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2015年12月31日 (木)

【掲載記事の一覧】

 2006年に開始したブログですが、一日も欠かさず書き続けました。

 2015年の年末における数字を書いておきます。掲載記事の数は4332件、掲載写真の数は6381枚です。アクセス数は45万回を超えました。

 道は半ばというところです。というのも、このブログのディスク容量のほぼ半分に達しようとしていますから、今後、同量の掲載が可能です。

 12月は「日本語への信頼」に集中した連載になりました。

 1月は「飛び飛び甲州道中」などの連載も再開します。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでに連載した内容の一覧を記します。

 

 

◆日本語への信頼 ()(158)~継続予定

    [2015年6月9日開始~ 最新は20151231日]

 

◆飛び飛び甲州道中 ()()~継続予定

    [201512月3日開始~ 最新は201512月4日]

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(1998)~継続予定

    [2009年7月8日開始~ 最新は2015年6月8日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)~継続予定

    [201310月1日開始~ 最新は20131031日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)~継続予定

    [2012年9月20日開始~ 最新は2013年9月5日]

 

……【以下は、連載を終了したものです。】……………………

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日開始~2015年3月31日終了]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58)

    [2015年4月1日開始~ 最新は2015年6月23日]

 

◆奥州道中10次 ()(35)

    [20151012日開始~ 最新は20151121日]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日開始~2014年4月12日終了]

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日開始~2010年3月10日終了]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日開始~2011年9月13日終了]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日開始~ 最新は2014年5月30日]

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日開始~ 最新は2014年5月9日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日開始~ 最新は2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日開始~ 最新は2013年8月28日]

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日開始~20071212日終了]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日開始~2008年7月20日終了]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日開始~2009年9月10日終了]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日開始~2012年1月4日終了]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日開始~2012年5月3日終了]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日開始~2009年6月30日終了]

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日開始~20061231日終了]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日開始~2008年1月10日終了]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日開始~20061226日終了]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日開始~2009年6月4日終了]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日開始~2008年1月18日終了]

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日開始~2007年7月31日終了]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日開始~20081125日終了]

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日開始~2009年6月22日終了]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日開始~2009年5月8日終了]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日開始~2009年3月16日終了]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日開始~20081113日終了]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日開始~20081215日終了]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日開始~2007年6月30日終了]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日開始~2010年1月3日終了]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日開始~2012年7月8日終了]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日開始~2011年6月1日終了]

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日開始~2008年9月24日終了]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日開始~200610月4日終了]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日開始~20061011日終了]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日開始~200611月2日終了]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日開始~2007年6月6日終了]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日開始~2007年8月10日終了]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日開始~2007年7月7日終了]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日開始~20071030日終了]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日開始~20061015日終了]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日開始~2007年8月20日終了]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日開始~2007年9月12日終了]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日開始~2007年9月29日終了]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日開始~200612月7日終了]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日開始~2007年5月7日終了]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日開始~20061222日終了]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日開始~2007年8月27日終了]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日開始~2007年8月30日終了]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日開始~2012年9月19日終了]

 

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日本語への信頼(158)

金串に刺した「にらみ鯛」

 

 お正月が目前です。魚の町・明石のニュースが載っていました。

 

 兵庫県明石市の魚の棚商店街で、正月の食卓を飾る縁起物「にらみ鯛」づくりが最盛期を迎えている。

 1912年創業の焼き鯛専門店「魚秀」では、鯛に金串を刺した後、ひれが焦げないように塩をまぶし、約40分かけて焼き上げる作業に追われていた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1229日・朝刊、13版、31)

 

 金串は、昔は家庭にそなえられていたもので、魚を刺してカンテキ(七輪)の上で焼きました。焼いた魚を金串に刺したまま乾かして、長期保存もしていました。にらみ鯛は、晴れの場のものですから目にするのは正月ぐらいのものでした。正月前に魚の棚で買ったりしましましたが、近所の店にも並んでいたと思います。

 にらみ鯛も金串も共通語ですが、もはや普段に使う言葉ではなくなりました。

 日本国語大辞典によると、「にらみだい【睨鯛】」は、「正月や婚礼の席に飾っておく鯛。その場では食べないところからの名」と説明されています。「かなぐし【金串】」は、「魚などを焼くのに用いる金属製の串」という説明です。

 広辞苑には「かなぐし」は載っていますが、「にらみだい」は載っていません。小型の国語辞典では「かなぐし」が載っているのは稀で、「にらみだい」はありません。

 時の流れが国語辞典に反映しているのでしょうが、明石ではきちんと生きている言葉です。

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2015年12月30日 (水)

日本語への信頼(157)

余韻の感じられない書名

 

 日販調べという「2015年ベストセラー」という表が掲載されました。(朝日新聞・大阪本社発行、1227日・朝刊、10版、13)

 新聞広告で見た題名も多いのですが、改めて表に並んだものを見ると、唖然とします。

 

 「フランス人は10着しか服を持たない パリで学んだ〝暮らしの質〟を高める秘訣」、「聞くだけで自律神経が整うCDブック」、「一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い」、「感情的にならない本 不機嫌な人は幼稚に見える」、「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」、「新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方」、「嫌われる勇気 自己啓発の源流『アドラー』の教え」、「お金が貯まるのは、どっち!? お金に好かれる人、嫌われる人の法則」、「身近な人が亡くなった後の手続のすべて」、「平常心のコツ『乱れた心』を整える93の言葉」、……

 

 長い題名のものを書き並べてみると、不気味な気がしてきます。いわゆるハウツーものが幅を利かせて、深みに乏しいのです。現代の人たちは、その本の内容を題名で示してもらわなければ読もうとしない(あるいは、手にとって買おうとしない)のでしょうか。読書とは、読んで、それから考えを深めるものだと思っている者にとっては、この書名のラインナップは読書の危機すら感じます。

 読みやすい書き方をして、読者の気を引く題名を付けて、大量に売りさばくということを方針にしている出版社が増えたのかもしれません。

 題名は、長ければよいというものではありません。読み終わった後に余韻の残るような題名を選ぶことができないのでしょうか。

 今年のベストセラーの中に、芥川賞受賞作の「火花」や、高い評価を受けた「鹿の王」の書名が並んでいるのが救いです。

 この表についての文章を書いている人の肩書きは「ライター」となっています。「ライター」とは何なのでしょうか。どんな職業の人でも、文章を書いているときには「ライター」です。何とも無造作な自己紹介だと思います。最近は「ライター」という言い方を目にするようになりました。この職業名も、余韻の欠片すらないと感じてしまいます。

 

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2015年12月29日 (火)

日本語への信頼(156)

「押し迫る」のは、年末か、新しい年か

 

 年の瀬は師も走る忙しさ、などという。だが「暮しの手帖」の名物編集長だった花森安治は言っていた。「年末だから忙しいときめてかかるあたり、新聞や放送のアタマは、一見新しいようで、じつは大変な紋切型の古さかもしれぬ」。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1226日・朝刊、13版、1面)

