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2017年2月21日 (火)

奥の細道を読む・歩く(174)

象潟⑤

 

 曲がりくねって道が続いていきます。橋から近いところに熊野神社があります。石段を上ったところに境内地があります。芭蕉が象潟に着いた日はたまたまこの神社の祭礼の日でした。曾良随行日記には、宿が女客でいっぱいであったので向屋に泊まったと書かれています。

 この祭りに際しての曾良の句が「象潟や料理何くふ神祭」です。象潟に着いてみると折から熊野神社の祭礼が行われているが、このような海辺の田舎では、祭りのご馳走としてどんなものを作って食べるのであろうかという意味です。好奇心を持って即興的に作った句なのでしょう。

 塩越城跡の説明板もあります。城には九十九島に通じる堀が設けられ、前方に日本海、後方に鳥海山と九十九島を望める地にあったと書いてあります。戦国時代からの居館であったものが、江戸時代初期の大名・仁賀保氏の居城となったが、1631(寛永8年)に廃城となったと説明されています。芭蕉の頃には既に城ではなくなっていたのです。

 細い道を歩いていくと、次々とゆかりの地が現れて、小さな説明板が設けられています。芭蕉を迎えた今野又左衛門の家があります。当時の象潟の名主で、祭礼で忙しかったため、弟の嘉兵衛が芭蕉の滞在中は丁重にもてなしています。近くに、その今野嘉兵衛の家もあります。

 1784(天明4年)に三崎を経て象潟を訪れた菅江真澄が滞在した岡本屋の跡があります。真澄は三河(愛知県)の生まれですが、秋田藩主に重く用いられて、後に秋田地方の風俗・伝承などを詳しく記述した著書を残しています。また、明治の文豪・田山花袋が宿泊した秋田屋の跡もあります。花袋は旅の記録を「羽後の海岸」として残しています

 芭蕉が宿泊した能登屋跡があります、その向かい側に向屋があります。6月16日は向屋に、17日は能登屋に泊まったのです。

 これらの住居や宿屋の跡は、古いまま残っているわけではなく、ここがその地にあたるというだけですが、それでもきちんと説明板が設けられているのは嬉しいことです。

 街角に、象潟での奥の細道の旅を説明した、絵入りの大きな掲示もあるのですが、そのシートが破れているのは残念なことです。

 町の入口に設けられていた木戸の跡、年貢米を保管する米倉と番所が置かれていた御蔵屋敷の跡を経て、象潟駅に戻ってきます。

 なお低耳の句「蜑の家や戸板を敷て夕涼」は、海岸の漁師の家では雨戸を持ち出して腰を下ろして夕涼みをしているという、素朴な情景を詠んでいます。

 岩上のみさごの巣を見て作った曾良の句「波こえぬ契ありてやみさごの巣」は、波が越えそうにない岩の上だから安心するとともに、夫婦仲も決して変わることがないと信じて、睦まじく巣を営んでいると詠んでいるのです。

 この日は酒田の宿で、夜のテレビニュースで、東京都心で初めて11月に積雪があったことを知りましたが、山形・秋田県境では天気に恵まれた一日でした。

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