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2016年2月29日 (月)

【掲載記事の一覧】

 2月は「日本語への信頼」と「名寸隅舟人日記」の連載を続けました。言葉に関するものは朝日新聞の文章について書いたものが大部分です。これまでに書いたものの大半は、朝日新聞東京本社の、言葉を扱うセクションに、その都度メールで知らせました。新聞社の側で問題を感じた内容もあったはずですが、その反応は皆無に近い状態でした。言葉についてはよほどの自信があって、読者の言うことなどには耳を貸さないという姿勢が濃厚であると思います。そのくせ、単純なミスは連日のように「おわびと訂正」を繰り返しています。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでに連載した内容の一覧を記します。

 

◆日本語への信頼 ()(199)~継続予定

    [2015年6月9日開始~ 最新は2016年2月29日]

 

◆名寸隅舟人日記 ()(14)~継続予定

    [2016年1月1日開始~ 最新は2016年2月27日]

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(1998)~継続予定

    [2009年7月8日開始~ 最新は2015年6月8日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)~継続予定

    [201310月1日開始~ 最新は20131031日]

 

◆名寸隅の船瀬があったところ ()() 終了

    [2016年1月10日開始~ 最新は2016年1月14日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)~継続予定

    [2012年9月20日開始~ 最新は2013年9月5日]

 

……【以下は、連載を終了したものです。】……………………

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日開始~2015年3月31日終了]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58)

    [2015年4月1日開始~ 最新は2015年6月23日]

 

◆奥州道中10次 ()(35)

    [20151012日開始~ 最新は20151121日]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日開始~2014年4月12日終了]

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日開始~2010年3月10日終了]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日開始~2011年9月13日終了]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日開始~ 最新は2014年5月30日]

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日開始~ 最新は2014年5月9日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日開始~ 最新は2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日開始~ 最新は2013年8月28日]

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日開始~20071212日終了]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日開始~2008年7月20日終了]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日開始~2009年9月10日終了]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日開始~2012年1月4日終了]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日開始~2012年5月3日終了]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日開始~2009年6月30日終了]

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日開始~20061231日終了]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日開始~2008年1月10日終了]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日開始~20061226日終了]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日開始~2009年6月4日終了]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日開始~2008年1月18日終了]

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日開始~2007年7月31日終了]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日開始~20081125日終了]

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日開始~2009年6月22日終了]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日開始~2009年5月8日終了]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日開始~2009年3月16日終了]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日開始~20081113日終了]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日開始~20081215日終了]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日開始~2007年6月30日終了]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日開始~2010年1月3日終了]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日開始~2012年7月8日終了]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日開始~2011年6月1日終了]

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日開始~2008年9月24日終了]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日開始~200610月4日終了]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日開始~20061011日終了]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日開始~200611月2日終了]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日開始~2007年6月6日終了]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日開始~2007年8月10日終了]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日開始~2007年7月7日終了]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日開始~20071030日終了]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日開始~20061015日終了]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日開始~2007年8月20日終了]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日開始~2007年9月12日終了]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日開始~2007年9月29日終了]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日開始~200612月7日終了]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日開始~2007年5月7日終了]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日開始~20061222日終了]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日開始~2007年8月27日終了]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日開始~2007年8月30日終了]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日開始~2012年9月19日終了]

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日本語への信頼(199)

金本監督はどうしたのか

 

 阪神タイガースの沖縄・宜野座村での春季キャンプでの運動会で、選手対抗リレーが行われたという話題が書かれていました。「葦 夕べに考える」というコラムで、編集委員が執筆しています。

 

 発案者の金本知憲監督(47)が自ら音頭をとり、ベテラン選手に発破をかけたり、いじったり。必死に走る選手に声援を送った観客は、そんな監督と選手のやりとりを見て、またドッと沸いた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月24日・夕刊、3版、8面)

 

 金本監督が「発破をかけた」のはわかりますが、「いじった」というのはどうしたのでしょうか。共通語としての意味で考えてみます。練習の場だと、「いじる」には、フォームなどを改善させるために、手を加えて変化させるというような意味が成り立つと思います。けれども、ここは座興の要素が強い場面です。一般的な共通語の意味ではなさそうです。

 日本方言大辞典によると「いじる」は、「①意地悪く責める。折檻する。いじめる。いびる。」という意味が岩手県から香川県あたりまで分布しています。「②人を困らせる。なぶる。かまう。」が岩手県から島根県まで、「③こき使う。酷使する」が島根県にあります。それ以外にも「④ねだる。せびる。」以下の意味が列挙されていますが、それは除外することにします。

 ①から③までは似ている意味のようにも受け取れますが、微妙に異なっています。(それゆえに、項目分けがされているのです。)

 さて、実際に金本監督はどのようにしたのでしょうか。これは、この文章を書いた人の出身地や言語感覚によって違ってくるのかもしれません。方言は、共通語よりも細かく心理や行動などを表現することができますが、この場合の「いじる」はやや大雑把な意味しか捉えることができませんでした。

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2016年2月28日 (日)

日本語への信頼(198)

たった2文字を節約する

 

 この連載(168)回で、「その結果」と言うべきなのに、短く「結果」と表現することなどを話題にして書きました。

 今回、まったく新しい例を見つけました。

 

 客がよく頼むのがバッテラだ。8切れのうち半分を「あぶり」にするのが人気だ.。バーナーの火を浴びたサバはじわっと脂を出し、香りが鼻に届く。

 にしても、なぜバッテラなのか。岡田さんは大阪生まれ、大阪育ち。「ガキの頃から商店街の店で買って食べてた。バッテラが好きやったんです」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月20日・夕刊、3版、3面)

 

 「関西食百景」という連載企画で、記者が執筆しています。段落が改まった冒頭に「にしても」と書いています。「それにしても」という表現の「それ」という2文字を省くことにどんな意味があるのでしょうか。「その結果」の「その」を省くのよりも、違和感は強くなります。気取って書いたつもりかもしれないなぁと感じました。

 この文章にはカギカッコの部分が多いのですが、「にしても」が使われているのは、地の文です。書き言葉で書くべき部分にまで話し言葉を進出させるという無秩序さです。あるいは、書き言葉と話し言葉の区別が理解できていないのかという疑問も生じます。

 活字になると、それは資料としての働きを持ちます。子どもたちが、こんな言い方を真似ても、強くたしなめることができなくなるかもしれません。

 

 実は、この表現とは別ですが、「天声人語」にも社説にも、この例に近い表現があって、読むたびに違和感を持っています。そのことについては、日を改めて書くことにします。

 

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2016年2月27日 (土)

名寸隅舟人日記(14)

観光客のマナーの悪さは誰の真似?

 

 北海道の美瑛はなだらかな地形で、旅する者に深い印象を残します。私は2度、行ったことがあります。そこにある「哲学の木」が切り倒されたというニュースを読みました。大きなポプラの木は私有地の畑の中に立っていましたが、木の老化という理由の他に、無断で入り込む観光客が増えて、所有者の農家が決断したのだそうです。

 話は変わりますが、込山富秀さんの『「青春18きっぷ」ポスター紀行』(講談社、2015年5月26日発行)というのは、JRの青春18きっぷのポスターを集大成した本で、一枚一枚を思い出しながらページをめくりました。楽しい本です。

 一枚のポスターが何日もロケを行って作られている、その苦労が随所で語られていますが、その中に、こんな文がありました。

 「りんご農家の畑に入ったその奥で、猪井さんがカメラをかまえていました。『よくこんな場所見つけましたね』と言うと、『良さそうだったから(農家に)お願いして、入れてもらったの』とニコニコ笑っていた。夜にみんなで飲んだ田酒(でんしゅ)がとても美味しかった。」(同書134ページ)

 これは、カメラマンの当たり前のマナーでしょうが、それが失われてしまっているのが現在の有様でしょう。専門家であるとか一般人であるとか、そんな区別はなく、観光地でのマナーは劣化しています。

 何かで報道されると、人々がどっと押し寄せるというのは、何とも情けない構図ですが、それを作り出しているのは誰なのかということにも留意しなければなりません。

 テレビでよく見かける温泉の入浴シーンで、出演者が大きなバスタオルを巻いて入浴しています。そして、字幕には、これは特別の扱いであって、普段はバスタオルを使って入浴できないと書いています。当然です。

