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2016年3月31日 (木)

【掲載記事の一覧】

 3月は「日本語への信頼」だけの連載を続けました。

 神戸や姫路でも桜が開花し、あと数日で満開を迎える頃になりました。華やかな季節の始まりです。最近は写真の掲載をあまり行っていませんので、このあたりで桜の特集でもしたいものだと思っています。

 4月は「奥の細道を読む・歩く」という連載を始めたいと思っています。4月13日に、深川から北に向かって歩き始めます。1か月に3泊4日を1回というペースで歩きます。江戸時代の5街道はまったく一人で歩きましたが、今回は同い年の同行者がいます。どんな旅になるか楽しみです。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでに連載した内容の一覧を記します。

 

◆日本語への信頼 ()(230)~継続予定

    [2015年6月9日開始~ 最新は2016年3月31日]

 

◆名寸隅舟人日記 ()(14)~継続予定

    [2016年1月1日開始~ 最新は2016年2月27日]

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(1998)~継続予定

    [2009年7月8日開始~ 最新は2015年6月8日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)~継続予定

    [201310月1日開始~ 最新は20131031日]

 

◆名寸隅の船瀬があったところ ()() 終了

    [2016年1月10日開始~ 最新は2016年1月14日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)~継続予定

    [2012年9月20日開始~ 最新は2013年9月5日]

 

……【以下は、連載を終了したものです。】……………………

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日開始~2015年3月31日終了]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58)

    [2015年4月1日開始~ 最新は2015年6月23日]

 

◆奥州道中10次 ()(35)

    [20151012日開始~ 最新は20151121日]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日開始~2014年4月12日終了]

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日開始~2010年3月10日終了]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日開始~2011年9月13日終了]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日開始~ 最新は2014年5月30日]

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日開始~ 最新は2014年5月9日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日開始~ 最新は2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日開始~ 最新は2013年8月28日]

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日開始~20071212日終了]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日開始~2008年7月20日終了]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日開始~2009年9月10日終了]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日開始~2012年1月4日終了]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日開始~2012年5月3日終了]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日開始~2009年6月30日終了]

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日開始~20061231日終了]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日開始~2008年1月10日終了]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日開始~20061226日終了]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日開始~2009年6月4日終了]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日開始~2008年1月18日終了]

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日開始~2007年7月31日終了]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日開始~20081125日終了]

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日開始~2009年6月22日終了]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日開始~2009年5月8日終了]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日開始~2009年3月16日終了]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日開始~20081113日終了]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日開始~20081215日終了]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日開始~2007年6月30日終了]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日開始~2010年1月3日終了]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日開始~2012年7月8日終了]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日開始~2011年6月1日終了]

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日開始~2008年9月24日終了]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日開始~200610月4日終了]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日開始~20061011日終了]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日開始~200611月2日終了]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日開始~2007年6月6日終了]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日開始~2007年8月10日終了]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日開始~2007年7月7日終了]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日開始~20071030日終了]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日開始~20061015日終了]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日開始~2007年8月20日終了]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日開始~2007年9月12日終了]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日開始~2007年9月29日終了]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日開始~200612月7日終了]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日開始~2007年5月7日終了]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日開始~20061222日終了]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日開始~2007年8月27日終了]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日開始~2007年8月30日終了]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日開始~2012年9月19日終了]

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日本語への信頼(230)

方言の日常会話を記録する

 

 河北新報の電子版によると、コラム「河北抄」の3月25日に次のような文章が載っています。

 

 東日本大震災の被災地における、何げない日常会話を記録する取り組みが、東北大方言研究センターによって進められている。その成果は「生活を伝える 被災地方言会話集」にまとめられた。2012年から気仙沼市と名取市で収録を続け、今月末には第3集が出る。

 震災後、人口の流出が進む被災地。もともと近所の人同士を結びつけていた方言は、コミュニケーションの機会が減少する中で、ますます語られなくなっている。ある意味では、被災地における方言も危機的な状況を迎えているのだ。

 「復興には物質的なものだけでなく、文化も戻ってこなければいけない。その根本は言葉だ」と同センター教授の小林隆さん。方言を記録することが、被災地の再生に役立つことを願っている。

 

 ここで述べられていることに、全く異議はありません。大賛成です。

 言葉は話し手がいても、刻々と変化します。その話し手が欠けていけば、方言の存続にとっては大きな痛手になります。

 東日本大震災、とりわけ原発事故については健康面や経済活動への打撃が深刻で、被害額や補償額のことが話題になります。金額に表すことのできない打撃として、忘れてはならないのが文化への影響です。とりわけ、言葉の世界の変化の大きさです。

 方言は一つ一つの単語などを記録することも大切ですが、生の形で、すなわち実際の会話の姿を記録することの方がもっと大切だと思っています。日常会話を記録する取り組みは大学だけに任せておいてよいとは思いません。特定の地点だけの調査で終わってはならないと思います。国も地方自治体もこのことを真剣に受け止めてほしいと願っています。

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2016年3月30日 (水)

日本語への信頼(229)

売る人のために値切る

 

 前回の続きです。

 「おまけ」には、金額を差し引くことと、ものの量を増やしたり別のものを渡したりすることとがあります。値引きにしても増量などにしても、売る側はそのことを見越して定価を決めているのは当然でしょう。

 量産されるものではそういうことでしょうが、それが一点物とか骨董とかになると事情は少し違ってくるようです。

 落語家の六代・桂文枝さんが、こんな文章を書いていました。

 

 アイリス・アプフェルさんは、アメリカのインテリアデザイナーです。 …(中略)… 世界をまたに精力的に買い付けに回っては、倉庫の中には高価なものから、リーズナブルなものまで所狭しと置かれているのです。ファッションも個性的な彼女ですが、超高価なものでも気にいればポンと買うのかと思えば、安いものでも自分が高いと思えば値切ります。

 「むやみに値切るわけじゃない。でも値切らないと逆に失礼な場合もあるのよ。『50ドル』と言われて50ドル払えば、店主は落ち込む。『言い値を払うバカが相手なら、150ドルと言うべきだった』と」

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月28日・夕刊、3版、6面)

 

 値切って適切な価格に落ち着くと、売る側も買う側も気持ちがよいという話に、妙に納得したのです。

 値引きすることを「勉強する」とも言いますが、売る側も買う側も商品知識を高めて、時には値引きしたりするのが、本当の「勉強」なのかもしれません。

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2016年3月29日 (火)

日本語への信頼(228)

「おまけ」と「おつとめ品」

 

 小学生の頃の雑誌といえば、小学館の『小学〇年生』や光文社の『少年』が思い出されます。学習研究社の『〇年の学習』は書店経由でない販売であったように思います。「ふたば」という出版社から『小学〇年』というのも出ていたように思いますが、あまり強い印象はありません。その他には『冒険王』『少年画報』『少年倶楽部』などの名も頭に残っています。

 ところで、雑誌の魅力は付録にありました。『少年』の先進的な付録は魅力でしたし、『小学〇年生』は付録の数が多いのが楽しみでした。「六大おまけ」とか「八大付録」とか言っていたように思います。子どもの頭の中では「おまけ」という言葉の響きが嬉しいものでした。

 鷲田清一さんの連載コラム「折々のことば」で、ある商店の貼り紙の言葉として、「恒例 まける日」を取り上げていました。

 

 漫画家の吉田戦車さんはこの貼り紙を面白がる。「まける」は値引くこと。売る側がわずかながら損をするからだ。「おまけ」は「お敗北」。買う側は得した気になるが、実は「自分の物欲に負け、メーカーの企業努力に負けている」。売る側は「かなわんなあ」と言いながら本当は勝っている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月27日・朝刊、13版、1面)

 

 植原路郎さんの『明治語録』(明治書院、19781025日発行)に、「おつとめ品」という項目があって、次のように書いてあります。

 

 いつもごひいきになりありがたいという心持ちをこめての特売品。明治の商人気質を現している。今の大廉売とは精神が違う。  (同書57ページ)

 

 ついこの間まで使われていたと思う「おつとめ品」という言葉は、今ではすっかり見なくなったように思います。買う人に「おまけする」とか「おつとめする」という考え方ではなく、売る方が「投げ売りする」とか「捨て値で提供する」とかいう考えに転換してしまったように感じます。「バーゲンセール」などという言葉は、あくまでも「売る」ためのものであって、「買っていただく」ものではないのでしょう。

 

