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2008年7月31日 (木)

【掲載記事の一覧】

 月末には不順な天候が2~3日続きましたが、まさに酷暑の時期です。朝早くから蝉しぐれが降り注ぎます。蝉の抜け殻が毎朝、木や塀にいくつも残っています。
 高校野球の西兵庫大会は、公立学校が大躍進をして、ベスト8のうち7校を占めました。代表校になった加古川北高校に声援を送りたいと思います。プロ野球は折り返し点、阪神タイガースが余裕を持って走り続けています。
 ブログをお読みくださってありがとうございます。毎日ひとつずつブログの記事を増やしていくのが日々の務めになっています。
 これまでに連載した内容の一覧を記します。
 お読みくださって、感想・意見・連絡などがありましたら、
       kyoiku.kokugo@gmail.com
  宛に、よろしくお願いします。

≪掲載を継続しているもの≫
◆言葉カメラ (1)~(192)~継続予定
    [2007年1月5日~2007年1月31日]
    [2007年2月21日~2007年2月28日]
    [2007年3月16日~2007年3月31日]
    [2007年4月19日~2007年4月30日]
    [2007年5月9日~2007年5月30日]
    [2007年10月1日~2007年10月13日]
    [2007年11月1日~2007年11月26日]
    [2007年12月13日~2007年12月30日]
    [2008年1月19日~2008年1月30日]
    [2008年2月1日~2008年2月10日]
    [2008年5月1日~2008年5月10日]
    [2008年6月1日~2008年6月8日]
    [2008年7月21日~2008年7月30日]

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)~継続予定
    [2006年12月27日~2006年12月31日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)~継続予定
    [2007年2月1日~2007年2月20日]
    [2007年3月1日~2007年3月15日]
    [2007年5月1日~2007年5月7日]

◆母なる言葉 (1)~(10)~継続予定
    [2008年1月1日~2008年1月10日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)~継続予定
   [2006年12月23日~2006年12月26日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(27)~継続予定
    [2007年1月1日~2007年1月4日]
    [2007年6月7日~2007年6月29日]

◆西島物語 (1)~(8)~継続予定
    [2008年1月11日~2008年1月18日]

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)~継続予定
    [2007年7月8日~2007年7月31日]

◆写真特集・うめ (1)~(14)~継続予定
    [2008年2月11日~2008年2月24日]

◆写真特集・さくら (1)~(33)~継続予定
    [2007年4月7日~2007年4月17日]
    [2008年4月1日~2008年4月22日]

◆写真特集・きく (1)~(3)~継続予定
    [2007年11月27日~2007年11月29日]

◆写真特集・もみじ (1)~(7)~継続予定
    [2007年12月1日~2007年12月7日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)~継続予定
    [2007年5月8日、5月31日、6月30日]

◆屏風ヶ浦の四季 (1)~継続予定
    [2007年8月31日]

◆昔むかしの物語 (1)~継続予定
    [2007年4月18日]

◆小さなニュース (1)~継続予定
    [2008年2月28日]

≪掲載が完結しているもの≫
◆改稿「国語教育を素朴に語る」 (0)~(102)
    [2008年2月25日~2008年3月30日]
    [2008年4月23日~2008年4月29日]
    [2008年5月11日~2008年5月30日]
    [2008年6月9日~2008年7月20日]

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日~2006年10月4日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日~2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日~2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日~2007年6月6日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日~2007年8月10日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日~2007年7月7日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日~2007年10月30日]

◆兵庫県の方言 (1)~(4)
    [2006年10月12日~2006年10月15日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日~2007年8月20日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日~2007年9月12日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日~2007年9月29日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日~2006年12月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日~2006年12月22日]

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日~2007年8月30日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日~2007年8月27日]

≪絶版として扱うもの≫  (ただし、ブログからは消去しておりません。)
◆国語教育を素朴に語る (1)~(51)
    [2006年8月29日から、2007年12月12日まで] 4回に分けて連載。

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2008年7月30日 (水)

言葉カメラ(192) 【水位標】

いたましい川の事故

 7月28日に、神戸市灘区の都賀川で起きた、増水による水難事故は、地元の者にとって、本当に心の痛むことでした。親水空間がキバをむいた恐ろしさです。
 六甲山の南側の、全長2㎞足らずの傾斜の急な川です。あの日のあの時刻、私は勤務先にいて、真っ暗になった空からの土砂降りを見ていました。けれども、このような事故のことは想像すらしていませんでした。
 私は都賀川のことは知りませんが、同じような川である住吉川の堤防内の遊歩道を、通勤の行き帰りに歩くことがあります。
 写真はいずれも住吉川のものですが、急傾斜の川には「水位標」が設置されていました。けれども、一瞬のうちに1.3㍍も水位が上がった都賀川のことを考えると、黄色で表示されている「注意」の水位にも恐怖を感じてしまいます。もし遊歩道におれば、「注意」どころの水位ではないように思うのです。

【写真は3枚とも、2008年(平成20年)4月22日に、神戸市東灘区内で撮影。】

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2008年7月29日 (火)

言葉カメラ(191) 【ワレカエセンター】

割れ・替えセンター

 ガラスが割れたときには、ガラス屋さんに来てもらって「入れ替える」ことをします。
 「ワレカエセンター」という言葉を見たとき、あまりにも直接的な表現にびっくりしました。もし、「ガラス」という文字が書かれていなかったら、この店の仕事内容を即座に判断できたかどうか、自信はありません。

【写真は、2008年(平成20年)6月17日に、神戸市須磨区内で撮影。】

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2008年7月28日 (月)

言葉カメラ(190) 【大大大特価】

素朴な表現

 今どき「特価」とか「割引」とかの表現には、あまり魅力を感じないかもしれません。けれども、何でもやたら誇大な表現をして「超特価」とか「極超特価」とな「破格大特価」とか言うのが人を引きつけるとは限りません。
 この写真の店からは、「特価」に「大」の字を付けてみたけれども、もう少し強調したくて、左右に更に「大」の字を侍らせてみました、というような心遣いを感じて、素朴さに引かれました。

