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2016年4月30日 (土)

【掲載記事の一覧】

 4月も「日本語への信頼」に集中した連載を続けました。

 5月からは、「【書籍版】『明石日常生活語辞典』」の連載を始めます。「日本語への信頼」も随時、併載していくことにします。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでに連載した内容の一覧を記します。

 

◆日本語への信頼 ()(258)~継続予定

    [2015年6月9日開始~ 最新は2016年4月30日]

 

◆名寸隅舟人日記 ()(16)~継続予定

    [2016年1月1日開始~ 最新は2016年4月2日]

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(1998)~継続予定

    [2009年7月8日開始~ 最新は2015年6月8日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)~継続予定

    [201310月1日開始~ 最新は20131031日]

 

◆名寸隅の船瀬があったところ ()() 終了

    [2016年1月10日開始~ 最新は2016年1月14日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)~継続予定

    [2012年9月20日開始~ 最新は2013年9月5日]

 

……【以下は、連載を終了したものです。】……………………

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日開始~2010年3月10日終了]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日開始~2011年9月13日終了]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日開始~ 最新は2014年5月30日]

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日開始~ 最新は2014年5月9日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日開始~ 最新は2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日開始~ 最新は2013年8月28日]

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日開始~20071212日終了]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日開始~2008年7月20日終了]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日開始~2009年9月10日終了]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日開始~2012年1月4日終了]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日開始~2012年5月3日終了]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日開始~2009年6月30日終了]

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日開始~20061231日終了]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日開始~2008年1月10日終了]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日開始~20061226日終了]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日開始~2009年6月4日終了]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日開始~2008年1月18日終了]

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日開始~2007年7月31日終了]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日開始~20081125日終了]

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日開始~2009年6月22日終了]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日開始~2009年5月8日終了]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日開始~2009年3月16日終了]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日開始~20081113日終了]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日開始~20081215日終了]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日開始~2007年6月30日終了]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日開始~2010年1月3日終了]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日開始~2012年7月8日終了]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日開始~2011年6月1日終了]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日開始~2014年4月12日終了]

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日開始~2008年9月24日終了]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日開始~200610月4日終了]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日開始~20061011日終了]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日開始~200611月2日終了]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日開始~2007年6月6日終了]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日開始~2007年8月10日終了]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日開始~2007年7月7日終了]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日開始~20071030日終了]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日開始~20061015日終了]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日開始~2007年8月20日終了]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日開始~2007年9月12日終了]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日開始~2007年9月29日終了]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日開始~200612月7日終了]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日開始~2007年5月7日終了]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日開始~20061222日終了]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日開始~2007年8月27日終了]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日開始~2007年8月30日終了]

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日開始~2015年3月31日終了]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58)

    [2015年4月1日開始~ 最新は2015年6月23日]

 

◆奥州道中10次 ()(35)

    [20151012日開始~ 最新は20151121日]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日開始~2012年9月19日終了]

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日本語への信頼(258)

カタカナ言葉の肩書きの増殖

 

 2020年東京オリンピックとパラリンピックの新エンブレムが決まりました。盗作騒動から白紙撤回されてから半年余り、4つの候補作の中から選ばれました。ところで、その4つの候補作を作った人の肩書きが微妙に異なっていました。

 4人の肩書きは、「アーティスト」、「デザイナー」(2人)、「アートディレクター、デザイナー」となっていました。(朝日新聞・大阪本社発行、4月26日・朝刊、13版、29)

 それぞれの呼称がどう違うのか、私にはわかりません。エンブレム決定を報じる記事の中には「経済アナリスト」という人の言葉も書かれています。

 こういう言葉は、本人が口にしたものをそのまま、文字にしているのでしょうか。それを認めれば、いくらでも新しい呼称ができていきます。そんな言葉を使って、他との区別を図ろうとする人や、奇をてらって注目されようとする人が続出するでしょう。カタカナ語の持つ意味範囲が厳格さを失っているのが、現在の言葉の有様なのかもしれません。

 別の記事に、こんな表現がありました。テレビ画面に登場している女性の発言です。

 

 多くの人にメッセージを発信できる立場にある時点で、アナウンサーもキャスターもジャーナリストだと思っています。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月27日・朝刊、13版、6面)

 

 この発言は、状況に応じて「アナウンサー」、「キャスター」、「ジャーナリスト」を使い分けるというのか、その3つは区別がないと言っているのか、よくわかりません。ただ、世の中には「ジャーナリスト」を自称する人が、増殖を続けていることだけは確かなようです。

 便利な言葉であるというよりは、自分にとって都合の良い言葉を選ぼうとする姿勢、しかも、日本語でいい加減なことを言って責任を取らされたら困るのでカタカナ語で言い逃れておこうというような姿勢も垣間見えているように思います。

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2016年4月29日 (金)

日本語への信頼(257)

「ジ」という文字から連想するもの

 

 中堅以上の記者たちが交代で執筆する「葦 夕べに考える」という夕刊コラムの見出しが、「ジから来る消化不良?」となっておりました。「ジ」とは何でしょうか。「消化不良」という言葉に関連づけると、「痔」でしょうか、それとも「餌」でしょうか。それにしても、カタカナで書く理由がわかりません。

 本文を読めば、そういう話題ではありませんでした。

 

 社寺の文化財を担当しているので、歴史や宗教関係の展覧会を見に行くことが多い。そしていつも、説明文への消化不良に悩まされる。

 彫刻や絵画は、見た目である程度判断できる。しかし文字資料は読めない。説明文を読むたび「お前はわからなくていい」と突き放されたような気になる。 …(中略)

 展覧会場でスマートフォンをかざしたら資料をすらすら読んでくれるアプリ、なんてできませんか? どなたか、ぜひお願いします。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月25日・夕刊、3版、8面)

 

 この文章で主張されていることには賛成です。崩されて読めないような文章は、まず、読み方を提示してほしいと思います。説明文だけを読んでも本当に展示物の中身を理解したことにはならないもどかしさを、私も感じています。

 さて、はじめに書いたことに戻ります。本文中には「ジ」という文字はありません。「文字」と書けばよいのに、あるいは「字」と書けばよいのに、「ジ」と書くのは、ことさら下品に見せようという意図が働いているのでしょうか。それ以外の意図を読み取ることは、私にはできませんでした。

 

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2016年4月28日 (木)

日本語への信頼(256)

データは「回収」できるものなのか

 

 例えば三菱自動車の燃費偽装問題で、車を引き取ってお金を返すなら、「車を回収」したことになるでしょう。もし、間違ったデータを書き記した文書を配っていて、配布先からその文書を戻してもらったら「書類を回収」したことになるでしょう。

 さて、「老いの加速に待った!」という見出しの記事に、「毎月歩数データを回収」という小見出しがあって、次のような文章が書かれていました。

 

 ここの高齢者はいつも身体活動計をつけており、米井研究室の学生が月1回、データを回収。米井教授が歩数と年齢の関係などを調べる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月24日・朝刊、10版、19)

 

 「回収」という言葉の、このような使い方は広がっているのでしょうか。仮にそうだとしても、しっくりとした感じがしません。

 「回収」とは、取り戻すことです。あるいは、元に返して収めることです。研究が終われば、身体活動計を回収することがあるかもしれません。けれども、物体を元に戻さないでデータだけを集めることを「回収」と表現することには抵抗感を持ちます。

 廃品回収という言葉があります。さまざまな使い方をして、もはや原形をとどめないものもあるかもしれません。もはや用がなくなったものを集めるのですが、どんなふうになったにせよ、物体としての形があります。回収と言えるでしょう。

