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2018年3月31日 (土)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(14)

  第13回 出羽三山と鶴岡

 

 13回目の旅は、梅雨が明けた7月24日から27日までです。月山と湯殿山は標高も高く、夏の間しか登ることができません。後回しにしていた出羽三山に向かいます。今回は山形県を歩きます。

 

羽黒山の麓

 

 芭蕉が羽黒や月山に泊まったのは、旧暦6月3日から9日までです。この年の旧暦を新暦に直すと、7月19日から25日にかけてです。当時の山登りにどのような制約があったのかはわかりませんが、出羽三山にさしかかったのは、山に登るのに望ましい時期でした。羽黒では幾夜も泊まっていますが、月山と湯殿山を歩いたときは、月山で1泊しているだけです。

 ところで、私たちの山登りの装備は、特別なことはしません。これまでの旅支度に、防寒の要素を少し加えるという程度です。芭蕉が登ったのだからと高をくくっているわけではありませんが、この時期は登山者とともに修行のために山へ行く人も多いはずです。日程的に少し苦しいことは覚悟の上で、月山から湯殿山へのルートを辿るつもりです。

 『おくのほそ道』は、「六月三日、羽黒山に登る。…」という文章と、「八日、月山にのぼる。…」という文章に分かれていますが、私たちは月山・湯殿山を歩き終えてから羽黒山上に立ち寄るつもりですから、『おくのほそ道』の引用も逆転させます。

 私たちの旅の初日は、前日までの強雨の影響で、羽越線の特急が新潟を出たところでのろのろ運転や停車を繰り返しました。鶴岡からのバスに遅れはしまいかとはらはらしたのですが、なんとか間に合いました。鶴岡駅前から羽黒までのバスは45分ほどですが、山深いところを走るわけでもなく、ごく普通の田園や集落を縫って、羽黒荒町に着きます。泊まるのはかつて宿坊であり、今は旅館となっているところです。

 

月山

 

 「八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏でのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶、身こゞえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。

 谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に劍を淬とかや。干將・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜の、つぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花、爰にかをるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々、短冊に書。

   涼しさやほの三か月の羽黒山

   雲の峯幾つ崩て月の山

   語られぬ湯殿にぬらす袂かな

   湯殿山銭ふむ道の泪かな  曾良 」

 芭蕉の旅は馬や舟に助けられることはありましたが、それ以外は自分の足で歩いています。芭蕉に比べると軟弱な現代人である私たちは、月山八合目までバスで行きます。羽黒山から月山まで歩くのは、登山を専門にしている人たちぐらいなものでしょう。

 2日目。宿を出ると、近くに芭蕉出羽三山句碑があります。「涼しさやほの三か月の羽黒山」「雲の峯幾つ崩て月の山」「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の3つの句が、ひとつの碑に刻まれています。このあたりにはいくつもの宿坊が並んでいます。しばらく歩くと、羽黒山随神門に着きます。随神門から羽黒山頂へは長い石段が続いています。私たちは、羽黒随神門前のバス停から、石段からは離れて走る羽黒山頂行のバスに乗ります。そして月山八合目行のバスに乗り継ぐのです。

 月山に向かうバスは、羽黒山頂近くの休暇村やビジターセンターの前には停まりましたが、そこから先は八合目終点まで停留所はありません。けれども、運転手は無線で連絡を取りながら、まるで列車のように、月山四合目(強清水)や月山六合目(平清水)を通過する時刻をきちんと守って走っています。狭い登山道路ですから、降りてくるバスとすれ違うところが設定されているのです。四合目、六合目と高くなるにつれて、霧が深くなったり晴れたりします。

 冷気に包まれた月山八合目に着いたのが、ちょうど9時です。駐車場が設けられ、ここから先は車は入れません。磐梯朝日国立公園・月山八合目という石碑もありますし、環境省や山形県が立てた案内板などもあります。

 いよいよ山登りです。ここから先、月山山頂を経て湯殿山神社までは、自分の足以外に交通機関はありません。八合目という言葉からは、山頂は近いような印象を受けますが、山頂までは6㎞近い石ころ道を登らなければなりません。「日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶、身こゞえて頂上に」着くことになるでしょう。月山は盛夏でも雪が残っているところがあります。

 駐車場のあるところから石段を登ると、弥陀ヶ原の湿原が広がっています。しばらく行くと御田原参籠所があり、月山中ノ宮があります。このあたりでは、団体で訪れている白装束の参拝者をたくさん見かけます。参拝を済ませて出発すると、ちょっと雨模様になります。広い湿原ですが、木道や細い石ころ道を進みます。この湿原を一周して観察する道も作られていますが、そんな時間の余裕はありませんので、月山山頂への道をたどります。

 黄色いニッコウキスゲ、紅紫色のハクサンチドリをはじめいろんな花が目を楽しませてくれます。あちこちに小さな池もあります。小さな石が凸凹に敷かれているのを踏み、右へ左へ身をよじらせて、大きな石は迂回しながら、ゆっくり登っていきます。小雨が霧に変わり、それが止んでも、なかなか青空にはなりません。

 参籠所のあたりから1時間余り、やっと鳥海山が、雲の間から見えるようになります。姿の美しい鳥海山も山頂の辺りには、雪の縦縞が見えます。登っている月山も、目の下に雪が残っている部分があります。道が雪の下に消えているところがありますから、雪の上を歩きます。大勢がここを歩いていますから雪が黒く見えるところがあります。背の低い灌木だけになって、見晴らしが良くなります。

 ようやく月山九合目に着き、仏生池小屋で休憩し昼食をとります。標高1743メートルと書いてあります。頂上までの道のりの半分が終わったのですが、予想していたよりも時間が速く過ぎています。疲労回復のためにゆっくりと食事をします。

 ハクサンシャクナゲの白い花が目立つようになります。小さなイワウメも咲いています。オモワシ山の麓を経て、行者返しをかきつくように登り、また木道を歩いたりします。山頂が近付くと、また雪の上を歩きます。少しずつ溶けている雪ですから、洞穴のようになっいるところもあります。山頂の堂宇が見えるようになって、やっと月山山頂に着きます。登ってくる途中は人をあまり見かけなかったのですが、山頂の周りには大勢の人たちが休んでいます。

 月山神社に参拝します。拝観料(お祓い料)を払うと、お祓いをしていただいて、登拝認定証をいただきます。「あなたは、標高1984mの出羽三山の主峰月山を踏破し月山頂上鎮座、月山神社本宮を参拝されました。其の健脚を称え、ここに認定証を授与します。」と書いてあります。八合目からは、歩く以外の方法はないのです。頂上の境内をぐるりと一周しますが、ここは撮影禁止になっています。

 

月山から湯殿へ

 

 『おくのほそ道』は「笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。」と書いているように月山で一夜を過ごしています。月山を詠んだ句の「雲の峯幾つ崩て月の山」は、いろいろな解釈ができるのですが、次のように理解することにします。昼間は峯のようにそびえていた入道雲(雲の峯)が、一つ崩れ、二つ崩れるようにして、幾つ崩れたのかわからないが、夜に入るとともに晴れ上がって山全体が月光に照らされている、という情景です。「月の山」という言葉には、月に照らされている山という意味と、月山という固有名詞とが掛けられています。「頂上に臻れば、日没て月顕る。」と書かれていますが、旧暦6月6日ですから半月より小さい月であったのです。私たちは昼間に通過しますから、芭蕉の詠んだような景色に巡りあうことはありません。

 月山山頂で参拝や休息をして、私たちはこのまま湯殿山に向かって歩きます。石ころのガタガタ道を登ってきましたから、私たちの体もガタついています。

 月山神社本宮から少し下って、月山頂上小屋の横を抜ける道が続いています。すぐに登りにかかりますが、月山神社を振り返ります。空は雲が覆っています。少し行くと「雲の峯幾つ崩て月の山」の句碑が建っています。背丈よりも大きい堂々としたものです。

 ここから本格的な下山道で湯殿に向かうのですが、登ってきた道よりも難渋します。いろんな石の上を歩く道であり、傾斜が急なところがあります。まるで土石流が流れ下ったような道筋で、しかも足元は、大小の石が重なり合っています。進む方向は判断できますが、案内板はほとんどありません。そんなところがしばらく続きます。

 牛首というところに来て初めて標柱に出会いますが、月山頂上まで1.1㎞、湯殿山神社まで4.5㎞と書いてあります。この後、少しの間は整備された石畳道を歩きますが、道は雪の中に消えて、雪を踏んで歩くところもあります。金姥というところが月山から下りきった位置になるのですが、私たちはその手前で、月山がよく見えるところで一休みします。

 予定していた時刻よりもかなり遅れています。泊めていただく湯殿山参籠所に連絡して到着が遅れることを連絡します。雪が雪庇のように張り出している下を通ったり、ミズバショウの群落を見たりして進みます。梯子が掛けられているところがあることは知っていましたが、何か所も何か所もあってびっくりします。狭くなって、大小の石ころだらけの道に水が流れ込んできます。左右よりも窪んだところが道になっているのですから、水はすべてこの道に流れ込んでくるのです。ゆっくりゆっくり進みます。夏ではありますが、そのうちに夕暮れの時刻が気になり始めます。

 結局、道とも言えないようなところを下っていると夕闇が迫ってきました。ほぼ下りきったときに、前方に懐中電灯が見えました。湯殿神社の2人の神職の方が来られたのでした。後からわかったことを書きます。私たちは、遅くなっても参籠所に着けばよいと考えていましたが、道は湯殿神社のそばを通っていて、神社を通らなくては参籠所に行けないのでした。携帯電話が通じなかったから、参籠所から神社に連絡があったのでしょう、暗くなりそうだから、迎えに(というよりは、道に迷っていないかという心配で)来ていただいたのです。なお、電話は、このあたりではNTTドコモは通じるが、auの機種は通じないのだそうです。この後、湯殿神社から参籠所まで車で送っていただくということまでしていただきました。

 

湯殿神社

 

 3日目は、抜けるような青空の朝です。参籠所の前には真っ赤な大鳥居が立っています。朱色でなく落ち着いた濃い赤色です。鳥居の額には「出羽三山神社奥宮 湯殿山本宮」と書かれています。この鳥居を下から眺めたとき、坂道を上っていく方角に湯殿山本宮があるのです。

 参籠所から本宮へは、ごく短時間、バスに揺られますが、バスを降りるとすぐに撮影禁止のエリアとなります。芭蕉も「此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。」と記しています。

 月山と同じようにお祓いを受けます。湯の湧き出ているご神体の赤い巨岩があり、その左横を通って、巨岩の上の方に出られるようになっています。周りの山々を見回していると、ここが霊場であることを感じさせられます。

 芭蕉は「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」という句を詠んでいます。湯殿山中のことは人に語ることを許されない、それゆえにこの場所から受ける感動が心の中に籠もって、いっそうありがたく感じて涙で袖を濡らすばかりである、という意味です。これは挨拶の句ではなく、芭蕉は心底から敬虔な思いになっているのでしょう。曾良が詠んだ句「湯殿山銭ふむ道の泪かな」の「銭ふむ」は、道の辺りに散らばっている賽銭のようです。湯殿山に参拝するとその賽銭を踏んで歩かなければならないが、やはり霊山の尊さが感じられて涙がこぼれるばかりである、という意味です。

 近頃のテレビは秘仏であろうと何であろうと引っ張り出して、白日の下にさらけ出して、それが報道の役割だと誤解している傾向が強いのですが、人間には、心の中だけで存在させておくようなものも大事だと思います。映像は仮のものであって、心の中に存在するものこそ本物である、という感じ取り方も必要だと思います。

 バスで参籠所に戻ります。次の目的地は羽黒山頂です。当初の計画では、月山を経由して同じ道を引き返すことも考えていましたが、昨日のことを振り返ると、時間的に無理だと判断します。

 参籠所から羽黒山上までの直通バスのリーフレットを見つけましたが、これは休日のみの運行だと知って落胆です。結論は、やむを得ずタクシーを利用することにしました。湯殿山から下って鶴岡市の郊外を通って羽黒山に向かうという、迂回のような道筋ですが仕方がありません。

 

羽黒山と南谷

 

 「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代會覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐憫の情こまやかにあるじせらる。四日、本坊において誹諧興行。

   有難や雪をかをらす南谷

 五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。延喜式に羽州里山の神社と有。書写、黒の字を里山となせるにや。羽州黒山を中略して、羽黒山と云にや。出羽といへるは、鳥の毛羽を此国の貢に献ると風土記に侍とやらん。月山・湯殿を合て三山とす。当寺、武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、圓頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にしてめで度御山と謂つべし。」

 羽黒山上を歩きます。杉木立に囲まれた山上駐車場から三社合祭殿の方に向かうと、静かな世界になります。まず、芭蕉の像に出会います。桃聖芭蕉と書かれた高い台座の上で、頭陀袋を胸に掛けて、枝木がちょっと曲がったような格好の杖を左手に持って、左前方をじっと見つめている姿です。笠はありません。「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句碑もあります。なんと涼しいことだろうか、羽黒山の上には月が見えることだ、という意味です。「ほの三日月」というのは、「ほの見える」と「三日月」の掛詞です。この句はいつ詠まれたものであるかということは問題です。『おくのほそ道』本文に従えば、羽黒山南谷の別院に帰ったときのように受け取れますが、月山・湯殿山を巡って帰ったときとすれば旧暦6月7日以降になります。「三日月」ではなくなっています。南谷にはその前の6月3~5日にも泊まっていますから、その頃に詠んだとするのがふさわしいかもしれません。

 広場を前にして、茅葺きで朱塗りの大きな建物がありますが、三社合祭殿です。「出羽神社(羽黒山神社)」「月山神社」「湯殿山神社」の額が掲げられています。出羽三山を巡ることは、死と再生をたどる「生まれかわりの旅」と言われてきたそうですが、すべてを巡る旅ができない人は合祭殿でその代わりをしたのでしょう。羽黒山が現在、月山が過去、湯殿山が未来という見立てもされています。合祭殿の前には楕円形の鏡池があります。羽黒の神が姿を現す池だと考えられていますが、200面近い銅鏡が発見されて重要文化財に指定されています。

 小さな鳥居をくぐると、下へと続く石段が始まります。随神門までの距離は1700メートルほどですが、石段の前後の幅が狭いところもあり、かなり急なところもあります。ゆっくり下りていきます。上ってくる人もいますが、上り・下りとも人数はまばらです。

 蜂子社、厳島神社などを過ぎて、石段の両側に杉並木が続きます。右手の斎館からは中学生と思われる人たちが出てきています。羽黒山参籠所として使われています。なだらかな石畳の坂道があったり石段になったりします。小さな石に「十五丁」と彫られたのがあります。尾崎神社、八幡神社と過ぎて、かなり急な石段がカーブしているところもあります。三ノ坂と呼ばれているところです。縁結びの埴山姫神社を過ぎ、右側の谷間にある奉納植樹された田谷村杉を通り過ぎると、南谷の入口です。

 案内板が掲げられていますが、南谷は石段の道から外れて辿らなければなりません。南谷から戻ってきた人がいて、道がぬかるんでいて大変だったと教えてくれます。しかし、南谷は難路を厭っていてはなりません。道いっぱい泥水が広がっていて、時には水たまりに足を踏み入れながらたどると、「県指定史跡 羽黒山南谷」の標石があって広場に出ます。木立が遠のいて太陽が注いでいます。芭蕉の句碑は苔むして文字が読み取りにくくなっています。小さな池があり、四阿も作られています。芭蕉が泊まった寺(紫苑寺)は解体移築されてしまいましたから、礎石だけが残っています。

 本坊(若王寺)の誹諧興行で作った芭蕉の句が「有難や雪をかをらす南谷」です。冷たくて身にしみるような雪が残っているが、ここには草木の香りを含んで吹いてくる風があって、清浄な感じがして貴く感じられる、と言っているのです。真夏の南谷の近くに残雪があったとは思えませんから、遠くの高い山の雪を見ての感懐なのでしょうか。

 片道500メートルほどの南谷を往復してから、二ノ坂を下ります。御本坊跡、いくつもの小さな神社が続きます。石段の傍らに芭蕉翁三日月塚という石の塚が建っています。「涼しさやほの三か月の羽黒山」に因んで、江戸中期に鶴岡の俳人達が作りました。名物力餅と書かれた二の坂茶屋が右手にあり、少し行くと左手に湯殿山遙拝所がありますが木立が繁っています。

 一ノ坂にかかっても、いくつかの小さな神社があります。そして右手に国宝の羽黒山五重塔が見えてきます。高さは30メートルほどで、平安時代創建の素木造りの塔です。きらびやかではありませんが、しっとりとした木立の中に、均整のとれた姿で堂々としています。この辺りになると、団体の人が多くなってにぎやかになります。

 樹齢1000年という天然記念物の爺杉、祓川をはさんで流れ落ちる須賀の滝、真っ赤な神橋を見て、継子坂の石段を上って随神門をくぐります。随神門前からは、バスに揺られて鶴岡に向かいます。

 

鶴岡

 

 今回の3泊4日の旅は、出羽三山が大きな目的ですが、4日目に鶴岡の町を見て回ります。

 駅前から歩いて向かった最初の目的地は日枝神社です。赤い鳥居をくぐり、右手の小さな橋を渡ると、「珍しや山をいで羽の初茄子」の芭蕉句碑があります。山(出羽三山)を出たばかりの私は、珍しい出羽の初茄子でもてなされている、という意味です。「いでは」には、出たとたん(出で端)という意味と、出羽(いでは)の地名との掛詞です。鶴岡周辺は小粒の民田茄子の産地です。

 神社から近いところに庄内藩士の長山重行宅跡があります。狭い場所が小公園のようになっていて、芭蕉滞留地の石碑と「珍しや…」の句碑とがあります。「長山氏重行と云もののふの家にむかへられて、誹諧一巻有。」とあるように、重行宅で歌仙を巻き、ここに3泊してから、川舟で酒田に向かいます。

 すぐ近くに内川の細い流れがあって乗船地跡があります。ここからは「川舟に乗て、酒田の湊に下る。」という旅です。酒田までは7里ほどで、ほぼ半日の行程です。

 芭蕉にまつわるところはそれでお終いですが、その後は内川河川公園を経て、鶴ヶ岡城五日町口木戸跡、豪商の旧風間家住宅・丙申堂などを通ります。鶴岡公園に入って庄内神社、藤沢周平記念館、大宝館、致道博物館などのあたりを歩きますが、時間の関係で中に入ることはしません。駆け足のように歩いた鶴岡市内ですが、それでも城下町の風情はじゅうぶん堪能できました。

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2018年3月30日 (金)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(13)

  第12回 山中温泉から敦賀まで

 

 12回目の旅は、6月26日から29日までです。北国の旅も終盤です。今回は石川県・福井県を歩きます。

 

山中温泉

 

 「温泉に浴す。其効有明に次と云。

    山中や菊はたをらぬ湯の匂

 あるじとする者は、久米の助とて、いまだ小童也。かれが父、俳諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて、世にしらる。功名の後、此一村、判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。

 曾良は腹を病て、伊勢の国、長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、

    行々てたふれ伏とも萩の原   曾良

と書置たり。行ものゝ悲しみ、残ものゝうらみ、隻鳬のわかれて雲にまよふがごとし。予も亦、

    今日よりや書付消さん笠の露  」

 

 芭蕉は、山中温泉に旧暦7月27日に着いて8泊もしています。新暦に直すと9月の中頃になります。泊まったのは山中の温泉宿・泉屋で、その主人が若い久米の助です。

 山中温泉で芭蕉と曾良は別れることになるのですが、曾良は山中に着く前から健康を害していて、それは日記にも書かれています。芭蕉と曾良の人間関係の行き違いに理由を求める説もあるようですが、ここは素直に『おくのほそ道』の記述に従って理解しておきたいと思います。苦楽を共にした長旅も終わりに近づき、曾良は健康を害した自分が一緒にいては迷惑をかけると考えたのでしょう。金沢からは北枝が随行していることもあって、曾良は芭蕉より先行し、伊勢の長島に向かいます。

 私たちは、旅の初日、加賀温泉駅からバスで山中に向かいます。バスは栢野行ですから、山中温泉の中心街を通り過ぎて、終点まで行きます。栢野からゆっくり道を下って山中まで歩きます。

 天然記念物である栢野の大杉は樹齢2300年と伝えられています。幹の周りが11.5メートル、高さは55メートル。群立していないのに空を覆わんばかりです。石柱には「天覧の大杉」とありますが、昭和2210月に行幸がありました。杉の足元の浮橋参道を歩くと、その先に菅原神社があります。路傍にある栢野大杉茶屋で休んでから、山中温泉に向かって下ります。

 白山は開山1300年になりますが、山中温泉も開湯1300年だそうです。山中は神戸の有馬温泉に次ぐ効能だと書いていますが、それは句にも響いています。「山中や菊はたをらぬ湯の匂」と言いますが、芭蕉が訪れたときは、菊の季節には少し早いようです。けれども、ここでは菊を詠み込みたかったのでしょう。山中は固有名詞ですが、菊の咲く山道を連想させています。菊は匂いも良く、延命の効果があると言われていて、それに因んだ行事も広く行われています。菊を手折って延命を祈るというのは自然な行為ですが、山中温泉は湯の効果が大きいので、菊を手折る必要もないという意味です。

 栢野から引き返して、バスで上ってきた道を離れて、大聖寺川を平岩橋を渡って反対側の道をたどります。平岩橋の名が書かれているところが、芭蕉の「かがり火に河鹿や波の下むせび」の句碑にもなっています。細い川が深い谷を作っています。

 大名書院造りの無限庵の庭園の傍を通って、こおろぎ橋へ行きます。この橋は元禄時代以前から架かっているそうで、総桧造りの橋は温泉客が必ずと言ってほど訪れる景勝地です。橋を渡った向こう側には、先ほどと同じ「かがり火に河鹿や波の下むせび」の句碑があります。川へ下りていく道があって、下から眺める木の橋も風雅なものです。

 しばらく歩くと、鶴仙渓遊歩道というのが始まって、川の流れの傍をたどる道になります。中国風に采石巌と名付けられたところもあり、観光客向けの川床が設けられているところもあります。現代的な捻れた鉄骨の橋「あやとり橋」があるので、上ってその橋を渡って、対岸に出ます。このあたりの川が道明が淵と呼ばれているところです。

 橋を渡ると、山中温泉の中心街という雰囲気になって、「芭蕉の館」があります。館の前に、芭蕉と曾良の別れの像があります。芭蕉は両腕を拡げてどんと構えて座っています。曾良は頭を下げて両手を揃えて、別れの言葉を述べているような風情です。全体が真っ白い石の像ですが、曾良の方に重量感を感じます。館内の展示室をひととおり拝見します。

 別れに際しての曾良の句「行々てたふれ伏とも萩の原」には、倒れ伏すまで芭蕉と一緒に旅をしたいという解釈、同じ倒れ伏すのならば萩の原でと願う解釈などがあります。これからひとり旅になるけれども、病身ゆえに倒れ伏すことになるかもしれない、けれども萩の花の咲いている野原でそうなっても風流で、私にとっては本望だ、というぐらいの解釈でよいのかもしれません。

 対して芭蕉は「今日よりや書付消さん笠の露」と詠んでいます。書付というのは笠の「乾坤無住、同行二人」の文字のことです。本来の意味は、天地の間にとどまるところはなく、仏と自分が一体となって旅をするという意味ですが、ここでは芭蕉と曾良の2人の意味に用いて、これからは2人でなくひとりの旅になるから書付を消そうというわけです。「露」は秋の季語ですが、人間関係のはかなさや、別離の涙をにおわせる言い方になっています。

 「芭蕉の館」から近いところに、芭蕉が逗留した泉屋の趾があります。宿の主人・久米之助はまだ14歳でしたが、芭蕉の俳号・桃青に因んで桃妖の俳号を貰い、のちの加賀俳壇において蕉風の発展に尽くしています。「旅人を迎に出ればほたるかな」などの句が伝えられています。

 泉屋の碑の傍に、芭蕉の句「湯の名残今宵は肌の寒からむ」が書かれています。この湯もこれが最後で、ここから余所の地へ移る今宵はさぞ肌寒く感じることであろうという意味です。「山中湯上りにて桃妖に別るゝ時」という前書きがあります。この辺りを「芭蕉の小径」と呼んでいます。

 菊の湯という共同浴場がありますが、そこで温泉卵をいただきます。「芭蕉の道」を歩いて、石で作られた黒谷橋に出ます。欄干に「此の川のくろ谷橋ハ絶景の地や 行脚のたのしみ奚にあり」という芭蕉の言葉が書かれています。この橋は、多くの人たちに見送られて芭蕉が那谷寺に向かった、別れの橋であると伝えられています。このあたりが、歩き旅の頃の山中温泉への出入り口でした。

 こおろぎ橋から黒谷橋までの鶴仙渓はおよそ1300メートルの距離です。このあたりも渓谷となっていますが、橋から下っていくと芭蕉堂があります。明治末年に、芭蕉を慕う全国の俳人によって建てられました。堂の中には小さな芭蕉像が、赤い布団の上に置かれています。

 黒谷橋から同じ道を少し引き返して、医王寺に向かいます。階段を上って高台に出ます。紫陽花の花ざかりです。『曾良随行日記』によれば、芭蕉は旧暦7月28日に医王寺を訪れています。ここにも芭蕉の句碑をはじめたくさんの句碑があります。寺の裏手の墓地に泉屋・桃妖の墓があります。ご住職に案内してもらって墓を拝見すると、周孝桃妖居士・梵海潮音大姉各霊位の文字が刻まれています。

 ここから、白山神社の前を通って、宿に向かいます。

 

永平寺

 

 「丸岡天龍寺の長老、古き因あれば、尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて、此処までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今、既別に臨みて、

    物書て扇引さく余波哉

 五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆゑ有とかや。」

 芭蕉は、汐越の松、天龍寺、永平寺の順に歩いていますが、私たちは汐越の松を既に見ておりますから、天龍寺と永平寺に行きます。永平寺が先です。

 2日目、一日に1本だけある、山中温泉から永平寺に向かう直通バスに乗ります。山中温泉の白鷺大橋の近くにバス停がありますが、白鷺大橋からは、昨日歩いた黒谷橋が見えます。国道364号を走って、石川県から福井県に入ります。沿道に「よう来なったの。福井」という看板が見えます。

 道元によって13世紀に開かれた坐禅修行の道場である永平寺は、四方を山に囲まれたところにあります。芭蕉は「五十丁山に入て」と書いていますが、どこからの距離でしょうか。丸岡天龍寺から50町ほどになるという説があります。京都生まれの道元は、20代半ばで中国に渡り、帰国後、京都に寺を建てたりしましたが、越前に移って永平寺を開いたことを、「邦機千里を避て」すなわち、都に近いところを離れて、と言っているのでしょう。

 建物に入ると、参拝者が集められて、流れ作業のように全体的な説明を聞きますが、あとは三々五々に歩を進めていきます。傾斜の付いた廊下は写真などでなじみの景色です。展示物や絵天井の間などがある傘松閣を通ってから、修行道場としての七堂伽藍が始まります。文殊菩薩が安置されている僧堂は、坐禅のできる席が設けられています。お釈迦様が祀られている仏殿には、正面上に「祈祷」の額が掲げられています。法堂は、説法などが行われる場です。道元のご真廟である承陽殿は、曹洞宗の聖地のようなところです。食事を調える大庫院を過ぎると、大きな擂り粉木が吊されています。私語せず沐浴することになっている浴室は、身も心も清浄になるになるための修行の場です。

 寺の表玄関である山門は、七堂伽藍の中では最も古い1749年の造立だと言います。ということは、芭蕉が訪れた頃の建物は残っていなくて、すべては次々と建て替えられているということです。人々が次々と命をつないでいくのと同様に、伽藍なども継いでいっているのです。精神や教えは変わらずとも、形あるものは流転しています。

 私たちは芭蕉の旅に少しでも近づきたいと思っているのですが、自然の悠久さに比べて、人事のはかなさを感じます。芭蕉も、西行などの足跡をたどりつつも、その変化を感じていたことでしょう。

 祠堂殿などを通ってから、外に出ます。それにしても、ここは大きな木々に囲まれた深山です。人々は観光地と同様に訪れていますが、寺の内外が俗塵に流されないようにと思わざるを得ません。龍門の近くに「本山元標 距福井停車場四里」という大きな石柱が建っていて、ここには近代の香りがします。そうか福井駅まで16㎞程かと、我に返ります。

 永平寺から福井駅までの直行バスもありますが、私たちは天龍寺に寄ります。

天龍寺

 

 バスとえちぜん鉄道とを乗り継いで着いた松岡駅からしばらく歩くと、天龍寺の真っ黒な山門が見えてきます。「古き因」のある大夢和尚と会うために訪れたのですが、この地に俳句が広まるきっかけになりました。山門の前にある芭蕉塚は1844年に芭蕉150回忌に建てられたものです。

 その傍らに、地元の「余波の会」が建てた、松岡天龍寺「おくのほそ道紀行」芭蕉曽遊三百二十年記念の句碑があります。住職と副住職の句も含めて19句が彫られています。

 境内には芭蕉と北枝の石像があって、余波の碑と名付けられています。やや前屈みの芭蕉の前に、立花北枝がひざまずいて扇を水平に広げて、うやうやしく持っています。芭蕉の被っている頭巾が何となく中国風に見えます。そして近くの木の陰に「物書て扇引さく余波哉」の句碑が建っています。夏に用いた扇が秋になって不用になりますから、「捨扇」という言葉が秋の季語になっていますが、引き裂くほどのことをしなくてもよいでしょう。「扇引さく」は、実際に扇を引き裂いたのではなく、引き裂かれるような思いになったということでしょう。ふたりの像は、北枝が扇を差し出しているようにも見えますが、そうではなくて芭蕉から扇を受け取っていると見るべきでしょう。別れの思いを伝えて扇を贈るという姿です。「余波」という言葉にも、「折節あはれなる作意など聞ゆ」ことをしてくれた北枝との別れを惜しむ気持ちが込められています。

 この寺には、松岡藩主の像が安置された御像堂がありますが、禅宗のお寺ですから坐禅をするお堂も建てられています。松岡駅から再び、えちぜん鉄道に揺られて福井に向かいます。

 

福井

 

 「福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそかれの路、たどたどし。爰に等栽と云、古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋。遙十とせ余り也。いかに老さらぼひて有にや、将、死けるにやと、人に尋侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に、夕顔・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木々に戸ぼそをかくす。さては、此うちにこそと、門を扣ば、侘し気なる女の出て「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは、此あたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋給へ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと、裾をかしうからげて、路の枝折とうかれ立。」

 永平寺から福井までは、現代人が歩くには近い距離ではありませんが、芭蕉は夕飯の後、黄昏の道を歩いたと書いています。日の落ちるのが早くなる時期ですが、芭蕉はなかなかのことを敢行します。福井では等栽のことを書くのに終始しています。このあたりの文章は源氏物語の夕顔の巻になぞらえています。「あやしの小家に、夕顔・へちまのはえかゝりて」と述べ、「むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れ」と述べているのは意識的な表現です。等栽の「あやしの小家」に「二夜とまり」ます。

 私たちは養浩館庭園を見ることにします。この庭園は、かつての福井藩主の別邸で江戸時代初期から中期にかけて造られました。池を中心にして、数寄屋造りの屋敷が設けられています。池には中島がありませんから伸びやかな水面が広がっています。その水は屋敷の建物の軒下まで繋がっていて、屋敷の中から眺めると、舟に乗っているような気持ちにもなります。鯉がすぐそこに群れ集まっています。こんな落ち着いた庭園が福井にあることを最近まで知りませんでした。

 養浩館庭園を出て、御泉水公園を横切って、福井市立郷土歴史博物館に入って福井の町の歴史に触れます。福井城址を歩いて福井駅に向かいます。

 福井で一夜を過ごして、3日目、駅からさして遠くない「北の庄」に向かいます。画家の平山郁夫さんは柴田勝家の末裔に当たるそうで、越前北ノ庄城址という碑文を揮毫しています。柴田神社のあたりは、石垣なども残されて、公園として整備されています。お市の方の像とともに、茶々、初、江の3姉妹の像も建っていますが、姉妹の末っ子の江は、まだあどけない少女のおもむきです。

 路面電車も走る幸橋を渡って、足羽川の南側に出て、地図を頼りに左内公園を探します。ここに幕末の福井藩士・橋本左内の墓と像があります。公園の一角に「芭蕉宿泊地 洞哉宅跡」という碑があります。奥の細道の等栽という文字とは異なっていますが、当時のエピソードが紹介されています。貧しい暮らしのため、芭蕉が訪れたときも枕が無く、近くの寺院でお堂を建てていたので、頃合いの木片を貰ってきて芭蕉の枕としたという話ですが、まさに「あやしの小家」であったのでしょう。宅跡というのは大まかな推定のようです。江戸で出会って師弟関係を結んだ2人ですが、この後は敦賀まで行動を共にすることになります。洞哉宅跡の説明板の近くに、近くに「名月の見所問ん旅寝せむ」の芭蕉句碑も設けられています。

 公園の近くにある顕本寺に立ち寄りますが、ここがお堂を建てていた寺院のようです。続いて、柴田勝家、お市の方の菩提寺である西光寺に寄って、墓を拝みます。資料館には遺品が展示されているようです。

