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2007年10月31日 (水)

【掲載記事の一覧】

 有る程の菊抛(な)げ入れよ棺の中  夏目漱石
 つい先日、母が数え年91歳を一期として旅立ってゆきました。衆生が亡くなって、次の生を受けるまでの四十九日間を中陰と言いますが、今はその時期です。菊花の薫る季節に、永遠の別れとなりました。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。
 これまでに連載した内容の一覧を記します。
 お読みくださって、感想・意見・連絡などがありましたら、
       kyoiku.kokugo@gmail.com
  宛に、よろしくお願いします。

≪掲載を継続しているもの≫
◆国語教育を素朴に語る (1)~(46)~継続予定
    [2006年8月29日~2006年10月1日]
    [2007年4月1日~2007年4月6日]
    [2007年10月14日~2007年10月19日]

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)~継続予定
    [2006年12月27日2006年12月31日]

◆言葉カメラ (1)~(98)~継続予定
    [2007年1月5日~2007年1月31日]
    [2007年2月21日~2007年2月28日]
    [2007年3月16日~2007年3月31日]
    [2007年4月19日~2007年4月30日]
    [2007年5月9日~2007年5月30日]
    [2007年10月1日~2007年10月13日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)~継続予定
    [2007年2月1日~2007年2月20日]
    [2007年3月1日~2007年3月15日]
    [2007年5月1日~2007年5月7日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)~継続予定
   [2006年12月23日~2006年12月26日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(27)~継続予定
    [2007年1月1日~2007年1月4日]
    [2007年6月7日~2007年6月29日]

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)~継続予定
    [2007年7月8日~2007年7月31日]

◆写真特集・さくら (1)~(11)~継続予定
    [2007年4月7日~2007年4月17日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)~継続予定
    [2007年5月8日、5月31日、6月30日]

◆屏風ヶ浦の四季 (1)~継続予定
    [2007年8月31日]

◆昔むかしの物語 (1)~継続予定
    [2007年4月18日]

≪掲載が完結しているもの≫
◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日~2006年10月4日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日~2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日~2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日~2007年6月6日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日~2007年8月10日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日~2007年7月7日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日~2007年10月30日]

◆兵庫県の方言 (1)~(4)
    [2006年10月12日~2006年10月15日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日~2007年8月20日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日~2007年9月12日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日~2007年9月29日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日~2006年12月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日~2006年12月22日]

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日~2007年8月30日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日~2007年8月27日]

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2007年10月30日 (火)

自分を表現する文章を書くために(11)

6 おわりに

 私は、今日の話をするために原稿を書きました。けれども、資料は簡単なものを配付しただけでした。もし、今日の話を、文字でもう一度たどってみたいと思われる方は、私のブログをご覧ください。
 今は、情報化時代と言われています。年齢には関係なく、パソコンを使っておられる方が多くなっています。
 私は、パソコンを使い始めてから、もう20年以上になります。
 今ではEメールやブログなどが日常的なものになっています。

 今日、お話しした内容は、ブログに公開しています。
ブログのアドレスは http://tachibana-yukio.cocolog-nifty.com/blog/ です。
キーワードで検索する場合は「国語教育を素朴に語る」で見つかります。

 今日の話を復習してみたいとお考えになられたら、どうぞブログをお読みください。また、いろんなご意見やご質問がおありでしたら、Eメールをお寄せください。

 それでは、これで、「自分を表現する文章を書くために」というお話を終わります。
 ありがとうございました。

【この連載は、2007年(平成19年)11月1日に、兵庫県いなみ野学園大学院の共通講座で話をする内容を、文章の形で予めまとめたものです。】

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2007年10月29日 (月)

自分を表現する文章を書くために(10)

5 よい文章の条件

 自分が取り組んだテーマであり、それをまとめあげた文章であるならば、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思うのが、人の常です。
 論文というのは、自分が探求した内容を、わかりやすく他人に伝えるものでなければなりません。
 他人が読んで、教えられるものが何もないと思ったり、わかりにくくて理解できないと思ったりするような論文を書かないようにしましょう。これまでにも述べてきましたが、論文では、できるだけ自分の考えや独創性を出すのがよいと思います。
 突飛な考えというように他人に思われるということは、きちんとした説明が足りないからだということがあります。わかりやすく説明をしたら、納得してもらえるかもしれないのに、それができないから、変な考えだと思われてしまうのは、残念なことです。

 論文の読者は、自分がこれまでに知っているような人たちだけではありません。論文の読者は不特定多数の人と考えてください。
 例えば、新聞に投稿した文章が掲載されると、大勢の人が読んでくれます。そんな人たちの一人一人にわかるように書くことが肝要です。読んでくれる人のことを意識しないで文章を書くことはできません。読みやすく、わかりやすく、そして礼儀をわきまえた書き方をしましょう。

 一般論として申しますが、よい文章とは、どのような文章のことでしょうか。これまで述べてきたことをまとめてみようと思います。
 よい文章というのは、たとえば、次のようなことを観点にすればよいのではないでしょうか。
①独創的で価値のある主題を選んで論じている文章
②文章全体を主題で統一して結論を明確に示している文章
③主題を説得するために価値ある材料を選んでいる文章
④論理的で首尾一貫した構成になっている文章
⑤段落分けなどを適切に行って理解しやすいように書いている文章
⑥用語・表記などが正しく、やさしい言葉遣いをしている文章

 最後に、気をつけなければならないことを付け加えておきます。
 論文の内容が独創性にあふれたものになるためには、他人の文章を借用してはいけないと思います。他人の著作物から引用するのはかまいませんが、その場合は、誰がどこで述べているかということを明示しなければなりません。他人の考えを、自分の考えであるかのように書いてはいけません。
 自分の考えと、他人の考えは、きちんと区別してください。どこまでが自分の考えであるのかがわからないような書き方をしないようにしましょう。

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2007年10月28日 (日)

自分を表現する文章を書くために(9)

4 書くことの手順 (5)

⑦読む人のことを思い浮かべて、文章を推敲する

 はじめにも申しましたが、私は、今日のこの話をするために原稿を書きました。最初は思いつくままに書き始めて、読み返して、順番を入れ替えたり、言葉を改めたり、いろんなことをして、まとめました。
 今日のような内容の話をするにしても、高校生を相手に話をする場合と、大学生にする場合とは違います。高年の方々にお話をする場合も違います。
 つまり、聞いてくださる相手のことを考えながら、原稿を作ったのです。
 文章を書く場合、読む人のことを思い浮かべて文章を書き、そして推敲をすることは大切なことです。
 相手にわかりやすいようにしなければなりません。何度も言うようですが、言葉は自分と相手とをつなぐものです。相手に通じなければ、言葉を使った意味が薄らいでしまいます。相手のことを考えて、相手によくわかるように書くということが重要なのです。
 一気に書き進めた草稿を、何度も読み返して修正を加えて、わかりやすい文章になるように努力してください。

 推敲するときに気をつけるべきことは、
①自分の言いたいことがしっかりと述べられているか、
②序論・本論・結論などが明確に構成されているか、
③章や節や段落などがきちんと区別されているか、
④話の材料などを適切に使って、わかりやすく説明できているか、
⑤話の構成(順序など)が読む人の心理状態に沿ったものになっているか、
⑥原稿用紙の書き方の誤り、用字・用語の誤り、文法的な誤りなどはないか、
などです。
 書き終わってから、他の人に読んでもらって、気づいたことを指摘してもらうということをすれば、自分一人ではわからないことが明らかになってくるでしょう。

