« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月31日 (土)

【掲載記事の一覧】

 「無常」という言葉を実感するような年齢になりました。「今年ばかりの春行かんとす」というような切迫した気持ちではありませんが、いつまでも続く人生ではないということを強く感じるようになりました。
 勤め先があり、日々の仕事があるということを有り難く感じています。けれども、一日一日の出来事を克明に記録しておこうとした年齢の頃もありましたが、今では、そんなことをしてもゆっくり読み返す時があるのだろうかという気持ちになっています。それよりは、毎日をきちんと生きていこうという思い、できれば心楽しく過ごそうという願いが強まっています。
 ブログをお読みくださってありがとうございます。毎日ひとつずつブログの記事を増やしていくのも、生きていることの証だと思います。
 これまでに連載した内容の一覧を記します。
 お読みくださって、感想・意見・連絡などがありましたら、
       kyoiku.kokugo@gmail.com
  宛に、よろしくお願いします。

≪掲載を継続しているもの≫
◆改稿「国語教育を素朴に語る」 (0)~(60)~継続予定
    [2008年2月25日~2008年3月30日]
    [2008年4月23日~2008年4月29日]
    [2008年5月11日~2008年5月30日]

◆言葉カメラ (1)~(174)~継続予定
    [2007年1月5日~2007年1月31日]
    [2007年2月21日~2007年2月28日]
    [2007年3月16日~2007年3月31日]
    [2007年4月19日~2007年4月30日]
    [2007年5月9日~2007年5月30日]
    [2007年10月1日~2007年10月13日]
    [2007年11月1日~2007年11月26日]
    [2007年12月13日~2007年12月30日]
    [2008年1月19日~2008年1月30日]
    [2008年2月1日~2008年2月10日]
    [2008年5月1日~2008年5月10日]

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)~継続予定
    [2006年12月27日~2006年12月31日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)~継続予定
    [2007年2月1日~2007年2月20日]
    [2007年3月1日~2007年3月15日]
    [2007年5月1日~2007年5月7日]

◆母なる言葉 (1)~(10)~継続予定
    [2008年1月1日~2008年1月10日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)~継続予定
   [2006年12月23日~2006年12月26日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(27)~継続予定
    [2007年1月1日~2007年1月4日]
    [2007年6月7日~2007年6月29日]

◆西島物語 (1)~(8)~継続予定
    [2008年1月11日~2008年1月18日]

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)~継続予定
    [2007年7月8日~2007年7月31日]

◆写真特集・うめ (1)~(14)~継続予定
    [2008年2月11日~2008年2月24日]

◆写真特集・さくら (1)~(33)~継続予定
    [2007年4月7日~2007年4月17日]
    [2008年4月1日~2008年4月22日]

◆写真特集・きく (1)~(3)~継続予定
    [2007年11月27日~2007年11月29日]

◆写真特集・もみじ (1)~(7)~継続予定
    [2007年12月1日~2007年12月7日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)~継続予定
    [2007年5月8日、5月31日、6月30日]

◆屏風ヶ浦の四季 (1)~継続予定
    [2007年8月31日]

◆昔むかしの物語 (1)~継続予定
    [2007年4月18日]

◆小さなニュース (1)~継続予定
    [2008年2月28日]

≪掲載が完結しているもの≫
◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日~2006年10月4日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日~2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日~2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日~2007年6月6日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日~2007年8月10日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日~2007年7月7日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日~2007年10月30日]

◆兵庫県の方言 (1)~(4)
    [2006年10月12日~2006年10月15日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日~2007年8月20日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日~2007年9月12日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日~2007年9月29日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日~2006年12月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日~2006年12月22日]

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日~2007年8月30日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日~2007年8月27日]

≪絶版として扱うもの≫  (ただし、ブログからは消去しておりません。)
◆国語教育を素朴に語る (1)~(51)
    [2006年8月29日から、2007年12月12日まで] 4回に分けて連載。
 

| | コメント (0)

2008年5月30日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(60)

30 制約の中で深みのある表現を紡ぎ出す〔下〕

 国語教育は、言葉を適切に表現し、正確に理解する力を育てて、伝え合う力を高めることを目標にしています。表現力や理解力を育成するために、国語の教員はさまざまな指導の実践をしています。
 私は、表現する際に何らかの制約を課して、その中で表現を工夫するという指導をすべきだと思います。ありふれた言葉を使わない、誰もが思いつくような表現を避ける、というような課題を与えたら、言葉と格闘しなければならなくなります。特定の語句を使用禁止にするということを課した場合も同様です。
 課された重荷を払いのけて表現を工夫することによって、使いこなす言葉の幅を広げていくことができます。また、発想法を変えて、ものの見方や感じ方を異ならせていくことにもなります。そのようにして深みのある表現を紡ぎ出して、伝え合う力を高めるようにしたいと思います。
 それは、禁止区域を設けてガチガチに束縛しようとしているのではありません。むしろ、心を柔らかく、もみほぐす働きをしていると考えるべきだと思います。
 言うまでもないことですが、俳句は17音という制約の中で、緊張感をはらみ、新しいものを生み出してきました。制約を設けるというのは、表現の芽を摘み取るように見えるかもしれませんが、それは力をためて、次へ飛躍する土台を作ることにもなっています。
      ◇      ◇      ◇
 中学校や高等学校では、古典の指導をしています。古文や漢文に触れてものの見方、感じ方、考え方を広くして、人生を豊かにすることを目指しています。それとともに、現代よりも語彙の少ない時代に書かれた文章でありながら、見事な言葉遣いをして、現代人の心を揺り動かしているということに気づかせることも大切なことです。古典は表現教材でもあるのです。
 優れた表現というのは、使っている言葉の数に左右されるのではなく、その言葉のひとつひとつをどのように使いこなしているかということにかかっているのだと思います。

| | コメント (0)

2008年5月29日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(59)

