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2018年2月28日 (水)

奥の細道を読む・歩く(275)

美濃の大垣へ

 

 「露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の?宮おがまんと、又舟にのりて、    蛤のふたみにわかれ行秋ぞ  」

 

 「奥の細道」は敦賀の次は大垣になっています。木之本や関ヶ原の辺りを通って大垣に入ったと思われますが、その記述はありません。超高速な旅の記録になっています。曾良は一足先に行ってしまっていますから、芭蕉の足跡を記録しておりません。

 関西に住む私たちにとっては、赤穂や姫路から神戸・大阪・京都を貫いて走る新快速電車の終着駅が敦賀ですから、関西の圏内という気持ちを持っています。東海道線・北陸線や湖西線の電車にはよく乗っていますから地元という感覚です。また、赤坂宿(大垣市内)から関ヶ原を経て番場宿(米原市内)へとたどる道は、かつて中山道の旅で歩いています。

 そんなわけで、今回は一足飛びに大垣の町へ行きます。その後、芭蕉の故郷・伊賀上野をめぐります。1泊2日の旅です。

 私は大垣へは3回か4回、訪れています。初回はまさに「奥の細道」結びの地を尋ねる目的でしたが、西国三十三所の谷汲山へ行ったときに立ち寄って歩いたこともあります。大垣は遠い昔、東京行きの鈍行夜行列車の出発する駅でしたし、東京からの同じ列車が美濃赤坂行きであった時期もあります。何度か乗った懐かしい列車であり、駅でした。

 伊賀上野へも3回ほど訪れています。したがって、今回はどちらも再訪の旅です。

 「奥の細道」結びの地は、駅よりは南にあるのですが、まずは大垣駅から北に向かいます。JRの通称・赤坂線で美濃赤坂駅に行きます。正式にはここも東海道線の一部なのですが、盲腸のような、行き止まりの支線です。美濃赤坂駅からは貨物専用の私鉄がさらに北へ伸びています。

 中山道赤坂宿の記念標識が作られているところを通って、右折すると坂道が始まり、子安神社の前を過ぎます。道はしだいに厳しい勾配になっていきます。辺りの景色が足元に広がっていきます。息を弾ませて上りますが、距離はさほどのものではありません。

 目指したのは明星輪寺です。ここに芭蕉の句碑があるのです。赤坂の虚空蔵にて、と題する句「鳩の声身にしみわたる岩戸かな」です。秘仏をまつった岩戸を前にしていると折から鳩の声が身に染みわたることだ、という意味です。

 明星輪寺から下りてきて、懐かしい中山道を東へ歩いて赤坂港に行ってみます。ここを流れる杭瀬川は水運に大きな役割を果たしていました。往時を語る常夜灯が残されています。大垣は、芭蕉が伊勢へ向かうのにも便利なところです。

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2018年2月27日 (火)

奥の細道を読む・歩く(274)

ドレミファそら日記(52)     2017年7月27

 

8時30 ホテルイン鶴岡発。(送迎バスによる)

8時45分 鶴岡駅から歩き始める。

8時55分 日枝神社。(~9時00)

9時05分 長山重行宅跡。

9時10分 内川乗船地跡。

9時15分 内川河川公園。

9時25分 丙申堂。

9時30分 御城稲荷神社。

9時35分 荘内神社。藤沢周平記念館前。

9時40分 致道博物館前。

9時50分 大宝館。

9時55分 庄内交通バス、致道博物館発。エスモールバスターミナル行。

1008分 鶴岡駅前着。

1106分 JR羽越線、鶴岡駅発。いなほ8号(新潟行)

1257分 新潟駅着。

1319分 上越新幹線、新潟駅発。とき322号・東京行。

1528分 東京駅着。

1533分 東海道新幹線、東京駅発。ひかり519号・新大阪行。

1826分 新大阪駅着。

 

 

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2018年2月26日 (月)

奥の細道を読む・歩く(273)

長山重行宅跡と内川乗船地跡

 

 今回の3泊4日の旅は、出羽三山が大きな目的でしたが、帰りに鶴岡の町を見て回ります。

 「奥の細道」では鶴岡のことを「羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云もののふの家にむかへられて、誹諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田の湊に下る。」と書いています。

 鶴岡駅前から歩いて向かった最初の目的地は日枝神社です。赤い鳥居をくぐってから、右手の小さな橋を渡ると、「珍しや山をいで羽の初茄子」の芭蕉句碑があります。山(出羽三山)を出たばかりの私は、珍しい出羽の初茄子でもてなされている、という意味です。「いでは」には、出たとたん(出で端)という意味と、出羽(いでは)の地名との掛詞です。鶴岡周辺は小粒の民田茄子の産地だそうです。

 神社から近いところに庄内藩士の長山重行宅跡があります。狭い場所が小公園のようになっていて、芭蕉滞留地の石碑と「珍しや…」の句碑とがあります。「長山氏重行と云もののふの家にむかへられて、誹諧一巻有。」とあるように、重行宅で歌仙を巻き、ここに3泊してから、川舟で酒田に向かいます。

 すぐ近くに内川の細い流れがあって乗船地跡があります。ここからは「川舟に乗て、酒田の湊に下る。」という旅です。酒田までは7里ほどで、ほぼ半日の行程です。

 芭蕉にまつわるところはそれでお終いですが、その後は内川河川公園を経て、鶴ヶ岡城五日町口木戸跡、豪商の旧風間家住宅・丙申堂などを通ります。鶴岡公園に入って庄内神社、藤沢周平記念館、大宝館、致道博物館などのあたりを歩きますが、時間の関係で中に入ることはしません。駆け足のように歩いた鶴岡市内ですが、それでも城下町の風情はじゅうぶん堪能できました。

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2018年2月25日 (日)

奥の細道を読む・歩く(272)

ドレミファそら日記(51)     2017年7月26

 

0750 湯殿山参籠所発。

0800 庄内交通バス、湯殿山参籠所前発。

0805分 湯殿山本宮前着。

0805分 湯殿山神社本宮。(0925)

0945分 庄内交通バス、湯殿山本宮前発。

0950 湯殿山参籠所前着。

1036分 湯殿山参籠所発。タクシー。

1145分 羽黒山頂着。

1154分 羽黒山レストハウスで昼食。(1215)

1220分 芭蕉像と句碑。

1225分 三神合祭殿。(1240)

1250分 羽黒山斎館。

1315分 南谷への入口。

1325 南谷。(1330)

1350分 芭蕉翁三日月塚。

1415分 五重塔。(1430)

1435分 祓川、須賀滝。(1440)

1450分 随神門。

1505分 庄内交通バス、羽黒随神門発。エスモール行。

1540分 鶴岡駅前着。

1620分 「若林」で夕食。(1725)

1805分 ホテルイン鶴岡着。(送迎バスによる)

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2018年2月24日 (土)

奥の細道を読む・歩く(271)

石段を下って、南谷、五重塔へ

 

 小さな鳥居をくぐると、下へと続く石段が始まります。随神門までの距離は1700メートルほどと書いてありますが、石段の前後の幅が狭いところもあり、かなり急なところもあります。ゆっくり下りていきます。上ってくる人もいますが、上・下とも人数はまばらです。