⑧清書をして完成させる

 最後は清書をすることですが、ワープロの場合は、いろんな修正を完了させたら、それで清書も終わったということになります。

 なお、文章の題名のことについて述べたいと思います。主題(テーマ)と題名とは同じではありません。環境問題を考えるとか、国際化社会のことを考えるとかというのは主題です。その環境問題について自分はどう考えたか、その中心となる事柄や主張を、題名にすればよいと思います。
 題名は、一見して論文の内容がわかるようにしたいと思います。「環境問題について」という題名では、環境問題の何を論じているのかわかりません。それに対して、例えば「分別収集を推進させる方法」という題名の方が中味を端的にあらわしていると思うのです。人を引きつけて、中味を読んでみたいと思わせるような題名をつける方が、自分にとっては得策だと思います。場合によっては、副題(サブタイトル)を使うという方法もあります。

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2007年10月27日 (土)

自分を表現する文章を書くために(8)

4 書くことの手順 (4)

⑥草稿はどんどん書き進めてみる (続き)

 ここで、ちょっと、原稿用紙の書き方について話をしておきたいと思います。
 別紙資料として「原稿用紙の使い方」という資料をお配りしました。
 原稿用紙を使って文章を書くことに慣れておられる方も多いとは思いますが、復習のつもりでお聞きください。
 大学院の修了論文は横書きで、ワープロを用いて書くのが原則のようですが、原稿用紙は、縦書きでも横書きでも、大きな違いはありません。数字や英単語などを書く場合にちょっとした違いが生じます。ワープロを用いて書くということは、原稿用紙の升目はなくて、文字だけを入力していくということですが、原稿用紙の使い方に準じた書き方になりますので、配付した資料を参考にしてください。
 さて、具体的なことをいくつか申します。
 段落の初めの行では、最初の一文字をあけて書き始めます。段落を改めた場合も同じようにしましょう。
 段落を改めるという理由は、文章を読みやすくするということです。原稿用紙1枚の中で一度も段落が改まっていないような場合は、息苦しくて、読みにくいと思います。考えなどのまとまりごとに、適度な長さで段落を切る(すなわち、改行する)ことにしましょう。

 一つの文をだらだらと長く書くのもやめましょう。作家の谷崎潤一郎は長々とした文を書くことによって微妙なニュアンスを表現しようと試みて、その効果をあげています。けれども、論文(論理的な文章)と小説(文学的な文章)とは違います。一つの文の中に、いろんなことを混ぜて述べると、読む人が混乱してしまいます。あまり長い文を書かないということを心がけてください。
 句読点を適切に使うことも大切です。句読点(テンやマル)は、文章を読みやすくして、誤解を防ぐために役立っています。句読点(特にテン)は多すぎるのも読みにくいのですが、ちょっと長い文の場合は途中にテンがないのも読みにくいのです。

 文体を統一しましょう。文体には「です・ます」や「だ・である」があるのですが、一つの文章の中に、「です・ます」や「だ・である」が混じりあっているのは見苦しく、読みにくいものです。
 文体は、本来は、書く人の好みで選んでよいのですが、論文の場合は、文の末尾を「だ・である」とするのが原則です。

 比喩表現(喩えを使う言い方)は、文学作品などではイメージをふくらませるのに役立ちますが、論文では誤解を招くような比喩は避けたいと思います。
 また、論文では、感情的な表現も避けなければなりません。

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2007年10月26日 (金)

自分を表現する文章を書くために(7)

4 書くことの手順 (3)

④自分の中からも、自分の外からも材料を集める

 材料がなくては文章は書けません。材料は多ければ多いにこしたことはありません。
 材料を集めるというと、本を読んだり、新聞を読んだり、人から話を聞いたりするような方法が思い浮かびます。自分の外から材料を集めるということです
 それとともに、もう一つ大切なことは、自分の中から材料を集めることです。別の言い方をすれば、自分でよく考えて、頭に浮かんでくることをメモしていくことです。自分の中から材料を集めるということは、大切な作業なのです。なにしろ、その主題を選んだのは自分自身です。自分はなぜ、この主題を選んだのか、何を考えて、何を追究しようとしているのかということなどをじっくり考えておくことが、論文作成の基礎になると思うのです。
 そして再び、いろんな資料を読み進めましょう。できるだけたくさんの材料を集めましょう。
 集め終わった段階で、整理をして、足りないものはないかということを考えてみましょう。これでは不安だと思ったら、もう一度、資料収集を再開しなければならないでしょう。安心して論文の執筆にとりかかれるようにしておきたいと思います。

⑤アウトラインを作って、構成を考える

 さて、いよいよ、文章を書く前の段階になりました。
 書き始める前に、自分の論文の結論がどういうことになるのかということを、確認しておきたいと思います。
 論文は、小説ではありませんから、書き始めたら何とかなるというものではありません。小説は、書き始めてから後に、筋が意外な展開を遂げるということがあるかもしれませんが、論文はそのようにはなりません。結論がどうなるかということは、書き始める前にしっかりさせておかなければなりません。
 そのためには、論文の結論はこのようになるということを、文の形で書き留めておくのがよいと思います。それを、主題文と言ったりします。
 そして、話の筋道、すなわちアウトラインを作るのがよいと思います。我田引水のようになりますが、私が今日、皆さんに配っている資料は、項目だけしか書いておりません。けれども、その項目は、単語を並べたものではなくて、文の形で表現しています。その項目だけをたどっていけば、どういう話をしようとしているのかということが理解していただけるのではないでしょうか。私は、今日の話の構成を考えて、その骨組みを、資料として皆さんに配っているのです。

⑥草稿はどんどん書き進めてみる

 さあ、そろそろ、草稿を書く段階になりました。
 草稿というのは、下書きであって、第一段階の文章ですから、頭に浮かぶままに、ある程度のスピードで、どんどん書き進めてみましょう。資料などを途中に書き加えることもあるでしょうが、途切れ途切れに書き進めていくと、文章に勢いがなくなってしまいます。書こうとしている気迫が薄らいでしまわない方がよいと思います。思い切って書き進めてみましょう。
 書き終わってから読み返すチャンスは、いくらでもあるのです。言葉がおかしいとか、文字が間違っているとか、理屈に合わないことを書いているとか、資料が不足していて説得力がないとか、読み返したら欠点が目に付くかもしれませんが、それは書き終わってから丹念に検討すればよいことなのです。
 文章作成ソフト(ワープロソフト)を使って草稿を書く場合は、後から文章の前後を入れ替えたり、言葉を修正したりすることなどは、簡単にできるのです。
 私の経験を申します。規定の文字数が6000文字であるのなら、6000文字よりもうんと多い字数で草稿を書けばよいと思います。文章の文字数を少なくするということは凝縮された文章に仕上がります。文章を縮めていくのは、しんどい作業かもしれませんが、深みのある文章に仕上がっていくと思います。
 逆に、文字数が少ないものを6000文字に引き延ばそうとしたら、中身の薄い文章になってしまいます。

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2007年10月25日 (木)

自分を表現する文章を書くために(6)

4 書くことの手順 (2)