 揚水ポンプ場として建てられ、今は水道記念館となっている建物の前を通って福井市橘曙覧記念文学館を探しましたが、たどり着くのにちょっと時間がかかりました。彼が住んだ「黄金舎」のあった足羽山の愛宕坂に記念館は建っています。石垣に山吹の花が咲き誇っていたから黄金舎と名付けたようです。私は、曙覧の「たのしみは」で始まり「とき」で終わる連作が大好きです。独楽吟と言われています。

 「たのしみは艸のいほりの筵敷きひとりこころを静めをるとき」「たのしみは珍しき書人にかり始め一ひらひろげたとき」「たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけしとき」「たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふとき」などの52首には、穏やかで無欲な人柄があらわれています。歌には花鳥風月を詠み込むことがごく普通であった時代に、日常生活の場面を詠んで、かえって共感を呼ぶものになっていると思います。平成天皇が米・クリントン大統領と会ったときの、「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見るとき」を用いたスピーチは、当時、話題になりました。館内には曙覧と子供の像や、独楽吟の情景を人形で再現したものなどがあって、彼の生活が目の前で展開しているような思いになります。

 

あさむずの橋、玉江

 

 「漸、白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾峠を越れば、燧が城、かへるやまに初雁を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。」

 

 白根が嶽(白山)が見えなくなり、比那が嵩(日野山)が見え始めたと書いていますが、芭蕉は等栽と一緒に敦賀に向かっています。『おくのほそ道』は、「あさむずの橋」、玉江の順に記述していますが、手前にあるのは玉江です。福井から武生に向かう路面電車に乗ります。

 玉江について、藤原俊成は「夏刈りの葦のかりねのあはれなり玉江の月の明けがたの空」と詠んでいます。葦と月の名所として知られていたのでしょう。神社の境内に「玉江の郷」という石柱が建っています。この近くに玉江の橋があって、その川に生えているのが玉江の蘆です。芭蕉も「月見せよ玉江の蘆をからぬ先」と詠んでいます。この蘆が刈り取られないうちにしっかり月見をしておこうという意味ですが、芭蕉は名月を敦賀でと考えています。

 次は「あさむずの橋」です。再び電車に揺られます。駅名は浅水です。西行が橋のたもとで歌を詠んだのが朝六つの時刻だったことが橋の名の由来ですが、朝六つというのは午前6時頃です。細い浅水川に架けられた短い橋ですが、枕草子にも登場します。橋のそばには「朝六つ橋の碑」が建っています。碑には、「越に来て富士とやいはん角原の文殊がたけの雪のあけぼの」という西行歌と、「朝六つや月見の旅の明けはなれ」という芭蕉句とが刻まれています。芭蕉の句は、月見の旅に出て、夜が明ける朝六つの刻にこの橋を渡ることだという意味です。あるいは、明け方まで月見を楽しんだという気持ちも込められているのかもしれません。

 この橋の北には陣屋があり、橋の南には人馬継ぎ立てを行う問屋があって、宿場町として発展したところです。橋の近くには「本陣跡」の碑も建っています。

 

武生

 

 芭蕉は武生のことは何も書いていませんが、せっかくだから、武生の紫式部公園に立ち寄ります。武生は今立町と合併して、越前市になっています。越前和紙、打刃物、箪笥などで知られています。歴史の古い町ですから武生の市名が消えたのは残念ですが、駅名は武生のままです。

 駅前でバスを待つ間に、越前府中札の辻や、白壁の蔵に囲まれた「蔵の辻」のあたりを巡ります。紫式部の歌を刻んだ碑も建っています。蔵の辻から市民バスで紫式部公園に行きます。

 紫式部が越前国司に任ぜられた父とともに武生に来たのは996(長徳2年)で、都人にとって北陸の季節や風土を体験することは厳しいものがあったかもしれません。

 公園は、寝殿造りを模した敷地に池や築山を配して、伸びやかな空間になっています。紫式部像は日野山に向かって建てられています。十二単衣を着て桧扇をかざし、長い髪が背中に伸びています。金色に輝いているのは、ちょっと目立ちすぎだという気がしないでもありません。周りには谷崎潤一郎揮毫の紫式部歌碑、円地文子揮毫の碑などがあります。谷崎も円地も源氏物語の現代語訳を行った作家です。池の畔には再現された釣殿があります。月の出ている夜の公園も趣が深いだろうと思いつつ、日野山を借景にした公園をあとにします。

 

湯尾峠

 

 湯尾駅で電車を降りたのは私たち2人だけでした。ここから湯尾峠を越えて今庄の町へ歩きます。湯尾駅と今庄駅の間にはトンネルになっていますが、そのトンネルの上に湯尾峠があります。

 集落を通って、小さな湯尾谷川を渡って、湯尾宿高札場跡や明治天皇湯尾御小休所を過ぎると、湯尾峠入口という小さな木柱があります。草に覆われた道を登っていくと、血頭池があります。南北朝時代の合戦場です。馬の水飲み場や、峠ご膳井跡などを過ぎると、意外に早く峠の頂上に着きます。峠入口からわずか15分ほどです。

 「月に名を包み兼ねてやいもの神」の芭蕉句碑があります。いもの神とは疱瘡の神で、疫病神です。湯尾峠の茶店では疱瘡(天然痘)除けのお守りが売られていたと伝えられています。この句は、いつもは人目を避ける「いもの神」も月の下では隠しきれないのか、名を表に出している、という意味です。

 峠の右手の小高いところに孫嫡子神社があり、左手を少し上っていくと湯尾城址がありますが、木柱が立っているだけです。この峠にも明治天皇御小休蹟という石柱が立っています。鉄道開通前に全国を巡幸した明治天皇の旅は大変なことであったのでしょう。

 峠からは前方に今庄の町が見えます。登りと同じような坂道を下っていくと、途中に一里塚跡の木柱がありますが、塚の面影はありません。今庄宿の入口で道がカーブを描いているところは枡形(矩折)です。ここから街道の古い町並みが始まります。

 

今庄

 

 今庄宿プロジェクトと書いて、古い民家に手を加えている現場があります。問屋場跡を過ぎたところに、塗籠の外壁に越前瓦の古民家・京藤甚五郎家があります。造り酒屋、旧旅籠屋(若狭屋)、明治天皇今庄行在所、脇本陣跡などを通って、上木戸口(宿場入口)まで来ましたので、別の細い道を引き返してJRの今庄駅に向かいます。

 いったん今庄駅に着いて、列車時刻などを再確認してから、線路の向こう側に行こうと考えます。駅は通り抜けられませんから、少し戻って、陸橋で線路を越えます。ちょうど駅の裏側に当たる位置に、南越前町の今庄総合事務所があって、そこに芭蕉句碑があるのです。句碑には「義仲の寝覚の山か月かなし」が刻まれています。木曽義仲が籠もって、平家に攻められた古戦場が燧が城です。今庄宿の背後にある愛宕山にあった小高い山城です。ここに平家の10万の大軍が押し寄せたと言います。この句は、義仲が夜半の寝覚めに眺めた山がここであると思うと、月も悲しげに感じられる、という意味です。義経や義仲に対して、芭蕉は深い愛着を抱いているようです。

 芭蕉の句碑の近くには、「虚空遍歴」の跡を訪ねて、という山本周五郎の文学碑も建てられています。ちょっと離れたところにD51が保存されています。手入れが行き届いていて、現役であるかのように感じられます。今は北陸トンネルが貫いていますが、かつての敦賀~今庄間は、北陸線随一の難所です。そこを、時には三重連で列車を牽引した機関車です。蒸気機関車は全国のあちこちで保存されていますが、地域の発展に寄与してくれたという思いの強さが、保存へとかき立てるのでしょう。

 

気比の松原、敦賀港

 

 旅の4日目、敦賀駅から北西の方角を指して、白銀広場を通って、気比の松原に向かいます。少し距離がありますから、急がずに歩を進めます。笙の川に架かる三島橋を渡って、少ししてから見当をつけて右折し、海岸の方向に歩きます。最初に立ち寄ったのは来迎寺です。「芭蕉翁 遊行の砂持ち 神事」という石柱があって、「月清し遊行のもてる砂の上」という句も彫られています。古い伽藍ですが、人もなく静まっています。この寺には敦賀城中門が移築されています。

 歩き始めて1時間ほどして、海岸に出ます。松原公園という石碑が立っています。この松原は南北は400メートルほどですが、東西は1500メートルにもなります。もともとは気比神宮の神苑でもあったようです。76ヘクタールあったのが、学校用地や道路に使われたりして、現在は32ヘクタールに半減していると言います。黒松が主に海岸沿いに、赤松が主に内陸側に生えており、赤松の割合が高くなっています。

 海岸に出ると、敦賀湾の左手に色の浜(種の浜)から敦賀原発のある辺りが広がっています。芭蕉は舟で種の浜に出かけたのですが、マイカー時代はバスの便が極端に少なく、行って帰るだけに一日を充てなければなりませんから、今回は諦めます。

 高浜虚子の句碑などを見たりしながら、広い気比の松原の中を西に向かって歩き、駐車場のようになっている辺りで引き返します。気比の松原からは、東に向かって海岸に近いところを歩いて、洲崎の高灯籠、みなとつるが山車会館、萬象閣跡などの辺りをたどります。

 市民文化センターの前に、芭蕉翁月塚があって、「国々の八景更に気比の月」の句が刻まれています。あちこちの国を巡って八景と賞される美しい景色を見てきたが、更にこの地で気比の月を眺めることだ、という意味です。敦賀で名月を眺める期待を高めているのです。

 日本海有数の港町だった敦賀は、交通の要衝として歴史の流れを見つめてきた町です。金ヶ崎地区には、赤煉瓦倉庫をはじめとして、歴史の息遣いを感じます。とんがり屋根で、可愛らしい感じのする建物ですが、近づくと歴史を感じさせる敦賀鉄道資料館には、明治・大正・昭和・平成の鉄道の歴史が展示され、鉄道ファンの私には楽しい場所です。時刻表、切符、服装、鉄道部品の実物や、模型、映像、解説板などで埋め尽くされています。敦賀に、日本海側初の蒸気機関車が走ったのは1882(明治15)でした。敦賀鉄道資料館は、旧敦賀港駅の駅舎です。もとの駅名は金ヶ崎駅で、1882(明治15)3月に敦賀への鉄道が開通したときに作られました。1902(明治35)に、敦賀からロシアのウラジオストクへの直通航路が開かれています。1904年にシベリア鉄道のウラジオストク~モスクワ間が全線開通し、ヨーロッパ各国との交通網と接続しました。1912(明治45)からは、東京・新橋と金ヶ崎との間に欧亜国際連絡列車が運行されました。大正に入ってすぐに、鉄道桟橋に金ヶ崎駅を移転し、もとの金ヶ崎駅が敦賀港駅になりました。

 少し離れたところに人道の港敦賀ムゼウムがあります。敦賀港には1920(大正20)に、動乱のシベリアで家族を失ったポーランド孤児が上陸しています。2年後までに合計763人にのぼったと言います。1940(昭和15)にはユダヤ人難民が上陸しています。リトアニアの日本領事館にビザを求めた人たちが押し寄せ、杉原千畝領事代理は外務省に背いてビザ発給を決断します。ビザを手にして敦賀港に上陸した難民はおよそ6000人にのぼります。杉浦千畝のことはしだいに広く知られるようになりましたが、その功績の大きさはもっと認識されなければならないでしょう。

 

気比神宮

 

 「その夜、月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すゝめられて、けひの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂、霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかわかせて、参詣往来の煩なし。古例、今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍ると、亭主のかたりける。

    月清し遊行のもてる砂の上

 十五日、亭主の詞にたがはず、雨降。

    名月や北国日和定なき   」

 海岸の地域を離れて、金ヶ崎城跡の方へ歩き、石段を上って金崎宮へ詣ります。金ヶ崎城は戦国の世の、信長・秀吉・家康の頃に歴史に登場しますが、時代の流れの中で今、金崎宮は難関突破と恋の宮という役割を果たしているのだそうです。そこから下って金前寺へ行きます。境内の一画に芭蕉翁鐘塚があり、「月いづく鐘は沈める海の底」の句が刻まれています。南北朝時代、敗れた南朝軍の陣鐘が海に沈み、海士に探らせたが引き揚げることができなかったという伝説に基づく句です。

 少し歩くと気比神宮に着きます。芭蕉は名月の前日の夜に参詣しています。「けいさん」と親しまれる神宮は702(大宝2年)の創建で、北陸道の総鎮守です。正面の木造大鳥居は美装化工事中で囲まれてしまっています。これ一つの工事で1億円を超える事業費だそうですが、その下をくぐって境内へ入ります。

 境内にある芭蕉の像は、笠を胸の前に持って、右手でしっかり杖をついて歩み出している、力強い姿です。横から見ると、大きな袂の僧衣で、視線ははるか前方に向かっています。像の台座に刻まれている句は「月清し遊行のもてる砂の上」です。「芭蕉翁月五句」というのも刻まれていて、「名月や北国日和定なき」も並んでいます。一つ一つの独立した句碑も建てられています。

 「月清し遊行のもてる砂の上」は、気比神宮の周辺が泥沼になって参詣者が難儀をしているのを見て、行脚中の二世の遊行上人が浜から砂を運んで参道を設けたという故事に因んで、代々の遊行上人は気比を訪ね境内に砂をまくのが慣わしになったというが、その砂の上を月光が清らかに照らしている、という意味です。芭蕉はここへ来てはじめて、遊行の砂持ちの由来を聞いています。

 翌日の中秋の名月の日は、雨で、「名月や北国日和定なき」と嘆いています。見られなかった名月を詠み込むのも一つの風雅ということでしょうか。

 気比神宮の境内は、本殿、摂社、末社、古殿地、旗掲松などを見て回りますが、奥の細道三百年記念献句というのが板に書かれて掲げられているのも見ます。もとの鳥居をくぐって出て、道路を渡ったところに、遊行の砂持ちの像が設けられています。2人で棒を肩に掛けて砂を運んでいる像と、砂を掘っている像とがあります。2人の像は、前は上人で、後ろは手伝っている人物のようです。

 駅に向かって戻る途中の西方寺跡に、奥の細道の敦賀の文章を刻んだ碑があります。

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2018年3月29日 (木)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(12)

  第11回 倶利伽羅から汐越の松まで

 

 11回目の旅は、すがすがしい初夏の5月22日から25日までです。今回は富山県・石川県と、福井県のごく一部を歩きます。

 

倶利伽羅峠

 

 『おくのほそ道』には、一気に「かゞの国に入」ると書いてありますが、越中と加賀の境に、卯の花山、倶利伽羅谷があります。倶利伽羅峠は、1183(寿永2年)に木曽義仲が牛の角に松明をともして平家の陣に追い入れる奇襲を行ったところです。

 私たちの旅の初日は、石動駅から倶利伽羅峠を目指して歩き始めます。旧北陸街道の砂川橋一里塚跡を経て、護国八幡宮(埴生八幡宮)に立ち寄ります。歩き始めると暑さを感じるようになります。

 1183(寿永2年)5月、木曽義仲は埴生に陣を張り、倶利伽羅峠の平維盛との決戦を前に護国八幡宮(埴生八幡宮)に祈願をします。相手は2倍の軍勢です。護国神社は各地にあって、明治以降の戦争と関係深いものが多いのですが、ここは違います。江戸時代の慶長年間に凶作が続き、庶民生活が苦しいときに、前田利長が祈願をしたところ霊験が著しかったので、護国の名を奉ったと言います。本殿から石段を下ったところに、倶利伽羅山中から3キロの距離を引いたという鳩清水がありますので喉を潤します。近くに、馬上の義仲の勇ましい像があります。ここでは勝ち戦をした義仲が、大きな像で称えられています。

 「義仲公戦勝の源 埴生」というが標柱が立っている先に、倶利伽羅源平の里という建物があります。さまざまな展示と説明がありますが、ありがたいのは、床面に倶利伽羅峠の大きな航空写真があって、地点の説明が記されていることで、峠道の様子を大づかみにできます。

 山門に大きな仁王像がある医王院に立ち寄り、そのすぐ先の旧埴生村役場跡のところから道が二手に分かれ、右側の急な坂を上っていくと、ぐんぐん展望が開けます。遠くに見えるのは118メートルもあるクロスランドおやべのタワーだとわかります。砺波平野の散居村の様子が広がります。

 歩いているのは加賀藩などが参勤交代に利用した旧北陸道です。道標などが充実していて、どこまでの距離がいくらであるのかがわかります。説明板もたくさんありますが、歌碑の多さにもびっくりします。遊行上人歌碑、たるみの茶屋跡、堀川院歌碑、藤原定嗣歌碑、藤原家良歌碑、峠茶屋跡などと続き、応接にいとまがない感じです。

 峠茶屋跡の道ばたに、チェーンソーアートの芭蕉像があります。「木曾の情雪や生えぬく春の草」という芭蕉句がそばに墨書されています。この句は、木曽義仲の心意気そのままに、春草は残雪の下から芽を伸ばしている、という意味です。これは近江の義仲寺の無名庵での吟であろうと言われています。この草と同じようにいろいろな困難にうち勝って木曾の山奥から天下に名をとどろかせた義仲のことが偲ばれるという気持ちが詠まれています。

 峠茶屋の場所には明治の中頃まで農家があって、茶屋を営んで餅を売っていたそうです。北陸街道の往来が盛んなときには、多くの旅人が足を休めたことでしょう。「爰元は柴栗からの茶屋なれや はかり込むほど往来の客」という十返舎一九の歌碑が建っていますが、往来の客で賑わっていた様子が詠われています。

 このあたりには、火牛の像がいくつも再現されています。たくさんあって、くどい感じがしないでもありません。近くに、「一里塚といわれるところ」という表示もありますが、北陸街道の一里塚そのものは消え失せてしまっています。位置も明確でなくなってしまったのでしょうか。

 新しい感じの芭蕉の句碑があって、「義仲の寝覚めの山か月悲し」が刻まれています。句意は明瞭で、義仲が夜半の寝覚めに月を眺めた山がここであると思うと、月も悲しげに感じられる、と言っているのです。この句を詠んだ場所は越前の燧ヶ城ですが、義仲の戦歴の中で最も輝かしい勝利をおさめた闘いを記念して、ここに建てられたそうです。芭蕉は、義仲のはかない運命を思い返すと、いま照らしている月がまことに悲しく眺められると嘆じているのでしょう。

 ここで大勝した義仲は京に軍を進め、征夷大将軍に任じられます。朝日将軍と称しますが、近江の粟津で源範頼・義経に攻められ、31歳で討ち死にします。誠にはかない栄華でした。義仲に強い関心を示しながらも、平泉の表現に近づくことを嫌ってからでしょうか、『おくのほそ道』は倶利伽羅での細かい記述を割愛してしまつています。

 猿ヶ馬場は平家の本陣跡で、平維盛が武将を集めて軍議を開いたところで、近くに源平供養塔もあります。芭蕉塚があります。「義仲の寝覚めの山か月悲し」の句を彫り込んでいますが、こちらは宝暦年間に建てられたもので、文字が読み取りにくくなりつつあります。近くに、芭蕉の敬慕した宗祇の句碑もあります。「もる月にあくるや関のとなみ山」と詠まれています。

 近くに倶利伽羅公園という広場があって、そこには倶利伽羅峠一帯に桜の苗木を19年にわたって7千本も植え続けたという高木勝己翁の胸像があります。昭和の花咲か爺さんと呼ばれ、その意思を継いだ人たちによって桜は守られているようです。このあたりが富山県と石川県の境界です。

 倶利伽羅不動寺は奈良時代初期の創建で、日本三不動のひとつだと言います。境内には開運不動剣という大きな剣が、高さ15メートルほどもあって、空を刺すように作られています。夕刻に近い時刻の、静かな境内でひとときを過ごします。境内には茶店もあるのですが店終いの様子で、伽藍を含めてあたり全体が一日の終わりを告げているような雰囲気に包まれています。

 ここからはゆっくり坂を下って、1時間ほどで、あいの風とやま鉄道とIRいしかわ鉄道の境界の倶利伽羅駅に着きます。ホームの長さは旧・北陸本線の貫禄を示しています。

 

金沢

 

 「卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人、何處と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名の、ほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、

    塚も動け我泣声は秋の風

       ある草庵にいざなはれて

    秋涼し手毎にむけや瓜茄子

       途中?

    あかあかと日は難面もあきの風

       小松と云所にて

    しをらしき名や小松吹萩すゝき 」

 金沢に旧暦7月15日に着いた芭蕉は9泊します。まだ暑い最中です。『おくのほそ道』には4つの句が並んでいます。そのうちの2句を見ます。「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」は、犀川のほとりにあった庵に迎えられての作です。秋の涼しさがあふれている草庵でもてなしを受けて有り難く思い、瓜や茄子の皮をめいめいの手で剥いて、いただこうではないか、という意味です。「あかあかと日は難面もあきの風」には途中吟とあって、金沢までの途中、金沢から小松までの途中、金沢での滞在の途中、というように説が分かれるようです。もう秋になっているのに、日の光はそしらぬ様子で照りつけるが、それでも吹く風にはひんやりしたものが混じって何となく秋らしさも感じるという意味です。

 私たちは、金沢をまる一日かけて、芭蕉の跡をたどってみることにします。せっかくの金沢ですから、芭蕉以外の人とのゆかりも求めて歩きます。

 2日目の朝、金石に向かってバスに乗ります。バス乗り場はJRのガード下ですが、ここから海の方向に広い道が続いています。金石に着くと駅名板のモニュメントが作られています。この道をかつて電車が走っていました。金石は北前船の寄港地であって、幕末に豪商の銭屋五兵衛が活躍したところです。

 本龍寺には銭屋五兵衛の墓がありますが、五兵衛は「海の百万石」と言われるほどに財をなした人です。その本龍寺に、芭蕉の「小鯛さす柳すゞしや海士が軒」の句碑があります。曾良は随行しなかったのですが、芭蕉は宮ノ越で俳諧の席を持っています。その時の作は「海士が妻」であったようで、句碑は誤伝に基づいて刻まれたようです。「小鯛さす柳すゞしや海士が妻」という句は、漁師の妻が小鯛の口に柳の枝を刺して持ち歩いているが、その柳の葉がなんとも涼しげである、という意味です。句の形が石に刻まれてしまうと、それが正しいものとして流布するだろうと思います。

 帰路のバスは近江町市場の近くで降りて、市場の様子を見ながら通ります。通り抜けて、彦三大通りを歩いていくと、浅野川の彦三大橋に出ます。そして、重要伝統的建造物群保存地区のひがし茶屋街に着きます。旧涌波家主屋、茶屋建築の志摩などなどがあって、落ち着いた一画です。土産物や飲食の店が多いようです。遠足か旅行かの中学生や高校生も行き交っています。大きな声も出さず、ゆっくりと歩いています。その中に、加賀棒茶・喫茶「一笑」という店もあります。『おくのほそ道』に「一笑と云ものは、此道にすける名の、ほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催す」とある「一笑」に因んだものでしょう。

 豪快な流れから犀川が「男川」と呼ばれるのに対して、浅野川は「女川」と呼ばれています。川のそばに徳田秋聲記念館があります。企画展は、秋聲の長男、徳田一穂の「父への手紙」展です。一穂の生い立ちは、秋聲の出世作といわれる小説「黴」に詳しく描かれています。記念館の2階の窓からは、浅野川や梅ノ橋の様子などが広がっています。梅ノ橋を渡るまでの浅野川沿いには「秋聲のみち」という愛称がつけられていますが、橋を渡ると「鏡花のみち」になります。川沿いに「瀧の白糸碑」があって、鏡花の出世作「義血侠血」の主人公の像があります。近くに歌謡曲「友禅流し」の歌詞碑もあり、川に沿って松の並木が続きます。

 金沢の三文豪として称えられているのは徳田秋声、泉鏡花、室生犀星で、金沢城公園のそばを通ると、三文豪が並んでいる像があります。百間掘を通って、兼六園に入ります。

 兼六園では、まず芭蕉の句碑を目指して歩きます。碑面は文字が読みとりにくい状態になっていますか、これは「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」を刻んだものです。太陽は夏と同じように照りつけてはいるが、風には秋の風情が漂ってくる、という意味です。「あかあかと」は明々とともとれるし、赤々とともとれます。この句は、金沢に着くより前に想を得て、金沢での句会で披露したようです。ただし、『おくのほそ道』の文章の流れの中では、小松への途中の吟とされています。

 園内は花菖蒲などが満開です。和服姿の女性もいて華やかです。兼六亭で昼食をとることにして、治部煮を注文します。この店には、「室生犀星の小説『性に眼覚める頃』、お玉の掛茶屋が今の兼六亭です」という説明板が掛けられています。治部煮は代表的な加賀料理の一つのようですが、私たちが注文したのは観光客向けのものでしょうから、本格的なものとどう違うのかはわかりません。

 真弓坂口から、兼六園を出て、犀川のほとりに到ると、高浜虚子・年尾父子句碑があります。「北国の時雨日和やそれが好き 虚子」と「秋深き犀川ほとり蝶飛べり 年尾」とが一つの石に刻まれています。詠まれた季節を一致させているのは、父子が伴っての旅であったのでしょうか。このあたりは「犀星のみち」と呼ばれていて、室生犀星文学碑もあります。「あんずよ 花着け 地ぞ早やに輝けり あんずよ花着け あんずよ燃えよ」が刻まれています。

 桜橋で犀川を渡り、坂を上って寺町寺院群に向かいます。ここには70に及ぶ寺社がありますから、寺を離れるとまた寺、小道を抜けるとまた寺、というような風情です。静音(しずね)の小径と呼んでいるようですが、観光客の足さえなければ、静かなたたずまいが広がっています。長久寺に芭蕉の句碑があります。「ある草庵にいざなはれて」という言葉に続いて、「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」の句が彫られています。秋のすがすがしい空気の中で、瓜や茄子は自分自分の手で皮をむき、いただくことにしよう、という句趣です。ある草庵とは、犀川のほとりの一泉亭だと言われています。

 観光客が多く集まっている妙立寺は、数々の仕掛けが施されていて、忍者寺として親しまれていますが、その横を通り抜けて、芭蕉と一笑ゆかりの願念寺へ向かいます。願念寺は蕉門の俳人・一笑の菩提寺です。門前に「芭蕉翁来訪地・小杉一笑墓所」とあって「塚も動け我泣く声は秋の風」の芭蕉句が刻まれています。一笑は、金沢の蕉風の先駆としての役割を果たした人で、400句近い遺作が伝えられています。芭蕉が訪れる前年の冬に36歳で早世し、金沢に来てそれを知った芭蕉は慟哭したようです。その追善のために詠んだのが「塚も動け我泣く声は秋の風」です。あなたを悼んで泣く私の声は、もの寂しい秋の風とともにあなたに呼びかける、塚よ、この声に応じて動いてほしい、という意味です。無念さがにじむ句です。境内に一笑塚があります。一笑の辞世の句「心から雪うつくしや西の雲」が刻まれ、大きく「一笑塚」と書いてあります。

 芭蕉は『おくのほそ道』の旅に際して、各地の門人達と予め連絡をとっていたと思われますが、一笑の死は、知らなかったのでしょうか。当時の通信手段を考えれば、知らなくても不思議ではありませんが、たとえ知っていたとしても落胆の気持ちは大きく、「一笑と云ものは、此道にすける名の、ほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、」という文章になったのでしょう。追善供養は芭蕉来訪によって突然に企画されたものではないでしょう。

 犀川大橋が見えるところを通って、室生犀星記念館に向かいます。「犀星歳時記・春夏編」という展示をしています。展示資料を見ながらゆっくりと静かな時間を過ごすように仕組まれたような雰囲気に満ちています。記念館の近くにある雨宝院は、室生犀星が、寺の子として育った幼少時代を描いた「性に目覚める頃」に登場するところです。犀星生い立ちの寺として、犀星展示室も設けられているようです。成学寺の境内には「あかあかと日は難面も秋の風」の芭蕉句碑(秋日塚)があります。ここにも一笑塚があります。

 にし茶屋街に立ち寄りますが、夕方ですから観光客の姿はありません。閉館間際の金沢市西茶屋資料館をさっと一見します。かつての部屋の雰囲気が残され、芸妓さんたちが使っていた品々も展示されています。ここは作家・島田清次郎が青年期を過ごした吉米楼の跡だそうです。「ひがし茶屋街」と「にし」とはもともと違った趣を呈していたのか、それとも訪れている観光客の多寡に理由があるのか、ともかく夕方の「にし」には、暮れゆく一抹の寂しい風情があります。

 頑丈で古風な、国登録有形文化財である犀川大橋を渡って、芭蕉の辻に向かいます。芭蕉の辻は、芭蕉が10日間ほど滞在した、旅人宿の宮竹屋があった場所です。

 

小松

 

 「此所太田の神社に詣。實盛が甲、錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打たり。實盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。

    むざんやな甲の下のきりぎりす 」

 3日目。金沢から列車に乗って小松に着きます。小松には安宅の関がありますから、ここは歌舞伎の町です。隈取りの絵などもあって、駅前にはそんな雰囲気が漂います。

 駅から真っ直ぐ西(海側)に向かいます。真行寺などの寺が並んでいます。寺町通りを北に向かってたどっていくと、左手に建聖寺があります。室町時代後期に能美郡寺井の地に創建され、1640(寛永17)に現在地に移ったと言います。この寺には、加賀藩3代藩主の前田利常の子・亀松が5歳で早逝したのを悼んで乳母・侍女たちが追善のため寄進した仏涅槃図があって、小松市指定の文化財になっています。広くはないお寺ですが、門前に「はせを留杖の地」という碑が建っており、門を入ると右手に芭蕉の碑があります。「蕉翁」と刻んだ石碑があり、その右側に小さな句碑があります。「しをらしき名や小松吹く萩薄」の句です。小松というのは何と控えめでいじらしい名前であるのだろう、風はこの地の小さな松の木の上を吹き、萩や薄をなびかせている、と詠んでいます。

 建聖寺の住職は留守とのことですが、奥様に招き入れられます。所蔵されている芭蕉木像のことを話題にしたら、拝見できることになりました。厨子の中から取り出されたのは、芭蕉の門人・立花北枝が作った像です。北枝は、金沢から松岡までの16日間ほど、体調のすぐれない曾良に代わって同行しています。のちに芭蕉十哲のひとりに数えられています。

 建聖寺を出て北に進むと、広い道路のそばに、すわまえ芭蕉公園というのが設けられています。芭蕉句碑「ぬれて行や人もをかしき雨の萩」があります。雨にぬれる萩は趣深く、これを見ながらやはりぬれていく人の姿もまた風情がある、という意味です。歓生に招かれて句会を開きましたが、この句は歓生宅の庭をたたえた挨拶の句でしょう。これを立句に五十韻が巻かれています。句会に同席した小松の俳人達が詠んだ五十韻を刻んだ句碑が作られています。活字体の日です。句会は1689(元禄2年)7月26日のことです。広い道路を横断すると、そこが菟橋神社で、ここにも「しをらしき名や小松吹く萩薄」の句碑があります。

 菟橋神社から引き返して多太神社に向かう途中に本折日吉神社があります。真っ赤な鳥居の神社は、山王さんとして親しまれており、芭蕉は小松滞在中に神主の藤村伊豆宅の句会に招かれています。境内に芭蕉留杖の地という石碑が建っていますが、近江屋という旅宿に泊まった翌朝、出立しようとしたときに小松の人達に引き留められ、神主宅に泊まって句会を催したということが彫り込まれています。その時に披露した句が「しをらしき名や小松吹く萩薄」だというのです。

 多太神社は、6世紀はじめに創建されたと伝えられています。胸のあたりに笠を持って、右手で杖を突いている芭蕉像が、高い台座の上に建てられています。力強い足どりで、遠くをじっと見据えている姿です。芭蕉は、多太神社で斎藤別当実盛の兜などを見ています。実盛と木曽義仲の巡り合わせに感慨を覚えたのでしょうか、「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句を残しています。筆太の文字で書かれた句碑があります。さらに斎藤別当実盛公の像も作られています。

 越前が生国である斎藤別当実盛は加賀の篠原の地で討ち死にをしています。はじめ源義朝につかえ、平治の乱ののち、平宗盛につかえています。幼少の頃の木曽義仲の命を救いましたが、巡り巡って平家敗走のときには、義仲軍の手塚太郎光盛に討たれています。「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句は、討ち死にをした実盛の甲の下できりぎりすが鳴いている、これはなんといたましいことだ、という意味ですが、そんな訳文では言い尽くせないものがあります。老武者と侮られまいとして白髪を染めて義仲軍との戦いに参加し、討ち死にした実盛の甲を取り上げてみると、その下にきりぎりす(今のコオロギ)がいたというのですが、戦乱の世の中の一点景として見ると、実盛の他にもこのような結末をたどった者は幾人もいたことでしょう。謡曲などに取り上げられる人もいれば、そういうこととは無縁の人も大勢いたはずです。

 多太神社は木曽義仲が戦勝を祈願した神社であり、義仲は命の恩人であり、節を重んじて戦った実盛の供養として、その甲冑や弓矢を奉納して慰霊したのです。芭蕉は簡潔に、「まのあたり縁起にみえたり。」と書いています。

 

那谷寺

 

 「山中の温泉に行ほど、白根が嶽後にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふとや。那智・谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

