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2015年7月31日 (金)

【掲載記事の一覧】

 酷暑が続いています。四季の移りゆきを楽しみつつも、やっぱり穏やかな天候を願わずにはおられません。

 7月は「日本語への信頼」を書くことに専念しました。マスコミの言葉に比重を置いたようになりましたが、今後は話題を広げていくつもりです。

 「【明石方言】 改訂最終版・明石日常生活語辞典」の全体編は、休載のままですが、この辞典の修正・加筆作業は毎日続けております。この連載はいずれ再開します。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでに連載した内容の一覧を記します。

 

◆日本語への信頼 ()(42)~継続予定

    [2015年6月9日開始~ 最新は2015年7月31日]

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(1998)~継続予定

    [2009年7月8日開始~ 最新は2015年6月8日]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58) 連載終了

    [2015年4月1日開始~ 最新は2015年6月23日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)~継続予定

    [201310月1日開始~ 最新は20131031日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)~継続予定

    [2012年9月20日開始~ 最新は2013年9月5日]

 

……【以下は、連載を終了したものです。】……………………

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日開始~2015年3月31日終了]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日開始~2014年4月12日終了]

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日開始~2010年3月10日終了]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日開始~2011年9月13日終了]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日開始~ 最新は2014年5月30日]

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日開始~ 最新は2014年5月9日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日開始~ 最新は2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日開始~ 最新は2013年8月28日]

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日開始~20071212日終了]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日開始~2008年7月20日終了]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日開始~2009年9月10日終了]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日開始~2012年1月4日終了]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日開始~2012年5月3日終了]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日開始~2009年6月30日終了]

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日開始~20061231日終了]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日開始~2008年1月10日終了]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日開始~20061226日終了]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日開始~2009年6月4日終了]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日開始~2008年1月18日終了]

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日開始~2007年7月31日終了]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日開始~20081125日終了]

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日開始~2009年6月22日終了]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日開始~2009年5月8日終了]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日開始~2009年3月16日終了]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日開始~20081113日終了]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日開始~20081215日終了]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日開始~2007年6月30日終了]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日開始~2010年1月3日終了]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日開始~2012年7月8日終了]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日開始~2011年6月1日終了]

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日開始~2008年9月24日終了]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日開始~200610月4日終了]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日開始~20061011日終了]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日開始~200611月2日終了]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日開始~2007年6月6日終了]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日開始~2007年8月10日終了]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日開始~2007年7月7日終了]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日開始~20071030日終了]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日開始~20061015日終了]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日開始~2007年8月20日終了]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日開始~2007年9月12日終了]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日開始~2007年9月29日終了]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日開始~200612月7日終了]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日開始~2007年5月7日終了]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日開始~20061222日終了]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日開始~2007年8月27日終了]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日開始~2007年8月30日終了]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日開始~2012年9月19日終了]

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日本語への信頼(42)

「オワハラ」という言葉の下品さ

 

 いつから使われ始めたのか知りませんが、私が「オワハラ」という言葉に接したのは7月31日の朝7時過ぎのことです。

 NHKテレビのニュースに「オワハラ」という文字が出て、その瞬間はどういう意味であるのかはわかりませんでしたが、大学生の就職活動に関するものであることを知りました。

 その日の朝刊を広げてみると、次のような文章がありました。

 

 大学と短大の7割近くが、就職活動中の学生から企業のハラスメントを受けたと相談されていたことが、文部科学省が30日発表した調査でわかった。内定と引き換えに就活を終えるように迫られる「就活終われハラスメント(オワハラ)」だという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、7月31日・朝刊、13版、35)

 

 「〇〇ハラスメント」、略して「〇〇ハラ」は多様な使い方がされていますが、「オワハラ」には驚きました。「就活終われハラスメント」などというフレーズは誰が言い始めたのか知りませんが、それが他に伝染してそのまま使われ、短縮形の「オワハラ」という言葉になっています。しかも「終わハラ」という形はなく「オワハラ」に統一されているのです。誰かが使い始めたら無批判に使うということの典型です。

 ホームページで見ると、7月31日の新聞各紙はこのニュースを載せて、「就活終われハラスメント(オワハラ)」という表現は共通しているようです。

 新聞や放送にとっては、文字数が少なくなって好都合なのでしょうが、言葉の下品さは否めません。「就活ハラスメント」というような言葉を跳び越えて、「終われハラスメント」に収斂しているのです。わかりやすさだけで言葉を作っていったのでは、日本語はいくらでも下品なものになっていき、脆弱な言葉になっていくかもしれません。

 報道機関が一斉に「右に倣え」とばかりに飛びついていく様子にも恐ろしさを感じます。

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2015年7月30日 (木)

日本語への信頼(41)

早口言葉をゆっくりしゃべる

 

 人々の話し方のスピードが高まっています。NHKのニュースのアナウンスでも、かつてよりは速く読んでいるようです。その理由を、社会全体が忙しくなったからという人もいますが、そんなのは理由にならないと思います。

 やたら速くなって何を言っているのかわからないということも起きています。熊谷栄三郎さんの『おーい老い!』(2002年4月30日発行、京都新聞出版センター刊)の中に、こんなことが書かれています。

 

 木屋町付近の路地で、チラシを手に甲高い声で叫んでいる、アルバイトらしい娘さんの言葉を聞いたときである。食い物屋の宣伝をエンドレステープみたいに繰り返し唱えていることは分かるのだが、驚いたことに、最後の「いかがですかア」以外は一言も理解できなかった。あまりに気になるので、イッパイやってから、もう一度出向いて耳を傾けてみたが、やっぱり分からなかった。(同書、15ページ)

 

 アルバイトらしい娘さんは、教えられたことを忠実に口に出しているのでしょう。マニュアル通りのことを言うことで任務を果たしたという気持ちになっているのでしょう。

 客の質問を受け付けずに自分の言いたいことをしゃべり続ける店員に出会ったときには買い物の意欲は減退しますが、よくある出来事です。早口ではありませんが、よそ見をしながら「いらっしゃいませ」という言葉を発する店員の姿勢も同様です。

 共通していることは、聞く側の立場に立って話をしていないということです。自分の職務に忠実であることは大切ですが、相手のことも考えなければなりません。

 いくらゆっくり話しても、早口言葉と同様に感じられることは、日常生活にはたくさんあります。選挙のたびに、政策を難しい言葉でしゃべるばかりで、人々の胸に届かない候補者。最後に言う「投票をお願いします」だけが、よくわかる言葉です。

 国会論戦において、質疑とかみ合わない応答をして逃げ延びようとする大臣。最後に「憲法9条には違反していない」という言葉だけが繰り返されます。

 相手の意見を尊重しながら、自分の考えを相手にわかるように工夫して、ゆっくり話すことは、社会生活の基本です。

 

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2015年7月29日 (水)

日本語への信頼(40)

宣伝用語としての「一致」

 

 この頃、新聞や放送でしばしば聞く言葉に「一致」というのがあります。ひとつ一つ用例を挙げる必要もありません。「一致」はあふれています。政治に携わる人が、記者会見などでよく使います。会見を聞いた新聞や放送は、そのまま「一致」という言葉を使って報道します。

 外交上の交渉が終わったときなどに、首相が「私と〇〇大統領は、◇◇のことについて一致しました」と述べると、そのまま「一致」という言葉を使って報道します。そして見出し語に使ったりします。実に安易な姿勢だと思います。

 「一致」とは、どういうことでしょうか。辞書の説明は、それぞれの辞書で異なっていますが、方向性は同じです。

 

 ①二つ以上のものが。くいちがいなく一つになること。合一。②心を同じくすること。合同すること。③一般普通の常識。《広辞苑・第4版》

 二つ以上のものが一つになること。また同じになること。《新レインボー小学国語辞典・改訂第3版》

 複数の物事の形・量・内容などに違いがなくきちんと合う意で、会話にも文章にも使われる漢語。《中村明『日本語 語感の辞典』》

 

 大人向けの辞書も子ども向けの辞書も意味に違いはありません。二つ以上のものが、ぴったり重なり合うという印象です。この意味をずらすようにして使っているのが、政治に携わる人たちや報道機関です。両者がある程度近づいたときに、「一致」と表現してしまっています。相手国の言語でどのように表現されているのか知りませんが、日本語では「一致」と表現してしまうのです。

 世の中の人々を観察するに、個人と個人の間でも、考えなどが「一致する」することなどは珍しいことです。まして、国家間の利害などを考えると、二つの国が「一致する」ことなど極めて難しいと思います。そんなに簡単に一致できるものではないでしょう。

 国内の問題、例えば労使交渉などでは「一致」という言葉が使いにくくても、他国との間では「一致」という美辞を使ってしまうのです。

 かつては「大筋で一致した」というような表現が多く使われていたように思います。その方が事実に沿った表現であると思います。あるいは「合意をした」とも言っていました。謙虚さが漂っていました。

 記者会見で使われる「一致」は謙虚さのかけらもありません。政治用語として使われ、宣伝用語に過ぎないと思います。日本語をゆがめてはなりません。

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2015年7月28日 (火)

日本語への信頼(39)