30 制約の中で深みのある表現を紡ぎ出す〔上〕

 テレビのチャンネル数が増えて、多彩な番組が放送される時代になりました。ところが、それに伴って、ひとりが見る番組の幅は、逆に狭くなってきているとも言われています。
 チャンネルが1つとか2つしかなかった時代には、その放送局の作るさまざまな種類の番組を、人々は見続けていました。チャンネルが増えることで、野球好きはあちらこちらから野球放送を探し出して見ることができます。囲碁・将棋番組ばかり、映画番組ばかりを選ぶこともできます。そのようにすると、見る番組の幅が狭まってきます。
 チャンネルが増えるにつれて、番組制作は気軽に進められているようにも思われます。食べ物を扱った番組が競って放送されていますが、その中には、食べ物を粗末にしたり、不作法な食べ方をしたりするものがあります。食べたときの感想が「おいしい」や「うまい」だけですまされてしまうこともあります。番組の進行や言葉に深みがないものは興ざめです。
      ◇      ◇      ◇
 日本語に限らず、どの言語も語彙は時代とともに増え続けています。死語となるものがあっても、人々が使う言葉の総数は、時代を経るにつれて多くなっていきます。国語辞典の収録語数は増加の一途をたどっています。
 けれども、一方で、現代人の語彙の乏しさや、表現の貧しさを嘆く声を聞きます。日本語全体で言葉の数が増えても、ひとりが使いこなせる言葉は少ないのかもしれません。
 食べ物の番組に出演する人が、「おいしい」などという平凡な言葉に頼らずに、表現を工夫しようという気持ちで臨めば、言葉の深みが増すでしょう。実感の伴わない空疎な言葉は使えなくなるでしょう。けれども現実は、出演者や制作者の努力に脱帽するような番組は多くはありません。言葉の重みが失われてしまうのは残念なことです。

| | コメント (0)

2008年5月28日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(58)

29 国語の授業で季節を実感させる〔下〕

 俳句などは、ひとつの単元として、国語の教科書の特定の場所に収められています。まとまった指導をするためには、そのほうが効率よいことはわかりますが、四季のすべてを一括して学習させることになります。
 古文も同じです。徒然草の「折節の移り変はり」も、枕草子の「春はあけぼの」も、学習指導の系統性に基づいて教科書に登場します。これらの文章を読んで、季節の流れや、季節ごとの違いを大づかみにするのは大事なことです。
 その上で、表現されている個別の季節を感得することは、もっと大切なことだと思います。既に学習を終えているにしても、後から学習することになっているにしても、それにぴったりの季節に出会ったら、その文章の内容についての指導をするのがよいと思うのです。
      ◇      ◇      ◇
 そのためには、その年度に指導する教科書を年度初めにきちんと読んでおくことが必要です。教科書に収められている現代文・古文・漢文の作品をあらかじめ読んでおくことは、教員としての当然の務めです。読んでみると、季節に関わる事柄の多さに驚くことがあります。韻文だけでなく、散文にも、季節をあらわす表現はあちらこちらに散りばめられています。古典作品は、現代文よりももっと比重が高いはずです。古典では、旧暦と新暦の違いなども留意して指導しなければなりません。
 季節に関する指導は、一回の授業の始めか終わりの2~3分間を利用すればできることだと思います。既に学習したことを振り返ったり、これから学習することを先取りしたりして、ちょっと季節を意識させる指導を続けてみることは、楽しいことではないでしょうか。

| | コメント (0)

2008年5月27日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(57)

29 国語の授業で季節を実感させる〔上〕

 風さわやかな5月になると、「卯の花の匂う垣根に時鳥はやも来鳴きて…」の『夏は来ぬ』や、「屋根より高い鯉のぼり……」の『こいのぼり』などの歌が口をついて出てきます。どちらも古くから歌い継がれている唱歌ですが、私の身にも染み込んでしまっているのでしょう。
 キュウリやトマトが一年中、店先に並んでいます。冬の最中に水着のファッションショーが開かれたという報道に接することがあります。
 はしりのものにいち早く接することとと、季節はずれを喜ぶこととは、まったく別物だと思います。季節はずれを受け入れたくはないのですが、今の世は、商業主義に押し流されて、季節はずれを珍しがり、尊ぶような姿勢が根づいてしまっているようにも思います。また、季節感が失せたと言いつつも、それによって便利になった生活を享受しているという面は否定できません。
 そうではあっても、季節感は喪失してしまってよいものであるとは思いません。この頃の生徒たちには季節感が乏しくなったという声を聞きますが、それは無責任な大人の批判かもしれません。季節感を教えたり季節の巡りに沿った生活を意識させるのは学校や家庭の務めです。生徒たちのせいにしてしまってはなりません。
      ◇      ◇      ◇
 季節感の中は、実際にその季節に巡り会わないと実感の伴わないことがあります。しかも、季節感は、単なる説明ですませるわけにはいきません。季節の風物や行事などは、実感して、体で覚えていくものです。今がその季節だというタイミングをとらえた指導を工夫したいと思います。
 教科書がカラフルになって、俳句などの単元の参考として、季語に対応した写真などが掲載されています。けれども安心は禁物です。写真と実物は違います。実物に接することのできる時に指導しなければ、ひととおりの説明に過ぎなくなってしまいます。季節をとらえて指導すべきものには、花や木の香り、鳥や虫の音色や姿かたち、季節ごとの天候や寒暖、空や雲の色や形などなど、対象は無数にあります。

| | コメント (0)

2008年5月26日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(56)