【写真は、2008年(平成20年)6月24日に、神戸市東灘区内で撮影。】

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2008年7月27日 (日)

言葉カメラ(189) 【空】

ずばり「空」

 あれこれ思案する必要もないと考えた場合は、ずばり一言「空」です。
 これ以外にも、「空あり」という表現はしばしば見かけます。

【写真は、2008年(平成20年)6月17日に、神戸市須磨区内で撮影。】

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2008年7月26日 (土)

言葉カメラ(188) 【空枠】

「空枠」という表現は少ない

 駐車場は、スペース(枠)を貸すものですから、「空枠」という言い方は理に叶ったものであると思います。
 けれども、この言い方にお目にかかることは少ないと思います。

【写真は、2008年(平成20年)6月5日に、大阪市西区内で撮影。】

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2008年7月25日 (金)

言葉カメラ(187) 【空番】

「空室」と「空番」の違い

 「空室」は、アパートの部屋が空いている(貸すことができる)という意味で、「空番」は駐車場のスペースが空いている(貸すことができる)という意味であることはわかります。
 けれども、「空番」には、番号がない(番号が飛んでいる)という意味もありそうです。「空室」という言葉には、部屋がない(部屋が飛んでいる)という意味はないと思います。
 というわけで、駐車場に空きスペースがあるということを知らせる言葉には、どういう言い方があるのか。ちょっと気になっています。

【写真は、2008年(平成20年)6月7日に、兵庫県明石市内で撮影。】

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2008年7月24日 (木)

言葉カメラ(186) 【入城禁止】

お殿様の気分になれる

 城跡の公園ですが、誰でも利用できます。けれども、「ペットのフンの始末ができない」ような、マナーの悪い人だけは入ってほしくないという看板です。
 ふつうは「利用禁止」とか「入場禁止」とか言うのでしょうが、そこはそれ、天下の播州赤穂城です。お殿様気分で「入城」と言う方が、気持ちが大らかになれるというわけですよね。

【写真は、2008年(平成20年)4月13日に、兵庫県赤穂市内で撮影。】

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2008年7月23日 (水)

言葉カメラ(185) 【仕込中】

働いてるの? 休んでるの?

 店先にそっと立てかけられた小さな看板です。営業中でないから、お店に入っていくわけにはいかないということは理解できます。
 それにしても、「仕込中」なら準備のために忙しく働いているイメージ、「ちょっと休憩」ならゆったりくつろいでいる印象なのですが、ホントはどっちなんでしょうか。

【写真は、2008年(平成20年)5月17日に、東京都品川区内で撮影。】

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2008年7月22日 (火)

言葉カメラ(184) 【ストップ】

「推進」を「ストップ」する?

 「放火されない環境づくり推進中」という文字の下に、大きく「ストップ」と書いてありました。まさか「推進」をストップするのではありませんね。「放火」をストップするのでしょう。
 この看板をじっと見つめておりますと、どうやら「ストップ放火」という文字が書かれていて、赤色の「放火」が消え去ってしまったように思われました。
 この看板のおかげで、街の中から「放火」が消えてなくなったのなら、それほど喜ばしいことはありませんが……。

【写真は、2008年(平成20年)5月28日に、大阪市浪速区内で撮影。】

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2008年7月21日 (月)

言葉カメラ(183) 【せせらぎ】

水が流れているからこそ「せせらぎ」

 「せせらぎ」という言葉からは、水辺の、ほっと一息つくような場所を連想します。水が浅瀬を流れる音、または、音を立てて流れる小さな流れを「せせらぎ」というからです。
 けれども、大都会の真ん中の、人工的なものには似つかわしくはありません。「犬や猫をせせらぎの中へ入れないでください」という注意書きには納得しますが、この「せせらぎ」は、どう見ても、石で囲われた水槽でしかありませんでした。水槽には、底の方から常に水が注ぎ込まれているのかもしれませんが、水の流れはありませんでした。

【写真は2枚とも、2008年(平成20年)5月17日に、東京都世田谷区内で撮影。】

≪画像をクリックしてください。大きくて鮮明な画像になります。≫Cimg5489 Cimg5490

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2008年7月20日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(102)

51 他人の立場に立って、わかるように話す〔下〕

 質疑応答で落胆することには、もうひとつ別の状況があります。質問者に向かって、「私はあなたのような考え方をしておりません。考えが違うのだから相容れないと思います」というようなことを平気で言う発表者の姿勢も困ったものです。異なった考え方の人を排除して、議論をする意思を持ち合わせていない人は、研究発表をする資格に欠けると思います。
      ◇      ◇      ◇
 私たちは国語教育の場で、自分の考えを述べることの大切さとともに、他の人と意見を出し合って議論することの大切さも教えています。国語教育は理屈で終わるものではなく、現実の場で生かすことが大切です。学会などでの研究発表は、そのような具体的な場面の一つであるはずです。まるで議論にならない質疑応答を聞いていると、国語教育の意義や目的をどのように考えている人なのだろうかと、失望せざるをえなくなってきます。
 謙虚な姿勢を持った国語教育の実践家の発表は聞いて楽しく、議論にも充実感を覚えます。理論で装備を固めて主張を貫こうとするような研究発表の中には、他の考え方を押しのけようとするような、残念な傾向がないとは言えません。
 私たちが指導している生徒たちの言語生活も、私たち自身の大人の言語生活も同じです。謙虚な姿勢こそが、言葉の生活で最も大切なことであると私は考えています。

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2008年7月19日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(101)