 

 「天声人語」の冒頭の表現です。花森安治という名前を紹介するときに、「『暮しの手帖』の名物編集長」というのも、誰もが言う紋切り型の表現です。

 ところで同じ日の記事に、こんな表現がありました。

 

 年も押し迫り、これから大掃除という人も多いのでは。東京消防庁は、掃除中の事故で救急搬送される人が12月は増えることから注意を呼びかけている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1226日・朝刊、13版、29)

 

 これも記事の冒頭の部分です。「年も押し迫り」というのも、紛れもない紋切り型の表現です。

 ところで、「押し迫る」とはどういう意味でしょうか。

 広辞苑は、「限度ぎりぎりになる」という意味で、「暮れも押し迫る」という例を挙げています。明鏡国語辞典は、「まぢかに迫る」という意味で、「年の瀬が押し迫る」という例を挙げています。現代国語例解辞典は、「間近に迫ってくる」という意味で、「期日が押し迫る」という例を挙げています。岩波国語辞典には、この語は載っていません。

 「暮れも…」「年の瀬が…」というように書けば意味ははっきりします。ところが、新聞記事の表現「年も押し迫り」では、新しい年が間近に迫っている、という意味にも受け取れます。今年の1231日が迫っているのか、来年の1月1日が迫っているのか、紋切り型に安住して、厳密さを欠いた表現になっているように思います。

 

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2015年12月28日 (月)

日本語への信頼(155)

口頭語的な表現

 

 前回の続きとなる話題です。

 関東ローカル語のような「しょっぱい」「もぐ」「落っことす」などを私は好まないと書きましたが、これは換言すれば次のようなことにも通じます。

 

 葉っぱ、という言いかたは、「口頭語的な表現」だそうだ。口語ではなく、口頭語だ。国語辞典でこの言葉を見て、いま初めて知った。葉、という音声にするよりは、葉っぱ、という音声にしたほうが、音声による言葉として、他者に伝わりやすいのだろう。

 (読売新聞・大阪本社発行、1225日・夕刊、3版、4面)

 

 これは作家の片岡義男さんが書いている文章です。

 「口頭語的な表現」という言い方が国語辞典に載っているということを、私も今、始めて知りました。ただし、日本国語大辞典や広辞苑や、小型の国語辞典類を見てみましたが、「口頭語的な表現」という言い方には行き当たりませんでした。口頭語というのは、たぶん、口語のうちで、書き言葉と区別して、話し言葉のことを指しているのでしょう。あるいは、少しくだけた言い方ということかもしれません。

 「しょっぱい」や「落っことす」は明らかに、話し言葉の世界の用語です。書き言葉の中に現れると、やや幼児的に感じられるのはそのためです。「葉っぱ」も同じです。

 基本的には現代日本語において、音声による言葉と、文字による言葉とを区別する必要はないと思います。とは言え、文字原稿としてまとめた文章の中に「口頭語的な表現」が紛れ込んでいると、その部分だけが浮き上がったような感じになるの否定できないと思うのです。

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2015年12月27日 (日)

日本語への信頼(154)

関東ローカル語に染まった人

 

 「食べちゃう」「読んじゃう」という言葉の「ちゃう」「じゃう」は面白い言葉です。「…してしまう」という意味の助動詞です。面白いと言うのは、おなじ言葉であるのに、上に付く動詞によって、清音にもなり濁音にもなって、「ちゃう」「じゃう」というタ行音・ザ行音に分かれるのです。現代日本語にとって、このような例は珍しいと思います。

 ところで、この「ちゃう」「じゃう」はかつて、関西ではほとんど使われていませんでした。「食べてまう」「読んでまう」という「てまう」という助動詞が幅を利かせていました。

 今では、関西でも若者を中心にして「ちゃう」「じゃう」が氾濫しています。こんな言葉は関東ローカルの言葉だと思っていたのに、防ぎきれなかったのです。

 一見して共通語のように見える言葉であっても、私個人にとっては、関東弁だと感じてしまう言葉があります。塩辛いことを「しょっぱい」と言う。柿をちぎることを「もぐ」と言う。落とすを「落っことす」と言う……。これらは、どちらかというと、話し言葉の要素の強い言葉のようにも思います。「ちゃう」「じゃう」も同様です。

 「ザ・コラム」という欄で、次のような文章を読みました。

 

 岡山の実家が今年、先祖代々続けてきたコメ作りを「廃業」した。 …(中略)

 その父は数年前、運転していた愛車の青い耕運機を池に落っことした。 …(中略)

 もぐ人のいない柿が、初冬に紅をさすようにたわわにしだれている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1224日・朝刊、10版、8面)

 

 岡山生まれであっても、東京での生活が長い人なのでしょうか。東京ローカルの言葉という意識はなくて、文章語として書かれた言葉なのでしょう。

 

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2015年12月26日 (土)

日本語への信頼(153)

「締めくくり」の意味の大きさと小ささ

 

 戦後70年の締めくくりに、映画「母と暮せば」(松竹)のことを記したい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1224日・夕刊、3版、10)

 

 「葦 夕べに考える」というコラムは、編集委員や記者という肩書きで書かれています。上に引用したのは、ある日の文章の冒頭の1文です。

 「締めくくり」とは何なのでしょうか。この1文で、立ち止まって考え込みました。

 戦後70年というもののまとまりをつける、結末をつけるという意味でしょうか。それなら、ひとつの映画を見る観客の反応と、筆者の感想を述べた文章ですから、内容が軽いのです。

 歳末になると、「1年を締めくくる」などという慣用句が、新聞や放送にあふれます。それは「1年が終わる」という程度の意味でしょう。

 コラムの文章は「戦後70年を締めくくる」ですから、話が大きいのです。戦後70年の総括という意味に聞こえます。もしかして「戦後70年目である、今年の1年を締めくくる」という意味なのでしょうか。2015年の総括という意味なのでしょうか。

 結局は、この筆者はコラムに何回かの文章を書いたが、この1年の最後に映画のことを書きたいと考えている、という程度のことだろうと思いました。それにしては「締めくくる」という言葉の使い方が大きすぎると思います。

 私は先日、映画「母と暮せば」を見ましたから、内容は知っています。長崎の原爆を扱った物語です。優れた作品ですが、この1作で戦後70年を総括することは無理でしょう。

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2015年12月25日 (金)

日本語への信頼(152)

短文のコラムに「枕」は必要か

 

 幼稚園にはなぜ砂場があるのか。砂遊びは幼児の〝知育〟によいとの考えから、数年前までは法の設置基準に明記されていたという。

 無心に砂をすくった小さなわが手を浮かべる方は多かろう。山を造る。壊れるとたたいて固め、少しずつ山を高くできることを知る。造形の微妙なバランスや位置エネルギーの存在を肌で学ぶ機会になったに違いない。

 何という事故だろう。中国広東省深?市の土砂崩れである。 …(以下省略)

 (読売新聞・大阪本社発行、1222日・夕刊、3版、1面)