    石山の石より白し秋の風  」

 小松駅前から那谷寺へのバスは40分余りかかりますが、意外に山深いところではありません。『おくのほそ道』に言う「白根が嶽」は石川・岐阜県境にある白山のことです。四季にわたって雪が消えることがないので白山と呼ばれます。小松から山中へ向かう道では、白山は東南の方角、つまり前方に見えるはずですが、道の曲がり具合で「後にみなしてあゆむ」こともあったのでしょう。「左の山際」にある「観音堂」が那谷寺のことです。花山法皇が天皇を退位したときのことは『大鏡』などにも書かれています。在位3年で退位させられ、退位後に西国巡礼を始めたと言われており、西国三十三所の霊場とつながりの深い方です。

 那谷寺は717(養老元年)開創ですから、今年でちょうど1300年になります。高僧・泰澄によって白山が開かれたのと同時です。ここは白山信仰とつながりの深い寺です。那谷寺の「那」は那智の那、「谷」は谷汲の谷です。花山法皇の御幸のときに、岩屋寺を那谷寺に改められたと伝わります。

 確かにここは岩屋の寺です。村里にあるように思いましたが、山門を入ると様子が一変します。芭蕉が詠んだ「石山の石より白し秋の風」は、芭蕉150回忌に建てられた句碑に刻まれています。那谷寺の石山は、近江にある石山寺のように白く、それよりもさらに白い秋風がここを吹き巡っている、という風情です。

 山門を入ったところは、寛永年間に作庭された庫裏庭園です。杉の木の根元など、あたり一面は苔でおおわれています。普門閣・宝物館は、寺院とは異なる感じがするのですが、1965(昭和40)に白山の山麓、旧新保村の春木家を移築・保存したものだと言います。休憩所・売店を兼ねています。商業的な施設も、寺の運営のためには必要なのでしょう。大きな木々の間を参道が貫いていますが、それが終わって空が見えたところで 左手に池が現れて、その向こうに奇岩遊仙境が見えます。ここは「おくのほそ道の風景地」として国名勝に指定されています。山門までの田舎の村落風景、山門を入ってからの古木のたたずまい、そして奇岩霊石の世界と、眼前のものが次々に変化していきます。

 真っ赤な紅葉の向こうに本殿である大悲閣が見えます。観音霊水の前を通って、大悲閣への石段を上ります。一向一揆の兵乱で荒れたものを1642(寛永19)に前田利常が再建したということですが、岩壁に依りかかるように建てられています。殿内には胎内くぐりもあります。岩を切り開いたような、狭い切り通しの道を通って下に向かいます。同じ寛永期に建立された三重塔があり、色鮮やかな楓月橋を渡って、展望所に出ます。下から仰ぎ見た奇岩遊仙境に対峙する高さになります。ここは浄土を思わせる境地です。紅葉もありますが 全山が緑におおわれた静かな世界です。

 芭蕉150回忌の天保年間に建立された句碑に刻まれているのは「石山の石より白し秋の風」ですが、すぐ右側には翁塚があって、『おくのほそ道』の一節と「石山の」の句が刻まれています。あたり全体が苔むした感じになっています。はじめて「石山の」の句に接したときは、近江の石山寺と比べてそれよりももっと白く、という意味であると理解しましたが、「石山」を那谷寺の眼前の石山と見て、その石山よりももっと白く、秋の風を感じると考えてもよいのだという気持ちになりました。

 すこし上っていったところに、修法を行う護摩堂と、袴腰の上部まで石造りの鐘楼があります。どちらも寛永年間の建立で国の重要文化財ですが、このあたりまで足を延ばす人は少なくて、静かな雰囲気を味わえます。

 

全昌寺

 

 「大聖寺の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶、加賀の地也。曾良も前の夜此寺泊て、

    終宵秋風聞やうらの山

と残す。一夜の隔、千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う、読経声すむままに、鐘板鳴て、食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかゝへ、階のもとまで追来る。折節、庭中の柳散れば、

    庭掃て出ばや寺に散柳

とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。」

 芭蕉と曾良は山中温泉で別れて、曾良が先に泊まった全昌寺に、芭蕉も一日遅れで泊まります。

 小松で泊まった私たちは、4日目の朝、小松天満宮に行って「あかあかと日は難面もあきの風」の句碑などを見て、葭島神社などを巡ってから、電車で小松駅から大聖寺駅に向かいます。

 大聖寺という駅名は、北陸線の拠点駅のような印象が残っているのが、古びた感じで、大きな駅ではありません。かつては山中温泉方面への電車が発着していましたから、特急も停まる駅であったのでしょうが、今では加賀温泉駅からのバスが山中、山代などの温泉を結んでいます。

 駅から歩いて10分ほどで全昌寺に着きます。全昌寺のことを、山麓の高低差のあるところに堂宇があるように、勝手に想像していました。「鐘板鳴て、食堂に入。」から「心早卒にして堂下に下る」というあたりの文を、建物を下り降りているように解釈したのですが、実際は平坦な土地にあります。

 全昌寺の境内には、『おくのほそ道』本文を記した碑があります。芭蕉の自筆を刻んだものです。「終宵秋風聞やうらの山」の曾良の句碑と、「庭掃て出ばや寺に散柳」の芭蕉の句碑もあります。曾良の句は、師と別れて今夜はひとり寺に泊まったが、一晩中眠ることができず、裏山に吹く秋風を聞きながら夜を明かしたと詠んでいます。技巧も凝らさず、ありのままの様子を述べているのです。

 曾良の残した句を芭蕉は目にしたはずですが、曾良に呼応した句は作っていません。芭蕉の句は、寺を出立しようとすると庭の柳が散ってきた、せめてこの柳だけでも掃き清めてから発ちたいものであるという、感謝の気持ちを込めた挨拶の句になっています。「心早卒にして堂下に下る」という言葉には、曾良を追って先を急ぎたいという気持ちも込められているようです。

 師弟の句碑の近くには、「全昌寺、芭蕉忌における深田久弥(九山)作・全句」と題した句碑があります。「翁忌や師をつぐ故に師を模さず」をはじめとする11句が刻まれています。大聖寺は日本百名山などで知られる文学者・深田久弥の出身地です。「翁忌や」の句だけ独立した別の句碑もあります。

 本堂の左前の方に羅漢堂があって、江戸時代の末期に作られた五百羅漢が安置されています。本堂には芭蕉坐像があり、芭蕉が泊まったとされる部屋を復元して芭蕉庵と名付けている一隅があります。

 7万石あるいは10万石と言われる小さな城下町であった大聖寺ですが、九谷焼をはじめ独自の文化や美意識が開花しました。その落ち着いた町をゆっくり歩いて駅に戻ります。駅のホームの片隅にある芭蕉句碑には「山中や菊はたをらぬ湯の匂」が刻まれています。駅構内の句碑は珍しいです。

 

汐越の松

 

 「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。

    終夜嵐に波をはこばせて

     月をたれたる汐越の松   西行

 此一首にて数景尽きたり。もし、一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。}

 大聖寺駅前からバスで汐越の松を尋ねます。吉崎というバス停で降りて、そのまま松林のある方向に向かって歩き始めましたが、汐越の松は芦原ゴルフクラブの場内にありますので、方向が怪しくなります。やはり勘違いであり、かなり離れていることがわかりました。

 芭蕉は「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。」と書いていますが、そんな優雅な舟もありません。バスを降りたところは石川県ですが、引き返してから福井県境を通り、蓮如上人の吉崎御坊の建物などが集まっているところを通り過ぎます。しばらく行くと北潟湖が広がり、小さな浜坂漁港を過ぎます。この湖が「吉崎の入江」です。

 上り道にかかるところに石の道標があり、汗をかきながら上っていくと、やっとゴルフクラブの入口に着きます。西行の歌は、嵐が一晩中吹いて汐越の松に波が打ちかかる、その水が松の枝から滴り落ちるところへ月の光が射すと、まるで月が松の枝から垂れ下がったように見える、という情景です。

 ゴルフ場で来意を告げると快く案内をしてくださいます。けれども、海は見えませんから、更に少し離れたところまで歩かなければならないことを覚悟します。

 ゴルフクラブの場内をしばらく歩くと松林の向こうに真っ青な海が見えてきます。段丘になっていて、海からは高い位置であることがわかります。海岸に近づいたところで左に折れて進むと「奥の細道汐越の松遺跡」という石柱があり、木の札も立っています。右横の小さな祠には仏像がおさまっています。碑の向こうに、枯れた古い木が横たえられています。木と言っても残骸のようなものです。松の木はたくさん立ち並んでいるのですが、わざわざ朽ちた古木が横たえられているということは、これが汐越の松だという意思表示のように思われます。

 汐越の松は、一本の松のことなのか、数本あるいは数十本の松のことなのか、いろいろな説があるようですが、特定の一本ということではないようです。西行の歌に詠まれているような情景が特定の一本で見られたということではないはずです。この辺りは強い風にさらされるのでしょうか、巨木は見当たりません。崖の下に広がる日本海はあくまで青く澄んでいます。崖の下まで、背の低い木や草が続いていますから、西行が目にしたのは、もっと下の方にある松であったのかもしれないと思ったりします。

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2018年3月28日 (水)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(11)

  第10回 高田から奈呉の浦まで

 

 10回目の旅は、4月23日から26日までです。この年の4月23日を旧暦に直すと3月27日です。旧暦3月27日は、「弥生も末の七日」で、芭蕉が深川を出立した日でした。今回は新潟県・富山県を歩きます。

 

直江津

 

 直江津から私たちの旅を始めます。芭蕉は、7月5日は鉢崎(柏崎市内)に泊まり、6日と7日は直江津に、8日から10日までは高田に泊まっています。

 私たちの旅の初日。直江津市内にある芭蕉の句碑2つ、それが目的地です。森鴎外の「山椒大夫」の碑と、安寿姫と厨子王丸の供養塔のあるところの近くに琴平神社があります。ここの芭蕉句碑は、「文月や六日も常の夜には似ず」です。文化年間(18041818)に地元の俳人たちが建てたものが、幾度かの大火にあい、慶応年間(18651868)に再建されたと言います。両方ともが残っていて、古い歌碑は菱形に近い形、新しい歌碑は長方形に近い形です。この句は、今夜は七月六日であって七夕を明日に控えている、明日は牽牛と織女が天の川を渡って逢う夜である、そのような思いで眺めると、今夜もどこかいつもの夜とは違う気配がする、という意味です。『おくのほそ道』では、「荒海や」の句と並べて、この句を前に出しています。出雲崎で詠んだような体裁にも見えますが、直江津での句会で初めて発表しているようです。

 五智国分寺に向かう途中で聴信寺に立ち寄ります。曾良の日記によれば、7日に雨止みを待って出発を見合わせているうちに聴信寺に招かれたと書いてあります。けれども、この寺の境内には芭蕉のゆかりとなるものは残っていません。

 五智国分寺に立ち寄ろうと考えて、急ぎ足で道をたどります。親鸞上人ゆかりの鏡ヶ池というところに出て、池とは道の反対側に五智国分寺の山門があります。ささやかな門をくぐって境内に入ると、境内が広がっています。ここも親鸞上人の旧跡で、上人の像が建っています。本堂は昭和の末年に焼失し再建されたものです。形の整った三重塔は1856(安政3年)に着工し、いまだに未完成であるというから驚きます。

 ここにある芭蕉句碑は、「薬欄にいづれの花をくさ枕」です。句の文字は定かではありませんが「芭蕉翁」という文字だけはしっかり見えます。句意は、秋の薬園に咲くさまざまな美しい草の中から、どの草を枕に結んで旅寝をしようか、ということです。

 国分寺の境内の一画では、八重咲きの薄赤い梅が満開です。

 

高田

 

 直江津から高田に向かいます。高田といえば豪雪の町というイメージが浮かびます。家の軒先を出してその下を通路にした雁木のことも頭の中にあります。1945(昭和20)の終戦の年、その2月26日の積雪量が3メートル77センチであったという記録が残っているようです。雁木は私有地を提供した雪国の生活の知恵で、高田の雁木は総延長が16キロの長さで全国一だそうです。

 芭蕉が旅したのは秋の初めであり、私たちの今回の旅は晩春です。左右に櫓のようなものが作られて独特の形をしている高田駅に着いて、宿にチェックインして、そのまま市内を歩きます。東に向かって北城神明宮を目指します。そこに芭蕉句碑があります。

 商店街を歩いて儀明川を渡り、続いて青田川を渡ります。青田川は細い流れですが一級河川で、川沿いに散策の道が延びています。

 高田城の外堀が終わったところをさらに進むと北城神明宮に着きます。芭蕉句碑には、「薬欄にいづれの花をくさ枕」と「文月や六日も常の夜には似ず」の二つの句が並べて刻まれています。直江津にあったものと同じ句が刻まれているのですが、「奥の細道」に記されている句とそうでない句とを並べてひとつの碑面にしているのは独特のやり方です。高田ではやはり「薬欄にいづれの花をくさ枕」を重んじたいのでしょう。

 引き返して駅前に向かいますが、帰路は高田城址に作られた高田公園の中を通ります。高田城はわずか4か月で完成させたそうで、石垣を築かず天守閣も作られていません。城址には威圧感がなくて、ゆったりとした風情です。しだいに夕闇が迫ってくる時刻になり、高田城の三重櫓を仰ぎ見て通り過ぎます。高田で生まれた小林古径の記念塔、小川未明の文学碑などが並んでいるところを過ぎ、いくつもの彫刻が並んでいるブロンズプロムナードを通って、駅前に向かいます。高田は雪に苦しむ町ではなく、文学・芸術にゆかりが深いことを認識します。

 2日目の朝、高田の町を北に向かって歩きます。駅前の通りと儀明川が交わるところに芭蕉宿泊地があるようで、あたりを細かく探してみましたが、説明板も何もありません。

 本町通りという、雁木の続く通りを歩きます。高田小町という町屋交流館の向かい側に、高田世界館という映画館があって現役で上映しているのだそうです。文化庁の登録有形文化財であり、経済産業省の近代化産業遺産にもなっています。

 少し進んでから東に折れて、小川未明生誕地を訪ねます。そして、本町通りのひとつ東側の通りを引き返します。一階の屋根から二階の屋根に梯子がかけられている家が続いています。何か工事中かと思って見ていると、豪雪にそなえて常設のままにしてあるのだということに気づきます。

 通りでは朝市の準備が始まっています。開店している店もあります。時刻は8時を過ぎたばかりです。野菜、果物、漬け物、菓子、日用品など、様々なものが商われています。道ばたに四九市場という石柱が建っていて、ここは四のつく日と九のつく日に開かれている市場なのだそうです。石柱の裏側には創立大正拾参年という文字が見えます。例えば飛弾の高山市のような観光客相手の朝市とは異なるようです。地域の生活と結びついているからこそ1世紀近くも続いているのでしょう。

 

糸魚川

 

 糸魚川は、前年1222日の大火の記憶が新しい町です。糸魚川へは、相馬御風に引かれて20代の頃に来たことがあります 御風の生家が大火の延焼区域の外にあったのは幸いです。

 糸魚川に着くと、「ヒスイが日本の国石になりました」というPRが目を引きます。日本鉱物科学会での投票で決まったそうですが、姫川の流域や糸魚川がヒスイの産地であることは知っています。

 相馬御風旧居、駅前海望公園、虹の展望台とたどっていると、いつの間にか大火の跡地へ出ます。土台やコンクリート部分だけが残っていて、再建の槌音を聞くには、もう少し時間が必要なように感じられます。

 塩の道起点、糸魚川町道路元標、牛つなぎ、経王寺の梵鐘などを見巡って、駅に向かおうとすると、再び大火の跡地へ戻ってきます。150棟近くが焼けたといいますから、ともかく広いのです。跡地はきちんと整理され、再建のための力をためこんでいるようにも感じます。江戸時代は言うまでもなく昭和の戦前まで、大火は各地で頻発し、その度に人々は新しい息吹を作り上げてきたのです。

 

親不知

 

 親不知もかつて、歩いたことがあります。親不知駅を降りて、西に向かって歩いたのはもうずいぶん前のことです。その後、北陸線を往来したことは何度かありますが、トンネルに潜って親不知駅の前後を通り過ぎるようになったのは寂しいことでした。便利さと旅情とは相反するものになっています。今回は、親不知駅から市振駅まで歩きます。

 駅の少し東の方にある水上勉の文学碑に立ち寄ります。「……美しい親不知の海にいま身を果てて死ぬるより生きようとおしんは思うた。」という『越後つついし親不知』の一節が刻まれています。快晴で、海は穏やかですから、日本海に身を投げるような風情はまったくありません。

 鉄道線路に沿った道を西に向かいます。親不知ピアパークという施設や高速道路の料金所などあって、芭蕉が見たら卒倒するに違いない風景です。高速道路の橋脚が海上に出たかと思うと頭上を越えて山の中へのトンネルが始まったりします。景色が次々と変化します。鉄道にもいくつものトンネルが断続します。

 歩いているのは国道8号です。幹線道路ですから大型トラックなどの交通量は相当なものです。そうこうしているうちにトンネルが始まります。洞門になっていて光が射し込んでいるので暗くはありません。歩道が狭いので懐中電灯を振りながら歩きますが、傍を車が走り抜けていきます。

 大竹沢というトンネルを抜けると、天険断崖などが展望できるところに着きます。そこに親不知記念広場が設けられています。相馬御風の「かくり岩によせてくだくる沖つ波のほのかに白きほしあかりかも」という歌碑があり、また、安全への祈りを込めたのであろう母子像も設置されています。道路よりは高く組まれた展望所からは、西側に広がる断崖絶壁が展望できます。南から続いてきた山塊がどっと海に落ち込んでいるところで、その向こうは日本海が広がります。

 切り立った断崖の下には日本海の波が寄せています。ほとんど砂浜らしきものは見えず、波打ち際が白く見えます。静かな海が広がっている日でも、このような有様です。荒れたらどうなるのか。鉄道や道路がひらかれるまでは、天候を見計らって、旅人はわずかな波打ち際を駆け抜けたはずです。親は子を忘れ、子は親を顧みることなく、わが命だけを守ろうとしたのです。源平の頃、平頼盛に会いに行く妻が赤子を波にさらわれ、その悲しみを「親知らず子はこの浦の波まくら越路の磯のあわと消えゆく」と詠んだと伝えられています。

 『おくのほそ道』は、市振の様子を述べる前に「今日は、親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなど云、北国一の難所を越てつかれ侍れば…」と書いていて、具体的にどのように難渋したのかは書いていません。『曾良随行日記』にも親不知という文字はありません。芭蕉が歩いた日も快晴であったようです。けれども、海面すれすれで駆け抜けた芭蕉たちは、かなり高いところにある道路を歩いている私たちとは恐怖感が異なります。芭蕉も曾良も、親不知を越えたときの様子を書いていないのは、そんな苦しみは日常的なことであったからなのでしょうか。

 風波のトンネルを抜けて、風波川を渡ります。国道8号は少し上り坂になっていって、やがて親不知観光ホテルの前に着きます。国道を離れて、ホテルの裏側に回ると四阿があって、展望台になっています。先ほどしばらく休んだ親不知記念広場が彼方の下の方に見えます。この場所は、親不知の険しさを克服するために四世代にわたって建設された道路の変遷を一望できるスポットです。道なき道を歩いた時代から、岩壁を切り開いた国道の時代、トンネルで貫いた国道の時代、そして現代の高速道路へと変化しているのですが、それは明治はじめから四世代にわたる苦闘の結果だというのです。芭蕉の時代は、それよりももっと困難な親不知越えであったはずです。

 かつての国道を整備してできた遊歩道は「親不知コミュニティ道路」と名付けられています。歩き始めるとすぐに、岩壁に「如砥如矢」という文字が刻まれているところがあります。砥石のように平らで、矢のように真っ直ぐだという意味で、1883(明治16)に切り開かれた道を讃える言葉だそうです。ここは最大の難所である天険の真上、高さ80メートルの位置です。

 しばらく歩くと、親不知レンガトンネルへの下り口があります。1965(昭和40)まで北陸本線として使われてきた、レンガ積みのトンネルで、今は歩いて通り抜けられるのです。時間の都合で割愛しますが、急な斜面を下りていくとトンネルの入口に着くようになっているのです。

 コミュニティ道路が国道8号に合流して、いくつものトンネルを、壁に身を寄せるようにして歩きます。大型トラックなどに恐怖を感じながら歩き続けて、少しずつ市振の町が近づいてきます。

 

市振

 

 「今日は、親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなど云、北国一の難所を越てつかれ侍れば、枕引よせて寝たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人斗ときこゆ。年老たるをのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までをのこの送て、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。『白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなし』と物云をきくきく寝入て、あした旅立に、我々にむかひて、『行方しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に、大慈のめぐみをたれて、結縁せさせ給へ』と泪を落す。不便の事には侍れども、『我々は所々にてとゞまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護かならず恙なかるべし』と云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。

   一家に遊女もねたり萩と月

曾良にかたれば、書とゞめ侍る。」

 市振は親不知の難所を越える拠点にありますから、宿場として繁栄していたでしょう。いろんな人たちが宿場を利用したはずですから、遊女が混じっていても不思議ではないでしょう。芭蕉が書いたのは、遊女たちの会話が漏れ聞こえてきてその境遇がわかり、翌朝、遊女たちから見え隠れにでも後を付いていきたいと言われ、それを断ったという話です。市振での出来事は虚構だろうというのが大方の見方ですが、市振のくだりがなかったら、『おくのほそ道』に記される俳句は「荒海や佐渡によこたふ天河」の次が「わせの香や分入右は有磯海」になって、長い空白になってしまいます。

 それに、『おくのほそ道』には女性にまつわる話はありません。連句の取り合わせのことを考えたら、この紀行文にもどこか華やいだ部分があってもよいはずです。「恋」の内容は、仮に虚構であっても、前半に置くのは早過ぎます。中盤までは歌枕を訪ねる旅という色合いを強く出しています。

 尾花沢や酒田などには知人と出会ったりすることがあり、金沢や福井にもそれがあります。旧知の人との関わりが少ない地域は越後路ということになります。市振でなければならない理由はありませんが、難所を越えた場所で、女の人たちの会話を聞くともなく聞くというのは、文章表現上は自然な成り行きです。『おくのほそ道』の旅も終わりが近づき、歌枕のこともほぼ終えて、肩の荷が軽くなりつつあったでしょう。言葉を凝縮して文章を綴ってきた芭蕉であるのですが、市振の段は言葉を節約することなく、ゆったりと文章を書き連ねています。

 「一家に遊女もねたり萩と月」の句は、遊女と会話を交わす前夜のことを詠んでいます。みすぼらしい姿をした自分たちと同じ宿に可憐な遊女も泊まっているようだ、折しも庭の萩には月が清らかな光を投げかけている、というのが句の内容です。互いに無縁の境遇にいるような者どうしが偶然にも一夜の宿を同じくしているということを、人の世のひとつの有様とみているのでしょう。

 私たちはまず、長圓寺に行きます。「一家に遊女もねたり萩と月」の句碑が、相馬御風の筆によって建立されています。1925(大正14)に作られたものですから風化が進んでいますが、豪快な筆遣いです。「弘法の井戸」を通って、ちょっと引き返して「海道の松」のあったところへ寄ります。市振宿の東の入口には、海道の松がありました。西から旅をしてきた人にとっては親不知の寄せ来る波を覚悟しなければならない位置にありますし、東からの人はここまで辿り着いてようやく胸をなで下ろすという役割を果たしていたと思われます。写真で見ると、高さおよそ20メートルで、目には優しい枝振りです。ところが近年、強風によって倒れてしまった、ということは訪れる前に既に知っていました。残されているのは切り株で、中心部分が空洞になっています。市振宿の東口の風景が一変してしまったのは残念なことです。仮に、後継の松を植えるにしても、同じ風景を取り戻すまでには、ずいぶんと時間がかかることでしょう。

 桔梗屋の跡を通ります。1856(安政3年)に刊行された俳人・中江晩籟の句集『三富集』に、「市振の桔梗屋に宿る。むかし蕉翁、この宿に一泊の時、遊女も寝たるの旧地なり。」とあるのが拠り所になっていると言います。元禄と安政では160年以上の隔たりがありますが、信頼すべき記述なのでしょうか。その桔梗屋は市振宿の脇本陣でしたが、1914(大正3年)の大火で焼けて、今は跡地が残るのみです。言い伝えであれ、「一家に」の句が詠まれた縁の場所があるのは嬉しいと思います。

 市振の町には人の姿は少ないのです。市振関所跡を過ぎて、その隣の小学校の前を通ります。芭蕉は遊女の一行に出会いますが、私たちは小学校から下校していく小学生3人に出会って、しばらく一緒に歩きます。人懐こい子どもたちです。市振駅よりもっと向こうまで帰るのだそうです。この小学校の児童は10人に満たないと言います。過疎に向かっている地域のようです。

 町のあちこちには「奥の細道」のPR看板があって句も書かれているのですが、市振の句はこどもたちとは無縁の遊女の句です。地元で作られた句を知っているのだろうかと、恐る恐る「一家に…」と口にしてみたら、即座に「遊女もねたり萩と月」という言葉が返ってきます。看板で知ったのではなく、学校でこ教えているようです。郷土文学を知ることは、郷土をいつくしむ心につながります。

 

魚津

 

 「くろべ四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。擔籠の藤浪は春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじと、いひおどされて、かゞの国に入。

    わせの香や分入右は有磯海 」

 旅の3日目は魚津からです。魚津は蜃気楼と、米騒動発祥地ということとが思い浮かびます。駅前の観光案内所に寄ると、「昨日は蜃気楼が見えたから、今日も見えるかもしれないよ」と嬉しいお達しです。駅前には「うまい水」という碑があって、「ほんとうに魚津は水がうまく空気がうまい 長生きしたけりゃ魚津においでうまい空気に水がある」という池田彌三郎さんの言葉が彫られています。

 旧北陸街道を歩いて海岸に向かいます。たてもん伝承館というのがあって、タテモン行事についての説明板があります。海岸に面して諏訪神社がありますが、タテモンは諏訪神社の行事です。ユネスコの無形文化遺産として「山・鉾・屋台行事」として33件が登録されましたが、そのひとつです。

 神社の前の大町海岸には、海岸に沿ってしんきろうロードが延びていますが、蜃気楼を見ることはできませんでした。タテモン行事も蜃気楼も、あちこちに立てられている看板などで想像することにします。

 穏やかな富山湾を眺めながら歩いていくと、ほどなく米騒動のモニュメントのある大町海岸公園に着きます。船の舳先とそこに積んである米俵の形です。米騒動は1世紀近く前のことですが、魚津の名は頭に刻印されています。騒動は8月に富山県内各地に広がり、さらに全国に波及していきました。公園から少し離れたところに「米騒動発祥の地」の碑があり、また旧十二銀行の土蔵造りの米倉も残されています。

 海岸を離れて東に向かうと、ほどなく大町小学校です。構内に二代目の常盤の松と、上杉謙信の歌碑とが並んでいます。ここは魚津城址でもあります。商店街を歩いて、富山地方鉄道の電鉄魚津駅に着きます。高架になっている駅からは、青空の下に雲もありますが、立山連峰の僧ヶ岳、釜谷山、剱岳などがはっきりと望めます。

 

滑川

 

 滑川駅の正面から延びる道には「ほたるいかのまち滑川」のバナーがずらりと吊り下げられています。海岸の、はまなす公園には、ほたるいかの句碑が並んでいます。角川源義の「花の後はやも賜はる蛍烏賊」などです。

 滑川は芭蕉宿泊の町です。魚津には芭蕉につながるものはありませんでしたが、滑川は芭蕉との関係を強調しています。櫟原神社には、芭蕉の「しばらくは花の上なる月夜かな」の句碑があります。満開の花の上に月がさしかかり、今宵は絶景であることだ、ということを詠んでいます。夜もしだいに更けてあたりには物音もなく、しばらくの間だけでも、静かに花と月の世界があるというのです。

 神社から、神明町、中町と古い道をたどって歩きます。荒町の海沿いの小公園に、「芭蕉翁おくのほそ道宿泊のまち」という碑があって、その傍らの碑には曾良の日記の一節が刻まれています。『曾良随行日記』には滑河(滑川)に泊まったと書いてありますが、宿屋の名前などはありません。旅籠の川瀬屋に泊まったというのが地元の有力な説で、その川瀬屋はこの碑の近くにあったというのです。ここりは、東西に北国街道が通っていて、両側に家並みが連なっていたようです。本陣跡もあります。

 徳城寺に有磯塚があります。「早稲の香やわけ入る右は有磯海」の句碑は富山県下に10基以上もあるそうですが、建立年代がはっきりしていて最も古いのが、この有磯塚です。芭蕉70回忌の翌年、1764(明和元年)1012日に、海岸の石を担い運んで、句を刻んだと言います。今は真新しい碑が作られていて、もとの句碑には覆屋が作られ、透明板で囲われた中に入っています。

 「早稲の香やわけ入る右は有磯海」は、「奥の細道」の記述に沿えば、黒部川を渡り那古の浦に出て、それから加賀の国に入ろうとして詠んだ句であるということになります。有磯海という言葉は固有名詞でありませんが、万葉集などにも詠まれて、いつしか越中の歌枕になりました。道の両側の早稲の田圃は実りを迎えた香りが漂ってくる、そのような道を分けて進むと、右手には遙かに海が見えて、磯の香も届いてくるようだという句境で、歩を進めながらの感慨が込められています。

 加賀の国に入れば有磯海ではなくなるのですが、越中である限り、特定の地点を指しているのではなさそうです。この句の碑が10基以上もあるということは、この句の世界を感じることができる場所はあちこちにあるということでもあるのでしょう。

 滑川駅への帰路に、市民交流プラザのビルの展望スペースに上って、立山連峰を眺めます。残雪の模様が青空に映えています。高いビルなどがなかった江戸時代では、この風景を地上のどこからでも眺められたことでしょう。海側には富山市、射水市から氷見市へかけての海岸線が見えて、これがまさしく有磯海です。

 

奈古の浦

 

 高岡駅前から万葉線電車に乗ります。万葉線は愛称ではなく正式の社名です。高岡駅から南に走って伏木に向かい、庄川を渡ってからは射水市を東に走ります。市内電車で、道路に敷かれた軌道では、車輪のきしみが直接に伝わってきます。そのうちに専用軌道になりますが、旧型電車はかなり揺れます。六渡寺駅の手前辺りは草ぼうぼうの軌道を走って、ローカル気分を満喫できます。

 駅には、「奈古の海に舟しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む」とか「あゆをいたみ奈古の浦みに寄する波いや千重しきに恋ひわたるかも」とか、越中で詠まれた万葉集の歌が、歌の意味や詠まれた事情などとともに説明された掲示があります。いよいよ奈古の浦に近づいたという気持ちが高まるような仕掛けが施されているのです。

 越ノ潟に着くとそこで線路が終わります。目の前に富山県営渡船の越の潟発着場があって、小型の船が待っています。料金は無料であると知っていましたので、駆け込んで乗るとすぐに出航します。この辺りは富山新港と呼ばれているところで、左側(富山湾側)には巨大な斜張橋の新湊大橋が頭上高く見えます。5分余りで堀岡発着場に着きますが、すぐに引き返す時刻表になっていますから、下船せずにそのまま引き返します。客は私たち以外は数人もいません。

 船を下りてからは海王丸のつながれている方向へ歩き始めます。あいの風プロムナードという案内板に引かれて進むと、新湊大橋に上る歩行者用エレベーターへ導かれます。あっと言う間に海面から50メートルほどの展望所に運び上げられます。海王丸はもちろん、氷見へと続く海岸線が見えます。振り返ると雪を残した立山連峰が立ちはだかっています。展望所は主塔の部分に設けられているのですが、プロムナードは対岸の主塔までの500メートルほどを行き来できます。有磯海の海岸線を近々と見たことに満足して、ここで引き返します。

 私たちは『おくのほそ道』を追体験しているような気持ちになっていますが、『おくのほそ道』に現代文明が加わったと思ってはいけないでしょう。『おくのほそ道』には見えていて、現代の私たちには見えなくなってしまったものがたくさんあるに違いないと思います。

 係留され観光施設になっている帆船の海王丸は、商船大学生・商船高等専門学校生などの海の男たちを育ててきた船です。たしか、この船の誘致をめぐって、商船大学のある神戸市も手を挙げていたような記憶があります。大橋や立山を背にした海王丸は、絵葉書のような姿です。あたりは海王丸パークとして整備され、恋人の聖地というような若者向けのスポットも作られています。

 富山の言葉では、ものがピカピカ光る様子や、混じりけのない様子や、気力の充実している様子などを指して「きときと」と言います。それを食べ物にあてはめるといかにも新鮮な様子を表します。その名を冠した「新湊きっときと市場」をのぞくと、紅ズワイガニやほたるいかも並んでいます。

 市場からしばらく歩くと放生津八幡宮です。その裏手、つまり海側に「奈呉之浦」の石柱が立っています。けれども、八幡宮の海側を道路が走り、植林も行われて、ここから海を望むことはできません。石柱のそばに、越中万葉名勝地という案内板があります。大伴家持の「東風いたく吹くらし奈呉の海人 釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」の歌、宗良親王の歌、宗祇の句と続き、最後に芭蕉の「早稲の香や」が記されています。ここでは、芭蕉よりも万葉歌人の家持が重んじられています。境内には、佐々木信綱の揮毫による大きな家持歌碑があります。「東風」は「あゆの風」と読んで、春から夏にかけて、北東の方向から吹いて豊かな海の幸を運んでくる風です。新湊ゆかりの万葉歌という案内板には10首が記されています。なにしろここは大伴家持が赴任した越中国府のおひざ元で、放生津八幡宮の祭神は大伴宿禰家持卿そのひとなのです。

