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2012年10月31日 (水)

【掲載記事の一覧】

 このブログについての文章・資料・写真などを保存していたハードディスクが使えなくなったことは既に書きました。
 データ復元が可能であるかもしれないということを教えてくださった方もあって、一縷の望みを持って大学生協に依頼をしました。途中経過として、復元できそうだという連絡をいただいて喜んでおりました。けれども、コピーされたデータの返却を受けたところ、これがまったくダメな状態でした。復元できたのは、たぶん、もとの5%にも満たないと思われます。ブログに関係するデータも復元されず、『明石日常生活語辞典』の原稿も復元されませんでした。意外な金額がかかりましたが、なんとも残念な結果に終わりました。
 「名寸隅の記」の連載を続けていきます。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。
 これまでに連載した内容の一覧を記します。

◆名寸隅の記 (1)~(42)~継続予定
    [2012年9月20日~2012年10月31 日]

◆失って考えること (1)~(6)
    [2012年9月14日~2012年9月19日]

◆明石日常生活語辞典 (1)~(1116)~一旦休止
    [2009年7月8日~2009年7月24日]
    [2009年8月1日~2009年8月9日]
    [2009年8月14日~2009年8月31日]
    [2009年9月11日~2009年12月28日]
    [2010年1月4日~2010年2月18日]
    [2010年3月11日~2012年9月13日]

◆『明石日常生活語辞典』写真版 (1)~(4)~継続予定
    [2010年9月10日~2011年9月13日]

◆言葉カメラ (1)~(385)~継続予定
    [2007年1月5日~2007年1月31日]
    [2007年2月21日~2007年2月28日]
    [2007年3月16日~2007年3月31日]
    [2007年4月19日~2007年4月30日]
    [2007年5月9日~2007年5月30日]
    [2007年10月1日~2007年10月13日]
    [2007年11月1日~2007年11月26日]
    [2007年12月13日~2007年12月30日]
    [2008年1月19日~2008年1月30日]
    [2008年2月1日~2008年2月10日]
    [2008年5月1日~2008年5月10日]
    [2008年6月1日~2008年6月8日]
    [2008年7月21日~2008年7月30日]
    [2008年8月1日~2008年8月30日]
    [2008年9月25日~2008年9月29日]
    [2008年10月1日~2008年10月30日]
    [2008年11月1日~2008年11月11日]
    [2008年12月1日~2008年12月7日]
    [2008年12月16日~2008年12月30日]
    [2009年1月20日~2009年1月30日]
    [2009年2月9日~2009年2月15日]
    [2009年3月17日~2009年3月31日]
    [2009年5月1日~2009年5月17日]
    [2009年5月27日~2009年5月31日]
    [2009年7月1日~2009年7月7日]
    [2009年7月25日~2009年7月31日]
    [2009年8月10日~2009年8月13日]
    [2009年12月29日~2009年12月30日]
    [2010年2月19日~2010年3月10日]

◆消えたもの惜別 (1)~(10)
    [2009年9月1日~2009年9月10日]

◆地名のウフフ (1)~(4)
    [2012年1月1日~2012年1月4日]

◆ことことてくてく (1)~(26)
    [2012年4月3日~2012年4月11日]
    [2012年4月17日~2012年5月3日]

◆テクのろヂイ (1)~(40)
    [2009年1月11日~2009年1月19日]
    [2009年2月1日~2009年2月8日]
    [2009年3月1日~2009年3月15日]
    [2009年6月23日~2009年6月30日]

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)
    [2006年12月27日~2006年12月31日]

◆母なる言葉 (1)~(10)
    [2008年1月1日~2008年1月10日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)
   [2006年12月23日~2006年12月26日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(29)
    [2007年1月1日~2007年1月4日]
    [2007年6月7日~2007年6月29日]
    [2009年6月1日/2009年6月4日]

◆西島物語 (1)~(8)
    [2008年1月11日~2008年1月18日]

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)
    [2007年7月8日~2007年7月31日]

◆足下の観光案内 (1)~(12)
    [2008年11月14日~2008年11月25日]

◆写真特集・薔薇 (1)~(31)
    [2009年5月18日~2009年5月26日]
    [2009年6月1日~2009年6月22日]

◆写真特集・さくら (1)~(71)
    [2007年4月7日~2007年4月17日]
    [2008年4月1日~2008年4月22日]
    [2009年4月1日~2009年5月8日]

◆写真特集・うめ (1)~(42)
    [2008年2月11日~2008年2月24日]
    [2009年2月16日~2009年2月27日]
    [2009年3月1日~2009年3月16日]

◆写真特集・きく (1)~(5)
    [2007年11月27日~2007年11月29日]
    [2008年11月12日~2008年11月13日]

◆写真特集・紅葉黄葉 (1)~(19)
    [2007年12月1日~2007年12月7日]
    [2008年11月26日~2008年11月29日]
    [2008年12月8日~2008年12月15日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)
    [2007年5月8日、5月31日、6月30日]

◆屏風ヶ浦の四季
    [2007年8月31日]

◆昔むかしの物語
    [2007年4月18日]

◆小さなニュース
    [2008年2月28日]

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや (1)~(13)
    [2009年1月1日~2009年1月10日]
    [2010年1月1日~2010年1月3日]

◆辰の絵馬
    [2012年1月1日]

◆文章の作成法 (1)~(7)
    [2012年7月2日~2012年7月8日]

◆朔日・名寸隅 (1)~(19)
    [2009年12月1日]
    [2010年1月1日]
    [2010年2月1日]
    [2010年3月1日]
    [2010年4月1日]
    [2010年5月1日]
    [2010年6月1日]
    [2010年7月1日]
    [2010年8月1日]
    [2010年9月1日]
    [2010年10月1日]
    [2010年11月1日]
    [2010年12月1日]
    [2011年1月1日]
    [2011年2月1日]
    [2011年3月1日]
    [2011年4月1日]
    [2011年5月1日]
    [2011年6月1日]

◆教職課程での試み (1)~(24)
    [2008年9月1日~2008年9月24日]

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 (0)~(102)
    [2008年2月25日~2008年3月30日]
    [2008年4月23日~2008年4月29日]
    [2008年5月11日~2008年5月30日]
    [2008年6月9日~2008年7月20日]

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日~2006年10月4日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日~2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日~2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日~2007年6月6日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日~2007年8月10日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日~2007年7月7日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日~2007年10月30日]

◆兵庫県の方言 (1)~(4)
    [2006年10月12日~2006年10月15日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日~2007年8月20日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日~2007年9月12日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日~2007年9月29日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日~2006年12月7日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)
    [2007年2月1日~2007年2月20日]
    [2007年3月1日~2007年3月15日]
    [2007年5月1日~2007年5月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日~2006年12月22日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日~2007年8月27日]

≪絶版として扱うもの≫  (ただし、ブログからは消去しておりません。)
◆国語教育を素朴に語る (1)~(51)
    [2006年8月29日から、2007年12月12日まで] 4回に分けて連載。

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日~2007年8月30日]

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名寸隅の記(42)

「かぶしき」という言葉の輝き

 筆者が子どもの頃には、「かぶしき」という言葉は特別な輝きを持っていたように思います。
 「どこに勤めとってですの?」
 「かぶしきですねん。」
 「ほう。ええとこにお勤めで、よろしいなぁ。」
 このように、「かぶしき(株式)」は特定の企業を指す言葉でした。先述の江井ヶ嶋酒造株式会社のことです。
 『江井ヶ嶋酒造株式会社百年史』の巻末にある「年表」(368ページ~)によれば、江井ヶ嶋酒造株式会社の発起人会が開催され、会社設立願書が知事に宛てて提出されたのは1888年(明治21年)のことで、この年の6月11日に設立の許可が出ています。資本金3万円で会社が設立されました。
 1888年は神戸-姫路間の山陽鉄道が開通した年で、翌1889年には大日本帝国憲法が公布されています。

 さて、株式会社のことですが、世界最初の株式会社は1602年にオランダで設立された東インド会社だそうです。
 日本初の株式会社は、国立銀行条例に基づき1873年(明治6年)7月20日に設立された第一国立銀行だと言われています。また、一般的な会社法規である商法に基づき設立された日本で最初の株式会社は、1893年(明治26年)に設立された日本郵船だとも言われています。
 推測しますと、江井ヶ嶋酒造は「株式会社」として設立したいという意志を持っていましたが、1888年の会社設立時にはまだ正式の株式会社ではなかったのだろうと思います。けれども、株式を発行して、株式会社と同様なことを行っていたようです。『江井ヶ嶋酒造株式会社百年史』(33ページ)には、次のような記述があります。

 新酒造場建設資金調達のためには、早急に増資することが必要であった。明治22年2月28日発起人総会が招集され、議案を検討の上、次の通り決議した。
 1 新株式乙種株(50円株)350株を増加し、これを一般公募する。その株式申込日を3月20日とする。   〔以下、略〕

 また、同書(35ページ)には、次のような記述もあります。

 明治22年10月19日、臨時株主総会が開かれて、…(中略)…諸件について審議した。
 1 卜部八兵衛申し入れのこと 
 1 資本金1万1千円(新株式220株)増資のこと
 1 甲乙株式合併のこと       〔以下、略〕