 

 「何という事故だろう」とありますが、このコラムは「何という文章だろう」と思います。深?市の土砂崩れについての文章にとって、幼稚園の砂遊びのことは「枕」のつもりかもしれませんが、唐突すぎます。いっしょにしてよいような話でしょうか。

 「何という事故だろう」という言葉は、それより前に書いた内容を「それは、さて置き…」と棚に上げて、本論に入っていく感じが否めません。こんな文章を書かれると、幼稚園の砂場が迷惑します。

 最近の新聞一面のコラムは、「天声人語」を筆頭に、「枕」を書いてから本論に入るという傾向が強まっています。望ましい「枕」もありますが、そうでないのも多いのです。

 読売新聞では、名文という評価の高い朝刊「編集手帳」と、夕刊「よみうり寸評」の格差が大きいと思います。

 そもそも、短文のコラムに「枕」は必要なのでしょうか。私には、必要であるとは思えません。短い文章においては、もっとテーマそのものに入り込んだ文章を読みたいと思います。消化不良の内容を「枕」で興味づけるのは邪道だと思います。

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2015年12月24日 (木)

日本語への信頼(151)

思考力とは何か、表現力とは何か

 

 大学入試センター試験に代わる新テストに導入される記述式問題について、文部科学省が国語と数学で採用する案を公表したというニュース(朝日新聞・大阪本社発行、1223日・朝刊、13版、1面)を読みました。

 そして、その問題例を掲載したニュース(朝日新聞・大阪本社発行、1223日・朝刊、13版、3面)を見て、強い疑問を感じました。

 新聞記事によれば、【問い】は次のようになっています。

 

 交通事故の統計資料を見て、死者数が他より早く減少傾向になっていることについて高校生が話し合いました。空欄は、どのような発言でしょう。80字~100字で書きなさい。

 

 そして、「グラフ1 交通事故の発生件数」「グラフ2 交通事故の負傷者」「グラフ3 交通事故の死者数」が載せられています。

 その次に、Aさんの発言があって、発言の一部分が空欄になっています。その空欄に80字~100字の言葉を補うように求めているのです。

 そして、【解答例】が書かれています。

 Aさんの発言の空欄に【解答例】を挿入すると、次のような文章になります。〔 〕内が【解答例】に書かれている言葉です。

 

 Aさん: 私は、医療の進歩がかかわっていると思います。裏付けとして、交通事故における救急車の出動回数の推移と救命率の推移がわかる資料があれば考えられます、その資料で、〔救急車の出動回数については交通事故の発生件数や負傷者とほぼ同様に上昇傾向で推移しているのに対し、救命率については死者数の推移とは逆に上昇傾向で推移していること〕がわかるのではないでしょうか。

 

 仮に「交通事故における救急車の出動回数の推移」を「グラフ4」とし、「交通事故の救命率の推移」を「グラフ5」とします。そうして、上の「Aさん」の発言に代入すると、次のような文になります。

 

 Aさん: 私は、医療の進歩がかかわっていると思います。裏付けとして、「グラフ4」と「グラフ5」の資料があれば考えられます、その資料で、「グラフ4」については「グラフ1」や「グラフ2」とほぼ同様に上昇傾向で推移しているのに対し、「グラフ5」については「グラフ3」とは逆に上昇傾向で推移していることがわかるのではないでしょうか。

 

 グラフの名前を除くと、「上昇傾向」という言葉が使われているだけです。それを「ほぼ同様に」という言葉と「逆に」という言葉で区別しているだけです。

 このような解答は、大学入試にかかわるテストにふさわしいものでしょうか。そして、それを思考力や表現力と言ってよいのでしょうか。

 かつて高等学校や大学で国語教育に携わった私は、実に落胆した思いで、この「問題例」の報道を読みました。

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2015年12月23日 (水)

日本語への信頼(150)

相手への謙虚な心の現れた言葉

 

 「つまらないものですが…」と言って贈り物を差し出す。「何もありませんが…」と言って食事を勧めるのが、かつての日本の風景でした。

 今では、「これ、あんたにあげる。高かったんよ」と言い、「おいしそうでしょう。いっぱい食べてね」と言うのが多くなりました。それらの言葉遣いをとがめるつもりはありませんが、もともとの「つまらないものですが…」や「何もありませんが…」を批判する文章を読むことがあります。曰く、つまらないものを贈るな、何もなければ食べられない、というわけです。

 相手への心遣いが言葉に現れているのだということに気づかない人が多くなっているのは否定できないのです。

 「ことばの食感」というコラムで中村明さんが述べていることを忘れてはならないと思うのです。

 

 「つまらない」は物の絶対的な評価ではなく、本来ならば立派な相手にふさわしい高価な品を差し上げるべきところだが、自分としてはこの程度が精いっぱいなので失礼の段は平に、といった贈り手の謙虚な心の表明である。 …(中略)

 「何も」も、ふだん高級料理を食している相手にふさわしい料理は何も、という意味の省略表現なのだと知ろう。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1219日、b3面)

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2015年12月22日 (火)

日本語への信頼(149)

タンブリンとタンバリン

 

 金属や木でできた枠の片面に皮を張って、周りに薄い金属円板をつけた打楽器を、私たちは子どもの頃、「タンブリン」と言っていました。「タンバリン」という言葉は、何か気取っていて、よその土地の言葉のような気がして…。

 「近畿の底ぢから」という欄で、楽器メーカーの野上土木が紹介されていました。

 

① ぬくもりタンブリン  【見出しのうちの、ひとつ】

② 学校の音楽の時間に多くの子どもたちが触れ、リズムを刻む「タンブリン」。  【リード文の冒頭】

③ 野上木工 創業地の和歌山県海南市船尾が登記上の本店。タンブリンや平太鼓などの楽器を和歌山市毛見の社屋で製造している。 …(中略)… 国産タンブリンとして国内でトップレベルのシェアを得ている。  【会社説明の欄】

 (朝日新聞・大阪本社発行、1219日、第2兵庫のページ、13版▲、26)

 

 タンバリンではなく「タンブリン」を懐かしく感じて、製品名もタンブリンとなっていることを嬉しく思いました。ところで、これは関西方言なのでしょうか。

 広辞苑の見出しは「タンバリン」で、説明文の後ろに「タンブラン」と書き添えられていますが、タンブランは聞いたこともありません。他の国語辞典も見出し語は「タンバリン」になっています。

 国内トップシェアの会社として、タンブリンという言葉を全国で使わせるように頑張ってほしいと思います。

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2015年12月21日 (月)

日本語への信頼(148)

「爆買い」から「爆増」へ

 

 中国などからの観光客による「爆買い」が、日本経済にとってのひとつの活性剤になっているようです。「爆買い」という言葉はすっかり日本語の中に定着してしまったかのようです。けれども、どんどん買うことを「爆買い」などと言うのは、品の良い表現ではありません。