 放生津八幡宮の芭蕉句碑はと探すと、少し黄ばんだ感じの石に「早稲の香や」が刻まれています。芭蕉150回忌の1843(天保14)に建てられたというだけあって、傷みが激しく、判読しにくい部分もあります。上下二つに折れた石を真ん中でつないで修復しているように見えます。

 少し歩いて荒屋神社へ行きます。ここにも「早稲の香や」の句碑がありますが、解説の碑文が付いているのが珍しいと思います。句の解釈や文学的価値などについては、時代の流れの中でさまざまな考えが現れてきて当然だろうと思います。ある時代の、ある人の解釈や評価が石に刻まれてしまうのは、すこし行き過ぎではないかという気がします。

 有磯海という言葉の出発点は、大伴家持が弟の死を知って、悲しみの中で詠んだ「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」という歌であると言われます。越中国府は伏木にありましたから、八幡宮を勧請した放生津に近い海を表していたのかもしれません。けれども、東を見れば放生津海岸、西を見れば雨晴海岸ですから、今となってはどちらに軍配を上げるわけにもいかないでしょう。『曾良随行日記』によれば、芭蕉は氷見へ行きたいと考えましたが行っていません。なぜ氷見のことを考えたのかと言えば雨晴海岸のことが脳裏にあったのかもしれません。

 さて、ちょっと信じられないことかもしれませんが、私たちが『おくのほそ道』歩きをして、雨にあうことは本当に少ないのです。3泊4日の旅ですから、その期間の天気は気になります。日程は1か月以上前に決めて、宿泊予約や鉄道切符購入も済ませます。4日間とも晴れという予報などはほとんどありません。ときには1日~2日が雨という予報もあります。

 けれども、出発してしまうと意外なことに天気が好転してくれるのです。この文章で雨のことをほとんど書いていませんが、それは降雨を内緒にしているのではありません。まる一日中、降られたという経験はありませんし、雨にあうこと自体が少ないのです。今回はそれが覆されることになりました。4日目は、朝から雨です。風は強くはありませんが、一日中降り続くことは明らかです。旅の最終日です。どのように変更しようと、翌日からの日程に影響することはありません。氷見線で雨晴駅を往復し、男岩・女岩のあたりの景色を見るという計画を振り捨てて、帰途につきます。雨晴海岸は2人とも曽遊の地であるということも理由です。

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2018年3月27日 (火)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(10)

  第9回 酒田から新潟まで

 

 年が改まって2017(平成29)です。寒い間は冬眠をしておりましたが、これから日本海を南へ歩きます。9回目の旅は、3月28日から31日までです。今回は山形県・新潟県を歩きます。

 

再び酒田

 

 旅の初日は酒田にたどり着くだけで終わります。

 2日目の朝、酒田を歩きます。前年の旅は日和山公園で終わりました。芭蕉の文学遺跡は日和山のあたりに多く集まっているのですが、市内で見逃したものがありますから、酒田からの再開です。山居倉庫を見て、一回りしようと思います。

 新井田川のほとりに出ると、目の前に山居倉庫が現れます。土蔵造り12棟の山居倉庫は1893(明治26)に米の保管倉庫として建造され、現役の農業倉庫です。芭蕉の頃にはなかったものですが、酒田観光のシンボルです。倉庫の背後にケヤキ並木が続いています。この季節は、観光写真で見るものとは違って、葉を落とした裸の木です。40本以上が立ち並び、屋根より高く太い枝を伸ばしたケヤキは、百余年の時を重ねた倉庫のどっしりとした構えに負けてはいません。

 芭蕉が酒田にいたのは、秋の半ば近い頃です。春の初めに旅する私たちは、ちょうど逆の季節に酒田に居るのですが、青空が広がっていて、ケヤキの緑だけが欠けているように感じます。観光客の姿はありません。新井田川の河畔の屋形船も、シーズンの幕開けをのんびりと待っている風情です。川に架かる木製の山居橋の上で、上流・下流を眺めながら、うーんと思いっきり背伸びをします。

 山居倉庫からの帰途は、本間家旧本邸、酒田市道路元標、近江屋三郎兵衛宅跡、酒田三十六人衆ゆかりの地、旧鐙屋などを通りますが、いわば駆け足の通過です。けれども、米の集散地・積出港として大坂と直結していた酒田の繁栄の一端を垣間見る思いにはなります。芭蕉が訪れる6年前、1683(天和3年)には、上方からの船の出入りが急増し、およそ3000隻の船が入港したと伝えられていますから、華やかで闊達な文化が形作られており、芭蕉も目にしたことでしょう。

 

出羽の国から越の国へ

 

 「酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで百卅里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。

   文月や六日も常の夜には似ず

   荒海や佐渡によこたふ天河  」

 『おくのほそ道』は、酒田から鼠ヶ関を経て市振までを短くまとめています。親不知と市振のことは改めて書いているのですが、通過したり宿泊したりした温海や村上のことは書いていません。

 『曾良随行日記』によると、芭蕉は馬で鼠ヶ関へ赴いたが、曾良は温海温泉の湯本でゆっくりしたのかもしれないような記述になっています。時に師弟が異なった行動をとることもあったのでしょう。

 『おくのほそ道』に地名しか書かれていない鼠ヶ関は、県境にあたるところですから、歩いて越えようと考えます。鼠ヶ関の海岸に出て、そこから府屋駅まで歩きます。鼠ヶ関は奥羽3大古関のひとつですが、念珠関所跡は、府屋とは逆方向にあるので割愛します。推定樹齢400年の「念珠の松庭園」の臥龍松と枯山水の庭を見てから海岸へ出ます。「マリンパークねずがせき」と名付けられて整備された海岸が広がっています。

 鼠ヶ関の海岸の右手に少し突き出て岬のようになっているところが弁天島で、そこには小さな灯台が建ち、灯台の足元には赤い鳥居が見えます。時化に見舞われたら様子が一変するかもしれませんが、今は穏やかな入江の風景です。風はありませんが、雨が少し降り出します。

 江戸時代の五街道を歩いたとき、県境を幾つも越えました。中山道の碓氷峠の頂上には群馬・長野の両県に属する神社が並んでいましたし、奥州街道の新しい白河関も同様に栃木・福島の両県に属する神社がありました。家並みが続いているのにひょいと溝をまたげば県境を越えるというのは「寝物語の里」と呼ばれている、中山道の岐阜・滋賀の県境でした。それと同様に、あっけないほどの県境が山形・新潟の県境です。

 海岸から左に入って、集落の中を歩いていくと、道路を横切って一本の黄色い線が引かれ、その線上の道路左側に「左 山形県 右 新潟県 境標」と刻まれた石柱が建っています。足元の線の左右には足形がふたつ書かれており、その足形の上に立てば体は両県にまたがっていることになります。都府県の境というものは 山や川などの自然物によって区画されることも多いのですが、平野部に県境があってもおかしくはありません。そんな場合でも家並みが途切れたようなところにあれば違和感はありませんが、建て込んでくると家並みが続いてしまいます。ここは、しだいに家並みが続くようになったのか、それとも続いているところに区画線を設けたのか、歴史的な経緯は知りませんが、都市部でないだけに、不思議な気がします。この近く、山形県側に「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」という石標があります。

 いよいよ出羽の国(羽前)から、越の国(越後)に足を踏み入れます。象潟から敦賀までは日本海に沿って歩くことが続きます。天が慮ったのかどうか、鼠ヶ関を過ぎて集落が途切れたあたりから、急に黒い雲が空を覆って、しだいに雨脚が強くなって、傘が必要になります。風もきつくなって歩くのがすこし困難になります。『おくのほそ道』象潟には「蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。」という記述がありますが、私たちは、塩を作って販売をしている小屋で雨宿りです。あるじの若者が迎え入れて、親切に説明をしてくれます。

 やや小降りになってきたので、府屋駅に向かって歩き始めます。よほどのことがない限り、風雨の中でも歩き続けるのが私たちの基本の姿勢です。強い風雨は一時的なものとして通り過ぎたようで、しばらくすると傘が要らなくなります。薄い日が射してくるようになると 海は穏やかさを取り戻します。冬の厳しさから春の穏やかさへの変化を感じます。戊辰東北戦争の古戦場などというところもありますが、眺めるのは左手の山と、右手の日本海ばかりです。

 岩崎というところで、国道7号からわかれて左の道へ入ります。真っ直ぐ進むと笹川流れまで8㎞、左に進むと日本国まで8㎞、とあります。日本国というのは県境にある555メートルの山のことですが、その名前ゆえに話題になることが多いのです。

 集落の中を歩きます。ブロック塀の上に、木などで塀を継ぎ足して風除けにしている家があります。冬の厳しい風を防ぐためのものです。集会所の前に、手製の看板が掲げられて、「岩崎 ゆたかな村」と書いてあります。魚を持ち上げている人、稲束をかかえている人、西瓜や南瓜を持っている人が描かれています。厳しい自然の中にあっても、農業・漁業の幸に恵まれているのでしょう。

 羽越線の線路をくぐって山側に出ます。「雷~関川間、除雪のため当分の間 全面交通止」という看板があって、海岸から離れて山間部に入るところでは、冬の最中の感じがします。このあたりは、厳冬と早春が混在しているようです。「日本国登山口」という表示のあるところで 川を渡ります。府屋の集落の中心であるようなところを通ってから、造船所踏切の手前を左に折れると、すぐに府屋駅に着きます。

 府屋は一部の特急列車が停まる駅です。駅のホームからは、彼方に鼠ヶ関の弁天島の灯台がかすかに見えます。ホームには小さな鯉幟を逆さにしたようなものが並んで吊り下げられています。頭が下向きになっていますから、家々の軒下に吊される塩引き鮭です。これは村上の冬の風物詩です。日本海の景色を窓辺に、村上へ向かいます。

 

村上

 

 列車が三面川を渡ると村上駅です。駅前広場に、「今は山中今は濱 今は鉄橋渡るぞと 思ふ間も無くトンネルの 闇を通って廣野原」という「汽車」の歌碑があります。この尋常小学校唱歌の作詞者については諸説があるようですが、作曲者が村上市出身の大和田愛羅です。

 『おくのほそ道』には村上の記述はありませんが、芭蕉は村上で2泊しています。『曾良随行日記』によると、6月28日の夕方近くなって村上に着き、29日は終日、村上で過ごしています。久左衛門という人が旅籠の主人です。

 村上の町は、歩き始めてみると、ずいぶん広いことを実感します。尋ねたいと思う地点が離れています。最初に目指した稲荷神社まで、駅前から40分近くかかります。ここに芭蕉句碑があります。「雲折々人をやすむる月見かな」です。月の美しい光を眺めている人に、雲が月に折々かかって、人をしばし休ませることだ、という句意は明瞭ですが、これは、西行の歌「なかなかに時々雲のかかるこそ月をもてなす飾りなりけれ」を踏まえています。

 芭蕉の宿泊した宿久左衛門の跡という、井筒屋の前を通ります。旅館井筒屋という看板は掲げていますが、その営業は休止しているそうで、「塩引鮭お茶漬」と書かれたのれんがかかっています。

 井筒屋からは、黒塀通りと呼ばれている道をたどります。城下町らしい昔ながらの景観に戻そうとする活動が行われているようです。ブロック塀の上に板を張りペンキを塗るというやり方ですが、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。

 1400年代末の明応年間に開基という浄念寺は、芭蕉が訪れた頃には泰叟寺と称していた寺です。本堂は白壁土蔵造りで国の重要文化財に指定されていますが、1818(文化2年)に建てられたそうですから、芭蕉はこれとは違った本堂に参詣したのです。

 

良寛の分水

 

 芭蕉は、村上に宿泊した後、7月1日は築地(中条町。現在は胎内市)、2日は新潟、3日は弥彦、4日は出雲崎、5日は鉢崎(米山町。現在は柏崎市)に泊まっています。6日と7日は直江津、8日・9日・10日は高田が宿泊地です。

 「荒海や佐渡によこたふ天河」の句は出雲崎で、「文月や六日も常の夜には似ず」の句は直江津で想を得たのではないかと言われています。越後の国は駆け抜けたわけではありませんが『おくのほそ道』に収められている句が少ないのは残念です。

 今回の旅は、村上を歩いたあとは、新潟、分水・国上山などを目的地にしています。私たちは2人とも良寛に心引かれています。せっかくだから良寛ゆかりの地に時間を割こうと決めました。1758(宝暦8年)に生まれて、1831(天保2年)に亡くなっている良寛は、芭蕉(1644年~1694)より1世紀以上も後の人ですが、出雲崎が芭蕉ゆかりの土地であり、良寛ゆかりの土地でもあることもあって、良寛に関係の深いところで時間を費やそうと考えるのです。

 芭蕉は、東北地方では観光資源という意味も強くて句碑や像も多く、案内標識なども充実しています。ところが新潟県南部ではその様子が変化します。観光面では、郷土の人である良寛の方が重んじられています。『おくのほそ道』の文章自体が希薄になっていますから、当然かもしれません。

 私たちの旅の3日目。越後線の分水駅の駅前には「水の文化と良寛の里」という案内板が立っています。これから国上山にある五合庵を目指します。足元にあるマンホールのふたにも「水の文化と良寛の里」という文字と、合併前の分水町という名が刻まれています。桜とダムと手鞠のデザインです。良寛といえば手鞠の絵がふさわしいのでしょう。

 信濃川はひとたび豪雨となれば洪水を引き起こし、越後の平野に暴れ出します。その治水のために作られたのが大河津分水です。分水駅から西に向かってその分水路の堤まで歩き、右岸の堤の下の道を川に沿って北西に向かいます。堤の法面は桜並木になっていて、花盛りの頃は圧巻でしょう。

 五合庵は国上山の中腹にある簡素な草庵です。良寛が五合庵に住むようになったのは40歳の頃で、そこで20年ほどを過ごしてから、乙子神社の草庵に移っています。乙子神社草庵での生活は10年に及びますから、国上山での暮らしは合わせて30年になります。40代から60代までの30年間です。良寛が修行を重ねて、詩歌や書の芸術が円熟を迎える時期と言って良いのでしょう。

 分水路を離れて坂道にかかり、急坂の舗装道路を汗をかきながら登っていくと、道路から左の方を指し示して、「良寛修行の地 乙子神社」という案内板があります。小さな鳥居をくぐって木立の間を登ると、すぐに社殿が見えてきます。1885(明治18)に再建されたという本殿の左側には草庵があり、「史跡 良寛修業之地」という石柱が建っています。草庵は、良寛の在庵当時により近いものとして、このたび再建したとの説明板があります。本殿の右側には良寛の漢詩と和歌を記した碑があります。漢詩の中には「嚢中三升米 炉辺一束薪」という言葉があります。手元にあるのは米3升と薪1束だけというつましさを憂えている風情はありません。

 もとの舗装道路に戻って、急な坂道を登り詰めると朝日山展望台に着きます。展望台の後ろ側に、子どもたちと遊ぶ良寛の像があります。良寛の前に3人、後ろに1人の子どもがいて、その間に良寛の姿があります。鞠を持って戯れている群像です。良寛は子どもたちに視線を投げかけて、俯きかげん、細面の柔和な顔です。「子どもらと手まりつきつつ此の里に遊ぶ春日はくれずともよし」という心そのままの姿です。

 709(和銅2年)に開山して1300年になるという国上寺は越後で最古の古刹です。境内にある良寛像は、口をへの字にして、細面で静かに座っている姿です。本堂(阿弥陀堂)の右側に大師堂があり、その横手から国上山への登山道が始まります。本堂の左側には六角堂があります。

 国上寺の山門を出て鏡井戸の前を下っていくと、五合庵に出ます。五合庵は国上寺の塔頭ですが、本堂などから少し離れて、静けさに包まれたようなところにあります。南北朝から戦国時代にかけて衰微した国上寺の再建に尽力したのが、前述の萬元上人です。上人は国上寺から小さな庵を与えられ、一日あたり米五合を給されたそうで、それが五合庵という名前の由来です。上人の後は国上寺の住職が隠居所として使ったりしましたが、1804(文化元年)から良寛が住みました。木立の中の現在の草庵は1914(大正3年)の再建だそうですが、もう1世紀を経た建物というようには見えません。手入れが行き届いているからなのでしょうか。それにしても、6畳か8畳ぐらいのたった一間で、仏間、床の間が付いているだけのような建物です。仏道修行の場としては理解できますが、炊事などはどのようにしたのでしょうか。茅葺きの小さな建物からは想像できません。庵は開け放たれていますから、縁側部分にしばし腰をおろしてみます。

 傍に「堂久保登盤閑勢閑毛天久留於知者可難」という良寛の句碑が建っています。「たくほどはかぜがもてくるおちばかな」です。炊事や暖をとるための落ち葉と思うと、少しだけ生活臭を感じることができます。庵の裏の方には萬元上人墓碑も建てられています。

 五合庵から下っていくと本覚院の境内に入っていきます。良寛の言葉の一節が書かれた碑を2つほど見たりしていると、唐突に「青葉分け行く良寛さまも行かしたろ」という山頭火の句碑が現れます。

 赤く塗られた千眼堂吊り橋を渡って朝日山展望台に戻ります。国上寺を経て、ぐるっと一周したことになります。展望台の眼下には大河津分水と平野が広がっています。下山途中の道では、薄紫のかたくりの花をいくつも目に入ります。

 分水の市街地に戻ってから、良寛が13歳から18歳まで寄宿したという中村家に立ち寄りますが、外観は何と言うこともない普通の民家です。近くに願王閣という寺院があります。

 良寛の旅の最後に燕市分水良寛史料館に寄ります。ここの良寛像は、膝の上に書物を広げて読みつ考えつしている姿です。歌碑には「わがいほを たづねてきませ あしびきの やまのもみぢを たをりがてらに」が万葉仮名のような漢字で刻まれています。

 

新潟の町と日本海

 

 4日目。ゆっくりと、芭蕉のゆかりを尋ねながら、海が見えるところまで歩くことにします。信濃川に架かる300メートルあまりの萬代橋は、6連のアーチで御影石で作られています。現在の橋は1929(昭和4年)に架けられましたから、もう1世紀近くになるのですが、ひとつの風景を形作っています。橋を渡り終えて左側に、虚子の「千二百七十歩なり露の橋」の句碑があります。ずいぶん真面目に歩数を数えたものと感心しますが、この句を詠んだ当時は木製の二代目萬代橋で長さ782メートルであり、現在の三代目萬代橋は307メートルであるという注記があります。

 まず宗現寺に向かいます。蓑塚は、芭蕉が新潟に立ち寄ったことを偲んで、後の人が善導寺に建立したものを、何度かの火災を経て、1917(大正6年)にこの寺に移設されたと言われます。「芭蕉翁蓑塚」と彫られただけのものです。境内には白い梅が咲いています。

 海に向かって歩きます。ほぼ真西にあたるところを目指すのですが、道路は東西に通じていませんから、地図を見ながら都合の良い経路を探しながら歩きます。どっぺり坂という面白い名前のところを通って、海が近づくと林の中の足元に「日本海まで200メートル」という表示があります。普通は「海岸まで200メートル」と書くだろうと思いながらも、ここは朝鮮半島やロシアに続いている海なのだということを意識します。海に風はほとんどありませんが、海岸は少し波立っていて防波のための並行堤にあたって砕けています。少し引き返して、会津八一の「降り立てば夏なほ浅き潮風の裾吹き返す故郷の浜」(碑面は平仮名書き)の歌碑に立ち寄ってから、新潟県護国神社に向かいます。

 新潟県護国神社の本殿から、北側の少し細い道を通って引き返すと、文学碑などが見えてきます。まっさきに目にはいるのは、北原白秋の「すなやま」の碑です。「うみはあらうみ むこうはさどよ すずめなけなけ もうひはくれた みんなよべよべ おほしさまでたぞ」以下3番までの言葉が平仮名で書いてあります。白秋は1922(大正11)に童謡音楽会に招かれて新潟を訪れて、寄居浜で見た風景から、この作品が生まれたそうです。続く新潟出身の坂口安吾の碑には「ふるさとは語ることなし」という言葉が彫られています。少年時代の安吾は手のつけられない暴れん坊で、旧制新潟中学校時代は授業に出席せず寄居浜で空を眺めていたと言います。碑の肩には「坂口安吾が少年の日の夢をうづめたこの丘に彼を記念するための碑を建てる」と発起人代表・尾崎士郎の言葉が刻まれています。神社の境内は木立が並んでいますが、その境内の外側は寄居浜に続きます。

 しばらく行くと芭蕉堂があります。各地に芭蕉記念館などがありますが、ここにあるのは異色です。黒い大きな石に、現代風の赤い文字で「芭蕉」と書いてあります。永久保存のため堂の中は全部コンクリート詰めにして中に翁の肖像画と由来書を鋼筒にいれてあるという説明があり、1966(昭和41)に吉原芳仙氏が自費で建設して新潟市に寄贈したと書いてあります。できてから半世紀を経ていても、現代的過ぎて唐突な建築物に見えますが、時間が経てば芭蕉に寄り添うものになっていくのでしょうか。

 芭蕉堂の近くに「蓑塚」がありますが、芭蕉堂とは別の存在です。この蓑塚は、宗現寺のものに比べると造りが新しく感じられますが、背の低い木々に囲まれて、なかなか好ましい趣があります。蓑は、古くなったり破れかけたりしたら取り替えなければなりませんが、そのたびに蓑塚などというものを作っていたら大変だとは思います。旅の記念碑としては、履き物である草鞋塚などよりも、上半身に身につける蓑塚や笠塚が望ましいと思って作っているのでしょうか。

 新潟市役所の近くを通って、新潟総鎮守という白山神社に立ち寄ります。神社の前には「新潟地域十四市町村 広域合併記念 平成十七年十月」という黒い碑があります。新潟市は日本海側では最大の都市ですが、かつての人口は4050万人で推移していたように思います。それが2005年に新津市・白根市・豊栄市などと合併して、80万人規模になり、政令指定都市になりました。

 新潟の文学者として地元で重んじられているのは、会津八一、坂口安吾、平出修、良寛などで、芭蕉は文章も俳諧もはかばかしく残していませんから扱いが軽いのでしょう。句碑は船江大神宮(神明宮)にあるのみです。船江大神宮は狭い境内ですが、芭蕉句碑「海に降る雨や恋しきうき身宿」が、1857(安政4年)に建てられました。この句は元禄2年、新潟での作かと言われていますから、『おくのほそ道』の途次のものなのでしょう。季語がありませんが、秋の句のように思われます。浮身というのは、旅商人などが滞在しているときに、妾のような役割を果たす人で、その家を浮身宿というのだそうです。女の人がしきりに降る雨を通して海の方を眺めている、海の方には商人の乗った船が通るのか、それを恋しく思っているようだというような意味でしょう。

 今回の旅は新潟で終わります。現在の鉄道事情は東京中心の経路になっています。上越新幹線と東海道新幹線を乗り継いで帰ります。東京一極集中を緩和しようという議論はあっても、現実はますます一極集中に輪をかけているように思います。鉄道線路はつながっていても、「奥の細道」のような越後~越中~加賀~越前という陸路、あるいは北前船の日本海に沿った航路のようにはいきません。かつてのような日本海縦貫の特急列車は姿を消しました。北陸新幹線も東京と結びつき、その開業によって、日本海沿いの鉄道線路は、むしろ寸断されてしまったような印象になりました。

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2018年3月26日 (月)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(9)

  第8回 山寺から象潟まで

 

 8回目の旅は、初冬の風情が漂う1122日から25日までです。22日に東北地方で地震がありました。今回は山形県・秋田県を歩きます。

 

山形市

 

 旅の初日から予定変更の恐れが出てきます。東京駅の乗車予定は1100分発・つばさ135号で、1344分山形駅着です。案内板を見ると、東北・山形・秋田新幹線は乱れていることがわかりますから、1057分発・やまびこ47号・盛岡行に乗ります。時刻表より遅れての発車です。いちばん早い列車で福島まで行っておこうという判断です。福島駅に着いたのは1235分です。

 福島駅で、つばさ135号は運休になったことを知り、その次のつばさ137号が福島を発車するのは何時になるかわからないと教えられます。駅構内を歩いたり待合室でテレビを見たりして時間を費やします。多賀城市内の川に津波が遡上している映像が流れています。つばさ137号が福島を発車したのは14時ちょうどです。初日に立石寺へ行って山形に戻るという計画は不可能です。

 山形新幹線のような単線区間のある鉄道は、いったんダイヤが乱れ始めると、ますます遅れが増幅していきます。特急でありながら、米沢の手前の駅で普通列車との行き違いのために長い時間待たされたりしながら、山形駅に着いたのは1533分でした。

 この日は山形市内からは動けないと覚悟して、駅前の霞城セントラルの展望階に上って、山形市内を眺めます。足元に見える霞城公園の左手奥に芭蕉が登った月山があるはずですが曇ってしまっています。山形駅の向こう側、東の方向には陸奥と出羽を区切る山々の連なりが続いています。

 『おくのほそ道』は尾花沢から立石寺に行き、引き返して大石田に向かっていますから、山形市には来ていません。けれども県都には敬意を表しておこうと思い、山形に泊まる計画です。駅前のホテルに荷物を置いてから市内を散策することにしますが、晩秋ゆえにすぐに暗くなります。山形城跡の霞城公園を歩きます。体育館や県立博物館などがありますが、閉まっています。いろんなモニュメントなども暗くなって見えません。山形市郷土館だけがライブアップされています。

 

山寺

 

 「山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

   閑さや岩にしみ入蝉の声  」

 芭蕉は大石田で清風や素英などに勧められたのでしょう、北に向かう予定を南に変えて、立石寺に向かいました。「其間七里」とあるように、往路で1日、復路で1日が必要です。『曾良随行日記』によれば途中の楯岡まで馬で送ってもらっていますし、帰りも馬を借りたと記されています。何がどんな結果をもたらすかは芭蕉自身も予測できなかったでしょうが、この寄り道は『おくのほそ道』の中でも優れた文章となり、印象的な句を作ることになります。

 2日目は7時前にホテルを発ち、7時30分過ぎに仙山線の山寺駅に着きます。ホームから山寺を眺め、駅構内の見晴台から改めて岩山全体が境内となっている立石寺を見上げてから、歩き始めます。

 赤い欄干の山寺宝珠橋で立谷川を渡ります。水は少なく、川底の岩が現れています。開店していない土産物屋などの前を歩き、日枝神社登山口を過ぎて、しばらく行くと「奥の細道 立石寺」の標柱や案内板のあるところに着きます。清和天皇の勅許をもらった慈覚大師により860(貞観2年)に開かれたと書いてあるのは、芭蕉も述べているとおりです。長い石段が延びていますが、色づいた木々がしっとりとした風情を見せています。上りきるとそこが本堂(根本中堂)で、赤や黄色の木々が華やかに見えます。一画にはイチョウが散り敷いているところがあります。

 私は立石寺に来るのは3度目です。かつてとは異なったルートを歩いているように思います。本堂から左手に進むと、清和天皇の御宝塔があり、手前に芭蕉の句碑があります。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の碑面は、1853(嘉永6年)の建立から時を経て、読みづらくなっています。進むとすぐに日枝神社になりますが、ご神木である大イチョウの木が葉を落として立っています。

 宝物館の前に芭蕉の像と曾良の像があります。ここの像は、他で見てきたものとは少し違っています。左側に芭蕉の像、右側に曾良の像があって、その間(芭蕉に近い位置)に「閑さや…」の句碑が設けられています。2人とも腰掛けた姿ですが、2人の位置は離れています。像は同じぐらいの大きさですが、台座は芭蕉が高く、曾良が低いので、それなりの均衡を保っています。別々の像である理由は、傍らにある説明の碑から、芭蕉像が1972(昭和47)に建てられ、曾良像が1989(平成元年)に建てられたからであることがわかります。芭蕉像は、頭巾を被って、濃い眉に、やや目が窪んだ穏やかな顔で、角張った頭陀袋を膝に膝に置いています。耳を澄まして、顔を傾けているように思われます。曾良像は、真ん丸頭に何も被らず、以下にも精悍な顔つきで前を見据え、右手に長い杖を、左手に笠を持っています。両足を開いた姿勢で、芭蕉を守り抜くというような気概を感じます。

 常行念仏堂や鐘楼の前を通って山門に入ります。ここから奥之院まで800余の石段があります。山門を入ったところは紅葉が散り敷いています。しばらく先に姥堂があります。小さなお堂に、赤い頭巾を被った姥たちの像が安置されています。ここから下が地獄、ここから上が極楽という浄土口です。

 修行者の通った参道は、最も狭いところは幅14㎝の四寸道で、このあたりから石碑、石像、木柱などの数が増えていきます。平安時代初期の磨崖仏もあり、見上げると垂直の岸壁も見えます。「芭蕉翁」と刻んだ丸い感じの塚が「せみ塚」で、「閑さや…」の句をしたためた短冊を埋めています。

 1848(嘉永元年)に再建されたという仁王門は優美な姿で、紅葉の風景の中にたたずんでいますが、左右に安置された仁王は鋭く人々を睨み付けています。この門を抜けたあたりから、みぞれが降り始めましたが、岩山が左右から迫り来る景色が続きます。「岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に」という芭蕉の筆は誇張ではありません。岩を這い上るようなところはありませんが、芭蕉の頃は修行者のみが行き通う難路もあったことでしょう。

 江戸時代には山内に12の支院があって多くの僧が修行を続けていたそうですが、今は4つの院が残っています。修行の岩場や、岩に立てかけられたようなお堂も見えますが、金乗院の前を通って近づいてみると、準提堂・六観音堂への道には立入禁止の立て札があります。

 最上義光公御霊の前を過ぎると、奥之院と大仏殿の前に着きます。みぞれが降り注ぐ中でガサッという音がして、見上げると木の上で猿が動いています。

 「閑さや岩にしみ入蝉の声」の初五は、「山寺や」から「さびしさや」に変わり、「閑や」に落ち着いたようです。「山寺や」では場所の説明になりますし、「さびしさや」では主観の強い表明になりそうです。「閑さや」は自分をその場所に置いて、視覚・聴覚を澄んだものにしている様子が読みとれます。「岩にしみ入」についても、「しみつく」「しみ込む」という言葉を考えた過程があるようですが、「しみつく」では表面的な印象が残りますし、「しみ込む」ではゆっくり柔らかく入っていくような感じですから、「しみ入()」に定めたのでしょう。「岩にしみ入」の「岩」は、「岩に巌を重て山とし」とあるように、一つや二つの岩を思い眺めているのではないでしょう。幾匹かの蝉がひとつの声となって鳴いていたのが全山の巌の中に吸い込まれているように感じたのではないでしょうか。

 奥之院、大仏殿から、華蔵院、三重小塔に立ち寄り、行啓山寺記念堂を見てから、開山堂と五大堂に行きます。開山堂は慈覚大師を祀るところですが、そこを通って五大堂に上ります。

 五大堂は、五大明王を祀って天下泰平を祈る道場ですが、境内随一の展望所でもあります。舞台のように突き出たところからは、眼下に山寺駅や集落や川が見えます。左右からは岩壁と紅葉の山が迫ってきています。

 仁王門から下って、その門を振り返った風景は、立石寺の看板のようなところです。さまざまなポスターやリーフレットにも載せらています。ただし、仁王門を見たとき、一本の大杉が立ちはだかります。自分の身を右に寄せても左に寄せても、ここからは大杉を省いて仁王門を眺めることはできません。立ちはだかる大杉は寺の主のような存在で、写真に必ず写り込むのです。

 上ってきた道とは違う、細い道を選んで下りていきます。私が過去2回歩いて印象に残っているのはこんな道であったようです。幅2メートルほどで、段になっているところもあり、緩やかな傾斜の道が続いているところもあります。これがかつての登山道で、今は拡幅されて別のルートに変更されているのでしょう。便利になり安全になったのと引き換えに、観光地化し俗化してゆくのでしょう。

 

天童

 

 将棋の町として知られ、温泉にも恵まれている天童ですが、私たちが天童に立ち寄るのは短い時間だけです。スロープのように伸びる駅の階段を下って、町に出ます。駅正面から真っ直ぐ延びる通りを行くと、「奥の細道」の碑があります。芭蕉の足どりが簡単に書かれて、「羽州街道をとおり天童の念仏堂を経て山寺に一泊する。」と書いてあります。根拠として『曾良随行日記』が刻んであります。

 天童公園となっている舞鶴山のふもとの道を進んでいくと天童市立東村山郡役所資料館の前に出ます。1879(明治12)に東村山郡役所として建てられ、1986(昭和61)に資料館として開館しています。3階に塔屋を持ち、瓦葺きで漆喰壁の白亜洋風で、均整がとれた美しい建物です。

 資料館の前に、奥の細道ゆかりの地として翁塚跡という標柱があります。資料館の右手の方へ行くと「念仏寺跡 翁塚」という碑がありますが、これは1978(昭和53)に建てられたものです。傍らに説明の碑があって、その中に「芭蕉翁が天童を通り山寺を尋ねたのが元禄二年旧五月二十七日、二十八日である。宝暦八年旧八月十二日、菱華亭池青が念仏堂に 古池や蛙飛びこむ水の音 の句碑を行脚七十年記念に建立し翁塚と称した」と書いてあります。宝暦8年は1758年です。翁塚については、1760(宝暦10)に山形の俳人、雨声庵皓が旅をしたときに「天童念仏堂の境内に翁塚を拝す」と書いてあると説明されています。

