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2015年9月30日 (水)

【掲載記事の一覧】

 9月も「日本語への信頼」を書くことに専念しました。やっぱり、新聞記事に基づくものが多いのです。

 新聞といえども、素晴らしい文章があふれているわけではありません。初歩的なミスが目立ちます。若い記者が書いたと思われる文章を、ベテランの先輩が指導しているようには思われないのです。ほったらかしです。外部に依頼した文章は、深く検討せずにそのまま掲載しているようにも感じられます。報道機関の中にも、利己的、個人的な人や、自分に与えられた仕事の枠内でのみ動いている人が多いように思われます。言葉についての指導や教育が徹底していないと感じます。

 さて、街道歩きのうち、奥州道中の編を近いうちに連載します。奥州道中が終われば甲州道中を歩いて、それで江戸時代の五街道が完了ということになります。(ただし、東海道は、このブログに連載はしておりません。

 「【明石方言】 改訂最終版・明石日常生活語辞典」の全体編は休載のままですが、この辞典の修正・加筆作業は毎日続けております。加筆した部分がかなりの量になってきています。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでに連載した内容の一覧を記します。

 

◆日本語への信頼 ()(103)~継続予定

    [2015年6月9日開始~ 最新は2015年9月30日]

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(1998)~継続予定

    [2009年7月8日開始~ 最新は2015年6月8日]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58) 連載終了

    [2015年4月1日開始~ 最新は2015年6月23日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)~継続予定

    [201310月1日開始~ 最新は20131031日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)~継続予定

    [2012年9月20日開始~ 最新は2013年9月5日]

 

……【以下は、連載を終了したものです。】……………………

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日開始~2015年3月31日終了]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日開始~2014年4月12日終了]

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日開始~2010年3月10日終了]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日開始~2011年9月13日終了]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日開始~ 最新は2014年5月30日]

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日開始~ 最新は2014年5月9日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日開始~ 最新は2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日開始~ 最新は2013年8月28日]

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日開始~20071212日終了]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日開始~2008年7月20日終了]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日開始~2009年9月10日終了]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日開始~2012年1月4日終了]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日開始~2012年5月3日終了]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日開始~2009年6月30日終了]

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日開始~20061231日終了]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日開始~2008年1月10日終了]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日開始~20061226日終了]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日開始~2009年6月4日終了]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日開始~2008年1月18日終了]

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日開始~2007年7月31日終了]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日開始~20081125日終了]

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日開始~2009年6月22日終了]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日開始~2009年5月8日終了]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日開始~2009年3月16日終了]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日開始~20081113日終了]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日開始~20081215日終了]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日開始~2007年6月30日終了]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日開始~2010年1月3日終了]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日開始~2012年7月8日終了]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日開始~2011年6月1日終了]

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日開始~2008年9月24日終了]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日開始~200610月4日終了]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日開始~20061011日終了]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日開始~200611月2日終了]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日開始~2007年6月6日終了]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日開始~2007年8月10日終了]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日開始~2007年7月7日終了]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日開始~20071030日終了]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日開始~20061015日終了]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日開始~2007年8月20日終了]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日開始~2007年9月12日終了]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日開始~2007年9月29日終了]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日開始~200612月7日終了]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日開始~2007年5月7日終了]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日開始~20061222日終了]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日開始~2007年8月27日終了]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日開始~2007年8月30日終了]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日開始~2012年9月19日終了]

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日本語への信頼(103)

「奮わす」と「震わす」

 

 大阪府岸和田市のだんじり祭りを話題にした記事がありました。この時期に流れる定番の「だんじりソング」があるのだそうです。

 

 「祭りの気持ちを高めるなら、やっぱり『ケヤキの森』。俺らの歌って感じです」。6日、今年最初のだんじりの試験曳きを終えた市内の高3の男子生徒(17)は言った。

 「ケヤキの森」はシンガー・ソングライター、IKECHAN(50)が歌う。だんじりのかけ声「ソリャ ソリャ ソリャ」で始まり、疾走感のあるギターをバックにロック調で、ケヤキ造りのだんじりを泉州男が曳き回す様を歌う。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月17日・夕刊、3版、10)

 

 そして、この記事の見出しは、次のようになっていました。

 

 だんじり 奮わす一曲

  岸和田 CD売り上げ上位

 

 勢いが盛んになる、力や能力などが現れるようになる、というような意味で「奮う」という言葉を使います。この記事には「奮う」という言葉が使われていませんが、見出しだけが唐突に「奮わす」です。

 「奮わす」は「奮う」の使役動詞だという理屈は成り立つのでしょうが、普段は使わない表現です。「奮い立たせる」と言うのが普通でしょう。もう少し短くするにしても「奮わせる」と言うべきではないでしょうか。新聞の見出しには文字数の制約がありますが、それでも「奮わす」はちょっと行き過ぎのように思います。

 この「ふるわす」は、耳で聞くと「震わす」という言葉を連想します。心を震わすような一曲であるのでしょうか。

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2015年9月29日 (火)

日本語への信頼(102)

「古手」の人間

 

 「古手(ふるて)屋」とは中古品を扱う店です。今で言うリサイクルショップです。「古手の本」とは古書のことです。「古手の手袋」というと、使い古されてボロボロになったものを思い浮かべます。要するに、古手とは物品について使う言葉であって、それを人について使うと、かなりの蔑称になります。年齢を重ねてリタイヤ寸前というイメージが伴います。それが私の感覚です。たぶん関西ではそのような語感で使っていると思います。

 ときどき、人に関して「古手」という言葉を使っているのを目にすることがあります。人を人とも思っていないのかという苛立たしさを持ち、関東人の言葉という印象で受け取ります。

 「みちものがたり」という企画記事で、この言葉に出会いました。

 

 東京五輪(1964年)当時の交通事情の取材で知り合った古手のタクシー運転手、鶴間正昭さん(73)から、こんな昔話を聞いた。

 その頃、客から「運ちゃん、ナカへやってくんねえ」と指示された。当時まだ新米で、ナカがどこなのかわからない。聞き返すと「おまえ、ど素人かあー」と怒鳴られた。 …(中略)… 東京で「中()」と言えば、「吉原」を意味する俗語だった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月26日・朝刊、e1面)

 

 「広辞苑・第四版」の「ふるて【古手】」の説明は次のようになっています。

 

①使いふるしたもの。古くなった物。または人。

②古くからある手段。ありふれたやり方。

 

 上の文章での使い方は、①の説明にあたりますが、「または人」というのを言い換えますと、「使いふるした人。古くなった人」ということになります。長年働いて疲れた人とか、現代的な対応ができなくなった人とかの印象です。

 上の文章を書いた記者は軽蔑的な気持ちで書いたのではないでしょう。もしかしたら、長年の経験を経た、熟練した運転手という思いで使ったのでしょう。

 「明鏡国語辞典」のように、「長年、その仕事に従事している人。古株。」という意味を書いているものもありますが、古株という言葉には、いまだにのさばっている人という、マイナスイメージがないとは言えません。

 全国共通語であっても、その言葉の使い方や受け取り方には地域差があります。それとともに、個人差もありますから、一つひとつの言葉の選び方も難しいものです。

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2015年9月28日 (月)

日本語への信頼(101)

国語辞典の記述する意味

 

 前回に書いた「いやがうえにも」と「いやがおうにも」は、辞書ではどのように扱われているでしょうか。

 「岩波国語辞典・第四版」は、「いやがうえに【彌が上に】」が見出しにあり、「いや【否】」の見出しの中で「いや【否】でも応でも」を説明しています。

 「明鏡国語辞典」は、「いやがうえに【弥が上に】」が見出しにあり、「いや【否】」の中に「否でも応でも」が副見出しに上げられています。

 小型の辞書は、不思議だと思えるほどに、このような取り上げ方を踏襲しているのが多いのです。

 前回、私は、「青田買い」、「熱にうかされる」、「眉をひそめる」とは質が違う質問だと書きましたが、「国語に関する世論調査」の回答者のうちのどれほどの割合の人が、「いや【弥】」と「いや【否】」の違いを心得ていたのでしょうか。「世論調査」のこの質問は、意地の悪い質問であったような気もします。

 

 さて、話題を変えます。

 「おもいのたけ【思いの丈】」とは、どういう意味でしょうか。

 「岩波国語辞典・第四版」には、「ある人を思う(愛する)心の、ありったけ。▽主に男女の愛情について言う。」とあります。「新明解国語辞典・第四版」も「〔おもに男女の間で、相手に対して〕思うことの・ある限り(すべて)。」と書いています。「旺文社国語辞典・改訂新版」も同様です。

 それに対して、「広辞苑・第四版」は、「思いのありたけ。思いの限り。」となっており、「三省堂国語辞典・第三版」は、「心に思うことの全部。」となっています。

 つまり、「おもいのたけ【思いの丈】」には2つの系列があります。主に男女間のことについて使われていた言葉が、次第に意味を広げていったのでしょう。

 ところで、次の文章の「思いの丈」はどういう意味でしょうか。

 

 元トップスターら宝塚OGが集結し、宝塚の名曲を披露する10月のショー「SUPER GIFT!」大阪公演に、現役専科生の美穂圭子、華形ひかる、沙央くらまが特別出演する。そろっての舞台を前に、学年も専科歴も違う3人が、思いの丈を語った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月25日・夕刊、3版、4面)

