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2008年6月30日 (月)

【掲載記事の一覧】

 梅雨空の中で一年の前半が終わりました。梅雨が上がれば酷暑が訪れます。時の流れはその時の心理状態によって異なりますが、季節の移りゆきを感じることができるのは嬉しいことです。
 ブログをお読みくださってありがとうございます。毎日ひとつずつブログの記事を増やしていくのも、生きていることの励みになります。
 これまでに連載した内容の一覧を記します。
 お読みくださって、感想・意見・連絡などがありましたら、
       kyoiku.kokugo@gmail.com
  宛に、よろしくお願いします。

≪掲載を継続しているもの≫
◆改稿「国語教育を素朴に語る」 (0)~(82)~継続予定
    [2008年2月25日~2008年3月30日]
    [2008年4月23日~2008年4月29日]
    [2008年5月11日~2008年5月30日]
    [2008年6月9日~2008年6月30日]

◆言葉カメラ (1)~(182)~継続予定
    [2007年1月5日~2007年1月31日]
    [2007年2月21日~2007年2月28日]
    [2007年3月16日~2007年3月31日]
    [2007年4月19日~2007年4月30日]
    [2007年5月9日~2007年5月30日]
    [2007年10月1日~2007年10月13日]
    [2007年11月1日~2007年11月26日]
    [2007年12月13日~2007年12月30日]
    [2008年1月19日~2008年1月30日]
    [2008年2月1日~2008年2月10日]
    [2008年5月1日~2008年5月10日]
    [2008年6月1日~2008年6月8日]

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)~継続予定
    [2006年12月27日~2006年12月31日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)~継続予定
    [2007年2月1日~2007年2月20日]
    [2007年3月1日~2007年3月15日]
    [2007年5月1日~2007年5月7日]

◆母なる言葉 (1)~(10)~継続予定
    [2008年1月1日~2008年1月10日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)~継続予定
   [2006年12月23日~2006年12月26日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(27)~継続予定
    [2007年1月1日~2007年1月4日]
    [2007年6月7日~2007年6月29日]

◆西島物語 (1)~(8)~継続予定
    [2008年1月11日~2008年1月18日]

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)~継続予定
    [2007年7月8日~2007年7月31日]

◆写真特集・うめ (1)~(14)~継続予定
    [2008年2月11日~2008年2月24日]

◆写真特集・さくら (1)~(33)~継続予定
    [2007年4月7日~2007年4月17日]
    [2008年4月1日~2008年4月22日]

◆写真特集・きく (1)~(3)~継続予定
    [2007年11月27日~2007年11月29日]

◆写真特集・もみじ (1)~(7)~継続予定
    [2007年12月1日~2007年12月7日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)~継続予定
    [2007年5月8日、5月31日、6月30日]

◆屏風ヶ浦の四季 (1)~継続予定
    [2007年8月31日]

◆昔むかしの物語 (1)~継続予定
    [2007年4月18日]

◆小さなニュース (1)~継続予定
    [2008年2月28日]

≪掲載が完結しているもの≫
◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日~2006年10月4日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日~2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日~2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日~2007年6月6日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日~2007年8月10日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日~2007年7月7日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日~2007年10月30日]

◆兵庫県の方言 (1)~(4)
    [2006年10月12日~2006年10月15日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日~2007年8月20日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日~2007年9月12日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日~2007年9月29日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日~2006年12月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日~2006年12月22日]

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日~2007年8月30日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日~2007年8月27日]

≪絶版として扱うもの≫  (ただし、ブログからは消去しておりません。)
◆国語教育を素朴に語る (1)~(51)
    [2006年8月29日から、2007年12月12日まで] 4回に分けて連載。

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改稿「国語教育を素朴に語る」(82)

41 他者に頼らず教材研究・教材開発をする〔下〕

 選び出す文章には、条件を提示しました。
①教材は中学3年生または高校1年生向けとしてふさわしいものであって、主張が明確である意見文とする。文章の内容は、人生経験などの面から見て、その年齢で理解しやすいものであること。文章の難易度も、その年齢にふさわしいものであること。文章のテーマや内容は問わない。
②今回の演習では、筆者名(新聞記者名などは除く)が明記されている文章に限定する。また、話し手と書き手(筆者)が別人であるような文章(聞き書き)は除く。
③教科書に載っている文章を読む際の参考として使うのではなく、その文章が独立した価値を持っているものを選ぶ。また、「注」を多く必要とする文章は選ばないようにする。
④文章の長さも中学3年生または高校1年生にふさわしいものとする。文章は、掲載された文章の全文または部分を使用する。途中部分の削除はしない。
      ◇      ◇      ◇
 教材として仕上げていく手順は具体例を用いて細かく説明しました。そして、発表するまでに長い期間を置きました。けれども、一人一人が別々の文章に取り組むのですから、発表できる状態に仕上げるまでには、さまざまな相談を受けました。はじめは教える立場に身を置くことができずに苦しんだ学生もいましたが、しだいに変化しました。
 発表に際しては、①その文章を生徒に教える価値について説明する、②文章の要旨などを100字程度にまとめる、③設問を6題~7題、作成し、標準解答と採点基準などを提示する、ということを課しました。
 発表は、1人に20分~30分を割り当てて、質疑応答や討論も取り入れました。出来上がったものを発表し合うことは、互いに大きな刺激になりました。教えることの難しさや指導の工夫について少しずつ気づいていってくれました。言葉や表現に敏感になったという手応えもありました。
 教員になった後にも、他者に頼らず教材研究をし、他者に頼らず教材開発をするという姿勢を身に付けてほしい。そのような考えで始めた演習でしたが、私の期待は多少かなえられたように思いました。

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2008年6月29日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(81)