 こんな画面を撮影し放送する人は、大切なことを忘れてしまっているのです。一般の人ができないことを、テレビ関係者は堂々と行っているのです。我々は特別なのだと言っているに等しいのですが、考え違いもはなはだしいと思います。バスタオルだけの問題ではありません。一般の人だったら、入浴している人のいる場所にカメラを持ち込むことも御法度です。どうして、こういうことを堂々と行うのでしょうか。真似をしたくなる人が出るのも当然でしょう。「哲学の木」でも、特別扱いだと言わんばかりのシーンを撮って放送すれば、真似をする人が続くでしょう。観光客の情けないマナーは、報道関係者がまき散らしているのです。

 お寺の秘仏を特別に公開させて、いかにも手柄を立てたように、その画面を放送するのも、一般の人からすれば常識はずれです。一般の人が立ち入ってはならないところを平気で越えていって画面を作ることも横行しています。

 視聴者が見たいことに応えているのだということを金科玉条にして、したい放題のことをするのは、もうそろそろ止めにしなければなりません。感覚が麻痺した人が番組を作ることは恐ろしいことです。

 『「青春18きっぷ」ポスター紀行』を読むと、安易な番組作りとは正反対の、素晴らしい制作姿勢が伝わってきます。

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2016年2月26日 (金)

名寸隅舟人日記(13)

プリンターと携帯電話の価格

 

 パソコンのプリンターの話の続きです。故障したままで放っておくわけにはゆかず、買うことにしました。売場で改めて説明を聞くと、ウインドウズXPはバージョンアップがあったので、それを行っておれば使えるかもしれないと聞きました。だめであるのなら、新しいパソコンにつなげばよいと思って買いました。結論を先に言うと、XPのパソコンにつないでも印刷はできました。以前と同じような環境が復元できました。

 過日、ちらりと売り場の商品の価格を見ていましたが、この日、買ったのは古いパソコンと同じ機能を持ったものでした。文書の印刷、コピー、スキャンができれば事足りるのです。毎年、年賀状をカラー印刷していますから、それができたら申し分ありません。

 さて、その値段にびっくりしました。これだけの機能を持ったものが、わずか5000円台です。10年前に買ったプリンターの、たぶん10分の1程度の値段なのです。拍子抜けする値段です。インクのセットも付いている値段です。

 そのインクがなくなったら、今度は4本で、3000円ほどは必要になります。そうすると今回のプリンター本体の値段は2000円ほどのものなのでしょうか。信じられないことです。

 このようなことが携帯電話の販売で行われています。携帯電話本体は0円、あとは通信料で稼ごうという商魂です。プリンターも同様です。インクの製造原価などはわずかなものでしょうが、それを高い価格で買わなければ印刷はできないのです。しかも、プリンターのメーカーは寡占状態ですから、価格を下げる競争は成り立たないのでしょう。

 プリンターのメーカーは、純正インクと称して自社製のインクを推奨しています。それとは別に、インク・カートリッジをリユースして、多少安いものを他社が販売していますが、それも意外に高い値段です。

 昔に比べたら、世の中は便利になりました。かつてのコピー機はたいへんな高価格で、個人で持てるものではありませんでした。それが手近なものになったのですから、日々の出費のことにあまり目くじらを立てなくてもよいのかもしれませんが…。

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2016年2月25日 (木)

名寸隅舟人日記(12)

「文化財」は、目に見えるものだけではない

 

 先日の「日本語への信頼」(191)回では、遺跡の発掘調査報告書があふれて、図書館が受け入れを辞退しているという記事の話題を取り上げました。

 これは調査報告書だけの問題ではありません。報告書が作られるまでに莫大な経費が投入されて調査が行われ、その報告書が作成されているのです。そして、作られた報告書を図書館が受け入れないということになれば、何のためにこんなことが行われているのでしょうか。

 発掘調査がその道の専門家の役に立っているだろうことは想像できますが、一般の人にとってはどれだけの価値があるのでしょうか。まるで、調査を行うことに意味がある、報告書を作ることに価値がある、というような考え方で報告書が作られているようにも受け取れます。

 国(文化庁)はもちろんですが、都道府県も、市町村も、多額の費用をかけて発掘調査を行っているのです。法律がそのようにすることを命じているからなのでしようか。それとも、埋蔵文化財を特別視する風潮が蔓延しているからなのでしょうか。

 私は方言を調べて、まとめる作業をしています。このようなことには、どこからも費用は出ません。作業にも補助金は出ませんし、出版するときには自費が必要になります。同じように文化財であるものを扱っていても、雲泥の差です。

 都道府県や市町村の教育委員会には文化財を扱う部署があります。ほとんど例外なく、埋蔵文化財のことしか眼中にありません。予算はもちろん、専門者の人数もそちらに傾斜しています。目に見えるもの、壊れたら困るようなものだけを文化財だと考えているような人の集まりが文化財行政だと言っても過言ではないのです。

 言葉という文化財は目に見えません。民俗的な分野であるものにも目に見えないものがたくさんあります。けれども、文化財行政を担っている者は、それを文化財とは認識していないようです。目に見えないものにも目を行き届かせるのが、文化財行政の責務だと、私は考えます。

 年がら年中、発掘調査をして、調査報告書を作ることに腐心していますが、民俗調査や方言調査はまったく行っていません。予算などが付くことはありません。これは私の地元の兵庫県だけのことではなく、全国まったく同じです。図書館では、発掘調査報告書は置き所に困るようですが、方言や民俗に関する調査報告書は探してもなかなか見当たらないのです。

 文化庁や教育委員会の文化財行政に携わる人には、目を見開いて、見えないもの(無形の文化財)にも目を行き届かせて、認識を深めていただきたいと切望します。

 

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2016年2月24日 (水)

名寸隅舟人日記(11)

プリンター故障、我が身の代わりと思えば納得するが…

 

 パソコンのプリンターが、突然、故障しました。ガリガリガリと大きな音をたてて、ヘッドの部分が動きます。印刷はできません。インクが残り少なくなったので、高い値段のインクのセットを買ってきて、まだそれを使い始めてもいないのにこの有様です。

 私は2台のパソコンを使っています。1台はインターネットに接続していて、メールのやりとりもしています。いわば通信用です。購入して比較的、新しいものです。

 もう1台は、文章を入力したり、原稿を貯め続けたり、時には印刷をしたりします。これはネットにつないでおりません。買ってから10年ほどになりますが、このパソコンと接続していたプリンターが故障しました。このプリンターはよく働いてくれたと思います。

 故障ということに出会うと、一瞬、腹立たしい気持ちになり、不便さを思わざるを得ません。けれども、よく考えてみれば、我が身が病気や怪我という事態に直面することに比べたら、何でもないことのように思えてきます。修理を頼めばよい、いざになったら買い替えたらよいという気持ちです。自分の病気や怪我であれば、我が身を取り替えることはできません。

 パソコン関連のものだけではありません。いろんな製品が故障をしたり壊れてしまったり…、日常生活の中ではいろんなことが起こります。廃棄したり修繕したりの対応をとります。製品だって病気になったり怪我をしたりするのです。

 さて、ここからがちょっと問題です。神戸市内の家電量販店へ行きました。パソコン関連のものはいつも、その店で買います。修理することと買い替えること、その両方を念頭に置いて出かけました。

 まず、修理の相談をしました。製造元と型番号を告げると、調べてくれました。答えは、その型番号のものは既に修理を受け付ける期間を終了していて、部品などもない、ということでした。修理を頼めるのはいったい何年ぐらいか、と尋ねると、製品によって異なるが10年には満たないという答えでした。病気と怪我のたとえに戻りますと、私たちが病気や怪我をすると救急車が病院に運んでくれます。けれども、パソコンの場合は、その病院が受け付けてくれないという状況です。その製品はご臨終ですと宣言されているのです。

 しかたがないので、新しいプリンターを買おうと思って売り場に行きました。かつてに比べると信じられない値段です。1万円を切っているプリンターさえあります。ところが問題がありました。売っているプリンターは、ウインドウズのバージョンが古いパソコンでは使えないということです。私の2台のパソコンのうち、プリンターをつないでいた方は、ウインドウズがXPという古いものです。それにパソコンソフトの一太郎などを入れていて、日常的にはそればかり使っています。文章データはすべて一太郎で作っています。『明石日常生活語辞典』の原稿はすべて一太郎です。どうやらプリンターはつないでも役立たないようです。