28 手を動かして頭を動かす〔下〕

 インターネットなどの発展は、たかだかここ10年ほどのことです。これまでに、手仕事のようにして作り上げてきた国語科教員の指導技術の蓄積は、現今の情報化の中で、もろく崩れ落ちるほど、いい加減なものではないはずです。国語教育に限りませんが、生徒の手を動かすようにする指導をもっと重視すべきです。手を動かすことは、頭を動かすことに通じます。教員が自分の手や頭を動かすとともに、生徒にも手や頭を動かすようにし向けたいと思います。
      ◇      ◇      ◇
 教員がたくさんの資料を精力的に作って、それを生徒に配って授業を進めることは、いかにも能率的で効果があるように見えます。授業中に詳細な板書をして、それを生徒が書き写していくような授業も同様です。
 けれども、教員の親切心によって、生徒が、自分から進んで動かなくても、いろいろなものを与えてもらえるという気持ちになるとしたら困ります。他から与えられる状況に浸からせずに、知的な飢餓感を持った生徒が手と頭を動かしていく授業を工夫したいものです。
 文章表現の指導も能率を優先させるべきではないと思います。いったん書いた文章を何度も推敲させて、加除訂正をしながら完成させていく過程は重要です。
 時間をかけて手を加えていったものを、最後にもう一度、清書させることの意味は大きいと思います。コピーをしたりキーをたたいたりするのではなく、一字一字書いていく清書です。自分の手を動かして、一つのものを完成させていく経験が大切です。それは、一見、能率が悪いように見えるかもしれませんが、手を動かし頭を動かすことをしなければ、体に覚え込ませることはできないと思うのです。

| | コメント (0)

2008年5月25日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(55)

28 手を動かして頭を動かす〔上〕

 今の世の中は、少ない労力で大きな効果を得ることに価値があると考えている風潮があります。また、人間の活動を金銭に換算したり、経済効果という側面から考えているような傾向もあります。
 マスコミは、いろんな分野で地道に努力している人たちのことよりも、ヒーローや有名人のことを大きくとり上げています。投資ファンドなどが巨利を手にしたことや、プロスポーツ選手が高額の年俸を得たことなどを、大きな見出しで報道しています。金銭的な欲望を露骨に表現しているように思えてならず、なんだか品位のない社会になってしまったように感じます。
 新聞を「社会の木鐸」だと言ったのは、遠い昔のことのようです。今では、良きにつけ悪しきにつけ、新聞は現代社会の風潮を拡大する働きをしているように見えます。テレビのことは、もはや論外です。
 若い人たちが、苦しい状況を克服しながら真面目にこつこつと努力していこうという気持ちになれないとすれば、それは私たち大人の責任です。努力が報われる社会、小さな喜びを大切にする社会を作り上げなければなりません。
      ◇      ◇      ◇
 社会に蔓延する経済至上の考えや、能率本位のやり方を、教育の世界に持ち込んではならないと思います。心身ともに汗を流して、こつこつ努力を重ね、その結果すこしずつ進歩していったことを喜び合う。そのようなことに価値を置くのが教育の世界です。
 けれども、もしかすると、教育の世界にも、能率主義や省力化が入り込んでいるかもしれないという危惧を感じています。以前に比べると、教員自身が省力化を進めているようにも思われます。そのことは生徒にも影響を与えないではおれません。
 教科書会社の提供するCD-ROMを利用して補助的な教材を編集したり、試験問題を作ったりすることが当たり前の時代になっているようです。汗を流して資料を探し回って教材を作り上げたり、あれこれ悩んだ末に評価のための問題を仕上げたりするようなことが少なくなってきているように思われてなりません。近年、教員になった人は、それが当然だと錯覚しているかもしれません。

| | コメント (0)

2008年5月24日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(54)

27 遠慮せずに生徒に強く指示を与える〔下〕

 若者たちの読解力や表現力の欠如が問題視されています。その原因にはいろいろなことが考えられるでしょう。
 どの教科書も 右にならえの姿勢で「してみよう」という言い方に終始し、生徒が「しなくてもいいのか」と思い、教員が「させなくてもいいのか」と考えてしまうようなことになっては、指導の根本が崩れてしまいます。このような言い方の蔓延が、腰砕けの指導姿勢を象徴しているように思われて、私は寒々とした気持ちになってしまいます。もっと厳しく、読解力や表現力を身につけさせるように実践しようではありませんか。
 教員は、それぞれの教材の指導目標を定めて、生徒に向かって働きかけをしています。基本的な事柄は徹底して教えていますし、それぞれの教材には核になる内容があって、避けて通ってはならない学習活動をきちんと指導しているはずです。してもしなくてもいいとか、試しにちょっとやればいいとかいうような指導姿勢を助長したのでは、生徒の自主性や創造性を育てることにならないと私は考えております。
 私が言おうとしているのは、教員が命令し、生徒が服従するというような図式ではありません。けれども、押しつけがましくならないようにという配慮を行き届かせるのと引き換えに、厳しく指導する姿勢を失ってしまってはなりません。もっと自信に満ちた言い方をして、生徒に強い指示を与えるべきだと思うのです。

| | コメント (0)

2008年5月23日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(53)

27 遠慮せずに生徒に強く指示を与える〔上〕

 高等学校の国語教科書に関して、疑問に思っていることがあります。どこかから教科書編集者に対して強い働きかけがあったのか、自主的な真似が広がっているのかは知りませんが、どの教科書も同じ言い回しで埋め尽くされています。偶然の一致とはとうてい思えないのです。
 それは、教材の後ろに添えられた「学習の手引き」というような箇所での指示の仕方のことです。例えば、「…を説明してみよう」「…を文章にまとめてみよう」「…について気づいた点を話し合ってみよう」というような言い方が並んでいます。
 なぜ、「説明しなさい」「まとめなさい」「話し合いなさい」と言わないのでしょうか。生徒を穏やかに導こうとしているのでしょうか、それとも、強く指示をする自信がないのでしょうか。
      ◇      ◇      ◇
 土佐日記の冒頭に「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」とあります。この「してみむ」は、自分の気持ちを表現しているのですから、意志の強さを感じます。
 けれども、他者に対して「してみよう」と誘うのは、それとは異質なものです。水を向けたという程度のものでしかありません。
 辞書を引くまでもありませんが、「てみる」という言葉は、試しにやってみるというような語感を伴っています。
 「してみなさい」という指示を受けた場合は、きちんと実行しなくても、強くとがめられることはないのではないでしょうか。生徒の学習指導をするということは、そのようなものなのでしょうか。それが生徒の自主性を重んじていることになるのでしょうか。
 最近、問題集にも、これと同じ口調のものがあることに気づきました。「カタカナの部分を漢字に書き直してみよう」などという指示があります。仮名書きでも漢字でもどちらでもいいけれど、強いて漢字にすればどうなるのか、と尋ねているようにも見えます。このような問いかけであれば、イヤだと思えば答えなくてもいいのでしょうね、と皮肉も言いたくなります。
 この甘ったるい指示の仕方はなぜ改まらないのでしょうか。遠慮をしている教員や、自信のない教員が、生徒をきちんと指導することはできないと思います。

| | コメント (0)

