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2018年1月31日 (水)

【掲載記事の一覧】

 『明石日常生活語辞典』の連載は終了しました。全体の加筆・修正を行い、2019年には出版するつもりです。折しも2019年は明石市が市制を施行してちょうど100年の節目に当たります。

 「奥の細道を読む・歩く」の連載を再開しました。毎日、掲載をするつもりですが、たぶん3月頃まで続くと思います。

 「言葉と言葉」という連載をしようと計画しています。当面は、ときどき、「奥の細道」と併載するつもりです。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでに連載した内容の一覧を記します。

 

◆奥の細道を読む・歩く ()(247)~継続予定

    [2016年9月1日開始~ 最新は2018年1月31日]

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(2605)

    [2009年7月8日開始~ 20171229日]

 

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-

                        ()()

    [20171230日~2018年1月7日]

 

◆ところ変われば ()()~継続予定

    [2017年3月1日開始~ 最新は2017年5月4日]

 

◆日本語への信頼 ()(261)~再開の可能性あり

    [2015年6月9日開始~ 最新は2016年7月8日]

 

◆名寸隅舟人日記 ()(16)~再開の可能性あり

    [2016年1月1日開始~ 最新は2016年4月2日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)~再開の可能性あり

    [201310月1日開始~ 最新は20131031日]

 

◆名寸隅の船瀬があったところ ()()

    [2016年1月10日~2016年1月14日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)

    [2012年9月20日開始~ 最新は2013年9月5日]

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日~2010年3月10日]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日~2011年9月13日]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日~2014年5月30日]

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日~2014年5月9日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日~2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日~2013年8月28日]

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日~20071212日]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日~2008年7月20日]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日~2009年9月10日]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日~2012年1月4日]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日~2012年5月3日]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日~2009年6月30日]

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日~20061231日]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日~2008年1月10日]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日~20061226日]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日~2009年6月4日]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日~2008年1月18日]

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日~2007年7月31日]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日~20081125日]

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日~2009年6月22日]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日~2009年5月8日]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日~2009年3月16日]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日~20081113日]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日~20081215日]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日~2007年6月30日]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日~2010年1月3日]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日~2012年7月8日]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日~2011年6月1日]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日~2014年4月12日]

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日~2008年9月24日]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日~200610月4日]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日~20061011日]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日~200611月2日]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日~2007年6月6日]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日~2007年8月10日]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日~2007年7月7日]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日~20071030日]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日~20061015日]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日~2007年8月20日]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日~2007年9月12日]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日~2007年9月29日]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日~200612月7日]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日~2007年5月7日]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日~20061222日]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日~2007年8月27日]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日~2007年8月30日]

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日~2015年3月31日]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58)

    [2015年4月1日~2015年6月23日]

 

◆奥州道中10次 ()(35)

    [20151012日~20151121日]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日~2012年9月19日]

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奥の細道を読む・歩く(247)

深山の永平寺

 

 「丸岡天龍寺の長老、古き因あれば、尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて、此処までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今、既別に臨みて、

    物書て扇引さく余波哉

 五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆゑ有とかや。」

 

 芭蕉は、汐越の松、天龍寺、永平寺の順に歩いていますが、私たちは汐越の松を既に見ておりますから、天龍寺と永平寺に行きます。しかも永平寺が先です。

 現代の交通機関を利用しますから、やむを得ない状況もあるのです。山中温泉でゆっくりした翌朝、一日にたった1本だけある、山中温泉から永平寺に向かう直通バスに乗ります。山中温泉の白鷺大橋の近くにバス停がありますが、白鷺大橋からは、昨日歩いた黒谷橋が見えます。

 国道364号を走って、石川県から福井県に入ります。沿道に「よう来なったの。福井」という看板が見えます。

 道元によって13世紀に開かれた坐禅修行の道場である永平寺は、四方を山に囲まれた幽谷の地にあります。芭蕉は「五十丁山に入て」と書いていますが、これはどこからの距離なのでしょうか。丸岡天龍寺からの距離が50町ほどになるという説があります。

 京都生まれの道元は、20代半ばで中国に渡り、帰国後、京都に寺を建てたりしましたが、越前に移って永平寺を開いたことを、「邦機千里を避て」すなわち、都に近いところを離れて、と言っているのでしょう。それにしても永平寺の記述は、心を動かされたような筆遣いにはなっておりません。

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2018年1月30日 (火)

奥の細道を読む・歩く(246)

ドレミファそら日記(45)     2017年6月26

 

0740分 JR東海道線、大阪駅発。特急・サンダーバード5号。

0959分 加賀温泉駅着。

1045分 加賀温泉バス、加賀温泉駅発。栢野行。

1127分 栢野着。

1130分 菅原神社、栢野の大杉。(1200)

1205分 栢野大杉茶屋(栢野大杉草だんご)(1220)

1230分 平岩橋。

1245分 紅葉谷橋の上。

1305分 無限庵の前。

1310分 こおろぎ橋。橋の周辺および橋の下。(1335)

1350分 采石巌。

1400分 川床のあるところ。

1405分 あやとり橋の下。

1410分 あやとり橋。

1420分 芭蕉の館。(1455)

1500分 泉屋の趾。菊の湯。

1505分 山中座(菊の湯たまご)(1515)

1520分 芭蕉句碑。

1525分 石川屋(娘娘万頭)(1540)

1545分 黒谷橋。

1550分 芭蕉堂。(1600)

1610分 医王寺。(1635)

1640分 白山大橋。 

1650分 湯快リゾート・山中グランドホテル着。

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2018年1月29日 (月)

奥の細道を読む・歩く(245)

黒谷橋から医王寺へ

 

 山中温泉は僧・行基が発見したと伝えられ、兵乱で荒廃するという憂き目に遭った時期もあるようですが、名湯として発展してきました。昭和6年に大火があって、その後は温泉街の面目を一新したようです。

 菊の湯という共同浴場がありますが、そこで温泉卵をいただきます。そして、そこからは、芭蕉の句碑を探したり、名物の娘娘万頭をいただいたりしながら、ぶらぶら歩きをします。

 芭蕉の道というところを歩いて、石で作られた黒谷橋に出ます。欄干には「此の川のくろ谷橋ハ絶景の地や 行脚のたのしみ奚にあり」という芭蕉の言葉が書かれています。この橋は、多くの人たちに見送られて芭蕉が那谷寺に向かった、別れの橋であるとも伝えられています。このあたりが、徒歩旅の頃の山中温泉への出入り口であったのでしょう。

 こおろぎ橋から黒谷橋までの鶴仙渓はおよそ1300メートルの距離です。このあたりも渓谷となっていますが、橋から下っていくと芭蕉堂があります。これは明治の末年に、芭蕉を慕う全国の俳人によって建てられたと言います。堂の中には小さな芭蕉像が、赤い布団の上に置かれています。

 黒谷橋から同じ道を少し引き返して、医王寺に向かいます。階段を上って高台に出ます。紫陽花の花ざかりです。曾良の日記によれば、芭蕉は旧暦7月28日に医王寺を訪れています。ここにも芭蕉の句碑をはじめたくさんの句碑があります。寺の裏手の墓地に泉屋・桃妖の墓があります。ご住職に案内してもらって墓を拝見すると、周孝桃妖居士・梵海潮音大姉各霊位の文字が刻まれていました。