 次に、「北目の道標」を見るべく南の方に向かいます。「奥の細道 山寺への道 北目」という木柱が立っています。芭蕉も辿っただろうと思われる道筋です。ところが肝腎の石の道標がありません。辺りを見回したところ、道の向こう側、工事をしている道路の一画に石が転がっているのを見つけて近寄ると、「右若松道 左湯殿山道」と彫ってあります。これこそが北目の道標と言われるものですが、道路工事中とはいえ、誰もいないところに、まるで無造作に横たえられているのに驚きます。

 さらにそこから南の方に、芭蕉の休石があるのですが、地図を頼りにしながらも、見つけるのにちょっと難渋します。据えられている石そのものに「休石」と彫られています。ほんとうに芭蕉が腰を掛けた石なのか、いつそれに文字を刻みつけたのか、不思議な〝文学遺跡〟です。

 

新庄

 

 天童から新庄まで列車で移動します。駅から南の方に向かって、升形川を新栄橋で渡り、八幡神社の前を過ぎ、JRの下をくぐって少し行くと柳の清水の遺跡です。

 柳の清水は、大きな石で囲まれた縦横1メートル余りの湧水です。昭和の初めまで清水が豊かに湧き出していたそうですが、今は貯まっている水に動きはありません。傍らの説明板には、鳥越一里塚を通り過ぎた芭蕉のことを「この日は六月一日(七月十七日)の昼ごろであった。訪ねる風流亭(澁谷甚兵衛宅)は間近と聞いていても、この涼しげな柳と清冽な清水を見て、芭蕉と曾良も小憩をとって一掬咽喉をうるおし、汗も沈めたことであろう。『水の奥氷室尋ぬる柳かな』これが風流亭での芭蕉の挨拶の句であった。」と説明しています。

 ここには「水の奥氷室尋ぬる柳かな」の句碑があり、蓼太の「涼しさや行先々へ最上川」もあります。この句は、柳の陰を流れる水は涼しげで、その水の奥の方を尋ねていけば氷室に行き当たりそうだ、という意味です。奥の方にある氷室を尋ねていこうという意味にもとれますし、氷室が澁谷甚兵衛を指していると考えることもできます。

 柳の清水の近くに、鳥越の一里塚があり、羽州街道の昔の姿を保っています。一里塚は松や榎を植えることが多いのですが、ここはブナの大木で、珍しい例のようです。北側の塚だけが残り、南側はなくなっています。この手前には舟形町紫山に一里塚があり、この先には新庄の上茶屋町にあったそうですが、今ではどちらも失われています。芭蕉はここまで来て新庄が近いことを知り、柳の清水で一休みしたのでしょう。大木の傍に「羽州街道跡 新庄城下南入口」という黒い標柱が立っています。

 新庄駅に引き返して、泊まる予定の酒田に向かいます。夕暮れから闇の世界へと変化していくローカル線を旅することは大好きです。ところどころに光が見えて、あとは闇の中という車窓で、ひとつずつ駅を過ぎていくのも旅の味わいです。

 

吹浦から三崎へ

 

 「羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云もののふの家にむかへられて、誹諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。

   あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

   暑き日を海にいれたり最上川  」

 『おくのほそ道』歩きは遂に日本海に出会います。出羽三山の旅を終えた芭蕉は、鶴岡から舟に乗って赤川を下って酒田に向かいます。今の赤川は日本海に直接流れ入っていますが、昔は最上川の下流に合流していました。芭蕉は酒田に泊まってから北に向かい、吹浦や三崎を経て象潟に着きます。三崎は現在の山形・秋田県境です。芭蕉の句にある「あつみ山(温海山)」は酒田市の南方にある700メートルを超える山であり、「吹浦」は飽海郡遊佐町の吹浦のことです。

 3日目、私たちは吹浦駅で下車し、小砂川駅まで歩きます。朝のニュースは、東京都心の11月の降雪は54年ぶりで、11月の積雪は昭和36年以降では初めてであると伝えています。庄内地方は曇っていますが、そんなに寒くはありません。酒田駅の電車にはわずかですが雪が付いています。

 8時前に酒田を出る秋田行は空いていますが、高校生の姿もあちこちに見えます。酒田から遊佐町に向かうにつれて鳥海山が前方から右の車窓に移り、南鳥海駅では田圃と民家の向こうに大きな姿が迫ってきます。青空が見え始めました。頂上が手に取るように近く見えて、真っ白です。遊佐駅では高校生たちが下車し、私たちはその次の駅で下車します。吹浦駅には、墨で書かれた「芭蕉止宿の地」と「鳥海山と十六羅漢岩の吹浦」という2枚の板が下げられています。芭蕉の句の「吹浦」は「ふくうら」と読みますが、現在の駅名は「ふくら」です。

 待合室には鉄道唱歌を書いた額が掲げられていますが、言葉が少し違っています。「汽笛一声吹浦を 早我が汽車ははなれたり 日本海に入り残る 月を旅路の友として」「左は名高き出羽の冨士 麓は名士のい出どころ 雲は消えても消え残る 名は千歳の後までも」…と8番まで続きますが、このあたりの地名や名所などに置き換えた替え歌です。なぜ鉄道唱歌がという疑問は、駅前広場に出るとわかります。初代鉄道助の佐藤政養(与之助)の像が建ち、彼は遊佐町高瀬升川の出身であるのです。

 線路の東側の道を鳥海山大物忌神社へ歩きます。手前の道路に木でできた一の鳥居があり、鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮の境内となるところにも木でできた二の鳥居があります。うっそうとした丘が後ろに広がる神社です。神社の本社は海抜2236メートルの鳥海山頂に鎮座しており、麓に里宮として吹浦と蕨岡に口ノ宮があります。この神社は日本最北の一之宮だと書いてあります。長い石段が真っ直ぐに続いていますが、上るのは敬遠します。目の前にある下拝殿から遙拝します。

 琴平神社の横を通って、積み石で囲まれた小さなガードをくぐって、羽越線の海側へ抜けます。水辺が広がり、小さな舟がつながれています。月光川の河口部分で、歩くとすぐに日本海です。風は強くはありませんが、渚近くの海は白波が立っています。

 国道345号を右にカーブして歩いていくと碑が見えてきます。「あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ」が海を背にして建っています。温海山と吹浦は離れたところにあります。温海山が遠くに見えて吹浦は目の前です。温海山から吹浦にかけて見渡したという印象を出すためには、字余りの「や」が必要なのでしょう。「あつみ(温い・暑い)」ものを「ふく(吹く)」ことによって、涼しさを呼び寄せるという気持ちが感じられます。眺望をほしいままにして夕涼みをしているという伸びやかさがあります。これまでの山旅から、海岸に出ることによってほっとした思いになっているにちがいありません。

 句碑の下の海岸は出羽二見と呼ばれる景勝の地です。伊勢の二見浦と同じように、対となった岩に注連縄が渡されています。右側の大きい方の岩には赤い鳥居が立ち、鳥居の後ろが一段高くなって、松の木が生えています。

 道は海岸に沿って曲がりくねっていきます。しばらく歩くと左手に小高い丘が現れて、それを上ります。赤くなった松の落ち葉が幾重にも積もったところを歩くと、松の木陰から平らな島が見えてきます。沖合に浮かぶ飛島です。丘の上は広場で、地元の人たちの句碑なども建てられています。

 広場から海の方に見えるのが羅漢岩です。吹浦海禅寺の寛海和尚が、日本海の荒波で命を失った人を供養するとともに、海上の安全と仏道の興隆を願って、岩に刻みつけた羅漢像です。数百メートルにわたる奇岩に、石工とともに十六羅漢とその他の仏像を刻んで、明治初年に完成させたと言われます。茶色を帯びた岩には白波が寄せては返していきます。

 北の方に見える岬が、山形・秋田県境の三崎のあたりだろうと思われ、そこを目指して歩きます。三崎に向かう海岸線は、ジオパークになっています。人の気配には乏しく、国道を行き来する車もまばらです。道の横を秋田に向かう羽越線の電車が通り過ぎます。

 民家に風除けを設けているのが目につく地域があります。細い棒を縦に並べて縄で結んでいます。冬になれば強い風が吹くのでしょう。このあたりの日本海はなかなか手ごわそうです。

 女鹿バス待合所という小さな建物があり、その少し先の延命地蔵大菩薩があるところから右の方へ入る道があるので、そちらへ歩を進めてみます。少し後戻りするような方向になるのですが、神泉の水(かみこのみず)のところへ出ます。この水の流れは、6つの水槽に仕切られて、上の方から下の方に向かって、その使い方を決めて守ってきたものです。一番下の水の傍には砥石で刃物を研いでいる人がいます。「湧き水を山の神より普請して引いてきた」のでこのような名になったという説明が書いてあります。

 

三崎、小砂川

 

 「奥の細道 三崎峠」という標柱があります。説明板には、「前日酒田を出立したものの激しい雨に逢い、やむなく吹浦に一泊し、当日も雨であったが、芭蕉は象潟への期待から雨にもめげず、むかし有耶無耶の関があったというこの難所を越えて行ったのである。」と書いてあります。

 海の方角に向かって丘を上っていくと、大きな石がごろごろするところを縫って細い道が続きます。芭蕉の辿った難所を思わせますが、すぐに観光客用に整備されているところに出ます。山肌は枯れた雑草で灰茶色ですが、彼方に鳥海山が見えます。四阿のあたりへ上っていくと、足元に打ち寄せる白波が見えるようになります。さらに上っていくと吹浦のあたりの海岸線も見えるようになります。

 白い小さな灯台があり、そちらへ続く道をたどります。旧街道と三崎公園への道の分岐点がありますが、三崎公園への道を歩きます。しばらくすると下の方へ続く長い石段が始まります。下りたところに「三崎峠からウヤムヤの関を訪ねる道」という、秋田県自然保護課が設置した案内板があって、現在地が山形・秋田の県境にあたると書いてありますが、有耶無耶の関の位置は表示されていません。

 三崎茶屋と書いてある管理棟へ行って、係の方に説明を聞きます。管理棟の前のあたりは広場になっていますが、そこから上り道になって国道7号の方へ続きます。上っていくと、曾良随行日記の碑の前に出ます。『おくのほそ道』はこのあたりのことを書いていませんから、曾良の日記が彫られています。碑の前が旧街道との合流点です。その途中に一里塚跡があったはずですが、私たちは海岸を経由したので、立ち寄らないで過ぎました。国道7号へ出て、少し後戻りすると県境地点があります。山形県遊佐町と秋田県にかほ市を示す表示板がそれぞれ設置されています。標高33メートルです。

 天候に恵まれて、青空が広がります。寒さは感じません。芭蕉が雨に悩まされながら象潟に向かったことは『曾良随行日記』に見えますし、『おくのほそ道』の象潟の部分も雨のことを書いています。このあたりは昨日、寒くて雪がちらついたのだそうですが、快適に歩けます。

 国道の傍らに「秋田県史跡 三崎山旧街道」という白い標柱が立っていて、そこから見る海は青く穏やかです。渚だけには白い波が見えます。県境から歩くこと15分弱で道が二股に分かれます。国道7号からわかれて、集落の中へと続く道を歩きます。集落の中に「菅江真澄が宿泊した磯家跡」があります。どっしりとした建て方で、かつての旅籠です。文人紀行家の菅江真澄は1784(天明4年)9月、三崎山を通って小砂川に入り、悪天候のためここで2泊して汐越(象潟)に向かったのです。

 小砂川駅に着いて、発車時刻まで間があるので海岸へ出てみます。砂浜ではなく断崖の上のようなところです。松の木の間から、台地のような飛島が見えます。空も海も青く広がっています。少し離れたところに頭白稲荷神社という小さな社があります。

 

象潟

 

 「江山水陸の風光、数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、磯を伝ひ、いさごをふみて、其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して雨も又奇也とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能は霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先、能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上こぐとよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり、神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をさゝへ、其影うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまへて、浪打入る所を汐ごしと云。江の縦横一里ばかり、俤松嶋にかよひて、又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。

   象潟や雨に西施がねぶの花

   汐越や鶴はぎぬれて海涼し

    祭礼

   象潟や料理何くふ神祭     曾良

   蜑の家や戸板を敷て夕涼    みのゝ国の商人・低耳

    岩上に?鳩の巣をみる

   波こえぬ契ありてやみさごの巣 曾良 」

 『おくのほそ道』の象潟は、松島と同じように、改まった書き方になっています。象潟駅には「奥の細道最北の地 象潟」という横幕が掲げられています。平泉と象潟を比べてみると、平泉が北緯39度ちょうどぐらい、象潟が3912分あたりですから、確かに象潟の方が最北ということになります。現代的な感覚で言うと、芭蕉は粋な計らいをしたのかもしれません。何しろ岩手県にも秋田県にもちょっとだけ立ち寄って、観光資源になるように配慮しています。

 駅前から南に向かって細い道を歩き、しばらく行ってから左折して踏切を越えてます。鳥海山の手前に、田圃やいろいろな建物や人家が見えます。にかほ市象潟郷土資料館に寄ります。そこから北に向かって能因島へ歩きます。

 九十九島、八十八潟として景勝の地であった象潟は、1804(文化元年)の地震によって、島々が陸地の風景に変わりました。今は、ところどころに小山が点在して、ごく普通の田圃の風景です。隆起した後の農耕作業によって平板な田圃になったのでしょう。航空写真を見ると、区画された田圃の中に小山(かつての島)が点在しているのがわかります。かつての潟の姿は、一帯の田圃に水が張られる季節に限って再現されるのでしょう。

 芭蕉は汐越に近い象潟橋のたもとから舟に乗って、能因島を経て干満珠寺の境内に舟を寄せて西行の古歌の名所を訪ねています。『曾良随行日記』によれば、舟に乗ったのは、象潟に着いた翌日の夕方です。真夏ですから、涼しくなる時刻を選んだのかもしれません。

 能因法師がこの風景を愛でて3年間幽居していたという伝説の残る能因島ですが、近くに立てられている説明板には、めぐり島と呼ばれていたものが、いつしか伝承を踏まえて能因島と呼ばれるようになったのではないか、と書いています。能因島という呼び名が定着したのは芭蕉の頃より後のことのようで、能因島と呼んだのは、芭蕉が先駆けのようになったのかもしれません。この島はちょっと盛り上がっただけの丘で、姿の良い松が10本ほど枝を伸ばしております。

 能因島から少し歩くと、記念位置標というのがあって、この地点の経緯度とともに、標高が記されて、3メートル021とあります。刈り取られた水田のそばの道を歩いて蚶満寺に向かいます。

 蚶満寺は853(仁寿3年)に慈覚大師が開山したと伝えられています。かつては島々の一つであり、象潟の景色の要になっていたのでしょう。裏門らしきところから、古木に囲まれた境内に入ると、あたり全体が静けさに包まれています。鐘楼が目に入ります。本堂の左側にある通路から裏の史跡庭園へ進むと、ちょっと明るくなって潟の風景が見えるところに「舟つなぎの石」があります。境内近くまで田圃が広がっていますが、人々は潟からここへ上陸したのでしょう。近くに「西行法師の歌桜」があります。西行は「象潟の桜は波に埋もれて花の上こぐ蜑の釣舟」と詠んでいます。芭蕉が訪れた季節はそれとは違うのですが、脳裏に西行の詠んだ景色を思い浮かべたことでしょう。

 少し高いところに芭蕉の句碑があります。真ん中に大きく芭蕉翁と書かれ、その左右に「象潟の雨や」「西施がねぶの花」と刻まれています。裏には宝暦十三年九月と彫られています。宝暦13年は1763年ですので、句形は初案のものです。

 『おくのほそ道』の文章にあるように「風景一眼の中に尽て」いますが、地理の様子を東西南北として書いているのは、かなり大まかな表現のようです。旅の大きな目的地であったところを眼前にしているという、気負い立った気持ちがあったことでしょう。

 「俤松嶋にかよひて、又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。」「寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。」という表現は、太平洋側と日本海側という違いとともに、訪れた日の天候の違いにも左右された印象でしょう。けれども、類似点を見出すよりは、対照的な表現の方が面白いという判断はじゅうぶん働いていたことでしょう。私たちの訪れた日は、天候に恵まれましたから、恨むがごとき陰鬱さはまったくありません。

 「象潟や雨に西施がねぶの花」という句は、雨にけぶっている象潟の風景を眺めやると、何か恨んでもいるような悩ましさが感じられてきて、あたりに合歓の花が咲いているが、雨粒を受けたその花の趣は、西施が物思いにふけるように目を閉じている風情を思い出させるというのです。中国の越の国の美女・西施は、敗戦の後に敵の呉の国王のもとに送られます。呉王は西施を寵愛しますが、敵地での彼女は憂いに沈んでいたに違いありません。そんな表情を、象潟の風景に投影しているのです。

 蚶満寺の山門を出ると公園が広がっています。小さな池の傍らに「九十九島の碑」があり、少し行くと、背丈ほどもある大きな石の上に芭蕉像が立っています。杖を抱え込むようにして両袖の手を胸の前で結んだ姿です。長い杖の先に頭陀袋をひっかけて、それを背中にまわしているのです。ほっと一休みした、ゆったりとした気持ちで周りの風景を眺めているような感じです。このような芭蕉の姿は初めて見ました。近くに「象潟の雨や西施がねぶの花」の句碑があります。新しい句碑のように思われますが、宝暦の句碑と同じように初案を刻んでいます。

 離れたところに西施の像があります。高い石の上に像がありますが、芭蕉像が黒っぽいのに比べて、西施は白い像です。風を受けながら何かにもたれかかるようなポーズで、右手で自身の長い髪を持ち上げて、左手で籠のようなものを提げているのですが、見た瞬間は、紀元前500年頃の人の像とは思われず、こんなところに何の像があるのかと思ったほどです。薄暗く感じるほどの松林の中で、この像のあたりだけ直接の日光を受けていたことも加わって、現代に近い時代を感じてしまいます。

 寺を出て、国道7号を横断して、集落の中に続く道をたどります。「おくのほそ道 芭蕉の歩いた道」という案内柱があちこちに立っています。しばらく行くと、船つなぎ石の史跡に出ます。象潟川の象潟橋(欄干橋)のたもとに道しるべの石が残っています。川を上ってきた船を停めるのに利用した石ですが、九十九島、八十八潟への船はこのあたりから出ていったようです。芭蕉たちも能因島などに向かってここから乗り込んだのでしょう。この象潟橋から見る鳥海山は絶景です。真っ白な山頂が青空に映えています。すぐ前で川が二股になっているのも風景のアクセントです。

 『おくのほそ道』には「浪打入る所を汐ごしと云。」という言葉がありますが、地図を見るとこの近くには塩越城跡などと書かれていますから、このあたりが潟と海とを結んでいたところでしょう。「汐越や鶴はぎぬれて海涼し」は、潮が満ちて寄せてくる汐越に鶴が下り立っている様子を詠んでいます。鶴の脚は海水に濡れていて、あたりの海の景色はいかにも涼しげであると感じているのです。

 曲がりくねって道が続いていきます。橋から近いところに熊野神社があります。石段を上ったところに境内地があります。芭蕉が象潟に着いた日はたまたまこの神社の祭礼の日でした。『曾良随行日記』には、宿が女客でいっぱいであったので向屋に泊まったと書かれています。

 この祭りに際しての曾良の句が「象潟や料理何くふ神祭」です。象潟に着いてみると折から熊野神社の祭礼が行われているが、このような海辺の田舎では、祭りのご馳走としてどんなものを作って食べるのであろうかという意味です。好奇心を持って即興的に作った句でしょう。

 細い道を歩いていくと、次々とゆかりの地が現れます。芭蕉を迎えた今野又左衛門の家、その弟の嘉兵衛の家、1784(天明4年)に三崎を経て象潟を訪れた菅江真澄が滞在した岡本屋の跡、芭蕉が宿泊した能登屋の跡などです。これらの住居や宿屋の跡は、古いまま残っているのではなく、ここがその地にあたるというだけですが、きちんと説明板が設けられているのです。

 町の入口に設けられていた木戸の跡、年貢米を保管する米倉と番所が置かれていた御蔵屋敷の跡を経て、象潟駅に戻ってきます。

 なお低耳の句「蜑の家や戸板を敷て夕涼」は、海岸の漁師の家では雨戸を持ち出して腰を下ろして夕涼みをしているという、素朴な情景を詠んでいます。岩上のみさごの巣を見て作った曾良の句「波こえぬ契ありてやみさごの巣」は、波が越えそうにない岩の上だから安心するとともに、夫婦仲も決して変わることがないと信じて、睦まじく巣を営んでいると詠んでいるのです。

 

酒田の日和山

 

 4日目の朝、駅前のホテルを出て、西に向かいます。この辺りかなという見当をつけたところを進んでいくと、道が少しずつ上り坂になってきます。鮮魚店の店頭に大きな秋鮭がいくつも並べて干してあるのが目に入り、「鮭おくり風干」と書いてあります。何日も何日も干し続けているのでしょう。銀色の背中を見せるものと薄褐色の腹を見せるものとが、頭を下にして吊り下げられています。

 坂道の右側に日吉神社の鳥居が見えてきます。左の方に広がるのが日和山公園です。最上川と日本海を望んで、酒田港に出入りした船乗りたちが、ここからの日和を見て、出航の判断をしたところです。桜の名所にもなっており、あたり一帯は文学の散歩道になっています。入り口に井上靖の文学碑が座っています。大きく交わるような形に配された石に、「氷壁」からの文章が刻まれています。

 その奥に芭蕉の像があります。やや細身のように感じられる芭蕉が頭陀袋を首から提げて、右手には腰のあたりまでの短い杖を持って、左手で笠をやはり腰のあたりに持っている姿です。視線はやや上向きで、遠くに注がれています。近くに「暑き日を海にいれたりもがみ川」の句碑があります。私たちが訪れたのは11月ですが、芭蕉は暑い最中に酒田に来ています。もとは「涼しさや海に入たる最上川」の形であったようです。「日和山公園の日の入り時刻」という案内板があって、それぞれの月の1日と15日の時刻が書いてあります。1115日は1627分ですが、8月1日は1853分です。芭蕉が訪れた日を新暦に直すと8月初めの暑い頃です。「暑き日」というのは、暑い太陽という意味か、暑い一日という意味か、どちらとも取れそうですが、私は、初めて読んだときから後者の意味に取っていました。けれども両方を合わせて、暑い太陽が最上川が海に注ぐ辺りに落ちていって、暑い一日を最上川に洗い流したように感じたと解釈してもよかろうと思います。

 展望広場から目の下に見える背割堤は最上川と酒田港を分離する目的で行われ、10年以上にわたる大工事で1932(昭和7年)に完成しています。人工的な景色は否めませんから、最上川の川幅が狭まって、芭蕉の句の持つ大きさがそがれた感じがしないでもありません。右下に六角灯台が見えます。1895(明治28)から最上川河口左岸に設けられていたもので、1958(昭和33)に建て替えられた際にここに移されました。真っ白な木造の建物で、一度見たら印象に残る形をしています。

 広場の手前に常夜灯があって、石の柵で囲まれています。大きく文化十年正月の文字が見えますが、1813年に全国各地の商人たちが寄進したものです。酒田港が力を誇示していた時代のものです。公園の一帯には文学の散歩道が広がっていて、与謝蕪村、斎藤茂吉、正岡子規、若山牧水など30基近い碑があります。

 芭蕉の筆跡をもとにした碑は「あふみや玉志亭にして」で始まる言葉が書かれていて、続いて即興の句会で詠んだ芭蕉、曾良、不玉、玉志の句が記されています。芭蕉の句は「初真桑四にや断ん輪に切ん」です。この真桑瓜の初物は四つ割りにしようか輪切りにしようかという意味で、食べ物を前にして無邪気に戯れる様子があらわれています。

 修景池の中に北前船があります。池を海に見立てて、西回り航路の寄港地の説明板を設置し、北前船の2分の1の模型があります。船に乗り込むことができないことと帆が降ろされている姿であるのは残念ですが、かつての繁栄を感じ取ることができます。河村瑞賢の像が、堂々とした風格で、高い台座の上に立っています。少し行くと今度は芭蕉の「温海山や吹浦かけて夕涼」の句碑があります。やはり芭蕉は別格のようで、3つの碑と1つの像があるのです。

 文学散歩道は広い道路の東側にも続いているのですが、本格的な洋風医院建築である旧白崎医院を眺めやりつつ、酒田駅に向かいます。

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2018年3月25日 (日)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(8)

  第7回 岩出山から大石田まで

 

 7回目の旅は、晩秋の色が濃い1025日から28日までです。陸奥から出羽へ抜ける旅です。今回は宮城県・山形県を歩きます。

 

岩出山

 

 「南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて出羽の国に越んとす。此路、旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて、日既暮ければ、封人の家を見かけて、舎を求む。三日、風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

   蚤虱馬の尿する枕もと  」

 旅の初日は岩出山からです。岩出山には伊達政宗が1603(慶長8年)に仙台の青葉城に移るまでの12年間にわたって居城とした岩出山城があります。駅前には「独眼流政宗のさと岩出山」「伊達な小京都・岩出山」と書かれたポールが立てられています。小型のジーゼル機関車が展示され、小さな鉄道資料館もあります。かつては鉄道の拠点だったのでしょう。

 南町に芭蕉像があります。人通りの少ない商店街を歩き、左に折れて広い道に出ると、芭蕉像のあるポケットパークに着きます。ほぼ等身大の芭蕉像は、頭陀袋を提げて、笠と杖をお腹の前に持っている姿です。ちょっと一休みというような風情です。ここに立ち続けて、ちょっとくたびれた感じがして、像のあちこちが白くはげ落ちつつあるのが痛々しいのです。目を細めた顔ですから、なんだか耐えているようにも見えます。

 「伊達政宗公居城の地 城山公園」という大きな看板に引かれて、坂道を上っていきます。足元に岩出山の町が広がります。一関方面から岩出山に向かって芭蕉が歩いたのは、右の向こうからこちらに向かってであっただろうと、丘の連なりを眺めながら想像します。

 丘の広場から北西の方角に進むと白い像が見えてきます。平服を着た伊達政宗の大きな立像です。もと仙台の青葉城址にあったものを1964(昭和39)にこちらへ寄贈されたといいます。そこから少し上ったところが岩出山城址です。東西800メートル、南北700メートルの範囲に本丸などがあったそうですが、今はそのような広さは感じません。このあたりは起伏に富んだ地形です。

 案内板に従って有備館の方へ下りていきます。林道のようなところを通り、水路を渡って進むと有備館が近づきます。有備館は、岩出山伊達家の下屋敷や隠居所として使われ、後に伊達家の家臣子弟の学問所となった建物です。建てられたのは1677(延宝5年)頃で、庭園は1715(正徳5年)に作られました。大崎市が管理しているようですが、主屋(御改所)と附属屋を、私たち2人と夫婦連れ2人のために、係の方が丁寧に説明してくれて、申し訳ないような気持ちです。

 岩出山城の断崖を借景としている庭園は主屋の縁から眺めるだけでも趣がありますが、せっかくですから下りて、庭園を一周します。池に浮かぶ御中島や小さな島を眺めやりつつ一回りしてきたときから雨が降り始めます。しばらく主屋の縁に座ってあたりを眺めたりしていましたが、閉園時刻が近づいたので、すぐ近くにある有備館駅に向かいます。

 

尿前の関

 

 芭蕉は岩出の里から、小黒崎・みづの小島を通って、鳴子温泉を経て尿前の関へと進んでいます。私たちは鳴子温泉に泊まって尿前の関へ行き、そのあと小黒崎・みづの小島を訪ねます。

 2日目の朝。鳴子温泉駅前から道は少しずつ下り坂になります。道のあちこちにこけしの工房があります。第六北羽前街道踏切を渡って線路の反対側に出ます。鳴子峡鳴子口のバス停を少し進むと大谷川に架かる橋があります。車道の他に歩行者向けの橋がありますが、古めかしさが漂います。ここが鳴子峡の入口で、川は右カーブして上流は見えませんが、紅葉の美しさの一端が見えています。鳴子峡は大谷川の侵食によって刻まれた深さ100メートルにも及ぶ峡谷です。

 橋を渡り終えてから国道47号に戻ります。地名は大崎市鳴子温泉字尿前となっています。少し行くと「おくのほそ道入口」という表示がありますので、右の方に下ります。しばらく杉林の中の道を歩くと関所らしい趣の場所があらわれます。私たちは長い時間をかけて『おくのほそ道』の旅を続けていますから、ここが「おくのほそ道入口」だという表示に戸惑いを感じますが、出羽街道中山越えの入口であるという意味で書かれたもののようです。

 このあたりは陸奥と出羽の境に近く、別の場所にあった関所が17世紀初めにここに移されて、尿前の関と呼ばれるようになりました。芭蕉が通る70年ほど前のことです。芭蕉は、関守に怪しまれて、簡単に通過できなかったようです。

 下っていった道の突き当たりのようなところ、その右側が尿前の関の跡になっています。木の柵が施され、入口は木でできた鳥居形の門です。下が広場になっていて、石段を下ります。広場の斜め左手に芭蕉の像があります。繁った木立に隠れるようなところに、ややほっそりした姿で、筆で何かをしたためようとする姿が等身大で作られています。立ち止まって、右手に筆を持ち、左手に冊子と矢立をつかんでいます。ずっと立ち続けているから、表面の塗装がちょっとはげ落ちているところがあります。そばに文学碑があって、『おくのほそ道』の一節が活字体で記されています。碑の下の部分には、蕪村の描いた画巻の一部が彫り込まれています。

 舗装道路の左手の先から山道が始まるようになっていて、そこに「出羽街道中山越」の石碑があります。道は森の中に消えていきます。芭蕉がたどって、「大山をのぼつて、日既暮ければ、封人の家を見かけて、舎を求む。」という旅をした道です。封人の家までは10㎞近くの距離があります。

 その中山越の道が始まる手前の場所に、自然石でできた芭蕉句碑があります。石積みの台の上にあって、表の面に「芭蕉翁」と書かれ、裏面に「蚤虱馬の尿する枕元」と刻まれています。作られたのは明和5年です。その碑の奥の方には崩れかかった小さな祠があります。

 『おくのほそ道』にある「三日、風雨あれて、よしなき山中に逗留す。」は封人の家に泊まってからのことですが、芭蕉がこのあたりを歩いたのは五月雨(梅雨)の最中です。旅の印象は天候に左右されますが、私たちにとっての尿前の関は、快晴です。中山越の道こそは鬱蒼とした森の中へ消えていますが、関所の周りは明るい日の光に満ちています。

 

小黒崎、みづの小島

 

 歌枕として知られる小黒崎とみづの小島に行きます。JR川渡温泉駅から歩きます。国道47号を歩いていくと、大崎市鳴子温泉黒崎という地名表記があって、そこから数分進んだところに、「芭蕉もここでひとやすみ… 名勝小黒崎 小黒崎観光センター」という看板が見えてきます。ところが、その観光センターは閉鎖されてしまっていて、人の姿がありません。北側の小山に向かって矢印があって「景勝小黒ヶ崎」と書いた案内板があります。

 道路の南側の、草が茂っているところに芭蕉の像があります。杖を突いて、頭陀袋に手をかけて、ちょっと頭を右に傾げている姿で、等身大です。そばに『おくのほそ道』本文と、『曾良随行日記』から、このあたりについての記述が抄出された案内板があります。

 肝腎の小黒崎は、高さ200メートルほどの山ですが、とりたてて珍しい姿でもありません。手元に持っている写真と比べて、この山がそうだろうと判断しますが、いくつもの山々が連なっているところですから、ここがなぜ好まれたのだろうかと首を傾げます。山の木々は黄色くなっているものや赤くなっているものが混じっています。

 小黒崎から引き返して、みづの小島に向かいます。国道47号の南側、みづの小島への入口の案内板は、来る途中で確認しています。小黒崎の山は、先ほどの観光センターのあたりから見上げるよりも、少し離れてみる方が、なだらかで優しい姿のように感じられます。

 国道47号から左手の小道をたどっていくと、みづの小島が見えてきます。ススキの原のように見えているところの向こうに、ぽっかりと浮かんだ低い山です。

 案内板などが設けられているのは、そこよりも手前にある広場です。近くに歌碑があります。「をぐろ崎みつの小島の人ならば都のつとにいざと言はましを」という古今集・巻20に載っている東歌が刻まれています。小黒崎は、かすかで暗いという名を持ち、みづの小島は「見つ」(見た)という名を持っているのですが、もしそれらが人であるのなら、遠い都へのお土産として、さあ一緒に行きましょうと言うのにねぇ、というような意味の歌です。東歌ですから、作者不詳で東国民謡のような趣がある歌です。みづの小島を詠んだものとしては、続古今集に四条天皇や順徳院の歌も残されています。

 『曾良随行日記』の記述によれば、川の中に岩の島があって、松が3本とその他の小さな木が生えて、川の向こう側と地続きになっていたようです。川の流れは何度も変化して、川のあちら側になったり、こちら側になったりしたのでしょう。小島は1890(明治23)の洪水で荒廃したようです。

