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2015年8月31日 (月)

【掲載記事の一覧】

 8月も「日本語への信頼」を書くことに専念しました。新聞記事に基づくものが多くなりました。

 その文章のうちのいくつかは朝日新聞社の東京本社や大阪本社へ、「参考」としてメールで送りました。記事の誤りを指摘したものも、いくつか含んでいます。

 朝日新聞社は例の誤報事件以来、いかにも読者に寄り添った編集をしているような姿勢を見せています。誤りは直ちに正すというポーズを見せています。

 けれども、それは表面的な宣伝に過ぎないということが次第にわかってきました。「メールをありがとう。参考にします。」という返信を受け取ったことはありますが、それは実に珍しい一例に過ぎませんでした。まして、記事内容に対するコメントをもらったことはありませんし、指摘したことを紙面で訂正することなどはしていません。誰でもわかるような、初歩的なミスだけを、申し訳程度に訂正することを続けています。誤報事件を教訓にしているようには思えないのです。

 「【明石方言】 改訂最終版・明石日常生活語辞典」の全体編は、やっぱり休載を続けていますが、この辞典の修正・加筆作業は毎日続けております。この連載はいずれ再開します。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでに連載した内容の一覧を記します。

 

◆日本語への信頼 ()(73)~継続予定

    [2015年6月9日開始~ 最新は2015年8月31日]

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(1998)~継続予定

    [2009年7月8日開始~ 最新は2015年6月8日]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58) 連載終了

    [2015年4月1日開始~ 最新は2015年6月23日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)~継続予定

    [201310月1日開始~ 最新は20131031日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)~継続予定

    [2012年9月20日開始~ 最新は2013年9月5日]

 

……【以下は、連載を終了したものです。】……………………

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日開始~2015年3月31日終了]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日開始~2014年4月12日終了]

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日開始~2010年3月10日終了]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日開始~2011年9月13日終了]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日開始~ 最新は2014年5月30日]

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日開始~ 最新は2014年5月9日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日開始~ 最新は2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日開始~ 最新は2013年8月28日]

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日開始~20071212日終了]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日開始~2008年7月20日終了]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日開始~2009年9月10日終了]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日開始~2012年1月4日終了]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日開始~2012年5月3日終了]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日開始~2009年6月30日終了]

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日開始~20061231日終了]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日開始~2008年1月10日終了]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日開始~20061226日終了]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日開始~2009年6月4日終了]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日開始~2008年1月18日終了]

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日開始~2007年7月31日終了]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日開始~20081125日終了]

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日開始~2009年6月22日終了]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日開始~2009年5月8日終了]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日開始~2009年3月16日終了]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日開始~20081113日終了]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日開始~20081215日終了]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日開始~2007年6月30日終了]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日開始~2010年1月3日終了]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日開始~2012年7月8日終了]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日開始~2011年6月1日終了]

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日開始~2008年9月24日終了]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日開始~200610月4日終了]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日開始~20061011日終了]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日開始~200611月2日終了]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日開始~2007年6月6日終了]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日開始~2007年8月10日終了]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日開始~2007年7月7日終了]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日開始~20071030日終了]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日開始~20061015日終了]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日開始~2007年8月20日終了]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日開始~2007年9月12日終了]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日開始~2007年9月29日終了]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日開始~200612月7日終了]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日開始~2007年5月7日終了]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日開始~20061222日終了]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日開始~2007年8月27日終了]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日開始~2007年8月30日終了]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日開始~2012年9月19日終了]

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日本語への信頼(73)

「シブ5時」の傲慢さ、無神経さ

 

 NHK総合テレビに「ニュースシブ5時」という番組があります。ここで使われている言葉のうち、「ニュース」はわかりますし、番組が夕方5時台に放送されていることもわかります。けれども、「シブ」は、初めに見たとき、何だろうかと思いました。

 まさか放送センターのある渋谷のことではあるまい、どういう意味だろうかと考えたのです。ニュース報道の本部がどこかにあって、スタジオを支部に見立てているのだろうか、そうでなければ、何かの外来語(の一部、または短縮形)であろうかと推測しました。

 ところが、やっぱりと言うか、馬鹿げていると言うか、「シブ」は渋谷のことであるらしい、とわかってきました。

 東京ローカルに渋谷という言葉を使うのは勝手です。どうぞご自由にと思います。けれども、それが関東・甲信越に及ぶ番組なら疑問を感じます。まして、全国放送に渋谷という地名を使うのは、傲慢以外の何ものでもありません。全国から見れば、渋谷は東京の一地名でしかありません。あまりにも無神経です。しかも、その渋谷を短縮して、片仮名で「シブ」と表記する感覚は、理解の限界を超えています。

 日本の議会政治の中心地を「霞が関」と言ったりしますが、それを「カスミ」と書いたりはしません。まるで我が国の放送の中心地が「シブ」というところにあるような感覚は、NHK特有のものでしょう。いつまで「シブ5時」という呼称を使うのでしょうか。

 関西圏のNHK総合テレビの夕方6時台は、現在のところ、6時から全国ニュース、6時10分からニュースを中心にした関西圏の共通放送(大阪放送局からの放送)、6時30(または6時35)からは各府県別のニュース・ローカル放送です。

 この冒頭の部分(6時からの10分間)も「シブ5時」と称しています。無神経です。「ニュース7」や「ニュース9」が長引いて1時間以上の放送になっても腹立たしさはありませんが、「5時」と称するものが6時台にまで(しかも「シブ」と冠して)放送されると、傲慢さと無神経さは増幅して感じられるのです。

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2015年8月30日 (日)

日本語への信頼(72)

話し方から感じる関西弁の良さ

 

 鳥取県出身の女生徒が、高校生になって関西弁の中で生活するようになった体験を投書欄に寄せていました。その中に次のようなことが書いてありました。

 

 その中で強く感じたことがある。関西のイントネーションはやさしいということだ。「ありがとう」という言葉も、関西弁のように語尾が上がると印象が大きく違った。言われるとうれしくなり、私もまねしてたくさん使うようになった。

 関西弁で先生に注意されると少しきつく聞こえるときもある。でも「がんばろう」ではなく、「がんばろな」と関西弁で言われると、あったかさを感じる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月28日・朝刊、10版、12)

 

 テレビ、ラジオなどで流れる関西弁には、お笑い王国を強調するような、あつかましく、押しつけがましく、ときには下品さを感じてしまう言葉遣いがあります。一方で、古来の上方文化の良さを残しているような言葉遣いもあります。ただし、他の地域の人にとっては、前者の方が強く印象に残ることでしょう。

 けれども、この投書を寄せた高校生は、しばらくの寮生活の中で、関西弁の良い面を体得したようです。しかも単語ではなく発音の面で、それを見つけたようです。

 方言というと、その土地特有の言葉が強調されますが、発音の仕方も大きな要素です。その土地特有の言葉は俚言と言いますが、方言は俚言だけで成り立っているのではありません。

 例えば、すべて共通語と同じ語句を使って話したとしても、話し方は地域によって異なってきます。方言を成り立たせている要素には、語彙(俚言)、音韻(発音)、アクセント、語法(文法)などがありますが、発音にかかわる面はとても大きいと思います。

 このような関西弁の良さは、テレビ・ラジオから学ぶのではなく、その土地での実際の生活から学ぶほかはないということかもしれません。

 

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2015年8月29日 (土)

日本語への信頼(71)

特異な準備が必要で、利用方法が不明確な「学力テスト」

 

 たぶん記者向けの発表があいまいであったからなのでしょうが、なんともわけのわからないニュースに接しました。

 「大学入試改革について話し合う文部科学省の有識者会議は27日、中間まとめ案を了承した。2019年度から導入する『高校基礎学力テスト』(仮称)の成績を、当面は大学入試に使わないことを盛り込んだ。」という文章で始まる記事です。

 大学入試改革について話し合う会議が、「高校基礎学力テスト」の成績を当面は大学入試に使わないことを了承したという、呆れた内容です。この記事の末尾は、次のように書かれています。

 

 基礎学力テストのための勉強が必要と受け止める生徒が増える可能性があり、高校生活への悪影響が心配された。このため、導入から4年間は大学入試などに利用せず、適切な利用方法を探ることにした。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月28日・朝刊、13版、30)

 

 この記事を文字通りに解釈するならば、テストのための受検準備として教科の勉強が必要であり、それは高校生活に悪影響を与えるというのです。高校生にとって勉強は必須のはずですが、勉強すれば高校生活に悪影響を与えるとはどういうことでしょうか。まるで、このテストが特異なテストであって、特異な準備が必要であるかのように聞こえます。そんなテストであるのならば、実施すること自体が問題です。