 江井ヶ嶋酒造は次々と増資を重ねて事業を展開しようとしていたことがわかります。

【写真は、江井ヶ嶋酒造株式会社の本社。2012年(平成24年)10月9日10時13分撮影。】
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2012年10月30日 (火)

名寸隅の記(41)

百年の「社史」

 京都が都であった時代に書かれた古典文学を読んでいると、普通名詞が固有名詞として使われていることがあります。
 「山」と言えば、土地が高く盛り上がっているところを指すのは当然ですが、とりわけ比叡山を指します。また、そこにある延暦寺を指して言うこともあります。それに対して、「寺」という言葉は、仏像をまつり住職が修行・行事・儀式など行うところを意味していますが、とりわけ三井寺(園城寺)のことを言う場合があります。「祭り」は神を敬って催す行事のことですが、特に京都の賀茂神社(上・下二社)の葵祭りのことを指して言うことがあります。
 京都駅前で「大学へ」とだけ告げると、タクシーが目的地である京都大学に連れていってくれたという話を読んだことがあります。
 阪神電気鉄道のマークは、レール(鉄道)の断面と稲妻(電気)とがデザインされたもので、車両にも付けられています。日本初の都市間高速電気鉄道であり、電気鉄道を意味するマークだけで十分であったのだと同社は説明しています。現在の南海電気鉄道は、阪神電気鉄道よりも開業が古いのですが、蒸気でスタートしています。蒸気鉄道の時代において、他の電気鉄道との区別は必要でなかったというのが阪神電気鉄道の考えであったのです。
 さて、一冊の重厚な本があります。京都の話や電気鉄道の話ではありません。表紙には金文字で「社史」とだけ書かれています。どんな会社でも、表紙に「社史」と書いてもおかしくはありません。けれども、この「社史」という言葉には特別な矜持が含まれているように、私には思われます。それは、次回以降に述べる内容と関連してきます。
 背表紙に「江井ヶ嶋酒造株式会社百年史」と書かれている本で、1989年1月15日の発行です。

【写真は、『江井ヶ嶋酒造株式会社百年史』の表紙。】
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2012年10月29日 (月)

名寸隅の記(40)

こども銀行と神戸銀行

 筆者が小学生の頃には、「こども銀行」というのがありました。現在では、中学校や高校で模擬的に株式の売買をさせたりして金融の仕組みを知るという教育もあるようですが、「こども銀行」は、児童が銀行などと連絡して自主的に運営していた貯蓄制度です。すべての学校で行っていたのか、そうでないのかは知りません。1か月に1度か2度か、頻度は忘れてしまっていますが「貯金の日」があったように思います。高学年になったとき、その貯金の係になったように思います。
 こども向けの通帳があって、口座番号がつけられていました。簡単な記号や数字でしたが、ある友だちに「B-29」の番号が割り当てられて、みんながオオーという声を上げた記憶があります。終戦から長い年月が経っていない頃のことでした。
 たぶん、児童がお金を運んだのではなく、銀行の方から取りに来てもらっていたのだろうと思います。小学校の職員室にあった電話機で、取っ手をグルグル回して電話局(江井ヶ島郵便局の中にあった)にかけて、電話番号を告げて銀行につないでもらって、銀行の方と話をした記憶があります。銀行との連絡も児童にさせていたのでしょう。お金が集まったから取りに来てくださいというような内容を告げたのでしょう。
 さて、集まったお金を預けるのは、神戸銀行江井ヶ島支店です。神戸銀行は、太陽神戸銀行→太陽神戸三井銀行→さくら銀行→三井住友銀行と変遷しますが、神戸銀行の時代でも有力な都市銀行です。
 神戸銀行は1936年(昭和11年)に、当時の兵庫県内に本店をもっていた銀行のうち、資本金や預金高が大きく、堅実な業績を示していた神戸岡崎・五十六・西宮・灘商業・姫路・高砂・三十八の7つの銀行が合併して設立されたそうです。合併前に江井ヶ島支店はどの銀行の支店であったのか知りませんが、明石市に本店を置いていた五十六銀行かもしれません。
 その江井ヶ島支店は筆者の自宅からすぐのところにありました。黒っぽい、風格のある建物でした。子どもから見れば店内の天井は高く見えました。たぶん昭和40年ごろ、神戸銀行の時代に江井ヶ島支店は廃止となったように思います。その建物は地元の明石信用金庫が江井ヶ島支店として継承しましたが、後に別の場所に移転し、古い建物は取り壊されました。
 なぜ、江井ヶ島のようなところに都市銀行の支店があったのかは明確だと思います。酒造業などで全国と取引のあった事業所が存在した江井ヶ島には銀行の支店が必要であったのです。

【写真は、白鶴酒造江井ヶ島支店の酒蔵を継承・改修した江井島酒館。2012年(平成24年)10月20日16時41分撮影。】
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2012年10月28日 (日)

名寸隅の記(39)

「魚住」の草体から「名寸隅」へ

 吉川貫一著『万葉集と郷土-摂津・播磨・淡路歌枕-』で紹介されている4つの説のうちの(2)を考えます。
 この考えは、「魚」の文字を草体で書くときに、「魚」の上半分(カタカナの「ク」に似ている部分と漢字の「田」の部分を合わせたもの)と、「魚」の下半分(4つの点々)とに分離して書写されて、それが「名」の文字と「寸」の文字とに誤写されたのではないかというものです。文字はすべて筆で書いていた時代のことですから、この考えは納得できるものがあります。
 けれども、前回(38)に述べた、地名の三文字がしだいに二文字に改められたという考えと矛盾しますし、新古の関係が魚住→名寸隅という順序になってしまいます。

 以上の4つの考え方はどれも面白く、興味を引きますが、決め手を欠いているという印象は否めません。
 文字が先か発音が先かということになりますと、一般には発音(というか、言葉というか)が先にあって、上代の頃にしだいに地名に漢字を当てていくことになったという事実があります。奈良時代の古事記や日本書紀にはいろいろな地名伝承が書かれ、それに漢字が当てはめられています。
 「魚住」が先か「名寸隅」が先かは難しい問題ですが、「うおずみ」や「なきすみ」という地名呼称があったということは紛れもないことで、江井ヶ島周辺はその時代から開けていたということでもあるのです。

【写真は、赤根川の橋の中で最も河口に架かっている西島橋。2012年(平成24年)10月1日15時46分撮影。】
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2012年10月27日 (土)

名寸隅の記(38)

多く現れない「魚来住」の文字遣い

 吉川貫一著『万葉集と郷土-摂津・播磨・淡路歌枕-』で紹介されている4つの説のうちの(1)に返ります。
 (1)は「名寸隅は魚来住(なきすみ)の意で、それが魚住(なずみ)となり魚住(うをずみ)に転じたとする説」です。
 言うまでもなく江井ヶ島の沖合は好漁場です。江井ヶ島だけでなく明石市をはじめ播磨灘一帯が魚に恵まれています。鹿ノ瀬という有名な漁場もあります。ここに「魚」が「来」て「住」んでいるということは疑問の余地がありません。そこで「魚来住」の文字があるというわけです。
 その「魚来住」がなぜ「魚住」になったのかということについて、二つの説が論者を明らかにして紹介されています。
 一つは、「なきすみ」の「なき」が「泣き」に通じるのを嫌って「なすみ」になったという説です。
 もう一つは、風土記が編纂される頃などを中心にして、地名の三文字がしだいに二文字に改められたという説です。
 けれども、「名寸隅は魚来住(なきすみ)の意で、それが魚住(なずみ)となり魚住(うをずみ)に転じた」とするのなら、素朴な疑問として、「魚来住」の文字遣いが多く現れていなければ、泣きに通じるのを嫌ってとも、三文字がしだいに二文字に改められたとも言えないのではないかと思われるのです。
 もう一つの疑問は、「名寸隅」という文字遣いを棚上げにして、魚来住(なきすみ)→魚住(なずみ)→魚住(うをずみ)の変転を述べているように思われるのです。

【写真は、淡路の島影を前にした江井ヶ島港。2012年(平成24年)10月1日15時53分撮影。】
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2012年10月26日 (金)

名寸隅の記(37)

続・「凪隅(なぎすみ)」の説

 吉川貫一著『万葉集と郷土-摂津・播磨・淡路歌枕-』では、「なぎ」という言葉について、万葉集から国歌大観番号509、931、934の3つの歌を引用しています。
 この書物では、訓読した表記が書かれていませんので、その3つの歌を、佐佐木信綱(編)『新訂新訓 万葉集 上巻』(1927年発行、1954年9月25日改版発行、岩波文庫)の表記に基づいて書くと、次のようになります。

