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2017年7月11日 (火)

奥の細道を読む・歩く(189)

乙子神社草庵を経て

 

 チョコレート色の観光用道標には「良寛たずね道」という文字が記されて、「夕ぐれの岡」という場所であることが示されています。堤防の内側に松が幾本も生えている一画です。大河津分水より以前には、このあたりに池沼があったとされ、周りは堤防に囲まれていたそうです。元禄の頃、国上寺再建のため各地で奉加をしていた萬元上人が、この堤防のあたりで夕陽を眺めながら歌を作ったという場所です。

 その歌は、「忘れずば道行きふりの手向をもここを瀬にせよ夕ぐれの岡」というのですが、上人からのち百年余り後、良寛は上人の歌に和して、「夕ぐれの岡の松の木人ならば昔のことを問はましものを」「夕ぐれの岡に残れる言の葉の跡なつかしや松風ぞ吹く」という2首を詠んだと言われます。

 渡部橋が近づいたあたりから右に折れて、しだいに坂道にかかります。「越後一の寺 国上寺」という案内が建てられています。全国各地には、それぞれの国の一の宮があり、国分寺や国分尼寺もあります。けれども「一の寺」という呼称を眼にするのは珍しいことです。

 いったん坂道を下ってから、再び上り坂になりますが、上りにかかるところには、国上寺、五合庵、乙子神社、ビジターサービスセンターという名が列記されています。古めかしい「佐渡弥彦米山国定公園 国上寺入口」という看板も、環境庁と新潟県の連名で吊されています。この舗装道路をたどれば国上山に通じるということを示しています。急な舗装道路を汗をかきながら登っていくと、道路から左の方を指し示して、「良寛修行の地 乙子神社」という案内板があります。

 小さな鳥居をくぐって木立の間を登ると、すぐに社殿が見えてきます。1885(明治18)に再建されたという本殿の左側には草庵があり、「史跡 良寛修業之地」という石柱が建っています。草庵は、良寛の在庵当時により近いものとして、このたび再建したとの説明板があります。説明板の日付は1987(昭和62)です。庵の入口の戸も、居室の4枚の雨戸も閉じられたままですが、ひとりの住まいとしては狭すぎるものではありません。本殿の右側には良寛の漢詩と和歌を記した碑があります。これは1858(安政5年)の建立で、漢詩の中には「嚢中三升米 炉辺一束薪」という言葉があります。手元にあるのは米3升と薪1束だけというつましさを憂えている風情はありません。

 良寛芸術の円熟期とされる、1816(文化13)からの10年間を過ごした草庵です。1815年の越後は大雪だったという記録があるようですから、雪が、五合庵からここへ移る理由のひとつであったかもしれません。雪の苦労は、暖かい土地に住む私たちの想像以上のものがあったことでしょう。

 乙子神社からもとの舗装道路に戻って、急な坂道を登り詰めると朝日山展望台に着きます。展望台の後ろ側に、子どもたちと遊ぶ良寛の像があります。良寛の前に3人、後ろに1人の子どもがいて、その間に良寛の姿があります。鞠を持って戯れている群像です。良寛は子どもたちに視線を投げかけて、俯きかげん 細面の柔和な顔です。「子どもらと手まりつきつつ此の里に遊ぶ春日はくれずともよし」という心そのままの姿です。

 近くの燕市分水ビジターサービスセンターで、安田ゆき彦画の良寛和尚像(複製)など良寛関係の資料を眺めます。

 良寛についての一応の知識は持っているのですが、国上山のあちこちで出会ったものから、良寛の息遣いのようなものを少しずつ感じられるようになりました。

 

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