 採用試験の討論は数人で進められると思いますが、最も気を付けるべきことは、討論のテーマを間違いなく認識することです。どんなに立派な意見を述べても、テーマから外れた内容では、意味がありません。討論のテーマを提示する試験官の言葉をきちんと聞き取ることが出発点です。
 次に、討論に参加している人たちが、それぞれどのような考えを持っているのかを聞き取ることが大切です。一人一人は、それぞれ異なった意見を持っているはずです。似通っている意見の、微妙な相違点に気づくことも大切です。
  そして、その上に立って、自分の周りの人たちが、今、何について考えて、どういう段階まで議論が進んでいるのかを的確に捉えることをしなければなりません。そうでなければ、自分の発言はピントはずれになってしまいます。既に討論がすんでしまった内容を後から持ち出してはなりません。
 もちろんのことですが、要所要所で自分の考えを述べることが大切です。自分の意見の要点や、理由づけなどが明確になるような話し方をしましょう。言葉遣いをできるだけ易しくして、周囲の人によくわかるように話せば、印象がよくなります。話がだらだらと延びていくことは慎みましょう。

人生は二者択一などではない
 何より大切なことは、教員採用試験の討論も、一定の答えが用意されていないことが多いということを心得ておくべきです。答えが決まっているのなら、討論する値打ちがありません。幾人もが智恵を出し合って進めていく討論の過程を見ながら、試験官は一人一人の心の中を観察しているのです。
 中学校や高等学校の教室などでは、最近はディベートが大流行しています。それぞれの人の本来の考えがどのようなものであっても、二つの陣営に分けて意見を戦わせようとするものです。討論の最後には勝敗を決めます。ディベートは、日本人が苦手としてきた議論をする力を伸ばしたということは否定しませんが、これはやっぱりゲームの域から抜け出すことはできないと思います。
 人間のものの考え方は、二者択一ではなく、無数の段階から成り立っています。いったん思い込んだ考えがあったら、その考えを改めはしないなどという頑なさは、人間関係にとって望ましいことではありません。
 ものを考えるのは、陣営に属して、それを後ろ盾にして行うものではありません。まして、教育の世界は、型にはまったものであっては困ります。それによって困るのは教員ではなく、児童・生徒の方です。 
 というわけで、教員採用試験の面接試験の中の討論では、議論の勝者になろうということを目指しても、たいして意味がありません。理屈だけは筋が通っていても、人間としての温かみがない意見は、高い評価を得られません。教育の根底には、人に対する愛情が求められています。周囲の人の意見の欠点だけを指摘するような人物は、教育の世界には必要ではないのです。さまざまな考えをもとにして、よりよい解決法を探り出そうとする姿勢が大切です。

教育の根底には対話がある
 ここまでに述べたように、教員採用試験では、場面指導とか、事例に基づく状況設定とかによって、受験者の力を判断しようとすることが行われています。教員志望者にとっては苦しい試験かもしれませんが、指導力のある人を教員として採用するためには望ましい方法であると、私は考えています。教育に対する理論や、専門分野の知識をそなえているだけでは太刀打ちできないでしょう。学校教育の場では、理論や知識の上に、実践的な指導力がなければ務まらないからです。
 しかも、それは、筆記試験で確かめ得るようなものではありません。日常生活の中で次々と現れる問題に対処していける力を試しているのです。児童・生徒と対話をして、すなわち聞く・話すという行動を通して、指導を積み重ねていくものなのです。教育の根底には対話があります。対話は、聞く力と話す力のどちらが欠けても、円滑には進行していきません。
 私は、この連載の既刊号で、読むことと書くことについて力を入れて述べてきました。今回のテーマは、聞くことと話すことでした。読む・書くという文字言語を用いた活動と、聞く・話すという音声言語を用いた活動とについて、一方を軽視するような考えを持ってはなりません。両輪のごとく、どちらも大切なことです。
 そして、言うまでもないことですが、聞く力がなければ話す力は弱いものになってしまいます。話すことを積極的な働きだと考えて、聞くことを消極的な働きだと考えてはなりません。また、書くことを積極的な行為、読むことを消極的な行為であると考えることも正しくはありません。これらの力をバランスよく身につけることが教員には必要です。
 今回述べたことは、机に向かって勉強しているだけでは身につきません。友人・知人と、さまざまな話題について気楽に話し合うことを習慣にしてほしいと思います。

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2006年10月28日 (土)

教員志望者に必要な読解力・表現力(13)

【第5回】聞く力を高めて討論の輪に加わる[その3]

例えば、授業中の私語のこと
 例えば、面接試験で「授業中、私語の絶えないクラスがあったら、どのようにしますか」という質問があったとします。この場合、「私語があったら厳しく注意します」というような答えは、まったく意味を持ちません。具体性がないからです。もう少し言葉を加えて、「私語があったら、授業を中断してでも、生徒と話し合って、してはいけないということをわからせます」と答えても、価値は乏しいと思います。
 これらの答えには、具体的な指導の中味が、何一つ述べられていないのです。どんな質問に対してでも同じですが、「注意(指導)」の中味や、それぞれの場面における「注意(指導)」の仕方が大事なのです。同じような注意を何回も繰り返したからとて、改まらないものは改まらないでしょう。それを改めさせる手だてこそが、指導力というものなのです。「してはいけないこと」をどのようにして「わからせる」か、その手だてこそが答えの中味にならなければなりません。
 別の面から考えますと、「してはいけないということをわからせます」というような指導の方法は、教員の話し方に問題はなくて、児童・生徒の態度(私語)が間違っているのだとする考え方に基づいています。そうであるのならば、私語は強い圧力で排除するしかありません。それが教育にとって望ましい方策なのでしょうか。
 私語は、聞く力や、聞こうとする意欲がないときに、起こってくる現象です。聞く力が不足していると思ったら、教員は易しい言葉を使ってわかりやすい話し方を工夫しなければなりません。また、聞こうとする意欲を児童・生徒に持たせられないのは、教員が反省しなければならないことです。児童・生徒を指導に引き入れるような魅力ある授業をすることは、指導力の基本です。
 話が広がりますが、高等学校までの段階だけでなく、私語のことで困っている大学があると聞きます。これは信じられないことです。小学校・中学校・高等学校などは、教育委員会が採用試験を行って、いいかげんな指導しかできない人を合格させないでしょう。また、採用後にそのような状況が起これば、その教員をいろんな方向から研修させたり指導したりするでしょう。私語の多い授業になってしまうのは、児童・生徒の責任ではないからです。(もちろん、私語の多いことについて児童・生徒自身に考えさせることは、あってもいいでしょう。)
 大学は、私語の問題点を学生側に求めようとしています。大学の人事が教授会を経て決まるものであるならば、学生に耳を傾けさせるような研究内容を持っていて、きちんとした講義ができる人を大学教員として採用しなければなりません。それができていないとすれば、研究業績を重んじるあまりに、教員としての指導能力を審査しようとしない教授会の怠慢でしょう。大学における私語も、学生ではなく教員に問題があると考えなければなりません。 

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2006年10月27日 (金)

教員志望者に必要な読解力・表現力(12)

【第5回】聞く力を高めて討論の輪に加わる[その2]

答えが決まっていないことを考える
 考えることは大切なことですが、答えの方向の決まっているような問いばかりを与えたのでは、考える力はなかなか育ちません。途中の論理を飛ばしても、答えに行き着くことができるような設問では、考える力を育てることはできません。
 この世に生きている人たちは、さまざまのことを経験してきています。そして、世の中には、人類の智恵というようなものが満ちています。けれども、思い違いをしてはいけません。何かにつけて、前例や定まった考え方に沿っておれば、無難に道が開けていくというような誤解をしてはいませんか。そうではなくて、私たちの生活には、初めての経験がたくさん、あるのです。だからこそ、生きる意欲も湧いてくると考えるべきです。
 児童・生徒も未知の世界を生きています。決まりきった答えを与えて、それを生活技術のように思わせては、生きていく力が育ちません。そんな方法では、困難を切り開いていく力にはなりえません。
 教員も、どこかに前例があって、それに基づいて自分の取るべき姿勢や態度を探り当てれば指導が成り立つと思ってはいけません。問題が大きくなればなるほど、答えは決まっていないことが多いのです。決まりきった答えでは通用しないと言った方がよいかもしれません。答えが決まっていないということは、自分の指導実践の積み重ねによって答えを得ていくということなのです。いざというときに、その力を発揮できるかどうかということが、教員としての資質・能力なのですから、答えが定まっていない問題・課題に取り組む姿勢が大切であるのです。

言葉によって児童・生徒が動いていく
 教員採用の面接試験で、場面指導を課すところが増えています。小学校・中学校・高等学校を問わず、教員は、日常の教育実践の場で臨機応変の対応をしなければなりません。相手の行動や考えを理解した上で、自分のとるべき態度や姿勢を決めていかなければなりません。
 相手というのは、主として児童・生徒のことですが、時には保護者や地域の方々も含まれることがあります。教育の場では、児童・生徒以外の方々と協議したり折衝したりすることも多いのです。
 指導というのは、児童・生徒に言葉を投げかければ目的が達せられるということではありません。教員の言葉が児童・生徒の耳に届いて、その心が動き、彼らが変わっていかなければ、言葉の役割は果たせていませんし、指導は成立していません。もちろん、その指導を通じて、教員自身が変わっていくことも大切です。
 そして、どのような場においても、言葉は、具体的な内容を含んだものでなければなりません。抽象的な理屈だけでは世の中は動きません。通り一遍の理屈では教育は成り立ちませんし、児童・生徒の心が動いたりはしません。

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2006年10月26日 (木)