 さあ、これからどうするか。そのことをさて置いて、考えました。科学の進歩であるとか、技術革新とか、いかに立派な言葉を使っても、古くなったものを捨てさせて、新しいものを買わせようという商魂に支えられているのが現実です。たった一人に関することでもこの通りですから、会社や官公庁や学校などでも、古い器械類を大量に処分して、更新していくことをやっているのでしょう。無駄に支えられて、産業は発展していくのでしょうか。

 古いものを、修繕したり工夫したりしながら大事に使うという生活の仕方は、いとも簡単に投げ捨てられてしまうのです。かつての日本人が大切にしてきたことを、何の痛みも感じないで捨て去ることができる人が、世の中には横溢しているようです。

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2016年2月23日 (火)

日本語への信頼(197)

速読システムは小学校1年生の教科書に似ている

 

 スマホやタブレットで電子書籍を読むスピードを上げる研究が、大日本印刷と公立はこだて未来大学が共同で進めているという新聞記事を読みました。機械がアシストして、柔軟な文字配列などを行っていくのだそうです。その記事の中にこんなことが書いてありました。

 

 研究開発に当たる小林潤平さんは「意味のかたまり(=文節)の単位を素早く見つけ、すいすいと目を動かす能力が高い人が速い。逆に、1文字ごと、単語ごとに文字を追っていると遅くなる」という。

 ただ、各行の終わりは、文節とは関係なく改行されるので、読むのが速い人でも各行の終わりに近づくと読書スピードが落ちる。 …(中略)

 そこで、同社は縦書きの文庫本サイズの文章を横書きに変換し、各行末を文節の区切れで改行する言語処理システムを開発。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月16日・朝刊、10版、35)

 

 日本速読協会などという組織もあるそうで、速く読みたいと思っている人は多いようです。私は自分の読書スピードを、速読だとも遅読だとも思っていません。ごく普通の速さだろうと思います。もっと速く読みたいという欲求はありません。

 紙面には、「天声人語」の普通の書き方と、それを細かく改行して、文頭を1字ずつずらして書いたものとが載せられていて、たしかに読みやすいようにできていると思います。読むスピードもたぶん上がることでしょう。大人にとっては、悪いことではありません。

 ところで、この書き方はどこかで見たことがあると気づきました。小学校1年生の教科書です。小学校の場合はひらがなばかりですが、漢字仮名交じり文で文節に区切れば、似通ったものになります。ただし、小学校の教科書は学年が進むにしたがって、文節単位で区切るというような幼稚なものではなくなります。

 これは、紙の辞書と電子辞書との違いにも似ていると思いました。前後のつながりを捨てて、その場所をピンポイントで示しているのです。辞書の場合は前後の言葉を捨てて、その語だけを画面に示します。速読用の文章では、今まさに読んでいる部分だけを素早く示しつつ進んで行きます。文章の広がりというか、行間というか、そういうものが画面からなくなってしまっているように思いました。そもそも「行間」などというものは、物理的に消し去られています。

 大人が、必要に迫られて利用するのならよいでしょう。けれども、いくら間違っても、こんなものを学校教育の場に取り入れようなどということは言い出さないでください。ゆっくり味わって読む姿勢が中学生や高校生から失われるとしたら、能率第一主義の犠牲者ということになります。

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2016年2月22日 (月)

日本語への信頼(196)

1つでも2つでもよい、というわけではないはずだが…

 

 私は、すしの「1かん」という言葉を、はじめは2個のことだと思っていました。「1つ」とか「1個」とか言えばよいものを、わざわざ「1かん」と言うのだから、2つまとめたものを「1かん」と呼ぶのだろうと思っていました。同じネタが並んで出てくるのだから、「1皿」でなく「1かん」なのだろうかと思っていました。

 最近は、1つのことを「1かん」と呼んでいるらしいということにも気づきましたが、どちらが正統なのか、確かめる機会もありませんでした。

 「ことばの広場 校閲センターから」の欄が、このことを取り上げていました。

 

 「広辞苑」で「かん」を引くと、「多くカンと表記。『貫』『巻』とも書く」とあり、「一個ずつあるいは二個一組にいう」としています。語源は様々な本で諸説ありとされ、はっきりしません。

 では、表す数が一つだったり二つだったりするのは、なぜなのでしょうか。 …(中略)

 戦時色が濃くなると、物資不足で県ごとにすしの大きさや価格が統制され、握り一つが小さく、使える魚の種類も限られることになりました。「このころから同じネタを二つ出すようになったのでは」と松下さんは推測します。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月17日・朝刊、10版、15)

 

 魚の種類が少なくなり、握りも小さくなったから、2つ並べて出すようになったという説には、納得させられます。

 ということは、基本は1つが「1かん」で、戦後の混乱期に、2つ並べて1つ分を出したということなのでしょうか。

 私は、「中トロ1かん!」などという注文の仕方をする癖はついていませんから、出されたものを美味しくいただけば、それでよいのかもしれません。

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2016年2月21日 (日)

日本語への信頼(195)

「若トラ」はタイガース用語

 

 プロ野球のオープン戦開幕が近づいています。それぞれのチームの戦力分析などが紙面に載っています。

 

 金本監督は「生え抜きの大砲育成」をテーマの一つに掲げる。初采配となった楽天との練習試合で、期待の若手が早速、結果を出した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月17日・朝刊、13版、17)

 

 この記事の見出しは「大砲候補 若トラ大当たり」となっています。記事の中には「若トラ」という言葉はありません。記者よりも年上の整理部員が、この言葉を使ったのかもしれません。「若トラ」という言葉はかなり使い古されてきた言葉のように感じますが、若い選手の様子を表現するのにふさわしいようにも思えます。

 阪神タイガースについては、この「若トラ」という言葉が使われますが、巨人やヤクルトやDeNAにはこれに類する言葉はありません。広島の「若鯉」というのを見たような気はしますが、中日を「若ドラ」とか「若竜」と言っているかどうかは知りません。パ・リーグのチームにも、このような言い方はしにくいように思います。12球団の中で唯一、しっくりとくる表現が「若トラ」であるのかもしれません。

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2016年2月20日 (土)

日本語への信頼(194)

文章を書けば誰でも「ジャーナリスト」なのか

 

 危険を冒して戦場に出かけて、その有様を伝えようとする人の中には、強い信念に支えられた人がいる一方で、単に売名行為のような人もいると言われています。それらは、一括してジャーナリストと呼ばれるのが常です。

 それだけではなく、スポーツ・ジャーナリストとか料理ジャーナリストとか芸能ジャーナリストとかを自称する人も増えています。ジャーナリストに際限はないようです。

 最近では、文章などをほとんど書かずに、テレビで喋っているだけの人をもジャーナリストと呼ぶようです。

 かつて文筆家と言っていた人をカタカナで書けばジャーナリストになるのでしょうか。ジャーナリストという言葉はずいぶん便利な言葉のようです。

 鳥越俊太郎さんは、なぜ名詞の肩書は、ジャーナリストでなく、「ニュースの職人」なのかと問われて、次のように答えています。「人生の贈りもの わたしの半生」という連載記事の初回です。

 

 米国では権力者が国民の税金を正しく使っているか、しっかり監視する人をジャーナリストと呼ぶんです。日本では、権力の監視をしない人までジャーナリストと言う。本当の意味が理解されていないんですよ。そんなあいまいな肩書は使いたくないんです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月15日・夕刊、3版、3面)

 

 鳥越さんはかなり限定した意味で使っていますが、そこまで行かなくても、ジャーナリストという言葉は厳格な意味で使うべきだと思います。

 何でもかんでもジャーナリストだ、何でもかんでも評論家だというような使い方にブレーキをかけるべきですが、それができるのは一般の人々ではありません。情報を毎日毎日流し続けている新聞や放送が自制をしなければ、この傾向はますます進んで行ってしまうでしょう。

 

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2016年2月19日 (金)

日本語への信頼(193)

アナウンスは「生」のもの

 

 人と人とが顔を合わせて、お金のやりとりをして品物を渡す。人に注意を促すときには自分の声を使って話しかける……。そんな当たり前のことが失われていく社会です。

 自動販売機でものを売るのが優勢になると、本来の販売を「対面販売」などと言って、特殊なことであるかのように表現したりします。

 駅のアナウンスは、臨機応変の内容も加えて生の声が当たり前であったのが、差し支えのない限り録音に切り替えられていきます。

 私の最寄り駅は私鉄の小さな駅ですから、もともとアナウンスなどはありませんでした。停車する電車の車掌が、車外(ホーム)向けにアナウンスをしていました。それが、電車の接近や、通過・停車の別、また発車後の注意なども自動で行われるようになりました。望ましいことです。

