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2006年12月31日 (日)

【2006年(平成18年)が暮れていきます】 ≪夕陽の写真≫

 2006年(平成18年)の歳末の一日は、風がおだやかで暖かでした。

 初めて画像を載せます。2006年12月31日の日没のようすです。16時55分前後の、ほんのしばらくの時間帯に撮りました。場所は、兵庫県明石市大久保町西島の、赤根川の河口の海岸です。ここは、万葉集では名寸隅の舟瀬として詠まれているところです。向こう側の右手に見える島影は小豆島(香川県)です。この島影のさらに右には家島群島(兵庫県姫路市)があるのですが、この写真には入れていません。

 朝日は、本土と淡路を結ぶ明石海峡大橋のやや左手から昇ります。この写真とは逆の方向です。よく晴れた日には大阪の東の山影(万葉集で言う「大和島」)が望めることがあります。ただし、明日の、初日の出は快晴ではないかもしれません。

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 プログをご覧くださった方々にお礼を申し上げます。

 どうぞ良いお年をお迎えください。

 ≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫

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神戸圏の文学散歩(05)

近松門左衛門のまち尼崎

☆人形浄瑠璃・歌舞伎脚本で活躍した近松
 「曽根崎心中」「冥途の飛脚」「国性爺合戦」などで知られ、元禄時代を代表する文学者のひとりである近松門左衛門は、歌舞伎や人形浄瑠璃という演劇の脚本家である。
 十七世紀の初めに成立したジャンルは、当時の社会に受け入れられ、高い人気を得て、元禄期には頂点にさしかかっていたが、そこに現れたのが近松である。
 彼は、本名を杉森信盛(すぎもりのぶもり)と言い、一六五三(承応二)年に越前・福井で生まれた。二年後に吉江(鯖江市)に移り、十年あまりをそこで過ごした。一六六七年頃に、父・信義が吉江藩を去って浪人することに伴って、家族とともに京都に移住している。
 京都に移った後、「曾根崎心中」などを発表し、一七〇六年には、長らく住んだ京都から大坂に移り、船問屋の尼崎屋吉右衛門の屋敷にたびたび滞在していた。
 吉右衛門の次男で出家した日昌上人が、荒れていた広済寺(こうさいじ)を再建したが、近松はそれに協力した。一七一四年に寺は再建されたが、近松は晩年、広済寺に滞在して「心中天網島」「女殺油地獄」などを執筆したと言われている。

☆尼崎と「近松ナウ事業」
 兵庫県尼崎市は、人口およそ四十六万人で、大阪に隣接する工業都市として知られているが、尼崎が重工業都市として発展したのは十九世紀後半からである。その過程で公害問題も起こり、古い文化の町としてのイメージが薄らいできた。
 尼崎のあたりには弥生時代から人が住み続けてきたが、それは田能(たのう)遺跡などからも跡づけられている。また、時代の移り変わりの中で、港町、城下町などの性格を持って発展してきたのが尼崎であった。
 尼崎市は、活力ある町づくりには文化振興が大切であると考えて、一九八六(昭和六一)年の市制七十周年を契機に、「近松ナウ事業」を展開している。これは、近松を文化振興のシンボルと位置づけて、市民の文化への関心を高めようとするものである。現在、尼崎市役所には「ちかまつ・文化振興課」が置かれている。

☆近松の里
 近松は、晩年に広済寺に滞在して執筆活動を行った。近松が亡くなったのは一七二四年(享保九年)であるが、広済寺本堂の右奥には近松の墓所(国指定史跡)があり、命日の十一月二十二日前後に墓前祭が営まれている。
 尼崎市は、広済寺、近松の墓、近松記念館、近松公園を中心とした一帯を、「近松の里」と名づけて整備をしている。
 広済寺の東隣には三階建ての近松記念館がある。一九七五年(昭和五〇年)に開館したもので、近松が使った文机、硯石、版木などが収蔵されている。
 記念館の北側に広がるのは近松公園であり、ここは日本庭園として整備され、青銅製の近松座像もある。
 市民は「近松つぁん」と親しみをこめて呼んでいるが、「近松の里」の他にも、近松ゆかりのものが尼崎市内には配置されている。
 小園公民館前には辞世文の歌碑がある。JR尼崎駅の北出口の高架部分には、「冥途の飛脚」の主人公・梅川の像がある。阪急塚口駅の南出口には、「曽根崎心中」の一節を刻んだ「近松断章」の石柱が設けられている。これ以外の場所にもモニュメントなどが設けられている。

☆近松祭などの行事と、近松の研究
 毎年秋の風物詩となっているのが近松祭である。これは、近松の命日である十一月二十二日前後の日曜日に行われることになっているが、二〇〇五年度は十月三十日に開かれた。
 近松の偉業を偲んで広済寺で法要が営まれ、その後、人間国宝・吉田文雀さんのあやつる文楽人形による墓前祭が行われた。この日の午後には、近松記念館で文楽や人形浄瑠璃などが披露され、多くの観客を集めた。
 地元では、近松に関する研究も盛んで、園田学園女子大学は、一九八九(平成元)年に、近松をはじめ近世演劇芸能、近世文学などの研究を目的として近松研究所を設置し、蔵書や研究成果を、生徒・学生・一般に公開している。
 また、尼崎市教育委員会は、『小学生のためのちかまつ読本』を六年生向けに編集した三十二ページの冊子を作成している。
 また、市内には近松応援団という団体があって、「さえずり」という広報紙を精力的に発行し、既に六十号を超えている。

☆古いものの残る尼崎
 近松関係の旧跡は市の北部を中心に広がっているが、市の南部にある寺町は歴史を感じさせる一画である。
  江戸時代に尼崎藩主の戸田氏鉄(とだうじかね)が城下町を整備したときに、市内の寺院を城の西側に集めたのが寺町で、およそ四ヘクタールに十一の寺が並んでいる。ここの寺々には国指定の重要文化財をはじめ、多くの文化財がある。
 また、大物浦(だいもつがうら)として中世の文学に登場するところも市の南部である。しかし、現在の尼崎は、沖合まで埋め立てられて工場が連なっている。
 尼崎市の東隣は大阪市域であるが、川の中州のようになっているところが佃であり、ここの出身の人たちが東京の佃島を開いたことはよく知られている。

≪この文章は、写真30枚ほどとともに、グラビアとして掲載したものの解説部分です。≫

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2006年12月30日 (土)

神戸圏の文学散歩(04)

青松と町並み残る高砂

☆おめでたい謡曲「高砂」
 結婚式などのおめでたい場で謡われる「高砂」は、室町時代の世阿弥の作の謡曲である。
 肥後国・阿蘇の宮の神主が都に上る途中、播磨の国・高砂の浦で、松の落ち葉をかき集めている老人夫婦に出会う。相生の松のいわれを尋ねると、老人は、相生の松によって夫婦の和合と長寿とを祝い、松のめでたさは和歌の道の繁栄をあらわし、和歌の繁栄は世の中の平和を意味すると語る。
 老人夫婦は、実は松の精であり、摂津の国・住吉で待とうと言って姿を消す。そこで、神主の一行が舟に乗って住吉に向かうときの謡が、有名な一節である。
 高砂(たかさご)や、この浦舟(うらふね)に帆をあげて、この浦舟に帆をあげて、月もろともに出(い)で潮の、波の淡路(あはぢ)の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり。

☆高砂神社の相生の松
 高砂神社の相生の松は、根が一つで雌雄の幹が左右に分かれた松である。三代目の松は、明治中期の相生垣秋津の絵筆によって描き残されている。四代目は昭和十二年に枯れて、現存するのは五代目の松である。
 謡曲に登場する老人夫婦、すなわち尉(じょう)と姥(うば)のことを、地元では「じょうとんば」と発音する。
 兵庫県高砂市は、謡曲「高砂」の由来によって、今はブライダル都市を名乗っている。

☆万葉集の「可古の島」と「日笠の浦」
 遡って、万葉の時代には、柿本人麻呂の歌が残っている。
253 稲日野(いなびの)も行き過ぎかてに思へれば心恋(こほ)しき可古(かこ)の島見ゆ
 明石川から加古川のあたりまでの陸地部分が印南野(稲日野)であって、その前に広がる海は播磨灘である。「可古の島」は、加古川の河口にあったと思われる島である。加古川が海に注ぎ込むあたりは、現在では、右岸が高砂市、左岸が加古川市の市域になっている。両岸の一帯は工場地域になっているが、高砂市側には向島公園と高砂海浜公園が整備されて、白砂青松の面影を伝えている。
  万葉集には作者不詳として伝えられている歌もある。
1178 印南野(いなみの)は行き過ぎぬらし天(あま)づたふ日笠(ひかさ)の浦に波立てり見ゆ
 日笠の浦は、高砂市の西端のあたりの海岸で、今は日笠山という小山に名を残している。日笠山は、兵庫県の県花になっているノジギクの自生地としても知られている。

☆古い寺社の残る町
 このあたりには高砂神社の他にも有名な社寺がある。白砂の渚はほとんど姿を消したが、青松は残っている。
 荒井神社は、舒明天皇の時代(七世紀前半)に創建された古社で、一つの根元から男松と女松に別れている「結びの松」がある。秋祭りの「にわか檀尻(だんじり)」で知られている。
 曽根天満宮には、延喜の頃(十世紀初め)に太宰府に流される途中、日笠山に登って休んだ菅原道真が植えたと伝えられる「曽根の松」がある。
 十輪寺は、弘仁年間(九世紀初め)に弘法太子が創建し、後に法然上人が復興したという古刹で、絹本着色五仏尊像(国の重要文化財)などの仏画が残っている。

☆現代文学とのゆかり
 児童文学作家の森はな(1909~1989)は、但馬の朝来郡和田山町の生まれで、養父(やぶ)郡の小学校に勤めた後、高砂市の荒井(あらい)小学校と伊保(いほ)小学校に勤めた。代表作『じろはったん』を刊行したのは六十四歳の時である。
 椎名琳三は、しばらく山陽電鉄の車掌を務めていた時期があり、電車が加古川鉄橋を渡る風景を日々、目にしていたはずである。
 宮本百合子の『播州平野』には、荷車に乗って国道を、姫路から加古川を経て明石に向かうようすが描かれているが、辿った道の一部は高砂市北部の、現在の国道2号である。

☆河口西岸の計画都市
 今は工業都市として発展を遂げている高砂市であるが、江戸時代の初期には姫路藩が計画的な町づくりをしている。堀川のあたりには、碁盤の目のような細い道が残り、鍛冶屋町、藍屋町、船頭町、大工町、材木町などの古い町名が残っている。
 加古川河口の高砂は、加古川を利用した物資輸送の中継地として、町を囲むように水路が設けられていた。
 司馬遼太郎の『菜の花の沖』は高田屋嘉兵衛が主人公であるが、嘉兵衛が敬愛し、影響を受けた人物として工楽(くらく)松右衛門のことを書いている。工楽邸は、加古川を行き来した高瀬舟の船板を、板壁として再利用した町家で、堀川の一角に残っている。
 憲法学者の美濃部達吉は高砂市の生まれで、子の美濃部亮吉は東京都知事を務めた。寄贈を受けた貴重な資料は、美濃部親子文庫として、堀川の町並みの一角にある高砂公民館で公開されている。

≪この文章は、写真30枚ほどとともに、グラビアとして掲載したものの解説部分です。≫

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2006年12月29日 (金)

神戸圏の文学散歩(03)

四季を彩る有馬の湯煙

☆神戸・阪神間の奥座敷
 六甲山系の北側に位置する有馬温泉は、神戸や阪神間の奥座敷と呼ばれて、しっとりとした湯煙が立ちこめる町である。もともとは有馬郡であったが、今は神戸市北区に属している。
 有馬温泉は、金泉・銀泉で知られる。金泉は、濃い塩分と鉄分が空気に触れて酸化して赤く見えるものであり、銀泉は、透明なラジウム泉や炭酸泉のことである。一つの土地で何種類もの温泉が湧き出しているのである。明治初年に廃寺になった跡を整備した瑞宝寺公園は、錦繍谷とも呼ばれて、紅葉の名所である。
 この温泉は、古くから有名で、例えば、清少納言は「枕草子」能因本一一七段で、「湯は、ななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯。」と記し、松尾芭蕉は「奥の細道」の山中温泉の記述で「其の効、有明に次ぐといふ。」と述べている。有明は、有馬の誤記と言われている。