教員志望者に必要な読解力・表現力(11)

【第5回】聞く力を高めて討論の輪に加わる[その1]

 今回は、教員採用の面接試験に関することを中心に述べますが、その前に、別の話題から始めたいと思います。
 文部科学省は、昨年1~2月に全国の小学5年生~中学3年生のおよそ45万人を対象にした教育課程実施状況調査(学力調査)を実施しました。そして、その結果を本年(2005年)4月23日に公表しました。
 このような調査結果に一喜一憂すべきではないかもしれません。けれども、この調査結果は、基礎学力の低下には歯止めがかかったが、記述問題の正答率は改善できなかったと言っています。これは看過できない、大きな問題です。文章を理解し表現する力や、ものを考える力が落ちているのでは、ほんとうの意味での学力が育ってきているとは言えないと思うからです。
 新聞は、「記述式が悪化した」というような報道をしていますが、「記述式」という言い方自体が、おかしなものです。「記述式」と対になる言葉は「何(式)」なのでしょうか。対になるのは「基礎知識」であったり「選択式」であったりするのかもしれません。けれども、ものを考えるということは、どのような場合でも、論理を追って、言葉の流れの中で行うのですから、「記述という方式」で答える力が悪化したというようにとらえることが間違っていることに気づかなればなりません。
 
ものを深く考える教員になる
  ものを深く考えない教員が指導すれば、ものを考えない児童・生徒が育ちます。教員が与える影響は、良きにつけ悪しきにつけ、とても大きなものです。教員は、深く考えようとする姿勢を持った人でなければなりません。
 けれども、それは、自分勝手な考えを持ったり、自分の言いたいことだけを主張したりすることではありません。自分にとって都合のよい理屈を振りかざすことぐらいは、誰でもできます。
 肝心なことは、自分の言っていることを、周囲の人が納得してくれるかどうかということです。自分を取り巻く人たちの、さまざまなものの考え方を聞いたり読んだりして、その上に立って、自分の考えを育てていき、それを話したり書いたりすべきです。教員志望者は、そのような力を持てるように努力しなければなりません。
 私は、この連載で、読解力と表現力とを深く関連したものとして述べてきました。読解(理解)とは自分が他者を知るということであり、表現とは他者に自分を知らせるということです。社会に生きる人たちの間には多様な考えがあり、言葉はそのような人たちのコミュニケーションのためのものであるということを考えれば、言葉を用いて知り合うということの大切さは納得できるでしょう。

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2006年10月25日 (水)

教員志望者に必要な読解力・表現力(10)

【第4回】相手の立場を思いやって表現する[その4]

文章表現の基本を身に付ける
 次に、文章表現に関する一般的な注意事項について、箇条書きで述べます。
①文章は、正しい文字で、その言葉の持つ意味を間違えないで、文法にそった書き方をしなければなりません。また、漢字を使うのが当然である言葉を平仮名で書いてはいけません。
 例示文の「先生」は、他人から言われる場合はともかくも、自分(たち)のことをこのように呼ぶのは適切であるとは思いません。敬意が含まれている言葉であるからです。私なら、「教師」も避けます。「教員」や「教職員」が望ましいと思います。
②俗語や流行語などは書き言葉の文章にふさわしいとは思えません。外来語は、その言葉以外に適切な言葉が見つからない場合に限って使うのがよいと思います。
 例示文の「めっちゃ」は、書き言葉に似つかわしくありません。「アポ」は外来語でなくても表現できます。仮に使うとしても「アポイントメント」の短縮形は「アポイント」までで、「アポ」と短くしてしまうのはよくありません。言葉の感覚を磨きましょう。
③文体は統一しましょう。「です・ます」体と「である」体・「だ」体とが混在するのはみっともないと思います。
 例示文の「忙しいです」は、「忙しい」にして、全体を同じ文体にしましょう。
④受動態と能動態とが混在する文章は、ちぐはぐな印象を受けます。文章全体に積極性を強調する場合には、能動態を多く使う方がよいと思います。
 例えば、自分も構成員の一人である職員会議で、「年間行事予定が決められた」とか、「教務規定が改正された」と言うのは、他人事のように聞こえてしまいます。
⑤文と文を結ぶ接続の言葉を効果的に使いましょう。接続語は多すぎても少なすぎても、文章の滑らかさを損ないます。
⑥同じ語句を繰り返すことはなるべく避けて、指示語を効果的に使いましょう。ただし、指示内容があいまいになってしまう場合は、指示語を使わない方がよいでしょう。

論作文を書くときの留意事項
 教員採用試験で出題される論作文の解答を、制約のある時間内に、手書きでまとめ上げるために、留意すべき事柄について述べます。
 まずは、出題されたテーマの範囲内で、何を、どのように書くかということを決めなければなりません。いくつかの書き方が考えられる場合は、自分が強い関心を抱いており、自信を持って論じることができる内容を選びましょう。
 文章表現に際しては、試験場でパソコンを使うわけにはいきませんから、あらかじめ、書くべき内容をしっかりと考えて、文章の組み立て(書く順序)を決めなければなりません。途中で軌道修正はできませんから、文章の設計図(アウトライン)を想定してから、解答用紙に書き始めましょう。
 書くべき内容がたくさん思い浮かぶ場合は、制限字数や制限時間を考慮して、取捨選択をする必要があります。決められた字数は守らなければなりませんが、同時に、試験には制限時間があって、これもなかなかの難物です。のんびりできないのです。
 それぞれの内容(考えのまとまり、段落の構成など)ごとに、前もって行数(字数)を大まかに割り振っておいたほうがいいでしょう。そうすれば、安心して文章表現に専念できるからです。制限字数の超過は厳禁ですが、極端に短い文章も高い評価は得られません。
 論作文は随想ではありませんから、論理性がたいせつです。論理的な文章では、序論・本論・結論とか、起・承・転・結とかが強調されますが、3段構成や4段構成でなければならないとは限りません。けれども、最も言いたいこと(結論)が何であるかがわからない文章は落第です。書いている本人が明確にしていなかったら、読む人に伝わるはずがありません。結論は、文章のはじめか終わりに、はっきりと述べるようにしましょう。
 文章の中では、事実と意見をきちんと区別して書きましょう。これも、書いている人が明確にしなければ、読む人は混乱してしまいます。
 特に長い論作文の場合は、小見出しなどを付けるのがいいと思います。書く本人も焦点を絞りやすい上に、読む人にとってもわかりやすく好印象をもたらします。文章全体の題名や小見出しは、文章を書き終わってから付けてもいいと思います。センスの光る題名や小見出しにしたいものです。
 書き終わって推敲するような時間の余裕はないと思います。けれども、少なくとも一度は読み返して、小さな誤りは修正するようにしましょう。
 読解力・表現力というのは、文章の読解や表現に限ったことではありません。相手の心を読みとることも、相手の心を思いやって表現することも、大事なことです。さまざまな配慮が行き届いた文章は、読む人に快い印象をもたらすにちがいありません。

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2006年10月24日 (火)

教員志望者に必要な読解力・表現力(09)

【第4回】相手の立場を思いやって表現する[その3]

温かみと情熱の感じられる文章を
 教員採用試験で論作文を課す都道府県が多くあります。論作文の対策としては、さまざまな場で、いろいろな助言が述べられています。以下に述べることは、私個人の考えであって、それのみが正しいとは考えてはおりませんが、ともかく私の考えを述べることにします。
 高く評価される論作文を書くためには、教育についての深い洞察力や判断力などが必要であることは言うまでもありませんが、仮にそのことに関して同じ程度の二人がいたとしたら、論旨が明快で、説得力のある文章を書く人の方が高く評価されるのが当然でしょう。(どのようなテーマの論作文では、どのような内容の解答文を書くべきであるか、というようなことを論じるのは私の連載の目標ではありません。そのことは、『教職課程』の他のページから教えを受けてください。)
 文章から温かみが感じられるとともに、教員としての情熱を感じることのできる文章こそが高い評価を得ることになります。
 文章は書けば書くほど上達します。書き慣れることが大切です。もし余裕があるのなら、同じ設問に対して、幾通りかの解答文を書いてみてもよいでしょう。
 設問に対して必ずふれておくべき内容がきちんと述べられているということは基本的に大切なことです。そして、その上に、文章がわかりやすく書かれているか、思いやりや温かみの感じられる文章になっているかどうかを反省すべきであると思います。自分ではわからないこともあると思いますから、友人・家族・先生などにお願いして読んでもらうのがいいでしょう。

たった一言に姿勢などがあらわれる
 例えば、教員が生徒の家庭訪問をするときの留意点について述べることを求められたとします。その解答の文章の一部に、次のような表現があるとします。
 「先生の仕事は、朝から晩まで、めっちゃ忙しいです。家庭訪問をしても生徒と保護者が家にいなかったら無駄足になるので、必ずアポをとってから行く。」
 「自分が家庭訪問で経験したことは、同僚にもきっと役立つので、自分が考えたことや感じたことを知らせて、周囲の教師にも参考とさせる。」
 ここに書いてある内容が間違っているとは思いません。けれども、文章表現上の問題点は、いくつもあるように思います。
 例にあげた文を書いた人は、自分の立場に著しく傾斜して、ものごとを考えていると思います。いくら教員が忙しいといっても、「無駄足にならないようにアポをとる」という表現には、自分が迷惑を被らないようにしようという姿勢が表れてしまっているのです。相手への配慮をするならば、「保護者の都合の良い時間帯を確かめた上で」訪問をすべきでしょう。
 教員が任務を遂行するためには、他の教員との連絡・調整は不可欠です。自分が家庭訪問で経験したことから得るものが多かったとしても、「周囲の教師にも参考とさせる」というような思い上がった考えは持つべきではありません。他の教員にも役立つ情報を交換し合うとともに、周囲の教員と協議をし、助言などを得て、それ以降の指導に役立てるという姿勢が必要でしょう。
 文章の断片を読んだだけでも、その文章の筆者の人柄や考え方が端的に表れていることがあるのです。上記のような、自己中心的な書き方が随所にあらわれる文章は、高く評価されることはないだろうと思います。
 言葉遣いに留意することによって、ものの考え方に変化をもたらし、人柄というようなものすら、目には見えなくても変わっていくのだということを理解してほしいと思います。