 何らかのデータを発信しておいて、受け取った側がいろいろと加工したデータを、もとのところに集めるのなら、回収と言ってよいかもしれません。

 回収という言葉には、配ったもの(元のもの)と、集めるもの(回収するもの)との間に、いわば同等・同質のものとしての関係があるように思います。

 身体活動計という物体によってデータが蓄積されるのですが、データは物体ではありません。そのデータは、回収しているのではなくて、集めている(収集している)に過ぎないのではないでしょうか。それとも、データをプリントした紙片を物体と考えているのでしょうか。けれども、身体活動計と紙片とは別物です。

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2016年4月27日 (水)

日本語への信頼(255)

「二番」の意味

 

 一番の次は二番ですが、店の名前やキャッチフレーズに「二番」という言葉が使われることがあります。

 「二番」と言う意味は、一番を名乗るのは厚かましい、少し引いて二番と言う方が奥ゆかしいというような意味だろうと思っていました。

 写真と短文で紹介する「クスリ」という欄に、「茨木で二番の味」というのれんが掛かっている店が紹介されていました。その説明文は、次のように書いてありました。

 

 JR茨木駅前(大阪府茨木市)のラーメン店ののれん。大将に「なんで2番?」と尋ねたら「おかあちゃんの味が一番ですやろ」。

 (毎日新聞・大阪本社発行、4月26日・夕刊、7面)

 

 大将の返答はなかなか洒落ていますが、その意味が客に周知されているかどうかは別のことです。

 「二番」という言葉は、まさか載っていないだろうと思いつつ、「広辞苑・第4版」を引いてみると、次のような説明が書いてありました。

 

 ①一番の次の順位。第二。 ②二回。 (二番目の)中位の大きさ。 ④おろかな者。 ⑤〔機〕逃角に同じ。

 

 「二番煎じ」や、映画の「二番館」や、景気の「二番底」などという言葉ができていということも項目立てをされている理由でしょう。

 「二番」はしっかり市民権を得ている言葉ですが、それが「三番」「四番」…となると、店の名前やキャッチフレーズには使いにくくなるのではないでしょうか。「5番街」とかいうのは別の使い方ですね。

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2016年4月26日 (火)

日本語への信頼(254)

「東京目線」は捨てきれない

 

 全国紙の読者は、東京で作られるニュース記事や論評を読み続けなければならないという宿命を背負わされています。ほとんどすべてが「東京目線」のものであるといっても過言ではないでしょう。

 社説の下に「社説余滴」というコラムがあって、「東京目線をまず捨てて」という見出しの文章が載っていました。政府機関の地方移転についての論評です。

 

 東京一極集中を是正するため、政府機関の地方移転に関する政府の基本方針が先月、まとまった。しかし、その内容は、多極型の列島を実現させるにはほど遠いものだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月22日・朝刊、10版、12)

 

 名乗りを上げた自治体に対するヒアリングが、まるであら探しであると思わせるものであって、政府が本気で地方移転を考えているようには思えないという指摘は、誰が見てもそう思えることであったろうと推測します。

 それはそれとして、新聞社の論説副主幹という肩書きの筆者は、「東京目線をまず捨てて」という見出しにそぐわず、東京の立場でものを言っているという感じは終始一貫しているように思います。

 全国の住民のためにものを言っている、地方のことを考えて書いているとは思えないのです。この文章は政府と地方自治体の対置というようなものではなく、東京と非東京の対置という感じが濃厚であるのです。コラムの最後はこう結ばれています。文章は、最初と最後が肝腎です。

 

 地方が疲弊すれば、いずれ東京に跳ね返るのだ。

 

 地方の疲弊は、東京にとって困ることだ、だから政府機関の地方移転を進めようというような論理であるのなら、東京が勝手に困ればよい話です。そうではなく、本当に地方に立脚した文章が、どうして書けないのでしょうか。

 文章の途中に、「いっそ省庁が『地方に出たい』と意思表示した方が、対等に話し合えたのではないか。」と書いてありますが、そんなことは画餅でしょう。手前勝手な論評です。

 新聞社も、東京本社を地方に移転させるなどとは言わないでしょう。自分から始める勇気がなければ、「東京目線」の論評は、どこまで行っても空疎です。

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2016年4月25日 (月)

日本語への信頼(253)

店先の文字

 

 「街のB級言葉図鑑」というコラムに、こんなことが書いてありました。

 

 せんべい販売店の前で見つけたことばです。「梅双目」。正直言って、読めませんでした。

 その上にある「正油」は読めます。「しょうゆ(醤油)」の当て字です。 …(中略)

 「双目」は「ざらめ」。つまり、ざらざらした砂糖のことです。 …(中略)

 「双目」の表記は、さいころの「ぞろ目」(二個とも同じ目)から来たのかとも思います。本来、ざらざらしているから「ざら目」ですが、「ぞろ目」が念頭にあってこう表記したのではないでしょうか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月23日・朝刊、be3面)

 

 「双目」という文字を見たら、私も読めなかったと思います。商社の名前の双日ではないし、これはいったい何なのだろうと思います。

 ところで、食料品店などで「正油」はかなりの頻度で目にします。それから、「人肉」もよく目にします。穏やかならぬ文字遣いですが、それが大蒜(ニンニク)を意味することはすぐにわかります。「正油」は全国的に使われているのでしょうが、「人肉」は地域的な特徴があるのでしょうか。

 他には、胡瓜を「木瓜」と書いたり、西瓜を「水瓜」と書いたりもしますが、水瓜は辞書でも認められているのでしょう。いずれにせよ、実物が目の前にあるのですから、変わった文字遣いであっても、誤解は生じないということでしょう。

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2016年4月24日 (日)

日本語への信頼(252)

地震の後、すぐに電話やメールをするということ

 

 熊本から大分にわたる地震は、1週間が過ぎても大きな余震が続いています。阪神淡路大震災を身近に経験した者からすると、余震の長さが不安になります。

 ところで、放送についてのコラム「キュー」という欄に、ライターという肩書きの人がこんなことを書いていました。

 

 14日の夜、「ニュースウオッチ9」(NHK)を見ていたら、突然、画面の真ん中に緊急地震速報が映し出された。一瞬の沈黙のあと、鈴木奈穂子キャスターが、訓練された落ち着いた声で「地震の揺れに備えてください」と呼びかけた。熊本市内に住む友人に電話すると、「食器棚がごちゃごちゃ。また揺れてる」と切羽詰まった声が聞こえた。別の友人にメールを送ると、「家の中混乱」とテーブルの下から打ったという返信が届いた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月20日・朝刊、13版、34)

 

 私もこの「ニュースウオッチ9」を見ていましたから、緊急地震速報のあと、熊本で大きな地震が発生したことが伝えられ、それがこの後に続く地震報道の出発点になりました。

 びっくりしたのは、このような大きな地震の後、すぐに友人に電話やメールをする人の心理はどのようなものだろうかということです。肉親の場合は一刻も早く安否を確かめたくて電話などをするでしょう。当然です。けれども、肉親であっても、地震が起こってすぐに電話をしたものかどうか、躊躇した後に判断を下すと思います。

 肉親の間で安否確認が行われているところへ、いくら親しい間柄であっても「友人」が割り込んでよいのだろうか、と私ならためらってしまいます。少し時間が経ってから、場合によっては翌朝になってから、電話をするのがよかろうという判断をするでしょう。

 この文章の筆者は、ためらいもなく電話やメールをしたようです。結果としては、それらの友人は嬉しく感じたかもしれません。けれども、私が言っているのは、このような状況の時に、すぐに電話などをするという判断を下すかどうかということです。

 ライターとかジャーナリストとか記者とかいう人たちは、そのあたりの判断が、一般の人の常識をはるかに超えてしまっているのかもしれないと感じました。

 