 この後は、白山神社の前を通って、今宵の宿に向かいます。

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2018年1月28日 (日)

奥の細道を読む・歩く(244)

曾良に別れ、桃妖に別れる

 

 別れに際しての曾良の句「行々てたふれ伏とも萩の原」には、倒れ伏すまで芭蕉と一緒に旅をしたいという解釈、同じ倒れ伏すのならば萩の原でと願う解釈などがあります。しかし、それらは少し大げさな感じがしないでもありません。これからひとり旅になるけれども、病身ゆえに倒れ伏すことになるかもしれない、けれども萩の花の咲いている野原でそうなっても風流で、私にとっては本望だ、というぐらいの意味でよいのかもしれません。

 それに対して芭蕉は「今日よりや書付消さん笠の露」と詠んでいます。書付というのは笠の「乾坤無住、同行二人」の文字のことです。本来の意味は、天地の間にとどまるところはなく、仏と自分が一体となって旅をするという意味ですが、ここでは芭蕉と曾良の二人の意味に用いて、これからは二人でなくひとりの旅になるから書付を消そうというわけです。「露」は秋の季語ですが、人間関係のはかなさや、別離の涙をにおわせる言い方になっています。

 二人の別れの場面を再現した石像のある「芭蕉の館」から近いところに、芭蕉が逗留した泉屋の趾があります。宿の主人・久米之助はまだ14歳でしたが、芭蕉の俳号・桃青に因んで桃妖の俳号を貰い、のちの加賀俳壇において蕉風の発展に尽くしています。「旅人を迎に出ればほたるかな」などの句が伝えられています。

 泉屋の碑の傍に、芭蕉の句「湯の名残今宵は肌の寒からむ」が書かれています。この湯もこれが最後で、ここから余所の地へ移る今宵はさぞ肌寒く感じることであろうという意味です。「山中湯上りにて桃妖に別るゝ時」という前書きがあります。この辺りを「芭蕉の小径」と呼んでいるようです。

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2018年1月27日 (土)

奥の細道を読む・歩く(243)

延命の効能ある山中温泉

 

 白山は開山1300年になりますが、山中温泉も開湯1300年だそうです。山中は神戸の有馬温泉に次ぐ効能だと書いていますが、それは句にも響いているのです。

 「山中や菊はたをらぬ湯の匂」と言いますが、芭蕉が訪れたときは、菊の季節には少し早いようです。けれども、ここでは菊を詠み込みたかったのでしょう。

 山中は固有名詞には違いないのですが、菊の咲く山道を連想させています。菊は匂いも良く、延命の効果があると昔から言われていて、それに因んだ行事も広く行われています。菊を手折って延命を祈るというのは自然な行為なのですが、山中温泉は湯の効果が大きいので、菊を手折る必要もないという意味になっています。

 私たちは栢野から引き返して、バスで上ってきた道を離れて、大聖寺川を平岩橋を渡って反対側の道をたどります。平岩橋の名が書かれているところが、芭蕉の「かがり火に河鹿や波の下むせび」の句碑にもなっています。細い川が深い谷を作っています。

 大名書院造りの無限庵の庭園の傍を通って、こおろぎ橋へ行きます。ここは元禄時代より前から架かっている橋だそうで、総桧造りの橋は温泉客が必ずと言ってほど訪れる景勝地です。橋を渡った向こう側には、先ほどと同じ「かがり火に河鹿や波の下むせび」の句碑があります。川へ下りていく道があって、下から眺める木の橋も風雅なものです。

 いったん上がって、建物の間の道を歩きますが、しばらく行くと、鶴仙渓遊歩道というのが始まって、川の流れの傍をたどる道になります。中国風に采石巌と名付けられたところもあり、観光客向けの川床が設けられているところもあります。

 現代的な捻れた鉄骨の橋「あやとり橋」があるので、上っていってその橋を渡って、対岸に出ます。このあたりの川が道明が淵と呼ばれているところです。

 橋を渡ると、山中温泉の中心街という雰囲気になって、「芭蕉の館」があります。館の前に、芭蕉と曾良の別れの像があります。芭蕉は両腕を拡げてどんと構えて座っています。曾良は頭を下げて両手を揃えて、別れの言葉を述べているような風情です。全体が真っ白い石の像ですが、曾良の方に重量感を感じます。館内の展示室をひととおり拝見します。

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2018年1月26日 (金)

奥の細道を読む・歩く(242)

曾良と別れる山中温泉

 

 「温泉に浴す。其効有明に次と云。

    山中や菊はたをらぬ湯の匂

 あるじとする者は、久米の助とて、いまだ小童也。かれが父、俳諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて、世にしらる。功名の後、此一村、判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。

 曾良は腹を病て、伊勢の国、長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、

    行々てたふれ伏とも萩の原   曾良

と書置たり。行ものゝ悲しみ、残ものゝうらみ、隻鳬のわかれて雲にまよふがごとし。予も亦、

    今日よりや書付消さん笠の露 」

 

 「奥の細道」の足どりは、小松、那谷寺、山中温泉、全昌寺、汐越の松、天龍寺、永平寺という順ですが、今回の私たちの旅は山中温泉から始まります。3泊4日の旅を重ねるという日程を組んでいますから、順番を組み替えなければならなかったのです。全昌寺と汐越の松は既に訪れていますから、山中温泉、永平寺、天龍寺という順にたどります。

 芭蕉たちは、山中温泉に旧暦7月27日に着いて8泊もしています。新暦に直すと9月の中頃になります。泊まったのは山中の温泉宿・和泉屋で、その主人が若い久米の助です。

 山中温泉で芭蕉と曾良は別れることになるのですが、曾良は山中に着く前から健康を害していて、それは日記にも書かれています。芭蕉と曾良の人間関係の行き違いに理由を求める説もあるようですが、ここは素直に「奥の細道」の文章に従って理解しておきたいと思います。苦楽を共にした長旅も終わりに近づき、曾良は健康を害した自分が一緒にいては迷惑をかけると考えたのでしょう。金沢からは北枝が随行しているということもあって、曾良は芭蕉より先行し、伊勢の長島で病を養うことになります。

 私たちは加賀温泉駅からバスで山中に向かいます。バスは栢野行ですから、山中温泉の中心街を通り過ぎて、終点まで行きます。栢野からゆっくり道を下って山中まで歩こうという計画です。

 天然記念物である栢野の大杉は樹齢2300年と伝えられています。幹の周りが11.5メートル、高さは55メートル。群立していないのに空を覆わんばかりです。石柱には「天覧の大杉」とありますが、昭和2210月に行幸がありました。

 浮橋参道を歩くと、その先に菅原神社があります。路傍にある栢野大杉茶屋で草だんごをいただいてから、山中温泉に向かって下ります。

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2018年1月25日 (木)

奥の細道を読む・歩く(241)

ドレミファそら日記(44)     2017年5月25

 

0600分 アパホテル小松発。

0630分 小松天満宮。(~6時45)

