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2008年3月31日 (月)

【掲載記事の一覧】

 2007年度の一年間が終わりました。関西でも桜の満開が近づきました。心浮き立つ中で、新しい年度を迎えようとしています。
 ブログをお読みくださってありがとうございます。
 これまでに連載した内容の一覧を記します。
 お読みくださって、感想・意見・連絡などがありましたら、
       kyoiku.kokugo@gmail.com
  宛に、よろしくお願いします。

≪掲載を継続しているもの≫
◆改稿「国語教育を素朴に語る」 (0)~(34)~継続予定
    [2008年2月25日~2008年3月30日]

◆言葉カメラ (1)~(164)~継続予定
    [2007年1月5日~2007年1月31日]
    [2007年2月21日~2007年2月28日]
    [2007年3月16日~2007年3月31日]
    [2007年4月19日~2007年4月30日]
    [2007年5月9日~2007年5月30日]
    [2007年10月1日~2007年10月13日]
    [2007年11月1日~2007年11月26日]
    [2007年12月13日~2007年12月30日]
    [2008年1月19日~2008年1月30日]
    [2008年2月1日~2008年2月10日]

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)~継続予定
    [2006年12月27日~2006年12月31日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)~継続予定
    [2007年2月1日~2007年2月20日]
    [2007年3月1日~2007年3月15日]
    [2007年5月1日~2007年5月7日]

◆母なる言葉 (1)~(10)~継続予定
    [2008年1月1日~2008年1月10日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)~継続予定
   [2006年12月23日~2006年12月26日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(27)~継続予定
    [2007年1月1日~2007年1月4日]
    [2007年6月7日~2007年6月29日]

◆西島物語 (1)~(8)~継続予定
    [2008年1月11日~2008年1月18日]

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)~継続予定
    [2007年7月8日~2007年7月31日]

◆写真特集・うめ (1)~(14)~継続予定
    [2008年2月11日~2008年2月24日]

◆写真特集・さくら (1)~(11)~継続予定
    [2007年4月7日~2007年4月17日]

◆写真特集・きく (1)~(3)~継続予定
    [2007年11月27日~2007年11月29日]

◆写真特集・もみじ (1)~(7)~継続予定
    [2007年12月1日~2007年12月7日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)~継続予定
    [2007年5月8日、5月31日、6月30日]

◆屏風ヶ浦の四季 (1)~継続予定
    [2007年8月31日]

◆昔むかしの物語 (1)~継続予定
    [2007年4月18日]

◆小さなニュース (1)~継続予定
    [2008年2月28日]

≪掲載が完結しているもの≫
◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日~2006年10月4日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日~2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日~2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日~2007年6月6日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日~2007年8月10日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日~2007年7月7日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日~2007年10月30日]

◆兵庫県の方言 (1)~(4)
    [2006年10月12日~2006年10月15日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日~2007年8月20日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日~2007年9月12日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日~2007年9月29日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日~2006年12月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日~2006年12月22日]

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日~2007年8月30日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日~2007年8月27日]

≪絶版として扱うもの≫  (ただし、ブログからは消去しておりません。)
◆国語教育を素朴に語る (1)~(51)
    [2006年8月29日から、2007年12月12日まで] 4回に分けて連載。

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2008年3月30日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(34)

17 文章の内容は人が評価する〔下〕

 この自動採点システムはインターネット上で公開されています。質問文と解答文を入力すると、ただちに採点結果が表示されることになっています。
 試みに、質問文を「小論文の答案をコンピュータで自動採点することの是非を論じなさい。」としました。そして、解答文を前回〔上〕の文章全体として入力してみました。
 その結果は、筆者にとっては残念な点数でした。
 「修辞」(新聞報道の①にあたる)が5点満点で3.5点、「論理構成」(同②)が2点満点で2.0点、「内容」(同③)が3点満点で0点でした。「質問文との関係が希薄であるように見受けられます」というコメントが出ました。質問文と解答文との関係がゼロであるというのには驚きました。
 中学校や高等学校の国語科教員の中に、文章の自動採点システムの普及を心待ちにしている人は少ない、と私は信じています。

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2008年3月29日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(33)

17 文章の内容は人が評価する〔上〕

 入学試験で出題する小論文をコンピュータで自動採点しようとする試みが大学入試センターの研究者のもとで進んでいます。実用化されると、採点に時間がかかり、採点者によるばらつきが出やすい小論文の判定に威力を発揮しそうだ、と新聞報道が伝えていました。
 パソコン入力された800字から1600字程度の小論文が対象です。それを、①文章の形式、②論理構成、③問題文に対応している内容か、の3つの観点から評価します。①を5点、②を2点、③を3点の計10点満点で判定するのだそうです。
 コンピュータの力を借りて、人の力を省いたり、人の力以上のものを成し遂げたりすることがあたりまえの時代になっています。
 けれども、文章は機械に委ねることには向いておりません。文章を書くときはもちろんですが、文章を評価するときに人の手を経ないというのは納得できないことです。
 表現は、人から人に向かって行うものです。機械に語りかけたり、機械が反応したりするものではありません。そのことを忘れては、国語教育が成り立つはずがありません。表現する際には、相手のことを思いやって、細やかな心遣いを持たなければなりません。また、文章には、書く人のさまざまな考えや思いが込められています。だから、人は苦心して言葉を選んで、表現に推敲を重ねているのです。
 手を省いて採点しようと考えるならば、はじめから小論文を入試の科目に加えないことです。小論文の試験をする限りは、丁寧で行き届いた採点を心がけなければなりません。
 合否を左右する採点業務で、このようなものが本格的に動き出したら、このシステムで理想とされる文章パターンなどを分析して、その攻略法を編み出す者が現れるでしょう。そうすると、何の創造力も想像力も必要としない世界が広がっていくかもしれません。
 文章表現の基礎ができていない若者が増えていますから、それを身につけさせることは、国語教育にとっての責務です。したがって、開発しているというシステムを、表現力養成という目的に使うことには意義があります。
 入学試験においても、「小論文」テストではなく、「文章表現力」診断テストのような形で、国語力の基礎ができているかどうかを調べるのなら、機械での採点も我慢することにしましょう。このシステムの用途には、そのような制限を設けるべきだと思います。
 小論文の採点というのは、表現練習や訓練の評価とは次元の異なることです。文章の内容は機械が評価するのではなく、人が評価するのであるということを忘れてはなりません。

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2008年3月28日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(32)