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2016年4月23日 (土)

日本語への信頼(251)

「してはいけないこと」と「あってはならないこと」

 

 人間は一人一人が弱い存在ですから、「してはいけないこと」をしてしまうことがあります。頭の中では「してはいけないこと」だと意識していながら、踏み外してしまうのです。けれども、個人の行為なら大目に見られても、組織で行ったのなら見逃せないことがあります。

 「あってはならないこと」という言い方があります。熊本地方の大地震も、原発事故もあってはならないことですが、起こってしまいます。原発事故は人災の要素が強いのですが、自然災害は人知を超越しています。「あってはならない」は、確率が極端に小さいものが出来(しゅったい)することのように思います。もちろん、人の行為にも「あってはならないこと」があります。

 こんな記事がありました。

 

 熊本県内で地震の取材をしていた関西テレビ(大阪市)の中継車が給油待ちの車列に割り込んで給油をしたとして、同局は18日、ホームページでおわびを掲載し、夕方のニュースで謝罪した。17日午前7時45分ごろ、同県菊陽町のガソリンスタンド付近で列に割り込んでいたという。「あってはならないことでした」と謝罪している。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月19日・朝刊、13版、30)

 

 報道機関の関係者の横暴は、時に話題になりますが、実際はもっとしばしば起こっているのではないかと思います。報道機関が関係する出来事は、一般の人が強く糾弾しない限り、表に現れることが少ないようです。根底には、報道関係者の特権意識があります。ジャーナリズムなどという言葉で、踏み外した行為もきれいに見せかけられてしまいます。

 給油待ちの車列に割り込んだのは、「してはいけないこと」であって、中継車の側でわかっていたはずです。それを、事後になって「あってはならないこと」と表現するのは、大げさです。割り込みは強く非難されるべきですが、人の力を超えたようなことではありません。

 謝罪でこの言葉を使ったのは、「してはいけない」という表現では弱い、だから強めて「あってはならない」と言ったということなのでしょう。ホームページやニュースで謝罪するだけなら一過性のものですから、いくらでも強めた言葉を使えるのです。もし、「あってはならないこと」を繰り返して行ったら、それは言葉の虚飾であったということになるのでしょう。

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2016年4月22日 (金)

日本語への信頼(250)

明石の印象を損ないかねない

 

 「ギョギョッ」という言葉があります。驚いたときに発する言葉です。素晴らしいことに驚いたのではなく、その逆の場合に使うことが多いと思います。

 明石をPRする16ページ建ての冊子の表紙をめくった1ページ目に次のような言葉が満載されていました。

 

 潮流の激しい明石海峡はおいしいお魚さんが育つ豊かな漁場でギョざいます。

 栄養たっぷりに育っているからすっギョくおいしいのでギョざいますよ!

 明石だこをはじめ明石の海の幸がおいしいのにはもうひとつ理由があるのをギョ存知ですか?

 新鮮なお魚さんは最高のギョちそうでギョざいますね!

 市内の鮮魚店では昼網のお魚さんたちが店先でピチピチと跳ねている姿を見ることもできるのでギョざいますよ。

 次々と明石名物を食べ歩いて「こんなにおいしいものがいっぱいの明石ってすっギョい!」と大感激!

 「ふわふわの生地と上品なおだしがマッチしてギョギョ美味!明石だこちゃんは噛めば噛むほど味わい深い♪」

 イイダコちゃん丸ギョとの巨大せんべい♪

 

 そして、このページの見出しは、次のような言葉になっています。

 

 明石たこ大使さかなクンとレッツ・ギョー!

 明石だこの、ココがすっギョい!

 

 絵本ではあるまいし、「お魚さん」「明石だこちゃん」「イイダコちゃん」を連発されるとうんざりします。(引用した部分以外にも書かれています。)

 それよりも何よりも、この1ページにあふれる「ギョ」という文字と、その言葉遣いは下品きわまりないと思います。何の工夫もなく、発音がよく似た言葉を「ギョ」に置き換えているだけだからです。

 まさしく「ギョギョッ」と驚き、拒絶感を表現するしかありません。明石に住む者のひとりとして、こんな言葉遣いを観光PR誌に使ってほしくないと思います。

 この冊子は、「るるぶ特別編集 明石」というもので、明石市が発行しました。この冊子について、新聞に次のような記事が載っていました。

 

 明石市などが旅行情報誌「るるぶ」を発行するJTBパプリッシングに編集を依頼。国の交付金約700万円を使い、3万部を発行した。カラー16ページで、通常の「るるぶ」と同じAB判。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月16日・朝刊、「神戸」地域版、13版△、27)

 

 私は「るるぶ特別編集」や「まっぷる特別編集」という市や町のPR誌を何冊も持っています。観光案内所などでいただいたものです。すべてがそうであるのかどうかわかりませんが、国の交付金が出版社に流れるという仕組みがあることを知りました。

 

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2016年4月21日 (木)

日本語への信頼(249)

住所、所在地、地名

 

 「訂正して、おわびします」という欄に、次のようなことが書かれていました。

 

 17日付「震災 鎮魂のシバザクラ 西宮・仁川で手入れ」の記事につく写真説明で、撮影場所が「西宮市仁川百合野町」とあるのは「西宮市甲山町」の誤りでした。仁川百合野町は隣にある資料館の住所でした。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月20日・朝刊、「神戸」地域版、13版△、29)

 

 資料館の「住所」が仁川百合野町であるという言葉遣いに、私は拒絶反応を持ちますが、朝日新聞社自身も、大阪市北区中之島にある大阪本社を「住所」と言っていたように思います。

 「〇〇さんのお宅」を「住所」と言うのは、自然な言い方だと思います。家族がそこに住んでいるからです。

 「〇〇資料館」を住所と言ってよいのでしょうか。これは「所在地」と言うべきではないでしょうか。拡大すれば、無人の中継基地のような所まで住所と言いかねないことになってしまいます。

 ところで、シバザクラが植えられているのは、阪神大震災の地滑りで犠牲者が出た斜面の一帯です。それが甲山町にあるのですが、そのシバザクラの植えられているところも、住所なのでしょうか。「シバザクラの住所」などというのは滑稽に聞こえます。

 「シバザクラの所在地」とは言えるかもしりませんが、もっともっと広い地域を指す場合は、「地名」という言葉などを使わないと処理できないのかもしれません。広大な飛行場などは、「住所」ではありませんし、「所在地」の枠をはみ出してしまうでしょう。

 

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2016年4月20日 (水)

日本語への信頼(248)

「ブログに負けたの新聞だ」に同感

 

 「ココハツ」という朝日新聞のページは、若い記者たちが考えたのだそうですが、「ブログに負けたの新聞だ」という見出しの記事を書いています。その中に「飯テロにおびえるあなたにおくる1週間」という欄があって、こんな言葉が並びます。

 

 ①「痩せ方はマスターした」とドヤ顔でマックをほおばります。

 ②コラーゲン1000㎎がとれるとうたい、なにげに健康色をチラ見せ。でも300キロカロリー超えです。

 ③ここでちょっと朗報です。吉野家の豚丼セールがこの日、終了。

 ④終わりなきビッグ抗争 → 味比べを制するのは 【見出し】

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月16日・夕刊、3版、7面)

 

 「飯テロ」「ドヤ顔」「なにげに」「チラ見せ」…何とも下品な言葉の羅列です。というよりは、こういう言葉を紙面に羅列することを下品と感じなくなってしまっている人たちが横行している感じです。それを止めようとしないのが先輩記者たちなのでしょうか。馬鹿げた言葉を使わないで、違った言葉で表現しようとしても、表現する能力を喪失してしまっているのなら新聞の危機と言わなければなりません。

