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2007年6月30日 (土)

【掲載記事の一覧】

 ブログをお読みくださってありがとうございます。
 これまでに連載した内容について、コメントを添えてご案内します。
 お読みくださって、感想・意見・連絡などがありましたら、
       kokugo.kyoiku@gmail.com
  宛に、よろしくお願いします。

≪掲載を継続しているもの≫
◆国語教育を素朴に語る (01)~(40)~継続予定
    [2006年8月29日~2006年10月1日]
    [2007年4月1日~2007年4月6日]
 雑誌『月刊国語教育』(東京法令出版)に毎月連載している、中学校・高等学校の国語科教員向けの文章です。現在のところ、2007年(平成19年)9月号までの執筆を終えました。それが連載45回目にあたります。このブログのタイトルは、その題名をそのまま使っています。

◆神戸圏の文学散歩 (01)~(05)~継続予定
   [2006年12月27日2006年12月31日]
 雑誌『月刊国語教育』(東京法令出版)に、年2回のペースで連載しているものです。カラーグラビアに文章を添えて4ページ構成です。1回につき30枚以上の写真を載せますから、取材・撮影にも時間がかかります。①明石、②須磨、③有馬、④高砂、⑤尼崎、⑥生田・布引、⑦芦屋が雑誌に掲載済みです。⑧は加古川の予定です。

◆言葉カメラ (01)~(85)~継続予定
    [2007年1月5日~2007年1月31日]
    [2007年2月21日~2007年2月28日]
    [2007年3月16日~2007年3月31日]
    [2007年4月19日~2007年4月30日]
    [2007年5月9日~2007年5月30日]
 書き下ろし(撮りおろし)です。言葉に関する写真にコメントを添えています。
 1冊の本にまとめられたら嬉しいと思っています。まだまだ材料はいっぱいあります。

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (01)~(42)~継続予定
    [2007年2月1日~2007年2月20日]
    [2007年3月1日~2007年3月15日]
    [2007年5月1日~2007年5月7日]
 方言で書かれた詩や、方言にまつわる詩です。学生たちが書いた作品を紹介しています。

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (01)~(04)~継続予定
   [2006年12月23日~2006年12月26日]
 書き下ろしです。折に触れて言葉に関して考えたことです。この連載は、時々、再開する予定です。

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (01)~(27)~継続予定
    [2007年1月1日~2007年1月4日]
    [2007年6月7日~2007年6月29日]
 書き下ろしです。新聞・雑誌などの文章の事例に基づいて、感じたことを書き綴ります。この連載は、時々、再開する予定です。

◆写真特集・さくら (01)~(11)~継続予定
    [2007年4月7日~2007年4月17日]
 兵庫県内を中心として、桜の写真10枚で構成しました。これからも続けますが、再開するのは来春です。

◆写真特集・季節の花 (01)~(03)~継続予定
    [2007年5月8日、5月31日、6月30日]
 季節の花の写真10枚で構成しました。これからも、折りに触れて掲載します。

◆昔むかしの物語 (01)~継続予定
    [2007年4月18日]
 何かの記事や出来事に触発されたときに、思い出したように書くことになるだろうと思います。

≪掲載が完結しているもの≫
◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日~2006年10月4日]
 雑誌『兵庫教育』(兵庫県教育委員会)に掲載した、教員向けの文章です。

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日~2006年10月11日]
 雑誌『月刊ホームルーム』(学事出版)に掲載した、学級(ホームルーム)を担当している教員向けの文章です。

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (01)~(18)
    [2006年10月16日~2006年11月2日]
 雑誌『教職課程』(協同出版)に掲載した、教員志望者(学生など)向けの文章です。

◆教職をめざす若い人たちに (01)~(06)
    [2007年6月1日~2007年6月6日]
 機関誌『教職教育センター年報2006年度』(甲南大学教職教育センター)に掲載した、教員志望者(学生など)向けの文章です。

◆これからの国語科教育 (1)~(6)
    [2006年11月3日2006年11月8日]
 高等学校国語科教員向けの講座(兵庫県教育委員会)で話した内容をまとめました。

◆兵庫県の方言 (1)~(4)
   [2006年10月12日2006年10月15日]
 ラジオ関西で放送したものの原稿です。時間は30分間で、対象は高齢者(と一般聴取者)です。

◆高校生に語りかけたこと (01)~(29)
    [2006年11月9日~2006年12月7日]
 自家版『ことば旅3』からの転載です。いろんな機会に高校生に向かって話したことを集めたものです。

◆高校生に向かって書いたこと (01)~(15)
    [2006年12月8日~2006年12月22日]
 自家版『ことば旅3』からの転載です。いろんな機会に高校生に向かって書いたことを集めたものです。

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写真特集・季節の花(03) 【住吉神社の紫陽花】

明石市魚住町・住吉神社の紫陽花

 私の住んでいる地域は、明石市魚住町中尾にある住吉神社の氏子です。古い神社で、境内には万葉集の笠金村の歌碑があります。
 この神社に近年、あじさい神苑が作られました。特に珍しい品種はありませんが、播磨灘の穏やかな海を見渡せる神社は紫陽花の季節を迎えています。

【写真は、2007年(平成19年)6月23日に、兵庫県明石市内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫

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2007年6月29日 (金)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(27) 【「~」】

「~」を「から」と読む

 「スタッフは午前9時半~午後2時まで常駐する予定で、若女将らも仕事の空き時間に顔を出し、観光客に接する。」
  [産経新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月25日・夕刊、4版、12ページ]

 「8時~12時まで」のような表記は、街の看板などにも多く見かけます。そのたびに私は「8時から12時まで」と書くべきだと思います。なぜ「から」だけを「~」で書くのか疑問に思うのです。
 「8時~12時」という書き方には違和感を持ちません。左右に書いてある時刻を結んで、その間の時間帯を示しているからです。これは[8時ないし12時]であって、後ろに「まで」という言い方を必要としません。
 ワープロソフトの一太郎の辞書では、「から」と「ないし」に「~」への変換が表示されます。
 さて、上記の新聞にも[~、まで]の組み合わせが出ていました。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月28日 (木)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(26) 【赤髪】

発音のことを考えていない「赤髪」

 「金髪の安田(ガ大阪)と赤髪の槙野(広島)だ。」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月28日・朝刊、13版、18ページ]

 髪の色を表す言葉はいろいろありますが、「金髪」「銀髪」「白髪」「茶髪」などの「髪」は音読して[はつ(ぱつ)]と読みます。「黒髪」は訓読して[かみ]と読みます。
 さて、「赤髪」は何と読むのでしょうか。新聞は、意味がわかれば短く書く方がよいという方針のようですから、発音などに拘わらず、「せきはつ」でも「あかかみ」でもいいじゃないかという考えのようです。どちらの読み方をしても、「赤髪」は国語辞典には無縁です。
 テレビやラジオでは、発音して伝えなければなりませんから、こんな言葉は使わないでしょう。例えば、「金色の髪」と「赤い髪」という言い方をするでしょう。新聞記者は、ちょっと言葉を発音してから、文字に書き留めるということをすべきだろうと思います。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月27日 (水)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(25) 【一職員】