☆日本書記にあらわれる最古の湯
 有馬温泉は、わが国最古の湯として知られ、「日本書記」には天皇が有馬温泉を訪れたことを記している。舒明天皇については、舒明三年(六三一年)に「秋九月、…〔中略〕、津の国有馬温湯に幸す。」とある。また、孝徳天皇も大化三年(六四三年)に「冬十月…〔中略〕、天皇、有馬温湯に幸す。」「十二月の晦に、天皇、温湯より還りまして…」とあって、三か月近くも行幸している。(いずれも、原漢文)
 藤原道長、白河法皇、後白河法皇、足利義満、足利義政なども有馬の湯を訪れている。

☆古歌に詠まれた有馬
 古歌にあらわれる有馬は、猪名という地名と関連づけて詠まれることが多い。
 最も広く知られているのは、「百人一首」に入っている、大弐三位の歌である。
  有馬山いなのささ原風吹けばいでそよ人を 忘れやはする
この歌は「後拾遺集」巻十二・恋にも収められている。
 古くは「万葉集」巻七に、作者不明の歌として収められている歌も、よく知られている。
  しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ 宿りはなくて
この歌は「新古今集」巻十・羇旅にも収められている
 また、「古今和歌六帖」巻二には、
  しながどり猪名野をゆけば有馬山雪降りし きてあけぬこの夜は
があり、この他にも有馬を詠んだ歌は、たくさん残っている。
 歌枕として「有馬山」がしばしば詠まれているが、有馬山は、特定の山を指すのではなく、有馬温泉を取り巻く山々のことだと言われている。猪名野は、猪名川の流域に広がる平野で、現在の伊丹市・尼崎市の辺りである。歌では、猪名野から西の方に望むことができる山々を、有馬山として詠むことが多いのである。
 現在は、落葉山(おちばやま)、灰形山(はいがたやま)、湯槽谷山(ゆぶねだにやま)を有馬三山と呼んでいる

☆行基や仁西の力添え
 奈良時代には、温泉の医療効果を認めた僧・行基が神亀元年(七二四年)に温泉寺を建立し、衰退していた有馬温泉を再興したという。
 また、鎌倉時代には、大洪水・地震などの自然災害によって壊滅していた有馬を、建久二年(一一九一年)に僧・仁西が温泉を再興し、十二神将に因んで十二の宿坊を開いて、有馬が広く知られるようになったという。現在の有馬の旅館名に「○○坊」が多いのは、このことに由来している。
 藤原定家は、建仁三年(一二〇三年)以降、しばしば有馬を訪れており、『明月記』にはそれが記されている。延徳三年(一四九一年)には、有馬滞在中の宗祇が、肖柏・宗長とともに連歌『湯山三吟百韻』を巻いている。

☆太閤秀吉のゆかり
 織田信長の後継者としての地位を確立した豊臣秀吉は、天正一一年(一五八三年)に初めて有馬を訪れている。文禄五年(一五九六年)の大地震は、近年の阪神・淡路大震災と同じような規模だったようで、有馬に壊滅的な被害をもたらした。秀吉は泉源の改修や六甲川の付け替え工事などを行って、有馬の繁栄の基礎を築いた。秀吉は十回ほど有馬を訪れているが、その間に、北政所ねねや千利休を呼んで茶会を開いて楽しんだ。秀吉を偲んで、毎年秋に大茶会が開かれるなど、現在の有馬温泉には太閤秀吉にちなんだものが多く残っている。

☆近代・現代文学にあらわれる有馬
 山あいに抱かれた温泉町の有馬は、近・現代文学の舞台としてもしばしば登場する。幸田露伴「まき筆日記」、谷崎潤一郎「猫と庄三とふたりの女」「春琴抄」「細雪」、司馬遼太郎「国盗り物語」、松本清張「内海の輪」「塗られた本」、堺屋太一「秀吉」など、多数の作品に描かれている。
 有馬温泉を訪れた文学者には、他に、土屋文明、正宗白鳥、富田砕花、窪田空穂、横光利一、斎藤茂吉、吉川英治、吉井勇らがいる。
 有馬の名物(土産品)としては、炭酸煎餅、人形筆、有馬籠・竹細工などが知られている。

≪この文章は、写真30枚ほどとともに、グラビアとして掲載したものの解説部分です。≫

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2006年12月28日 (木)

神戸圏の文学散歩(02)

畿内の果ての須磨海岸

☆白砂青松の須磨
 山陽新幹線は海岸から離れたところをトンネルで突き切っているが、在来線の鉄道は海沿いを走っている。かつて、東からでも西からでも、鉄道の長旅をしてきた人の眼前に、緑の山が迫り、海が輝き、白砂青松の景色が展開したのが須磨海岸であった。近くに淡路島も見える。
 古くから文学の舞台になってきた須磨は、今は神戸市須磨区に属している。付近が都市化していく中にあって、この辺りは緑に恵まれた心休まる地域である。

☆行平をめぐる伝説
 886年(仁和2年)在原行平が光孝天皇の怒りにふれて、3年間も須磨に住むことになった。
 古今集には、
  わくらばに問ふ人あらば須磨の浦にもしほ  たれつつわぶとこたへよ
という歌が載せてある。
 その時、多井畑の村長の娘である姉妹が浜辺に潮汲みに来たのに出会い、姉を「松風」、妹を「村雨」と名付けて愛するようになった。姉妹も行平を慕っていたが、行平が都に帰ることになり、姉妹が別れをつらく思っている様子を見て、行平はひそかに烏帽子と狩衣を松の枝に掛けて、形見を残して歌を添え、去った。それを知った姉妹は、行平の住まいであった傍らに庵を結び、観世音をまつって行平の無事を祈り続けたという。松風村雨堂がその庵の跡である。
 松風村雨の話は、鎌倉時代の仏教説話集「撰集抄」に載せられているが、後の世の人々の心を動かして、能、舞踊、演劇などさまざまのジャンルに取り上げられることになった。

☆源氏物語の須磨巻
 『源氏物語』の成立は1000年頃であるが、この物語は「須磨」「明石」の巻を設けている。
 紫式部は、「須磨」の巻を行平をモデルにして書いたとも言われているが、行平と光源氏の共通点は多い。光源氏は右大臣家の圧迫によって、自ら須磨に身を退け、都を離れた侘び住まいで、寂しさと恋しさのあまりに切々とした歌を詠む。光源氏の須磨退去は、悲劇性を帯びた理想的人間に対する人々の共感が根底にある。
 行平や光源氏が自分から進んで身を退けた地が須磨である理由は、畿内の西南端であるということに加えて、寒村とはいえ、風光に恵まれていたことにもよるのであろう。

☆歌枕としての須磨の関
 平安後期の「金葉集」に載っている源兼昌の
  淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜ねざめ  ぬ須磨の関守
の歌で名高いのが須磨の関である。
 須磨の関の場所については諸説があり、関守稲荷神社の地とも、現光寺のあたりとも、北方の多井畑とも言う。古代に設けられた須磨の関は、美濃の不破の関、越前の愛発の関などとともに、延喜の頃(790年頃)には廃止されたという。源兼昌の頃には、歌枕としての名のみ残っていたのであろう。
 歌枕は、風光明媚で、物語や伝説があり、都人の関心の対象となる土地であって、須磨はどこよりも歌枕にふさわしい場所なのである。

☆源平史蹟の「戦の浜」
 1184年(寿永3年)2月、西海で陣容を立て直した平家一門は、京都奪回を期して、讃岐から兵庫へと兵を進め、源氏軍とまみえることになる。「平家物語」に詳しく描かれている一ノ谷の合戦である。この合戦で、義経は坂落としを敢行して、平家軍の不意をついて、源氏を勝利に導く。
 今の須磨浦公園の辺りが源平の戦の地である。今、国道2号に面して「源平史蹟 戦の浜」の碑が建っている。戦の浜から少し西には敦盛塚がある。敦盛は、平清盛の弟である平経盛の子である。一ノ谷合戦で源氏方の熊谷次郎直実に討たれた。敦盛が腰に付けていた笛を見て、この戦の朝、陣中で聞いた笛の音は、この若武者のものであったかと思い至った直実は、殺し合わねばならない戦の世に無常を感じ、出家を決意する。この笛が、須磨寺に伝わる青葉の笛である。今、須磨の辺りに残る、戦死者を弔う遺跡は、すべて平家方のものである。

☆青葉の笛の須磨寺
 須磨寺は、源平ゆかりの大寺である。青葉の笛や敦盛像を宝物として所蔵する他、国宝や重文の仏像も多い。源平の庭で敦盛と直実の姿を再現しており、芭蕉・蕪村の句碑もある。
 一枚の板の上に一本の弦を張っただけの須磨一弦琴は、発祥を行平とのつながりに求めているが、今は兵庫県無形文化財に指定されている。

☆芭蕉と蕪村の須磨
 松尾芭蕉は、「笈の小文」の旅で、兵庫の港に入った後、須磨を訪れ、明石に足をのばした後、須磨に引き返している。源平の戦に思いをはせ、行平の歌を思い浮かべたりしており、須磨で作った句は多い。
 与謝蕪村にも、戦に思いをはせたり、須磨ののどけさを詠み込んだ句がある。
 鉢伏山麓にも、須磨寺にも、芭蕉の句碑と蕪村の句碑がある。

≪この文章は、写真30枚ほどとともに、グラビアとして掲載したものの解説部分です。≫

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2006年12月27日 (水)

神戸圏の文学散歩(01)

万葉の明石、そして今

☆明石の広がり
 東経135度の子午線上に位置する明石市は、明石原人や明石象の発見地として知られるとともに、万葉集、源氏物語をはじめ様々な文学に描かれたところである。
 現在の明石市は、面積が49平方キロ、人口は29万人余である。けれども、もともとの明石はもっと広い。播磨国に属する旧明石郡は、明石市の他に、現在の神戸市垂水区と西区を含めた地域であった。明石海峡大橋は、神戸市垂水区と対岸の津名郡淡路町を結ぶ。橋の下が明石鯛や明石蛸で名をはせる明石海峡であるが、この辺りも、もとは明石郡に属していた。

☆名寸隅の船瀬
935 名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩やきつつ 海をとめ ありとは聞けど 見に行かむ よしの無ければ ますらをの 情は無しに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 吾はぞ恋ふる 船楫を無み
936 玉藻刈る海をとめども見に行に行かむ船楫もがも波高くとも
937 往きめぐり見とも飽かめや名寸隅の船瀬の浜にしきる白波
 名寸隅という地名は今は使っていないが、笠金村の歌に詠まれる名寸隅の船瀬の跡は、明石市大久保町西島の赤根川の河口であると推定されている。937の歌碑が、魚住町中尾の住吉神社の境内にある。

☆遠くに家島、稲見の海
  名寸隅から眺める海景は雄大である。目の前は播磨灘、東南には飼飯の海(256・人麻呂)などがある淡路島、海峡の彼方に大和の山影、南西には家島群島(3718・作者不詳)、北西は稲見の海(303・人麻呂)へと続いている。その向こうには姫路から赤穂に至る海岸線が遙かに見える。
 名寸隅の船瀬は、魚住の泊でも呼ばれた。奈良時代に、僧行基によって瀬戸内海の交通路として摂津・播磨の五泊が開かれたが、魚住の泊は五泊の一つとして、大輪田の泊(現在の神戸市兵庫区)と福泊(現在の姫路市)の間に位置し、それぞれの間が海路で一日の行程であった。

☆藤江の浦
 名寸隅から東に向かうと、藤江との間に八木の海岸がある。この辺りは、海岸にまで断崖が迫り、屏風ケ浦と呼ばれる景勝の地。かつては、海が断崖を洗って浸食が続いていた。今は、海岸線に沿って「浜の散歩道」という道路が作られ、整備された砂浜には、ウミガメが産卵に訪れる。八木の東が藤江の浦。ここまで来ると、対岸の淡路の島影が大きくなる。
252 あらたへの藤江の浦にすずき釣る白水郎とか見らむ旅行く吾を
939 沖つ波辺つ波安み漁りすと藤江の浦に船ぞ動ける
 柿本人麻呂(252)や山部赤人(939)に詠まれた藤江では、白砂に波が打ち寄せている。