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2016年3月28日 (月)

日本語への信頼(227)

「異例」の文章

 

 夕刊の1面トップ記事で、大規模こども園について書かれていました。

 

 大阪府阪南市で市立の4幼稚園と3保育所を全廃し、旧家電量販店を改修した600人規模の認定こども園をつくる計画が進んでいる。異例の場所と規模に驚いた子育て中の母親らは反対の声をあげたが、関連予算は市議会を通過。 …(中略)

 市の計画では、国道に面した旧ヤマダ電機阪南店(鉄筋2階建て、延べ約6800平方メートル)を買収し、0~5歳児約630人が通う幼保連携型認定こども園を整備。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月26日・夕刊、3版、1面)

 

 上の引用で「異例の場所」というのはわかります。家電量販店を改修してどのようなものができあがるのか疑問が涌きます。また、記事によれば阪南市は「人口約5万6千人」ですから、そこに認定こども園が1か所というのは送迎が大変だろうと推測できます。

 ところが、「異例の規模」というのは、どこにも説明されていません。中学校や高校ではあるまいし、こども園に600人というのは直感的には多すぎると思います。けれども、幼稚園や保育所の全国の平均的な人数がどれほどであるのか、実際に600人規模のものが全国にはあるのか・ないのか、記事には書かれていません。

 仮に、別の日の、別の記事に書いてあったとしても、一つの完結した記事の中にも書くべきで、それが欠落した文章となっています。訂正ではなく、補充説明が必要な記事です。

 

 さて、もう一つ「異例」な記事を見つけました。「訂正して、おわびします」という記事です。

 

 24日付社会面「あの日の宣誓、今も胸に」の記事で、5年前の選抜高校野球大会で選手宣誓した創志学園の当時の主将野山慎介さんが、24日の試合を「テレビで観戦した」とあるのは「阪神甲子園球場で観戦した」の誤りでした。確認が不十分でした。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月26日・夕刊、3版、8面)

 

 なんとも詳しい訂正の文章です。この程度の誤りは新聞記事では日常茶飯事であろうと推測していましたから、こんな些細なことを訂正することに「異例」(異常)を感じました。何かの事情が絡まっているのかもしれませんが、この程度の訂正記事をすべて書いたら、新聞の1面が、毎日のように埋まってしまうのではないかと思います。

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2016年3月27日 (日)

日本語への信頼(226)

かゆいところに手が届かない文章

 

 ずいぶん昔、私が子どもの頃は電気料金がメーター制でないときがありました。電灯の数がいくつあるかによって料金が決められていたように思います。電球が切れたら近くにある関電の営業所に行って電球を交換してもらいました。そのお使いに行った経験がありますから、よく憶えています。だから、メーター制になって(と言うよりは、自分の家が定額制からメーター制に変えて)自由な使い方ができるようになったときは、嬉しかったものです。

 さて、「葦 夕べに考える」というコラムで、社会部長が筆者になっている文章を読みました。

 

 1カ月の電気代は185円-。そんな究極の節電生活を送っている同僚の自宅を訪ねた。

 斎藤健一郎記者は名古屋市内の築百年を超す民家を借りて妻の亜紀さんと暮らしている。電力会社との契約は最小の5アンペア。エアコンも電子レンジもドライヤーも使えない。どんな極貧生活を送っているのかと思いきや、2人は不便さを逆手に取り、むしろ楽しんでいた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月25日・夕刊、3版、12)

 

 「1カ月の電気代は185円」というところに引かれて読み進めましたが、よくわからないことがあります。5アンペアの契約だそうですが、5アンペアというのは100ボルトで500ワットのことだと思います。ということは、この契約は同時に使う電気器具の合計が500ワット以内であれば、24時間使い放しでも185円で済むのでしょうか。基本料金というものがなくて、185円ぽっきりというのは魅力です。

 住まいが名古屋市内ということなので、中部電力のホームページを見てみました。5アンペアの契約というのは書かれていませんでした。契約電流が10アンペアで、ひと月につき280.80円と書いてありました。理解が行き届きません。280.80円という支払が可能なのか、また、10アンペア以外に、特別に5アンペアという契約があるのか、わかりません。

 コラムの文章は何年も前のことを書いているのでしょうか。かゆいところに手が届かない、知りたいことがきちんと書かれていない文章の見本のように感じました。

 間違ったことが書かれていないのなら、もうすこし表現の工夫が必要です。間違ったことが書かれているのなら、訂正が必要でしょう。

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2016年3月26日 (土)

日本語への信頼(225)

写真の訂正

 

 最近は、新聞記事に添えられた写真の説明が簡略になったり省略されたりすることが多くなったように思います。その写真がいったい何のために載せられているのか、どこで、いつ撮影された写真であるのかがわからないような場合があります。

 「大阪も春が咲いたよ」という見出しの記事には、比較的大きな写真が掲載されていました。文章は次のように書いてあります。

 

 大阪管区気象台は23日、大阪市で桜(ソメイヨシノ)の開花を観測した、と発表した。職員が午前10時ごろ、同市中央区にある大阪城公園西の丸庭園の標本木で5輪の開花を確認。平年より5日早く、昨年よりも3日早い。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月23日・夕刊、3版、1面)

 

 この記事の横に並んでいる写真は、どこで、いつ撮影されたかの説明はありませんでした。記事と写真が並んでいるから、その2つは関係があるのだろうと推測するしかありません。

 さて、翌日に「訂正して、おわびします」という記事が出ました。次のように書いてあります。

 

 23日付1面「大阪も春が咲いたよ」の桜開花の記事につく写真は、ソメイヨシノではありませんでした。確認が不十分でした。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月24日・夕刊、3版、14)

 

 理屈から言えば、この訂正記事は不必要です。写真は大阪城公園西の丸庭園のソメイヨシノであるとはどこにも説明されていなかったのが23日の記事ですから、訂正のしようがありません。(もし、訂正をするのなら、写真説明が抜け落ちていたことを詫びて、写真説明をしなければなりません。)

 23日の記事の文章には間違いはないと思います。だから、訂正は必要ではありません。写真と記事が一体のものであると思うから「訂正」をしたのでしょうが、写真説明の言葉がなければ、記事と写真が一体であるとは判断できないのです。要するに、編集がいいかげんであったということだけは断言できます。

 

 さて、写真の「訂正」はどのようにして行うべきものなのでしょうか。捏造の写真であるのなら、取り消すしかありません。(訂正は不可能です。)

 単純なミスであるのなら、正しい写真を掲載することでしょう。しかし、一過性のものを写したのなら、再現が不可能なこともあります。(この場合も、訂正は不可能です。)

 少なくとも、写真の花がソメイヨシノでないのなら、それは何の花であったのかということぐらいは書かなければ、説明責任を果たしたことにはなりません。

 要するに、写真の場合は、文章の「訂正」とは性質が異なるということを認識しなければならないと思います。

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2016年3月25日 (金)

日本語への信頼(224)

「その嘘、ほんま?」

 

 小学生の頃、相手が言った言葉に対して、「その嘘、ほんま?」と問い返す言い方が広まっていたことがあります。相手の言ったことを一旦は「嘘」だと決めつけておいてから、「もしかしたら、ほんとうなのか」と問い返すのです。

 これはかつての子どもたちの言葉の遊びに過ぎませんが、現在の大人の世界は虚言に満ちあふれていますから、「ほんま?」と問い返したくなることはいくらでもあります。

 

 「靴屋『店じまい』 ほんまにほんま」という大きな見出しの記事がありました。

 

 「もうあかん やめます!」の垂れ幕を掲げながら、長年営業を続けた名物店が消える。大阪市北区の靴店「シューズ・オットー」。 …(中略)… 経済の荒波にもまれながら、ユニークな宣伝文句で客を引きつけたが、 …(中略)… 今月20日、ほんまにほんまの店じまいとなる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月4日・夕刊、3版、9面)

 

 黄色いテントに「店じまい売りつくし」という赤い文字を書き続けてきたが、本当に営業終了を迎えるというのです。毎日毎日「店じまい」と言うのはご愛敬であって、この宣伝文句に怒りを持った人は39年間で2人だけだそうです。

 いったんは引退しておきながら、まだまだ動いているということは世の中にはいくらもあるようです。

 「これが本当のラストラン」という見出しの記事もありました。

 