 導入から4年間は大学入試などに利用しないというのも不可解です。あいまいなままで出発して、5年目からしっかりしたものになるのでしょうか。疑念は払拭できません。

 そして、導入からの4年間は適切な利用方法を探ると書いてあります。「探る」というのは、今は明確なものが無いという意味です。適切な利用方法もわからないで船出をするのは無責任の際まりです。大学入試改革について話し合う有識者会議でありながら、テストの内容や運営について暗中模索、悪戦苦闘しているという印象だけが残るニュースでした。

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2015年8月28日 (金)

日本語への信頼(70)

緑陰、緑風

 

 自宅の近くに市立図書館の分館がありますので、ときどき出かけます。本を借りて帰る途中に神社があります。播磨灘が見渡せる海べりで、大きな松の木がたくさん茂って、公園にもなっています。先日は、そこのベンチに腰をおろして、借りてきた本を読みました。

 ふと、最近は緑陰読書という言葉を聞かなくなったなぁと思いました。読書の習慣が減っているのも一因かもしれませんが、木陰で本を読むなどということよりも、クーラーがきいた部屋での読書に変化しているのかもしれません。

 うっそうと茂った大樹の下ですが、緑陰という言葉は、木下闇という言葉に比べると明るく響くように感じます。その緑陰という言葉も死語に近づきつつあるのでしょうか。松本たかしさんに、「幹高く大緑陰を支へたり」という句がありますが、まさにそんな感じです。

 私の好きな色は緑です。

 小学生から中学生の頃、参議院に緑風会というのがありました。他は〇〇党と言うのに緑風会とは何だろうと考えたことがありました。緑風会という言葉にはすがすがしさを感じました。

 何かで読んだ文章に、緑風会の「緑」は虹の七色のうちの真ん中に位置するから、右に寄るわけでもなく左に寄るわけでもない、参議院の良識派の集まりだったと書いてありました。数で勝負する政党と違って、志のある人たちの集まりであって、一時は参議院の最大党派であったと言います。

 迷彩色に染められた人たちが大手を振って歩く国会の中で、参議院にかつてのような緑風会が存在すれば、国会の内外にさわやかな風が吹き渡ったかもしれないのです。

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2015年8月27日 (木)

日本語への信頼(69)

「思惑(おもわく)」と「住居(すまい)

 

 朝日新聞の「ことばの広場 -校閲センターから」という欄が、「思惑」という言葉を取り上げて書いていました。一部を引用します。

 

 もくろみ、あて、自分に都合のいい期待といった意味で使われますが、実は「惑」は当て字。辞書によると文語「思ふ」に、動詞などを名詞化する接尾辞「く」が付いた「思はく」という形が本来のものだそうです。「曰(いわ)く」「願わく()」なども同じ成り立ちです。 …(中略) 

 国立国語研究所の山田貞雄さんによると、明治になって「思はく」が市況などの記事の中で「思わく」と記されるようになり、さらに「誘惑」「困惑」などの熟語もあることから「惑」の字が出てきたのではないか、ということです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月26日・朝刊、10版、11)

 

 ここに書かれていることについては異議はありません。ただし、本来の言葉遣いからすると誤用であることは「思はく」「思わく」の仮名遣いから明らかです。

 同じような例を挙げましょう。「住まい」という言葉です。「住居」と書いて「すまい」と読ませるのは、「思惑」に類する言葉と言えます。

 動詞「住む」に、…し続ける、繰り返し…する、という意味の助動詞「ふ」が付くと、「住まふ」になります。助動詞「ふ」は万葉集の時代から使われている、古い助動詞です。この「住まふ」を名詞化すると「住まひ」となります。住み続けるところという意味です。そして、「住まひ」を現代仮名遣いで書くと「住まい」となります。ここからは「住居(すまい)」という文字に、容易に変化していったことでしょう。

 ただし、「思惑」に比べると「住居」の方が、“罪が軽い”ように思われます。2つの要素に分けると「おもはく」は「おもは・く」です。「すまひ」は「すま・ひ」です。「おもは・く」を「おも・はく」という文字「思惑」にするのは、軽率な感じは否めません。

 

 ところで、「思惑」を「しわく」と発音する人が、私の周辺には少なからず、おります。思うに、「思惑」という文字を「おもわく」と読むこと自体が不思議なことです。「惑」を音読するなら「思」も音読して「し・わく」と読むのが自然なのかもしれません。

 振り返ってみるに、「思惑」という言葉に初めて接したのが耳からであった人は「おもわく」という読みを憶えたでしょう。

 初めて接するのが目であった人は、「思惑」という文字を「しわく」と読むのだろうと判断したのが、自然の成り行きかもしれません。

 私は、この言葉に、耳から接した人間です。意味はほぼ間違いなく理解できていたように思います。後になってから、「おもわく」とは「思惑」という文字遣いであったのかと知りました。それが、どのような年齢のことであったのか、昔々のことですから、今となっては思い出せません。

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2015年8月26日 (水)

日本語への信頼(68)

「蓋女」にびっくり、そのうち「引く女」に

 

 街を歩いていてマンホールの蓋が面白いと感じたのは、ずいぶん昔のことです。無機質な模様から脱皮して、地域の特徴や名勝などが表現されているのです。街を歩いていて足元を気にするのが癖になってしまいました。

 それを写真に撮り始めて、もう20年近くなっています。近年は東海道、中山道、日光道中などを歩きながら撮り続けています。

 どれだけの枚数になるのか、たくさんのファイルから抜き出して1か所に集めるとかなりのものになるだろうと思います。

 こんなことをしている人は、他にはあまりいないと思っていましたが、新聞の記事を見てびっくりしました。

 

 マンホールのフタに魅せられた女性を「蓋女(ふたじょ)」と呼ぶそうな。なんでまたフタ?というなかれ。神戸でこの秋、急増する愛好家が集まるマンホールサミットも開かれる予定だ。

 「路上で拓本。命がけよ」。奈良県宇陀市の中田芙紗さん(79)15年で「マンホール蓋拓本」150点を集めた。 …(中略)… 

 今年3月に都内で開かれた第2回マンホールサミットには、拓本派、アニメ派、撮影王道派など各分野の蓋女が勢ぞろいした。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月24日・夕刊、3版、12)

 

 拓本まで取るという熱心さには脱帽です。私はそこまでする気持ちはありませんが、写真のコレクションは増え続けることでしょう。

 ところで、「蓋女」という言葉にはびっくりしました。元祖に近いのは「鉄女」かもしれません。そもそも「〇女」という言葉は、それまで男性が大部分を占めていた分野に女性が進出した、その珍しさもあって使われ始めた言葉だと思います。根っからの鉄道ファンである私は、鉄道愛好者に女性が現れたことにまず驚き、そして「鉄女」という言葉が作られたことにも驚きました。

 その後は、雨後の筍そのままに、「〇女」のオンパレードです。もしも、「鉄女」のように、男性の分野に進出する女性たちのことをこの言葉が表しているのなら、「真似女」という言葉も現れそうです。とは言え、男性の真似から出発しても、男性を追い越してしまって、男性を牽引する「引く女(ひくじょ)」という存在も出現してくることでしょう。

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2015年8月25日 (火)

日本語への信頼(67)

「節税」と「脱税」の紙一重

 

 無駄をなくして切りつめることを節約と言います。大震災の後、私たちは水や電気を節約することの大切さを、身にしみて感じています。「節水」「節電」という言葉は身近なものになっています。

 ところで、「節税」という言葉は、誰がいつから使い始めたのでしょう。税金に関する言葉として「増税」や「減税」には何の違和感もありませんが、「節税」は何ともインチキ臭い言葉のイメージが漂います。

 先日のニュースの見出しにこんなのがありました。

 

 節税 増える会社化

 個人事業者 法人減税が後押し

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月23日・朝刊、13版、1面)

 

 安倍政権の経済政策アベノミクスで法人税率が下がり続けているため、個人経営から法人経営に乗り換えて節税する人が増えているのだそうです。

 出すものは少なくというのは人情かもしれませんが、方法を工夫して納税額を少なくしようとするのは、利己的な行いの最たるもののようにも思えます。社会は税金によって成り立っているという側面もあるのですから、一部の人間がうまく都合をつけて逃れようとする行為は普通の感覚の持ち主とは思われません。

 節税の工夫をしすぎて、脱税として摘発されたというニュースをときどき見かけます。税金に関して「節」の文字を使うのは間違っているように思います。違法すれすれまで工夫することが、美徳に近い「節約」の範疇に入るとは思えません。

 最近までは、小型の国語辞典で「節税」を見出しにしていないものがたくさん、ありました。新聞の見出しに使われるようになっても、こんな言葉が国語辞典で大手を振って歩き回るのは認めたくはありません。

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2015年8月24日 (月)

日本語への信頼(66)

地名には歴史がある

 