2008年5月22日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(52)

26 表現力に役立つように朗読する〔下〕

 教職を目指している学生の、朗読の拙さに驚くことがあります。ぎこちなく、例えば文節ごとに区切ってしまう者がいます。朗読の習慣が身についていないのでしょう。また、読点で忠実に切って読む者がいます。読点を、読むときに息をつぐための符号であると心得ているようです。そのような硬直した読み方にはびっくりします。
 すべての句読点で同じように一旦停止したり、全体を同じスピードで読んだりすることが優れた朗読の仕方であるとは思いません。
 句読点(とりわけ読点)は、文章を目で追って読むときに誤解が生じないようにする働きをしています。すなわち、視覚に訴えかける要素が強いのです。
 それに対して、朗読は聴覚に訴えるものですから、意味のまとまりで切らなければなりません。読点で切ると文の流れが途絶えてしまうようなことも起こります。また、読点がない箇所でも一瞬の間(ま)をおく方がよい場合もあります。
 文章の読み方には緩急が必要です。筆者の意図を推し量りながら読むならば、一本調子の朗読になるはずはないと思います。
 朗読を、手元の文章を見ないで聞くということは大切なことです。文字を追いつつ聞くのではなく、文章を耳だけで受け取るのです。そのような聞き方をして、どのような書き方をした文章を、どのように朗読するのが理解しやすいかを考えてほしいと思います。
 朗読には間が大切です。一つの文を読み終えて、覆い被さるように次の文を読み始めるのは、望ましいことではありません。聞いている人にとっては、一つの文が終われば、そこまでをひとまとまりの内容として頭に収めて、次はどのように展開していくのかという期待や予想を瞬間的に考え、そのときに次の文が耳に届き始めるのがよいのだと思います。そのような間(ま)を設けない読み方は、聞く人の頭を混乱させてしまいます。
      ◇      ◇      ◇
 朗読は、文字などの読み誤りがないことを確認するために行うものではありません。文章に込められた筆者の意図を読みとって、それを聞いている人に伝えることの方がもっと大切なことです。
 そのように考えれば、朗読は、筆者の側に立って考えるという姿勢を育てることになります。きちんとした朗読を指導することは、表現力を育てることに役立つはずだ、と私は考えています。 

| | コメント (0)

2008年5月21日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(51)

26 表現力に役立つように朗読する〔上〕

 ある大学で、2年間にわたる「国語科教育法」(8単位)を担当したことがありました。その時、講義の中で6~7回分を使って、自分が選んだ文章をもとにして問題(設問)を作るという演習を行いました。試験問題を解く側にいた学生にとって、問題作りは新鮮な体験になるようで、真剣に取り組んでいました。
 文章は、書物から選ぶということでもよいのですが、新聞に限定しました。筆者名が明示されている文章(記者の名前のものは除く)で、中学生・高校生に読ませる価値があると思われる文章を選ばせることにしました。
 新聞に限定した理由は、新聞を読まなくなってきている学生を、何とかして新聞に引き寄せようとしたことと、できるだけ新鮮な話題を選ばせようとしたことです。
 選んだ文章は、手書きかパソコン入力によって、改めて文章全体をたどったのちに、その文章を選んだ理由や、文章の価値などを書き添えます。時間をかけて苦闘して、体裁の整った問題として練り上げて、正解や採点基準なども用意します。そのようにして進めていくにつれて、その文章を使って指導することの手応えを感じ始めるようです。
 一人一人の発表が終わるまでには何時間もかかります。それぞれの発表を聞いて議論を重ねていくうちに、文章を読解し、問題を作成する姿勢に変化が現れてきます。少しずつ指導力が育っていくように思われるのです。
 発表にあたっては、最初に、選んだ文章を朗読させます。問題作りは緒についたばかりですから、作問に対する厳しすぎる批評は避けますが、朗読には細かな注意をします。

| | コメント (0)

2008年5月20日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(50)

25 他人の考えを聞いて納得し共感する〔下〕

 私はいくつかの大学で講義をしています。そこで感じることは、高等学校などとは比較にならないほど、大学の講義担当者間では連絡や協議が希薄であるということです。ひとりひとりがそれぞれの領域の専門家であると自任し、他者と話し合う価値を重んじていないからなのでしょう。
      ◇      ◇      ◇
 小学校から高等学校に至る国語教育でも、聞くことの大切さを見過ごしてきていると思います。聞くことの指導を行っていないというわけではありませんが、論旨を聞き取るとか、相手の考えの不備なところを見出すとかいうことに力を注いでいるように思います。相手の表現の細部までを聞き取って味わい、相手の考えに納得し共感し、学ぼうとする姿勢を育てることが希薄になっています。相手の考えをうち砕いて、自己主張の方法を身につけさせることが、聞くことの目的になってはいけないと思います。
 理解とは、自分が他者を知ることであり、表現とは、自分を他者に知らせることです。表現と理解の重要さに、軽重はありません。相手の言うことを正確に聞き取るための指導をもっと強めていかなければなりません。相手に学ぼうとする姿勢を放棄し、相手を攻撃するような方法を学ばせるのでは、聞くことの意義が消え去ってしまいます。
 しかも、相手の言うことがわかるだけでは意味がありません。共感したり、納得したり、反発したりしながら、自分の中に取り入れていって、自分の考えを深めることが大切です。
 そして、そのためには指導する教員自身も、聞き取る力と、相手を尊重する姿勢を高めなければならないと思います。

| | コメント (0)