 昨年3月に引退し、その後ツアー客専用の臨時列車として復活した人気寝台特急「トワイライトエクスプレス」が22日、最終運行を終えた。JR大阪駅には約千人のファンが集まり、名残を惜しんだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月23日・朝刊、13版、38)

 

 定期列車の最後と、臨時列車の最後とを言っているのですから、嘘を述べているわけではありません。

 けれども、「ほんまにほんま」とか「本当の」という言葉を見ていると、虚偽や捏造があふれている現代社会の中で、本当のことは強調して「ほんま」であり「本当」であると言わなければならないようになってしまっているのではないかと思いたくもなります。

 無邪気に「その嘘、ほんま?」と言っていた時代が懐かしく思い出されます。戦後10年ぐらいの時期は、人を陥れてやろうなどと考える人も少なくて、油断をすれば騙されるというような世相ではなかったように思われるのです。

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2016年3月24日 (木)

日本語への信頼(223)

俳壇と歌壇の言葉の違い

 

 週に1度ずつ掲載される、俳句や短歌を選んだ特集ページで、気になっていることがあります。朝日新聞の場合は俳句、短歌ともに4人の選者が10句、10首ずつ選んでいます。そして、欄末にそれぞれの選者の「評」の言葉があります。

 短歌の場合、選ばれた歌を評するときに「第一首」「第二首」…という言葉が使われ、一人の選者だけは「〇〇氏」「〇〇さん」と言っています。

 それに対して俳句の場合は、一人の選者は「一席」「二席」…と言い、別の選者は「第一句」「第二句」…と言い、さらに別の選者は「一句目」「二句目」…と言い、残る選者は「〇〇氏」と言っています。(例えば、朝日新聞・大阪本社発行、3月21日・朝刊、10版、11)

 「一席」「二席」…は上位のものから並べてあるのかもしれませんが、他の選者は必ずしもそのようになってはいないという印象を受けます。

 いくつもの作品が並んだときに、それぞれの作品を指し示す言葉に慣習のような呼び方があるのか、ないのか、そのあたりのことがよくわかりません。短歌の方はまとまりがあるように感じられるのに対して、俳句の方には自由さが感じられます。それは、たまたま、それぞれ4人ずつの傾向であるのか、俳壇・歌壇全体の状況に由来するものなのか、些細なことなのですが、ちょっと気になり続けています。

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2016年3月23日 (水)

日本語への信頼(222)

捏造が常習となっているテレビ番組

 

 例えば記者会見をしているときの中継映像に、実際にはなかったヤジの音声を入れたとすれば、捏造を行ったとして大きな批判がされることでしょう。現実には、そのようなことは起こっていません。

 けれども、そのような場面でないときには、テレビ局はたいへんな捏造を平気で行っています。その傾向が拡大していけば、ニュースや科学番組にも波及しかねないと思います。画面では特に面白く感じられないのに、笑い声やヤジめいた言葉をやたら大きく流すということが、娯楽番組の枠を越えて広がりつつあるような懸念を持ちます。

 テレビのプロデューサーにインタビューした記事がありました。

 

 昔は「プロポーズ大作戦」も「8時だョ!全員集合」も、まずは目の前の大勢のお客さんを笑わせることに集中したものです。そうやって鍛えられ、面白いものができた。最近は、お客はせいぜい30人。笑い声は後から付け足す、という番組が目立ちます。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月23日・朝刊、10版、13)

 

 収録の場で実際に得た音声であれば、どんなに大きな音で流しても捏造ではありません。後から付け足す音は、どんなに小さな音であっても嘘に過ぎません。捏造が当たり前のことのように行われているのをプロデューサーが認めて、何の罪悪感も持っていないようです。

 図らずも、かつてのことについては「お客さん」と言い、今は「お客」と言い捨てています。現在のテレビは、そのようなものに成り下がってしまったのでしょうか。

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2016年3月22日 (火)

日本語への信頼(221)

まだ辞書になさそうな言葉

 

 「中二階」とは、建物の一階と二階の正規の階の途中に床を設けて作った、天井の低い階のことです。デパートなどで見たことがあります。歌舞伎の世界では女形俳優の異称として使われているようです。

 けれどもそれとは別に、二つのものに挟まれた、どっちつかずで、上にも下にも羽を広げられないような窮屈な存在という意味での使い方には、ときどき出会います。例えば次のような例です。

 

 九州の知事と財界人でつくる「九州地域戦略会議」は、道州制推進を訴えるシンポジウムを今年度で休止することに決めた。 …(中略)

 政府と市町村に挟まれた「中二階」をやめ、より大きな範囲をまかなう統治機構として道州に転換し、政府は外交や防衛に集中する構想は地方の経済団体が熱心に議論してきただけに、九州の休止は象徴的だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月20日・朝刊、13版、4面)

 

 これは「県」というものが「中二階」に喩えられています。カギカッコなどなくてもよいと思われる用例ですが、この意味が辞書には載せられていないようです。たぶん市民権を得ている使い方だと思いますから、辞書に載せる時期が来ているように思うのです。

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2016年3月21日 (月)

日本語への信頼(220)

新聞社の中央集権

 

 昨年3月に北陸新幹線が金沢まで開通し、まもなく北海道新幹線が開通します。北陸新幹線の大阪延伸や、リニア新幹線を名古屋止めでなく大阪までの同時開業などという、鉄道をめぐる議論が盛んです。

 そんなとき、「北陸新幹線 大阪延伸は必要か」という社説が掲載されました。

 

 ちょっと待ってほしい。巨額の建設費はどう捻出するのか。国の財政難や人口減を考えたとき、大阪延伸は喫緊の課題といえるのか。疑問は尽きない。 …(中略)

 敦賀-新大阪間は特急で1時間15分ほどだ。新幹線にすれば3040分短縮できそうだが、巨額に見合う効果といえるか。

 与党と地元には、「早期着工ありき」ではない議論を望みたい。そうでなければ、多くの国民の理解は得られまい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月7日・朝刊、10版、8面)

 

 さすが大阪の人は偉いと思いました。熱い議論を沸騰させるのでなく、大阪の人自身が頭を冷やして考えようという提案であると理解しました。

 さて、論説委員が書いている「葦 夕べに考える」というコラムに、こんなことが書いてありました。

 

 1945(昭和20)年3月の朝日新聞朝刊を見て、「おや?」と思った。「大阪にも敵の大夜襲」(15)、「敵機神戸にも夜襲」(18)。大阪本社版だけ東京本社版にない社説が載っている。

 今は大阪と東京で社説が違うことはない。中部(名古屋)、西部(九州)を含む4本社制になった40年以来の原則だ。なぜこのときは例外だったのか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月18日・夕刊、3版、12)

 

 社説はすべて東京と同じであるということであれば、2月7日の社説に感心する必要はありません。これは東京の視点で書かれており、東京からの新幹線は必要だが、北陸新幹線を大阪まで延ばす必要はないという、勝手な主張に過ぎないのです。

 日本全国が東京の感覚で左右されるというのは恐ろしいことですが、政治や経済の世界だけでなく、新聞もそのようになっているのです。「天声人語」の季節感は東京ローカルのものに過ぎず、論評も首都の感覚で貫かれているのです。

 これは朝日だけのことではなく他の全国紙も同じでしょう。地方紙も政治や海外ニュースは配信記事によっていますから同様です。けれども、地方紙の社説は違いますし、コラムも違います。地方の視点で書かれています。全国紙の社説やコラムは東京の押し売りです。大阪発祥の朝日は、とうの昔に東京の下請けをしていたことになります。

 全国紙でも、夕刊は地方色を出しています。朝刊は中央集権、夕刊は地方分権の傾向にあるのかもしれません。けれども、肝腎なところが東京一極集中で貫かれていたら、夕刊の努力は水の泡です。

 大阪本社の特色を出そうとしても、朝日の夕刊・社会面の場合、「葦 夕べに考える」の執筆者には論説委員も名を連ねていますが、日常茶飯事の感想に終始しているように思います。関西の独自性に立脚した、社説に対峙できるような論評にはなかなかお目にかかれません。また、「大峯伸之のまちダネ」という連載は4百数十回という回数だけが多くて、だらだらと生彩のない文章が続いています。似たようなことを繰り返し述べられたら、読む意欲も減退していきます。

 地方色を出して元気なのはスポーツ面だけというようなことになったら、全国紙の将来がもの悲しくなってしまいます。

 このように考えてくれば、前回の「上京語」という話も、軌を一にしたものであったと納得できるのです。

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2016年3月20日 (日)