 

 はじめて「思いの丈」という言葉に接した人は、どのように解釈するでしょうか。宝塚のスターですから全員が女性です。「男女の間で…」という解釈は成り立ちません。

 「思いの丈」を語ったはずの3人ですが、新聞記事は短いのです。例えば沙央さんの言葉は、1行が15文字で、9行ずつ2回書かれているだけです。他の2人の言葉はもう少し長いのですが、それでも「思いの丈」のすべてが文字になっているとは思われません。

 すなわち、「思いの丈」という言葉を知らない人は、この言葉を、〔思っていることを語った〕とか、〔身の丈(立場など)に合わせた発言をした〕とかという解釈をするかもしれません。新聞の1ページ全体というような記事であれば、思う存分に語った(そして、それが記事になった)と思うでしょうが、この記事は短いのです。

 この記事の「思いの丈」の使い方が間違っているというのではありません。けれども、知らない言葉に出会った場合、私たちはその場の状況や文脈から意味を推定してしまいます。新聞記事の長さを考えれば、ここで「思いの丈」という言葉を使うことは避けるべきであったと思います。

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2015年9月27日 (日)

日本語への信頼(100)

国語世論調査の不可解

 

 平成26年度の文化庁「国語に関する世論調査」が発表されました。毎年のことですが、新聞や放送は調査の全体像を取り上げないで、話題性のある部分だけを強調して取り上げました。

 26年度調査では、社会や家庭における言葉遣い、外国人に対する日本語教育、手書き文字の字形と印刷文字の字形というようなテーマでの調査もありましたが、そんなことは無視した報道が目立ちました。

 慣用句等の意味・使い方についてというテーマだけを選んで記事を書くのが、ここ何年にもわたる癖になってしまっているようです。誤用が多ければニュースにする価値が高いという判断のようです。もっとも、慣用句等の意味・使い方については、文化庁の姿勢も同様で、みんなが正しく答えてくれたら、調査のしがいがなかったということになるのでしょう。

 ところで、その記事で取り上げられていることの一つに、次のような内容がありました。

 

 「いよいよ、ますます」を意味する言い方を二つの表現から選んでもらったところ、本来の言い方の「いやがうえにも」を選んだのは34.9%にとどまった。一方で、本来の言い方でないとされる「いやがおうにも」が42.2%と上回った。「いやおうなく」と混同したためではないかとみている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月18日・朝刊、13版、37)

 

 文化庁のホームページを見ますと、この質問は、「いよいよ、ますます」を、①「いやがおうにも」という意味で使うか、②「いやがうえにも」という意味で使うか、という質問で、③その両方とも使う、④そのどちらも使わない、という選択肢もあったようです。

 この質問は、「いよいよ」と「ますます」の2つの言葉を尋ねているのでしょうか、それとも「いよいよ、ますます」という句を尋ねているのでしょうか。この言葉は「いよいよ、ますます」と連ねて使わなければならないとは思われません。連ねて使う必要はないが、仮に、「いよいよ、ますます」と連ねて使った場合は? という質問なのでしょうか。

 この調査の別の質問項目になっている「(企業が学生を)青田買い(する)」、「(夢中になって見境がなくなり)熱にうかされる」、「(心配や不安を感じて)眉をひそめる」とは質が違うような質問だと思います。

 これは、質問と答が逆になってしまっているのではないでしょうか。「いやがうえにも」とはどういう意味か、「いやがおうにも」とはどういう意味か、ということを尋ねるべきではなかったでしょうか。「いやがうえにも」も、「いやがおうにも」も使ったことのないような人が多ければ、いい加減に答を選んだことが多くなったかもしれません。その結果の正解率が34.9%ということになります。「いやがうえにも」も「いやがおうにも」も、日常的に使われるような表現とは思われないのです。

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2015年9月26日 (土)

日本語への信頼(99)

「お門」という言葉

 

 「もったいない語辞典」というコラムに、落語家の三遊亭竜楽さんが「お門を通る」という言葉について書いています。

 

 落語家の世界では使われるが、他所(よそ)ではほとんど耳にしなくなった言葉がある。お世話になった方のお宅に挨拶にうかがう。

 「おや、いらっしゃい」の後、「わざわざ来なくていいのに」と先方が気遣う前に、「お門を通りましたので」と告げる。

 訪ねるのに労力を使ったと思わせないための配慮だ。「お門を通る」は日本人の持つ細やかな感性の表れであり、失われてしまうのはもったいない。

 (読売新聞・大阪本社発行、9月4日・夕刊、3版、4面)

 

 「落語家の世界では使われる」とあるので、いわば業界用語であるのかもしれません。あるいは、かつては広く使われていたのが使われなくなって、落語家の世界だけに残っているのかもしれません。この言葉は竜楽さんが言うように、失われてしまうのはもったいない言葉だと思います。

 これを読んだとき、これは関東の(あるいは、江戸の)言葉ではないかと思いました。関西では(と言うか、私は)、こういうときには、「ちょっとそこまで来ましたので(寄らせていただきました)」と言います。これも、先方への配慮によるのです。

 ところで、国語辞典で「お門」を引いてみますと、「広辞苑」を含めて「お門」は載っていません。大型の「日本国語大辞典」も同様です。見当違いという意味を表す「おかどちがい【御門違い】」が載っているだけです。けれども「おかど【御門】」という言葉があって「おかどちがい」が生まれたと考えるべきでしょう。「お門」も「お門を通る」も使われなくなってしまったのでしょう。

 「日本方言大辞典」には「おかど【御門】」という見出しがあって、大家に従属する小作人という意味で、長野県の伊那で使われていると書いてあります。興味深いのは、広島県高田郡で、ものを贈られた時に感謝の気持ちを表す言葉として「おかどの多(おい)のに」というのがあって、京都市にも同様の表現があるということでした。「おかどが多い」というのは、あなたは交際相手が多いのに私にまで配慮してくださって…という意味のようで、「お門を通る」とは違う表現です。けれども、「お門」という言葉があちこちで命脈を保っているのは興味深いことでした。

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2015年9月25日 (金)

日本語への信頼(98)

「歴史」の評価は後になって決まること

 

 ラグビーのワールドカップで日本が南アフリカに勝ったことは「歴史的」出来事なのでしょうか。これまでの実力からすれば、目を見張ることであったのかもしれませんが、それは「歴史的」という言葉で表現すべきほどの価値があるのでしょうか。

 「歴史的」という言葉には3つの意味があるように思います。

 一つ目は、歴史に残るほど重要な意味があるという意味です。ワールドカップでの勝利について、報道機関はそのような意味を見出しているのでしょう。けれども、それは、現在の瞬間での判断に過ぎません。その判断がいつまでも有効であるという保証はありません。その意味で「歴史的」という言葉の大安売りは避けなければなりません。

 二つ目は、評価されて、既に歴史として残っているという意味です。形として残っているものもあります。「歴史的建造物」とか「歴史的仮名遣い」とかいう言葉がそれにあたります。文化、遺産、伝統などとして残り続けているものに「歴史的」という言葉を使うのは望ましい遣い方であると思います。

 三つ目は、既に過去のものとなってしまっているという意味です。「もはや彼の名声は歴史的なものだ。」などと言います。

 例えば、熊谷市での外国人による殺害事件は、熊谷市という地域にとっては「歴史的」な事件のはすですが、そんな言葉は使いません。

 安全保障関連法案の強行採決は、「歴史的」汚点として後世に残るか、「歴史的」快挙として記録されるかは、今のところわかりません。報道機関は気楽に「歴史的」法案成立と言うかもしれませんが、本当の歴史の評価はずっと後になるはずです。

 ラグビー日本が南アフリカに勝ったことは単なる通過地点として、「歴史的」と言えないほどのものになるかもしれませんし、何十年にただ一度だけ起こった「歴史」になるのかは、今後の結果によるのでしょう。ラグビーの歴史を語る上で、語るに値する勝利であると判断されたときに、9月19日の勝利ははじめて「歴史的勝利」となるのだと思います。

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2015年9月24日 (木)

日本語への信頼(97)

「歴史的」だと言ってはしゃぐこと

 

 ラグビーのワールドカップの話題です。引用箇所ごとに①②③④の番号を付けます。

 

①日本、南アに歴史的勝利 ラグビーW杯

 2度Vの強豪に逆転 《見出し》

②英国で19日にあったラグビーの第8回ワールドカップ(W杯)イングランド大会1次リーグで、B組の日本(世界ランキング13)が南アフリカ(同3位)3432(前半1012)で破る歴史的勝利を飾った。

 (以上2つ、朝日新聞・大阪本社発行、9月21日・朝刊、13版、1面)

③南アフリカのマイヤー監督の表情はこわばっていた。 …(中略)… 思いもかけない歴史的黒星に、明確な説明は出来なかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月21日・朝刊、13版、16)

④ラグビーワールドカップ(W杯)で、過去7大会でわずか1勝だった日本代表が、2度の優勝経験を持つ南アフリカを破るという歴史的快挙は、週明けの21日になっても、英国に余韻を残している。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月22日・朝刊、13版、30)

 

 スポーツに関する記事は、いつものことながら、過大な表現が目立ちます。この勝利を喜ばないわけではありませんが、さめた目で見れば、これまで強豪とは言われなかった日本のラグビーが、世界の上位にすこし食い込んだだけのことかもしれません。