メディアが露出度を高める

 

 朝日新聞・大阪発行の夕刊に「葦 -夕べに考える」というコラム欄があって、編集委員のような人が交代で執筆しています。

 文化財修復の老舗企業の英国人社長のことを取り上げた文章の中に、次のような表現がありました。

 

 外国人、異色の経歴、斬新な視点。メディアが放っておくはずはなく、露出度は高まるばかりだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、7月27日・夕刊、3版、10)

 

 「露出」という言葉には写真に関する意味もありますが、それを除けば、日常生活上の意味は明確です。例えば、次のように説明されています。

 

 ①隠・して(れて)いた内部をむき出しにすること。むき出しになること。《新明解国語辞典・第4版》

 ②おおい隠されていたものが、あらわれでること。また、あらわしだすこと。《明鏡国語辞典》

 ③おおわれず、むき出しになること。また、むき出しにすること。《岩波国語辞典・第3版》

 ④あらわれでること。また、あらわしだすこと。《現代国語例解辞典・第2版》

 ⑤かくれていたものが外にあらわれること。また、かくさずに外に出すこと。《新レインボー小学国語辞典・改訂第3版》

 

 「露出」という言葉の前提には、隠れていた・隠していたということがあります。そして、それがあらわれる(むき出しになる)・それをあらわしだす(むき出しにする)ことが「露出する」ということです。たいていの人は、自分を露出させることは望んでいないはずです。「露出」という言葉には、好ましいイメージは乏しいと思います。自分のことを進んで表に出すのなら「表現する」などという言葉を使うでしょう。

 「露出度」という3文字になると、本来は隠しておくべきような内容を、自分から進んで露出させる度合いという印象が強まります。例えば、売れなくなった俳優が自分を売り込むために取る作戦のようなイメージです。

 自分にはその意思がないのに他の人に知られてしまう度合いを「露出度」と言うのは、そぐわない感じです。

 先ほど引用した記事の表現は、そのあたりのことを見事に露呈しています。「メディアが放っておく」ことがないから、露出させてしまって、その度合いが高まったというのです。本人の意思とは関係なく露出させられてしまうのです。メディアに携わる人たちにとっては便利な言葉かもしれませんが、なんとも印象の悪い言葉です。メディアの自己反省が欠けた言葉です。

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2015年7月27日 (月)

日本語への信頼(38)

魚の水泳、犬の水泳

 

 松井栄一さんの『日本人の知らない日本一の国語辞典』(小学館新書、2014年4月6日発行)は、『日本国語大辞典』の編纂作業のことを中心に置いて、日本語について書かれた本です。その中にこんな文章がありました。

 

 言葉を考える上で、外部の視点が刺激になるという例をもう一つ挙げましょう。長い間アメリカに滞在し、ハーバード大学で日本語を教えていた板坂元氏が、ある雑誌に次のようなことを書いていました。

 ■たとえば水泳という語がある。現在、この語はスウィミングという訳語が与えられているが、日本人は「魚が水泳している」とか「船が難破して水泳した」とは普通言わないとすれば、水泳という語の用法も親切に教えてやる必要がある。 (同書、167168ページ)

 

 そして松井さんは、国語辞典で、水泳を「水面や水中をおよぐこと」というような説明ですませるのは不適切だと言い、その結果、現在の国語辞典は、「人が」であるとか「スポーツや楽しみとして」という説明を添えているのだと述べています。

 試みに『明鏡国語辞典』を引いてみると、「人がスポーツや娯楽として水の中を泳ぐこと」とあります。

 けれども、「人が」と書いてしまうと、困ったことも起こりかねません。ホームページを見ていると、「犬の水泳教室」とか「仔猫たちの水泳指導」とかの言葉が出てきます。「魚が水泳しているイラスト」という言葉もありました。

 これらの例を、犬、猫、魚を擬人化した表現だと言ってのけることはできますし、犬や猫は人の身近にいる存在だという説明もできるように思います。

 動物の種類をもっと広げると、「ライオンが水泳で川を渡った」というような表現も成り立つような気がします。

 人以外の動物に広げて表現する例を認めるならば、「水泳」という言葉を、「主として地上で生活している動物が、自分の手足などを動かして、体を水に浮かせて前へ進むこと」としてはどうであろうかと思います。そうすると、「魚の水泳」という言い方は排除できることになります。

 ただし、このような語義にすると、プールの中を立って歩くという、中高年者が行っている運動は「水泳」とは言えなくなってしまうという副産物が生じてきます。

 

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2015年7月26日 (日)

日本語への信頼(37)

自分のことを指し示す言葉

 

 自分のことを指す言葉はたくさんあります。私、僕、小生、拙者など、時と場合に応じて使い分けることがあります。「筆者は…」「記者は…」「カメラ(マン)は…」などと、立場を表す言葉で代用することもあります。

 さまざまな表現があって良いはずだとは思いますが、東京新聞のコラム『筆洗』の7月20日の文章には、びっくりしました。次のような文章です。

 

 電車で自分の横に座った若い女性が突然、別の席に移動する。そんな経験がないか。正直、小欄にはある。家人はその奇っ怪な行動を加齢臭のせいと分析している。

 

 「かつて小欄で述べたことがある」というような表現は当たり前の言い方ですが、その欄の執筆者自身を「小欄」という言葉で表しているのです。

 私は、コラムの筆者は、卑下したかのような「小生」のような言葉を使わないで、「私」で良いと思っています。

 それでも、筆者自身を客観視したいからでしょうか、「コラム子」などという言葉を見ることがあります。その例にならえば「小欄子」というような言葉は成り立つのかもしれません。

 けれども、それを「小欄」と言うことは、やっぱりしっくりした言葉遣いであるようには思われません。「欄」というような物体(スペース)で人を指し示すことは無理だと思うのです。

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2015年7月25日 (土)

日本語への信頼(36)

外来語と省略語

 文章を書く人の中には、外来語を好んで使う人がいたり、省略語を好んで使う人がいたりしますが、それが新聞の文章である場合には配慮が必要であるように思います。

 冒頭が次のような言葉で始まっているコラムがありました。

 「保育園建設に対する住民反対」というトピが多くのレスを集めていた。

  (読売新聞・大阪本社発行、7月24日・夕刊、3版、13)

 読者の中には外来語に詳しい人も、そうでない人もいます。パソコンを常に使っている人も、まったく無縁の人もいます。

 「トピ」はトピックのこと、つまり話題でしょう。「レス」とはレスポンスのことで、他人が書いたものに返事・返信をしたり、反応したりすることのようです。こういうことを外来語で、しかも短縮形(省略語)で書くのは仲間内では当然の言葉遣いなのかもしれまんが、それを一般読者向けに使うのはよくないと思います。

 この文章の筆者は、子供ヘイトとかマイノリティ(少数派)という言葉も使っています。これらは専門用語(術語)なのでしょうか。このような言葉を筆者が、誰にでもわかる言葉に置き換えることは難しいことではないだろうと思います。

 どのような言葉を使おうと表現者の自由だという考えがあることはわかっています。それならば、逆に、読む人にわかりやすい表現をしてほしいということを主張する自由も読者にはあるはずなのです。

 ついでながら、この文章の筆者のことは、文末に(コラムニスト・〇〇大学客員教授)と書いてありました。昔は「随筆家」という言葉が多く使われていたように思いますが、今は「エッセイスト」や「コラムニスト」が多くなっています。ところで、「エッセイスト」と「コラムニスト」とはどう違うのでしょうか。私にはよくわかりません。今は、本人が「コラムニスト」と言えばそのように記載される、自由な時代でもあるのでしょうか。

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2015年7月24日 (金)

日本語への信頼(35)

ネタ帳とホームページ検索

 

 最近の『天声人語』についての感想を、何度か書きました。7月18日の『天声人語』に次のような文章があって、なるほどと相槌を打ちました。

 

 言葉の人なのだろう。初めて漫才のネタのようなものを作ったのは小学校に入る前だった。小学生になるとネタ帳をいつも持ち歩き、何か思いついては書き留めていたという。お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹さんが『第2図書係補佐』で書いている

 

 『天声人語』にはパターンのようになっている書き方があります。全体の3分の1ほどは序の言葉で、よくぞそんなことを知っているものだと感心させられる話が語られます。いわゆる「枕」です。そして、その日のテーマへと続くのですが、枕が強すぎてテーマの中身が印象に残りにくいことがあります。あるいは、後半の文章をお添えもののように感じることもあります。

 それにしても、前半に書かれているような内容を豊富に蓄えている筆者に感心するのですが、どうもそうではないようだと気づきました。

 かつての『天声人語』は、筆者が自分で思いついたものを蓄積していったネタ帳によるもののように感じられて、深みがありました。文章を読んで、考えさせられたのはそのためであったように思います。

 現今の『天声人語』の「枕」は、ホームページで検索したような傾向はぬぐい去れません。新聞社ですからホームページ検索ではなく、自社の膨大な資料からの検索かもしれませんが、大同小異です。何かの話題について書くために、話の枕を資料から検索して選んだというように思われるのです。