16 音読に耐える文章を書く〔下〕

 文章は書かれている内容によって価値が高まることは言うまでもありませんが、それとは別に、国語教育の中で表現指導をするときには、このような文章は排除したいのです。
 例にあげたような文章には、次に述べる問題点があると思います。
(1)文と文とを結びつける接続の言葉があまり使われません。すなわち、文章の論理を捨て去って、次々と書き並べていっていることになります。
(2)カギかっこだけで一文になっている文が混じることが多いのです。すなわち、書き手の考えと、誰かの発言の引用とが一つの文脈に混在して、文章が続いていきます。引用内容をうまく利用しながら、ちゃっかりと書き手の考えのように装っているのです。あるいは、責任逃れをしているのかもしれません。
(3)文末がきちんと完結せず、体言や、形容動詞の語幹や、助詞などで中断した書き方になっていることが、しばしばです。すなわち、変な日本語がまかり通っています。
 このような文章は、表現指導の手本にできません。私は、このような文章を書きたくありませんし、人に勧めるつもりもありません。
 文章を視覚だけで伝えようとすれば、能率が上がる書き方になっているのかもしれませんが、これまでの日本語の表現をぶち壊す方向に、新聞の文章が突き進んでいることを、私は憂慮しています。
      ◇      ◇      ◇
 はじめの問題の答えは、⑧から①に向かって逆順です。それが、もともとの文章構成なのですが、その順番に必然を感じますか。本来の順序に戻して、音読してみてください。視覚ではリズム感があった文章が、音読すると、ぎくしゃくした、すわりの悪いものになるではありませんか。
 論理が整って、日本語としてきちんとした文章を書くように指導しましょう。音読に耐える文章を書くことが肝要だと思います。

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2008年3月27日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(31)

16 音読に耐える文章を書く〔上〕

 はじめに、問題です。次の①~⑧の文は、一続きの文章(ある新聞記事のリード文)を、文の単位でばらばらにしたものです。並べ替えて、元の文章にしてみてください。
 ①詩人の谷川俊太郎さんに聞いた。
 ②今年はもっと本を読もうよ。
 ③本って、すてきだよ。
 ④「憂える」を「喜ぶ」と思っている大学生が多い、との調査結果も。
 ⑤それと関連するのか、日本の15歳の読解力は世界40カ国・地域で8位から14位に  転落した。
 ⑥単行本の売れ行きは、毎年のように前年割れ。
 ⑦そんなふうにいわれて久しい。
 ⑧「本が売れなくなった」。
      ◇      ◇      ◇
 実は、正解を答えていただきたいという気持ちはありません。正答率は限りなくゼロに近いと思うのです。
 この文章を載せている新聞社を批判しようというつもりは、まったくありません。これを新聞の文章の典型として考えてみてください。私が言いたいのは、新聞の文章、とりわけ、新聞記者の書いている文章には、このようなものが氾濫していることは否定できないということです。切り詰めた表現になっていて、いかにも歯切れの良い文章、テンポのある文章だという感じを受けます。けれども、文と文を論理で結ぼうという意識はなく、文を次々と積み重ねていっているだけなのです。
 新聞の文章がすべてこのようになっているわけではありませんが、ニュース記事には、これに近い書き方をしているものが多いのです。新聞の読者は、毎日、このような文章を読んでいることになります。

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2008年3月26日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(30)

15 文字を書くことの意義を再認識する〔下〕

 学習到達度調査結果の不振の原因には、いろいろなことが複合していると思いますが、文部科学省は、読解力の低下に対応するための「読解力向上プログラム」を策定しました。
      ◇      ◇      ◇
 国語の教員は、懐手をして、他人の作るプログラムによりかかるわけにはいきません。現行の学習指導要領には、基礎基本を重視することが強調されていますが、実際には、以前よりも状況は悪くなっていると思います。パソコンやメールの浸透による手書き文字の減少、娯楽が多様になったことによる読書量の減少、国語の授業時間数の減少…などの理由を並べあげても、指導効果は上がりません。
 国語教育に漫画や映像を取り入れるのは、入門期や一定期間内の指導の便宜であればいいのですが、それが国語教育の大きな比率を占めてはならないと思います。国語教育は言葉(文字)を通じて行わなければなりません。
 以前の生徒に比べると、インターネットなどを利用して資料を集める力は備わったでしょう。けれども、それは国語教育の小さな成果です。ディベートなどにより、断片の意見を積み重ねて自己主張する力は育ったでしょう。それも国語教育の小さな成果です。しかし、それらによって、生徒の知識や能力が向上したというのは錯覚に過ぎないのかもしれないのです。他の文章の真似や、他人の意見の欠点の指摘はできても、自分の考えを組み立てて表現する力は育っていないようです。
 語彙力がない、読解力がない、したがって表現力が育っていないと言われますが、私は、文字を手書きすることの意義を再認識することが必要であると思います。インターネットからボタンひとつでコピーするのではなく、自分で一字一字を書き写すことをすれば、言葉の美しさや、言葉の力強さを実感できるはずだと思います。借り物のような勉強を排斥することこそ、国語教育の根幹であると思っています。

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2008年3月25日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(29)

15 文字を書くことの意義を再認識する〔上〕

 私は文字が下手です。ペン字を習おうとしましたが、長続きしませんでした。そして、間違った文字さえ書かなければいいのではないかという考えに変わってしまいました。
 けれども文字への劣等意識が強いので、ある時期には邦文タイプライターを購入して使いました。パソコンを買えるようになると、すぐにワープロ・ソフトを使いました。機械に救われた思いを抱いて、私のパソコン歴は20年を超えています。
 けれども最近は、そんな私が驚くことに出会います。かつては銀行の窓口などでもらうメモ書きは達筆ばかりで、文字の美しい人をうらやんでいました。今は、私よりも下手な文字に出くわすことがしばしばあります。
 私は現在、大学で国語科教育法などの講義をしています。学生から「黒板の文字がきれいですね」と言われて、耳を疑いました。その瞬間は冷やかし半分であると感じたのですが、それが本気であると知って仰天しました。学生には、「私の文字は、お世辞にも上手とは言えない。丁寧に書いているだけだ」と答えました。私は、本当にそう思っています。
  現実には、私よりも下手な文字があふれており、手書きには誤字も多いのです。私は高等学校で管理職を務めていた8年間、授業を担当しませんでした。私が教壇に立たない間に、手書き文字の様子が変化していたのです。パソコンなどの普及が大きな理由でしょう。
      ◇      ◇      ◇
 経済協力開発機構(OECD)は2003年に学習到達度調査を実施しました。41の国と地域の15歳を対象にした、知識や技能の実生活への応用力をみるテストでした。
 その結果が公表されて議論を呼びました。前回は2000年に実施されたのですが、日本は前回8位だった「読解力」が、今回は14位に低下してしまいました。この調査での読解力は、文章や図表を理解して利用し、熟考する能力のことです。

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2008年3月24日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(28)