 それを「歴史的」という言葉を繰り返して称賛しています。この新聞だけではなく、ほとんどの新聞や放送が競って、そのような言葉を使っています。

 私たちは日常生活の中で「歴史的」などという言葉を使うことはあまりありません。「歴史的」は新聞や放送が、はしゃいで使う言葉のように感じられます。

 「歴史的」というのは、どういう意味でしょうか。「的」という文字を使わないで表現すれば、「歴史に記録される」、「歴史に残る」、あるいは「人々に記憶される」、「みんなが忘れない」というような意味でしょうか。

 「私はそう思います。」というのを「私的にはそう思います。」と若者が言えば、新聞は批判する側にまわることでしょう。けれども、「後々にまで記憶される勝利」ということを「歴史的勝利」というような言葉に置き換えてしまうことを平気で行うのも報道機関の習性なのです。

 「歴史的」という言葉について、2回に分けて書きます。

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2015年9月23日 (水)

日本語への信頼(96)

他動詞+自動詞の複合動詞

 

 引用するのは、コラム「天声人語」の冒頭の文章です。この文章はおかしいところがあるでしょうか。

 

 また一つ、実績が積み上がった。地域のことは住民が最終的に決めるという実績である。茨城県つくば市で一昨日、住民投票があった。総額305億円の総合運動公園計画への賛否が問われ、反対が8割を占めた。市長は白紙撤回する方針だという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月4日・朝刊、13版、1面)

 

 おかしいところはないという意見も多いかもしれませんが、私はずいぶん気になります。

 「積み上がる」という複合動詞が使われているのです。「積む」は他動詞、「上がる」は自動詞です。「積む」が自動詞になることはありますが、文語の色合いが強いと思います。例えば、「雪が降り積む」の「積む」です。

 他動詞と自動詞をつないで複合動詞にするという例はないわけではありません。けれども、「積み上がる」はおかしな言葉です。まるで、自分で積んで自分の背丈を伸ばしているような意味に感じ取れます。

 普通は、他動詞の「積む」に続ける言葉は、他動詞の「上げる」です。「積み上げる」という言葉は広く使われています。

 上の文章の冒頭は、「また一つ、実績が積み上げられた。」と書けばよいのです。破格な表現にしなければならない理由はないと思います。

 さて、同じ「天声人語」に次のようなことが書かれていました。

 

 言葉はいつも若い世代が変えていく。先週発表された今年の調査では、「おもむろに」の意味を「不意に」と答えた人が20代で7割いた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月22日・朝刊、13版、1面)

 

 日本語に変えていくのは若者たちばかりではありません。報道機関に携わる人たちの言葉が、一般の人たちに影響を与えます。

 「おもむろに」の意味を間違うのは、言葉を受信して解釈するときの誤りです。「積み上がる」は正しくない言葉遣いをして発信するときの誤りです。

 朝日新聞社は「天声人語」の書き写しを推奨しています。コラムを一字一句、丁寧に書き写す人があれば、「積み上がる」という言葉を正しい言葉であるかのように信じてしまいかねません。「積み上がる」が正しいのなら、自分も使おうとするでしょう。報道機関は、発信する言葉を点検して推敲することを続けなければなりません。

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2015年9月22日 (火)

日本語への信頼(95)

「ベンチャー」の語義

 

 朝日新聞の特集版が宇宙商戦を特集していました。その冒頭の文章です。

 

 宇宙ビジネスにベンチャー企業が参入し、価格破壊や技術革新をもたらしている。だが、もうけているのは一握り。「夢とロマン」の宇宙開発と、「銭勘定」は両立するのか-。

 (朝日新聞GLOBE、9月20日、1面)

 

 いろんな国語辞典を引いても、ほとんど同じように書いてあることが多い中で、「ベンチャー」は違っていました。

 「ベンチャー」を見出しにしている辞書は、例えば「広辞苑・第四版」ですが、説明は簡単で「①冒険。②投機。」となっているだけです。副見出しに「ベンチャー・ビジネス」があって、次のように書いてあります。

 

 新製品・新技術や新しい業態などの新機軸を実施するために創設される新生の中小企業。

 

 ひとつの言葉の説明の中に「新」という文字が5つ、「創」という文字が1つ使われるという異例の表現です。

 「新明解国語辞典・第四版」も、「ベンチャー」の説明に「危険。」とだけあって、副見出しの「ベンチャービジネス」が詳しくなっています。次のような記述です。

 

 大企業を飛び出した高学歴の専門家・技術者たちが何人か集まって新規技術開発・情報処理などを行う企業。失敗の危険が多分に考えられるのでこう呼ばれる。

 

 「大企業を飛び出した高学歴の専門家・技術者たちが何人か集まって」などと、ずいぶん具体的な説明です。

 他のいくつかの国語辞典は、「ベンチャー・ビジネス」または「ベンチャービジネス」の見出しだけで、それぞれ、次のように説明しています。

 

 「明鏡国語辞典」……最新技術や高度の専門知識を生かして、新分野で創造的・革新的な経営を行う企業。

 「現代国語例解辞典・第二版」……成長性は高いが、失敗のおそれも大きい、新しい業種の事業。

 「旺文社国語辞典・改訂新版」……高度の専門技術や創造的知識をもつ経営者や従業員で構成し、それをふまえて、危険はあるが成長性もある分野に進出している企業。

 

 広辞苑や明鏡国語辞典の「ベンチャー・ビジネス」の説明には、危険や失敗という言葉が使われていません。それぞれの辞典編集者の見方や、表現の好みなどの個性が表れている項目だと思いました。

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2015年9月21日 (月)

日本語への信頼(94)

「生前」の遺影

 

 生前葬というものがあります。本気で執り行う人もいるのでしょうが、私は遊び半分の気持ちなら、やってみたいと思います。

 自分の葬儀に参列してくれる人が、どんな顔をして、どのような思いを持って、どのような言葉を告げてくれるのか、死んだ後にはわかりません。生きているうちに、それを確かめてみたいという気持ちはあります。けれども、生前葬ではお互いに真剣みが欠けるのではないかと思ったりします。死後の葬式と、生前葬とはまったく別物ではないかという気がするのです。

 ところで、こんな言葉を見つけました。

 

 生前遺影撮影会  テレビや新聞で話題!『終活』の第一歩!

 (神戸市広報紙KOBE、2015年8月号、6面、下欄広告)

 

 遺影とは故人の写真や肖像画です。死後にデスマスクが作られたり、写真が撮られたりすることはあるでしょうが、死後に撮った写真は遺影とは言いにくいように思います。

 何気ないスナップ写真も遺影にはなるでしょうが、きちんとしたポートレートも遺影です。それらが撮影されるのは生前です。

 遺影を撮るのは生前なのですから、わざわざ生前遺影と言う必要はないように思います。それなのに「生前遺影撮影」と言うのはなぜかと考えてみると、やっぱり「生前」という言葉には意味があるように思われてきました。

 「遺影撮影会」では、いかにも寿命が迫った感じ、真剣に写真を準備しておこうとする感じが漂います。それに対して、「生前遺影撮影会」には、最期はまだまだ先であるという余裕の感じ、戯れながら写真を撮っておこうという感じも伴います。この場合は、あってもなくても同じである「生前」という言葉ですが、この言葉ひとつの有無で、この誘いに乗る人の数は違ってくるように思いました。

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2015年9月20日 (日)

日本語への信頼(93)

「私たち」という言葉

 

 安全保障関連法案が参議院本会議の採決を経て成立したのは9月19日の未明のことでした。19日の朝刊は、成立する見込みであるということを前提にした紙面になっていました。

 国会議事堂の中は、多数の市民の抗議行動などとは無縁の世界であるのでしょう。政治の世界のルールだけで前に進んでいったようです。法律が成立しても、それが本当に憲法に違反していないのか否かということは、これから法廷でも争われることになるでしょう。

 さて、19日の朝日新聞の1面左上には、新聞社のゼネラルエディターという立場の人の文章が掲載されました。その文章には「私たち」という言葉が4回、書かれていました。文章の中から、順に抜き書きします。

 

①私たちは法案の問題点を指摘し、不安にこたえる説明と合意形成の丁寧なプロセスを安倍政権に求めてきた。

②こうした「声」が政治にとどかないもどかしさは批判となって私たちメディアにも向けられた。

③そしてこの日、国会を大勢の人たちが取り囲む中、私たちの問いかけや国民の反対と懸念の声を無視する形で成立にむけて進んでいった。

④そして、国会の外の人々の声に耳を澄まし、私たちは権力と向き合っていく。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月19日・朝刊、13版、1面)

 

 さっと一読したとき、この「私たち」を、②「私たちメディア」という表現を除いて、①③④「私たち」=国民全体と感じ取りました。

 けれども、二度、三度読んでみると、そうではないことがわかりました。

 「私たちメディア」()というのは、報道機関全体を指していますが、「私たち」(①③④)は、朝日新聞だけを指しているようです。

 ①の「法案の問題点を指摘」したのは、「私たち朝日新聞」らしいのです。それは、③で、「私たちの問いかけ」と「国民の反対」とを区別して書いていることからもわかります。