 蜂子社、厳島神社などを過ぎて、石段の両側に杉並木が続きます。右手の斎館からは中学生と思われる人たちが出てきています。ここは羽黒山参籠所として使われています。なだらかな石畳の坂道があったり石段になったりします。小さな石に「十五丁」と彫られたのがあります。尾崎神社、八幡神社と過ぎて、かなり急な石段がカーブしているところがあります。このあたりは三ノ坂と呼ばれているところです。縁結びの埴山姫神社を過ぎ、右側の谷間にある奉納植樹された田谷村杉を通り過ぎると、南谷の入口になります。

 案内板が掲げられていますが、南谷は石段の道から外れて辿らなければなりません。ちょうど南谷から戻ってきた人がいて、道がぬかるんでいて大変だったと教えてくれます。しかし「別当代會覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐憫の情こまやかにあるじせらる。」という南谷ですから、難路を厭っていてはなりません。道いっぱい泥水が広がっていて時には水たまりに足を踏み入れながらたどると、「県指定史跡 羽黒山南谷」の標石があって広場に出ます。木立が遠のいて太陽が注いでいます。芭蕉の句碑は苔むして文字が読み取りにくくなっています。小さな池があり、四阿も作られています。芭蕉が泊まった寺(紫苑寺)は解体移築されてしまいましたから、礎石だけが残っています。

 本坊(若王寺)の誹諧興行で作った芭蕉の句が「有難や雪をかをらす南谷」です。冷たくて身にしみるような雪が残っているが、ここには草木の香りを含んで吹いてくる風があって、清浄な感じがして貴く感じられる、と言っているのです。真夏の南谷の近くに残雪があったとは思えませんから、遠くの高い山の雪を見ての感懐なのでしょうか。

 片道500メートルほどの南谷を往復してから、二ノ坂、一ノ坂へと下ります。御本坊跡、いくつもの小さな神社が続きます。

 石段の傍らに芭蕉翁三日月塚という石の塚が建っています。「涼しさやほの三か月の羽黒山」に因んで、江戸中期に鶴岡の俳人達が作りました。

 名物力餅と書かれた二の坂茶屋が右手にあり、少し行くと左手に湯殿山遙拝所がありますが木立が繁って見晴るかすことはできません。

 一ノ坂にかかっても、いくつかの小さな神社があります。そして右手に国宝の羽黒山五重塔が見えてきます。高さは30メートルほどで、平安時代創建の素木造りの塔です。きらびやかではありませんが、しっとりとした木立の中に、均整のとれた姿で堂々としています。この辺りになると、団体さんが多くなってにぎやかになりました。

 樹齢1000年という天然記念物の爺杉、祓川をはさんで流れ落ちる須賀の滝、真っ赤な神橋を見て、継子坂の石段を上って随神門をくぐります。

 随神門前からは、バスに揺られて鶴岡に向かいます。

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2018年2月23日 (金)

奥の細道を読む・歩く(270)

羽黒の山上を見る

 

 「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代會覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐憫の情こまやかにあるじせらる。四日、本坊において誹諧興行。

   有難や雪をかをらす南谷

 五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。延喜式に羽州里山の神社と有。書写、黒の字を里山となせるにや。羽州黒山を中略して、羽黒山と云にや。出羽といへるは、鳥の毛羽を此国の貢に献ると風土記に侍とやらん。月山・湯殿を合て三山とす。当寺、武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、圓頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にしてめで度御山と謂つべし。」

 

 「奥の細道」の引用は、前述のように、羽黒山の方が後になります。

 羽黒山上のレストハウスで昼食を終えてから、山上を歩きます。杉木立に囲まれた山上駐車場から三社合祭殿の方に向かうと、静かな世界になります。

 まず、芭蕉の像に出会います。桃聖芭蕉と書かれた高い台座の上で、頭陀袋を胸に掛けて、枝木がちょっと曲がったような格好の杖を左手に持って、左前方をじっと見つめている姿です。笠はありません。

 「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句碑もあります。なんと涼しいことだろうか、羽黒山の上には月が見えることだ、という意味です。「ほの三日月」というのは、「ほの見える」と「三日月」の掛詞です。この句はいつ詠まれたものであるかということは問題です。「奥の細道」の本文に従えば、羽黒山南谷の別院に帰ったときのように受け取れますが、月山・湯殿山を巡って帰ったときとすれば旧暦6月7日以降になります。もう「三日月」ではなくなっています。南谷にはその前の6月3~5日にも泊まっていますから、その頃に詠んだとするのがふさわしいかもしれません。

 広場を前にして、茅葺きで朱塗りの大きな建物がありますが、三社合祭殿です。「出羽神社(羽黒山神社)」「月山神社」「湯殿山神社」の額が掲げられています。出羽三山を巡ることは、死と再生をたどる「生まれかわりの旅」と言われてきたそうですが、すべてを巡る旅ができない人は合祭殿でその代わりをしたのでしょうか。羽黒山が現在、月山が過去、湯殿山が未来という見立てもされているようです。

 合祭殿の前には楕円形の鏡池があります。羽黒の神が姿を現す池だと考えられていますが、200面近い銅鏡が発見されて重要文化財に指定されています。

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2018年2月22日 (木)

奥の細道を読む・歩く(269)

湯殿神社に詣でる

 

 抜けるような青空の朝です。参籠所の前には真っ赤な大鳥居が立っています。朱色でなく落ち着いた濃い赤色です。鳥居の額には「出羽三山神社奥宮 湯殿山本宮」と書かれています。この鳥居を下から眺めたとき、坂道を上っていく方角に湯殿山本宮があるのです。

 参籠所から本宮へは、ごく短時間、バスに揺られますが、バスを降りるとすぐに撮影禁止のエリアとなります。芭蕉も「此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。」と記しています。

 月山と同じようにお祓いを受けますが、お祓いをしてくださるのは、前夜に迎えに来ていただいた神職のうちの一人の方でした。お礼を述べてお祓いを受けます。湯の湧き出ているご神体の赤い巨岩があり、その左横を通って、巨岩の上の方に出られるようになっています。周りの山々を見回していると、ここが霊場であることを感じさせられます。

 芭蕉は「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」という句を詠んでいます。湯殿山中のことは人に語ることを許されない、それゆえにこの場所から受ける感動が心の中に籠もって、いっそうありがたく感じて涙で袖を濡らすばかりである、という意味です。これは挨拶の句ではなく、芭蕉は心底から敬虔な思いになっているのでしょう。

 曾良が詠んだ句「湯殿山銭ふむ道の泪かな」の「銭ふむ」は、道の辺りに散らばっている賽銭のようです。湯殿山に参拝するとその賽銭を踏んで歩かなければならないが、やはり霊山の尊さが感じられて涙がこぼれるばかりである、という意味です。

 近頃のテレビは秘仏であろうと何であろうと引っ張り出して、白日の下にさらけ出して、それが報道の役割だと誤解している傾向が強いのですが、人間には、心の中だけで存在させておくようなものも大事だと思います。映像は仮のものであって、心の中に存在するものこそ本物である、という感じ取り方も必要だと思います。

 バスで参籠所に戻りますが、ここから先をどうするかです。次の目的地は羽黒山頂です。当初の計画では、月山を経由して同じ道を引き返すことも考えていましたが、昨日のことを振り返ると、時間的に無理だと判断しました。