 けれども、乗降客の多いターミナルでは、取り澄まして自動放送で済ませるわけにはいかないと思います。

 たとえば、次の記事のような状況です。

 

 名鉄名古屋駅は狭く、線路が2本、ホームも三つしかない。発着する電車は2分おき。1日900本以上にのぼり、そのたびに生の案内が響く。 …(中略)

 集中力を必要とするため、1回に担当するのは、30分から1時間。多い日は、これを3~4回繰り返す。多い時は、1日で100回ほどアナウンスする計算だ。「無事故で終えた時に、喜びを感じます」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月15日・夕刊、3版、2面)

 

 この記事には、「駅構内の生アナウンス 1日100回」という見出しが付いています。「凄腕つとめにん」という企画記事です。

 ここでは、「対面販売」と同じように、録音されたものを放送するのが主体になって、そうでないものを「生アナウンス」と言おうとしているように思われます。

 私の感覚では、駅のアナウンスは「アナウンス」であって、「生」などという言葉を付ける必要はないと思います。自動放送を「放送」と言えばよいと思います。

 新交通システムでは運転士がいない形で営業しているところが多いのですが、もし運転士が乗り合わせる必要が生じたら「有人運転」などと言って、特別視することになるのでしょう。

 どこまでも、生身の人間の影が薄くなっていく社会のようで恐ろしくなってきます。これから、ますますロボットがのさばる世の中になっていくにつれて、「生」が貴重な存在になることは確かですが…。

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2016年2月18日 (木)

日本語への信頼(192)

新聞の自己宣伝

 

 下に引用する「天声人語」の書き出しの2回分は、一見すると似たようなものに見えます。けれども、ここには意図が大きく異なるものを感じます。

 

 ライバル紙ながら、脚本家の倉本聰さんが毎日新聞に連載しているコラム「林中無策」を楽しみにしている。先月はこんなことをお書きだった。日本という車にはブレーキもバックギアもない。ダッシュボードについているのは「経済指標」という巨大なメーター一つのみであると。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月9日・朝刊、13版、1面)

 

 他紙の記事を転載することはできませんから、このように書くしかありません。他紙のコラムを称賛するのですから、心地よさを感じます。

 同じように、自分の新聞に載っていないことを紹介する文章ですが、次の文章には、まったく異質な意図を感じてしまいます。

 

 七曜とは1週間の曜日のことだが、太陽と月に火・水・木・金・土の5惑星を合わせた名称でもある。このうち太陽を除く6星を一枚に収めた未明の写真が、本紙デジタル版に載っていた。勢ぞろいで並ぶ姿を、愛知の藤井哲也さんが撮影した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月17日・朝刊、13版、1面)

 

 どうして自紙のデジタル版のことを紹介しなければならないのでしょう。そんな紹介をするのなら、その内容をきちんと記事にして伝えるべきでしょう。記事にする価値がある内容なのではないでしょうか。紙面に載せないで紹介するというのは、宣伝であるに過ぎません。デジタル版を読むように誘導しているのです。

 ついでながら、夕刊1面に「読まれた5 朝日新聞DIGITAL」という欄があります。どうして1面に、こんな宣伝を載せなければならないのでしょう。

 

 ①殺陣の稽古中、腹に模造刀刺さり男性死亡 東京の劇団

 ②早大生に愛され34年、洋食店「エルム」歴史に幕

 ③「鞆の浦」埋め立て計画、広島県が正式断念

 ④クリントン氏のメール551通公開 出馬辞退求める声も

 ⑤因縁の真田昌幸役オファー「驚いた」 草刈正雄さん語る

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月16日・夕刊、3版、1面)

 

 このような記事を読むことが読者の欲望であるのなら、新聞は紙面でその願いに応える義務があるでしょう。

 朝日新聞DIGITALを宣伝材料にするのではなく、紙面改善の大きな指標にしなくてはなりません。新聞は「読者の要望に応えて」というような言葉を口にします。単なる慣用句でなく、真剣に考えなければなりません。

 ただし、上記のランキングの①②は、関西の読者には関心が薄いでしょう。大阪本社は東京の受け売り記事を転載するのではなく、地元に密着したものを目指さなくてはなりません。

 

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2016年2月17日 (水)

日本語への信頼(191)

新聞記者の書く数字

 

 ニュースは、何かというと数字を取り上げます。人出が何万人、利益が何億円…。新聞にとってのニュースの価値は、数字で表現できるものに傾斜しているのかもしれません。特に好きなのが金額のようです。年間賞金獲得額がその人間の価値そのものを表しているかのように、何億円!と騒ぎ立てます。学問や研究のことでも数字で驚かせようというような傾向は否めません。

 冒頭が次のような数字から始まるコラムがありました。「葦 夕べに考える」という欄で、編集委員という肩書きの人が書いています。

 

 1万5680冊、180万9063ページ、11億3197万6745文字。奈良文化財研究所のホームページにある公開データベース、「全国遺跡報告総覧」に収録された発掘報告書のデータ量だ(2015年12月現在)

 これはほんの一部。全国の報告書の総数は20万冊とも言われ、144億文字を超える計算になる。都道府県や大学、研究機関などの図書館が収蔵してきたが、膨大さに悲鳴が上がり始めた。「発掘報告書はもう送らないで」と研究機関に通知する県立図書館もあるという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月15日・夕刊、3版、14)

 

 第1段落に書かれた、奈良文化財研究所のホームページにある公開データベースのデータ量に意味があるとしても、その後の「144億文字」という計算に何の意味があるのでしょうか。数字にこだわる記者なら、1日10万字ずつ読んでいっても、全部読むのに何百年(あるいは何千年)かかる、というようなことを言い出しかねません。数字をもてあそぶだけのことです。

 読者が、実感として知りたいのは、そんな馬鹿げたことではありません。都道府県や大学、研究機関などの図書館が膨大さに悲鳴を上げ始めたというのなら、その報告冊子を横に並べたら何メートルになるとか、全部並べるためには何十坪(あるいは何百坪)の書庫が必要になるとかということです。そうでなければ図書館の悲鳴は実感できません。

 このコラムの見出しは「報告書も遺跡になるか」となっています。膨大な報告書が、形だけの遺跡(利用されない書類の山)になるという危惧は理解できます。図書館が受け入れを拒否するような、無駄な出版物なら、予算や労力をかける必要もないというのが、普通の国民の感情ではないでしょうか。データベースにおける公開ですませられるのなら、それで十分でしょう。

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2016年2月16日 (火)

日本語への信頼(190)

むしろ「三千里」と言ってほしかった

 

 大きな写真とともに「南部の梅 千里の香」という見出しの記事が社会面に掲載されました。

 

 南高梅の産地で知られる和歌山県みなべ町の「南部梅林」で、例年より1週間ほど早く梅が見頃を迎えている。山の斜面に「一目百万、香り千里」と言われる白い花が咲き誇り、待ちかねた観光客らが梅の間を散策していた。梅の里梅観協会によると、来週いっぱいまで楽しめるという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月12日・夕刊、3版、11)

 

 ニュース記事の全文です。普通に読めば、何の不思議も感じない文章のようです。そして、翌日にこんな「訂正して、おわびします」が掲載されました。

 

 12日付「南部の梅 千里の香」の記事で、「一目百万、香り千里」とあるのは「一目百万、香り十里」、見出しの「千里の香」は「十里の香」の誤りでした。また、「梅の里梅観協会」とあるのは「梅の里観梅協会」の誤りでした。確認が不十分でした。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月13日・夕刊、3版、8面)

 

 もとの文章と同じぐらいの長さの訂正の文章です。「確認が不十分」と言うけれども、これは初歩的なミスの積み重ねです。どれだけの人が訂正記事に気づいたでしょうか。写真の付いた記事の方がインパクトは強いのですから、南部の梅を「香り千里」と覚え込んだ人はたくさんいたでしょう。なにしろ、桜に比べて、梅の花の香りはとても強いのです。

 桜で有名な吉野山でも「一目千本」ですから、南部の梅の「一目百万」はスケールが違うキャッチフレーズになっています。(一目に見える梅の木が百万本なのではなく、梅の花が百万輪なのでしょうか。)