 そうすると、④も「私たち朝日新聞」は権力と向き合っていくという意味になります。

 新聞社の決意としては頼もしいとは思いますが、どうもおかしいと思います。国民や読者がどのように考えようと、私たち朝日新聞はこうするのだという頑なな姿勢のように思われるのです。その頑なさには、安全保障関連法案の強行採決と通じるものすら感じてしまいます。

 新聞は読者とともに歩んでいくものではなかったのでしょうか。

 新聞社だけが「私たち」なのではなくて、国民全体を「私たち」と見る姿勢を持たなければなりません。

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2015年9月19日 (土)

日本語への信頼(92)

誤用を追認する「国語に関する世論調査」

 

 毎年、話題になるニュースが、今年も掲載されました。

 

 「やばい」は「とてもすばらしい」-。10代の9割が「やばい」をすばらしい、良い、おいしい、かっこいいといった良い意味で使い、10年前より肯定的な使い方が広がったことが、文化庁の国語に関する世論調査で明らかになった。

 調査は、今年1月から2月にかけ、全国の16歳以上の男女3493人を対象に行われ、1942人が答えた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月18日・朝刊、13版、37)

 

 調査対象者がどのような地域の人からどのように選ばれたのか、わずか1942人のうち10代は何人であったのか、などということはわかりませんが、調査結果は、予めその傾向がわかっていたことばかりです。

 文化庁が行う国語調査なら、もっと深みのあるものがあっても良かろうにと思います。価値ある調査対象はいくらでもあります。それなのに、世論調査と称して、マスコミに話題に提供している意図は何なのでしょうか。こんなに大勢の人が誤用をしていますから、もう認めざるを得ませんね、というような姿勢が見え見えではありませんか。誤用を追認するのが文化庁の任務ではありますまい。

 同じ記事の中に、興味のあるコメントが書かれていました。引用します。

 

 「日常で使われなくなった上、前後の文脈で類推しにくいため、本来とは違う意味で考えている人が多いのではないか」と担当者は話す。

 

 昨日の(91)回に書いた、「わらわら」がまさしくこのコメントに一致しています。日常生活ではほとんど使わない「わらわら」を使った文章でしたが、前後の文脈から意味を類推することは困難でした。

 次回の国語世論調査では、このコラムの文章を引用して、「わらわら」の意味を尋ねてほしいと、私は本気で考えました。

 

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2015年9月18日 (金)

日本語への信頼(91)

「わらわらと」散っていく? 集まってくる?

 

 食をテーマに開かれているイタリアのミラノ国際博覧会へ行ってきたという記者の文章が載っていました。「葦 -夕べに考える」というコラムです。

 

 「だしスープの実演です」とスタッフが呼びかけると、イタリア人ら100人余がわらわらとステージ前に集まった。鍋につけた昆布やだしのとりかたを土居さんがイタリア語で話し、カップでだしを配ると、「ボーノ(おいしい)!」とあちこちから。

 「予想以上の食いつき」と土居さん。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月17日・夕刊、3版、10)

 

 「予想以上の食いつき」というのは、ちょっと乱暴な言葉です。たとえ土居さんがそのような言葉を使ったとしても、別の言葉に置き換えて書いてほしいと思います。けれども、それはそれとして、言いたいのは別のことです。

 「わらわらと」という言葉は普段はあまり使いませんが、使うことには抵抗感はありません。けれども、「わらわらと集まる」というのは、私の言語感覚には合わないのです。

 「広辞苑・第四版」の「わらわら」の説明は、「散りみだれるさま。ばらばら。」です。一箇所からあちこちへ散らばっていく場合には使うでしょうが、あちこちから一箇所に向かって集まる場合に使うことがあるのでしょうか。

 「日本国語大辞典」の「わらわら」は、「①乱れたさま、破れ乱れたさまを表す語。②陽気なさまを表す語。」と書いてあります。①の意味なら、やっぱり破格です。もしかして筆者は、②の意味で、陽気なイタリア人が浮き浮きしながら集まってきた様子を書いたのでしょうか。けれども、文脈から②の意味をかぎ取るのは難しいと思います。

 「日本国語大辞典」には方言の意味も書かれています。それを見ると「急いで走るさま」や「あわてて走るさま」という意味で使う地域があるようです。東北地方や茨城、静岡の地名が記されています。ひょっとしたら、この文章の筆者はその地域の出身者なのかもしれませんね。

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2015年9月17日 (木)

日本語への信頼(90)

報道機関が先導する、言葉の誤用

 

 「気のおけない人」や「情けは人のためならず」などを例にして、言葉の使い方が誤った方向に向かっているという調査結果が出たりしました。人々が間違った使い方をしているのです。

 ところが、一方で、報道機関が先導する誤用もあるように思われます。人々が普段は使わないような言葉の誤用です。

 大学入試センター試験の後継テストについて話し合う文部科学省の有識者会議が、議論の中間まとめを公表した、というニュースがありました。

 

 センター試験改革は、知識を詰め込み、試験一発で合否が決まるようなスタイルを変えることをめざす。安倍晋三首相肝いりの「教育再生実行会議」が2013年に提言。14年には文科相の諮問機関「中央教育審議会」の答申に盛り込まれ、有識者会議が改革の骨格を検討中だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月16日・朝刊、13版、37)

 

 ここで使われている「肝いり」という言葉は、首相がリーダーシップをとって会議を設置したという意味に受け取られます。本来の使い方とは違っています。報道機関が、このような使い方をしている例は、これまでに何度もありました。

 「広辞苑・第四版」の「きもいり【肝煎】」の項は、次のように説明しています。

 

 ①世話をすること。周旋すること。特に、奉公人・遊女などを周旋すること。また、その人。とりもち。

 ②江戸時代の高家(こうけ)の上席。

 ③名主(なぬし)・庄屋(しょうや)の異称。

 

 記事の文脈では、①の意味です。首相は、何かと何かの間をとりもつために会議を設置したわけではありません。

 記者には、首相がリーダーシップをとって会議を設置する ⇒ 首相が会議に方向性を持たせる ⇒ 首相が会議に「肝を入れる」、という連想が働いたのではないでしょうか。

 もっとも、「日本国語大辞典」の「きもを煎る」の項には、「心をいら立てる。心を悩ます。腹を立てる。…」という説明がありますから、首相が教育問題を憂えて、苛立った末に会議を設置したというニュアンスを漂わせたとも受け取れないことはありません。けれども、そこまでの深謀遠慮の行き届いた表現ではないでしょう。

 私には、報道機関が先導する誤用が始まっているように感じられるのです。

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2015年9月16日 (水)

日本語への信頼(89)

男女の呼称

 

 かつて勤めていた高等学校の卒業生から、同窓会の案内を受けました。その学校は、卒業してから5年ごとに同窓会を開いています。いつの年度の卒業生もこの慣習どおりに、5年ごとに行っていて、感心してしまいます。もう創立以来140年という県立高校です。

 教職員であった私たちは、5年ごとに卒業生の彼ら・彼女らに会って、その変化を見続けていることになります。開催日は新年の1月2日、これもかたくなに守り続けています。その学校に勤務していた9年間に、3度の卒業生を送り出しましたから、私は5年間に3回の同窓会に呼ばれることになります。その学校の卒業生は、もう50代です。

 その当時、授業中に生徒であった彼ら・彼女らの名前を、私はどう呼んでいたのか、ちょっと気になりました。もしかして、男女ともに「〇〇!」と呼び捨てで呼んでいたかもしれません。教員になった初めの頃はそんな記憶があります。

 30代になって勤めたこの学校では、男子を「〇〇君」、女子を「〇〇さん」を使い分けていたかもしれませんが、呼び捨てを踏襲していたかもしれません。同窓会で出会ったら、確かめてみたくなりました。

 後に勤めた大学では、教員を目指す学生たちが相手でした。この場合は、男女の別なく「〇〇さん」と呼びました。もはや成人前後である人たちですから、この言葉がふさわしいように思ったのです。

 河北新報のコラム、9月15日の「河北抄」で、こんな話題が書かれていました。

 

 男性議長が男女問わず「君」と呼んできた議会が多かったが、仙台市議会は女性は「さん」と呼ぶことにしたという。

 他の市に聞くと、石巻と白石は「〇〇議員」と男女ともに肩書呼称。気仙沼は「〇〇君」と呼んでいるが、「今は女性議員がすない」(議会事務局)。議会の申し合わせでは男女ともに「さん」も使える。ちなみに県議会は「君」。

 女性に「君」は、やっぱり据わりがよくない。世の中にならって「さん」で男女統一すれば何のことはない。

 

 このコラムは宮城県内のことを述べているのですが、昨日も国会中継のラジオを聴いていたら「福島瑞穂くん!」という言葉が流れてきました。

 議会は議会のしきたりで呼べばよいのでしょうが、日常生活で、女性を「君」と呼ぶのは、呼ぶ人と呼ばれる人の年齢差がかなり大きい場合に限られるのではないでしょうか。いや、もしかしたら、男性に対する「君」付けも、年齢差が小さい場合は使いにくいかもしれません。もちろん同年齢同士は遠慮なく「君」付けで呼びますが…。

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2015年9月15日 (火)

日本語への信頼(88)

直接話法のテクニック

 

 公募とは、広く一般の人からつのることです。東京オリンピック、パラリンピックのエンブレムは、国内外の104点の中から選ばれたそうですが、公募とは名ばかり、希望する人が応募しようにも応募できない規定であったようです。