 参籠所から羽黒山上までの直通バスのリーフレットを見つけましたが、これは休日のみの運行だと知って落胆です。結論は、やむを得ずタクシーを利用することにしました。湯殿山から下って鶴岡市の郊外を通って羽黒山に向かうという、迂回のような道筋ですが仕方がありません。

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2018年2月21日 (水)

奥の細道を読む・歩く(268)

ドレミファそら日記(50)     2017年7月25

 

0715分 多聞館発。

0720分 芭蕉出羽三山句碑。

0725分 出羽三山神社入口。

0735分 庄内交通バス、羽黒随神門発。羽黒山頂行。

0750分 羽黒山頂着。

0805分 庄内交通バス、羽黒山頂発。月山八合目行。

       (8時30分四合目、8時40分六合目)

0900分 月山八合目着。

0905分 弥陀ヶ原を歩き始める。

0915分 御田原参籠所、月山中ノ宮。(0920)

1035分 鳥海山が、雲の間から見える。

1140分 仏生池小屋(月山九合目)で休憩・昼食。(1215)

1225分 オモワシ山の麓。

1245分 行者返し。

1305分 木道。

1330分 月山神社(月山山頂)(1405)

1415分 芭蕉句碑「雲の峰」(1425)

1435分 稲荷神社。

1535分 牛首。

1555分 金姥の手前。休止(1605)

1615分 金姥。

1750分 月光坂(鉄梯子)

1900分頃 水の流れる沢の道で、暗くなりはじめる。

1930分頃 湯殿山神社の神職の人と出会う。

      この後、湯殿山神社を経て駐車場へ。駐車場から参籠所まで車。

2045分 湯殿山参籠所着。

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2018年2月20日 (火)

奥の細道を読む・歩く(267)

湯殿に下る

 

 「奥の細道」は「笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。」と書いているように月山で一夜を過ごしています。

 月山を詠んだ句の「雲の峯幾つ崩て月の山」は、いろいろな解釈ができるのですが、次のように理解することにします。昼間は峯のようにそびえていた入道雲(雲の峯)が、一つ崩れ、二つ崩れるようにして、幾つ崩れたのかわからないが、夜に入るとともに晴れ上がって山全体が月光に照らされている、という情景です。「月の山」という言葉には、月に照らされている山という意味と、月山という固有名詞とが掛けられています。「頂上に臻れば、日没て月顕る。」と書かれていますが、旧暦6月6日ですから半月より小さい月であったのです。私たちは昼間に通過しますから、芭蕉の詠んだような景色に巡りあうことはありません。

 私たちは、このまま湯殿山に向かって歩きます。石ころのガタガタ道を登ってきましたから、私たちの体もガタついています。

 月山神社本宮からは少し下って、月山頂上小屋の横を抜ける道が続いています。これが湯殿に下る道です。すぐに登りにかかりますが、月山神社を振り返ります。空は雲が覆っています。少し行くと「雲の峯幾つ崩て月の山」の句碑が建っています。背丈よりも大きい堂々としたものです。

 ここからは本格的な下山道で湯殿に向かうのですが、登ってきた道よりも難渋します。いろんな石の上を歩く道であり、傾斜が急なところがあります。まるで土石流が流れ下ったような道筋で、しかも足元は、大小の石が重なり合っています。進む方向は判断できますが、案内板はほとんどありません。そんなところがしばらく続きます。

 牛首というところに来て初めて標柱に出会いますが、月山頂上まで1.1㎞、湯殿山神社まで4.5㎞と書いてあります。この後、少しの間は整備された石畳道を歩きますが、道は雪の中に消えて、雪を踏んで歩くところもあります。

 金姥というところが月山から下りきった位置になるのですが、私たちはその手前で、月山がよく見えるところで一休みします。

 予定していた時刻よりもかなり遅れ気味です。泊めていただく湯殿山参籠所に連絡して到着が遅れることを連絡します。この後、一度、参籠所からの電話がありましたが、それ以後は携帯電話からは、話し中となってすぐに切れてしまう状態になりました。

 雪が雪庇のように張り出している下を通ったり、ミズバショウの群落を見たりして進みます。梯子が掛けられているところがあることは知っていましたが、何か所も何か所もあってびっくりします。狭くなって、大小の石ころだらけの道に水が流れ込んできます。左右よりも窪んだところが道になっているのですから、水はすべてこの道に流れ込んでくるのです。ゆっくりゆっくり進みます。夏ではありますが、そのうちに夕暮れの時刻が気になり始めました。芭蕉の時代はどのような道であったのでしょうか。

 結局、道とも言えないようなところを下っていると夕闇が迫ってきました。ほぼ下りきったときに、前方に懐中電灯が見えました。湯殿神社の2人の神職の方が来られたのでした。

 後からわかったことを書きます。私たちは、遅くなっても参籠所に着けばよいと考えていましたが、道は湯殿神社のそばを通っていて、神社を通らなくては参籠所に行けないのでした。電話が通じなかったから、参籠所から神社に連絡があったのでしょう、暗くなりそうだから、迎えに(というよりは、道に迷っていないかという心配で)来ていただいたのです。なお、電話は、このあたりではNTTドコモは通じるが、私の持っているauの機種は通じないのだそうです。

 この後、湯殿神社から参籠所までは車で送っていただくということまでしていただきました。

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2018年2月19日 (月)

奥の細道を読む・歩く(266)

弥陀ヶ原から山頂へ

 

 「八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏でのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶、身こゞえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。

 谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に劍を淬とかや。干將・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜の、つぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花、爰にかをるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々、短冊に書。

   涼しさやほの三か月の羽黒山

   雲の峯幾つ崩て月の山

   語られぬ湯殿にぬらす袂かな

   湯殿山銭ふむ道の泪かな  曾良 」

 

 八合目という言葉からは、山頂は近いような印象を受けますが、山頂までは6㎞近い石ころ道を登らなければなりません。芭蕉は「木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏でのぼる」と書き、その距離を「八里」としていますが、それは月山八合目よりはずっと下からの距離です。それにしても「日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶、身こゞえて頂上に」着くことになるでしょう。月山は盛夏でも雪が残っているところがあるのです。

 駐車場のあるところから石段を登ると、そこからは弥陀ヶ原の湿原が広がっています。しばらく行くと御田原参籠所があり、月山中ノ宮があります。このあたりでは、団体で訪れている白装束の参拝者をたくさん見かけます。参拝を済ませて出発すると、ちょっと雨模様になりました。

 広い湿原ですが、木道や細い石ころ道を進みます。この湿原を一周して観察する道も作られていますが、そんな時間の余裕はありませんので、月山山頂への道をたどります。

 黄色いニッコウキスゲ、紅紫色のハクサンチドリをはじめいろんな花が目を楽しませてくれます。あちこちに小さな池もあります。小さな石が凸凹に敷かれているのを踏み、右へ左へ身をよじらせて、大きな石は迂回しながら、ゆっくり登っていきます。小雨が霧に変わり、それが止んでも、なかなか青空にはなりません。

 参籠所のあたりから1時間余りして、やっと鳥海山が、雲の間から見えるようになりました。姿の美しい鳥海山も山頂の辺りには、雪の縦縞が見えます。こちら月山も、目の下に雪が残っている部分があります。そうこうしているうちに道が雪の下に消えています。ここは雪の上を歩きます。大勢がここを歩いていますから雪が黒く見えるところがあります。このあたりは背の低い灌木だけになって、見晴らしが良くなりました。