 ところが、「爆買い」があると、他の言葉にまで押し広げようとするのは、報道に携わる人の悪い癖です。文章を整理して、見出しを付ける立場にある人は、言葉に対する感覚を鋭くして、望ましい日本語の方向性を見定めなくてはなりません。

 

 高知サンゴ漁師爆増

 (朝日新聞・大阪本社発行、1216日・夕刊、3版、1面)

 

 これは、1面トップ記事の大きな見出しです。本文では「サンゴ漁師の数は激増している。」という、ごく普通の表現ですが、見出しだけが突出しています。記者の表現を、見出しが押し殺すことになってはいけません。

 流行語に沿った、どぎつい見出しで読者を引きつけようとする意図は受け入れられず、下品さで眉をしかめられるのが関の山です。

 言葉は世につれて変化します。けれども、報道に携わる人の言葉遣いが、良きにつけ悪しきにつけ、影響を与えていることは否定できません。報道機関には、どんな言葉を使ってもよいという「自由」などはありえません。

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2015年12月20日 (日)

日本語への信頼(147)

「イラッとする」「思わずジロリ」

 

 「キラキラ」は輝き続ける感じ、「キラッ」は一瞬の光のような感じを表す言葉です。

 記者が交代で担当している「葦 夕べに考える」という社会面のコラムに、「イラッとする車内で」という題で次のような文章がありました。

 

 仙台から出張帰りの新幹線に乗りこむと、通路を挟んだ席で酔っぱらった男性2人連れが大声で話している。 …(中略)

 車内販売が通るたび缶酎ハイが買い足され、ダミ声もどんどん大きく。ここは居酒屋? 夕刻の車内、堪忍して~とまわりは間違いなく思っていた。 …(中略)

 混み合う通勤電車で足を組んでいる人がいれば、思わずジロリ。大きく足を広げて座る人がいると、私なら2人は座れるな、なんて計算してしまう。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1217日・夕刊、3版、10)

 

 「イライラ」は「イラッと」になるのですが、「ジロジロ」は「ジロッと」でなく「ジロリ」になるようです。ジロジロは見続ける感じで、ジロリは一瞬の様子です。ジロジロ見ると喧嘩に発展するかもしれません。

 新幹線の車内の出来事は、「イラッとする」一瞬のことではなさそうです。このような文章を書く動機になったのですから、嫌な思いがイライラと続いたのではないでしょうか。

 翌日の「声」欄に、14歳の中学生の投稿文が載っていました。

 

 小学校の時、学校で「ふわふわ言葉」と「チクチク言葉」を習いました。ふわふわ言葉は「ありがとう」「がんばれ」など、相手も自分もうれしくなったり優しい気持ちになれたりする言葉です。チクチク言葉は「きらい」「死んじゃえ」など、相手が傷つき、自分の心がすさんでしまう言葉です。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1218日・朝刊、13版、14)

 

 「ふわふわ」と温かい気持ちが続く言葉、「チクチク」と痛みが続く言葉のことを書いています。「ふわっ」や「チクッ」という一瞬の思いではないのです。

 若者言葉のひとつの傾向として、「イラッとする」「ジロッと見る(ジロリと見る)」と言い方があるようですから、コラムを書いた記者も若々しい心の持ち主だったのでしょう。

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2015年12月19日 (土)

日本語への信頼(146)

関西のトンカツ

 

 「葦 夕べに考える」という社会面のコラムに、次のような文章がありました。

 

 関東の豚肉文化で育った身には、たまらなく食べたくなるものがある。ああ、とんかつ。ところで、どう書きますか?

 とんかつ、トンカツ、豚カツ……。

 NHK放送文化研究所の塩田雄大さんのウェブ調査では、とんかつが1位。ところが、西日本はトンカツ派がとんかつ派より多いそうだ。 …(中略)

 でも、朝日新聞の記事を検索すると、トンカツが1位で1228件、とんかつ889件、豚カツ202件と割れる。 …(中略)

 思えば、ソース文化の関西では串カツも存在感たっぷりだし、とんかつよりトンカツがしっくりくる。濃くて、ハイカラな感じが字面に漂うもん。ソースをどっぷりつけて、いただきま~す。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1029日・夕刊、3版、10)

 

 表記の多寡の問題ではなく、食べ物自体の違いについては「濃くて、ハイカラな感じ」と書いてあります。

 ところで、コメディアンの古川ロッパが唱えたというトンカツ・とんかつ〝別物〟説が、フランキー堺の本で紹介されているそうです。そのフランキー堺の言葉を引用した文章があります。

 

 トンカツと片仮名で書きゃあ、脂身たくさんの平べってえポークカツレツ。平仮名のとんかつは、分厚な脂身のねえ日本風揚げ物だ。

 (竹内政明『「編集手帳」の文章術』文春新書、文藝春秋、145ページ)

 

 「濃くて」、「脂身たくさん」の食べ物は、トンカツという表記に似合っているという点では共通するようです。

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2015年12月18日 (金)

日本語への信頼(145)

「目力」の意味

 

 この連載(131)回で「目力」について、「目力看板」というものを紹介した新聞記事を引用して、「『目力』は、目によって相手を威嚇する力ということに重点が置かれた言葉のように思われます。」と書きました。

 2010年8月に亡くなった歌人・河野裕子さんの遺歌集に、次のような歌がありました。

 

 『山鳩集』届きたれども目力の失せし身には無理 枕辺にあれど

 (河野裕子『歌集 蝉声』青磁社、91ページ)

 

 「目力」には、「めぢから」という振り仮名が打たれています。

 この「目力」は、「視力」というような客観的な物差しがあるようなものではなく、本人が文字を読み取ろうとする目の力、すなわち、意志を伴った力で使われているように思います。ここは「視力」ではなく、「目力」でなくてはならないように思うのです。

 同じ歌集の97ページには、次の歌があって、これには「みぢから」という振り仮名が打たれています。これも「目力」と同じような、意志を伴った力のように感じます。

 

 パソコンを打つ身力は失せをれど夫と娘頼り夕べ捗る

 

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2015年12月17日 (木)

日本語への信頼(144)

「国語」と「日本語」

 

 昔、日本には「国史」という言葉がありました。とっくの昔に「日本史」という言葉になって、高等学校教育の科目名も「日本史」です。

 いつまで経っても変わらないのは「国語」です。国語学会という研究組織は、何年も前に日本語学会に改称しました。大学の国語国文学科という名称も、たいていは日本語日本文学科になっています。ところが、小学校も中学校も高等学校も教科名は「国語」です。

 「いま子どもたちは」という連載記事の中に、こんな文章がありました。

 

 大阪市浪速区の大阪中華学校の「國語」は台湾の教科書を取り寄せ、中国語で教える。逆に「日語」の授業は日本の国語教科書を使って日本語で教える。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1213日・朝刊、10版、17)

 

 国語(台湾の言葉)と日本語を分けて教える学校ならば、2つの言葉の使い分けは必要でしょうが、国語=日本語を教える学校では、「国語」という大時代な言葉は使わなくてもよいのではないでしょうか。