 コラムの話題は豊富になりましたが、深みがありません。あるいは核心と関係のない枕で読者の関心をつなぎ止めておいてからテーマについて述べようとする傾向は否定できません。自分のネタ帳を放棄した文章であるとすれば、文章表現が手仕事になっているとは言えないのです。

 様々な知識をいつでも入手できるようになったパソコンの発達は、本当に私たちを豊かにしてくれたのでしょうか。『天声人語』にもそれが現れているように思います。

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2015年7月23日 (木)

日本語への信頼(34)

「いろは」→「123」→「ABC」

 

 朝日新聞の「ことばの広場 -校閲センターから」の欄に、JR九州の「ななつ星」の車両記号に「イ」が復活したという話題がありました。車両記号のことは鉄道ファンには既知の事柄ですが、次のような説明がありました。

 

 JRの在来線の車両には「サロ」「クハ」といった記号が書かれていることを知っていますか? このうちロやハは座席やサービスの水準を示します。かつては、イロハの順で付いていましたが、…(中略)… 戦後、1等の利用者が減ったことや、欧州諸国が2等制になったのを受け、1960年に営業運行する車両からイはなくなりました。代わりに従来の2等を1等、3等を2等に格上げし、それぞれロ、ハと呼ぶことにしたのです。69年には、1等をグリーン車、2等を普通車とし、これが今に続いています。

 (朝日新聞・大阪本社発行、7月22日・朝刊、10版、15)

 

 ものの順序や優劣の順位を表す場合に、イロハ…を用いて表すことがあります。旧・国鉄からJRへ組織が変わっても、車両記号はかつてのイロハが使われ続けているのです。個々の車両には数字の番号が施されます。車両の水準を示す記号がイロハであるのは、鉄道開通当初はABCなどは思いも寄らなかったでしょうから、ごく当たり前の名付けであったことでしょう。

 このような場合にアイウエオ…で順位を表す習慣は定着していませんし、甲乙丙…は記号というよりは意味を感じてしまいます。松竹梅や金銀銅も同様です。

 

 さて、学校のクラス名はどのように付けられているでしょうか。私が入学した小学校は「い組」「ろ組」でした。中学校は「1組」「2組」…でした。高等学校は「A組」「B組」…でした。学校が進むにつれて、異なった名付け方に新鮮さを感じたものでした。

 現在は小学校も中学校も高等学校も「1組」「2組」…が主流を占めているように思いますが。私たちは小学校の同窓会を催すたびに「い組」「ろ組」の呼び方を懐かしんでおります。

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2015年7月22日 (水)

日本語への信頼(33)

「押しピン」と「画びょう」

 

 社会面の2つの記事の見出しに使われている言葉、「押しピン」と「画びょう」はたぶん、同じものであろうと思います。一つの記事の見出しは、

 

 受け持ち児童の  椅子に押しピン  神戸、教諭処分

 (朝日新聞・大阪本社発行、7月17日・朝刊、13版、35)

 

 本文には、「神戸市教育委員会は16日、児童の椅子の背もたれに押しピンを貼り付けるなどの体罰をしたとして、…」「従わなかったため、椅子にもたれかかると背中に針が刺さるよう背もたれに押しピン2個を粘着テープで貼り付け、…」とあります。

 もう一つの記事の見出しは、

 

 画びょう 耳刺した疑い  名古屋  5人、専門学校同級生に

 (朝日新聞・大阪本社発行、7月15日・朝刊、13版、35)

 

 本文には、「2年生の男子生徒(16)を押さえつけ、耳に画びょうの針を刺したとして、…」「左耳たぶに画びょう(針の長さ1・4センチ)を突き刺し、…」とあります。

 

 さて、「押しピン」は、『日本国語大辞典(初版)』はもちろん、小型辞典の見出しにもほとんど載せられていません。

 『広辞苑(第四版)』の「おしピン」の項は、素っ気なく「画鋲に同じ。」とあるだけです。「がびょう」の項を見ると、「図画などを板や壁面にとめるための鋲。」とあります。

 たぶん「押しピン」は関西方言なのでしょうが、それが神戸と名古屋の記事を書いた記者の用語を左右しているのでしょう。

 私は、子どものときから「押しピン」を使ってきました。「画鋲」というのは、何と古めかしい言葉だろうという印象です。「鋲」という言葉は、複合語を含めて、ほとんど使わないからです。「押しピン」は短く「ピン」とも言います。「ポスターをピンでとめる。」と言っても、それは「押しピン」のことを指しています。

 学用品などの言葉には、地域的な特徴のあるものが意外に多いのですが、幼い頃から使ったがゆえに、それらの言葉は広く使われている、いわば共通語であるかのように思い込んでいるものが多いようです。

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2015年7月21日 (火)

日本語への信頼(32)

「って」と「て」

 

 前回の「っす」に続いて、今回は「って」について考えてみます。

 「って」は例文を探す必要もないほど日常的に使われています。「あいつは今日の10時に来るって。」とか「箱根の地震って、まだおさまっていないのだね。」とか、話し言葉では頻出しています。けれども、それは共通語の世界や東京言葉の世界での話だろうと思います。

 『日本国語大辞典』によれば、「って」は次のように説明されています。

 

 ①文相当のものをうけ、引用を示す。格助詞「と」にあたる口頭語。《以下、用例などを省略》

 ②助動詞の「た」や「だ」をうけ、逆接の接続助詞的に用いる。→たって・だって。

 ③体言または文をうけ、「…という」の意を表わす口頭語。「ってえ」となることもある。《以下、用例などを省略》

 

 関西では「って」に当たる部分を、「やて」とか「ゆうて」とかを使って表現します。「あいつは今日の10時に来るんやて。」とか「箱根の地震ゆうて、まだおさまっとらへんねんなぁ。」とか言うのです。

 「やて」は、断定の助動詞「や」に助詞の「て」がつながってできた言葉ですが、文脈によっては「て」だけの言い方も成り立ちます。「衆議院の審議やて、もうちょっとゆっくり時間をかけな、あかんがな。」やて言いますが、「いったい安保関連法案て何やねん。」て言い方もするのです。

 「ゆうて」は、漢字で書けば「言うて」であって、動詞(ウ音便)と助詞が熟したできた言葉です。発音が崩れると「ちゅうて」とも言います。

 「これは冥王星探査機ゆうて言いますのんや。」という場合の、「ゆうて」は助詞(「と」に当たる)で、「言い」は動詞です。

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2015年7月20日 (月)

日本語への信頼(31)

「です」を「っす」と発音すること

 

 朝日新聞の「まだまだ勝手に関西遺産」という企画の話題を、まだまだ続けます。

 とは言え、今回は、その記事の見出しのことです。「鶴橋駅のにおい」という題名で、焼肉店などがたくさん集まっている近鉄とJR大阪環状線の鶴橋駅の周辺が取り上げられています。ここは環境省の「日本のかおり風景100選」の一つにもなっています。

 新聞の企画は、強烈な焼き肉のにおいをおかずにご飯を食べてもらう実験をしたという話です。さて、その記事の見出しは次のようになっています。

 

 焼き肉ないと つらいっす

 (朝日新聞・大阪本社発行、6月17日・夕刊、3版、2面)

 

 記事の中には、実験に参加した学生などのコメントも書かれていますが、ごく自然な言葉遣いです。見出しが「つらいっす」となっているのとは少し違和感があります。

 この見出しをつけたのは、「です」を「っす」に置き換えて、若者の言葉の感じを表そうとしたのでしょうか。それとも、これを関西方言として表現しようとしたのでしょうか。

 新聞記事は関西限定の企画ですが、「っす」は関西の言葉とは言えないように思います。テレビ番組などでときどき耳にしますが、関西の人に限って使っているわけではありません。

 「っす」は、語尾を飲み込む感じで、私は良い印象を持ちません。体育会系の先輩・後輩関係の中ではしっくりするのかもしれませんが、一人前の社会人の間では定着するとは思いません。

 「辛いっす」「嬉しいっす」のように形容詞に続けやすいようですが、「そうっす」とか「バス停はうちの前っす」いうように、副詞や名詞にも続けることができます。

 「何ですか」というように撥音に続く場合は、「なんっすか」よりも「なんすか」となり、「っす」は「す」に落ち着いていくかもしれません。見出しに使われている「つらいっす」も「つらいす」になっていく可能性があります。

 その場合は、「です」が促音便に変化した後に促音がなくなったというよりは、単純に、「です」の「す」が脱落したという印象になるかもしれません。

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2015年7月19日 (日)

日本語への信頼(30)

「よろしおあがり」「おはようおかえり」

 

 朝日新聞の「まだまだ勝手に関西遺産」という企画の話題を続けます。

 食事の前後などに使われる「よろしおあがり」が取り上げられていました。食事を準備した人が、食べる人に向かって発する言葉です。

 

 「よろしおあがりやす」とも、「よろしゅうおあがり」とも。食べる前、食べた後、食事中に誰かが訪ねてきたときのあいさつにも使われる。食後なら、「よく食べてくれてありがとう」というニュアンス。「お粗末さま」ほどへりくだるでもなく、「おいしかったやろ」の押しつけがましさもない。