 文脈も滅茶苦茶です。③は、「飯テロ」にとって「朗報」なのでしょうか。豚丼を売っていたら食べてしまうという意志の弱さが新聞記者なのかもしれません。「抗争」という言葉はどんな場合に使うのかということを知らないのも新聞記者のようです。

 「ブログに負けたの新聞だ」という表現に大賛成です。新聞は多くの読者向けに文章を書いていると思っていましたが、今の若い記者たちの書くものはブログ並みの文章に堕落しています。言葉に節度がありません。ブログでは許せても、新聞記事でレベルの低い言葉を使うのは許せません。新聞はブログに負けてしまっています。

 若い記者たちにページを任せてしまうと、こんなことになるのなら良識ある読者はますます新聞から離れていきます。若い記者であっても、もっと品格のある文章を書くことができる人もいるはずですが、そんな人を発掘して紙面に登場させなければなりません。

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2016年4月19日 (火)

日本語への信頼(247)

「行かれません」という言葉

 

 首都高速道路の入口のあたりに出ている「この入路からは銀座・新宿・渋谷方面へは行かれません」という看板をとりあげて、「行かれません」という表現について書かれた文章が、「街のB級言葉図鑑」というコラムに載っています。

 

 「行く」の可能表現は、歴史的には「行かれる」のほうが古参です。「行ける」はざっと江戸~明治時代に、「行かれる(行かるる)」はさらに古い時代に広まりました。

 それが今や、「行けません」が優勢となり、「行かれません」と言うと、「間違いじゃないのか」とネットに意見が書き込まれたりするようになりました。立場逆転です。

 (朝日新聞・東京本社発行、4月16日・朝刊、be3面)

 

 この文章には、すこし気になることがありますので、書きます。

 まず一つ目。「『行ける』はざっと江戸~明治時代に、『行かれる(行かるる)』はさらに古い時代に広まりました。」という日本語は、ずいぶんおかしな言い方になっています。「『行かれる(行かるる)』は古い時代に広まっていましたが、『行ける』という言い方がざっと江戸~明治時代に広がりました。」というような表現をすべきでしょう。言葉は時代を追って変化していくものです。逆に書いてはいけません。

 

 次に二つ目。「行かれる(行かるる)」は2語から成り立っています。「行か」が動詞で、「れる(るる)」が助動詞です。「れる(るる)」という助動詞は、可能、受け身。自発、尊敬という意味がありますが、このコラムでは可能の意味に限定して述べられています。それに対して、「行ける」は1語の動詞です。いわゆる可能動詞と言われるものです。

 そして、それぞれの言い方に、丁寧の意味を持つ「ます」と、打ち消しの意味を持つ「ん」を付けたのが、「行か・れ・ませ・ん」と、「行け・ませ・ん」です。

 このようなことを説明しなければ、「『行かれません』と言うと、『間違いじゃないのか』とネットに意見が書き込まれたりするようになりました」という現象が正当なものではないということを、きちんと説明したことにはなりません。ここには、新風・古風という観点から言葉を論じる危険性があるように思います。

 

 さらに三つ目。これはコラムに書かれていないことですが、「行けません」と「行かれません」とは同じような響きを持つ言葉でしょうか。もしかしたら、首都圏と関西の感覚の違いかもしれませんが、コラムの筆者は「行けません」と「行かれません」を同じような意味だと感じているようです。

 「行けません」は、行くことができない、不可能であるという意味です。それに対して、「行かれません」は、行くことは認められていないという意味が加わっています。すなわち、行ってはいけないという禁止の意味を含んだ感じが漂っています。

 これは文法的な区別ではありません。けれども言葉の使い方から、そのような違いを感じ取ることも大切です。

 例えば、「遅刻した人は、会場には入ることはできません」という貼り紙があると、しぶしぶ諦めるのが一般の受け取り方です。強引に扉を開けて「なんだ、入れるじゃないか」というのは言葉を理解していない人のすることでしょう。「行かれません」には、そのような禁止の意味が加わっていると考えるのが普通の感覚というものでしょう。

 

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2016年4月18日 (月)

日本語への信頼(246)

北上、南下、東上、西下

 

 北に向かって進むことを「北上」と言い、南に向かうことを「南下」と言います。頻度は少ないのですが「東上」や「西下」という言葉もあります。今では東京中心の社会になってしまっていますが、かつての都である京都を中心にしても、播磨地域に住む私にとっては、東西南北と上下を組み合わせた言い方に特別な違和感はありません。

 鉄道は「上り」「下り」を使い続けていますが、道路は「北行き」「東行き」という言い方も多くなっています。

 さて、「とちぎ時事川柳」という欄に、こんな作品が載っていました。

 

 新幹線北へ向かうも下りなの?

 (読売新聞・東京本社発行、4月15日・朝刊、「栃木」版、13版、28)

 

 この作品を寄せた方も、頭の中に「北上」という言葉があったのでしょう。東京から東や北の地域では、北へ向かうのが「下り」です。中国や日本で古くから使われている「北上」にそぐわない使い方であるのです。「北上」の出典として、「日本国語大辞典」には、中国の曹操の作品や、日本の文華秀麗集が用例として示されています。

 例えば、魚の回遊などについて、北上や南下を使う場合は、東京の位置などを気にする必要はありませんから、どの海域でも使えます。人の住む地上では、東京の位置が基準になって、なんとも煩わしいことです。

 

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2016年4月17日 (日)

日本語への信頼(245)

今どきの大学生を生んだのは、今どきの親たちだ

 

 新聞(や放送)は、ほんの少し兆候の見えだした言葉を取り上げて、いかにも社会に定着した言葉であるかのように書きます。読者は、その仕業に乗せられて、自分たちでも使い始めます。言葉の混乱や貧しさのお先棒を自分たちが担いでいるのだという意識が、記者たちには見えません。日本語の悲しい現実です。

 また一つ、そんなものが生まれつつあります。

 

 「オヤカク」(親に確認)という言葉が、企業の採用担当者の間で常識になりつつある。 …(中略)

 「オヤカク」。企業の新卒採用の現場で広がり始めている言葉だ。企業が内定を出した学生に対して、親が納得するか確認を求めたり、親と会って採用理由を説明したりすることを言う。親に反対されて入社しないケースがあるためだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月14日・朝刊、13版、29)

 

 ここに言う「オヤカク」は、いわばある狭い範囲で使われ始めている言葉にすぎません。それを取り上げて書いた記者は、その言葉を自分が発見した手柄のように思っているのかもしれません。その言葉の定義をわざわざ説明しなければ理解できないような段階で、読者に提示する必要があるのでしょうか。

 仮に、企業の採用現場で「おやかく」という言葉がささやかれていても、それをカタカナ語で「オヤカク」と書いて定着させる権限は新聞記者にはありません。「親確」か、せいぜい「おやかく」でしょう。何でもカタカナ語としてしまうのは記者たちの悪い癖です。

 就職活動に関して、親の顔色をうかがわなければならない大学生たちの有様を情けないと感じている人も多いことだと思いますが、今どきの大学生を生んだのは、今どきの父親たち・母親たちです。そんな父親や母親を生み育ててしまったのは、今どきの祖父・祖母世代なのです。

 日本語についても同じことが言えます。こんな言葉を平気で新聞に書く記者たちを育ててしまったのは、一世代前の先輩記者たちのはずです。

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2016年4月16日 (土)

日本語への信頼(244)

「あなた」「あなた」と言わないで

 

 大勢の人を相手にした広報や広告の場面で、「煙草の吸いすぎはあなたの健康を損ねます」とか、「あなたの生活を豊かにするために週末旅行をしてみませんか」とかいう言葉を目にします。話し言葉として聞く場合は、それほど耳障りではないのですが、文字として書かれたものを見ると、これはもう目障りです。いちいち、「あなた」「あなた」と言わなくてもよいではないかという気持ちになります。