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2015年12月16日 (水)

日本語への信頼(143)

下品な言葉のオンパレード

 

①大きく口をあけて食べる。ばくばく食べる。ぱくつく。

②店先の商品などをかすめとる。かっばらう。また、金品をだまし取る。ゆすり取る。

③犯人などを逮捕する。検挙する。

 

 上に挙げたのは『日本国語大辞典』の説明です。なんとも下品な内容を表す言葉のようですが、その言葉は「ぱくる」という言葉です。

 言葉はもちろん、善悪、美醜、正邪など様々な内容を表します。よい内容の言葉だけがあったのでは不便です。

 とは言え、それぞれの言葉を使う際には、その人の心の中があらわれます。

 次のような表現がありました。①~⑤は用例ごとに、仮につけた番号です。

 

①政界に「パクリ疑惑」が持ち上がっている。といっても、エンブレムのデザインのことではない。

②「能力の発揮」「阻む」「取り除く」。たしかにパクリっぽい。

③民主党の岡田克也代表が1億総活躍を民主党の「パクリみたい」と評したのは10月のこと。

④「共生社会」を担当する民主党の長妻昭代表代行に聞いてみた。「争点つぶしですね。我々と同じキーワードを入れれば『同じじゃないか』と言える、と。でも『格差』という言葉はない。格差をただしていくという我々の哲学はパクれないんですよ」

⑤もっとも、政権が野党の主張をパクるのは悪いことではない。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1213日・朝刊、13版、4面)

 

 編集委員が書いた「政治断簡」という、短い文章の中に「パクる」が頻出するのです。政治家の口をついて出た言葉(③④)をそのまま書き写すことはしかたありません。けれども、その言葉におつきあいをして、地の文(①②⑤)にそれを多用するのは、筆者の品格に関わります。「パクる」というのは、他の言葉にいくらでも置き換えられますし、下品さを薄めた表現も可能です。政治家の言葉を踏襲するのは、筆者の言葉の貧困に他なりません。

 ところで、④の「……と言える、と。」という日本語はいったい何なのでしょうか。「と」の後に省略されている言葉は何なのか、実に曖昧です。これは引用文の形になっています。代表代行の語った内容の真意を伝える文になっているのでしょうか。

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2015年12月15日 (火)

日本語への信頼(142)

稽古をつけてやるのか、稽古をつけてもらうのか

 

 相反するような意味を持つ言葉があります。

 

 11月、グアムに行った。長女の結婚式で3泊4日の短い旅。実はもうひとつ目的があった。空手の出稽古だ。

 7年通う奈良の道場の所属団体は、世界各地に支部がある。「せっかくの機会なので」と一面識もないグアムの先生にメールを送ると、「グアムの空手をエンジョイして」と歓迎してくれた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、12月7日・夕刊、3版、8面)

 

 「出稽古」を広辞苑で引くと、2つの意味が書いてあります。

 

①師匠が弟子の所に出向いて稽古をつけること。

②相撲で、よその部屋に出掛けて稽古をすること。

 

 他の国語辞典も、おおよそ、同じような記述になっています。「相撲で」という限定がされていますが、①は稽古をつけてやるということであり、②は稽古をつけてもらうという意味が強いのではないかと思います。②でも、稽古をつけてやるという意味もあるかもしれません。

 上の文章は、普通に読めば、稽古をつけてもらうという意味でしょう。そうすると、「出稽古」には、相撲に限らず、2つの、いわば相反するような意味が広がっているのかもしれません。

 仏像などの「出開帳」という言葉などから、尊いもの、高い技術者などが出掛けていくことを「出〇〇」と言うと思っていましたから、上の例の「出稽古」からは少し違う印象を受けました。

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2015年12月14日 (月)

日本語への信頼(141)

そば屋の「四天王」などは、ありえない

 

 私が小学生の頃は、「六大都市」という言葉がありました。東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸をこのように呼び、教科書にもそのように書かれていました。その後は、その仲間がしだいに増えていきましたが、「七大都市」などという言葉は定着しないで、「政令指定都市」と呼ばれるようになりました。

 けれども、有名なものが4つあれば「四大」、7つあれば「七大」という言い方には、しょっちゅうお目にかかります。

 さて、「BSアングル」という欄があって、砂場、更科、薮を「江戸三大そば」だと言ったあとに、次のような文章がありました。

 

 ところで東京では、そば以外にも「三大〇〇」というフレーズをよく耳にする。これって江戸の時代からこちらの人の好きな格付け方なのだろうか。私の故郷の関西だと、どちらかといえば「四天王」という言い方が多いような気が。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1211日・朝刊、13版、22)

 

 東京人が「三大」という言葉が好きなのかどうかは、知りませんが、根っからの関西人である私は、この文章に納得はしません。「四天王」などという言葉はほとんど聞きません。聞くなら、落語界の四天王というような使い方だけです。「大阪のそば屋の四天王」などというものはありません。

 そもそも、「四天王」とは、門人や臣下や部下などの中で最もすぐれた4人を表す言葉です。人のことを言うのであって、店や商品のことを表したりはしません。もともとは、持国天、広目天、増長天、多聞天という守護神を指しました。

 この文章は、記者ではなくて外部の人の執筆かもしれません。けれども、文章の中身の検討ぐらいはするでしょう。何でも表現の自由だというふうにしてはいけません。

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2015年12月13日 (日)

日本語への信頼(140)

「健康食品」の不健康

 

 内閣府の食品安全委員会は、健康食品の利用が広がっていることを受けて、健康食品について知っておくとよいことを19のメッセージにまとめて8日付で公表した。科学的研究が少なく「安全性や有効性が確立しているとはいえない」と指摘し、「今の自分に本当に必要か考えてください」と注意を促している。

 メッセージは、健康被害のリスクはあらゆる食品にあり、健康食品でも被害が報告されていると説明。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1210日・朝刊、13版、3面)

 

 「安全性や有効性が確立しているとはいえない」というのは、健康食品を摂取することによって、かえって健康を阻害することがあるということです。

 このようなニュースとは裏腹に、同じ日の朝刊には、広告があふれています。リスクについて述べた広告がないとは言えませんが、小さな文字で申し訳のように書かれています。

 

 沖縄でしか食べられない〇〇が、クリアな毎日に驚異のチカラ?!

 (朝日新聞・大阪本社発行、1210日・朝刊、10版、16面。4段のスペースの広告)

 

 栄養を豊富に含む胚芽や黒大豆などの自然由来素材に、麹菌を加え発酵させています。さらに、植物由来の「乳酸菌」も配合。スッキリしたい方におすすめです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1210日・朝刊、26面・27面の全面広告)

 

 筋肉の源であり、人間が自らつくり出せない9種類のアミノ酸をバランスよく配合。漢方の自己回復力の考え方に学び「筋肉をつくる力」に着目。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1210日・朝刊、32面の全面広告)

 

 抗酸化パワーで人気の天然ビタミンEと厳選した7種のポリフェノールがあなたを応援します。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1210日・朝刊、10版、35面。4段のスペースの広告)

 

 このような大きな広告が出せるということは、これらの健康食品がよく売れていることの証拠です。新聞以上に、テレビの広告は花盛りで、タレントが言葉巧みに視聴者に語りかけています。

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2015年12月12日 (土)

日本語への信頼(139)

老いたフクロウは下品な言葉を使う動物なのか

 

 ホー先生 最近、官民対話って言葉を聞くのう。

 ホ なぜそこまでするんじゃ?