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2006年10月23日 (月)

教員志望者に必要な読解力・表現力(08)

【第4回】相手の立場を思いやって表現する[その2]

相手の心に届く文章を書こう
 この連載は、読解力や表現力をテーマにしていますが、読解も表現も相手があってはじめて成り立ちます。文章を書き慣れていない人は、相手が誰であるのかということを深く考えないで書く傾向がありますが、表現は相手を意識しないと成り立ちません。相手を意識しない文章表現は、表現の働きを半ば失っていると言っても差し支えないと思います。
 教員が書いた文章を読むのは、児童・生徒であったり、他の教員であったり、保護者であったり、あるいはもっと別の立場にいる人であったりします。相手が誰であるかによって、文章の書き方を変えることは言うまでもありません。
 無機質な文章を書いてこなかったかということを、一度振り返って反省してみましょう。文章を書く機会が試験やレポートのためだけであった人は、漠然とした相手に向かって文章を書いていたかもしれません。あるいは、その試験やレポートを読んで評価してくれる人(高等学校や大学の教員)だけを意識して文章を書いていたかもしれないのです。このようなことからの脱却を図らなければなりません。
 これまでの文章の書き方を点検して、反省すべきことがあったら、自分の文章の書き方を少しずつ変えていきましょう。語りかける相手をじゅうぶんに理解して、温かい心づかいのある文章、相手の心に届く文章を書くように努めましょう。
 そのようなことを意識すれば、文章を書くときの姿勢は自然と出来上がってきます。あとは文章表現の技術を身に付ければいいのです。

「やさしい」文章を書くことが基本
 文章の基本はわかりやすく書くことである、と私は考えています。その理由は二つあります。
 一つの理由は、相手に何かを伝えようという目的を持って表現するのですから、相手にきちんと伝わらなければ、表現をした意味がないからです。相手のことを思いやって、相手が理解しやすいように、わかりやすい文章を書きましょう。「易しい」文章というのは、相手を思いやった「優しい」文章でもあるのです。
 もう一つの理由は、わかりやすい文章は、自分が書こうとする内容をじゅうぶんに理解していなければ、書けるはずがないからです。書こうとする内容について深く考えた上で、借り物の言葉ではなく、自分の言葉で表現することをしなければ、わかりやすくは書けません。難しい内容をかみ砕いて考えることをしないで、専門用語などをそのまま使って、受け売りのように述べた文章は、人の心を打つはずがありません。
  つまり、自分が言おうとしている内容に自信を持った上で、相手を思いやって表現したものこそが、わかりやすい文章なのです。
 文章は自分をアピールするためのものだから、自分の個性を色濃く出して、相手が理解しようとしまいと強く言い張るべきである、というような文章指南を読んだことがあります。けれども私は、そのような考えには賛同しません。謙虚さを失ってしまった文章は、相手を動かす力をそなえていないと思います。文章の力強さは、書く人の息づかいや温かさに支えられたものでなければなりません。

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2006年10月22日 (日)

教員志望者に必要な読解力・表現力(07)

【第4回】相手の立場を思いやって表現する[その1]

 第4回から第6回までの後半3回は、2倍のスペースに広がることになりました。したがって、これからは、具体例をあげながら説明をします。前回の「自分自身の手を動かして字を書く」を発展させて、今回は文章表現の仕方について具体的に述べます。
 教育という営みは、児童・生徒を全体としてとらえているだけでは対応できるものではありません。一人一人の児童・生徒をしっかりと見つめて、それぞれにふさわしい指導の方法を考えなければなりません。どんなに素晴らしい指導方法であっても、すべての者に効果をもたらすとは言えません。教育は、目の前にいる、それぞれの児童・生徒に最善の指導方法を工夫しなければならないのです。それが本当の指導力というものです。
 文章表現も、まったく同じであると思います。すべての人に役立つ文章や、万人を感動させる文章はありません。文章も、相手をしっかりと見つめて、その相手の心に響くように書くことが肝要であると思います。

教育に携わる人は、人柄が大切
 政治や経済に携わる人であれ、文化や芸術を専門にする人であれ、その他の分野の人であれ、それぞれの専門分野に対する見識や能力は必須です。それに加えて、どんな分野の人であっても、大切なのは人柄です。自分の仕事に対する厳しさは必要ですが、自分を取り巻く人々に対する温かみがなくてはなりません。とりわけ教育は、人そのものを相手にする仕事です。教育に携わる人には、指導力とともに、円満な人柄や協調性が不可欠です。
 私たちは、どのようにして、一人一人の人柄を判断しているのでしょうか。その人に関わるあらゆることが判断の材料になっていますが、とりわけ、その人の言動(発言と行動)によって判断をしています。
 人柄などというものは急には変化しないと思うでしょう。その考えは間違っていないかもしれませんが、教員志望者には、自分を変化させる努力が必要です。
 教育の世界には、児童・生徒の自主性を尊重し、他からの指導や指示をできるだけ少なくして育てていこうという考え方もあります。けれども、教育は児童・生徒を望ましい方向に導く仕事のはずです。児童・生徒には持って生まれたものがあって、それらは変化しないと考えたら、教育は成り立ちません。児童・生徒を変えていくのが教育です。
 そうであるのなら、教員が自分自身を変えることも必要だということはわかるはずです。言動を変化させて、人柄を変容させていくことに、教員志望者は力を注ぐべきでしょう。大きな力になるのが言葉です。言葉が人間を変えていくのです。

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2006年10月21日 (土)

教員志望者に必要な読解力・表現力(06)

【第3回】自分自身の手を動かして字を書く[その2]

文章を書くことの抵抗感をなくす
 教員採用試験では、論文を書くことを課されることが多くあります。普段、パソコンを使って文章を書くことに慣れていると、原稿用紙などに一文字ずつを埋めていく作業に面食らうことがあります。
  実際には、私自身も、日常生活で文字を書く作業の大部分にパソコンを用いています。思い付いたことを、順序も考えずに入力していき、一定の量が貯まってから、論理を考えて、文章を整えていきます。これほど便利なやり方は、他にはありません。私は、たいていの場合、そのような方法で原稿を仕上げていきます。
 けれども、原稿用紙に手書きするとなると、この方法は通用しません。私も、時折、手書きを求められることがあります。窮余の策は、パソコンで下書きしておいて、それを清書するという方法です。文章を作り上げる手順が異なるからです。
 けれども、試験の場にパソコンはありません。目の前にあるのは、用紙と筆記用具だけです。下書きをするような時間の余裕もありません。
 私の場合は、パソコンを日常的に使うようになるまでは、手書きの生活が続いておりましたから、手書きの文章作成には慣れていました。けれども、長い文章を手書きしたことのない人は、今こそ、文章を手書きすることに慣れておかなければなりません。

一見、能率の悪そうな勉強法を
  能率のことばかり優先するのが現代社会であるのかもしれませんが、教育というのは能率とは無縁の部分もあるということを忘れないようにしましょう。
 ものごとを持続していくためには忍耐力がなくてはなりません。昔の児童・生徒の忍耐力や集中力は、文字を一つ一つ、こつこつと書き続けることによって養われていたという面があると思います。同じ漢字を何度も書き続けることが小学生のあたりまえの学習法でした。何度も書き続けることによって、体が覚えてしまうという側面がありました。それを非能率なこととして批判することは簡単ですが、逆に、そのことがプラスに働いていたことも見逃してはなりません。
  コピー機や高速印刷機が普及していなかった時代に、教員は一文字ずつを謄写版(ガリ版)に刻んで原稿を作り、それを一枚ずつ印刷しました。コピー機が普及し印刷機が高速になると、仕事がラクになりました。今では、試験問題の原文をフロッピーなどから簡単に複写できます。神経を使いながら、自分で文字を刻んでいく必要がなくなっています。
 けれども、自分の手を使って文字に書くことによって、考えが整理されたり、記憶がしっかりしたりするというのも事実です。そのことを児童・生徒に指導するためには、指導者がきちんと習慣づけておく必要があると思います。
 教員採用試験で出題される論文の試験を得意分野にしてしまいましょう。苦手意識を持っている受験者に対して、ここで差をつけてしまいましょう。文章表現が得意である教員こそ、これからの時代に必要な資質を身に付けた人であると思います。日常的に文章を書く努力を重ねていけば、必ず体得できることなのです。

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2006年10月20日 (金)

教員志望者に必要な読解力・表現力(05)

【第3回】自分自身の手を動かして字を書く[その1]

 今回も、結論から先に言います。パソコンなどがどんなに発達しても、自分の手を動かして文字を書くことを怠ってはいけません。文字力の低下は、文章力の低下に直結します。集中力や忍耐力を養うためにも、自分の手で文字を書き、文章を綴る習慣をつけましょう。教員ができないことを、児童・生徒に求めるわけにはいきません。自分自身の手を動かして文字を書くことをしない人は、教員としては失格です。