 住宅業者なら、「つつじだけではありません。四季折々の花が咲き乱れる町です」と言いたくなるかもしれません。

 新しく付けられる地名には風情が優先されて、中身の乏しいものがあります。地名には歴史がありますが、新しく開かれるところにはそのような歴史に欠ける場合があります。やむを得ず付ける地名が、例えば、神戸市垂水区つつじが丘、明石市大久保町ゆりのき通り、大久保町わかば、などです。ほぼ共通するのが平仮名表記ということです。大げさな命名でなく、自然と調和した名前をと考えると、こんなところに落ち着くのでしょうか。つつじと名付けられた町は、これから、つつじとのつながりを考えて、歴史を作っていくのでしょう。

 別の場合として、他の地域にある地名と同じ名前を付けるという方法もあります。中国新聞のコラム「天風録」は8月22日に、こんな話題を述べています。

 

 JR徳山駅を降りると銀座に有楽町、線路の向こうは千代田町に晴海町…。周南市の街中は、東京にある地名のデパートみたいだ。ざっと十数カ所。ネットなどでしばしば話題になる。

 新たな命名あり、漢字は異なるものの、江戸の世から残る地名あり。なかなか一言では説明できないが、戦後復興が大きな転機だったようだ。徳山市史によると、終戦の年の2度にわたる空襲は千人もの犠牲を出し、街はほぼ壊滅している。

 ゆえに一からの街づくりだったのだろう。町名もしかり。幹線道路の沿線は、通りの名がそのまま町名となる。駅正面の御幸通、西につながる代々木通、新宿通…。

 

 コラムの文章は、地名をなぞって歩けば、復興の記憶を読み取ることができる、という趣旨に移っていくのですが、それは70年もの時間の流れがあるからです。

 つつじ、ゆりのき、わかばという地名も、数十年の時間によって愛着のあるものになっていくのでしょう。

 けれども、やっぱり、それ故に、地名を付けるときには深謀遠慮が欠かせないと思わずにはいられません。一度付けたら、地名はなかなか変えることができないのですから。

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2015年8月23日 (日)

日本語への信頼(65)

間違いの訂正

 

 この連載の(62)で、記事の訂正とお詫びについて触れました。

 私は、どんな薄っぺらな本であっても、間違いが皆無であるというようなことはないと思っています。新聞も例外ではありません。特に新聞は、限られた時間の枠の中で紙面を制作していますから、間違う可能性は大きいと思います。間違いがあれば訂正するのは当然のことです。

 朝日新聞は「パブリックエディターから」という欄では、「訂正・おわび増加の背景は」という見出しで、次のような文章がありました。

 

 読者からは「記者の質が低下しているのではないか」との疑問も寄せられています。訂正・おわびの内訳を分析すると、固有名詞や数字などの単純ミスがほぼ半数を占めます。「2013年とすべきところを2103年と誤記した」「余熱と予熱を間違えた」など、十分にチェックすれば防げるはずの間違いです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月22日・朝刊、10版、8面)

 

 同じ日の、地域版には、次のような訂正がありました。

 

 12日付の「THE地域 『まや駅』古くて新しい」の記事で、来春開業予定の「まや駅(仮称)」について、東灘信号場になった年を72年としたのは81年の誤りでした。また信号場が「2013年に使われなくなり、その後廃止された」と記しましたが、現在も使われています。JR西日本の説明が誤っていました。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月22日・朝刊、「神戸」のページ、13版△、24)

 

 この訂正では、最後の一文は不要です。責任を他者に押しつけてはいけません。「現在も使われています」というようなことをJR職員が間違うことはないでしょう。何を、どう尋ねたのでしょうか。同じようなことを尋ねても、質問の仕方によって回答が異なることがあります。記者に責任がなかったというような弁解は醜いものです。

 

 実は、もう一つ重要な問題があります。些細なミスはこのように訂正すればよいのですが、もっと大きなミスを訂正しないというのが新聞の(あるいは朝日新聞の)姿勢のようです。そのことについては、「パブリックエディターから」も避けて通っています。

 「日本語への信頼」の連載の(2回)で指摘した誤りは、訂正されていません。「授業では教科書を使用する義務があります。神戸の灘中学校・高等学校では、国語の授業で教科書をきちんと使っていました。橋本先生の時代も同様です。」というような訂正は掲載されておりません。

 また、この連載の(15)で指摘した誤りも、訂正されていません。「高等学校では政治教育をしてはいけないと法律で定められています。主権者教育と書くべきでした。」というような訂正は掲載されておりません。

 初めに書きましたように、単純ミスを撲滅することは不可能です。訂正記事が連日、掲載されても不思議ではありません。けれども、もっと大きなミスを繰り返して、それを訂正しないという姿勢を続けていると、新聞は信頼を失っていくことになるかもしれません。

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2015年8月22日 (土)

日本語への信頼(64)

「一般」への疑問

 

 この連載の(55)は、「一般男性」とは何かというテーマで書きました。その記事では、次のようなことを述べました。

 

 「一般男性」が差別用語であるということは聞いたことがありませんが、そのように言われる人が屈辱を感じないとは言い切れません。「一般男性」というような言葉を使う報道関係者は、スターとそうでない人との間に段差を意識した言葉遣いをしているかもしれません。会社員であれ、どんな職業であれ、世間で注目を浴びるような一握りの人以外はみんな「一般」と考えいるのが報道関係者の姿勢であるのでしょうか。

 日常的な報道姿勢が端的に現れたのが、この「一般男性」という言葉であるようにも思われます。

 

 実際は、報道関係者自身も、この言葉に疑問を持っているということがわかりました。東京新聞の「私説・論説室から」の8月19日の文章です。澤穂希選手の結婚相手が当初、「一般男性」と報じられたことについて書き、次のように続きます。

 

 澤選手のお相手は、元サッカー選手で今はJ1仙台で強化・育成を担当する辻上裕章さんだと後に分かったが、一般と一般以外とはどこで線引きするのだろう。芸能人や有名人でなければ「一般人」ということなのか。

 めでたい話だから、つべこべ言うなと、お叱りも聞こえそうだが、「一般」が気になる理由は別にもある。安倍晋三首相が「一般に海外派兵は禁じられている」と言いながら、本来、海外での武力の行使に当たる機雷除去は例外だとして、安全保障法制関連法案の今国会成立を強行しようとしているからだ。

 一般に禁じられているのなら、できないと考えるのが「当たり前」なのに、なぜできると考えるのか。一般という言葉は便利だが、為政者に都合よく使われてはたまらない。

 かく言う自分も、最近執筆した社説で「一般」という言葉を使ってしまった。まずは自らを戒めなければ。

 

 同じ趣旨が書かれているところがあって、意を強くしたのですが、「一般」以外は「例外」で、「例外」があるから「一般」という範疇が成り立つというのが首相の考えなのでしょう。

 そう考えると、芸能人や有名人などのスターの世界は「例外」の世界として完結し、その他の大多数の人たちは「一般」の世界の住人で、例外世界とは画然と切り離されているのかもしれないなどと感じるようにもなりました。

 もちろん、政治の世界も、一般の感覚からほど遠い例外の世界なのでしょう。

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2015年8月21日 (金)

日本語への信頼(63)

「音信」は音に近づく

 

 「音信」(おんしん、いんしん)という言葉があります。「日本国語大辞典」には次のような意味が書かれています。

 

 ①便りをすること。また、その便り。音塵。いんしん。

 ②通常電報の字数の単位。片仮名の和文電報では、仮名、数字、句読点、括弧の記号10を1音信とし、以後5増加するたびに1音信を加え、濁音、半濁音は各々2字分として算定する。

 

 手紙などの文字言葉のやりとりと考えて、①の意味を基本としてきたのが、この言葉の用法でした。②は電報という通信手段に関する用法ですが、それでも文字言葉の領域にあります。この言葉の「便り」という意味合いが、現在では、電話などの音声言語の領域に広がっています。

 高槻市で起きている中学1年生殺害事件を報じる新聞記事では、1面のトップ見出しにこの言葉が使われています。

 

 死亡数時間前に音信

 高槻・中1殺害 友人とLINE

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月19日・夕刊、3版△、1面)

 

 本文には、次のようにあります。

 

 平田さんの携帯電話から友人への通信が、殺害される数時間前の同日夕まであったことが捜査関係者への取材でわかった。 …(中略)… 平田さんは未明まで友人らと携帯電話の無料通信アプリ「LINE」でやりとりし、「帰らへん」などと書いていた。

 

 LINEは文字言語でしょうが、携帯電話で通話した場合も「音信」の領域に含まれるでしょう。「音信」は、文字通り「音」に近づいています。

 もう一つの変化は、時間の間隔です。文字言語の場合は、何か月も通じないときに「音信不通」となったのでしょうが、現在では、連絡がつかない時間が1時間程度であっても「音信不通」と言うのかもしれません。

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2015年8月20日 (木)

日本語への信頼(62)

「ダークツーリズム」の与える印象と、心の痛み

 