2008年5月19日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(49)

25 他人の考えを聞いて納得し共感する〔上〕

 人は、自分ひとりで生きていくことはできません。知恵を出し合ったり助け合ったりするのが人の世の常です。そんなことは誰にもわかっているのですが、現実は必ずしもそうではありません。自意識が強くなったり、何かの分野で成功したりすると、謙虚さと無縁になってしまう人が、世の中には大勢います。
 「頭のいい人、悪い人」とか、「勝ち組、負け犬」とか、露骨で品性のない言葉を使う人が急激に増えました。平気で他者を批判する人や、弱肉強食を絵に描いたような論理でものを考える人があふれています。マスコミも、このような言葉や社会状況を無批判に増幅させています。謙虚さを失った人が幅を利かせる社会になりつつありますが、教育の世界は、そうであってはならないと思います。
  最近の教員採用試験では、教科指導や生徒指導の難しさに対処するために、面接試験を強化して、自己主張の強い人や、他者への押しの強い人などを重んじているようです。考えの深さや心の温かさというようなことを高く評価していないように思います。勇ましい言動の人や、他人に対する強引さをそなえた人が、教員として優れているとは、私は考えておりません。教員は、他者に学ぶ姿勢を持ち続けたいものです。
      ◇      ◇      ◇
 自己主張が強くて、聞く耳を持ちあわせていない教員が、謙虚さをそなえた生徒を育てることができるとは思えません。教員は自己主張の強い人たちだと思われていますが、実際、そのような人が多いのだと思います。
 教育は、指導する立場にいる人たちが知恵や力を出し合うことが必要です。連絡・打ち合わせ・協議などに際しては、互いの考えを聞き、考えを述べ合う姿勢を持たなければなりません。周りの人たちの考えていることをきちんと理解し、それを受け入れることも大切です。教員は、強くて筋の通った考えも持たなければなりませんが、それは他者の考えに耳を傾けないということではありません。

| | コメント (0)

2008年5月18日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(48)

24 事実と想像とをきちんと区別する〔下〕

 報道機関で社内教育がどのように行われているのか知りませんが、私たちは、国語教育において、このような表現の指導をしてはいけないと思います。
 国語教育においては、事実と意見とをきちんと分けて書くようにということを指導しています。事実と意見とを織り交ぜて書けば、筆者の考えが正しく伝わりません。
 そして、それと同様に大切なことは、事実である事柄と、想像や解釈を加えた事柄(すなわち、事実であるとは断言できないもの)とをきちんと分けて書くこと、その違いを明確にして書くことが大事です。
      ◇      ◇      ◇
 以上は、表現に際してのことですが、同時に、理解(読解)に際しても同じことが言えます。事実と意見を峻別しながら読むこととともに、事実と想像とを区別して読み取ることが大切です。
 NIE(教育に新聞を)などの分野で、メディア・リテラシーということが言われます。意図的に構成された表現に気づいて、批判的に読み解いていくことだと言います。それは大切なことに違いありませんが、NIEを推進する報道機関の側の身勝手さも見え隠れしています。意見の正しさを検証するということならまだしも、報道内容の正しさを見分けてほしいということには、報道機関の責任逃れの姿勢も垣間見えています。
 事実、想像、解釈、意見などをきちんと区別して文章表現をすることは、国語教育にとっては重要なことであるということを忘れないようにしたいと思います。

| | コメント (0)

2008年5月17日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(47)

24 事実と想像とをきちんと区別する〔上〕

 「機体を揺らす『ドーン』というごう音に続き、窓の外で噴き出す白い煙と赤い炎が見えた。」
 これは、航空機がエンジン破損事故を起こしたときの機内のようすを書いた文章の一部です。記者は、その瞬間に居合わせていないのに、ちょっと大きな事件・事故の報道になると、記者が渦中にいたかのような文章が新聞にはあふれます。臨場感を意図して、詳細に書かれたものもあります。このような文章では、どこまでが事実で、どこからが想像なのか、区別がつかない場合があります。
 事故の記事だけではありません。スポーツ選手の試合中の心理状態や、政界の裏の場でのやりとりなどの記事は、想像たくましく書いている部分があるようです。そして、それを事実であるかのように報道しています。
 もちろん、大部分の記事は、きちんとした取材に基づいて、裏付けが得られているのでしょう。けれども、取材をしたからといって、記者の勝手な想像を加えてまとめ上げてよいわけではありません。
 往々にして、この種の想像記事は、表現が型にはまっています。自分の目で確かめることができなかった事柄について書くのですから当然でしょう。文学作品とは違って、ほんとうの意味での想像力が欠如した、型どおりの文章になってしまう危険があるのです。
      ◇      ◇      ◇
 一方で、テレビ・ニュースの中には、ひどいものがあります。資料映像と断りながらも、過去の映像や、その事件とは無関係の映像までを織り交ぜて、事件・事故を興味本位に再現して、それがまぎれもない事実であるかのように伝えます。出来事をドラマ仕立てにして、それをニュースという名で放送していることもあります。面白く見せればよいという姿勢が露骨にあらわれているのです。ニュースを取材している記者が画面に顔を出して、走り回ったりしながら、感情丸出しの金切り声をあげているのには、うんざりします。記者がニュースを演出する必要はありません。
 読者や視聴者は、事実と、事実でないものとの境界線があいまいなままで、情報を受け取らざるをえない場合があるのです。
 今年も、報道のあり方を問われる事件が数多く起こりました。他社のことは厳しく糾弾しても、自社には甘いのが報道機関に共通する姿勢です。

| | コメント (0)

2008年5月16日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(46)