「一」は、〝優れたもの〟の意味と、正反対の意味を合わせ持つ

 「年金記録をずさんに扱った『おわび』として、上は安倍首相から下は社会保険庁の一職員まで、夏のボーナスの一部を自主返納することになった。」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月27日・朝刊、13版、3ページ、「社説」]

 「幹部から末端までを対象とし、退職者にも応分の『寄付』を求めるという。」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月27日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」]

 数を表す「一」ですが、1番目の例文の「一職員」は、一人の職員という意味ではありません。「一職員の美談が話題になっている」というような文であれば、一人の職員という解釈をしてもよいでしょう。けれども、上の例は違います。
 そのことを裏づけるように、2番目の例文では「末端」という言葉が使われています。

 広辞苑では、「一」のいろんな意味が書かれていますが、価値判断に関わるものとしては[最も優れたこと。また、そのもの。第一。首位。最上。最善。]と説明しています。けれども、[つまらない。とるにたりない。]の意味が欠けています。この語に関しては、その意味を明記している、例えば三省堂国語辞典などに軍配があがります。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月26日 (火)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(24) 【記者団】

「記者団の質問に答えた」という挿入文

 「安倍首相は23日、夏の賞与を一部返納する方針との一部報道について……(中略)……と述べ、年金記録の管理問題を受けて賞与の一部を返納する意向を示した。沖縄県糸満市で記者団の質問に答えた。返納は議員歳費を除いた上乗せ部分で、二百数十万円程度になる見通し。」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月24日・朝刊、13版、2ページ]

 自社以外が報道したニュースについては、それが何社であろうと「一部報道」だとして、澄まし顔をするのは新聞社の常套的な姿勢ですが、今日は、そのことについて書くのではありません。もう一つ別の常套的な表現のことです。
  「沖縄県糸満市で記者団の質問に答えた。」という文は、前文の末の「……意向を示した。」との間で滑らかな続き具合にはなっていません。文脈が切り離されてしまっているのです。
  この文は、例えば「この発言は、沖縄県糸満市で記者団の質問に答えたものである。」というようにしなければならないと思います。
 この文は、前後の文脈の中に割って入った文ですが、なぜ、この位置に割り込んでいるのでしょうか。文章の最後に入れる方が落ち着きます。
 それよりも何よりも、この文は、書く必要のない文であるとも言えます。取材の経緯を述べているだけであって、ニュースの内容とは関係がありません。記者はこのようにして取材しているのですよ、というような自己主張をしているだけのように見えます。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月25日 (月)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(23) 【アマチュアカメラマン】

新聞社の「名のあるカメラマン」と、市民の「アマチュアカメラマン」

 「『太平洋の白鳥』と称される世界最大級の練習用帆船『日本丸』(2570㌧)が23日午前、神戸港に入港した=写真手前=本社ヘリから、荒元忠彦撮影。8日に入港していた『海王丸』(2556㌧)の後ろに着岸し、……」
 「岸壁には大勢のアマチュアカメラマンが訪れ、……」
  [いずれも、朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月23日・夕刊、3版、11ページ]

 写真説明を別に設けることをしない場合は、本文中に、文脈とは関係のない言葉が割り込んできます。しかもカッコなどで明確に区切っていませんから、気になります。このような書き方を新聞社は何年も前から行っていますから、読者が慣れてしまっただろうと考えているようです。
 けれども、この変な日本語は、いつまで経っても気になります。「ヘリから」とか、撮影者名を仰々しく書く必要があるのでしょうか。どうしても必要があるのなら、記事の文章とは別に、写真説明を書けばよいと思います。

 一方で、市民はすべて「アマチュアカメラマン」として、ひとくくりにされます。私はいつもカメラを鞄の中に入れていますから、この風景を見かけたら撮影をするでしょう。けれども、行きがかりに撮っている人が「カメラマン」という意識を持っているかどうかはわかりません。その上、新聞社の写真部員以外は「アマチュア」だと言ってよいのかどうかも疑問です。

 記者会見に出席できるのは報道機関の人間だけだというような特権意識を、知らず知らず身に付けてしまって、社会面に載せるような記事にも同じ姿勢がにじみ出てしまってはいないでしょうか。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月24日 (日)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(22) 【カリスマ】

記事のどこにも書かれていない「カリスマ」

 「カリスマ社長、引退宣言」【見出し】
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月23日・朝刊、13版、11ページ]

 「カリスマ」とは、超人間的・非日常的な資質、のことであると広辞苑には書いてあります。そうであるのなら、カリスマと言われるような人は、めったに存在しないはずです。
 ところが、世の中には、自称・他称を含めて、カリスマがあふれています。そして、新聞・テレビなどの報道によって増幅されています。カリスマだけではありません。それぞれの世界(業界など)には名人・達人・鉄人・王様などがやたら多いのです。それに飽きたりずに、頭に「超」をつけて超カリスマと言ったりしています。
 本文中には「積極的な企業買収で知られる」とか「企業トップ」とかの言葉がありますが、どういう意味での「カリスマ」なのかはわかりません。これも、記事を整理して見出しを付ける際に、担当者が思いついたものでしかありません。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月23日 (土)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(21) 【ほぼ全面的】

「ほぼ全面的」は「全面」に等しいか?

 「22日午前7時55分ごろ、さいたま市大宮区吉敷町4丁目付近でJR宇都宮線と高崎線上り線の架線が切れ、送電がストップし、両線は一時、ほぼ全面的に運行できない状態になった。」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月22日・夕刊、3版、1ページ]

 見出しには「架線切れJR不通」とあります。実際の不通状況がどうであったかということではなくて、言葉に関して感じたことについて述べます。
 「全面ストップ(運行できない状態)」という言葉を使うとすれば、それは、まったく動かないことです。
 「全面的に運行できない状態」という表現からは、ほとんどの列車は止まったが、例外もあるという感じが伝わってきます。
 だからこそ、それをさらに強めるために「ほぼ」という言葉を加えて、「ほぼ全面的に運行できない状態」にしたのだと思います。それでもやはり、「全面ストップ(運行できない状態)」ではないという意味が伝わってきます。「ほぼ」を使ったからこそ、よけいに、「全面ストップ」でないという印象を強めてしまったかもしれません。
 記者は、事実に近い内容を表すために、慎重に言葉を選んだのだろうと思います。けれども「的」という文字を使うことによって、表現の曖昧さは残り続けていくことになります。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月22日 (金)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(20) 【自社看板】

変換ミスが校正ミスにつながる

 「阿蘇神社の最寄り駅、宮地。駅名の表示も自社の看板風のつくり。」【写真説明】
  [山崎友也・松本典久『ゆったり鉄道の旅⑩ 九州』82ページ、山と渓谷社、2005年(平成17年)12月15日発行]