 採用と決まったエンブレムは白紙にかえったのですが、エンブレムの採用者が決まったときには、そのS氏を称讃する報道がありました。

 称賛記事を書くときには、後にこんな問題が起こるとは見抜けません。問題が起こった後になってその称賛記事を読み返すと、白々しく空々しく感じることがあります。

 ところが、S氏を取り上げた朝日新聞の「ひと」というコラムは、なかなか用意周到であったと思います。称賛する言葉を地の文で連ねるのではなく、本人の発言をうまく活用しているのです。会話のカギカッコの部分だけを抜き出すと、次の5箇所です。

 

 「よし、いける」。

 「このデザインで20年に向かうみんなの気持ちを束ねたい」。

 博報堂時代には苦悩もあった。「複雑に考えすぎて、鳴かず飛ばずになった」。

 「あんなシンプルで骨太な仕事がしたい。五輪のシンボルをいつか自分も、というのが夢だった」。

 「閉幕したとき、いい大会だったと言われたい。かっこよくて美しい大会にするためにデザインの力は不可欠。一肌脱ぐどころか、全裸で頑張るつもりです」。

 (朝日新聞・大阪本社発行、7月27日・朝刊、13版、2面)

 

 ほぼ全体に共通するのは、「…したい」という本人の願望や意志を表す言葉です。これを文章の中に散りばめていけば、地の文で褒め言葉などを書かなくても、この人の人間像を表現できるという判断があったのでしょう。問題が起こった後で読み返しても、記者の姿勢をとがめる箇所がほとんどないのです。上手なテクニックです。

 もっとも、こういうやり方は、寡黙な人にインタビューしたのではうまくいかないかもしれません。口数が多く自信に満ちた人だったからこそできたのかもしれません。

 

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2015年9月14日 (月)

日本語への信頼(87)

これも「表現の自由」というものか

 

 私は、自分のことを「〇〇先生」とか「〇〇博士」とか名乗る人が書いた文章は読みたくなく、基本的には敬遠しているのですが、ふと目をとめてしまうものもあります。「缶詰博士黒川勇人の忙中カンあり」というコラムに、次のような表現がありました。

 

 価格はおおむね300円以上。中身はちょっと凝った多彩な料理。そういう缶詰を僕は「グルメ缶詰」と定義している。 …中略…

 兵庫あたりでは釘煮という佃煮で出てくるが、こちらはにんにくと唐辛子を利かせたごま油でやわらかく煮てある。愛らしき1尾をつまんで頬張れば、はらわたのほろにがいところ、頭の脂っこいコク、身肉の滋味がいっぺんに味わえる。 …(中略)

 1尾ずつかみしめながら、ただただ缶嘆するばかりであります。 …(中略)

 はらわたの精妙な苦みに、清酒の自然な甘さがよく合うのだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月12日・朝刊、b11)

 

 「身肉」には「みしし」というルビが、「缶嘆」には「かんたん」というルビが施されています。

 この文章の筆者は自ら「博士」と称するだけあって、日本語の使い方が縦横無尽です。「缶嘆」は「感嘆」の意味であることはすぐ分かりますが、「グルメ缶詰」というような語をさっと作ってしまっています。

 さて本来の日本語を壊している例を2つ、挙げます。

 「精妙」とは、細かいところまでうまくできている様子を表す言葉ですが、器械やものの仕掛けなどに使うのが一般的な用法です。イカナゴをまるで「からくり人形」のように見ているのでしょうか。自然がはぐくんでいるイカナゴを、人工的に作り上げた味のように見ているようです。

 「身肉」などという、普段はお目にかからない言葉も使っています。

 「広辞苑・第四版」の「みしし【身肉】」は、「からだ。み。」という説明があって、「身肉に堪えて」という項目で、「身共は 身肉 持って行きとむない」という用例が書かれています。

 「日本国語大辞典」の「みしし【身肉】」も、「からだ。身。」として、「身肉の形(なり)に、しっくりと着こなして」という用例が挙げられています。

 つまり、言うまでのないことですが、一般的な使い方は、人の体のことなのです。人の身柄であり、人の姿形のことなのです。「身肉の滋味」などと言われると、なんともグロテスクな感じが漂います。

 新聞社は、依頼した原稿の内容や言葉遣いを筆者に委ねてしまっているのでしょうか。どんな言葉を使おうと「表現の自由」だと見なして、新聞社は言葉遣いのチェックをしないのでしょうか。こういう言葉遣いの誤りは、連日掲載されている「訂正して、おわびします」の欄で取り上げないのでしょうか。次々と疑問の念がわいてきます。

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2015年9月13日 (日)

日本語への信頼(86)

教育で何と戦うのか?

 

 スポーツの世界は戦争用語であふれています。人間は闘争心にあふれているのでしょう。その闘争心を平和的に活用するのがスポーツでしょう。

 「戦略」という言葉は、スポーツ競技だけでなく、企業活動や政治運動などでも使われます。「戦略」という限りは、それぞれ戦う相手があるのです。相手のない戦いはありません。

 けれども、「戦」という文字を教育の世界で使われると、違和感を感じてしまいます。教員を目指す学生が、学校で長期にわたる現場体験をすることを話題にした記事に、こんな言葉が使われていました。

 

 文部科学省もこうした試みに注目し、大学の教職課程に長期の「学校インターン」を導入することを検討している。大量採用された世代が退職するため、即戦力になる若手教員を養成したい事情もある。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月12日・朝刊、13版、30)

 

 「明鏡国語辞典」の「戦力」の項には、次のように書かれています。

 

①国が戦争を遂行するための総合的な能力。兵力・軍需品生産力・輸送力などを含めていう。

②スポーツ競技・企業戦略・労働運動などで、戦うための力。また、そのための人員。

 

 即戦力とは、組織的な訓練を行わなくてもすぐに戦える力のことでしょう。そして、教育の世界で戦う相手は何なのでしょうか。

 その組織で役立つ人のことを「戦力」と言い、「すぐに役立つ」といえばよいものを「即戦力になる」と言う。いかにも、組織という歯車の一つになって、消耗品のように見なされている感じは否めません。

 「戦力」となった指導者に教えてもらう子どもたちは、もっと小さな、例えば鉄砲玉のような存在になっていくのでしょうか。

 もちろん、「即戦力」などという言葉遣いは、一種の比喩表現であることぐらいはわかっています。けれども、比喩なら比喩で、もっと他の言い方もあるはずです。しょっちゅう使っていると、比喩でなくなり、皮膚感覚のように身についてしまうものです。

 日常生活に戦争用語を持ち込むことは、そろそろお終いにしませんか。報道機関も心すべきであると思います。

 

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2015年9月12日 (土)

日本語への信頼(85)

66年ぶり」の堤防決壊

 

 私は今、日光道中を歩き終えて奥州道中に足を踏み入れています。この度の関東の豪雨は、南北に延びている日光・奥州の街道筋に沿った地域の災害ですから、心が痛みます。古河、小山、宇都宮、日光などの地名がニュースに現れると、じっと見入ってしまいます。古河宿の手前で渡ったのは利根川ですが、鬼怒川は奥州道中の氏家宿~白澤宿の間で渡りました。

 鬼怒川の決壊を報じる新聞の文章に、ちょっと違和感を覚えました。次のような表現です。

 

 茨城県常総市では午後0時50分、鬼怒川が66年ぶりに決壊。約6500棟がある一帯が冠水し、住宅が流され、県警などに「人が流された」との通報が相次いだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月11日・朝刊、13版、1面)

 

 「鬼怒川の決壊は66年ぶりのことである。」と書かれていたら違和感はなかったでしょうが、「鬼怒川が66年ぶりに決壊」したという表現は、腑に落ちる言い方ではないのです。そこまで神経質にならなくても…と言われるかもしれませんが、気になるのです。

 「ぶり」という言葉は、再び同じことが繰り返されるまでにどれだけの期間(時間)が過ぎたのかということを表す言葉です。「強豪が3年ぶりに優勝」という場合は、何度も繰り返している優勝かもしれませんが、今回は3年の期間をおいての出来事だというわけです。

 それとともに、「ぶり」は、あることが実現するまでにどれだけの期間(時間)が必要であったのかということも表します。悲願が達成したのなら、初めての場合であっても「創立以来、70年ぶりに甲子園に出場」と言ったりします。待ち望んでいたことが実現したということです。

 前者の「ぶり」は客観的に期間の隔たりを表すだけの用法です。それに対して、後者の「ぶり」は期待していたことが実現するまでの時間の隔たりを表す用法です。

 「鬼怒川の決壊は66年ぶりのことである。」という言い方は前者の表現ですから、違和感は持ちません。けれども、「鬼怒川が66年ぶりに決壊」という言い方は後者の表現であるという匂いも漂っているように感じるのです。望んでもいないことが降って涌いたように起こったのに、「66年ぶり」とは何事だ、という気持ちなのです。

 私のこの感覚に同感される方が、どの程度おられるのかはわかりません。けれども、同意してくださる方が少なからずおられるだろうと思うのです。

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2015年9月11日 (金)

日本語への信頼(84)

「よう知らんけど」という言葉

 

 「またまた勝手に関西遺産」という企画記事に、「知らんけど」という言葉が取り上げられています。見出しには「自信たっぷり 責任ポイッ」と書いてあります。

 