 煙草の吸いすぎはすべての人の健康を損ねるのであって、「あなた」(読み手としての「私」)だけのことではありません。週末旅行によって豊かさを感じる人は「あなた」以外にも大勢いることでしょう。

 そうであるのに「あなた」という言葉を加えるのは、大勢に向かって言う言葉でありながら、ひとりひとりに読んでほしい(聞いてほしい)という気持ちからであると理解はできます。けれども、誰にでも共通することを、体裁だけ個人向けにしたとしても効果が少ないということに気付いていないのでしょう。

 極端に個人と個人の関係のコミュニケーションでは「あなた」も「私」も使う必要はありません。「2時に駅の西口で待っていますから、どうぞお越しください。」と言えば人称代名詞を使う必要はありません。「あなた」と「私」を多用する表現は、言葉の発信者と受信者を遠ざける働きがあるということに気付くことが大切だと思います。

 二人称で呼びかけて広報や広告のターゲットを絞るという手法は、効果があるのかもしれませんが、逆効果も大きいように思います。

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2016年4月15日 (金)

日本語への信頼(243)

感謝される必要のない「ありがとうございました」

 

 電車のアナウンスは、最小限のことだけを言って、あとは静かにしておいてほしいというのが乗客の願いです。けれども、時には選挙の投票を呼びかけたり、交通事故に対する注意が述べられたりします。

 私がいつも利用している私鉄では、ときどき自社の催し物の広報をすることがあります。「今度の日曜日、〇〇駅を出発して、海岸沿いをおよそ10㎞、〇〇までのハイキングを行います。」というようなお知らせです。手短い案内ですが、その最後に必ず「ありがとうございました。」という一言が入ります。

 この、最後の「ありがとうございました」はどういう意味なのだろうかと首を傾げます。参加する気持ちになってくれて「ありがとう」なのか、うるさいPRを聞いてくれて「ありがとう」なのか、ともかく、そのように締めくくるようにというマニュアルになっているようです。感謝される必要のないときに言われる「ありがとう」は空疎に聞こえます。

 選挙や交通事故についてのアナウンスのあとに「ありがとうございました。」が入ることもあります。ちぐはぐな感じが否めないときもあります。

 案内のアナウンスだけをぺらぺらとしゃべってお終いにするのをはばかった言葉だろうと思います。最後をどう締めくくるのかは悩ましいところでしょうが、最も簡単で、あらゆる内容に最も適合するのが「ありがとうございました。」なのかもしれません。半分は好感を持って、半分は違和感を持って、この言葉を聞きます。

 その点、テレビのコマーシャルは楽ですね。言いたいことを制限時間いっぱい怒鳴り散らして、「ありがとう」とも「すみません」とも言わなくてよいのですから。

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2016年4月14日 (木)

日本語への信頼(242)

「私も使っています」「私も飲んでいます」

 

 健康食品や家財道具などをはじめとして様々な商品の宣伝として、名前を知られている人の顔写真入りでコメントが掲載されることがあります。「私も使っています」とか「私も飲んでいます」とかという体験が書いてあります。それにつられて消費者が買うという仕組みになっています。つられて買うことなどがないのなら、こんな広告が続くはずはありません。

 不思議なことに、言葉はたいてい「私も…」という表現になっています。その言葉が書かれていなくても、ニュアンスは同じです。「私は…」ではなく、「私も…」です。広告主から強く勧誘されて広告に登場したのでしょうから、「私は…」というような主体性はありません。とは言え、顔写真付きの「私」だけは強く押し出しておきたいようです。

 外山滋比古さんの『国語は好きですか』(大修館書店、2014年6月20日発行)に、次のような文章があります。

 

 日本語はデリケートで、神経がこまかい。わかりきったことを口にしたり書いたりするのは相手に対して失礼になる。必要もないのに〝私〟を出したりしてはおかしい。〝私〟は、控え目に姿を見せないのが日本語の床しさ。

 「わたくしが行きます」

というのは出しゃばりである。ただ

 「まいります」

でいい。だまって、行っても、悪くない。     (同書、21ページ)

 

 その通りです。「私も」などと言わないで、「使っています」「飲んでいます」でじゅうぶんなのです。そして、それよりもっと大事なことは、黙って使って、黙って飲んで、広告などに顔を出さない方が日本人の美意識には叶っているのです。

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2016年4月13日 (水)

日本語への信頼(241)

「白すぎ城」の「グランドオープン」

 

 世界遺産の姫路城の大修理が終わって、再びその姿があらわれたとき、漆喰のあまりの白さに驚きました。かつてのイメージとまるで異なっていましたから、何かの間違いではないかと言う人もいました。けれども、もともと白さが目立ったからこそ白鷺城という異名が付いたのでしょう。

 東北の地方紙である河北新報・電子版にコラムが載っています。「河北春秋」の4月6日付に次のような文章があります。

 

 いっとき「〇〇すぎる何々」という表現がはやった。昨年3月末に大修理を終えた国宝・姫路城(兵庫県姫路市)も、そんな呼ばれ方をしている。しっくいを塗り直した外壁がすこぶる白く、付いた名前が「白すぎ城」。別名の「白鷺(しらさぎ)城」にかけてある。

 その効果もあったのか、この1年間の入場者数が286万人にもなったそうだ。 …(中略)… 姫路城は公開再開を「グランドオープン」と銘打った。ふざけ過ぎはイメージを落とすけれど、乗りは見習って。

 

 松島・瑞巌寺の本堂が大修理を終えて拝観を再開したということと比較して文章は書かれています。瑞巌寺自身や門前の店主などが「あと何日」というカウントダウンをしたというエピソードが書かれています。瑞巌寺は置いておいて、姫路城のことについて言います。

 姫路城が「白すぎ城」と言われていることは知りませんでした。でも、それはご愛敬で、悪い感じはしません。

 気になったのは「グランドオープン」です。電車の中吊り広告などに使われた言葉です。遊園地や劇場ではあるまいに、こんなカタカナ言葉で修理を祝ってほしくないと思いました。古い建造物に「オープン」はそぐわないと思いますし、まして「グランドオープン」は論外です。地元以外の人たちにも、あまり良い印象は与えなかったようですね。

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2016年4月12日 (火)

日本語への信頼(240)

「新聞ってどう?」って、どういうこと?

 

 「ってどう?」という、実に曖昧な質問の形式があります。そんないいかげんな質問はしないでほしいと思いますが、テレビなどでときどき耳にすることがあります。

 言葉の専門家であるはずの新聞は、このような質問はしないはずだと思っていましたが、そうではありませんでした。

 

 新コーナーのスタートです。初回テーマは「新聞ってどう?」。多くの意見が寄せられ、「声」担当者も「気付き」をもらいました。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月9日・朝刊、10版、12)

 

 この課題設定は、新聞について、何を述べてもよいということでしょうか。テーマも何も絞らないで、無責任に問いかけている印象は否定できません。それならば、「新聞について(の意見)」とするほうが明確です。「ってどう?」は印象や感性に重点があるような言葉遣いだと思うのです。

 若い世代から寄せられた投稿に対して、「声」担当者が「『気付き』をもらいました」ということの意味がよくわかりません。気付きというのは、気が付くということです。重大な問題ではなく、些細なことが多いと思います。気付きをもらった、というのは、これまで些細なことに気が付いていなかったというようにも聞こえます。

 読者が、新聞を読んで何かに気付くことは大切なことです。しかし、「声」担当者が気付くというのは、新聞の編集の方向や、読者の声の取り上げ方に、細かい注意が行き届いていなかったというようにも感じられて、読者としては不安になります。