 (朝日新聞・大阪本社発行、5月20日・夕刊、3版、2面)

 

 私が、この言葉をよく聞いたのは、明治生まれの祖母からでした。箸を持とうとしたときに「よろしおあがり」という言葉を聞き、「いただきます」と言ったときに「よろしおあがり」という言葉が返ってきました。「よろしおあがり」は、さあどうぞ召し上がれの意味だと感じました。だから、「ごちそうさま」に対して「よろしおあがり」が返ってきたときは、ちょっと違和感を感じました。もう食べてしまったのに、なぜ?という気持ちです。けれども、それには、よく食べてくれたねという意味がこもっていると感じてからは、ごく自然に聞きました。

 

 関連して、別の言葉のことを書きます。祖母からは、出かけようとするときに、「おはようおかえり」という言葉をよく聞きました。この言葉は、はじめは、早く帰りなさいと命じられているように感じました。ちょっとイヤな感じを持ったことは事実です。けれども、この言葉は、何事もなく早く帰ってきなさいね、という無事を祈る言葉だと感じてからは好きな言葉になりました。

 料理を作ったことのない私は、「よろしおあがり」を言うことはありませんが、家族が出かけようとするときに「おはようおかえり」がふと口をついて出ることはあります。

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2015年7月18日 (土)

日本語への信頼(29)

「ん」で始まる言葉

 

 朝日新聞の「まだまだ勝手に関西遺産」という企画は、関西特有の言い回しなど、言葉の話題も積極的に取り上げています。

 少し前に取り上げられていたのは「んなあほな」という言葉です。記事の文章を引用します。

 

 「んなあほな」

 見かけたのは上方落語協会の情報誌、そのタイトルなのだ。笑福亭仁鶴さんの弟子、笑福亭仁勇さん(56)の案だったそう。「『ん』で始まるから、目立つと思ったんですよ」と命名者は明かす。

 「いきなり『あほな』はキツいけど、前に『んな』って付けると、ノリツッコミのようになるんじゃないかなあ。『そんなあほな』の『そ』がかすれたんでしょうね」。関西のツッコミ文化の一翼を担う言葉だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、5月27日・夕刊、3版、2面)

 

 「ん」で始まるから目立つということで言うと、喫茶店に『ん』一字の店があったりしますから、効果はあるのだと思います。

 けれども、「んなあほな」は、「そんなあほな」または「ほんなあほな」の冒頭の発音が、かすれたというより、もともと発音をしていないのだと思います。冒頭の発音がなくても、意味は誤解されないし、柔らかく響くという効果もあると思います。

 つまりは、「んなあほな」は明瞭に「ん」と発音しているのであって、「そん」だの「ほん」だのという発音は残していないから「ん」と書くしかないのだと思うのです。

 例えば、応答のときに使う言葉の「うん」は、「うん」という発音もしますが、人によっては、あるいは場合によっては、はっきりと「ん」と発音することがあります。鼻音の発音です。

 私は今、『明石日常生活語辞典』を作っていますが、「ん」で始まる語を取り上げています。目立たせようとして積極的に取り上げたわけではありません。自然とそのように発音する言葉があるからです。

 例えば、名詞の「んま()」は「うま」と言う方が多いでしょうが、「んま」もきちんと残っています。打ち消しの意味の助動詞の「ん」は、例えば、「明日は行かんつもりや。」などと言って、「ん」以外の何ものでもありません。格助詞(準体助詞)の「ん」は、例えば「その本はわし()んや。」と言います。「わしのや」とか「わしのんや」とも言います。感動詞の「ん」は、文のはじめに出てきますから、「んなあほな」というのと似た性格をそなえています。

 『明石日常生活語辞典』では、やや複合的な言葉も含めると、20語ほどを、「ん」で始まる見出し語として取り上げています。

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2015年7月17日 (金)

日本語への信頼(28)

「的」という言葉

 

 明治以降の日本語に新しい漢語が次々と作られて、それによって西欧諸国のいろいろな思想や文物を取り入れていったということは、後の日本語にとっては幸せな営みであったと思います。

 経済、哲学、思想…などという従来の日本語になかった言葉が、無数と言っていいほど作られていったおかげで、日本語は自国語だけで学問の深い部分を追究できる言語になりました。

 そんな中で面白いのは、外国語の発音を、意味の上でも理解できるように漢字に置き換えた言葉です。クラブのことを倶楽部と書けば、倶(ともに)、楽(たのしむ)、部(あつまり)という意味が伝わります。カタログを型録と書けば、機械や器具や着物などの型をたくさん記録した冊子にふさわしい文字遣いになります。(もっとも切手などの場合は、型録はちょっとおおげさになりますが…)。ギャラリーを画廊と書くのも、発音の類似性に基づくもののようです。

 そんな中で、ちょっと失敗だったのではないかと思われるのが、「的」です。ロマンチックというような「チック」という発音に「的」という文字をあてはめたのです。ロマンチックは浪漫的となります。

 〇〇的という場合の「的」はずいぶん曖昧な言葉です。そのものではないが、それに近い性質を持つ、とか、それと関係がある、とか、その範囲としての、とか、ともかく漠然としてしまう意味のように受け取られます。戦略的()互恵関係などという言葉は、戦略と互恵とがどのような重みで、どう結びついた言葉なのでしょうか。世界的()平和を世界平和と言うことができても、戦略的互恵を戦略互恵とは言えないでしょう。

 もともと、「的」は曖昧な言葉ではなかったはずです。「的」は、まと()や、めあて(目的)を表す言葉です。まとにあたることが「的中」であり、間違いのないことが「的確」であったのです。

 2字熟語、3字熟語の後ろに「的」という文字を添える言葉は、まとはずれな言葉遣いだと考えて、あまり使いたくないというのが私の考えです。

 

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2015年7月16日 (木)

日本語への信頼(27)

「炊いたん」という言葉

 

 「わたしの料理」という企画記事の見出しで、次のような言葉を見ました。

 

  夏野菜の炊いたん

   (朝日新聞・大阪本社発行、7月11日・朝刊、10版、30)

 

 記事の中には次のような文章があります。

 

 「炊いたん」。京都では煮物をこう呼びます。今回は「京の伝統野菜」といえば真っ先に思い浮かぶ賀茂ナスに加え、万願寺トウガラシやトマトをシンプルに炊いた料理。これぞ、おばんざいです。

 

 私が初めて「炊いたん」という言葉を店先で見つけたのは大阪のある商店街で、「芋のたいたん」と書いてありました。そのときは、もっと気のきいた名前の付け方もあろうにと思いました。

 記事に書かれているのは何種類かの野菜を取り合わせたものですが、大阪の店先のは、サツマイモだけをふかしたものです。焼けば「焼き芋」、蒸したものなら「蒸し芋」とでも言えばよかろうに、「たいたん」とは無造作な名付け方だと感じました。

 「炊いたん」の「ん」は、準体助詞「の」の発音が変化したものです。「炊いたもの」というのを短く言っているのです。言葉の上では何の不思議もない表現ですが、これに類する表現があまりありませんから、ちょっと奇異に感じるのです。

 中井幸比古さんの『京都府方言辞典』には、次のように書いてありました。

 

  タイタン 煮たもの。煮物。「おだいの~(大根の煮物)

 

 一種類のものを炊いても「タイタン」と言うようです。「ヤイタン」(焼いたもの)や、「ムシタン」(蒸したもの)は見出しにはありませんでしたから、「タイタン」だけに、おばんざいとしての思い入れがあるのでしょうか。

 

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2015年7月15日 (水)

日本語への信頼(26)

「しあわせ」の国会審議

 

 安全保障をめぐる国会審議について、朝日新聞は「言葉から考える安保国会」という特集で、「幸せ」という言葉を取り上げています。その書き出しの部分を引用します。

 

 政治の大きな役割の一つは、国民を幸せにすることと言っていいだろう。だから、歴代の首相は「幸せ」という言葉をよく使う。安倍晋三首相もそうだ。安全保障法制を整備する目的に「幸せ」を掲げる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、7月12日・朝刊、13版、4面)

 

 その記事の中には、次のような文章もあります。

 

 首相のいう「幸せ」は、今あるものに主眼を置く。一方、歴代首相は安倍首相とは違って、主に目指す国家、将来像を語るため「幸せ」を使ってきた。生活や暮らしを幸せにする、という文脈で語ることが多い。

 

 『日本国語大辞典』は、【仕合・幸】という言葉を次のように説明しています。

 

 ①めぐり合わせ。運命。機会。よい場合にも、悪い場合にも用いる。《以下、用例などを省略》

 ②幸運であること。また、そのさま。《以下、同じ》

 ③物事のやり方、または、いきさつ。事の次第。始末。《以下、同じ》

 

 このうち、②については、次のふたつに分けています。

 

 イ 運がよいこと。また、そのさま。幸福。

 ロ 幸運にめぐりあうこと。運が向くこと。うまい具合にいくこと。

 

 『日本国語大辞典』は、一つひとつの言葉の意味について詳しく説明していますが、重要な言葉である「しあわせ」は簡単な説明だけしかありません。それはすなわち、「しあわせ」の中身が一人ひとり異なるものであるからだろうと思います。