 「あのカレー屋、毎日行列できてるねんで、知らんけど」

 関西の電車や喫茶店でおばちゃんらの会話をちょっと盗み聞き。聞こえてくるわ、聞こえてくるわ、「知らんけど」という言葉。さも見てきたかのように話し続け、最後にすべての責任を投げ捨てる。話し相手の全身を脱力させる言い回し。 …(中略)

 日本漢字能力検定協会の佐竹秀雄・現代語研究室長は「いつごろかははっきりしないが」と前置きしながら、「それほど古いものではない。テレビでワイドショーが盛んになったころからでは」と推理する。 …(中略)

 ワンランク上の使い方とは、「知らんけど」の前に、これまた関西特有の言葉「よう」をつけた「よう知らんけど」。こうすると内容のあいまいさに拍車がかかる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月9日・夕刊、3版、2面)

 

 「知らんけど」はいかにも関西の言葉という感じを漂わせていますが、流行語のようなものではありません。まして、「知らんけど」はおばちゃんたちの専売特許ではありません。内容をあいまいにして投げ捨てるような言葉でもありません。

 私の記憶では、はるか昔から「よう知らんけど」は使われていました。何かのことを尋ねられ、自信のない答えをしたときに、遠慮がちに添える言葉が「よう知らんけど」でした。自信たっぷりに言い捨てて、後は笑いでごまかすというような言葉ではありませんでした。あくまで「よう知らんけど」であって、「知らんけど」だけの単独使用ではなかったように思います。まったく知らないことを自信たっぷりに言うなどというのは新喜劇の舞台ぐらいのことでしょう。日常生活で、よく知らないけれども何かの発言をしなければならないときに、発言した後で添える言葉が「よう知らんけど」です。もちろん言い回しのバラエティはあります。「あんまり知りませんが」とか「よう分かっとるわけではありまへんが」などです。「知らんけど」に単一化させることは疑問です。

 「よう知らんけど」がワンランク上の言い方なのではありません。「よう」を取り去って「知らんけど」になったことにより、もともとの言葉よりもランクが下がって、含蓄が失せていったのです。

 テレビでワイドショーが盛んになったころから広まったのかもしれませんが、それは表面的なものです。この言葉の底流は昔々の大昔、遠慮がちに言い始めた言葉のはずです。言葉の起源や流布をテレビなどと結びつけてしまうのはたいへん危険です。何でも断言してしまおうとする報道関係者や言葉の研究者が陥りがちな誤りです。

 それにしても、「よう知らんけど」が関西の言葉の大きな特徴であることには変わりはありません。何かの話をした後に、そっと添える「わしは、よう知らんのですけど」という言葉は、関西人の奥ゆかしさを感じさせる言葉ではありませんか。

 

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2015年9月10日 (木)

日本語への信頼(83)

「座学」が辞書に載っていない

 

 高知市にある私立高校に「自衛隊コース」が新設されるというニュースが載っていました。

 

 自衛隊コースでは、1週間のうち6時間を自衛隊関連の授業にあてる。4時間は銃の形をした木製武具を使う「銃剣道」、2時間は自衛隊の歴史や活動を学ぶ座学を実施する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月9日・朝刊、13版、33)

 

 この「座学」という言葉は、「広辞苑」をはじめ、ほとんどの小型辞書には載っていません。

 この日の朝日新聞には、「三省堂国語辞典」の編集委員である飯間浩明さんの「ことばはゴムのように  安保法案 解釈が伸びていく不安」という文章が掲載されています。(朝日新聞・大阪本社発行、9月9日・朝刊、10版、31)

 「三省堂国語辞典・第三版」には「ざがく【座学・坐学】」の項があって、次のように説明されています。

 

 机にすわって・する学習(学習をおこなうこと)

 

 この「座学」という言葉は、いつ頃からかは記憶に定かではありませんが、私たちはかなり以前から使っていました。どういう場で使われていた言葉を利用したのかは知りません。

 日常の学校教育のカリキュラムを論じるようなときには使いませんが、例えば新入生のオリエンテーションのプログラムを検討するとか、野外活動の内容を検討するとかの場合には使いました。

 「座学」は一言で言うと、講義を聞いて学習することです。机に座るか、体育館で床に腰を下ろすかというような区別はありません。

 実技・実習・演習などに対して、誰かが話しているのを聞いて学習することです。机に座っていても、討論や実習などを通じて学習することは「座学」とは言わなかったように思います。

 ほとんどの辞書に載っていないのですから、意味が揺れるのは仕方がありません。この日の飯間さんの文章には、「ことばの解釈は、時代の流れととともに、白から黒に変わることさえあります。」という表現があります。この高校の自衛隊コースの2時間の「座学」も、世の中の状況しだいで教育内容や教育形態が変容していくことがないとは言えないでしょう。

 

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2015年9月 9日 (水)

日本語への信頼(82)

報道する自由、報道しない良識

 

 新聞や放送は、世の中にあることを何でも報道してよいのだとは思いません。

 こんな見出しの、こんな記事がありました。

 

【見出し】

 遺骨 宅配便で

 共同墓や散骨業者へ「送骨」

 維持費困難 遠方から依頼

【文章】

 共同墓への納骨や散骨のため、遺骨を宅配便で送るケースがケースが増えている。持参する労力や交通費の負担を減らすためで、後継者不足などから墓の維持が難しい現代的な事情があるようだ。

 兵庫県三木市の蓮花寺平成霊園は4月、共同で埋葬する「永代供養墓」の利用者向けに、遺骨を日本郵便の宅配便「ゆうパック」で受け付ける「送骨パック」プランを設けた。段ボール箱や緩衝材などのセットを送り、届いた遺骨を供養したうえで、納骨する。

 (読売新聞・大阪本社発行、9月4日・夕刊、3版、12)

 

 かなり大きなスペースを割いた記事の、冒頭部分を引用しました。この記事には、「送骨」についての批判的な姿勢はありません。この記事を読んだ人がそれを真似て広がっていくことを願っているような文章の運びです。

 「大切な遺骨を宅配便で送るのは不謹慎だと、否定的な寺も多い。」という表現もありますが、最後に添えられた、ある大学長のコメントも、文章全体の方向に沿うものです。

 かつての人が考えもしなかったような、心の荒廃を感じさせるような事象を「現代的な事情」という一言で片付けています。人には、労力や交通費の負担の軽減よりももっと大切なことがあります。人の心のあり方こそ問題にすべきです。ここにあるのは経済優先の考えであり、利益になるものを作り出そうという姿勢です。いくら貧しくても、昔の人はこんな馬鹿げたことはしませんでした。たぶん、この記事を書いた記者も、現代感覚を優先して生きている人なのでしょう。

 表現の自由、報道する自由という声が叫ばれる一方で、報道の誤りは指摘され糾弾されています。けれども、こういうことは報道すべきでなかったというような議論は聞きません。報道することの可否を議論することは、表現の自由を封殺する議論であるかのように考えて、避けて通っているのが、報道機関の現実の姿でしょう。

 報道する自由と、報道しない良識とは、表裏一体をなすものであると認識すべきであると思います。

 

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2015年9月 8日 (火)

日本語への信頼(81)

井戸か排水路かわからないが…

 

 原発事故に関した報道で、わからない言葉と次々に遭遇します。

 先日は、東電がサブドレンなどからくみ上げた地下水を浄化した上で海に放出する計画について、福島県漁連が容認することに決めたというニュースがありました。サブドレンと名付けられた高性能な装置で処理した、安全な水というような印象を与えます。

 「ドレン」という言葉について、東京電力のホームページを見ると、「サブドレン・地下水ドレンによる地下水のくみ上げ」という説明があります。図を見ると、サブドレンが41か所、地下水ドレンが5か所あることがわかります。そして、次のような説明があります。

 

 サブドレンは、原子炉建屋とタービン建屋近傍にある井戸のことです。

 サブドレンで地下水をくみ上げることにより、原子炉建屋およびタービン建屋へ流入する地下水が大幅に低減することが期待できます。また、海側に流れ込む地下水についても、海側遮水壁を設置してせき止め、護岸に設置した井戸(地下水ドレン)によりくみ上げます。

 

 ドレンとは地下水をくみ上げる井戸のことのようです。それなら「井戸」と言えばよいでしょう。「地下水ドレン」は地下水井戸もしくは地下水汲み上げ井戸と言えばよいでしょう。「サブドレン」も同じです。2種類ありますから、A型とB型と分けてもよいかもしれません。ドレンなどという言葉で、もっともらしさを表現する必要はありません。井戸なら井戸と言えばよいでしょう。

 河北新報のコラム「河北抄」は9月3日に、次のように書いていました。

 

 電力業界が使う原発用語にはどうもなじめないものがある。その一つが東京電力の福島第1原発で最近よく話題になっている「サブドレン」。

 仰々しい名称だが、要は「原発敷地内の地下水の水位を下げるために水をくみ上げる井戸」(東電広報部)。ドレンは英語で、水抜きなどを意味する。サブは「副」かと思ったら「地下。サブウェイ(地下鉄)のサブ」だという。

 つまり「地下水排出井戸」。そう言えば理解しやすくなるのだが、原発事故後に掘った別の井戸を「地下水ドレン」と称しているのだからややこしい。

 「燃料デブリ」もちんぷんかんぷん。何のことはない。メルトダウンして溶け落ちたウラン燃料を指す。ウラン以外の物質も溶けて混じっているが、「溶融核燃料」で一向に構わないはず。