41 他者に頼らず教材研究・教材開発をする〔上〕

 教科書を使わないで授業をすることはできませんが、教科書を教えておれば国語教育は成り立つというわけでもありません。中学校用教科書も高等学校用教科書も、昔に比べると至れりつくせりの指導書が作られているようです。教材研究の手ほどきをする指導資料はもちろんですが、教員自身が探す手間をかけなくても補助教材が準備され、テスト問題の見本も添えられています。教科書の販売競争の結果として、親切この上ない指導書を提供しているのですが、その結果、手抜き教員を増やすことになっては困ります。
 教科書に収められている作品は、いろいろな形で発表されたものの中から、生徒が学習するのにふさわしいものを選んで教材化しています。例えば、高樹のぶ子さんの「君たちに伝えたいこと」と題する文章は、もとは朝日新聞の平成12年8月23日(夕刊)に掲載されたものです。私は、たまたま編集をしていたオリジナル問題集に、その文章を使わせていただきました。そして、今年度から使用が始まった某社の「国語総合」教科書に、その文章が採り入れられています。教材は、与えられるものであるという考えを捨てて、自分で作り上げるという姿勢が大切です。これから教員をめざす人も、そうであってほしいと思います。
      ◇      ◇      ◇
 本務校では教職課程のさまざまな講義を担当していて、国語教育とは距離のある位置にいます。出講している大学では、国語科教育法を2年間にわたって(4コマ、8単位)担当しましたから、時間のゆとりを生かして、教材開発の演習を取り入れました。
 中学生・高校生だけでなく、大学生も新聞を読む時間が少なくなっています。国語科教員を目指す人たちが新聞に親しむことを一つの目的として、新聞に掲載された文章をもとに教材を作成し、それを発表するという演習を行いました。適切な文章を探し出すために、かなり新聞を読んだようです。

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2008年6月28日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(80)

40 文末をきちんと表現する習慣を持つ〔下〕

 新聞の文章は、読むときに誤解が生じないように工夫されています。しかし、文末をきちんと表現しようとする姿勢を持たなくてもいいのだというような風潮を広げてはいけません。そんな文章を、中学生・高校生の文章の手本にはできません。
 ここに引用した新聞の文章を読み進めていくと、こんな文にも出会います。

 買い物に訪れた主婦(33)は「友人から『どこに行っても売り切れてる』とメールが来たが、本当なんですね」。

 「主婦は」に対する述語がありませんが、このような表現は、新聞では珍しくありません。個人の感想・意見を文章の中にちりばめていく手法がしばしば用いられて、唐突に引用文があらわれます。しかも、誰の発言であるのかわからないようなことも多いのです。
      ◇      ◇      ◇
 文字で書く文章が、話し言葉に近づいて、きちんと前後を対応させた表現をしなくても、誤解が生じなければよいだろうというような傾向が強まってきました。
 けれども、言葉の教育をする場では、この状況を容認するわけにはいきません。次期の学習指導要領は「言葉の力」を各教科・科目の基礎に置こうとしています。生徒に対しては、文末まできちんと表現した文章を書く習慣をつけさせるべきだと思います。NIEで新聞の活用を呼びかけているのですから、新聞は自戒しなければなりません。
 納豆が品切れだという報道の後、10日も経たないうちに、このテレビ番組がデータを捏造していたというニュースが流れました。NIEはメディア・リテラシーを育てる目的もあるのですが、テレビ局の意図的な情報操作は許されません。それとともに、納豆品切れのニュースを、尻馬に乗ったように報道した新聞社も軽率のそしりは免れないでしょう。

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2008年6月27日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(79)

40 文末をきちんと表現する習慣を持つ〔上〕

 日本語は、英語や中国語と違って、文の末尾まできちんと書いたり読んだりしないと誤解が生じることがあります。国語科で表現を指導するときには、そのことに神経を使っています。文末がおろそかになっている文章は、教科書にはあまり採用されていません。
 けれども、日常生活では、文末に執着しない傾向が強まっています。会話文なら多少の省略などがあっても、前後の文脈から判断できます。書き言葉である新聞の文章も同じような方向が顕著になってきています。
 例えば、かつてのことですが、納豆のダイエット効果を取り上げたテレビ番組についてのニュースとして、ある新聞は、リード文に続く本文をこんな具合に書き始めていました。

 番組は7日夜のフジテレビ系の情報番組「発掘!あるある大事典Ⅱ」。納豆に含まれるイソフラボンにダイエット効果があるとうたい、正月太りを納豆で解消しよう、といった内容。朝晩1バックずつ納豆を食べ続けた男女が減量に成功した例を紹介した。
 1世帯あたりの納豆の年間購入金額が、全国の県庁所在地で最下位の和歌山市。05年の総務省の家計調査年報によると、和歌山市(1882円)は1位の福島市(6259円)の3分の1以下。それなのに、スーパーの陳列棚から納豆のパックが姿を消し、品薄状態が続いている。

      ◇      ◇      ◇
 NIE(教育に新聞を)推進に新聞社は力を入れています。NIEなどという言葉が使われていなかった時期から、国語の指導に新聞掲載の文章を採り入れてきた私は、現今の新聞の文章には失望しています。
 新聞は、限られた行数の範囲内で表現しなければなりませんから、文字数を減らそうと努めています。文中で重要な役割を持っている部分を省略できませんから、文末をそぎ落とすことになります。そして中途半端な文が連続していくことになるのです。これは、文学作品の体言止めなどとは異質なものです。

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2008年6月26日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(78)

39 他人を意識し、関係を取り結ぶ〔下〕

 敬語の種類を5つに増やそうという提案があり、議論の賛否が分かれました。
 言葉を研究対象とするのなら、いくらでも細かく分ければいいでしょう。けれども、教育の場で指導することを考えれば、煩雑さが増し、教えられる生徒の負担が増えるという難点があります。
 敬語は、尊敬・謙譲・丁寧というような分類や、その用法がわかれば使いこなせるというものではありません。敬語を使えば人間関係がうまくいくという保証もありません。
 日本には、敬語をほとんど使わないとされている地域があります。けれども、敬語を使う・使わないということと、敬意を込めた言葉遣いをする・しないということとはイコールではありません。
 はじめに挙げたいくつかの例は、言葉の中身にどんなに敬語が使われていても、不快なものは、どこまでいっても不快です。
      ◇      ◇      ◇
 人と人との関係は、言葉遣いによって、うまく展開したり、よくない結果を招いたりします。しかし、言葉遣いだけが重要だというわけではありません。言葉を発する前に、他人をどのように意識するかということや、その人とどのような距離にあるのかと判断することが必要です。その意識・判断によって、言葉遣いが変化します。その言葉遣いの一つに、敬語という要素があるということでしょう。
 他人をどのように意識するかということ、他人との関係をどのように取り結ぶかということ、その人に向かってどのような言葉を発するかということを総合的にとらえて指導するのが、国語教育においては重要であると思うのです。

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2008年6月25日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(77)