☆明石大門
 明石港と対岸の岩屋港(津名郡淡路町)の間は高速船で13分の船旅。海上から大橋を眺めるのも心地よい。
254 ともし火の明石大門に入らむ日やこぎ別れなむ家のあたり見ず
255 天ざかる夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
941 明石潟潮干の道を明日よりは下咲しけむ家近づけば
  柿本人麻呂(254・255)や山部赤人(941)に詠まれた明石大門は大和の出入り口。大阪湾の向こうに大和の山々が霞んで見える。ここを境に大和の山並みが見えなくなるという望郷の場所である。

☆柿本神社
 東経135度の子午線上に柿本神社があり、その南側に明石市立天文科学館が建つ。
 柿本人麻呂は明石の人にとっては身近で、敬うべき存在である。歌聖をまつる柿本神社は、人丸さんと呼ばれて、地元の信仰を集めている。学問の神様であることはもちろんであるが、火災予防や安産の神様でもある。「ひとまる」という発音を「ひ・とまる(火、止まる)」や「ひと・うまる(人、生まる)」に掛けているのである。神社のすぐ西隣には名刹・月照寺がある。

☆対岸の淡路
  明石から淡路島は指呼の間である。明石海峡大橋で結ばれた先は淡路町の岩屋港である。やはり人麻呂に詠まれた野島の崎(250・251)は、西海岸に遠望できる。野島は阪神・淡路大震災の震源地としても知られる。

≪この文章は、写真30枚ほどとともに、グラビアとして掲載したものの解説部分です。≫

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2006年12月26日 (火)

六甲の山並み[言葉つれづれ](04)

「ね」という助詞

天気予報で、気象予報士の人が話す言葉で、気になることがあります。

「寒くなりましたね」
「もうすぐ雪が降るでしょうね」
というような会話に出てくる「ね」という助詞は、
相手の同意を得ようとする働きがあります。
お互いが同等の情報を持っているときは、問題なく、会話が進行します。

ところが、天気予報で、気象予報士が
「大陸から寒気団が張り出してくるのですね」
と言ったときは、相づちの打ちようがありません。
気象予報士は、自分が持っている情報を、視聴者に伝える立場にいます。
知っている人が、知らない人に向かって同意を得るのは、おかしいと思います。
そんなときに「ね」は使うべきではありません。

「大陸から寒気団が張り出してきますよ」
と言われたら、「ああ、そうなのですか」と応じることができます。
情報を伝えてもらった立場としての反応を示せばいいのですから。

実は、気象予報士だけではありません。
テレビやラジオに登場する記者やレポーターの中にも、
「ね」という言葉を乱用する人がいます。
視聴者に向かって、親しさを表現しようという意図があるのかもしれませんが、
情報を伝える立場にいるという役割を放棄してしまっているようで、
聞く側としては、白々しい気持ちになってしまいます。

≪このシリーズは、時々、継続して掲載します。≫

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2006年12月25日 (月)

六甲の山並み[言葉つれづれ](03)

「気を付け」と「よい姿勢」

直立不動の姿勢をとらせるときの号令は「気を付け!」です。
体育の時間だけでなく、儀式などのときにも、この言葉は盛んに使われてきました。
その姿勢を解除するときの号令は「休め!」です。

ところで、NHKの「ラジオ体操」の番組では、
たぶん同じ姿勢のことを指しているのだろうと思いますが、
「よい姿勢をとりましょう」と言っています。
「よい姿勢」というのは、漠然とした言葉です。
直立不動でなくても、よい姿勢はあります。
立っているときの「よい姿勢」もあれば、
椅子にかけているときの「よい姿勢」もあります。
横たわっているときにも「よい姿勢」はあるかもしれません。
ラジオ体操の指示には、どういう姿勢が「よい姿勢」なのか、
具体的には何も表現されていません。
まして、ラジオですから、実際の姿勢のようすを伝えることはできません。

「気を付け!」と対になる言葉は、「休め!」です。
「よい姿勢」と対になるのは、どういう言葉なのでしょうか。
まさか「悪い姿勢」ではないでしょう。「崩した姿勢」なのでしょうか。

ラジオ体操は、命令口調になることを避けているのでしょう。
その気持ちはよくわかるのですが、具体性のない言葉になってしまっています。
言葉遣いを遠慮すると、実態を伴わない表現が横行することになるのでしょうね。

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2006年12月24日 (日)

六甲の山並み[言葉つれづれ](02)

「お詫び申し上げたいと思います」

記者会見のようすをテレビ・ニュースで見ることがあります。
記者会見というものは、わずかの人数の記者に向かって話すことであっても、
それがテレビで流されたり、新聞の記事に書かれてしまったりしますから、
当事者はずいぶん緊張を迫られるものにちがいないと思います。
まして、礼儀をわきまえない記者も大勢おりますから、
ぶしつけな質問もあって、たいへん苦しい場面もあるだろうと思います。

そのようなことに同情しつつも、気になる言葉遣いがあります。
それは、何かの不始末をしてしまったときの言葉です。
「国民の皆さまにお詫び申し上げたいと思います」という言葉を聞くことが多いのですが、
その言葉は、本当にお詫びしていることにはならないと思います。
それは、「お詫び申し上げたい」という願望や意思を述べているだけであって、
まだお詫びをする前段階の言葉に過ぎないと思うのです。
お詫びするのなら、はっきりと、「お詫び申し上げます」と言うべきです。

しかも、「お詫び申し上げます」という言葉の次に、
「どうかお許しください」という言葉を聞くことは、ほとんどありません。
要するに、形だけのお詫びで、当事者も記者も(国民も?)、
一件落着と思ってしまっているのではないのでしょうか。
本当に心の底からお詫びをするのなら、
あんな態度や言葉ではすまないはずだと思うことが多いですね。

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2006年12月23日 (土)

六甲の山並み[言葉つれづれ](01)

ニュースはショーではない

最近のテレビ・ニュースは、新聞の見出しのような一言から、
出来事を語り始めることが多くなっています。
例えば、「重軽傷者が10人に達しました」という言葉が最初に語られるのです。
一瞬、何の話であるのかと、情報欠乏感に陥れられるようになっています。
そして、その後で、いつ・どこで・何が起こったのかが伝えられるのです。
これは、明らかに、新聞の見出しの真似であって、
新聞のいちばん大きな見出しにあたるものを最初に言おうとしているのです。

新聞の場合は、何本も見出しがあっても、一瞬のうちに目に飛び込んできます。
いちばん大きな見出しが「重軽傷者が10人」と書かれていても、
他の見出しの力を借りて、ニュースの全体像がつかめます。
けれども、テレビは、時間の流れにそって、言葉を伝えています。
だから、「重軽傷者が10人に達しました」という言葉を、まず言っておいてから、
その後で、「どこで」「いつ起こった」「多重衝突事故なのだ」と伝えたのでは、
一瞬、視聴者は、心理的な不安定感に置かれてしまうのです。
仮に映像が伴っていたとしても、言葉の順序を間違えてはいけません。

テレビが、新聞の見出しの真似をして、変な表現を作り出しているのです。
テレビは、ニュースですら「ショー」のように扱ってしまって、
興味本位で、センセーショナルに伝えています。
アナウンサーも、記者も、その他の制作担当者も
そのことを反省していないのは、なさけないことです。

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2006年12月22日 (金)

高校生に向かって書いたこと(15)

厳しい姿勢で、忍耐強く自己の内面を磨いてほしい
    -本校を離任するにあたって-

 本校には平成元年からの6年間と、平成13年からの2年間、合わせて8年間勤めました。完全学校週5日制は昨年度に始まりましたが、今年度は新学習指導要領による教育課程の開始、国際人間科の発足、その他のいろいろな改革に伴って、新しい本校が胎動している時期です。ますますの発展を期待しながら、この学校を去ります。
 私の教員生活が終わりました。何万年、何億年という人類や地球の歴史に比べたら、私たち一人一人の人生は瞬く間のものにすぎません。この仕事に携わった38年間を、長いとか短いとか言うつもりはありません。けれども、この年月の間に、人の心や、生きる姿勢や、生活のスタイルが大きく変化したということは強く感じています。
 私は昭和40年に教員になりました。加古川市内にある高等学校でした。10年間勤めたその学校を離任する頃、明石市内に4番目の普通科高校が設置されることになったというニュースを聞きました。それが本校でした。姫路市内の学校に勤めるようになって山陽電車の車窓から、池の北側に建築が進んでいく校舎を眺めていた記憶があります。
 勤め始めた頃の高等学校は1クラス50人編成でした。学級編成の都合で人数は増減しました。剣道場か何かを改造した教室で55人学級の授業をした年もありました。少人数指導なんてありえません。週6日間の授業で20時間余りを担当し、ホームルーム担任もして、早朝の補習授業もありました。教職員も生徒も、苦しさの中で一生懸命になっていました。「昔のことは良く見える」と言いますが、その分を差し引いても、実際の姿は今とは少し違っていました。
 歴史には「もしも…であったら」という仮定は成り立ちません。昔の時代に立ち返ることもできません。けれども見習うことはいくらでもあります。あの頃は、大人も子供も心の持ち方は純粋でした。物質的に恵まれているとは言えない状況の中にあっても、将来への期待や希望を抱いて、上を向いて歩いていました。努力すればなんとかなるだろうということを信じていたように思います。
 私はひとの悪口を言うのは好みませんが、これは個々の人への悪口ではなく、大勢の人への直言だと思って聞いてください。時代を経るにつれて、大人も子供も、甘える気持ちがつのってきて、過保護になりました。自己の権利を主張するのと引き換えに、義務感が乏しくなりました。忍耐力が失われていきました。ほんとうに寂しいことです。
 人生は一瞬一瞬の積み重ねには違いありません。けれども刹那的になってはいけないと思います。物質文明に恵まれて、精神面がもろく弱いものになっては困ります。
 私は始業式・終業式・全校集会などでいろいろな話をしました。例として用いた話はさまざまでしたが、それらをつきつめて言うと、忍耐強く自己の内面を磨いてほしい、そして、自己には厳しく他者には温かい姿勢を持ってほしい、ということでした。そのことを重ねて申しておきたいと思います。
 最後に、私の今後のことを申しておきます。私の人生はまだまだ続くはずだと思っておりますが、命には限りがあります。自分の頭は、永遠に正常に動いてくれるわけではありません。残された時間を精一杯使って、私は、これまで蓄積してきた資料をもとに、『明石方言辞典』の完成を目指します。ふるさと明石に対して私ができる、たった一つの恩返しです。
 本校がますます発展していくことを念じております。
【学校新聞・第72号】

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2006年12月21日 (木)

高校生に向かって書いたこと(14)