 

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2016年4月11日 (月)

日本語への信頼(239)

「バリキャリ」は市民権を得るか

 

 新聞の株式欄は投資家が読むもの、スポーツのサッカーニュースはサッカー愛好家が読むもの、テレビ欄はテレビ漬けの人が読むもの…などという限定で紙面は作られているのでしょうか。朝日新聞の「ココハツ」という夕刊紙面は、若者や流行に敏感な人でないと理解できなくても当然だということが前提で作られているのでしょうか。新聞はページ数が増えても読めるところは少なくなってきているのかもしれません。

 「ココハツ」にある欄の担当者の自己紹介は、ホームページで検索して意味を確かめないと理解できないように思われます。こんなふうに書いてありました。

 

 バリキャリを目指すも、気持ちばかり空回りする妊活2年目の30代。幸せの形は人それぞれだと思うのに、出産、子育てであふれる同世代のSNSを見て勝手に焦る日々。私は、生きづらい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月9日・夕刊、3版、2面)

 

 ホームページで、「バリキャリ」は、バリバリのキャリアウーマンという言葉を約めたものであるということを知りました。新聞の紙面で、過去のいつかに、この言葉が取り上げられていたのかもしれませんが、この言葉に初対面した人は、首を傾げるかもしれません。

 「バリキャリ」の、ちょっと詳しい説明では、猛烈に働く女性、ファッションや恋愛よりも仕事やキャリアを重視している女性、と書いてありました。「ファッションや恋愛よりも」とありますが、この記者は「妊活2年目」ですから結婚されているようです。

 ところで、「バリキャリ」という言葉は、言葉の表面には女性限定の意味や、既婚・未婚の区別は感じられません。別のホームページには「バリキャリ女子」とか「バリキャリ妻」とかありましたから、「バリキャリ男子」があってもよいのでしょうか。

 やたら短縮した言葉や、生まれてすぐ消えるような言葉を、新聞記者に率先して使ってほしくないと思います。ある程度の市民権を得た言葉を使うのが、記者の良識だと思います。

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2016年4月10日 (日)

日本語への信頼(238)

「心臓がお強いですなあ」「がんばっておくれやす」

 

 衆議院議員京都3区の補欠選挙が3月下旬に行われます。候補者を立てようとしている「おおさか維新の会」が党名に悩んでいるという記事がありました。それに関して、「大阪市出身で京都市内に住む服飾研究家・市田ひろみさんの話」として、次のような談話が載っていました。

 

 京都には京都の土着の絆があります。そこに「おおさか」の名で出てくるなんて、心臓がお強いですなあ。大阪は商都として、京都は伝統文化の町としてそれぞれ持ち味があります。水と油のように何か相いれないところがあるので、特に京都では難しいかも知れませんね。全国区の国政政党としては、すんなりとは受け入れてもらえないと思いますけど、がんばっておくれやす。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月8日・朝刊、13版、29)

 

 選挙の勝敗を論じるつもりはありません。この談話を読んで、ちょっとした言葉遣いなのですが、京都の言葉は、柔らかさの中に芯の強さがあると感じました。

 「心臓がお強いですなあ」は、相手を褒めるようにしつつも、無謀さを指摘するような感じがしますし、「がんばっておくれやす」は、相手にエールを送りつつ、突き放したような姿勢が見て取れます。

 「日本のことばシリーズ」の『京都府のことば』(明治書院、1997年2月25日発行)で、京都市の言葉について概説した文章の中に、次のような記述があります。

 

 明治以降、京都市の勢力の絶え間なき相対的下落によって、現在、京都は大阪より、少なくとも経済・人口の面で劣位の状態にある。さらに大阪は放送局も握っている。そのため京都市の言葉は大阪の影響を受けていることが想像される。  (同書・21ページ)

 

 どっこい、京都の人たちの思いは、この概説に書いてあるような状況ではないということがあらわれている談話だと思います。放送局を握ろうと、政治や経済で優位に立とうと、大阪に対する京都の対抗意識は、大阪を上位と見たりはしないということなのでしょう。「がんばっておくれやす」は、言われた方が身震いするような言葉です。言葉は大阪などからの影響を受けても、心情にまで影響を受けることはない、ということかもしれません。

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2016年4月 9日 (土)

日本語への信頼(237)

「日替わりランチ」と「週替わり記事」

 

 朝日新聞の夕刊に「京ものがたり」という記事があって、なかなか楽しい企画になっています。それが4月以降「都ものがたり」と改められました。その初回は「天野祐吉が歩いた先斗町の路地」で、文章の末尾に、次のようなお知らせが書かれていました。

 

 京都と奈良とを週替わりで取り上げ、街と著名人を巡るエピソードをつづります。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月7日・夕刊、3版、4面)

 

 食堂などに「日替わりランチ」というようなメニューがあります。今日は昨日とは違うメニューですが、今日一日はそのメニューで提供されます。日替わりというのは、一日という連続性の中で販売され、翌日には別のものに変わります。「週替わり定食」というのも見たことがあります。その一週間の提供で、翌週には変わるはずです。これも一週という連続性があるのです。

 さきほどの記事に書いてあるお知らせですが、今週は京都の記事が続き、来週は奈良の記事が続くのなら、「週替わり」でよかろうと思いますが、そうではありません。今週は1回だけ京都の記事があり、来週も1回だけ奈良の記事が載るはずです。

 要するに、週ごとに交互に京都と奈良を取り上げるということですが、これを「週替わり」という言葉で表すのがふさわしいか、どうか。ちょっと疑問を持ちます。

 

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2016年4月 8日 (金)

日本語への信頼(236)

ほとんど使われなかった言葉が「消えている」

 

 協議とは、寄り集まって相談することです。ある問題を解決するために関係者が集まって話し合うことです。

 もし、「熟議」という言葉を使うなら、その協議をじゅうぶんに行うという意味になるでしょうが、「熟議」などという言葉を使うことはほとんどありません。

 ところで、編集委員という肩書きの人が「eコラム」という欄で、こんなことを書いていました。

 

 日本から「熟議」が消えている。正解がない複雑な問題について、考えの違う人たちが意見を交わし、相手を理解する.。多数決を補う手法として根付くことが期待されたが、国が市民の意見をじっくり聴く場が減っているのだ。 …(中略)

 朝日新聞のデータベースで「熟議」を検索すると、2002年以降480件ヒットした。09年までは年に数件程度だが、民主党政権下で1085件、1188件、12年124件と急増する。ところが、13年は63件、14年は39件と急減。 …(中略)

 自分たちでよく考えて決めたことには、お互いに納得しやすいと気づくだけでも大きな収穫だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、3月14日・夕刊、3版、7面)

 

 熟議とは「正解がない複雑な問題について、考えの違う人たちが意見を交わ」すことだと述べていますが、そんなことを説明した国語辞典はありません。筆者の勝手な定義でしょう。しかも、「国が市民の意見をじっくり聴く」ことが、熟議の要点であるかのように書いています。

 仮に、熟議にそのような意味があるとしたら、それは政治の世界の専門用語か業界用語に過ぎないでしょう。

 データベースの件数が述べられていますが、たとえ自然科学の専門用語であっても、この程度の件数をはるかに超えることでしょう。要するに、熟議という言葉は狭い範囲で使われた言葉であって、定着したものではないということです。使われなくて当然だと思います。

 そうであるのに、文章の冒頭から「日本から『熟議』が消えている。」と強調されても、筆者の勝手な論理に過ぎないと思うのです。

 これは言葉が「消えている」ということではありません。一部の人が、短い期間だけ使った言葉であって、消えるとか消えないとかではなくて、もともと社会が受け入れなかった言葉ということでしょう。