文字を書くことは、頭を動かすことである
 私たちは二六時中、さまざまな活動のために手を動かしています。何かの書類や文章を書く場合も手を動かします。けれども、手の動かし方が、ずいぶんと変化しました。少し前の時代までは、筆記具を握りしめて一文字ずつ刻むようにして、書きつけていきました。文字が正しく書けたかどうか、上手に書けたかどうかを確認しながら、作業を進めていました。
 文字を書くためには、今も手を動かしますが、キーボードをたたくことが多くなっています。漢字変換を間違えなければ、正しくて美しい文字が印字されていきます。印字の美しさによって、自分の書いたものが素晴らしい文章であるかのような錯覚を持つことすらあるのです。
  パソコンのおかげで、能率が上がるようになりました。けれども、それによって失っていったものも大きいということに気づいているでしょうか。
 もし、自分の手で文字を書く習慣が希薄であるのなら、今のうちに身に付けておかなくてはなりません。半年間も続ければ、身に付いた習慣になります。筆記具を握りしめて文字を書くということは、頭を最大限に動かすことであるということを肝に銘じてください。

文字を正確に速く書く練習を
 身に付けるべきことの一つは、文字を正確に速く書くということです。
 この連載のテーマは、読解力・表現力です。読解・表現というのは文章に関することには違いないのですが、極端に狭い意味で言うなら、目の前にある文字を正確に認識すること、その文字を正確に再現することも、読解・表現に他なりません。それができないようでは、文章を書くことなどは論外になります。
 常用漢字のすべての文字を正しく書くとともに、使い方を間違えないということは、教員として必須のことです。そして、そのような正しい文字を、できるだけ速く書くことに慣れておきましょう。紙に書く場合でも、板書をする場合でも、能率を上げることが大切です。間違った文字を書いたり、正しくない用字をしたりすれば、教員としての信頼感は急速に失せていってしまいます。あまりにも仕事の速度の遅い教員も同様です。

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2006年10月19日 (木)

教員志望者に必要な読解力・表現力(04)

【第2回】新聞と基本書を読む習慣をつける[その2]

新聞の何をどう読むか
 新聞のすべてのページを読んでほしいと思います。そして、見出しを見て、必要だと思う記事は熟読しなさい。じっくり読むべきものは、大きく分けて2つあると思います。
 一つは、ニュースを知るということです。ニュースは、教育関係のニュース、自分の専門分野に関するニュース、そして、政治・経済・その他のニュースです。例えば、教育制度や教育養成制度の改革、児童・生徒を取り巻くさまざまな問題や課題、学校や教員に関する事件・事故などの、教育関係の記事はしょっちゅう掲載されています。
 もう一つは、教材として活用できる記事を読むということです。教材にふさわしい内容を持った記事、表現が優れている記事などです。心を揺り動かされたり、考えさせられる記事はたくさんあるはずです。
 新聞は読み捨てるにはもったいないので、必要に応じて切り抜いて、後で役立てるようにしましょう。

読書によって、読解力・表現力を育てる
 新聞のことに重点を置いて書いてきましたが、書物についても同様のことが言えます。今の自分が読んでおくべく書物はたくさんあります。書物の山を目の前にして立ち往生する人は教員失格です。自分から進んで取り組まなければなりません。
 何を読めばいいのか、よくわからないという人は、読書のことを論じた本を数冊、読みなさい。そして、次に、自分の目指している校種や専門教科のことについてある本や雑誌を数冊、読みなさい。そうすると、その次に読まなければならない書物や、読もうという意欲をかき立てられる書物が、何冊も見つかります。読書というのは連鎖反応です。一冊を読めば、次に読みたいものが何冊も立ち現れてきます。それらを読めば、さらに次が現れてくるのです。
 一方で、教員になる前に基本的に読んでおくべき本もあります。一例を言うならば、中学校・高等学校の国語の教員を目指している人が、森鴎外や夏目漱石や芥川龍之介の作品をほとんど読んだことがないということは考えられないことです。万葉集をひもといたことがない、源氏物語のあらすじを知らない、日本の文学の歴史の知識がない、現代語や古典の文法について自信がない、などというような状態では、教員になる資格に欠けます。これらのことは、簡便な方法で知識だけを取り入れてはいけません。しっかりとした読書によって、自分の血や肉にしましょう。
 教員採用試験に合格することが眼前の目標には違いありませんが、教員になった後のことを視野に入れた勉強を、今、しておかなければなりません。新聞を読み、基本書を読むことによって、読解力とともに表現力も育っていくのだということを忘れないようにしましょう。そうすることによって、児童・生徒に対する指導力も磨かれていくのです。

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2006年10月18日 (水)

教員志望者に必要な読解力・表現力(03)

【第2回】新聞と基本書を読む習慣をつける[その1]

 結論から先に言います。小学校・中学校・高等学校・障害児学校の校種を問わず、そして、専門の教科が何であるかを問わず、新聞や書物を読む習慣が身についていない人が教員になっては困ります。自分が困るという意味だけではありません。児童・生徒に良い影響を与えないからです。今からでも遅くありません。読む習慣を身につけて、指導力を高める努力をしましょう。

新聞を読むのは、日常生活の一部
 教員採用試験だけではありませんが、面接の時に投げかけられる質問の一つに、「今朝、新聞を読みましたか。あなたが注目したのはどんな記事ですか。」というのがあります。これから始まる質問の導入にあたるものであって、受験者の気分をほぐす働きをそなえています。本格的な質問が始まる前の準備体操のようなものですから、誰でも気軽に答えることができるのです。新聞を読むのは日常生活の一部であるからです。
 ところが、その問いかけが、教員志望者を悩ませる質問になってきているようです。新聞を読まない人にとって、この質問は難題なのです。新聞を読まない社会人などは考えられない、新聞を読まない教員志望者などがいるはずはないという考えが、覆されるような時代になっているのです。

新聞の文章の難易度
 新聞といっても、スポーツ紙や夕刊専門紙のことではありません。新聞の文章が難しいと感じる人がいるかもしれませんが、一般の新聞は、どのような年齢の人に基準を置いて書いているのか、知っていますか。私が教員になったとき、「新聞は中学3年生に読めるように作られている」と聞きました。私は、高等学校の国語の授業に、新聞の文章をどしどし取り入れておりました。
 ところで、つい先日、ある新聞社の総局長にうかがいますと、今も「中学3年生」だそうです。長い間、新聞の文章の難易度は変わっていないのです。変化したのは、中学生・高校生・大学生の読解力です。
 もちろん、すべての文章の内容が中学3年生に理解できるはずはありません。社会が進歩し複雑になっています。政治や経済などのしくみ、科学や技術に関することなどの中には、簡単には理解できないようなこともあるでしょう。けれども、文章の内容はともかく、中学3年生にわかるような文章表現がされているということに間違いはありません。
 1日に1時間以上は新聞を読みましょう。その程度の時間を捻出できない人は、あまりいないはずです。新聞を読むことによって、教育や社会に対する視野は確実に広がります。

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2006年10月17日 (火)

教員志望者に必要な読解力・表現力(02)

【第1回】指導効果を高める力を身につける[その2]

教員採用試験で求めているもの
 もう気づいていることだろうと思いますが、教員採用試験では、このような意味での指導力のある教員を求めています。児童・生徒に対する指導効果を上げることができない者を、教員として採用するわけにはいきません。教員志望者が培っておかなければならないのは、このような意味での指導力です。教員志望者にとっては採用試験の競争率は低い方が喜ばしいでしょうが、採用する側からすれば、競い合う志望者の中から指導力のある者を採用したいと思うのは当然でしょう。
 教育についての見識の高さは必要ですし、専門教科の実力も不可欠です。けれども、それ以上に求められているのは指導力です。指導力というのは、学習指導だけではなく、生徒指導・その他を含めた広範囲にわたるものです。教員採用試験で、1次試験、2次試験などと多様な試験を実施して、教員志望者を多面的に見て、優秀な者を選び出そうとしているのは、このような考え方からです。

この連載の内容
 この連載において、私は教員志望者に対して、かなり厳しいことを述べるつもりです。私は長い間、公立学校に勤めました。退職後の今は、教職課程を持つ大学で、教員を目指す人たちを相手に講義や実習を担当しています。
 教員志願者は、自分を磨いて、優れた知識や技能を体得し、その上に児童・生徒に対する指導力をそなえなければなりません。教員採用試験に合格するには、今、どのようなことに努めて、力を蓄えていくべきかということを、この連載では述べるつもりです。ただし、連載の回数が限られていますから、広範囲な話はできません。タイトルにもあるように、読解力・表現力ということに焦点を当てて話を進めます。
 これからの話は、表面的に理解しても何の役にも立ちません。私が述べることを、具体的にとらえて、不断に実行してほしいと願っております。

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2006年10月16日 (月)

教員志望者に必要な読解力・表現力(01)

【第1回】指導効果を高める力を身につける[その1]

経済協力開発機構の調査
 経済協力開発機構(OECD)は2003年に、国際的な学習到達度調査を実施しました。これは、41の国と地域の15歳を対象にした、知識や技能の実生活への応用力をみるテストでした。
 その結果が昨年12月に公表されて、さまざまな議論を呼んでいます。前回は2000年に実施されましたが、日本は、「読解力」が前回の8位から今回は14位に低下し、「数学的リテラシー(応用力)」は前回1位から今回6位に落ちました。この調査での読解力というのは、文章や図表を理解して利用し、熟考する能力のことです。読解力の低下は、ひとり国語という教科だけのことではなく、すべての教科に関わる大問題なのです。
 この原因については、さまざまなことが考えられますが、とりわけ注目されたのが、「ゆとり教育」と、新学習指導要領の実施ということでありました。文部科学省は、特に落ち込みの目立った「読解力」に対応するために、本年(2005年)夏までに「読解力向上プログラム」を策定することにしています。
 この調査の結果は、日本の教育について大きな警鐘を鳴らしていると考えなければなりません。けれども、教員は、原因を他に転嫁したり、他人が作ってくれる対策を実行したりして、それで責任を果たしたと考えるわけにはいかない立場にいます。
 現状を認識した上で、反省すべきことを反省した上で、目の前にいる児童・生徒たちに力をつけさせることが、教員の務めであるのです。教員志望者も、このことをしっかりと認識しておかなければなりません。