 ホ 経済界はなんて答えたの?

 ホ 政府の「口出し」を迷惑がっていないのか?

 ホ ホホウ。それで、対話はさらに続くのか?

 (朝日新聞・大阪本社発行、1210日・朝刊、13版、2面)

 

 何とも下品きわまりない言葉だと思います。もう、ずいぶん長期にわたって、このような言葉遣いが続いています。「いちから わかる!」という欄は、問答形式で解説しようとする企画ですが、そのうちの「問」にあたる部分だけを抜き書きしました。記事の内容は、こんな言葉遣いをしなくても伝えられるはずです。

 「ホー先生」というのは挿し絵から見ると年老いたフクロウのようですが、知恵があると言われているフクロウにこんな言葉遣いをさせるのは失礼です。このフクロウは、どこに生まれてどこで育ったから、このような言葉遣いになったのでしょうか。

 不思議なのは、「聞くのう」「するんじゃ?」と発言するフクロウが、「答えたんじゃ?」「迷惑がっておらんのか?」「続くのかい?」というな言い方をしないのです。最後の「ホホウ」だけで、この荒っぽい言葉遣いを締めくくろうとするのが、この記者の常套手段のようです。取って付けたような下品な言葉で表現しなければならないというのは、どういう理由からなのでしょうか。

 うんざりしても、何週間に1回かは、こういう文章を読まされるのです。結局は、この文章を書いている記者の品格が、文章に現れているのだと思います。

 こういう記事は、「訂正して、おわびします」の対象になりません。新聞は、内容が正しければそれでよい、という思い上がりがあってはいけません。

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2015年12月11日 (金)

日本語への信頼(138)

日系で、沖縄系で、癒し系

 

 ハワイ州の知事を紹介する「ひと」欄の言葉です。

 

 柔らかそうな口ひげに絶やさぬ笑み。初対面でもふっと心がなごむ。癒やし系などと形容すると失礼だが、強い指導力より「和をもって」事に当たるタイプである。 

 1年前、大方の予想を裏切って予備選で前職を破り、当選した。 …(中略)

 祖父母の代、母方は山口、父方は沖縄からハワイに移民し、農場で働いた。米国史上2人目の日系人知事であると同時に、初の沖縄系知事でもある。

 (朝日新聞・大阪本社発行、12月8日・朝刊、13版、2面)

 

 「日系人」という言葉は定着した言葉です。けれども、関係があること、傾向があることに、安易に「系」を付けて表すことはよくないと思います。この人は山口系でもありますし、農場系でもありますし、予想裏切り系でもあります。なんでも、付けようと思えば付けられる言葉です。

 「癒し」という言葉も問題です。「夕焼け空が私を癒すのではない。私が夕焼け空をみて感動するからです。私がその荘厳美に打たれるからです。そんなとき、感動という言葉の代わりに癒しという言葉を使うと、治療台の上で施しをうける病人のようになってしまう。」というのは、山折哲雄さんの著書にある言葉です。

 「癒やし系などと形容すると失礼だが」と言いながら、結局、形容しています。「癒」という文字が、ヤマイダレ(病垂れ)で、病気や傷や苦しみなどをなおすという意味であることを忘れてしまってはいけません。その人の表情や動作を見ているだけで、自分の病気や傷や苦しみなどが簡単になおるということは、ありえません。

 「系」という文字を、逃げ口上に使うことはやめましょう。

 

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2015年12月10日 (木)

日本語への信頼(137)

「がっかり」は攻撃用語?

 

 夕刊1面で広いスペースを使ったトップ記事で、「がっかり」という言葉の氾濫に出会いました。

 

 文科相「候補地に鍵 がっかり」  【見出しのうちの、ひとつ】

 京都府と京都市が誘致を目指す文化庁の移転を巡り、同庁を所管する馳文部科学相の発言が波紋を呼んでいる。今月2日に京都市内の移転候補地を視察した馳氏が「がっかりした」と胸中を吐露したからだ。 …(中略)

 〈文化庁移転候補地三か所視察。え?……。ここに移転?……。がっかり〉

 馳氏は自身の2日付のブログに、こう書き込んだ。 …(中略)

 4日の記者会見で、〈がっかり〉というブログの真意を問われた馳氏は、「本音であります」と切り出した。 …(中略)

 「(移転後の)デザイン案もないし、『この程度なんだな』との認識を持ち、がっかりした」とたたみかけた。

 (読売新聞・大阪本社発行、12月9日・夕刊、3版、1面)

 

 中村明さんの『日本語 語感の辞典』によれば、「がっかり」とは、「期待が外れて元気がなくなる意で、主に会話に使われる日常の和語。」として、類義語として「気落ち・失意・失望・落胆」が挙げられています。

 その「がっかり」という言葉が、「気落ち・失意・失望・落胆」を離れて、相手を攻撃する言葉に変身しています。自分の気持ちを述べるように装いながら、鋭い棘を持った言葉になっているのです。

 それにしても、「がっかり」という言葉以外に表現方法はなかったのでしょうか。同じ言葉の繰り返しに驚きます。どんな教科を担当したのか知りませんが高校教員の経歴があって、今は教育行政の最高責任者を務めている人の言葉としては、読者(国民)の側が「がっかり」(失望)してしまいます。

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2015年12月 9日 (水)

日本語への信頼(136)

振る舞われるものは、有料か無料か

 

 寒くなって大根炊き(だいこだき)の季節になりました。無病息災を祈って、あちらこちらの寺院などで行われますが、京都の千本釈迦堂がよく知られていて、ニュースに取り上げられます。

 

① 京都市上京区の千本釈迦堂(大報恩寺)で7日、師走の風物詩「大根だき」が行われ、大鍋で煮た熱々の大根が参拝者に振る舞われた。8日も行われる。

 (産経新聞・大阪本社発行、12月7日・夕刊、4版、12)

 

② 直径1メートルほどの大鍋で、輪切りにされた大根と油揚げが、しょうゆと昆布だしでじっくりと炊かれた。 …(中略)

 8日も午前10時から1杯千円で振る舞われ、2日間で約4千本の大根を炊く。

 (朝日新聞・大阪本社発行、12月7日・夕刊、3版、9面)

 

 ①の記事には「振る舞う」とだけ書かれていますから、この記事を読んだ人は、無料と勘違いするかもしれません。②の記事では「1杯千円」と書かれていますが、有料のものを「振る舞う」というのだろうかという疑問が生じないとは限りません。