 朝日新聞の連載コラム「折々のことば」で、鷲田清一さんは、「ここはねえ、ムッシュー、バリでいちばん幸福な人が住んでいるんですよ」という〔パリのタクシー運転手〕の言葉を取り上げて、次のように解説しています。

 

 「ここはホームレスの人が寝泊まりしているそうですね」と土地通ぶったら、すぐに返ってきたのがこのことば。人生、何が幸福かは誰にも言えないという哲学がそこにはあった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、7月14日・朝刊、13版、1面)

 

 何がそうであるのかは、一人ひとり違って誰にも言えないというのが、「しあわせ」の本当の姿でしょう。誰にも言えないことを、時の首相は簡単に解き明かして、議論の中のキイワードにしようとしています。

 『日本国語大辞典』の語釈によるならば、私たちは、この政権に「めぐり合わせ」を持ってしまい、それが「運命」であるかのような境遇に立たされています。(語釈①)

 そして、安全保障法制を整備することが「幸運であること」につながると説得されているのです。(語釈②)

 時の政権の「物事のやり方」や「始末」の付け方が強引であっても、それは「しあわせ」の範疇に入ってしまうのです。(語釈③)

 首相を選ぶ権限は一般の国民にはなかったとしても、私たちが選挙で選んだ国会議員たちがこの法制整備を押し進めているのです。

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2015年7月14日 (火)

日本語への信頼(25)

国際問題にならなければよいが…

 

 全国紙の1面トップ記事とは思えないような記事に出会いました。コンサルタント会社が作ったDVD教材の紹介という趣旨ですが、扱いのスペースも大きく、なんとも品のない文章です。

 まず、その見出しは次のようになっています。

 

  北京→理屈勝負、おだて有効

 上海→先見性、首都に対抗心

  広東→投機的、「初物」に弱い

 中国ビジネス 地域別攻略法

 (産経新聞・大阪本社発行、6月22日・夕刊、4版、1面)

 

 その記事の文章を、あちこちから拾うと、次のような言葉が散りばめられています。

 

 〇「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」。広大な中国。攻略には一筋縄ではいかない工夫が必要なようだ。

 〇中国人は結果がすべて。メンツも重んじるが、実利は「命より大事」という信条で、その達成のため臨機応変にあの手この手を繰り広げてくるとする。

 〇首都・北京の人は…(中略)…勝つために誇張やすり替えを多発する。

 〇国際商業都市の上海の人は…(中略)…論理的で主張を譲らず、損得に敏感で「上海のそろばん」と言われる。

 〇広州市など広東省の人は…(中略)…交渉では不利と悟ると突然に別の観点から攻め始めたり、多額の投資をしても無駄だと察知するとすばやく撤退したりするなど変わり身が早い。

 

 これらのことはDVDの中で主張されているのでしょうが、それはあくまでDVD購入者向けの情報でしょう。それを一般読者向けに、ここまで露骨に堂々と報道してよいのでしょうか。

 中国は、「鶏鳴狗盗」「漁夫乃利」「我田引水」「四面楚歌」「呉越同舟」「傍弱無人」というような故事成語を生んできた国ですから、この程度のことでは驚きもしないのでしょうか。国際問題にならなければよいが、という心配が「杞憂」に終われば幸いです。

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2015年7月13日 (月)

日本語への信頼(24)

「雲の峰」の地方名

 

 二十四節気の小暑を過ぎました。本州ではまだ梅雨は明けておりませんが、35度を超える猛暑日となっている地域もあります。入道雲を見かける季節になりました。「雲の峰」とも言います。芭蕉の「おくのほそ道」の中に、

 

  雲の峰幾つ崩れて月の山

 

という句があります。元禄2年の旧暦6月3日に出羽三山の羽黒山に登り、そして8日には月山に登って湯殿山に下ったときに作られた句です。月山の彼方には白い入道雲が幾つも立ち、それが崩れてはまた立っています。あの雲の峰が幾つ崩れたら、月山の名のように、月に照らされた月の山となるのであろうか、という句趣です。仮にこの夜に月を見ても、8日の月(半月)ですが、月山という山を讃える句でもあるのです。

 さて、その「雲の峰」ですが、金子兜太さん監修の『美しい日本の季語』(誠文堂新光社、2010年4月30日発行)には、

 

 地方によっては「坂東太郎」(関東)や「丹波太郎」(関西)と呼ぶこともあります。

 

とあります。(同書113ページ) また、武田康男さん・菊池真以さんの『12ケ月のお天気図鑑』(河出書房新社、2015年4月30日発行)にも、

 

 京都では丹波の方に多く「丹波太郎」、関東では利根川の方なので「坂東太郎」などと呼ぶのが面白い。

 

とあります。(同書131ページ)

 坂東太郎は、利根川の別称の他に、こういう意味もあるのですね。丹波太郎という呼び名は初めて知りました。

 『日本国語大辞典』を開いてみると、丹波太郎の説明として、

 

 陰暦六月頃に丹波方面の西空に出る雨雲を京阪地方でいう語。この雲が現れると夕立が降るという。

 

とあり、この語の方言分布としては、大阪、兵庫県、淡路島が挙げられています。鳥取県八頭郡若桜で「たんばぐも」と言うようです。

 

 江戸時代中期の炭太祇に、

 

 嵯峨かけて三条通り雲の峯

 

という句があります。京都の三条通りから見て、嵯峨嵐山の向こうに見える雲の峰は、まさしく丹波太郎であったのでしょう。

 雲の峰(入道雲)について、各地ではいろいろな呼び方があるのでしょうか。興味がつのります。

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2015年7月12日 (日)

日本語への信頼(23)

「聞き手」は聞き役に徹すべし(続き)

 

 連載の()回に書いた文章の続きです。

 朝日新聞に連載の「人生の贈りもの -わたしの半生」の山川静夫さんのシリーズです。第4回以降の「質問」にあたる文を書きます。質問文の冒頭に、もとの記事にはなかった161718…の番号をつけます。

 

16 学生時代から、中村勘三郎さん(十七代目)と親しかったそうで。

17 その縁で新橋演舞場の舞台に立たれたとか。

18 翌日からですか。

19 水を差すようですが、そのとき大学4年では。

  (朝日新聞・大阪本社発行、6月25日・夕刊、3版、3面)

 第4回は、文末が「そうで。」や「とか。」になっていますが、「親しかった。」「立たれた。」と言うのと変わりません。「そのとき大学4年では。」と言うのは、本人の誤りを指摘して、聞き手の方が本人よりもよく知っていると言わんばかりです。

 

20 就職活動の話ですが。

21 よく受かりましたね。

22 初任地は青森ですか。

23 卓球のラジオ実況とは、どうするのですか。

24 青森時代は伝説が多いのですが、締め切り後の市営住宅の募集を読んだとか。

25 天気予報で「とんなんの風」と読んだとか。

  (朝日新聞・大阪本社発行、6月26日・夕刊、3版、3面)

 第5回も「とか」という言葉を使って、本人より先に内容を述べてしまっています。「初任地はどちらですか。」「アナウンスでの失敗はありませんでしたか。」というように尋ねられないのでしょうか。(実際にはそのように尋ねたのかもしれません。もし、そうなら、そのように書くべきでしょう。)

 

26 青森から仙台中央放送局へ。勝手が違いましたか。

27 局へ集合ですか。

28 それからテレビも普及していきましたね。

29 スランプと不安の仙台時代。支えてくれた人がおられるそうですね。

  (朝日新聞・大阪本社発行、6月29日・夕刊、3版、3面)

 第6回。話し手の直前の言葉の中に「スランプ」も「不安」もありません。どうして、「29」のように決めつけるのか、理解に苦しみます。話し手と聞き手が、よほど親密であれば、このようなやりとりも失礼にならないのかもしれませんが、新聞には読者がいることを忘れてはなりますまい。

 

 結局、7月3日の第10回まで、「聞き手」の尋ね方(決めつけ方)はこの調子で続きました。聞き手の言葉をすべて省略して、話し手の言葉だけを書き綴る方がうんと印象はよくなったでしょう。例えば、同じ新聞の「耕論」というページは、聞き手がいても、話し手の言葉だけで文章が構成されています。

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2015年7月11日 (土)

日本語への信頼(22)

「地産地消」が消えてしまった

 

 「マック」と「マクド」の東西対立が、今も残っているということが新聞の見出しにも現れています。そんな興味から切り抜いていた記事を読み返してみて、新聞の文章の整理の仕方を改めて認識しました。

 

 一つの記事は、主見出し(2行)の他に、もう一本の見出し(1行)があります。

 

  マクドの新バーガー 吉野家のベジ丼…

   外食、野菜に熱視線

  健康志向・地産地消を意識

   (朝日新聞・大阪本社発行、5月26日・朝刊、13版、6面)

  もう一つの記事は、主見出し(2行)だけで構成されています。

 

  外食各社、野菜メニューに活路

   マック・吉野家…女性客らを意識

   (朝日新聞・東京本社発行、5月26日・朝刊、13版、9面)

 