 たいへんな誇張の「一目百万」なら、「十里の香」ではなく「千里の香」という言い方も成り立つかもしれません。むしろ「十里の香」は、「千里」どころでなく、「三千里」でもよかったと思います。誇張表現として「白髪三千丈」とか「美姫三千」とかの言い方が使われます。「三」という文字には「たくさん」という意味があります。「三千里の香」となれば、もはや文学の世界です。

 新聞などで使われる言葉が、人々に大きな影響を与えるのは周知の通りです。南部の梅について「千里の香」という言い方を広めた功績が朝日新聞にあると、後世に言い伝えられるのも面白いのではないかと、皮肉りたくもなります。

 

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2016年2月15日 (月)

日本語への信頼(189)

一日に2つの「天声人語」

 

 お酒を飲む口実は、さまざまだ。英国の古い詩人は書いている。〈酒を飲むべき理由は、五つばかりだ。/うまい酒があるから。友人と一緒だから。/のどが渇いたから。……そして最後には/どんな理由でもよかろう!〉と。

 詩人アーサー・ビナードさんの本紙寄稿文から引いた。きのう金曜、夜の巷で「世紀の初観測」を肴に杯を挙げ、重ねた向きもあったろうか。人類もやるもんだ-。自分の手柄でもないのにどこか気分壮大になる。科学史上の大ニュースである。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月13日・朝刊、13版、1面)

 

 「天声人語」が面白くなくなったということは、これまでにも書きました。朝日新聞自身もそういうことを話題に取り上げていました。けれども、退化すれども進化の兆しは見えません。

 この日の文章の第1段落に引用されている話題は、酒を飲む口実は「どんな理由でもよい」ということです。

 そして第2段落以下は、重力波が初めて観測されたという話になるのですが、第1段落に書く話題は「どんな話でもよい」という感じで、まったく必然性(関連性)がありません。つながりは、「杯を挙げる」という一点だけですから、文頭の話題と文末の話題との首尾一貫性もありません。

 

 同じ日、もう一つの「天声人語」が掲載されました。

 

 二十一世紀のある日、どこかでたぶんこんな会話があるだろう。「前世紀の車はすさまじい騒音をふりまく化け物だったらしい」「沿道の人はたまらなかったろうね」「しかも排ガスをまきちらしてね」「信じられないなあ」。そのころは、車とは静かで排ガスのないもの、というのが通り相場になっているはずだ。

 本紙「声」欄に「マラソンの報道関係の車を電気自動車にできないものか。排ガスの包囲陣は選手に迷惑」という投書があった。もっともな意見だと思う。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月13日・朝刊、10版、5面、広告特集)

 

 「天声人語がみた70年 今日を写す。時代が映る。」という企画広告に掲載された文章です。この日〔1986(昭和61)2月17日〕の「天声人語」の話題は電気自動車で一貫しています。冒頭だけを引用しましたが、じっくりと全体に読み応えがある文章です。読んで、考えさせられます。こういうような文章を、私は高校の国語の授業でも取り上げました。

 重力波を話題にした「天声人語」は、何も考えずに読み流したらおしまいです。考えさせようとしていないのですから、深みがありません。毎日毎日、このような軽い文章を読まされています。中学生や高校生に読ませる価値は希薄です。宣伝して「天声人語」のノートまで売り出す商魂を見せていますが、こんな文章を、書き写して参考にしなさいと言うつもりはありません。

 まさに「コラムの〈今日を写す〉」、「執筆者の〈時代が映る〉」ということを痛感します。寂しい限りです。

 かつてに比べて今の「天声人語」は字数が少なくなっているというのは理由になりません。少なくて困るのなら、字数を増やせばよいのです。面白くない「天声人語」を読まされる側がいい迷惑です。読むだけで、考える糧を与えてくれない文章は教材にはなりません。

 字数が少なくなっているのに、まったくと言っていいほど無関係なことをマクラに書いて字数を稼いでいる書き方にも腹が立ちます。若い人たちが新聞から離れていくという現象の象徴のようにも感じます。声高にNIEを唱えるのなら、改善の手始めは「天声人語」からではないでしょうか。

 

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2016年2月14日 (日)

日本語への信頼(188)

お尻に付く「超」を捜索する

 

 前回の話題を書いていて、ふと思いついたのですが、お尻に付く「超」という文字の誤用や悪用の具体例に注目してみたくなりました。見出しだけではありません。文章中に現れる「超」もターゲットになります。

 こんな変化(堕落?)を思い浮かべてみました。

 

()外国為替レートが、「110円」前後であるとき、例えば109.9円になったときに「110円超」と書くのでしょうか。例えば110.1円になったとき「110円超」と書くのでしょうか。上り坂のときと下り坂のときとは違うでしょうが、今は「110円台」「109円台」と書いています。それを、「超」を使って書くときが来ないとも限りません。

 

()今は、例えば「110円超」という書き方が一般的であるようですが、そのうちに、「円」と「超」を入れ替えて、「110超円」という書き方が現れないとも限りません。放送ではそんな書き方は許されませんが、新聞では、ちょっとした不注意から現れそうな気がします。耳で聞くと、「110ちょうえん」は「110兆円」にもなってしまうのです。

 

()今は、数字の後ろに「超」が付いていますが、そのうち、数字以外の言葉に「超」が付く例が現れるかもしれません。いや、もう既に現れているのかもしれません。例えば、並はずれた力を持つ高校生のことを「高校生超級」と言ったりして、その「超級」の「級」を省いて、「高校生超」とか「高校超」とかになったり…。

 

()ほんのわずかの数字だけ超えていても「超」と書いています。ずいぶんと超えたときはどう表現するのでしょう。「超」が定着したあかつきには、「100円超々」などという文字が出現するかもしれませんね。かなり先のことになると思いますが。

 

 いずれにしても、お尻に付く「超」は、たいていの場合は「くせ者」だろうと思います。そんな先入観を持って捜索してみようと思います。大物を捕まえられたときには報告をします。

 

 

 

 

 

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2016年2月13日 (土)

日本語への信頼(187)

頭に付く「超」、お尻に付く「超」

 

 新聞の見出しに、毎日のように「超」という文字が見られます。たった一文字ですから見出しに押し込むことができるようで、なんとも気軽に使われています。

 

 倒壊マンション なお110人超不明

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月8日・夕刊、3版、1面)

 

 「超不明」というのはどういう不明なのですか、よっぽど珍しい不明の状況なのですか、と皮肉も言いたくなります。記事には、「建物にはまだ110人以上が閉じこめられているとみられ、」とあります。「以上」という2文字を端折って「超」という1文字にしているのです。勝手な使い方です

 

 一時金 満額なら258万円超

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月9日・朝刊、13版、6面)

 

 記事には、「トヨタ自動車労働組合が2016年春闘で要求する一時金(ボーナス)が、組合員平均で年258万円超となることがわかった。」とあります。見出しだけでなく、記事にまで進出させています。放送では「258万円ちょうとなる」というような馬鹿げたアナウンスはしないでしょう。しかも、この「258万円超」はたとえ1円でも超えれば、こういう言い方になるのでしょう。

 

 高松道を迷走2時間超

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月10日・夕刊、3版、11)

 

 記事には、「香川県内の高速道路を約2時間15分にわたり、一部逆走しながら行ったり来たりし、」とあります。ちょっとでも超えたら「超」と書きたいのでしょう。この「超」は一種の誇張表現なのでしょうか。

 

 これらの見出しのような場合、かつては「超」などは使わずに、「なお110人不明」「満額なら258万円」「迷走2時間」というように書かれていたはずです。おおまかであっても、それで用が足せていたのです。「超」を付けることによって厳密さが増したとは思えません。

 これらの見出しの「超」は、単純に、「超える」という意味で使っているに過ぎません。けれども、本来は「超」という一文字で表す意味には、他とかけ離れているとか、程度がはなはだしいとかの意味があったはずです。それを、すこしでも超えれば「超」と表現するのは、あまりにも無神経です。

 頭に付く「超」は、例えば「超一流」とか「超特急」とかで馴染みがあります。しかし、お尻に付く「超」は、新聞社の悪癖によって広がりかねない現象です。新聞が日本語を乱す先頭に立つことだけはやめてほしいと思います。

 

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2016年2月12日 (金)

日本語への信頼(186)

どうして「ベテラン」や「鉄人」ではもの足りないのか

 