 ワープロソフトを使って原稿を書くと、往々にして起こりやすい、そして、編集者も見落としやすい例です。写真を見ると、この文字遣いには気づくはずですが…。
 「しゃじ」を変換すると、まっ先に[社寺]が現れると思いますが、「じしゃ」の場合は[寺社]よりも[自社]が先に出てくることが多いのでしょう。
 鉄道関係の本には、車両が自社発注のものであるとか、他社からの転籍したものであるとかの話題が多く出てきます。[自社]という文字を見慣れている編集者がうっかり見落としたのでしょう。

 もう一つ、別の話題です。
 「豊肥本線を走るキハ185系『九州横断特急』。…(中略)… このあたりの車窓右手眼下に立野駅が見える。」【写真説明】
 [同じ本の85ページ]

 写真を見て一瞬、この列車はどちらに向かって走っているのか、考え込みました。写真の中に立野駅は見えません。スイッチバックで知られている立野駅はどの方角にあるのだろうと思ったのです。
  「車窓右手」というからには、進行方向に向かって右の窓と考えるのが普通でしょう。したがって、列車の進行方向によって、まったく逆の方向を指し示すことになります。写真の「九州横断特急」号が上り列車か下り列車かを判断することは、時刻表を参考にしても判別は無理です。
 結局は、「眼下」という言葉を頼りに、土地の傾斜から判断するしか方法がないと思いました。
 これは、「車窓右手」ではなく、「写真(枠外)の右方向」と書けば、迷わなかったはずなのです。

【写真は、前掲の本です。】

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2007年6月21日 (木)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(19) 【イタ電】

いたずら電話が「イタ電」に

 「118番イタ電1576回 男に実刑」【見出し】
 「第7管区海上保安本部(北九州)の緊急通報用の118番に約1500回のいたずら電話をしたとして、業務妨害罪に問われた……」
  [産経新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月21日・夕刊、4版、15ページ]

 新聞社では記者向けに、文章の書き方や用語・用字についての指導が行われていることと思いますし、そのためのガイドラインのようなものもあるのだろうと思います。
 記者がそのようなものに沿って文章を書いたとしても、最後に文章を整理したり、見出しを付けたりするのは他の担当者です。どちらかと言えば、文章を書いている記者よりも経験の深い人が整理の仕事をしているだろうと思います。
 ところが、奇をてらったり、無理な言葉を使ったりする見出しがあるのは困りものです。スポーツ面に多いのですが、他の面でも同様です。
 近頃は食べ物に関して「イタメシ」という言葉が使われているようですが、「いたずら電話」がどうして「イタ電」になるのか、理解に苦しみます。「118番」という言葉があるから「イタ電」という言葉の意味はわからないはずはないというような感覚で言葉を使うのはよくないと思います。
 「板状のチョコレート」は「板チョコ」です。「イタチョコ」ではありません。短縮語形にするのなら、漢字と平仮名と片仮名は、本来の用字を守るべきです。「いたずら電話」を短縮することには賛成しませんが、その場合でも用字は「いた電」でしょう。
 言葉を壊したり、変な方向へ持っていくのが、新聞社の記者ではなくて、整理担当者であるというのは悲しい現実です。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月20日 (水)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(18) 【生まれたまち】

「高知市立龍馬の生まれたまち記念館」

 高知県観光コンベンション協会の『たのしい高知』第12号[2006年(平成18年)2月発行]を見ていたら、「高知市立龍馬の生まれたまち記念館」という施設が平成16年にオープンしたということが載っていました。
 人の名を冠したものは、高知市内に「寺田寅彦記念館」「土佐山内家宝物資料館」などがあるようですが、それにしても、新しくできた記念館は長い名前です。
 「生まれる」という言葉から、すぐに思い浮かんだのは、熊本県を走る南阿蘇鉄道の「南阿蘇水の生まれる里白水公園」という駅名です。長い駅名がブームになったときがあって、漢字交じりの字数とか、ひらがなで書いたときの音数とかで長さを競ったことがありました。
 そのあと気づいたのですが、高知には既に「高知県立坂本龍馬記念館」があって、似たような名前では紛らわしいから、あえて違った印象の名前にしたのだろうと思いました。

【写真は、前掲の冊子記事です。】

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2007年6月19日 (火)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(17) 【に・を・れ】

「経営権を譲られ」という受け身表現

 「叡山電鉄は91年、京阪電鉄に経営権を譲られ、現在は同社子会社。」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月16日・夕刊、3版、3ページ]

 京都の京福電鉄嵐山線(通称は嵐電)を紹介する特集記事に添えられた説明文が気になりました。
 京福電鉄叡山線は、ある時期に、叡山電鉄として独立したのですが、その後の叡山電鉄を説明した文が、上記のものです。
 「に」「を」という助詞と、「れる」という受け身の助動詞の関係を読みとれば、《叡山電鉄は91年に、京阪電鉄から経営権を譲ってもらった》という「受け身」になりそうです。けれども、それは事実に反することです。
 事実に沿う形で解釈するならば、《叡山電鉄は91年に、(京福電鉄から)京阪電鉄に経営権を譲ってしまわれた》という「受け身」に理解しなければならないようです。ちょっと頭の中が混乱するような表現です。
 京阪電気鉄道の発行している資料によれば、京阪グループネットワークの鉄道事業に、京阪、叡山、京福の各電鉄会社の名前が並んでいます。

【写真は、前掲の新聞記事と、京阪電気鉄道発行の資料です。】

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2007年6月18日 (月)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(16) 【ロスジェネ】

非情な言葉「ロストジェネレーション」

 「就職期が長い不況に重なり、厳しい世の中に向き合った25~30歳のさまよえる世代(ルビ=ロストジェネレーション)。」
 「ロストジェネレーション バブル崩壊後の就職氷河期を経験した25~35歳の世代。……朝日新聞社が新年企画で取りあげ、…」【解説】
 「ロスジェネ2000万人 参院選の『最大変数』」【見出し】
  [いずれも、朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月13日・朝刊、13版、3ページ]

 この世代が「就職期が長い不況に重なり、厳しい世の中に向き合った」こと、「バブル崩壊後の就職氷河期を経験した」ことは紛れもない事実ですが、その世代の人たちを「さまよえる世代」とか「ロストジェネレーション」と名付けたのは新聞社です。あまりにも否定的な言葉であり、無神経な表現です。
 「朝日新聞社が新年企画で取りあげ」と書いているように、元日紙面には次のような表現がありました。
 「『第2の敗戦』と呼ばれたバブル崩壊を少年期に迎え、『失われた10年』に大人になった若者たち。『ロストジェネレーション』。米国で第1次大戦後に青年期を迎え、既存の価値観を拒否した世代の呼び名に倣って、彼らをこう呼びたい。」
 [朝日新聞・大阪本社発行、2007年(平成19年)1月1日、13版、1ページ]

 「ロストジェネレーション」には、「中国残留孤児」という言葉と同じような非情さがあります。自分の責任でも何でもないことを、このように呼ばれる側の人のことを考慮していないように感じるのです。
 輪をかけたように、それを軽々しく「ロスジェネ」とまで表現しています。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月17日 (日)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(15) 【だめ出し】