14 方言と国語教育を結びつける〔下〕

 私たちは、方言を使って生活をしていますが、他の地域の人との伝達には共通語を使います。教育の場では、共通語よりは、規範としての働きの強い標準語を使うことを勧めています。日常感覚から離れることになっても、共通語を推奨しているのです。
 共通語を過大視して、共通語こそが正しいと信じてはいないでしょうか。一人一人の生活が方言の上に成り立っているのに、です。
      ◇      ◇      ◇
 方言は、今では小学校の国語教科書にも取り上げられて、肩身の狭い思いをしなくてもすむようになりました。けれども、国語科教員の中には、方言を使うことをためらっている人があるかもしれません。
 私は、改まった場でも、方言をどんどん使うべきだと思います。共通語を基調とした文章の中にも、方言の持っている表現を取り込めばいいのです。豊かな表現力をそなえた言葉、キラリと光る言葉が、方言の中にはたくさんありますから、それを活用しないのはもったいないことです。
 方言は、易しい言葉を組み合わせて日常生活の用を足しています。易しい言葉は、わかりやすい言葉であり、他人に優しい言葉です。
 刻々に新語や流行語が誕生していますが、古いものは作り出せません。長年にわたって人々の生活に根を張ってきた方言を失ってしまうと、取り戻すすべがありません。国語教育の中においても大切に扱いたいと思います。

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2008年3月23日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(27)

14 方言と国語教育を結びつける〔上〕

 かつてテレビドラマになった船山馨さんの小説「お登勢」が、舞台で演じられました。その時、この舞台の方言指導を担当しておられる大原穣子さんから、淡路方言についてのお尋ねを受けました。原作の会話文は共通語で書かれていますが、舞台では、現実味のある人物像を作り上げるために、方言を使って演じようという意図が働いたのでしょう。
 大原さんは、関西方言もお得意で、『好きやねん、大阪弁』という本も書いておられます。それにもかかわらず、淡路の近くに住んでいる者へご質問をいただきました。地元の言葉は地元に尋ねて確かめようという姿勢に敬服しました。
 私は2年間、淡路島にある学校に勤めましたから、洲本市の厳島神社にある「お登勢」の碑の前にたたずんだことが、何度かあります。役に立ったかどうか自信はありませんが、淡路の言葉について知っていることを申し上げました。
      ◇      ◇      ◇
 その土地に生きているということだけではなく、その土地の言葉を口にすることによって、登場人物がしっかりとした存在となって、観る人の前に立ち現れてきます。実際には使っていない、よその言葉(共通語)を話したのでは、その人物の存在が薄らいでしまいます。
 このことを考えていくと、日本語のことや、国語教育のことにも行き着きます。
 私たちは文章を書くときに、意識する・しないにかかわらず、できるだけ方言を使わないようにしています。学校でも、生徒に共通語を使わせようと努めています。会話文の中に方言が出てくるのはしかたがないとしても、地の文では方言を避けようというのが、一般の方向です。
 ところが、私たちの日常生活では、できるだけ共通語を使わないようにしようという意識が働く場合があります。よそよそしく、浮き上がったような会話をしたくないと思うときには、方言を多用します。
 そして、その2つのことに矛盾を感じないとしたら、それこそが問題なのだと思います。

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2008年3月22日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(26)

13 教室に言葉をゆきわたらせる〔下〕

 教員と生徒の言葉のやりとりにも、いらだちを感じることがあります。小さな声で生徒が答えたときに、答えの内容を親切に聞き取ってやって、その生徒に代わって教室全体に伝えてやるのは、国語の指導として正しいとは言えません。声の小さな生徒とのやりとりが行われている間は、他の生徒はいわば部外者のような立場になります。教員の親切は、本当の意味での親切になっていません。
 一方で、小さな教室であるのに教員がマイクで授業をしている風景に出会うことがあります。声が出にくいときの臨時の対応であるのならともかく、そんな授業をしばしば行ってはなりません。自分の声をしっかりしたものにするのは、国語科教員にとっては基礎訓練です。
      ◇      ◇      ◇
 なぜ、このようなことになっているのでしょうか。それは、話し言葉の役割を、書き言葉の役割よりも過小に見ているからでしょう。
小学校で力を入れていた音読指導を、中学校、高等学校と進むに従って軽んじていってはなりません。教員も生徒も、自分の声できちんと伝えるという姿勢を忘れないようにしましょう。言葉の出発点は話し言葉です。国語教育の基本も、話し言葉や、発音・音声の指導にあると心得るべきです。
 言葉には緩急が大切です。声の大小も表現効果の一つです。けれども、聞き取りにくい言葉は、コミュニケーションの最低条件を欠いてしまっています。国語教育こそ、声を大事に考えて、きちんと実践する場でありたいと願っています。
 教室に言葉をゆきわたらせましょう。教員も生徒も、自分の声を教室全体に響かせましょう。それによって、生きた言葉のやりとりをしているという実感が得られるはずです。

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2008年3月21日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(25)

13 教室に言葉をゆきわたらせる〔上〕

 教壇に立って授業をしているときには気づきにくいが、授業を参観させていただいていると気になることがあります。それは、教室内での声の大きさです。教員の声の大きさであり、生徒の声の大きさです。
 声は大きければいいというものではありません。隣の教室まで響きわたる大声は、迷惑です。ものには程度があります。自分の教室全体にゆきわたる声で十分です。
 けれども、小さすぎる声は、大きすぎる声よりも困ります。授業を参観させていただいていて、じれったく思うのは、声の小さな生徒に対して、大きな声を出すようにという指導をしないことです。声の出し方や、発音の仕方の指導などに、教員は無関心すぎることが多いのです。声の大小や発音よりも、質問に対する答の中身の正誤に注目しているようです。
 これは、国語教育だけではなく、すべての教科にとって大事なことを忘れている結果だと思います。
      ◇      ◇      ◇
 国語の授業では、教科書の音読(朗読)をさせることがしばしばあります。なぜ音読させるのでしょうか。読み誤りはないかという一点に集中して音読させていることがあります。声の小ささや、たどたどしい読みや、読むときの言葉の区切り方の拙さなどに目もくれず、読み誤りだけを指摘している風景に何度も出会いました。
 教員自身の音読の拙さが気になることもあります。中には、重要な言葉を強調するあまりに、音読が途切れ途切れになっている場合もあります。これでは範読に値しません。
 音読は、言葉を間違いなく相手に伝えるというコミュニケーション活動の一つです。それとともに、書かれた作品を音声で表現するという創造活動の一つです。目的を考えない音読指導は、かえって弊害を生むことにもなりかねません。

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2008年3月20日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(24)