39 他人を意識し、関係を取り結ぶ〔上〕

 電車内が騒がしいということを多くの人が感じています。車内アナウンスの声や、携帯電話での通話などによるのです。
 車内アナウンスで最小限の案内(停車駅名、到着時刻、他線への接続など)をすることは必要でしょう。けれども、車内マナーについての繰り返し放送や、広告・宣伝の要素が加わったアナウンスは行き過ぎであるようにも思います。
 メール利用の高まりから、車内で通話をする人は減ってきました。携帯電話での傍若無人な話し声は少なくなりました。緊急の用件などで、口元を押さえながら遠慮がちに話している人が気の毒に思えたりします。
  けれども、大音量で長々とした車内アナウンスに苦情を言う人よりも、携帯電話での通話に立腹している人の方が多いようです。
 それ以外で、私が不快に思うのは、少し混んでいるロングシートの車内で、並んで座れずに、対面する位置に座った同士が、通路をはさんで、大声で話している風景です。
      ◇      ◇      ◇
 どういうことを快・不快と感じるかは、人によって異なるでしょうが、共通するものもあるようです。自分(たち)だけの空間を作って、周りの人への配慮をしない人を不愉快に思う気持ちは多くの人に共通しています。
 乗客の一人である自分に向かってのアナウンスは、少し辛抱しながら聞いています。それに対して、携帯電話の場合は、通話をしているのが乗客であっても、その相手は車外の人です。会話の一方(乗客)の声だけを脈絡もなしに聞かされる不快さです。声の大小は関係がありません。
 対面する座席で話をしている2人の場合、双方の話し声が乗客には聞こえていますから、話の脈絡はわかります。しかし、通路に人がいても、それらの人を飛び越えて、自分たちの世界を作っているのです。
 不特定多数の人がいる空間で、周りの人との関係を断ち切って、しかし、声だけがその空間を浮遊しているという状態です。他人の存在を意識する能力がなくなっているとは思いませんが、他人に配慮しようとする気持ちは失われているのでしょう。

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2008年6月24日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(76)

38 言葉の成り立ちや来歴を知る〔下〕

 「しあふ」には、互いに(いっしょに)する、優劣を競いあう、という意味があって、ゲーム性の強いものを「試合」と書くようになったのでしょう。
 「しあはせ」は、めぐり合わせ(運命、機会)という意味で、良い場合にも悪い場合にも使われましたが、良い意味で使われることが多くなるにつれて「幸せ」という文字が定着したのでしょう。
      ◇      ◇      ◇
 それにしても、昔の人たちには、幸福は自分の手で作り出すものだというような、思い上がった気持ちは少なかったのではないでしょうか。めぐり合わせで得た「幸せ」を大切にしたように思います。
 余談ですが、私の父や祖母などは、「しあせ(仕合せ)がええ(良い)。」「しあせがわるい。」という言い方を口癖のようにしていました。この言い方は、存命の母はもちろん地域でも、しょっちゅう使っています。幸も不幸も自分の力だけでは作り出せるものではない、運命や機会にめぐり合わせることなのだという考えが生き続けているように思います。
 漢字で書けば「試合」「幸せ」という、一見、無関係のような言葉の間柄が見えてきました。こんなことは、授業時間に余裕が生じたときなどに、雑談のように話せばいいことでしょう。
 けれども、このような些細な話から、生徒たちが、日本語の成り立ちや来歴を知って、日本人の考え方や言葉の奥深さや面白さをわかってくれたら嬉しいのです。
 言葉を慈しむ気持ちは、一つ一つの言葉を、単に意味を表す道具のように見ないことから生まれるはずです。外来語にしても、もとの言語の中で使われてきた背景を抜きにして日本語に取り入れることはすべきではないと思います。

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2008年6月23日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(75)

38 言葉の成り立ちや来歴を知る〔上〕

 「昨日のゲームで、応援している球団が勝って、とってもハッピーな気分だった。」などと生徒が話をしています。教室に向かう途中で、ふと耳にした言葉です。
 それをとらえて、高等学校の国語の時間にこんな話をしたことがありました。
 わざわざ「ゲーム」だの「ハッピー」だのと言わなくても、きちんとした日本語があるではないかと、むきにならなくてもよいと思います。「ゲーム」も「ハッピー」も既に定着している外来語です。
  けれども、この時の話題は、「ゲーム」「ハッピー」を日本語で言うとどうなるかということです。答えは簡単です。「試合」「幸せ」です。(他の言い方もあるでしょうが、今は、そのことは気にしないで話を進めます。)
      ◇      ◇      ◇
 漢字で「試合」「幸せ」と板書して、すぐさま、平仮名で「しあい」「しあわせ」と添えます。何を問題にしているのか、生徒には察しがつかないと思います。
 次に、この2つの言葉を古典仮名遣いで書けばどうなるだろうかと質問してみます。多少の間違いが生じることがあっても、ヒントの一言、二言で、「しあひ」「しあはせ」にたどり着きます。
 質問を続けます。「しあひ」や「しあはせ」という言葉はどうして出来上がったのだろうか、ということを考えます。わからないという顔もたくさんありますが、これは動詞の連用形から転じたものではないかという答えが出てくると、しめたという気持ちになります。生徒にも、話題の方向性が見え始めてきたようです。「しあひ」は動詞「しあふ」(ハ行四段活用)の連用形であり、「しあはせ」は動詞「しあはす」(サ行下二段活用)の連用形です。
  次に、「しあひ」は必ずしも「試合」という文字に結びつかないということに気付かせます。「泥仕合」は「泥試合」とは書きません。「しあはせ」は、「幸せ」だけでなく「仕合せ」とも書きます。
 このようにして、「しあひ」と「しあはせ」には「仕合(う)」という共通点があることに思い至ります。もっとも「仕」も、当て字と見るべきかもしれません。本来はサ変動詞の「す(為)」です。

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2008年6月22日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(74)