 丹比眞人笠麻呂(たぢひのまひとかさまろ)の長歌の一部
509 朝なぎに 水手(かこ)の 声よび 夕なぎに 楫(かじ)の音しつつ…

 車持(くらもち)朝臣千年の長歌の一部
931 朝なぎに 千重波寄り 夕なぎに 五百重(いほへ)波寄る…

 山部宿禰赤人の長歌の反歌
934 朝なぎに楫の音(と)聞ゆ御食(みけ)つ國野島(のじま)の海人(あま)の船にしあるらし

 次に、この3つの歌を、佐佐木信綱(編)『白文 万葉集 上巻』(1930年3月10日発行、岩波文庫)に基づいて万葉仮名で書くと、次のようになります。

509 朝名寸二 水手之音喚 暮名寸二 梶之声為乍  

931  朝名寸二 千重浪縁 夕菜寸二 五百重波因

934 朝名寸二 梶音所聞 三食津國 野島乃海子乃 船二四有良信

 ご覧のように「朝なぎ」はいずれも「(朝)名寸」であり、「夕なぎ」は「(暮)名寸」と「(夕)菜寸」になっています。
 このことから「名寸隅」の「名寸」は、凪(なぎ)の意を込めたものであると判断することは不自然ではないでしょう。吉川氏の「凪隅とする場合あまりにも習熟しない語であるため不安がある」という考えには納得しますが、名寸隅という所が、波静かな(凪いだ)土地であるというイメージは大事に考えたいと思うのです。

 ここに挙げた934の歌の次が、笠金村の「名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる」で始まる935の長歌であり、936と937は「玉藻刈る…」「往きめぐり…」の名寸隅の反歌です。934の「野島」は阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)の震源地となったところですが、江井ヶ島(名寸隅)の対岸に見えているのです。            (連載4回の写真を参照)

【写真は、赤根川沿いの風景。江井ヶ島には高層マンションもあちこちに建って人口は膨張を続けている。2012年(平成24年)10月1日16時33分撮影。】

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2012年10月25日 (木)

名寸隅の記(36)

「凪隅(なぎすみ)」の説
            
 「名寸隅」について、吉川貫一著『万葉集と郷土-摂津・播磨・淡路歌枕-』で述べられている4つの説の、(4)凪隅の説について考えます。
 (4)は、「会下山人(明石史料・大正十四年明石史談会発行)の説で、凪ぎたる海の隅の意とするものである。しかしそれに対する詳しい論拠が示されていない。」とあります。
 けれども、吉川氏は、

 「名寸」は「凪」の意を表している。かかる点から「名寸隅」を「なぎすみ」とするのは忠実な訓ではないかと考える。
 ただ凪隅とする場合あまりにも習熟しない語であるため不安がある。

と述べています。前半のことについては賛意を表し、後半のことについては疑問を呈しているのです。
 「名寸」という文字遣いが「凪(なぎ)」の音や意味を表しているということについては吉川氏は具体例を挙げていますが、そのことについては、次回(37)で考えることにします。

 ところで、佐佐木信綱(編)『白文 万葉集 上巻』(1930年3月10日発行、岩波文庫)で見ると、笠金村の長歌(国歌大観番号935)の「名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ…」の部分と、反歌の2首目(937)の「行き巡り見とも飽かめや名寸隅の船瀬の浜にしきる白波」の万葉仮名は次のようになっています。

 935 名寸隅乃 船瀬従所見 淡路島 松帆乃浦爾 朝名藝爾 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩焼乍……

 937 往回 雖見将飽八 名寸隅乃 船瀬之浜爾 四寸流思良名美

 つまり、地名の表記は「名寸隅」であって揺れがありません。それに対して、「朝なぎ」「夕なぎ」の「なぎ」は、「(朝)名藝」「(暮)菜寸」と文字遣いが一定していません。
 ここでは「朝なぎ」「夕なぎ」に「名寸」という文字を宛ててはいないのですが、それは「名寸隅」という地名と紛らわしくなるからなのでしょうか。

【写真は、江井ヶ島海水浴場の辺りは、「名寸隅の船瀬の浜にしきる白波」が打ち寄せている。2012年(平成24年)10月20日17時07分撮影。】
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2012年10月24日 (水)

名寸隅の記(35)

「なきすみ」枕詞説

 吉川貫一著『万葉集と郷土-摂津・播磨・淡路歌枕-』(昭和33年9月5日、中外書房発行)という古い本があります。そこには「名寸隅」について4つの説が紹介されています。

 (1)名寸隅は魚来住(なきすみ)の意で、それが魚住(なずみ)となり魚住(うをずみ)に転じたとする説。
 (2)魚住の誤写説
 (3)魚(ナ)蔵(キスミ)の意として船の枕詞とする説
 (4)凪隅の説

 (1)(2)は既に紹介した説とも関係がありますので、後で述べるとして、(3)と(4)とを先に見ておきたいと思います。今回は(3)です。
 (3)には、「古語大辞典(松岡静雄)の説である。」という説明だけが書かれていて、この本には、それ以上の説明はありません。この説について、筆者の考えたことを述べてみます。
 「な」という発音の言葉には「魚」と「菜」の文字があてられていますが、副食物となるものが「な」です。すなわち、①食用となる草の総称が「な」であって、野菜などを指す、②食用とする魚類の総称が「な」であって、さまざまな魚を指す、ということです。よく知られているように、現在でも、酒の副食物の意味で使う「さかな」は「酒(さか)・菜(な)」に由来します。
 「きすみ」について、『時代別国語大辞典上代編』(昭和42年12月10日、三省堂発行)を見ますと、「きすむ〔蔵〕」という項に、「蔵する。おさめる。」とあります。その動詞(四段活用)の連用形が「きすみ」です。魚が泳いでいるのは海ですが、食用のために獲った魚を蔵しているのが船だという理屈はわかります。
 けれども、これを枕詞と考えますと、「名寸隅の船瀬」は単なる「船瀬」(すなわち、港)ということになって、特定の地名ではなくなってしまいます。名寸隅を江井ヶ島と考えなくてもよいということになりそうです。
 ちょっと話が広がりますが、筆者は「船瀬」という言葉を、それが古語であれ、現代語であれ、ごく日常的な言葉であると思っていました。パソコンで「ふなせ」と打つと、すぐに「船瀬」と変換できます。けれども、前記の『時代別国語大辞典上代編』を見ても、ポピュラーな大型辞典である『日本国語大辞典』(小学館発行)を見ても、「ふなせ」の例文は、文学的な作品では「名寸隅の船瀬の浜にしきる白波」「名寸隅の船瀬ゆ見ゆる淡路島」に限られています。他には太政官符のような用例が載せられています。
 そうすると、現存する文学作品にしばしば使われる言葉でもない「船瀬」に、枕詞を使うという説にはにわかに賛成できないのです。「なきすみの船」とか「なきすみの船瀬」とかの用例がいくつかあれば、話は別なのですが。
 というわけで、「なきすみ」を枕詞として、江井ヶ島の土地との結びつきをなくしてしまう考えには、そこに住む者としては堪忍してほしい思いになっているのです。

【写真は、赤根川河口から眺める太陽は、この季節は、小豆島(香川県)の島影のすぐ西に沈む。海上に見えるのは海苔養殖用イカダのブイ。2012年(平成24年)10月20日17時19分撮影。】
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2012年10月23日 (火)

名寸隅の記(34)

名寸隅から魚住へ

 異なった話題を2回にわたって書きましたが、第(31)回の話題に戻ります。
 第(31)回に写真を載せましたが、この江井島港の由来を書いた碑には、次のことが書かれています。

 往きめぐり見とも飽かめや名寸隅の船瀬の浜にしきる白波
 奈良時代の始め、聖武天皇が播磨の国に来られたとき、随行の歌人、笠金村が江井島の浜に始終白波が寄せて来る眺めを讃えた和歌です。
 名寸隅の船瀬とは、江井島の赤根川河口に石椋で築島を設けた港の旧称で、その後、魚住泊と呼ばれ、播磨・摂津の五泊の一つとして重要な港でした。各泊の間はそれぞれ一日の航程の距離で、僧行基が定めたとされています。沖合には好漁場が多く、鯛や蛸の獲れる港としてもよく知られています。
 この度の物揚場築造工事で、石椋に使用されていた玉石が数多く発見されたので、当時をしのび、ここに集めてモニュメントを建立しました。
  平成五年十一月  兵庫県 

 この言葉によると、「名寸隅の船瀬とは……旧称で、その後、魚住泊と呼ばれ」たとなっています。
 第(31)回では、「名寸隅」と「魚住」の文字遣いのことも書きました。
 「名寸隅」と「魚住」の両方が併用された時代があったのかどうかということは即断できませんが、この二つの新古については、「名寸隅」が古く、「魚住」が新しいと言えるでしょう。また、「名寸隅」と書いて「うおすみ」(または「うおずみ」)と読んだということは考えにくいでしょう。
 けれども、「名寸隅」を「魚住」とも書いて「なすみ」と読んで、その「なすみ」という発音が、文字に引かれて「うおずみ」という発音に変わった、という考え方は理解しやすいと思います。
 この話題、次回に続きます。

【写真は、江井島港のモニュメント。UOZUMIの「U」の字のイメージで作られたという。2012年(平成24年)10月1日15時58分撮影。】
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2012年10月22日 (月)

名寸隅の記(33)

