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2008年4月24日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(35)

18 手紙の意義を認識する〔上〕

 誰かが誰かに向かって、何かを伝えようとする場合、今では電話、ファックス、メール、その他の通信手段が可能です。電話には電話の話し方が、メールにはメールの文体があります。そして、手紙には手紙の書き方があり、独特の効用があるように思います。
 ある新聞に載った、読者の投稿文を紹介することから始めたいと思います。短いので、全文を引用します。
      ◇      ◇      ◇
 田舎育ちの娘が、この春大阪の大学に入り、一人暮らしを始めた。だが、お互い携帯電話を持っているためか、すぐそばにいるような気がして、寂しさも不安も半減されていた。
 先日、娘の誕生日が近いので、米や冬服とちょっとしたプレゼントを送った。だのに、「届いた」のメールも電話もない。バイトや勉強が忙しくても、「礼のひと言もないのか」と腹が立った。
 こちらも意地になってメールもせず、むしゃくしゃしたまま過ごした翌日、会社から帰ると、なんと娘から手紙が来ているではないか。荷物のお礼や自分の近況、おじいさん、おばあさんへのねぎらいや弟へのアドバイス。何度も何度も読み返し、涙した。あの音さたのない2日間は、これだったのか。メールより何倍もうれしい手紙だった。  (兵庫県丹波市・大内明子さん)
      ◇      ◇      ◇
 文章には必ず相手が想定されている、ということは誰にもわかっていることなのですが、表現指導の現実はどうかと考えますと、不思議な現象が生じているように思います。
 表現には、不特定多数の人(あるいは、一定の枠内の人たち)に伝えようとして書く場合と、特定の個人やごく少数の人に向かって書く場合とがあります。文章を読むはずの人のことをきちんと想定しないで表現することは正しいとは思えませんが、あいまいなままで指導していることも多いようです。大多数の人に理解できるような文章を書けば、それでいいのだというような考え方です。

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