0655分 葭島神社。

0725分 アパホテル小松着。

0845分 アパホテル小松発。

0900分 JR北陸線、小松駅発。普通・福井行。

0930分 大聖寺駅着。

0940分 全昌寺。(1045)

1115 加賀温泉バス、大聖寺駅前発。塩屋行。

1132分 吉崎着。

1220分 汐越の松(芦原ゴルフ場内)(1255)

1341分 加賀温泉バス、吉崎発。加賀温泉駅行。

1358分 大聖寺駅前着。

1431分 JR北陸線、大聖寺駅発。普通・福井行。

1500分 福井駅着。

1543分 JR北陸線、福井駅発。特急・サンダーバード30号。

1736分 大阪駅着。

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2018年1月24日 (水)

奥の細道を読む・歩く(240)

越の松とは、どれなのか

 

 係の人に案内されて、ゴルフクラブに来ている人たちを横目に海岸に向かって歩きます。ここから先は自分で行くようにと指示をされてから、しばらく歩くと松林の向こうに真っ青な海が見えてきます。段丘になっていて、海からは高い位置であることがわかります。

 海岸に近づいたところで左に折れて少し行くと、「奥の細道汐越の松遺跡」という石柱があり、木の札も立っています。右横の小さな祠には仏像がおさまっています。

 碑の向こうに、枯れた古い木が横たえられています。木と言っても残骸のようなものです。松の木はたくさん立ち並んでいるのですが、わざわざ朽ちた古木が横たえられているということは、これが汐越の松だという意思表示のように思われます。

 ただし、汐越の松は、一本の松のことなのか、数本あるいは数十本の松のことなのか、いろいろな説があるようですが、特定の一本というわけではないようです。西行の歌に詠まれているような情景が特定の一本で見られたということではないでしょう。この辺りは強い風にさらされるのでしょうか、巨木は見当たりません。

 崖の下に広がる日本海はあくまで青く澄んでいます。崖の下まで、背の低い木や草が続いていますから、西行が目にしたのは、もっと下の方にある松であったのかもしれないと思ったりします。芭蕉はもちろんですが、西行もあちらこちらの地に足を運んでいるのだなあと感心します。

 ゴルフクラブでいただいたリーフレットには、越前海岸国定公園、北潟湖などの文字はありますが、汐越の松のことは何も書かれていないのが残念なことでした。

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2018年1月23日 (火)

奥の細道を読む・歩く(239)

汐越の松に向かって歩く

 

 「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。

    終夜嵐に波をはこばせて

     月をたれたる汐越の松   西行

 此一首にて数景尽きたり。もし、一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。}

 

 大聖寺の駅前からバスに揺られて汐越の松を尋ねます。吉崎というバス停で降りて、そのまま松林のある方向に向かって歩き始めましたが、どうも様子が違うなぁと思い始めました。汐越の松は、芦原ゴルフクラブの場内にありますので、予め電話で依頼をしています。方向が怪しくなって、電話でクラブに確かめると、やはり方向が違っており、しかも、かなり離れていることがわかりました。乗り継ぐようなバス路線はありませんから、歩きます。

 芭蕉は「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。」と書いていますが、そのような優雅な舟もありません。バスを降りたところは石川県ですが、少し引き返してから、福井県境を通り、蓮如上人の吉崎御坊の建物などが集まっているところを通り過ぎます。しばらく行くと北潟湖が広がり、小さな浜坂漁港を過ぎます。この湖が「吉崎の入江」です。

 上り道にかかるところに石の道標があって「おくのほそ道 汐越の松碑 ここから右、九〇〇メートル」と書いてあります。汗をかきながら上っていくと、やっとゴルフクラブの入り口に着きます。

 さて、西行の歌ですが、嵐が一晩中吹いて汐越の松に波が打ちかかる、その水が松の枝から滴り落ちるところへ月の光が射すと、まるで月が松の枝から垂れ下がったように見える、という情景です。

 ゴルフ場で来意を告げると快く案内をしてくださいます。けれども、海は見えませんから、更に少し離れたところまで歩かなければならないことを覚悟します。

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2018年1月22日 (月)

奥の細道を読む・歩く(238)

一夜違いの曾良と芭蕉

 

 全昌寺の境内には、「大聖寺の城外、全昌寺といふ寺にとまる。」から、「草鞋ながら書捨つ。」までの「奥の細道」本文を記した碑があります。芭蕉の自筆を刻んだものです。そして「終宵秋風聞やうらの山」の曾良の句碑と、「庭掃て出ばや寺に散柳」の芭蕉の句碑とがあります。

 曾良の「終宵秋風聞やうらの山」は、師と別れて今夜はひとり寺に泊まったが、一晩中眠ることができず、裏山に吹く秋風を聞きながら夜を明かしたと詠んでいます。技巧も凝らさず、ありのままの様子を述べているのです。

 曾良の残した句を芭蕉は目にしたはずですが、曾良に呼応した句は作っていません。「庭掃て出ばや寺に散柳」は、寺を出立しようとすると庭の柳が散ってきた、せめてこの柳だけでも掃き清めてから発ちたいものであるという、感謝の気持ちを込めた挨拶の句になっています。「心早卒にして堂下に下る」という言葉には、曾良を追って先を急ぎたいという気持ちも込められているようです。

 師弟の句碑の近くには、「全昌寺、芭蕉忌における深田久弥(九山)作・全句」と題した句碑があります。「翁忌や師をつぐ故に師を模さず」をはじめとする11句が刻まれています。大聖寺は日本百名山などで知られる登山家、また、山の文学者である深田久弥の出身地です。「翁忌や」の句だけ独立した別の句碑も作られています。

 本堂の左前の方に羅漢堂があって、江戸時代の末期に作られた517体の五百羅漢が安置されています。本堂には芭蕉坐像があり、芭蕉が泊まったとされる部屋を復元して芭蕉庵と名付けている一隅があります。

 7万石あるいは10万石と言われる小さな城下町であった大聖寺ですが、九谷焼をはじめ独自の文化や美意識が開花しました。その落ち着いた町をゆっくり歩いて駅に戻ります。駅のホームの片隅にある芭蕉句碑には「山中や菊はたをらぬ湯の匂」が刻まれています。

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2018年1月21日 (日)

奥の細道を読む・歩く(237)

全昌寺へ向かう

 

 「大聖寺の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶、加賀の地也。曾良も前の夜此寺泊て、

    終宵秋風聞やうらの山

と残す。一夜の隔、千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う、読経声すむままに、鐘板鳴て、食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかゝへ、階のもとまで追来る。折節、庭中の柳散れば、

    庭掃て出ばや寺に散柳

とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。」

 

 芭蕉と曾良は山中温泉で分かれて、曾良が先に泊まった全昌寺に、芭蕉も一日遅れで泊まります。

 曾良の日記によると、曾良は8月5日の夕刻に全昌寺に着き、6日も滞在し、7日朝に寺を出発しています。「曾良も前の夜此寺泊て」というのを事実とすれば、芭蕉は7日夜に全昌寺に着いたことになります。

 小松で泊まった私たちは、朝の間に、小松天満宮に行って「あかあかと日は難面もあきの風」の句碑などを見て、葭島神社などを巡ってから、電車で小松から大聖寺に向かいます。