12 教員の個性に花を咲かせる〔下〕

 教員は、それぞれ個性を持っているのですが、生徒に対する試験や評価ということを考え始めると、とたんに様子が変わってきます。授業の進度を合わせ、同じような内容を教えることに腐心します。互いに連絡を取り、調整し合うことは必要ですが、教える内容や考え方を一定の枠内に収めようとするのは大切なことなのでしょうか。過不足のない教え方にするためとか、公平な評価をするためとか考えているようですが、それが正しい方法なのだろうかと、私は思案してしまいます。
 個性重視の教育が言われています。これに異を唱える人はありませんが、どうすれば生徒の個性を重視する教育ができるのでしょうか。
 選択科目をたくさん設けることや、習熟度別の授業を行うこともよいのでしょうが、それで目的が達せられるわけではないでしょう。
 生徒に個性を求めるのなら、その前に、教員が個性のある人でなければならないと思います。
 教員の個性が魅力にあふれたものであるのなら、担当教員が異なることによって、違った授業が展開されても、生徒は苦情を言ったりはしないだろうと思います。
      ◇      ◇      ◇
 しだいに分厚くなって教材研究の代行業を演じている指導書に頼っていたのでは、魅力のある授業はできません。指導書に書いてあることを絶対視したり、指導のよりどころにすることはやめましょう。指導書は参考書の一つに過ぎません。指導書だけに頼っていたら、ものの見方・感じ方が狭くなっていき、貧弱な授業になりかねません。指導書を執筆した経験のある私は、そのように思っています。
 また、指導書に書いてあることに拘泥しながら、学習指導要領には何が書いてあるのかに無関心であるのなら、本末転倒であると言わなければなりません。
 一人一人の教員が、個性に花を咲かせて、自信を持って授業を展開しようではありませんか。それが、国語科教員に課せられた責務であると思うのです。

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2008年3月19日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(23)

12 教員の個性に花を咲かせる〔上〕

 今回は私ごとから話を始めます。この話自体がもう4年ほど前のことなのですが、それよりも10年近く前に作った問題集(難易度に応じた2冊)を改訂するという話が持ち上がりました。改訂とは名ばかりで、実際はすべての内容を入れ替えるというもので、新しい問題集を作るのと同じことです。私が現代文編を担当し、別の方が古典編を担当していたので、そのまま改訂に取り組むことになりました。
 私は、この改訂に当たって、2つのことを出版社にお願いしました。一つは、二冊ともに現代文編を貫くテーマを設けて、それに沿って文章を選ぶということ。もう一つは、問題集といえども、編著者が顔を出して、問題集を使う高校生に語りかけるということでした。要は、少しだけ類書とは異なった特徴を持たせようと思い立ちました。問題集といえども、個性があっていいはずだと考えたのでした。
 幸いに、この提案は受け入れられて、改訂に取り組みましたが、そのもくろみが成功したかどうかはわかりません。出版社名や書名のことは書きませんが、出来上がって日が浅い、この問題集がどの程度の発行部数になるのか、私は不安と期待を持っています。
      ◇      ◇      ◇
 一人一人の国語の教員は、年齢も性別も経験年数も、得意分野も、考え方・感じ方や性格も、みんな違っています。人間としての全体像も、教員としての力量も異なっています。そのような、さまざまな教員が集まって、学校全体の活力が生まれています。もちろん、中には、指導力が不足している教員がいることは否定できませんから、そのような教員は、研修を積まなければなりません。

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2008年3月18日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(22)

11 あいまいでない言い方をする〔下〕

 これらの言葉を使うことの弊害の一つは、「シコシコ感」とか「刺激的な味」とかが、どのようにシコシコしているのか、どんな刺激なのかということを追求せずに、大まかな表現ですませていることであると思います。
 2004年の夏は、全国の暑さも、四国や紀伊半島の降水量も「記録的」でした。何十年に一度というような意味で「記録的」なのでした。一方、海水浴場は昨年の冷夏による人出の少なさを克服して、なんとか「記録的」な人出にはなったようです。「記録的」という言葉は、前代未聞というような意味にも使いますし、これまでとは少し違うというような意味にも使います。程度の差は極端に違うのです。
 「的」は、そのような性質がある、そのような状態になっているという意味ですから、あいまいさが伴います。同様に、「性」は、ものごとの性質や傾向をあらわしますが、大ざっぱな表し方になることがあります。「感」も同じです。似たようなものには、「表面上」の「上」、「営業面」の「面」など、他にもたくさんあると思います。
 言葉は、何かと何かとを区別するためにあるのですが、過度に区別するのは考えものです。すぐにグループを作って表現したがる人がいます。一人一人の意思で行き先を決めているのに「遠出組」「近場派」と分けたり、いったいどの範囲のものを指すのかわからないのに「癒し系」と言ったりするのは新聞や放送の得意とする表現です。このような表現は、真似るに値するとは思えません。
      ◇      ◇      ◇
 教員自身が適切な言葉の使い方をして、それを生徒たちに示すことが大事です。ものごとを易しく表現するように努めるとともに、いいかげんな言い方をしないで、きちんとした言葉を選ぶことを、身をもって示したいと思います。
  最後に余談をひとつ。冒頭にあげた3文字は、「感性的」という順番にすればよかったのかもしれません。「感性」には上品な印象が、「性感」には下劣な印象が伴うとすれば、言葉とはやっぱり不思議なものだと思います。

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2008年3月17日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(21)

11 あいまいでない言い方をする〔上〕

 「古典の作品は性感的ではありません。」
冒頭をこのような文で始めると、ドッキリ感をお持ちになった方がいらっしゃるかも知れませんが、私は古典の傾向性の中に、好色的なものがあるとか、ないとかということを言おうとしているのではありません。(という表現を、わざとしてみました。)
 私が言いたいのは「性」「感」「的」などの文字の使い方のことです。これらの文字は、現代語では多用されていますが、古典の文章には現れません。
 明治以後、漢語が多く使われるようになって、新しい言葉が作られたり、同じ言葉に新しい意味づけがされたりしました。日常語で学問の世界を語ることができるのは日本語の大きな利点です。先人の努力によって、日本語は日常会話の用を足すだけでなく、学問を語るに足る言語になりました。先人の功績は大きいのです。
 「的」や「性」や「感」の使い方もそのような中から生まれたものでしょう。けれども、現代語の中でふんだんに使うこれらの言葉が、実は表現をあいまいにしていることに気付いていない人がいるのは残念なことです。古典の文章では、このような言葉を使わないで表現し、あいまいな言い方をしなかったというのは、言い過ぎでしょうか。
 古文を現代語訳するときにも、「的」「性」「感」は使いません。使う必要がないのです。昔の人は、使わないで表現したのです。今でも、日常会話のレベルや、文学表現では「的」などは使うことは少ないと思います。

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2008年3月16日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(20)

10 相手のことを考えて言葉を発する〔下〕

 例えば、文章を書くことを課したときに、「何も書くことがない」と嘆く生徒に向かって、私たちは、どのような指導をしているのでしょうか。
 周りの事物に関心を持てば、書く材料が見つかるはずだという指導は間違っていませんが、そのような助言をもらっても、書けない生徒は書けません。自分と対象物とを区別してしまっているからではないでしょうか。
 他人を思いやる心や感動する心を持つことに基盤を置いた指導を、国語教育の柱にすることが大切である、と私は考えます。それができれば表現指導も容易になるでしょう。
 人や事物に対する関心というのは、それらのものへの思いやりですが、時には反発する心も生まれるでしょう。反発とか批判とかは、感情に流されたものであってはなりませんが、反発や批判は、相手に関心を示しているがゆえに生まれてくるものです。
 心を育てるというのは、人や事物を見る目を育てることであると思います。
 相手をしっかりと見つめておれば、人は何かを語り出すはずだ、語り出さずにおれないはずだと思います。語ることの手助けをするのが言葉の指導ですが、言葉の指導の前に、もっと大きな指導があるべきだと思うのです。
 自分の考えを持てという指導は、相手のことをよく考えよという指導と一体になっているのです。自分の考えを述べるということは、相手にとっても役立つ言葉でなければならないはずなのです。