教員の指導力とは
 この連載(6回)を始めるにあたって、まず、教員の指導力とは何かということについて考えておこうと思います。そして、それに基づいて、教員志望者はどのような力を、どのように磨かなければならないかということを、次回から5回に分けて述べることにします。
 教員志望者は、目指している校種や専門教科についての知識や技能が優れていなければならないことは当然です。けれども、知識や技能が豊富であることを、指導力が優れていると勘違いしてはいけません。
 OECD調査の結果に関して言うならば、日本の15歳の読解力がなぜこのように低下したのかという原因を追究することが必要です。原因がわからなくては対策が立てられません。視野を広く持って、徹底的に原因を考える必要があります。けれども、学者や評論家は、原因を解明することが最大の目標になってもよいのかもしれませんが、教員は、原因がわかっただけで止まってはおれません。
 読解力低下の原因を見据えた上で、効果的な対策を立てて、きちんとした指導をすることが、教員には求められているのです。何をどのように指導するかという計画を持って、それに基づいて児童・生徒を指導して、指導効果を上げなければなりません。いくら熱心に指導しても、指導効果が上がらなくては、指導したことになりません。「私の指導は間違っていなかったのであるが、児童・生徒がそれに応えてくれなかった」などという理屈は通用しません。それは指導方法に誤りがあったのでしょう。児童・生徒を指導する力が極端に不足すると「指導力不足教員」ということになってしまいます。

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2006年10月15日 (日)

兵庫県の方言(4)

兵庫県の方言(ラジオ放送原稿)【4】

 最後に、一つ一つの単語のことについて、お話しします。
 共通語でも同じなのですが、一つ一つの言葉は、目まぐるしく変化していきます。今年、流行した言葉が、翌年にはすたれてしまうというようなことがあります。
 消えてほしい言葉もありますが、消えるのが惜しいと思う言葉もたくさんあります。
 言葉が消えていく理由の一つとして、物がなくなれば、それを表す言葉も消えていくということがあります。生活の移りゆきとともに変化する言葉です。
 
 例えば、昔ながらのコタツやアンカを見かけることが、ほとんどなくなってきました。タドンやマメタンを見たこともない人が増えれば、それらの言葉は忘れられていきます。
 アトサシというのをご存じでしょうか。夜、寝るときに、部屋の真ん中に、タドンを入れたコタツを置いて、その両側から布団を敷いて、一つのコタツを、両方から利用するというやり方です。今では、そのようなことをしませんから、アトサシという言葉は消えていっております。
 そのようなコタツの使い方をした時代は、タドンの熱が熱すぎて、ちょっと油断をすると、布団を焦がすようなことがありました。熱で布団が茶色っぽくなることを「ホイロがいく」と言いました。変な臭いが漂い始めると、「何や ヤグサイなぁ。よう見てみいな。」というように言いました。
 生活様式の変化が、言葉を消し去っていくということなのです。

 包丁のことを「ナガタン」と言う地域の方はいらっしゃいますか。「ナガタン」というのは、刃の部分が長い包丁という意味ではありません。「菜っぱ」の「菜」に、「刀」、「な・がたな」という発音が、「ながたん」という発音に変化したのです。この言葉は、昔は全国で広く使っていたのですが、しだいに使わなくなった地域が増えてきて、使う地域が、島のようになって残ったのです。これも方言の一つと考えてよいのですが、使う地域は全国のあちらこちらに、ポツンポツンと残っているのです。兵庫県内でも、使っている地域があります。

 消えていく言葉の、もう一つの傾向としては、新しい言葉に押されて、古くから使っていた言葉が消えて行くということがあります。
 「こおと」という言葉をご存知でしょうか。着物などが地味であるということですが、上品で地味であるという意味を含んでいます。「こおと」という言葉を使わなくなった理由の一つに、外来語を使うようになったことがあると思います。「エレガント」という英語からの外来語や、「シック」というフランス語からの外来語をよく聞くようになりました。「こうと」という言葉が消えるのは、残念なことです。
 そして、これと同じようなことが、もっとたくさんの言葉の上に起こっているのです。

 消え去っていく言葉の中には、表現力の豊かな言葉も含まれています。黙って、消えていくのを眺めているのは、惜しい気持ちがします。少しでも記録しておいていただきたいという願いを、私は強く抱いております。

 今日は、兵庫県の方言について、駆け足でお話をしました。皆様方が、方言を慈しんで、方言を次の世代の方々に伝えていってくださることをお願いして、私の話を終わりたいと思います。お聞きくださいまして、ありがとうございました。

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2006年10月14日 (土)

兵庫県の方言(3)

兵庫県の方言(ラジオ放送原稿)【3】

 次にアクセントのことについて、お話しします。
 アクセントというのは、それぞれの語について決まっている、特定の音節の、特に際だった高まりや強まりのことです。
 アクセントは、日本語の場合は高い・低いのアクセントであり、英語などは強い・弱いのアクセントになっています。
 よく言われるように、近畿と東京を比べると、高いところと低いところとが逆になることが多いのです。ただし、すべてにわたって
高い・低いが逆になるというわけではありません。
 兵庫県内は、たいていは京阪アクセントという、近畿一円に広がっているアクセントですが、但馬は東京アクセントの地域になっています。中国地方の鳥取県や岡山県も東京アクセントです。
 ラジオやテレビの放送で使っているのは、基本的には東京アクセントですが、ニュースを聞いていても、アクセントの違いをあまり意識しなくてすむのは、文全体の流れの中では、一つ一つの言葉のアクセントが強調されないからです。

 続いて、文法のことについて、お話をします。言葉の規則はゆっくりと変化していて、変化に気づかないことが多いのですが、30年・40年という長さで見ると、変化がはっきりしているものがあります。

 動詞や形容詞などに、仮定形というのがあります。例えば、「もしも明日、雨が降ったら……」というような言い方をします。
 その「降ったら」の部分を、昔は、どのように言っていたでしょうか。もちろん、「降ったら」という言い方もしましたが、その他には、どんな言い方があったでしょうか。

 私が住んでいる明石の方言では、私が20代の頃には、「雨が降ら、中止や。」という言い方も耳にしておりました。「本を読ま、わかる。」とか「駅まで走ら、間に合うかもしれん。」と言い方をしておりました。けれども、今はたいてい「降ったら」「読んだら」「走ったら」と言っています。
 形容詞では、「長けら、二つに切ったらええ。」「無けら、店で買わんかいな。」と言いましたが、これも、今では「長かったら」とか、「無かったら」とかいう言い方が普通になっています。
 これは、動詞や形容詞の仮定形の使い方が変化したということなのです。

 助動詞では、「行こと行くまいと、お前の勝手や。」などと言うように「まい」という言葉を使っていました。「しんどいさかい、行きとみない。」という「とみない」という言葉も使っていました。「行きとみない」は、行きたくないという意味ですが、「とみない」という言葉も、今では廃れてきています。

 助詞では、理由を表す「さかい」を使うことが少なくなっているように思います。「雨が降るさかい、傘持っていき。」という「さかい」を、若い人はあまり使わなくなりました。「雨が降るから……」とか「雨が降るので……」と言うことが多くなっています。

 動詞・形容詞・助動詞・助詞などと言いましたように、これらは文法に関する変化です。ゆっくりゆっくり変化しているのです。

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2006年10月13日 (金)

兵庫県の方言(2)

兵庫県の方言(ラジオ放送原稿)【2】

 それでは、次に、兵庫県の方言の特徴について考えようと思います。言葉は、流行語のようなものを除けば、目に見えるような変化はしませんが、長い目で眺めてみると、ゆっくりと、しかし、確実に変化を遂げていることがわかります。

 一口に方言と言いますが、方言には、発音のこと、アクセントのこと、文法のこと、一つ一つの単語のこと、などという要素があります。それぞれの要素について、少しずつ例をあげながら、お話ししようと思います。

 まず、発音のことについてお話しします。
  サ行の濁音は「ざ・じ・ず・せ・ぞ」であり、タ行の濁音は「だ・ぢ・づ・で・ど」ですが、「し」の濁音の「じ」と、「ち」の濁音の「ぢ」とを発音し分けることはできますか。「す」の濁音の「ず」と、「つ」の濁音の「づ」とを発音し分けることはできますか。兵庫県内で生まれ育ってこられた方は、たぶん発音の区別はできないだろうと思います。私も発音の区別はできません。聞き分けることもできません。

 文字の書き方が違うということは、もともとは二つの「じ」は違った発音であった、二つの「ず」も違った発音であったというように考えていいと思います。
 二つの「じ」と、二つの「ず」を合わせて、四つの仮名、すなわち「四つ仮名」と言いますが、高知県のあたりでは、今でも、発音し分けて、聞き分けることができる地域があると言われています。ところが、兵庫県内はもちろん、全国のほとんどの地域では、発音し分けることは難しくなり、聞き分けられなくなっています。