 ハンセン病の「隔離の島」である長島を見学する企画があります。

 それを伝える「葦 -夕べに考える」というコラムに、次のような文があります。

 

 これこそ「ダークツーリズム」だろう。負の歴史を刻む場を訪れ、犠牲者を悼む旅だ。「人権を学ぶ」となると堅苦しく、参加へのハードルが高くなりがちだ。肩の力を抜いて、親子でも参加できるよう、長島愛生園の人たちが企画した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月18日・夕刊、3版、8面)

 

 見出しは、「ダークツーリズムはいかが」となっています。「負の歴史」とか「負の遺産」という言葉は、正・負という価値判断がされた言葉ですが、「ダークツーリズム」という言葉は、暗い印象を与える言葉に過ぎません。

 同じことを伝える山陽新聞デジタル版は、「瀬戸内・長島愛生園へクルーズ 人権侵害の歴史知る催し参加を」という見出しで、本文中にも「ダークツーリズム」という言葉を使っていません。

 長島愛生園のホームページは、「日生から長島愛生園をめぐるクルージング」とか「見学ツアー」という言葉で紹介しています。それをなぜ「ダークツーリズム」と決めつけてしまうのでしょうか。

 当事者の語った言葉を別の言葉に置き換えてしまうのは、報道関係者の得意とするところでしょうが、何でも自由に表現してよいというものではないでしょう。

 人類の死や悲しみを対象にした観光のことを「ダークツーリズム」とか「ブラックツーリズム」と呼ぶのは最近の傾向のようです。しかし、この言葉は、よく考えてから使わなければなりません。何世紀も前の古戦場や城跡はもはや直接の当事者がいませんが、原爆関係やハンセン病に関する遺産などは、心の痛みを感じる人がたくさん存在します。十把一絡げのごとく、すべてを「ダークツーリズム」などと呼ぶのは望ましいことではありません。

 新聞はちょっとした言葉遣いにも心を配らなければなりません。まして、肩書きが編集委員と書かれている人の文章なら、なおさらです。

 朝日新聞には、連日、「訂正して、おわびします」という欄があります。けれども、次のような訂正は、あまりにも低レベルのものです。

 

 若林さんの出身校が「大阪府立都島工高」とあるのは「大阪市立都島工高」の誤りでした。

 仲君が安打で「同点の走者をかえした」とあるのは、「勝ち越しとなる走者をかえした」の誤りでした。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月19日・朝刊、13版、34)

 

 この程度の誤りであれば、毎日毎日、ほとんどのページにあふれていることでしょう。誰にでもわかるような間違いは訂正するが、読者が気付かないようなことは訂正をしないのでしょうか。

 きちんとお詫びや訂正をしなければならないことが、もっともっと紙面にはあふれているように、私には思われます。

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2015年8月19日 (水)

日本語への信頼(61)

「荒ぶる」選手

 

 新聞は記事自体が、一種の宣伝媒体になってしまっています。まして主催新聞社となれば、なおさらです。8月の今ごろは高校野球の記事がやたら多いのですが、記事が多いということは見出しの数も多いということで、言葉に行き詰まりを感じるのでしょうか、奇をてらった言葉や、大げさな言葉が羅列されます。

 話題になっている早稲田実業の1年生選手のことを、大きな見出しで、こんな言葉で表現していました。

 

 早実 荒ぶるルーキー / 清宮2戦連続本塁打

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月18日・朝刊、13版、17)

 

 記事の本文には「荒ぶる」という言葉はありません。したがって、どういう文脈で使われているのかはわかりません。

 見出しの「荒ぶる」は連体形です。終止形は「荒ぶ」または「荒ぶる」でしょう。記事の内容からして、「荒ぶる」は褒め言葉です。けれども、現代語の辞書では「荒ぶ」「荒ぶる」という見出しを立てている辞書は少ないのです。

 「広辞苑・第4版」の「あらぶ」の意味は、「①あばれる。乱暴する。②荒れている。未開である。③ちりぢりになる。うとくなる。離れる。」です。

 言うまでもなく、「荒ぶ」は上代から使われている言葉です。祝詞や上代の文書、万葉集などに現れています。「時代別国語大辞典 上代編」(三省堂刊)には、次のような説明があります。

 

 ①荒々しい心地でいる。あれすさぶ。

 ②なれしたしまない。

 

 大げさな言葉を使えば、相手を称讃できるわけではありません。多少の悪性を表現して、相手を持ち上げようとしても、逆効果になる場合もあります。上の2つの辞書から探すと、この場合に通用するのは、「あばれる」しかありません。ではなぜ、「暴れるルーキー」ではいけないのでしょうか。

 この「ぶる」を現代語の接尾語と考えるならば、そういう素質を持っていることを人に見せつけるように振る舞う、という意味です。「大人ぶる」「学者ぶる」「利口ぶる」と言ったり、「高尚ぶる」と言ったりします。ちょっと違いますが、「高ぶる」という言葉もあります。「荒ぶる」をそのような意味で解釈することはできますが、広く行きわたっている言い方ではないでしょう。

 見出しをつける人が、良い言葉を見つけたと自己陶酔に陥ってはならないでしょう。

 

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2015年8月18日 (火)

日本語への信頼(60)

「動力機」と「場外」と

 

 ひとつひとつの言葉はよくわかるのですが、それを連ねてみると何だかわからなく言葉があります。「超」も「軽量」も「動力」も「機」もわかります。「場外」も「離着陸」も「場」もわかります。ところで、それらを連ねた言葉が、ニュースに現れていました。

 

 県警がプロペラ式の超軽量動力機(ウルトラライトプレーン)と座席の男性2人を発見し、2人は死亡が確認された。 …(中略)… 2人は15日午後3時30分ごろ、ゴルフ場から西に約11キロ離れた筑西市鷺島の明野場外離着陸場を離陸し、行方不明になっていた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月17日・夕刊、3版、16)

 

 前後の言葉からは判断できますが、「超軽量動力機」というだけでは飛行物体であるという判断はできないでしょう。ホームページを見ると、アメリカでは「ウルトラライトプレーン」と言い、ヨーロッパでは「マイクロライトプレーン」と言うそうです。「超軽量動力機」とは日本の航空行政当局が、「マイクロライトプレーン」のうちの、一定基準を満たすものをそう名付けたと言います。「超軽量航空機」とか「超軽量飛行機」と言わなければ、空を飛ぶものとは思いにくいのですが…。

 一方、「場外」とは、会場の外というのが一般的な意味です。空を飛ぶものの離着陸が屋内でできるはずはありません。「場外」の「離着陸場」であるのは当然で、おかしな言い方に聞こえます。これもホームページによると、「場外離着陸場」とは、国土交通大臣の許可を受けた空港とその他の飛行場(空港等)以外の、航空機の離発着場のことだそうです。つまり「場外」とは、指定された「場」以外のもの、という意味です。先日、墜落事故のあった調布飛行場も、1998(平成10)頃までは「場外離着陸場」であったそうです。ヘリポートなども「場外離着陸場」です。

 しかし「場外離着陸場」という言葉は、日本語の常識からするとおかしいと思います。「その他(の飛行場)」「それ以外(の飛行場)」というのを「場外」と称するのは間違っていると思いますが…。

 この新聞記事の文末には、「ウルトラライトプレーンは操縦免許が要らない。」と書いてありますから、ずいぶん恐ろしい物体のようです。

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2015年8月17日 (月)

日本語への信頼(59)

「誠を捧げる」とは?

 

 以下に述べることは、参拝それ自体が良いとか悪いとかを論じるものではありません。純粋に言葉遣いの問題です。

 終戦の日に、女性3閣僚が、それぞれ個別に靖国神社に参拝しました。当日のNHKテレビのニュースで見た閣僚のコメントが、翌日の新聞で報道されました。

 

 有村氏は参拝後、記者団に「戦後、ご遺族の方々は苦しみを乗り越えて生きてこられた。その歩みにも思いをはせて、参拝させていただいた」と説明。高市氏は「多くの戦没者の御霊が安らかでありますことと、ご遺族の皆さまのご健康をお祈りした」。山谷氏は「国のために尊い命を捧げられたご英霊に感謝の誠を捧げた」と語った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月16日・朝刊、13版、4面)

 

 テレビも新聞も、3人のコメントの中心点を、手短くまとめたものと思いますから、言葉のすべてを報じているわけではありません。テレビは時間で区切り、新聞は文字の制約の中で報道します。テレビは、3人のコメントが同じような言葉であっても、そのまま流すしかありません。新聞は、同じようなコメントを並べては意味がありませんから、違いを見出そうとして書くでしょう。

 新聞は山谷氏のコメントの中でしか書いていませんが、前日のテレビによると、3人とも「…の誠を捧げた」という言葉を使っていました。

 この「誠を捧げる」という言葉の意味が、私には実感として、よくわかりません。誠とは、嘘・偽りでないこと、誠意や真心、という意味ですが、それを「捧げる」とはどういうことなのでしょう。これは人間の心の中のことですから、「私は誠を捧げた」のだと言われれば、反論する余地はありません。

