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2012年11月30日 (金)

【掲載記事の一覧】

 『明石日常生活語辞典』は再編集を続けています。どのような形で再び掲載できるか、今のところ見込みはついておりません。けれども、いつか連載を再開したいと思います。
 その時までは「名寸隅の記」の連載を続けていきます。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。
 これまでに連載した内容の一覧を記します。

◆名寸隅の記 (1)~(72)~継続予定
    [2012年9月20日~2012年11月30 日]

◆失って考えること (1)~(6)
    [2012年9月14日~2012年9月19日]

◆明石日常生活語辞典 (1)~(1116)~一旦休止
    [2009年7月8日~2009年7月24日]
    [2009年8月1日~2009年8月9日]
    [2009年8月14日~2009年8月31日]
    [2009年9月11日~2009年12月28日]
    [2010年1月4日~2010年2月18日]
    [2010年3月11日~2012年9月13日]

◆『明石日常生活語辞典』写真版 (1)~(4)~継続予定
    [2010年9月10日~2011年9月13日]

◆言葉カメラ (1)~(385)~継続予定
    [2007年1月5日~2007年1月31日]
    [2007年2月21日~2007年2月28日]
    [2007年3月16日~2007年3月31日]
    [2007年4月19日~2007年4月30日]
    [2007年5月9日~2007年5月30日]
    [2007年10月1日~2007年10月13日]
    [2007年11月1日~2007年11月26日]
    [2007年12月13日~2007年12月30日]
    [2008年1月19日~2008年1月30日]
    [2008年2月1日~2008年2月10日]
    [2008年5月1日~2008年5月10日]
    [2008年6月1日~2008年6月8日]
    [2008年7月21日~2008年7月30日]
    [2008年8月1日~2008年8月30日]
    [2008年9月25日~2008年9月29日]
    [2008年10月1日~2008年10月30日]
    [2008年11月1日~2008年11月11日]
    [2008年12月1日~2008年12月7日]
    [2008年12月16日~2008年12月30日]
    [2009年1月20日~2009年1月30日]
    [2009年2月9日~2009年2月15日]
    [2009年3月17日~2009年3月31日]
    [2009年5月1日~2009年5月17日]
    [2009年5月27日~2009年5月31日]
    [2009年7月1日~2009年7月7日]
    [2009年7月25日~2009年7月31日]
    [2009年8月10日~2009年8月13日]
    [2009年12月29日~2009年12月30日]
    [2010年2月19日~2010年3月10日]

◆消えたもの惜別 (1)~(10)
    [2009年9月1日~2009年9月10日]

◆地名のウフフ (1)~(4)
    [2012年1月1日~2012年1月4日]

◆ことことてくてく (1)~(26)
    [2012年4月3日~2012年4月11日]
    [2012年4月17日~2012年5月3日]

◆テクのろヂイ (1)~(40)
    [2009年1月11日~2009年1月19日]
    [2009年2月1日~2009年2月8日]
    [2009年3月1日~2009年3月15日]
    [2009年6月23日~2009年6月30日]

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)
    [2006年12月27日~2006年12月31日]

◆母なる言葉 (1)~(10)
    [2008年1月1日~2008年1月10日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)
   [2006年12月23日~2006年12月26日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(29)
    [2007年1月1日~2007年1月4日]
    [2007年6月7日~2007年6月29日]
    [2009年6月1日/2009年6月4日]

◆西島物語 (1)~(8)
    [2008年1月11日~2008年1月18日]

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)
    [2007年7月8日~2007年7月31日]

◆足下の観光案内 (1)~(12)
    [2008年11月14日~2008年11月25日]

◆写真特集・薔薇 (1)~(31)
    [2009年5月18日~2009年5月26日]
    [2009年6月1日~2009年6月22日]

◆写真特集・さくら (1)~(71)
    [2007年4月7日~2007年4月17日]
    [2008年4月1日~2008年4月22日]
    [2009年4月1日~2009年5月8日]

◆写真特集・うめ (1)~(42)
    [2008年2月11日~2008年2月24日]
    [2009年2月16日~2009年2月27日]
    [2009年3月1日~2009年3月16日]

◆写真特集・きく (1)~(5)
    [2007年11月27日~2007年11月29日]
    [2008年11月12日~2008年11月13日]

◆写真特集・紅葉黄葉 (1)~(19)
    [2007年12月1日~2007年12月7日]
    [2008年11月26日~2008年11月29日]
    [2008年12月8日~2008年12月15日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)
    [2007年5月8日、5月31日、6月30日]

◆屏風ヶ浦の四季
    [2007年8月31日]

◆昔むかしの物語
    [2007年4月18日]

◆小さなニュース
    [2008年2月28日]

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや (1)~(13)
    [2009年1月1日~2009年1月10日]
    [2010年1月1日~2010年1月3日]

◆辰の絵馬
    [2012年1月1日]

◆文章の作成法 (1)~(7)
    [2012年7月2日~2012年7月8日]

◆朔日・名寸隅 (1)~(19)
    [2009年12月1日]
    [2010年1月1日]
    [2010年2月1日]
    [2010年3月1日]
    [2010年4月1日]
    [2010年5月1日]
    [2010年6月1日]
    [2010年7月1日]
    [2010年8月1日]
    [2010年9月1日]
    [2010年10月1日]
    [2010年11月1日]
    [2010年12月1日]
    [2011年1月1日]
    [2011年2月1日]
    [2011年3月1日]
    [2011年4月1日]
    [2011年5月1日]
    [2011年6月1日]

◆教職課程での試み (1)~(24)
    [2008年9月1日~2008年9月24日]

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 (0)~(102)
    [2008年2月25日~2008年3月30日]
    [2008年4月23日~2008年4月29日]
    [2008年5月11日~2008年5月30日]
    [2008年6月9日~2008年7月20日]

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日~2006年10月4日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日~2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日~2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日~2007年6月6日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日~2007年8月10日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日~2007年7月7日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日~2007年10月30日]

◆兵庫県の方言 (1)~(4)
    [2006年10月12日~2006年10月15日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日~2007年8月20日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日~2007年9月12日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日~2007年9月29日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日~2006年12月7日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)
    [2007年2月1日~2007年2月20日]
    [2007年3月1日~2007年3月15日]
    [2007年5月1日~2007年5月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日~2006年12月22日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日~2007年8月27日]

≪絶版として扱うもの≫  (ただし、ブログからは消去しておりません。)
◆国語教育を素朴に語る (1)~(51)
    [2006年8月29日から、2007年12月12日まで] 4回に分けて連載。

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日~2007年8月30日]

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名寸隅の記(72)

明石窯業の業務終了

 既に書きましたように、八木から江井ヶ島にかけて瓦工場がいくつもありました。八木にはたくさんあり、江井ヶ島では東江井にも多くありました。もちろん西江井にもありましたし、西島にも瓦製造や土管製造の工場がありました。
 西島には「西山の瓦屋」と言われていた工場がありました。のちの明石窯業株式会社です。みんなが「西山の…」と言っていたときも明石窯業という会社組織であったのかどうかは知りません。
 明石窯業のホームページは今もあるのですが、そこには次のように書かれています。

 明石窯業株式会社は、窯変瓦・窯変敷瓦・タイルの製造販売等業務を終了致しましたことをお知らせいたします。皆様方におかれましては長年にわたりご支援、ご愛顧をいただき、有難うございました。
 弊社は、昭和2年の創立以来、「現代建築に美しく調和するモダンで飽きのこない本物」の屋根材の追求に努めて参りました。昭和53年、釉薬を使わず土と炎だけで色の変化をつけた窯変瓦(ようへんかわら)を全国で初めて開発。良質の土と高温の還元炎で生じる、深い味わいと温かで自然な風合いの屋根材として多くのお客様からご支持いただいて参りました。
 しかしながら、手づくりに負うところが多い小規模工場を取り巻く経営環境は厳しさをまし、弊社といたしましても生産性の向上、販路の拡大等取り組んで参りましたが、やむなくこの度の業務終了となりました。
 これまでの皆様方からの温かいご支援・ご愛顧に対し、重ねて深く感謝申し上げます。
製品はひとつひとつ真心をこめて製造してまいりました。ご愛顧いただきました皆様の屋根や床・壁として50年、100年先まで皆様をお守りするようお祈り申し上げるばかりです。

  「釉薬を使わず土と炎だけで色の変化をつけた窯変瓦を全国で初めて開発」したということは知りませんでした。優れた技術を持つ会社であっても、住宅の建物の構造などの変化によって、しだいに瓦の需要が減ってきたことは容易に想像できます。
 この挨拶文の日付は、平成18年11月1日となっています。今、工場の跡地は更地にかえされています。どのように活用されるのかは知りません。
 瓦工場も酒造場も、農業や漁業の姿も、江井ヶ島の風物詩を作り上げてきた大きな要素でした。江井ヶ島を取り巻く産業も大きく変化して、その跡地利用としてマンションの高い建物群がますます増えています。田んぼの面積もどんどん減り続けています。