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2008年3月15日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(19)

10 相手のことを考えて言葉を発する〔上〕

 日本の若者たちは、外国の若者に比べて、自己主張が乏しいと言われます。自分の考えを述べるべき立場に置かれても、それができない日本の若者を、国民性に起因するものであると考えることもあるようです。
 意見を述べる力は、集中的に指導すれば、向上するかもしれません。現に、外国へ語学研修などに出かける生徒に対して、きちんとした考えを持つようにという特訓をしてから出発することもあるようです。
 けれども、外国の若者は自己主張が強くて、話す力があり、日本の若者はそうではないという考えについて、私は全面的に賛成する気持ちはありません。自分と他人とを区別して、自分にとって都合のよいことを主張するのが望ましいことであるとは思いません。
      ◇      ◇      ◇
 自分が相手に近づいていって、相手のことを考えたら、自分の言葉は出てくるはずだ、というのが私の考えです。相手のことを思いやって考えていけば、言わないではおれないものが自分の胸の中に生まれてくると思うのです。逆に言えば、相手のことを思いやって考えなければ、語りかける言葉は出てきません。
 教育は、人間社会の中で、お互いを尊重しあい認め合いながら、生きていくことや、その生きる技術を教えるものであると思います。自分のことを考えるのと同等に、自分の周りにいる人たちのことも考えないわけにはいきません。
 生きる力という言葉が広く使われていますが、生きる力というのは、自分ひとりだけが生き抜いていく力のことではありません。
 どのように社会が変化しても、自分で課題を見つけ、自分で学び、自分で考え、主体的に判断し、行動し、課題や問題をよりよく解決していく資質が、生きる力であると言います。ここまでは自分に関することです。
 しかし、それで終わるものではありません。他人と協調し、他人を思いやる心や感動する心などを持つことも、生きる力なのです。
 一人一人は、無数の人たちで構成する社会の一員であるということを認識すれば、自分一人のこととともに、他人との関係も大事なのです。

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2008年3月14日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(18)

9 解説や結論づけを減らしていく〔下〕

 国語の授業はさまざまな指導方法や技術を駆使して展開していると思いますが、結局のところ、難しい文章の中身を説明し、文章全体の結論を定めることになっているとしたら、ちょっと残念なことだと思います。
 部分部分の説明や、全体としての結論が他から与えられるのなら、生徒自身が考える必要はなくなります。待っておれば結論がやってくるというような授業は、考える力をつけさせません。まして、発問もせずに解説だけをする授業はなおさらです。
 論理に関わる部分はともかく、感性・感覚に関わる部分まで一定の枠組みを作って、ここはこのように感じるのですよというのは、何か変だと思います。
 やさしく丁寧に教えようという教員の親切心が、生徒の考えようとする意欲や能力を弱めることになってはいけません。考える力、感じ取る力というものは、自分から進んで考えたり感じたりしなければ、誰からも与えてもらえないと覚悟をしたときに、力を発揮してくるものだと思います。
 国語の授業において、解説や結論づけが不要であると言っているのではありません。いろいろな場面で示唆を与え、方向づけをしていくことは、教育にとって不可欠なことです。
  けれども、ものを考えない生徒が多くなったとか、生徒の考える力が落ちたとかいう嘆きの原因が、案外に身近なところにあるのかもしれないと思うのです。考えることをしない生徒を育ててきたのはどうしてなのだろうかということを、謙虚に反省する姿勢も、教員には必要であると思います。

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2008年3月13日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(17)

9 解説や結論づけを減らしていく〔上〕

 それがよいことであるのか、そうでないのかは知りませんが、テレビで顔を知られた人が選挙で当選する時代になっています。テレビでは、分野を問わず、解説者や評論家やコメンテーターが登場します。視聴者に向かって説明をして、課題や結論を示してくれます。事件や事故を報じる番組や、難局に遭遇したときの番組では、解説者はありがたい存在のように見えます。
 スポーツや娯楽の番組でも解説があります。たいていは、視聴者の判断をリードしていくような話をしてくれますから、解説者がいないと寂しい気持ちになることがあります。視聴者自身で判断できることは多いのですが、解説してくれると便利だ、らくに考えていけるというような思いを持ちます。
 そのような解説を聞き続けることによって、視聴者は自分の頭で考えようとする動きを減らしていることに気づいているでしょうか。
 スポーツ中継は、試合のありのままを伝えればよいのであって、高度で専門にわたる解説は蛇足であるかもしれません。視聴者の中に、専門家やプロ選手を目指している人はごくわずかしかいないでしょう。野球はこういう見方をしなければならないとか、サッカーはこういう点に注目すべきだとかいうことを、解説者から与えられなくてもいいはずです。
 解説者がある種の判断を下すことによって妙なことが起こります。選手が懸命に戦ったことに感動を覚えても、解説者の考えに引っぱられて、技術が劣っていたとか、何かが足りなかったとかいう見方をしてしまうことがあります。解説をやめる、あるいは最低限の解説にとどめる、あるいは解説者の個人的な価値判断を言わせないということにすれば、スポーツ観戦はもっと面白く、感動を呼び起こすものになるかもしれないと思います。
      ◇      ◇      ◇
 さて、国語の授業を振り返ってみましょう。不思議なことに、国語の授業で扱う文章は、多少とも難しい文章が選ばれて、一読して意味がわかるような文章は排除されています。易しい文章は内容が乏しいとは思いません。難しい文章は内容が豊富であるとも思いません。けれども難しい文章が選ばれるのは、易しい文章を扱ったのでは国語の教員の出る幕がないからなのでしょうか。

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2008年3月12日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(16)