 けれども、この言葉は、日常的に耳にする言葉ではありません。政治用語か、特定の意味合いの付与された言葉であるのでしょうか。首相のコメントの中で聞いたこともありました。

 自分の心の中の有り様を「誠を捧げた」と言うのは、最大級の表現です。謙遜の気持ちのかけらもない言葉であるように私には思われるのです。そして、どのようにすれば、「誠を捧げた」と言えるような心の状態になれるのか、いくら考えても実感がわいてこないのです。

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2015年8月16日 (日)

日本語への信頼(58)

辞書の批判精神

 

 国語辞典では、気持ちがすっきりするような説明に出会うことが、時々あります。

 『新明解国語辞典・第四版』の「歩道橋」の説明は次のようになっています。

 

 交通量の多い幹線道路を歩行者が横断出来るように、一定の間隔を置いて地方公共団体が設置した陸橋。人間よりも車を優先するということで、しばしば問題にされる。

 

 歩道橋が、「一定の間隔を置いて」設置されているものだとは知りませんでした。実際は、そうでもないような気がします。その歩道橋は、国道であっても「地方公共団体が設置」するのでしょうか。

 ケチをつけることは止めて、「人間よりも車を優先するということで、しばしば問題にされる」という説明には、拍手したい気持ちです。まったく同感です。こんなもの、なくなれば良いと感じている人は多いと思います。

 さて、京都新聞のコラム「凡語」の5月21日の文章に、車優先社会について、こんなことが書かれていました。

 

 車を邪魔せぬよう人を遠回りさせる歩道橋は、象徴的な代物だ。景観的に無粋な上、維持管理費も高い。信号技術は向上したし、なくすのは大きな流れ。まして「歩くまち」を目指す京都市なれば、むべなるかな、通学路など一部を除いて原則解体の方針を固めたという。

 

 歩道橋が解体されて、「歩道橋」が死語になるのはいつのことでしょうか。けれども、ゆっくり、その流れは始まっているのかもしれません。そのうちに国語辞典には、「原子力発電(原発)」にも、批判的な説明が加わり、いつの日か死語になる日が来るのでしょう。

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2015年8月15日 (土)

日本語への信頼(57)

「自撮り棒」と人間関係

 

 河北新報は、8月10日のコラム「河北春秋」で、自撮りを話題にしています。冒頭の部分は、次のような文章です。

 

 自分を自分で撮影する行為を、はやりの言葉で「自撮り」という。そんなに何枚も自分を撮りたいものか、はた目からは奇異な感じがするし、自分なら照れくさくて構えるのを躊躇(ちゅうちょ)してしまう。

 それはさておき、若者の間では「自撮り棒」が大ブームだ。棒の先端にスマートフォンを装着し、自分に向けてシャッターを切る。便利な道具で、1人でも、友達と一緒でも、お気に入りのアングルで撮影できる。「スマホの付加価値を高めた」と、2014年の発明ベスト25にも選ばれた。

 

 「じどり」という発音から、「地鶏」を連想し、焼鳥屋のメニューと勘違いしたという話を、ずっと昔に読んだことがあります。発明ベストに選ばれたようですが、「じどり」という言葉はいただけません。なんとも野暮ったい命名です。

 この用具は確かにブームであるようで、観光地や街角などで見かけるようになりました。私は、コラムの筆者のように「はた目からは奇異な感じがする」とは思いませんが、いくら便利でも、こんなものを買おうとは思いません。

 大勢の人たちに囲まれていても、ただ一人でゲームに熱中している風景、それと同じようなものを自撮り棒には感じてしまうのです。たくさんの人々があふれている観光地や街角で、自分(もしくは自分たち)だけで完結する世界を作っているという構図です。

 自撮り棒などが無くても、周りの人に頼んでシャッターを押してもらうことは、いくらでもできるはずです。それをしないで、周りの人とは別世界を作ってしまう姿勢があるように思えるのです。自撮り棒は、現代社会の人間関係の希薄さを象徴するような用具です。

 周りの人に迷惑をかけないように配慮しているのだという論理は成り立たないように思います。シャッターを押してもらうことを、どんどん頼んでみてはどうでしょう。カメラを首に提げているような人なら喜んでシャッターを押してくれるはずです。せっかく買った自撮り棒は、周りに誰もいないような場所でだけ使ってほしいと思います。

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2015年8月14日 (金)

日本語への信頼(56)

お盆の「しょうりょう流し」

 

 お盆です。私たちの地域では、8月131415日の3日間は、夜に墓場へ行灯(あんどん)を持って参ります。四角い形のものですが「ちょうちん」と呼ぶ人もいます。墓場に着いてから蝋燭を点けて、それが消えるのを待つ間は、知り合いの人との談笑の時間です。特に、久しぶりに出会った人とは話に花が咲きます。

 私たちの地域は両墓制です。かつての埋め墓を「さんまい」と呼び、寺の裏にある墓場を「かんのん(観音)さん」と呼んでいます。古い家柄では、両方に参りますから、忙しい夕方になります。

 だいぶ前から、その行灯の様子が変化してきました。私が子どもの頃は、暗くなってから墓場へ出かけました。墓場にたくさんの行灯の灯が揺れて、真夏の風物詩でした。それが、次第に明るいうちから参るという傾向になってきました。今では、「さんまい」で、日没前の明過るい播磨灘を眺めることになりました。

 さて、15日は精霊流しです。子どもの頃は、「お盆が過ぎたら海水浴をしてはいけない」と言われておりました。精霊流しは、お盆のお供えや線香を持って海岸へ行きます。念仏をあげて鉦をたたいて、藁を燃やしてお供えなどを海に流しました。それが浮かんで流れます。海が汚れるのですが、のどかな時代でした。

 もう20年前頃からか、30年前頃からか、始まりの時期は忘れましたが、精霊流しの供花・供物は市が収集しています。指定場所に集めるのです。自治会の役員である私は、もう10年近く毎年、その回収用務を務めています。

 その「精霊流し」という言葉ですが、たいていの人の読みは「せいれい」です。私は「しょうりょう」という読み癖が身についています。「せいれい」と言う人が9割、「しょうりょう」と言う人が1割というぐらいの比率です。

 たいていの国語辞典では両方の読みを認めていますが、「精霊流し」は、たいていの辞典が「しょうりょう」の項目に入れています。「しょうりょうながし」は祖先の霊を意識しているのに比べて、「せいれいながし」は花や物の処分という印象が、私にはあります。

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2015年8月13日 (木)

日本語への信頼(55)

「一般男性」とは何か

 

 女子サッカーの澤穂希選手が結婚したというニュースが報じられました。喜ばしいことです。

 それを報じる新聞の見出しは、次のようになっていました。

 

 澤選手ゴール / 30代一般男性と結婚

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月12日・朝刊、13版、30)

 

 スポーツや芸能の世界などで活躍する人は、有名人同士で結婚するのが当然と思っているのでしょうか。ときどき、まるで特別な例であるかのように「一般男性」「一般女性」「一般人」という言葉が現れます。

 このような見出しの場合、「30代男性と結婚」と書くと違和感はありませんが、相手が「男性」であるのは当然のこととすると「30代」という言葉しか残りません。「結婚」という言葉は「ゴール」と重なります。「30代」ということを格別強調する必要がないとすれば、2番目の見出しは要らなくなります。仕方なく、「一般男性」ということを強調しているのでしょうか。

 それにしても「一般男性」とは何なのでしょうか。記事にも次のように書かれていました。

 

 サッカー女子日本代表で活躍したMF澤穂希選手(36)30代の一般男性と結婚したと、所属するなでしこリーグINAC神戸が11日、発表した。

 

 「一般男性」が差別用語であるということは聞いたことがありませんが、そのように言われる人が屈辱を感じないとは言い切れません。「一般男性」というような言葉を使う報道関係者は、スターとそうでない人との間に段差を意識した言葉遣いをしているかもしれません。会社員であれ、どんな職業であれ、世間で注目を浴びるような一握りの人以外はみんな「一般」と考えいるのが報道関係者の姿勢であるのでしょうか。

 日常的な報道姿勢が端的に現れたのが、この「一般男性」という言葉であるようにも思われます。

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2015年8月12日 (水)

日本語への信頼(54)

調査にも、話し合いにも、時間の負担は大きい

 

 「教員の忙しさ」をテーマにした社説が掲載されました。新聞の社説は社会で起こっているあらゆるテーマについて論じられます。論説委員の方々の力を総動員すればすべてのテーマを覆えるかというと、そうではないように思います。極論すれば、論説委員の力の及ばないような事柄にまで、無理をして論評することをしなくてもよいと思います。