【写真は、もと明石窯業の工場のあった跡地。2012年(平成24年)11月26日13時38分撮影。】
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2012年11月29日 (木)

名寸隅の記(71)

高く続く防潮堤

 明石市の海岸の道路沿いに続く防潮堤は、低いところでは人の腰の高さぐらいですが、高いところでは人の背たけを超えます。筆者の自宅近くの西島海岸では、高いところでは道路面からは3メートル近くになります。津波や高潮から守ってくれるという頼もしさはありますが、鬱陶しさは否定できません。
 時には子どもたちが防潮堤に駆け上って遊ぼうとすることがありますが、この高さではよほどの助走をしないと駆け上ることはできません。少し低くなっているところには駆け上って腰を掛けたり、防潮堤の上を歩いている姿も見かけます。砂浜の方に落ちると、高低差が大きいので怪我をしかねません。はらはらドキドキすることがあります。
 防潮堤が高くても、台風の時などで南西からの風が強いときは、しぶきが舞い上がったりして、道路が水浸しになることがあります。そのようなときは、塩を含んだ風が吹きますから、風がおさまった後、家屋の黒い瓦が塩分で白く見えることもありました。そうなると、黒瓦の重なっている部分に塩分が残って瓦の腐食が進んでしまいます。黒瓦よりも色瓦(赤瓦や青瓦など)の方が海岸線の家屋の屋根には向いていると言われたことがありました。
 この防潮堤がなかった頃は、道路のそばに砂浜が続いていたのです。

【写真は、西島海岸の、防潮堤が道路面から最も高いと感じられるところ。2012年(平成24年)11月26日13時54分撮影。】
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2012年11月28日 (水)

名寸隅の記(70)

昭和南海地震のことなど

 筆者は1942年(昭和17年)生まれです。生まれて以来、ずっと同じところに住んでいます。当然のことですが、1946年(昭和21年)12月21日に起きた昭和南海地震はかすかな記憶が残っています。けれども、地震だ!と言って家族みんなで驚いたというような程度であって、恐い思いをした記憶はありません。戦後に鳥取で地震があったとか、福井で地震があったとかも聞きましたが、わがことのように思っていなかったでしょう。
 子どもの頃の、自宅近くの海岸は、まったく無防備な状態であったと言ってもよいでしょう。浸食が進んでいましたが、道路のすぐそばまで砂浜がありました。ゴミが捨てられたり、ゴミを燃やしたりしていましたから、きれいな海岸とは言えませんでしたが、魚釣りも海水浴もしました。裸で家を飛び出して、すぐ海に飛び込めました。
 台風の後、自宅近くの海岸の道路がみごとに破壊されてしまっていた風景は目に焼きついています。荒波は遠慮なく海岸にあるものに襲いかかっていたように思います。
 和歌山で大水害があったときは、海岸に材木類が流れ着いてきて、大人たちが海岸に上げていたことがありました。調べてみると、1953年(昭和28年)7月のことのようです。
 要するに、幼かった頃に恐いと思っていたのは台風や暴風雨であって、地震ではなかったのです。
 今は、養浜事業で海岸の砂浜が広がりました。海岸と住宅の間に高い防潮堤があります。鬱陶しさは否めませんが、仕方がありません。

【写真は、赤根川河口の西側に続く防潮堤。2012年(平成24年)11月2日17時03分撮影。】
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2012年11月27日 (火)

名寸隅の記(69)

海抜2メートル

 国の有識者会議は8月に、東海地震・東南海地震・南海地震などが同時発生するマグニチュード9級の南海トラフ巨大地震について、被害想定などを公表しました。死者32万人とか全壊238万棟とかの数字を見ると戦慄を覚えます。迅速な避難によって津波の死者は減らせるとして、国や自治体に避難施設や避難路の確保を求めています。
 明石市では市内各地に、その土地の標高(海抜)を示すものを設置しました。電柱や民家の壁面などに掲出してあります。江井ヶ島は海沿いの地域ですから、津波が起これば被害は免れることができません。これまでの台風の時などには、西島の赤根川沿いの地域や、東島の江井ヶ島港近くの地域で浸水がありました。
 江井ヶ島の海岸沿いの地域の標高は、低いところでは2メートルとなっています。明石市における、東南海地震・南海地震の際の津波の高さは3.8メートルと想定されています。目の前に淡路島が横たわっていますから、大平洋の津波は緩和されて届くので3.8メートルという数字が想定されたのでしょう。
 明石市内は海岸に沿って防潮堤が設置されていますが、いざのときに役立つと言えるのか、住民としては不安です。筆者の住んでいるところの標高は3メートルに達していないだろうと思います。
 江井ヶ島は、阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)のときも含めて、ここ何世代にもわたって、甚大な自然災害に遭っていません。痛めつけられた経験が少ないのは幸せなことですが、自然を甘く見ることはできません。

【写真は、東島の長楽寺の近くにある標高2メートルを示す表示。2012年(平成24年)10月1日15時52分撮影。】
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2012年11月26日 (月)

名寸隅の記(68)

ホーラク島

 明石から姫路に至る海岸線は東西に一直線ではなく、東から西に行くにつれて海岸線が後退していくようになっています。地図を見るとわかりますが、その角度は45度ぐらいあります。
 江井ヶ島から見る海岸風景は、真南に淡路島が横たわっています。西南西に小豆島が見えて、ほぼ真西に家島群島があります。天気の悪いときには、淡路島が霞みますが、小豆島は見えずに家島群島だけが見えるというときもあります。距離から言えば、家島までの距離の2倍ほど離れたところに小豆島があるからです。
 家島群島は、姫路市、たつの市、相生市の沖合に広がって、東西は26.7km、南北は18.5kmにわたると言われています、大小40余りの島々があります。
 もとは、飾磨郡家島町でしたが、現在は合併して姫路市の一部になっています。「いえしま」と読みますが、中には「えじま」と呼んでいる人が江井ヶ島にはいました。かつて、この島からは、護岸突堤などに使う石を積んだ船がやってきて、江井ヶ島や近くの海に石を投げ込んでいる風景をよく見ました。「イシブネ(石船)」と呼んでいました。
 その群島の中で、最も近くに見える島を「ホーラク島」と呼んでいます。無人島ですが、円く見える島です。その名の由来は知りませんが、幼い頃は、「ホーラク(焙烙)」のような円い島というイメージを持っていました。円い焙烙の一部分が水面上に浮かんでいるように感じたのです。今も同じように感じています。地図には「上島」と記載されている島です。
 いつも沖合に浮かんでいる島は、子供にとっては「山のあなたの空」の向こうに存在するような島でしたから、瀬戸内海を通る客船に乗って、「ホーラク島」を裏側から見たときにはびっくりし、夢から覚めたような思いになりました。

【写真は、ホーラク島。その後ろに重なり合うように家島群島の他の島々が見える。右端は明石市二見町の人工島。2012年(平成24年)9月8日17時54分撮影。】
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2012年11月25日 (日)

名寸隅の記(67)

西島にあった魚住城

 兵庫県の城の代表格は国宝・姫路城です。明石市の城と言えば明石城で、あたり一帯は兵庫県立明石公園になっています。ところで、名寸隅の地、江井ヶ島にも城がありました。魚住城です。
 今、魚住城跡には明石市教育委員会が説明板を設置しており、次のように書かれています。

 一 魚住城は南北朝時代に赤松氏の一族である魚住長範によって魚住町中尾に築かれた。
 一 天正六年(一五七八)、魚住頼治は毛利軍が三木城へ兵糧を運ぶ基地として西嶋の丘に柵を巡らし新しい城を構えた。天正八年(一五八〇)に、三木城の廃城とともに廃絶した。
 一 平成十年の発掘調査で魚住城の堀割の一部と考えられる遺構が見つかり、ここに城があったことが確認された。

 別所長治は、織田信長に叛いて毛利元就につきましたが、別所を攻める羽柴秀吉軍と三木合戦になりました。別所氏についた魚住氏が、兵糧攻めにあっている友軍に兵糧物資を輸送するための補給基地としたのが魚住城です。
 江井ヶ島は前面に海がありますが、山らしいものはありません。魚住城は平城です。海路からの交通には恵まれていますが、北に離れた三木城にどのように兵糧を運んだのでしょうか。子供の頃には「魚住城から三木までトンネルが掘られていて、物資を運んだのだ」という説がまことしやかに流布しており、江井ヶ嶋酒造株式会社の敷地の西側、断崖のようになっているところがトンネルの入り口だという者もおりましたが、これは大人たちも信じている説だったのでしょうか。今ではそんなことを信じている人はいないと思いますが…。
 説明板が設置されているのは住宅地の真ん中で、小さな児童公園になっているところですが、筆者の記憶では、ずっと以前は、この地点より少し南の坂道に「魚住城跡」という木柱が立っていたように思います。発掘調査によって堀割の一部が発見されて、遺構の位置がずらされたのかもしれません。
 