「だめ出し」は駄目ばかりではない

 「鈴木さんらが次々と出すアイデアに、講師はだめ出しをした。」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月13日・朝刊、13版、17ページ]

 演劇などの方言指導をしておられる大原穣子さんに誘われて、こまつ座の稽古場を見せていただいたことがあります。井上ひさし作の「国語元年」が演じられていました。
 その時に、大原さんは、その場のスタッフに「だめ出しは何時から?」と質問されていました。稽古を拝見しているときも、「だめ出しのときに、…」というような会話を聞きました。
 この言葉を聞いたとき、私は、「だめ出し」という言葉を[駄目な点を指摘される時間]のように感じました。けれども、稽古していることのすべてが駄目であるはずはなく、さまざまな批評や検討が行われる時間というのが実態のようでした。つまり、[批評会]とか[監督などから批評や指示などを受けるミーティング]というような意味です。もちろん、誉められることは多くないということで「だめ」という言葉を使ったのでしょう。

 上記の新聞記事では「だめ出しをした」というのは、「だめだと言った」という意味に近いように思います。それとも、上記のような「批評や指示などをした」という意味が加わっているのでしょうか。
 「駄目」はもともと囲碁に関する言葉です。「駄目押し」は、わかっていることを、念のために更に確かめるという意味です。「駄目」は、[役に立たない]とか[してはいけない]とかの意味だけではないはずです。

 ところで、「だめ出し」という言葉は、演劇や放送の世界の用語から、日常用語に羽を広げ始めているようです。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月16日 (土)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(14) 【おもちゃ箱】

「おもちゃ箱をひっくり返したようなモノ」

 「……並んでいるのは、おもちゃ箱をひっくり返したようなモノだ。中古カメラ、大黒様の置物、黒電話、釣りざお、飯盒-。」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月13日・朝刊、13版△、「神戸」(地域版)、24ページ]

 神戸のモトコー(元町高架下商店街)にある店を紹介する記事です。
 「おもちゃ箱」というのはたいして大きなものではありませんから、「中古カメラ、大黒様の置物、黒電話、釣りざお、飯盒」などをすべて入れることはできないでしょう、というのは屁理屈のように聞こえるかもしれません。
 けれども、「おもちゃ箱をひっくり返したよう」という比喩は、もともと、物事が乱雑になっている様子を表す言葉のはずです。「おもちゃ箱をひっくり返した」ときの品物が多様であるということを表す言葉ではないと思うのです。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月15日 (金)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(13) 【大人買い】

まとめて買う「大人買い」

 「中にはマグネット30個入りのケース(6000円)ごと〝大人買い〟するファンも。」
  [産経新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月14日・夕刊、7ページ]

 京浜急行電鉄が鉄道グッズのネット通信販売を始めたというニュースです。
 1個ずつ買うのではなく30個入りのケースを買うという場合は、一般には「まとめ買い」でしょうが、「まとめ買い」は日用必需品などに適した言葉であって、趣味の品にはふさわしくないと判断したのかもしれません。
 あるいは、鉄道グッズなどは主に子どもたちが1個ずつ買い溜めていくのが普通であって、まとめて買うのは尋常でないと考えたのかもしれません。
 いずれにしても、お小遣いの少ない子どもたちにはできないことだと考えて「大人買い」という表現を使ったのでしょう。子どもの趣味の世界に大人が割り込んだというようなイメージ、あるいは、まとまった金額を投じる大人げない買い方だというイメージも伴っていますね。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月14日 (木)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(12) 【本島】

淡路島本島と兵庫県本土

 「同じ番組に出演してお嫁に来た〝同士〟のような友達や、子供の友達の親らと一緒に淡路島本島などに買い物に行って適当にストレス解消をしています」
  [産経新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月14日・夕刊、4版、2ページ]

 今では南あわじ市に属していますが、沼島(ぬしま)は、離島です。沼島から見て、淡路島のことを「本島」と言っているのです。
 私は淡路島の洲本市へ通勤したことがありますが、淡路島の人から「本土」という言葉をよく聞きました。神戸や明石に住んでいる人を「本土の人」と言っていました。その場合、「本土」に対する言葉は「島内」でした。「島内の人」「島内の学校」という言い方をしていました。ここに住む人にとって、兵庫県に属する摂津・播磨・丹波・但馬は「本土」であり、淡路は「島内」であったのです。
 沼島という島から見れば、沼島(島内?)→本島→本土という順番になるわけですね。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月13日 (水)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(11) 【地元】

広がっていく「地元」

 「定番の冷やし中華やざるそばだけでなく、食欲をそそる辛みを加えたり、地元の食材を使ったりして、コンビニ各社は特色ある新商品を投入している。」
 「根強い人気のさっぱりした冷やし麺では、地元関西の素材などを使用した新商品もある。」
 「セブン-イレブンの『ぶっかけおろしうどん』は、地元和歌山県産の新鮮な釜揚げしらすと、果肉が厚くて軟らかい南高梅を使い、梅とシソの風味を効かせた。」
  [いずれも、読売新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月12日・夕刊、3版、5ページ]

 「地元」という言葉は、「取れたてのものを地元で販売する」というような言い方をするのが、本来の使い方だと思います。「兵庫」県産のものを「兵庫」県内で販売するというようなときに使うのなら違和感はありません。
 ところで、新聞記事の1番目の例は、一般論として述べているようですが、「地元」の食材を使ったものを、その「地元」だけで販売しているという解釈をするのが普通でしょう。
 2番目の例は、地元「関西」の素材などを使用した商品は、「関西」限定販売と考えるのがいいでしょう。中部地方や四国地方での販売はないと解釈したいのです。
 3番目の例は、地元「和歌山」県産のものを使って、「和歌山」県内で販売していると思いたくなります。けれども、たぶん、事実はそうではないだろうと思います。

 「地元」というのは、「その事と直接関係ある土地。その人の住む、また勢力範囲である地域」(広辞苑)です。
 甲子園球場(兵庫県西宮市)で開催される高校野球の出場校について、「地元兵庫県代表」「地元大阪府」「地元滋賀」というような言い方を聞きます。近畿地方一円を「地元」という意識で見ているのでしょうが、球場の本当の地元は兵庫県です。大阪ですら地元ではないと感じる人もいます。「地元」という言葉で指し示す地域を広げすぎると、その地域を「地元」と表現する意義(意図)が薄められてしまうと思うのです。
 スポーツの国際大会が日本で開かれるときに「地元日本チーム」と言ったりしますが、それは、広い地球の一地域である日本を指しているから、違和感はありません。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月12日 (火)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(10) 【見取れる】

「見惚れる」は死語?