 それだけではなくて、兵庫県内では、「そ」の濁音の「ぞ」と、「と」の濁音の「ど」の区別ができないような地域もあります。雑巾が「どうきん」になります。もっとも、これは兵庫県内だけのことではなくて、大阪でも、「淀川」のことを「よろがわ」と言って、「よろがわの水を飲んで、腹がららくだりや。」と言う人がいます。「ざ・じ・ず・ぜ・ぞ」と「だ・ぢ・づ・で・ど」と「ら・り・る・れ・ろ」の発音が混じってしまうことが、近畿ではあちらこちらで見られます。

 それから、近畿では、一音節の名詞の言葉を長く発音するくせがあって、兵庫県内でも同じ傾向があります。木の葉のことを「木ぃの葉ぁ」と言ったり、犬の尻尾を「犬の尾ぉ」と言ったりします。
 「ええ ええを 買うた。」と言う場合、前の「ええ(良い)」は良いという意味、後ろの「ええ(絵)」は、絵のこと、絵画のことです。素晴らしい絵画を買ったということを、「ええ ええを 買うた。」と言うのですね。

 次に、JR山陽本線に、土山駅がありますが、土山をどのように発音しているでしょうか。もちろん「つちやま」と言うのですが、場合によっては「つっちゃま」と発音することがあります。
 「つっちゃま(土山)のちゃまは、どんな字ぃや。」という質問に対して、「そんなことも知らんのか。つっちゃまのちゃまは、いっしゃま(石山)のしゃまと同じ字ぃやないか。」と言ったという笑い話があります。石山を「いっしゃま」と発音しているのです。滋賀県大津市にJR石山駅があり、その近くに石山寺という名高い寺があります。
 このような発音は、単語の二音節めにイ段の音かウ段の音があって、その後ろにア行やヤ行やワ行の発音が続くときに起こる現象です。土山の場合は、「つちやま」の二番目の音が「ち」というイ段の音で、その次が「や」というヤ行の音です。このようなときに、二音節めに、つまる音、小さく「っ」と書く、促音が加わります。そして、その後ろが「きゃ・きゅ・きょ」のような拗音になるという現象です。
 土山「つっちゃま」の他、西明石は「にっしゃかし」、芦屋は「あっしゃ」と言いますね。京都府の福知山を「ふくっちゃま」と発音します。
 地名だけのことではありません。日曜日が「にっちょうび」になります。「花火を・打ち上げる」というのを「うっちゃげる」と言ったりします。

 それから次に、鼻濁音というのがあります。「蛾が飛んでくる」と言う場合の「蛾」と「が」とは違っています。「がか゜とんでくる」という、鼻濁音の発音の習慣がある地域があります。「科学が発達する。」というのを、「かがくが……」と発音するのか、「かか゜くか゜……」と発音するのかというようなことです。
 兵庫県内には、鼻濁音で発音する地域があちこちに残っています。

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2006年10月12日 (木)

兵庫県の方言(1)

兵庫県の方言(ラジオ放送原稿)【1】

 今日は、兵庫県の方言についてのお話をさせていただきます。

 私たちは日本語を使って、話したり、聞いたり、書いたり、読んだりしています。けれども、私たちが使っている言葉は、普段の話し方と、改まったときの話し方とは、少し違っています。親しい人とうち解けて話すときには主として方言を使いますが、あまりうち解けていない人と話したり、改まった場で話すときには共通語を使います。
 新聞や放送の言葉、学校で使う教科書の言葉、法律や公文書の言葉などは、どの地域の人にも共通してわかる言葉を使っています。

 共通語という言い方の他に、標準語という言い方もします。
 標準語というのは、日本語の手本となるようにと考えて、作りあげた言葉です。共通語というのは、日本全国にわたって広く通用している言葉のことです。

 近畿地方で使っている言葉は近畿方言です。関西方言とも言います。けれども、同じ近畿であっても、神戸と大阪と京都では違っています。それぞれを神戸方言、大阪方言、京都方言と言って区別したりします。ところが、さらに、神戸方言であっても、神戸の東の方と、西の方とでは言葉が違っていることがあります。方言には、このような違い、このような構造があるのです。

 ものの考え方や感じ方、発想のしかた、表現のしかたなどは、地域によって異なることがあります。同じ日本語の中で、地域による言葉の差があるとき、それぞれの地域で使っている言葉を方言と言っているのです。ある地域だけで使う特有の言葉がありますが、それを俚言と言います。俚言というのは、ニンベンに「里」の「俚」という文字と、「言語」の「言」という文字とを並べて「俚言」と書きます。

 ところで、方言では、漢字を並べた難しい熟語や、外国語に由来するカタカナ言葉はあまり使いません。
 自分の慣れ親しんでいる方言とは違う地域の方言を初めて聞いたときには、理解しにくい言葉であるように思うことがありますが、それぞれの方言について理解を深めていくと、方言は易しい言葉を組み合わせて表現しているのだということに気が付きます。

 相手にわかりやすい言葉、易しい言葉を使うというのは、相手に対する思いやり、優しい心遣いであると思います。一人一人が心の中に持っている意思や感情を伝え合うためには、易しい言葉を使う方が都合がよいのです。方言は、わかりやすい言葉であり、相手に対するおもいやりの気持ちがあふれている言葉であると思います。

 方言は、なぜ、わかりやすい言葉なのでしょうか。それは、その土地に住んでいる人たちが、同じ風土や環境の中で、お互いに似たような生活をしてきたから、お互いの気持ちや考え方に共通したところがあって、わかり合っているということも、理由の一つでしょう。方言の言葉は、文字で書かなくても通じ合える言葉なのです。
 同じ文化の上で生活してきた人々同士ですから、ちょっとした言葉、わかりやすい言葉で、お互いを理解し合っています。このようなことが、方言の魅力であると、私は考えています。

 けれども、わかりやすい言葉でありながら、方言は、深い意味や、微妙な意味内容をきちんと表現し分けることもできる言葉であると思います。それが、方言の底力です。方言を汚い言葉遣いであると考えたり、値打ちの低い言葉であると考えたりはしないようにしたいと思います。

 言葉は人から人へ伝えていくものですが、言葉を伝えるということは、文化を伝えるということでもあると思います。その土地に住んでいる人々が共有している文化が方言であると思います。いろいろな習慣や、ものの考え方や感じ方などが、方言を通じて伝えられているのであると思います。

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2006年10月11日 (水)

学力づくりのための基本的な視点(7)

7 ホームルーム担任が話しかける姿勢

 つまるところ、ホームルーム担任は、学力づくりの支援者である。その支援の仕方が生徒の学力に影響を与えていく。
 生徒にとって、学校が退屈な場所であったり、居心地の悪い場所であってはならない。学校に対する安心感や信頼感を与えるのもホームルーム担任の役割であるということを忘れないようにしよう。
 ホームルーム担任は、いろいろな機会をとらえて、さまざまのことを生徒たちに話しかけていくが、そのときには、平易な言葉を用いて、わかりやすく生徒の心に届くように努力したいものである。担任は、誰かからの受け売りの考えを述べるのではなく、自分が心の底から考えていることを自信を持って語るようにする。そうしなければ、理屈が先行して、生徒の心に響かないものになってしまうからである。わかりやすい言葉で、深い内容が語れないはずはない。難しい語り方で生徒を煙に巻くようなことは避けたいと思う。
 ホームルーム担任も教科・科目の担当者であるから、自分が専門とする教科・科目を通じて、生きるための知識や技能を教えている。そして、それを一歩進めて、教科・科目を総合した視点から教えることも大切である。広い視野で、生きることや、生きる姿勢を教え、そして、さらに専門的になる部分は、それぞれの教科・科目に委ねればよいのである。生徒にとってホームルーム担任は、自分の先輩であり一つの手本である。どの教科・科目を担当しているかということは関係がない。生徒よりも優れているのは自分の担当している教科・科目に関することだけだというようなホームルーム担任は、生徒にとっては、人生のよりどころや目標にはなりえない。
 言葉は人間関係を近づけたり遠ざけたりするものであるということを忘れないようにして、情熱を持って生徒に接していきたいものである。

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2006年10月10日 (火)

学力づくりのための基本的な視点(6)

6 個人個人の違いの中での指導

  生徒ひとりひとりは、環境や成育歴、興味や関心、適性や能力が異なっている。ホームルーム担任は、教科担当者よりも詳しく生徒個人のことを知っているはずである。ホームルームでの指導は、生徒を一括したような指導方法でよかろうはずはない。生徒ひとりひとりをつぶさに知ろうとする努力を重ねていけば、生徒個人を見る目の温かさや、指導のきめの細かさは、自然と生まれてくる。
 生徒はみんな、同じような心や力を持ったものではないが、学校教育とりわけ教科・科目の指導の場では、個人指導に重点を置きにくいという制約がある。教育の効率を考えれば、そうせざるをえないという論理が通用してしまう。
 しかし、自然界のすべてのものは、同じ力を持っているのではない。種の間における力の差もあるし、同じ種の中にも力の差がある。人間も同じである。みんな頑張ったら、みんなの成績が同じように伸びるはずだというのは幻想であるかもしれない。
 そんな状況にあっても、人はそれぞれ生きる価値を実感し、生きる意欲を持っている。それぞれ異なったものを持っている生徒を支援するのがホームルーム担任の役割である。生徒の学習上の悩みに対処し、学習能力を高めてやることに努めなければならない。
 ホームルーム担任の姿勢は、生徒に敏感に反応する。受験のためには苦しくても勉強せよ、受験でよい成績をあげることが自分の人生を切り開くことになる、というような激励の仕方ばかりでは、生徒は、本当の意味での学習の目的を認識しないままになってしまう。
 社会が進歩していく中で、新しい知恵も必要になってくる。既に身につけている知識や技能とともに、新しい状況の中で問題を解決していく力が必要になる。教科・科目の枠組みの中だけでの成績に執着するような指導に終始していてよかろうはずはない。ホームルーム担任には、現在と未来を見つめる視野が必要であり、それを生徒に伝えていかなければならない。