③他人にも役立つような主題を選ぶ

 まず、主題のことですが、皆さまが在籍しておられる「いなみ野学園・大学院」では、2年間の課程を修了するにあたって、6000文字程度の論文を提出することになっているようです。
 研究科や、専攻されている分野には広がりがありますから、いろんな主題を考えておられる方がいらっしゃると思います。
 ここにおられる方は1年生ですが、皆さんより前に入学なさった2年生の方が主題として選んだものを拝見しました。
 例えば、家庭などから出る二酸化炭素の排出量の削減のこと、地域におけるゴミの減量やリサイクルのこと、食べ物を通じた健康づくりのこと、介護や支援を必要としている人たちに対する支援のこと、地域を活性化させるための取り組み(町づくり、町おこし)のこと、子どもたちの社会性を育てるための支援のことや青少年の育成のこと、外国人との交流と日本語学習の支援のこと、などなど多彩なテーマが選択されていました。出来上がった論文を読ませていただきたいという気持が強くなってきました。
 このようなテーマを拝見していると、高年になられた方々が、これまでの様々な経験や培ってこられた技能を生かして、社会に貢献し、自分たちより若い人たちを育てていこうという気概に燃えておられるように感じました。
 このことからおわかりになると思いますが、1年生である皆さんも、これまでの自分の経験や活動に基づいて、そこからテーマを発掘すればよいのだろうと思います。テーマの種類は無限と言っていいほど、様々なものが考えられるのではないでしょうか。
 突然のように新しいテーマを設定してもうまくいかないことがあるかもしれません。これまでの経験を生かしたテーマを設定なさったらいかがでしょうか。
 研究論文は、しっかりした課題意識や、問題意識を持って、それを掘り下げていけばよいのだろうと思います。そして、探求した結果の結論や方向性がよくわかるように書き上げてほしいと思います。
 字数は、6000文字です。6000文字と聞いて、長すぎると感じるか、短すぎると感じるかは、人によって違うと思いますが、私の感覚では、6000文字は、決して長いものではありません。
 他人にわかるように、丁寧に説明していけば、たくさんの字数が必要になります。もっと字数が欲しいと感じるならば、それは研究内容が深まっているからかもしれません。

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2007年10月24日 (水)

自分を表現する文章を書くために(5)

4 書くことの手順 (1)

①文章に対する考え方はひとりひとり異なっている

 論文を作成するための手順と留意点については、既に別の方からの講義があったと聞いております。
 私は、その話とできるだけ重ならないようにしなければならないと思っていますが、重なる部分があれば、それは重要な内容であるから、重複するのだというように理解していただければ嬉しいと思います。

 もう一つ、お断りしておきたいことは、昔から今に至るまで、大勢の人が、文章の書き方についての意見を述べております。「文章読本」という題名の本が、これまでもたくさん出版されています。
 谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、丸谷才一、吉行淳之介、井上ひさし、その他の方々が文章の書き方を指南する本を書き著しています。そのように大勢の人が、文章を書くことについて手ほどきをしているということは、つまりは、文章というものは、書く人によって様々な書き方があるということを意味していると思います。
 先ほども言いましたように、言葉は約束事であり、読む人・聞く人に通じなければいけないということは当然なのですが、味わい深い表現や、含蓄のある表現という段階になると、人によって考えが異なることになるのです。
 というわけで、私が述べるのは、ごく一般的な、文章を書く手順のお話です。それとともに、私個人の考えでもあるということを前提にしてお聞きくださるようお願いします。

②ひとつずつの段階を追って書き進める

 文章は、突然のように書き始めることはできないと思います。
 文章を書くには、大雑把に言って、次のような段階があると思います。
 まず、主題を選びます。何について書くかということです。論文の場合は研究テーマということでもあります。
 次に、その主題に沿って材料を集めます。書く材料が豊富にあればあるほど、文章は書きやすくなります。
 その次は、集まった材料をどのように並べるかということです。別の言い方をすれば、文章の構成を考えるということになります。
 そして、構成(順番)が決まったら、下書きを書いていくことになります。草稿とも言います。
 全体が出来上がっても安心はできません。じっくり読み返して、推敲することが大切です。言葉や文字の誤りだけでなく、文章の流れについても検討したいと思います。
 そして、最後は、清書して完成させるということになります。
 以上、述べたことを一つ一つ、すこし詳しく述べることにしましょう。

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2007年10月23日 (火)

自分を表現する文章を書くために(4)

3 書くことの方法

①言葉は人間社会の約束事である

 私たちは、話すことも書くことも、聞くことも読むこともします。言葉を使って、それを行っています。
 言葉は、人間が作り上げたものです。森羅万象は造物主(神)が作ったものでしょうが、言葉は人間が作り上げてきたものです。
 言葉は人間が作りましたから、日本語も英語もロシア語も、それぞれは、その言葉を使っている人たちの間の約束事なのです。その約束の一つを、ちょっと理屈っぽく言えば、語法とか文法というものになるのですが、言葉の一つ一つも約束事です。頭をなぜ「アタマ」と言うのか、山をなぜ「ヤマ」と言うのか、語源を調べることは面白いことかもしれませんが、語源がどうであれ、日本語では「アタマ」という発音で、頭をあらわしているのです。
 そうでありますから、私たちはお互いの約束に沿って、言葉(日本語)をわかりやすく、感じよく使いたいと思います。

②他人に通じやすい言葉を使う

 難しい言葉を使えば、程度の高い内容を表現することができるのでしょうか。易しい言葉を使えば、内容の程度が低くなるのでしょうか。
 私は、そのようには思っておりません。今、私はできるだけ易しい言葉、わかりやすい言葉で話をしようとしています。私の意図どおりになっているかどうかはともかくとして、私は皆さんに通じやすい言葉で話をしようと思っているのです。
 私の話がレベルの高いものになっているかどうかはわかりません。今日は、あまり専門的な話をしようと考えているわけではありませんから、皆さんには、じゅうぶんわかっていただいていることと思います。
 いずれにしても、聞いておられる方に、わかっていただけるように話したいと思って、理解していただきやすい言葉を使って話を進めているのです。
 どんな場合でも、わかりやすい言葉、通じやすい言葉を使うというのが、私の考え方なのです。

③他人に通じやすい論理を展開する

 易しい言葉を使っていても、聞き取りにくい話、理解しにくい話というものはあります。人間は言葉を使っていますが、その言葉は論理に基づいて使われています。別の言い方をすれば、話のつながりのことです。その言葉の論理がわかりやすくなければ、その話は理解しにくくなります。
 思いついたままを次々と話すのは、聞き苦しく、わかりにくいと思います。話を整理して、話す順番を考えて、聞く人の負担を少なくするように工夫すべきだと思います。
 話は、自分の都合で話してはいけません。聞く側の人がどのように聞いているだろうかということを想像して、わかりやすく話を進めていくことが大切です。

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2007年10月22日 (月)

自分を表現する文章を書くために(3)

2 書くことの意義

①話したいという欲求は誰もが持っている

 私は、先ほど、話すことが苦手であったということを申しました。けれども、それは、他人と話したくないということではありません。話したいけれども、話すのが苦手であるということです。
 話したい、書きたいという欲求は誰でも持っているのだと思います。別の言い方をすれば、書くことは人間の本性なのだ、ということです。たぶん、皆さんも同じ気持ちでおられることだろうと思います。
 例えば、一冊の本を読み終えて、その感想を他人に伝えたいということがあります。映画や演劇を見て、その感動を述べたいこともあります。世の中の出来事について、自分の意見を述べたいこともあります。
 誰か、聞いてくれる人がいたら、語りたいと思うことはいろいろあることと思います。話したいという欲求は誰もが持っているのです。

②読書の趣味から執筆の趣味へと進む

 趣味は何かと尋ねられたとき、読書だと答える人が大勢います。皆さんの中にもいらっしゃると思います。
 けれども、本当の意味で、読書は趣味と言えるのかと問い詰められたら、私は、ちょっと違うように思います。本を読むことが楽しみだという方は多いとは思いますが、読書は生活の一部であると感じている方も多いのではないでしょうか。本を読まない生活は考えられないということです。
 けれども、仮に、読書が趣味であると考える場合、読書を、読んだということだけで終わらせるのはもったいないと、私は思っています。
 読書というのは、他人の書いたものを読むということです。いわば、受信をしているのです。
 それを一歩進めて、自分が他人に向かって書くということもしてみたいと思うのです。それは、自分が発信する側にまわるということです。
 読書という趣味にとどまらず、執筆という趣味へ進んでいけば、視野が広くなっていくのではないかと思います。
 言いたいことを書き記して、他人に伝えることによって、他人とのつながりが生まれてきます。
 それとともに、自分の考えを書き記していくと、次々と書きたいものが湧き出てくるということがあります。
 そして、もうひとつ。自分の考えを確かめながら書いていくと、自分が考えていることが、しっかりとした輪郭となって、自分にわかってくることがあります。
 書くということは、他人のためでもありますし、自分のためでもあるのだと思うのです。