 文章の結末が滑稽です。「自分たちでよく考えて決めたことには、お互いに納得しやすいと気づくだけでも大きな収穫だ。」というのは、小学校の学級会にでもあてはまるようなことを述べているに過ぎません。

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2016年4月 7日 (木)

日本語への信頼(235)

「地点」と「時点」

 

 地点とは、地上のある一か所という意味で、「マラソンの折り返し地点」などという使い方をします。時点とは、時の流れの中における一点と言う意味で、「現在の時点で一位のランナー」などという使い方をします。

 初乗り距離を短くして運賃を安くするということをタクシー会社が申請するということを取り上げたニュース記事に、次のような表現がありました。

 

 初乗り料金を現在の「2キロ730円」から「1・095キロ410円」にする。それより先は235・25メートルごとに80円が加算され、2キロ時点で現在の730円と同じになる。 …(中略)

 国交省は3月に、2キロ時点でいまと同じ730円になる設定なら、運賃の「組み替え」とみなし、値上げの場合と比べ審査を簡単にすることを決めていた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月5日・朝刊、13版、1面)

 

 2キロまで走ってきて達した点は、時点なのでしょうか、地点なのでしょうか。2キロまで走ってきた「とき」なのでしょうか、2キロまで走ってきた「ところ」なのでしょうか。

 そんな細かいことはどっちでもよいと言われればそれまでですが、距離によって運賃が加算されていくという制度から言えば、「地点」と言う方がよいように思います。

 2キロを走るのに要する時間は状況によって異なりますが、いかなる状況であれ2キロという距離には違いがありません。

 

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2016年4月 6日 (水)

日本語への信頼(234)

新聞1ページ大の3行広告

 

 最近は新聞の3行広告というものが影をひそめてきたと思います。かつては求人とか連絡とかの目的で、格安料金で利用されていたように思います。ときどき、尋ね人というのがあって、「〇子、心配している。すぐに連絡せよ」などというのが載っていました。

 求人広告は、職を求めているような人が読んでいたはずですが、尋ね人の広告は、読んでほしい対象はただ一人ですから、その人の目にとまらなかった場合は目的が達成できません。そのせいでしょうか、日を置いて同じ広告を目にすることもありました。

 さて、カラーで印刷された、次のような見出しの全面広告が掲載されました。

 

 関西学院大学に 入学するあなたへ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月1日・朝刊、10版、6面)

 

 尋ね人ではありませんが、対象はこの大学への入学生です。尋ね人の3行広告でもただ1回の広告だけで目的を達することもあると思いますが、カラーの全面広告であっても、1回だけでは不安だったのでしょうか、もう一度、まったく同じものが掲載されました。(朝日新聞・大阪本社発行、4月2日・朝刊、10版、8面) 何しろ、若者が新聞を読まなくなっているということを理解しての、再度の挑戦であったのでしょう。

 3行広告では、特定の個人向けのものであっても納得できますが、全面広告の場合は、そのまま受け取る(入学生向けだと理解する)ならば異様さを感じます。

 もちろん、意図は見えています。入学生向けという体裁をとりながら、大学の宣伝をしているのです。そうでなければ高い広告料を払って2度も載せるはずがありません。

 広告は、いちいち「大学受験を目指しているあなたへ」とか「住宅を建てたいと思っているあなたへ」とか「歯槽膿漏で困っているあなたへ」とか書きませんが、大学も宅建業者も製薬会社もターゲットを決めて広告を出しています。それに対して、受験も住宅も薬品も、必要のない人は広告に目をとめません。不特定多数のうち、必要な人が見てくれたらよいというのが広告でしょう。

 「関西学院大学に 入学するあなたへ」という広告は、新聞読者の大部分を排除した言い方になっています。広告手段として効果があると見るか、嫌な感じとしてとらえるかは、人によりさまざまであろうとは思います。

 

 

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2016年4月 5日 (火)

日本語への信頼(233)

「意識高い系」という言葉と、読者の新聞離れと

 

 「ココハツ」という紙面ができて、なんとも大味なページで「意識高い系」という言葉を話題にしていました。

 

 私(記者)は、ずっと気になっている言葉がある。「意識高い系」。若者言葉のひとつで、相手を嘲笑する時にときに使う。「ウザい」「ムカつく」とは言わずに、褒め言葉でけなす。変わった言葉だ。

 意味は「口だけで中身がないイタい人」。学生団体を立ち上げたり、起業したりする人たちがよく標的にされる。

 私は「意識高い系」の始まりを見ていた一人だ。元々は、2000年代半ばに「優秀な人材」という意味で「意識の高い学生」という表現が使われていた。当時私は就活や大学の取材を担当していた。出会った「意識の高い学生」たちは、普及したばかりのSNSを駆使し、有名人だった。それが10年ごろから「見かけはいいが成果がない」などとネットで批判され、あっという間に評価が逆転し、むしろ「意識が高い=イタい」で定着してしまった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月2日・夕刊、3版、2面)

 

 流行語であっても人々の記憶に長く残るような言葉もあります。けれども、ここで採り上げられている言葉は、一過性でいずれは消えていくことが明白な言葉です。含蓄も何もない言葉です。大げさに取り上げる理由がわかりません。

 意識とは、自分や周りの状況をしっかりと捉える心の働きのことです。対象を対象として捉える心です。当然ですが、自分と周りのものとの違いを考えて、そこに判断を下します。

 意識には、絶対的なものと相対的なものとがあると思います。誰が見ても「意識が高い・低い」と判断できるものと、誰かと誰かを比べてどちらの方が「意識が高い・低い」と判断するものとの違いです。

 2000年代半ばの「意識の高い学生」という言葉は大学や企業の関係者が学生を評して使った言葉のはずで、いわば絶対的な判断に近いと思います。それに対して、今の「意識高い系」は同年齢の者同士が相手を判定(批判)している言葉で、いわば相対的な判断です。

 「意識が高い」という言葉と「意識高い系」という言葉とは、成り立ちが違います。いわばその言葉を使う人の意識が違うのです。2000年代半ばの言葉が変化(発展)して「意識高い系」が生まれたと考えるのは間違いでしょう。「意識の高い生徒」などという言い方は30年前でも40年前でも使っていました。称賛する意味です。

 ついでながら、「2000年代半ば」とはどういう意味なのでしょう。たぶん記者は、2005年頃を念頭に置いているのでしょうが、よく考えて言葉は使ってほしいと思います。「1900年代半ば」と言えば1950年あたりのことです。現在はまだ2000年代半ばには達していないのです。

 

 ところで、「ココハツ」という企画について、次のような文章が書かれています。

 

 私たちは「新聞が読まれていない」という言葉をたくさん聞きます。若い人たちを中心に、新聞を購読してくださる方は減っています。どうすれば私たちの言葉は伝わるのか、必要とされ続けることができるのか。全国に散らばる若手記者たちは日々悩んでいます。

 ひとつの手がかりとして、私たちが考えたのが記事の主語です。「国が」「社会が」「世界が」。新聞は大きな主語のニュースの方が、より大事だと考えて報道してきました。一番小さな「私」の思いは載りにくい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月2日・夕刊、3版、2面)

 

 だから「私」を主語にした記事を書く、という論理なのですが、今回の文章を見る限りは、「私」は自己流の独断に近づいている気がしてなりません。

 このような企画によって若者の新聞離れにブレーキがかけられたらよいのですが、私は逆のことを心配します。私もそのひとりですが、長年の読者である中高年の者が、安易で幼稚な紙面に愛想を尽かして離れていくのではないかという懸念です。