23 作品提出ではなく試験で答えさせる〔下〕

 試験では、自分が表現しようとしている文章の全体像を頭の中に置いて、それを検討しながら、原稿用紙に記していきます。
 そうしているうちに、新しいことに気づいたり、誤りを見つけ出したりすることもあるでしょう。そして、試験の制限時間内で、まとまりをつけようとして苦しまなければならないかもしれません。
 文章の完成度は、作品(レポート)提出の方が高いはずです。試験時間内では、推敲も点検も中途半端に終わる可能性があります。
 けれども、国語教育の観点からは、そのようにしていったん構想した文章を、頭の中から再び紡ぎ出して、改めて書き記していくことの意味は大きいと思います。
 そのようなことを何回か繰り返せば、表現に取り組む姿勢や能力が変化していくはずだと思います。構想した文章全体を頭の中にとどめておく時間の長さが、効果をもたらすであろうと思うのです。
      ◇      ◇      ◇
 学生の中には、中学校や高等学校の国語科教員を目指している者が大勢います。大学生を相手にした試験としては、やや幼い方法であるのかもしれませんが、表現に体ごとぶつかっていくような姿勢が少しは身につくのではないかと思っているのです。

| | コメント (0)

2008年5月15日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(45)

23 作品提出ではなく試験で答えさせる〔上〕

 私は、ある大学に出講して、日本語日本文学を専攻する学生の必修科目である「文章表現法」を担当したことがありました。高等学校を卒業したばかりの学生を相手にした、2単位の講義・演習です。ある時の期末試験では、2つの問題を出しましたが、その一つは次のようなものでした。
 最近のニュースなどで話題になっていることや、自分が普段から関心を持っていることの中からテーマを選んで、自分の考え(主張)が強く出ている文章を書きなさい、という問題です。テーマは何でもよいのですが、何でもよいと言ってしまうと、かえってテーマを設定しにくいのではないかと思って、このような指示をしました。
 それに関連して、原稿用紙(解答用紙として配付)に800字以上で書くこと、構成は起・承・転・結の流れに沿って段落設定にも留意すること、などを指示しました。
 この問題は予め提示をして、しかも講義の最終回には、それに向けての指導もしました。
  この程度のものであれば、作品(レポート)を提出させて評価するという方法もあります。学生にとっては、試験よりも作品提出の方が気楽であるに違いありません。けれども、持ち込み無しの試験を行いました。そして、なぜ、そのような方法を採るのかということを、前もって説明しました。
      ◇      ◇      ◇
 作品(レポート)として出来上がったものを提出するのなら、そのために費やす時間の制限はありません。他人に相談することもできますし、何度も推敲することも可能です。言葉に自信がなければ辞書で確かめることもできます。それに対して、試験の場できちんとした文章を書くためには、自分の主張しようとする内容を頭の中に整理しておかなくてはなりません。論理を考えて、述べる順序などを決めておく必要があります。
 誤字・脱字、仮名遣いの誤り、言葉の誤用、文法上の誤りなどを防ぐためには、正しい言葉遣いを身につけなくてはなりません。
 試験の対策としては、きちんとした文章を下書きして、それをそのまま覚えておけばよいのかもしれません。けれども、たとえ800字余りといえども、一字一句を暗唱することは難しいと思いますし、そんなことをしてほしいとは思いません。
 同じような内容の文章が出来上がるにしても、試験と作品(レポート)提出とでは、一人一人が頭の中に文章の全体像を収めて、それを改めて表現していくという作業が異なっているように思います。学習の効果が違うといってもよいでしょう。

| | コメント (0)

2008年5月14日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(44)

22 ごく普通の文化の担い手を育てる〔下〕

 ひるがえって現代の新聞や放送を眺めてみますと、一流の人や、名前の知られた人についての報道は、驚くほど手厚くなっています。
 落雷によって電車の運行が止まって、大勢の人々が2~3時間、足止めを食って困り切ったという出来事があっても、そんなニュースは紙面の片隅にわずか数行で片付けられることがあります。一方、アメリカの球界で活躍する選手については、なかなかヒットが打てないというニュースでも、何気なくつぶやいた一言の内容でも、大きく紙面を飾ることがあります。ニュース価値の軽重を判断する客観性などは消え去ってしまっていて、この有名人偏重の報道姿勢はどこまで突き進むのか、恐ろしいほどです。
 そして、落雷による交通混乱も、大都市圏のことなら大きく扱われ、地方都市のことなら軽んじられるという二重構造があります。
 それが人生というものだ、それが社会というものだと言われればそれまでですが、心からは納得できない気持ちです。
      ◇      ◇      ◇
 貴人や勇者や有名人の感覚や考え方に学ぶところは多いのですが、国語教育の目的は、それらの人に近い感覚や考え方を育てることではないと思います。ごく普通の文化の担い手を育てることにあるのです。
 教材ひとつを選ぶにしても、ひとつの教材を用いて教えるにしても、人を見る目のバランス感覚は持ち続けたいと思います。それが、名もない一人の人間としての、私の思いです。

| | コメント (0)

2008年5月13日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(43)