 近づくにつれて岩は黒々としたものであることがわかります。川の側にまわっていくと、案外に上りやすい形になっています。上っていくと赤い鳥居があって、その向こうに小さな祠があります。これまで川の水は見えなかったのですが、鳥居のあたりからは川の中が見えます。江合川はゆったりと流れているのですが、川底が浅いので岩に当たって白いさざ波が立っています。

 

出羽街道中山越

 

 再び列車で移動します。鳴子温泉駅を出た列車は、トンネルとトンネルの間の、鳴子峡が見えるところでスピードを落として、紅葉風景を満喫させてくれます。鉄道写真の名所で、列車がトンネルから顔を出した瞬間を切り取ったものは、あまりにもポピュラーです。紅葉の季節は、列車がゆっくり走ってくれるから、国道から写真を撮る人にとっても好都合なのでしょう。

 中山平温泉駅で下車します。尿前の関から大深沢越を経て中山平までの区間を省略しましたが、ここから堺田駅までを歩きます。標高251メートルの駅前には中山平の大桜があります。1917(大正6年)の駅開業に際して植えられた吉野桜で、根元は太い幹で、人の背丈のあたりから四方に枝を広げています。『おくのほそ道』の案内板が充実していて、封人の家まで4.5㎞と書いてあります。

 緩やかな下り坂を歩いていくと、中山宿駅跡があります。ここからは国道47号を離れて、北側の細い道をたどります。岩出山から中山までは玉造五宿駅と言われ、1625(寛永2年)に宿が設けられました。とは言え、幕末の頃に戸数10戸、人口46人であったそうですから、寂しい街道筋でした。

 杉林の中の道を辿っていくと、空が明るくなって原っぱに出ます。西原というところです。しばらく、田畑や遠くの山を見ながら歩きます。山の一部は紅葉を見せています。しばらく歩いて、左手の山道に分け入ります。頭の上から降り注ぐ日光で、木々の葉が黄色く見えます。

 小さな流れと出会って、そこには板の橋が架けられています。軽井沢というところです。岸辺は少し荒れた感じがしますが、水は澄んでいます。森の中の静かな一画です。少し上って、落ち葉で覆われた道を気持ちよく歩きます。国道47号への緊急避難道路という案内板を目にしますが、悪天候の時にここを歩くのは大変なことなのでしょう。

 軽井沢から10分余りで甘酒地蔵に着きます。1187(文治3年)、源義経が北の方と弁慶を伴って平泉に向かっていて、ここで日が暮れてしまったときに、野猿がお堂を建てて甘酒で接待したので、そのお礼に地蔵尊を祀ったという話が伝わっています。粗末なお堂に石仏が祀られています。

 後沢で小さな流れと出会いますが、ここは橋が架けられていません。流れに向かって下っていく石段はあるのですが、肝腎の橋はありません。浅い流れですから、石を踏んで流れを跳び越えます。今日は問題なく通り過ぎることができますが、増水すれば足止めを食らいそうです。

 四阿のようなところの前を通り、木立に覆われた道を抜け出したところで国道47号に出ます。出口には「出羽街道中山越」の石柱が立っています。県境がどの地点であったのかはよくわかりませんが、国道脇には「ようこそ山形県へ」という看板が見えます。

 

封人の家

 

 国道47号を歩いて、ほどなく封人の家に着きます。封人とは国境を警備する、地元の村の庄屋のような人のことですが、この家の当主は15代目だそうです。ここは仙台領と境を接する新庄領です。

 建物の様式や技法は元禄以前のものだと考えられています。芭蕉が実際に泊まった家で現在も残っているものは稀で、もしかしたらここが唯一かもしれません。入口左側には木の像が2つ並んでいます。左の像は、がっしりした体格で、正面を見ています。右の像は、笠をかぶって視線がやや上に向いており、小柄な感じがします。どちらの像も杖を突いています。左の像が芭蕉のように見えますが、右の像を曾良であるとは断言しにくいと思います。もしかしたら、どちらも芭蕉の像なのでしょうか。入口右側には、冬に備えてのことでしょう、割られた薪が積まれています。

 建物は茅葺き寄せ棟造りで、入ったところは土間で、土間には竈や水屋があります。土間の右手は馬屋になっています。左手は、手前が「ござしき」という板の間で、囲炉裏が切ってあります。その向こうに畳敷きの座敷が2つあり、床の間があって、板の間の納戸もあります。納戸には、藁ぐつやその他の生活用品などが展示してあります。この家の模型や、「奉上棟旧有路家住宅」と書いた板もあって、昭和4710月と書いてあります。大がかりな改修をしたときのものなのでしょうか。

 家の庭先に「蚤虱馬の尿する枕もと」の句碑があります。芭蕉たちは強い風雨に阻まれて、ここで3日間を過ごしています。蚤や虱にせめられて、一晩中寝付くことができないで過ごし、すぐ枕元では馬が小便をする音が聞こえるというのです。芭蕉たちは冷遇されたわけではないでしょうから、座敷で寝ただろうと想像します。けれども一つ屋根の下に人と馬とが一緒にいる状態であり、家じゅうの物音は芭蕉の耳に届いていたでしょう。旅のわびしさのように感じられますが、これを奥州での生活体験の一齣として味わっているような趣もあります。

 

堺田の分水嶺

 

 分水嶺というのはなじみの言葉ですが、分水嶺を実際に見るのは初めてです。封人の家から国道47号の左手に入ります。広い土地を細い道が蛇行するように続いていますが、公園予定地のような感じで、この先に分水嶺があるのだろうかといぶかしく思うようなところです。数分歩くと、整備された一画に着きます。堺田の分水嶺から海に至るルートについての説明板があります。太平洋側へは、大谷川支流、大谷川、江合川、旧北上川を流れて、石巻市まで116.2㎞です。日本海側へは、芦ヶ沢川、明神川、最上小国川、最上川を流れて、酒田市まで102.6㎞です。太平洋側の海は石巻の日和山から眺めました。日本海側の海は、次回の旅で、同じ名前の、酒田の日和山から眺める予定です。

 分水嶺の標高は338メートルです。東北地方の背骨である奥羽山脈はあちらこちらに分水嶺があるはずですが、人々の生活している身近なところにあることが嬉しい気持ちになります。

 何ということもない細い用水路が向こうからこちらへゆっくりとし水の動きを見せています。その突き当たりで左右2本のやや太い用水路にわかれて、両方にゆっくりと動いています。水が分かれるところには、最上石で、向かって右が太平洋へ、向かって左が日本海へつながることを示すモニュメントがあります。目の前で水が東西にわかれているのです。山の頂上や稜線が分水嶺になっている場合は、このような目に見える形のものではありませんから、平坦な土地にある分水嶺は珍しい存在であるのでしょう。周りには大きなモニュメントも作られ、ベンチが置かれています。

 木で作られた分水嶺表示板に堺田駅という文字も書かれていて、そこまで行くと、低い位置にある堺田駅が見えてきます。ホームには「奥羽山脈分水嶺 県境の駅堺田」という駅名表示板が立っています。堺田駅から一駅だけ乗って赤倉温泉駅で降りて、迎えに来ていただいた旅館の車で日山温泉の宿に向かいます。隣の赤倉温泉と違って、一軒だけの宿です。この夜のニュースは富士山が初冠雪したと告げています。1956(昭和31)と並んで最も遅い記録だそうです。

 

大山越え(山刀伐峠)

 

 「あるじの云、『是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て、越べきよし』を申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟の若者反脇指をよこたへ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必あやふきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして、後について行。あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり、岩に躓て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしをのこの云やう『此みち、必不用の事有。恙なうおくりまゐらせて、仕合したり』と、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ、胸とゞろくのみ也。」

 3日目。陸奥と出羽を隔てる奥羽山脈を越えます。芭蕉は大山を越えると表現していますが、山刀伐峠です。山刀伐峠の頂上は標高470メートルですから、堺田の分水嶺の標高338メートルと比べると高低差は大きくはないのですが、『おくのほそ道』の言葉を目にすると、身構えたくなります。現代の旅では山賊の恐れなどはありませんが、難儀な道だろうと想像します。

 県道28号を歩きます。赤倉スキー場というバス停や、一刎という地名を過ぎて、県道262号との分岐点を過ぎると、道は左にカーブしていきます。上り勾配が続きます。紅葉している木々が目に入って、気持ちよく朝の道を歩き続けます。「只今の気温9度」という電光表示を見て、蛇行する道を上っていくと、トンネルが現れます。トンネルの入口左側が山刀伐峠への登り口です。トンネル入口に設けられている「尾花沢19㎞」という表示は直進の表示ですから県道の距離で、「山刀伐峠1.8㎞」という表示は左斜め向きに矢印が添えてありますから、歩行者向けのものです。私たちは山刀伐峠を越えて、尾花沢市中心部まで歩く予定です。

 峠道が始まるところにある「熊出没注意!」という表示にはどきりとしますが、『おくのほそ道』は、山道を越えるときにも熊の心配を書いている箇所はありません。芭蕉の時代には熊出没が少なかったのか、山賊などの恐れの方が大きかったのか、どちらなのでしょうか。

 山刀伐峠への道にかかります。左手下には少し広い道があるのですが、本来の峠道らしいところを案内表示に沿って上っていきます。2人が横に並ぶことはできない、細い道です。「大曲り登り」という矢印が設けられていますが、ブナの原生林に覆われて、行きつ戻りつしながら標高差150メートルを登っていく道は「二十七曲がり」と言われています。褐色になった落ち葉が道に敷きつめられて土が見えないようなところが続きます。しばらくして、いったん車道を横切ります。地図を見ると車道は、細い道の何倍もの距離を走って勾配をゆるやかにしています。峠道の途中には、芭蕉が腰を下ろして休んだところという設定もしてありますが、誰が厳密にそんなことを調べたのでしょうか。けれども、そのような虚構を楽しむのも楽しいことです。

 登り始めてから30分足らずで、駐車場に出ます。ここは峠の頂上ではありませんが、最上町と尾花沢市の境界で、芭蕉庵と名付けられた休憩施設やトイレが設けられています。あたりは紅葉・黄葉の交響楽です。しばらく休みます。

 車道を少し下ってから、右手の山道に入ります。峠まで250メートルと書かれています。あっけなく山刀伐峠の頂上に着きます。ハイキングコースとしての整備が進められたからでしょうか、芭蕉が書いているような「道さだかならざれば、道しるべの人を頼て、越べき」心配はありません。

 峠の頂上には「奥の細道山刀伐峠」の碑があり、「高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり、岩に躓て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ」の文章が加藤楸邨の筆で書かれています。

 頂上には、小さなお堂もあって、子宝地蔵尊が祀られています。また、そのそばに立つ子持ち杉は神霊の宿る杉として信仰されているようです。休憩施設としての四阿もあります。

 山刀伐峠という名前については、山賊に鉈で襲われる恐れがあることから名付けられたのではないかというような連想をしていました。資料を調べたりするうちにそうではないことがわかり、封人の家で、「山刀伐」というかぶり物を見ました。山仕事や狩りの際に付けたもので、その形になぞらえて峠の名にしたことを知りました。山刀伐は一方がなだらかで、もう一方がすとんと落ちる形をしています。ここまでの傾斜が急で、尾花沢に向かってゆっくり長く下っていくことをあらわしています。

 熊笹が生い茂っている頂上からの下りは、あまり人手が入っていないような林の中を分けて進みます。山伏澤橋のあたりは水害の跡のようで、荒れています。与市の茶屋跡というのは杉の木にその名を書いた板がぶら下げられているだけです。さらに、暗渠工事が近年に行われたという札もあります。鍋割の三吉茶屋跡地というのも杉の木に板が下がっています。こんなところに昔は茶屋があったというのが不思議なくらいです。杉林の中は人通りが絶えているかのような雰囲気も感じます。山刀伐峠の頂上までの道と、それを過ぎてからの道とは趣が異なっているのです。そのような道を40分ほど歩いて、車の通れる舗装道路に出ます。

 林の中と違って青空が広がり、緑の小山が見え、あたりが薄の原になっています。そして、道路縁に広場が作られているところに着きます。「芭蕉ねまる石」と名付けられた石など、大きな石がいくつも並んで、腰をかけて休むのにふさわしいところです。「ここは思い木坂」という板が木にかけられています。

 車の通る道を歩いたり、細い道を下ったりしていると、急に視界が広くなって、峠道が終わったことが感じられるようになります。山刀伐ハス園という表示が見えて、広い道路の横に「尾花沢」と書いた高い標柱があります。峠の麓の駐車場です。「山刀伐峠入口」という大きな表示もあります。

 ここからは、車の走る道を尾花沢の町に向かって歩きます。砂防指定地になっている赤井川の流れに沿って進みます。路傍に市野々地区と書かれた花壇があって黄色や紫の花々が咲いています。振り返ると峠のあたりの山々が青空の下に丸みをもった姿を見せています。かつての日本にはどこにでもあった風景ですが、懐かしさを感じます。傾斜の急な川ですから水はところどころで段差を作って流れています。田圃も段々になっています。

 峠を下りきったところから1時間もかかって、やっとバス停のあるところに着きますが、一日6便のバスを無視して、私たちは歩き続けます。宮沢地区では広く伸びている道路から右の方に矢印があってそれが旧街道であるように示していますが、そのまま県道28号を進むと、やがて合流します。高橋というところは、山形の棚田20選の一つだと書いてあります。尾花沢市立高橋小学校は廃校となって、3階建ての校舎に「136年ありがとう高橋小」という大きな文字が見えます。金色の田圃を見ながら歩き続けます。銀山温泉への道の分岐点を過ぎて、尾花沢市街に向かって歩き続けます。

 宮沢地区の押切橋で赤井川を渡ります。「赤井川は人口河川です」という説明板があります。川を新しく作ったというのではなく、上流の山裾を削った土砂が川床を高くして、しばしば洪水を引き起こしたので、流れの一部を変えたという説明が書いてあります。昭和初年の工事です。「芭蕉の道フラワーロード」という看板が見え、続いて伝順徳天皇陵という案内板があります。鎌倉幕府を打倒するために挙兵したが朝廷側が敗北し、順徳天皇は佐渡島に流されその地で崩御したと言われるが、島を脱出してこの宮沢地区で亡くなったとも伝えられているそうです。

 市野々もそうですが宮沢も、その名前で示している地域名がずいぶん広いのに驚きます。30分歩いても同じ地域名というのは、歩いている者にとっては変化の乏しさを嘆きたくなります。道路に沿って鉄パイプの構築物が続いているところにさしかかります。近くに人家がなく田圃の中の道です。風が強くなる季節には板をはさみ込んで、防風としての対策をするところです。今はその季節ではないはずですが、ここを歩いていると意外と強い風が吹き始めました。前へ進むのに力が要ります。地形の関係でこの場所がいつも風が強いところなのか、今日はたまたまこの時刻に強風となったのか、どちらであるのかわかりませんが、ちょっと体力を消耗します。

 集落のとっかかりに御所神社があります。順徳天皇を祀っているといいます。境内に入ると風が弱くなります。上横道というところで正厳大堰を通り過ぎます。細い流れですが田圃への用水路としての役割を果たしてきたものです。浦宿あたりで道は90度左カーブして尾花沢に向かいます。少しずつ上り坂になって長い橋で丹生川を渡り、このあたりから市街地らしい様子になってきます。それでも、橋から40分以上も歩いてやっと、清風邸跡という説明板のあるところにたどり着きます。

 

尾花沢

 

 「尾花澤にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

   涼しさを我宿にしてねまる也

   這出よかひやが下のひきの声

   まゆはきを俤にして紅粉の花

   蚕飼する人は古代のすがた哉  曾良 」

 芭蕉清風歴史資料館は1630分までの開館です。ぎりぎりの時刻に着きましたが、しばらく時間を延長して見せていただきます。旧丸屋・鈴木弥兵衛家の店舗と母屋を、清風宅跡に移転復元したもので、この地方の江戸時代町家の完成した姿を伝えています。

 1651(慶安4年)生まれの鈴木八右衛門(三代目)は芭蕉より7歳若く、清風は俳号です。金融業や、紅花などの商品取引で財をなしたのですが、芭蕉の言うように「富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれ」という人であったようです。商売の関係で京都や江戸へしばしば出かけて、文化活動でも交友関係を築いていったのです。芭蕉は尾花沢で10泊しています。芭蕉が尾花沢に着いたのは5月17日で、それを太陽暦に直すと7月3日に当たります。遠来の客を迎えて清風はいろいろな配慮をして迎えたでしょうが、真夏のことゆえ、涼しさを演出する工夫も含まれていたことでしょう。「涼しさを我宿にしてねまる也」は、もてなしに対する感謝の気持ちも含まれているでしょう。「ねまる」というのは、寝そべるという意味や、楽な姿勢で座るという意味などがあるようですが、歓待を受けて、まるで自分の家にいるような気持ちになってくつろいでいる様子が浮かんできます。

 私たちは4日目の朝、芭蕉清風歴史資料館の前にある芭蕉像に立ち寄ります。人の背丈に近い高さの大きな石の上に芭蕉像が立っています。長い杖を右手に持って、どっしりと構えた姿です。下から見上げる芭蕉の顔は、鼻筋が通って、眉毛が濃くて、ぱっちりと見開いた目です。顎がちょっと突き出たような感じですが、全体としては現代風な美男子に見えます。旅の疲れなどは感じさせず、元気はつらつという感じが漂っています。

 養泉寺まで歩いて10分弱です。仁王門をくぐると、木立に囲まれた境内に、銅板葺きの小さなお堂が建っています。その前に「涼しさを我宿にしてねまる也」の句碑があり、涼し塚と書いてあります。清風宅と同じように、この寺にも身を寄せて、くつろいだ時間を過ごしたのでしょう。芭蕉ゆかりの井戸もあります。寺は1895(明治28)の大火で類焼して、往時の面影が失せたようで、この外井戸だけが芭蕉当時を偲ぶ唯一のものだと書いてありますから、寂しい限りです。「十泊のまち尾花沢 芭蕉翁」の石碑があり、芭蕉・清風・曾良・素英の句を並べて刻んだ歌仙の碑も建っています。

 知教寺の前を通り、本堂伽藍が清風の私財によって建立されたという念通寺に立ち寄り、村川素英の生前墓を目指します。素英は、芭蕉の尾花沢滞在中に、忙しい清風に代わって接待役を務めたといわれる俳人で、養泉寺に刻まれている4人の句のひとりです。生前墓は、観音堂の近くにあって、四角い石が土に埋められています。土の上に出ているのは一辺30センチ程度の立方体ですが、側面に刻まれている文字の一部が見えています。

 芭蕉は、尾花沢での句を3つ載せて、曾良の句を1つ紹介しています。芭蕉が尾花沢に着いた頃は、紅花の花盛り、清風にとっては忙しい季節であったようですから、芭蕉の接待を素英に頼んだという事情があったのでしょう。清風宅での宿泊よりも養泉寺の方が多かったのもそのためであったのかもしれません。ただし清風はさまざまなもてなしの手配を整えていたことは確かでしょう。

 「這出よかひやが下のひきの声」の句は、蚕を飼っている家の床下で、声を忍ばせるようにして、ひき(大きなガマガエル)が鳴いているが、そんな陰気なところで鳴いていないで這い出して来いよ、と呼びかけている句です。旅の孤独な気持ちが、ひきの声に託されているのかもしれません。この地方は紅花の他に養蚕も盛んであったのでしょう。「まゆはきを俤にして紅粉の花」は、紅花は摘んで紅を作り、女性の口紅に用いたり、染料として使ったりします。眉掃は女性が使う化粧用具です。紅花は形が眉掃に似ているので、紅掃の形を真似て咲いていると詠んでいるのです。紅花から女性の化粧を連想し、化粧用具に思いを広げているのです。曾良の「蚕飼する人は古代のすがた哉」は、蚕の世話をしている人の簡素な姿に興味を感じた句です。作業をしている人たちの姿は大昔もこのようであったのであろうかと、昔が偲ばれると言っているのです。曾良の句は説明的ですが、清風に対する挨拶を曾良にもさせようとして、この句を並べたのかもしれません。

 

大石田

 

 「最上川のらんと大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。」

 『おくのほそ道』は、尾花沢、立石寺、大石田…という順序ですが、私たちの今回の旅は、尾花沢から大石田へ歩いて、大石田を見て回った後、大石田駅から帰途につくという計画です。

 尾花沢の素英の生前墓を見た後、田園風景の中を、東北中央自動車道を越えて、35分ほど歩くと大石田町に入ります。芭蕉は最上川下りに都合のよい天候を待つために大石田で3泊していますが、『曾良随行日記』によれば、それほどの悪天候ではなかったようです。むしろ俳諧の愛好者たちと交流し指導するために時間を費やしたからであったのかもしれません。

 大石田は最上川が重要な水運の役割を果たしていた頃、その河岸として栄えました。文学者としては斎藤茂吉が1946(昭和21)1月から翌年11月まで大石田で疎開生活を送っていますし、神戸生まれの洋画家の金山平三も移り住んで茂吉と親交を結んでいます。乗舩寺には斎藤茂吉の墓があります。茂吉の墓は、東京の青山墓地と、生地の上山市と、大石田の3か所にあります。茂吉は1953(昭和28)2月に没していますが、ここの墓はそれより20年近く後に作られています。境内には、斎藤茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふゞくゆふべとなりにけるかも」の歌碑、正岡子規の「ずんずんと夏を流すや最上川」句碑も建立されています。

 乗舩寺から下っていくと、最上川に出会います。大橋は、その名の通り大きな鉄橋です。折しも工事中ですが、対岸(左岸)まで渡って、引き返します。渡るにつれて最上川が広がります。最上川は日本三急流のひとつですが、このあたりではゆったりと流れていて、波立っているところはありません。五月雨の季節には違った姿を見せるのでしょうか。芭蕉が最上川下りの舟に乗るのは本合海です。

 大石田は最上川舟運の中枢ですから1792(寛政4年)に幕府の舟役所が設置されましたが、川縁にその建物が復元されています。堤防に沿って石垣や塗り壁を連ねて、長い壁画が描かれています。対岸にある「大石田塀蔵の実物模型」という説明板によれば、最上川の洪水はたびたび起こり、築堤の必要に迫られたと書いてあります。もともとは自然堤防であったものを防災工事を施し、石垣・塗り壁や舟役所なども整備・復元されたのでしょう。芭蕉の頃の景色とはだいぶ違ったものになっているでしょう。河原に下りてみると、石垣・塗り壁は見上げる高さになっています。

 右岸の堤防上の道を少し歩くと、「芭蕉翁真蹟歌仙〝さみだれを〟の碑」という小さな木柱があります。堤防を下りて、細い道を入ります。説明板には、「芭蕉翁は、元禄二年に大石田を訪れ、新古ふた道に踏み迷っている、一榮と川水に俳諧の指導をしました。そして、出来ましたのが歌仙〝さみだれを〟といわれる一巻です。芭蕉翁は、自ら筆を執ってこの歌仙を書きました。」と書いてあります。碑には、芭蕉・曾良・一榮・川水がそれぞれ9句ずつ、一榮宅で催された36句の歌仙のうち、初折の表6句、名残の裏6句、奥書が刻まれています。

 さらに進んで、西光寺の大きな門には左右に真っ赤な仁王像があります。1868(慶應4年)に町の船大工たちが刻みあげたものだと言います。本堂から裏手に回っていくと、3つの石碑に屋根がかけられています。真ん中が「さみだれをあつめてすゞしもがみ川」の芭蕉句碑です。これは、1769(明和6年)に建てられた句碑の副碑として1975(昭和50)に作られたものです。

 本堂の近くに小さな芭蕉像があります。目深に頭巾を被って、ちょっと首を傾げて何かを見つめている姿です。屋外に設置されているものとしては、これまで見てきた芭蕉像の中でも最小のものです。

 大石田からは山形新幹線で帰途につきます。3日目・4日目と歩き続けて、日山温泉(赤倉温泉駅近く)から大石田駅までは、交通機関を使うことなく、自分の足でたどり着きました。長い区間を続けざまに歩くと旅の成就感はいっそう強くなります。

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2018年3月24日 (土)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(7)

  第6回 塩竃から平泉まで

 

 6回目の旅は、10月4日から7日までです。太平洋側の旅が終わります。今回は宮城県・岩手県を歩きます。

 

塩竃

 

 「早朝鹽がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仭に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。誠人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。」

 私たちの旅の初日。東北線塩釜駅に降りて、北に向かって鹽竈神社を目指します。駅から左手の坂を下っていくと四つ辻がありますが、そこでは神社が鎮座している山が目の前に迫ります。右折して東に向かうと、鹽竈海道という標識があります。本塩釜駅に向かって延びている広い道路です。

 ほどなく神社の表参道に着きます。「東北鎮護鹽竈神社」という石柱があり、鳥居には陸奥国一宮とあります。「九仭に重り」と書かれている202段の「石の階」を上ると、楼門があります。

 芭蕉は早朝に参詣していますが、私たちは午後のお参りですから「朝日あけの玉がきをかゝやかす」という状況ではありません。けれども、10月の青空の強い日射しのもとで、建物の朱色が鮮やかです。楼門をくぐると右宮と左宮が一体となった拝殿があります。正面向かって左にあるのが右宮で、右にあるのが左宮です。右手には、別宮の拝殿があります。

 「国守再興せられて」と書いていますが、1200年の歴史を持つこの神社を、伊達政宗が1607(慶長12)に修造しています。芭蕉が訪れるより80年以上前のことですが、現在の社殿は、芭蕉が訪れた後の1695(元禄8年)に工事に着手したものです。

 神前の「古き宝燈」、すなわち文治の神燈は、拝殿の脇にあります。「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」という文字が読みとれます。藤原秀衡の三男、三郎忠衡が父との約束を守り、自分の命に代えてでも源義経を守るという誓いを込めて寄進したものです。文治3年は1187年ですから芭蕉の時代から見て「五百年来の俤」になります。

 天然記念物の鹽竈桜の前を通って下り、志波彦神社に向かいます。このあたりからは、塩竃から松島にかけての青い海が望まれます。『おくのほそ道』旅では、久しぶりの海です。

 鹽竈神社博物館の前には、大きな甑炉型の鋳銭釜物があります。その近くに奥の細道碑がありますが、案内板もなく見過ごしてしまいそうです。保存状態も良くなくて文字が読みとりにくくなっています。左へ続く坂を下りていくと「芭蕉止宿の地」があります。法蓮寺は明治4年に廃寺となったと書いてあります。

 坂を下りきって鹽竈海道を横断して、御釜神社へ行きます。塩土老翁神が製塩に使ったという大きな御神釜4口があります。ここでは藻塩焼の神事も行われます。塩竃の地名の由来となったという神社です。しばらく歩くと仙石線本塩釜駅に着きます。駅構内を通って反対側に出て、東園寺に立ち寄ります。寺の建物の背中の位置は山になっていて、そこが狛犬城跡です。

 JRの駅名は「塩釜」、郵便局も税務署も「塩釜」であるのに、市の名前は「塩竃」で、神社の名前は「鹽竈」の文字を使っています。漢字の新字体・旧字体ということから言えば、2文字とも新字体の「塩釜」、2文字とも旧字体の「鹽竈」は納得するのですが、新字体の「塩」と旧字体の「竈」を合わせて「塩竃」とする根拠がわかりません。塩竃市の地名の由来となったと言われる御釜神社は、鳥居に掲げられているのも「釜」の文字です。

 

松嶋

 

 「日既午にちかし。船をかりて松嶋にわたる。其間二里余、雄嶋の磯につく。

 抑ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。嶋々の数を尽して、そばだつものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たわめて、屈曲おのづからためたるがごとし。其気色、?然として美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山つみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。」

 塩竃に泊まって2日目の朝、私たちは松島に向かいます。芭蕉は正午前に船に乗って、「船をかりて」塩竃から松嶋へ渡っています。2里余りの船旅で、雄嶋に着いています。

 私たちはマリンゲート塩釜から定期遊覧船に乗ります。待合所に芭蕉像があります。実際の身の丈よりも小さい像で、笠を背に負って、杖を持った立ち姿ですが、大きな目を閉じて瞑想しているような格好です。あちこちで芭蕉像を見ますが、瞑目しているように感じる像は珍しいのです。ふと、「予は口をとぢて眠らんとしていねられず。」という一節が頭に浮かびますが、それは夜に横臥して目を閉じているはずです。

 私たちが塩釜から乗るのは第三芭蕉丸です。船体に大きく「芭蕉コース巡り」と書いてあります。定員は300余人の船ですが、私たち以外は団体の十数人だけです。出航してすぐ、籬島が姿を見せて、赤い鳥居や灯籠が見えます。そして小さな入江になっている塩釜湾から、多数の島々が散りばめられている、広い松島湾へ出ていきます。海上保安庁の大型の巡視船が泊まっています。湾内には小さな船も行き交っています。

 ガイドさんの口からは、東日本大震災の時の津波がどの高さまで来たとか、島が崩れて形が変わってしまったとかいう話題が次々に出てきます。たしかに大きな波が来たらひとたまりもないような「造化の天工」です。それが津波によって変化してしまったところがあるのです。

 馬放島の南を通って 真っ白な仙台火力発電所を間近に見ます。このあたりまでは西から東に向かっていましたが、夫婦島の間を抜けてからしだいに北に向かい始めます。次々に小さな島が現れます。船が進むにつれて、「そばだつものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり」という表現の巧みさに感じ入ります。船は時々は速力を緩めたり、見せるべき場所へ接近してみたり、ぐるりと回転するコースをとったりと、サービス精神に富んだ操船です。雄嶋を海から眺めて、遊覧船は雄嶋の少し先にある観光桟橋に着きます。

 芭蕉は中国の洞庭湖や西湖を見たわけではありませんが、「抑ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。」と最大限の賛辞を贈っています。須磨・明石の海浜に住んで、瀬戸内の多島海にも馴染んでいる私たちですから、松嶋に特別の驚きを持ちませんが、静かな海の景色にひたっていると、穏やかな時間の流れを感じます。

 松嶋の観光桟橋のあたりは、松嶋観光の中心のようなところです。大勢の人が行き交っています。桟橋からちょっと歩くと日本三景碑があります。丹後の天橋立、安芸の宮島とともに松嶋を三景としたのは、江戸初期の儒学者である林鵞峰の『日本国事跡考』であると考えられていますが、芭蕉の頃には名所としての名が高くなっていたのでしょう。

 縁結び橋とも言う透かし橋を渡って、五大堂に行きます。江戸時代中期から、身も心も乱れなく、足元に注意して気持ちを引き締めるようにと、このような構造になっていたそうです。五大明王を祀る五大堂は、807(大同2年)に坂上田村麻呂が毘沙門堂を建てたのが最初と言われ、現在の建物は1589(慶長9年)に伊達政宗が修造に着手したものです。やや荒れた感じがしないでもありませんが、むしろ時代の流れを感じさせる建物です。

 

瑞巌寺

 

 「十一日、瑞巌寺に詣。当寺三十二世の昔、眞壁の平四郎出家して入唐帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。」

 五大堂のあとは瑞巌寺に向かいます。土産物屋などが並んでいるところに瑞巌寺入口があり、右折します。人の背丈の2倍以上の石柱に「国宝瑞巌寺」と書かれていて、そこからが門前の参道です。

 正面の山門をくぐって右に折れて進むと、洞窟遺跡群があって、その前に西国三十三観音巡拝所として一つ一つの札所の仏像が並びます。洞窟遺跡群は納骨や供養のための施設で、その造営は鎌倉時代から江戸時代まで続いたと書かれています。

 境内にある宝物館を一巡します。書画や像などの展示物が並んでいて瑞巌寺の歴史の長さと重みを感じます。宝物館の向かいの庫裏は、大屋根の上に煙出しがついた堂々とした建物ですが、狭い土間だけが見学可能です。入ったところに高村光雲作の光雲観音があります。

 工事のため囲われた中門をくぐって本堂に向かいます。本堂は長さが40メートル近い建物で、入母屋造りの本瓦葺きです。左手の建物が本堂の玄関にあたるようで、そこから入って、本堂内を拝観します。欄間の彫刻が見事です。本堂内は中央奥に仏壇があり、全体がいくつかの間に区切られていますが、左手奥に上段の間、上々段の間があって、きらびやかさを感じます。縁に沿って建物の内側を一巡します。瑞巌寺の伽藍は、江戸時代には熊野の桧・杉・欅の材木を集め、京都・根来の名工によって、伊達政宗が修造しています。

 瑞巌寺を出て右に向かうと、仙台藩主等が松島を遊覧する際に御座船を操った人たちが集団で住んでいたという御水主町の民家があります。多いときには48軒あったと言います。藩主たちも松島の景観に深い思いを寄せて、海に繰り出す船に関係する人たちが大勢いたのです。

 圓通院や、覚満禅師の防火石などを通ってから、伊達政宗の長女である伊達五郎八姫の廟がある天麟院へ寄ります。圓通院も伊達政宗の孫で、若くして急逝した光宗の廟所ですから、松島は鎮魂の地としても選ばれたのです。

 天麟院から海岸の方に向かって歩くと、観瀾亭へ出ます。これは伏見桃山城にあった茶室で、伊達政宗が拝領して江戸品川の藩邸に移築したものを、さらにここに移したと言います。簡素な建物ですが、海に面した高台にありますから、藩主の納涼、観月などにも活用されました。松島の島々は見るところによって、その姿が変化しますが、観瀾亭からは、遠くの島影が近くの島々を抱き守っているように見えます。