8 言葉を使い分ける力を育てる〔下〕

 食べている動作や表情を他の人に見せるということは、かつての日本人には考えられなかった行為かもしれません。テレビカメラの前で食べ物を味わうのはそれなりの理由があるはずです。食べ物を画面に映すだけでなく、食べるという行為を映すのですから、食べた後の言葉が肝要です。ところが現実には、せいぜい「こくがある」とか「深い味だ」とか「独特の風味がある」と言う程度です。今まさに口にしている食べ物の、その独特の味や風味の描写がありません。画面を見ると食欲をそそるものが並んでいるのですが、出演者の言葉遣いに幻滅を感じて、おいしさが半減してしまうこともあります。
 たぶん、感想の言葉は出演者に任せてしまっているのでしょう。番組制作に携わる者が知恵を集めれば、あんなに薄っぺらな感想の言葉にはならないと思います。テレビの画面によりかかって、言葉を大事に考えていないのです。テレビだからこそ成り立ち、ラジオでは通用しないやり方です。
 表現するときには、似たような内容であっても同じ一つの言葉で表すことを避けたいと思います。それを表すのに最もふさわしい言葉を選び取って、その言葉と他の言葉を組み合わせて、効果を上げるように努めたいと思います。
 言葉はものごとを区別するために存在すると言ってよいでしょう。非常に近い意味をあらわす言葉でも、まったく重なり合ってしまうものはありません。言葉を区別する力は、表現する際にも、理解する際にも働かせなければなりません。
 言葉の違いや表現の多様さを教えて、それを身に付けさせることは、国語教育の大きな役割です。限られた言葉だけに頼ることはやめましょう。日本語には表現力に富む語彙がいっぱいあるのです。
 放送で使う言葉は、かつては日本語の規範の役割を果たしていました。今はそのような役割を捨て去ってしまったように思います。貧しい言葉遣いが、日本語のお手本になるはずはありません。放送の世界の悲しい現実です。そのような放送を見習っていては、私たちの言葉の生活が寒々としたものになりかねません。

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2008年3月11日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(15)

8 言葉を使い分ける力を育てる〔上〕

 「広辞苑」の第6版には新しい言葉が多数、収録されました。他の国語辞典でも改訂のたびに語数が増えています。言葉は生きて動いているものですから当然であるのかもしれません。
 よく使われている言葉の一つに「立ち上げる」があります。現代的な言葉で、便利なようにも感じます。「パソコンを立ち上げる」「会社(や委員会)を立ち上げる」などの言い方は、毎日のように目にし、耳にします。
 「立ち上がる」という言葉は昔からありました。けれども「立ち上げる」は比較的新しい言葉遣いでしょう。新語といえば外来語や漢字熟語が多い中で、「立ち上げる」はそうではありませんから、好感を持ちます。けれども、この言葉は、例えば「スタートさせる」とどう違うのでしょうか。新しい言葉を使い始める理由があるのでしょうか。
 私は、この言葉を使おうとは思いません。使わなければならない必要が生じたら、たぶん別の言い方を探すでしょう。
 私がこの言葉を使いたくない理由は明白です。いろいろな内容を同じ言葉で表現してしまうからです。細かいことを考えずに、使い勝手のよい言葉に飛びついてしまう心理がはたらいているようにも思うのです。
 別の言葉で言うとすれば、パソコンの場合は「起動する」ですむかもしれませんが、会社や委員会は「準備を始める」「設置する」「創立する」「発足させる」「確立する」などと言い分けるはずです。
      ◇      ◇      ◇
 テレビでは旅番組やグルメ番組が花盛りです。考えてみれば、グルメ番組という言い方は奇妙です。グルメが食通とか美食家という意味であるのなら、画面に登場するのはすべて美味いものばかりという方向付けがされています。
 それゆえにでしょうか、出演者が食べた後に述べる感想は、「おいしい」とか「グー」とかであって、どんなに珍しいものを食べても、平凡きわまりない言葉なのです。

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2008年3月10日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(14)

7 読書指導はカウンセリングと似ている〔下〕

 私は、一冊の本を読み終えたら何か得るものがあるはずだ、とは思いません。誰でも、自分の経験を振り返ってみればわかることですが、読み終えても格別の感慨を持たない本はあります。新しい知識や考え方の参考にならない本もあります。それは、その本の側に問題があるのかもしれませんし、その本を読んだときの自分の心の状態に起因するのかもしれません。読書をすれば何かを得るはずだ、読書感想文は書けるはずだ、というようには考えたくありません。
 とは言いながらも、時には、一冊の本が与えてくれる感動が、計り知れないほど大きいことがあります。感動したことを何としても他人に告げたい、他人と感想を語り合いたいという思いに駆られることがあります。何十冊もの本を読めば、そんな一冊に出会うことがあります。そのような経験がないのは、読んだ本の数が少ないからかもしれませんし、本の読み方が浅いからかもしれません。そうではあっても、急いで多くの本を読みなさい、読み終えたら考えなさいというように押しつけがましいことは避けたいと思います。
 たとえ少しずつであってもよいのですが、読書によって心の中に蓄積していった財産に気付かせることが、優れた読書指導であると思います。そんな指導が、生徒たちの次の読書を誘ったり、自然な形で読書感想文を生んだりすることもあるのです。
      ◇      ◇      ◇
 本を読むことによって自分の心の中に生まれた考えや感動を書き留めておきたいという気持ちを結晶させたものが読書感想文です。他人に言わずにおれないような感動を得たことが、読書感想文を生みます。
 そのような意味で言うなら、本を読んだ後に読書感想文を書くのは、他人のためにすることではありません。読書感想文を書くという課題を出す場合も、生徒自身のために書くのであるということを忘れさせてはなりませんし、作品はそのことを念頭に置いて評価をしなければなりません。読むこと・書くことによって自分を見つめ直し、改めて自分と出会っているのだということを自覚させるのが読書指導であり、読書感想文の指導であると思います。
 読書を取り巻く指導は、教員自身が大らかな気持ちを持って、工夫を重ねることが肝要であると思います。

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2008年3月 9日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(13)

7 読書指導はカウンセリングと似ている〔上〕

 私は、趣味を「読書」だと言えるほどの読書家ではありません。それでも一カ月の間には数冊以上の本を読んでいます。(調べもののために一部を利用するような本は別です。)
 私たちは今までに何冊の本を読んだのでしょうか。年齢によって異なるでしょうし、興味・関心の方向や度合いによっても異なるでしょう。けれども、教員が、とりわけ国語科の教員が人一倍、多くの本を読んでいるというのは間違いないことでしょう。
 ところで、読書指導には意外な落とし穴があるように思います。国語科の教員は、自分が読書家であるゆえに、誰もがたくさんの本を読むべきであって、読書量が少ないのはよくないことだと考えがちです。
 本の読み方は人さまざまでよいはずです。他者の指示で読書するのではなく、自分の意志によって本に近づいていくのです。
 本を読むことを苦痛に感じさせるような指導はやめましょう。本は楽しんで読めばよいのです。同じ一冊の本でも、仕方なしに読むよりは、自分から進んで読む方が、得るものは多いはずです。課題として与えられた本であっても、どのような姿勢で読むかによって、読後には大きな差が出るでしょう。
 上手な読書指導というのは、たとえ半ば強制に近い形で読ませようと意図する場合であっても、生徒たち一人一人には、自分から進んで読んだような気持ちにさせる指導を工夫することだと思います。読書指導はカウンセリングと共通するものがあると思うのです。

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2008年3月 8日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(12)