 「ことばの広場 校閲センターから」という欄が、「レジェンド」という言葉を取り上げていました。その文章の一節にこんなことが書かれていました。

 

 トレーニングや栄養学などの研究が進んだことで、従来なら引退して当然の年齢でも「ベテラン」「鉄人」といった呼び方では物足りない活躍をする選手が現れるようになりました。その代表格の葛西選手によって海外からもたらされた「レジェンド」が、原語よりも限られた意味合いで受け入れられた、と言えそうです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月10日・朝刊、10版、13)

 

 この文章には、報道に携わる人たちの、特有のものの考えが色濃く現れていると思います。

 その一つは、「『ベテラン』『鉄人』といった呼び方では物足りない」と思っているのは読者ではなく、報道に携わる側の人ではないかということです。「ベテラン」「鉄人」という言葉であっても、ずいぶんな褒め言葉です。それ以上の言葉へとエスカレートしていくのは報道関係者です。自然発生的に「レジェンド」が使われ始めたわけではありません。

 二つ目は、「海外からもたらされた『レジェンド』」と述べていますが、その言葉に飛びつくのは報道に携わる人たちです。報道によって人々は、その言葉や用法を知るのです。海外からもたらされても、報道関係者がその表現を使うか使わないかはしっかり判断すべきだと思います。自主性の欠如が現れているように思います。

 三つ目は、「原語よりも限られた意味合いで受け入れられた」と言っていますが、人々が「レジェンド」を素晴らしい言葉であると思って「受け入れた」かどうかはわかりません。何度も何度も聞かされ読ませられるから、覚えてしまったというのが現実ではないでしょうか。よい言葉もよくない言葉も、垂れ流すかのように繰り返して使っているのが報道関係者であるのです。

 私は葛西選手自身が観客に向かって「(私を)レジェンド(と言っていい)か」などという言葉で呼びかけているテレビ画面を見たことがあります。選手本人にそんな言葉遣いをさせてしまうのは、報道機関の姿勢が本人にまで反映してしまった結果だと思いました。何とも後味の悪い画面でした。

 「報道者魂」というものが、「報道者の魂胆」に堕落してしまわないようにと願わざるを得ません。

 

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2016年2月11日 (木)

日本語への信頼(185)

朝の挨拶で「お疲れさま」と言われたら

 

 一日の仕事が終わってわかれるときの言葉「ご苦労さま」は目上に向かって言うべきではないということが強く叫ばれたことがありました。それではどう言うべきかという答えが「お疲れさま」でした。

 「お疲れさま」が新鮮に聞こえていた時期はあります。けれども、しだいに、一日が終わっても自分はそんなに疲れていないぞ、と反発したくなるような気持ちに変じてきました。

 「ご苦労さま」はどちらかというと心身ともへのねぎらいのように聞こえますが、「お疲れさま」は身体に比重がかかっているようも感じます。心身ともへのねぎらいの方がレベルが高いように感じるのです。目上・同輩・目下を意識しなければ、「ご苦労さま」のほうが望ましいと思います。「ご苦労さま」は本当に、目上に使ったら失礼になるのでしょうか。

 それにしても、上の話題は、何かが終わったときに掛け合うことばのことです。

 鷲田清一さんの連載コラム「折々のことば」を読んで、驚きました。

 

 お疲れ様です。

      メールの書き出し

 メールの出だしによくこうある。「みんなそんなに疲れてるの? 疲れたって認めたらもう踏んばれないよ」と返したくなる。疲れが人に蔓延してしまう。たぶん「とりあえずビール」と同じで、本番に向けて力むことなく助走するための符号みたいに使われているのだろう。でも元は、他者をねぎらうことで自分を励ましもすることば。せめて用件を伝えた後に書きたい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月10日・朝刊、13版、1面)

 

 私は、「お疲れさま」という書き出しのメールをもらったことがありませんから、そんな習慣が生まれているとは知りませんでした。

 もらったら、たぶん腹を立てると思います。上に書いた「ご苦労さま」「お疲れさま」は何かが終わった後に交わす言葉のことです。朝の挨拶に「お疲れさま」と言われたら、人を馬鹿にしていると思いたくなるでしょう。文章の冒頭にこんなことを書かれても、同じ思いになります。鷲田さんの「せめて用件を伝えた後に書きたい。」という言葉に賛成です。

 たぶん、時や所や場面状況に応じて言葉を使い分けることを知らない者が、馬鹿の一つ覚えとして使う言葉なのでしょう。

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2016年2月10日 (水)

日本語への信頼(184)

「看板」とはどのような存在か

 

 前回の「辛口」について書いたときに、「看板」という言葉も使われていました。もう一度、引用します。

 

 NHK、テレビ朝日、TBSの看板報道番組の「顔」が、この春一斉に代わる。番組の一新、本人の意思など事情はそれぞれだが、政権への直言も目立った辛口キャスターがそろって退場していくことに、懸念の声が上がっている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月2日・朝刊、13版、29)

 

 題字の下の「素粒子」という欄にこんな言葉がありました。

 

 かたや看板アナウンサーの名調子。こなた天をにらむ迎撃ミサイルの全国中継。どちらも日曜日の現実とは思えず。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月8日・夕刊、3版、1面)

 

 珍しい言葉ではありませんが、「看板報道番組」や「看板アナウンサー」の「看板」という言葉の使い方は、小型の国語辞典では、あまり注目されていません。

 例えば、「岩波国語辞典・第3版」では、看板は「①商店・劇場などが(その建物の正面などに)、屋号・広告などを書いて掲げ、通行人の目につくようにした板。転じて、人の注意を引くための題目、スローガン。②飲食店・酒場などが、その日の営業を終えること。」となっています。①の意味は、上の記事の使い方とはずれています。

 他の国語辞典を見てみますと、「現代国語例解辞典・第2版」「旺文社国語辞典・改訂新版」「精選国語辞典・新訂版」にも、この用法に該当する説明がありません。

 「三省堂国語辞典・第3版」は「〔看板に名前が書かれる〕スター級の俳優、芸人。」となっていますが、その対象となる範囲が狭いようです。

 やっと納得できそうなのが、次のような説明です。

 

 「明鏡国語辞典」……人の注意を引き評判を得るためのもの。

 「新明解国語辞典・第4版」……屋号・取扱い商品名など、客商売の店などで人目に付くように示すもの。〔その組織で最も人気が有り、客寄せに役立つ存在の意にも用いられる〕

 「広辞苑・第4版」……人の注目を集めて、自慢の種となるような人や事柄。

 

 上の新聞記事に現れた「看板」という言葉は、「人の注意を引き評判を得るための」「客寄せに役立つ存在」であり、「人の注目を集め(るためのもの)」なのでしょうか。そのような目的を持って努力を続けている途上の人を「看板」と言うのでしょうか。

 それとも、「広辞苑」の説明の後半にある「自慢の種となるような人や事柄」にまで達した、すなわち一定の結果や成果を得た人のことを「看板」と言うのでしょうか。

 辞典の説明が揺れていますから、判断は難しいのですが、私には後者の方、すなわち、押しも押されもせぬ存在になった人やものを「看板」と言いたいと思います。

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2016年2月 9日 (火)

日本語への信頼(183)

気に入らないものは「辛口」の範疇に入るのか

 

 「辛口キャスター降板相次ぐ」という見出しの記事がありました。こんな文章が書かれています。

 

 NHK、テレビ朝日、TBSの看板報道番組の「顔」が、この春一斉に代わる。番組の一新、本人の意思など事情はそれぞれだが、政権への直言も目立った辛口キャスターがそろって退場していくことに、懸念の声が上がっている。 …(中略)

 昨年9月、安保法案が参院特別委員会で可決されたことを、「私は強行採決だと思います」とコメントした古舘さんなど、降板するのは辛口で知られたキャスターたち。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月2日・朝刊、13版、29)

 

 この記事は、見出しに「辛口」という言葉を使った割には、本文にはわずかしか使われていません。けれども記事全体に、辛口という言葉のもつ語感が散りばめられています。

 国語辞典の意味としては「辛口」とは、手厳しいこと、辛辣なことです。少しも容赦がない様子を表す言葉です。

 例えば井戸端会議のような雑談の場であっても、手厳しいことを言う人はいます。教育の場では、辛辣に聞こえるような言葉で指導することが必要な場もあります。

 けれども、上の新聞記事のような場合には、「辛口」に特別な意味が付与されているように思います。

 そのうち国語辞典は、「辛口」の意味として、政権に向かって直言すること、体制に逆らうこと、というような意味を書かなければならなくなるかもしれません。

 報道機関を政党が文書で批判する時代になっています。気に入らないものはすべて「辛口」の範疇に入ってしまうのかもしれません。

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2016年2月 8日 (月)