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2006年10月 9日 (月)

学力づくりのための基本的な視点(5)

5 学力をつけるためにホームルーム担任がすべきこと

 このように考えると、ホームルーム担任としての役割がはっきりしてくる。ホームルーム担任もそれぞれの教科・科目を担当しているが、それだけにとどまらず、生きること全体を指導するのがホームルーム担任である。生きることの意味や、生きるための知恵を生徒に浸透させていく、いわば、学習のためのカウンセラーの役割を果たすのがホームルーム担任である。
 学校での学習が、人生にとって必要なものにいろどられているということを生徒が実感すれば、それは学習意欲の高揚にもつながっていく。ホームルーム担任としては、生徒自身にとって必要なことを学んでいるのだということを感じ取ることができるように指導したいものである。もちろん、それぞれの教科・科目の授業が、そのように、生きることと結びついたものになっていなければならないことは言うまでもない。
 ホームルーム担任は、試験の成績が隣のクラスと比べると勝っているのか劣っているのかというようなことに気を使うものである。それも無意味なことではないが、それよりももっと大切なことを忘れてはならない。
 学習に身が入るためには、学習する理由や意義や目的をしっかりと持って、自分のこれからの生活のために学んでいるのだという意識が必須である。他人のために勉強しているわけではないのであるから、他人(や、他のクラス)に勝った・負けたということことには、必要以上にこだわらなくてもよいのである。

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2006年10月 8日 (日)

学力づくりのための基本的な視点(4)

4 考えることと表現することの大切さ

 基礎学力という言葉がある。どの範囲のものを基礎学力と言うのか、私には明確に答えられない。けれども、堅苦しく考える必要はないと思う。
 それぞれの教科には基礎・基本となる内容があるはずであるが、それらを理解し、身につけることは、学習の入口に過ぎない。基礎学力という言葉に惑わされて、学校で教えている知識や技能が底の浅いものになってはいけない。
 知識や技能として得たことの上に立って、自分の考えをしっかりと作り上げることが、生徒にとっては大事である。そして、そのようにして体得したものを他人に伝える力(表現力)をそなえることこそ、各教科に共通する基礎学力だと考える。
 「理解」と「表現」という言葉が対になって使われることが多い。それは国語や英語のような言葉の学習だけに関わることではない。つきつめて言えば、理解とは、自分が他人(や、自分をとりまく自然など)を知ることであり、表現とは、自分を他人に知らせることである。どの教科・科目においても、学んだことをもとにして考えて、それを表現できるようにすることこそが学力づくりの根幹である。
 自分の頭でじゅうぶんに考えて、自分の考えを自分の言葉でしっかりと表現することが学習のカナメである。自然をよく知り、自然の中で生きていく技能を得るとともに、他人を理解して協調関係を保ちつつ、自分という人間を表現する力も持たなければならない。

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2006年10月 7日 (土)

学力づくりのための基本的な視点(3)

3 教科・科目は生きることの入り口

 そのような必要から、人々はいろいろなものを生み出してきた。自然科学、社会科学、人文科学、そして芸術やスポーツ、その他さまざまなもの。どれも、生きていくためには、なくてはならないものばかりである。中学生や高校生は、そのようなものの入口に立っているのである。そのような多様なものを身につけていくことが学習にほかならない。
 生きていくために身につけておくのがよいと思われる知恵は、無限に広がっている。それらをいくつかに区切ったものが教科であり、それをさらに細かく分けたものが科目である。自然科学、人文科学、社会科学などとして広がっている世界を、中学生や高校生にふさわしい切り分け方をして、わかりやすく身につけさせるために教科・科目がある。受験のための教科・科目ということを考える前に、このことをしっかりと認識させておきたい。
 語学も歴史も、政治も経済も、物理も化学も、医学も薬学も、その他のあらゆるものも、生きることと無関係のものは何一つない。けれども、一人の人間がそれらのすべてに通暁することは無理であるから、分業が必要になり、専門家が生まれるのである。
 生きるための知恵を身につけている度合いの高い者こそ試験の成績がよくて、さまざまな難関を突破していく力をそなえているという考え方もできる。けれども、やみくもに試験の得点を上げる訓練をするよりも、生き抜いていくための力としての教科・科目の学力を蓄えていく方策を教えるほうが、学習内容が生徒の身につくはずである。
 現実を考えると、いくら知識や技能があっても、自分の目の前で起こっている事柄に対処していく力がなくては、本当の意味での学力がそなわっているとは言えないということを実感する。
 授業を受けたことへの満足感とは、生きていくための知恵を体得し、現実問題に対処する力が生まれたという実感を持つことに他ならないと思うのである。

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2006年10月 6日 (金)

学力づくりのための基本的な視点(2)

2 学習する必要性のこと

 「なぜ学習をしなければならないのか」という疑問は、中学生は中学生なりに、高校生は高校生なりに持っているはずである。その疑問を、あいまいな答えのままで放置していては、学習しようという、心の奥底からの意欲にはつながらない。ホームルーム担任としては、そのような指導をないがしろにはできない。
 たまたま成績がいいから学習するのが好きであるという生徒はいるだろうが、学習は試験の成績を上げるためだけのものではない。上級学校の受験によい成績をおさめることだけが学習の成果でもない。何を目指して学習するのかということを、ホームルーム担任は生徒に自覚させる必要がある。
 私は次のように考えている。生きていくためには、ものごとをきちんと理解し、適切に処理する能力、すなわち知恵を身につける必要がある。力強く自分の人生を切り開いていくためには知恵を身につけておかなければならない。
 人間は自然に比べると小さくて弱い存在である。大自然の片隅に住まわせてもらっている人間としては、自然に対する知識や、自然に対処していく技能が必要である。また、無数の人々が社会を形づくっているが、一人一人が思い思いに生きたのでは、秩序が乱れたり衝突が起こったりする。ここにも、生きていく技能や、お互いの約束事が必要になってくる。さらに、人間そのものを知り、生きる価値について考え、物心両面から豊かに生きていく方法も考えなくてはならないのである。

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2006年10月 5日 (木)

学力づくりのための基本的な視点(1)

1 問題を解決する力としての学力

 私に与えられたテーマは「学力づくり」である。雑誌「月刊ホームルーム」の性格から判断すると、その学力づくりのためにホームルーム担任はどのような指導をすべきであるかということを論じるように求められているのであろう。
 学力とは、学習によって得られた能力であるという考え方が広く行われている。とりわけ、教科・科目の学習によって獲得した能力だとする考えが強いのであるが、教科・科目という枠組みにとらわれることはないと、私は考えている。学力というものの捉え方は、時の流れの中で変遷をしてきたが、新しい学力観は、学ぼうとする意欲を持ち、必要な知識をそなえて、その上に築きあげた思考力、判断力、表現力などを総合した力と考える傾向が強い。問題を解決する力を重んじているのである。
 身の回りに問題などはないに越したことはない。けれども、生きている限り、問題や課題は次から次へと生じてくる。そのことが、学習を続けて、学力を向上させなければならないということと深く関わっているのである。

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2006年10月 4日 (水)

相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力(3)

 相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力【3】

5 言語環境を助けるものと妨げるもの
  学校を取り巻く環境からも、児童・生徒はさまざまな影響を受けている。
 地域社会では、さまざまな経験を持った、異なった年齢の人たちに接することができる。兵庫県高等学校教育研究会国語部会は、今春、『兵庫県ことば読本』という中学生・高校生向けの冊子を完成させた。この本では、愛着や親しみを感じている地域の言葉を見直すとともに、それらを調べて記録しようという提案をした。言葉は文化であり、生活の裏打ちがある。教えていただくという姿勢を持って地域の方々と交流すれば、効果は大きいはずである。児童・生徒は、言葉を通じて他人から教わり、成長を遂げていくのである。
 ところが、じかに顔をあわせている人間関係をとび超えて、放送の言葉が児童・生徒に迫ってくる。放送の言葉は、かつては見習うべき規範としての役割を果たしていた。現今の放送は、声高に、早口で、独特のイントネーションを使い、センセーショナルに語りかける。言葉遣いの工夫が見られず、表現効果だけを優先して畳みかけてくる言い方は、日本語を破壊する働きをしている。すべての番組がそうではないとはいえ、放送の言葉が言語環境を壊す役割を演じているのは悲しい。放送の世界の自浄能力が必要である。

6 教職員が作り出す言語環境
 自然環境は、人間の力の及ばない面もあるが、人間の力でよりよき方向へと変えていけるところもある。言語環境は、自然環境とは異なって、一から十まですべて、人間が作り出すものである。大人(学校・家庭・地域)が見本を示すと、児童・生徒がまねて学習していく。 学校における言語環境は、すべての教職員が作り出しているのである。
  言葉を通じて、相手を重んじて思いやる姿勢を育てるとともに、自分を表現する力を身につけさせるために、教職員は児童・生徒に対して望ましい環境を設ける努力を続けなければならない。

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2006年10月 3日 (火)

相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力(2)