 「……逡巡もせずに買っていく祖母のスピードに見取れることが多かった。」
  [週刊文春 2007年(平成19年)5月31日号、157ページ、「街物語」谷村志穂]

 「見惚れる」または「見蕩れる」と書くはずの「みとれる」を、私が使っている一太郎ソフトで変換すると「見取れる、見とれる、看取れる」の3つしかでてきません。その中から選ぶならば、「見とれる」を使うしかないと思います。
 「見取る」や「看取る」の文字遣いでは、別の意味を思い浮かべてしまいます。ワープロの世界からは「見惚れる」や「見蕩れる」は死語になりつつあるのでしょうか。上記の文章の筆者も編集者も、そのような感覚のようです。

【写真は、前掲の週刊誌記事です。】

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2007年6月11日 (月)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(09) 【ひねる】

俳句を「ひねる」「詠む」「つくる」

 「俳句をひねると、四則計算などの『脳トレーニング』よりも強く脳の前頭前野が活性化することが、松山市の研究会の実験でわかった。」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月9日・夕刊、3版、1ページ]
 「俳句を詠むと、脳の『司令塔』と呼ばれる前頭前野が刺激され、強く活性化することが松山市の研究グループの実験でわかった。」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月9日・夕刊、3版、11ページ]

 前者は、その日の主要なニュースを紹介するところに書かれているもので、見出しには「俳句づくり 脳に効く」とあります。
 後者は、その記事の冒頭の文です。記事の中にも「俳句をひねる」という表現があります。
 さて、「俳句を詠む」と「俳句をひねる」とは同じなのでしょうか。脳の活性化を調べた実験だというのですから、「ひねる」ことと「詠む」ことの脳の働きは同じなのかどうかが気になるのです。
 「ひねる」の意味には、[考えめぐらす。工夫する]という意味がありますが、[簡単にやっつける。負かす]という意味もあります。日常的に「俳句をひねる」という言い方をするとすれば、[簡単に俳句をつくってみる]という意味にとってもおかしくないでしょう。遊び半分の俳句づくりを「俳句をひねる」と言ってもいいだろうと思うのです。
 ここは、「(俳句を)ひねる」「詠む」「つくる」のどれかで統一しておいた方がよかったのではないでしょうか。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月10日 (日)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(08) 【顔文字】

ついに新聞の連載記事にまで顔文字が

 昨日の話題の続きになります。陣内智則さんと藤原紀香さんの結婚披露宴についての感想を述べているコラムに、次のような表現がありました。

 「陣内さんが不細工いうてんちゃいますよ(∧_∧;)。」
  「……納得したり怒ったり喜んだりと感情が行ったり来たりですわ(∧O∧)。」
 「普段どんなふうに思われてると思ってんねんp(∧ ∧)q」
  [いずれも、朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月9日・夕刊、3版◎、4ページ、「友近独断場 非科学的ニンゲン学」]

 一回限りの新聞記事なら、これまでも顔文字にお目にかかったことはありますが、連載の文章にこのような文字があらわれる時代になりました。
 大学生がくれるメールの中にも顔文字が使われていることはあります。私信ですから、文脈に沿って使われている、ちょっとした愛嬌のように感じていました。けれども、不特定多数の読者を対象にした新聞記事に多用されるとなると、考え込まざるをえません。
   (∧_∧;) と (∧O∧) と p(∧ ∧)q との意味の違いは、わかる人にはわかっているのでしょうね。そうでないのなら、新聞にこのような文字が横行するのは、ちょっと困った現象です。私には違いがわかりません。
 漢字で新しい熟語が作られた場合は、その意味はおおよそ見当がつく場合が多いのですが、顔文字も同様なのでしょうか。
 ホームページにも顔文字の辞典のようなものがあります。言葉から顔文字を検索するのは簡単ですが、顔文字を探して意味を確かめるのはたいへんなことです。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月 9日 (土)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(07) 【廂と軒】

「廂を貸して…」ではなかったか

 女優・藤原紀香さんの結婚披露宴に便乗して、キンチョウが新聞1ページの広告を載せました。そのことについて書いている文章の中に、こんな言い方がありました。

 「ホメているのかチャカしているのか、お祝いにかこつけてしっかり商品を売りこむ。これぞ『軒を借りて母屋をとる』便乗広告の極意である。」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)6月5日・朝刊、13版、18ページ、「CM天気図」天野祐吉]

 「軒を借りて母屋をとる」という表現は、文脈に沿って読み進めれば、気になる言い方ではありません。けれども、もとの慣用句「廂(ひさし)を貸して母屋(おもや)を取られる」と比べると、ずいぶん違っているのに驚きます。
 二つの表現の違いは、①「廂」が「軒」になっている、②「貸す」が「借りる」になっている、③「取られる(受動態)」が「とる(能動態)」になっている、の三箇所です。
 今の時代は「廂」と「軒」の違いなどは意識していない、文脈さえ通じれば「貸す」と「借りる」や、「取られる(受動態)」と「とる(能動態)」が逆転していてもよいではないか、と言えばそれまでです。
 けれども、本来の表現とは異なった言い方が世に広がっていく、その端的な例のように思われるのです。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月 8日 (金)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(06) 【女性と女】

「女性」と「女」は違う

 新聞やテレビでは、オンナの人のことを「女性」と表現していますが、犯罪をおかした人のことを「女」と言っています。オトコについても、「男性」と「男」の使い分けを同じようにしています。
 ところが、国語辞典ではこの使い分けを明確に示していないようです。というよりは、その使い分けをまだ認めるに至っていないのでしょう。
 さて、次の例は、「女」と「女性」が隣り合っています。

 「神戸と明石で女が女性殴る 2人けが、同一犯か」
  [朝日新聞・大阪本社発行 2007年(平成19年)3月8日・朝刊、13版△、「神戸」(地域版)、24ページ、記事見出し]

 本文中には「……女が通行中の女性の顔を殴って……」とあります。これは、何気なく読み進めることができますが、見出しの「女が女性殴る」は、二者を言葉で厳しく区別していて、この見出しを付けた人の気持ちが伝わってくるように感じてしまいます。

【写真は、前掲の新聞記事です。】

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2007年6月 7日 (木)

おもしろ日本語・ふしぎ日本語(05) 【ら】

「ら」という接続の言葉

 助詞などを接続詞に代えて使うことがあります。
 古くから使われているものとしては「が」があります。文のはじめを「が、……」として逆接の意味を表すものです。「が」は接続助詞ですが、接続詞と同等の働きをしています。
 近頃、使われているものに、文頭を「で、……」とするものがあります。「そこで」という意味を「で」だけで表しているのです。また、文頭を「と、……」とするものもあります。「すると」の意味です。
 ところで、次の例には少しびっくりしました。

 「……ついOKしてしまった。ら、翌朝五時に、そう、五時に、五百本の苗が届いたのです。」
  [玉村豊男『田舎暮らしができる人できない人』156ページ、集英社新書、2007年(平成19年)4月22日発行]

 一瞬、「……ついOKしてしまったら、翌朝五時に、……」の誤植かとも思いましたが、筆者や編集者はしっかり校正をしているはずです。
 誤植でないということにして、話を続けます。この本は、文体から判断すると、話し言葉として語った原稿を、文字に直して出来上がったのかもしれません。そうであるとしても、「ら」は短縮しすぎでしょう。
 けれども、意味は十分に通じます。誤解は起こりません。筆者はそれがわかっているから、このような使い方をしたのでしょう。
 これをもとに、一文字で可能な表現は他にないかと探してみると、「か、……」というのも成り立ちそうです。「明日の朝は雨になるでしょう。か、雪が降るかもしれません。」という文例です。もはや既に出現しているかもしれません。