日本語への信頼(219)

誰が名付けた「上京語」

 

 昨日は、「方言は効果的に使って、共通語の中に輸血していってほしい」と書きました。この「共通語への輸血」というのは、亡くなられた詩人の川崎洋さんの言葉ですが、共感してときどきは使わせてもらっています。

 週1回掲載される中村明さんの「ことばの食感」というコラムをいつも楽しみにしていますが、今回は「上京語の地方色」という見出しがついていました。

 

 「よい」という意味で「よか」と言えば九州出身かと思う。「いいけれども」という意味で「よかばってん」と言えばすぐに長崎出身の人を連想する。長崎抜天というユーモア作家のペンネームもあるほどで、「ばってん」は長崎の代名詞みたいになっている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月19日・朝刊、b3面)

 

 このあと、鹿児島、沖縄、京都、大阪の特徴的な言葉が紹介されていますが、どの言葉も、それぞれの地域以外に住んでいる人にもわかりやすい言葉ばかりです。つまり、それらの方言は、全国各地の人々に受け入れられて、共通語の文脈に取り入れてもよいと思われる言葉です。はじめに述べた表現を使えば、共通語に輸血するのにふさわしい言葉であって、既に輸血を終えている言葉もあります。

 気になるのは、そのような言葉を「上京語」と書いていることです。上京という言葉には上下の感覚があります。東京は、他の地域に比べて一段、上だと言わんばかりです。全国共通語と地域の方言との間には上下関係はありません。東京の山の手言葉をもとにして「標準語」としたのは便宜的なものでしかありません。

 日本語学や方言学に「上京語」という術語はありません。これは執筆者がつけた見出しでしょうか。本文には、「上京」という言葉も「上京語」という言葉もありません。記事を整理する人が不用意に使った言葉だろうと推測しますが、言葉の中央集権意識が、新聞社の中にも進んでいることを、図らずも露呈することになったと思います。

 もう一つ残念なことは、東京で勝手につけた見出しを、何の疑いもなく大阪本社もそのまま使っているということです。

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2016年3月19日 (土)

日本語への信頼(218)

「ちまい」に深い意味はない

 

 共通語で書かれている文章の中に方言を取り入れると、びっくりするほどの効果を見せる場合があります。その言葉が持つ意味や味わいの深さを活用すれば、印象に残る文章になります。

 さて、編集委員が書いている「ザ・コラム」という欄に、こんな文章がありました。

 

 昔はよかった、というのは好きではない。だが20年近く永田町を歩いていると、あの人がこんなことを、という取り組みをしている政治家に出会うことが結構あり、それが政治取材の面白さの一つだった。

 だが今は一本調子というか、意外感がないというか。我が身の小ささを棚に上げますが、「ちまいなあ」とため息をつくような光景ばかりです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月16日・朝刊、10版、14)

 

 見出しは、「政治家の器 ちまくなっていませんか?」となっています。「ちまい」が方言であることに疑いありませんが、その「ちまい」はどのような深みのある言葉なのかということに引かれたのが、この文章を読む動機でした。

 文章を読むかぎり、「ちまい」はごく普通の言葉でした。小さいということの他に特別な意味は加味されていないように思います。そうすれば、筆者の身についた方言というか、慣用語というか、そんなものが使われたに過ぎず、この言葉をわざわざ使う意味が見当たりません。この言葉は文章全体の中でここ一か所だけ使われ、それを見出し語に採用しているのです。

 『日本方言大辞典』で見ると、「ちんまい」とその発音が変化した言葉がいくつも並んでいますが、意味は、小さいということだけです。「ちまい」を使っている地点としては兵庫、島根、岡山、愛媛、高知の各県の地名などが挙げられていますが、唯それだけのことです。筆者がこのあたりの出身なのかという興味しか涌いてきません。

 方言は効果的に使って、共通語の中に輸血していってほしいと思いますが、下手な取り入れ方をすると、かえって嫌みに聞こえたりしてしまいます。

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2016年3月18日 (金)

日本語への信頼(217)

特定の一人を指す言葉

 

 例えば、次のような文章があります。

 

 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。  正岡子規

 俳人にとって悟りとはいつでも平気で死ねることではなく、生をひたすら愛でることであった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月16日・朝刊、13版、1面)

 

 鷲田清一さんの「折々のことば」というコラムは、まずその言葉を紹介し、作者名を記し、続いて評釈や感想が続きます。

 ここで使われている「俳人」という言葉は、俳人一般のことを言っているのではなく、正岡子規という俳人を指していることは明らかです。

 それに対して、事件を扱ったニュースなどでは、その人の人権に配慮してのことでしょうが、漠然とした表現をすることがあります。特定の個人を指さないような表現もあります。

 

 署によると、熊谷容疑者は15日未明、姫路市飯田のコンビニエンスストアの駐車場で、県西部の女性(21)と交際を巡って口論になった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月16日・朝刊、「神戸地域版」、13版△、26)

 

 兵庫県西部に住む21歳の女性は大勢いますから、極論すれば、口論の相手は特定されていません。「県西部に住む交際相手の女性(21)と口論になった」とすれば特定の人を指すでしょうが、「県西部の女性(21)(交際を巡って)口論になった」では特定の人を指しているとは言えないでしょう。ところが、新聞にはこのような表現が頻出しているのが現状です。

 ニュース報道では便宜上、そのような表現をしているのだと言われればそれまでですが、厳密さを欠く表現であることは否めません。

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2016年3月17日 (木)

日本語への信頼(216)

「ダブルミッシングリンク」地域という決めつけ

 

 「2016参院選 合区から()」と題する記事には、その地域に住む人にとっては厳しすぎる言葉が並んでいます。見出しには「県境が隔てる有権者意識」とか「途切れる交通 乏しい往来」とかの大きな文字が見えます。

 その記事の中には、こんな表現があります。

 

 高知県との境にある徳島県南部の町、海陽町。100キロ余り続く徳島・高知県境の東端に位置する。町内を走るJR牟岐線は中心部の海部駅で終わるが、町などが出資する第三セクター「阿佐海岸鉄道」のワンマンカーが、その先2駅分を南へつなぐ。終点は高知県東洋町の甲浦駅。1駅だけ県境を越え、線路はぷつりと途切れる。

 鉄道も高速道路もつながらない「ダブルミッシングリンク」地域だ。主に海沿いを片側1車線の国道55号が走るが、往来は乏しい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月13日・朝刊、13版、4面)

 

 「ダブルミッシングリンク」という言葉は誰が作ったのでしょうか。流布している言葉でしょうか。俗語であれ専門用語であれ何でも手軽に情報が得られるインターネットで調べてみても、それらしき言葉は出てきません。これは、この記事を担当した3人の記者たちが作り上げた言葉でしょうか。それにしても、あまりにも行き過ぎています。人を叩きのめすような悪意すらを感じてしまいます。

 「鉄道も高速道路もつながらない地域だ。」という言い方ではいけないのでしょうか。そんな言い方でも地元の人にはショックでしょう。それに、「ダブルミッシングリンク」という言葉で追い打ちをかけるのは、どういう意図があったのでしょうか。

 連日掲載されている「訂正して、おわびします」という欄で、意図を説明してほしいと思います。つまらないミスを訂正することよりも、このようなことこそ大きな問題だと思います。

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2016年3月16日 (水)

日本語への信頼(215)

老人力、大正力、昭和力

 

 専門編集委員という肩書きの人が執筆している「寝ても覚めても」というコラムは、1段が15行ほどで、5段にわたる文章です。文字ばかりで、コラム名のカットの他には写真も何もありません。そして、ただ一言の見出しがあります。「大正力は何思う」。

 老人力という、よく知られた言葉があります。老人もさまざまで、明治生まれは稀少価値があるでしょうが、大正生まれの人数も多いはずです。そして昭和生まれにもけっこうな年齢の人がいます。

 大正生まれの人の老人力はどんなにすごいものなのか。そして、その老人力をそなえた大正生まれは、今の世の中をどのように思っているのでしょうか。そんなことが書かれているのではないかと思って読み始めました。プロ野球の巨人球団が好きか嫌いかということから文章が始まります。

 少し読み進めると、どうも勝手が違うということに思い当たりました。文章は次のように展開していきます。

 