③自分を外に出して表現することを恐れない

  私は、今日の話のタイトルを、「自分を表現する文章を書くために」としました。
 書くということは、自分を他人に伝えるということ、自分を外に出していくことです。他人の前に、自分をさらけ出していくことなのですが、それを恐れる必要はありません。
 引っ込み思案になったら、文章は書けません。ありのままの自分を、ありのままに表現すればいいのです。人間は誰でも、長所を持っていますし、短所も持っています。欠点のない人はいません。
 自分の欠点があらわになることを恐れる必要はありません。思い切って書いてしまえば、気持がスッとすることもあります。自分を表現することは楽しいことなのです。

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2007年10月21日 (日)

自分を表現する文章を書くために(2)

1 はじめに (2)

②90分間で話す量は15,000文字を超える

 90分間の話をするために、私はかなりの時間を使って準備をしました。そうしないと聞いていただく方々に失礼であるということよりも、そうしないと私自身の不安が解消されないからです。
 話をする前に、内容を順序立てて構成して、そして、文字に書き表します。何度も読み返して修正をします。そして、実際に話をする場では、その原稿を手元に置いて話をします。
 ところで、90分間で話すことを文章に書き表したとき、その字数は何文字ぐらいになると思われますか。
 私は、いつもパソコンを使って文章を書いています。四百字詰め原稿用紙を使っていませんが、字数に制約のある文章を書く必要も多いのですから、文章の字数のことはいつも意識しながら書いています。
 私が今、手元に置いている原稿は、大雑把な計算をしますと、1行が40文字で、1ページが40行です。だから1ページはおよそ1600文字です。つまり、原稿用紙4枚分です。
 その用紙を10枚分ほど、作っています。つまり、90分間の話のために準備した文章は、原稿用紙40枚分、15,000文字を超えています。
 皆さんは、大学院の1年生ですが、2年生になると修了論文を書くことになっていて、それは6000文字程度の論文だそうです。今日の私の話も、その修了論文の作成に役立つようにという意図があると聞いております。
 もちろん、私の話は、わかりやすく聞いていただくことが目標です。そういうつもりで文章を書いて、それをもとにして話をしております。
 それに対して、論文は、何かの主張や結論を、論理的に述べるものです。性格がちょっと異なります。
 けれども、今日の話は、私が文章をこのように書いたという例も見ていただきながら、皆さんに、文章の書き方について考えていただくことにしたいと考えています。

 

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2007年10月20日 (土)

自分を表現する文章を書くために(1)

1 はじめに (1)

①話すことが不安だから原稿を作る

 今日は、90分の時間を与えていただいて話をすることになっています。
 90分という時間の長さを、皆さんはどのように感じておられるでしょうか。
 私は、長い間、高等学校に勤めてきて、50分間の授業に慣れきっておりました。大学で講義をするようになってからは90分間になりました。
 このような講演に呼んでいただきますと、たいていは90分という時間を与えられることになります。私は、90分間の講義時間を余して終わることはしないようにしたいと思いますし、延長することもしないようにも努めます。ときどき時計を見て、残り時間を確認しながら進めていきます。90分間というのは、一つのまとまったお話をするのに適切な長さであると思っています。
 ところで、私は、人前で話すのが得意ではありませんでした。こんなことを言うと、嘘だろうとお思いになるかもしれませんが、本当です。
 高等学校で、教科書を使って授業をする場合は、手元に教科書などの教材がありますから問題はありません。話すべき順番や内容がある程度決まっていたのです。
 けれども、授業とは別の場面で、話の内容を自分一人で考えて、それを組み立てて、大勢の生徒を前にして話をするという場合は、それが終わるまで、不安定な精神状態に置かれるのが常でした。
 だんだん慣れてきて、今では、それほどのことはありません。そうは言っても、予定していた話を途中で大きく変えたりするような芸当は、なかなかできません。
 私は、ほんの2~3分間の挨拶であっても、90分間の講義であっても、必ず原稿を作って話をしています。今日も、同じです。

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2007年10月19日 (金)

国語教育を素朴に語る(46)

自己中心の倒置表現を真似るまい

 新聞の一面の下段に載せられているコラムを引用することから、話を始めようと思います。それらの文章の冒頭部分の引用です。
 「報道官を待つホワイトハウスの会見場に、予告なく大統領本人が現れた。97年春、けがで松葉づえ姿だったクリントン氏だ。」
 この例文には、倒置表現としての効果を感じることができます。最初の文は舌足らずな表現にはなっていません。
 それに対して、次の例文はどうでしょうか。
 「まさか。そう思って、2度、3度と検算してみた。やはり正しい。うーむ。考え込んでしまう。先日あった総選挙での300小選挙区の票数のことである。」
 この例文は、倒置の効果という前に、舌足らずな表現という印象を免れません。最初の文が不完全な文で、「…のことである。」という文に支えられて意味を持つことになります。最初の部分を読んだ段階では、読者の心理は安定しない状態に置かれます。しかし、この種の文章が横行することによって慣れが生じて、違和感を感じる人は少なくなっているかもしれません。
     ◆   ◆   ◆
 テレビのニュース報道は、意図的にそれを行っている傾向が強まっています。
 「享年79歳でした。」というのが、ニュースを伝える最初の文であって、その後に「文化庁長官も務めた河合隼雄さんが19日午後に亡くなりました。」という言葉が続くのです。
 一瞬のうちに何本もの見出しが目に入る新聞とは違って、放送は時間を追って言葉を連ねて伝えるのだということを忘れてしまっているようです。わかっていながら、わざとそのような表現をしているのかもしれません。思い浮かんだ順序のままで表現をするのは、幼稚でもあります。
 このような表現は、民間放送が先行していましたが、NHKも真似るようになりました。 期待を持たせるために(チャンネルを変えさせないために)、コマーシャルの前に、思わせぶりな(舌足らずな)予告のコメントを入れておくという手法が、ニュース報道にまで浸透してきたようです。
     ◆   ◆   ◆
 若い世代が読書をしなくなった、新聞を読まなくなったとはいえ、新聞が人々の言語生活に与える影響は大きいと思います。今では、テレビは新聞以上の影響力を発揮しているでしょう。
 すべての放送局が視聴率に血眼になっていて、言葉の用い方に配慮する余裕などは持てないのかもしれません。
 私は、文と文の倒置だけを問題にしているのではありません。文章(番組)全体の構成順序を無視して、不安定な心理(情報の飢餓感)をあおり立てて、一分でも長く番組を見るようにさせようとする表現手法にこそ大きな問題があると思っています。番組全体が倒置になっているのです。
 私たちは国語教育において、前述したような表現を真似るような指導をすべきではありません。そのようなものを、現在の表現の傾向であると考えたり、その流れの上に立った表現が現代風だなどという指導をしたりしてはいけないと思います。
 いかに自己主張の強い時代になったとは言え、その主張を聞くのは他者(相手)です。相手のことを思い遣ることをしない表現は、不快感を持たせてしまって逆効果になります。
 倒置表現は、文学作品の場合は効果が大きいとしても、日常のコミュニケーションとしては、相手の心理をかき乱します。表現する側の意図とは逆の効果(まさに倒錯した効果)を、理解する側に与えてしまいかねないということを念頭に置いておくべきでしょう。
 相手の心に抵抗なく染み通っていく、自然な心理状態にそった表現を心がけさせるのが言葉の指導です。そのような表現は、視聴率競争をしている報道関係者には難題であるかもしれませんが、若い生徒たちを相手にしている中学校・高等学校の国語教育では決して難しいことではないと思います。