6 人生には制約がつきまとう〔下〕

 話でも作文でも、短くする努力は、内容を凝縮していくことだと私は考えています。凝縮するというのは表現にとっては大切な作業です。それは、重要でない事柄をそぎ落としていくことです。
 逆に、短いものを長くするのは、内容を薄めることになります。内容を薄めないためには、表現のための材料がぎっしりと集められていなくてはなりません。自分の頭で考えたり、周囲から取材したりして、材料をたくさん持っておく必要があります。大盛りになっている内容を凝縮していって、求められている長さに収めるように努力させることが、表現指導の根幹にあることであると思います。
 文章の場合は、原稿用紙の升目とか、ワープロソフトでの字数設定とかの方法で、字数を意識しながら書いていくことができます。推敲を重ねて、所定の字数に収めることは、表現の練習として大事なことです。
 それに対して、話す場合は時計だけが頼りです。とはいえ、しばしば時計を見るのは憚られます。話をする前にも、作文の場合と同じような推敲が必要ですが、それとともに、話す練習を重ねなければなりません。何度も練習しておけば、時間の長さの感覚は身についてくるでしょう。話すための原稿やメモがありさえすれば、極端なアドリブを避ければ、予定時間に収めることは容易でしょう。
      ◇      ◇      ◇
 学校や社会のさまざまな制約やルールを無視してはなりません。予定の時刻を過ぎても話を終えない人や、原稿の文章がやたら長い(または、短い)人は、どこにもいます。しかたがないことであるとは、私は考えません。努力をすれば改めることができるはずなのです。それができなければ、話したり書いたりすることの専門家としての教職員の面目はつぶれてしまいかねません。

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2008年3月 7日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(11)

6 人生には制約がつきまとう〔上〕

 会合などで挨拶や説明をするとき、時間に無頓着な人がいます。話し始めると時間の感覚がなくなってしまうのかもしれません。5分でと頼んでおいても、その2倍も3倍もの時間を使って延々としゃべる人がいて、司会者のイライラをつのらせることがあります。
 また、原稿用紙3枚の長さでと執筆の依頼をしたのに、出来上がったものが2枚分であったり4枚分であったりすることがあります。これは、編集する立場の人を泣かせることになります。
 どちらの場合も、周囲に大きな迷惑をかけているのですが、当の本人には、それがあまりわかっていないということがあります。
      ◇      ◇      ◇
 人生には時間や空間の制約はつきまといます。学校での勉強が、これからの人生に必要なことを身に付けさせようとするものであるのなら、時間の制約や、空間(作文の場合は、字数や枚数)の制約を守る練習は避けて通れません。それは、一人一人の姿勢や能力などの基本に関わることであるからです。
 話をしたり、文章を書いたりするのが苦手である生徒たちに配慮して、長すぎても短すぎても注意をしないでおこうという考えもあります。その指導方針は間違ってはいないと思いますが、それは初歩の段階の指導にふさわしい方法だと思います。初歩というのは小学校の段階という意味ではありません。中学校や高等学校でも、内容によっては初歩だと考えるべき段階はあちこちにあります。
 そして、初歩の段階から一歩進めば、甘い姿勢で指導をすべきではありません。中学生や高校生に対する表現指導は、制約をきちんと守らせることが肝要です。ルールや、与えられた条件を守ることが、人間関係の基本にあるからです。

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2008年3月 6日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(10)

5 背伸びしないで古典を読む〔下〕

 古典の指導は、学習する者の年齢に応じて、あまり背伸びしないことが肝要であると思います。大人同士の人間関係や、大人の抱く感情などを、想像しながら理解するのは大事なことですが、それには限度があります。まだ若い生徒たちに、大人の世界の疑似体験を求めすぎるのは望ましいことではないと思います。
 古典の指導は、古典への興味・関心を抱かせることに努めるべきであって、大人の世界の内側を深く描いている古典は、大人になってからゆっくり読めばいいのです。
 このことは、古典の教材の選び方は、現状のままでいいのだろうかという疑問に結びつきます。大学入試に対応できるようにという理由から、難解な作品を選んで、生徒に読ませてはいないでしょうか。試験における設問にもそのようなものがあります。
      ◇      ◇      ◇
 テレビの画面などで、ある場所の風景にしばしば接して、行ったことがないのに、その土地を熟知しているかのように錯覚してしまうことがあります。初めて、その土地に実際に行ったときに、感激する心が失せてしまっているという弊害も起こります。
 文学は、人生について学びます。大人の世界を頭の中だけで理解して、実際にその年齢になったときに、みずみずしく感じる心が少なくなってしまったとしたら、あるいは、人間関係を理屈で解釈するような気持ちになってしまったとしたら、ちょっと寂しいことだと思います。古典の作品は、高度に熟した内容になっており、それが古典の魅力ではあるのですが、大人の価値観をそなえた作品が多いということを忘れてはならないと思うのです。
 結局は、古典を勉強させることによって、何を得させようとしているのか、何を感じさせ、何を考えさせようとしているのかということを、教える側の人がはっきりと意識することが大切です。

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2008年3月 5日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(9)

5 背伸びしないで古典を読む〔上〕

 2008年は源氏物語が書かれてから1000年になるというので、関西ではそれに因んだ行事がいくつも行われようとしています。
 古文であれ漢文であれ、古典というのは、長い時代にわたって読み継がれてきた作品です。さまざまな人の、いろいろな目で評価した第一級の作品が古典です。いいかげんな作品はとっくに消え去って、価値のある作品だけが残っています。
 そして、国語教育においては、そのように生き続けてきた古典を、今の中学生や高校生の心の中にも残ることを願って指導をしています。
      ◇      ◇      ◇
 けれども、古典の指導について、考え直したほうがいいのではないかと、私が考えていることについて書きたいと思います。
 源氏物語は、古典の中でも第一級の作品です。それは、ほとんどの人が認めていることです。とは言え、源氏物語の世界を隅から隅まで、高校生に理解させようとは思いません。それを求めても、不可能だと思うのです。
 その理由の一つは、それぞれの古典が基盤にしている社会が、現代とは大きく異なっているということです。社会制度も人間関係も、現代とは違っています。それぞれの時代の社会や人々の心を理解するのは大切なことですが、現代の中学生や高校生には無理なこともたくさんあると思います。
 もう一つの理由は、今に残っている古典は大人の目によって評価されてきたものであるということです。大人の世界の考え方や感じ方などの中には、中学生・高校生には理解できないものがあります。
 私は古典の指導を否定しようとしているのではありません。難しいのは、大人であるゆえに抱く心理や感情などを、若い人たちに理解させようとすることです。

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2008年3月 4日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(8)