【写真は、魚住城跡の説明板。2012年(平成24年)10月29日16時41分撮影。】
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2012年11月24日 (土)

名寸隅の記(66)

江井ヶ島郵便局で思い出すこと

 前回に紹介した記事によれば、江井ヶ島郵便局は卜部兵吉さんが開局したそうですが、卜部兵吉さんは、江井ヶ嶋酒造の創立はもちろん、江井島小学校の運営にも尽力された方です。これからのブログの中でも、折りに触れて話題にすることがある人です。
 神戸銀行江井ヶ島支店に関する文章でも述べましたが、この地域は西灘と呼ばれた酒造地であり、早くから開設された郵便局も金融機関として重要な役割を果たしていたことでしょう。電報は国鉄大久保駅が扱っており、江井ヶ島にも電報受取所が必要であるとして、郵便局に通信機関としての役割を付け加えたのも重要な出来事だと思います。
 古い郵便局には電話交換業務があったように思いますし、郵便局内に公衆電話の施設がありました。何かの用で郵便局へ行ったら、たまたま電信の業務中で、「朝日のア」「子供のコ」「桜のサ」「算盤のソ」「手紙のテ」などという言葉が聞こえてくることも、たびたび経験しました。
 もとの郵便局は延べ百二十五平方メートル、現在の局は百二平方メートルと少し狭くなっているようですが、業務内容が変化しているから、これで間に合っているのでしょう。
 郵便局と言えば波部(はべ)さんの名前と顔が浮かびます。建て替え・移転の時には既に退職されていたのですね。
 移転後の明石江井ヶ島郵便局は、字名では西江井、山陽電気鉄道江井ヶ島駅の近くにあります。字名では東島にあった江井ヶ島郵便局の跡は、今は民家が建てられています。

【写真は、現在の明石江井ヶ島郵便局。2012年(平成24年)10月31日14時45分撮影。】
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2012年11月23日 (金)

名寸隅の記(65)

江井ヶ島郵便局

 江井ヶ島郵便局について、その歴史を含めて明快に書かれている記事の切り抜きを保存しています。1982年(昭和57年)1月6日の神戸新聞(明石版、14ページ)の記事です。その見出しは、

 〝寄る年波〟に勝てず  18日から新局舎
   明石江井ヶ島郵便局に改称

となっています。古い局舎の写真も添えられている記事は、なかなか力の入った文章になっています。その全文を紹介します。

 郵便局舎としては明石市内で最古の大久保町江井島、江井ヶ島郵便局(西馬俊秀局長)が十八日から新局舎へ移転する。現局舎は人間で言えば還暦に近く、大正時代末期から地元の発展ぶりを見守ってきた。
 同局は明治三十五年十一月、当時の江井ヶ嶋酒造社長だった卜部兵吉さん(故人)が現局舎の近くで開局。大正十二年三月、当時としてはモダンな現在の木造二階建て局舎(延べ百二十五平方メートル)を新築し移転した。
 近くには西灘と呼ばれた清酒産地があり、同局には今も当時の隆盛を物語る書類が保存されている。開局後間もない明治三十八年三月二十六日付けで逓信大臣あてに提出された「電報受取所設置願い」は地元有志や郵便局長、酒造会社、精米会社などの連名で「現在、当地の清酒は年産三万石(約五千四百キロリットル)あり、他地方との取引もひんぱんになっている。しかし、電報を扱っている国鉄大久保駅からは三千メートルもあり不便きわまりない。これまで配達の遅れで商機を逸したこともある。費用はすべて地元負担とするので、ぜひ電報取扱所を設置してほしい」と書き込まれている。
 前局長の波部アキさん(65)=大久保町西島一〇三六=は「昭和四十一年八月までは電報や電話を取り扱っていたが、あのころは本当に大変でした」と懐かしそう。電話がまだ普及しておらず、正月には年賀電報が殺到。二見などまで配達に行ったことも多い、という。
 移転が予定されている新局舎は現局舎の北東約一キロの国道250線近く。木造二階建て約百二平方メートルで、局名も「江井ヶ島郵便局」が「明石江井ヶ島郵便局」に変わる。

【写真は、上記の記事に添えられている局舎の姿。】
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2012年11月22日 (木)

名寸隅の記(64)

小学校への通学の道筋

 小学校時代の通学の道筋のことについて書きます。
 家を出て、神戸銀行江井ヶ島支店の前(または、すぐ近く)を通って、中野さんという駄菓子や学用品を売っている店の前を通ります。ここまで1~2分で、赤根川に出ます。架かっている橋の名前は「学校橋」で、西の方から小学校に向かう者はたいていここを通ります。橋を渡るまでが西島、橋を渡ると東島になります。今のような堤防が作られたのは、だいぶ後のことです。川には、小さな伝馬船などがつながれていました。
 橋の東北詰めにキャンデー屋さんがあって夏の頃には人気です。すぐ隣が宮本の酒屋さん。その向かい(道の南側)に江井ヶ島郵便局がありました。郵便局は木造の2階建てで、入り口はガラスの引き戸で、傍に円い郵便ポストが立っていました。郵便局は、郵便だけでなく、電信・電話も扱っていました。日本放送協会の受信申込所というようなものも貼ってありました。
 郵便局の北側から少し入ったところに佐藤先生のお宅が見えます。女性の佐藤先生には受け持ってもらったことはありませんでしたが、みんなは佐藤先生のお宅を知っていました。郵便局の前を通り過ぎると道は坂になって、坂を上ったところの南側に洋館の家がありました。住んでいる人の気配は感じられませんでした。道の北側は酒蔵であったように思います。ここから1分も歩けばもう江井島小学校です。昭和30年3月に小学校を卒業した者の記憶です。
 現在では様子が違ってしまっています。銀行はありません。川には堤防が作られ、学校橋の位置は少し北に移りました。橋を渡るためには坂を登り、坂を下ります。いろんなお店は既にありません。そして、江井ヶ島郵便局は移転をしました。付近に住宅は増えていますが、小学校への道筋に変化はありません。
 ただし、江井島小学校は少し離れた北側の土地に移転し、小学校の跡は明石市立少年自然の家になっています。
 実は、江井ヶ島郵便局のことを書こうとして、通学路の話から始めました。江井ヶ島郵便局は、東北に少し離れたところに移転をして、もう30年になろうとしているのです。

【写真は、赤根川の堤防。向こうに見えるのが現在の学校橋。2012年(平成24年)10月1日15時48分撮影。】
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2012年11月21日 (水)

名寸隅の記(63)

電気坂

 よろよろ橋から東に向かって歩いていくと、江井ヶ島海水浴場の海岸に出ます。そのすぐ手前に、北に向かって延びている坂があります。今はきれいな模様の道路になっています。ちょっとした勾配になっていますが、長くはない坂道です。
 小学生の頃は、この坂がもっと長くて、もっと急な勾配のように感じていました。何しろ、小学生の頃には「砂運び」がありました。海岸の砂を布製の袋に詰めて、この坂を登って(あるいは、坂の途中からの細い道をたどって)、学校の砂場へ砂を持ち込むのです。5~6年生の頃にはそんな作業が何度もあったように覚えています。その頃は校庭の改変工事などが行われていたように記憶しています。新しい砂場に持ち込む砂が必要であったのです。
 この坂を地元の人は電気坂と呼んでいました。なぜ電気坂なのかは知りません。何らかの文明の利器との出会いがあった坂であるからなのか、江井ヶ島のあたりでは最も急なように感じられる(強烈な)坂であるからなのか、あるいは別の理由によるのか、わかりません。
 電気冷蔵庫、電気掃除機、電気ミシン、電気時計……など、今なら「電気」を省いて使う言葉であるのに、いちいち「電気」を付けていた時代がありました。電力によらないものが当たり前であった時代から、電力の恩恵を受ける時代への過渡期の話です。
 電気坂は、電気冷蔵庫や電気掃除機やテレビが家庭に普及する前から呼ばれていた名前です。

【写真は、現在の電気坂。前方に見えるのは「かまくら旅館」の建物。2012年(平成24年)10月1日16時03分撮影。】
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2012年11月20日 (火)

名寸隅の記(62)