 ようやく月山九合目に着き、仏生池小屋で休憩し昼食をとります。標高1743メートルと書いてあります。頂上までの道のりの半分が終わったのですが、予想していたよりも時間が速く過ぎています。とはいえ、疲労回復のためにゆっくりと食事をします。

 ハクサンシャクナゲの白い花が目立つようになりました。小さなイワウメも咲いています。オモワシ山の麓を経て、行者返しをかきつくように登り、また木道を歩いたりします。山頂が近付くと、また雪の上を歩きます。少しずつ溶けている雪ですから、洞穴のようになっいるところもあります。山頂の堂宇見えるようになって、やっと月山山頂に着きます。登ってくる途中は人をあまり見かけなかったのですが、山頂の周りには大勢の人たちが休んでいます。

 月山神社に参拝します。拝観料(お祓い料)を払うと、お祓いをしていただいて、登拝認定証をいただけます。「あなたは、標高1984mの出羽三山の主峰月山を踏破し月山頂上鎮座、月山神社本宮を参拝されました。其の健脚を称え、ここに認定証を授与します。」と書いてあります。八合目からは、歩く以外の方法はないのです。頂上の境内をぐるりと一周しますが、ここは撮影禁止になっています。

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2018年2月18日 (日)

奥の細道を読む・歩く(265)

月山を目指す

 

 芭蕉の旅は馬や舟に助けられることはありましたが、それ以外は自分の足で歩いています。芭蕉に比べると軟弱な現代人である私たちは、月山八合目まではバスで行きます。羽黒山から月山まで歩くのは、登山を専門にしている人たちぐらいなものでしょう。

 宿を出ると、近くに芭蕉出羽三山句碑があります。「涼しさやほの三か月の羽黒山」「雲の峯幾つ崩て月の山」「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の3つの句が、ひとつの碑に刻まれています。このあたりにはいくつもの宿坊が並んでいます。宿坊が受け入れる人は、地域ごとに分かれているのでしょうか、「青森県全域、岩手県九戸郡・久慈市・二戸郡・二戸市・旧東磐井郡 受持宿坊」などという看板を見かけたりします。

 そこからしばらく歩くと、羽黒山随神門に着きます。随神門から羽黒山頂へは長い石段が続いているのですが、石段で疲れてしまってはいけません。羽黒随神門前のバス停から、石段からは離れて走る羽黒山頂行のバスに乗ります。そして月山八合目行のバスに乗り継ぐのです。

 この旅に出発する前に、バスのことが心配になりました。もしも満員で乗り切れなかったらどうなるのかと、庄内交通バスの案内所に電話で問い合わせたところ、そんな事態は起こりませんとの返事でした。月山を目指す乗客は、私たち以外は数人でした。朝一番のバスであったからかもしれません。

 バスは、羽黒山頂近くの休暇村やビジターセンターの前には停まりましたが、そこから先は八合目終点まで乗降するところはありません。けれども、運転手は無線で連絡を取りながら、まるで列車のように、月山四合目(強清水)や月山六合目(平清水)を通過する時刻をきちんと守って走っています。狭い登山道路ですから、八合目から降りてくるバスとすれ違うところが設定されているのです。

 四合目、六合目と高くなるにつれて、霧が深くなったり晴れたりします。

 冷気に包まれた月山八合目に着いたのが、ちょうど9時です。駐車場が設けられ、ここから先は車は入れません。磐梯朝日国立公園・月山八合目という石碑もありますし、環境省や山形県が立てた案内板などもあります。

 いよいよ山登りです。ここから先、月山山頂を経て湯殿山神社までは、自分の足以外に交通機関はありません

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2018年2月17日 (土)

奥の細道を読む・歩く(264)

ドレミファそら日記(49)     2017年7月24

 

0916分 東海道新幹線、新大阪駅発。ひかり514号・東京行。

1210分 東京駅着。

1240分 上越新幹線、東京駅発。Maxとき321号・新潟行。

1450分 新潟駅着。

1508分 JR白新線、新潟駅発。いなほ7号(秋田行)(時刻表では1501分発)

1820分 鶴岡駅着。(時刻表では1651分着)

1837分 庄内交通バス、鶴岡駅前発。羽黒随神門行。

1911分 羽黒荒町着。

1915分 多聞館着。

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2018年2月16日 (金)

奥の細道を読む・歩く(263)

羽黒山の麓

 

 「奥の細道」は、立石寺、大石田、最上川、羽黒山、月山、湯殿山という順で歩いています。私たちもなるべくその順序で辿りたかったのですが、月山と湯殿山は標高も高く、夏の間しか登ることができません。バスが運行される期間が限られています。後回しにしていた出羽三山を、7月下旬に敢行することにしました。

 芭蕉が羽黒や月山に泊まったのは、旧暦6月3日から9日まで、この年の旧暦を新暦に直すと、7月19日から25日までです。当時の山登りにどのような制約があったのかはわかりませんが、出羽三山にさしかかったのは、山に登るのに望ましい時期でした。羽黒では幾夜も泊まっていますが、月山と湯殿山を歩いた途中は、月山で1泊しているだけです。

 3泊4日の私たちの計画は、羽黒山麓、湯殿山参籠所、鶴岡市内にそれぞれ1泊です。関西から鶴岡を往復するのにはずいぶん時間がかかります。東海道新幹線、上越新幹線を経て、新潟から在来線の特急を利用しますが、その移動だけでほぼ一日が必要です。

 ところで、山に登るための装備は、特別なことはしません。これまでの旅支度に、防寒の要素を少し加えるという程度です。芭蕉が登ったのだからと高をくくっているわけではありませんが、この時期は登山者とともに修行のために山へ行く人も多いはずです。日程的に少し苦しいことは覚悟の上で、月山から湯殿山へのルートを辿るつもりです。

 「奥の細道」は、「六月三日、羽黒山に登る。…」という文章と、「八日、月山にのぼる。…」という文章に分かれていますが、私たちは月山・湯殿山を歩き終えてから羽黒山上に立ち寄るつもりですから、「奥の細道」の引用も逆転させます。

 前日までの強雨の影響だと思いますが、羽越線の特急が、新潟を出たところでのろのろ運転や停車を繰り返しましたので、鶴岡からのバスに遅れはしまいかとはらはらしたのですが、なんとか間に合いました。

 鶴岡駅前から羽黒までのバスは45分ほどですが、山深いところを走るわけでもなく、ごく普通の田園や集落を縫って、羽黒荒町に着きます。泊まるのはかつて宿坊であり、今は旅館となっているところです。車中で一日を過ごしましたが、2日目からが山登りになります。

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2018年2月15日 (木)

奥の細道を読む・歩く(262)

ドレミファそら日記(48)     2017年6月29

 

0800分 東横イン敦賀駅前発。

0815分 笙の川・三島橋。

0830分 来迎寺。(0845)

0855分 神明社、石田波郷句碑。

0905分 気比海岸。

0915分 気比の松原、高浜虚子句碑。(0930)

0955分 敦賀港、州崎の高灯籠。

1010分 小公園で一休み。

1025分 芭蕉翁月塚。

1035分 旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)(1050)

1055分 人道の港敦賀ムゼウム。(1120)

1125 金ヶ崎宮。(1135)

1135分 金前寺。(1145)

1205分 気比神宮。(1245)

1245分 お砂持ち神事の像。

1255分 西方寺跡。「奥の細道」碑。

1320分 「建」で昼食。(1350)

1423分 JR北陸線、.敦賀駅発。新快速・姫路行。

1628分 大阪駅着。

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2018年2月14日 (水)

奥の細道を読む・歩く(261)

気比神宮

 

 「その夜、月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すゝめられて、けひの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂、霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかわかせて、参詣往来の煩なし。古例、今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍ると、亭主のかたりける。

    月清し遊行のもてる砂の上

 十五日、亭主の詞にたがはず、雨降。

    名月や北国日和定なき 

 

 海岸の地域を離れて、鉄道の引き込み線を渡ってから、金ヶ崎城跡の方へ歩き、石段を上って金崎宮へ詣ります。金ヶ崎城は戦国の世の、信長・秀吉・家康の頃に歴史に登場しますが、時代の流れの中で今、金崎宮は難関突破と恋の宮という役割を果たしているのだそうです。そして、下って金前寺へ行きます。境内の一画に芭蕉翁鐘塚があり、「月いづく鐘は沈める海の底」の句が刻まれています。南北朝時代、敗れた南朝軍の陣鐘が海に沈み、海士に探らせたが引き揚げることができなかったという伝説に基づく句です。

 少し歩くと気比神宮に着きます。芭蕉は名月の前日の夜に参詣しています。「けいさん」と親しまれる神宮は702(大宝2年)の創建で、北陸道の総鎮守です。正面の木造大鳥居は美装化工事中で囲まれてしまっています。これ一つの工事で1億円を超える事業費だそうですが、その下をくぐって境内へ入ります。

 境内にある芭蕉の像は、笠を胸の前に持って、右手でしっかり杖をついて歩み出している、力強い姿です。横から見ると、大きな袂の僧衣で、視線ははるか前方に向かっています。像の台座に刻まれている句は「月清し遊行のもてる砂の上」です。「芭蕉翁月五句」というのも刻まれていて、「名月や北国日和定なき」も並んでいます。一つ一つの独立した句碑も建てられています。

 「月清し遊行のもてる砂の上」は、気比神宮の周辺が泥沼になって参詣者が難儀をしているのを見て、行脚中の二世の遊行上人が浜から砂を運んで参道を設けたという故事に因んで、代々の遊行上人は気比を訪ね境内に砂をまくのが慣わしになったというが、その砂の上を月光が清らかに照らしている、という意味です。芭蕉はここへ来てはじめて、遊行の砂持ちの由来を聞いています。

 翌日の中秋の名月の日は、雨で、「名月や北国日和定なき」と嘆いています。見られなかった名月を詠み込むのも一つの風雅ということでしょうか。

 気比神宮の境内は、本殿、摂社、末社、古殿地、旗掲松などを見て回りましたが、奥の細道三百年記念献句というのが板に書かれて掲げられているのも見ました。もとの鳥居をくぐって出て、道路を渡ったところに、遊行の砂持ちの像が設けられています。二人で棒を肩に掛けて砂を運んでいる像と、砂を掘っている像とがあります。二人の像は、前は上人で、後ろは手伝っている人物のようです。

 駅に向かって戻る途中で、西方寺跡に、奥の細道の敦賀の文章を刻んだ碑がありました。

 

 「十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云もの、破籠・小竹筒など、こまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法華寺あり。爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ感に堪たり。

    寂しさや須磨にかちたる浜の秋

    浪の間や小貝にまじる萩の塵

 其日のあらまし、等栽に筆をらせて寺に残す。」

 

 前述のように、種の浜へは行きませんでしたので、この一節については後日の楽しみとしておきます。

 

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2018年2月13日 (火)

奥の細道を読む・歩く(260)

鉄道資料館と人道の港ムゼウム

 

 日本海有数の港町だった敦賀は、「だった」と書くのが辛いほど、交通の要衝として歴史の流れを見つめてきた町です。金ヶ崎地区には、赤煉瓦倉庫をはじめとして、歴史の息遣いを感じます。「奥の細道」からはるか後のことですが、是非とも見学したいところです。

 とんがり屋根で、可愛らしい感じのする建物ですが、近づくと歴史を感じさせる敦賀鉄道資料館には、明治・大正・昭和・平成の鉄道の歴史が展示され、鉄道ファンの私には楽しい場所です。時刻表、切符、服装、鉄道部品の実物や、模型、映像、解説板などで埋め尽くされています。敦賀に、日本海側初の蒸気機関車が走ったのは1882(明治15)でした。

 敦賀鉄道資料館は、旧敦賀港駅の駅舎です。もとの駅名は金ヶ崎駅で、1882(明治15)3月に敦賀への鉄道が開通したときに作られました。

 今では想像もできないことでしょうが、1902(明治35)に、敦賀からロシアのウラジオストクへの直通航路が開かれています。1904年にシベリア鉄道のウラジオストク~モスクワ間が全線開通し、ヨーロッパ各国との交通網と接続しました。従来のヨーロッパへの航路に比べて大幅に短縮され、新たな幹線として期待されたのでした。1912(明治45)からは、東京・新橋と金ヶ崎との間に欧亜国際連絡列車が運行されました。

 大正に入ってすぐに、鉄道桟橋に金ヶ崎駅を移転し、もとの金ヶ崎駅が敦賀港駅となったのです。

 少しだけ離れたところに人道の港敦賀ムゼウムがあります。敦賀港には1920(大正20)に、動乱のシベリアで家族を失ったポーランド孤児が上陸しています。2年後までに合計763人にのぼったと言います。

 1940(昭和15)にはユダヤ人難民が上陸しています。リトアニアの日本領事館にビザを求めた人たちが押し寄せ、杉原千畝領事代理は外務省に背いてビザ発給を決断します。ビザを手にして敦賀港に上陸した難民はおよそ6000人にのぼります。杉浦千畝のことはしだいに広く知られるようになりましたが、その功績の大きさはもっと認識されなければならないと思います。

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2018年2月12日 (月)

奥の細道を読む・歩く(259)

気比の松原に向かう

 

 敦賀駅から北西の方角に向かい、白銀広場を通って、まずは気比の松原に向かいます。少し距離がありますから、急がずに歩を進めます。笙の川に架かる三島橋を渡って、少ししてから見当をつけて右折し、海岸の方向に歩きます。

 最初に立ち寄ったのは来迎寺です。「芭蕉翁 遊行の砂持ち 神事」という石柱があって、「月清し遊行のもてる砂の上」という句も彫られています。古い伽藍ですが、人もなく静まっています。この寺には敦賀城中門が移築されています。

 出発してから1時間ほどして、海岸に出ました。松原公園という石碑も立っています。この松原は南北は400メートルほどですが、東西は1500メートルにもなります。もともとは気比神宮の神苑でもあったようです。もとは76ヘクタールあったのが、学校用地や道路に使われたりして、現在は32ヘクタールに半減していると言います。黒松が主に海岸沿いに、赤松が主に内陸側に生えており、赤松の割合が高くなっています。