4 外来語と上手につきあう〔下〕

 もう十分に日本語の中に取り入れられてしまった言葉にも、名詞以外の言葉はたくさんあります。「ラッキー」「ルーズ」「デラックス」「デリシャス」などですが、これらは日本語の語彙で十分に表現できます。これらの外来語は印象の新鮮さはありますが、言葉のあらわす内容には新しいものは含まれていません。日本語の語頭にはラ行音や濁音があらわれにくいという伝統は、外来語によって壊されていきました。
 動詞・形容詞・形容動詞の類は、言葉が足りなくなっても、外国語を使おうとする気持ちに歯止めをかけたいと思います。日本語には豊かな表現力があります。古語や方言には含蓄の深いものがあります。そのような言葉から現代日本語(共通語)に輸血することによって、日本語に活力が生まれるはずです。
 使い初めは外来語と同じ方法でよいと思います。外来語を使うときは、何の前ぶれもなく使うこともあるかもしれませんが、何かの説明を加えながら使い始めるでしょう。古語や方言も、何かの説明をして、その言葉を紹介し、使っていけばよいのです。
 外来語に飛びつくことを避けて、日本語の中から言葉を探し出す努力をすれば、日本語の印象が変わってくることは間違いないと思います。
      ◇      ◇      ◇
 外来語に飛びついてしまう姿勢を振り返ってみれば、それは、日本語が貧困であるからという理由からではなく、自分の語彙力の乏しさにも由来しているということに気づくはずです。
 外来語は最低限のものを使いましょう。外来語と上手につきあうことは、日本語の再発見につながります。それによって、日本語に自信を持つことにもなるはずです。
 外来語を使うことを少なくする最善の方法は言い換えによるのではありません。日本語の持つ表現力の中で、その場にふさわしい表現を工夫する努力こそ大切だと思います。

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2008年3月 3日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(7)

4 外来語と上手につきあう〔上〕

 外来語のことが話題になっています。国立国語研究所が外来語の言い換え案を発表したりすると、それについていろいろな立場からの意見が述べられたりします。外来語について、周りの人を納得させるような意見を述べることは至難のようです。一つの外来語の言い換えについてすら、いくつもの意見が出されます。
 外来語を減らすことには賛成です。私は、自分が話したり書いたりするときに、努めて外来語を使わないようにしています。けれども、まったく使わないことなどはできません。
 ところで、外来語の議論の中に品詞という考え方が入っていないことを、私は不思議に思っています。
 事物や考えに新しいものが生まれたときには、それに伴って新しい言葉が生まれます。従来の日本語だけで表現しきれない場合は、新しい言葉を使わざるをえません。けれども、これまでの日本語にある言葉を組み合わせて表現することをあきらめて、即座に外国語に飛びつく姿勢はよくないと思います。いかにも物知り顔をして、外国語を使い始める人は、日本語の風上におけません。政府や報道機関などがこのような傾向を持っていることも問題です。けれども、名詞に関しては我慢をしなければならないと思っています。
 新しい文物は次々に生まれるでしょうが、新しい動作や感情が生まれることは稀だと思います。私が、できるだけ外来語を使うまいと思うのは、感情や動作をあらわす言葉についてです。品詞では動詞・形容詞・形容動詞にあたります。

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2008年3月 2日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(6)

3 慎み深い言葉が人の魅力を増幅する〔下〕

 表現するときには、誰でも、それによってもたらされる効果のことを考えます。それとともに、言葉は人間関係に配慮することも大切です。
 誇大な言葉は、商品の宣伝などに使えば多少の効果はあるかもしれませんが、人そのものや著作物などを表現する場合は、それを表現している人の品位にかかわってきます。
 自分で、自分に酔うことは避けたいと思います。自分の言葉に酔いしれてしまっては、読む人を引きつけたりはしません。自分はこんなに素晴らしいのだなどということは、自分の口からは言わない方がよいでしょう。表現は、その場の効果とともに、後に残るものも大切です。抑制の利いた表現こそが人の心をうつということは多いのです。
 誇大な言葉を使う人は、言葉の力を信じていないように見えます。言葉の持っている力を信頼するなら、ありのままの言葉を使って表現したいものです。それに付け加えるものがあるとすれば、誇張ではなく、慎み深さです。国語科の教員は、そのような手本となる表現を心がけたいと思います。
 若者たちの言葉遣いがよくないという批判を聞くことがありますが、若者たちの言葉を一方的に非難することは間違いです。世の大人たちの言葉が若者に影響を与えてしまっているのだということを忘れるわけにはいきません。大人の言葉がしっかりしたものにならなければ、若者たちの言葉がよくなるはずはありません。望ましくない表現を排除する義務を負っているのは大人たちであるはずです。慎み深い言葉遣いが、その人の魅力を増幅させるのだということを忘れないようにしたいと思います。

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2008年3月 1日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(5)

3 慎み深い言葉が人の魅力を増幅する〔上〕

 謙虚という言葉を失ってしまった人たちが世の中を闊歩しています。自己宣伝の時代、大風呂敷の時代と言ってよいのかもしれません。
 書店に並んでいる本の名前も、大げさなものが目につきます。『超~』とか『○○博士の~』とか『私だけが知っている~』というような名前をつけた本を、私は読む気にはなれません。慎み深さが欠けていて、自分に酔ってしまっているような印象がぬぐい去れないからです。何とかして本を買ってもらいたいという姿勢だけが強くあらわれています。
 このような書名は、売り上げのことを考えて出版社が要請したということもあるでしょうが、最後は著者が了解したはずだと思います。
 テレビの番組表に大げさな言葉や、誇張した言い回しがあふれていると思ったのは、もう一昔前の出来事のように感じます。今では、本の題名に誇張があふれています。感嘆符、疑問符、句読点などを駆使した書名も増えました。他人と同じことをしていたのでは注目されないという思いが、誇張を生んでいるのかもしれません。
 自己を表現し、自己を主張することは大切です。けれども、大げさな言い方をすれば効果が生まれるということではないはずです。
      ☆      ☆      ☆
 これも、ずいぶん昔のことになるのですが、教員の口から出た言葉を聞いて驚いたときの記憶が、今でも鮮明に残っています。
 ある人の「お姉さんも教員をしています」という言葉と、別のある人の「奥さんに相談してから決めます」という言葉でした。何のためらいもなく口をついた言葉でしたから、よけいに驚きました。
 ふざけた表現としての「(私の)奥さんが怖い」などというのは、おかしいとは思いませんが、真面目な顔をして「お姉さん」「奥さん」と言われると、聞く側が立ち往生してしまいます。そして、このような言葉遣いは確実に広がっています。
 町では「さんぱつ屋さん」とか「ケーキ屋さん」とか、自分で自分を「さん」付けで呼んでいる店が増えてきました。やわらかい響きはありますが、お客さんは誰なのかと言いたくなります。「みっちゃん」とか「太郎さん」とかいう、飲み屋の屋号などとは明らかに違っています。
 人が言ってくれる前に、自分に(あるいは、自分の側の人に)敬意を込めて言うことは、日本語の歴史の中には、なかったことです。

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