22 ごく普通の文化の担い手を育てる〔上〕

 万葉集に収められている東歌や防人歌などは、その歌を詠んだ本人が書き記したものではありません。口伝えされた作品が、後になって文字に記されたのです。だから作者もわかりません。その時代のたいていの人は、自由に文字の読み書きができなかったのですから、当然のことです。
 古典を読んでいると、貴人などが都の郊外に出かけたときに、その辺りに住む人々のようすを書き記した文章に出会うことがあります。けれども、都の郊外に生きている人々の姿などを書いているのは、むしろ例外で珍しいことであると言われます。古典の作品で述べられている内容は、身分の高い人や、知識などに恵まれた人たちの、ものの見方や感じ方に基づいていることが多いのです。歴史物語や王朝文学では、読者は勇者や貴人の感覚などを身にまとって読み進んでいるのかもしれません。
 古典を学ぶ人も教える人も、そのようなことをあまり深く意識していないようです。さまざまな時代の人々の目を経て、生き延びてきた一流の作品が古典であるというのは、まぎれもない事実です。古典に接することによって、例えば1000年も昔の人々や社会のありさまを手に取るように知ることができます。けれども、それぞれの作品が、どのように生きて、どのようなものの見方や感覚を持っている人によって書かれたのかということは認識しておかねばならないと思います。
      ◇      ◇      ◇
 それぞれの時代を牽引した人たちが中心になって、日本の文化や、日本人のものの見方・考え方が発展してきました。現代に生きる人は、それらを受け継いで、さらに発展させていく役割を担っています。
 これは、国宝や重要文化財になっているような品々や建物などが、有力者の手で作られ伝えられてきたということに似ています。現代人はそれらの文化財を享受し、次代に伝えていく責務があります。
 とは言え、やっぱり私たちは、古典を読みながら、文字を熟知し読み書きをした知識人や貴人の感覚に寄り添って追体験をしているように思います。ある古典作品で述べられている考え方や感じ方の中に、ごく普通の人たちの感覚とは離れたものが含まれている可能性があっても、それをその時代の典型的な日本人の心のありさまなのだと思ってしまう危険性があるかもしれないのです。

| | コメント (0)

2008年5月12日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(42)

21 読書の世界に生徒を引き入れる〔下〕

 私は若い頃には、本は借りるものではなく、買って読むものだと考えていました。精読した本は、いつまでも手元に置いておきたいという気持ちがありました。けれども、買った本の置き場所に困り切っている今では、図書館の本を存分に活用するようになりました。
 ありがたいことに、全県のセンターとしての役割を果たしている県立図書館と、自分の住んでいるところの市立図書館と分館とが、電車とか自転車とかで30分以内の距離にあります。これを利用しない手はありません。
 勤めている大学にも、出講している大学にも、立派な図書館があります。新しく接し始めた図書館は魅力がいっぱいです。隅から隅まで探検したいような気持ちになって、足繁く訪れています。借り出す冊数も多いのです。
 読書を堅苦しく考えないようにしましょう。読書には、一冊をはじめから終わりまで通して読むこともあれば、一冊の中の一部を読んで目的が達せられることもあります。今の私は、一冊を通読することよりも、何かを調べたり確かめたりするために、一冊の中の必要な部分だけを読んでいることが多いのです。こういう読書も推奨したいと思います。
      ◇      ◇      ◇
 調べることに関しては、インターネットで検索すればこと足りる場合もあります。その方が手っ取く能率が上がることもあります。インターネットで情報を得させることも国語教育の大切な指導です。けれども、インターネットと本では、深みが違うということを感じさせることは、もっと大切なことだと思います。本に向かうときの気持ちのあり方について考えさせたいと思うのです。
 現実を眺めると、中学校や高等学校の図書館が、生徒の欲求を満たすものになっているかどうかは疑問です。限られた予算のもとで、必要な本を買い揃えられないという、悲しい現実があります。
 それなら、近くに公立図書館などがあれば、それらを自分の学校の付属図書館のような気持ちで利用するようにし向けましょう。公立図書館などもそのことを歓迎してくれるはずです。

| | コメント (0)

2008年5月11日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(41)

21 読書の世界に生徒を引き入れる〔上〕

 芸術の秋だとか、スポーツの秋だとか、秋という季節は、いろいろなものに結びつけられます。ぐったりとするような酷暑が過ぎて、意欲が回復してくる季節だからなのでしょうか。読書の秋というのも、その一つです。
 読書に縁遠い生徒にとっては、秋を読書の季節だとは感じないかもしれませんが、読書好きにとっては、秋の夜長は嬉しい時期です。読書に関連する行事もいろいろ行われます。
 なんとかして、読書の世界に生徒を引き入れたいものだと思います。無理やりに引っ張り込まれた、読まされたという気持ちにさせることなく、たくさんの本を読ませてしまいましょう。自然にそのようにさせてしまうような指導力こそが、教員には必要でしょう。
 授業中に、さりげなく、本の話題をいっぱい持ち出したいものです。何か一つの教材を指導すれば、関連する本は何冊もあります。それらを紹介して、生徒の知的好奇心を刺激しましょう。読みたいという気持ちがつのってくるような紹介を心がけたいと思います。
 本を紹介するのは、勇気がいることです。教員自身の生き方や、読書の姿勢などが反映されます。けれども、それぞれの本を、ひとごとのように紹介するのはやめたい、と私は考えています。こんな本がある、あんな本があるということを羅列するだけでは説得力がありません。
 自分は、この本をこのように読んだ、この本からこんなことを学んだ、この本を読んでこんなことを考えさせられたというようなことを伝えたいと思います。本を語ることは、自分を語ることにもなりますから、辛い話になることもあるでしょう。読書の苦しい体験を語って、読書はしんどいものだということを生徒に実感させることも大事なことです。

| | コメント (0)

2008年5月10日 (土)

言葉カメラ(174) 【関係者以……止】

文脈がたどれない

  「船揚場……に付き 関係者以……止」というのは、文脈をたどって意味を想像することはできません。ペンキの色が同じであるのに、なぜ消えてしまったのでしょうか。
 ペンキ色が同じであったはずだというのは、実は、近くにまったく同じ文面で作られたと思われるものが健在であったことからの推測です。

【写真は2枚とも、2008年(平成20年)4月1日に、兵庫県明石市内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫Photo_3 Photo_4

| | コメント (1)

2008年5月 9日 (金)

言葉カメラ(173) 【消えた「工事中」】

見えなくても困らない②

 「お願い」と「工事中」の文字 が消えています(光線の具合で、読み取ることはできます)が、なくてもわかるようになっています。
 隣りに、もう一枚「工事中」の看板が出ていますから、それにも助けられて不自由は感じないようになっています。

【写真は、2008年(平成20年)4月1日に、兵庫県明石市内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫
Photo_2

| | コメント (0)

2008年5月 8日 (木)