 「ふるまう(振る舞う)」という言葉は、ひとにご馳走をする、接待する、おごる、というような意味です。ご馳走や接待には有料のものもあるでしょうが、おごるという行為はお金を要求するものではありません。

 ただし、有料であっても、寺社が行うものには「振る舞う」という言い方が使われるような習慣があるようにも思われます。神や仏の行うありがたいことを、布施をしながら押し戴くという気持ちが含まれているのかもしれません。

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2015年12月 8日 (火)

日本語への信頼(135)

「一縷」と「一抹」

 

 「一縷」は、極めてわずかなつながりを表す言葉です。「一抹」は、ほんの少しのことを表す言葉です。表面的な意味ではよく似ています。

 こんな表現に出会いました。

 

 先日、タクシーの運転手さんからこんな話を聞いた。 …(中略)… ある時間帯だけ進入禁止の道路に道路に入り込んだ。すかさず警官がやって来て、罰金を払わされる羽目になったが、その際、警官の不祥事の報道が頭にあったのか、「警察は犯罪者ばっかりやないか」と暴言を吐いてしまったのだという。 …(中略)

 それでも、警官の不祥事を耳にするたびに、この運転手さんの暴言に一抹の真実が含まれているような気がしないでもない。

 (産経新聞・大阪本社発行、12月7日・夕刊、9面)

 

 「一抹」は、恐怖、寂しさ、悲哀などといった、どらかというと望ましくないような事柄を表現するときに使われ、「一縷」は、希望、願望などを表現するときに使われるように思います。

 「一抹の真実」という表現は、あまり見かけない言い方です。わずかに含まれている真実、という意味であろうとは思いますが、どうも落ち着かない表現です。吹けば飛ぶような真実とでも言いたかったのだろうかと考えたりしますが…。

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2015年12月 7日 (月)

日本語への信頼(134)

「本体」の新しい意味

 

 国語辞典に記載される「本体」の意味に、「消費税が課される前の商品の価格」というような記述が加わるのはいつのことでしょうか。

 消費税というものが撤廃されることがない限り、「本体」のこのような意味は生き続けるはずです。

 ところで、「本体」と対になる言葉は何でしょうか。思いつくのは、例えば「付属品」というような言葉です。例えば、「イヤホンを本体に接続して、音楽を聴く。」というように使います。

 そのように考えると、次のような表現は何とも不思議な感じがしてきます。

 

 花王は…(途中省略)… 400g入りの本体が400円。

 ライオンは…(途中省略)… 450g入りの本体が400円。

 NSファーファ・ジャパンは、…(途中省略)… 450ml入りの本体が408円。

 P&Gが…(途中省略)… 1kg入りの本体が408円。

 (朝日新聞・大阪本社発行、12月5日・朝刊、13版、9面)

 

 洗濯用洗剤を紹介した「きりとりトレンド」という欄の記事です。

 「400g入りの本体」には、その洗剤を使うために、何かの「付属品」が付いていて、それで400円という価格なのでしょうか。

 この表現のままで、「400g入りで、本体(価格)400円」という意味に受け取ることはかなりの無理があるように思われるのですが…。

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2015年12月 6日 (日)

日本語への信頼(133)

「…に詳しい人」

 

 阪神・淡路大震災の年に始まった神戸ルミナリエは、今年は21回目で、12月4日に開幕しました。

 近年は来場者や地元企業の協賛金が減少傾向にあるというニュースが載っていました。

 ニュースには誰かのコメントが載せられることがあり、記事の中に取り込んで書くこともあり、別の見出しのもとでコメントを載せることもあります。

 

 記憶伝える限界 埋没せぬ工夫を 【見出し】

   神戸ルミナリエに詳しい神戸山手大学高根沢均准教授(観光文化学)の話 …(以下、略)

 (朝日新聞・大阪本社発行、12月3日・夕刊、3版、11)

 

 かつてはその人の専門分野の注記だけで終わっていたような紹介が、最近はこのような「…に詳しい」という修飾句が付けられるように変化してきているように思います。

 けれども、専門家の少ない特殊な分野なら納得できるのですが、「神戸ルミナリエに詳しい〇〇さん」と言われてもピンとこないのです。

 神戸ルミナリエなら始まったときから毎年見続けている人も多いでしょうし、運営などについての様々な情報を知っている人も多いでしょうし、演出や資金繰りについてこのように工夫すればという意見を持っている人も多いでしょう。

 新聞社はその人のハクを付けるつもりで行っているのかもしれませんが、読者はさめた目で見ることもあるのだということを心得ておかなければならないでしょう。

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2015年12月 5日 (土)

日本語への信頼(132)

辞書にない用例

 

 「歴試学のススメ」という欄に、次のような「問」が載っていました。歴試学とは、「歴史を大学入試で学ぶ」の略語だという注記があります。

 

 問 古代オリンピックが紀元後4世紀の末に廃止された理由を述べなさい。

 (2011年度、名古屋大学・改題)

 (朝日新聞・大阪本社発行、12月3日・朝刊、13版、35)

 

 この「改題」という言葉を国語辞典で見ると、「題名を変えること」と説明しています。例えば、いったん出版した本を、何かの事情で題名を変えて作り直せば、改題ということになります。

 上に引用した「改題」は、名古屋大学で出題された設問について、少し問い形を変えて利用したという意味です。出題内容を改めたので「改題」だというのです。

 このような「改題」の使い方を珍しいとは思いません。大学入試に関する問題集などでは、ときどき目にします。

 これをどう考えるかについては、2つに分かれると思います。

 ひとつは、このような「改題」の用法は、特定の分野だけで使われているから、国語辞典の編集者は、国語辞典に反映させる必要はないと考えているのだという判断です。

 もうひとつは、たいていの国語辞典の編集者が、用法の広がりに気づいていないから、国語辞典の説明が変化していないのだという判断です。

 私は、後者(用法の広がりに気づいていない)の考えをしていますから、どの国語辞典が、はじめて説明に加えることになるのか、注目したいと思います。

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2015年12月 4日 (金)

飛び飛び甲州道中(2)

皇居の堀端

 

 甲州道中は幕府直轄には違いありませんが、ここを経由して参勤交代をしていたのは高島藩、高遠藩、飯田藩などで、他の街道に比べるとずいぶん少なかったようです。

 往来する人数が少なかったということと関係があるのかどうかわかりませんが、宿場と宿場の距離に大きなムラがあります。阿弥陀海道と黒野田の間は12町ですから、1㎞ほどです。韮崎から台ヶ原までは4里です。

 さて、東海道と同じように、南に向かって日本橋を離れますが、すぐに右折して永代通りに入り、東京駅を横切って、和田倉門からは皇居堀端に沿って進みます。日比谷見附跡で右に曲がって、どこまでも堀に沿います。

 日暮れが早くなっている季節です。夕暮れが迫る中を、ジョギングをする人に次々と出会います。ウオーキングではなくジョギングばかりです。時計とは反対周り、つまり私とは対向する方へ走っています。誰かが指示しているのか それとも自然と慣習が生まれたのか、例外はないように思いました。