 テレビやインターネットに押されて、新聞を読む人が少なくなったというような、安易な言い訳はやめましょう。読み応えのある記事を書けば、読者は減らないのです。

 私は国語教育で、新聞を教室で使い続けた者のひとりです。近年になってNIEなどという言葉で新聞の価値を宣伝していますが、教室で使うにふさわしい記事はかつてに比べて減ってきていると、私は痛感しています。

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2016年4月 4日 (月)

日本語への信頼(232)

受け取り方は人さまざま② 「お気をつけて」

 

 歩いてほんの数分というところにある地域のコミュニティセンターから帰るときに、「お気をつけて」という言葉をかけられて、びっくりしたことがあります。お気をつけてというのは、安全を祈る言葉ですが、わずか数分の道のりのために使うのは大げさすぎると思ったのです。もちろん、どこでどんな事故が待ち受けているのかはわからないのですが…。

 さて、前回話題にした「街のB級言葉図鑑」の第1回は「お気をつけて」という話題でした。駅のトイレに入ろうとしたとき、清掃中らしく看板が立ててあったというのです。その言葉が「お気をつけてご利用ください」です。

 文章は次のように続きます。

 

 そう言われても、どう気をつければいいのか。大事な部分が清掃スタッフに見えないようにする、とかでしょうか。

 おそらく、「女性の前で用を足すのが嫌な人は、気をつけて入らないようにしてください」ということでしょう。そのまま書くと身もふたもないので、ぼかしてあるのです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月2日・朝刊、be3面)

 

 私もこういう場面に出くわすことがあります。けれども、そんなふうには解釈しませんでしたから、「気をつけて入らないように」したことはありません。ぼかした表現という深謀遠慮があるとは思いもかけませんでした。

 トイレの清掃中は水を使います。床面がぬれていることが多いのです。あるいは壁面などに水がついていることもあります。滑ったり衣服が汚れたりしては困ります。私はそのようなことへの配慮として「気をつけて」使うようにという指示であると解釈しておりました。

 かつては、「トイレ清掃中、使用禁止」として閉め出されたことを思えば、ずいぶん有り難いように変化しました。有り難く注意しながらトイレを使わせていただいています。

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2016年4月 3日 (日)

日本語への信頼(231)

受け取り方は人さまざま① B級という言葉

 

 「B級」という言葉があります。食べ物のB級グルメとか、観光地のB級スポットとか、芸術作品のB級映画とか、いろいろな使われ方をしています。けれども、この言葉自体がB級であるようで、国語辞典で市民権を得ているように思えません。

 それにしても「B級」とはどういう意味なのでしょうか。A級ではなくてB級である、また、C級でもなくてB級である、と解釈すれば、それは上等、一流のものではなく、下等、三流のものでもないということです。つまり、中等のレベルにあるものという意味になります。

 品質や価格の面では一級のものではないが、それなりに評価されているという語感が伴っているように思います。そして、そのようなB級のものにファンがいることも確かです。「B級」を国語辞典で、多くの人に納得のいく説明をしようとしてもなかなか難しいように思います。国語辞典が「B級」を載せるのを避けている理由がわかるような気がします。

 朝日新聞で「街のB級言葉図鑑」という連載コラムが始まりました。国語辞典編纂者の飯間浩明さんの執筆です。これから、どのような言葉が「B級」として採り上げられるのか、興味が涌きます。

 その第1回に次のような文章があります。

 

 こうした看板やポスターの文字など、「B級」(マニア受けする)と表現しうることばが、街の中にはあふれています。そのいくつかをご紹介します。ご期待ください。

 (朝日新聞・大阪本社発行、4月2日・朝刊、be3面)

 

 この説明からすれば、書籍や新聞のようなところから拾い上げるのではなく、街中の看板やポスターなどから採集した言葉であるようです。言葉の「B級」はあらわれる場所によって区別するものなのでしょうか。

 それにしても、びっくりしたのは、「B級」を「マニア受けする」と断じていることです。そう言われて反論はしませんが、それは「B級」という言葉の一面を説明しただけのことではないかと思うからです。「B級」という言葉が国語辞典できちんと説明される段階になれば、それはマニアという範囲をうち破ったことになると思うのです。

 考えてみれば、私のブログのこの連載も「B級」だろうと思います。もしかして、朝日新聞の「be」というページも、本紙の内容に比べれば、B級企画かもしれませんね。

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2016年4月 2日 (土)

名寸隅舟人日記(16)

 

さまざまの事おもひ出す桜哉

 

 芭蕉の「さまざまの事おもひ出す桜哉」は貞享5年の作で、『笈の小文』に収められている句です。

 芭蕉が若い頃に仕えた藤堂家の藤堂良忠(俳号は蝉吟)の遺児である藤堂良長(同、探丸)が主催した花見の席での句で、これを立句として歌仙が巻かれたと言います。

 けれども、『笈の小文』にはそのような記述がありませんので、一般的な意味で捉えてよかろうかと思います。

 句で言われているのは、桜は昔のままで、巡り来る花の季節にはさまざまなことが思い出されることだ、というような意味です。それぞれの土地で一斉に咲き、あっと言う間に散りすぎるゆえに、桜と関連づけて、胸の中に去来する思いが蓄積されるのだろうと思います。

 実は、私の住むところではまだ満開を迎えていませんが、もう時間の問題です。そしてすぐにその時間が通り過ぎてしまいます。桜前線が北上していくと言いますが、一つの地点では瞬時に過ぎ去るのです。私は前線を追って移動するというような気持ちはありませんから、通り過ぎればそれでおしまいです。

 人生の大きな出来事に遭遇したときに藤が咲いていたとか菊の季節であったとかいうことはありますが、そういうつながりとは違って、桜は一瞬にさまざまなものを思い出させる力を持っているようです。通り過ぎる一瞬というものと関係があるのでしょう。

 時間が凝縮された中で桜を見ているのです。散りすぎれば来年を待つというのはどの花にも共通することですが、開花している短さはやはり他と違うのです。その短さの中で「さまざまな事」を思い出させる力が桜には宿っているようです。咲いている時間は短くて、人はその間にさまざまの事に思いを馳せる。長く感じる時間が、私には目前に迫っているのです。

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2016年4月 1日 (金)

名寸隅舟人日記(15)

新年度の感慨

 

 年度が改まって4月です。桜の季節に新しい区切りが始まるというのは華やかであり、その花の季節がすぐに終わって新しいステップに踏み出すのも、なかなか上手い演出であるように思います。

 つい近年まで勤めがありましたから、4月は新入生を迎えて、転任や新任の仲間を迎えて、気持ちが改まる時期でした。

 それが、何ということか、ここのところは気持ちがどっしりと落ち着いてしまって、良きにしろ悪しきにしろ、深い感慨を持つことが少なくなってきている自分を残念に思っています。

 人を相手にした仕事に携わってきましたから、そのような環境に置かれることがなくなった4月は、大きなアクセントが失せたような感じになっています。

 もちろん、今が区切りの時期であることに変わりはありませんから、これからの1年間で何をするかということは考えています。けれども、それが大きな区切りや義務感で立ちはだかることはなく、その意味ではストレスは生じませんが、いつまでにやり終えなければならないという緊張感も乏しいものになっています。それがまあ高年という者が立たされる境涯というものなのでしょう。

 若い時代に戻りたいという願望はあまり強くはありませんが、新しい学校、新しい会社などでスタートを切る人たちがあふれている時期には、自分がちょっとだけ取り残されているように気持ちになることは確かなことです。

 この1年間でどんな道を歩いていくのかは、このブログで少しずつ報告していくことになるだろうと思います。

 健康面で赤信号が点灯しない限りは、節目の意識が乏しい、このような生活も、それなりに伸びやかなものでもあるのです。

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