 元読売新聞の社長、社主で「大正力」とも呼ばれた正力松太郎氏は、最近は原子力発電を推し進めた人、として有名だが、球界からみるといまに続く巨人の前身球団を創設し、プロ野球の礎を築いた「プロ野球の父」だ。その大正力が巨人に対して残した遺訓の一つが「巨人軍は常に紳士たれ」だ。

 (毎日新聞・大阪本社発行、3月15日・夕刊、2面)

 

 こういう文脈になると、話は当然、選手の賭博問題の方に向かっていくのですが、なぜ正力氏に「大」をつけて、見出しにまでそれを踏襲しているのかがわかりません。

 正力氏の老人力では、遺訓が長く力を発揮するはずだと信じていたに違いありませんが、平成の若者力は、そんなものを大事に守っていこうということなど考えていないということなのでしょう。

 「大正力は何思う」という問題設定をするのなら、賭博問題ではなく、原発の問題をどのように考えるのかということを論じてほしかったという気持ちになります。「大」正力氏の原発に対する判断は、「大」と誉め称える価値があったのかということにもつながります。

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2016年3月15日 (火)

日本語への信頼(214)

「本当っぽい」という言葉を疑う

 

 「本当っぽい情報 信じていいの?」という小見出しの付いた記事がありました。AKB48の3人を相手にジャーナリストが語るという企画です。この見出しにある「本当っぽい」という言葉は、少女たちの言葉の中にあるのかと思いきや、まったく逆でした。

 

 向井地 ネットの情報でうそっぽいなと思うこともありますが、簡単に信じてしまうこともある気がします。だから、本当の話か確認してから、伝えるようにしています。

 津田 そうですね。新聞に書かれていると本当っぽいけどまだわからない、というふうに自分に言い聞かせた方がいい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月13日・朝刊、13版、2面)

 

 「まだわからない、というふうに自分に言い聞かせた方がいい」という意見に賛成です。「本当っぽい」などという言葉をジャーナリストが使っても、正しい日本語かどうか疑った方がいいのです。少女の使う「うそっぽい」は間違っていませんが、「本当っぽい」などという言葉は日本語に認められてはおりません。

 『逆引き広辞苑』(岩波書店、19921117日発行)を見ると、「っぽい」で終わる言葉が、「飽きっぽい、俗っぽい、気障っぽい、水っぽい、安っぽい……」などと、20語以上ありますが、ほとんどがマイナスの評価にあたる言葉です。プラス評価かもしれないと思うのは「艶っぽい」ぐらいです。

 「嘘」は名詞ですから「うそっぽい」は成り立つでしょうが、「本当」は形容動詞の働きをするのが主たる役目です。「本当っぽい」などという変な日本語を使わないでいただきたいと思います。

 たとえジャーナリストが言った言葉であっても、正しい日本語に改めるのが新聞記者の役割でしょう。迎合して小見出しに使うのは、もってのほかです。

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2016年3月14日 (月)

日本語への信頼(213)

「までい」な政治が望まれる

 

 方言のコラムに、こんな文章が載っていました。

 

 飯舘村では震災以前から、豊かな自然と人とのつながりを大切にした〝までいライフ(MADAY LIFE)〟を提唱し、村づくりに取り組んできていた。ゆったりした生活を提案する「スローライフ」の飯舘版だ。震災で中断せざるを得ない村民の悔しさは、想像に余りある。

 「までい」とは、「手間ひまを惜しまず」「丁寧に」「じっくりと」といった意味を表す方言。東北を中心に使用地域は全国に散在している。

 (読売新聞・大阪本社発行、3月11日・夕刊、3版、6面)

 

 古語に由来するこの言葉は、東北地方のあちこちで、少しずつ異なった意味も持ちながら、大筋は記事に書かれているような意味で使われているらしいことは『日本方言大辞典』を見ればわかります。

 小林金次郎さんの『福島県の方言』(西沢、1972年1月20日発行)にも、「まてい(までえ)」という語形で、丁寧という意味が書かれ、浜通り、中通り、会津地域で使われていると記されています。飯舘村だけでなくこの地域一円で馴染まれていた言葉であるようです。

 人のつながりが薄らいでいくと、言葉(方言)も使われなくなっていくかもしれません。「までい」という言葉を核にした村づくりが挫折するのは残念なことです。国の政治こそが「までい」な取り組みを継続しなければなりません。

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2016年3月13日 (日)

日本語への信頼(212)

高校野球と入学試験

 

 こんなタイトルを付けましたが、教育を論じようとするのではありません。あくまで言葉の問題です。

 選抜高校野球は組み合わせ抽選も終わり、開幕を待つばかりとなりました。晴れの大会に臨むのは、全国のたくさんの学校から選ばれた、ほんとうに一握りの32校です。

 選抜高校野球の「選抜」という言葉は、たいていの辞書が、「多くの中から、ある基準にしたがって、選び抜くこと」と説明しています。その通りだと思います。

 ところで大学や高校の入学試験は、正式にはどのような名称なのでしょうか。こんな記事がありました。

 

 大阪府内の公立高校で10日、2016年度入試の一般選抜が行われ、約5万2000人が挑んだ。全日制は4万3475人の募集に対して5万264人が出願し、平均倍率は1・16倍。

 (読売新聞・大阪本社発行、3月10日・夕刊、3版、10)

 

 大部分の受験生が合格し、不合格者は全体の人数のうちのわずかです。しかも各学校が、定員に対して合格者を決めますから、全体を貫くような基準はないでしょう。「選抜」という言葉にそぐわないと感じます。入試という言葉には抵抗感はありませんが、選抜という言葉はあまりにも大げさであるように思います。

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2016年3月12日 (土)

日本語への信頼(211)

「保母」と「男子会」と

 

 夕刊のコラム「よみうり寸評」に次のような文章が載っていました。

 

 女性だけの職場とされていた乳幼児保育に男性の進出を認めるとき、まずは資格の名称でもめたらしい。

 世間に広く認知された「保母」は残そう。しかし「男性保母」はおかしい。ではどうする?…と。最初は「保父」を推す声が出たが、性別を資格に並べるのはよくないとつぶれ、それに次ぐ案が「保氏」だったという。 …(中略)

 90年の法改正で「保育士」となるまで男性の資格名はないも同然で、増えなかった理由もわかる。

 (読売新聞・大阪本社発行、3月10日・夕刊、3版、1面)

 

 職業名・資格名に、敬語を思わせる「保氏」という言葉を思いついたというのはいただけませんが、「保育士」「看護師」の「士」と「師」の使い分けは、どうも十分には理解できません。

 ところで同じ夕刊に、「男子会 生きがい再び」という見出しの記事がありました。

 

 男同士が気兼ねなく語り合う中高年の「男子会」が増えてきた。そこで生きがいを見つけたという、一人暮らしの男性に会った。 (中略)

 大阪府河内長野市の公民館会議室に、6080歳代の数十人が三々五々と集まる。

 (読売新聞・大阪本社発行、3月10日・夕刊、3版、2面)

 

 よく使われている言葉の「女子会」は懇親会のようなものの参加者がたまたま女性ばかりであるということに過ぎないのではないでしょうか。

 男性ばかりがメンバーであれば「男子会」という言葉を使うというのは、「保母」「保父」と区分けしようとする考えに重なるような気もします。

 しかも、「6080歳代」の男性の集まりを「男子会」と言って報道するのは、きちんと言葉を吟味していないような気持ちになります。

 

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2016年3月11日 (金)

日本語への信頼(210)

 

四十雀の耳の力と訓練

 

 「四十雀のつれ渡りつつ鳴きにけり」は原石鼎の句です。四十雀は留鳥ですから樹木の多いところで普通に見ることができます。

 『俳句の鳥・虫図鑑』(成美堂出版、2006年4月10日発行)は、四十雀の鳴き声を次のように表記しています。

 

 「ツッチー、ジュクジュク」などと鳴き、「ツッピー、ツッピー、ツツピーツツピー、ツピツピツピ」などと繰り返してさえずる。    (同書、91ページ)

 

 さて、「シジュウカラ、単語で作文 / 鳴き声の語順聞き分け」という見出しの記事がありました。

 

 野鳥のシジュウカラは鳴き声の「単語」を二つ組み合わせて「文」をつくり、その「語順」を聞き分けて意味を理解している、とする研究成果を総合研究大学院大の鈴木俊貴博士兼研究員らのチームがまとめた。 …(中略)