37 漢文もしっかりと学習させる〔下〕

 大学入試から漢文が除かれているような状況ですから、国語科の免許状を取得しても、漢文を読むための知識や能力などが低くなっているかもしれないという懸念を持ちます。学生たちが、高校時代に受けた漢文の授業をそのまま再現するのなら、国語科における漢文の将来を憂えたい気持ちになります。
 高等学校学習指導要領の「国語総合」では、「内容の取扱い」の項で、「古典と近代以降の文章との授業時数の割合は、おおむね同等とすることを目安として、生徒の実態に応じて適切に定めること。なお、古典における古文と漢文の割合は、一方に偏らないようにすること。」と述べています。
 偏ると言わないまでも、漢文の指導に充てる時間は少なくなっており、高校2年生、3年生に進むと漢文を勉強することが極端に少なくなることもあるようです。授業があっても、受験科目でないから授業を受けるのに熱が入らないという現実があるかもしれません。
      ◇      ◇      ◇
 「国語総合」の漢文教材は、入門期のものだと言ってもよいでしょう。漢文との触れ合いが本格的に行われていないままで、漢文を卒業してしまうのは寂しいことです。
  固有文字を持たなかった日本人にとって、漢字・漢文との出会いは、書き言葉を手に入れる、大きな出来事でした。漢字・漢文が日本語に与えた影響の深さを見過ごすわけにはいきません。漢字・漢語を避けて外来語にすり寄っていくような、現代語の傾向を助長してはいけないと思います。
 漢字ばかりの文章を訓読しながら読み進めることに抵抗があるのなら、書き下し文を教材にするという方法があります。書き下し文は、古典文法に則って読んでいますから、古文教材と同等に扱ってもよいはずです。
 書き下し文をもとにして詩文、史話、思想などの漢文の世界に分け入り、生徒がその原文を読みたいという欲求を持ったときに漢文(訓点付きの文、または白文)を読むということをしたらいかがでしょう。
 書き下し文として与えても、漢字などは元のまま提示しますし、文章の味が損なわれることはないでしょう。書き下し文は、古文教材であっても、元の漢文へさかのぼる道を閉ざしてしまっていないと思うのです。

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2008年6月21日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(73)

37 漢文もしっかりと学習させる〔上〕

 新しい年を迎えると賀状をいただきます。「謹賀新年」という言葉が多く見られます。訓読すれば「謹みて新しき年を賀す」ですが、「謹賀新年」の文字が年賀状の決まり文句であっても、このように訓読して理解している人が多いかどうかはわかりません。
 出講している大学で、教職課程の国語科教育法を担当しています。学生たちは国語科の種々の教材を使った学習指導の構造を考えたり、学習指導案などを作成したりして熱心に取り組んでいます。
 ところが時に、驚くようなことに出会うことがあります。その一つは漢文の力です。高等学校の「国語総合」の教科書を使って、古典の漢文を扱うことになると、ちょっと様子がおかしくなってくるのです。基本語や句法などがあいまいな学生がいますし、既に読んでいるであろうことを期待して漢文の作品名を挙げても、知っていないことがあるのです。
      ◇      ◇      ◇
 大学では多様な入試が行われていて、さまざまな能力や特性などをそなえた学生が入学しています。そのことは評価します。
 けれども、筆記による入学試験が現代文だけで行われていたり、古典が入試科目になっていても漢文を含まないことになっていたりという現実があります。
 高等学校で必修科目であった「国語Ⅰ」(旧課程)や、選択必修の「国語総合」(新課程)には漢文も含まれていますから、一応の学習をしています。けれども、高等学校で、入試に即応する授業が行われて、クラス編成や選択科目の関係で、漢文を深く勉強しないまま卒業した生徒も多いように思います。大学の教職課程で国語科の免許状を取得しようとする学生の中にも、その傾向を感じるのです。

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2008年6月20日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(72)

36 答案の部分点をなるべく排除する〔下〕

  中学校・高等学校の国語の答案を採点する場合は、○や×の他に、△で部分点を与えることが多いように思います。せっかく答えているのだから、少しでも点数を与えたいという気持ちはわかります。けれども、長い目で見ると、そのやり方は、かえって弊害を生むかもしれません。
 あちらこちらの△の点数を寄せ集めると、かろうじて合格点に達するという答案は、価値のある答案ではありません。きちんとした答案が書けないのは、理解力や表現力がじゅうぶんでないことを表しています。
 採点するときの基準として、キーワードを使っているかどうかということを物差しにすることがあります。答案の表現の中にどうしても必要な言葉がある場合は、その言葉がなくては正解とは言えません。けれども、それを逆に考えてはいけないと思います。キーワードを使っておれば、表現の拙さには目をつぶって、ある程度の点数を与えるという採点方法がありますが、それには賛成できません。
 設問の意味を取り違えている答案は、どんなに優れたことを書いていても部分点を与えるべきではないと思います。少し関係のありそうなことを書いておけば、△で、部分点が与えられるという、甘い考えが広がることを排除したいと思います。△が多いのは、ものごとをきちんと考えようとする姿勢が欠如しているからかもしれません。理解力や表現力を伸ばすためには、厳しい採点をする方が効果を上げるはずです。
      ◇      ◇      ◇
 試験を出題する側も、設問の意図を取り違えて解釈されそうな表現は避けなければなりません。出題者のせいで生徒を惑わせるのは困りものです。
 試験開始後に訂正をしてまわったり、試験終了後に誤りに気付いたりするのは、恥ずかしい風景です。

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2008年6月19日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(71)

36 答案の部分点をなるべく排除する〔上〕

 試験というと思い出すのは、自分の学生時代のことです。教職を目指す者が集まっている学部だから、試験の際に不正防止のために監督をしてもらうなどということは面目が立たないという考えに基づいて、監督者のいない試験を続けていました。
 もちろん、不正が皆無だとは保証できません。学生一人一人は、「もし試験で不正を行えば、自ら大学を去る」ということを書面で宣誓して、試験に臨みました。現在、広く行われている、「不正が発覚したら、その期の試験すべてを零点とする」というような処置よりも厳しいものであったのです。
      ◇      ◇      ◇
 大学の期末試験の場合は、わずか1題だけの記述問題ということもあります。当てが外れたときは不合格の憂き目にあうことにもなりかねません。設問に正面から答えられない学生は、「この問題はさておき…」と、設問とは異なる内容を得々として論じて、それでも合格できたという、のどかな時代もあったようです。
 けれども、それは、いわばお伽話のような世界です。尋ねられている設問に、正面から答えられるかどうかは、知識や見識の他に、理解力や表現力も関係しています。大学の一般的な科目ならいざ知らず、教職課程の科目では、誤解であれ曲解であれ、設問と異なった方向で書かれた答案を大目に見るわけにはいかないと、私は考えています。
 例えば、「現在、進められている義務教育の構造改革を要約して言えば、どのようなことを行おうとしているのですか。また、それについて、あなたの意見を述べなさい。」というような設問の場合、前半を無視して(あるいは、知識などが欠如しているから書けなくて)、自分の意見だけを述べた答案に出会うことがあります。
 専門教科が何であれ、設問を無視する習慣があったり、理解力や表現力が不足したりしている者は教員になってほしくありません。