よろよろ橋

 江井ヶ島の漁港から少し入ったところに、小さな船だまりがあります。南に向かって海に流れ込んでいる赤根川が、昔は川尻の部分だけ東に向かって流れて海に注いでいたそうです。かつての赤根川の川尻の部分が船だまりとして残って、昭和30年頃には機帆船が停まっていたように記憶しています。今は小さな漁船がつながれています。
  ふるさとの文化を学ぶ会の『島のみゝぶくろ』第6号(昭和61年11月30日発行)に、「よろよろ亭」というコラムがあって、次のような文章が載っています。

 よろよろ橋の北詰に、今の布ヤの倉のあたりに、よろよろ亭がありましたんやと云う事です。港は川尻が東をむいて、海に流れこんでいましたので、むかい側へは、よろよろ橋で渡って行きました。(中略) ある時代、港で働く人たちの胃袋を満たしてくれたのが、よろよろ亭やそうです。
                         
 昭和30年頃には「よろよろ亭」はありませんでしたが、その頃の「よろよろ橋」は、木製の、幅1メートル程度の細い橋でした。機帆船が通過するときには跳ね上げるために、しっかりした橋にはなっていませんでした。渡れば揺れますし、欄干はありませんでした。小学生の頃はこの橋を通るのは恐かったのです。と言っても、通らなければならない橋ではありませんから、遊び半分で渡ろうとしたのです。子ども同士で、渡れるか渡れないかの肝試しに使っていたように思います。この橋の通称が「よろよろ橋」であることは後に知ったのですが、通れば、よろよろと揺れました。よろよろ橋を渡った南側には船大工さんの作業場があったように記憶しています。
 昭和60年頃には江井ヶ島港に機帆船の所属はなくなりましたから、橋を跳ね上げる必要はなくなって、しっかり固定された橋になりました。小さな漁船は下をくぐれます。今の橋は、幅も少し広く、手すりも付いています。

【写真は、現在の「よろよろ橋」。2012年(平成24年)10月1日16時02分撮影。】
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2012年11月19日 (月)

名寸隅の記(61)

漁業漁村歴史文化財産100選の神社の紅葉

 西島の氏神さんである住吉神社の能舞台は、「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産100選」に選ばれています。これは、水産庁が2006年に選定したもので、漁村に残る歴史的・文化的に価値の高い施設や、現在では貴重な工法や様式となった施設などを選んでいます。100選の中には、京都府伊根町の舟屋群や、和歌山県広川町の広村堤防など全国的に知られたものも含まれています。
 この100選に兵庫県からは、岩屋漁港の絵島(淡路市)、由良港と成ヶ島(洲本市)、室の泊まり(たつの市)、神権伝説の島(姫路市家島町)とともに、住吉神社の能舞台も選定されています。
 江戸時代に作られた住吉神社の舞台は、明石市内に現存する唯一の能舞台で、1976年(昭和51年)に明石市有形民俗文化財に指定されています。しばらく中断していた能楽会が1974年(昭和49年)に復活し、今では毎年5月1日の定例行事になっています。
 住吉神社は藤の花でも知られています。初夏の能楽会の頃には藤の古木が優雅な花を咲かせます。また近年は境内に紫陽花を植えて、花いっぱいの頃に紫陽花祭りを催しています。
 その住吉神社は今まさに紅葉の季節を迎えています。正殿の南東のあたりは燃え立つような彩りになっています。

【写真は、住吉神社の紅葉。2012年(平成24年)11月16日16時07分撮影。】
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2012年11月18日 (日)

名寸隅の記(60)

夕陽の名所

 筆者は冬になると太陽の写真を撮りに出かけます。春や夏には忘れかけているのですが、秋の終わりから冬にかけては、太陽を思い出したようにして写真を撮ります。出かけると言っても、ふらっと家を出て1分もしないうちに海岸に出ます。赤根川の河口です。夕陽の撮影はその場所で十分です。もちろん、気が向いたら東へ行ったり西へ行ったりして撮ります。
 地図を見ている限りでは、明石の海岸からは四国の島影に遮られて、夕陽は水平線に沈まないように思えるかもしれませんが、地球は丸いのです。沈むのは水平線か、近くの島影かのどちらかです。島影というのは、小豆島(香川県)か家島群島(姫路市)のどちらかです。それを外れた季節になると直接、海に沈みます。
 今は、16時30分頃になると急いで海岸に出なければなりません。もちろん多少の勤めを持っていますから、毎日行けるわけではありません。いくら一日中、晴天に恵まれていても、落日の頃に水平線近くに雲がかかることがありますから、毎日の落日は変化に富んでいます。雲のない日は嬉しくなります。
 全国にはあちこちに、日の出の名所があり、夕陽の名所があります。明石海岸は夕陽の名所として紹介されたことがあります。養浜事業が進んで、明石市の海岸は無骨な埋め立て地とは違った趣を持っているからでしょう。明石市の中でも江井ヶ島海岸が夕陽の名所とされたこともあります。江井ヶ島漁港にある小さな灯台の向こうに沈む太陽の写真を撮るためにわざわざ来られる人もあります。
 残念ながらブログで紹介する写真は画像サイズに制限がありますので、大きな写真は掲載できません。常用しているカメラでは7メガバイト程度の写真を撮っていますが、ブログ用にはそれとは別に200キロバイト程度の写真を撮ります。
 さて、今は小豆島に夕陽が沈みます。小豆島は、江井ヶ島海岸から見ると二つにくびれているように見えます。小豆島の南東地域に低い平野部があるので、旧・内海町の坂手半島の辺りが別の島影のように見えるのです。望遠レンズで撮影すると、地球の丸さによって、海峡のように写るのです。11月16日は16時56分に、島影が二つに分かれるところ、島影の端っこが浮島のように見えて日が沈みました。

【写真は、小豆島の方角に沈む夕陽。2012年(平成24年)11月16日16時47分撮影。】
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2012年11月17日 (土)

名寸隅の記(59)

土管、瓦、蛸壺作り

 ため池のことについては改めて後に書くつもりですが、『いなみ野ため池ミュージアム ため池再発見』の冊子の中に歴史文化編という部分があって、明石市江井島地区の「昭和20年代編」というページ(同冊子の34ページ)があります。そして、「当時の四カ村」と題して、次のような記述があります。

 西島では14~15軒、西江井にも5~6軒の造り酒屋さんがありましたが、今では2軒になっています。
 東島は漁業の村でした。網や一本釣りなどで魚を捕っていましたが、今は海苔の養殖が主になっています。
 西江井では土管屋さんが2軒ありました。土管は学校や田んぼの溝に埋められていて、今でも皆さんの役に立っています。蛸壺を作るところも2軒あったのですが、もう年をとってしまったからと作らないようになってしまいました。
 東江井では黒い瓦をたくさん作っていました。ちょうど50年くらい前には、黒い瓦に替わって、赤い瓦で塩焼きといういうのを作るようになりましたが、その瓦工場はもう残っていません。

 江井ヶ島の造り酒屋は減っています。残っている2軒というのは江井ヶ嶋酒造と太陽酒造のことを指しているのだと思います。
 瓦を作るところ、土管を作るところ、蛸壺を作るところは、西江井や東江井だけでなく、瓦工場、土管工場は西島にもありました。風向きによって黒い煙が近づいてくると洗濯物などを取り入れるという風景は日常的であったと思います。瓦や蛸壺などを焼く前に、成形して並べて干しているのもよく見かけました。瓦は東隣の八木の辺りにも工場がたくさんありました。
 漁業が、魚を捕る漁業から海苔養殖に傾斜しています。漁船は海苔養殖の作業に向くような構造になっています。
 江井ヶ島全体の産業、特に「ものづくり」は50年ぐらい前とは一変してしまっているように思われます。

【写真は、正月の江井ヶ島港に並ぶ、海苔養殖作業用の漁船。2011年(平成23年)1月1 日8時31分撮影。】
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2012年11月16日 (金)

名寸隅の記(58)

崖などに湧き出す「どっこいしょ」

 『明石のため池』(明石市教育委員会発行)の63ページに、「どっこんしょ」という項目があって、次のようなことが書かれています。

 「どっこんしょ」あるいは「どっこいしょ」と呼ばれる湧き水が、谷八木から二見までの海岸線や川沿いにあったことが、地元の年配の人たちの話によくでてきます。
 子どもの頃、海で魚を突くために、松陰から谷八木の海岸まで歩いていく途中、いつものように崖の下から湧き水が出ているところで休憩し、汗をかいた顔を洗うことにしていたそうです。また、海で魚を突いたり、泳いだりした後、今度は、海岸の砂浜にも湧き水が出ているところがあり、そこで真っ黒になった体を洗い、そして乾いた喉に冷たい水を流し込む。その水がなんともいえないほど、おいしかったそうです。
 戦前には、谷八木にこのような湧き水が10数ヶ所あったそうです。戦後には、大きな工場が大量に地下水を汲み上げるようになり、湧き水は次々に枯れてしまったそうです。

 大久保町の北の方にある松陰(まつかげ)から、谷八木の海岸へ歩いて行った「年配の人」の体験談として語られているのですが、湧き水は崖の下などにあったようです。
 ブログの筆者は、谷八木よりも西の江井ヶ島に住み続けているのですが、呼び名は「どっこいしょ」でした。確かに崖のようなところにもあったとは思いますが、大きな酒蔵などの中にも水が湧き出しているところがあって、石やコンクリートで囲ってありました。目の前へこんこんと湧き出してきて、もったいないことですが、流れっぱなしになっていました。大量の地下水の汲み上げに因るのでしょうか、今では「どっこいしょ」の存在は忘れ去られてしまっています。
 我が家には井戸がありましたが、井戸といってもせいぜい地表面から3メートル程度の深さの水面でした。
 水に恵まれていることと、江井ヶ島を中心とした地域の酒造りとは密接なつながりがあるはずです。

【写真は、江井ヶ島から八木に続く海岸。屏風ヶ浦の崖は、今ではコンクリートなどで固められて、湧き水などは求めようもない。2012年(平成24年)9月26 日14時27分撮影。】
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2012年11月15日 (木)

名寸隅の記(57)

広大なため池の面積

 『明石のため池』(平成20年3月31日、明石市教育委員会発行)という本があります。この本の後ろの方に、30ページ近くにわたって「ため池データベース」というのがあって、明石市内にある111か所のため池の写真とともに、所在地、堤高、堤長、貯水量、満水面積や、管理している水利組合やため池協議会の名が書かれています。
 桜の名所でもある明石公園には剛ノ池という、春は花に埋まる池がありますが、この池の満水面積は31720平方メートルです。剛ノ池は有名な池ですが、大きな池の部類には入らないようです。
 明石市大久保町の大字名としての江井島と西島にある池は、次の通りです。
   皿池  堤長1940メートル 満水面積107150平方メートル
   谷池  堤長1456メートル 満水面積 69990平方メートル
   切池  堤長 313メートル 満水面積  8350平方メートル
   下切池 堤長 296メートル 満水面積  6750平方メートル
   納戸池 堤長 430メートル 満水面積 19130平方メートル
   上池  堤長 560メートル 満水面積 19220平方メートル
   新池  堤長 275メートル 満水面積 17920平方メートル
   皿池  堤長 300メートル 満水面積 19710平方メートル
   大池  堤長 954メートル 満水面積 54250平方メートル
 はじめの2つの池の管理は江井ヶ島土地改良区、あとの7つの池の管理は西島水利組合です。はじめの2つの池は圧倒的に大きい池です。
 皿池という名の池が2つありますが、池の底が周囲の田んぼと変わらないような、底の浅い池を皿池と言いますから、皿池という名の池はあちこちにあります。
 これらのため池は、鳥をはじめとする動物や、水生植物にとっての生活環境を提供しています。

【写真は、西島の大池にある、野鳥を写真入りで紹介した案内板。冬を中心にして、多くの野鳥の楽園になっている。2012年(平成24年)11月12 日16時41分撮影。】
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2012年11月14日 (水)

名寸隅の記(56)

西島にあるため池

 『いなみ野ため池ミュージアム ため池再発見』という冊子の35ページに「西島の水路編」というページがあります。
  ため池の面積はしだいに減ってはいますが、それでも親水空間には恵まれています。西島水利組合が管理している池は、大池、上池、皿池、新池、納戸池、下切池の6つだそうです。これらの池から流れ出る水は水路を通って田んぼなどを潤しています。田植えの頃は、住宅地のあちこちを縫って流れる水路も、あふれるような水かさになります。余った水は赤根川や海に流れることにもなりますが、田植えの前には池に水がいっぱい溜められます。この水路は、大雨の時の排水路の役割も果たしています。
 国道250号の代替道路として作られた明姫幹線道路は、ため池群の真ん中を突っ切って通していますから、大池は南北に二分されました。江井島中学校は皿池の半分を埋め立てて建設されました。
 池はすべて山陽電鉄の線路よりは北側です。古い鉄道であるJR西日本(元・国鉄)や山陽電鉄は池をつぶすようなことはほとんどしておりません。けれども、山陽新幹線の橋脚が池の中に設けられているところや、明姫幹線道路が池を利用しているところは、江井ヶ島の周辺でもあちこちに見られます。また、中学校・高等学校の新設に際して池を埋め立てている例もあちこちにあります。
 西島ため池協議会が主催するレンコン掘りイベントが皿池で、今年は12月23日に開かれる予定だそうです。

【写真は、西島の大池。夕日が広い水面を照らしている。2012年(平成24年)11月12 日16時37分撮影。】
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2012年11月13日 (火)

名寸隅の記(55)

いなみ野ため池ミュージアム

 『いなみ野ため池ミュージアム ため池再発見』という65ページにわたる冊子があります。子どもたちに向けた教育という役割を持っていると思われる記述があちこちに見られる冊子です。発行は「いなみ野ため池ミュージアム推進実行委員会(兵庫県・明石市・加古川市・高砂市・稲美町・播磨町)」となっていますが、発行日は記載されていません。けれども、裏表紙に書かれている文書番号に「17東播……」とあって、入手時期と照らし合わせると2005年(平成17年)と推測できます。
 「いなみ野」という文字遣いは、先述のように「印南」と書くと旧・印南郡と混同される恐れがあります。印南郡という郡名は市への合併によって既に消滅していますが、旧の印南郡地域という認識は消えてしまっているわけではありません。
 また、加古郡稲美(いなみ)町は現存する町名です。この町名は、加古郡加古村、母里村、天満村が1955年(昭和30年)3月31日に合併して生まれました。稲作が大きな産業であることに由来した文字を使い、印南野という発音を尊重したことによるものだろうと思います。現在の人口は3万1000人を超えて、兵庫県内で言うと相生市の人口に匹敵しています。ついでながら、稲美町の南に位置する加古郡播磨町の人口は3万3000人を超えています。
 印南野台地にある稲美町には、兵庫県内で最も古いため池は、稲美町にある天満大池の原型となる岡大池で、675年(白鳳3年)に築かれたという記録が残っているそうです。また、兵庫県内で最も大きなため池は、やはり稲美町にある加古大池で、貯水面積は49ヘクタールで、甲子園球場の約12倍だそうです。
 そんなわけで、ため池と稲美町とは強いつながりがありますが、明石市・加古川市・高砂市・稲美町・播磨町を束ねた「ため池ミュージアム」としては「いなみ野」という文字を使うことにしたのでしょう。
 さて、江井ヶ島にもたくさんのため池があります。もちろん西島という地域に限っても同様です。大久保中学校から分離して江井島中学校が新設されたときに、校地はため池を埋め立てて造成されました。江井島中学校の周囲には、いくつものため池が残っています。大池もその一つです。

【写真は、西島の、江井島中学校の西側にある大池。池の名前とともに「いなみ野ため池ミュージアム」のマークも掲出されている。2012年(平成24年)11月12 日16時37分撮影。】
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2012年11月12日 (月)

名寸隅の記(54)

野は印南野

 清少納言が書いた「枕草子」は、内容によって、①類集的章段、②日記的(回想的)章段、③随想的章段の3つに分類することが広く行われています。
 類集的章段は、「鳥は…」「森は…」「物語は…」などとして、清少納言自身が興味を引かれるものを並べて記述しています。その一つの「野は…」という段(陽明文庫蔵本では一六二段)では、次のように記しています。

 野は嵯峨野さら也。印南野。交野。駒野。飛火野。しめし野。春日野。そうけ野こそすゞろにをかしけれ。などてさつけけむ。宮木野。粟津野。小野。紫野。

 京都の嵯峨野・小野・紫野や、奈良の飛火野・春日野などのように今日でも著名なところに並んで、印南野が堂々の上位ランクインという感じがします。
 その印南(いなみ)野は、明石川より西、加古川より東の野のことです。旧の郡名では、印南(いんなみ)郡というよりも、むしろ加古郡・明石郡の地域になります。この地域には上代から今に至るまで、歴史の旧跡はもちろん、文学に取りあげられたところもたくさんあります。
 ところで、このあたりの台地は雨量の少ない地域です。天候に恵まれているとも言えますが、水不足という欠点もあります。稲作が行われるようになった弥生時代にはため池のようなものが既に作られていたといわれています。
 兵庫県にあるため池の数は4万3000余で全国1位です。2位は広島県で2万1000余、3位は香川県で1万6000余です。以下、山口県、大阪府と続きますが、瀬戸内海と大阪湾のあたりに広がる府県です。
 ため池は農業用水を安定的に確保するための人工のものですが、多くの生き物の住みかとしての環境を確保するとともに、景観の形成にも役立っています。もちろん、江井ヶ島にも、いくつものため池があります。

【写真は、西島にある上池には蓮の葉が生い茂っている。その向こうには山陽新幹線の高架橋が見える。2012年(平成24年)10 月15日15時23分撮影。】
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2012年11月11日 (日)

名寸隅の記(53)

級友の父、渡辺九一郎さん

 神戸新聞明石総局編『聞き書き あかし昔がたり』(昭和54年11月30日、もくせい文庫発行)に、「直良さんが触発 寝ても覚めても考古学だけ」(184~185ページ)という文章があります。その冒頭部分を引用します。

 「初めてお便りをします。突然、さしあげるご無礼をお許しください。東と西ですが同じ明石ですので一度、お越し下さい」
 明石市大久保町江井島東島三九二、渡辺九一郎さん(72)は、大正の終わりごろ、「直良石器文化研究所」から突然、こんなはがきを受けとった。明石で多くの遺跡をみつけた直良信夫さんは、このようにして考古学の仲間の輪も広げていった。
 「私が当時、東京人類学会に入っていたので、その名簿を見て明石にも会員がいると、直良さんがはがきをくれたんです。この誘いで日曜日に直良さんをたずねました。大蔵谷字小辻の二階建ての新居で、家の前にヒマワリが咲き、直良さんは庭をはいてました」-大正十四年の夏ごろのことである。渡辺さんはこれを契機に直良さんと親交を結んでいく。

 渡辺さんの19歳の頃のことだそうです。
  前回紹介した春成秀爾さんは、中学1年生の頃のことについて、『「明石原人」とは何であったか』(240ページ)で、次のような記述をしています。

 当時、『神戸新聞』に連載され好評を博していた「祖先のあしあと」は、加古川市聖陵山古墳を取りあげた。その日、学校に行くと、この古墳出土の青銅製の矢尻(銅鏃)について、一九二七年に直良と連名で学界に報告した渡辺九一郎は、自分の父だ、と同級生の渡辺佑一が名のる。そこで、明石市江井ヶ島に住む渡辺の家を訪ねる。大正時代末から昭和初期に直良としばしば調査行を共にした渡辺から、明石時代の直良の活動ぶりや家族のことなどを詳しく聞く。

 なんとも奇縁を感じる文章です。
 江井ヶ島と八木は隣同士の土地です。明石人の発掘地は西八木で、近くの山陽電鉄の駅名は中八木で、この地域の小学校名は谷八木ですが、大きく括れば八木です。
 八木の近くに考古学や人類学に興味を持つ人がいても不思議ではありません。けれども、ブログの筆者は、春成さん・織田さんとは中学校・高校における同級生、そして、渡辺佑一さんとは江井島中学校・大久保中学校における同級生です。渡辺さんのかつての住まいは「かまくら」旅館の近くであったように記憶しています。

【写真は、八木には明石市が整備した八木遺跡公園がある。公園の南は屏風ヶ浦で、淡路島が望める。2012年(平成24年)10 月31日15時54分撮影。】
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2012年11月10日 (土)

名寸隅の記(52)

学校新聞を飾った研究発表

 動かせば粉々になりかねないような新聞を保存しています。「大久保中学校新聞」です。学校新聞ですから粗末な紙に印刷されていますし、何しろ半世紀も前の新聞です。
 昭和32年7月6日付けの第54号はタブロイド版4ページ建てですが、その2面に、

 好評を得た研究発表
  織田・春成両君 兵庫地学会に花そえる

という見出しで、この年の6月9日に開かれた兵庫地学会と明石小中学校理科研究会の様子が紹介されています。何らかの便宜が図られたのでしょうか、会場は大久保中学校でした。学校新聞には、2人の研究発表の内容が紹介されています。文章は「僕が…」という表現になっていますから、それぞれ自分が書いた文章です。
 
 屏風ガ浦の化石について(動物化石)  三年一組 春成秀樹
 貝及び植物化石について           三年一組 織田健一

 ともかく2人の化石好きは、友だちには周知のことでした。2人は谷八木小学校から大久保中学校に進んでいます。谷八木小学校は、江井島小学校の隣の学区の学校であり、明石人や明石象の発見地である海岸はその小学校の校区にありました。
 さて、そのことと江井ヶ島とどうつながるのか…という話は、次回に書くことにします。

【写真は、「大久保中学校新聞」54号の2面。】
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2012年11月 9日 (金)

名寸隅の記(51)

発掘基地となった「かまくら」旅館

 1931年(昭和6年)4月18日、兵庫県明石市(当時は、まだ明石郡大久保町)の西八木海岸で、直良信夫氏が、古い人骨の一部を発見しました。明石原人、明石人、西八木人骨などとも呼ばれる化石人骨は、第二次大戦中の1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲によって現物が焼失してしまいます。数奇な運命をたどった人骨です。
 明石原人は現代的であるとして、原人ではなく縄文時代以降の新人であるという説が強まりましたが、1985年(昭和60年)には国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の春成秀爾助教授(当時)が中心になって、西八木海岸で発掘調査を行いました。西八木海岸は江井ヶ島のすぐ隣です。
 春成秀爾さんは、その著書『「明石原人」とは何であったか』(1994年11月20日、日本放送出版協会発行。NHKブックス)で、明石原人の発掘、評価、再検討の道筋をたどっています。ブログの筆者は、考古学などとは無縁の人間ですから、調査内容について述べることはできません。
 ところで、この本の中(267~268ページ)に、次のような記述があります。

 発掘基地は、現場から西一キロの明石市江井ヶ島にある「かまくら旅館」にした。初めは、現場近くの公共施設を借りて自炊するつもりだった。しかし、人数も多いし、期間も長い。困っていると、織田健一が、知合いの同旅館に声をかけてくれ、二つ返事で引き受けてもらった。乏しい予算しかない発掘調査団が、宿泊をのぞめる旅館ではなかった。ところが観光シーズンの端境期であったことと、地元のPRになる名誉なことだからと、経営者が破格の値で引き受けてくれた。聞けば若主人は、私とは中学、高校とも数年後輩であった。昔、明石に住んでいた人間が明石で仕事をするということが、すべてをうまく運ばせたのであった。数多くの発掘をこなしてきたというある大学院生は、毎日毎日、海の幸のご馳走に、「こんな極楽みたいな現場は初めて」と感想をもらした。

 春成秀爾さんも、織田(おりた)健一さんも、プログの筆者も、中学校、高等学校の同級生です。「かまくら旅館」の経営者は橘田さん(地元では「きった」さんと、促音で発音しています)ですが、中学、高校の後輩ということが文章に書かれています。「海の幸のご馳走」という言葉がありますが、当時は、漁協も今のように海苔養殖に傾斜しておらず、魚の水揚げも多かったのかもしれません。

 江井ヶ島は景勝の地ですが、交通事情の進化で、宿泊客が少なくなったのでしょうか、明石市西部で随一の本格的な観光旅館であった「かまくら」は営業をやめています。

【写真は、民家の向こうに見えるのが「かまくら」の建物。もともとは和風の建物であった。2012年(平成24年)10 月31日14時34分撮影。】
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2012年11月 8日 (木)

名寸隅の記(50)

西江井ヶ島駅と魚住駅のスタンプ

 山陽電気鉄道は、20年ほど前にはすべての駅に観光用のスタンプを設置していました。このスタンプを集めるという催しも行っていたように思います。
 駅のスタンプは、かつての国鉄がディスカバー・ジャパンを合い言葉に旅行意欲を喚起しようとして、全国的にスタンプを整備し、ブームとなったことがあります。筆者もかなり集めました。
 ところで、山陽電鉄のスタンプは20年ほど前が最初というわけではありません。それより前にも、主要駅や、観光が主体となる駅にはスタンプがあったように思います。
 20年ほど前に設置されたスタンプは既に姿を消してしまっています。もしかして、どこかの駅には残っているのでしょうか。けれども、山陽電鉄は全駅自動改札を推し進めて、その結果として主要駅以外は無人化されましたから、今ではスタンプを置いても管理が行き届かなくなることでしょう。
 今でも沿線のあちこちでスタンプラリーという催しは行われていますが、それは駅に設置したスタンプではなく、あちこちの名所にスタンプを置いているのです。
 さて20年ほど前のスタンプの印影です。西江井ヶ島駅のスタンプには、日本酒の酒蔵とウイスキー蒸留所が描かれ、蒸留所の空には風見鶏の姿があります。それから、魚住城跡の標柱があり、沖には淡路の島影が見えます。(魚住城については、後日、書くことにします。)
 一方、魚住駅のスタンプには、藤の花で有名な中尾・住吉神社と、牡丹で知られる薬師院(通称はボタン寺)が描かれています。海に向かって開放的な風景が広がるのが住吉神社です。
 魚住駅は、JRの駅名と区別するために、正確には山陽魚住駅と言います。この魚住駅は、西江井ヶ島駅と同時に開設されました。終戦直前の1945年(昭和20年)7月20日から営業を休止しましたが、2年後の1947年(昭和22年)11月15日に再開しています。いずれにしても、国鉄(現・JR西日本)魚住駅の開設よりは古いのです。

【写真は、山陽電気鉄道の西江井ヶ島と魚住駅のスタンプ。】
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2012年11月 7日 (水)

名寸隅の記(49)

貨物も扱っていた西江井ヶ島駅

 中学生の頃だったと思いますが、父と一緒に山陽電気鉄道の電車で明石へ出かけて帰るときに、当時は切符は窓口で買ったのですが、父が「西口、2枚」と言って切符を買ったのには驚きました。問答が繰り返されることもなく、西江井ヶ島駅までの切符が差し出されました。
 西江井ヶ島駅は、1944年(昭和19年)4月1日の改称で、開業以来それまでは「江井ヶ島西口」駅でした。改称から十何年か経っても「西口」は通用したのです。昔も今も山陽電鉄には「○○西口」という名の駅は他にないということも理由の一つであったのかもしれません。
 さて、その西江井ヶ島駅は上り線と下り線にそれぞれホームがありますが、下りホームの南側にもう一つのホームがありました。駅の東側から側線が引き入れられて、そのホームに入線できるようになっていました。駅の東側には、上り線と下り線との間の渡り線が設けられ、上り・下りの入れ替えもできるようになっていました。
 電車に乗るときには改札口がありました。小さな駅であっても有人でした。けれども南側のホームは、改札の外にあって、ホームに上ることはできました。これは、実は貨物用です。西江井ヶ島駅にあったのは貨物用の引き込み線とホームでした。草が生えているようなホームでした。
  当初はたぶん酒の輸送という役割を持っていたのでしょう。けれども、筆者の記憶では、貨物用のホームには、いつも白い粉が落ちて残っていたように思います。近くの魚住町西岡に1926年(大正15年)創業の丸尾製粉(現在の社名は、丸尾カルシウム。大阪証券取引所2部上場)があって、石灰岩を原料として炭酸カルシウム製品を作っていました。作られた製品の輸送に山陽電鉄の貨物電車も使われていたのだろうと思います。 
 茶色の貨物電車は、その角張った車両に荷物を載せることができますが、無蓋の貨車を1~2両引っ張っていることもありました。
 貨物の自動車輸送に押されて、山陽電鉄の貨物輸送は1960年頃には全面的に廃止されました。西江井ヶ島駅前には日本通運の取扱店もありましたが、いつの間にか廃止されていました。現在は、西江井ヶ島駅の南側には、乗客用ホームに接して、山陽電鉄従業員用の5階建ての集合住宅が建てられています。

【写真は、山陽電気鉄道の西江井ヶ島駅の南側に建つ山陽電鉄社員用の集合住宅。2012年(平成24年)10 月24日9時33分撮影。】
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2012年11月 6日 (火)

名寸隅の記(48)

電車通学した中学時代

 筆者が子どもの頃は、現在とはまったく様子が違って、西江井ヶ島駅のあたりの山陽電気鉄道本線より北側は田圃と溜め池だけで、民家はほとんどありませんでした。西島の集落の北の外れに西江井ヶ島駅があるという感じでした。もちろん、それより北を走る国鉄(当時)山陽本線の蒸気運転の列車はよく見えました。1960年前後のことです。 
 山陽電鉄は、兵庫(神戸市)-明石間は兵庫電気軌道株式会社として開業し、明石-姫路間は明姫電気鉄道株式会社として開業(2年後に神戸姫路電気鉄道に改称)しました。両者が宇治川電気(現在の関西電力)電鉄部となった時期がありましたが、1933年(昭和8年)に独立して山陽電気鉄道となりました。
  当初の社名からもわかりますが、兵庫-明石間は道路併用区間もあり、駅間距離が短く、電圧は600ボルトになっていました。明石-姫路間は高速運転ができるように直線区間が長く、駅間距離も長く、電圧は1500ボルトになっていました。連結点の明石に2つの駅があった時代がありますが、線路や電圧を改めて、1928年(昭和3年)から兵庫-姫路間の直通運転を実現しています。
 兵庫-明石間は既に開業100年を超えましたが、明石-姫路間の開業は1923年(大正12年)8月19日です。現在で89年になります。私が子どもの頃には、2両連結の大型車や小型車が特急、急行、普通電車として走っていました。特急に使われた800型はロマンスシートをそなえた大型車で、子どもの頃には「しんしゃ(新車)」と呼んでいました。「しんしゃ」が時々は普通電車にも使われましたが、その時は大喜びでした。急行に使われた車両のうち700番台は旧国鉄の63型と同型で、全国の私鉄に戦後の車両不足の緊急対策として導入されましたが、広軌の鉄道会社に導入されたのは山陽電鉄が唯一でした。この電車が普通電車に使われたときも喜んで乗りました。
 市立の大久保中学校に通学した時代は、西江井ヶ島(または江井ヶ島)駅と中八木駅の間を電車通学しました。自転車で通った友だちもありますが、電車通学の方が多かったと思います。「しんしゃ」というのは、その時代の呼び名で、子ども達だけの呼び名であったかもしれません。山陽本線の西明石-姫路間が電化されたのは中学生の頃でした。

【写真は、山陽電気鉄道の西江井ヶ島駅のホームには、駅名標の隣に、観光案内の看板があって酒蔵が描かれている。2012年(平成24年)10 月3日9時18分撮影。】
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2012年11月 5日 (月)

名寸隅の記(47)

西島の交通網

 明石市は海岸線に沿って東西に長い市域です。交通は東西方向には便利ですが、南北方向には便利でないかもしれません。
 明石市大久保町西島には東西の交通路が貫いています。
 まずは陸路です。山陽電気鉄道本線が走って、西江井ヶ島駅があります。普通電車しか停まりませんから、特急に乗るには東二見駅(西へ2つ目)か山陽明石駅(東へ6つ目)で乗り換えなければなりませんが、直通特急は山陽姫路駅と阪神梅田駅(大阪市北区)とを昼間でも15分間隔で結んでいます。
 その北側には西日本旅客鉄道(JR西日本)の山陽新幹線が走っていますが、地域内に駅はありません(当然!)。乗るのなら東に5㎞ほど離れた西明石駅ということになります。
 さらにその北側にJR西日本の山陽本線(通称・JR神戸線)が走っているのですが、ごくごく一部区間だけが西島の地域内を通っています。大久保駅と魚住駅の中間の南方に西島があるのです。
 道路は、もともとは山陽電鉄の南側を走るのが国道250号でした。これは神戸市を起点にして(神戸市から西明石までは国道2号と重複区間)、兵庫県の瀬戸内側を走って加古川市、高砂市、姫路市、相生市、赤穂市を通って岡山市に至る道路です。旧来の県道を格上げしたもので「浜国道」略して「浜国」と呼ばれました。
 交通量の増加に従って、1980年に西明石から高砂市曽根まで新しい道が造られ「明姫幹線」と呼ばれています。その道が国道250号となって、山陽電鉄の南側の道は格下げされて、兵庫県道718号明石高砂線となっています。県道→国道→県道と変遷した道路です。この道路は1960年より少し前までは舗装されていませんでした。子どもの頃は自動車の通行量も少なくて、道路をリレー競技で走った記憶があります。
 国道2号は残念ながら西島の地域内を走っておりません。少し北に離れています。山陽新幹線と明姫幹線とは、江井島中学校の北東の位置で立体交差しています。  
 さて、海路としては、先述したように、隣の集落・東島に江井ヶ島港があります。けれども漁港であって、旅客とは関係がありません。もっとも、何十年も前はベラ釣りで知られた港で、観光バスからの乗客を受けて、夏に漁船がベラ釣りに出港していく風景を見たことがあります。今の漁業は海苔の養殖が中心になっています。
 空路は、…と言っても空港などあるはずがありません。ただ、神戸空港ができてからは、頭上を通過する飛行機が増えたように思います。

【写真は、山陽電気鉄道の西江井ヶ島駅。2012年(平成24年)11 月1日16時55分撮影。】
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2012年11月 4日 (日)

名寸隅の記(46)

江井ヶ島港の役割

 『明石市史 下巻』(昭和45年11月、明石市役所発行)で明石の近代を扱ったところに「江井ヶ島港の改修」(288~289ページ)という項目があります。その中には、次のような記述が見られます。

 明治三十一年六月明石郡長の勧めと江井ヶ島酒造協会の発起によって港湾改修期成同盟会が結成され、明治四十一年に工費九三〇〇円の予算で起工したが、さらに工事の完全を期して一五〇〇〇円をもって大正四年(一九一五)六月完成した。
 江井ヶ島地方は当時明石郡重要物産の首位を占める清酒の醸造地で、その消長は地方経済界に影響を及ぼす所が大きく、その販路の拡張は交通の便否に大いに関係があるため、ここに巨額の経費を支出して港湾改修に努めた。

 清酒が「明石郡重要物産の首位」であると書かれています。明石郡は海岸線から後背地までの広い地域に及んでいて、現在の明石市だけではなく、神戸市垂水区、神戸市西区を含む地域でした。この地域の現在の工業製品はさまざまな分野に広がっていますが、この時代は清酒が重要物産の首位を占めていたというのです。とりわけ江井ヶ嶋酒造株式会社の役割が大きかったことは言うまでもありません。
 江井ヶ島港からは清酒が機帆船によって積み出され、原料なども機帆船によって運ばれてきていました。実は、筆者の家は祖父の代まで、漁業とともに、機帆船による運搬の仕事もしていました。持ち船の「順栄丸」は第二次大戦のときに差し出すように軍から命じられ、その機帆船がどこに回航され、どのように使われたかはわからないということを聞いています。戦後も江井ヶ島港では天啓丸などの機帆船が活躍していたことが記憶に残っています。江井ヶ島港という名前ですが、さして大きくはない機帆船が母港としていた港で、今の江井ヶ島港は漁港としての役割だけになっています。

【写真は、漁船がひしめく江井ヶ島港。2012年(平成24年)10月31日17時11分撮影。】
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2012年11月 3日 (土)

名寸隅の記(45)

総合酒類メーカー

 江井ヶ嶋酒造株式会社は、日本酒のメーカーのように考えられていますが、実際には各種の酒類を醸造する総合的な会社です。このような会社は兵庫県内では唯一です。全国的に見ても珍しいと思います。
 『江井ヶ嶋酒造株式会社百年史』(322ページ)には、主要製品として、次のものが挙げられています。右側は商品名です。
  清  酒   神鷹、日本魂 
  合成清酒     百合正宗
  焼  酎   白玉焼酎、むぎ焼酎福寿天泉
  味  醂   白玉本みりん
  ウイスキー   ホワイトオークウイスキー
  ブランデー  シャルマンブランデー
  果 実 酒   シャルマンワイン、白玉ワイン
  リキュール   白玉梅酒
  雑  酒      福建老酒
 日本酒、焼酎などの他に、味醂、梅酒、老酒、そしてウイスキー、ブランデー、ワインを生産しているのです。言うまでもないことですが、同じ商品名のもとに、さまざまな等級や容量のものが作られています。『江井ヶ嶋酒造株式会社百年史』(346~347ページ)にはそれらの商品が集められた写真が掲載されていますが150種類以上になります。
 日本酒の銘柄は日本魂(やまとだましい)が中心でしたが、東京方面で人気のあった神鷹(かみたか)を中心的な銘柄として推進しているようです。
 若山牧水に「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ」という歌がありますが、酒と「白玉」という言葉の関連性は深く、焼酎、味醂、ワイン、梅酒にこの言葉を用いています。サントリーに「赤玉ポートワイン」がありましたが、筆者は江井ヶ嶋酒造の「白玉ホワイトワイン」の方がすっきりした名前のように感じました。
 江井ヶ嶋酒造株式会社は山梨県下にはワイナリーを持っており、大分県下には焼酎工場を持っていました。

【写真は、江井ヶ嶋酒造株式会社のウイスキー蒸留所。2012年(平成24年)10月9日10時13分撮影。】
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2012年11月 2日 (金)

名寸隅の記(44)

日本のトップ企業

 新潮文庫に日経ビジネス(編)『会社の寿命 盛者必衰の理』(平成元年8月25日発行)という本があります。
 その巻末(174~205ページ)に「日本の会社ベスト100の変遷」という資料が載っています。〈明治29(1896)年~明治44(1911)年〉に始まり、〈昭和57(1982)年〉に終わる資料ですが、まさに盛者必衰の歴史が感じられます。
 〈昭和57(1982)年〉には、1トヨタ自動車、2日本石油、3日産自動車、4新日本製鉄、5松下電器産業、……と100位までの会社が掲載されています。これは売上高によるランクです。
 〈明治29(1896)年~明治44(1911)年〉は、総資産額によるランクになっています。時代が異なりますから、尺度が違っても仕方がないでしょう。この時期は、1鐘淵紡績、2大阪紡績、3三重紡績、4北海道製麻、5摂津紡績、……となっていて、8位まではすべて繊維産業です。
 この本に「100社 100年のランキング業種別内訳」(25ページ)という表がありますが、明治29年は、100社のうち57社の業種が繊維です。時代を感じます。次いで水産・食料品が10社、鉱業が7社、窯業が7社となっています。
 さて、その明治29年の水産・食料品の10社とは、札幌精糖(27位)、大阪麦酒(37位)、日本麦酒(43位)、日本精糖(54位)、摂津製油(72位)、江井ヶ嶋酒造(80位)、糖業(83位)、日本精製糖(88位)、日本摂酒(91位)、堺酒造(99位)です。
 精糖会社が4社、製油会社が1社、酒類の会社が5社です。江井ヶ嶋酒造が全国の会社のベスト100の中にあるということだけでも驚嘆しますが、日本酒を醸造していた会社の中ではトップです。江井ヶ嶋酒造はこれほどの力を持っていたのです。
 日本摂酒は灘五郷の西宮の酒造会社で、社長に辰馬という名がありますから、現在の会社へと続いているのでしょう。大阪府堺市は酒造業が盛んであった土地なので、堺酒造はそこにあった会社だろうと思います。
 業種にも栄枯盛衰があり、個々の会社にもそれがあります。けれども江井ヶ嶋酒造は花も嵐も乗り越えて現在に至っているのです。

【写真は、『会社の寿命 盛者必衰の理』の表紙。】
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2012年11月 1日 (木)

名寸隅の記(43)

株式会社の先がけ

 『江井ヶ嶋酒造株式会社百年史』(40ページ)には、次のような記述があります。

 明治26年に商法の会社編が施行された。それにしたがって12月6日、当社は定款を改訂して農商務省に提出したが、同月18日に定款許可書が下付された。
 翌、明治27年2月28日、農商務省商工局員が当社視察のため来県、卜部兵吉は県庁へ出頭して会社の現況について報告した。

 同書(40~42ページ)に「報告書」が、横書きに改められて掲載されていますが、その報告書の末尾は次のようになっています。

 右ノ通取調候処相違無之此段上申仕候也
     明治27年2月28日
       明石郡大久保村ノ内魚住村35番屋敷
        江井ヶ嶋酒造株式会社
          専務取締役 卜部兵吉 (四角印),,,, 
  兵庫県知事 周布公平殿
 
 上記の資料によれば、明治26年12月6日に株式会社としての定款を提出し、明治26年12月18日に定款許可書が下付され、正式の株式会社となったと考えてよいのではないでしょうか。
 そして、翌年の明治27年2月28日には報告書に「江井ヶ嶋酒造株式会社」と書いているのです。
 前回(42)に、日本で最初の株式会社は1893年(明治26年)に設立された日本郵船だと言われていると書きましたが、江井ヶ嶋酒造株式会社も同じ年に株式会社としてスタートしています。いったい、この年に日本国内にいくつの株式会社があったのでしょうか。
 この会社を「かぶしき」と呼ぶのは、周辺を探しても株式会社など無かった時代の、郷土自慢の誇らしさが詰まった言葉であったと思います。「かぶしき」と言えば、この会社を指していたのです。江井ヶ島に有力な銀行の支店があることには何の不思議もないのです。
 江井ヶ嶋酒造株式会社は、その時から、ただの一度も社名を変更することなく、また、本社所在地を他の土地に移すことなく、今日まで続いています。現在の本社所在地は明石市大久保町西島919番地です。当時の地名は上記のように「明石郡大久保村ノ内魚住村」で、その「魚住村」こそ今の「西島」の地なのです。

【写真は、江井ヶ嶋酒造株式会社の酒蔵。2012年(平成24年)10月9日10時14分撮影。】
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