本自体も、読書感想文も、読む人に感銘を与える

 「忙しくて本を読む時間がない」ということをよく耳にします。私は、この言葉をよくできた言い訳だと思いますが、本当は、時間がないのではなくて、読もうとする意志がないのだと思っています。私も忙しい生活をしています。時間をかけて難しい本と格闘することとは縁遠くなってしまいましたが、文庫本程度なら1週間に1冊は読んでいます。
 私はかつて、自分が読む本は必ず購入するという考えを持っていました。本に傍線を引いたり、書き込みをしたりできるからです。それによって、本と自分が向き合っているということを実感していました。本代を節約する気持ちはありませんでしたが、そのようにして買った全集やシリーズ物で、本の置き場に困るようになってしまいました。今では公立図書館を利用することが多くなりましたが、本のない生活などは考えられません。
  ところで、歌人の俵万智さんがお書きになった文章で、私の頭に残っているものがあります。このような話です。
 俵万智さんが小学生の頃、ご近所にウツミさんという方がおられました。その方はたくさんの本を持っておられて、それを開放して子供たちに貸し出してくださっていました。
 ある日、いつものとおり、学校の帰りに本を借りてきました。その本を、その日の夕方までに読んでしまった俵万智さんは、「これ返しに、もう一回行ってくる。別の本を借りてくる」と言って家を出ようとしました。その時に、お母さんは、やんわりと俵万智さんをたしなめたそうです。
 「万智ちゃん、今持っているその本、いったいどれくらいかかって書かれたのかしら。何か月も何年もかかったかもしれないわねえ。それをたったの三時間で読んで、もう返しちゃうなんて、なんだか書いた人が気の毒ね」
 お母さんの、その言葉を聞いて、俵万智さんは、ちょっとしたショックを受けたと言います。本を速く読むということを自慢に思うけれども、本を書いた人のことなど考えたこともなかったからです。
 その時より後、日を追うごとに俵万智さんはゆっくりゆっくり本を読むようになったと言います。
 本は速く読むことが良いとは限りません。本はたくさん読むことが素晴らしいとは限りません。自分が読んだ、その一冊からどういうことを学び、どういうことを感じ、どういうことを考えたのかということが大切です。
 本は自分で好きなものが選べます。古今東西の、さまざまの分野の一流の人が書いたものを、たちどころに読むことができます。一冊の本に触発されて、次から次へと本の世界を飛び回っていくこともできます。
 読書によって、たくさんの事柄を学び、いろいろなことを感じ、物事を深く考えることをした、その結果を文章に表したのが読書感想文です。本が人に感銘を与えるのと同様に、読書感想文も読む人に感銘を与えるに違いありません。この冊子には校内の読書感想文コンクールで選ばれた作品が収められています。読む人の心を打つ内容が散りばめられています。そのような感想文を書いた方々を讃えるとともに、これを機会にすべての本校生がますます読書に親しんでくれるを期待しております。
【平成14年・読書感想文集】

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2006年12月20日 (水)

高校生に向かって書いたこと(13)

次を目指して脱皮をするとき

 28回生として本校に入学することになる皆さん、合格おめでとうございます。
 はじめに、皆さんを取り巻く状況の話をしておきましょう。本校の普通科は、この地域の学区で総合選抜を行う学校の一つですが、平成15年度からは全県学区の国際人間科を設置し、その1期生を迎え入れることになりました。
 本校は英語コース設置校としての実績を重ねるとともに、オーストラリアとマレーシアに姉妹校を持ち、国際交流・語学研修では県下の高等学校の先導的な役割を果たしてきました。オーストラリアでホームステイをする研修団の派遣は既に16回の歴史を重ねました。また、今年1月には26回生全員がマレーシアへの修学旅行を実施して成果をあげました。
 国際人間科は、科の設置の趣旨を生かした教育活動を行いますが、この科だけを特別視するのではなく、本校教育の核として、本校全体の特色づくりに寄与するものにしたいと思っております。
 また、平成15年度は、昨年度から始まった完全学校週5日制のもとで、高等学校の新学習指導要領が学年進行で実施される最初の年でもあります。各教科・科目の授業はもちろんですが、「総合的な学習の時間」をはじめとして、新たな教育の営みも始まります。
 このように高等学校教育全体も本校も、新たなものを目指して脱皮をする時期です。皆さん一人一人も、次の段階を目指して脱皮をしてほしい、そのような時期が高校時代であると自覚をしてほしいと、私は思っています。
 生きる意欲は、夢や希望や目標によって左右されます。この3年間、大きな志を持って、それに向かって突き進んでいってください。
 私たちの生活は自分を取り巻く人たちを抜きにしては考えられません。良き友達、良きライバルがいれば、心に張り合いや緊張が生まれます。それが自分自身を育てていきます。
 また、高校時代は、勉学に、スポーツに、その他の活動に没入してほしいと思います。ものごとを打算的に考えてはなりません。心身ともに鍛える時期が高校時代です。
 中学時代の生活も素晴らしいものであったと思います。その上に立って、高校時代は心身ともに一歩進んだ生活が始まります。すこしずつ脱皮していく時期、別の言い方をすれば自己改革をゆるやかに続けていく時期が高校時代であると思います。目標を持って、良き人間関係を作り、確実な努力を続けていってほしいと願っています。一人一人の、これからの3年間の活躍に、私は大きな期待を抱いております。
【平成15年度・入学のしおり】

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2006年12月19日 (火)

高校生に向かって書いたこと(12)

この体験をいつまでも忘れまい

 旅は後になって振り返ることが楽しい、と私は思います。出かける前に期待していたよりも大きなものに、実際の旅先で出会ったような場合は、特にそのように思います。この、期待感と実際の差というものが、次の旅へと誘う力になるのかもしれません。それは、同じ土地への再訪を願う気持ちになる場合もあるでしょうし、他の土地への憧れになる場合もあるでしょう。
 さて、私たちの修学旅行は、寒中の日本から常夏のマレーシアへのスリップでした。気候・風土だけでなく、習慣・文化・歴史などの異なる土地への旅は、一人一人に大きな感銘を残したこととと思います。
 マレーシアは、さまざまな点において、日本とは異なっていました。マレー系・中国系・インド系の方々が住み、風俗や宗教も多様な姿を見せていました。私たちはいろいろな料理を楽しみ、歴史の遺産を間近に見ました。植物・動物や建物なども日本とは違っていて、景観も印象に残りました。朝のうちは晴れていたのに、その日の午後、突然の大雨に遭遇したりしました。体験してみて初めてわかることが数多くあったように思います。
 また、姉妹校としての縁を結んでいるカレッジ・トゥンク・クルシア校での交流と植樹は、2つの学校の歴史に新しい1ページを加えました。
 わずか5日間の修学旅行でしたが、その体験をもとにした班別レポート集が出来上がりました。この小冊子は一人一人にとって大切な記念になることでしょう。
 この修学旅行は26回生の皆さんの努力によって成し遂げられました。けれども、学年担任団の先生方の綿密な計画と運営に支えられていたことも忘れないでください。また、県教育委員会からは WE・ASIA推進事業としてのご支援をいただきました。マレーシアの姉妹校や青年クラブ協会をはじめ現地の大勢の方々のご協力も得ました。さらに、旅行社・写真室の方々などにもお世話になりました。
 この修学旅行での体験をいつまでも忘れないでいてほしいと願いますが、同時に、この旅行は大勢の方々のお力を得て成り立ったのだという感謝の気持ちも忘れないようにしてほしいと思います。
【平成14年・修学旅行レポート集】

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2006年12月18日 (月)

高校生に向かって書いたこと(11)

体験に基づいて国際的な視野や感覚を広げる

 教育の改革が求められています。県内はもちろん全国の高等学校は新しい時代の学校の姿を検討し、具体策を打ち出しています。本校も例外ではありませんが、本校はこれまでに蓄積してきたものを大切にし、その上に新たなものを構築しようとしています。本校がこれまでに重ねてきた国際交流・語学研修の実績は、先駆的な役割を果たし、他の学校にとっては大きな参考となっているに違いありません。
 本年度も本校は、国際交流を積極的に推進しました。西オーストラリア州にある姉妹校のチャーチランズ高校からの来日は、本年度は時期が変わって、4月早々になりました。来る人たちも迎える人たちもごく自然に交流する姿勢を身につけていると思います。音楽科に実績のある同校は来年7月には多人数での来日の意向を持っています。一方、本校からオーストラリア・マレーシアへの国際交流・語学研修団の派遣も16回目を数え、大きな成果をあげてきました。
 また、本校初の海外修学旅行を26回生が行いました。マレーシアにある姉妹校のカレッジ・トゥンク・クルシアとの交流も含めて、2年生全員が国際的な視野や感覚を広げる体験をしました。
 国際交流は知識の吸収や議論だけで成り立つものではありません。本校のこれまで行ってきていることは、体験に基づいて視野や感覚をゆっくりと広げようとするものであると思います。
 本校は、周到な準備を重ねてきた国際人間科をいよいよ平成15年度に発足させます。実績を重ねてきた本校の今後の方向を示すものです。国際人間科を設置するということにつながる動きは、平成11年度に始まりました。この年には、学校内にビジョン委員会を設けて検討をし、国際関係の専門の学科を設置しようという方向を確認しました。平成12年度には、長期構想検討委員会を設けて検討を続け、新学科の教育課程についての提案をし、その後は新学科の具体的な目標や施設・設備の検討を深めました。平成13年7月に、県教育委員会から新学科を設置することが認められ、平成14年7月の詳細な発表に至りました。いよいよ本年4月には学科の生徒をはじめて迎え入れます。
 本校の国際交流はこれからも、これまでのものの上に新たなものを積み重ねるべく努力を続けてまいります。国際交流・語学研修の事業は、本校国際交流振興会やPTAの方々の温かいご支援を受けて、本校教職員・生徒が心を合わせて取り組んできました。また、2つの姉妹校の生徒・教職員や、オーストラリアでのホームステイを引き受けてくださった家庭にもお世話になっています。
 こうした大勢の方々のご厚意に感謝申し上げますとともに、各方面におかれましては、これらの事業の拡充・発展と、新しい世界に乗り出していく本校教育のために、今後も引き続いてご指導・ご支援を賜りますようお願い申し上げます。
【平成14年・国際交流事業の記録】

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2006年12月17日 (日)

高校生に向かって書いたこと(10)

自分の人生を自分で演出しよう
     -25回生の卒業を祝う-

 早春というのは、新しいものが生まれ来る兆しを感じて、心が軽やかになる季節です。この時期に25回生の皆さんは、高等学校卒業という喜びの日を迎えました。ひとつの課程を終えた充実感とともに、将来への期待や希望に胸をふくらませて本校を巣立とうとしていることと思います。
 長年親しんだ友達や先生と別れて、学び舎を去っていく寂しさを伴っていることでしょうが、別離は人生の途上に幾度もあることです。
 「会うは別れのはじめ」と言いますが、別れは次の邂逅への始まりでもあります。次なる世界が始まるという予感に胸をときめかせてもいることでしょう。何年かごとに学校や勤め先の環境を変えていくというのは、社会の制度の一つですが、それは生きていく知恵の一つでもあると思います。卒業生の皆さんにとって、新しい一区切りがスタートしようとしているのです。
 私は、人生には数多くの節目や変換点があるほうがよいと考えています。苦しみや悲しみは少ないのがありがたいと考えるのは人情ですが、苦しみ・悲しみが人を成長させることも事実です。
 これまでに中学校3年間、高等学校3年間というような区切りを経験してきましたが、そのような周期は、これからは異なった長さのものになっていくはずです。もっと長い周期になることもあれば、もっと短い周期になることもあるでしょう。その周期は、これからは皆さん一人一人によって異なるものになるでしょう。高等学校卒業というのは、一人一人の異なった周期への船出の時であると言ってよいでしょう。他人とサイクルを合わせているだけでは通用しない人生が、これから始まります。
 周期や区切りを多く持ち、自分から進んでそのような周期・区切りを作って、それを乗り切っていくことによって成長していってほしいと思います。
 世の中には「この道ひとすじ」というような方もおられますが、そのような方も、その時その時に自分で区切りを設けて人生を刻んでおられるはずです。
 さて、卒業を迎えた皆さんに私が望みたいことの一つは、この時を機に、これまでの自分自身を謙虚に振り返ってみてほしいということです。
 なぜ、そんなことをする必要があるのかと言えば、自分で自分のこれからの人生を演出するためです。
 「一を知って二を知らぬなり卒業す」というのは高浜虚子の句です。自分自身を振り返ってみれば、大きく成長した部分と、そうではない部分とに思い当たることと思います。
 足りないところは今後補っていけばよいのですが、今の自分を、自分で振り返って確認するところから出発しなければなりません。自分の人生を演出するのは、自分の他にはいません。他人を頼っているわけにはいきません。
 人生の途上において、運命とか時の流れとかに左右されることから免れることはできませんが、活路を切り開いていくのは自分以外の何者でもありません。
 これからは、自分で選んだ道を、自分で演出しながら進んでいってください。自分の気持ちのあり方次第で、人生の色合いが変わってくるかもしれません。自分を信じて、果敢に突き進んでください。
 3年間の課程を終えて、次の段階へと踏み出していく25回生の皆さん、卒業おめでとうございます。私は、「天がける鷲」である皆さん一人一人に、大きな期待を込めて本校から送り出そうと思います。お元気で活躍されることをお祈りします。
【学校新聞・第71号】

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2006年12月16日 (土)

高校生に向かって書いたこと(09)