 デブリは「散乱した破片などを意味するフランス語」(広報部)。なじみのある英単語ならまだしも、フランス語まで使うのは困ったもの。簡単な話をわざと分かりにくく業界だと勘繰りたくなる。今に始まったことではないが。

 

 まったく同感です。意味ありげな、効果ありげな言葉を使って、本当の姿を見えなくしているのです。言葉の遊び、言葉のごまかしです。原発にかかわる言葉がすべて、こういう考え方で貫かれているような気持ちになります。

 「地下水ドレン」「燃料デブリ」などの言葉は、原発にかかわる一般的な用語なのでしょうか。すべての会社でこの言葉を使っているのでしょうか。それとも、原発事故以後に東電が次々と作り上げている言葉なのでしょうか。

 もしも、前者であっても、社外向けには分かりやすい言葉に置き換えるべきです。東電のホームページも、分かりやすい説明とは思えません。

 もしも、後者であるのなら、言葉で人々を惑わす、恐ろしい行為であると思います。

 そして、新聞や放送は、会社が発表した言葉をそのまま受け売りするような姿勢は止めるべきです。会社が使った言葉を忠実にそのまま報道していたら、言葉は無限に増えていってしまいます。

 とは言え、会社が発表した言葉を言い換えて、それぞれの報道機関が勝手な言葉で報道したら社会が混乱します。そうではなくて、わかりやすい言葉を使え、カタカナ語でなくきちんとした日本語を使えということを会社に迫るべきです。報道機関は記者会見で聞いたことを口移しで伝えることが任務ではありません。一般の人は記者会見に出ることはできません。記者はしっかりした姿勢で、会社に対峙しなければなりません。

 

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2015年9月 7日 (月)

日本語への信頼(80)

「ディベート」と「討論」

 

 ディベートについての続きです。朝日新聞の「天声人語」が、次のような文章で始まっていました。

 

 英語の「スピーチ」の訳語として「演説」を採ったのは福沢諭吉だ。ディベートを「討論」に、エコノミーを「経済」に、フィロソフィーを「哲学」に。福沢ら明治の先達の翻訳力には今更ながら驚く。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月6日・朝刊、13版、1面)

 

 「訳語を作った」というような書き方ではなく、「訳語として……採った」という表現になっているのは、配慮が行き届いていると思います。ここに挙げられている言葉は明治になって作り出されたものとは限らないからです。

 「討論」について、日本国語大辞典は、江談抄(平安中期以後の記事を収めた説話集)や色葉字類抄(12世紀に成立した辞書)などの用例を引用しています。明治期に、訳語として、古い用例の中から「討論」を採用したのかもしれません。もっとも、オリンピックのエンブレムと同様に、別個に考えたものがたまたま一致したということもあるかもしれません。

 エコノミーやフィロソフィーは、訳語とは別に、片仮名で外来語としての地位も確立してきています。

 中村明さん()の『日本語語感の辞典』には、討論を「一定の問題をめぐり会場で何人かの人が論じ合う意で、会話にも文章にも使われる漢語」と説明してあります。この語に対する私たちの一般的な受け取り方です。

 仮に、明治の先達がディベートに「討論」という訳語をつけたとしても、日本語全体にとっては「討論」が使い続けられた言葉であって、「ディベート」は新参者です。すべての国語辞典に「ディベート」という見出しが存在するようになるのは、遠い将来のことになるでしょうが、そのためにはディベートの定義や意義などが広く認知されなければならないと思います。

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2015年9月 6日 (日)

日本語への信頼(79)

ディベートとは何か

 

 ディベートとは何なのか、国語辞典には載せていないものもありますが、「現代国語例解辞典・第二版」では、「討論。討議。特に、対抗する二組が賛否両論に分かれて行う討論会をいう。」と書いてあります。よくわかる説明です。

 ところで、日本ディベート協会のホームページに「ディベートの紹介」というページがあって、次のように記されています。理解に苦しむ文章です。

 

 ディベートの定義を明確に理解することは、非常に大切です。学ぼうとする対象を明確に理解することでディベートを学ぶ上でも頭の体操になりますし、ディベートに対するさまざまな誤解をとくこともできます。しかし最も大切なことは、ディベートがそもそも何を目的としたコミュニケーション技法であるかを理解する一助となることです。これによって、ディベートをすべきであるときにディベートをし、ディベートすべきでないときにディベートしない、という適切な応用できるようになります。ただやみくもにディベートの技術を学ぶのではなく、何のための技術なのかを常に意識しながら学ぶことが大切です。

 

 ディベートというのは論理が整然とした討論であるはずですが、この文章は、何を言っているのか真意がつかめません。ディベートを紹介する説明がこんな文章であれば、ディベートそのものへの信頼も失せてしまいます。

 いかにも大上段に構えた文章に見えますが、ここでは「ディベートの定義」はすこしも明確には提示されていません。「ディベートに対するさまざまな誤解」とはどのようなものであるのかもわかりません。「ディベートがそもそも何を目的としたコミュニケーション技法であるか」についての説明もありません。「ディベートをすべきであるときにディベートをし、ディベートすべきでないときにディベートしない」という区別をどのように判断するのかというヒントも書かれていません。

 「ただやみくもにディベートの技術を学ぶのではなく、何のための技術なのかを常に意識しながら学ぶことが大切です」ということには大賛成ですが、日本のディベートを指導するような協会が、こんな文章を提示したのでは、ディベートの意義も方法も課題も、何も明らかになりません。

 ディベートへの信頼感が失せるという、逆効果を見事に演出しているように思われてなりません。

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2015年9月 5日 (土)

日本語への信頼(78)

ディベートの「功」と「罪」

 

 さまざまなことについて大勢で話し合うことは大切なことです。あるテーマについて討論を重ねることも大切なことです。私は高等学校や大学の教壇に立って、国語教育に関する分野に長い間、関わりを持ってきました。

 けれども、私はディベートについては強い疑問を持っています。授業や講義で、この形式を用いて指導をしたことはありません。しようとも思いません。

 ものごとは肯定・否定の二つで決めるようなものではありません。いろいろな意見を聞き、自分の考えもしっかりさせた上で、相手の良い点も取り入れて、望ましい方向を求めていくことが望ましいと思います。そういうことが社会生活をする上には重要なのです。年若い頃から二者択一のような考え方をしていてよいとは思えません。相手をうち負かせばよいのだというような姿勢の若者を育ててよいとは思いません。相手の考えを取り入れる前に、相手をうちのめそうとする姿勢がよいとは思えません。

 ものを考えるときに、他の人と一緒に考えていくのがよいかどうかは内容によると思います。世の中にはひとりで考えなければならないことも多いのです。

 第20回全国中学・高校ディベート選手権についての特集記事がありました。以下の引用はすべて、(読売新聞・大阪本社発行、9月4日・夕刊、3版、9面)の記事によります。「大会のルール」として、次のように書いてありました。

 

 1チーム原則4人。特定の議題について、肯定、否定の立場で主張を述べた後、質問や反論を制限時間内に繰り返し、正当性を競う。勝敗は3人または5人の審判が多数決で決める。肯定、否定のどちらになるかは、試合前のじゃんけんで決める。

 

 「じゃんけんで決める」ことからはじまるディベートを、遊びやスポーツの感覚で行うのなら、否定はしません。どうぞ楽しんでおやりください、と思います。けれども、これを教育と結びつけて考えることには賛成しません。「功」もあるでしょうが「罪」も大きいと思います。

 その議題について肯定的な意見を持っているいる者が、否定の側に回らざるを得ないなどということは、現実の社会生活では起こらないのが普通です。本人が肯定的な意見を持っているのなら、その意見を述べさせるべきです。「ルール」によって、考えの方向を拘束することは、遊びという範疇に入らないのなら、してはいけないことだと思います。

 この記事では、全国教室ディベート連盟理事長・千葉大学教育学部教授である人の大会講評が掲載されています。その中から3箇所を、部分的に引用します。便宜的に①②③の番号を付けます。

 

 ① 今大会、中学の部で異変が起きていた。肯定側の勝率が非常に高く、決勝トーナメントで肯定・否定を決めるじゃんけんでは、肯定に決まったチームが大喜びする姿さえ見られた。

 ② 今大会前にルール改正を行い、証拠資料の扱いを厳格化した。相手が引用した証拠資料の続きを引用して相手の議論を攻撃するなど、証拠資料を丁寧に検討している姿が見られた。こうした力は、中高を出て大学生や社会人等になってもきっと生かされる。

 ③ 伝わるように話し、丁寧に聴き、鋭く検証するディベートの文化が中高生に定着しつつあることに感謝しつつ、次の10年でさらなる普及をしなければと意を新たにしている。

 

 ③にあるように「伝わるように話し、丁寧に聴」くことは国語教育の根幹をなすもののひとつです。「鋭く検証する」ことも大切なことでしょう。

 ②で「証拠資料」という言葉を使っていますが、私たちはさまざまな資料を使って、ものを考えます。その資料は、相手をうち負かすための「証拠資料」という働きだけではありません。ディベートとは、資料を「証拠」として使うような、了見の狭いものなのでしょうか。