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2008年6月18日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(70)

35 板書の技術をしっかり継承していく〔下〕

 教育機器の発達に異を唱えるつもりはありませんが、それに伴って教員の板書の技術が衰えていくのなら、困ったことだと思います。
 板書は、授業の展開にそって書き進められます。教員の板書につれて、生徒たちの頭も手も動いていきます。行きつ戻りつしながら、一度書いたものを書き改めるということも、学習指導においては大切なことです。
 ノートは、板書を機械的に写すものではありませんから、板書は書き過ぎないのがよい、と私は考えています。板書で示した言葉をもとに、生徒自身が言葉を補いながらノートを作っていくのが望ましいと思うのです。そのためにも、そのようなノート作りを誘導していくような板書の工夫が必要であると思います。
 板書は時間の経過につれて少しずつ進んでいきます。板書の特性の一つは、時間の経過と共に歩むことです。話すことにおいては、声の大きさや間(ま)の取り方などが大切です。板書も、文字の大小や、書く速さの緩急などが、授業のアクセントとしての役割を果たしています。
 授業を始める前に板書計画をしっかりと立てておくことは大切なことですが、その計画は融通性のあるものです。
 板書に比べて、パワーポイントなどで投影されるものは、あまりにも整いすぎています。講義や授業を始める前に完成させている文字や図表などを次々と、一瞬のうちに提示していくのは、能率がよくても、行きつ戻りつという思考過程と相容れない場合もあります。
 教員たちが長年にわたって培い、継承してきた板書の技術を、教育機器の発達の前で簡単に捨て去るのはしのびないことです。板書をするかしないか、どのように板書を書き進めるかというようなことが、生徒の学習活動に大きな影響を与えると思うからです。

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2008年6月17日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(69)

35 板書の技術をしっかり継承していく〔上〕

 200人とか300人を相手にした講演を聞く機会が、これまでに何度もありました。そんな講演で、講演者が板書をすることがあって、大きな文字で、限られた単語だけを板書していることがありました。もっと工夫した板書ができないものかと思ったものです。
 最近になって、それは仕方のないことでもあったのだと気づきました。大学で教職課程を担当すると、200人規模の講義をしなくてはならなくなりました。大教室では板書の文字は大きく書かなければならず、細かく図示することなどは無理になりました。マイクを使って講義を進めるというのも初体験でした。
 大きな教室での講義はパワーポイントなどを使ったものが多くなっているようです。資料を印刷して配付し、文字や図表を投影して話を進めますと、板書する必要が減っていきます。けれども、それは喜ばしいことなのでしょうか。
      ◇      ◇      ◇
 一方で、出講している別の大学において、さほど多くない人数を相手に国語科教育法を担当しています。こちらは対話しながら講義を進めることができますし、黒板に文字や図示したものを書き連ねることができます。将来、国語教育を担当することになる人たちにとって、板書を効果的に行うことは、習熟すべき技術の一つです。「黒板とチョーク」は、旧来の指導方法の象徴のように言われてもいますが、国語教育はそれから抜け出るわけにはいきません。
 話がそれますが、1年間だけ出講していた大学で、国語科教育法に割り当てられた教室がホワイトボードであったことがあります。ホワイトボードと黒板では、ずいぶん勝手が違うと感じます。筆記具(マーカー)の滑り具合が違いますし、黄色のチョークに相当するマーカーはありません。黒板の代わりにホワイトボードを設置している中学校や高等学校の教室はほとんどないように思います。国語教育での板書を重要なものだと考えると、ホワイトボードの教室で模擬授業を行うことは望ましくないと考えて、教室を変更してもらいました。

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2008年6月16日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(68)

34 温もりのある方言で詩を作る〔下〕

 そやけど、人が書いた本を誉めとっても、しょうがあらへん。なんや、これぐらいのことやったら、なんぼでも書けるやんと思う人も多いはずや。この本に書いた人を貶したらあかんけど、ほんまに誰でも書けそうなんや。
 方言のことを書きはじめたら、次から次へ、ぎょうさん思い浮かんでくるやろ。詩という形には、あんまりこだわらなくてもええと思う。そいで、夏期休暇が終わったら、故郷の言葉をお土産に、神戸に戻っといで。
 集まったら、それを印刷物に作ってみたいなぁ。夏のお土産だけやのうて、国語の教員を目指して勉強したことのお土産になったら楽しいやろと思う。
      ◇      ◇      ◇
 私が方言の語法に興味を持って、大学の卒業論文のテーマにしたのは40年以上も昔のことでした。方言のことから離れられずに、今は、俚言の一つ一つの意味や用例を記述する作業を続けています。
 本務校では教職課程のいろんな科目を担当していて、国語科教育法とはやや縁遠い位置にいます。非常勤として出講している大学では国語科教育法Ⅰ~Ⅳを担当して、国語科教員を目指す学生たちと2年間にわたって、毎週、顔を合わせています。
 その学生たちに向かって、方言丸出しの文章を書いた紙片を一枚作って、方言詩を作ることを勧めたのは、ある年の夏期休暇前のことでした。秋になって持ち寄ってくれた方言詩の一部は、このブログにも掲載しました。
 方言研究では、どちらかというと、年配の人たちから言葉についての情報を得ようとする傾向があります。だから、前記の本を読んで、若者たちの心の中に、それぞれの土地の言葉が根付いていて、それに愛着を感じているということを知ったのは、驚きであり喜びでもありました。

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2008年6月15日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(67)