胸の中にしっかりと記録をしよう

 私も旅が好きです。私の旅はたいていは国内旅行ですが、出発前に目的地のことを詳しく調べることと、旅先ではその土地の人びとの生活のにおいが感じられる場所を訪れることとを、私も心がけています。このことは直前研修のためのガイドブックに学年主任が書いておられたこととまったく同じです。
 それに付け加えて申したいことがあります。私は、旅先ではさまざまな方法で記録をしていきます。写真を撮ること、録音をすること、文字でメモをとること、そして手に入れたリーフレットや包み紙などを保存することなどです。旅を振り返ってみるときの資料として役立ちます。
 けれども、それよりももっと大切なことは自分の胸の中にしっかりと記録をすることだと思います。客観的な物事を憶えておくということだけではありません。旅のところどころで感じたこと、考えたことを、心の中に焼き付けておきましょう。
 それが後になって、ふと役立つことがあります。私は、旅の効用をあまり現実的・即効的には考えておりません。けれども、いつか役立つということの意味は大きいと思います。まして海外旅行においてはなおさらです。国際感覚は短時日のうちに身に付くものではありませんが、この修学旅行が海外の事象に目を向けることの端緒になるであろうことは間違いありません。
 私は海外旅行の経験は乏しいのですが、昨年度の夏季休業期間中に、本校の国際交流・語学研修団とともにマレーシアを訪れました。日本とは異なった風物や人びとの生活に、もう一度出会えることを、今から心待ちにしています。あの時に出会った方たちとの再会も楽しみです。
【26回生修学旅行のしおり】

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2006年12月15日 (金)

高校生に向かって書いたこと(08)

柔軟な考え方と、強固な意志力を

 人は誰でも、何かをしたいという気持ちを持っています。何もしないのはラクであるかもしれませんが、そんな状況で満足している人はほとんどいないでしょう。人は、自分の存在を主張し、自分の生きがいを求めているのです。
 けれども、何かを求めていながらも、自分自身で方向を決められないで、他からの働きかけを待っているとすれば、それは問題です。厄介なことかもしれませんが、自分の将来の方向は自分で見つけ出すべきものです。
 自分の生活の習慣が、自分の生き方や、生きる技術に、大きな影響を与えていることがあります。自分自身のことを知り、自分を取り巻く社会や環境がどういうものであるかを知ることによって、自分の方向が定まってくることがあります。現代社会の構造とその動きは複雑なものになっていますが、自分がどのようなところに位置するのがよいかということは、自分で決めていかなければなりません。
 私は、自分の進路を考える際には、できるだけ柔軟な考え方をして、いろいろな可能性を想定してみるべきだ、と思っています。自分が持っている能力や適性を最大限に発揮することが進路実現であると思いますから、いろいろと考えられる選択肢を前にして、大いに迷い、大いに悩んでください。
 しかし、いつまでも迷い悩んでばかりはいられません。決断を下す際に役立つのが、さまざまな資料です。自分を客観的に知る資料が必要です。一人の人間は、あらゆる方面の適性を備えているわけではありません。どんなことでもできるような能力を持ち合わせているわけではありません。自分の能力や適性は、いろいろな検査や試験の結果から知ることができます。また、就職や進学に関する、社会全体のいろいろな状況を知ることも大切です。この「進路の手引き」には種々の情報が盛り込まれています。存分に活用して、自分の進路を考えてください。
 そして、ひとたび決めたからには果敢に取り組んでください。私の辞書には不可能という言葉はない、などと言う勇気は私にはありません。けれでも、遠く手の届かないところにあると思っていたものが、努力しだいで近寄ってくることもあるはずだと信じています。
 時間ほど、人に平等に与えられているものは、他にはありません。それにもかかわらず、時間の使い方には、上手な人とそうでない人の違いが端的に現れます。強固な意志を持って、時間を有効に使って取り組んだ者こそが、自分の思いを実現できるようになるはずです。くじけず、努力を怠らず、懸命に取り組んでください。25回生の一人一人が、自分の抱いている夢や望みを実現してくれることを、私は願っています。
【平成14年・進路の手引き】

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2006年12月14日 (木)

高校生に向かって書いたこと(07)

青春まっただ中、夢を育み、心を成長させよう

 「播磨が原に 若草萌えて 白亜の学舎 ここに建ち建つ」
 これは本校の校歌の歌い出しのことばですが、私は、ここに読み込まれている季節感と学舎のようすは、新入生が本校に第一歩を踏み入れるときの印象そのものではないかと思っています。
 合格おめでとうございます。ちょっぴり大人の雰囲気を備え持って、いよいよ高校生活が始まろうとしています。
 皆さんが入学する本校は、創立以来27年目の春を迎えました。卒業生の数はおよそ1万人に達していますが、学校の年齢としては青春まっただ中、大きな夢を抱いて、飛躍を遂げつつあるのです。平成15年度からは、国際人間科という新しい学科を設置します。本校は国際交流や語学研修に力を注いできた歴史を持っていますが、新学科の設置を軸にして、学校全体が大きく変わろうとしています。今年度からは、その先行的な取り組みも始めます。
 そのような学校に入学する皆さんに、私が望んでいることを述べたいと思います。
 皆さんは、高校に合格するという、ひとつの目標を達成しました。けれども、ここで安心してしまってはなりません。次に目指すものを定めて、改めて歩き始めてほしいのです。高校入学は、中学時代の自分にとってはゴール地点であったのでしょうが、次へのスタート地点でもあります。
  一人一人は、素晴らしい素質を持っています。おだてているわけではなく、本当にそうなのです。一人一人は、いろいろな夢や志を持って高校生活を始めようとしていることと思います。その夢や志を、はかない幻想で終わらせてしまってはなりません。形あるものに実らせるためにはどうすればよいかということを、よく考えてください。他人からの助言も大切ですが、自分の頭で考えることが不可欠です。勉強のことも、部活動のことも、進路のことも、その他のことも、他人に頼ってしまわずに、自分で考えて、切り開いていきましょう。そして、決めたからには実行してください。それこそが、自分が生きていることの証になります。真剣に取り組んでほしい、地道な努力を続けてほしい、と願っています。この3年間は、夢を育んで、形あるものにしていく期間であるのです。
 もう一つ、言っておきたいことがあります。この3年間は、身体面で急激な変化を遂げるはずですが、心の中も大きく成長していきます。心を、広く大きく成長させてほしいと願っています。そのためには、親友を見つけて、心を開いて語り合って、お互いの糧とすることが重要です。今の世の中は、周囲の人と話をしなくても情報はいくらでも得ることができます。情報が勝手に飛び込んでくると言ってもよいでしょう。けれども、それだけに頼っていてはいけません。心と心を開いて、深い絆で結ばれる真の友は、青春時代にこそ得られるものなのです。
 心を成長させるためには読書も大切です。書物に親しむ習慣がついていない人は、高校入学を契機にして、読書をする姿勢を育ててほしいと思います。
 青春まっただ中の3年間を、本校で夢を育み、心を大きく成長させてほしいと、私は願っています。
【平成14年度・入学のしおり】

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2006年12月13日 (水)

高校生に向かって書いたこと(06)

ごく自然な風景としての国際交流

 本校は、長年にわたって、学校あげて国際交流に取り組んできました。海外から生徒や教職員が来日するときには、その方々を受け入れるために、本校に声がかかることが多いのですが、それは、本校が国際交流の先進校として、広く知られているとともに、実績を評価していただいていることのあらわれであると思います。
 緑の爽やかな5月には、ユネスコ青年交流信託基金事業としてタイ・マレーシア・韓国から高校教員が兵庫県を訪れました。夏まっ盛りの8月には県国際交流協会の招きで中国広東省から高校生・大学生が兵庫県を訪れました。その方々のために、本校で交流のプログラムを計画したり、ホームステイを受け入れたりしました。
 姉妹校として交流を続けているチャーチランズ高校(オーストラリア)とカレッジ・トゥンク・クルシア(マレーシア)からの来日は、本年度はありませんでしたが、毎年、本校では国際色の豊かな風景が展開されています。国際交流は身構えて行うものではありません。ごく自然な学園生活のひとこまになっているというのが、本校の姿であると思います。
 ところで、本年度は、オーストラリア・マレーシアへの国際交流・語学研修団の派遣が15回目という節目を迎えました。本年度の国際交流・語学研修には、私も同行しました。私の場合は、英語という言葉に習熟することは、もはや諦めの境地ですが、若い高校生は、違っていました。
 国際交流・語学研修に参加して、私が感じたことは、どんな事柄に取り組む場合でも、そのときの気持ちのあり方ひとつで、結果に大きな違いが生じるということです。本校生たちは、小さな大使として、日本の国を代表しているという気構えを持って交流を続けてくれました。
 自分の考えをしっかりと持つこと、それを他の人にわかるように説明する力をそなえることは、日本人一般に不足していることであると思います。けれども、本校生たちは、研修の成果を生かそうと、言葉を駆使して懸命に取り組んでくれました。
 このような国際交流・語学研修の事業を続けていけるのは、本校国際交流振興会やPTAの温かいご支援によるところが大きいと思います。また、これらの事業の遂行のために力を注いでくれた本校教職員の労に感謝するとともに、2つの姉妹校の生徒・教職員や、オーストラリアでのホームステイを引き受けてくださった家庭にもお礼を申し上げます。
 各方面におかれましては、この事業の充実・発展のために、今後も引き続いてご指導・ご支援を賜りますようお願い申し上げます。
【平成13年・国際交流事業の記録】

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2006年12月12日 (火)

高校生に向かって書いたこと(05)

大人から子供へ、そして子供から大人へ
     -24回生の卒業を祝う-

 大人と子供のはざまにあって、揺れ動く気持ちが続いていた高校時代。その年代が終わろうとしています。
 ものごとがよくわかっていないのに、大人のような顔をしていたこともあるでしょう。えらそうな振舞いをしていたこともあるでしょう。子供の世界に早く訣別したくて、大人っぽく行動していたのかもしれません。学校は特別な世界だから、それでも通用しました。
 それがよくないと言っているのではありません。大人の世界へ入っていく演習は不可欠なことなのですから。
  けれども、高等学校を卒業するのに際して、君たちは、子供の立場に、ひとたびは立ち帰ってみてほしいと思います。そのことに関して、私の言いたいことが2つあります。
 3年間は短いけれども、お世話になった人たちは大勢いたはずです。両親、地域の方々、先生、そして何よりも大切な友人たち。そんな人たちに、時には無礼なことをしたかもしれません。周りの人たちに見守ってもらったことはたくさんあったはずです。
 そんな人たちにお礼の言葉を述べておくべきでしょう。どう言ったらいいのかわからない、などと言ってはなりません。きちんとした言葉遣いができないのに大人ぶっていたのなら、感謝の言葉の述べ方ぐらいは自分で勉強して、自分の口できちんと言っておこうではありませんか。
 もう一つ、言っておきたいことは、ものに感動する心を見失ってしまってはならないということです。その心は、子供が持っている大切なものです。社会に対する不安や不満があったとしても、大切なのは自分の心です。美しいものに感動し、素晴らしいものに驚嘆する心が、自分に備わっていることをしっかりと確認してから、大人の世界に足を踏み入れてほしいのです。そのような心を失うまいと肝に命じておいてほしいのです。

 いよいよ高等学校を卒業するときを迎えました。
  今度は紛れもなく大人の世界です。これからは、子供のような顔はできません。自分のことは自分で責任をとらなければなりません。自分の進むべき道は自分で決めて、切り開いていかなければならないのです。
 これから進んでいく世界が夢や希望に満ちているかどうか、それを他人や社会のせいにすべきではありません。自分の知らない世界に船出をしていくことほど、夢にあふれていることはない、と私は考えています。夢を夢と感じるかどうかは、大人として旅立ってゆく君たちの心の持ち方しだいです。夢をつかみとることができるかどうかも、大人として旅立ってゆく君たちの努力しだいです。これからの生活では、子供のような世界に逃げ込むことは許されません。
 社会というものは自分のためだけにあるわけではありません。自分にとって都合よくできているわけでもありません。
 自分の望んでいることが実現しないときもあるでしょう。力を蓄えながら、時を待つということもあるでしょう。努力を重ねながら、我慢をして時を待つという忍耐力は人生に必要なことなのです。それも、大人としての力です。
 機が熟すのを待つということは、自分で何事をも決められなくて、決断を先送りするということとは根本的に異なります。自分の人生の展開点を他人に決めてもらうような無様なことはしますまい。そんな、大人としての世界が、卒業していく君たちを待ち受けているのです。
 ともあれ、長い人生の中での、短い一つの期間、高等学校の時代が終わりを告げます。
 次の段階に一歩踏み出していく本校24回生のみなさん、卒業おめでとうございます。
 大きな、大きな期待を込めて、私は君たちひとりひとりを送り出そうと思います。
【学校新聞・第69号】

