姫路ことばの今昔(1)
1 私と姫路
橘と申します。ご紹介くださいましたように、昭和50年4月から9年間、県立姫路西高等学校に勤めておりました。
ところが、姫路に通ったのは、それが初めてではなくて、その前があるのです。大学生のときです。当時は、大学教育が一般教養課程と専門課程とにきちんと分かれていました。その一般教養課程のときに姫路に通いました。
今の兵庫県立大学環境人間学部のあるところに、神戸大学姫路分校がありました。旧制の姫路高等学校の残り香が漂っているような時代でした。昭和36年4月から、翌年の9月まで、姫路で勉強をしました。先日、ちょっと兵庫県立大学の敷地に中に足を踏み入れましたが、見覚えのある建物が残っていて、懐かしい思いをしました。
ところで、私が学生であった頃は、姫路城は白鷺(しらさぎ)城ではありませんでした。真っ黒な覆いに囲まれていました。昭和31年から昭和39年にかけて行われた姫路城の「昭和の大修理」の最中でした。
ですから、昭和50年から、姫路の高等学校に勤めるようになって、毎日、白いお城を眺めて暮らすことができるようになって、気持ちが晴れ晴れとしました。私は、雨の日以外は、姫路駅から姫路城のそばを通って、歩いて通勤しておりました。
私は、明石生まれで、明石育ち、そして今も明石に住んでいます。姫路の高等学校に勤めていたときに、おやっと思った言葉がありました。
格別変わった言葉ではなく、ごくありふれた言葉なのですが、私自身の使い方とは異なっていました。
中間考査や期末考査が終わって、授業が再開された最初の時間に、試験の答案を返します。生徒たちは期待をして待っていて、「早(はよ)う、試験をはろてぇな。」と催促をしました。
借りたもの(お金など)を返すことを「はらう」というのは、ごく普通の言い方ですが、預かっていたもの(答案など)を返すことを「はらう」というのは、私が使っている方言の意味や用法にはありませんでした。だから、「はらう」という言葉を、初めて耳にしたときには、ちょっと違和感を覚えました。けれども、9年間も勤めましたから、すぐに慣れてしまったように思います。明石と姫路は、言葉に違いはあまりないのですが、時々は、あれっと思うようなことに出くわすこともあったのです。
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