51 他人の立場に立って、わかるように話す〔上〕

 国語教育に関連した学会や研究大会に出席して、会場の片隅で聞かせていただくのは、楽しいひとときです。発表者から刺激を与えられたり、発表者に共感したりして、わくわくするような気持ちになることがあります。
 自分の志気が高まったり、充実感をもったりしますから、遠いところで開催される会であっても、やっぱり出かけてみたく思うのです。
 けれども、時にはびっくりするようなことにも出くわします。研究発表は緊張するものであると理解しているつもりですが、国語教育に携わっているはずの人が、発表原稿集を棒読みしていくことがあるのには驚きます。
 国語教育を実践している人であるなら、話すことの意義や方法を理解しているはずです。棒読みは賛成できません。聞いている人に向かって語りかけるという姿勢を忘れないでほしいのです。機械的に読み進めるのなら、ポスター発表か何かですませることと同じではありませんか。
 発表内容に驚くこともあります。最近の研究発表会で出会ったものの中には、ある書物を一方的に賞賛するだけの発表、海外の研究者の考え方を紹介することにとどまった発表などがありました。研究発表というのは自分の考えや実践方法が濃く出ていなければならないものだと思います。
      ◇      ◇      ◇
 研究発表は、発表することだけが目的ではありません。発表のあとで、質疑応答などを行って、発表者と聞いている人との交流が図られます。それによってお互いの勉強になるはずですから、質疑応答がいい加減に行われては困ります。
 質疑応答にがっかりすることのひとつは、議論が成り立たないという状況です。質問者が我田引水のようなことを述べたり、質問内容が的外れであったりすると、発表者に同情してしまいます。
 けれども、発表内容について正面からの質問が行われているのに、「あなたのご意見をこれからの研究の参考とさせていただきます」というような言葉を繰り返して、質問内容に答えないようなことがあります。会場にいる人たちは、せっかく研究発表の内容を理解しようと努めたのに、はぐらかされたような気持ちにならざるをえません。

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2008年7月18日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(100)

50 文章に向き合って想像する力を育てる〔下〕

 文章を読んで解釈や批評をすることは大事なことですが、想像する力や創造する力を培うということを隅の方に押しやってしまわないようにしたいものです。視聴覚教材を提示することによって、想像力の肩代わりしてしまうことは避けなければなりません。読解力も、論理的思考力も、批判力も、表現力も大事な力ですが、想像力や創造力の育成も同じように大切なことです。
 人間は、反省をする動物です。それとともに、人間は想像する力を持つ動物です。国語教育の将来の結果を想像することもできます。現今の国語教育の舵の取り方が、生徒の将来にどのような影響を与えることになるかということを想像するのは、国語の教員には必要なことです。
      ◇      ◇      ◇
 漫画を活用して古文の学習を助ける、朗読を聞かせて作品を読ませたのと同等の効果をあげる、というようなことは国語教育の一つの手段としては納得できます。詩歌などの内容を絵画で表現させることもよいでしょう。
 けれども、そのような方法が国語教育の中心になるのはよくないと思います。国語科では、文章そのものに向き合わせて、解釈力や想像力を高めるような指導の方法に工夫を凝らすべきであると思うのです。
 国際的な学力調査の成績を上げるのに即応した指導も大事かもしれませんが、指導の能率を優先したり、調査の結果に目が走りすぎてしまわないように心しなければならないと思います。

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2008年7月17日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(99)

50 文章に向き合って想像する力を育てる〔上〕

 国際的な学力調査の結果から、日本の生徒たちには、読解力の低下傾向が見られるという指摘がされています。
 具体的には、文章や資料の解釈、熟考・評価や、論述形式の設問に課題があるというのです。国語教育に携わっている者として謙虚に反省しなければならないと思います。
 けれども、PISA型読解力という言葉を使うまでもなく、これまでも、書かれた文章などを理解し、利用し、熟考する能力を養成しようとして指導してきたはずです。
 国語教育では、生徒一人一人に目標を持たせ、知識・能力などを発達させて、他の人たちとの関わりを深めさせるために指導してきています。それは国語を教える者にとって当然の営みですから、新しい概念が導入されたかのように強調されると、かえって面食らったような気持ちになります。
      ◇      ◇      ◇
 国語の教科書が一昔前に比べると様変わりしています。大型になってカラーの図版なども多くなりました。楽しく学習できるようにという配慮からなのでしょう。
 教科書では、文字や文章以外のものが占める割合が増えているように思います。国語教育は文章を読むことだけが目標ではない、資料(図表・写真・その他)の解釈も大切であるということには賛成です。そうであっても、文章を読めば解釈や想像ができることに関しては、図表や写真をたくさん添える必要はないでしょう。
 視聴覚教材を用いた指導が、以前よりも多くなっているようです。様々な教材が開発されて、手軽に利用できるのは喜ばしいことです。
 とは言え、動きのあるビデオやDVDが、静止画のスライドに勝っているとは一概には言えません。視覚教材が、聴覚だけに訴える録音教材より優れているとも言えないでしょう。もっと言えば、視聴覚教材を多用する国語教育が、そのような教材が乏しかった時代の指導より優れているとは断言できません。視覚や聴覚に訴えるものを多く与え過ぎるのはよくないと思います。
 静止している画面を見て想像する力、音声だけの情報から目の前の状況を想像する力も大切だと思います。そのような想像力が発揮できなければ、文章に向き合って筆者の意図などを読み取ろうとすることは難しくなってしまうでしょう。

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2008年7月16日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(98)

49 文や文章を「作る」のではなく、「書く」〔下〕

 小学6年生と中学3年生の合わせて220万人余りを対象にした全国学力調査が2007年4月に実施され、その結果が10月下旬に発表されました。
 「知識」を問うA問題の平均正答率に対して、知識の「活用」を問うB問題の平均正答率が、小学校では国語・算数ともに20ポイント低く、中学校では国語・数学ともに10ポイント低いという結果でした。
 過去と同一の問題を出題して正答率を比較した結果、国語における読み書き能力は、昔に比べて低いわけではない、基礎学力はついているという評価もありました。それは喜ぶべきことだと思います。
 けれども、文字の読み書きができることや、言葉の意味がわかることは、言葉を使いこなすための基礎の力です。文字が読めることと、読解力があるということとは、大きな違いがあります。
 サンプルに沿って年賀状を作成することと、自分の創意工夫を凝らした年賀状を作り上げることとは違います。それと同じように、一定の枠組みの中で文や文章を作り上げることと、しっかりした目的を持って自分の考えや思いを相手に伝わるように述べることとは大きな違いがあります。
 どのように書いたり読んだりするのか、どのように話したり聞いたりするのかという指導は大切なことです。それに加えて、国語教育でもっと必要なことは、どのような意図や目的を持って、どのように効果的な言葉の活動を行うのかという指導だと思います。
      ◇      ◇      ◇
 言葉は、思想・感情などを伝達して、人と人とをつなぐものです。社会生活において、自分以外の人の考えを間違いなく聞き取ったり読み取ったりする理解力が必須であるとともに、自分の考えを他の人に伝えるためにわかりやすく話したり書いたりする表現力も必要不可欠です。国語教育では、そのような力を身につけさせるために、指導法を工夫して実践していかなければなりません。
 別の言い方をすれば、私たちは、国語教育において、文章を「作る」ことにとどまらず、文章を「書く」ことを指導しなければならないと思うのです。

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2008年7月15日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(97)

49 文や文章を「作る」のではなく、「書く」〔上〕

 新年には親しい人に年賀状を出すのが習慣になっている人は多いことでしょう。
 昔は、「年賀状を書く」と言いましたが、「年賀状を作る」と言うことは少なかったようです。写真や絵よりも、文字が多かったから「書く」と言っていたのかもしれません。「作る」と表現するのは、賀状用の版画を彫ったりするような場合であったようにも思います。
 今では、いろんなソフトや素材を用いて、自分だけの年賀状を作ることができます。多彩な年賀状をもらうのは嬉しいことですが、提供されている種々の機能や情報をもとにして作成されているものが多くて、丹念に手づくりされた年賀状は珍しいようです。
      ◇      ◇      ◇
 同様に、「文章を書く」という言い方と、「文章を作る」という言い方とがあります。
 「作文」というのは、文や文章を作るという意味です。けれども「作文」は、形だけ整っていて内容の乏しいものの喩えにされることがあります。
 情報機器の発達に伴って、ワープロソフトなどを使えば、文章を「作る」ことは容易にできるようになりました。それは、年賀状をこしらえるのに似ていて、いろんな機能や情報を活用できるからです。モデルの文章をいろいろと用意しているソフトもあって、昔に比べると、文や文章を作り上げることが誰でも簡単にできるようになりました。
 けれども、文や文章は、「作る」ものではなく「書く」ものだ、と私は思っています。「作る」という言い方を聞くと、文や文章を作成する目的意識や創意工夫が希薄であって、一定の枠組みに沿って文や文章を作り上げる活動をしているように感じてしまうのです。

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2008年7月14日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(96)

48 辞書は意味・用法で成り立っている〔下〕

 前記の文化庁の調査では、慣用句などに関する誤用の実態調査結果も発表されました。「そうは問屋が卸さない」などの言い方の間違いや、「流れに棹さす」などの意味の間違いなどの多さが報告されていました。
 ふたつの調査結果は、別々のことではなく、同じ基盤に立っているように思います。
 携帯電話を辞書として使っているといっても、本当は辞書としての機能は持っていません。意味はもちろん、用法を調べることもできません。言葉は意味や使い方を知って、実際に使ってみてはじめて身につくものです。
 「憂鬱」のような画数の多い文字も、印字された文章では簡単に書かれています。けれども、電子機器の発達によって、難しい文字が書けたり、正しい表現ができるようになったと思うのは錯覚なのではないでしょうか。
 難しい文字を書けても、ちょっとした文字を読めないということでは困ります。自分が読めない文字や、表現に込められた深い意味合いを調べる方法を身につけさせなければなりません。一人一人の言葉の力は、表向きとは違って、貧しい状態に向かっているかもしれないのです。
 国語教育において、辞書を活用するということが、意味・用法の確認をして、一つ一つの言葉を使いこなす力を養成しているのだということを忘れてはいけないと思います。次々に生まれる便利な道具が、人々の労力を省いて、国語力を減退させる役割を果たしているとしたら、なんとも皮肉なことだと言わなければなりません。
 前記の調査結果を報じた新聞の一つが、「ケータイ 辞書代わり」という見出しを使っていましたが、文字遣いを調べることだけが辞書の働きなのだと思いこむような認識を広めてしまってはいけません。

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2008年7月13日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(95)

48 辞書は意味・用法で成り立っている〔上〕

 文系・理系の教員を目指す学生を対象にした講義で、大勢の聞き手に向かって話をしたり、文章を書いたりする演習をしばしば行っています。残念なことですが、書くことと話すことの違いを意識できない学生や、原稿用紙の使い方に慣れていない学生もいます。大学生を相手にするようになって、高校で国語教育を担当していた頃の指導効果を反省することも多いのです。
 ある時、携帯電話を触っている学生を見つけて、講義の時間中に余計なことをするなと注意しようとして、文字を確認するために使っているのだということに気づきました。それがわかって眺めてみると、他にもそういう学生がいました。とっさのときに携帯電話を役立てているのです。
      ◇      ◇      ◇
 文化庁が2006年度に行った「国語に関する世論調査」の結果を見たことがあります。
 漢字が書けないときに調べる手段は、「本の形の辞書」(60.6%、複数回答可)の次に「携帯電話の漢字変換」(35.3%)が多かったそうです。「電子辞書」(19.4%)を超えています。年代別に見ると30代では携帯電話で調べる人が最も多く、20代は79.3%に達していると知って仰天しました。
 電子辞書の功罪を議論した時期もありましたが、もはや次の段階に来てしまっています。
 私の場合は、携帯電話で文字を確かめたことはありません。電子辞書の恩恵は受けていますが、ちょっと込み入ったことになると、辞書(書籍)を使います。習慣なのです。
 携帯電話を辞書代わりにするというのは、自分の頭の中にある言葉の文字確認に使っているだけであって、語彙を広げていく働きをしていないと思います。電子辞書は便利で、確かめたい言葉がすぐに現れますが、ピンポイントの画面です。前後に並んでいる見出し語などを調べることはできますが、辞書(書籍)とは視野が違います。
 辞書(書籍)を引くことには、ちょっとした労力が必要でしょうが、その習慣は身につけておかなければなりません。漢和辞典と無縁で、読めない文字を自分で調べる方法がわからないというような若者を育ててよかろうはずがないと思います。

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2008年7月12日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(94)

47 自己を見つめて、ありのままに語る〔下〕

 実際には、教員採用試験を受けようとする学生から、相談などを受けたり、模擬面接などの経験の場を設定してほしいと求められたりする機会は多くあります。その求めには気軽に応じていますが、あくまでも、それぞれの学生に対応した指導が肝要であると思っています。
 自分を認識し、自分を表現し、相手に伝えることは大切ですが、それをハウツー方式で乗り切るのではなく、自分を見つめることをしっかりと行ってほしいと願っています。私の務めは、そのための手助けです。認識や表現を自分の手で行うことができる人こそ、教員になってほしいと思います。
 教員として求められているのはどういうことであるのかということを自分で考えた上で、自分を語らなければなりません。他の人とは違う個性を自分自身で気づくことが肝要です。また、表現している内容の具体的な裏付けとなるものや、体験に基づく例示などがなければ説得力に欠けるでしょう。
 模擬面接などをしているときに気になるのは、願望(…したい)や、予定(…しようと考えている)を語る学生が多いことです。強い意志(…するつもり)や、既定の事実(…している)として語れるものを持っていることこそが強みになるはずなのです。
      ◇      ◇      ◇
 自分を語ることは、中学校・高等学校の国語科の授業でも行われていますし、他の教科・科目でも行われているでしょう。
 自分を表現するというのは、自分が持ち合わせていることをありのままに語ることです。いつまでも誇大に飾り続けることはできません。提示された型や枠組みに沿って自分を大きく見せかけるのはよくないことです。
 自分を弁解するような印象を与えてしまう主張もよくありません。いかに論理的に組み立てられていても、自分を中心にした発想では説得力がありません。
 国語教育は、道徳や生活面を指導することではありません。自分を表現する方法を強く指導しようとするあまりに、価値観や人生訓のようなものを提示してしまうのは行き過ぎです。それらは生徒自身に考えさせなければならないことなのです。

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2008年7月11日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(93)

47 自己を見つめて、ありのままに語る〔上〕

 プロ野球は試合終了直後に、勝利チームの殊勲者を選んでヒーロー・インタビューを行っています。勝敗の岐路となった瞬間を振り返って語ってもらったり、今後の抱負や意気込みなどを聞こうとしたりする数分間です。試合中の華々しい活躍とは逆に口数の少ない選手がいます。相手の質問に対して、「そうですね。…」という型でしか答えない選手もいます。けれども、言葉は少なくても、技術力や人柄がにじみ出ている選手には、観衆は惜しみない拍手を送っています。
 このインタビューを、自己表現をする会見の場に変えてしまって、結婚(予定)報告をした選手がいました。観衆からは祝福の拍手がありましたが、試合という仕事の場を、私的なものと融合させてしまった若者の、自己主張の強さに驚いた人もいることでしょう。
      ◇      ◇      ◇
 高校生や大学生が就職試験を受けるときに、個人面接があるのはごく普通のことですが、エントリーシートで自分を語ることも珍しくなくなりました。教員採用試験でも、エントリーシートを書かせる都道府県が増えつつあります。個人面接もエントリーシートも自分を語る重要な機会です。
 このような事柄に関してすら、法則や型を示した指南書はあふれていますし、経験に基づいて高校生や大学生に上手な突破方法を指導している教員もいることでしょう。
 私は大学で教職課程を担当し、教員採用試験を身近なものと感じている一人ですが、個人に関わる事柄にまで法則や型を提示して、学生を有利にしてやろうとは思いません。
 教員採用試験を上手に突破させることが、優れた教員を養成していることとイコールであるとは思えないのです。

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2008年7月10日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(92)

46 人の心理に沿った表現を心がける〔下〕

 若い世代が読書をしなくなった、新聞を読まなくなったとはいえ、新聞が人々の言語生活に与える影響は大きいと思います。今では、テレビは新聞以上の影響力を発揮しているでしょう。
 すべての放送局が視聴率に血眼になっていて、言葉の用い方に配慮する余裕などは持てないのかもしれません。
 私は、文と文の倒置だけを問題にしているのではありません。文章(番組)全体の構成順序を無視して、不安定な心理(情報の飢餓感)をあおり立てて、一分でも長く番組を見るようにさせようとする表現手法にこそ大きな問題があると思っています。番組全体が倒置になっているのです。
 私たちは国語教育において、前述したような表現を真似るような指導をすべきではありません。そのようなものを、現在の表現の傾向であると考えたり、その流れの上に立った表現が現代風だなどという指導をしたりしてはいけないと思います。
 いかに自己主張の強い時代になったとは言え、その主張を聞くのは他者(相手)です。相手のことを思い遣ることをしない表現は、不快感を持たせてしまって逆効果になります。
 倒置表現は、文学作品の場合は効果が大きいとしても、日常のコミュニケーションとしては、相手の心理をかき乱します。表現する側の意図とは逆の効果(まさに倒錯した効果)を、理解する側に与えてしまいかねないということを念頭に置いておくべきでしょう。
 相手の心に抵抗なく染み通っていく、自然な心理状態にそった表現を心がけさせるのが言葉の指導です。そのような表現は、視聴率競争をしている報道関係者には難題であるかもしれませんが、若い生徒たちを相手にしている中学校・高等学校の国語教育では決して難しいことではないと思います。

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2008年7月 9日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(91)

46 人の心理に沿った表現を心がける〔上〕

 新聞の一面の下段に載せられているコラムを引用することから、話を始めようと思います。それらの文章の冒頭部分の引用です。
 「報道官を待つホワイトハウスの会見場に、予告なく大統領本人が現れた。97年春、けがで松葉づえ姿だったクリントン氏だ。」
 この例文には、倒置表現としての効果を感じることができます。最初の文は舌足らずな表現にはなっていません。
 それに対して、次の例文はどうでしょうか。
 「まさか。そう思って、2度、3度と検算してみた。やはり正しい。うーむ。考え込んでしまう。先日あった総選挙での300小選挙区の票数のことである。」
 この例文は、倒置の効果という前に、舌足らずな表現という印象を免れません。最初の文が不完全な文で、「…のことである。」という文に支えられて意味を持つことになります。最初の部分を読んだ段階では、読者の心理は安定しない状態に置かれます。しかし、この種の文章が横行することによって慣れが生じて、違和感を感じる人は少なくなっているかもしれません。
      ◇      ◇      ◇
 テレビのニュース報道は、意図的にそれを行っている傾向が強まっています。
 「享年79歳でした。」というのが、ニュースを伝える最初の文であって、その後に「文化庁長官も務めた河合隼雄さんが19日午後に亡くなりました。」という言葉が続くのです。
 一瞬のうちに何本もの見出しが目に入る新聞とは違って、放送は時間を追って言葉を連ねて伝えるのだということを忘れてしまっているようです。わかっていながら、わざとそのような表現をしているのかもしれません。思い浮かんだ順序のままで表現をするのは、幼稚でもあります。
 このような表現は、民間放送が先行していましたが、NHKも真似るようになりました。 期待を持たせるために(チャンネルを変えさせないために)、コマーシャルの前に、思わせぶりな(舌足らずな)予告のコメントを入れておくという手法が、ニュース報道にまで浸透してきたようです。

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2008年7月 8日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(90)

45 言葉を体験と結びつける〔下〕

 教育実習生は波乱なく授業が終われば喜ばしいと感じるとしても、国語教育を日々続けている教員にとっては、滑らかな授業を行っていることで安心はできません。学習したことの痕跡がどのように残っていくかということに気をつけなければなりません。
 学校という場では、生徒と教員が結ばれている実感が大切です。それは、子どもと大人がつながっていることです。人生の先輩である大人から教えられている信頼感とか安心感が教育の基盤には必要だと思います。教育実習生も生徒から見れば大人です。
 国語科に限りませんが、学校で学習することは生きていくための準備です。「生きる力」というのは、近年、重視されてようになったことではありません。生きる力と無関係な教育や学校は存在しません。
 言葉に関する指導を基盤にしている国語科ですが、言葉での理解がどんなに深められても、実際の行動や体験と関連づけられなければ意義は低いと思います。机上の空論は、教育では最も反省すべきことですが、言葉を机上の空論としないことが国語教育にとっても大切なことです。
  教材(文章など)をもとに考えを深めることは生徒にとっての大きな経験ですが、それを実生活の体験と結びつけることが教育の意義です。教材を生活(体験)と結びつけて考えることによって感性を磨いていく一助になります。体験を通じて自己を振り返り細かく検討することによって、人間の深い部分を変えていくことができるようになります。
 教育において言葉は重要な働きを担っていますが、言葉と体験とが人間の内面を深めていき、人間の基本的な在り方を方向づけていくのだということを忘れないようにしたいと思います。そのようにして変化・変容していくことが成長なのでしょうが、そこに教員という大人が存在する理由があると思います。

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2008年7月 7日 (月)

改稿「国語教育を素朴に語る」(89)

45 言葉を体験と結びつける〔上〕

 2007年の教育実習は、実習生を送り出す大学にとっても、受け入れてくださる学校にとっても気になる出来事がありました。麻疹(はしか)の発生です。大学は、学生に抗体検査やワクチン接種を受けさせようとしても、試薬やワクチンが極端に不足しているという事態に直面しました。受け入れ校の判断によって、一部の教育実習が延期になったのも、やむをえないことでした。
 教育実習生の受け入れよりも、さらに気を使ったのは、介護等体験の学生を受け入れる学校でした。かつて障害児学校の校長を務めたこともある私は、身体面で配慮しなければならない児童生徒が多く在籍している特別支援学校が受け入れに慎重になるのは当然であると思います。学校は安心できる状況の中ではじめて教育に専念できるのです。
      ◇      ◇      ◇
 実習生の受け入れをしていただいた中学校・高等学校に出かけて学生の実習ぶりを観察するということが、今年も何度かありました。
 国語科以外の授業も見ましたが、おどおどした話し方をする実習生が、以前に比べて少なくなったように感じました。声が小さいとか、話す速さなどに難点のある者もありましたが、萎縮して話せなくなってしまうことはありませんでした。長い教員生活で、多くの教育実習生を見続けてきた私の実感です。饒舌の時代ということか、テレビなどの影響か、話すことの指導が効果を上げ始めているからかり、話すことをためらったり恐れたりする者は少なくなりました。
 それゆえに、私は逆に、滑らかに話すよりは、むしろ言葉数を少なくして、言葉に重みを持たせる方がよいのではないかという感想すら持ちました。
 教育実習生は学習指導案を作り上げてから授業に臨みます。大学で学んだこととは言え、実習開始後に受け入れ校の先生方から、授業の構成や学習指導案の作成についての厳しい指導を受け続けています。
 だから、実習生にとっては、滑らかな授業展開ができた場合は、手応えを感じて成就感を得ることになるだろうと思います。そのようにして、教員になろうという情熱がさらに強まっていくことにもなります。

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2008年7月 6日 (日)

改稿「国語教育を素朴に語る」(88)

44 頭の中に意識していることを書く〔下〕

 生徒に向かって表現を指導するときに、「難しく考えないで、思ったとおりに書きなさい」と指示をする場合があります。文章を書くという重圧感を取り除いて、生徒の負担を軽くしようという配慮からです。
 けれども、さまざまなことを考えたのに、文章に書き表せないということが起こります。そのことを、表現力が育っていないというような一言ですませてしまってはいけないと思います。
 私は、思ったことを、ありのままに書くことは無理だろうと考えています。理由は、2つあります。
 一つは、前述したように、思ったことを、そのまま再現することは物理的に不可能だということです。これは、自分一人に関することであって、他人を意識しない次元でのことです。
 そして、もう一つは、「思ったこと」は、そのまま表現するのではなく、論理や順序を追って整理しなければならず、それを「思ったとおりに」という一言で片づけることはできないと思います。これは、表現という行為が他人に向かって行われることであるかぎり、他人を意識しないではおれないということと関連しています。
      ◇      ◇      ◇
 このように考えるなら、思ったとおりに書くということは、「思ったままのこと」を書くのではなく、取捨選択を経て「今、頭の中に残っていること(あるいは、頭の中に残そうと意識していること)」を、他人に伝えようとして書くということであるのです。
 そして、頭の中に残っているものを、再び俎上に載せて、順序や論理を施して整理することこそが、表現という営みであると思います。頭の中で瞬時に行き交ったのは、ほとんどすべて話し言葉の領域だと思いますが、つまるところ、話し言葉に脈絡を施さないかぎり、書き言葉にはなりません。
 実は、私も今、思ったことを文章にまとめようとして、これを書いているのですが、頭の中に浮かんだ思いを、そのまま、思ったとおりに表現できているわけではありません。
  思ったことを書き付けながら、順番を入れ替えたり、論理性を確かめたりしながら、文章にまとめる作業をしているのです。このような築いたり崩したりしながら進める作業が、自分の頭の中を整理することになっています。また、自分の考えが他人に伝わるかどうかということを何度も検討しながら仕上げていくのが、表現のごく普通の方法であろうと思うのです。

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2008年7月 5日 (土)

改稿「国語教育を素朴に語る」(87)

44 頭の中に意識していることを書く〔上〕

 私たちは、目の前にあるものに心を動かされているときや、何かの事柄について考えているときなどには、言葉を用いています。
 時には、言葉に置き換えられないことがあって、「言葉を失う」ことにもなりますが、たいていは、感じたり考えたりしているその時その時に言葉を用いています。
 そして、その言葉は、ものすごいスピードで頭の中を駆けめぐっています。一輪の花を見たとき、花の色や形や匂いなどについて、一瞬にうちにさまざまなことを感じ取っていますが、その時に言葉が頭の中を瞬時に行き交っています。
 私たちが、感じたり考えたりしたことについて口に出すのは、その時に頭の中に浮かんでいたことのいくつかだけであって、整理して表現できるようになった事柄だけであると言ってよいのではないでしょうか。
 速記であれ何であれ、めまぐるしく頭の中を去来する一瞬一瞬の言葉を追いかけて、文字に定着させることなどできるはずはありません。頭の中にうごめく言葉をそのまま口に出そうとしても、発音するスピードが、頭の中の言葉に追いつくことはかないません。
 ゆっくり思索にふけるという場合は別ですが、日常生活の場面では、論理的なつながりもなく、その時その時に次々と浮かんでは消えていく思い(言葉)があります。そのまま文字に表してみたら、おかしな日本語、おかしな論理になるであろうと思われることも多いはずです。

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2008年7月 4日 (金)

改稿「国語教育を素朴に語る」(86)

43 感動を心の中にしっかりと留める〔下〕

 国語教育では、生徒がさまざまの文章や作品に触れて心を動かし、考えや思いを深めていくことを目指して、いろいろな実践を続けています。同じ文章や作品から、一人一人の生徒が同じような感動を得ることはないでしょうが、種々の文章や作品に出会うことをさせ続けて、考えを深め、感受性を豊かに育てていくことは国語教育の目標の一つです。
 教員が指導目標を立てて指導計画・手順を考えた上で、熱心に指導するのは当然のことです。けれども、自分の考えた指導の内容や方法が、その文章や作品を享受する唯一絶対の方法であると錯覚してはいけないと思います。生徒一人一人に作品を自由勝手に読み進めさせたのでは指導とは言えませんが、逆に、指導に熱を入れるあまりに、教員自身の考え方や感じ方を強調し、他の考え方や感じ方を念頭に置かないようなことになってしまったら、弊害も生じるという自戒を持ち続けることが肝要です。
      ◇      ◇      ◇
 文学作品などを教えるとき、追体験などをさせて作者や主人公の気持ちに近づかせることは大切ですが、努力すれば作者や主人公の心の状態に必ず近づけるとは言えません。
 作者や主人公の気持ちを、生徒に説明させることがあります。時には、ぶしつけに「この作品を読んで、あなたが感動したのはどのようなことですか」という質問をすることもあります。生徒は、心の底から感動していなくても、それに近いことを答えるように迫られているのです。
 国語教育で扱う作品は優れたものであるから感動するのが当然だという考えが、教員にあるのではないでしょうか。こんな素晴らしい作品に感動しないのはおかしいと考えてはいないでしょうか。そして、感動を言葉で表現させることを急いではいないでしょうか。
 深く感動したときに人は言葉を失うものであるとすれば、感動を易々と言葉に置き換えていいものかとさえ思うことがあります。言葉に置き換えて表現させる前に、その感動を心の中にしっかりと留める時間を持つことの方が大切だろうと思うのです。