住吉神社の秋祭り

 続いて西島の秋祭りの話題です。
 笠金村の万葉歌碑のある住吉神社が西島の氏神であるということは先述しました。住吉神社の今年の秋祭りは10月27日(土曜日)が宵宮(夜宮)、10月28日が本宮(昼宮)です。この神社は、他と区別するために「中尾住吉神社」というような呼び方をすることがあります。 
 山陽電気鉄道は秋になると、沿線の播磨海岸地域で催される秋祭りのことをポスターや広報紙などで広く知らせています。最も有名なのが姫路の松原八幡神社の「灘のけんか祭り」で、これは兵庫県重要無形民俗文化財に指定されています。播磨海岸地域の秋祭りで最も遅く催されるのが中尾住吉神社ですが、山陽電鉄は「魚住住吉神社」という名称を用いています。広域的な広報のためです。
  10月27日の宵宮は、各地区内を布団屋台(「だんじり」とも言い、「たいこ」とも言います)が巡行します。10月28日の本宮は、4地区の布団屋台が住吉神社に集まります。今年は、一番太鼓が大見地区、二番太鼓が中尾、三番太鼓が西島、四番太鼓が西岡です。今年は西島は「練り番」に当たっていて、「たいこ」の他に、「みこし」をかきます。
 「たいこ」をかく第1回目は、11時40分から14時まで、それぞれの地区が20分間ずつです。第1回目が終わると和太鼓や獅子舞の奉納が行われます。14時から第2回目が始まりますが、この中で西島は「みこし」をかくので特別に30分間が割り当てられています。第2回目が終わるのは15時30分です。この日の露店は150軒にもなり、たいへんな賑わいになります。
 筆者が小さかった頃は、西島・中尾・浜谷・西岡・大見の5つの布団屋台が出ていましたが、いつからか減りました。浜谷は西岡地区の一部ですから吸収されたのでしょう。「たいこ」の屋根の部分に布団がかぶせられているのですが、昔は西島だけが5枚の布団でしたが、だいぶ前から、他の地区と同じように3枚の布団になっています。
 筆者は10月27日・28日は富山大学で開かれる学会に参加するため、今年の秋祭りを見ることはできません。ちょっと残念なことです。10月末は穏やかな天候の年が多いのですが、稀には北西の季節風が吹いて身を縮めるような年もあります。

【写真は、秋祭りの一週間前。住吉神社を赤く染めて播磨灘へ落ちる夕日。2012年(平成24年)10月21日17時11分撮影。】
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2012年10月21日 (日)

名寸隅の記(32)

「昭和酒造」の記録

 第(29)回で「しょーわ」という酒蔵のことについて書きました。
 大学図書館で『白鶴二百三十年の歩み』という社史を見つけました。1977年(昭和52年)10月10日の発行です。時間がなく、ちらっと読んだだけです。借り出すことはしておりませんが、少しだけわかったことがあります。
 その本の巻末年表に見ると、次のようなことが書いてありました。

 1927年(昭和2年)8月2日
  昭和酒造株式会社設立(江井ヶ島)
 1947年(昭和22年)9月1日
  嘉納合名会社、昭和酒造株式会社 合併
  白鶴酒造株式会社に改称  資本金三六五万円

                                                  

 昭和酒造というのが嘉納(白鶴)の子会社であるのか、別の資本かは確かめる必要がありますが、それにしても、合併して白鶴酒造になったというのです。その昭和酒造を引き継いだのが白鶴酒造の江井ヶ島の酒蔵であったわけです。
 本文をちらっと読むと、昭和酒造が白鶴のピンチを救ったというような記述もありました。もう少し詳しいことは、後日に改めて書くことにしたいと思います。

 別の話題を一つ、書きます。
 播磨の国の海岸沿いは、今、秋祭りがたけなわの季節を迎えています。江井ヶ島のうち、東江井・西江井・東島は一緒に秋祭りを行います。今年は10月20日(土曜日)が宵宮(夜宮)、10月21日が本宮(昼宮)です。東島の布団屋台(「だんじり」や「たいこ」と言っています)が地域を巡行しているのを見ました。
 江井ヶ島のうち、西島は、魚住町の中尾などと一緒に秋祭りを行います。10月の最終土曜日・日曜日ですから1週間先です。

【写真は、赤根川の堤防へ駆け上る東島の秋祭りの布団屋台。2012年(平成24年)10月20日16時43分撮影。】
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2012年10月20日 (土)

名寸隅の記(31)

名寸隅と魚住

 この連載のタイトルに「名寸隅」という言葉を使いました。この連載のはじめの方で、万葉集に載せられている笠金村の歌を紹介しましたが、その歌は「名寸隅」という表記を歌に書いています。連載のタイトルはその文字遣いを引用したのですが、この連載で取り上げている話題は「魚住」とその近くの地域のことです。
 そろそろ、「名寸隅」と「魚住」の関係について、考えておかなければならないと思います。
 このことについて、簡明に述べているものの一つに、「万葉の歌 人と風土」(保育社発行)の第6巻「兵庫」(神野富一著、昭和61年9月30日発行)があります。短いので、そのまま引用します。(同書173ページ) 引用文の( )内はルビとして書かれている文字です。

 金村歌には「名寸隅(なきすみ)」とあるが、先の太政官符など同地を早くから「魚住(うおすみ)」と呼称している。これについては、『大日本地名辞書』『万葉集新考』などに「名寸隅(なきすみ)→魚住(なすみ)→魚住(うおすみ)」と地名表記と音の変化を考える説があり、別にまた落合重信『神戸の歴史 研究編』は、「名寸」は「魚」の草体を誤って二文字に伝えたもので、この地はもともと「魚隅(住)(うおすみ)」であったと説いている。

 この文章のうち「先の太政官符」ということについては、次のような記述があります。(同書の同じページ)

 平安時代初期には、天長九年(八三二)および貞観九年(八六七)の二度にわたって、魚住の泊を修造せよという太政官符が播磨国司に下っている。 

 先述したように、笠金村の長歌は神亀三年(七二六)に、聖武天皇の印南郡への行幸に際して作った歌です。けれども「名寸隅」という表記が後になって「魚住」に改められたのか、両方の表記が併存していた時期があるのかということになると、なかなか難しい問題です。

【写真は、江井島港の由来を書いた碑。2012年(平成24年)10月1日15時58分撮影。】
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2012年10月19日 (金)

名寸隅の記(30)

酒どころ「西灘」

 阪急電鉄神戸線に「西灘」という駅がありました。筆者は昭和60年の頃、この駅から北へ歩いて勤務先の学校に通っておりました。時にはJR(当時は、まだ国鉄)東海道線の「灘」駅から歩いたりしましたが、最後は地獄坂と呼ばれる急勾配を登って学校にたどり着きました。神戸は坂の町です。
 ところで、この「灘」駅と「西灘」駅の位置関係はというと、「西灘」駅の方が少しだけですが経度の面からいうと東側にありました。軽い違和感を覚えていました。その後、阪急「西灘」駅は「王子公園」駅と改称されました。
 けれども、今でも阪神電鉄本線には「西灘」駅があって、これもJR「灘」駅よりも東にあります。東京にもJRと京浜急行電鉄の「品川」ターミナルが品川区ではなくて港区に設けられ、京急には同じ線であるのに「品川」駅の一つ南に「北品川」駅があります。「北品川」駅の辺りこそ、東海道五十三次の品川宿です。
 話が広がりましたが、さて、その「西灘」という呼び名についてです。神戸の灘が酒どころであることは衆知のことですが、もう一つの酒どころに「西灘」があります。酒造地としての「西灘」は、江井ヶ島およびその周辺のことを言っています。もちろん、それは「灘」に肩を並べたいという思いに由来するのでしょう。江井ヶ島およびその周辺の酒造場で造られる酒のラベルには、しっかりと「兵庫県・西灘 〇〇酒造」と書かれています。「兵庫県明石市」ではなく「西灘」なのです。水に恵まれた江井ヶ島における酒造の歴史については、改めて書くつもりですが、江戸時代前期からの流れがあります。それに関連して、樽作り業、船による運送業、その他の産業も盛んになりました。 
 灘五郷というのは西宮市と神戸市にある五か所の酒造場の集まりのことですが、神戸市では灘区よりもむしろ東灘区にあたります。神戸市の市域拡張で灘区が先に生まれ、東灘区が後から生まれたことによるのですが、灘酒の醸造地は東灘区が主体です。
 「西灘」と本家の「灘」とは規模が全く異なりますが、同じような酒どころとして切磋琢磨していますし、前述の白鶴酒造の例のような交流もあるのです。
 海の面した地域のことを「灘」と呼ぶのは、姫路市沿岸部の「灘のけんか祭り」の例からもわかるように、あちこちの地名に使われているようです。明石市西部でも沿岸部を灘と呼んだことがあったようで、そこで造られた酒を灘酒と呼んだが、神戸の灘の酒が有名になるにつれて、紛らわしさを避けるために西灘と呼ぶようになったという説もあるようです。

【写真は、江井ヶ島で酒造りを続ける太陽酒造の蔵。2012年(平成24年)10月1日16時18分撮影。】
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2012年10月18日 (木)

名寸隅の記(29)