言葉カメラ(172) 【消えた「危険」】

見えなくても困らない①

 特に注意を促したはずの赤色ペンキが消えてしまって読めない、ということがよく起こります。
 消えた文字が「危険」であることは容易に察しがつきます。「のぼってはいけません」という指示はしっかり書いてありますから、目的は達せられています。

【写真は、2008年(平成20年)4月4日に、兵庫県西宮市内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫Photo

| | コメント (0)

2008年5月 7日 (水)

言葉カメラ(171) 【市役所(県庁)駅】

市と県の間柄

 名古屋市営地下鉄の名城線の駅名に「市役所」駅があります。「市役所前」ではなく、ずばり「市役所」です。駅に降り立ってみますと駅名表示は「市役所(県庁)」です。
 愛知県庁と名古屋市役所は隣り合わせですが、市営地下鉄ゆえに「市役所」が優先です。
 思い出したのは、神戸市営地下鉄が開業したときのことです。1985年(昭和60年)6月に開業した駅名は「山手(県庁前)」でした。あえて「県庁前」としなかったのは、当時、兵庫県と神戸市の関係が滑らかでなかったからだと言われました。この駅名は8年後の1993年(平成5年)3月に「県庁前」に改名されました。

【写真は、2007年(平成19年)11月22日に、名古屋市中区内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫Photo

| | コメント (0)

2008年5月 6日 (火)

言葉カメラ(170) 【つれもて…】

広告の方言使用

 和歌山の方言「つれもて」(みんなで一緒に)はよく知られています。方言を生かした広告は増えつつありますが、その方言を話している地域から、地域外に向かって発信することが多いように思います。例えば、和歌山の産品を全国に紹介するときに「つれもて」を使えば、そのような働きになります。
 ところで、「つれもて飲もら」というコピーは、地域内に向けたもので、たぶん、この会社は、それぞれの地域でこのような言い方を選んでいるのでしょう。仲間うちの言葉を仲間うち(地域内)で使うことによる親しみという効果を考えているのでしょう。

【写真は、2008年(平成20年)3月28日に、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫

Photo_2

| | コメント (0)

2008年5月 5日 (月)

言葉カメラ(169) 【丁目、町名】

「丁目」の次に「町名」

 「◯◯町 ◇丁目」というのが普通の書き方だと思いますが、ちょっと違ったものを見ました。
 「2丁目」の後に「轆轤町」と書いてありました。俗称なのかと思いましたが、英字の表記もこの順ですから、正式な呼称なのでしょうか。
 六波羅蜜寺の近くで見かけました。清水焼の轆轤職人が大勢、住んでいた地域だと言われています。

【写真は、2008年(平成20年)4月2日に、京都市東山区内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫Photo

| | コメント (0)

2008年5月 4日 (日)

言葉カメラ(168) 【となりの◯◯】

2軒続きの店

 同じ屋号で2軒続きの店を出すとしたら、新しい方を「新◯◯」とか「◯◯北店(方角で表す)」とか「◯◯2号店」とかの、いろいろな名付け方があると思います。。
 ここで見た「となりの◯◯」という名付けには、新しい発想があらわれているようで、なるほどと感心しました。

【写真は、2008年(平成20年)4月4日に、兵庫県西宮市内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫Photo_2

| | コメント (0)

2008年5月 3日 (土)

言葉カメラ(167) 【水族館料理】

生け簀料理の大型版?

 水族館料理というのは、どういう料理なのでしょうか。この旅館に入ったわけではありませんから、勝手に想像してみました。
 客席の周りが水槽になっていて、水族館を楽しみながら料理をいただくというのではないだろうと思いました。
 そうだとすれば、生け簀から魚を取り出して料理する「生け簀料理」というのがありますから、その生け簀が大型であるのを水族館と言うのだろうと思いました。
 さて、念のため、この旅館のホームページで確かめてみました。「水族館食堂」という項目に、「大小12の水槽があります。水槽で泳いでいる魚をご賞味頂けます。金額・調理方法は、その都度お尋ね下さい。」と書いてありました。

【写真は、2008年(平成20年)4月13日に、兵庫県赤穂市内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫Photo

| | コメント (0)

2008年5月 2日 (金)

言葉カメラ(166) 【仄仄橋】

柿本人麻呂ゆかりの橋

 はじめて「仄仄橋」という文字を見たとき、何人が読めるのでしょうか。橋の名前は一方が漢字で、他方が平仮名で書かれることが多いので、「ほのぼのばし」と読むことは、すぐにわかります。
 もちろん、小さな国語辞典にも「ほのぼの」は「仄仄」と書くということが示されていますから、文字遣いに異論はありません。
 けれども、やっぱり日常に使用する漢字ではありませんから、ちょっと違和感を覚えました。
 命名の由来は、地元の人間にとっては明白です。この地域は朝霧という地名ですが、これは古くからの名ではありません。神戸市にまたがる明石舞子団地(明舞団地)が開発され、JR(当時の国鉄)山陽本線に新駅が設置されるときに、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ」という柿本人麻呂の歌に因んで、「朝霧」駅と名付けられました。「ほのぼの」も、同じ歌によっているのです。

【写真は2枚とも、2008年(平成20年)4月12日に、兵庫県明石市内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫Photo Photo_2

| | コメント (0)

2008年5月 1日 (木)

言葉カメラ(165) 【おくれやす】

やわらかい命令(懇願)表現

 久しぶりに「言葉カメラ」を再開します。初めての土地を歩くと、看板などの文字に気持ちが引かれてしまうという習性が身についてしまいました。
          ★     ★     ★
 通行する人に呼びかけるということは、不特定多数の人、さまざまな考えや心の持ち主に向かって言うのですから、どうしても低姿勢になります。
 やわらかい響きの方言を使って、カドが立たないようにという配慮がされているのですね。

【写真は2枚とも、2008年(平成20年)4月2日に、京都市中京区内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫Photo Photo_2
 

| | コメント (0)

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »