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2018年2月22日 (木)

奥の細道を読む・歩く(269)

湯殿神社に詣でる

 

 抜けるような青空の朝です。参籠所の前には真っ赤な大鳥居が立っています。朱色でなく落ち着いた濃い赤色です。鳥居の額には「出羽三山神社奥宮 湯殿山本宮」と書かれています。この鳥居を下から眺めたとき、坂道を上っていく方角に湯殿山本宮があるのです。

 参籠所から本宮へは、ごく短時間、バスに揺られますが、バスを降りるとすぐに撮影禁止のエリアとなります。芭蕉も「此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。」と記しています。

 月山と同じようにお祓いを受けますが、お祓いをしてくださるのは、前夜に迎えに来ていただいた神職のうちの一人の方でした。お礼を述べてお祓いを受けます。湯の湧き出ているご神体の赤い巨岩があり、その左横を通って、巨岩の上の方に出られるようになっています。周りの山々を見回していると、ここが霊場であることを感じさせられます。

 芭蕉は「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」という句を詠んでいます。湯殿山中のことは人に語ることを許されない、それゆえにこの場所から受ける感動が心の中に籠もって、いっそうありがたく感じて涙で袖を濡らすばかりである、という意味です。これは挨拶の句ではなく、芭蕉は心底から敬虔な思いになっているのでしょう。

 曾良が詠んだ句「湯殿山銭ふむ道の泪かな」の「銭ふむ」は、道の辺りに散らばっている賽銭のようです。湯殿山に参拝するとその賽銭を踏んで歩かなければならないが、やはり霊山の尊さが感じられて涙がこぼれるばかりである、という意味です。

 近頃のテレビは秘仏であろうと何であろうと引っ張り出して、白日の下にさらけ出して、それが報道の役割だと誤解している傾向が強いのですが、人間には、心の中だけで存在させておくようなものも大事だと思います。映像は仮のものであって、心の中に存在するものこそ本物である、という感じ取り方も必要だと思います。

 バスで参籠所に戻りますが、ここから先をどうするかです。次の目的地は羽黒山頂です。当初の計画では、月山を経由して同じ道を引き返すことも考えていましたが、昨日のことを振り返ると、時間的に無理だと判断しました。

 参籠所から羽黒山上までの直通バスのリーフレットを見つけましたが、これは休日のみの運行だと知って落胆です。結論は、やむを得ずタクシーを利用することにしました。湯殿山から下って鶴岡市の郊外を通って羽黒山に向かうという、迂回のような道筋ですが仕方がありません。

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