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2006年12月11日 (月)

高校生に向かって書いたこと(04)

他の人と一緒になって本を読む

 はじめに、映画に関係のある2人の言葉を引用します。
 映画監督の山田洋次さんの言葉。

 映画館で観客がいっぱい入って、みんなが大笑いしているときね、苦労した甲斐があったと思うな。でも、10人笑っているとその横で1人か2人泣いているってこともあるような気がする。身につまされるというか、ほんとにそういうことあるんだよなあというとき、嬉しくなって笑う人と、なぜか悲しくなる人もいるんですね。映画館だから、大勢で見るからこそ、そんな興奮があるんですよ、きっと。

  映画評論家の淀川長治さんの言葉。

 今日この日は生まれてから死ぬまで今しかない、二度と来ないの。こんな大事な日はないのよ。だから僕は全力投球するんですよ、もの書いてもしゃべっても。いつもそう思ってるのね。それを映画から得たのね。どれだけ映画から教えられたかわからないのね。映画の何が楽しいかといったら、みんなで一緒に観ることね。偉い人も魚屋のおっさんも来る。面白いと一緒になって笑うもんね。嬉しいよね、それが好きなの。
               (ともに、蛭田有一『人間燦々』求龍堂より)

 昔は、映画はみんなで集まって映画館などで見たものですが、今ではビデオで、たった一人でも、あるいは家族だけでも見ることができます。一人で見ても、数人でみても、感じることは同じであるかも知れません。
 けれども、映画館などで大勢で一緒に見ていると、自分以外の人たちがどのように感じているのか、どのように考えているのかが、瞬時に伝わってきます。周りの人は感動しているのに、自分の心はそれほど動いていないというようなこともあります。人によって異なった思いを持っているということがわかります。
 読書についても同じことが言えるのではないでしょうか。読書は、本来、個人的な営みです。どんな本を選んで読むか、読んでどのように感じたり考えたりするかは、人さまざまです。
 ところで、本を読んで感動したり考えたりしたことを他人に告げたい、感想を他人に語りたいという思いに駆られることがあります。何冊か読んだ中には、必ずそういう本があると思います。その思いは、日常の会話などで伝えられることもありますが、読書感想文という形で伝えられることもあります。
 読書感想文を読むことによって、他の人がどのように読み、どのように感じたのかということがわかります。感想文を書いた本人には、自分の感想が、他の人にどのような反応を示すかというのが興味深いことです。みんなで一緒に映画館で映画を見て、嬉しくなったり悲しくなったりする興奮が周りの人たちに伝わるというのと似ているように思います。
 私は今年、兵庫県学校図書館協議会の副会長を務めています。東播磨地区や全県の読書感想文コンクールの審査にも関わりをもって、高校生だけではなく中学生・小学生の感想文をも読む機会がありました。
 読書感想文を書くのは、コンクールに入賞することだけが目的ではありません。けれども、優れた読書感想文を書ける人は、読書への姿勢がきちんと出来上がっており、深く読み、深く考え、深く感じ取っていると思います。
 この冊子には、校内の読書感想文コンクールの優秀作品が収められています。この感想文集を読むことによって、感想文の筆者と一緒になって本を読み、一緒になって感動したり考えたりするというような経験をしてほしいと願っています。二度と来ない、大事な日々を生きるためにも読書は不可欠なことなのですから。
【平成13年・読書感想文集】

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2006年12月10日 (日)

高校生に向かって書いたこと(03)

自分で選び取る進路

 人生は面白い。何歳の時であっても、私はそのように思ってきました。そのように面白いと感じる理由は、自分がその時までにしてきたことが、自分の能力や関心のすべてではない、もっと他に何かありそうだというような、かすかな期待を感じ続けているからではないかと思います。
 それまでのことを断ち切って新しいことに挑戦する勇気は私にはありませんでしたから、転職をするとか、生き方を著しく変えるとかはしておりません。けれども、ひょっとしたら、そのようなことがあっても不思議ではなかったのではないかとも思っています。
 進路という言葉は、進んでいく道筋というような意味ですから、人は誰もが自分の進路を決めて生きているのだと思います。どちらの方向に進むのかという進路意識は、人生を歩んでいるその時その時に、いくらでもあります。ただし、自分の進路を自分で決めることを楽しいと思うか、苦痛に感じるかは、人によって異なるのでしょう。
 高等学校で進路指導というと、将来の進学や就職についての指導をするという意味になります。生徒の皆さんには、目の前のことにとらわれ過ぎないようにということをお願いしたいと思います。世の中のことを広く見たうえで、自分の身をどこに置くのかということを考えてほしいと思います。自分の心に尋ね、他人の意見を聞き、その他のいろいろなことをしながら決めていくのが自分の進路でしょう。
 その際に必要なものが、さまざまな資料です。自分を客観的に知る資料が必要です。一人の人間は、あらゆる方面の適性を備えているわけではありません。どんなことでもできるような能力を持ち合わせているわけではありません。自分の能力や適性は、いろいろな検査や試験の結果から知ることができるでしょう。そして、自分が持っている能力や適性を最大限に発揮することが進路実現だと思います。
 また、就職や進学に関する情報も大切です。この「進路の手引き」の一冊は盛りだくさんです。知りたいと思うことの欲求に応えられるようになっているはずです。存分に活用して、自分の進路を考えてください。
 そして、最後に言いたいのは、やっぱり、本校のキャッチフレーズのことです。チャレンジする姿勢が大切です。自分を過小に評価することや、萎縮することはよくないと思います。目標を定めて、それを実現しようとする強い意志を持って、あとは努力を続けることが肝要です。
【平成13年・進路の手引き】

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2006年12月 9日 (土)

高校生に向かって書いたこと(02)

日常生活から抜け出た時間・空間の中で

 人は旅をすることによって、いろいろなことを学んできました。昔流の旅であれ、現代的な旅行であれ、それは、大なり小なり、日常生活から抜け出ることによって成り立っています。
 修学旅行も同じです。校内における日常的な学習では得られないようなことを校外で体験・体得するのが修学旅行です。学校生活という時間の流れや、学校・家庭・地域という空間から抜け出ることに意義があるのです。
 25回生の、北海道への修学旅行は、与えられたコースを見て回るだけの観光ではありません。大きな自然の中で、自分から進んで参加して新しい体験をする旅となるはずです。
 豊かな自然に恵まれた北海道へは、初めて訪れる人も多いことと思います。開拓者精神を発揮して発展を遂げてきた北海道は、チャレンジ精神をキャッチフレーズとする本校と通じるものがあります。千古の時間の流れを感じる自然の景観とともに、人々が営々と築き上げてきた生活や文化も見逃せません。
 そして、今回の旅行の大きな注目点はアウトドアスポーツです。自然を痛めるような施設も動力も必要としないスポーツ、そのままの自然環境を舞台にして楽しめるスポーツ、特別なライセンスの要らないスポーツです。ラフティングは新しいスポーツですが、激流と闘うスリルや、いっしょに乗っているいる者同士の連帯感が若者の心をとらえているのだと言われています。大いに楽しんでほしいと思います。
 けれども、思い違いをしないでください。日常生活から抜け出るというのは、日常生活を逸脱するということではありません。日常の時間・空間とは異なりますが、さまざまな活動を通して、友達や先生との相互理解をさらに深めてください。そして、真剣に取り組む姿勢を失わず、責任ある行動をとってください。
 修学旅行は、在学中の最も印象に残る行事になるに違いありません。しかし、その印象が辛い思い出に重なることにならないようにするのは、参加する一人一人の自覚と努力にかかっているのです。

【25回生・修学旅行のしおり】

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2006年12月 8日 (金)

高校生に向かって書いたこと(01)

7年目の本校で一日一日を積み重ねる
     -着任にあたって思うこと-

 4月から本校に勤務することになりました。在校生の皆さんには「はじめまして」という挨拶をしなければなりませんが、私はかつて本校に勤めておりました。
 平成元年度からの6年間でした。したがって、通算の勤務年数は「7年目」ということになります。平成7年3月に本校を去ってから「7年目」の復帰ということにもなります。
 再びの本校は、いろいろな点で変化を見せていると感じました。制服が一新され、力強いイメージのシンボルマークが制定されていました。校訓に加えて「チャレンジの……」・「自律の……」というキャッチフレーズが生まれていました。教育課程も工夫が施され、2年生からは表現類型が設けられていました。運動・文化の各部が懸命な活動を続ける中で、ライフル射撃部や空手部などが若い年輪を刻み始めていました。変化を感じたことは、この他にもいっぱいあります。
 ひとりひとりの人間も、学校のような大きな組織も、一つところにとどまるのはよくないと思いますから、本校のこの状況は嬉しいかぎりです。
 もちろん、この学校の特徴とか伝統とか言われるものには素晴らしいものがたくさんあります。堅持すべきものは多いと思います。しかし、それらの中にも、もとのままで止め置くのではなく、継承して発展させるのがよいものが含まれていると思います。
 私が、ちょっと面食らうほどに、本校の変化は素早い足取りであるように思います。それを私は、この学校の大きな魅力であると思っています。
 ところで、私は平成7年度から神戸市の西部にある高等学校に勤めました。そのとき、明石海峡大橋の工事は最終の段階を迎えていました。私は3年間、工事を間近に眺めつつ通勤をしました。大橋の橋塔はすでに雄姿を見せていましたが、橋桁は平成7年の6月頃から架け始められ、少しずつ少しずつ伸びていきました。淡路島が指呼の間に見える日もあれば、橋が途中で霧雨の中に溶け込んでしまっている日もありました。
 橋桁は、昨日と今日とではどう変化したのか、わかりません。しかし、1週間とか10日間とかの隔たりで見ると、長さの違いを感じ取ることができました。そんなふうにして伸びていった橋桁は、神戸側と淡路側とをしっかりと結び合わせました。その学校から転勤することになった直後の平成10年4月には大橋の開通式が催されました。
 生徒の皆さん一人一人も同じだと思います。日ごとの変化は見えません。しかし、何か月かの間隔で見ると、大きな変化を遂げていることに驚きます。体格や体力も、知識や技能も、生きる知恵も、目には見えない一歩一歩が積み重なって、大きく成長していっているのです。それを信じて、続ける営みが教育であると、私は考えています。
 一日一日の積み重ねが、大きな変化を生んでいくのは個人だけではありません。学校全体にとっても同じことが言えます。
 明石海峡に橋を架けようという構想はずいぶん昔からありました。それが話題になるたびに、人々は「夢の架け橋」という言葉を口にしました。今、この大橋を「夢」と表現する人はほとんどいません。人は、夢を現実に変えていく、大きな力を持っているのです。
 着任にあたって私は、与えられた責務を果たさなければならないと、身を引き締めています。それは、一日一日の積み重ねによって大きな変化を生み出すこと、今は夢であるかもしれないものに現実味を帯びさせていくことであると思います。教職員、生徒の皆さんとともに、力を合わせて頑張ろうと思っています。

【学校新聞・第68号】

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2006年12月 7日 (木)

高校生に語りかけたこと(29)