 大聖寺という駅名は、北陸線の拠点駅か何かのように印象に残っている名前ですが、古びたような印象で、大きな駅ではありません。かつては、山中温泉方面への電車が発着していましたから、特急も停まるような駅であったのでしょうが、今では加賀温泉駅からのバスが山中、山代などの温泉を結んでいます。駅構内のプラットホームの片隅に芭蕉句碑がありますが、これは鉄道としては珍しいことだと思います。

 大聖寺駅から歩いて10分ほどで全昌寺に着きます。全昌寺のことを、山麓の高低差のあるところに堂宇があるよう、私は勝手に想像していました。「鐘板鳴て、食堂に入。」から「心早卒にして堂下に下る」というあたりの文を、建物を下り降りているように解釈していたのです。実際は平坦な土地にあります。

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2018年1月20日 (土)

奥の細道を読む・歩く(236)

ドレミファそら日記(43)     2017年5月24

 

0755分 東横イン金沢駅東口発。

0818分 JR北陸線、金沢駅発。普通・小松行。

0849分 小松駅着。

0915分 建聖寺。(0925)

0935分 すわまえ芭蕉公園。

0940分 菟橋神社。(0945)

1000分 本折日吉神社。(1020)

1025分 龍昌寺跡(芭蕉宿泊の地)

1030分 多太神社。(1100)

1120分 「カレーの市民」で昼食。(1140)

1210分 小松バス、小松駅前発。那谷寺行。

1252分 那谷寺着。

1255分 那谷寺。(1545)

1605分 小松バス、那谷寺発。小松駅前行。

1647分 小松駅前着。

1710分 アパホテル小松着。

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2018年1月19日 (金)

奥の細道を読む・歩く(235)

那谷寺と芭蕉

 山門から向かって左半分に普門閣や奇岩遊仙境や大悲閣があって、右半分には芭蕉句碑や護摩堂、鐘楼などがあります。どちらかというと左に人の流れが多く、右に少なくなっています。

 芭蕉150回忌の天保年間に建立された句碑に刻まれているのは「石山の石より白し秋の風」ですが、すぐ右側には翁塚があって、「山中の温泉に行ほど、白根が嶽後にみなしてあゆむ。……」から「……奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。」までの文章と、「石山の」の句が刻まれています。あたり全体が苔むした感じになっているのを好ましく感じます。高等学校の頃だったと思いますが、はじめて「石山の」の句を習ったときは、近江の石山寺と比べてそれよりももっと白く、という意味を教わったと記憶しています。けれども、「石山」を那谷寺の眼前の石山と見て、その石山よりももっと白く、秋の風を感じると考えてもよいのだという気持ちになりました。那智、谷汲、石山寺というような他の寺院とは関係なく、那谷寺はすっくと存在していると思うのです。

 近くに縁結びの神としての庚申像があって、縁結びのご利益が書かれていて、現実世界に引き戻される気がします。

 すこし上っていったところに、修法を行う護摩堂と、袴腰の上部まで石造りの鐘楼があります。どちらも寛永年間の建立で国の重要文化財ですが、このあたりまで足を延ばす人は少なくて、静かな雰囲気を味わえます。

 下ってきて、バスの時刻まで間がありますから、聖茶(ひじりちゃ)と菓子をいただきます。

 私たちは小松に戻り、一泊します。

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2018年1月18日 (木)

奥の細道を読む・歩く(234)

那谷寺をめぐる

 

 那谷寺の山門を入ったところは、寛永年間に作庭された庫裏庭園です。杉の木の根元など、あたり一面は苔でおおわれています。

 普門閣・宝物館は、寺院とは異なる感じがするのですが、1965(昭和40)に白山の山麓、旧新保村の春木家を移築・保存したものだと言います。休憩所・売店を兼ねています。商業的に施設も、寺の運営のためには必要なのでしょう。

 大きな木々の間を参道が貫いていますが、それが終わって空が見えたところで 左手に池が現れて、その向こうに奇岩遊仙境が見えます。ここは「おくのほそ道の風景地」として国名勝に指定されています。山門までの田舎の村落風景、山門を入ってからの古木のたたずまい、そして奇岩霊石の世界。眼前のものが次々に変化していきます。

 そこに一枚の掛札があります。「遠い遠い昔、自然は神だった。人は皆、神の恵みに感謝していた。だから誰も自然を傷つけることをためらった。生きとし生ける全てのものと共に生きる喜びに満ちあふれていた。しかし今、我々は……」

 「しかし今、我々は……」で文章は終わっているのですが、今の人たちはこのように手取り足取り、説明されないと、自然の恵みを忘れてしまって、平気で自然を傷つけてしまうのです。眼前の喜びに心を奪われ、自分たちを取り巻くものからの恩恵を忘れてはなりますまい。

 真っ赤な紅葉の向こうに本殿である大悲閣が見えます。観音霊水の前を通って、大悲閣への石段を上ります。一向一揆の兵乱で荒れたものを1642(寛永19)に前田利常が再建したということですが、岩壁に依りかかるように建てられています。殿内には胎内くぐりもあります。岩を切り開いたような、狭い切り通しの道を通って下に向かいます。

 同じ寛永期に建立された三重塔があり、色鮮やかな楓月橋を渡って、展望所に出ます。下から仰ぎ見た奇岩遊仙境に対峙する高さになります。ここは浄土を思わせる境地です。紅葉もありますが 全山が緑におおわれた静かな世界です。しばらく、見入ります。

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2018年1月17日 (水)

奥の細道を読む・歩く(233)

那谷寺と白山、そして花山法皇

 

 「山中の温泉に行ほど、白根が嶽後にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふとや。那智・谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

    石山の石より白し秋の風 」

 

 芭蕉は、7月24日に小松に着き、25日に多太神社に詣でています。26日は天候不順でしたが、27日に菟橋神社に参拝した後、山中温泉に向かっています。山中に9日間滞在した後、再び小松に向かい、その途中に那谷寺に参拝しています。私たちは、小松から直接、那谷寺に向かいます。今回は山中温泉へ行かず、次回の3泊4日のときに訪れる予定です。

 小松駅前からのバスで40分余りかかりますが、バスの終点は、意外に山深いところではありません。

 「奥の細道」に言う「白根が嶽」は石川・岐阜県境にある白山のことです。四季にわたって雪が消えることがないので白山と呼ばれるようです。小松から山中へ向かう道では、白山は東南の方角、つまり前方に見えるはずですが、道の曲がり具合で「後にみなしてあゆむ」こともあったのでしょう。「左の山際」にある「観音堂」が那谷寺のことです。

 花山法皇が天皇を退位したときのことは「大鏡」などにも書かれていて、在位3年で退位させられています。退位後に西国巡礼を始めたと言われており、西国三十三所の霊場とつながりの深い方です。

 那谷寺は717(養老元年)開創と言いますから、今年でちょうど1300年になります。高僧・泰澄によって白山が開かれたのと同時です。ここは白山信仰とつながりの深い寺です。那谷寺の「那」は那智の那、「谷」は谷汲の谷です。花山法皇が御幸されたときに、古名の岩屋寺を那谷寺に改められたと伝わります。