 実際の姿を知るためには「調査」が必要です。お互いの考えを知り、改善策を見出すためには「話し合い」が必要です。その調査や話し合いの実際の姿を知らなくては、社説のような論評には説得力が欠けたものになります。

 その社説は、次のような文章で始まります。

 

 先生の本分は、子どもと向き合いことだ。

 その時間が失われている現実は変えなければならない。

 公立小中学校の教職員が負担を感じている仕事について、文部科学省が初めて調べた。日本の教員が国際調査で最も忙しかったことを受けてだ。

 教員の最も多くの割合が負担を訴えた仕事は、「国や教育委員会からの調査への対応」だった。小中とも9割近い。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月11日・朝刊、10版、8面)

 

 冒頭の2つの文で述べられていることには賛成です。

 その後の文章で、部活動のことや、教員数のことなど、いろいろな問題を取り上げていますが、最後まで読み進めると、雲行きが怪しくなります。結末は次のように書かれます。

 

 どこまでを家庭が責任を持ち、どこからを学校が担い、何を住民で支えるかは、地域ごとに事情が異なるだろう。

 学校ごとに教員、親、地域で毎年、話し合ってはどうか。

 教員の忙しさは、子どもや保護者の問題でもある。多角的な検討を進めたい。

 

 結局は、地域ごとに事情が異なるから、社説としては方向性を出しません、話し合って決めなさい、ということです。

 冒頭に書いてある「調査」の負担感と、最後に書いてある「話し合い」の負担感はどちらが大きいかは、自明のことです。

 「調査」は突然のように舞い込むものですから、教員に愚痴が出るのです。「話し合い」は教員の日常的な仕事ですから、忙しい中でも行っています。けれども、教員、親、地域で話し合うことには、話し合いに要する時間と、その精神的な負担感は大きいものです。事務的な会議とはわけが違います。新聞社にとっては他人事ですから、関係者が話し合って決めなさいと、簡単に言えるのです。

 社説の最後の言葉は意味不明です。「多角的な検討を進めたい。」というのは、新聞社がこの問題について多角的な検討をするという決意表明ではないでしょう。たぶん、教員、親、地域などの関係者が多角的な検討を進めてくださいということを要求しているのでしょう。日本語の曖昧さを利用して、きれいごとの表現で終わっているのです。

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2015年8月11日 (火)

日本語への信頼(53)

改まらない「千円からお預かりします」

 

 コンビニやファミレスで日常的に耳にする「千円からお預かりします」という言葉は、いっこうに影をひそめる傾向にはありません。店の側が、これだけ話題になっているからには意地でも言い続けてやろうという気持ちを持っているからなのでしょうか。それとも、店で働く若者たちに対して、店の側の指導が行き届かないからなのでしょうか。

 熊谷栄三郎さんの『おーい老い!』(2002年4月30日発行、京都新聞出版センター刊)に、おもしろいことが書かれています。

 

 私は一計を案じて、コンビニで千円きっかりになる買い物をして千円札を出し、レジ係がなんと言うか反応を見てやろうとたくらんだのである。「千円からお預かり…」と言いかけて、ぐっ、と詰まるであろう顔を見たかったのである。

 しかし残念、千円ちょうどになるような買い方は、算数の苦手な私には無理なのだった。で、それならと先日、八百九十二円の計算になったとき、八百九十二円ちょうどを出してみると、レジの女性はすまして「八百九十二円ちょうどからお預かりしまーす」と言ったのだった。

 千円札を出して、「千円からお預けしまーす」と、こちらから言ってみたこともある。レジ係は動じるどころか、逆に「千円からでよろしかったですか」と言って、私をぎくっとさせたのだった。 (同書、126127ページ)

 

 このような言い方がなぜ生まれたのかについては、いろんな人が解説をしています。

 私のとらえ方は簡明です。「お支払いいただく金額は〇〇円です。あなたは今、千円札をお出しになりました。ひとまず千円をお預かりして、千円から差し引き計算をして、お釣りをお返しします。」ということです。それを短絡的に「千円からお預かりします」と言うのはおかしな表現ですが、気持ちは通じることになりますから、この表現がはびこっているのでしょう。

 カードで支払う場合には、「カードからお預かりします」という言い方は聞かなかったように思います。「カードをお預かりします」または「カードから引かせていただきます」であったように思います。レジ係の言語感覚が失墜しているのではなく、店のマニュアルがおかしいのだと思います。間違ったマニュアルによる指導を改めなければならないと思うのです。

 もう一つ、支払うべき額をぴったり差し出しているときに「お預かり」はおかしいと思います。一時預かりで、後で返してくれるのかと言いたくなります。へりくだるような姿勢で「お預かり」と言っているつもりかもしれませんが、「〇〇円をいただきます」という言葉の方がすっきりして気持ちがよいはずです。

 

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2015年8月10日 (月)

日本語への信頼(52)

駅における「縦列駐車」

 

 『京阪電車まるまる一冊』(JTBパブリッシング刊、2015年4月1日発行)というムックは、この鉄道を知っている者には興味のある本です。主要な駅を紹介するページの一つに淀屋橋駅があって、「一日2本だけある『縦列駐車』」という小見出しのある記事には、次のような文章が書かれています。

 

 1番線と4番線は同じ線路で、かつては日常的に電車が縦に2本並んでいたが、中之島線開業で激減。1番線を使う列車は平日の8時37分発の普通と2217分発の区間急行だけになってしまった。(同書・28ページ)

 

 車が縦に2台並んでいた、というと、並行した2台を思い浮かべます。電車が縦に2本並んでいたというのは想像できるでしょうか。

 終着駅である淀屋橋駅では、1本の電車がホームの西寄りに到着し、その後、もう1本の電車が同じホームの東寄りに到着するのです。長い長い淀屋橋駅ホームの西寄りが4番線、東寄りが1番線です。(2番線と3番線は別々で、このような運用は行っていません。)

 出発の際には、ホーム東寄りの電車が先に出て、その後でホーム西寄りの電車が発車するのです。

 これを京阪電鉄が「縦列駐車」と呼んでいるのか、筆者の造語なのかはわかりません。気になるのは「駐車」という言葉です。鉄道では、駅に止まっている列車を「駐車」と言うことはないと思います。短時間でも長時間でも「停車」です。

 車の場合でわかるように「駐車」は、運転者がいない場合のことです。運転者がいれば「停車」です。京阪電鉄では到着後すぐに、折り返して発車させていました。そうでなければ、同じ線路に2本の電車を入れるわけにはいかないのです。

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2015年8月 9日 (日)

日本語への信頼(51)

熱気むんむん、紙面満々

 

 暑い8月は、終戦や沖縄、原爆に関する記事が多いのはもちろんですが、高校野球をはじめとするスポーツ記事が大きな比重を占めるようになります。スポーツ報道は会場となるところに記者やカメラマンなどを送り込めば、いくらでも記事のボリュームを拡大することができます。突発的な事件現場で取材するのとは違って、記事の内容をあらかじめ目論んでスポーツ会場に行くことができるのです。

 例えば8月8日の朝日新聞・大阪本社発行の紙面は、beという特集面を除く本体が32ページですが、全面広告の8ページを除く24ページのうち、スポーツ面が6ページを占めます。しかも地域面2ページ、社会面2ページにも高校野球の記事があふれています。

 さて、その日の夕刊の1面には、甲子園球場の写真があり、見出しは大きく次の言葉が書かれています。

 

 熱気満々 /4万7千満員 外野通り抜け

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月8日・夕刊、3版、1面)

 

 自信「満々」の高校球児たちが熱戦を繰り広げます。観衆の4万7千人の人いきれで「むんむん」とする甲子園球場であったのでしょう。この見出しを見た一瞬、「熱気むんむん」が正しいのではないかと思いました。けれども、そんな言葉の感覚とは無関係のように、満々と水をたたえた湖水に匹敵するような、満々と熱気をいっぱいに溜め込んだ球場の航空写真が大きく掲載されておりました。

 紙面には高校野球の記事が満々とあふれております。一瞬のヒーローが日替わりで次々と作り上げられていきます。新聞は記事を作り上げるのが仕事です。まして、主催新聞社はボルテージが上がります。高校球児たちには、そんな記事に躍らされることなく、自分自身をしっかり見つめてほしいと願わずにおれません。

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2015年8月 8日 (土)

日本語への信頼(50)

「夏の果」はいつ来るか

 

 今年の8月8日は立秋です。暑中見舞いは、残暑見舞いに変わります。

 金子兜太さん監修の『365日で味わう 美しい日本の季語』(誠文堂新光社刊、2010年4月30日発行)には、8月3日の項に「夏の果」という季語が取り上げられて、次のような解説があります。

 

 この時期の気候や、一般的な夏休みと比べると、少しばかり気が早いような感もありますが、蒸し暑い夏もようやく終わりに近づいたという感慨を表す言葉です。「夏終わる」「ゆく夏」「夏の限り」という言い方もあります。