34 温もりのある方言で詩を作る〔上〕

 ここにおる人は、近畿はもちろんやけど、九州・四国・中国・中部・関東やその他の地域から、この神戸に集ってきとる。はじめて神戸へ来て、言葉で違和感を覚えた人もおるかもしれへんけど、もう今では、関西弁、神戸言葉になじんで、どっぷり浸かってしもたんとちゃうやろか。
 期末の試験が終わって夏期休暇になったら、故郷に帰って、生まれた頃から使い慣れてきた言葉に再会することになる人も多いやろ。父の言葉、母の言葉、きょうだいの言葉、祖父の言葉、祖母の言葉、あるいは曾祖父母の言葉、叔父叔母の言葉。そいから、久しぶりに顔を合わせる友だちの言葉。ついでに、小学校や中学校や高校時代の先生の、口癖になっとった言葉も浮かんでくるんとちゃうか。
 自宅から通学している人も、久しぶりに昔の友だちに会うて、何年も前に使うた言葉を思い出したりすることもあることやろ。東京などへ出ていった友だちが、えらい都会的な言葉を使うとるのに、びっくりすることもあるやろなぁ。そいでも、故郷へ帰ってきたら、借り物の言葉なんか忘れてもて、あっという間に、あのときの言葉にタイムスリップや……。
 日本語のブームとか言われとる。ブームというものは一過性のものかもしれへんから、あんまり好きやないねんけど、方言も注目されとるのは嬉しいことや。
 方言と言うたら、ひとつひとつの言葉(俚言)が消えていきよるんちゃうかと思われとる。寂しいけど、実際、そうなんや。
 そうには違いないねんけど、そない心配せんでもべっちょない(別状ない)という事実を突きつけられたような本を読んだ。人間の気持ちや行動の奥底を支えているような温かい言葉が、どこまでも根強く生きとるねん。しかも、それを若者(大学生)から教えられたんや。
 その本の名前は、『現代若者方言詩集』(浜本純逸・編、大修館書店・発行)やねん。
 みんなは国語の教員を目指しとるんやさかい、人一倍、言葉に関心を持っとることやろ。この本を読んでほしいと思うとる。ほんまに胸の中が温もってくるような本なんや。
 

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2008年6月14日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(66)

33 話し言葉に立脚して言語環境を整備する〔下〕

 書き言葉の文章では同じ言葉をたびたび使うことを避けるように指導しますが、話し言葉では何度も出てくる言葉、つまり口ぐせのようなものを回避することは強く指導していません。話し言葉に甘いという指導姿勢は改めるべきではないでしょうか。
 放送などでも、「まず」が何度も出てくることがあります。場面が変わるごとに、その場面ごとの「まず」が口に出るのです。「さっそく」も場面の展開ごとに何度も使われることがあります。放送終了後(というよりは、収録終了後で、放送開始前)にテープを聞き直して言葉遣いをチェックすることをしていないのでしょう。番組によっては、チェックをしても、修正することができないほど多出しています。
 学校では、教員はこのような話し方をしないように心がけるとともに、生徒への指導もていねいに行いたいと思います。
      ◇      ◇      ◇
 近年、成立した「文字・活字文化振興法」では「言語力」という言葉が強調されました。次期学習指導要領(高等学校については、未告示)では、すべての教科指導の基盤に「言葉の力」が置かれています。母国語の指導をていねいに行ってこなかったことを反省し、「言葉の力」を育成する指導をすべての教科の基盤に置こうとするのは当然です。教科を超えて、あらゆる場面で、言葉に関わる様々な力を育成しようとする指導を深めることは意義深いことです。そして、それらの指導に、国語科はこれまで以上の重要な役割を果たさなくてはなりません。
 学ぶことは真似ぶことですから、言語環境が生徒に果たす役割は大きいのです。言語環境は、その学校のすべての教職員で作り上げているのだという意識を強く持つことと、日常的な言語活動、とりわけ、話し言葉の分野において、生徒に手本を示すことが肝要です。話し言葉に立脚した言語環境の整備こそ重要なことだと、私は考えています。

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2008年6月13日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(65)

33 話し言葉に立脚して言語環境を整備する〔上〕

 教職課程の大学生が教育実習をさせていただいている中学校・高等学校に出かけて、授業を見せていただき、指導をしてくださっている教員の話をうかがう機会があります。
 先日、ある教科の実習生の授業を参観したときに、気になる話し方がありました。例えば、「第2次世界大戦、が終わったのは、1945年、のことで翌年、1946年、に、日本国憲法、が公布されたのです。」というような話し方で、それが授業時間すべてにわたっていました。あとで、その学校の先生にうかがうと、「そのような話し方をする教員がいるので、その真似をしているのかもしれない」ということでした。実習生がベテラン教員の話し方をすぐに採り入れたことを、誉めるべきか否か、複雑な気持ちになりました。
 このような話し方をする理由は明白です。重要な語句を口にした段階で一呼吸いれて強調し、理解しやすくしているのです。
 けれども、日常生活では、このような話し方を、ほとんどしません。放送のニュースなどでも、重要な語句を強調する工夫はしていますが、重要語である名詞の後で区切って、次の部分が助詞から始まるようなことはしていません。
 どの教科であれ、このような話し方の授業を受け続けたら、生徒はそれを奇妙な話し方だとは感じなくなってしまうでしょう。
      ◇      ◇      ◇
 これに関連して思い浮かべたのは井上ひさしさんの戯曲「国語事件殺人辞典」、「花子さん」などでした。そこには言語不当配列症、音連合症、言い間違い症などの人物が登場します。戯曲ですから、話し言葉の世界です。
 書き言葉と話し言葉は同じではありませんが、話し言葉の区切り方や、言葉の順序を軽く考えてはいけないと思います。修飾語と被修飾語が離れた場所にあることや、長い文のはじめと終わりが対応していないことなどは望ましいことではありません。書き言葉の文章の誤りは厳しく指摘しながら、話し言葉を軽く見てしまうのはよくないことです。

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2008年6月12日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(64)

32 電車の中の風景を元に戻す〔下〕

 この状況には対策が必要ですが、特効薬などあろうはずはありません。例えば環境問題などと同じように、小さなことを積み重ねるしかないと思います。ちょっとしたエネルギーの節約が積み上げられると、環境破壊の速度を緩めるというのと同じです。生徒に向かって、本を読もうとする努力を促すことを、息長く続けたいと思います。指導の積み重ねが効果を招くことを期待したいと思います。
 多くの学校で取り組んでいる「朝の読書」が成果を上げています。そして、本を読む楽しみを、朝の時間枠から日常生活全体へ広げていきたいものです。
 車内風景のことを例にして話しましたが、それは生活時間の一部にすぎません。けれども、このことを生徒の知的生活の象徴的な現れであると認識してもいいのではないかと思います。
  クルマを運転して通勤する教員が増えています。電車通勤に比べて20分とか30分とかの時間が節約されるという理由でクルマを使う教員もいるようです。
 マイカー通勤をすると、学校の行き帰りに生徒と肩を並べて歩いたり、車内で顔を合わせるということがなくなります。生徒の実情を知ったり、生徒に注意を与えるということも減っていきます。生徒といっしょの電車に乗るのがいやだから電車通勤をしないという教員もいると聞きますが、驚くべき感覚です。
 生徒の生活習慣の改善に関して、教員がさりげない日常の中で果たす役割が大きいということを忘れてはならないと思うのです。
      ◇      ◇      ◇
 ふと気が付いたら、盛夏の季節に「緑陰読書」という言葉が使われていたのは昔話になっていました。木陰を通り過ぎてくるそよ風に吹かれて読書を楽しむという習慣は、もはや隔世の感がします。涼しい車内や快適な部屋にいても、にらめっこしているのは書物ではなく携帯メールであるという風景を思い浮かべると、涼しさを通り越して背筋の寒さを覚えます。