 ここは確かに岩屋の寺です。村里にある寺のように思いましたが、山門を入ると様子が一変します。芭蕉が詠んだ「石山の石より白し秋の風」は、芭蕉150回忌に建てられた句碑に刻まれています。

 那谷寺の石山は、近江にある石山寺のように白く、それよりもさらに白い秋風がここを吹き巡っている、という風情です。

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2018年1月16日 (火)

奥の細道を読む・歩く(232)

実盛と「むざんやな」の句

 

 越前が生国である斎藤別当実盛は加賀の篠原の地で討ち死にをしています。はじめ源義朝につかえ、平治の乱ののち、平宗盛につかえています。幼少の頃の木曽義仲の命を救いましたが、巡り巡って平家敗走のときには、義仲軍の手塚太郎光盛に討たれています。

 「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句は、討ち死にをした実盛の甲の下できりぎりすが鳴いている、これはなんといたましいことだ、という意味ですが、そんな訳文では言い尽くせないものがあります。老武者と侮られまいとして白髪を染めて義仲軍との戦いに参加し、討ち死にした実盛の甲を取り上げてみると、その下にきりぎりす(今のコオロギ)がいたというのですが、戦乱の世の中の一点景として見ると、実盛の他にもこのような結末をたどった者は幾人もいたことでしょう。謡曲などに取り上げられる人もいれば、そういうこととは無縁の人も大勢いたはずです。

 多太神社は木曽義仲が戦勝を祈願した神社であり、義仲は命の恩人であり、節を重んじて戦った実盛の供養として、その甲冑や弓矢を奉納して慰霊したのです。芭蕉は簡潔に、「實盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。」と書いています。

 境内には、実盛の供養祭が6月3日(私たちが訪れた10日ほど後)に、加賀市の篠原で催されるというポスターが掲示されています。また、社頭には実盛の甲の模型が碑として作られています。甲の正面には八幡大菩薩の文字が見えます。

 由緒の深い、大きな神社なのですが、私たちは朱印をいただきたいと思って、人影を探したのですが、神社全体が静まり返っているだけでした。その静けさこそが実盛に対する供養でもあるように感じました。

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2018年1月15日 (月)

奥の細道を読む・歩く(231)

本折日吉神社から多太神社へ

 

 「此所太田の神社に詣。實盛が甲、錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打たり。實盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。

    むざんやな甲の下のきりぎりす 」

 

 菟橋神社から引き返して多太神社に向かいますが、多太神社の手前に本折日吉神社があります。

 真っ赤な鳥居の本折日吉神社は、山王さんとして親しまれており、芭蕉は小松滞在中に、神主の藤村伊豆宅の句会に招かれています。境内に芭蕉留杖の地という石碑が建っていますが、そこには、近江屋という旅宿に泊まった翌朝、出立しようとしたときに小松の人達に引き留められ、神主宅に泊まって句会を催したということが彫り込まれています。その時に披露した句が「しをらしき名や小松吹く萩薄」だというのです。

 本折日吉神社から多太神社への途中に、本折地蔵堂というのがあって、龍昌寺跡であって、芭蕉宿泊の地であると書かれています。

 多太神社は、6世紀はじめに創建されたと伝えられています。胸のあたりに笠を持って、右手で杖を突いている芭蕉像が、高い台座の上に建てられています。力強い足どりで、遠くをじっと見据えている姿です。芭蕉は、多太神社で斎藤別当実盛の兜などを見ています。実盛と木曽義仲の巡り合わせに感慨を覚えたのでしょうか、「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句を残しています。筆太の文字で書かれた句碑があります。さらに斎藤別当実盛公の像も作られています。

 芭蕉の句にあわせて、この時に供をしていた二人も句を詠んでいます。

  幾秋か甲にきえぬ鬢の霜   曾良

  くさずりのうら珍しや秋の風 北枝

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2018年1月14日 (日)

奥の細道を読む・歩く(230)

小松を歩く

 

 金沢から30分ほど列車に乗って、小松に着きます。小松には、勧進帳の舞台である安宅の関がありますから、ここは歌舞伎の町です。隈取りの絵などもあって、駅前にはそんな雰囲気が漂います。イメージキャラクターは「カブッキー」です。

 駅から真っ直ぐ西(海側)に向かいます。真行寺などの寺が並んでいます。

 寺町通りを北に向かってたどっていくと、左手に建聖寺があります。室町時代後期に能美郡寺井の地に創建され、1640(寛永17)に現在地に移ったと言います。この寺には、加賀藩3代藩主の前田利常の子・亀松が5歳で早逝したのを悼んで乳母・侍女たちが追善のため寄進した仏涅槃図があって、小松市指定の文化財になっています。

 広くはないお寺ですが、門前に「はせを留杖の地」という碑が建っており、門を入ると右手に芭蕉の碑があります。「蕉翁」と刻んだ石碑があり、その右側に小さな句碑があります。「しをらしき名や小松吹く萩薄」の句です。

 小松というのは何と控えめでいじらしい名前であるのだろう、風はこの地の小さな松の木の上を吹き、萩や薄をなびかせている、と詠んでいます。

 建聖寺の住職は留守とのことですが、奥様に招き入れられます。所蔵されている芭蕉木像のことを話題にしたら、拝見できることになりました。厨子の中から取り出されたのは、芭蕉の門人・立花北枝が作った像です。

 北枝は、金沢から松岡までの16日間ほど、体調のすぐれない曾良に代わって同行しています。のちに芭蕉十哲のひとりに数えられています。

 建聖寺を出て北に進むと、広い道路のそばに、すわまえ芭蕉公園というのが設けられています。芭蕉句碑「ぬれて行や人もをかしき雨の萩」があります。雨にぬれる萩は趣深く、これを見ながらやはりぬれていく人の姿もまた風情がある、という意味です。

 歓生に招かれて句会を開きましたが、この句は歓生宅の庭をたたえた挨拶の句でしょう。これを立句に五十韻が巻かれています。句会に同席した小松の俳人達が詠んだ五十韻を刻んだ句碑が作られています。活字体の日です。句会は1689(元禄2年)7月26日のことです。

 広い道路を横断すると、そこが菟橋神社で、ここにも「しをらしき名や小松吹く萩薄」の句碑があります。

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2018年1月13日 (土)

奥の細道を読む・歩く(229)

ドレミファそら日記(42)     2017年5月23

 

0810 東横イン金沢駅東口発。

0825分 北陸鉄道バス、中橋発。からくり記念館行。

0850分 金石着。

0855分 本龍寺。(0910)

0925分 北陸鉄道バス、金石発。金沢工業大学前行。

0950分 近江町市場着。

1005分 彦三大通りを通って、浅野川の彦三大橋へ。

1025分 浅野川大橋。

1030分 ひがし茶屋休憩館。

1035分 ひがし茶屋街。

1045分 徳田秋声記念館。(1130)

1135分 梅ノ橋。

1140分 瀧の白糸像。

1155分 金沢城公園。(1205)

1210分 兼六園。(1320)

1245分 兼六亭で昼食。治部煮。(1310)

1340分 高浜虚子・年尾文学碑、室生犀星文学碑。(1410)

1425分 長久寺。(1430)

1435分 寺町鐘声園。(1445)

1500分 願念寺。(1520)