江井ヶ島にあった白鶴の蔵

 神戸・灘の酒である「白鶴」は、かつて江井ヶ島でも造られていました。
 その理由の一つは、白鶴酒造株式会社の支店が江井ヶ島にあって、酒蔵があったということです。大きな酒蔵が何棟も並んで、その南側に小さな事務所がありました。「白鶴酒造江井ヶ島支店」と書かれていたか「明石支店」であったか、記憶は定かではありません。この白鶴の蔵の広場に干してあった大桶の中に入って、よく遊びました。
 ところで、白鶴酒造であったにもかかわらず、筆者が幼かった頃、祖母はこの蔵を「しょーわ」と呼んでいました。正式な名前は知りませんが、例えば「昭和酒造」か何かであったのでしょう。旧名が生きていたということは、この蔵が後に白鶴酒造の手に渡ったと考えられます。経緯は何かの文献で調べてみたいと思います。
 昭和20年代から30年代の前半頃は、自動車が発達しておりませんでした。4トン積みのトラックとか、小さなオート三輪はありましたが、自動車以外の輸送手段にも頼っていました。「ばりき(馬力)」という、馬に引かせた荷車で、江井ヶ島港から米や芋(焼酎の原料)などを運んでいる風景は日常的なものでした。(焼酎は白鶴ではなく、別の会社で作っていました。)その仕事に携わっている人を「ばりきひき(馬力引き)」と呼んでいました。
 白鶴酒造の酒造用の水を井戸から蔵へ運ぶことを仕事にしている人もありました。「ばりき」より小さい車にタンクを積んで、引いていました。車を引く綱を肩にかけて二人で引っ張っている姿をよく見かけました。「かたびき(肩引き)」という言葉がありましたが、それが車のことを指すのか、作業に当たっている人を指すのか、今となっては断言しにくいのです。
 「白鶴」の酒が江井ヶ島でも造られていたということの、もう一つの事情は、江井ヶ島の他の酒蔵で造られた酒が、トラックの大きなタンクに詰められて、運び出されていたということです。タンクに「白鶴」と書かれていましたから、間違いなく白鶴へ運ばれていたはずです。江井ヶ島は酒造地として知られていますから、自分たちの銘柄でも売り出していますが、白鶴の中にブレンドされていたこともあったのです。
 以上の話は昔日のものとなりました。白鶴の支店はずいぶん前に廃止になりました。そして時が流れて、レストランチェーンの会社が酒蔵を買い、それを活用した店が誕生してからも十年以上の時が流れています。そのレストランは「明石江井島酒館」というのですが、ここで造られる明石ブルワリーの地ビールは高品質で、数々の賞を得ています。また「日本徳利博物館」「酒蔵資料館」も併設され、資料としての価値も高い施設になっています。

【写真は、大晦日の夕暮れの江井島酒館。名寸隅の泊(魚住の泊)に措定される赤根川河口右岸にある。2011年(平成23年)12月31日17時06分撮影。】
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2012年10月17日 (水)

名寸隅の記(28)

遊び場となった大きな桶

 今、神戸市の灘区と東灘区の地域で「灘の酒蔵探訪」という行事が行われています。11月25日まですが、スタンプを3か所集めて応募すると賞品が当たるというものです。いつから始まったのか知りませんが、去年も開催されていました。沢の鶴、白鶴、浜福鶴、菊正宗、桜正宗、灘泉、福寿という名の知られた銘柄の酒蔵と、関連する施設などがスタンプ・ポイントになっています。筆者の住む江井ヶ島(名寸隅)も有名な酒造地であって、地元の酒蔵の中を知らないわけではありませんが、今年は神戸の灘の酒蔵へ出かけてみました。実は、灘の酒蔵の公開はこの時期に限ったものではなく、ほとんどの酒蔵が一年中、見学者を受け入れているのですが、スタンプ・ラリーは秋の行事になっています。
 酒蔵の中にあるものは、筆者にとっては、さして珍しいものではありません。子どもの頃、江井ヶ島のあちこちにあった酒蔵の中をうろちょろしたことがあります。寒い頃の風物詩だったと思いますが、あちこちの広場(酒蔵の敷地内)では大きな桶が横に向けられて、並べてありました。この大桶は仕込みや酒の貯蔵のために使うものですが、洗って干してあったのです。木でできた桶で、竹のタガがはめられていました。直径は子どもの背丈以上です。その大きな桶に腰を下ろして日向ぼっこをしたり、桶の中で遊んだり、上っていって桶にまたがったりしました。転がして、少し位置を移動させるという悪戯もしたように思います。今にして思えば、不思議なことなのですが、酒蔵の人から注意を受けたことはあるかもしれませんが、怒鳴られたり追い出されたりという記憶はありません。蔵人(くらびと)と呼ばれる人たちは、冬季に丹波の方から来るのですが、通年の従業員はたいてい地元の人であったというのが理由であったのかもしれません。酒蔵の中をうろちょろできたのも、同じ理由からでしょう。
 子どもの頃は、酒瓶の「れってる(=ラベル)」を集めることが流行りました。もちろん未使用のもので、何かのツテで手に入ったものでしょう。やはりツテがあって、酒米でできた「ひねりもち(捻り餅)」をもらったときは大喜びでした。
 江井ヶ島では酒造を続けている蔵の数がほんとうに少なくなってしまいました。寂しいことです。

【写真は、神戸市東灘区住吉南町の白鶴酒造記念館に展示されている大桶。2012年(平成24年)10月12日13時18分撮影。】
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2012年10月16日 (火)

名寸隅の記(27)

愉快な発音の言葉

 兵庫県内には、落ちることを「あだける」と言う地域があちこちにあります。かなり広い分布をしていると言ってよいでしょう。
 ところが、この言葉は私の中の語彙にはありません。同じことを表すなら、私は「かちゃだける」と言いますし、その言い方をよく聞いたことがあります。「寝とぼけて ベッドから かちゃだけた。」とか、「階段を 踏み外して かちゃだける。」とか言うのです。
 その「かちゃだける」という言葉の音変化は、前回に述べたことと同様です。
  かちあだける ⇒ かっ・ちゃ・だける
です。そして、その「かっちゃだける」がつづまって「かちゃだける」になっています。 では、元の「かちあだける」は何かということになりますが、これは前述の「あだける」の前に接頭語の「かち」が付いたのだと思います。「かち」という接頭語は、「かち割る」「かちめぐ(=壊す)」「かち放る(=放置する。発音は、かちぼる)」など、いささか乱暴な行為であることを示す言葉です。「かちゃだける」も、ドスンと勢いよく落ちるイメージが伴います。
 初めて「かちゃだける」という言葉を聞いたときには、なんとも愉快な発音だという印象を持つかもしれません。同じように、発音が愉快に感じられる言葉を紹介しましょう。
 「どっしゃげる」という言葉があります。「自転車に 乗っとって 電信柱に どっしゃげた。」などと使いますが、衝突するという意味です。致命的な事故よりも、笑って済ませられるような軽度の衝突に使います。「のし上げる(=乗り上げる)」というような発音が変化したものかもしれません。
 「どっこいしょ」という言葉があります。「あ よいよい こらこら…」と踊り出したくなるような言葉ですが、まったく違った意味です。江井ヶ島周辺は良い水の湧き出るところで、それがこの地域の酒造にもつながったのですが、浅い井戸、地表に湧き出している井戸のことを「どっこいしょ」と言います。(「どっこいしょ」のことは、改めて書く機会があると思います。)

【写真は、古くからの作り酒屋であった卜部家。前述の家号では「はちべはん」である。2012年(平成24年)10月5日16時19分撮影。】
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2012年10月15日 (月)

名寸隅の記(26)

東江→ひがっしぇ→ひがっせ

 昨日の記事では、『島のみゝぶくろ』第5号に、東江を「ひがっせ」、西江を「にっせ」と表記しているということを書きました。
 加古郡播磨町にあるJR神戸線の土山駅は、播磨町・明石市・加古川市の境界にもなっています。この土山駅を「つっちゃま」と発音することがあります。同様にJR神戸線の西明石駅を「にっしゃかし」、芦屋を「あっしゃ」と言うこともあります。
 イ段の音(「ち」「し」など)に、母音に類する音(ア行の他に、ヤ行・ワ行を含む)が続いたときに、促音(小さい「っ」)と拗音(「きゃ」「きゅ」「きょ」など)に変化するのです。具体的な書き方をしてみますと、
    土山  (つちやま)  ⇒ つっ・ちゃ・ま
   西明石(にしあかし)⇒  にっ・しゃ・かし
   芦屋 (あしや)    ⇒ あっ・しゃ
となります。次の例も同様です。
   東江 (ひがしえ) ⇒ひがっ・しぇ    更に ⇒ひがっ・せ に変化
    西江 (ひがしえ)   ⇒  にっ・しぇ  更に ⇒にっ・せ      に変化
 地名を例に挙げましたが、その他の名詞や動詞などでも同じようになります。例えば、
     押し合い    (おしあい)     ⇒ おっ・しゃ・い
   花火を打ち上げる(うちあげる)⇒ うっ・ちゃ・げる
 私の名前も、同じような例にあてはまります。
     幸男      (ゆきお)       ⇒ ゆっ・きょ