 ちらりと国会議事堂を見て、左手の赤煉瓦の建物を見やりつつ、三宅坂を経て、半蔵門のあたりで暗くなりはじめました。左折して内藤新宿を目指します。JR四谷駅を超える頃はもう真っ暗です。

 東京の町中は広い道路を歩いていますから、道路の右側から左側に移ることはたいそうなことです。旧跡もたくさんあるのですが、説明板すら設けられていないところも多く、日本橋から内藤新宿まで、ただ歩き続けました。

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2015年12月 3日 (木)

飛び飛び甲州道中(1)

日本橋で峠を思う

 

 初めて日本橋に来て、ここが江戸時代の5街道の出発点なのだとしみじみ眺めたのはいつのことだったのでしょうか。ずいぶん昔のことで、正確な日付は覚えておりません。それ以後も何度か日本橋へは来ています。

 日本橋に来るのは今回で何回目になるのか、わかりません。東海道のときも中山道のときもここを出発点としました。今年(2015)3月23日にはここから日光道中・奥州道中を歩き始めました。そして、同じ年の1019日には甲州道中の出発点になりました。私にとっては、最後の5街道です。

 最初に歩いた東海道のときは、京都・三条大橋までたどり着けるのだろうかという思いがありましたから、その途中のあちこちのことなどは頭に思い浮かべませんでした。ただひとつ箱根八里のことが気になり、箱根までの道にも不安を感じていました。

 中山道のときは、東海道が終わっておりましたから、終着点の三条大橋までは歩けるという自信は持っていましたが、まだ見ぬ碓氷峠や和田峠の道が気がかりでした。

 日光道中・奥州道中は関東平野のただ中を歩くのですから、峠らしきものはなくて、日光や白河のことを考えていました。

 そして、今回の甲州道中は山越えがあります。小仏峠や笹子峠がどんな道なのか気になります。街道を歩こうとする私にとって、日本橋という出発点で思うのは、やっぱり峠のことです。

 街道をどのように通すのかということは、どのように山越えをするかという問題です。江戸時代に知恵を絞って選んだルートのはずですが、当時の人びとが苦しんだところはたくさんあります。箱根も鈴鹿も、碓氷も和田も鳥居も、通り過ぎれば快い思い出の峠となりましたが、箱根は雨中に無理をして歩きました。碓氷を歩くのは雪解けの5月まで待ちました。

 今回の甲州道中は、冬の雪が来るまでに歩き終えようという目論見です。

 橋のたもとには東京市道路元標とともに日本国道路元標があります。コインの形を思わせるような日本国道路元標は複製であって、本物は道路の真ん中にあります。歩道から狙っても写真は撮れませんので、クルマの合間を見計らって傍まで近寄って撮りたいと何度も思いましたが、クルマはひっきりなしに往来していますから無理な話でした。

 横にある「里程標」には、甲府市一三一粁、京都市五〇三粁と刻まれています。甲州道中四十四次は、下諏訪まで53里余り、212㎞余りです。

 頭上に被さる首都高速都心環状線は、東京オリンピックの前に作られた、悪評高き構築物ですが、そこに掲げられた横断幕は1025日の「日本橋・京橋まつり」のことを知らせています。

 

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 「飛び飛び甲州道中」の連載を始めます。飛び飛びという言葉は、歩いた道のりに沿って忠実に書くのとは違って、印象に残ったところを重点的に記述していこうという気持ちがあるからです。それともうひとつは、他の連載と交互に書いて、連日の連載としないということとも関係があります。

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2015年12月 2日 (水)

日本語への信頼(131)

「目力」「眼力」「視力」

 

 私は、ごく普通の文章に「目線」という言葉を使いたくはありせんし、この言葉を見たり聞いたりすることも好きではありません。「視線」でじゅうぶんだと思っています。ただし、「視線」と「目線」の違いについて、次の文章には納得します。

 

 「目線」はもともと、テレビや映画、演劇の場で用いられた言葉で、無意識のうちに目の向いた先ではなく、意図をもった目の行き所を意味します。「視線」が「-を浴びる」「-を意識する」と使われるように〝見られる側〟を主役にした言葉であるのに対して、「目線」は〝見る側〟が主役の言葉といえるのかも知れません。

 (竹内政明『「編集手帳」の文章術』文春新書、文藝春秋、99ページ)

 

 さて、「目」についての次のような表現に出会いました。

 

 神戸市では2013年から放置自転車対策の社会実験を実施。同年夏には神戸国際会館の南側の歩道に、人の目を印刷した「目力看板」を設置した。駐輪する人をにらむような看板は効果抜群で、放置自転車は姿を消したが、「恐い」「子どもが泣く」などの悪評も。このため市では目力看板に代わる効果的なデザインを検討することにした。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1130日・朝刊、「神戸」地域版、13版△、26)

 

 「目力」という言葉があまり認知されていないということでしょうか、「目力」には「めぢから」というルビが施されています。神戸市提供の写真も掲載されていますが、円形の看板は、男性の左右の眉、左右の目、鼻の部分が大きな写真になっています。

 「目力」は、目によって相手を威嚇する力ということに重点が置かれた言葉のように思われます。ホームページで検索すると出てきますが、国語辞典ではまだ認知度が低いようです。

 「目力」は「視力」とは明らかに意味が違いますし、「眼力」とも違います。「視力」や「眼力」が自分の能力などを表すのに対して、「目力」は他人に与える力を表しているようです。

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2015年12月 1日 (火)

日本語への信頼(130)

弱々しい男子の呼称

 

 幕末に大老として「安政の大獄」で志士を弾圧した井伊直弼(1815~60)。おひざ元・滋賀県彦根市では、鎖国から開国へとかじを切った「開国の父」として英雄視されており、藩主の十四男から奇跡的に藩のトップに上り詰めた「シンデレラボーイ」ともうたわれる。

 (読売新聞・大阪本社発行、1128日・夕刊、3版、15)

 

 スマートフォンや家電、自動車などの看板商品に、ピンク色を採用する動きが広がっている。日本では、こういった商品は白やシルバーが定番とされてきたが、ピンクを好んで買い求める「ピンク男子」と呼ばれる男性が増えるなど、流行色の変化が背景にあるとみられている。

 (読売新聞・大阪本社発行、1128日・夕刊、3版、15)

 

 引用した2つの文章は、同じページに掲載されていますが、別々の内容の記事です。

 志士を弾圧した「開国の父」を、シンデレラボーイなどと呼ぶと、武将の剛直さが消えてしまいます。

 ピンク男子という言葉は、「流行色の変化」よりも男性の軟弱化が背景にあると考えるのが正しいのかもしれません。この記事には「ピンク商品 ときめく男子」という見出しが付いています。骨抜きにされたような人物像が浮かんできます。金儲けに走る企業は、そのような軟弱な人間をもターゲットにしているのです。

 

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