 

雄嶋

 

 「雄嶋が磯は地つゞきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂松笠など打けぶりたる草の菴、閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。

   松島や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良

 予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂松島の詩あり、原安適松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。」

 海岸に沿って雄嶋に向かいます。雄嶋の入口まで来ると、東日本大震災の時の津波浸水の深さの表示があって、近づいてみると自分の顔の高さまであります。松島湾の一帯がそのような状態であったことを想像すると、恐怖感に襲われます。巨岩を切り開いた真ん中に細い道が通じているようなところもあって、たどっていくと真っ赤な渡月橋が雄嶋をつないでいます。渡月橋は、悪縁を絶つ縁切り橋だそうです。五大堂の橋が縁結びで、渡月橋が縁切りという役割分担をしているのです。

 雄嶋は僧侶などが修行をしたところで、島の中にはたくさんの洞窟があります。仏像などが彫られ、島全体が霊場のようになっています。歌枕としても知られ、藤原俊成の「立ち帰りまたも来てみん松嶋や雄嶋の苫屋浪にあらすな」などの歌があります。

 雲居禅師の坐禅堂に立ち寄ります。小さな粗末な堂に「把不住」の3文字が掲げられています。芭蕉の頃のものでなく、一見して比較的新しいものであることがわかります。坐禅石というものがどこにあるのかはわかりません。坐禅堂から細い道を下っていくと、芭蕉と曾良の碑があります。「芭蕉翁」と書かれた碑には「朝よさを誰まつ島ぞ片心」の句が、その隣には曾良の「松嶋や鶴に身をかれほととぎす」の句が彫られた碑があります。この「朝よさを誰まつ島ぞ片心」は、誰かを待つと言われる松嶋のことが、朝に夕べに何とはなしに心にかかって離れない、という気持ちを表現した句です。自分は松嶋のことを思い慕っているが、その松嶋で誰が私を待っているのだろうかという意味にも取れます。これは『おくのほそ道』に旅立つよりも前に作られた句で、季語はありません。ただただ歌枕の地に引き寄せられる気持ちが詠み込まれているのです。

 島の北端にまで来ると、「芭蕉翁松嶋吟並序碑」がありますが、文字はほとんど読みとれません。雄島をぐるっと一周したことになり、巨石をくり抜いたトンネルのようなところを通って、渡月橋に戻ります。対岸に着いて少し歩いてから雄嶋を振り返ると、砂浜の向こうの雄嶋は静かな海に松の姿を映していました

 JR仙石線の松島海岸駅前はひっそりとして観光客の姿はほとんどありません。観光船の松嶋桟橋のあたりの賑わいとは格段の差があります。旅館や船の案内所もあるのに人影が乏しく、松嶋の玄関口とは思えない有様です。「ようこそ松島へ」という看板がうつろに見えます。

 『おくのほそ道』で芭蕉は自分の句を書き記すをしないで、曾良の「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」を紹介しています。折から空をほととぎすが鳴き渡っており、その声は感慨深いと思うが、この大きな景色の中ではほととぎすの姿のままではふさわしくないので、できれば鶴の姿を借りて、鳴き渡ってほしい、という意味です。松嶋で芭蕉が作った句として「島々や千々に砕きて夏の海」が伝えられていますが、いささか説明的で、芭蕉の気持ちに満たなかったのかもしれません。

 私たちは仙石線で石巻に向かいます。松島湾から石巻湾へと変わりゆく海景を眺めますが、野蒜駅や陸前赤井駅や蛇田駅などのあたりは大震災の津波で浸水被害を受けたところです。ときどき車窓をかすめる湾は、少し曇った空のもとで、ことのほか静かに見えます。

 

石巻

 

 「十二日、平和泉と心ざし、あねはの松、緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道、そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。『こがね花咲』とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船、入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人もなし。漸、まどしき小家に一夜をあかして、明れば又、しらぬ道まよひ行。袖のわたり、尾ぶちの牧、まのゝ萱はらなどよそめにみて、遙なる堤を行。心細き長沼にそうて、戸伊麻と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどとおぼゆ。」

 芭蕉は、山道に迷って石巻に来てしまったというのですが、それにしては、残念がったり憤慨したりする様子はなく、ここへ来たことをむしろ喜んでいます。「宿からんとすれど、更に宿かす人もなし。漸、まどしき小家に一夜をあかして、」というところだけが意に反した内容になっています。

 私たちはまず、石巻駅からほぼ真南の位置にある日和山に向かいます。日和山は震災報道でも聞き知っている地名です。商店街には石ノ森章太郎の作品に出てくる人気キャラクターのモニュメントが目に入ります。モニュメントは駅前にもありましたが、このあたりの道路をマンガロードとして町づくりに力を入れているようです。街角に津波浸水点という表示がありますが、背丈をはるかに超えて2メートル以上の位置ですから、背筋が寒くなります。

 しだいに坂道になってきます。上りきったところに鹿島御児神社があって、境内に、芭蕉の「雲折々人を休める月見かな」の句碑があります。月の光を眺めていると、ときどき雲が出て月をおおうので、月を見ている人をしばらく休ませる、という意味です。この句は、西行の歌「なかなかにときどき雲のかかるこそ月をもてなす飾りなりけれ」を踏まえていると言われます。芭蕉の墓は大津市の義仲寺にありますが、その墓に詣でることができない芭蕉門下の人たちが各地に作った供養碑のひとつだと言われています。

 ちょっと下ったところに芭蕉と曾良の像が設けられています。奥の細道紀行300年記念として1988(昭和63)に作られ、台石には、奥の細道の文章の一節と芭蕉の足跡地図が記されています。像は、芭蕉の後ろに曾良が寄り添うように立って、そっと芭蕉の背中を押しているような風情です。背丈の高い芭蕉は元気で、それより背の低い曾良は静かに付き従っているようにも感じられます。他の場所にある芭蕉・曾良の像とはすこし雰囲気が異なります。

 日和山は眼下に石巻の港のあたりを眺めることができます。大きな石の鳥居のそばから見下ろすと、河口に架かる橋を行き来している車は見えますが、あたりは津波の被害からまだ復興が進んでいないように感じられます。自然の脅威に立ち向かってきたのも人間の歴史の一面ですが、そこに生きている一人ひとりの運命や、生かされている有り難さや不思議さも感じて、眼前の風景に見入ります。

 3日目。山陰沖にあって北上していた台風18号が温帯低気圧になったと報じられた翌朝、私たちは袖の渡りへ行きます。石巻の空は真っ青です。大嶋神社があり、近くに川開由緒之碑がありますが、文字を読み取ることはできません。神社のすぐ横は北上川がゆったりと流れて、人の背丈ほどの「名蹟袖の渡」という碑があります。北上川の渡し場ですが、芭蕉は袖の渡も「よそめにみて」、北上川の堤を歩いたようです。

 渡の近くに説明板があって、仙台城下と結ばれている石巻街道は、このあたりで金花山道と一関街道に分かれていて、一関街道は石巻から登米を経て一関に至って奥州街道に接続する、と書いてあります。芭蕉はその一関街道をたどって戸伊麻(登米)で宿泊したのでしょう。

 JR石巻線の小牛田行は高校生でいっぱいです。ちょうど通学時間帯ですが、鹿又駅で高校生が降りると、車内はがらがらになります。列車は田園風景の中を走ります。気仙沼線との分岐駅の前谷地まではダイヤ通りであったのですが、涌谷駅から様子がおかしくなります。台風の影響が及んでいるのでしょうか、単線区間の対向列車が遅れているということで、小牛田に遅れて着きます。東北線の列車は待ってくれていたのですが、瀬峰駅に遅れて着いたので、予定していたバスには乗れません。

 バスの回数は少ないので、登米へ行くことは諦めて、急遽、予定を変更します。一関の町をすこし歩いてから平泉に向かうことにします。登米へは何としても行きたいのですが、別の機会にします。

 

一関

 

 瀬峰駅からの東北線は宮城県の北端を走って、いったん岩手県に入りながら、ぐるっと迂回するようなコースをたどって再び宮城県に入ります。一ノ関駅のひとつ手前の有壁駅のあるところは宮城県で、東北新幹線と並行するように走ってから、やっと一ノ関駅に着きます。

 駅舎には「世界遺産の浄土の風薫る“平泉”」と大書された看板が掲げられています。まるでここが平泉であるかと錯覚しそうです。駅前には大槻三賢人の像があります。蘭学者の大槻玄沢、その次男で儒学者の大槻磐渓、磐渓の三男で国語学者の大槻文彦です。一関が誇る人たちで、特別扱いを受けているようです。わが国初の国語辞典「言海」を完成させた大槻文彦を身近に感じます。

 西に向かう駅前大通りにも一関出身の賢人を紹介する碑などがいくつも設置されていて「先賢の路」と書いてあります。その道を真っ直ぐ進んで、磐井川の橋に出る少し手前で右に折れます。日本キリスト教団一関教会は国の登録有形文化財です。その隣に旧沼田家武家屋敷があります。

 磐井川が見えるところに出ると、松尾芭蕉二夜庵跡があります。芭蕉はここの金森邸に2泊したと伝えられています。『おくのほそ道』は一関のことを書いておりませんから、二夜庵跡を示す碑と、曾良の日記を刻んだ碑が建てられています。芭蕉は平泉に泊まっていませんから、一関が陸奥で最も北の宿泊地です。平泉を見た後、再びここに泊まり尿前の関から出羽に向かっているのです。磐井川は川幅も広くゆったりと流れています。河原には青空が広がっていて、伸びやかです。

 

平泉

 

 「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。  夏草や兵どもが夢の跡

  卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良 」

 平泉駅に降りて毛越寺に向かいます。しばらく行くと、史跡公園になっている観自在王院跡を通ります。藤原二代目の基衡の妻が建立しましたが建物はすべて失われてしまっています。

 すぐに毛越寺の表門に着きます。平泉は平安時代後期に藤原三代が、仏教文化を中心において、およそ100年にわたって築いた文化です。中尊寺は初代の清衡が造営し、毛越寺は2代目の基衡と3代目の秀衡が造営して、中尊寺をしのぐ伽藍であったのが焼失してしまいます。堂宇や庭園の遺跡が残されて、それを今、目にすることができるのです。

 外観も朱色で、建物の内部も朱色が満ちている本堂は1989(平成元年)に建てられたものです。古さを感じられないのは当然です。

 『曾良随行日記』には、「高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・光堂・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等を見ル」という記述がありますが、毛越寺については書かれていません。『おくのほそ道』にある「大門の跡は一里こなたに有。」という表現について、毛越寺の南大門の跡を中尊寺の門と見誤ったのではないかという説があります。けれども芭蕉は毛越寺をとりたてて記述していません。

 毛越寺の境内に広がる大泉が池をぐるりと回ります。平安時代の浄土庭園を伝えている池で、池は海を表現しています。汀にはやわらかい曲線の州浜や、石組みによる荒磯などが表現されています。池には南大門から中島をへて金堂円隆寺へ続く2つの橋があったそうですが、今は失われています。対岸の堂宇は夢の跡なのです。

 本殿から池に出たところに南大門跡の標柱が立っています。南大門は両脇に仁王像があったそうですが、1573(天正元年)に兵火で焼かれています。礎石12個が現存しています。芭蕉の頃には焼失してしまっていましたから「大門の跡は一里こなたに有。」という表現とは符合します。

 人影がまばらの散策道は気持ちよいものです。池の南西の位置に、水面より4メートルの高さに作られた築山があります。海岸に迫るように岩山の姿が作られています。足元は木の根がむき出しになっていて、険しさを表現しているようにも見えます。小道は、慈覚大師を祀る開山堂を通り過ぎて、嘉祥寺跡に向かいます。毛越寺の前身は850(嘉祥3年)に慈覚大師が嘉祥寺を開いたことに遡ると言われます。少し進むと講堂跡がありますが、礎石だけが残っています。さらに金堂円隆寺跡がありますが、講堂も金堂円隆寺も1226(嘉禄2年)の火災で焼失したと説明されています。「奥の細道」は平泉で戦乱による変化に涙していますが、いくつもの堂宇が失せてしまっているこのあたりを芭蕉が見たら、同じような無常の思いを抱いたかもしれません。

 草原の中を細い遣り水が流れているところがあります。山から池に取り入れるための水路ですが、ゆったりと平野を蛇行しながら進む水の流れを表現しているように見えます。発掘調査中に発見されたそうですが、底には玉石が敷きつめられ、あちこちに石組みが作られています。遣り水といえば、曲水の宴を思い浮かべます。遣り水の中に杯を浮かべて、それが流れ来る間に歌を詠み、色紙に歌を記していく優雅な催しですが、歌を詠み競う平安王朝絵巻が都から離れたここでも行われていたと想像するのは楽しいことです。

 真昼の毛越寺や大泉が池を見たのですが、明け方や夕刻にはもっと違った浄土の姿が感じられるのではないかと、それだけが心残りです。

 「秀衡が跡」は高館の南にあって、華美であった伽羅御所のことが言い伝えられています。「金鶏山」は秀衡が富士山を真似て築かせて、黄金作りの鶏を作って山上に埋めたと伝えられています。

 毛越寺を後にした私たちは、伽羅御所跡には寄らず、平泉文化遺産センターの方へ歩きます。センターの手前に「金鶏山入口」という案内板があります。標高100メートルに足りない山です。センターは、芭蕉の行脚の跡を描いた真新しい屏風なども展示しています。

 中尊寺道踏切でJR東北線を横切ると、高館へ上っていく手前の位置に「卯の花清水」という石組みがあります。曾良の句碑は建立後80年ほど経って読みにくくなっていますが、「卯の花に兼房みゆる白毛かな」が刻まれています。折から咲き乱れている卯の花を見ると、白髪を振り乱して戦った兼房の姿が眼前に現れてくる、という意味です。1189(文治5年)閏4月、高館落城の時に、主君義経と妻子の最期を見届け、死力を尽くして奮戦し、猛火に飛び込んで亡くなった白髪の老臣・増尾十郎兼房は66歳であったと言います。私たちが白河の関を訪ねたときは、ちょうど卯の花の季節でしたが、芭蕉と曾良は、白河も平泉もともに卯の花の季節を旅しているのです。

 高館へ上り切ると北上川の展望が開けて、ゆったりと流れる自然堤防の向こうに束稲山の山塊が裾野を引いています。コンクリート護岸で固められた川ばかりを見ている目には、水害の心配が頭をかすめますが、なんともおだやかな風景です。岡の上の平坦なところは狭いのですが、かつてはもっと広くなっていて、それが北上川の洪水で崩れて狭くなったということを聞くと、北上川をゆったりとした川だとばかりは言っておれません。

 高館のあたりは要害の土地です。義経はこの土地に秀衡から居館を与えられて住み、最後は戦の場になります。少しずつ上っていった先にある義経堂は、1683(天和3年)に仙台藩主が義経を偲んで建て、中には義経の木像が安置されています。芭蕉が訪れたのは1689(元禄2年)ですから、わずか6年後のことです。高館から眼下に、風に揺れる夏草を眺め、奥州藤原氏の栄華や、ここで亡くなった義経の悲運を思って句を詠みました。義経堂は小さな建物ですが、ガラス越しに中を見ると、眉と髭をぴんと撥ねた義経の像が見えます。勇ましい甲冑の姿です。

 引き返して少し下っていくと、「夏草や兵どもが夢の跡」の芭蕉句碑があります。奥の細道300年を記念して建てられた碑には、この句が上の方に書かれ、その下には「三代の栄耀一睡の中にして」から始まる一節が刻まれています。

 義経の家来たちが最後の奮戦をしますが、その功名はすぐに消え去って、草原が広がるのみです。杜甫の詩「春望」の「国破レテ山河在リ、城春ニシテ草木深シ、…」を口ずさんで、国は滅んだが山河は昔のまま残り、城(あるいは町)のあたりは春が巡ってくると草が青く萌えているという情景になぞらえて反芻しているのです。芭蕉は古戦場などを訪ねたときには感に堪えず涙してしまいます。

 「夏草や」の句は、杜甫の春景色を、目の前の夏草に転じています。夏草は乱雑に生い茂り、むっとするような暑苦しさを感じます。戦いのために荒れ狂っている兵どもの姿に通じるところがあるでしょう。「夢の跡」という言葉には、かつて栄華の夢にひたっていた人たちの跡ということと、戦いで功名をたててもそれがもはや夢と消え去ってしまった跡ということの、2つのことが響いているようです。自然の悠久さに比べれば、人間の所業ははかないということにつながっていきます。義経の時代、芭蕉の時代、そして現在と、時は流れても高館のあたりの自然は大きくは変わっていません。けれども人は移りゆくのです。

 

中尊寺

 

 「予て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雪を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

   五月雨の降のこしてや光堂 」

 高館から下って、中尊寺に向かいます。表参道である月見坂に入る前に、武蔵坊辨慶之墓とする石碑があって五輪塔があります。月見坂の途中には辨慶堂があります。最後まで主君を守り立ち往生した辨慶に寄せる人々の思いの強さがあらわれています。

 中尊寺は、850(嘉祥3年)に慈覚大師が開山しましたが、12世紀初めに藤原清衡が前九年の役、後三年の役で亡くなった人たちを供養するために大伽藍を造営しました。14世紀に堂塔の多くは焼失しますが、金色堂と経蔵だけが1124(天治元年)の創建当初のまま残っています。

 辨慶堂を過ぎたあたりから、右手の下に北上川や国道バイパスなどが見えてきます。いくつもの堂宇の前を通っていくと金色堂に達します。かつての覆堂は別の場所にあり、現在の覆堂はがっしりとした建物です。金色堂は観光の中心ですから大勢の人々がいて、記念撮影をする段も設けられています。

 引き返して中尊寺本堂に寄ります。現在、四寺廻廊という観光コースが設けられているようです。4つの寺を回って朱印を集めたり写経をしたりするという企画です。いずれも慈覚大師が開いたところで、松島の瑞巌寺、平泉の毛越寺と中尊寺、山寺として知られる立石寺です。

 芭蕉は光堂と経堂のことを「耳驚したる」と表現し、噂に聞いて驚嘆していたとしています。実際には、『曾良随行日記』によれば、経堂は別当が留守で開けてもらえなかったようです。

 「五月雨や」の句は、五月雨(梅雨の雨)がここだけは降り残したのであろうか、光堂がこのように今でも残っている、という意味です。ただし、覆堂があるから雨がかからないで残っているという意味にも取れますし、雨が降って暗いのに光堂のあたりだけはぼんやり明るい光が感じられるという意味にも取れます。

 しかも、『曾良随行日記』によれば、この日は晴れていました。雨の中の実景ではありませんが、季節は五月雨の頃です。中尊寺の堂塔は既に頽廃してしまっているのに、風雪に耐えてきた光堂のことを五月雨にことよせて讃えているのです。

 

伊豆沼

 

 平泉から引き返して、東北線の新田駅前の旅館に泊まります。国民体育大会が開催中の一関での宿泊がかなわないとわかって新田に決めたとき、近くに伊豆沼があることを知って、『おくのほそ道』とは別の楽しみが生まれました。

 伊豆沼と内沼は、渡り鳥の飛来地で、白鳥やガンをはじめさまざまな鳥が越冬します。特にマガンが多いのです。鳥が飛んでくるということは、水生植物はもちろん、魚や昆虫などの多様な生物が生息しているということです。1996年に環境庁(当時)が選定した「日本の音風景100選」に伊豆沼・内沼のマガンが入っています。視覚ではなく聴覚として選ばれているということは、マガンが飛び立つときの羽音や鳴き声のことでしょう。ここは、ラムサール条約に登録されている湿地です。登録は1985(昭和60)で、日本では釧路湿原に次いで2番目です。

 4日目は、朝食前の6時20分に宿を出ます。家並みが切れたところを左折して、東北線の踏切を渡れば、目の前に伊豆沼が見えてきます。

 線路と沼との間の広場に、伊豆沼・内沼の鳥類およびその生息地が天然記念物であることをあらわす高い石柱とその説明碑があります。天然記念物の指定は1967(昭和42)でした。50年ほど前まではあまり注目されていなかった湿地帯であったのでしょう。

 しだいに伊豆沼全体の展望が開けます。右手に伊豆沼野鳥観察館という白い建物があるので、そちらに向かいます。屋上に上れるようになっていて、かなり遠くまで見渡せます。沼の水深は深くありませんから植物が水面を覆い尽くしているところが広がり、水の色になっている部分は意外に狭いのです。野鳥にとっては都合のよいところです。伊豆沼は細長い形で、手前側に鳥の気配はありませんが、離れた対岸に鳥たちがいます。ときどき集団となって舞い上がり、すぐに下りていきます。ずっと向こうで、水面すれすれにたくさんの鳥たちが乱舞している様子も見えます。[スケッチ番号52]

 登米市伊豆沼・内沼サンクチュアリセンター淡水魚館が9時に開館するというので、朝食の後で再び伊豆沼へ行きます。伊豆沼・内沼は周囲が20㎞もあります。水深は、深いところで1.6メートル、平均は78センチだそうで、水面が全面凍結することはほとんどないと言います。伊豆沼は太平洋岸からは離れていますが、水面は海抜6.2メートルだそうで、驚きます。リーフレットによると、化学的酸素要求量の値による水質は、全国ワースト10に入っていて、対策が求められているようです。

 2階からは沼を展望できますが、センターを出て、広い道路を先の方まで歩いてみることにします。道からは、林に隔てられて沼の様子はよくわからないままに歩くのですが、10分余り歩くと、溝のようなものに沿って沼の岸に出られそう思われるところがありますので、そこを進んでみます。早朝に野鳥観察館の屋上から眺めた風景と違うのは、植物が水面を覆っているのではなく、水が広がっていることです。空を映して青い水面です。

 

再び一関

 

 旅の最後に再び一関の町を歩いてから、新幹線に乗ります。駅の近くにある「芭蕉の辻」に行きます。芭蕉が通ったルートという設定なのでしょうが、このように開発された市街地ではどこまで信頼できるのかはわかりません。そばに、「日本の道百選 〝おくのほそ道〟」という石碑が立っています。1986(昭和61)に「道の日」が制定され、その記念事業として建設省(当時)が「日本の道100選」を選んだということです。

 駅前の大通りを西に進んでから南に折れて、市街地に隣接した小高い丘である釣山公園へ行きます。意外に急な坂道もありますが、上るにつれて市街地や磐井川の展望が開けていきます。一気に上りきってしまうと、頂上には千畳敷と呼ばれる平坦な場所があります。おさん稲荷神社があり、田村神社があります。下り道に、「さまざまの事思ひ出す桜かな」や「木枯しや竹に隠れてしづまりぬ」やの句を書いて、その歌の解釈が手短く書かれている小さな板が、あちこちに設けられています。手書きのものですが、芭蕉に親近感を抱いている雰囲気があって、これは好ましいと思います。

 公園から下ってきて、旧沼田家武家屋敷を通って、世嬉の一という銘柄の酒蔵の敷地内に島崎藤村の文学碑があるので見ます。「自分のやうなものでも どうかして生きたい」という言葉が刻まれています。ここは藤村が寄寓した豪商・熊谷家の跡地であると書かれています。

 

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2018年3月23日 (金)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(6)

  第5回 白石から多賀城まで

 

 5回目の旅は、暑さが少しおさまりかけた頃を選んで、9月5日から8日までです。今回は福島県のごく一部と宮城県を歩きます。

 

越河から斎川へ

 

 旅の初日、前回の最北端であった貝田駅に降ります。白石に向かって歩くとすぐに福島・宮城県境になります。国道4号の東京から293㎞地点を過ぎたところです。

 『おくのほそ道』は「鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば…」としていて、白石周辺の記述は少ないのですが、『曾良随行日記』には越河、貝田、斎川という地名が書かれています。

 県境を超えてすぐ「下紐の石」があります。大きな石がごろりと据えられています。このあたりは坂上田村麻呂が関所を置いて以来、下紐の関として歌枕にもなっています。下紐の石は、用明天皇の妃である玉世姫がこの石の上でお産の紐を解いたという伝説が残っています。東北線の線路の向こう側、左手の山際に越河番所という大きな文字が見えますが、近寄ることはできません。

 越河宿の跡の道筋を歩きますが、奥州街道の宿場としての雰囲気は消えかかっています。途中で左に折れて、東北線のガードをくぐり、見当をつけて古びた石段を上っていった先に諏訪神社があります。小さな本殿があって、その前に芭蕉の句碑があるのですが、石が風化していて文字は読みとれません。立てられている標柱によって「咲きみだす桃の中より初さくら」という句であることを知ります。咲き乱れる桃の花の中から初桜がほころび始めたという意味ですから、桃から桜への交替という季節感を表しています。桃は桜より少し早い時期に咲きますが、この句は「初さくら」が主題です。

 元の道に戻って、越河小学校を過ぎ、越河駅の近くを通り、田園・山間風景の中を歩き続けます。貝田駅から2時間で、水辺の風景にたどり着きます。冬になると白鳥が飛来するという馬牛沼です。春は桜が美しいということですが、桜にも白鳥にも縁のない季節で、曇り空で夕方が近づいた水面は静まり返っています。

 馬牛沼を過ぎてすぐの左手に「斎川孫太郎餅」と書いた店があり、5分ほど歩くと右手に孫太郎虫供養碑があります。孫太郎虫は蛇やトンボの幼虫ですが、子どもの疳の妙薬とされました。全国の清流にすんでいますが、とりわけ斎川のものが有名であったのです。江戸時代に山東京伝が「敵討ち孫太郎虫」という本を出したら、本が売れて、孫太郎虫も売れるようになったという話が伝わっています。江戸時代におけるマスコミの力です。

 供養碑のそばに「あぶみすり坂」という標柱が立っています。道は下り坂で、右手は小さな丘になっています。義経の一行が馬の鐙を巨石に摺って通ったと伝えられているところです。歩いている道は広くて難路のようにも感じません。右手の丘に上る石段道がありますので上ってみます。少し行くと段がなくなって、茂みの中で頂上のようなところに出ます。さらに細くなった道が先の方に続いているように思われますが、そこまでで進むのをやめて元の道に戻ります。難路を実感することはできませんでした。

 元の道に戻って、ほんのちょっと進むと、「甲冑堂 源義経の家臣 継信・忠信の妻 楓・初音の像」と書いた大きな標柱が見えてきます。田村神社の甲冑堂です。

 医王寺を訪れて、芭蕉は「二人の嫁がしるし」に涙したと書いていますが、この田村神社には、その引用文「ふたりの嫁がしるし まずあわれなり 女なれども かいがいしき名の 世に聞こえつるものかなと 袂をぬらしぬ」の石碑があります。

 甲冑堂の中を拝見できるか尋ねたところ、詳しい説明を聞かせていただき、中を見せてもらえました。義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信・忠信の2人の嫁は、夫の形見の甲冑を身につけて、病床の義母を慰めたと伝えられていますが、その姿の木像です。顔かたちは女性らしく作られていますが、武具を携えた2人の姿は男性と変わらない強さを感じさせます。芭蕉は、佐藤兄弟の嫁のしるしを見たと書いていますが、それを実際に見たのは甲冑堂でのことと思われます。

 白石市内まで歩く計画でしたが、田村神社で17時を過ぎました。思案しながら、田村神社を出発します。「鬼ずるす石」の標柱のあるところを過ぎ、斎川を渡り、斎川宿という表示のあるところへ来ます。近くに白石市民バスの甲冑堂停留所があり、1日6本だけのバスですが、次の通過時刻が1715分となっています。何と良いタイミングだと幸せを感じつつ、バスに乗ります。

 

白石

 

 2日目。朝の空気の中を白石城に向かいます。駅から西に向かい、壽丸屋敷の前を過ぎます。明治の中頃に店蔵として建てられ、その後いろいろな建物が造られたようです。現在は町づくりの拠点のようですが早朝は静まっています。北西に向かうと武家屋敷の前に出ます。沢端川に面して中級武士の屋敷があったところです。旧小関家のあたりは庭木に囲まれて、寄せ棟、茅葺きの母家が朝の陽を受けています。

 川に沿って少し後戻りして、白石城へ向かいます。城址のいくつかの文学碑の中に芭蕉の「かげろふの我肩に立かみこかな」の句碑があります。冬の紙子を着替えずに身につけている私の肩のあたりにも陽炎が立っていることだ、という意味です。江戸で詠まれ、奥州に出発する前の作のようです。いよいや春になったなぁという思いで、奥州への思いもますますつのっていた頃だったことでしょう。

 近くに、虚子の「羽と陸と併せて蔵王夏の山」の句碑があります。出羽の国と陸奥の国の真ん中にそびえる蔵王の夏山の雄大さを感じます。平安時代に坂上田村麻呂が創基したという神明社の前を通って、菱御門から城内に入ります。本丸は益岡公園として整備されています。黒い瓦と白壁の城が、朝の日光を浴びて青空に映えます。古い石垣の残るあたりを南に向かって坂を下ります。

 町の中に入って、舘堀川に沿って南に進み、常林寺、清林寺などを過ぎて、舘堀川に沿って左に曲がっていくと、片倉家の菩提寺である傑山寺があります。ここには片倉小十郎景綱をはじめ代々の城主などが弔われています。門を入ったところにどんと座った景綱の銅像があります。

 本堂の前を左の方に回って進むと、杉林の中に佐藤孝郷の墓があります。戊辰戦争の後、旧片倉家中の者は、白石で農民となるか、士族として北海道に入植するかの岐路に立たされますが、この時19歳の家老であった孝郷は、士族として生きることを家中の者に決意させ、咸臨丸で苦難の航海をしたと言います。現在の札幌市白石区の地域の基盤を作るとともに、初代札幌区長にもなっています。白石区という地名に誇らしさを感じます。

 景綱の墓は敵に暴かれぬように墓標を設けず、一本杉を印にしています。その杉の巨木を竹垣が囲い、その囲いの中に小さな塔が建てられています。墓所として大きな石造物を設けるよりも、自然物に託して葬るということに、当時の人たちの想像力の大きさを感じます。

 能楽堂と茶室があるという碧水園のあたりから北に向かって歩き、当信寺を経て駅前に戻ります。

 

武隈の松

 

 「武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先、能因法師思ひ出。往昔、むつのかみにて下りし人、此木を伐て名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、『松は此たび跡もなし』とは詠みたり。代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。

 『武隈の松みせ申せ遅桜』と、擧白と云ものゝ餞別したりければ、

   桜より松は二木を三月越シ 」

 『おくのほそ道』は、「鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、」として中将實方の塚を探して箕輪・笠嶋へ行こうとしますが、五月雨に阻まれて行くのを諦めて、岩沼に泊まるとしています。その後で武隈の松のことを述べていますが、実際には武隈の松の方が手前にあります。

 白石駅から岩沼駅まで電車に乗って、岩沼にある武隈の松や、竹駒神社、竹駒寺を見ます。

 能因法師の歌は後拾遺集にあります。「みちの国にふたゝび下りて、後のたび、たけくまの松も侍らざりければ、よみ侍りける。」という詞書きがある、「武隈の松はこの度跡もなしちとせを経てや我は来つらむ」という歌です。武隈の松に来てみると跡形もなくなっているが、松は千年の命を保つということから考えれば、私がこの前に来たときから千年も経ってしまったのであろうか、という意味です。能因は奥州へは少なくとも二度の旅をして、最初の時には武隈の松を見、この度はそれが消え失せているということを詠んでいるのです。

 陸奥の国司がこの松を伐って名取川の橋杭にしたことがあったが、伐ったり植え継いだりしながらも、芭蕉の頃には「千歳のかたち」が立派にそなわった姿になっているというのです。芭蕉が江戸を出るときに擧白が「武隈の松みせ申せ遅桜」という句を餞別として贈ってくれたということを書きながら、芭蕉は「桜より松は二木を三月越シ」という句を作っています。

 岩沼の駅前広場に等身大の芭蕉像が立っています。にっこり微笑んで、左手に持った冊子として綴じたものに、右手で何かをしたためています。大きな顔、たくましい腕と手が強調されている像です。かたわらに「桜より松は二木を三月越シ」の句碑があります。

 駅から南に向かって歩くと、武隈の松があります。斜めに伸びた二本の松は歩道の上だけでなく車道の上にも張り出さんばかりになっています。道路の反対側から見ると、途中から別の枝が張り出しているようにも見えますが、これは、二本の松がきちんと並んで、同じような曲がり具合を示しているからです。松に並んで古歌の歌碑も立てられています。

 西行もここへ訪れており、陸奥の国の象徴のような歌枕になっていたようです。説明板によれば、陸奥の国司の藤原元善が植えて、その後は植え継がれて、現在のものは1862(文久2年)に植えられた7代目だそうです。芭蕉が見たものとは異なる松です。「武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。」と感嘆しつつも、「根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。」として、千年と言われる松も植え継がれて、昔の姿を継承しているということがわかっていたようです。

 奥の細道300年記念事業として「二木の松史跡公園」が作られています。東屋があり、「桜より松は二木を三月越シ」の句碑もあります。「桜より」の句は、訪れたのは旧暦5月4日で、新暦に直すと6月20日です。もはや遅桜の季節も過ぎてしまったが、二つの幹に分かれた二木の姿を、江戸・深川を出発してから三月越しに見ることができたと詠んでいます。