【写真は、江井ヶ島から東に向かって屏風ヶ浦海岸を行く「浜の散歩道」の入り口。明石川の手前・大観橋まで続く。2012年(平成24年)10月1日16時12分撮影。】
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2012年10月14日 (日)

名寸隅の記(25)

西島の家号

 「ふるさとの文化を学ぶ会」の『島のみゝぶくろ』第5号には、5ページにわたって、「ひがっせの家号」(ひがっせと言うのは東江の発音のくずれた形。東江井のことです)、「にっせの家号」(西江です)、「ひがしじまの家号」、「もりの家号」(森は西島の一部です)、「にしじまの家号」が、それぞれの地域の地図に書き込んだ形で載っています。
 そのうちの「にしじまの家号」地図には40近い名前が挙げられています。
  その家号を、いくつかに分類してみます。一つ一つの家号の由来を確かめたわけではありませんから、間違っているかもしれませんが、お許しください。
 まず、人の名前(先祖の名前)に基づくと思われるものを、五十音順に列挙します。「くろべはん」「ごえはん」「こさやん」「じゅうべはん」「しょうやん」「せいはっつぁん」「せえべはん」「そうべはん」「たろべはん」「たんちゃん」「にさやん」「はちべはん」「はっちょみさん」「まごべはん」「もよみさん」「よんちゃん」です。「はんだいはん」「まさかど」もここに加わるのかもしれません。「きし」は古岸(こぎし)という苗字の省略形です。
 次に、家業に由来すると思われるものを、やはり五十音順に並べます。「うえきや」「おいしゃはん」「かさや」「こんや」「さかば」「すりばちや」「せともんや」「とふや」「はこや」「わたや」です。順に、植木屋、医者、笠屋(傘屋)、紺屋、酒場(酒造業)、擂り鉢屋(窯業)、瀬戸物屋、豆腐屋、箱屋、綿屋と考えられます。「しんば」は新しい酒場かもしれません。
 関連して、店の屋号と思われるものに「いちばや」「かわさきや」「しなのや」があります。「かわじん」というのも屋号かもしれません。
 「アメリカはん」は洋風の住まいの一家をそのように呼んだもの、「てらまえ」は極楽寺の前の家、「やまのうえ」はちょっと高い位置に建っている家、「たんぼなか」は田圃の中の家のようです。珍しい呼び名は「いんきょ」(隠居)です。
 この地図には書かれていませんが、「てら」(寺=極楽寺)、「とこや」(床屋)、「みせ」(店=八百屋)という呼び名もありました。

【写真は、ふるさとの文化を学ぶ会の『島のみゝぶくろ』第5号の「にしじまの家号」のページ。】
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2012年10月13日 (土)

名寸隅の記(24)

「せーはったん」の「ゆっきょちゃん」

 高校生や大学生に古典の話をするときに、「げんぺーとーきつ」を知っているかと尋ねることがありますが、知っている者は皆無です。漢字で書くと「源平藤橘」で、この四つを四姓と呼びます。四姓は簡単な古語辞典にも出ている言葉です。
 源氏・平氏・藤原氏・橘氏は古来、著名な人が輩出しており、とりわけ平安時代の代表的な苗字だと考えられているのです。もっとも、橘氏は他の三つに比べると見劣りするかもしれませんが、四姓の一つには違いありません。
 西島を含めて江井ヶ島というところは古くからの村落ですから、同じ苗字の家が多いのは当然です。西島には、卜部、今井、西海、岸本などとともに橘を名乗る家も多いのです。奈良時代や平安時代の橘氏に続いているというわけではないでしょう。けれども、橘以外の家々を含めて、この地域の墓を見ると江戸時代あたりからの家系が読みとれる家はたくさんあります。
 そんな古くからの地域ですから、家号で呼ばれる家もたくさんあります。橘の姓を名乗る我が家は「せーはったん」と呼ばれています。小さい頃、「あんたは、せーはったんとこの子やなぁ。」と言われてびっくりしたことがありますが、だんだん家号のことに気づくようになりました。漢字で書くと「清八さん」で、「さん」が「たん」になるのは自然な発音変化です。先祖の名前が何代も生き続けているのです。私の名前は幸男ですが、発音が崩れると「幸男ちゃん」は「ゆっきょちゃん」になります。小学生の頃は、そのように呼ばれていましたし、今でも呼ばれると嬉しい気持ちがします。
 しばらく、「せーはったんとこの ゆっきょちゃん」を出発点にして、言葉のことを考えていきます。

【補記】
 「名寸隅の記(1)」で書いた赤根川河口の発掘調査のことですが、1週間に2度ぐらいずつ見に行って、金網の外から見ていました。既に発掘が終わったようで、だんだん原状復帰が行われて、もうすっかり元に返りました。発掘していたときに説明会のようなものは催されなかったようですから、特別な発見はなかったのかもしれません。

【写真は、明石市大久保町西島のサザンカ公園で。2012年(平成24年)10月12日16時24分撮影。】
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2012年10月12日 (金)

名寸隅の記(23)

「島のみゝぶくろ」について③

 さらに『島のみゝぶくろ』第5号の「島の方言」の続きです。〔もと平仮名であった表記の一部を漢字に改めました。〕

 「そらそらおいしおまっしゃろけんど いっけもよーけでっしゃろ うちまで かめしめへんで」
 「だんないだんない 常時ええもんもらいまんのに たまにはお返ししまへんと」
 「ほたら あしたからきばりまほかいな」

 「だんない」という形容詞は、温かい心を表す言葉です。相手が恐縮したり謝ったりしたりしているときに、そんなことはかまわない、そんなことは気にするな、大丈夫だよと言っているのです。許す気持ち、励ます気持ちが込められています。「だんだい」とも言いますし、先述の「べっちょない」とも意味が似通っています。偶然ですが、英語の「ドンマイ」(don't mind)と発音も意味も似ています。
 おいしおます、という「おます」(補助動詞)は耳にすることが少なくなった言葉です。
 でっしゃろ、という「です」「やろ」(ともに助動詞)が続いて発音が融合した言葉も聞くことが減りました。
 「かめしまへん」というのは、かまいませんという意味ですが、「かましまへん」「かめしません」「かましません」などの発音のバラエティがあります。
 「ほたら」は、そうしたらという意味ですが、「ほて」(そして)、「ほれ」(それ)、「ほんなら」(そんなら)など、指示語として使うときの「ほ」が「そ」になる例は他にもたくさんあります。 

【写真は、赤根川河口から見た小豆島。香川県の島が目の前に見えて、夕日が沈む。2012年(平成24年)9月27日17時49分撮影。】
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2012年10月11日 (木)

名寸隅の記(22)

「島のみゝぶくろ」について②

 江井ヶ島「ふるさとの文化を学ぶ会」の『島のみゝぶくろ』第5号に掲載されている「島の方言」の続きです。ゆったりとした時間が流れているような、懐かしい会話です。特に、助動詞や助詞などや敬語も多く使われています。〔もと平仮名であった表記の一部を漢字に改めました。〕

 「あんたとこは よーけの田んぼやさかい そとめはんが来てでんねんやろ」
 「ねてもたら どんなんさかい 頼まなしょうがおまへんねん さなぼりに おんまく美味しいおこぼこしらえて 持っていきまっせ 目ぇまかしなはんなえ」

 前の文の「よーけ」は、沢山という意味です。「そとめ」は早乙女、田植えする女という注記が書かれています。「さおとめ」が「そとめ」という発音に変化したのですが、私は日常的にこの言葉を聞いたことはありませんでした。
 「来てでんねんやろ」を単語に分けますと、「来」(動詞)、「て」(敬意を表す助詞)、「でん」(丁寧の意味を持つ助動詞「です」の発音変化)、「ねん」(念を押す気持ちを表す助詞)、「やろ」(推量の意味を表す助動詞)となります。共通語に直訳して言うと「来られますのだろう」ということになります。

 後ろの文の「どんなん」は、どうにもならない、困ったことになるという意味です。理由などを表す助詞「さかい」はだんだん使わなくなっています。「さなぼり」は田植えが住んだ後に体を休めて行うお祝いや慰労会ですが、このような習慣は廃れつつあるようです。「おんまく」は、思いっきり(沢山)、たいそう(沢山)という意味です。「おこぼ」は柏餅という注記が書かれていますが、私は使ったことのない言葉です。「めぇまかしなはんなえ」は、びっくりしないよう、という注記があります。「なはんなえ」を単語に分けますと、「なはん」(敬意を表す補助動詞「なさる」)、「な」(禁止を表す助詞)、「え」(念を押したり呼びかけたりするときに使う助詞)となります。

【写真は、赤根川沿いのススキ。2012年(平成24年)10月8日15時41分撮影。】
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2012年10月10日 (水)

名寸隅の記(21)