 シジュウカラは10種類以上の鳴き声を組み合わせて多様な鳴き方をするとされる。鈴木さんらは、野外に置いたスピーカーから、危険を知らせる「ピーツピ」と、仲間を呼ぶ「ヂヂヂヂ」という2種類の録音を流し、周囲にいたシジュウカラの行動を観察した。

 21羽のうちの大半が「ピーツピ」単独では首を振って周囲を警戒し「ヂヂヂヂ」単独ではスピーカーに近づいた。二つを組み合わせた「ピーツピ・ヂヂヂヂ」では、多くが盛んに首を振って警戒しながらスピーカーに接近した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月9日・夕刊、3版、8面)

 

 聞く人によって、鳴き声のカタカナ表記はさまざまですから、録音によってその音を確かめるしかないかもしれませんが、鳴き声の様子はわかります。

 面白いのは、鳴き声のまとまりを「単語」と言い、その順番の入れ替えを「語順」と言い、それの組み合わせを「作文」と言っています。いずれも人の言語能力のなぞらえた言い方に過ぎませんが、小さな鳥にそんな力があるというのは面白いことです。

 四十雀にそのような力がもともとそなわっていたのかもしれませんが、スピーカーでそのような音を繰り返し流すということが、鳥の能力の訓練に役立ったのかもしれないとも思いました。

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2016年3月10日 (木)

日本語への信頼(209)

もう一つの「棚牡丹」

 

 長田弘さんの『ことばの果実』(潮出版社、20151015日発行)は、苺、甘夏、スイカ……と、ひとつひとつの果実や花実についての短いエッセーを集めた本です。その中の「牡丹」に、こんな一節が書いてありました。

 

 棚から牡丹餅という江戸のことわざは、よく知られるように、思いがけないよい運にめぐりあうこと。しかし、棚から落ちた牡丹餅という、もう一つの江戸のことわざはあまり知られていない。意味は、「つぶれたぼたもちのように醜い顔つき」(『故事ことわざ辞典』東京堂出版)

 棚から牡丹餅か、棚から落ちた牡丹餅か。今日のわたしたちはどっちの顔つきをしているだろうか。 (同書、100ページ)

 

 「棚から落ちた牡丹餅」というのは知りませんでしたが、『成語林』(旺文社、1992年9月20日発行)には、「棚から落ちた牡丹餅」が上記のような意味で載っていました。

 「棚から牡丹餅」の項には、「全く努力しないで幸福を願う安易な態度のいましめとして、『棚から牡丹餅は落ちて来ない』『棚の牡丹餅も取らねば食えぬ』といったことわざもある。」と書いてありました。

 おいしい牡丹餅も、棚から落ちてつぶれてしまえば醜いもの。かつての球界のヒーローも、道を踏み外して墜ちてしまえば侘びしい存在になります。ちょっとした言い方の違いで、表裏の意味を併せ持つことわざの含蓄は深いようです。

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2016年3月 9日 (水)

日本語への信頼(208)

「離合」という言葉

 

 言葉について、時々、びっくりするような情報に接することがあります。中国新聞のコラム「天風録」の3月4日の文章がそれでした。

 

 「離合」が方言と知る人はどれほどいたのか。本紙社会面におととい載った福山市の景勝地、鞆の浦のこぼれ話である。車が何とかすれ違える所にある「離合可能」の路面標示にぽかんとする観光客が目立つらしい。

 手元の三省堂国語辞典には、なるほど「(九州・山口などの方言)すれちがうこと」とある。東国からの客がそれほど増えている証しだろう。

 

 「離合」というのは、離れたり合わさったりすることです。離合集散という4字熟語があります。政党の派閥などが離合することもあります。

 路面標示ではありませんが、「離合場所」という表示を播磨地方でも見たことがあります。単線の鉄道では列車の行き違いを「離合」と言っていることは昔から知っていましたから、道路交通のことに使ってもおかしくはないだろうと思っていました。しかし、播磨地方では広く使われている言葉ではありません。

 びっくりしたのは、それが(九州・山口などの方言)と書いてあるということです。日本方言大辞典などで調べてみましたが、そのようなことは見つかりませんでした。鉄道に関しては全国的に使われている言葉でしょうが業界用語であるのかもしれません。ある地域で路面標示にまで使われるというのは確かに地域的な特徴であるような気もします。

 大和言葉でなく、漢字の熟語の場合は、ある地域で盛んに使われていて、他の地域ではあまり使われない(ただし、皆無ではない)という現象が起こりうると思います。「離合」の使い方も、その一つなのでしょう。

 有料駐車場のことを、関西を中心にして「モータープール」と呼ぶのはよく知られている事実です。短く「プール」とだけ言うこともありますし、「バイク・プール」というのもあります。「モータープール」は東海地方など、周辺地域への広がりを見せ始めているようです。

 「離合」も、九州・山口だけでなく、広島県や播磨(兵庫県)で使われ、さらに広がっていってもおかしくはないでしょう。

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2016年3月 8日 (火)

日本語への信頼(207)

「落としどころ」を探り、「ねじ込ませる」

 

 自動車の税制をめぐる攻防を伝える記事に、こんな表現がありました。

 

 自工会の池史彦会長(ホンダ会長)12月2日に額賀氏を訪れて改めて先送りを求めるなど、減税派はぎりぎりまで粘った。

 そこで額賀氏は、新税の詳細決定を先送りしない代わりに、自動車税など別の減税方針を大綱に書き込む落としどころを探り、「税負担の軽減」に触れた一文を大綱にねじ込ませた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月7日・朝刊、10版、4面)

 

 「落としどころ」という言葉は、いつごろから使われるようになったのでしょうか。利害が相反する者同士で、なんとか探り出した、納得できるところが「落としどころ」という言葉のようです。これまでなら、「妥協点」とか「折衷したところ」とか、あるいは「決着点」と表現されていたのであるかもしれません。双方が互いに十分な納得はできないけれども、仕方なく折り合ったところのようです。

 ところが、「妥協」「折衷」「決着」などという言葉に対して「落としどころ」はどうも品位に欠ける言葉です。議論や交渉を「積み上げ」た結果なのに、「落とす」とは、なんとも無造作な印象はぬぐい去れません。

 「落としどころ」の使用例をほとんど知らないのですが、これは、力のある側が、相手を無理やりに「落とし込む」というニュアンスが伴った言葉なのでしょうか。その文の中に「ねじ込ませる」という言い方があることから、そんな印象を持ちます。

 この文章を書いた記者は、額賀氏という力のある側に立って書こうとしているから、こんな荒々しい言葉で表現したのでしょうか。

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2016年3月 7日 (月)

日本語への信頼(206)

「都内」と「都下」は、違う地域を指していた

 

 ごく普通の新聞記事を引用します。

 

 都内の戸建てに住む4人家族の電気使用量は午前5時、一気に8倍に跳ね上がった。「起床して暖房やテレビを使い始めたためです」と東京電力の担当者。ウェブ画面が映すのは、この家族の2日前の電気使用量を30分ごとに刻んだ棒グラフ。家族全員が外出した午前8時から、使用量は再びゼロ近くに落ち着いた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月5日・朝刊、13版、5面)

 

 ちょっと意地悪く、国語辞典を引いてみました。私は、たくさんの種類の国語辞典を持っていますが、最近は改訂版が出るたびに買い求めるということをしていません。ちょっと古い情報であることを承知の上で、文章を書いています。

 まず、「戸建て」ですが、広辞苑・第4版、岩波国語辞典・第3版、現代国語例解辞典・第2版、明鏡国語辞典などには載っていません。新明解国語辞典・第4版などには載っています。現在では掲載が次第に増えているだろうと推測します。

 

 次に、あまりにも当たり前の言葉を引いて、ちょっと驚きました。「都内」です。

 「都内」は、広辞苑・第4版には載っていません。この辞典には「市内」「町内」「村内」は載っていますが、「県内」はありません。「府内」はありますが「道内」はありません。やや均衡を欠いているように思います。

 「都内」は、岩波国語辞典・第3版には載っていません。載っている辞書の説明を引用します。

 

 新明解国語辞典・第4版……東京都の中で、その中心となる地域。二十三の区に分かれる。都区内。

 (この辞典の「都下」の項には、「東京都の中で、二十三区を除いた、市町村・(郡・島)の称。」とあります。)

 

 現代国語例解辞典・第2版……①みやこの中。②東京都の中であること。また、特に二三区の中。

 (この辞典の「都下」の項には、「東京都の管轄下。特に、東京都のうちで、二三区を除いた市町村。」とあります。)