【この文章は、東京法令出版発行『月刊国語教育』2007年(平成19年)10月号に掲載されました。】

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2007年10月18日 (木)

国語教育を素朴に語る(45)

言葉を体験と結びつけること

 今年の教育実習は、実習生を送り出す大学にとっても、受け入れてくださる学校にとっても気になる出来事がありました。
 麻疹(はしか)の発生です。大学は、学生に抗体検査やワクチン接種を受けさせようとしても、試薬やワクチンが極端に不足しているという事態に直面しました。受け入れ校の判断によって、一部の教育実習が延期になったのも、やむをえないことでした。
 教育実習生の受け入れよりも、さらに気を使ったのは、介護等体験の学生を受け入れる学校でした。かつて障害児学校の校長を務めたこともある私は、身体面で配慮しなければならない児童生徒が多く在籍している特別支援学校が、学生の受け入れに慎重になるのは当然であると思います。学校は安心できる状況の中ではじめて教育に専念できるのです。
     ◆   ◆   ◆
 実習生の受け入れをしていただいた中学校・高等学校に出かけて学生の実習ぶりを観察するということが、今年も何度かありました。
 国語科以外の授業も見ましたが、おどおどした話し方をする実習生が、以前に比べて少なくなったように感じました。声が小さいとか、話す速さなどに難点のある者もありましたが、萎縮して話せなくなってしまうことはありませんでした。長い教員生活で、多くの教育実習生を見続けてきた私の実感です。
 饒舌の時代ということなのでしょうか、テレビなどの影響でしょうか、話すことの指導が効果を上げ始めているからでしょうか。話すことをためらったり恐れたりする者は少なくなりました。
 それゆえに、私は逆に、滑らかに話すよりは、むしろ言葉数を少なくして、言葉に重みを持たせる方がよいのではないかという感想すら持ちました。
 教育実習生は学習指導案を作り上げてから授業に臨みます。大学で学んだこととは言え、実習開始後に受け入れ校の先生方から、授業の構成や学習指導案の作成についての厳しい指導を受け続けています。
 だから、実習生にとっては、滑らかな授業展開ができた場合は、手応えを感じて成就感を得ることになるだろうと思います。そのようにして、教員になろうという情熱がさらに強まっていくことにもなります。
     ◆   ◆   ◆
 教育実習生は波乱なく授業が終われば喜ばしいと感じるとしても、国語教育を日々続けている教員にとっては、滑らかな授業を行っていることで安心はできません。学習したことの痕跡がどのように残っていくかということに気をつけなければなりません。
 学校という場では、生徒と教員が結ばれている実感が大切です。それは、子どもと大人がつながっていることです。人生の先輩である大人から教えられている信頼感とか安心感が教育の基盤には必要だと思います。教育実習生も生徒から見れば大人です。
 国語科に限りませんが、学校で学習することは生きていくための準備です。「生きる力」というのは、近年、重視されてようになったことではありません。生きる力と無関係な教育や学校は存在しません。
 言葉に関する指導を基盤にしている国語科ですが、言葉での理解がどんなに深められても、実際の行動や体験と関連づけられなければ意義は低いと思います。机上の空論は、教育では最も反省すべきことであると思いますが、言葉を机上の空論としないことが国語教育にとっても大切なことです。
  教材(文章など)をもとに考えを深めることは、生徒にとっての大きな経験ですが、それを実生活の体験と結びつけることが、教育の意義です。教材を生活(体験)と結びつけて考えることによって、感性を磨いていく一助になります。体験を通じて自己を振り返り細かく検討することによって、人間の深い部分を変えていくことができるようになります。
 教育において言葉は重要な働きを担っていますが、言葉と体験とが人間の内面を深めていき、人間の基本的な在り方を方向づけていくのだということを忘れないようにしたいと思います。そのようにして変化・変容していくことが成長なのでしょうが、そこに教員という大人が存在する理由があると思います。

【この文章は、東京法令出版発行『月刊国語教育』2007年(平成19年)9月号に掲載されました。】

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2007年10月17日 (水)

国語教育を素朴に語る(44)

思ったとおりに書くのは無理である

 私たちは、目の前にあるものに心を動かされているときや、何かの事柄について考えているときなどには、言葉を用いています。
 時には、言葉に置き換えられないことがあって、「言葉を失う」ことにもなりますが、たいていは、感じたり考えたりしているその時その時に言葉を用いています。
 そして、その言葉は、ものすごいスピードで頭の中を駆けめぐっています。一輪の花を見たとき、花の色や形や匂いなどについて、一瞬にうちにさまざまなことを感じ取っていますが、その時に言葉が頭の中を瞬時に行き交っています。
 私たちが、感じたり考えたりしたことについて口に出すのは、その時に頭の中に浮かんでいたことのいくつかだけであって、整理して表現できるようになった事柄だけであると言ってよいのではないでしょうか。
 速記であれ何であれ、めまぐるしく頭の中を去来する一瞬一瞬の言葉を追いかけて、文字に定着させることなどできるはずはありません。頭の中にうごめく言葉をそのまま口に出そうとしても、発音するスピードが、頭の中の言葉に追いつくことはかないません。
 ゆっくり思索にふけるという場合は別ですが、日常生活の場面では、論理的なつながりもなく、その時その時に次々と浮かんでは消えていく思い(言葉)があります。そのまま文字に表してみたら、おかしな日本語、おかしな論理になるであろうと思われることも多いはずです。
     ◆   ◆   ◆
 生徒に向かって表現を指導するときに、「難しく考えないで、思ったとおりに書きなさい」と指示をする場合があります。文章を書くという重圧感を取り除いて、生徒の負担を軽くしようという配慮からです。
 けれども、さまざまなことを考えたのに、文章に書き表せないということが起こります。そのことを、表現力が育っていないというような一言ですませてしまってはいけないと思います。
 私は、思ったことを、ありのままに書くことは無理だろうと考えています。理由は、二つあります。
 一つは、前述したように、思ったことを、そのまま再現することは物理的に不可能だということです。これは、自分一人に関することであって、他人を意識しない次元でのことです。
 そして、もう一つは、「思ったこと」は、そのまま表現するのではなく、論理や順序を追って整理しなければならず、それを「思ったとおりに」という一言で片づけることはできないと思います。これは、表現という行為が他人に向かって行われることであるかぎり、他人を意識しないではおれないということと関連しています。
     ◆   ◆   ◆
 このように考えるなら、思ったとおりに書くということは、「思ったままのこと」を書くのではなく、取捨選択を経て「今、頭の中に残っていること(あるいは、頭の中に残そうと意識していること)」を、他人に伝えようとして書くということであるのです。
 そして、頭の中に残っているものを、再び俎上に載せて、順序や論理を施して整理することこそが、表現という営みであると思います。
 頭の中で瞬時に行き交ったのは、ほとんどすべて話し言葉の領域だと思いますが、つまるところ、話し言葉に脈絡を施さないかぎり、書き言葉にはなりません。
 実は、私も今、思ったことを文章にまとめようとして、これを書いているのですが、頭の中に浮かんだ思いを、そのまま、思ったとおりに表現できているわけではありません。
  思ったことを書き付けながら、順番を入れ替えたり、論理性を確かめたりしながら、文章にまとめる作業をしているのです。このような築いたり崩したりしながら進める作業が、自分の頭の中を整理することになっています。また、自分の考えが他人に伝わるかどうかということを何度も検討しながら仕上げていくのが、表現のごく普通の方法であろうと思うのです。

【この文章は、東京法令出版発行『月刊国語教育』2007年(平成19年)8月号に掲載されました。】

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2007年10月16日 (火)