日本語への信頼(182)

「6人」はほんとうに「三々五々、集まった」のか

 

 はじめに、質問をします。

 ①「ひとりふたりと、集まってきた。」という文を読んだとき、ここには最少で何人ぐらいの人が集まったと想像しますか。

 ②「三々五々、集まってきた。」という文を読んだとき、ここには最少で何人ぐらいの人が集まったと想像しますか。

 最大では何百人も集まってよいのですが、①の場合は最少で数人ないし10人程度、②の場合は最少でも十数人から20人以上はほしいと思います。

 つまり、「ひとり」と「ふたり」の合計3人ではこの表現にそぐわないし、「三人」と「五人」の合計8人ではおかしいと思います。「三々五々」の場合は、「三」や「五」が繰り返されるのですから、最低で3+3+5+5=16は必要でしょうが、本当はもっともっと多いイメージです。

 だから、次のような文章を読んだとき、筆者は「三々五々」という言葉の意味や用法を理解しているのかという疑問を持つのです。

 

 1月の金曜日の夜、東京・渋谷駅近くの貸し会議室に、LINEで連絡を取り合った高校生6人が三々五々、集まってきた。机に菓子パンやペットボトルが並ぶ。 …中略…

 30分遅れて、都立高校2年のあいねさん(17)がやってきた。マネジャーを務めるサッカー部の練習後に駆けつけた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月4日・朝刊、10版、19)

 

 「いま子どもたちは」という連載の、この回の冒頭部分です。「1月の金曜日の夜」に集まったメンバーは、これ以上には増えなかったようです。

 「ひとりふたり」も「三々五々」も、具体的な数字を思い浮かばせる言葉です。実際に、一人、二人、三人、五人というかたまりで集まってくる様子を思い浮かべます。「三々五々」集まってきた合計人数が7人というのは滑稽です。

 言葉は無造作に使うものではないと思います。

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2016年2月 7日 (日)

名寸隅舟人日記(10)

黒い白鷺城の思い出

 

 『世界遺産姫路城を鉄骨でつつむ。-よみがえる白鷺城のすべて』(2025年3月25日、文藝春秋発行)という本を読みました。5年半に及ぶ「平成の大修理」を終えて、公開されたときに発行された本です。写真や文章で大工事のことを記録しています。

 工事期間中は、大天守が鉄骨で包まれて、大きな屋根で覆われていました。白鷺の名にふさわしく、覆いも白いものでした。その覆いには実物大の姫路城が描かれていました。工事中の5年半の間には、1年のうちにも何度も何度も姫路へ行く機会がありました。そのたびに工事中の姫路城の写真を撮りました。記録しようなどという意図ではなく、親しんだ姫路城の姿を撮らずにはおれなかったのです。

 すっぽりと覆われた鉄骨の内部にはエレベーターが設けられ、普段にはたどり着けないようなところへ運んでもらって、工事の様子を見ることができました。何かを記念する日であったと思いますが、無料で見ることができる日があって、私はその日に行きました。ガラス越しに作業の様子を見せてもらいました。

 工事が終わって、すべての覆いが取り払われたとき、人々は城の白さに驚きました。違和感を覚えた人もあったほどですが、屋根の瓦の一枚一枚に施された白漆喰が鮮やかで、これこそ白鷺城の名そのものでした。

 私は、修理中の黒い印象の姫路城も見ています。工事中に黒い構造物で覆われていたのは「昭和の大修理」のときです。この時の修理は1956(昭和31)から8年間にわたったそうです。私は1961(昭和36)4月に大学に入学し、一般教養課程の1年半を姫路に通いました。旧制姫路高等学校の校舎を新制大学が引き継いで使っていました。なぜか工事現場に近づいた記憶はないのですが、毎日、姫路城を仰ぎながら通いました。

 その後、1975(昭和50)4月からの9年間は、姫路の高等学校に勤めることになりました。駅からのバスはあるのですが、よほどのことがない限り、姫路城の足元を歩いて、城の少し北にある学校に通いました。校舎からも姫路城は間近に見えました。

 あの時代に毎日眺めていた城に比べると、あまりにも鮮やかな白さです。けれども、年を経るにつれて、白鷺城は時の風格を身にまとっていくことになるでしょう。

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2016年2月 6日 (土)

名寸隅舟人日記(9)

周りのあちこちに住吉神社

 

 私の小学校時代は、同じクラスに自分と同じ苗字の友達が何人もいました。小学校のときは、苗字ではなく、下の名前で呼び分けていました。その呼び名はいまだに続いていますから、今となっては嬉しいことです。自分の苗字だけではなく、他の苗字にも何人かずつの同じ苗字の友達がいました。古くから続いている地域ですから、当然のことなのです。

 私たちの氏神さんは、前回に書いたように住吉神社です。周りにいくつもの住吉神社がありますから、人々は、魚住住吉神社(または、中尾住吉神社)と言って、他の住吉神社と区別しています。私たちの地域は、住吉神社の密集地です。

 10年近く前に、全国の7万9千の神社を祭神に注目して分類した研究のことが報じられていました。その記事(朝日新聞・大阪本社発行、2007年2月22日・朝刊、10版、15)によれば、最も多いのが八幡神社で7817社ですから10%の占有率です。以下は、伊勢、天神、稲荷、熊野、諏訪、祇園、白山、日吉、山神と続いて、ここまでがベストテンです。住吉神社は16番目で、591社だといいます。地域の傾向もあって、伊勢は東日本に、天神は西日本に多くあるそうです。

 密集度が高いと思っていた苗字と同じように、住吉神社も全国的に見れば少ないのです。大阪の住吉大社は関西ではよく知られた神社ですし、住吉という名前のJR駅は神戸市内にあります。住吉さんは、関西にシフトした神社なのでしょう。

 私たちの地域には魚住住吉神社の他に、神主さんのいない小さな神社もあります。八幡さん、天神さん、蛭子(えびす)さんの3つです。八幡、天神は上述のように多く存在しますが、「えびす」さんは全国で408社だそうです。西宮(ゑびす)神社は広く知られていますが、全体としては少ないのです。もっとも、私たちの地域にある八幡、天神、蛭子の小さな3神社は、7万9千社の中に数えられていないでしょう、きっと。

 魚住住吉神社は農耕神の性格とともに海上安全の神でもあるようです。

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2016年2月 5日 (金)

名寸隅舟人日記(8)

節分から立春へ

 

 節分の豆をだまつてたべて居る   尾崎放哉

 どこで手に入れた豆なのか、誰が持ってきてくれた豆なのか、放浪の俳人・放哉も節分には豆をかじっていたようです。

 地球の気候や寒暖が怪しくなってきているとは言えど、冬から春への歩みは確実にやってきます。節分とは季節の変わり目で、もともとは立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれの前日のことを言っていたようですが、今では立春の前日のことのみが口の端に上がります。 神社の宮総代の一人を務めている関係から、魚住住吉神社でお祓いを受け、湯立て神事に臨み、その後、神社の古い能舞台から豆まきをしました。袋入りの豆だけでなくビスケットのようなお菓子も混じっています。まき散らす豆などを子どもたち、大人たちが歓声を上げてつかみ取ってくれます。

 節分も立春も寒さが厳しくない日々でした。八十八夜も二百十日も、立春から数えての日数です。いよいよ春の区切りを迎えました。

 ただし、今年の2月4日は、旧暦では1226日です。旧暦の元日は2月8日です。昔の人は、12月の末に春分を迎えたことを、「年のうちに春は来にけり」(旧年のうちに立春になった)と言いました。立春と元日がぴったり一致することは珍しいことですから、こういうこともよく起こります。

 梅の蕾もふくらんできました。半月後には二十四節気の雨水を迎えます。私の住むところでは、今年は、積雪とは無縁の冬となってしまうかもしれません。

 

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2016年2月 4日 (木)

名寸隅舟人日記(7)

球春が近づく

 

