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2017年1月29日 (日)

奥の細道を読む・歩く(151)

大石田①

 

 「最上川のらんと大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。」

 「奥の細道」は、尾花沢、立石寺、大石田…という順序になっています。

 私たちの今回の旅は、尾花沢から大石田へ歩いて、大石田を見て回った後、新幹線・大石田駅から帰途につくという計画です。立石寺は次回の旅で訪れる予定です。

 素英の生前墓を見た後、その北にある交差点を左折して西に向かいます。住宅前という普通名詞のようなバス停を過ぎ、県立高校の横を通って、東北中央自動車道を越えて、35分ほど歩くと道路は大石田町に入りますが、そこから5分で大石田駅に着きます。地下道をくぐって駅の表側に出ます。駅には「大石田町へようこそ よぐござったなっす~」と書いてあります。もう一枚には「大石田・尾花沢さ よくござってけだなっすー」と書いてあります。

 芭蕉は最上川下りに都合のよい天候を待つために大石田で3泊していますが、曾良随行日記によれば、それほどの悪天候ではなかったようです。むしろ俳諧の愛好者たちと交流し指導するために時間を費やしたからであったのかもしれません。

 大石田の駅構内が狭苦しく感じられるのに対して、駅前はそれに似つかわしくないほど広々としています。左手に向かって歩き、大石田中学校の前を通って、坂道を下っていくと、やがて乗舩寺に着きます。

 大石田は最上川が重要な水運の役割を果たしていた頃、その河岸として栄えました。文学者としては斎藤茂吉が1946(昭和21)1月から翌年11月まで大石田で疎開生活を送っていますし、神戸生まれの洋画家の金山平三も移り住んで茂吉と親交を結んでいます。乗舩寺には斎藤茂吉の墓があります。茂吉の墓は、東京の青山墓地と、生地の上山市と、大石田の3か所にあります。茂吉は1953(昭和28)2月に没していますが、ここの墓はそれより20年近く後に作られています。境内には、斎藤茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふゞくゆふべとなりにけるかも」の歌碑、正岡子規の「ずんずんと夏を流すや最上川」句碑も建立されています。 また、この寺には高桑川水家の墓碑があります。大石田の大庄屋を務めた家の初代から5代までの墓が並んでいます。曾良随行日記によれば、五月廿八日の山寺からの帰途に「上飯田より壱リ半。川水出合。」とあり、六月朔日には「大石田を立。一榮・川水、阿弥陀堂迄送ル。」とあるように、川水は大石田滞在中を含めて芭蕉を接待しています。

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