国語教育を素朴に語る(43)

感動は強要できるものではない

 先日、ある新聞で読者の投稿エッセーを読みました。大阪府下の女性がお書きになった文章です。十六年前にご子息を交通事故で亡くされていました。
 十年ほど前に洗い直して大事にしまっておいたご子息の衣類を、今年改めて洗って、傷みが目立ったものがあったので、いくつかを思い切って処分したと書かれていました。
 わずか六百字あまりの文章の中に、「悲しみは確実に時が癒してくれているようで、それもまた寂しい」という言葉がありました。十七回忌をつとめたのちのことにも触れて、「『十七年かぁ、何してきたんやろ』とポツリと言った主人に、私は『真面目に暮らしてきただけでも十分やで』と自分に言い聞かすように答えた」と書かれていました。
 文章をもとに年齢を数えてみると、私の長男と生年が同じ頃のようで、そのご子息を亡くされた方の気持ちが私の胸に迫りました。
     ◆   ◆   ◆
 人はさまざまな出来事や文章などに心を動かされます。それまでの人生経験の方向・度合いや、その時の年齢や心の状態などが絡み合って感動したり、しなかったりします。感動して胸が詰まるというのは、偶然の条件が重なって起こることなのかもしれません。このエッセーを中学生や高校生が読めば、心の動きは、私とは異なったものになるでしょう。
 多くの人が心を動かされる出来事や文章であっても、その同じものに心を動かされない人がいます。他人と同じように感動できないことを寂しいと思うかもしれませんが、ひけめを感じる必要はありません。逆に、他の多くの人が心を動かしていないことに、ただ一人が感動することもあるのです。
 心が一定の経過をたどったら感動に至るというものではありませんし、感動を強要することはできません。
     ◆   ◆   ◆
 国語教育では、生徒がさまざまの文章や作品に触れて心を動かし、考えや思いを深めていくことを目指して、いろいろな実践を続けています。同じ文章や作品から、一人一人の生徒が同じような感動を得ることはないでしょうが、種々の文章や作品に出会うことをさせ続けて、考えを深め、感受性を豊かに育てていくことは国語教育の目標の一つです。
 教員が指導目標を立てて指導計画・手順を考えた上で、熱心に指導するのは当然のことです。けれども、自分の考えた指導の内容や方法が、その文章や作品を享受する唯一絶対の方法であると錯覚してはいけないと思います。生徒一人一人に作品を自由勝手に読み進めさせたのでは指導とは言えませんが、逆に、指導に熱を入れるあまりに、教員自身の考え方や感じ方を強調し、他の考え方や感じ方を念頭に置かないようなことになってしまったら、弊害も生じるという自戒を持ち続けることが肝要です。
     ◆   ◆   ◆
 文学作品などを教えるとき、追体験などをさせて作者や主人公の気持ちに近づかせることは大切ですが、努力すれば作者や主人公の心の状態に必ず近づけるとは言えません。
 作者や主人公の気持ちを、生徒に説明させることがあります。時には、ぶしつけに「この作品を読んで、あなたが感動したのはどのようなことですか」という質問をすることもあります。生徒は、心の底から感動していなくても、それに近いことを答えるように迫られているのです。
 国語教育で扱う作品は優れたものであるから感動するのが当然だという考えが、教員にあるのではないでしょうか。こんな素晴らしい作品に感動しないのはおかしいと考えてはいないでしょうか。そして、感動を言葉で表現させることを急いではいないでしょうか。
 深く感動したときに人は言葉を失うものであるとすれば、感動を易々と言葉に置き換えていいものかとさえ思うことがあります。言葉に置き換えて表現させる前に、その感動を心の中にしっかりと留める時間を持つことの方が大切だろうと思うのです。

【この文章は、東京法令出版発行『月刊国語教育』2007年(平成19年)7月号に掲載されました。】

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2007年10月15日 (月)

国語教育を素朴に語る(42)

討論に加わっていく力を育てる

 教職を目指している学生に、学校教育のさまざまな実践の場面を体験させ、教員としての力を高めるように導くのは、大学の教職課程に携わる者の務めです。
 私は、教員採用試験は倍率が高くて、難関であるべきだと思っています。倍率が低くて偶然に合格するようなものであってはなりません。教科等の知識や技能は筆記試験で確かめることはできるでしょうが、近年は、それぞれの都道府県や政令指定都市の教育委員会が、人物本位の採用を目指して、面接などに力を入れています。何千人もの教員志望者に対して、一人につき二十分とか三十分とかの面接時間を設定すれば、試験をする側の労力はたいへんなものです。それを覚悟の上で面接などの回数や時間を増やしておられることに敬意を表します。
     ◆   ◆   ◆
 一方で、自分の勤めている大学の学生には一人でも多く教職に就いてほしいというのも偽らざる気持ちです。学生の求めに応じて、教員採用試験そのものを目標にした指導もしないわけにはいきません。
 教員採用試験の筆記試験に向けての勉強はひとりでできます。しかし、ひとりで対応するのが難しいものもあります。面接、ロールプレイ(場面指導)、討論などです。それらは、相手があって成り立つものです。こうしたことには、何人かの学生を一つのグループにして指導をします。学生にとって、模擬的な試験を受ける経験は大切ですが、他の人の受け答えの様子などを観察することも勉強になります。
 ここでは、討論のことについて述べます。教員採用試験では、集団討論という名称を使うことが多いようです。討論は二人でも三人でもできますが、教員採用試験では五人とか八人とかを一つにグループにして討論をさせますから「集団」という言葉を使っているのでしょう。少人数の討論では発言できても、七~八人の討論になると発言のチャンスを失ってしまうというようなことでは困ります。
     ◆   ◆   ◆
 教員採用試験の討論では、その場でテーマが示されて、すぐに討論を始めなければならないことが多いようです。
 私は、具体的な討論を指導する前に、学生に向かって、次の四つのことが重要であると言っています。
 一つ目は、提示されたテーマに関して、何が重要な事柄であるのかを見分ける力〔判断力〕です。周囲の人の意見に引っ張られて枝葉末節の議論に陥らないようにする力です。
 二つ目は、他人の意見を正確に聞き取る力〔理解力〕です。誤解などに基づいた意見を述べないようにするために大切なことです。
 三つ目は、他人の考えなどを参考にしながら、自分の考えをまとめる力〔思考力〕です。瞬時に考えをまとめる必要もありますから、一つ目の〔判断力〕を予め、しっかりさせておかなければなりません。
 四つ目は、自分の考えを他人にわかりやすく、正確に伝える力〔表現力〕です。前の三つがしっかりしていても、この力がそなわっていないと画竜点睛を欠くことになります。
     ◆   ◆   ◆
 教職課程で学んでいるのは国語の教員を目指す者だけではありません。文系の学生も理系の学生もおり、教員免許の種類は多様です。けれども、ここに述べたことは校種や教科に関係なく、すべての教員に必須の力です。
 私は、このような力を養うことは、教員採用試験対策のためだけではないと思っています。教職に就いた後の、教員同士の協議や、生徒・保護者との対応にとっても重要な力です。また、自分がそなえなければならない力というだけではなく、討論の進め方などを生徒に指導していくことは教員としての務めでもあります。コミュニケーション能力ということが声高に叫ばれていますが、その必要性は今に始まったことではありません。
 討論や話し合いに加わっていくことや、討論や話し合いを通じて自分を高めていくことは、教員にも生徒にも必要なことです。
 次期の学習指導要領が、すべての教科の基盤に「言葉の力」を置こうとしているのは当然のことだと思います。

【この文章は、東京法令出版発行『月刊国語教育』2007年(平成19年)6月号に掲載されました。】

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2007年10月14日 (日)

国語教育を素朴に語る(41)