 節分を過ぎて、二十四節気の立春を迎えました。ゆっくりと春が近づいてくるように感じます。春の90日間(9旬)を、季語では「九春」と言います。同じ発音で「球春」というのもありますが、こちらは季語にはなりきっていないようです。

 その球春、全国高等学校選抜野球大会の出場校が決まりました。

 私が高校生の頃は、明石市内には3つの高校がありました。県立明石高校、市立明石南高校(のちに県立移管)、市立明石商業高校です。明石高校(旧制明石中学の後身)は明石-中京の25回戦として今も語り継がれる学校で、春・夏の甲子園には何度も出場しています。明石南高校もかつての夏に県代表として甲子園に出ました。そして、今回、明石商業高校が昨年秋からのめざましい戦績により、選ばれました。今では明石市内の高校数も増えましたが、かつての3校がすべて甲子園に歩を進めたことになります。

 神戸市内の、旧制中学校の伝統を受け継ぐ学校のうち神戸高校(神戸一中の後身)、兵庫高校(神戸二中)は旧制中学の時代からの出場歴があります。そして、今回、21世紀枠で長田高校(神戸三中)が選ばれました。旧制では四中まであったのですが、そのうち三中までが甲子園の土を踏むことになります。

 私は、明石高校の卒業生で、3年生の夏に兵庫県代表として同級生が活躍しました。夏休みそっちのけの応援でした。宮崎大淀高校、戸畑高校を破って意気が上がりました。相手は九州ばかりで準々決勝で鹿島高校(佐賀県)に敗れましたがベスト8に入りました。私は教員として神戸高校にも勤めました。

 まるで仲間のように感じる明石商業高校、長田高校がそれぞれ初出場として甲子園で戦います。今年の球春は、これまでとは少し違った思いで、高校生たちに声援を送ろうと思います。

 

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2016年2月 3日 (水)

日本語への信頼(181)

「街づくり」とは何か

 

 まるでこれまでのものが無であって、これから新しいものが始まると言わんばかりのようで、うんざりする表現があります。

 県政を改革する、新しい市政を作り上げる、住みよい街づくりをする、人々を絆で結ぶ、などなど…、まるでこれまでが悪政に苛まれて、人々がバラバラであったように言う人がいます。私が当選したら世の中はバラ色になりますと宣伝する人もいます。

 言葉通りにはいくはずもありませんが、選挙などの時にはそのような言葉があふれています。似たような言葉は日常生活の中にも多く見られます。その一つが「街づくり」という言葉です。

 新聞の編集委員が執筆する「波聞風問」という欄に、京都の小学生と大学院生とによるワークショップのことが書かれていました。

 

 ワークショップを企画した京大の門内輝行教授も、「街づくりとは、専門家と市民が対話して、積み上げていく社会的なプロセスです」という。 …(中略)

 欧州では、子どものころから自らの街、都市の仕組みを学ぶ機会が多いと聞いた。市民として自らの街づくりに参加する。そのことが、将来も、その街に住みたいという気持ちを育むのではないだろうか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1月31日・朝刊、13版、6面)

 

 街づくりと言いますが、これまでに街がなかったわけではありません。ビジョンを描きながら、その街の望ましくない点を少しずつ少しずつ改めていくための営みを続けるというのが、実際の姿でしょう。

 この欄には「『お上の仕事』の意識変える時」という見出しが付いています。行政のトップに立つ人が努力しても、役所が音頭をとってもうまくいかないかもしれません。

 記事にあるように、専門家と市民が対話して積み上げていくのが望ましいのかもしれません。子どもを含めて若い人たちがビジョンを持つように意識づけることが大切なのでしょう。

 そして、そういう取り組みをするときには、「街づくり」などという、これまでに「街」がなかったかのような、否定的に感じられるような言葉は使わないでほしいと思います。人々も街も長い歴史を重ねてきているのです。

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2016年2月 2日 (火)

日本語への信頼(180)

「舌耕」という言葉の使い方

 

 話題が2つに分裂していると言うべきか、枕の話が長すぎると言うべきか、1月30日の「天声人語」は、鷽(うそ)という鳥の話が長々と続いて、真ん中あたりから特殊詐欺の被害額のことに話題が転じていきます。そして、最後の段落は次のような文章になっています。

 

 講談や落語など、しゃべり一つで生計を立てることを「舌耕(ぜっこう)」という。磨かれた芸は上手(うま)いほど楽しいが、二枚舌を研いで近づく詐欺師の口車には用心が要る。鷽も嘆く悪辣(あくらつ)なうそが、人間の世に絶えない。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1月30日・朝刊、13版、1面)

 

 この文章で見る限りでは「舌耕」という言葉は、楽しく話すことを芸事として、それによって収入を得るという意味に聞こえます。しかし、それはこの言葉の一面を述べているに過ぎません。「舌耕」と対になる言葉は「筆耕」です。

 この言葉は、小さな国語辞典では載せていないものがありますが、『現代国語例解辞典・第2版』は「講演、講義などの弁説によって生計を立てること。」と説明しています。『新明解国語辞典・第4版』も「講演行脚などをして、生活の資金を得ること。」となっています。もともとは、芸能のことをいう言葉ではなかったはずです。

 『広辞苑・第4版』では次のような説明になり、やっと講談という言葉が現れます。

 

 講義・講演・演説・講談など弁舌によって生計を立てること。

 

 『日本国語大辞典』は次のような説明で、講談を最初に挙げています。

 

 講談・演説・講義などの弁説によって生計を立てること。

 

 けれども、ここで言う講談は、講義や演説と並べられるものであって、口車の面白さをねらったものではありません。講談とは、さまざまな歴史的な出来事などを独特の調子をつけて語り聞かせるものです。講談があるからといって、落語にまで範囲を広げることは行き過ぎだと思います。言葉を曲解してはいけません。

 本来の意味の舌耕をしている人にとっては、特殊詐欺をはたらく者たちと共通視されているようで、迷惑な話です。

 しかも、この文章の文脈からすれば「舌耕」という言葉をわざわざ持ち出さなくても、話をまとめることができるはずです。もう少し品格のある文章を書いてほしいとお願いをしたい気持ちになりました。

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2016年2月 1日 (月)

日本語への信頼(179)

その人の心理を表現するということ

 

 時代物のドラマを書いている立場から、言葉の問題の悩ましさについて、「三谷幸喜のありふれた生活」という連載コラムで述べられていました。

 

 目の前に突然、見知らぬ男が現れて、凄いテンションで何かまくし立て、こちらが質問しても答えてくれず、そのまま走り去ってしまった後に、一人残された主人公がつぶやく。「なんなんだよ…」 …(中略)

 この「なんなんだよ」を時代劇で書いたら、きっと「ふざけるな、三谷」と言われるに違いない。だが、時代劇風に「なんなのでござる」に直しても感じが出ない。「なにやつ」では意味が違ってくる。「なんなんじゃ」は許容範囲だが、やはり「なんなんだよ」に含まれる、理不尽さへの細やかな怒りが薄い。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1月28日・夕刊、3版、5面)

 

 時代ドラマに対して、台詞が現代的すぎるという批判があることについての、ひとつの反論の形で書かれています。

 この時代にはこんなことを喋らなかったはず、とドラマを見ていて感じることは確かに多いのです。それとともに、その時代の言葉で「なんなんだよ」に符合するものが見つからないという悩ましさも理解できます。

 しかし、そのことをもう少し考えてみると、次のようなことに気づきます。その時代において、現代人が「なんなんだよ」と言いたくなるような心理状態に置かれることがごく自然であったのかということ、あるいは、仮に「なんなんだよ」という心理に置かれたとしてもすぐさま言葉でつぶやくことが当時の人々の普通の姿であったのだろうかということです。

 シナリオを執筆する人は、登場人物に何かの言葉を喋らせないといけないという気持ちになるのでしょう。けれども言葉遣いが、時代がかっているとか現代風であるとかという以前に、昔の人がそんなに饒舌に言葉を発していたであろうかという観点も大事であると思うのです。もしそうだとすれば、そのような心理状態は表情やしぐさに委ねなければならないということになるでしょう。

 ドラマという作り物の中では、現代劇、時代劇の区別なく、あまりにも言葉のやりとりが多すぎるということを感じます。ドキュメンタリー作品で、登場人物が言葉を選ぼうとして時間が経過し、その後にポツリと発する言葉に重みがあるというシーンを見ると、ドラマが時間の制約の中で都合よくまとめ上げようとするお手軽さを感じることがあるのです。

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