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2008年6月11日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(63)

32 電車の中の風景を元に戻す〔上〕

 電車の中の風景が変化しています。車中で飲食をする人が目立ち、化粧に熱中する女性が急増しました。人々から、たしなみの心や、自分を客観視する姿勢が失われつつあるのでしょうか。舞台裏をさらけ出そうとしないのが人間の自然な心持ちだと思いますから、衆人環視の中でメイクをして、変身を遂げる行動を見せつけられると、こちらが戸惑ってしまいます。
 もう一つ、足早に変化した風景があります。高校生や大学生が車内での時間を活用するために手にするものが、書物から携帯電話に移っています。大人たちの一部も同じです。大人はともかく、年若い人たちがこれではよかろうはずがありません。
 書かれている内容はさまざまでしょうが、車内では本や雑誌や新聞を読むというのが、人々の長い間にわたる習慣でした。向かい側に座っている3~4人が、携帯電話を突き出して、いっせいに指を動かしているのを見ると、異様な感じがします。
 世の中には、一刻を争うような火急の事態は多くありません。生徒には、時間を惜しんでメールをやりとりするようなことよりも、ゆったりした時間の中で活字に親しむことの方が意義深いのだということを認識させたいと思います。メールで特定の誰かとの関係を保つことも大事でしょうが、読書はもっと広範な人間関係を教えてくれます。
 もとより携帯電話は現代生活に不可欠な機器になっています。通信手段としてだけでなく安全対策にも活用されています。通信販売物の購入も、音楽のダウンロードもできます。利用方法はますます広がっていくでしょう。
けれども、活字に親しむ時間以上に、携帯電話に触れる時間が必要だという人は、ごく一部に限られるはずです。
 本を読むのは受身の行為であり、メールを打つのは能動的な表現である、というように弁護する気持ちにはなれません。

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2008年6月10日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(62)

31 多様な考え方や思いを尊ぶ〔下〕

 国語の教員は、文章の読み取り方などに一定の枠組みや方向性を作り上げつつ生徒を指導しているのではないかということを反省する必要があるように思います。教材を客観的に教えているという認識を持ちながらも、望ましい考え方とか、ふさわしい感じ取り方とかを、生徒に向かって強く指示していることがありはしないでしょうか。力を入れて指導すればするほど、その傾向が強まることにもなるのです。そのような指導を受けると、生徒は、解釈や鑑賞に一定の方向性を示されて、その線上で心を動かさなければならないという辛さを味わうことにもなります。
 例えば文学作品は、いろいろな解釈やさまざまな感じ取り方ができるように工夫されていることが多いと思います。登場人物たちは、活きた人間です。ところが、試験になると、それらを普遍化するような方向に導いていく設問が現れることもあります。
 論理的な文章であっても、筆者が書いているのは、考えや思いの、ひとつの筋道です。そこから派生して揺れ動いている考えもないわけではないでしょう。
 文章の内容に一定の方向を与えてしまう危険が伴っているということを、国語の指導過程では認識しておくべきだと思います。
      ◇      ◇      ◇
 同じ入試問題を扱っていても、それらの問題を集めた本によって解答例が異なることがあります。その場合、どの出版社の作った解答が望ましいとか、あるいは誰が作った解答が優れているとかを比較することは必要かもしれませんが、解答の多様性を尊ぶことも必要でしょう。
 答えが多様なものは、指導する価値が劣るわけではないと思います。国語の学習から大らかさをなくすことの方にこそ問題があると考えるべきではないでしょうか。

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2008年6月 9日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(61)

31 多様な考え方や思いを尊ぶ〔上〕

 多くの生徒は、国語の勉強で、さまざまな文章を読んで、考えたり感じたりすることを楽しいと思っていることでしょう。自分の力で考えることも、大勢で議論をすることも、思いがけない発見をもたらしてくれます。
 けれども、試験になると得点がはかばかしくなくて、設問の正解がなぜそのようになるのかということで悩んでしまう生徒が多いことも事実です。その気持ちが強まれば、国語という教科をとらえどころのないもののように感じてしまうことになります。
  試験では、正解として認める幅を狭めないと、採点の際に行き詰まるという事情があります。けれども、一定の範囲内にある答え以外のものを正解と認めないという姿勢を強めると、生徒は国語という教科を窮屈なものと感じることになるでしょう。
      ◇      ◇      ◇
 文章を書いた人の心の中は、その考えや思いを文字に定着する寸前まで、右に左に大きく揺れ動いていたかもしれません。考えたり感じたりしたことを、無数に広がる語彙の中から言葉を選んで、できるだけ自分に忠実に表現したことでしょう。揺れることのない意味だけを伝えて、解釈の余地がない文章というのは、ほとどないと思います。
 したがって、文章はいろいろな読み取り方ができるはずです。授業中には、いろいろな意見を出し合ったりして生徒が話し合うことを推奨しながら、試験では答えを一つ(もしくは、狭い範囲)に決めてしまうのは、ちょっと可哀想ではないでしょうか。
 試験の結果は点数化するから、その目的のためにはやむを得ないことなのだと考えてしまっていいのでしょうか。
 窮余の策として、答えが幾通りも考えられるような設問を避けて、無難な箇所を出題することもあります。授業中の膨らみや深まりはどこへやら、平板な設問が顔を並べることにもなります。授業中に重点をおいて指導したことを、試験では出題できないというジレンマに陥ることもあります。
  これらのことは、私自身の反省も込めて言っているのです。

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2008年6月 8日 (日)

言葉カメラ(182) 【東京の銀座④】

「日の出銀座」

 東京の環状八号線道路のそばにある、短い商店街が「日の出銀座」です。最寄り駅は京浜急行の雑色駅と糀谷駅です。

 ところで、ホームページに「銀座めぐり」というのを見つけました。東京都内の銀座の一覧がありました。本家の銀座以外に次のような銀座があるそうです。
  港区   魚らん銀座
  新宿区  高田馬場銀座、目白銀座
  文京区  根津銀座
  台東区  谷中銀座
  墨田区  向島橘銀座
  江東区  砂町銀座、住吉銀座、大島銀座、大島中央銀座
  品川区  戸越銀座、大井銀座、品川銀座、馬込銀座、
        山王銀座、武蔵小山銀座、小山五丁目銀座
  目黒区  目黒銀座、中目黒銀座、自由が丘銀座
  大田区  日の出銀座、久が原銀座、大森銀座、入三銀座
  世田谷区 三軒茶屋銀座、奥沢銀座、上町銀座、野沢銀座、