1530分 室生犀星記念館。(1620)

1625分 雨宝院。

1630分 成学寺。(1635)

1645分 にし茶屋街。(1655)

1700分 犀川大橋。

1705分 芭蕉の辻。

1710分 北陸鉄道バス、片町発。金沢駅前行。

1720分 金沢駅前着。

1740分 夕食。(1830)

1835分 東横イン金沢駅東口着。

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2018年1月12日 (金)

奥の細道を読む・歩く(228)

にし茶屋街のあたり

 

 犀川大橋が見えるところを通って、室生犀星記念館に向かいます。犀星歳時記・春夏編という展示をしています。展示資料を見ながらゆっくりと静かな時間を過ごすように仕組まれたような雰囲気に満ちています。時間の都合で駆け足になりそうなのが残念です。

 記念館の近くにある雨宝院は、室生犀星が、寺の子として育った幼少時代を描いた「性に目覚める頃」に登場するところです。犀星生い立ちの寺として、犀星展示室も設けられているようですが、ここでも、ゆっくりできません。

 成学寺の境内には「あかあかと日は難面も秋の風」の芭蕉句碑(秋日塚)があります。また、ここにも一笑塚があります。

 にし茶屋街に立ち寄りますが、夕方ですから観光客の姿はありません。閉館間際の金沢市西茶屋資料館をさっと一見します。かつての部屋の雰囲気が残され、芸妓さんたちが使っていた品々も展示されています。ここは作家・島田清次郎が青年期を過ごした吉米楼の跡だそうです。「ひがし茶屋街」と「にし」とはもともと違った趣を呈していたのか、それとも訪れている観光客の多寡に理由があるのか、ともかく夕方の「にし」には、暮れゆく一抹の寂しい風情があります。

 頑丈で古風な、国登録有形文化財である犀川大橋を渡って、芭蕉の辻に向かいます。芭蕉の辻は、芭蕉が10日間ほど滞在した、旅人宿の宮竹屋があった場所です。

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2018年1月11日 (木)

奥の細道を読む・歩く(227)

願念寺の一笑塚

 

 観光客が多く集まっている妙立寺は、数々の仕掛けが施されていて、忍者寺として親しまれていますが、その横を通り抜けて、芭蕉と一笑ゆかりの願念寺へ向かいます。

 願念寺は蕉門の俳人・一笑の菩提寺です。門前に「芭蕉翁来訪地・小杉一笑墓所」とあって「塚も動け我泣く声は秋の風」の芭蕉句が刻まれています。

 一笑は、金沢の蕉風の先駆としての役割を果たした人で、400句近い遺作が伝えられています。芭蕉が訪れる前年の冬に36歳で早世し、金沢に来てそれを知った芭蕉は慟哭したようです。その追善のために詠んだのが「塚も動け我泣く声は秋の風」です。

 あなたを悼んで泣く私の声は、もの寂しい秋の風とともにあなたに呼びかける、塚よ、この声に応じて動いてほしい、という意味です。無念さがにじむ句です。

 境内に一笑塚があります。一笑の辞世の句「心から雪うつくしや西の雲」が刻まれ、大きく「一笑塚」と書いてあります。

 芭蕉は「奥の細道」の旅に際して、各地の門人達と予め連絡をとっていたと思われますが、一笑の死は、知らなかったのでしょうか。当時の通信手段を考えれば、知らなくても不思議ではありませんが、たとえ知っていたとしても落胆の気持ちは大きく、「一笑と云ものは、此道にすける名の、ほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、」という文章になったのでしょう。追善供養は芭蕉来訪によって突然に企画されたものではないでしょう。

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2018年1月10日 (水)

奥の細道を読む・歩く(226)

犀星のみちから、静音の小径へ

 

 兼六園から下ってきて、犀川のほとりに到ると、高浜虚子・年尾父子句碑があります。「北国の時雨日和やそれが好き 虚子」と「秋深き犀川ほとり蝶飛べり 年尾」とが一つの石に刻まれています。詠まれた季節を一致させているのは、父子が伴っての旅であったのでしょうか。

 このあたりは「犀星のみち」と呼ばれていて、室生犀星文学碑もあります。「あんずよ  花着け  地ぞ早やに輝けり  あんずよ花着け  あんずよ燃えよ」が刻まれています。

 桜橋で犀川を渡り、坂を上って寺町寺院群に向かいます。ここには70に及ぶ寺社がありますから、寺を離れるとまた寺、小道を抜けるとまた寺、というような風情です。静音(しずね)の小径と呼んでいるようですが、観光客の足さえなければ、静かなたたずまいが広がっています。

 長久寺に芭蕉の句碑があります。「ある草庵にいざなはれて」という言葉に続いて、「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」の句が彫られています。

 秋のすがすがしい空気の中で、瓜や茄子は自分自分の手で皮をむき、いただくことにしよう、という句趣です。ある草庵とは、犀川のほとりの一泉亭だと言われています。

 この辺りは寺町台とも呼ばれ、寺町鐘声園という庭でしばらく休憩します。

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2018年1月 9日 (火)

奥の細道を読む・歩く(225)

兼六園を歩く

 

 金沢城公園のそばを通ると、三文豪が並んでいる像があります。百間掘を通って、兼六園に入ります。

 まずは、芭蕉の句碑を目指して歩きます。碑面は文字が読みとりにくい状態になっていますか、これは「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」を刻んだものです。

 太陽は夏と同じように照りつけてはいるが、風には秋の風情が漂ってくる、という意味です。「あかあかと」は明々とともとれるし、赤々とともとれます。この句は、金沢に着くより前に想を得て、金沢での句会で披露したようです。ただし、「奥の細道」の文章の流れの中では、小松への途中の吟とされています。

 園内は花菖蒲などが満開です。和服姿の女性もいて、池の周りは華やかです。兼六園に来るのは3度目ぐらいですが、写真や映像でしばしば目にしていますから、新しい印象はありません。

 兼六亭で昼食をとることにして、治部煮を注文します。この店には、「室生犀星の小説『性に眼覚める頃』、お玉の掛茶屋が今の兼六亭です」という説明板が掛けられています。治部煮は代表的な加賀料理の一つのようですが、私たちの注文したのは、観光客向けのものでしょうから、本格的なものとはどう違うのかはわかりません。

 真弓坂口から、兼六園を出ます。

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2018年1月 8日 (月)

奥の細道を読む・歩く(224)

浅野川と秋・鏡花

 

 近江町市場を通り抜けて、彦三大通りを通っていくと、浅野川の彦三大橋に出ます。この橋を渡ってから右に折れて入ると、古い飴屋があって俵屋と書いてあります。麩料理の店などもあります。

 ゆっくり歩いていても、すぐに、ひがし茶屋街に着きます。重要伝統的建造物群保存地区です。旧涌波家主屋、茶屋建築の志摩、などなどがあって、落ち着いた一画です。土産物屋飲食の店が多いようです。遠足か旅行かの中学生や高校生も行き交っています。大きな声も出さず、ゆっくりと歩いています。

 その中に、加賀棒茶・喫茶「一笑」という店もありますが、「奥の細道」に「一笑と云ものは、此道にすける名の、ほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催す」とある「一笑」に因んだものでしょう。