 

 最高気温が35度以上になった日を猛暑日と言いますが、今年の東京都心では遂に1週間連続の猛暑日となったと言います。日本人の季節感覚に沁みている「残暑」はもちろん「夏の果」もいつになったら実感できるのでしょうか。

 涼しさは、目で見て感じるものもあり、耳で聞いて感じるものもあり、膚で感じるものもあります。膚で感じる蒸し暑さから逃れるすべの中に、耳で感じる涼しさがあるのですが、この頃は、風鈴の音色を公害と決めつけたり、虫の声を煩いと感じたりする人が増えたと聞きます。水の流れや草木の葉ずれに無関心の人が増えたとも言われています。

 「猛暑日」や「熱帯夜」という言葉はあまりにストレート過ぎます。その言葉に接するだけでも、うんざりした思いになります。

 季節を先取りするような季語は、次に来る季節への期待感をただよわせて、蒸し暑い日本の夏の、ひとつの消夏法であるのかもしれません。

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2015年8月 7日 (金)

日本語への信頼(49)

気持ちだけを表現する言葉

 

 「言葉」とは何でしょうか。『広辞苑』はその語の説明の冒頭で、「意味を表すために、口で言ったり字に書いたりするもの」と述べています。

 若者の言葉に対しては、批判的に見る目もあれば、温かく見守ろうという目もあることはわかっていますが、「ことばの広場 -校閲センターから」というコラムで、びっくりするような記事を見つけました。「やばい」といういう言葉を取り上げた記事の部分部分を引用します。①②③④として区分します。

 

 ①東京・渋谷で1020代の110人に聞いたところ、「何でも『やばい』。使いまくり」(高校1年女子)など、9割以上が肯定・否定の両場面で「やばい」を用いると答えました。

 ②会話中に意味が通じないことはないかと尋ねましたが「表情や言い方で分かる」(高2女子)、「相手の性格で判断する」(大学1年男子)など、あまり気にしていない様子でした。

 ③「やばい」の用法に関する研究がある岐阜大の洞澤伸教授は「若者にとっては意味があいまいであるからこそ楽しい」と見ます。「やばい」で心の動きを相手に知らせ、察してもらってその気持ちを共有する。このことで会話が盛り上がり、仲間意識も高まる。

 ④「最近は『つらい』『しんどい』を使う」(高3女子)との新種?にも出くわしました。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月6日・朝刊、10版、13)

 

 大学教授は、純粋に現状分析をしている研究であるのなら、どんな結論に導かれたとしても、しかたがありません。けれども、教授には教育という役割もありますから、現実の場面ではきちんと指導されていることだろうと信じたいと思います。

 問題は、新聞社の姿勢です。「ことばの広場 -校閲センターから」というコラムは、言葉の意味や用法を分析して、望ましい方向を見出そうと努めてきたのではありませんか。この日のコラムの筆者は、そんな姿勢をかなぐり捨てて、若者に広がっている現象に迎合しようとしています。記事の中には批判的な言葉はほとんどありませんでした。

 このような現象については、若者に疑問点を投げかけるべきでしょう。言葉の「意味」をきちんと認識させて、しっかりと考えさせなければなりません。ただただ若者に迎合するだけでは困ります。まして、校閲の仕事に携わっている人においてはなおさらです。

 単に気持ちの共有、会話の盛り上がり、仲間意識の高まりということだけで言葉を使うのなら、感動詞でも何でもよいのです。「つらい」「しんどい」という新種の言葉だけではありません。

 もはや「やばい」でも「やいば」でも「ばやい」でも「ばいや」でも「いやば」でも「いばや」でも何でもよいのでしょう。こんな場合には、周りの者がこんな言葉を使っているから、自分も使うということになってしまっているのでしょう。それを肯定しては、日本語の将来が危うくなります。

 良い意味でも「やばい」を使うようになった、という日本語の揺れや変化は認めてよいでしょう。言葉はしだいに変わっていくものであるからです。けれども、「何でも『やばい』。使いまくり」という現象を認めてはなりません。

 たった一つのコラム欄の問題ではありません。新聞には言葉の指針を示す義務があることを忘れ去ってはなりません。

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2015年8月 6日 (木)

日本語への信頼(48)

方針に「的」はそぐわない

 

 この連載の(28)回で、「的」について書きました。

 ちょっと古いのですが、河北新報のコラム「河北春秋」の5月9日の文章は、次のように書かれていました。

 

 「的」という字は、的を射るなど真ん中の意味がある。漢字学者白川静さんの『字通』によると、白く目立つさまを表す。近年は若い人を中心に「自分的には」「世の中的」などと、曖昧なニュアンスになっている。

 政府のお役人も、これは便利と飛びついたか。震災の復興予算の呼び名に「基幹的な事業」を持ち出した。来年度から全額国費負担をやめて、被災自治体にも一部受け持ってもらう。基幹的事業に限って、引き続き国が負担することにする方針転換の中で使っている。

 宮城県の担当者は基幹的事業の範囲について、「何を指しているのか、はっきりしないのです」と首をかしげる。あやふやで漠然とさせておき、都合よく解釈できる裁量を広げておく。国が地方に対し、よく用いる霞が関言葉がまたひとつ。

 

 「的」という文字は、「あやふやで漠然とさせておき、都合よく解釈できる裁量を広げ」るためには便利きわまりないものなのでしょう。「基幹的事業」というのは、基幹の事業であるのか、基幹の周辺に位置する事業であるのかも、よくわかりません。

 「方針転換」の中で使われた言葉であるといっても、これでは「転換」しているのかどうかすらわからないでしょう。転換の中身をあやふやなものにしているから、地方にとっては迷惑なのです。

 政府のお役人にとっては、「自分的には」都合の良い言葉なのでしょう。けれども、「世の中的」には、そんな曖昧なものは通用しないのです。

 政府のお役人は、「近年は若い人を中心に」使われている言葉遣いであると言っても、そんなものには迎合しないで、しっかりした日本語を使っていただかなくてはならないと思います。

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2015年8月 5日 (水)

日本語への信頼(47)

アルトトアルト

 

 今回の話題はアルトトアルトです。

 はじめは、括弧付きで平仮名で書いてみましたが、引き締まった表記のようには見えませんでした。けれども、何となく発音が面白くて、どこか外国語の感じもしましたので、カタカナで書いてみました。

 平仮名で書くと、「ある」と「とある」と、です。

 さて、コラムの冒頭の部分を引用します。「よみうり寸評」という欄です。

 

 関西のとある市で住民たちがツバメのヒナを救う話である。かつて本紙大阪版・気流欄に投稿が載った。

 (読売新聞・大阪本社発行、7月2日・夕刊、3版、1面)

 

 これは、住民たちが地面に転がるヒナ7羽を見つけて役所の公園担当部局に知らせたが一向に来ないので、住民たちが公園のベンチを壁に立てかけてよじ登り、ヒナを巣に戻したという話です。

 これが、なぜ「とある」市となっているのでしょうか。「ある」市というのとは、語感が違う、あるいは筆者の意図が違うように感じるのです。

 「ある」も「とある」も市名を明確に書かないという点では同じです。けれども、「とある」と書くと、明確にしないということの他に、別の意識も加わっているように思われるのです。

 「とある」について、辞書を開いてみます。

 

 〔ちょうど差しかかった〕ある。《新明解国語辞典・第4版》

 そのへんにある。《三省堂国語辞典・第3版》

 或る。さる。ちょっとした。《広辞苑・第4版》

 たまたま行きあった場所である、また偶然そうなった日時である意を表す。ある。さる。《明鏡国語辞典》

 たまたま通り合わせた場所や建物をさし、主に文章中に用いられる古風で趣のある和語。《日本語 語感の辞典》

 特に意識しないが、たまたま行き合わせた物事であることを示す。偶然目についた、という気持ちを込め、連体詞「ある」と同じように用いる。ちょっとした。たまたまそこにある。《日本国語大辞典》

 

 「ある」という語と大きな違いはないという説明もありますが、「たまたま通り合わせた」「偶然目についた」という語感は認められるように思います。

 はじめは、投稿を偶然目にしたのかもしれませんが、改めてコラムの話題にするということは意識してこの話の中身について考えたことでしょう。筆者はなぜ「とある」という言葉を使ったのでしょうか。

 「ある」市という言い方よりも、「とある」市という言い方の方が軽んじられている(筆者との距離感が大きくなる)ように感じると言えばうがちすぎでしょうか。対応が後れた役所の名誉を気にすれば「とある」市とぼやかしておくのがよいのかもしれません。けれども巣に戻そうと努力した住民たちの側に立てば「ある」市と書くのがよいでしょう。もしくははっきりと市名を書くのがよいでしょう。

 たった一文字の「と」の有無だけのことですが、筆者の姿勢が見え隠れするように感じたのです。

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2015年8月 4日 (火)