 相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力【2】

3 人の言葉を「聞くこと」に努める
 限られた紙幅であるから、いろいろな観点から述べる余裕はない。思っていることを単刀直入に述べる。
 聞く人や読む人がいるから、話すことや書くことが成り立つ。ところが、自分を表現することの積極的な働きが強調されるあまりに、他の人の表現したものを受け入れることの指導が軽視されがちである。書き言葉を重んじて、話し言葉を軽んじることも多い。
 聞くことの指導をもっと推進して、聞くという姿勢を持った環境を整えなければならない、と私は考えている。聞くことを重んじる指導は、自己を表現する力を培うこととは矛盾しない。自分の主張や感情だけを前面に押し出す姿勢を反省して、相手の論理や感じ取り方に耳を傾ける姿勢を育てる指導を重視したいと考える。
 盛んに行われているディベートは、自分を表現するという目的には効果がある。自分の本当の考えはどうであっても、一定の立場に身を置いて意見を主張しあい、相手にうち勝つというのは、知的なゲームとしては面白い。けれども、自分の胸の中にある考えとは反対の意見を主張しなければならないときには、心の苦しみが伴う。どんなに軽いテーマに関してでも、自分の本心に背いた考えを述べなければならない立場に自分自身を置くことを、私は望まない。
 自己主張を中心に据えた指導が行き過ぎると、意見の違いを互いに尊重する姿勢や、一段高い立場から互いに合意し、協力する姿勢を育むときの障害になりはしないかということを懸念する。
 聞くことの目的は、聞いて反論するということばかりではない。聞いて納得する、聞いたことにより自分自身を高めるということも大切なはずである。
 教職員自身が謙虚に聞こうとする姿勢を持たなければ、児童・生徒にそのような態度や能力を求めることはできるはずがない。児童・生徒を取り巻く言語環境の一つは、教職員の姿勢そのものである。
 相手の意思や感情に耳を傾けて相手を思いやろうとする姿勢を持つことと、自分を表現する力を育てることとは対立する事柄ではない。それを合わせ持つことが大切であり、それを育てるのが学校という言語環境の場である。

4 大切なのは「急がないこと」
 次に、具体的なこととして、発問と板書に関して述べる。
 発問は授業展開の核になるが、求めていた答えに近いものが児童・生徒の口から出たときに、すぐに言葉のやりとりを終えてしまうのはよくない。発言の途中でさえぎると、不完全な表現になる。キーワードにあたる部分だけで正誤を判断する姿勢は改めよう。そのようなことが続けば、児童・生徒は単語などを一言、二言述べればすむという気持ちになりかねない。言おうとしていることが終わるのを待って、「急がないこと」が大切である。待つことのできない授業は、言語環境を壊す役割を果たしている。
 板書も授業にとって重要な役割を果たしているが、単語や語句の羅列になるのはよくない。言葉は、文や文章としてまとまったものが価値を持つ。黒板のスペースには限りがあり、キーワードを書き記すことは大切なことである。けれども、そのことが板書は単語の羅列でもかまわないという理由付けにはならない。キーになる単語と単語とを結びつけて、きちんとした形で表現する力を養うのが言葉の指導である。そこへ児童・生徒を招き入れる手だても、学校の言語環境なのである。
 教員は、発問や板書において、言葉の生活の見本を示す立場にある。相手が言い終わるのを急がずに待つことと、時間がかかってもまとまりのある表現を心がけること。この二つの姿勢が教員には必要である。表現とは断片的な言葉の寄せ集めではないのである。
 関連して、間の取り方と沈黙について言っておきたい。表現の間や沈黙は消極的なものではなく、表現の効果を生む働きをする。けれども、人々は饒舌になって、間や沈黙を忘れたかのようである。間や沈黙の意味・価値を、表現する(話す・書く)立場からも、理解する(聞く・読む)立場からも、改めて認識を深めたいと思う。

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2006年10月 2日 (月)

相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力(1)

 相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力【1】

1 易しい言葉で表現するということ
 与えられたテーマは「学校における言語環境」である。そのことについて、できるだけ易しい言葉を使って書こうと思う。
 言葉は人と人とをつなぐものである。相手に通じにくい言葉を使うことは、相手に失礼である。また、相手に正しく伝わらないかもしれないという不安も生じる。表現するときには、きちんと相手に伝えようとする心遣いが大切である。教職員みんなが、相手のことを考えて、正確で易しい言葉を使うことこそが、学校全体の言語環境を正す基本であると思う。
 易しい言葉は価値の低い言葉ではない。易しい言葉で高度な内容が語れないことはない。易しい言葉は、相手に対する優しい言葉でもある。

2 言語環境としての学校
 私たちの周りには言葉があふれている。言葉は、考えたことや感じたことなどを、相手に伝えるためのものであるから、人がいる限り、言葉がとめどなく行き交うのは当然である。
 けれども、自分の考えたことや感じたことを周りの人たちにきちんと伝え、周りの人たちの意思や感情を正しく理解しているだろうか。言語環境というのは、言葉の伝わり方を高めるための手だてでもあるはずである。
 言葉は、他の動物が十分にはそなえていない、人間独特の文化である。とはいえ、一人一人にとっては、言葉の力は生まれつき、そなわっているものではない。学習によって身につけていくのであり、学習によって能力を高めていくのである。
 人は一人だけで過ごしたり、少人数で過ごしたりもするし、大勢とともに過ごすこともある。言葉を育てるには、家庭でのしつけも大切であり、異なった年齢の者と過ごす地域社会での学習も不可欠である。けれども、とりわけ学校で過ごす時間は長い。児童・生徒の言葉の力を培うためには、集団生活の場である学校は大切な環境であり、そこでの効果は大きいのである。
 言語環境というと、掲示物などでの言葉遣いや、日常会話のマナーなどが思い浮かぶかもしれない。それらは整えるべきものの一つである。そして、教職員が気をつけなければならないことは、もっと他にもある。

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2006年10月 1日 (日)

国語教育を素朴に語る(34)

方言ゆうたら、温うて、ええもんや

 ここにおる人は、近畿はもちろんやけど、九州・四国・中国・中部・関東やその他の地域から、この神戸に集ってきとる。はじめて神戸へ来て、言葉で違和感を覚えた人もおるかもしれへんけど、もう今では、関西弁、神戸言葉になじんで、どっぷり浸かってしもたんとちゃうやろか。
 期末の試験が終わって夏期休暇になったら、故郷に帰って、生まれた頃から使い慣れてきた言葉に再会することになる人も多いやろ。父の言葉、母の言葉、きょうだいの言葉、祖父の言葉、祖母の言葉、あるいは曾祖父母の言葉、叔父叔母の言葉。そいから、久しぶりに顔を合わせる友だちの言葉。ついでに、小学校や中学校や高校時代の先生の、口癖になっとった言葉も浮かんでくるんとちゃうか。
 自宅から通学している人も、久しぶりに昔の友だちに会うて、何年も前に使うた言葉を思い出したりすることもあることやろ。東京などへ出ていった友だちが、えらい都会的な言葉を使うとるのに、びっくりすることもあるやろなぁ。そいでも、故郷へ帰ってきたら、借り物の言葉なんか忘れてもて、あっという間に、あのときの言葉にタイムスリップや……。
 日本語のブームとか言われとる。ブームというものは一過性のものかもしれへんから、あんまり好きやないねんけど、方言も注目されとるのは嬉しいことや。
 方言と言うたら、ひとつひとつの言葉(俚言)が消えていきよるんちゃうかと思われとる。寂しいけど、実際、そうなんや。
 そうには違いないねんけど、そない心配せんでもべっちょない(別状ない)という事実を突きつけられたような本を読んだ。人間の気持ちや行動の奥底を支えているような温かい言葉が、どこまでも根強く生きとるねん。しかも、それを若者(大学生)から教えられたんや。
 その本の名前は、『現代若者方言詩集』(浜本純逸・編、大修館書店・発行)やねん。
 みんなは国語の教員を目指しとるんやさかい、人一倍、言葉に関心を持っとることやろ。この本を読んでほしいと思うとる。ほんまに胸の中が温もってくるような本なんや。
 そやけど、人が書いた本を誉めとっても、しょうがあらへん。なんや、これぐらいのことやったら、なんぼでも書けるやんと思う人も多いはずや。この本に書いた人を貶したらあかんけど、ほんまに誰でも書けそうなんや。
 方言のことを書きはじめたら、次から次へ、ぎょうさん思い浮かんでくるやろ。詩という形には、あんまりこだわらなくてもええと思う。そいで、夏期休暇が終わったら、故郷の言葉をお土産に、神戸に戻っといで。
 集まったら、それを印刷物に作ってみたいなぁ。夏のお土産だけやのうて、国語の教員を目指して勉強したことのお土産になったら楽しいやろと思う。
     ◆   ◆   ◆
 私が方言の語法に興味を持って、大学の卒業論文のテーマにしたのは四十年以上も昔のことでした。方言のことから離れられずに、今は、俚言の一つ一つの意味や用例を記述する作業を続けています。
 本務校では教職課程のいろんな科目を担当していて、国語科教育法とはやや縁遠い位置にいます。非常勤として出講している大学では国語科教育法Ⅰ~Ⅳを担当して、国語科教員を目指す学生たちと二年間にわたって、毎週、顔を合わせています。
 その学生たちに向かって、方言丸出しの文章を書いた紙片を一枚作って、方言詩を作ることを勧めたのは、この号の原稿を書いた直前のことでした。そして、掲載号が出来上がる頃には夏期休暇が終わって、学生たちが作品を持ち寄ってくれるはずです。
 方言研究では、どちらかというと、年配の人たちから言葉についての情報を得ようとする傾向があります。だから、前記の本を読んで、若者たちの心の中に、それぞれの土地の言葉が根付いていて、それに愛着を感じているということを知ったのは、驚きであり喜びでもありました。
 この話の続きは、何回か後に再び書いてみたいと思っています。

【雑誌「月刊国語教育」での連載は続いていますが、プログの掲載は一段落とします。】

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