他者に頼らない教材研究・教材開発

 教科書を使わないで授業をすることはできませんが、教科書を教えておれば国語教育は成り立つというわけでもありません。
 中学校用教科書も高等学校用教科書も、昔に比べると至れりつくせりの指導書が作られているようです。教材研究の手ほどきをする指導資料はもちろんですが、教員自身が探す手間をかけなくても補助教材が準備され、テスト問題の見本も添えられています。教科書の販売競争の結果として、親切この上ない指導書を提供しているのですが、その結果、手抜き教員を増やすことになっては困ります。
 教科書に収められている作品は、いろいろな形で発表されたものの中から、生徒が学習するのにふさわしいものを選んで教材化しています。例えば、高樹のぶ子さんの「君たちに伝えたいこと」と題する文章は、もとは朝日新聞の平成一二年八月二三日(夕刊)に掲載されたものです。私は、たまたま編集をしていたオリジナル問題集に、その文章を使わせていただきました。そして、今年度から使用が始まった某社の「国語総合」教科書に、その文章が採り入れられています。
 教材は、与えられるものであるという考えを捨てて、自分で作り上げるという姿勢が大切です。これから教員をめざす人も、そうであってほしいと思います。
     ◆   ◆   ◆
 本務校では教職課程のさまざまな講義を担当していて、国語教育とは距離のある位置にいます。出講している大学では、国語科教育法を二年間にわたって(四コマ、八単位)担当しましたから、時間のゆとりを生かして、教材開発の演習を取り入れました。
 中学生・高校生だけでなく、大学生も新聞を読む時間が少なくなっています。国語科教員を目指す人たちが新聞に親しむことを一つの目的として、新聞に掲載された文章をもとに教材を作成し、それを発表するという演習を行いました。受講者は、適切な文章を探し出すために、かなり新聞を読んだようです。
 選び出す文章には、条件を提示しました。
①教材は中学三年生または高校一年生向けとしてふさわしいものであって、主張が明確である意見文とする。文章の内容は、人生経験などの面から見て、その年齢で理解しやすいものであること。文章の難易度も、その年齢にふさわしいものであること。文章のテーマや内容は問わない。
②今回の演習では、筆者名(新聞記者名などは除く)が明記されている文章に限定する。また、話し手と書き手(筆者)が別人であるような文章(聞き書き)は除く。
③教科書に載っている文章を読む際の参考として使うのではなく、その文章が独立した価値を持っているものを選ぶ。また、「注」を多く必要とする文章は選ばないようにする。
④文章の長さは、中学三年生または高校一年生にふさわしいものを選ぶ。文章は、掲載された文章の全文または部分を使用する。原則として、途中部分の削除はしない。
     ◆   ◆   ◆
 教材として仕上げていく手順は具体例を用いて細かく説明しました。そして、発表するまでに長い期間を置きました。けれども、一人一人が別々の文章に取り組むのですから、発表できる状態に仕上げるまでには、さまざまな相談を受けました。はじめは教える立場に身を置くことができずに苦しんだ学生もいましたが、しだいに変化していきました。
 発表に際しては、①その文章を生徒に教える価値について説明する、②文章の要旨などを一〇〇字程度にまとめる、③設問を六題~七題、作成し、標準解答と採点基準などを提示する、ということを課しました。
 発表は、一人に二〇分~三〇分を割り当てて、質疑応答や討論も取り入れました。出来上がったものを発表し合うことは、互いに大きな刺激になりました。教えることの難しさや指導の工夫について少しずつ気づいていってくれました。言葉や表現に敏感になったという手応えもありました。
 教員になった後にも、他者に頼らず教材研究をし、他者に頼らず教材開発をするという姿勢を身に付けてほしい。そのような考えで始めた演習でしたが、私の期待は多少かなえられたように思いました。

【この文章は、東京法令出版発行『月刊国語教育』2007年(平成19年)5月号に掲載されました。】

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2007年10月13日 (土)

言葉カメラ(98) 【霤】

「霤」は雨垂れ受け

 珍しい文字であるかどうかは別にして、屋根に注がれた水を受ける場所に「霤」の文字が使われているのを見ました。こういうところに、この文字が使われているのは珍しくないとおっしゃる方もあるでしょうが、私は珍しく感じたのです。
 『大漢和辞典』によれば、「霤」は、①あまだれ、②水が流れる、③のき、④あまだれうけ、⑤したたり、です。
 加古川市別府(べふ)町にある宝蔵寺で撮影したものですが、この寺には、江戸時代中期の俳人・瀧瓢水(1684年~1762年)の「浜までは海女も蓑きる時雨かな」の句碑があり、また、1886年(明治19年)に植えられた、古さ日本一のオリーブの木もあります。

【写真は、2007年(平成19年)9月12日に、兵庫県加古川市内で撮影。】

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2007年10月12日 (金)

言葉カメラ(97) 【本日のおすすめ】

本日のおすすめ

 普通は、「本日のおすすめ 刺身定食」などと書くところを、「本日のおすすめ 『笑顔』です」と書かれると、つい、入ってみたくなります。和食・洋食・中華なんて関係ありません。笑顔を前にして、美味しくいただきたくなります。
 商売をする人にとっては、きわめて当然のことなのですが、ここまで自信を持って言い切れる人は少ないと思います。
 急いで通りすぎましたから(というのは、言い訳になりますが)、どのような笑顔であるのかを確認しませんでしたが、入ってみたい気持ちになったことは間違いありません。本当は、「本日のおすすめ」などではなくて、「毎日のおすすめ」なのでしょうが、「本日の」として目を引こうとしたのはアイデアですね。

【写真は、2007年(平成19年)9月2日に、東京都品川区内で撮影。】

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2007年10月11日 (木)

言葉カメラ(96) 【左・右横書き】

左横書きと右横書き

 ドアが左右に開きます。同時に、中央から左へ動くドアと、右へ動くドアとがあります。自動扉ですから、左右が同時に開くだろうと思います。そのドアの動きに応じて(左側のドアに注目した人にも、右側のドアに注目した人にも)、店の名前を確認できるようにと考えて、左横書きと右横書きとを併用したのでしょう。動かない看板であれば、左・右からの横書きの、2通りをする必要はないでしょう。
 それにしても、店名のすぐ上の「ご協力をお願いします」などの文字を、向かって右側のドアに貼らなかったのはなぜでしょうか。そのようにすると、読みの方向は同じになるのですが。

【写真は、2007年(平成19年)9月3日に、東京都品川区内で撮影。】

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2007年10月10日 (水)

言葉カメラ(95) 【右横書き③】

店名の右横書き

 車体の側面の右横書きはともかくも、商店などの看板にそれが残っていることは珍しいと思います。下の写真の場合は、他の文字がなければ、「岡松」という「畳」屋さんであると解釈するのが自然でしょう。仕事の内容や電話番号の書き方から、右横書きであると判断して「松岡」さんだと理解するのです。電話番号の右横書きは 漢数字を使うという工夫がされています。
 それにしても、お宅には古さを感じますが、看板は古い書き方のままで新調されたようです。この看板では東京の市内局番は4桁で表記されていますから、4桁に全面切り替えとなった1991年(平成3年)1月以降の新調でしょう。その時期になお、右横書きを残そうという意識をお持ちになったわけです。

【写真は、2007年(平成19年)9月3日に、東京都品川区内で撮影。】

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2007年10月 9日 (火)

言葉カメラ(94) 【右横書き②】

有名な(?)「スジャータ」右横書き

 前回の続きです。「スジャータ」という商品名は知っていますから、左右どちら側から書かれていても読み誤ることはありません。「ターャ……」という文字配列が日本語にそぐわないというのも理由かもしれません。
 ところで、桜濱さんという方が作っておられる「九州男児のにくばなれ ほほえみ追求ブログ」に、次のような文と写真[後掲]が載っていました。