日本語への信頼(46)

住吉の「すんみょし」さん

 

 朝日新聞の「大峯伸之のまちダネ」というコラムに、次のような文がありました。

 

 大阪市住之江区の大木保宏さんの市民表彰を祝う会があったのは、「住吉っさん」と親しまれる住吉区の住吉大社だった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月3日・夕刊、3版、11)

 

 この記事の「住吉っさん」の「住吉」の部分には「すみよ」という振り仮名が施されていました。つまり、住吉大社を地域の人は「すみよっさん」と呼んでいるというのです。

 昨日の連載(45)回で、私は、「言葉の2拍目より後ろにイ段かウ段の音があり、その次に母音(「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」)やヤ行音(「ヤ」「ユ」「ヨ」)やワ行音(「ワ」)がくる場合は、2拍が結びついて拗音(「キャ」「キュ」「キョ」など)の1拍となって、減った1拍を撥音(「ン」)または促音(「ッ」)で補うのです」と書きました。

 それに従うなら、「住吉」は「すんみょし」です。実際には、そのような発音をしている人も多いと思います。敬称の「さん」がついて「住吉さん」となるときは、「すんみょしさん」または「すんみょっさん」です。

 記事にある「すみよっさん」という発音は、発音を崩すまいという意識が少し働いているように思えるのです。

 もっとも、書き言葉の文字遣いとしては、「住吉っさん」の「住吉」に「すんみょ」という振り仮名は施しにくいのかもしれません。

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2015年8月 3日 (月)

日本語への信頼(45)

はにかむようにつぶやく「好っきゃねん」

 

 「葦 -夕べに考える」というコラムで、JR大阪駅のホームで流れる「やっぱ好きやねん」のメロディに関連した話題が書かれていました。

 

 昨年亡くなった元帝塚山学院大学長の大谷晃一さんは、著書「大阪学」の中で「『好きやねん』は正しい大阪弁とちゃう」と指摘している。「これは恥じらいの言葉やから、『好っきゃねん』て恥ずかしそうにつぶやくもんや」。確かに、やしきたかじんさんは「好っきゃねん」とはにかむように歌う。

 (朝日新聞・大阪本社発行、6月26日・夕刊、3版、12)

 

 「好きやねん」はどんな場合でも、「好っきゃねん」とはにかむように言うとは限りません。「俺はカレーが好っきゃねん」というのは堂々と宣言してよいだろうと思います。けれども、恋しい気持ちを吐露するときは、はにかむように「あんたが好っきゃねん」となるのでしょう。

 このコラムでは、「好きやねん」と「好っきゃねん」の発音の関係は述べられていませんが、このような発音の変化は関西では随所に現れます。

 地名で言うと、芦屋は「あっしゃ」、西明石は「にっしゃかし」、福知山は「ふくっちゃま」です。私の名前は幸男ですが、幼い頃から「ゆっきょチャン」と呼ばれています。

 法則性を見つけるならば、次のように言えると思います。言葉の2拍目より後ろにイ段かウ段の音があり、その次に母音(「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」)やヤ行音(「ヤ」「ユ」「ヨ」)やワ行音(「ワ」)がくる場合は、2拍が結びついて拗音(「キャ」「キュ」「キョ」など)の1拍となって、減った1拍を撥音(「ン」)または促音(「ッ」)で補うのです。

 名詞ばかりではありません。花火を打ち上げるは「花火をうっちゃげる」になります。口喧しい人は「くっちゃかましい人」になります。

 こういう発音が自在にできたら、関西弁の住人ということになるでしょう。

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2015年8月 2日 (日)

日本語への信頼(44)

修辞法ではなく、文章冒頭部分の書き癖?

 

 文章の書き方には個性があってよいと思います。人にはそれぞれの書き癖というものもあるでしょう。

 けれども、しばしばそれに接すると、うんざりすることがあります。「天声人語」の筆者には、コラムの冒頭を倒置的に表現しようとする強烈な思いがあるようです。例えば、8月1日は次のような書き始めです。

 

 スポンサーは最初、強く反対したという。ウイスキーの名作コピーとして語り継がれる恋は、遠い日の花火ではない。〉である。

 

 冒頭の一文だけでは何を言っているのかわかりません。読者を一瞬、「?」の思いにさせておいてから、それはこういうことだと述べるのです。

 これは倒置法です。韻文では倒置法の効果は大きいと思いますが、散文でこれを多用されると、苛立ちから、腹立ちへと変化していきます。筆者に振り回されているという気持ちになるのです。

 「天声人語」はわかりやすい文章ですから、1回分の文章の中では、誤解は起こりませんし、苛立ちの気持ちも高くはありません。腹立たしさがつのるのは、文章の冒頭を倒置法で始めることを繰り返しているということです。

 遡って、ここ1か月たらずの間に限っても、次々とこの書き方があらわれています。

 

 「親になる権利」という言葉を聞いて耳新しさを感じた。10年前、不妊治療を続けていた自民党の野田聖子氏をインタビューしたときのことだ。(7月29)

 東大が嫌い。成績が一番のやつが徹底的に嫌い。哲学者鶴見俊輔さんの信条だ。(7月25)

 ダンディズムを感じさせる人だった。小さな酒場のカウンターで、ひとりグラスを傾ける姿を思い出す。格好よかった。先日、米国で亡くなった経済学者の青木昌彦さんである。(7月22)

 どんな専制政治でも世論の支えなしには立ちゆかない-。以前にも引用した18世紀英国の哲学者ヒュームの洞察である。(7月15)

 今の政権になってから、言論への干渉がかなり露骨になっている。お隣、中国のことだ。(7月10)

 

 他紙のコラムと比べてみても、この傾向は際立っています。これは「天声人語」の筆者の癖なのでしょう。かつての「天声人語」もこのような傾向は弱いものでした。

 次の例は、倒置で表現しようとすれば、文の順番をひっくり返せばよいのですが、それをしていません。

 

 占領期の連合国軍総司令部が残した文書にこうある。「議会を一院制とすることは、賢明であり、有用である」「特に二院制をよしとすべき点は見当たらない」。(7月30)

 

 倒置などしないで、ごく自然に書いた方が読者の頭には残ります。変に気取った書き方をしないほうが、筆者の人柄を感じさせることになって、効果があると思うのです。

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2015年8月 1日 (土)

日本語への信頼(43)

「車目線」は目を引く派手さ

 

 一般社会で「目線」という言葉が使われるようになってから長い年月が経っています。初めて目にしたときは、「視線」という言葉を目新しく言い換えただけであって、嫌悪感しか持たなかったのですが、このごろでは市民権を得て、「視線」を駆逐してしまっています。

 私は今でも、「目線」を見るたびに、「視線」と置き換えて読み、その置き換えが成り立つかどうかチェックする習慣が身についてしまっています。たいていが置き換え可能です。

 ただし、辞書では2つの語に意味の違いを認めているようで、「新明解国語辞典・第4版」では、「視線」と「目線」を次のように説明しています。

 

 視線  その人の目と、目が見(ようとし)ている対象とを結ぶ線分。〔光は対象から目の方に向かうが、視線は目から対象へ向かう有向線分として意識される〕

 

 目線  〔舞台・映画撮影などで〕演技者やモデルなどの目の向いている方向・位置・角度など。〔俗に「視線」の意でも用いられるが、「目線」は目の動きに応じて顔も動かす点が異なる〕

 

 この2つの語の説明を書いたのは同じ人ではないようで、説明の仕方が異なっていますが、この説明内容には賛成します。

 ところで、5月17日の京都新聞のコラム「凡語」に、次のような文章がありました。

 

 旧東海道歩きでも、並行する国道には、車が行き交い、派手な建物や看板の大型量販店や飲食店が目立った。遠くからドライバーの目を引く必要があるのだろう。まさに「車目線」だ。だからか、旧街道ならではの「歩く目線」で感じる街の香りは伝わってこなかった。

 いま地方創生の掛け声がかまびすしい。ただ国が主導で乗り出すと一律的になりやすく、車目線にならないだろうか。街の文化や歴史は五感をフルに生かさなければ分からない。そのためにも歩く目線を大切にしたい。

 

 コラムの文章の場合、「車目線」は、量販店や飲食店が、車に乗っている人の目を引くことができるかどうかということに重点を置いて述べているように思います。

 すなわち、「車目線」は、車に乗っている人が感じるもので、車に乗っている人の目の高さ、車に乗っている人のスピード感に応じるものです。対する「歩く目線」は、歩いている人が感じるもので、歩いている人の目の高さ、歩いている人のスピード感に応じるものです。

 これは文脈から生じたことかもしれませんが、今後は「目線」にこのような語感が強く付着してゆくのではないかという気もします。立場や環境などによって「目線」が異なるということです。そうなると、「視線」と「目線」の語の置き換えはしだいに困難になってゆくことでしょう。

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