「島のみゝぶくろ」について①

 江井ヶ島に「ふるさとの文化を学ぶ会」というのがありました。その団体が発行した『島のみゝぶくろ』という機関誌がありました。私が持っているのは第5号(60年夏号)と第6号(61年秋号)の2冊だけです。第5号は1985年(昭和60年)7月1日の発行、第6号は1986年(昭和61年)11月30日の発行です。B5判の大きさで横長です。第5号は14ページ建て、第6号は10ページ建てです。創刊号はいつの発行なのか、何号まで続けて発行されたのかはわかりません。
 5号にはサークル会員名簿が載っていて、28人の名前が挙がっています。すべて女性の方々です。たぶん、当時の中高年の方々だろうと思いますが、苗字から判断するとほとんど地元の方々であるようです。地元の文化を掘り起こして記録しておこうという意図が強く働いていたのだろうと思います。
 なぜ私がこの冊子を持っているのかという経緯は忘れてしまっていますが、第5号と第6号に「港のお話しを聞く会」という座談会の企画があって、私の父も7人の出席者のひとりになっています。
 しばらく、この冊子を見ながら話をすすめることにしようと思います。

 冊子の名前からもわかりますが、江井ヶ島のことを、自分たち自身でも「島」と言っていました。私は自分で「島」と言った経験はありません。小学生か中学生の頃だと思いますが、少し離れたところに住んでいる親戚の人から、「島は景色のえー(=良い)とこやなー。」などと言われて、江井ヶ島を「島」と言うのかと、ちょっと驚いたことがありました。
 神戸市に住む人を「神戸っ子」と言ったり、尼崎市に住む人を「尼っ子」と言ったりしますから、江井ヶ島に住む人(や子ども)を「島っ子」と言うのは自然な言い方です。けれども、江井ヶ島という土地を、短く「島」と言うのにはびっくりしたのです。

 さて、第5号に「島の方言」という小さな記事があります。対話の形で地元の言葉が紹介されています。

 「いよいよ明日(あした)から田植えでんな」
 「ほんまにィな 日和はべっちょおまへんやろか」

 「べっちょない」の丁寧な言い方が「べっちょおまへん」です。「べっちょない」は明石だけでなく兵庫県内では広く使われていますが、いかにも地元の言葉という気持ちがつのる言葉です。大丈夫だ、心配はいらないというような意味です。
 この方言の記事はこれで終わりではありませんが、続きは次回ということにします。

【写真は、ふるさとの文化を学ぶ会の『島のみゝぶくろ』第5号の表紙。】

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2012年10月 9日 (火)

名寸隅の記(20)

小学校の運動会の歌②

 「屏風ヶ浦の 秋たけて」の歌は、江井島小学校の『百年のあゆみ』では「江井島運動歌」という題名で紹介されています。そして、この歌には(大正期)と付記されています。
 『百年のあゆみ』にはもう一つ、「江井島運動歌(昭和初期)」という歌も紹介されています。次のような歌詞です。

 行基菩薩の 開かれし
 歴史に古き 江井ヶ島
 明石の原を 北に見て
 南に広き 播磨灘

 これぞ我らの 運動は
 晴れたる空の 朝日かげ
 いざや我が友 うち連れて
 楽しく今日も 遊ばまし
 
 春は若葉の 萌え出づる
 山に登らし 元気よく
 海にかもめの 飛ぶ里は
 屏風ヶ浦の 舟遊び

 先に紹介した「江井島運動歌(大正期)」は運動会、しかも秋に行う運動会に焦点を当てていますが、「江井島運動歌(昭和初期)」は体育活動全体のこと、しかも校外活動のことまでをも歌っています。
 筆者には「江井島運動歌(大正期)」の一番の歌詞は強く印象に残っていますが、「江井島運動歌(昭和初期)」を教えてもらった記憶はありません。

【写真は、現在の江井島小学校の裏門。赤根川に面している。2012年(平成24年)10月8日15時24分撮影。】
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2012年10月 8日 (月)

名寸隅の記(19)

小学校の運動会の歌①

 何年生の頃のことか、定かには言えないのですが、秋の運動会の頃に次のような歌を歌いました。

  屏風ヶ浦の 秋たけて
 海にも波の 花が咲き
 野には千草の 色萌えて
 眺め優れし わが庭よ

 江井ヶ島から東に続く屏風ヶ浦海岸がすっかり秋になって、海上の波はまるで花が咲き乱れているようです。海だけではなく野原にもいろいろな花が咲き乱れていて、素晴らしい眺めです。私たちの学校の校庭はそんなところにあるのです。
 ここまでの内容では校庭賛歌のようですが、その校庭で繰り広げられる運動会を喜び合う歌であり、気持ちを鼓舞する歌でもあるのです。
 筆者が小学生の頃の運動会は9月にやり終えることをしないで、10月でした。運動会の日の楽しみである弁当と結びつくのは、栗や梨などの季節感でした。じゅうぶんに秋らしくなってから運動会が開かれていたのです。
 この歌はメロディが印象的で、今でも秋になったら思い出しますし、歌うこともできます。けれども、記憶にあるのは、この一番の歌詞だけです。
 江井島小学校の『百年のあゆみ』には、この歌が紹介されています。そこには二番も三番の載っているのですが、二番や三番を歌った記憶は筆者には残っておりません。
 二番の歌詞は次のとおりです。

 空いと清く 気は澄みて
 スプーンレースに かけくらべ
 ダルマ送りに 綱引きと
 我らが胸は さやかなり

 運動会の種目が次々と出てきて、その日の競技の様子が浮かぶようです。昔も今も変わらない競技の数々です。
 三番の歌詞は次のとおりです。
 
 いざ皆来たれ 我が友よ
 日ごろ鍛えし この腕を
 示さん時は 今なるぞ
 あわれ楽しき 運動会

 筆者の小学生時代は、子どもたちがいろんな遊びを始めるときに、「戦闘ー開始ーっ!」と言って始めることをしていました。終戦後の日も浅い頃には、その言葉の意味の重さなどおかまいなしに、この言葉を使っていたように思います。この歌の三番の歌詞にもそのような気配を感じるのは行き過ぎでしょうか。  

【写真は、江井ヶ島海岸の海水浴場の辺り。2012年(平成24年)10月1日16時05分撮影。】
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2012年10月 7日 (日)

名寸隅の記(18)

江井島小学校の校歌④

 このような格調の高い校歌の作詞者は阪口保さんです。阪口さんは、1897年(明治30年)三重県の生まれで、1989年(平成元年)に92歳で没しています。これまで話題にしてきた歌詞からも推察できますが、阪口さんは万葉集の研究者です。
 旧制中学校を卒業した後、高等女学校の教員等をしながら、高等学校(旧制)教員国語科の免許を得ています。姫路高等女学校(後の姫路東高等学校)、加古川高等女学校(後の加古川西高等学校)を経て、戦後は神戸山手短期大学の教授を長く務め、同短大の名物教師として学長の地位まで上り詰めました。後には神戸市外国語大学でも教えました。独学で万葉研究を続け、『万葉集大和地理辞典』『万葉林散策』などの著書の他、『万葉地理研究・兵庫編』などの共著があります。
 歌人としても知られた阪口さんは、兵庫県歌人クラブの代表を長く務め、兵庫県文化賞も受賞しています。歌集には『羈旅陳思』などがあります。
 万葉の時代からの故地である名寸隅(江井ヶ島)と、万葉学者・歌人の発想とが結びついて江井島小学校校歌は生まれたのです。万葉の故地にふさわしい校歌の作詞者と言えましょう。阪口さん55歳のときの作品です。
 作曲者は野村退蔵さんで、明石市立二見小学校の校長を務めた人です。野村さんは、地域の古謡や遊び歌などを情熱的に採譜した人だと言われています。
 言葉は万葉と結びつき、メロディは地域の古くからの歌心に裏打ちされているのが江井島小学校の校歌であると言ってもよいのでしょう。
 この歌は、できたときから古びたおもむきをたたえていましたが、これからも長く歌い継がれていくことでしょう。

【写真は、江井ヶ島海岸に設置されている、江井ヶ島附近の絵地図。絵地図は地元の画家・伊藤太一さんによる。2012年(平成24年)10月1日16時14分撮影。】
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2012年10月 6日 (土)

名寸隅の記(17)

江井島小学校の校歌③

 江井島小学校の校歌の三番の言葉は、次のとおりです。

 未来(すえ)栄えゆく 人の世の
 礎(いしずえ)となる 良き子らよ
 広き世界を 結ぶべき
 平和の心を 高めんと
 いま誓い合う わが校歌
 ああ江井島 我らの誇り

 三番もすこし堅い言葉が使われていますが、ここには江井ヶ島独特の内容は歌われておりません。「すえ」は末であるから将来のことだと理解していたでしょうし、「いしずえ」の意味も大きく誤解はしていなかったように思います。
 ところで、この校歌がいつ制定されたかということですが、私が小学生であったときには、ずっと昔から歌われ続けてきた校歌であると思っていたようです。小学生にとっては古めかしい言葉だと感じることも、ひとつの理由であったかもしれません。
 江井島小学校の『百年のあゆみ』という、74ページの小冊子が発行されています。江井島小学校百周年記念事業実行委員会の発行で、1973年(昭和48年)11月に編集されています。江井島小学校は今では創立140年を迎えているのです。この冊子に「百年のあゆみ」を略記した数ページがあるのですが、それを見ると、1952年(昭和27年)9月に「新作校歌発表音楽会を開催」とあります。できてから60星霜を経た校歌ですが、それでも、筆者が小学校に入学したときには旧の校歌が歌われていたことになります。筆者が4年生のときから歌われ始めたということになるのですが、そんな「新しい校歌を歌い始めた」という印象はありませんでした。そもそも、古い校歌は頭の中のどこを探しても浮かんでこないのです。

【写真は、江井島小学校の『百年のあゆみ』の表紙。】
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2012年10月 5日 (金)

名寸隅の記(16)

江井島小学校の校歌②

 江井島小学校の校歌の二番の言葉は、次のとおりです。

 名も美しき 赤根川
 流れをはるか 尋ぬれば
 明治四年に 創(はじ)まれり
 「精於萬(よろずにくわし)」と 横書きの
 文字珍しき わが校舎
 ああ江井島 我らの誇り

 赤根川は小さな川ですが、「茜」という言葉と発音が同じで、優雅な響きを持っている名前です。「川」との縁語で「流れ」が使われますが、その「流れ」は川の流れから歴史の流れに置き換えられて、学校の歴史が詠まれていきます。長楽寺の説明板にあったように、明治4年は郷学校の発足で、翌5年に小学校になりました。けれども古い年を出発点と見なしたのでしょう。我が国最初の近代的学校制度を定めた教育法令である学制は、1872年(明治5年)8月に公布されています。
 当初の校名は江井島という地名ではなく貫道です。儒教などの影響が強かったのでしょう。「貫道」を諸橋轍次著『大漢和辞典』(巻十)によると「道理をよく悟る」という意味です。「貫道之器」という言葉もあって、それは文章のことを言います。文章は道をあらわし述べるものであるからです。
  「精於萬(よろずにくわし)」というのは扁額に書かれていますから横に長いのです。右から左に向かって一文字ずつ書かれています。今は江井島小学校の体育館に掲げられているようです。「精」にはいろいろな意味がありますが、明らかで詳しい、つまびらかである、こまかいという意味があります。また、正しい、美しいという意味もあります。「萬」とは何かといえば、やはり、人たる道のことを言っているのではなかろうかと推察しますが、間違っているかもしれません。

【写真は、小さな流れである赤根川を渡る山陽電気鉄道の特急電車。2012年(平成24年)10月3日15時17分撮影。】
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2012年10月 4日 (木)

名寸隅の記(15)

江井島小学校の校歌①

 筆者が小学生であった頃から今まで、江井島小学校の校歌は変わることなく歌い継がれています。その一番の言葉は、次のとおりです。

 波静かなる 瀬戸の内
 明石の浦の 磯づたい
 遠き祖先の 築きけん
 船瀬の跡さえ なお残る
 家並みにぎわう わが郷土
 ああ江井島 我らの誇り

 波穏やかな瀬戸内海の明石海岸をたどったところにある江井ヶ島は、遠い遠い昔から祖先の人たちが生活を続けて古い港も残っています。多くの人たちが甍を並べて住んでいる江井ヶ島は何と誇らしいところでしょう。-そのようなイメージは小学生にも浮かんでくるのです。
 この校歌は、格調が高いけれども、難解と言えば難解です。古語が散りばめられ、古典文法に沿った言葉遣いになっています。例えば、過去の推量を表す古典の助動詞「けん」の正確な意味は、小学生にはとうていわからないでしょう。「船瀬」は小学生が使うような国語辞典には載っていないでしょう。
 けれども、年配の卒業生でも歌詞は正確に口に出ますから、言葉は身についてしまっています。現代語としては使われにくい「船瀬」は、船着き場であるということは小学生でも察しがつくと思います。「家並みにぎわう わが郷土」という誇らしさを支えにして、大声で歌います。むしろ、年齢を経るにつれて、校歌の意味がすこしずつ正確にわかるわうになって、ますます愛着のある歌に感じられるのです。
 「名寸隅の船瀬」というものの歴史がわかるようになって、自分たちの住んでいる土地の誇らしさとありがたさに感じ入るようになるのです。

【写真は、現在の江井島小学校の正門付近。2012年(平成24年)10月3日15時22分撮影。】
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2012年10月 3日 (水)

名寸隅の記(14)

市内最古の江井島小学校

 東島にはお寺が2つあって、通称で「中寺」と「西寺」と呼んでいます。中寺と西寺は、東島住吉神社をはさんで、近い位置にあります。その中寺というのは長楽寺で、浄土宗西山禅林寺派のお寺です。
 長楽寺には、明石市教育委員会が立てた説明板があって、次のように書いてあります。

 一 天平十六年(七四四)、行基菩薩の開基。建永二年(一二〇七)三月、法然上人が四国に流される時、教化を受け浄土宗になったといわれる。
 二 明和年中(一七六四~一七七一)に開かれた寺子屋が、明治四年に郷学校、翌五年には明石最初の小学校である貫道小学校(今の江井島小)となった。

 行基菩薩のことは、これから後、何度か話題にすることがあると思いますが、今回はそのことは割愛します。
 江井ヶ島の住民にとっては、明石市内で最初の小学校というのは大きな誇りです。江井島小学校は後に、長楽寺の北側のちょっと高くなっているところに建てられましたが、筆者が学んだ頃は、その位置にありました。したがって、江井島小学校の所在地は東島でした。その後、江井島小学校は建て替えに伴って、さらに北の地に移りましたが、現在地は東島ではなくて西島の地域内です。東島の江井島小学校の跡地は、今は明石市立少年自然の家として活用されています。
 なお、筆者の小学校時代に井上俊久先生(昭和23年5月~昭和31年5月在任)がいらっしゃいましたが、井上先生は長楽寺のお坊さまでもあられました。

【写真は、長楽寺にある説明板。2012年(平成24年)10月1日15時52分撮影。】
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2012年10月 2日 (火)

名寸隅の記(13)

「江井ヶ島」の表記

 「えいがしま」には、江井ヶ島と江井島の2つの表記があります。本来は江井ヶ島ですが、今では江井島が優勢です。兵庫県では「ヶ」を入れない尼崎(あまがさき)市という表記がありますが、関東では「ヶ」を入れた神奈川県茅ヶ崎(ちがさき)市や茨城県龍ヶ崎(りゅうがさき)市があります。山の名前では、全国的に槍ヶ岳、駒ヶ岳、笠ヶ岳などの表記が優勢です。
 古くから使われ続けているものには「ヶ」を入れたのが残っています。鉄道には、山陽電気鉄道・本線に「江井ヶ島」駅と「西江井ヶ島」駅があります。
 1951年(昭和26年)の大久保町・魚住村・二見町との合併時に始まった明石市営バスは、本年(2012年)に民営に完全移行して、現在は神姫バスと山陽バスが市内の路線を継承しています。それとは別に、「Taco(たこ)バス」と呼ばれるコミュニティバス(民間で受託)があります。バスは、ルート名が「江井ヶ島ルート」、バス停名が「江井島港」と混在しています。【写真参照】
 行政は、明石市立江井島小学校・江井島中学校や江井島保育所をはじめとしてすべて「江井島」に統一しています。小学校の名前は、戦後の昭和20年代から既に「江井島」でした。 
 会社・商店などの名前には両方がありますが、神鷹の銘柄等で知られる老舗酒造メーカーは「江井ヶ嶋酒造」という文字遣いです。

【写真は、Tacoバスの江井島港停留所。2012年(平成24年)10月1日16時04分撮影。】
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2012年10月 1日 (月)

名寸隅の記(12)

台風一過

 台風17号が日本列島に沿って北上しました。強い雨や風に襲われてたいへんな地方もあったことでしょう。明石市の地域にも一時、暴風警報などが出ましたが、台風の中心から離れていた江井ヶ島では、この度の台風は難なく通り過ぎてくれました。9月30日の夜になってからは、雲の間から中秋の名月を眺めることができました。
 気象庁のホームページを見ると、明石市のアメダスの情報が得られます。明石市の観測地点は明石市二見町南二見の海岸にあります。北緯34度41.2分、東経134度52.6 分、標高3メートルです。江井ヶ島からごく近いところです。
 そのデータを見ると9月30日の最高気温は22.5度(21時)、最低気温は17.6度(13時)でした。台風が接近していたときが低く、夜になってからは上昇しました。
 江井ヶ島は海を前にしていますから風の影響を受けやすいのですが、9月30日の風速が毎正時に10メートルを超えたのは、11時から17時までです。それを時刻順に書くと、10.2メートル(11時)、10.6メートル、10.7メートル、11.1メートル、11.1メートル、11.4メートル、12.1メートル(17時)でした。今度の台風は、風の恐怖は小さかったようです。最大瞬間風速は、16時49分に西風21.7メートルで、その後は急速に風が弱まって18時は5.3メートルになりました。雨は降り続きましたが、1時間の降水量は最大時間帯でも12.1ミリでした。
 江井ヶ島は起伏の少ない土地ですから、土砂崩れというようことは滅多に起こりません。けれども、風波による被害や、大雨による浸水被害はときどき起こります。南からの風が強いときは潮風による塩害もあります。 

【写真は、江井ヶ島海岸にある休憩施設。淡路島や播磨灘が眺められる。2012年(平成24年)9月26日14時27分撮影。】
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