 大事なことは、何をテーマにして考えをまとめるかということです。記事によれば、高校の部の議題は「日本は裁判員制度を廃止すべきである。是か非か。」であり、中学校の部の議題は「日本の刑事事件における実名報道を禁止すべきである。是か非か。」であったそうですが、こういう議題は是と非の間にいくつもの段階の考えがあるはずです。議題をこのように絞ってしまって、二者択一にする乱暴さがディベートの出発点です。ディベートでは「生きること」というような根本問題を議論する余地はまったくありません。

 じゃんけんで方向が決まるものは教育とは言えません。①では、ディベートの限界、「罪」の部分の大きさを主催者側が明確に認めているのです。じゃんけんから出発して順位に影響が出るのなら、公平性を欠いています。

 折しも、この日、日本か中国かという二者択一の関心を呼んでいたニュースに結論が出ました。見出しだけを引用します。

 

 インドネシア 高速鉄道計画見直し

 日中両案とも採用せず

 (読売新聞・大阪本社発行、9月4日・夕刊、3版、11)

 

 日本か中国かという二者択一以外にも、答えがあるのです。二者択一の結論を求めて、議論し合うことの「罪」の面、すなわち教育上のマイナス効果を考えないで、ディベートを「次の10年でさらなる普及を」などと考えてはなりますまい。

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2015年9月 4日 (金)

日本語への信頼(77)

鶯ボールと鶯餅

 

 青いえんどう豆をやわらかく甘く煮た食べ物は「鶯豆」で、鶯の羽に似ている色です。青い黄粉をまぶした餅菓子が「鶯餅」で、色だけでなく、両端をとがらせた形も鶯に似ています。鶯と言うからには何かの関連性があるのは当然でしょう。

 ところが、関西でなじみの「鶯ボール」はまったく違っています。朝日新聞の「まだまだ勝手に関西遺産」という連載に「鶯ボール」が取り上げられました。

 

 ちょっと硬めの茶色の皮から、ポンとはじけて白い中身が飛び出したような、あの独特の形。甘くて少し塩味の利いた味は、一つ口に放り込むとつい止まらなくなる。 …(中略)

 1センチ角に切った餅に小麦粉をまぶして揚げると、はじけてあの形になる。砂糖と塩でつくる蜜をかければ完成だ。ところで、なぜ鶯ボールという名前に。

 もともと「肉弾ボール」と呼ばれていた。形が爆弾が破裂したように見えたからだ。 …(中略) 戦争が終わり、当時の社長が「平和な時代に肉弾はないやろ」と改名を提案。形が梅のつぼみに似ていることから連想し、梅と言えば鶯、ということで鶯ボールになった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月2日・夕刊、3版、2面)

 

 小粒のボール状で茶色い餅菓子ですから、鶯餅とは共通点などがあるはずもありません。記事を読むと、「(梅の)蕾ボール」こそ正当な名前であるようですが、梅(の蕾)から鶯へ移し換えてしまった命名にはびっくりします。長い間親しんだ名前ですから、いまさら改名の余地はありません。

 思い出しました。記憶の底には「肉弾ボール」という名前も残っています。もっとも、戦後の子どもたちの遊びの中には、鬼ごっこや胴馬(どんま)とともに、肉弾(にくだん)という遊びもありました。どんな遊びも、競技を始める合図は「戦闘開始(せんとーかいしー!)」でした。

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2015年9月 3日 (木)

日本語への信頼(76)

「不審火」をどう発音するか

 

 「大地震」は「おおじしん」か「だいじしん」かと問われれば、私は「おおじしん」と答えます。湯桶読みです。

 さて、8月中旬から東京都内のJR線や敷地内でケーブル火災などが相次いでいる問題で捜査本部が設置されました。そのニュースを新聞は次のように伝えています。

 

 捜査1課によると、これまでに品川、渋谷、目黒などで7件の不審火が確認されている。 …(中略)… 一部の現場から燃えたペットボトルや針金が見つかっていることから、不審人物の洗い出しを進める。

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月31日・夕刊、3版、11)

 

 新聞記事の場合は、特別に読み方が難しい言葉でもなければ、振り仮名をつけることはありません。「不審火」や「不審人物」に振り仮名は必要でないと思います。

 ところで、このニュースをNHKラジオが放送したとき、不審火を「ふしんび」と読んでいるのを聞いて、私ははっと思いました。目から入る文字を私は、重箱読みでなく、「ふしんか」だと思っていたのです。テレビのニュースなら聞き流していたかもしれませんが、ラジオの場合は一言ずつ耳に届きます。その発音を聞いて、耳から入る言葉としては「ふしんび」の方がうんと望ましいと感じました。

 「新明解国語辞典・第四版」は、「不審火(ふしんび)」を「原因不明の火事。ふしんか。」としています。それに対して、「広辞苑・第四版」は、「不審火(ふしんか)」を「原因が定かでない火事。放火の疑いが持たれる火事。ふしんび。」としています。

 「日本国語大辞典」も「不審火(ふしんび)」を見出しに立てていますし、いろんな小型辞書を見ても、「ふしんび」が優勢です。

 ただし、この文字を使って文章を書いた人が、どちらの読みを思い浮かべて書いたのかは、振り仮名がなければわからないというのが現実の姿です。この連載の(69)で書いたように「思惑」を「しわく」だと思い込んでいる人も多いのですから。

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2015年9月 2日 (水)

日本語への信頼(75)

「想定」が基準になることもある

 

 いろいろな分野の新製品についてのニュースに、ふと目をとめることがあります。こんな珍しいものが売り出されるのかとか、長年親しんだものが装いを変えるのかとか、興味を持つものがあります。その紹介記事の末尾には価格が記載されていて参考になります。

 ところで、その価格の書き方について気がつきました。単に「価格」と書いてあるだけのものもありますが、ちょっと違ったものもあります。4つ並んだ記事の見出しと文末を引用します。

 

 野菜たっぷりヘルシー麺  《本文省略》 希望小売価格は税込み195円。

 全面改良 すすぎ水10%減 《本文省略》 店頭想定価格は税込み300円前後。詰め替え用は150円前後。

 ダウン風トレーニング着  《本文省略》 希望小売価格は税込み1万4904円。

 ピンク色マスク、定番に  《本文省略》 店頭想定価格は7枚入りで税込み430円前後。

 (朝日新聞・大阪本社発行、9月1日・朝刊、13版、8面)

 

 書籍などのようにはっきりと定価を決めていない商品は、店によって価格に差があるのは当たり前のことですが、「希望価格」と「想定価格」とはどう違うのでしょうか。「希望」の価格は細かい数字で、「想定」は大雑把な数字のようにも思えます。

 勝手な想像をすると、「希望」は小売店に一定の指示が伝えられるようですが、「想定」は、指示はしないが、小売店の裁量がこのあたりに落ち着くだろうという数字のように思われます。

 けれども、店が「何割引」ということをうたう場合は、この「希望」や「想定」の価格を基準にすることが多いのではないでしょうか。結果的には違いのないものかもしれないのに、「希望小売価格」と「店頭想定価格」という使い分けをする理由は何であるのか知りたいものです。「希望」が大雑把な数字で、「想定」が細かな数字になってもおかしくはないのですから。

 

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2015年9月 1日 (火)

日本語への信頼(74)

「伝搬」は伝播の誤用?

 

 朝日新聞の地域版に「Re:お答えします@神戸」という欄があります。その記事の見出しは次のようになっていました。

 

 神戸「ミステリー発祥の地」?

  海外から伝搬 作家も誕生

 (朝日新聞・大阪本社発行、8月30日・朝刊、「神戸」のページ、13版△、26)

 

 この「伝搬」という言葉は、ワープロソフトで「でんぱん」と入力すると「伝搬」に変換されますから、かなり行きわたっている言葉なのでしょうか。

 それにしても、意味がよくわかりません。運搬されて伝えられた、ということでしょうか。

 記事の文章から、この「伝搬」にあたる表現を探すと、次のような表現がそれに当たるようです。

 

 神戸文学館(神戸市灘区)の中野景介館長に話をうかがいました。中野館長によると、日本でミステリーが広まり始めたのは昭和の戦前期。「神戸港に来る外国船に積まれたミステリーが古書店に出回り、当時の日本にない『楽しむための文学』が親しまれるようになったのです」

 

 船に積まれて搬送されて伝わった、つまり「伝搬」されたということのようです。この考え方で言うと、仏教の教えも、漢字という文字も、昔々に伝搬されてきたということになりますが、そんな表現に出会ったことはありません。品物ではない、文化にかかわるようなものを伝搬と書いてよいのだろうかという疑問を強く持ちます。

 「新明解国語辞典・第四版」には、「でんぱ【伝播】」の項目の説明の中に、「用字『伝搬』」は、もと誤読『でんぱん』に基づく。」とあり、それが私の感覚と一致します。「伝搬」の見出しはありません。

 「広辞苑・第四版」「三省堂国語辞典・第三版」「岩波国語辞典・第三版」「現代国語例解辞典・第二版」「明鏡国語辞典」などは、いずれも「伝搬」という見出しはありません。

 スポーツ面などでは言葉の遊びが盛んです。快勝が「快笑」と書かれても、優勝が「優笑」になっても抵抗感はありません。けれども、一般的なことを報じるページで、こういう文字遣いに接すると、大いに気になります。

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