 海岸に出ると、敦賀湾の左手に色の浜(種の浜)から敦賀原発のある辺りが広がっています。芭蕉は舟で種の浜に出かけたのですが、マイカー時代はバスの便が極端に少なく、行って帰るだけに一日を充てなければなりませんから、今回は諦めました。

 高浜虚子の句碑などを見たりしながら、広い気比の松原の中を西に向かって歩き、駐車場のようになっている辺りで引き返します。

 気比の松原からは、東に向かって海岸に近いところを歩いて、洲崎の高灯籠、みなとつるが山車会館、萬象閣跡などの辺りをたどります。

 市民文化センターの前に、芭蕉翁月塚があって、「国々の八景更に気比の月」の句が刻まれています。あちこちの国を巡って八景と賞される美しい景色を見てきたが、更にこの地で気比の月を眺めることだ、という意味です。敦賀で名月を眺める期待を高めているのです。

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2018年2月11日 (日)

奥の細道を読む・歩く(258)

ドレミファそら日記(47)     2017年6月28

 

0740分 東横イン福井駅前発。

0800分 越前北ノ庄城址、柴田公園、柴田神社。(0815)

0820分 足羽川・幸橋。

0825分 左内公園。洞哉宅跡。

0840分 顕本寺。

0850分 西光寺。

0910分 橘曙覧記念文学館。(0930)

0949分 福井鉄道、足羽山公園口駅発。普通・越前武生行。

0958分 ベル前駅着。

1010分 玉江の郷。(1015)

1028分 福井鉄道、ベル前駅発。普通・越前武生行。

1036分 浅水駅着。

1045分 朝六つ橋。(1050)

1106分 福井鉄道、浅水駅発。普通・越前武生行。

1136分 越前武生駅着。

1210分 札の辻。

1210分 蔵の辻。(1220)

1228分 越前市市民バス、蔵の辻発。西ルート。

1246分 紫式部公園着。

1250分 紫式部公園。(1310)

1310分 藤波亭で昼食。(1350)

1358分 越前市市民バス、紫式部公園発。西ルート。

1419分 武生駅前着。

1431分 JR北陸線、武生駅発。普通・敦賀行。

1440分 湯尾駅着。(1445分、峠に向かって歩き始める。)

1505分 湯尾谷川を渡る。

1520分 湯尾峠への登り口。

1525分 馬の水飲み場。

1530分 峠御膳井跡。

1535分 湯尾峠。孫嫡子神社。(1605)

1620分 湯尾峠登り口。一里塚跡。

1645分 今庄宿、矩折(枡形)

1655分 京藤甚五郎家。堀口酒造(鳴り瓢)

1700分 若狭屋(旅籠)

1705分 明治天皇行在所。昭和会館。

1720分 今庄宿(京都側入口)。折り返して、細い道へ。

1730分 JR今庄駅。

1745分 芭蕉句碑。山本周五郎文学碑。D51機関車。

1800分 再び、今庄駅。

1822分 JR北陸線、今庄駅発。普通・敦賀行。

1836分 敦賀駅着。

1845分 東横イン敦賀駅前着。

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2018年2月10日 (土)

奥の細道を読む・歩く(257)

今庄の芭蕉句碑

 

 先ほどの街道筋には「鳴り瓢」という造り酒屋がありましたが、引き返して歩く細い道沿いには「白駒」という酒屋があります。

 いったん今庄駅に着いて、鉄道の時刻などを再確認してから、線路の向こう側に行こうと考えます。ただし、駅は通り抜けられませんから、少し戻って、陸橋で線路を越えます。ちょうど駅の裏側に当たる位置に、南越前町の今庄総合事務所があって、そこに芭蕉句碑があるのです。

 句碑には「義仲の寝覚の山か月かなし」が刻まれています。木曽義仲が籠もって、平家に攻められた古戦場が燧が城です。今庄宿の背後にある愛宕山にあった小高い山城です。ここに平家の10万の大軍が押し寄せたと言います。この句は、義仲が夜半の寝覚めに眺めた山がここであると思うと、月も悲しげに感じられる、という意味です。義経や義仲に対して、芭蕉は深い愛着を抱いているようです。

 芭蕉の句碑の近くには、「虚空遍歴」の跡を訪ねて、という山本周五郎の文学碑も建てられています。

 ちょっと離れたところにD51が保存されています。手入れが行き届いていて、現役であるかのように感じられます。今は北陸トンネルが貫いていますが、かつての敦賀~今庄間は、北陸線随一の難所です。そこを、時には三重連で列車を牽引した機関車です。蒸気機関車は全国のあちこちで保存されていますが、地域の発展に寄与してくれたという思いの強さが、保存へとかき立てるのでしょう。

 敦賀~福井間の開通は明治29年で、明治天皇の北陸巡幸は明治11年のことでした。

 敦賀の宿で見た夜のテレビで、「福井地震69年 体験を語り継ぐ」というニュースが流れていました。

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2018年2月 9日 (金)

奥の細道を読む・歩く(256)

湯尾峠を越える

 

 湯尾駅で敦賀行き電車を降りたのは私たち二人だけでした。この駅から湯尾峠を越えて今庄の町へ歩きます。湯尾駅のホームには10センチ刻みの物差しが立てられていますが、冬には雪がかなり積もるのでしょう。湯尾駅と今庄駅の間にはトンネルになっていますが、そのトンネルの上に湯尾峠があります。

 このあたりの国道は305号と365号の併用となっているようで、そのような標識が立っています。集落を通って、小さな湯尾谷川を渡って、湯尾宿高札場跡や明治天皇湯尾御小休所を過ぎると、湯尾峠入口という小さな木柱があります。

 こんなところにも「クマ出没注意」の警告が出ていますが、草に覆われた道を登っていくと、血頭池があります。南北朝時代の合戦場です。熊の脅威は感じません。馬の水飲み場や、峠ご膳井跡などを過ぎると、意外に早く峠の頂上に着きます。峠入口からわずか15分ほどです。

 「月に名を包み兼ねてやいもの神」の芭蕉句碑があります。いもの神とは疱瘡の神で、疫病神です。湯尾峠の茶店では疱瘡(天然痘)除けのお守りが売られていたと伝えられています。この句は、いつもは人目を避ける「いもの神」も月の下では隠しきれないのか、名を表に出している、という意味です。

 峠の右手の小高いところに孫嫡子神社があり、左手を少し上っていくと湯尾城址がありますが、木柱が立っているだけです。この峠にも明治天皇御小休蹟という石柱が立っています。鉄道開通前に全国を巡幸した明治天皇の旅は大変なことであったのでしょう。

 峠からは前方に今庄の町が見えます。登りと同じような坂道を下っていくと、途中に一里塚跡の木柱がありますが、塚の面影はありません。線路際まで下りてくると、北陸線を駆け抜ける特急に出会います。

 今庄宿の入口で道がカーブを描いているところは枡形(矩折)です。ここから街道の古い町並みが始まります。今庄宿プロジェクトと書いて、古い民家に手を加えている現場があります。問屋場跡を過ぎたところに、塗籠の外壁に越前瓦の古民家・京藤甚五郎家があります。造り酒屋、旧旅籠屋(若狭屋)、明治天皇今庄行在所、脇本陣跡などを通って、上木戸口(宿場入口)まで来ましたので、別の細い道を引き返してJRの今庄駅に向かうことにします。

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2018年2月 8日 (木)