 

 明鏡国語辞典……東京都のうち、特に、東京都の二三区のうち。

 (この辞典の「都下」の項には、「東京都の管轄する地域。特に、二三区を除いた地域。」とあります。)

 

 三省堂国語辞典・第3版……東京都のなか。

 (この辞典の「都下」の項には、「①東京都の中。②東京都の中で、二十三区を除いた、外まわりの市町村。」とあります。)

 

 大阪府や兵庫県では、「府内」も「府下」も同じ意味、「県内」も「県下」も同じ意味だろうと思いますが、東京の「都内」と「都下」は違うところを指しているのですね。特に「外まわりの市町村」と言われると、さげすまれているという印象もぬぐい去れません。

 

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2016年3月 6日 (日)

日本語への信頼(205)

「目力(めぢから)」から「眼力(めぢから)」へ

 

 この連載(131)(145)(159)の3回で「目力」にいろいろな意味が生じていることについて書きました。

 

 「エベレスト 神々の山嶺」という映画を紹介した広告特集の紙面で「眼力」という文字遣いで、見出しの言葉に「めぢから」というルビが施されている例に出会いました。

 

 この撮影に挑んだ男2人の眼力を感じてほしい    【見出し】

 平山秀幸監督は、「心が折れそうになるほど過酷な現場で、撮影に挑んだ男2人の眼力を感じてほしい」と語ります。 …(中略)

 そして、この撮影に挑んだ2人の男の眼力を、感じてほしいですね。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月4日・夕刊、3版、8面、全面広告)

 

 この3つが「眼力」の出現例のすべてです。「がんりき」と読むのであれば、ごく普通の意味に理解しておけばよいのですが、見出しのルビによって、3例とも「めぢから」と読むように仕向けられています。

 (131)回からの連載によって、私は「目力(めぢから)」に、次のような意味があるのだろうと推測しました。

()目によって相手を威嚇する力

()本人が文字を読み取ろうとする目の力

()相手に自分の魅力を伝える目(まつ毛)の力

 一般に「眼力(がんりき、がんりょく)」は、ものごとの正誤・成否・真相などを見抜く力のことです。映画紹介の記事の言葉は、そのような意味ではありません。

 上記の「目力」の3つの意味とも違います。記事には「眼力(めぢから)」がどういう力であるのかは説明されていませんが、推測すると、俳優の目にあらわれる演技の力を感じ取ってほしいと言っているように思いました。新しい、()番目の意味ということになります。「目力」「眼力」には、もう少し注目し続けたいと思います。

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2016年3月 5日 (土)

日本語への信頼(204)

「いや」と「いいや」の違い

 

 朝日新聞に連載されている鷲田清一さんの「折々のことば」が、「いいや」という言葉を「ドラマ『あさが来た』のせりふ」として取り上げていました。解説文に次のような一節がありました。

 

 「違(ちゃ)う違(ちゃ)う」と反射的に否定するのではなく、これまで自分が後生大事にしてきたことからしてそれだけは肯(うべな)えないとぴしっと否認するときに、短い沈黙を置いて口にする。転換期に必要なのは意志の融和ではなく、信念に裏打ちされた「否」の交換だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月3日・朝刊、13版、34)

 

 現代の人たちは言葉が速くなりました。かつては「いいや」と言っていたのが、短く「いや」となることが増えているのかもしれません。

 けれども、「いや」と「いいや」の違いはそれだけのことではありません。言葉に込めた心の違いだと思います。

 牧村史陽さんの『大阪ことば辞典』(講談社、1979年7月15日発行)には、次のようにあります。

 

 イィヤ()  いいえ〔否〕の訛。

 

 「いいや」は、「いや」の第1音が長音化したものです。「いえ」の第1音が長音化して「いいえ」となり、その「いいえ」が「いいや」になったという説には、にわかには賛成できませんが、ともかく「いいや」は、相手にゆっくり迫っていくような力があります。「いや」と即座に切り捨てるような響きとは違います。

 私たちは、相手の言っていることを十分に理解しないままで「いや」と否定するような姿勢を持つのではなく、相手を理解した後に「いいや」と押し返すような力を持つことが大切であると思います。

 「いや」と「いいや」という、ほんのちょっとした違いが、実はその人の心の中の大きな違いをあらわしているかもしれないのです。

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2016年3月 4日 (金)

日本語への信頼(203)

富山県の戦略?「キトキト」

 

 西日本旅客鉄道のPR紙『西Navi』の2月号の4~5ページに「言葉でめぐる北陸」という特集があって、石川・富山・福井3県の方言がいくつか取り上げられています。そのうち、富山県については、「きときとの魚を堪能」という見出しで、「きときと」という言葉を次のように説明しています。

 

 「生きがよい」、「新鮮な」様子を表す。富山ではよく耳にする言葉で「きときと」と名の付いたお店や施設も多数。「きっときと」は、より感情のこもった表現。

 

 この言葉の使われ方について、もう少し詳しく知りたいと思って、大田栄太郎さんの『越中の方言』(北日本新聞社、1970年9月15日発行)という少し古い本を開いてみましたが載っていませんでした。半世紀ほど前には、富山では注目されていなかった言葉であるのかもしれません。

 「キトキト」は、加藤和夫・監修の『新 頑張りまっし金沢ことば』(北国新聞社、200511月1日発行)に詳しく書かれていました。「キトキトのルーツはどこ?」という一節が設けられて、次のような言葉がありました。

 

 魚のイキのよさを表す言い方に「キトキト」がある。近江町市場でもよく耳にする〝セールス用語〟である。一種の擬態語だが、とれたての新鮮な状態をこれほどぴったり言い当てた表現はない。

 「キトキト」はかって魚以外でも用いられていた。たとえば、夜遅くまでテレビを見ている子供は「キトキトな目ェして」と親から注意された。さらに、活発な人という意味で「キトキトの娘さんや」という使い方もある。   (同書、120ページ)

 

 このあと、「キトキト」がどの地域で使われているかという話に続くのですが、方言の戦略的な使い方では、富山県が上手であったようです。こんなふうに書かれています。

 

 東京で流れた富山県の観光CMで「キトキト」という言葉が登場したこともある。富山出身の女優、室井滋さんが出版したエッセー「キトキトの魚」で一躍、全国区の言葉となった。 …(中略)

 こうなると金沢から富山に伝わった可能性が強いが、全国に発信した貢献度という点では富山に軍配をあげざるを得ない。        (同書、121ページ)

 

 富山に「きときと」と名の付いたお店や施設が多数あるというのは近頃の傾向であって、観光戦略のあらわれであるのでしょう。

 「キトキト」という言葉の魅力は、生きのよさを端的に表す言葉であるということです。全国共通語で例えば「ピチピチ」などと表現することよりも、新鮮さや生命力を表すのにふさわしい言葉であるとすれば、共通語に取り入れて使ってよい言葉だと思います。富山県や石川県の専売特許ではなくなるのですが、日本語全体にとってはひとつの収穫になります。

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2016年3月 3日 (木)

日本語への信頼(202)

英語の力、国語の力、方言の力

 

 「英語の先生、能力アップを」という見出しの記事が載っていました。

 

 小中高校生の英語力を高めるため、文部科学省は英語教員の育て方の改革に乗り出す。特に中学と高校の教員には英検準1級程度の力を持たせることをめざす。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2月28日・朝刊、13版、34)

 

 英検というのは、正式名称を書くまでもなく略称で通用するほど、権威が定まってきた検定試験のようです。

 日本語についても、漢字検定とか日本語能力検定とかいろいろなものが実施されています。定着すれば、英検に近い信頼性もそなわってくるようです。

 ところで、播州弁の検定試験が、加西市立図書館(上坂寿人館長)と播州弁研究会(井上四郎会長)が協力して行われるというニュースがありました。(神戸新聞、2月18日・夕刊、5版、1面) どんな検定試験になるのか、なかなか興味がわいてきます。

 英検でも日本語の検定試験でも、基本となるテキストというか、正解として認められる範囲とかについては、さまざまな出版物で伺い知ることができます。

 神戸新聞の記事では、「播州弁研究会が作った番付表」という写真が掲載されていました。いわば、それが、播州弁のテキストや正解として扱われるものになるのでしょう。大きな写真ですから、相撲の番付の体裁をとった、横綱から前頭まで、東西で28の言葉が読みとれます。写真に出ているものがすべてであるのか、一部であるのかはわかりません。

