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2008年4月25日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(36)

18 手紙の意義を認識する〔下〕

 生徒の書いた文章は、授業中に互いに読み合ったり、文集のような形にしたりして、生徒相互が読んで評価することがあります。けれども、レポートや答案の形になったものは、一人の教員が読んですませることが、案外に多いのです。本来は大勢に向かって書いたはずのものを、一人の教員が読んで、一人の教員が評価しているのです。そして、教員は、それを正常な姿であると思ってしまい、生徒も、そのような状況に慣れてしまっています。
 レポートや答案が、生徒から教員に宛てた私信に近い働きになって、評価をする教員の気に入るような書き方を工夫しなければならないということになれば、いびつな表現指導であると言わなければなりません。
      ◇      ◇      ◇
 逆に、手紙のような私信の指導がおろそかになっていると、私は感じています。不特定多数向けの文章が書けたら、個人の手紙などは書けるはずだという考えが正しいとは思えません。私は、手紙をきちんと書けるかどうかということは、表現指導のひとつの典型であると思っています。
 正しい文字を用いて、言葉のきまりにかなった言葉遣いをする。相手と自分との人間関係を考えて、ひとつひとつの言葉や敬語を誤りなく使う。時候の挨拶が必要になる場合もある。一定の形式も意識しながら、その枠内にとどまらない工夫をする。そして何よりも、相手のことを考えて、理解しやすい書き方をする……等。これらは、国語の総合力です。手紙を書くことに慣れる意義は大きいと思います。
 手紙は、一人と一人という簡単な人間関係で成り立ちますが、相手や状況を考えて臨機応変な書き方が求められることも多いのです。
 電話の話し方にも、メールなどの書き方にも習熟させるべきでしょうが、「手紙一本すら書けない」生徒を育ててしまっては、国語科教員としては恥ずかしいことであると思うのです。

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