奥の細道を読む・歩く(255)

武生と紫式部

 「奥の細道」に出てくる次の地名は「鶯の関」です。どこにあったのかは諸説があるようですが、武生と湯尾峠の間にある関の原というところだという説もあります。芭蕉は武生のことは何も書いていませんが、せっかくだから、私たちは武生の紫式部公園に立ち寄ることにします。

 武生は今立町と合併して、越前市になっています。越前和紙、打刃物、箪笥などで知られています。歴史の古い町ですから武生の市名が消えたのは残念ですが、駅名は武生のままです。

 バスを待つ間に、越前府中札の辻や、白壁の蔵に囲まれた「蔵の辻」のあたりを巡ります。紫式部の歌を刻んだ碑も建っています。そして、蔵の辻から市民バスで紫式部公園に行きます。

 紫式部が越前国司に任ぜられた父とともに武生に来たのは996(長徳2年)で、都人にとって北陸の季節や風土を体験することは厳しいものがあったかもしれません。

 公園は、寝殿造りを模した敷地に池や築山を配して、伸びやかな空間になっています。紫式部像は日野山に向かって建てられています。十二単衣を着て桧扇をかざし、長い髪が背中に伸びています。金色に輝いているのは、ちょっと目立ちすぎだという気がしないでもありません。周りには谷崎潤一郎揮毫の紫式部歌碑、円地文子揮毫の碑などがあります。谷崎も円地も源氏物語の現代語訳を行った作家です。

 池の畔には再現された釣殿があります。月の出ている夜の公園も趣が深いだろうと思いつつ、日野山を借景にした公園をあとにします。

 ランチを食べたレストランには、越前和紙で手作りした紫式部の公家女房装束(十二単衣)の等身大の人形が飾ってありました。

 

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2018年2月 7日 (水)

奥の細道を読む・歩く(254)

あさむずの橋、玉江を歩く

 

 「漸、白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾峠を越れば、燧が城、かへるやまに初雁を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。」

 

 白根が嶽(白山)が見えなくなり、比那が嵩(日野山)が見え始めたと書いていますが、芭蕉は等栽と一緒に敦賀に向かっています。

 「奥の細道」は、「あさむずの橋」、玉江の順に記述していますが、手前にあるのは玉江です。福井から武生に向かう路面電車に乗ります。

 玉江について、藤原俊成は「夏刈りの葦のかりねのあはれなり玉江の月の明けがたの空」と詠んでいます。葦と月の名所として知られていたのでしょう。

 神社の境内に「玉江の郷」という石柱が建っています。この近くに玉江の橋があって、その川に生えているのが玉江の蘆です。芭蕉も「月見せよ玉江の蘆をからぬ先」と詠んでいます。この蘆が刈り取られないうちにしっかり月見をしておこうという意味ですが、芭蕉は名月を敦賀でと考えています。

 次は「あさむずの橋」です。再び電車に揺られます。駅名は浅水です。西行が橋のたもとで歌を詠んだのが朝六つの時刻だったことが橋の名の由来ですが、朝六つというのは午前6時頃です。

 細い浅水川に架けられた短い橋ですが、枕草子にも登場します。橋のそばには「朝六つ橋の碑」が建っています。碑には、「越に来て富士とやいはん角原の文殊がたけの雪のあけぼの」という西行歌と、「朝六つや月見の旅の明けはなれ」という芭蕉句とが刻まれています。芭蕉の句は、月見の旅に出て、夜が明ける朝六つの刻にこの橋を渡ることだという意味です。あるいは、明け方まで月見を楽しんだという気持ちも込められているのかもしれません。

 この橋の北には陣屋があり、橋の南には人馬継ぎ立てを行う問屋があって、宿場町として発展したところです。橋の近くには「本陣跡」の碑も建っています。

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2018年2月 6日 (火)

奥の細道を読む・歩く(253)

橘曙覧の独楽吟

 

 同じ苗字のよしみというわけでもありませんが、私は曙覧の「たのしみは」で始まり「とき」で終わる連作が大好きです。独楽吟と言われています。

 「たのしみは艸のいほりの筵敷きひとりこころを静めをるとき」「たのしみは珍しき書人にかり始め一ひらひろげたとき」「たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけしとき」「たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふとき」などの52首には、穏やかで無欲な人柄があらわれています。歌には花鳥風月を詠み込むことがごく普通であった時代に、日常生活の場面を詠んで、かえって共感を呼ぶものになっていると思います。平成天皇が米・クリントン大統領と会ったときの、「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見るとき」を用いたスピーチは、当時、話題になりました。

 館内には曙覧と子供の像や、独楽吟の情景を人形で再現したものなどがあって、彼の生活が目の前で展開しているような思いになります。

 橘曙覧は1812(文化9年)の生まれ。早くに父母と死別し、28歳で家督を弟に譲って、足羽山に隠棲し、歌と国学に打ち込んでいます。亡くなったのは1868(慶応4年)ですが、明治がスタートする年でもあります。

 折しも、明治維新を前にして、国を憂えて詠んだ和歌を紹介する企画展が開かれていました。独楽吟のイメージとは異なって、新たな時代の幕開けを待ち望んだ熱い思いを感じ取ることができます。

 後の予定との関係で、滞在時間20分ほどでしたが、他の来館者もなく、自筆資料や解説などを静かに見て回ることができて、来てよかったと思いました。

 芭蕉の旅の心も時代を超えて人々に訴えかけるものを持っていますが、曙覧の心も時代を超えて共感させられます。構えることなく、わかりやすい言葉で組み立てられた三十一音は、現代語と少しも変わらないような響きをそなえています。

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2018年2月 5日 (月)

奥の細道を読む・歩く(252)

等栽の福井

 

 福井は恐竜王国ですから、駅のベンチにまで恐竜が腰をかけています。朝の駅は忙しく人々が行き交っていますが、福井の町では訪ねたいところはたくさんありますから、私たちも足早に次々と場所を変えていきます。

 まずは駅からさして遠くない「北の庄」に向かいます。画家の平山郁夫さんは柴田勝家の末裔に当たるそうで、越前北ノ庄城址という碑文を揮毫されています。柴田神社のあたりは、石垣なども残されて、公園として整備されています。お市の方の像とともに、茶々、初、江の3姉妹の像も建っていますが、姉妹の末の江は、まだあどけない少女のおもむきです。

 福井交通の路面電車も走る幸橋を渡って、足羽川の南側に出ます。地図を頼りに左内公園を探します。ここには、幕末の福井藩士・橋本左内の墓と像があります。そして、公園の一角に「芭蕉宿泊地 洞哉宅跡」という碑があります。奥の細道の等栽という文字とは異なっていますが、当時のエピソードが紹介されています。貧しい暮らしのため、芭蕉が訪れたときも枕が無く、近くの寺院でお堂を建てていたので、頃合いの木片を貰ってきて芭蕉の枕としたという話ですが、まさに「あやしの小家」であったのでしょう。宅跡というのは大まかな推定のようです。江戸で出会って師弟関係を結んだ二人ですが、この後は敦賀まで行動を共にすることになります。洞哉宅跡の説明板の近くに、近くに「名月の見所問ん旅寝せむ」の芭蕉句碑も設けられています。