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2008年7月 3日 (木)

改稿「国語教育を素朴に語る」(85)

43 感動を心の中にしっかりと留める〔上〕

 先日、ある新聞で読者の投稿エッセーを読みました。大阪府下の女性がお書きになった文章です。16年前にご子息を交通事故で亡くされていました。
 10年ほど前に洗い直して大事にしまっておいたご子息の衣類を、今年改めて洗って、傷みが目立ったものがあったので、いくつかを思い切って処分したと書かれていました。
 わずか600字あまりの文章の中に、「悲しみは確実に時が癒してくれているようで、それもまた寂しい」という言葉がありました。十七回忌をつとめたのちのことにも触れて、「『十七年かぁ、何してきたんやろ』とポツリと言った主人に、私は『真面目に暮らしてきただけでも十分やで』と自分に言い聞かすように答えた」と書かれていました。
 文章をもとに年齢を数えてみると、私の長男と生年が同じ頃のようで、そのご子息を亡くされた方の気持ちが私の胸に迫りました。
      ◇      ◇      ◇
 人はさまざまな出来事や文章などに心を動かされます。それまでの人生経験の方向・度合いや、その時の年齢や心の状態などが絡み合って感動したり、しなかったりします。感動して胸が詰まるというのは、偶然の条件が重なって起こることなのかもしれません。このエッセーを中学生や高校生が読めば、心の動きは、私とは異なったものになるでしょう。
 多くの人が心を動かされる出来事や文章であっても、その同じものに心を動かされない人がいます。他人と同じように感動できないことを寂しいと思うかもしれませんが、ひけめを感じる必要はありません。逆に、他の多くの人が心を動かしていないことに、ただ一人が感動することもあるのです。
 心が一定の経過をたどったら感動に至るというものではありませんし、感動を強要することはできません。

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2008年7月 2日 (水)

改稿「国語教育を素朴に語る」(84)

42 討論に加わっていく力を育てる〔下〕

 教員採用試験の討論では、その場でテーマが示されて、すぐに討論を始めなければならないことが多いようです。私は、具体的な討論を指導する前に、学生に向かって、次の4つのことが重要であると言っています。
 1つ目は、提示されたテーマに関して、何が重要な事柄であるのかを見分ける力〔判断力〕です。周囲の人の意見に引っ張られて枝葉末節の議論に陥らないようにする力です。
 2つ目は、他人の意見を正確に聞き取る力〔理解力〕です。誤解などに基づいた意見を述べないようにするために大切なことです。
 3つ目は、他人の考えなどを参考にしながら、自分の考えをまとめる力〔思考力〕です。瞬時に考えをまとめる必要もありますから、一つ目の〔判断力〕を予め、しっかりさせておかなければなりません。
 4つ目は、自分の考えを他人にわかりやすく、正確に伝える力〔表現力〕です。前の3つがしっかりしていても、この力がそなわっていないと画竜点睛を欠くことになります。
      ◇      ◇      ◇
 教職課程で学んでいるのは国語の教員を目指す者だけではありません。文系の学生も理系の学生もおり、教員免許の種類は多様です。けれども、ここに述べたことは校種や教科に関係なく、すべての教員に必須の力です。
 私は、このような力を養うことは、教員採用試験対策のためだけではないと思っています。教職に就いた後の、教員同士の協議や、生徒・保護者との対応にとっても重要な力です。また、自分がそなえなければならない力というだけではなく、討論の進め方などを生徒に指導していくことは教員としての務めでもあります。コミュニケーション能力ということが声高に叫ばれていますが、その必要性は今に始まったことではありません。
 討論や話し合いに加わっていくことや、討論や話し合いを通じて自分を高めていくことは、教員にも生徒にも必要なことです。新しい学習指導要領がすべての教科の基盤に「言葉の力」を置いているのは当然のことだと思います。

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2008年7月 1日 (火)

改稿「国語教育を素朴に語る」(83)

42 討論に加わっていく力を育てる〔上〕

 教職を目指している学生に、学校教育のさまざまな実践の場面を体験させ、教員としての力を高めるように導くのは、大学の教職課程に携わる者の務めです。
 私は、教員採用試験は倍率が高くて、難関であるべきだと思っています。倍率が低くて偶然に合格するようなものであってはなりません。教科等の知識や技能は筆記試験で確かめることはできるでしょうが、近年は、それぞれの都道府県や政令指定都市の教育委員会が、人物本位の採用を目指して、面接などに力を入れています。何千人もの教員志望者に対して、1人につき20分とか30分とかの面接時間を設定すれば、試験をする側の労力はたいへんなものです。それを覚悟の上で面接などの回数や時間を増やしておられることに敬意を表します。
      ◇      ◇      ◇
 一方で、自分の勤めている大学の学生には一人でも多く教職に就いてほしいというのも偽らざる気持ちです。学生の求めに応じて、教員採用試験そのものを目標にした指導もしないわけにはいきません。教員採用試験の筆記試験に向けての勉強はひとりでできます。しかし、ひとりでは難しいものもあります。面接、ロールプレイ(場面指導)、討論などです。それらは、相手があって成り立つものです。こうしたことには、何人かの学生を一つのグループにして指導をします。学生にとって、模擬的な試験を受ける経験は大切ですが、他の人の受け答えの様子などを観察することも勉強になります。
 ここでは、討論のことについて述べます。教員採用試験では、集団討論という名称を使うことが多いようです。討論は2人でも3人でもできますが、教員採用試験では5人とか8人とかを一つにグループにして討論をさせますから「集団」という言葉を使っているのでしょう。少人数の討論では発言できても、7~8人の討論になると発言のチャンスを失ってしまうというようなことでは困ります。
 

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