 「マック」と「マクド」の違いだけではなく、記事の第一印象が異なって伝わります。「熱視線」という積極性に対して、「活路」というのは悲しい対応です。

 そして、「地産地消」という見出し語の有無です。

 記事を比べてみると、東京本社版からは次のような文章が削除されていることがわかりました。(これ以外の違いも、いろいろとあります。)

 

 デニーズは今年3月、サラダに使う生野菜をすべて国産に切り替えた。

 中華料理チェーン「餃子の王将」も野菜や肉など主要食材はすべて国産という餃子を昨秋から売り出した。

 がんこフードサービス(大阪市)も、和食店で使う生野菜はすべて国産。契約農家を2006年から増やしており、現在6カ所ある。キャベツやハクサイなどを買っており、農家数を今後さらに増やす考えだ。

 

 記事のスペースを小さくするために、地産地消に関する表現に的を絞って削っています。「地産地消を意識」という見出しが使えないばかりでなく、記事の方向性がずいぶん異なったものになっています。

 この記事の最後に大学教授のコメントが載せられていますが、「少子高齢化で、健康を意識する客層への対応が外食業界でも必要になってきた」という、書いても書かなくてもよいようなコメントです。大阪本社版には、この言葉に続いて「地産地消を求める声も強まっており、時代に即した流れだ」と続きますから、コメントとしての意味が深まります。

 もう一つ、不思議なことがあります。大阪本社版は筆者を(北川憲一、田幸香純)としていますが、東京本社版は後者の名を削っています。田幸記者は地産地消のことを主として取材したということなのでしょうか。

 文章の整理の仕方ひとつで、印象の異なるものになってしまうということの好例のように思いました。

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2015年7月10日 (金)

日本語への信頼(21)

「いなせ」とはどんな容姿?

 

 お江戸方言なのか全国共通語なのか、どちらにしても、私が実感としてよくわからないのに「いなせ」という言葉があります。何度も見たり聞いたりした言葉です。

 恰好の記事に出会いました。新聞の半ページにわたる特集です。見出しは大きく、次のような言葉になっています。

 

 浴衣姿 いなせに町歩き

   (読売新聞・大阪本社発行、7月8日・夕刊、3版、5面)

 

 「いなせ」とはどういうことなのか。見出しに使われた言葉であり、長い文章ですからきっといろいろな説明があるはずだと思いました。

 そこで、「蒸し暑い日本の夏には、風通しが良く見た目も涼しげな浴衣が似合う。」で始まる文章をゆっくり2度、3度読み返してみました。

 この見出しに少しでも関係のありそうな言葉を探しました。

 

 〇着こなしのコツを押さえ、粋に町歩きを楽しみたい。

 〇麻素材を使った灰色の帯で渋くまとめてみた。

 〇おなか側を下がり気味に、お尻の側を上がり気味に(帯を)締めると軽快な印象になる。

 〇粋に着こなす最も大事なポイントです。

 

 記事の中はこれだけです。写真説明の言葉では次の1つがあります。

 

 〇定番のしま模様でも、シャープでモダンな印象に

 

 「粋に」とか「渋く」とか「軽快な」とか「シャープ」とか、簡単明瞭な言葉しか見つかりませんでした。ちょっと、がっかりです。

 東京に住む人には実感として「いなせ」ということがわかるのでしょう。この記事は、取材先はもちろんですが、文章も見出しも写真もすべて東京で作られたもののようです。そっくりそのまま他の地域の誌面にも載せたのでしょう

 『日本国語大辞典』では、「いなせ」を、「勇み肌で、いきな若者。また、その様子。威勢がよくさっぱりした気風の若者。また、その気風。」と説明しています。語源説として、新吉原に関することと、日本橋の魚河岸のこととがあげてあります。

 同じ辞典では、「勇み肌」を、「威勢がよく、強者をくじき弱者をいたわる任侠の気風。おとこ気ある侠客的な気性。また、その人。伝法肌。」と説明しています。

 『広辞苑』も、「いなせ」を、「粋で、いさみはだの若者。また、その容姿や気風。」と説明しています。

 2つの辞典に共通していることは、「気風」であり、その気風が外に現れた「容姿(様子)」のようですが、男物の浴衣が、どうして「いなせ」を体現しているのか、結局はわからずでした。

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2015年7月 9日 (木)

日本語への信頼(20)

「お裾分け」という言葉

 

 お菓子や果物を渡すしぐさに加えて、「おすそわけ」という言葉を初めて聞いたのは、ずっと昔のことですが、テレビのホームドラマの中のシーンであったように思います。「おすそわけ」という発音から、すぐに「お裾分け」という文字を思い浮かべましたが、それはテレビドラマのために作られた言葉かと思いました。

 あまりにも、私自身の日常生活と無縁の言葉でありますから、テレビ用語なのか、そうでなければ東京方言であるのかと感じたのです。

 朝日新聞の「ことばの広場 -校閲センターから」が、この「お裾分け」を取り上げていました。(朝日新聞・大阪本社発行、7月8日・朝刊、10版、13)「裾」という言葉と上下意識との関係がテーマの中心になっていました。

 

 お隣さんへ何かを持っていくようなとき、私自身はどのように言っているのだろうかと思い返すと、「一つですけど、……」とか、「貰いもんですけど、(どうぞ)」とか、「余りもんですけど、(食べてくれる?)」か言って差し出します。ときには、ストレートに「これ、貰(もろ)てくれる?」と言うこともあります。

 上の言い方は、自宅で作って余ったものを持っていくような場合にも使いましたから、到来物との区別はしていないと思います。

 たとえ貰った物であっても、明確に「貰いもん」と称するよりは、相手が貰ってくれるか、食べてくれるかということに気をつかっていたように思います。貰ったものを、さらに他人に貰ってもらうとは言いにくいという心理も働いているのでしょう。私たちの方では余ってしまいましたから、あなたの方で食べていただけますか、という気持ちが表れている言葉遣いです。

 それに比べて、「お裾分け」は、(「裾」が下の方を意味するということは別にしても)貰ったものを分割してあなたのために持ってきたという語感が響きます。ちょっとえらそうな感じは否めません。私自身は使いにくい言葉ですし、使ったことはありません。

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2015年7月 8日 (水)

日本語への信頼(19)

発言撤回と謝罪

 

 連載の(12)回に話題とした、ある政党のある懇話会でのある作家の発言について、沖縄県議会や宜野湾市議会がその作家の発言に対して、抗議決議を全会一致で可決したというニュースを知りました。当然のことでしょう。けれども、その記事によりますと、発言の「撤回」と「謝罪」を求めていると書いてありました。

 撤回とは、この場合は、発言したということを取り消して、発言がなかったことにするということでしょう。それはおかしなことです。

 

 かつて、よく聞いた言葉に「モトイ!」というのがあります。何かを言っている途中で間違えて言うことがあった場合に、「モトイ!」と言って、その言い間違いを訂正するのです。聞いている人に指摘される前に、自分から即座に訂正しようとするときに使う言葉です。「モトイ!」ばかりを繰り返しては困りますが、小さな間違いばかりです。

 言ったことを撤回するのは、小さな誤りならば何とかなります。話の根幹にかかわらないものならば、後になって訂正しても許されることがあります。

 「モトイ!」「モトイ!」を繰り返す人には、その人のクソ真面目な人柄があらわれていて、ほほえましい場合もあります。

 

 さて、小さな間違いを述べたのなら、それを取り消して「訂正する」ことはできるでしょう。けれども、それは話の根幹にかかわるものでないということに限られます。

 もう少し重みのあることを例にするならば、相手と固く約束したことを、後になって「取り消す」ことも、お互いが納得しての上でなら、可能でしょう。

 けれども、今回のある作家の発言は、そういうこととは根本的に異なります。問題となっているのは、話の根幹にかかわることであるからです。

 たとえ市議会が「撤回」を求めて、ある作家がそれに応じたとしても、ある内容の発言があったという「事実」を取り消すことはできません。そのような話をしたという事実は、人々の心の中に残り続けます。事実は撤回できません。

 いろいろな世界で、不適切な発言があった場合、その発言の取り消しが行われることがあります。けれども、いったん発言したものは聞いた人の胸に残りますから、取り消すと言っても、人々の心から消し去ることはできません。直接聞いた場合だけではなく、報道によってその発言内容を知った場合も同じです。

 後になって行うべきことは、その発言のどこが不適切であったのかを説明し、場合によっては謝罪することと、その発言を修正することしかありません。発言を撤回して一件落着ということにはなりません。撤回するというのは卑劣なやり方になるでしょう。

 議会における発言の場合などでは、議事録から抹消するということがあるようですが、それは、議事録の体裁を整えるという効果しかありません。

 この作家に残されている道は、発言した事実を取り消すことではなくて、発言した内容について謝罪することです。何度も言いますが、たとえ謝罪しても、発言したという事実は消えません。

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2015年7月 7日 (火)

日本語への信頼(18)

「ぶった切り」文体の横行

 

 例えば、次の文は正しい言葉遣いと言えるでしょうか。中学生ぐらいの生徒に向けて出される問題です。

 

  私は、明日の試合で、なでしこジャパンは、きっと勝つ。

 