 公園の近くにある顕本寺に立ち寄りますが、ここがお堂を建てていた寺院のようです。続いて、柴田勝家、お市の方の菩提寺である西光寺に寄って、墓を拝みます。資料館には遺品が展示されているようです。

 そして、揚水ポンプ場として建てられ、今は水道記念館となっている建物の前を通って福井市橘曙覧記念文学館を探しましたが、たどり着くのにちょっと時間がかかりました。彼が住んだ「黄金舎」のあった足羽山の愛宕坂に記念館は建っています。石垣に山吹の花が咲き誇っていたから黄金舎と名付けたようです。

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2018年2月 4日 (日)

奥の細道を読む・歩く(251)

ドレミファそら日記(46)     2017年6月27

 

0900 湯快リゾート・山中グランドホテル発。

0915分 白鷺大橋。

0938分 京福バス、山中温泉しらさぎ橋発。永平寺おでかけ号。

1030分 永平寺(井の上)着。

1040分 永平寺。(1225)

1235分 「山侊」で昼食。(1310)

1331分 京福バス、永平寺発。永平寺口行。

1345分 永平寺口着。

1350分 えちぜん鉄道、永平寺口駅発。普通・福井行。

1355分 松岡駅着。

1405分 天龍寺。(1445)

1455分 えちぜん鉄道、松岡駅発。普通・福井行。

1511分 新福井駅着。

1525分 養浩館庭園。(1600)

1605分 福井市立郷土歴史博物館。(1630)

1635分 福井城趾。(1645)

1650分 東横イン福井駅前着。

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2018年2月 3日 (土)

奥の細道を読む・歩く(250)

福井の庭園を歩く

 

 「福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそかれの路、たどたどし。爰に等栽と云、古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋。遙十とせ余り也。いかに老さらぼひて有にや、将、死けるにやと、人に尋侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に、夕顔・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木々に戸ぼそをかくす。さては、此うちにこそと、門を扣ば、侘し気なる女の出て「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは、此あたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋給へ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと、裾をかしうからげて、路の枝折とうかれ立。」

 

 永平寺から福井までは3里ほどですから、3時間近く歩かなければなりませんが、芭蕉は夕飯を食べた後、黄昏の道を歩いたと書いています。日の落ちるのが早くなりつつある時期ですが、芭蕉はなかなかのことを敢行します。

 福井では等栽のことを書くのに終始しているようです。このあたりの文章は源氏物語の夕顔の巻になぞらえています。「あやしの小家に、夕顔・へちまのはえかゝりて」と述べ、「むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れ」と述べているのは意識的な表現だと思われます。等栽の「あやしの小家」に「二夜とまりて」、次は敦賀へと心がはやります。

 私たちは新福井駅から歩いて、養浩館庭園を見ることにします。養浩館庭園は、かつての福井藩主の別邸で江戸時代初期から中期にかけて造られました。池を中心にして、数寄屋造りの屋敷が設けられています。池には中島がありませんから伸びやかな水面が広がっています。その水は屋敷の建物の軒下まで繋がっていて、屋敷の中から眺めると、舟に乗っているような気持ちにもなります。鯉がすぐそこに群れ集まっています。こんな落ち着いた庭園が福井にあることを最近まで知りませんでした。

 養浩館庭園を出て、御泉水公園を横切って、福井市立郷土歴史博物館で福井の町の歴史にふれます。そして、福井城址を歩いて福井駅に向かいます。

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2018年2月 2日 (金)

奥の細道を読む・歩く(249)

扇を引き裂く余波

 

 バスとえちぜん鉄道とを乗り継いで着いた松岡駅からしばらく歩くと、天龍寺の真っ黒な山門が見えてきます。「古き因」のある大夢和尚と会うために訪れたのですが、この地に俳句が広まるきっかけになりました。山門の前にある芭蕉塚は1844年に芭蕉150回忌に建てられた者です。

 その傍らに、地元の「余波の会」が建てた、松岡天龍寺「おくのほそ道紀行」芭蕉曽遊三百二十年記念の句碑があります。住職と副住職の句も含めて19句が彫られています。

 境内には芭蕉と北枝の石像があって、余波の碑と名付けられています。やや前屈みの芭蕉の前に、立花北枝がひざまずいて扇を水平に広げて、うやうやしく持っています。芭蕉の被っている頭巾が何となく中国風に見えます。そして近くの木の陰に「物書て扇引さく余波哉」の句碑が建っています。

 夏に用いた扇が秋になって不用になりますから、「捨扇」という言葉が秋の季語になっているのですが、引き裂くほどのことをしなくてもよいでしょう。「扇引さく」は、実際に扇を引き裂いたのではなく、引き裂かれるような思いになったということでしょう。二人の像は、北枝が扇を差し出しているようにも見えますが、そうではなくて芭蕉から扇を受け取っていると見るべきでしょう。別れの思いを伝えて扇を贈るという姿です。「余波」という言葉にも、「折節あはれなる作意など聞ゆ」ことをしてくれた北枝との別れを惜しむ気持ちが込められています。

 この寺には、松岡藩主の像が安置された御像堂がありますが、禅宗のお寺ですから坐禅をするお堂も建てられています。

 松岡駅から再び、えちぜん鉄道に揺られて、新福井駅に向かいます。なお、本文に「丸岡天龍寺」とあるのは、松岡へ行く途中に丸岡というところがあるので混同したのだろうと言われています。

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2018年2月 1日 (木)

奥の細道を読む・歩く(248)

形あるものは変わっていく

 

 参拝券を買い求めて、建物の中に入ります。参拝者が集められて、流れ作業のように、まず全体的な説明を聞きますが、あとは三々五々に歩を進めていきます。傾斜の付いた廊下は写真などでなじみの景色です。

 展示物や絵天井の間などがある傘松閣を通ってから、修行道場としての七堂伽藍が始まります。文殊菩薩が安置されている僧堂は、坐禅のできる席が設けられています。お釈迦様が祀られている仏殿には、正面上に「祈祷」の額が掲げられています。法堂は、説法などが行われる場です。道元のご真廟である承陽殿は、曹洞宗の聖地のようなところです。食事を調えるところである大庫院を過ぎると、大きな擂り粉木が吊されています。私語せず沐浴することになっている浴室は、身も心も清浄になるになるための修行の場です。

 寺の表玄関である山門は、七堂伽藍の中では最も古い1749年の造立だと言います。ということは、芭蕉が訪れた頃の建物は残っていなくて、すべては次々と建て替えられているということです。人々が次々と命をつないでいくのと同様に、伽藍なども継いでいっているのです。精神や教えは変わらずとも、形あるものは流転しています。

 私たちは芭蕉の旅に少しでも近づきたいと思っているのですが、自然の悠久さに比べて、人事のはかなさを感じざるをえません。芭蕉も、西行などの足跡をたどりつつも、その変化を感じていたことでしょう。

 祠堂殿などを通ってから、外に出ます。それにしても、ここは大きな木々に囲まれた深山です。人々は観光地と同様に訪れていますが、寺の内外が俗塵に流されないようにと思わざるを得ません。

 龍門の近くに「本山元標 距福井停車場四里」という大きな石柱が建っていて、ここには近代の香りがします。そうか福井駅まで16㎞程かと、我に返ります。

 永平寺から福井駅までの直行バスもあるのですが、私たちは天龍寺に寄るために、松岡駅に向かいます。

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