         太子堂銀座
  渋谷区  上原銀座、恵比寿銀座
  中野区  東中野銀座、家政銀座、ふじみ銀座
  杉並区  荻窪銀座、方南銀座、高円寺銀座、西荻銀座、

        西荻東銀座、西荻北銀座、西荻南銀座、

        東高円寺銀座、久我山銀座、東大泉仲町銀座、

        松ノ木銀座
  豊島区  染井銀座、駒込銀座、駒込東銀座、長崎銀座、

        要町銀座、池袋西口銀座、トキワ銀座、大塚銀座
  北区   霜降銀座、西ヶ原銀座、滝野川銀座、東十条銀座、

        十条銀座、十条富士見銀座、田端銀座、王子銀座、

        梶原仲銀座、梶原銀座、西が丘銀座、神谷銀座、

        志茂銀座、赤羽銀座、浮間銀座、上中里銀座
  荒川区  尾久銀座、日暮里銀座、町屋駅前銀座、荒川銀座、

        小台銀座、三ノ輪銀座、小台橋通り銀座、町屋銀座
  板橋区  赤塚銀座、上板南口銀座、志村銀座、常盤台銀座、

        蓮根銀座
  練馬区  江古田銀座、旭丘銀座、練馬銀座
  足立区  五反野駅前銀座、関原銀座、大師銀座、東和銀座、

        梅田銀座、千住銀座
  葛飾区  新小岩銀座、亀有銀座、金町銀座、青戸銀座
  江戸川区 松江銀座
  東京都下 狛江銀座、調布銀座、三鷹西銀座、三鷹南銀座

 もはや、脱帽! です。

【写真は、2007年(平成19年)9月4日に、東京都大田区内で撮影。】

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2008年6月 7日 (土)

言葉カメラ(181) 【東京の銀座③】

「品川銀座」

 「大井銀座」から遠くないところに「品川銀座」があります。京浜東北線の大井町駅と、京浜急行の新馬場駅との間です。
 このあたりはゼームス坂通りと呼ばれていますが、このあたりには、かつて、高村光太郎の妻、千恵子が入院していたゼームス坂病院がありました。病院の跡には光太郎の詩に因んだ「レモンの碑」があります。

【写真は、2007年(平成19年)9月2日に、東京都品川区内で撮影。】

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2008年6月 6日 (金)

言葉カメラ(180) 【東京の銀座②】

「大井銀座」

 かつての「阪急銀座街」のすぐ近くにあるのが「大井銀座」です。学会などで東京に出かけるときに泊まるのは、たいてい大井町駅前のアワーズイン阪急です。だから、大井町の変化を眺め続けてきました。大井町は、JR京浜東北線と東急大井町線の乗換駅です。それとともに、大井町に地下鉄道として乗り入れている「りんかい線」(東京臨海高速鉄道)が、2002年(平成14年)12月1日に全線開業して、人の動きが活発になっています。けれども、大井銀座の風情はあまり変化していないように思います。

【写真は、2007年(平成19年)9月2日に、東京都品川区内で撮影。】

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2008年6月 5日 (木)

言葉カメラ(179) 【東京の銀座①】

消えた「阪急銀座街」

 東京のJR京浜東北線・大井町駅前にあったデパート「阪急・大井町店」は、建て替えのため解体されることになったそうです。現在は休業しています。《2枚目の写真》
 このデパートの一画を「阪急銀座街」と命名していた時期がありました。《1枚目の写真》「銀座」は東京の繁華街ですが、同じ東京都内でも、本家の銀座にあやかった名付けが多く見られます。この「阪急銀座街」という名前は、ふと気付いたときには、なくなってしまっていました。何年前になくなったのかは知りません。
 普通は、商店街全体を「銀座」と称することが多いのですが、特定の一画だけを「銀座」と呼ぶこともあります。
 さて、これを出発点にして、東京にある「銀座」をいくつか、巡ってみることにします。

【1枚目の写真は、1999年(平成11年)6月(日付は失念)に、東京都品川区内で撮影。2枚目の写真は、2008年(平成20年)5月17日に、東京都品川区内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫199906 Cimg5462

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2008年6月 4日 (水)

言葉カメラ(178) 【つれたか】

「釣れたか?」

 平仮名で書かれた船名「つれたか丸」です。意味を確かめたわけではありませんが、即座に思い浮かんだのは「釣れたか?」という言葉です。船と漁とは切り離せないですから。
 仮に、そういう命名でなくて、別の意味であっても、「釣れたか?」との掛詞ということになります。

【写真は、2008年(平成20年)4月13日に、兵庫県赤穂市内で撮影。】

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2008年6月 3日 (火)

言葉カメラ(177) 【またきてくらんしよ】

また来てね②

 「またきてくらんしよ」と呼びかけられたら、再び来たくなるのが人情というものですね。いつの日か「つれもて」行くことになるでしょうか。

【写真は、2008年(平成20年)3月27日に、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫Photo_2

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2008年6月 2日 (月)

言葉カメラ(176) 【またきんせえ】

また来てね①

 観光地では、「歓迎」という言葉をよく見かけますが、「また おいでください」という言葉も見かけます。しかも、それが方言で書かれている場合は、ほのぼのとした思いになることがあります。
 JR山陰本線の八鹿駅の看板は、このときは、旧称(養父郡八鹿町)のままでした。

【写真は、2004年(平成16年)8月2日に、兵庫県養父市内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫Photo

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2008年6月 1日 (日)

言葉カメラ(175) 【上下逆転の「居」】

居心地が悪いとは言わないで

 「於福魯」は万葉仮名のようなもので「おふくろ」と読むのでしょう。
 何の店かということは、上下逆転した「居」という文字と、「屋」の文字とで、すぐに察しがつきました。「居・逆・屋」すなわち「居酒屋」です。「居」が逆さになっていますから、居心地がちょっと気になりました。

【写真は、2008年(平成20年)5月31日に、兵庫県明石市内で撮影。】

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