 ほとんどの中学生は、この文は間違いであると知っています。「私は」に対して、「と思います。」という言葉がなければならないと指摘します。こんな簡単なことが新聞の文章では忘れ去られています。

 

 例えば、サッカーの女子ワールドカップの決勝戦のニュースで、各地の応援風景を報じる記事がありました。時刻ごとに10に区切って書いています。その10の区切りの文章の、最後の一文を抜き書きします。人名は〇〇に置き換えます。……は引用部分の前に言葉があったことを示します。

 

 08:00 「湯郷温泉青年部」の〇〇は、「精いっぱいの大声援を届けたい」。

 08:05 ……神戸・三宮の商業ビルの特設会場では、スクリーンを前に「あぁ」とため息がもれる。

 08:22 〇〇は「気持ちだけでも前へといってほしい」。

 08:27 〇〇は「やっと一矢報いてくれた」。

 18:33 ……スマホでテレビ観戦していた〇〇は「流れが変われば」。

 08:46 〇〇は「立ち上がりの失点で浮き足立った」と残念そうな表情だった。

 08:50 3点を追う展開に「仕事で最後までは見られない。早く追いついて」。

 09:08 オウンゴールでの2点目に、〇〇は「宮間選手のプレーがミスを誘った。将来はあんな選手になりたい」。

 09:22 「長岡京魂や」と歓声があがった。

 09:50 ……〇〇は「いつか同じ舞台に立ちたい」と誓った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、7月6日・夕刊、3版、11)

 

 10のまとまりのうちの過半数が、カギカッコで文を終えている、不完全な表現です。記者が文末をこんな表現を書いているのなら、未熟だと言わなければなりませんが、そうではなくて記事を整理する人が、文末を削除しているのでしょう。記事のスペースの都合という言い訳は成り立ちません。

 このような「ぶった切り」の文は、教育上はまったく不適切です。私はNIEの研究組織で活動したことがありますが、こういう文章は中学生や高校生に読ませたくない文章です。若い人に向かって、新聞を読むことを勧めるのなら、新聞にはしっかりした文章が満ちていなければなりますまい。

 放送のニュースでは、このような文体は成り立ちません。新聞の関係者は、この記事を朗読してみて欲しいと思います。耳で聞いただけなら、わけがわかりません。全く日本語の体裁を整えておりません。目で読むことに頼っている書き方に過ぎません。

 こういう不適切な文は、社会面だけにあらわれるのではありません。政治面でも経済面でもスポーツ面でも充満しているのです。

 表現の自由を声高に叫ぶことも大切でしょうが、読者に正しい日本語の書き方を伝えることも大切なことなのです。

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2015年7月 6日 (月)

日本語への信頼(17)

「パ」の怪

 

 「パ」の怪、と書くと何を連想されるでしょうか。

 「セ」は今、首位から5位までが1.5ゲーム差となっていて混戦です。「パ」は…、と書くとプロ野球のことであると考えるのはごく普通のことです。

 

 では、「たこパ」の「パ」とは何のことでしょうか。

 外国人観光客が急増しているというニュース記事で、「外国客 触れて普段着ジャパン」という主見出しの次に、こんな副見出しがありました。

 

 たこパ 商店街で買い出し■すし学校■雪に感動

  (朝日新聞・大阪本社発行、7月5日・朝刊、13版、33)

 

 並んでいる言葉がばらばらです。だから、■で区切るしかなかったのでしょうが、それにしても「たこパ」とは何でしょうか。

 ミナミ(大阪)、奈良、城崎での例が本文で述べられていて、■で区切られた3つの見出しはそれに対応しているのです。ミナミについて述べた文章は4段にわたる長い文章ですが、本文をつぶさに読んでも「パ」にあたる言葉は出てきません。ツアーとかテーマパークとかの外来語は使われていますが、「パ」で始まる言葉はありません。

 少し考えれば、これはパーティのことだろうと判断できるのですが、本文にないのですから断定できません。しかも、パーティのことを「パ」と表現することは定着しているのでしょうか。あまりにも勝手な言葉遣いです。

 

 同じ日の同じページに、明治日本の産業革命遺産の登録をめぐるニュースが掲載されています。それを伝える記事の主見出しが「日韓対立広がる困惑」となっていて、副見出しは次のようになっています。

 

 世界遺産登録 地元PV各地で中止

  (朝日新聞・大阪本社発行、7月5日・朝刊、13版、33)

 

 本文を見ると「パブリックビューイング(PV)」という表現があります。

 ところで、パブリックビューイングとは、もともと、スポーツ競技をスタジアムや街頭などにある大型の映像装置を使って観戦する催しのことのようです。本来は、スポーツでないものには使わなかったと思います。

 主催者がそのように称すれば、その言葉をそのまま報道するという姿勢でよいのでしょうか。(他の表現はいくらでもできるはずです。)しかも、主催者を含めて誰もアルファベットの略称などを使っていないであろうと思われるのに、「PV」と書いています。

 2文字を1文字の見出しにしようとしたら、これも「パ中止」などという書き方になるのでしょうか。

 

 新聞の見出しは文字数が限られていることなどは誰でも承知しています。けれども、新聞が外来語や略語を粗製濫造して、日本語を乱していく出発点になっているということは紛れもない事実です。特に、記事を書く人よりも、整理して見出しを付ける人には自覚していただく必要があります。

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2015年7月 5日 (日)

日本語への信頼(16)

方言は、話し言葉やねん

 

 朝日新聞の特集ページに「beランキング」というのがあります。今回は、「どこの方言が好きですか?」という企画でした。

 その記事のリード文は、次のような表現になっていました。

 

 最近な、ツレと話しとって、イラッとすることがあんねん。その子は東京出身なんやけど、やたらとエセ関西弁を使いよる。もう、きしょいからやめー言うてもな、好きやから、よーやめられんのやて。よその方言を好きで使う人って、結構おるんかなぁ?

 今回は、それでみなさんに聞いてみることにしたんや。

 (朝日新聞・大阪本社発行、7月4日・朝刊、b2面)

 

 この文章の筆者は関西の人ではなく、関西弁を真似て書いたようですが、ぎくしゃくした感じは否めません。けれども、生粋の関西人が同様の内容を書いたとしても、大きな違いはないと思います。この文章に、何かなじめないような気持ちを持つのは、次のような理由からなのです。

 私も、すこし長い文章を関西の言葉で書いたことがありますが、文字にすると、方言を使って何かの演技をしているように思われて、すっきりしない気持ちになりました。それは、関西の言葉に限らず、どこの方言でも同じことでしょう。

 文章全体を関西の言葉で書くことよりも、部分部分に関西の言葉を取り入れて綴っていく方が効果的だと思うようになりました。その方が方言の息遣いを伝えやすいと思うのです。

 なぜ、そうなのか。理由は明白です。方言は話し言葉です。方言研究というのは話し言葉の研究に他なりません。方言は、話しているときには活き活きとしていますが、その言葉をそのまま文字に書いても、話し言葉としての活気はかなり失せてしまいます。発音の特徴や微妙な間の取り方などを文字に定着させるのは、実に難しいことなのです。

 例えば小説などの「会話文」に方言を使うと活き活きしてくるのですが、何かを説明するような文章の、「地の文」を方言で書くと面白くないというのは、方言は話し言葉であるということと、関係していると思います。

 「どこの方言が好きですか?」というアンケートは、1位・京都府、2位・大阪府、6位・兵庫県と、いわゆる京阪神地域が上位に入っているのは嬉しいことです。

 ところで、最初のリード文のことに戻りますが、「ツレ」「イラッ」「きしょい」というような、目立つ感じの言葉を避けて、やや緩やかな言葉で表現してみましょうか。

 

 このごろ、友だちと話しとったら、いらいらすることがあるねん。その子ーは東京の生まれなんやけど、へらへっと関西弁の真似してしゃべるんや。もー、気色悪い(きしょくわるい)さかいやめてー、言うてもな、好きやさかい、よーやめられへん言()ーねん。よその方言が好きや言()ーて使う子ーは、仰山(ぎょーさん)おるんやろかいなぁー。

 そいで今回は、みなさんに聞いてみることにしましてん。

 

 どちらかというと兵庫県寄りの言葉で書いてみました。「へらへっと」は度を過ごしている様子を表す言葉です。

 この特集の最後のコメントは、「コミュニケーションを豊かにするツールとして、方言をもっと活用するのも、おもしろいのとちゃいますか。」となっています。まったくその通り、大賛成です。話し言葉のコミュニケーションの場では、なかなか有効な手段になると思います。

 関西の言葉が広がることを歓迎しつつ、東京言葉の「行っちゃう」「来ちゃう」のような言葉の侵入を阻止したくて、「行っちゃう、来ちゃうは、関西の言葉とはちゃう(違う)ねん。」と言い続けている私ですが、方言は消滅していくというような悲観的な見方はなるべく持つまいと自分に言い聞かせています。

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2015年7月 4日 (土)

日本語への信頼(15)

活字になったものへの信頼感

 