【写真は、前掲の本です。】

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2007年6月 6日 (水)

教職をめざす若い人たちに(6)

6 たゆまぬ努力から自信が生まれます

 2007年1月末に、「教員の資質向上神戸市連絡協議会」が神戸市教育委員会の主催で開かれました。市教育委員会、市立幼稚園・小学校・中学校・高等学校関係者、兵庫県内の教員養成課程設置大学の関係者が集まる会議でした。主として教育実習のことが話題になりました。
 その会議で、教育実習生を受け入れる側の学校から、いろいろな意見や要望がありました。異口同音に出た言葉は、「独力で学習指導案の作成ができない学生がいるが、大学できちんと指導しておいてほしい」、「実習校で打ち合わせをする時までに、学生は打ち合わせができるように勉強してきてほしい」、「教育実習の研究授業の後で、受け入れ校の教諭、大学の指導教官、教育実習生で実りある協議をしたいから、大学教官も研究授業の内容を知っておいてほしい」などでした。それらは、すべての大学に向かって述べられたことですが、私が勤めている大学にも当てはまらないわけではありません。
 これまでの教育実習でも、実習生を受け入れてくださった学校の教諭などから厳しい指導を受けた学生が何人もいました。学習指導案が書けない学生、授業の展開の仕方がわからない学生、生徒との対応の仕方で問題を生じさせた学生などです。そんな簡単なことを、大学で勉強してこなかったのか、指導力を磨いてこなかったのかという批判を受けた人もいました。
 受け身の姿勢しか持たない人は、教育実習の段階でつまずいてしまいます。指導を受けたはずの学習指導案が書けなかったり授業を組み立てられなかったりするのでは教育実習に行く価値がありません。事前打ち合わせのときに何の知識もなく出かけていくようでは教えようとする姿勢ができあがっておりません。大学の指導教官は教育実習生の指導のために受け入れ校を訪問するのですから、実習生が自分の研究授業について詳しく事前に連絡しておいて指導を受けるというのは当然のことです。その程度のことができない学生を、受け入れ校の教諭は苦々しく思っているのです。
 これから教育実習を行う人は、厳しく自分自身を律してほしいと思います。教育実習のときに、このような状況である人は、教員採用試験に合格できるはずはありません。さきほどから述べている、さまざまな力(生活習慣や指導実践力)が身についていないのです。このような学生は、教育実習に行かせるべきではないと、私個人は考えています。中学校や高等学校の教員に迷惑をかけ、生徒に迷惑をかけるだけなのです。
 とは言え、これらのことは、本気になって努力を重ねたら乗り越えられます。困ったことや不安なことの一つ一つを克服していけば自信が生まれるはずです。
 教員になることを目指している人には、お互いの励まし合いが大切です。学部学科の中で教員を目指している人は多くないかもしれません。けれども、自分一人だけが苦しんでいると考えない方がいいでしょう。教職という同じ目標を持った者同士がうまく影響をし合って、お互いを励まし合っていってほしいと思います。
 「備えあれば憂いなし」というのは災害への備えのことを言っているのでしょうが、教職を目指している人にもあてはまります。長い目で自分を磨いていくことこそが、かえって教員になるための近道かもしれません。教育とは、生きる力を育むものです。教員として生きていこうという決断をした人は、教育の世界で生きていくための力を育んでほしいのです。
 現在、教育界はさまざまな問題や課題を抱えています。教員が受難の時代であるとまで言う人がいます。けれども、そういう時代にあってなお、教職に就こうとしている人が大勢いることを、私は嬉しく思っています。そのような人たちに期待を込めてエールを送ります。

【この文章は、『教職教育センター年報 2006年度』(甲南大学教職教育センター、2007年3月31日発行)に掲載された文章で、一部の語句を改めたものです。】

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2007年6月 5日 (火)

教職をめざす若い人たちに(5)

5 基本的な生活習慣と責任感も大切です

 もうひとつ大切なのは基本的な生活習慣です。それが確立していないような人を教育委員会が教員として採用するはずがありません。自分に甘い考えを抱いたり、他人に頼るような姿勢を持った人は教員になれません。そんな人を教員に採用すれば、生徒も周囲の教員も迷惑します。例えば、どのような理由であっても、定められた時刻に遅刻をするような者は教員失格です。遅刻には必ずそれ相応の理由があるのでしょうが、そういうものは、ほとんどの場合、自己弁解に過ぎません。理由や弁解を考える前に、遅刻をしない工夫をすべきでしょう。「電車が遅れた」という弁解は、たいていの場合、ぎりぎりに到着しようとしていた予定が、ちょっと狂っただけの話です。電車のせいではなく、自分のせいなのです。
 挨拶ひとつできない人も、教員として失格です。挨拶というのは、何気ない会釈のようなものだけではありませんが、その会釈ひとつすらできない人は、生徒の前に立って指導はできません。人に向かって感謝やお詫びを述べる場面や、事情説明をしなければならない場面はいくらでもあります。
 面接試験の時には、言葉遣いに注意しなければと考えている人は多いでしょう。けれども、試験当日だけに特別の言葉を使おうとすれば、かえって失敗します。日常的に、きちんとした言葉遣いを心がけて、身につけておくことが肝要です。
 教員に必要なのは生徒を指導する力ですが、自分の責任を感じる力がない人は教員とは言えません。例えば、学校の近隣の住民から、「生徒が自転車の二人乗りをしているのは危ない。きちんと指導すべきである」という意見が学校に届いたとします。それぞれのホームルーム担任は、自分のクラスの生徒をきちんと指導しようと努力をします。
 その結果、指導が行き届いて、全体として通学状況は改善されました。ところが、ある教員の担当するクラスの生徒だけは、いっこうに改まらないという状況があることがあります。他のクラスの教員が、「あなたのクラスでも、きちんと指導したのですか」とただしたところ、そのクラスの担当教員は、「私はホームルームの時間に、二人乗りをしてはいけないということを、きちんと生徒に伝えました」と答えました。
 指導というのは、注意するようにと告げることではありません。単に伝えただけでは指導とは言えません。実際に、生徒が二人乗りをしなくなったときにはじめて、指導ができたというのです。指導の工夫が、教員に求められています。それができないのなら教員とは言えません。
 教科の指導についても、まったく同じです。「きちんと、わかりやすく教えているのに、生徒の成績が伸びません」と言って、生徒を非難する教員がいます。けれども、それは、自分の指導力のなさを露呈しているだけなのです。
 成績が伸びないのは生徒のせいではありません。教員の指導力によるのです。成績が伸びない生徒の、成績を伸ばす方法を考えて、実践するのが教員の務めです。教員が、教えることの専門家であると言われる理由はそこにあるのです。
 指導力を発揮できない教員、実践を重ねようとしない教員、指導効果をあげることのできない教員を、学校は求めていません。そんな教員は、生徒にとって迷惑な教員であり、保護者からも信頼を得られない教員なのです。
 あれこれ理屈をつけて、自分が責任を持って担当すべき仕事からすり抜けていこうというような習慣を身に付けてしまっている人も教員失格です。人の嫌がる仕事を進んで引き受けるというぐらいの姿勢を持たなければなりません。
 繰り返しますが、教員採用試験はそのようなことについても、きちんと見極めようとしていると思います。

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2007年6月 4日 (月)

教職をめざす若い人たちに(4)

4 理解力と表現力は教員にとって不可欠です

 ここまでに述べてきたことと別に、教員がそなえておかなければならない力があります。それは理解力と表現力です。コミュニケーション能力と言ってもいいでしょう。
 昨年度、近畿地方のある府県で、教員採用試験に合格し、各学校に赴任した新任教員のうちの21人が、1年以内に学校を去っていったということが報じられました。
 生徒が言うことを聞いてくれないから指導する務めが果たせないとか、学校というところはこんなに忙しいものであるとは知らなかったとか、先輩教員との人間関係を築いていくことができなかったからとか、理由はいろいろであったようです。けれども、それらの人には、人間としての強さが感じられないということが共通しています。
 いい子だ、いい子だと言って誉めて育てられ、挫折感を味わわずに生きてきて、最初の試練が教員生活での苦しみであったとき、それに耐えて自分を磨いていく力もなく、あっさりと教員をやめてしまうという人が、何人もいたのでしょう。
 「人間としての強さが感じられない」と言いましたが、人間は、もともと弱い存在です。弱いからこそお互いに協力し合って、それぞれの力を補い合っているのです。周囲の人と意思を通じ合わせて、お互いを助け合わなければなりません。
 コミュニケーション能力が著しく劣っている人は、助け合うことができません。先輩や同僚から教えを受けたり、支えてもらおうとする姿勢が欠けています。たった一人で生きていこうとし、それがダメなら、あっさり投げ出してしまうような姿勢が感じられます。生徒を指導する力はもちろん、自分という一人を指導する力にも欠けているのです。学校を去っていった人たちが、教職に就く前に、学校における人間関係や、教員の担っている仕事の重みというものを想像する力を働かせなかったのなら、あまりにも軽薄であったとしか言いようがありません。
 理解力・表現力と言いましたが、なぜ理解力・表現力が不可欠であるのかということは察しがつくでしょう。理解というのは、自分が他人を知ることです。表現というのは、他人に自分を知ってもらうことです。理解する力と表現する力は、人間関係の出発点です。それが教員に不可欠なことは言うまでもありません。
 教員志望者が理解力・表現力をどのようにして育てるべきかという具体的な話は、既に雑誌「教職課程」(協同出版)に6回にわたって連載しましたから、改めて書きません。(このブログにも転載していますから、必要なら読んでください。)

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2007年6月 3日 (日)

教職をめざす若い人たちに(3)

3 自分を変えることができる人こそが教員になれます
 私は、大学でいくつかの教職課程の科目を担当しています。たいていが必修科目ですから、それらを受講する学生は大勢います。
 語弊があるかもしれないことを、あえて言います。私は、受講している学生がその段階で、教員に適した能力や適性をそなえているとは思っていません。教育への情熱についても希薄な人が大勢います。人数は少なくてもよいから、教職に就くことを真剣に考えている人が、きちんとした勉強をして、力を蓄えて教員採用試験に合格してくれたら嬉しいのです。
 けれども、それは教員を志望している人を排除して、少なくしようということではありません。本気で教員になろうとするなら、本気で自分を変えていってください。教員志望者を、いろんな角度から支援するのが私の務めだと考えています。
 教育とは、生徒を指導して、生徒を変えていくという営みです。生徒の自主性に任せるというような立派なことを口にしながら、教員としての指導力を発揮できていない人がいます。そのような指導は、教育という名にふさわしくありません。時には、口出しすることを我慢して、じっと生徒を見守る必要があることはわかっています。けれども、いつも生徒のなすがままに任せていたのでは、指導とは言えません。教育とは、生徒を指導して、生徒を変えていくことです。それができない人は、教員になるべきではありません。
 そう考えますと、生徒を変えていくという役割を果たすべき教員自身が、自分を変えていくことができないのなら、話になりません。自己変革のできない者は、教員としての資格はないと思います。今の自分を、もっともっと高めていくという姿勢を持って努力をして、そして、実際に自分を変えることができた人にこそ、教員になってほしいのです。教育委員会も、そのような人を教員として採用したいと考えているはずだと、私は確信しています。
 では、何を変革すべきであるかという話になりますが、いちばん大きなことは、人間性です。次いで、専門教科の知識・技能であり、そして、その専門教科を指導する実践力です。さらに、教科以外のすべての分野にわたる指導力です。
 具体的な話をしましょう。人間性というのは、生きる姿勢の問題です。あるいは、人と人との関係についての態度のことでもあります。
 相手の気持ち、周囲の人たちの気持ちのわかる人になってほしいと願っています。自分のことしか考えない人は、世の中のいたるところにいます。現に教員を務めている人の中にすら、そんな人がいないわけではありません。そのような人は、教員には、まったく向いていません。自己中心の人は、生徒に信頼されず、他の教員にも信頼されず、保護者にも地域の人にも信頼されず、教員として不適格な存在になってしまいます。
 人は論理でものごとを考えます。けれども、その論理の出発点が、自己弁護や自己防衛であるような人を、周りの人は信用しないでしょう。独りよがりの意見、自分にしか通用しない論理を臆面もなく論じるような人は、教員には向いていません。他人の意見に耳を傾ける謙虚さが必要です。
 他人のことが眼中にないというような人は、そのようなことが通用する、教育以外の世界へ行く方が、本人の幸せだと思います。しかも、教えを受ける側にいる生徒にとっても、そんな考えの人からの教えを受けない方が幸せです。自分ことしか考えないような人が教員になったら、生徒に悪い影響を与えます。知らず知らずのうちに、自分のことしか考えないというような人を育ててしまうことになります。教育の力は恐ろしいのです。
 利己的な考えの持ち主は、不適格教員の最たる者であると思います。したがって、教育委員会は、そのような人を教員として採用するはずはありません。視野の広い人、心の広い人になってほしいという理由がわかるでしょう。
 そして、先ほど述べたように、努力をすれば自分の生き方すら変えることができるはずです。これから教員になろうとしている人たちは、みんな若いのです。変わろうとすれば、変わっていける可能性を持っています。
 教員採用試験は、人をまるごと評価するために、面接試験に時間をかけています。筆記試験の点数だけで合格者を決めているのではありません。

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2007年6月 2日 (土)

教職をめざす若い人たちに(2)

2 採用する側の思いは、受験者の気持ちとは異なっています

 教員採用試験を受験する立場にいる者の気持ちとしては、競争率が低くて、合格する可能性が高くなればありがたいと考えるのが当然です。競争率が1倍であったら、ほとんど合格が約束されているようなものですから、願ったり叶ったりということでしょう。
 ところが、教員を採用する立場にいる人たちの気持ちは、まったく異なったものであるはずです。教育委員会は、教員にぜひとも採用したいと思う人をなんとかして探し出したいと考えています。教員採用試験の大勢の受験者の中には、教員にふさわしいと思えないような人が大勢含まれているからです。
  別の言い方をすれば、不合格者を選び出すのではなく、優秀な人材を合格者として探し出すために試験をしているのです。受験している人が何人であっても、その中に教員としてふさわしい人がいるとは限らないのです。試験に合格すれば即刻、教員としての存在感を発揮してくれるはずだと思われる人は決して多いとは言えないのです。
 教員採用試験は競争率が3倍程度ではよくない、と私は考えています。3倍というのは、まったく教員に向いていない者を含めての競争率です。教壇に立つために必要な教科指導力も、生徒の日常生活を実践的に指導する力も持ち合わせていないような人を含めての競争率です。
 各都道府県や政令指定都市の教育委員会は、すこしでも応募者が増えることを願っています。競争率が低ければ、優れた教員を選んで採用できる保証はありません。最低5倍は必要だ、できれば10倍ぐらいであってほしいと願っているのではないでしょうか。本当に教員にふさわしい力をそなえている人は少ないのです。その少ない人を、何とかして探し出したいというのが、教育委員会の気持ちであろうと推測します。
 したがって、ここからが大切なことなのですが、このように考えると、教員採用試験は、他の受験者と競争をするという意識を持つ必要は、まったくありません。教員採用試験は、教員としてのほんとうの力をそなえているかどうかということを評価してもらう場なのです。筆記試験や面接試験などを通じて自分を評価してもらっているのだと認識すべきです。他の受験者を気にしたり、他の受験者の真似をする必要などはありません。教員にふさわしい人であると評価されれば、他の人とは異った個性が尊重されることもあります。私は、「教員採用試験で多くの受験者と競争して、勝つ」とか「負ける」とかいう言い方をするつもりはありません。そんな言い方は的外れであると思っています。
 このように考えてくると、教員として採用されることを目指して、自分をどのように磨けばいいのかという答えの方向はわかるはずです。
 教員にふさわしい人になることを目指さなければなりませんが、それは、専門とする教科・科目の知識や技能はもちろん、その専門教科・科目の内容をどのようにして教えるかという指導力が問われます。さらに、教科以外の指導力・実践力も大切です。生徒の問題行動を指導する力や、進路指導をする力、ホームルームなどの特別活動を指導する力などに自信のない人を学校は求めておりません。身に付けるべき事柄は山ほどあります。ここまでやったら大丈夫というような終点はありません。
 新任教員を迎える学校も、教育委員会も、優れた資質・能力のある人を、なんとかして探し出したいと思っています。教員採用試験というのは、優れた資質・能力を持った人として、自分が認めてもらえるかどうかという場なのです。教員を目指している人が、採用試験が近づいたら準備を始めようと考えているのなら、的外れもはなはだしいと思います。教員としての資質や適性を磨くというのは、そのような簡単なことではありません。けれども、気持ちを固めて目標を持って努力を重ねたら、1年後、2年後には、その人の資質・能力に変化があらわれるはずだと思います。自分の目標を実現可能な方向に導くのは、自分以外の誰でもありません。それができないような人に、教育という営為に携わることはしてほしくない、と私は考えています。

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2007年6月 1日 (金)

教職をめざす若い人たちに(1)

1 教員を目指す生活姿勢と日常行動こそがすべてのはじまりです

 教員採用試験の競争率は、数年前に比べると、かなりの急カーブで下降線をたどっています。合格できる可能性が高くなりました。団塊の世代と言われている年齢層の人たちが60歳を迎えて、大勢の教員が退職するからです。チャンスだというわけで、教員を目指す人が増えています。
 教員採用試験を受験するには、それ相応の準備が必要です。一朝一夕で合格できるとは思われませんし、いわゆる受験勉強では通用しません。自分を、教員にふさわしいように変えていかなければなりません。
 昔々、大昔の話をすると、私は、教員採用試験に向けて勉強した記憶がありません。教員採用試験の準備のことについて書いている本も雑誌も読んだことがありません。そのようなものがあったか・なかったかということすら知りません。たぶん教員志望者向けの雑誌はなかったでしょう。教員採用試験の問題は公表されていませんでした。過去にどんな問題が出たかというような情報は皆無ですから、試験に向けての対策などは考えられませんでした。そもそも、教員になるためには、それにふさわしい受験勉強が必要であるというような考えが念頭になかったと思います。
 けれども、私は教員養成を目的にした学部の学生でしたから、一般の大学の教育職員養成課程にいる学生とは違うことがありました。周囲のみんなが教員を目指していましたし、大学の講義・演習も教員になることを前提に行われていました。教育実習は7週間(4年次の、ほぼ5月~6月の2か月)にわたりました。教員になるための心構えも、指導技術も日常的に勉強していました。
 私の大学時代は、期末の試験のときに、監督の先生がいませんでした。教員を目指す者ばかりであるのに、試験の監督をしてもらうのは面目が立たないというわけで、私たちは自分たちで、受験する人の中から委員を決めて、試験の運営をしました。担当となった試験委員が、教務部から問題を受け取り試験を運営しました。
 試験で絶対に不正が行われないと確信していたわけではありません。だから、私たちは、「試験で不正をした場合は、みずから大学を去る」という誓約書を書いて、監督なしの試験を維持していました。試験の際に不正をすれば自主的に退学するという覚悟でした。教員としての自覚を身につけていく、一つの方法でもあったのです。
 一般の大学は教員養成を主な目的にしていません。それぞれの学部は、学部としての目標を持って、教育と研究を行っています。教員を目指す者の比率は高いとは言えません。
 私は、教員養成を主目的とする学部以外からも、大勢の人が教員になってほしいと思っています。学校というところは、さまざまな能力・特性や、多様な専門領域を持った教員が集まって、交響曲を奏でるように教育という仕事をします。けれども、教員養成を主目的としない学部の学生が、教員をめざして、実際に教職に就くためには、それなりの心構えが必要であると思います。
 教員採用試験は、出身大学がどこであるというようなことは、いっさい問題になりません。教員免許状を持っていることが唯一の条件であって、公正・公平な試験が行われています。それは企業の入社試験とは異なるかもしれません。別の言い方をすれば、実力本位であるということです。力があれば出身大学や年齢に関係なく合格し、力がなければ合格しません。今、都道府県や政令指定都市の教育委員会は異口同音に、採用試験は人物本位で合否を決めると言っています。当然のことです。教員を目指す生活姿勢と日常行動こそがすべてのはじまりです。

【季節のたより(12)】

 アマリリスが咲きました。毎年の、この季節の楽しみの一つです。

【2枚の写真は、2007年(平成19年)5月27日に、自宅で撮影。】

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