また会うときまで、さようなら

 皆さんの前で話をするのは、これが最後になりました。私は、平成元年からの6年間と、平成13年からの2年間。合わせて8年間、本校に勤めました。その時々の生徒の皆さんや先生方との思い出はいっぱいあります。楽しく過ごさせていただきました。感謝の気持ちでいっぱいです。
 学校で教壇に立つということは、教えることが務めであるのですが、人生において、教えることと教えられることとは一体のものであると思います。私は、高校生の皆さんや、周囲の先生方からいろいろなことを教えられました。
 けれども、教える立場の方が圧倒的に多かったということは否定できません。長い間、学校に勤めてきて、私は今、自分の中に蓄えていたものの底が見え始めたと感じています。しばらく充電をしようという気持ちになりました。定年という機会は、ゆっくりとものを考える時間を持つには大きなチャンスの到来です。
 私は4月1日をもって、大学生になりました。ある大学の文学部の学生です。と言っても信じないでしょう。難しい入学試験に合格できるはずがありません。けれども、この大学には通信教育課程というのがあります。
 私がかつて大学生であったのは、もう40年も前です。今の大学の講義を聴いて、現在の学問の先端に触れたいという気持ちがつのっているのです。夏にはスクーリングを受けるために東京へ行きます。今から楽しみにしています。大学で勉強すると言っても、私は資格を取ったり、就職を目指したりする必要がありません。若い人に混じって、のんびりと、楽しく勉強をします。
 よほどのことがない限り、私の人生はまだ10年も15年も続くでしょう。私はこれから後の時間を余生であるとは思っていません。しばらく充電して、その後は再び新しいものに取り組むつもりです。
 お互いに、自分自身にとって悔いのない道を歩んでいきましょう。私はこの学校とはお別れですが、皆さんの中の誰かとは、いつかどこかでお会いするかもしれません。その時まで、さようなら。どうかお元気で。

【2003年4月9日=離任式】

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2006年12月 6日 (水)

高校生に語りかけたこと(28)

甘えを捨てて、基本に徹した生き方を

 明日は春分の日です。ずいぶんと春らしさがつのってきました。昨日は高校入試の合格発表があって、いよいよ新入生を迎える季節になりました。
 さて、私はゴルフというスポーツはしません。けれども今日はゴルファーの方の話です。私は漫画は読みません。けれども今日は漫画の原作を手がけておられる方の話です。
 実は、ある雑誌でインタビュー記事を読むまでは坂田信弘さんのことは、まったく知りませんでした。坂田信弘さんは、京都大学を中退した後、いろいろな職業を経験され、28歳でプロゴルファーのテストに合格されました。漫画の原作も書かれ、「風の大地」で小学館漫画賞を受賞されたそうです。ご自身は、人生の回り道をいろいろと歩き、それが現在の自分を作り上げたと思っておられるようです。
 その坂田信弘さんは、10年ほど前から、小学生から高校生までを集めたジュニアゴルフ塾を続けておられます。集まったジュニア塾の子供たちに向かって、坂田さんの大声が響きます。その言葉の中身は、

 やる気、負けん気、へこたれん気が、勇気と覇気を作り、その5つの気が気迫を作るんだ。

というのだそうです。自分に甘い気持ちを持っていてはいけないということだと思います。
 坂田さんの考えは実に明快です。

 反復練習で忍耐力と基本を身に付ける。できなければまた基本に戻る。その繰り返しだ。体で覚えるのが一番だ。

というのです。基本的なことを繰り返して、きちんと身に付けることが大切だということです。
 また、坂田さんの塾には塾7か条というものがありますが、そのうちの5つは、

 隠し事をしない、嘘をつかない、挨拶をする、礼状を書く、約束を守る。

ということです。これは、社会で生きていく上での基本的なルールです。人と人との間で必要な、あたりまえのことです。
 私は長い間にわたって、高校生に接してきました。今も昔も高校生は純真で、素晴らしい可能性を持った存在です。けれども、私が今の高校生を見て一番残念に思うことは、弱々しさが目立つということです。精神面でも身体面でも、そのように感じます。
 人は時代の流れの中で生きていますから、社会の変化につれて高校生も変化してきたのは当然です。高校生は大人の世界を映しているとも言えます。そういう意味では、大人一般とも共通することです。世の中には、平気で嘘をつく人がいます。言い逃れをしてごまかそうとする人がいます。他人への配慮が乏しく自己中心である人がいます。大人の中にもそのような人がいます。自分に対して甘い人です。
 生きる力という言葉がしばしば使われていますが、私は、社会の基本的なルールをしっかりと身に付けることこそが、生きる力であると考えています。
 そして、自分のことは自分でするということが大切です。自分に与えられたことを、弱音を吐かずにやり抜くことです。世の中はあまりにも過保護な世界になっています。他人に手助けしてもらうことを当然だと考えている人がいます。親切であることと過保護であることとはまったく違うのですが、そのことに気付いていない人がいます。過保護から抜け出すには、自分で責任をとるということしかありません。
 今日は終業式です。1年間の学校生活の区切りの日です。この1年間の自分自身を振り返ってみてください。自分自身の中に巣くっている甘え心に気づきませんか。自分のことは自分でするのだという気構えを、改めて強く持ってほしいと思います。その気持ち一つが、学業への取り組みも、部活動の姿勢も、社会生活をする考えや態度も変えていくのだと思います。一歩一歩、大人の世界に仲間入りしようとしている君たちにとって、甘え心を捨て去ることと、基本に徹した生き方をすることが必要だということを、強く言いたいと思います。

【2003年3月20日=3学期終業式】

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2006年12月 5日 (火)

高校生に語りかけたこと(27)

人の世を凛々しく健気に生きていく

 春という季節ほど、私たちの生活の中で変化を感じる時は、他にはないと思います。しだいに日差しが柔らかく、まぶしくなってきました。草や木や土のにおいも新鮮に感じられるようになりました。厳しい冬に耐えていた力、静かに時を待っていたエネルギーが、一気に噴き出してくる季節です。
 そんな時を迎えると、私たちも新しいものに向かって歩み出していこうとする気持ちがつのってきます。自然の変化とともに、人も移り変わっていく季節です。
 本日ここに、PTA会長様をはじめご来賓の方々、多くの保護者の方々のご出席をいただき、第25回卒業証書授与式を挙行できますことを心から嬉しく思います。
 ただ今、344人の皆さんに、本校の課程を修めたしるしとして、卒業証書を授与いたしました。
 卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。本校25回生である皆さんは、平成12年4月に入学してから、この3年間の高等学校時代に見事な成長を遂げて、今、播磨が原に建つ、思い出多い学び舎を巣立とうとしています。本校で過ごした年月のことを、さまざまな気持ちを織り混ぜながら、思い返していることと思います。
 さて、早春の季節に私たちの目を楽しませてくれるのは、とりわけ梅の花です。梅を詠み込んだ詩歌は数多くありますが、私はふと中村草田男の俳句を思い浮かべました。それは、

   勇気こそ地の塩なれや梅真白

という句です。「地の塩」というのは、新約聖書マタイ伝第5章に出てくる言葉です。聖書では「地の塩」というのは信仰の篤い人を指しているのだと思いますが、私は今、宗教の話をしようとしているのではありません。塩は物の腐敗を防ぎますから、「地の塩」があれば、地上にある物は新鮮に保たれます。それとともに、「地の塩」という言葉は、勇気を持って、社会のために無償で尽くすことのたとえでもあります。私たちの住む社会から濁りのあるものを取り除いて、社会を向上させる規範となることであり、また、そのようなことを行う人のことでもあります。一人一人が勇気を持って、みんなのために尽くそうとする気持ちを持たないと社会はしだいに腐っていってしまいかねません。
 この俳句を中村草田男が作ったのは第2次世界大戦の末期です。かつての教え子たちが成長した後に、まだ学生の身でありながら戦いの火の中へ出陣していかなければならない状況に置かれたことに際して、無言で書き示したものであると伝えられています。今、世界では、イラクをめぐって戦争のきな臭さが漂い始めています。いかなる理由を設けようとも戦争を容認することはできません。
 俳人・中村草田男は、「勇気こそ地の塩なれや梅真白」という、わずか17文字の中に、凛と咲く白い梅の花に託して、社会を正そうとする勇気と、戦争への思いとを表現しているのだと思います。
 卒業生の皆さんには、勇気を持って社会のために尽くそうとする気持ち、無償でみんなのために力を注ごうとする気持ちを持って行動してほしいと願っております。
 そのようなことを言いながらも、卒業生の皆さんが船出をしていく世の中は、不況のただ中にあります。社会に直接旅立っていく人たちも、大学・短期大学・専門学校等に進学する人たちも、これからの行く先に、大きな期待や希望とともに、いくらかの不安を抱いているかもしれません。けれども、長い人生の途上には、順風のときもあれば逆風のときもあります。いつまでも同じ状況が続くとは思いません。順境にある時も逆境にある時も、生きる姿勢を変える必要はないのではないかと、私自身は考えております。
 どのような状況にあっても、人は、その人その人に特有の個性や特性をそなえて、それを育て上げていくことが大切です。卒業する皆さんには、これからも自分の個性や特性を存分に伸ばすことを心がけてほしいと願っております。自分らしさを発揮することが、今の社会を生き抜いていく力にもなるはずだと思います。
 皆さんは、これまでに、何か夢中になるものを持ったことがあるでしょうか。高等学校時代にそれを持った人もいるでしょうし、まだ持ったことがない人もいるかもしれません。夢中になるものにまだ出会っていない人は、これからでも遅くはありません。損得勘定とは関係なく、打算的な思いからではなく、夢中になれるものに出会ってほしいと思います。それが個性や特性を育てていくことになるのです。
 これからの長い人生の間に、何を求めて、何をよりどころにして生きていくかということは、一人一人が自ら探し出すべきものであります。夢や希望を大きく描いて、果敢に生きていってほしいと願っております。物事が成し遂げられるかどうかは、その人が持っている能力によるのではなくて、夢や希望をいつまでも持ち続けて、それを実現しようとする決意や情熱がどれほど大きいものであるかということに関わっているのであると思います。本校を卒業していく皆さんには、これからも成長を続けて、社会の中で、自分が生きていくための、しっかりとした基盤を築いていくことを期待しております。
 最後になりましたが、保護者の方々に一言申し上げます。ご子弟は蛍雪の功が成って、晴れの卒業の日を迎えられました。誠におめでとうございます。そして、保護者の方々から本校教育に賜りましたご支援に、改めて深く感謝申し上げます。ご子弟は、本日をもって本校を巣立たれますが、今後は同窓会である輝翔会の会員として、母校との絆を持ち続けられることになります。新年度から国際人間科を設置し、新たな飛躍を目指す本校をいつまでもご支援ださいますようお願い申し上げます。
 ご来賓の方々も、本校を卒業して天がけりいく鷲たちを、いつまでも温かく見守ってくださいますようにお願い申し上げます。
 卒業生の皆さん、いよいよ門出です。私たち教職員は、皆さんの今後の発展と活躍を心から期待するとともに、それぞれの道を切り開いて進んでいってくれるであろうことを信じています。皆さんは、大きな夢や希望を思い描いて、それを現実のものにしていこうとする固い決意や強い情熱を持って、それを実現させるとともに、地球を支える一員として、広く周りの人や社会に貢献する働きも果たしてほしいと願っております。健康に留意し、凛々しく健気に生きていってください。皆さんの前途に幸多からんことをお祈りし、もって式辞といたします。

【2003年2月28日=卒業式】

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2006年12月 4日 (月)

高校生に語りかけたこと(26)