 人は、聞いた内容よりも読んだ内容への信頼感の方が大きい、と思います。それが手書きであるよりも、活字である方が信頼感は強くなります。

 新聞は活字です。もうそれだけで信用してしまいます。ましてそれが論説委員という肩書きで書かれたりしますと、その度合いは高まります。だからこそ、新聞には誤解を生むような表現をしてほしくないと思うのです。

 

 教育基本法14条にこうある。「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」。第2項で「政治的中立は守ってね」と釘を刺しているが、政治教育自体は大いにやるべし、と法律も後押ししてるんですね。

 (朝日新聞・大阪本社発行、7月3日・夕刊、3版、14面。「葦 -夕べに考える」欄)

 

 選挙権年齢が引き下げられて、来年夏の参院選から高校生も投票が可能になるという話題について述べた文章の一部分です。

 引用した文章のうちの前半は、何も問題はありません。けれども、後半は大いに誤解を生みます。教育基本法を知らない人は、法律にはそのように書いてあるのかと誤解をするでしょう。

 14条第2項に書かれている言葉が「政治的中立は守ってね」などという、くだけた表現でないことは誰でもわかります。けれども、第2項は「政治的中立」という言葉は使っていませんし、「政治教育」を推奨しているわけではありません。

 第2項には、「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と書いてあります。文末は、「してはならない。」なのです。

 「良識ある公民として必要な政治的教養」という言葉と、「政治教育」という言葉の違いは、教育に携わる人なら心得ています。「政治教育」をしてはいけないということもわかっています。選挙権の拡大に伴って「公民教育」とか「主権者教育」とかを充実させなければならないという声が高まりましたが、それは「政治教育」とは一線を画した部分があるから、使われた言葉なのです。それを荒っぽく「政治教育」という言葉に置き換えてはいけないでしょう。

 主権者としての自覚を促す教育をするとか、模擬投票を経験させるとか、具体的な問題について討論させるとかは必要なことでしょう。けれども、ある政治問題について、意図的に賛成や反対に導くのは行き過ぎでしょう。行き過ぎた部分が生じたら「政治教育」になってしまいます。

 論説委員の方がすべての分野での専門家であろうはずはありません。それは仕方がないことですが、教育基本法の肝腎な部分について、読者に誤解を与えるような表現は差し控えるべきだと思います。

 この文章は、「知り合いの高校教師」に取材して書かれたそうですが、取材に際して聞き間違いがあったのかもしれません。

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2015年7月 3日 (金)

日本語への信頼(14)

「ぴっくり通り」に びっくり

 

 朝日新聞・大阪本社発行の夕刊に「関西遺産」という週1回の連載があります。ずいぶん前に始まった企画ですが好評のようで、現在の標題は「まだまだ勝手に関西遺産」となっています。言葉の話題も、しばしば取り上げられます。

 先日は、奈良県の近鉄生駒駅の近くにある「ぴっくり通り」という商店街が紹介されました。(7月1日・夕刊、3版、2面)

 「びっくり(吃驚)」でなくて「ぴっくり」です。40年ほど前に公募して決めたらしいのですが、公募前から「ぴっくり通り」と呼ばれていたという説もあるようです。取材の結果は、商店街の「びっくり市」という催しをヒントに、響きのよい「ぴっくり」として応募したという78歳の女性が名付け親だったということに落ち着いたようです。

 私は今、『明石日常生活語辞典』を編集中なのですが、「ひ」の項を読み返してみました。日常会話に出てくる言葉で、「ぴ」で始まるものは、外来語に由来する言葉を除けば、ぴいひゃら、ぴいぽお、ぴかっと、ぴくぴく…など、擬声語や擬態語にほぼ限られます。

 「ぴっくり」は作られた(工夫された)言葉ですが、形容動詞(「ぴっくりやった」などと言います)や、動詞(「ぴっくりする」と言います)の働きをする言葉です。このような言葉を他に見つけることはできません。名付け親は、この言葉の語感や新鮮さを考慮して応募されたのでしょう。

 強いて言えば、「ぴ」で始まる名詞は作れるかもしれません。他の語との混同が起こりにくいような言葉、例えば、ひよこ()を「ぴよこ」と言ったり、ひょうしぎ(拍子木)を「ぴょうしぎ」と言ったりすることはできるかもしれませんが、広く受け入れてもらえるかどうかはわかりません。語頭にあらわれる「ぴ」はなかなか手ごわいようです。

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2015年7月 2日 (木)

日本語への信頼(13)

「字説」という言葉

 

 新字体の「鉄」という文字を左右に分けると「金を、失う」という文字になるので使うことをためらって、会社名などでは旧字体の「鐵」が好まれるということを聞いたことがあります。「鐵」は分解すると、「金」の「王」なる「哉(かな)」となって、素晴らしい意味になるというのです。

 

 初めて目にする言葉に出会うと辞書で確かめてみようとする癖がついています。

 「ことばの広場 -校閲センターから」というコラムで、次のような文章を見ました。(朝日新聞・大阪本社発行、7月1日・朝刊、10版、15)

 

 漢字の成り立ちを「字源」といいますが、王安石のような解釈は、それとは区別して「字説」と呼びます。字説は、ときに処世術となったり思想へと発展したりもするので、それなりの意義があるといえます。

 

 この文章の前には、北宋の宰相・王安石は「籠」は「竹の中に龍を収めること」で、「波」は「水の皮のこと」だと説いたと伝えられているという話が書かれています。

 漢字を分解してその部分部分に意味を持たせることは面白いことで、漢字への興味も増し、自分でもいろいろな解釈をして楽しむことにもつながるでしょうから、そのことに異議を唱えるつもりはありません。

 気になったのは「字説」という言葉で、一般向けの文章では、たぶん初めて目にしたように思います。

 『新明解国語辞典』『明鏡国語辞典』などから始めて、『広辞苑』を見ても、この言葉は載っておりません。『日本国語大辞典』を引っぱり出しても載っておりません。

 『大漢和辞典』でようやく「字説」に巡り会うことができました。それによると、次のように書かれていました。(旧字体などを修正しながら書き写します。)

 

 字説  書名。二十巻。宗、王安石撰。後、増補して二十四巻とす。安石独自の考を以て文字を解釈し、極力説文を排斥し、悉く会意の一途を以て解釈し、牽強付会の弊に陥る。(以下、省略)

 

 私は今、王安石の解釈の是非を話題にしているのではなく、「字説」という言葉について考えているのです。書名として名づけられた「字説」という言葉が、書名の枠を出て、普通の言葉として使われているのかどうかということです。日本語学者や漢字研究者の間で広く使われているのなら、術語(学術上の専門語)ということになるのでしょうが、それにしても、日常の言語生活では使われない言葉です。「字源」や「字解」(文字の解釈)という言葉は一般化していると言ってもよいでしょうが、「字説」はあまりにも唐突な言葉が飛び出してきたという印象はぬぐい去れません。

 

 「字説」という言葉の意味・用法が、このコラムの筆者の「自説」にとどまらないためには、この言葉がどのような書物の中で使われ、どれほど一般化しているのかということを、コラムの文章の中で説明してほしいと思いました。

 「字解」を考えていく場合にも、その文章を書いている人は、常に「自戒」の気持ちをもって文章を書き進めなければならないでしょう。

 

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2015年7月 1日 (水)

日本語への信頼(12)

ギャグだとする発言

 

 ある政党のある懇話会で、ある作家が発言したことが話題になっています。およそ40人ほどの同志のような会合ですから、どうして漏れたのかも不思議なことです。報道されている内容が、この会合の中の様子をどこまで如実に伝えているのかはわかりません。報道されている内容よりもっとひどいことであったのかもしれませんし、そうでもないことにいくらかの誇張が加えられて報道されているのかもしれません。

 けれども悲しいことに、私たちはマスコミの報道に頼るしかありません。その後の報道では、その作家が、会合での発言のことをギャグであったと弁明しているということを知りました。はっきりと「ギャグ」という言葉を使ったようです。

 ギャグとは、演劇や映画などで、観客を笑わせるために、筋の合間に入れる、おもしろおかしいせりふやしぐさのことです。つまり、その作品の主な筋道とは関係のないものがギャグです。

 報道されている内容で見る限りは、この作家の発言はおもしろおかしい話ではないようです。本筋も本筋、会合に集まった人たちの考えを支持するような発言であったようですから、これをギャグとして片付ける神経が私には理解できません。言葉の専門家であるはずの作家の発言としては見逃せません。発言内容を極小化させようとする意図が「ギャグ」という言葉には現れています。

 

 今回の場合、作家は発言を取り消すとは言っていないようです。今さら取り消すことなどはできないでしょう。「ギャグ」という言葉で逃げないで、発言の真意を改めてきちんと説明すべきでしょう。そのとき、世間の人たちからさらに大きな批判が向けられるでしょうが、それは覚悟の上で説明することこそが、作家の責務です。

 私たちに必要なことは、発言を取り消したら許してやろうというような姿勢を持つことではないと思います。当該者が陳謝すればよいというものでもありません。馬鹿げた発言を繰り返してほしくありませんが、誤った発言をした人の真意を見抜き、そのような人に対する接し方を考えることこそが大事だと思います。

 

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