 豪快な流れから犀川が「男川」と呼ばれるのに対して、浅野川は「女川」と呼ばれているそうですが、川のそばに徳田秋聲記念館があります。企画展は、秋聲の長男、徳田一穂の「父への手紙」展です。一穂の生い立ちは、秋聲の出世作といわれる小説「黴」に詳しく描かれています。記念館の2階の窓からは、浅野川や梅ノ橋の様子などが広がっています。

 梅ノ橋を渡るまでの浅野川沿いには「秋聲のみち」という愛称がつけられていますが、橋を渡ると「鏡花のみち」になります。川沿いに「瀧の白糸碑」があって、鏡花の出世作「義血侠血」の主人公の像があるのです。近くに歌謡曲「友禅流し」の歌詞碑もあります。川に沿って松の並木が続きます。並木町という地名です

 金沢の三文豪として称えられているのは、徳田秋声、泉鏡花、室生犀星ですが、犀星はまだ登場してきません。

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2018年1月 7日 (日)

じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-⑨

()自分の命との兼ね合い

 

 辞典を作るための入力作業を続けてきて、いつでも全体を出力できる段階までに到達しているのですが、ここ数年間は記述しているものの加除修正を繰り返しています。大体は記述を加えたり、より望ましい用例に取り替えたりするようなことを行っています。この作業は長く続ける方がよいと思っていますが、一方で、自分の命の長さとの兼ね合いで、どこかで終了しなければならないと思います。時間の限界が迫っていると言うべきかもしれません。

 どこで踏ん切りをつけたらよいのかはわかりません。満足感というか、完成した思いというか、そういうものがなくても、ある段階で区切りをつけるしかありません。未完成で終わるよりは、不十分でも形として残しておきたいという気持ちがあるのです。

 実際に「明石日常生活語辞典」として現在までに記述している量は、1行を40文字として入力して、5万5000行を超えています。

 もちろん、全国共通語と同じ言葉は多いのですが、それは、全国共通語と同じ形の言葉も使っているという事実をきちんと記録していることでもあります。

 このような手作業で行っている記述は、パソコンを駆使して数量的に処理する研究などとは無縁のものです。もとよりすべての語彙を集めきれたとは思っていませんが、ある程度のものを記録できたというのが、現在の段階での思いです。

 

 ◆この文章は、2017年5月12日に関西大学で開催された日本方言研究会の第104回研究発表会で発表した内容をもとに、そのときの発表とはやや異なった方向から書き改めたものです。

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2018年1月 6日 (土)

じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-⑧

()言葉はゆっくり変化している

 

 私が方言について興味・関心を持ち、調査や研究らしきことを始めてから半世紀以上が経過しました。ひとつひとつの言葉の使われ方は、ゆっくりと変化していますが、長い目で見ると様相が異なってしまったと感じることも少なくありません。そのごく一例を挙げます。

 例えば、仮定を表す言い方では、祖父母の世代ではごく普通に使われていたと思われる、動詞の未然形で表す言い方、「明日(あした)、雨が降ら、運動会は中止や。」という言い方はほとんど聞かれなくなっています。今は、「明日、雨が降ったら」とか「明日、雨やったら」という言い方に置き換えられてしまっています。

 活用語の未然形で表す言い方は、形容詞にもありました。形容詞の未然形を使って、「長けら、二つに折れ。」と言いました。長いのならば二つに折りなさいという意味ですが、その言い方は、今ではほとんど聞くことはありません。「長かったら、二つに折れ」とか、「長いのやったら、二つに折れ」という言い方になってしまっています。

 また、例えば、理由などをあらわす接続助詞の「さかい」は、使用頻度が格段に少なくなりました。「雨が降りそうやさかい 傘を持って行きなはれ。」という言い方は、「から」や「ので」を使って表現する度合いが高くなっています。

 この日常語辞典で記述している内容を、例えば今後の半世紀という隔たりを経て見てみたら、おそらく大きな違いを感じることに違いないだろうと思います。

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2018年1月 5日 (金)

じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-⑦

()辞典の記述の仕方

 

 日常生活語辞典は、次のように記述していきます。

① 見出し語は、一般の国語辞典の書き方に沿いますが、実際に発音しているのに近い形を書きます。よく似た発音の形も見出し語としてあげますが、それは、見出しの数を増やそうという意図ではなくて、さまざまな形で検索しやすいようにするためです。

  接頭語、接尾語、慣用句なども見出しとして挙げます。擬声語や擬態語などをできるだけ多く集めるようにします。

  全国共通語と同じ形の言葉も、そのまま記述します。その言葉を使っているという事実を示すことが記録になっています。

② 品詞は、一般的な学校文法によって区別します。すべての言葉に品詞名などを記し、動詞は活用の種類を記し、その他の文法的な説明も煩雑にならない範囲で行います。

③ 言葉の意味については、単なる言葉の置き換えは避けて、その言葉の持つ意味や働きを説明するように心がけています。

④ それぞれの言葉には、具体的な用例を示します。意味をいくつかに分類する場合は、それぞれについて具体的な用例をあげます。

  用例は、短い句の形ではなく、文の形で表現するようにします。その用例文は、文節ごとの分かち書きとして、かつ、文節の中を単語に分けて、単語と単語の間にコンマ()を入れます。ごく一部の例外を除けば、用例の中に現れるそれぞれの単語は、この辞典の見出し語として記載している語です。

⑤ それぞれの語と同意である言葉、きわめて近い意味を持つ言葉は、矢印()で比較・参照できるようにします。そのことによって、俚言同士の関連性を示すとともに、俚言がどのような共通語に置き換えられる傾向にあるかということも示すことになります。

  ひとつの言葉と他の言葉との同じ意味の言葉、対になる言葉、派生する言葉などの関係も示しますが、それは、共通語・俚言という垣根を設けることなく行います。そのことによって共通語と俚言の橋渡しをする類義語辞典・同義語辞典・対義語辞典の役割もそなえることができると考えています。

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2018年1月 4日 (木)

じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-⑥

(6)辞典として記述する範囲

 

 この辞典では、日常生活で使う基礎的な語彙を記録しようと考えます。組織的な、あるいは系統的な教育によらなくても、日常生活の中で身につけていくような言葉です。

 けれども、その範囲を、言葉の難易度とか、言葉の使用頻度とかいうようなモノサシで定義することは難しいと思います。日常生活語というものの範囲の設定のために神経を使うつもりはありません。ふだん使っている言葉という言い方をすれば、あいまいさは否定できないと思いますが、きちんと線引きできるようなものではありません。恣意的だと言われればそれまでですが、大まかな考えで進めています。

 それぞれの言葉の使用頻度にはこだわりません。高齢者が時たま使うような言葉であっても、消えゆくことを見過ごさないで、記述するように努めたいと思うのです。

 記述する時間的な範囲については、記述者である私の祖父母の世代の人たちが使っていた言葉、父母の世代の人たちが使っていた言葉、自分の世代の人たちが使っている言葉です。それを実際の収集に基づきながら、自分の内省によって詳しく記述して説明しようと考えます。