 この番付を見て、もう少し考えて作ってほしいと思うことが、ありました。列挙します。

 

()「ぎょうさん(沢山)」「ようさん(沢山)」「じょうさん(沢山)」「どっさり(沢山)」と、同じ意味の言葉が4つも挙げられていますが、「ぎょうさん」「ようさん」「じょうさん」は発音の変化によるもので、根は同じ言葉です。「どっさり」は播州弁でも関西弁でもなく全国共通語と見なすべきでしょう。

 

()「さんこ(散らかす)」の「さんこ」は確かに特徴的な方言でしょう。けれども「さんこ」は、「部屋が さんこやった。」とか「さんこな 机の上」というような使われ方をしますから、品詞は形容動詞です。(散らかす)というような動詞に置き換えてはいけません。

 

()「雨ふっとんけ(雨降っていますか?)」には、敬語は含まれていません。「降っ」(動詞)  「とん」(継続している意味を表す助動詞)  「け」(疑問の意味を表す終助詞)ですから、(雨が降っているか)と書くべきでしょう。

 実は、「とん」(音便を元に戻すと「とる」)には、継続の意味の他に、結果を表す意味もあります。降った(今はやんでいる)結果、道がぬれているというような場合にも使います。

 

()同様に、「何しとったったん?(何されていたのですか?)」も敬語に問題があります。「し」(動詞)  「とっ」(継続している意味を表す助動詞)  「たっ」(尊敬の意味を表す助動詞で、「てやっ」にも置き換えられます)  「た」(過去の意味を表す助動詞)  「ん」(疑問の意味を表す終助詞)です。(なにされていたのか?)というべきで、(です)という丁寧表現は使われていません。丁寧の意味を加えるのなら、「何しとってでしたん?」と言わなければなりません。

 同じように、「ちゃうで(違いますよ)」の(ます)という丁寧語は省かなくてはなりません。「らっきゃ(いいですよ)」の(です)も省かなくてはなりません。「~がい(~ですよ)」も「たいていやない(大変ですね)」も「~だはあ(~です)」も同じです。敬語の誤りがあまりにも多すぎると思います。念のため、それぞれを丁寧表現すると、「ちゃいまっせ」、「らくです」・「らくでっせ」、「~ですがい」、「たいていやおまへん」というような言い方になります。

 

()「もうたん(貰った)」の「ん」はどのように見なしているのか、よくわかりません。「ん」を疑問の終助詞とすれば(貰ったの?)としなければなりません。「ん」を準体助詞とすれば(貰った物)としなければなりません。

 

()「てちまくれ(転げる)」の「てちまくれ」という言葉を私は知りませんが、これは(転げる)という意味の動詞でしょうか。動詞なら「てちまくれる」のような形にならないのでしょうか。

 

()「たいていやない」は(大変ですね)というような、相手を客観視したような意味だけでしょうか。自分が大変な状況のただ中にいて、悲鳴をあげそうな状態に使うことも多いと思います。

 

 具体的ことを並べ上げましたが、テキストや正解にあたるものをしっかりと作って提示してほしいという願いを込めて書きました。播州弁の検定試験が権威あるものに育っていくことを、同じ播州人のひとりとして願わずにおれません。

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2016年3月 2日 (水)

日本語への信頼(201)

「五代さま」と「五代様」

 

 NHK総合テレビの連続テレビ小説「あさが来た」が人気になっています。その登場人物のひとり、五代友厚が最期を迎えるというドラマの展開が視聴者に衝撃を与えたというニュース記事がありました。

 「五代さま いかないで / 大阪の実業家 朝ドラで人気に」という見出しの記事には、次のような文章がありました。

 

 五代の銅像がある大阪取引所(大阪市中央区)では、放送後に訪れたファンの姿が見られた。大阪市福島区の主婦細川ミチ子さん(70)は「五代さまが死んでしまったので見に来たくなった」 …(中略)

 ツイッターでは「五代さまロスです」「五代はん…。明日からどうすれば」などと嘆きがつぶやかれた。

 海外で長く活動し、日本での知名度は低かったディーン・フジオカさん(35)が演じた〝五代さま〟。

 (朝日新聞・大阪本社発行、1月23日・朝刊、13版、34)

 

 「あさに共感『びっくりぽん』 / 『五代様』あす最期」という見出しの記事には、次のような文章がありました。

 

 22日には俳優のディーン・フジオカさん(35)演じる実業家、五代友厚が最期を迎え、インターネット上では「五代ロス」の言葉も飛び交う。

 (毎日新聞・大阪本社発行、1月21日・夕刊、3版、10)

 

 同じ発音ですが、朝日新聞は「五代さま」、毎日新聞は「五代様」と書き分けています。(毎日新聞の本文には「五代様」という表現はありません。)

 実は、朝日新聞は経済面などでも五代友厚を話題にするときには、意識して「五代さま」という見出しを何度も使っていました。

 ドラマの他の登場人物とは違って、「五代さま」だけに「さま()」付けをするというところに、別格扱いにする意識が濃厚です。

 ところで、「さま」と「様」はどう違うのでしょうか。「教えて!」と題するコラムにこんなことが書かれていました。

 

Q 新聞では、皇族方を「皇后さま」「愛子さま」のように書いています。どうして「様」ではないのでしょう。「様」の方が丁寧な気がしますが。

A 賀状の宛名を「~さま」とする人はいないでしょう。郵便物は慣習的に「~様」です。

 皇族方の敬称は、戦前は「陛下」や「殿下」が一般的でした。戦後、「様」も使われるようになり、表記も次第に「さま」が優勢になっていきます。1960年、「さま」で統一することを社内で決めました。

 ちょっと堅苦しい印象がある「様」に対し、ソフトで親しみやすい「さま」が定着したという判断だと思います。

 (読売新聞・大阪本社発行、20151225日・夕刊、3版、4面)

 

 読売新聞の記事は、皇族についての表記のことを述べていますが、「様」の堅苦しさ、「さま」のソフトさということは、他の人について言う場合も同じでしょう。

 「さま」と「様」の書き分けは、「さまざま(様々)」でよいのかもしれませんが、印象を大切にするということには同感です。

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2016年3月 1日 (火)

日本語への信頼(200)

「推しパン」とはどんなパンか

 

 3月。いよいよ球春という言葉がふさわしい頃になってきました。今月下旬には阪神甲子園球場で選抜高校野球が開幕します。ところで、この球春という言葉は、国語辞典ではじゅうぶんな市民権をまだ得ていないようです。

 さて、その阪神ですが、『ホッと!HANSHIN』という阪神電鉄のPR紙の3月号の1面には「人気パン屋さんの 看板パン&推しパン」という文字が書かれていました。神戸や阪神間各市はパンやケーキで知られている町です。

 「看板パン」はわかるのですが、「推しパン」というのは何だろうと、一瞬、考えました。2面にも同じ文字があって、そこには次のような言葉がありました。

 

 阪神沿線には、人気パン屋さんがいっぱい!その中から選りすぐりのお店をご紹介。たくさんあるパンの中から、大人気のパン(看板パン)と、お店がイチ推しするパン(推しパン)を大公開します。

 

 「いちおし」という言葉は、普通、一押しと書かれます。飲食店などではメニューや商品サンプルで「一押し」という言葉をよく見かけます。

 「押す」というのは、生産者()から消費者()に向かって、これは良いものだから買ってください、と強く働きかけるイメージです。「推す」というのは、消費者()が、これは良かったよ、と他の客に推薦するイメージです。

 例えば『明鏡国語辞典』は、「一押し」という文字を使って、次のように説明しています。

 

 〔俗〕まず第一に推薦・推奨すべきものであること。また、そのもの。「次期学長候補としては彼が-だ」

 

 つまり、推薦・推奨という文脈で使われる場合であっても「一押し」という文字を使うのが普通であるということでしょう。

 さきほどの記事に戻れば、「大人気のパン(看板パン)」こそ、客が推奨するパンであり、「推しパン」は店が強くアピールするパンということになります。

 炎天下の甲子園では氷のカチワリが名物ですが、春の選抜ではおいしいパンを味わいながらの観戦もよいのかもしれません。地元からは明石商業高校と長田高校が出場します。いつも私立に押されがちの兵庫県高校球界ですが、今年は公立2校の活躍に期待したいと思います。

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