他人の心は自動では開いてくれない

 一年中で最も寒い時期かもしれませんが、今日は立春です。木や草は蕾を大切に育てて春を心待ちにしています。一日一日と春の兆しがつのっていく中で、学校も動きのある季節を迎えます。本校を巣立っていく3年生の卒業式は2月末です。本校に迎える新入生に対して、2月中頃の推薦入試と、3月中頃の一般入試が行われます。1年生、2年生にとっても、次の段階に歩を進める時期になりました。
 さて、学校ではそこまでいっていませんが、町なかの大きなビルでは、ドアは自動です。ドアの前に立てばサッと開きます。上の階にあがるためにはエレベーターやエスカレーターを利用します。それに乗ってしまえば、じっとしていても上の階に着きます。
 ほとんどのことを自動で済ますことのできる便利な世の中になりました。自動販売機にコインを投入すれば、お好みの飲み物や食べ物が瞬時に手に入ります。面倒な言葉を交わす必要がありません。
 けれども、そのような便利さと引き換えに、私たちが失いつつあるもののことを忘れてはなりません。失いつつあるものは何なのか、気づいているでしょうか。
 自動の装置が付いていなければ、ドアは手を使わなければ開きません。古くなったドアには、開ける時に一工夫の要るものがあります。無理に開ければ大きな音がしそうなドアは、周りの人のことに配慮して、できるだけ音を立てないように開けようと工夫をします。人々には、生活の習慣の中で自然に身につけていた心遣いがあったのです。今、そのような心遣いと無縁の人が増えつつあるように感じます。
 全部自動にしたら世の中が良くなるのではないか、機械文明の恩恵を受けることによって人々にとって素晴らしいものを手に入れたのだという考えは、ひょっとしたら勘違いではないのかということも考えてほしいと思うのです。
 物に接するときの心の持ち方が、人に接するときの心の持ち方にも影響を与えているようにも思います。
 自動であれば、突然ドアの前に立ってもドアは開いてくれる。もしも、開いてくれないドアがあれば、そのドアは壊れている、壊れている方が悪いのだ、管理する人がきちんと修繕しておかなければ困るというように考えます。相手に責任があるのだという考え方です。
 人と人との間柄についても、同じような短絡的な考えをしている人はいないでしょうか。突然相手の目の前に立てば、相手の心が開いてくれるはずだ、心を開かない相手がいたら、その相手が悪いのだ、そんな人は自分にとっては意味のない存在だ、敵のようなものだと思ってしまう……。そのような考え方をする人が引き起こす事件も起きています。
 相手の表情や、言葉の端々から相手の心の中の様子を読みとって、人間関係を築いていくということを、面倒くさいと思ったり、そのような努力をすることをはじめから放棄してしまっている人もいるように思います。
 人々がこれまでに知らず知らずの間に習って身につけていた社会のルールや、身の処し方を、現代文明の進展につれて、知らない間に忘れてしまいつつあるのかもしれません。現代文明のさまざまな恩恵を受けることと引き換えに、人間関係が希薄になるとすれば、寂しく悲しいことではありませんか。
 私は、科学技術の進展を否定しようとは思いません。けれども、世の中が便利になったということによって、人間の心にとってマイナスの要素になるものも背負っているという自覚が必要ではないかと思います。これまでの人々が持ち続けてきたものをよく見つめて、捨て去っていいものと、捨ててはならないものとを識別する目を持ってほしいと思います。

【2003年2月4日=全校集会】

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2006年12月 3日 (日)

高校生に語りかけたこと(25)

自分ひとりの歴史を積み重ねて生きる

  2003年、平成15年という、新しい年を迎えました。
 季節はこれからますます寒さが厳しくなっていきますが、私たちは新しい年を新春として迎えます。雪空のもと、季節風が吹きすさぶ季節であるにもかかわらず、新しい一年の始まりの時を新春と呼ぶのは、私たちの気持ちが反映していることのあらわれです。
 新しい年を迎えて、皆さんはそれぞれ、この一年への期待や意気込みを抱いていることと思います。「初心、忘るべからず」という言葉がありますが、改まったときに抱いた思いが、自分を励まして前進させる力になることは疑いのないことです。この一年、お互いに努力を続けましょう。
 私も、新年を迎えて、いろいろなことを感じ、さまざまなことを考えました。けれども、私はもの覚えがよくありません。いったんは気持ちを引き締めることをしても、すぐに忘れてしまいかねません。
 もの覚えがよくないということへの対策は、私の場合は、ひとつしかありません。忘れないうちにメモをとって記録に残すということだけです。記録しているものを読み返すことによって、その時の状況や思いを甦らせる助けになります。
 ところで、先日、ある大学の助教授の方が書かれている文章を読みました。次のようなことが書かれていました。

 学生に宿題を出した。提出期限を忘れないように手帳に書いておくようにと念を押したところ、手帳を取り出した学生は半分にも満たない。他の学生は手元で何やらごそごそやっている。近づいてみたら、携帯電話のスケジュール帳に記録しているらしい。

  私は、メモをしておきなさいという指示をしなければ手を動かさない学生に驚きますが、大半の学生が紙ではないものにメモをしている、そんな時代になったのだということをも認識させられました。
 この助教授の方の文章には、この話に続けて、次のようなことが書かれていました。

 十数年前に、世間で広く使われるようになった電子手帳を愛用していたが、ある時それを地面に落としてしまった。慌てて拾ったが、後の祭り。スイッチを入れても何の反応もなく、自分の大切な情報は一瞬のうちに消滅してしまった。

 私も、もう長い間パソコンの世話になっていますから、紙以外のものにもいろいろな記録をしています。けれども、記録していたものが何かの事情で一瞬のうち消え去るかもしれないという不安は感じ続けています。
 私は、記録したものが消えたら消えたでいいではないかという、割り切った気持ちになれません。それはなぜでしょうか。それは、たぶん、いったん自分が考えて作り出したものを、必要性が薄らいだからといって次々と消していっていいのだろうかという気持ちと表裏一体になっていると思います。
 人は、その人その人の独自の歴史を積み重ねて生きています。それは、昔のことにこだわるとか、過去ばかり振り返って生きているという意味ではありません。私は、毎日の日記を書こうとか、何かの作品を残そうとかということを勧めようとしているのではありません。
 けれども、一人一人はみんな異なった道を歩いています。今、自分が歩いている道を、歩き終わったらすぐに記憶の底から消し去ろうということだけはしないでおこうということを言いたいのです。
 自分が歩いている道のことを、歩いている自分が納得して歩き続けるとともに、立ち止まって振り返り見たときに自分を評価してやることができる。そのような道を歩きたいと思います。皆さんにとって今年一年が、そのような年になることを願っています。他の人とは違う、自分独自の歴史を積み重ねて、しっかりと歩いていってください。

【2003年1月8日=3学期始業式】

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2006年12月 2日 (土)

高校生に語りかけたこと(24)

『やる前から諦めるな、やってみなはれ』

 私はスポーツが得意ではありません。走るのは遅いし、球技も苦手です。たった一つ、他の人に比べてあまり見劣りしないと思っているのは、歩くことと、山に登ることぐらいです。歩くのは特に長い距離を歩くことで、1日に30㎞ぐらい歩くのは平気です。山はかつてはワンダーフォーゲル部の顧問をして3000メートル級の山にもよく登っていました。
 山のことを考えたり、雪の季節になったりすると、私の頭に浮かんでくる歌があります。「雪よ岩よ われらが宿り 俺たちゃ町には 住めないからに……」という言葉で始まる『雪山賛歌』です。この歌の作詞をされたのが西堀榮三郎さんです。
 国際地球観測年というのがあって、日本が南極観測隊を初めて派遣したのは、ずいぶん昔、私がまだ中学生の頃でした。南極探検と言えば、明治の末年の白瀬中尉という人が有名ですが、私にとってこの人は過去の人でした。私には、南極観測船「宗谷」に乗り組む観測隊の人たちがヒーローに見えました。
 その隊員の中で、「南極に行く意義は越冬にある。私なら越冬ができる」と主張したのが、53歳になっていた西堀榮三郎さんでした。そして、11人が選ばれて昭和基地と名付けられたところで越冬して観測をすることになり、西堀さんは越冬隊長になりました。
 初めて経験する南極大陸での越冬では、ブリザード(雪嵐)で建物が壊され、地面の氷が割れて食糧を失いました。隊員たちは恐怖心を抱いて、研究や観測どころではないと皆が思ったようです。
 そのような隊員たちに比べて、西堀さんは、食糧を確保するためにアザラシを捕ったり、夜はオーロラの輝きに魅了されたりして、元気いっぱいでした。
 ある時のことです。西堀さんは部屋にこもって煙草の空き缶を組み合わせて、雪の結晶を調べる道具を作りました。それを見た隊員が、「そんなもので科学の観測ができるのか」と尋ねました。たしかに玩具のような観測器具に見えたのでしょう。それに対して、西堀さんの口をついて出たのが次のよう言葉でした。

 やる前から駄目だと諦める奴は、一番つまらん人間や。自分を蔑むな。落ちこぼれほど強いんや。まず、やってみなはれ。

 この言葉によって、隊員たちの顔つきが変わったそうです。それから後は、隊員の一人一人がテーマを見つけて観測が充実していったということです。
 1年半ぶりに帰国した南極越冬隊の気象や地質の観測の成果は、世界を驚かせました。オーロラの発生の謎を解き明かすことにつながる研究もありました。
 関西弁丸出しの「やる前から諦める奴は、一番つまらん人間や。まず、やってみなはれ。」というは言葉は、周囲の人を奮い立たせて、大きな効果をもたらしたのです。
 2学期の終わりを迎えました。年末・年始という区切りの時でもあります。この1年間の自分自身を振り返ってください。
 なんだかんだと理由をつけて、努力を怠っていたことはないでしょうか。物事にとりかかる前にあきらめてしまっていたようなことはないでしょうか。自己を主張するあまりに他人のことが眼中になかったというようなことはないでしょうか。
 改めるべきものは改めましょう。1年を振り返るとともに、次の段階への展望と意欲を持って、新しい年を迎えたいと思います。

【2002年12月24日=2学期終業式】

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2006年12月 1日 (金)

高校生に語りかけたこと(23)

文化の受け取り手と作り手

 この世の中には、日本中の誰もが知っているような有名な人がいます。ノーベル賞や、文化勲章、その他のいろいろな賞を受けたり、業績が高く評価されている人。野球の日本シリーズ、サッカーのワールドカップ、その他のさまざまなスポーツや芸術の世界などで、世の脚光を浴びている人。また、政治・経済・その他の分野でめざましい活躍をしている人。そのような人たちが、社会の牽引力になっているということは否定できません。
 それらの人々がそなえている力の大きさには驚きます。それは他の人には真似のできない、素晴らしいことです。けれども、そのような力をそなえている人は、無数の人たちのうちの、ほんのわずかな人数にすぎません。
 私自身はもちろんですが、世の中の大多数はいわば無名の人です。世間の人から注目を浴びることも少なく、華やかな世界とは無縁に生きているのが大多数の人たちです。もちろん、人の価値は、華やかであったり、有名であったりというようなことだけで量れるものではありません。
 こんな話をするのは、11月3日の文化の日を前にして、文化ということを少し考えてみてほしいと思うからです。辞書でどのように定義されているのかは別にして、私は勝手に、文化について、こんなふうに考えています。
 文化は、優れた力を持った、特定の人が作り上げたものとは限りません。人々の生活の知恵の中から生まれたものも無数にあります。世の中にある有形・無形のさまざまな文化は、ごく一部のものを除けば、たった一人の力によって完成されたものではないと言っても差し支えないでしょう。一つの時代だけで完成されたのではなく、時代の変遷に沿って、多くの人の知恵を集めて、進化・発展を遂げてきたというものもたくさんあります。たいていは、誰かがはじめて作ったり思いついたりしたものを、他の人が受け継いで変化させ発展させてきたのだと思います。物も、考え方も、組織なども同じだと思います。
 先月、私は東播磨地区にある2つの高等学校の創立記念式典に出席しました。どちらも歴史の長い学校で、90周年の学校と100周年の学校でした。90年とか100年の学校ということは、創立当時の教職員や生徒で現存している方はほとんどおられないということです。けれども、それぞれの学校では、校風とか伝統とか言われるようなものを含めて、さまざまなものが、前の人から次の人へと受け継がれて、維持させたり発展させたりして、今の学校の姿が出来上がっているのだと感じました。次々に受け継がれて、学校の文化は作り上げられてきたのです。本校のこれまでと、これからの文化についても同じことが言えると思います。
 そのようなことは、学校の中だけに限ったことではありません。この世の中のあらゆるものは、前の人たちから次の人たちへと受け継がれています。人間の長い歴史の中で、共通の財産として手に入れてきたものの上に、今の私たちの生活があるのです。そして、それらを作り上げてきたのは有名・無名を問わず、これまでの人々の営みなのです。
 さて、今日の話の結論です。自分を取り巻いているものすべてのものは、人々が作り上げてきた文化です。文化は、人間の長い歴史を通じて先人たちが作り上げてきました。私たちは今、それを受け継いでいます。そして、自分自身で意識しているかどうかはわかりませんが、それを発展させて次の人たちに手渡す役割を果しているのです。私たち一人一人は文化の受け取り手であるだけではなく、文化の作り手であるということは、紛れもない事実であると思います。文化のどのような作り手になるのかということは、自分が将来どのような進路を選び、どのような分野に身を置くかということと関連づけても考えてみてほしいと思います。

【2002年11月1日=全校集会】

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