 言葉は長い時間をかけて変化を続けていますが、祖父母、父母の世代のものを受け継ぎ、子、孫の世代へ伝えていきます。自分を含めて、そのわずか5つの世代の間であっても、言葉はゆっくりと、しかしかなり大きく変化していることを実感します。音韻、アクセント、文法は遅い足どりで変化していますが、語彙はそれらよりも足早に変化をしています。

 かつて祖父母たちが使っていて、自分も知っている言葉であっても、自分が使おうとしない言葉はたくさんあります。自分がしばしば使う言葉や、かつて使っていた言葉であっても、子や孫たちが使わない言葉はたくさんあります。

 共通語の語彙の場合は、国語辞典などにおいて、誰かが記録をしていてくれるのですが、ある地域の方言(主として俚言)は使われなくなって記録されていなければ、記憶から消え去ってしまうことになります。言葉がなくなることは、人が亡くなるのと同じように、悲しく切ないものがあります。

 この辞典は、いわば昭和という時代を中心にした、一地域の言葉の有様を記述しておこうとするものです。したがって、それを分析したり法則を組み立てたりするようなことを当面の目的にしていません。後になって資料としての価値があればそれでよいと考えています。

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2018年1月 3日 (水)

じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-⑤

()調査者の立場と被調査者の立場をまじえて

 

 私は、昭和五十年代から始まった文化庁の都道府県別の方言収集緊急調査の兵庫県の調査員として神戸市を担当しました。神戸市兵庫区の、いわゆる和田岬地域です。

 その方言収集緊急調査における調査協力者(被調査者)の要件は、その土地で生まれ育ち、よその土地に住んだことのない人、あるいは、その期間が短い人であり、収録時において六十歳以上の人でした。神戸のような都市部の調査において、この要件を満たす人を探すことはなかなか大変でした。

 ところで、私は、明石市大久保町西島に生まれて、そこで生活を続け、たぶんそこで死を迎えることになるだろうという者です。

 時が流れて、かつての方言収集緊急調査の被調査者の要件が、今では自分に備わっていることに、一方では愕然としつつも、他方ではそれを活用しないのはもったいないと思うようになっています。

 私の住んでいるところは神戸市の近郊ですから、今では高層のマンションも数多く建てられるようになりましたが、もともとは半農半漁の村というようなところです。同じ苗字の家も多く、江戸時代から何代も続いているような家もたくさんあります。わが家もそのようなものの一つなのですが、以前から使われている言葉が残りやすい地域です。

 日常生活語辞典の記述において、私は、調査者という立場と被調査者という立場とを兼務することになるのですが、調査者と被調査者とを兼務することの利点は、内省によって言葉を見つめることができるということです。その地域で使われている言葉の全体を、質問法や自然傍受法や会話録音によってのみ収集することは無理です。無数の項目による質問をしても、何百時間の録音をしても、漏れ落ちてしまう言葉はいくらでもあるでしょうが、それを自分の内省によって補っていくことは、そこで生涯を過ごしている者だからこそできることでもあるのです。

 用例は、ある程度は作文によらなければなりませんが、それは被調査者の要件をそなえている者が内省に基づいて行いますから、とんでもない誤りを犯すことにはならないでしょう。ただし、自分自身の思い込みは強く戒めなければならないと思っています。

 調査者と被調査者を兼務するやり方が万全であるとは思っていません。同じ地域に住んでいる人たちは同じ方言を使っていると考えるのは幻想のようなものです。たとえ私が、前に述べたように被調査者の要件を満たしているとしても、私が記述する日常生活語が、その土地の標準的なものであると考えるのは軽率なことであるでしょう。けれども、地域外に住む人が研究して作り上げる語彙集よりも、その土地の言葉のありのままの姿に近いものができあがるだろうということは言えそうです。

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2018年1月 2日 (火)

じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-④

()方言を録音や文字で記録する

 

 「消え行く方言」などという表現をしばしば耳にします。確かに、日常生活において俚言が使われる度合いはしだいに少なくなっていると思います。方言が消えていくという指摘を否定するつもりはありませんが、あくまでも日常生活で使われているのは俚言などを含めた方言です。共通語を使う度合いが強まっていっても、方言はなくなってしまうわけではありません。

 けれども、方言(つまり、俚言を中心とした言葉)を使う度合いが少なくなっていくのなら、ある時点における方言(共通語と俚言を合わせたもの)のありのままの姿を記録しておくことは、後世のために大切なことであると思います。

 方言の力は衰えていくというのがおおかたの見方であっても、消えていくことを黙って見ているわけにはいかないという気持ちがあって、日常生活語を記述(記録)する作業を私はしているのです。

 それぞれの地域で使われている言葉はしだいに全国共通語に引っ張られて、共通語の色合いを濃くしていっているにしても、方言研究というものを、消えて行く言葉を追いかけるものであるというように考えたくはないのです。

 古くから使われ続けている俚言と、力を強めつつある共通語がどのように共存し、またどのように補いあっているかということに注目することが大事であると思います。全体が共通語の方に引かれていく傾向を示しつつも、その中で残り続けている俚言もたくさん、あるのです。

 現在の方言を後世のために記録するとすれば、録音によるのが最も手っ取り早いと思います。そのような記録の仕方は、方言研究において、力を発揮しています。

 けれども、録音によって記録されたものは、音韻、アクセント、文法の研究にとっては好ましい資料となるでしょうが、語彙についてはちょっと違うように思います。

 発音、アクセント、語法などは、たくさんの録音などを分析して、結論を導き出すことはできるでしょう。けれども、語彙については、何百時間の録音をしても、そこから語彙の全体像をとらえることは難しいと思います。無数の質問を繰り返しても、なかなか全体の姿には近づけません。語彙はひとつひとつを丹念に記述していってはじめて全体像に迫れるのではないかと考えます。

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2018年1月 1日 (月)

じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-③

(3)俚言を含めた全体が方言である

 

 方言というのは、ひとつの言語(例えば日本語)が地域によって異なった発達をして、音韻、アクセント、文法、語彙などの上で、違いが見出されるとき、それぞれの言語の体系を指して言う言葉です。例えば、語彙について言うと、その地域で使われている言葉の全体が方言なのです。

 全国のあちらこちらで、語彙を集めた方言集が作られていますが、それら出版物の大多数は地域特有の言葉(俚言)を集めたものです。例えば、前述の「やま」のような言葉は省かれているのが通例です。

 私たちの日常の言語生活は、全国で通用する共通語、広い地域にわたって使われている地域共通語、その地域だけで使われている俚言などを用いて営んでいます。私たちは共通語や俚言を織り交ぜながら、その折々にふさわしい言葉を選んで使っているのですが、それらをひっくるめたものが方言です。地域特有の言葉である俚言は、方言の一部であるのです。

 方言研究では地域特有の現象に関心が向くことは当然でしょうが、それぞれの地域の言語生活の全体像を見る目も大切であると思います。

 音韻、アクセント、文法などに関しては、その地域の全体傾向を説明することは多いのですが、語彙を全体として把握する研究は必ずしも多くないように思います。

 私は明石市を例にして、日常生活でごく普通に使われる語彙を、共通語・俚言という区別を設けないで、記述しようと考えました。そのような言葉を仮に日常生活語と名付けます。

 

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