 《「右横書き」衰退の現代にあって、右横書きが多用されるケースがあります。それが「車体右側面上右横書き」です。有名な例を一つ挙げてみましょう。
 「スジャータ」のトラックの右横書きは、多くの方が目にされたことがあると思います。あの村上春樹さんも「スジャータ」の右横書きに言及されたことがあると聞いています。》

 首都圏では「スジャータ」の右横書きが広く知られているのでしょうか。私が撮影した写真と、ブログの写真とは、デザインは同じですが会社名は異なっています。

【写真は、2007年(平成19年)9月4日に、東京都太田区内で撮影。右側の写真は、前記のブログからの引用。】

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2007年10月 8日 (月)

言葉カメラ(93) 【右横書き①】

やっぱり読みにくい右横書き

 車の車体の進行方向から見て右側に書かれる文字に、右横書きはまだ多く見られます。よく知られた社名や商品名の場合は、瞬時に間違いなく読んでしまいますが、文や句の形をとったものは、きちんと読みとるまでに一呼吸が必要です。
 この写真の例も、社名は、仮に初めて見るものであっても間違いなく理解できます。けれども、「おさえよう あせる気持ちと スピードは……」は、平仮名と外来語(カタカナ)とが含まれていますから、頭の動きが鈍化してしまいます。道路を清掃しながら、ゆっくりと進んでいく車であったことが救いでした。

【写真は、2007年(平成19年)9月12日に、兵庫県加古川市内で撮影。】

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2007年10月 7日 (日)

言葉カメラ(92) 【居食】

「立ち食い」の対の言葉

 立ったまま食べる「立ち食い」があり、立ったまま飲む「立ち飲み」があるのですから、座って食べたり、座って飲むこともあります。
 座って飲食することこそ普通の形であり、立って飲食することは特別な場合であると考えて「立ち食い」や「立ち飲み」という言葉を使うのだと考えてよいのかもしれません。
 そう考えますと、「居食」するところという名付けの看板を見たときには、単に「立ち食い」に対する「居食い」という言葉なのか、もっと他の食べ方を表す言葉なのかわかりませんが、ちょっとびっくりしました。
 この日は営業していないようで、中の様子はわかりませんでしたが、どんな食べ方をする店なのか、のぞいてみたい誘惑に駆られました。

【写真は、2007年(平成19年)9月3日に、東京都品川区内で撮影。】

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2007年10月 6日 (土)

言葉カメラ(91) 【木の上にのぼる】

「木にのぼる」と「木の上にのぼる」

 「木にのぼってはいけません」という言葉と、「木の上にのぼってはいけません」という言葉を聞いたとき、その二つは、同じことを言っていると思うでしょうか、それとも、違うことを言っていると思うでしょうか。
 私は、「木にのぼる」は、木の幹にすがりついて上へ上へとのぼっていくように思いますが、「木の上にのぼる」は、何本もの木が横たえられていて(つまり、木の山のようになっていて)、そこへのぼるように思うのです。
 だから、「木の上にのぼってはいけません」という言葉が、木の幹に付けられているのを見たとき、ちょっと違和感を持ちました。理屈を言えば「上の方はダメでも、下の方はのぼってもいいのか」と言いたくなります。
 1400年代に創建されたという大日霊女(おおひるめ)神社で見ました。地元では「大日つぁん」と言って親しまれているそうです。

【写真は、2007年(平成19年)9月11日に、神戸市東灘区内で撮影。】

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2007年10月 5日 (金)

言葉カメラ(90) 【所要時分】

「所要時間」でなくて「所要時分」

 たとえ10時間かかっても、10分間であっても、10秒間という短いものであっても、「所要時間」と言うのが普通です。
 多くの鉄道の駅で、ある駅から先々の駅までそれぞれ何分かかるかということを案内している表示板を見かけます。1時間を超えることもありますが、60分を超えた場合には「75分」というような書き方をすることが多いようです。
 東京急行電鉄の北千束駅で「所要時分」という言葉を見かけたときには、あれっと思いましたが、「分」として数えることが多いのですから「所要時分」の方が理屈にかなっているのかもしれません。この会社の他にどこまで広く使われるようになっているのかはわかりません。あるいは、かなり広まっているのかもしれません。

【写真は、2007年(平成19年)9月5日に、東京都大田区内で撮影。】

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2007年10月 4日 (木)

言葉カメラ(89) 【ですから】

「ですから」で始まる文

 「ですから自転車、原付等は車から降りて渡りましょう。」という立て札がありました。「ですから」の前には、赤字で「危険」とか「危ない」とか書かれていたのだろうと思います。すっかり消えてしまっています。
 阪神電気鉄道深江駅の南側にある小さな川に架かっている橋は、その橋の部分だけが、前後の道路よりも高くなっています。自転車や原付のまま通るのはちょっと危ないということは誰にもわかります。自動車は通れません。
 目の前の道路の状況を見て、「ですから……」と呼びかけられたら、立て札の意味はすぐに納得できるのです。赤い文字が消えても、呼びかける働きはきちんと果たしているように思いました。
 自転車や原付を「車」と表現するのはちょっと違和感が残ります。とは言え、その代わりとして使うべき言葉は見つかりません。

【写真は、2007年(平成19年)9月11日に、神戸市東灘区内で撮影。】

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2007年10月 3日 (水)

言葉カメラ(88) 【消えた文字】

自転車、置いてもいいの?

 「自転車」の下には赤い文字で「放置禁止」と書いてあったようです。でも、ほとんど読みとることはできません。自転車が3台並んでいる絵の周りには赤い線が描いてあって、禁止を表すバツ(十文字)の赤い線もあったようです。
 けれども、このようになってしまったのですから、まるで、ここに自転車を置くように指示しているようにも見えます。実際には、この指示板の近くには自転車が放置されていました。
 赤いペンキは、黒色よりも早く色があせます。「言葉カメラ(11)」にも、同じような例のことを書きました。

【写真は、2007年(平成19年)9月4日に、東京都太田区内で撮影。】

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2007年10月 2日 (火)

言葉カメラ(87) 【汽車マーク】

汽車のマーク

 煙を吐いて走る汽車のマークは、踏切注意の警告です。これはデザインだからと言えばそれまでですが、蒸気機関車(SL)が走ることはありません。通りすぎるのはJR横須賀線の快速電車です。そして、頭の上にあるのは東海道新幹線の線路です。ちょっとそぐわない風景ではあります。

【写真は、2007年(平成19年)9月5日に、東京都品川区内で撮影。】

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2007年10月 1日 (月)

言葉カメラ(86) 【月ぎめ、日ぎめ】

「月ぎめ」と「日ぎめ」

 文字ばかりの日々を続けてきましたが、久しぶりに「言葉カメラ」を再開します。

 「月ぎめ」というのは、「月ごとにその始末をつけること。月額を定めて契約すること」です。駐輪場の「月ぎめ」は、1か月間の毎日とか、何か日とか借りるのですが、契約は月額になっているわけです。
 駐輪場を臨時に1日だけ借りる必要も生じます。それを「日ぎめ」と言っている例を見つけました。1日に自転車を何回も出し入れして、それを1日分の金額にしてもらうなら「日ぎめ」というのは理解できますが、そんなのは例外でしょう。たいていは1回限りの出し入れのはずです。「一時使用」とか「一日料金」というのが自然でしょう。
 年間使用料を「年ぎめ」と言ってもおかしくはないのですが、使っている頻度は少ないでしょう。「月ぎめ」だけが広く使われているように思います。

【1枚目の写真は、2007年(平成19年)9月2日に、東京都品川区内で撮影。2枚目の写真は、2007年(平成19年)9月11日に、神戸市東灘区内で撮影。】

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