 近くに竹駒神社があります。842(承和9年)に小野篁が陸奥守として多賀城に赴任したときに、奥州の鎮護を願って創建したと言いますから、武隈の松よりも歴史があるようです。ここは日本三稲荷のひとつだと言っていますが、さすがに荘厳な造りです。この神社にも細長い石柱の「桜より松は二木を三月越シ」句碑があります。竹駒神社を出て、竹駒寺を見て、そして岩沼駅に向かいます。

 

名取

 

 「鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将實方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、是より遙、右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠嶋と云、道祖神の社、かたみの薄、今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、箕輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、

   笠嶋はいづこさ月のぬかり道

 岩沼に宿る。」

 名取駅前にレンタサイクルがあることを聞いて、急遽の変更でそれを利用します。芭蕉は「五月雨に道いとあしく……、よそながら眺やりて過る」と書いていますが、私たちは天候に恵まれています。

 駅からほぼ真西に向かって、東北新幹線の高架をくぐって、少し南に行ったところに「中将藤原実方朝臣の墓」という看板に矢印が書かれています。小川に沿って近くまで来ると、「実方橋」というのが架けられており、それを渡ると「松尾芭蕉 おくのほそ道」という黒い石碑があります。その横に「笠嶋はいづこ皐月のぬさり道」の句碑があり、そばに薄が一群あって、「かたみのすすき」と書いてあります。西行は實方の墓参りをして、「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞ見る」という歌を詠んでいます。芭蕉は、歌に出てくる「形見のすすき」も見たかったことでしょう。

 「笠嶋は」の句は、實方の塚があるという笠嶋はいったいどのあたりだろうか、五月雨が降り続いて泥深く歩きにくくなった道では尋ねていくこともできず残念でならない、という意味です。五月雨の「雨」と縁のある、笠嶋の「笠」という地名のゆかりもあって、何とか行ってみたいと思ったのでしょうが、それが叶わなかったのです。みのわの「蓑」という地名も「雨」に縁があります。

 句碑のあるところから、少し奥まった感じのする林の中へ歩いていくと、實方の墓があります。手前に西行の「朽ちもせぬ」の歌碑、その奥に實方の墓標、そして石組みの上に木の柵で囲まれたところが墓です。後ろには實方の「桜がり雨はふりきぬおなじくはぬるとも花のかげに隠れむ」の万葉仮名による歌碑があります。墓前には誰が供えたのか、左右に黄色い花が一輪ずつあり、木々全体の薄暗い中で、その花だけが彩りを感じます。

 『おくのほそ道』全体からすれば、訪れるつもりであったのにそれが叶わなかったというところはあちこちにあっただろうと思われますが、この笠嶋には特別の思い入れがあったようです。訪れることができなかった理由を書き残し、句作までしているのです。藤原一門の中でも由緒ある家柄に生まれたのに、都での不祥事がもとで「歌枕を見て参れ」と陸奥守として左遷され、この地で没した實方は、芭蕉の心を陸奥へかき立ててくれた歌人の一人だったのでしょう。

 實方は、笠嶋の道祖神の前を禁を破って馬に乗ったまま通ろうとして、暴れた馬から落ち病に臥して、帰らぬ人となったと言われています。出羽の国の阿古耶の松を尋ねての帰途にこの地を通り過ぎたのです。「みちのくの阿古耶の松をたずね得て身は朽ち人となるぞ悲しき」という痛恨の歌を残しています。

 その道祖神は、日本武尊の勧請で創建されたと言われる佐倍乃神社で、別名を笠島道祖神社と言います。佐倍乃神社は訪れる人もなく静かなたたずまいです。鳥居などには正一位道祖神と書かれています。路傍の道祖神はこれまでに数限りなく見てきましたが、それが神社そのものになっているのは初めてです。

 

仙台

 

 「名取川を渡て仙臺に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。爰に画工加右衛門と云ものあり。聊心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比さだかならぬ名どろこを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、『みさぶらひみかさ』とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松島・鹽がまの所々画に書て贈る。且紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。

   あやめ草足に結ん草鞋の緒 」

 仙台に着いた日を、芭蕉は「あやめふく日」と書いています。端午の節句の前日に菖蒲を軒や屋根に挿しているのを見たのでしょう。

 私たちは3日目の朝、榴ケ岡天満宮に向かいます。「つゝじが岡はあせび咲ころ也。」と芭蕉は書いていますが、今はその季節ではありません。天満宮ですから菅原道真を祀っており、社殿の前に撫で牛が置かれています。源頼朝の奥州侵攻に際しては、平泉方の藤原泰衡の本拠がこの天満宮の境内に設けられました。

 境内にはたくさんの句碑などが、両脇に整理して建てられています。「芭蕉翁 蓮二翁」と書かれた句碑のそばには、これは芭蕉五十回忌蓮二(支孝)十三回忌追善碑であり、1743(寛保3年)2月に作られたという説明があります。芭蕉の句は「あかあかと日はつれなくも秋の風」で、蓮二の句は「十三夜の月見やそらにかへり花」です。

 「あかあかと」の句は、『おくのほそ道』の金沢で詠まれたことになっているのですが、それ以前に想を得ていたという説もあります。けれども『おくのほそ道』の道順で言うと、「あやめふく」頃には合致しません。追善のために選んだ句ということでしょう。この句は、太陽は夏と同じように赤々と照りつけても、風は秋らしさを感じさせる優しさになっている、という意味です。蓮二の句の「十三夜」は、旧暦9月13日の月で、中秋の名月に対して、後の月とも言います。華やかな名月に対してもの寂びた感じがします。芭蕉の句よりも遅い時季を詠んでいます。

 榴ケ岡天満宮から南に向かい、妙心院に立ち寄ります。ここに芭蕉翁蓑塚があります。芭蕉が残していった蓑を埋めて、芭蕉の没後100年に塚を築いたのです。脱ぎ捨てた蓑をよくぞ保存していたと言うべきでしょうか。蓑塚の隣に経緯を説明した「芭蕉翁蓑衣塚銘」の石碑があります。妙心院からは、南東の方角に向かって、木ノ下公園と陸奥国分寺を目指します。

 芭蕉は「昔もかく露ふかければこそ、『みさぶらひみかさ』とはよみたれ。」と書いていますが、「みさぶらひ御笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」というのは古今和歌集にある、詠み人知らずの歌です。お供の方よ、ご主人に笠をかぶるように申し上げてください、宮城野の木の下に落ちる露は雨よりも強いのですから、という意味です。当時は、古木が森のように茂っていたようです。

 陸奥国分寺は741(天平13)の建立ですが、1189(文治5年)の頼朝の奥州攻めの際にすべてを焼失し、1607(慶長12)に伊達政宗が再建したのが現在の薬師堂です。朱色が鮮やかな准胝堂のそばに芭蕉の句碑があります。

 『おくのほそ道』に書かれているように、画工加右衛門が仙台の名所を案内して、紺の染緒を付けた草鞋を二足、餞として贈っています。芭蕉は「さればこそ風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。」と讃えていますが、その感謝の気持ちをこめた句が「あやめ草足に結ん草鞋の緒」です。折から端午の節句であるので家々の軒端には菖蒲がふいてあるが、行脚の身である自分は、紺色に染めた布で作った草鞋の緒に菖蒲を結んで、道中の安全を祈ることにしよう、という意味です。邪気を払うとともに、菖蒲を草鞋に結ぶという風流心に興じています。画工加右衛門が宮城野、玉田、横野、榴ケ岡、木ノ下、薬師堂などを案内してくれたので、芭蕉の旅心は高潮していたのでしょう。このような風流人に会えた喜びと感謝をこめて作られた句です。日光で出会った仏五左衛門と同様な人物に出会った嬉しさがにじみ出ています。

 国分尼寺にも立ち寄ってみます。文治の兵火で焼けたのですが、緑の中に本堂が建っています。境内に「聖武天皇 国分寺国分尼寺建立の詔(訳文)」という石柱があります。近くの薬師堂駅から地下鉄に乗って、青葉山に向かいます。

 地下鉄大町西公園駅を降りて桜岡大神宮に向かいます。大神宮とはいえ社殿はこぢんまりとしています。目的は「風流のはし免や奥の田植宇た」の芭蕉句碑です。外苑を探すと見つかります。この碑は1893(明治26)の芭蕉200回忌に建立され、田植塚と呼ばれています。

 神宮から広い通りに出て、だらだらと長い坂を下っていきます。道標には「大坂」とあります。下りきったところに、広瀬川に架かる「大橋」があります。仙台国際センターを右に見て、青葉山のエリアに入っていきます。五色沼という水堀は、ちょっと茶色っぽく淀んでいます。「日本フィギュアスケート発祥の地」と書いてあります。

 本丸に向かって坂道を上っていきます。仙台城三の丸跡には仙台市博物館があります。その先には魯迅像や魯迅の碑などがあり、伊達政宗胸像もあります。魯迅が仙台で学んだことは広く知られています。造酒屋敷跡などもあって、坂道には旧跡が続きます。高くそびえる本丸北壁石垣を仰ぎつつ坂を上ります。宮城県護国神社の鳥居をくぐって、上りきると本丸大広間跡遺構が表示されています。傍らに仙台城見聞館もあります。かつての本丸には数多くの建物がありましたが、その中心が1610(慶長15)に完成した大広間だそうです。本丸からは、仙台の町並みが眼下に広がります。

 伊達政宗騎馬像は仙台の象徴のような像ですが、ほんの少し離れたところに土井晩翠の胸像と詩碑が建っています。「荒城の月」を刻んだものです。「荒城の月」の作詩も、詩集「天地有情」の出版も、30歳になるまでのことであるのに驚きます。

 本丸から下って、仙台市博物館にちょっと立ち寄り、地下鉄・国際センター駅から仙台駅に出て、JRに乗り換えます。次の目的地は仙台東照宮です。芭蕉は東照宮のことには触れていません。日光でじゅうぶん筆を費やしたからなのでしょうか。仙台駅の次が東照宮駅です。玉手崎と呼ばれる小高いところに仙台東照宮がありますが、海が望めるところだったと言います。かつて徳川家康が岩出山から江戸に帰る途中で休息した場所であるという故事により鎮座地に選ばれたそうです。美しい形の石鳥居をくぐり、両側に石灯籠が並んでいる長い石段を上り詰めたところが重厚な随身門です。寺院の仁王門にあたりますが、左右に随身像が安置されています。本殿は入母屋造りの銅瓦葺きで、どっしりと扉は閉じられています。右側の方へ回って下山します。

 

 「かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。」

 芭蕉は「おくの細道」の山際に「十符の菅」を見たと書いていますので、そこを目指して、岩切駅から歩きます。30分ほど西に向かって歩くと東光寺に着きます。山門の手前に「おくのほそ道」と書いた石柱があります。また、石碑があって『おくのほそ道』の文が刻まれています。「奥の細道とは、この付近から東へ続く古道に由来している」という旨の言葉も彫られていますが、具体的にはどこにその道筋があるのかはわかりません。

 寺の裏山は、仙台市指定文化財の「東光寺の石窟群域」になっています。薬師如来や阿弥陀如来などの石仏が刻まれていますが、鎌倉時代から室町時代にかけてのものだろうと推定されています。

 東光寺からしばらく進むと、「十符の菅 十符の池跡」という小さな説明板があります。ここの菅は、編み目が十筋ある良質なものに織られたが、十符の菅は陸奥の歌枕として知られていた、という説明があり、古地図も添えられているのですが、具体的にどの地点を示しているのかはわかりません。何か残っているのではないかと思って、説明板のあるところから、細い道を上っていきましたが、何も見つけることはできません。たまたま通りかかった地元の方に尋ねてみると、庭先の一画を指して、ここに菅があると告げられます。仙台藩主に献上するほどのものであったのなら、保存の策を施したり、その地点に説明板を設けたりしほしかったと思いますが、もはや望むべくもないのでしょう。

 結局は、「奥の細道」も「十符の菅」もきちんと確認できなかったのですが、そのような状況こそ自然な有様なのではないかとも思います。観光資源にせず、押しつけがましさを排除しているのを好ましく感じます。

 

壺の碑

 

 「壺碑  市川村多賀城に有。

 つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺斗歟、苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。『此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年、参議、東海東山節度使同将軍恵美朝臣朝?修造而。十二月朔日』と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩、川流て、道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。」

 4日目です。多賀城市の中心は仙石線の多賀城駅ですが、私たちは東北線の国府多賀城駅から歩き始めます。北口の駅前には楼門を思わせる時計台があり、その向こうは田園風景です。北へ歩いて浮嶋神社を見てから、西に向かいます。間もなく小高い丘が見えてきて、これが多賀城碑(壺碑)のあるところです。

 『おくのほそ道』は壺碑について詳しく記述しています。芭蕉が訪れた他の場所に比べると、壺碑は碑面の文字まで紹介して、特別扱いのように見えます。本文にも書かれているように、多賀城は神亀元年(724)に陸奥の国府及び鎮守府として置かれ、ほぼ200年の間、東北地方の政治や軍事の中心として機能しました。この碑は「天平宝字六年」(762)の「十二月朔日」の日付で建立され、今は覆いの建物の中に西に面して立っています。

 碑は、江戸時代の初めに発見されたと言われています。新井白石の書いた『同文通考』という書物には、万治・寛文の頃に土中から見つかったと書かれています。芭蕉がここを訪れた時から2030年前のことになります。芭蕉にとって、この発見は現代的な大きな出来事であったのかもしれません。

 「壺碑」は平安時代から歌枕として詠まれてきています。西行は「陸奥のおくゆかしくそ思ほゆるつぼのいしぶみそとの浜風」と詠んでいます。けれども、その碑が実際にあったのか、それがどこにあるのかも明らかでなく、歌枕が一人歩きしていたのかもしれません。多賀城碑は、発見と同時に「壺碑」の名で呼ばれることになり、多くの文人の関心を集めることになります。

 多賀城碑のある丘の上り口のあたりはきちんと整備されて、この一帯についての説明板や、縮尺1000分の1の多賀城跡地形模型などが設けられています。外郭南門跡などには標柱があります。

 壺碑の覆屋は中を覗くことはできますし写真も撮れます。前は碑面で文字が書かれていますが、後ろはずんぐりと太い石のままで、背中から下の表面部分は剥がれ落ちています。芭蕉は「苔を穿て文字幽也。」と書いていますが、碑面の文字はある程度まで読みとれます。

 碑は、上に「西」という一文字が記され、細い線で囲んだ中に11行、140字が書かれています。前半5行は芭蕉が「四維国界之数里をしるす。」と書いているように、多賀城と京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国との間の距離が書かれています。覆堂の近くに芭蕉翁礼賛碑があります。芭蕉は筆を費やして壺碑のことを書いていますが、句を残していません。この碑は1927(昭和2年)建立ですが、多賀城に来る前に仙台で詠んだ「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」を刻んで、この地を訪れた記念としたようです。

 壺碑のある丘の北側に、多賀城の政庁跡があります。奈良・平安時代に陸奥の国府が置かれたところで、11世紀の中頃まで東北地方の政治・文化・軍事の中枢としての機能を持っていたようです。多賀城碑(壺碑)の発見によって、調査や保存に弾みがついたようです。

 政庁跡は、壺碑の丘を下りてから、ゆっくりとした上り坂をたどると木々に囲まれた跡地に着きます。あたりには赤紫色の宮城野萩が咲いています。多賀城全体の規模は900メートル四方で築地塀に囲まれていたと言い、その中央に100メートル四方の政庁跡があります。大正・昭和の時代に史跡指定や発掘調査がありましたが、現在も調査が続いています。

 国府多賀城駅へ引き返した時から雨が激しく降り出します。駅の南側に出て、東北歴史博物館の横を通って、雨の中、新しく開かれた広い道を南へ急ぎます。鎌倉時代の供養碑があるという化度寺のあたりから東に向かい、仙石線多賀城駅の手前を南に折れて、西に引き返してから砂押川を渡ります。

 芭蕉は壺碑からいったん塩竃へ行き、昼食を済ませてから、末の松山や興井(沖の石)に戻っています。多賀城と塩竃の距離は近いのですが、それにしても食事のために塩竃に行って帰ってくるとは、マイカー時代の気軽さのようで、。歩くことをさほど苦にしていないようです。

 

末の松山、沖の石

 

 「それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て、末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、鹽がまの浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜目盲法師の琵琶をならして奥浄るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。」

 末の松山は、百人一首の清原元輔の歌「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」で知られた歌枕の地です。この歌は、お互いに袖の涙をしぼりながら、あの末の松山を波が越すことがないように、私たちの仲も決して変わることがないようにと固く約束した、という意味です。末の松山を波が越すことはないとは、起こり得ないということの比喩です。どのような高波が来ても決して越すことがないと言われていたのが末の松山です。この歌は、古今集にある「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」を踏まえた作品です。

 末の松山は、宝国寺の裏の丘にあって、推定樹齢480年の二本の黒松がそびえています。ゆるやかな坂になっていますが、松の木の手前に「君をおきて」の歌碑が建っています。芭蕉は、男女の約束が深く比翼連理の間柄であっても、没した後は墓が残るだけだという、百人一首や古今集の歌を詠んだ人たちを含めて、生きる者の無常に思いを馳せています。

 雨の中ですから、野田の玉川へ足を延ばすことはしませんが、野田の玉川を詠んだ歌としては、能因法師の「ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり」などが知られています。その野田の玉川に架かる「おもわくの橋」は、西行の「ふままうきもみぢのにしき散りしきて人もかよはぬおもわくのはし」の歌があります。次に訪れる沖の石を含めて、このあたりには歌枕が多くあります。多賀城の壺碑も近くて、訪れる文人も多かったに違いありません。

 西行は生涯に2度、陸奥を訪れていると言われます。30歳前後に藤原実方や能因の足跡を追って旅をし、晩年には奥州藤原氏に東大寺復興資金を依頼する旅をしたようです。その西行や能因に心を寄せた芭蕉がこの地を訪ねるのはごく当たり前のことだったのでしょう。

 末の松山から沖の石(興井)までは、すぐ近くです。案内板に従って下っていくと、変わった形の石が連なっている池が見えます。周りは住宅地です。島のようになった石の群があって、松の木も生えています。水面には雨の輪が次々とできています。池の周りがコンクリートの壁になっているのが不粋ですが、こんな小さな旧跡が現在まで大切にされているのは嬉しいことです。

 沖の石も、百人一首の二条院讃岐の「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし」で知られています。千載集に出ている歌です。この歌は、私の着物の袖は、潮が引くときにも見えない沖の石のように、人は知らないだろうが、あなたを恋い慕って涙で乾くひまもない、という意味です。二条院讃岐は源三位頼政の娘で、女房として出仕し、讃岐と呼ばれました。その時代に、式子内親王と並ぶ一流の歌人でした。この女性が奥州を訪れたとは考えにくいと思いますが、「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の」は序詞として詠まれていますから、実際に沖の石を見ていなくても歌は成り立ちます。この歌は、人知れぬ片思いの悲しみを歌ったものでしょう。石の間に立てられた説明板には、「おきのゐて身をやくよりもかなしきは宮こしまべのわかれなりけり」という小野小町の歌も記されています。これも悲しい別れが主題になっています。

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2018年3月22日 (木)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(5)

  第4回 安積山から伊達の大木戸まで

 

 4回目の旅は、すっかり夏景色となった7月4日から7日までです。今回は福島県を歩きます。

 

安積山

 

 「等窮が宅を出て、五里斗、檜皮の宿を離れて、あさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比も、やゝ近うなれば、いづれの草を花がつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」

 『おくのほそ道』の文章は、須賀川から日和田に直行したように読みとれますが、実際は、4月29日に郡山に宿泊し、翌朝早く檜皮に向かっています。

 私たちの旅の初日は、かつみの生えている沼のことを気にかけて、安積沼跡の説明板があるところに立ち寄りたいと思ったのですが、よくわからないまま通り過ぎてしまったようです。

 西方寺と蛇骨地蔵に立ち寄ります。仏堂建築の蛇骨地蔵は東勝寺が廃寺となって後、西方寺に移されたそうです。境内にイチイの木があり、傘松もあります。西方寺の堂の前に「健康十訓」が石に刻まれています。その言葉は、「少肉多菜 少塩多酢 少糖多果 少食多齟 少衣多浴 少車多歩 少煩多眠 少忿多笑 少言多行 少欲多施」です。食生活などに関することはともかくも、「少車多歩」が気に入ります。車を運転せず、乗ることも極力控えて、なるべく歩こうとしている私たちの考えと同じです。

 しばらく歩くと、右手に安積山公園が見えてきます。「花かつみ記念植栽」という説明板があります。「芭蕉が安積山をたずねてさがし歩いた花かつみを『奥の細道』300年を記念して植栽する」と書いてあります。「花かつみ(学名・ひめしゃが)昭和49年6月郡山市の花に指定」と注記があります。淡い紫色の花びらで中央の部分が白く、脈は紫色で、とさかのような突起がある姿です。胡蝶花とも呼ばれるシャガの花は初夏に咲きますが、ここの花かつみも今は葉が繁っているだけです。

 山というほどではなく小さな丘陵ですが、安積山公園という石柱が建っているところから緩やかな坂道を上っていきます。丘の上には大きな松が何本も生えています。

 北寄りに少し下ってくると、丘の中腹に、万葉集安積釆女の歌碑が建ち、万葉集・巻16の安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」が刻まれています。歌の意味は、安積山の山影まで映って見える山の井の水のように、私は浅い心であなたのことを思いはしません、ということです。万葉集の歌には左注が書いてあって、葛城王が陸奥の国に派遣されたときに、国司たちからの接待が粗略であったので、王は怒りの顔色となり宴席を楽しもうとしなかった、そのとき、以前に釆女であった女性がこの歌を吟詠したところ王の機嫌が直っていった、という経緯が記されています。こうして、安積山が歌に詠まれる名所(歌枕)となっていったようです。芭蕉は花かつみに執着したように書いていますが、歌枕の地として関心を持っていたことは間違いありません。

 近くに「奥の細道の碑」が建てられ、山裾をめぐる小道は「芭蕉の小径」と名付けて整備されています。丘から北の方へ下っていったところに、山裾から湧き出る一筋の水があります。山ノ井清水と名付けられていますが、万葉歌に因んだものでしょうか。石組みの中に少しの水が貯えられています。

 安積山から少し離れたところから、奥州街道の松並木が始まります。松並木は、郡山から日和田を経て北に向かう間に何か所か残っています。路傍に説明板があって、1604(慶長9年)に奥州街道が整備されたときに並木ができたと書いてあります。その後に植えかえも行われたようです。このあたりの道路はうねうねと曲がりくねっていて、それが風情を醸し出しています。曲がり角の向こうから旅人がひょいと現れてくるような錯覚すら感じます。左手遠くに磐梯の山並みが見えます。

 「にごり池」というバス停を過ぎて、集落に入っていくとお寺などもありますが、適当なところで見当をつけて、左の方へ折れて、五百川駅を目指します。高倉橋で五百川を渡ります。川幅はありますが、水の流れているところはわずかです。五百川は阿武隈水系ですが、この川の名前に興味を引かれます。京都にいた萩姫という姫君が病気になったとき、不動明王が現れて「京から北に五百番目の川を上りなさい」という言葉があったので、旅を続けてその五百番目が磐梯熱海温泉の近くを流れるこの川であったという伝説が残っているそうです。

 

二本松

 

 『おくのほそ道』では、あさか山について書いた後は「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」となっています。二本松は地名が書かれているだけです。

 旅の2日目、二本松駅から黒塚を経て安達駅まで歩きます。残念ながら、朝から雨が降っています。

 二本松をゆっくり歩くのは、智恵子との関連です。駅前にある戊辰戦争二本松少年隊の像を見てから二本松神社に寄り、そこから東に向かい、亀谷坂入口という交差点を北に折れます。ゆるやかな上り坂をたどっていくと、路傍に幸田露伴の文学碑があります。「文豪・幸田露伴 ペンネームゆかりの地」と書かれた石碑に「里遠しいざ露と寝ん草まくら」の句が彫り込まれています。文学を志した露伴が通信技手として赴任していた北海道余市から上京しようとして、福島から郡山まで歩く途中で体力も気力も限界となり野宿を決意して、野垂れ死にをする時になればこんな気持ちになるだろうと思ったときの句だと言います。東北本線が郡山まで開通していた時代のことです。

 この碑の左の方へ上ったところに亀谷観音堂があって、「人も見ぬ春や鏡のうらの梅」の芭蕉句碑があります。1776(安永5年)の建立で、文字は読みづらくなっています。

 根崎という交差点を北に折れてから、鯉川という細い流れを渡ります。それから10分ほど歩いていくと智恵子物産店という看板を掲げた戸田屋という店があります。店内には智恵子に関する展示があり、関連書物が並び、天井からは杉玉がぶら下がり、置物など様々なお土産品が並んでいます。ヒット歌謡「智恵子抄」でコロンビア・ローズさんが訪れた写真も掲示してあります。おもちゃ箱をひっくり返したようなという形容がぴったりするほど、魅力あふれる店です。

 戸田屋の隣が「智恵子の生家」です。智恵子は1886(明治19)に酒造の家の長女として生まれていますが、その長沼酒造家が復元されているのです。「花霞」の薦樽なども並び、機織り機や蓄音機や琴まで並べてあります。

 その隣にある、酒蔵をイメージした智恵子記念館には、智恵子が制作した紙絵や油絵の世界が広がっています。紙絵は、南品川で病院生活を送っている智恵子を見舞う光太郎が持ってきた色紙、レッテル、銀紙などを台紙に貼り付けることから始まり、次第に創意が加わり、驚くように上達したと言われています。一人の美術作家の人生の跡や、その人の内面世界をのぞき見るような思いになります。

 記念館を出て、「智恵子の杜」と書かれた石柱のあるところから石段を上っていきます。稲荷八幡神社を過ぎて、両側に紫陽花がぎっしり植えられた石段が続きます。あじさいロードと名付けられていますが、愛の小径という名も付けられています。帰郷した智恵子を見舞って光太郎は何度も長沼家を訪れ、裏山のこの道を散歩したと言います。

 光太郎の「道程」詩碑があり、ふれあい広場、彫刻の丘というところを過ぎて上っていくと、やがて鎮魂の丘に着き、そこには「樹下の二人」詩碑があります。鞍掛石旧蹟という碑も建っています。「あれが阿多多羅山…」という方角は説明板によってわかるのですが、雨に煙って山は見えません。

 

黒塚の岩屋

 

 高村光太郎・智恵子ゆかりの丘の頂から下ってきて、次は黒塚の岩屋に向かいます。鯉川を渡り、国道4号に出ます。高いところに架けられた安達ヶ橋で、一気にJRの線路と阿武隈川を越えます。雨は止んできましたが鈍い空で、それが鏡のように静かな阿武隈の川面に映っています。

 橋の左手の下に見えてくるのが黒塚です。一部を塀で囲っています。橋を渡り終えて、堤防の内側に下ります。奈良時代の726(神亀3年)に、東光坊阿闍梨祐慶が破魔の真弓に金剛の矢をつがえ鬼婆を射て埋葬したところであるという説明が書いてあります。平兼盛の「みちのくの安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」が知られていますが、歌舞伎、謡曲、浄瑠璃などでも取り上げられています。

 黒塚の近くに、真弓山観世寺があります。鬼婆が住んだ岩屋があるという寺ですが、どうしてこの境内だけにこんな大きな岩や変わった形の岩があるのかと驚くようなところです。岩屋は笠石で、巨岩の上に笠のような巨岩が重なっています。仮に人工が加えられたとしても、古い時代においてはなかなかの技術が必要であったことでしょう。

 柵で囲まれた「夜泣き石」というものもあります。鬼婆に殺された赤子の泣き声が夜になると聞こえたという石です。二つに割れた形の、苔むした石です。甲羅石というのは確かに亀甲を思わせる割れ目の入った石です。安堵石は胸の内の苦しみを聞き受けてくれるという石です。胎内潜りと言って岩窟の中へ入ることができるところもありますが、ちょっと中を覗くだけで敬遠します。他にも鬼婆供養石とか、出刃洗いの池とかがあって、ドラマチックな仕立てになっています。蛇石は、白蛇が巨岩の一帯に住み着いて、如意輪観音の化身として崇められ、参詣人の安心・無事を守ったと言います。

 芭蕉に関しては、芭蕉休み石というのがあります。腰を掛けることができるような平らなところがある石です。正岡子規も訪れていて「涼しさや聞けば昔は鬼の家」の句碑がありますが、芭蕉の影は薄いようです。

 安達ヶ橋を渡って国道4号に戻ります。東日本大震災の応急仮設住宅団地という案内板が目に入ります。浪江町の方々が入居していると書いてあります。国道から左斜めに折れて歩き、油井川を渡って、新装成ったばかりという感じのする安達駅に着きます。

 

医王寺

 

 「月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋々行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ふるにまかせて、泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義經の太刀、辧慶が笈をとゞめて什物とす。

   笈も太刀も五月にかざれ紙幟

五月朔日の事也。」

 『おくのほそ道』の文章は、信夫文字摺り石、月の輪の渡し、飯塚(飯坂)…という順序で書かれていますが、私たちは、医王寺、飯坂温泉、桑折…という順で訪ねて、その後で文字摺り石に立ち寄ります。

 安達駅から福島駅に出て、福島交通の飯坂線に乗り換えます。飯坂温泉行の電車を医王寺前駅で降りて、医王寺まで歩きます。道端には「おくのほそ道・芭蕉路」という木柱も立てられています。「芭蕉坂」という木柱もあります。医王寺は『おくのほそ道』に「かたはらの古寺に一家の石碑を残す。」と書かれている寺です。

 奥州平泉の藤原氏の下で信夫郡を治めた佐藤庄司というのは、佐藤基治のことで、藤原秀衡の家臣です。源義経に従って死んだ佐藤継信・佐藤忠信兄弟の父です。「二人の嫁」というのは継信・忠信のそれぞれの妻のことです。継信は、屋島の合戦で義経をかばって戦死し、忠信は、吉野で義経に代わって敵を防ぎ、後に京都で討ち死にしています。兄の死は1185(文治元年)、弟はその翌年のことです。芭蕉は、義経に忠義を尽くし他国で死んだ佐藤兄弟とその妻の話に涙を流しているのです。

 医王寺の山門を入ると、常緑広葉樹のシラカシの巨木が目を引きます。寛永年間の植栽で樹齢300年と言います。内門を入って本堂を拝みますが、その左横に芭蕉の句碑があります。そばで紫陽花が花を咲かせている碑に「笈も太刀もさつきにかざれ紙のぼり」と刻まれています。5月の節句の頃で、家々では紙幟(紙製の鯉幟)を立て武者人形を飾って祝っているが、勇ましい男の節句であるから、紙幟とともに、寺に収められている辨慶の笈や義経の太刀も一緒に飾ってほしい、という意味です。眼前の景である紙幟から、過去の人とのつながりのある笈や太刀に思いを馳せています。

 医王寺の本堂には、若桜(継信の妻)と楓(忠信の妻)の像が祀られていると言います。姑・乙和の悲しみの深さに対して、兄弟の武将姿をして慰めようとしたという2人の人形です。

 境内には義経公主従像もあって、義経を真ん中にして、向かって右に継信、左に忠信の像が並んでいます。「乙和の椿」というのもあります。継信・忠信の2人を失った母・乙和の深い悲しみが乗り移ったかのように、花が開かず蕾のままで落ちてしまう椿だと言います。瑠璃光殿(宝物殿)には、芭蕉像の他に、辨慶の笈や、継信の木地鞍などの展示があります。

 医王寺を出て、小川という名の川の医王寺橋を渡ります。蚕業試験場跡にある「蚕の供養塔」や、乙和稲荷神社を見たりしながら、花水坂駅の前を通って飯坂温泉駅まで歩きます。

 飯坂温泉の駅前広場には、芭蕉の像があります。摺上川を背にして建つ像は、笠を背中に負い、左手で杖をつき、ゆったりと落ち着いた姿です。傍らには「日本最初のラジウム発見の地」のモニュメントもあります。摺上川に架かるのが十綱橋です。崖下の深いところを流れる川には吊り橋が架けられたり渡し船があったりしたようですが、鋼アーチの十綱橋は1915(大正4年)に完成し既に1世紀を経過しています。土木学会選奨の土木遺産に選ばれています。

 

飯塚(飯坂温泉)

 

 「其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に莚を敷て、あやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て、雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて、眠らず。持病さへおこりて、消入斗になん。短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。猶、夜の余波、心すゝまず。馬かりて桑折の駅に出る。遙なる行末をかゝへて、斯る病覚束なしといへど、羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん是天の命なりと、気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。」

 芭蕉は飯塚に泊まった書いていますが、それは飯坂温泉のことです。飯坂温泉のことを印象悪く書いていますが、当時の飯坂は湯治場のようなところであったのかもしれません。空模様の悪さもあって宿に当たり散らしているようにも感じられます。「あやしき貧家」であったことや、芭蕉がこの宿で持病に苦しんだことは、『曾良随行日記』には書かれていません。

 3日目の朝、私たちは宿を出て飯坂温泉を一巡りします。少し雨模様です。緩い坂を上っていくと左手に「ゆざわ芭蕉の道公園」という小公園があります。このあたりを芭蕉が歩いたというのでしょう。道が右にカーブしていったところに「鯖湖湯跡地」という石柱があり、休憩施設があります。向こうに鯖湖神社が見えてきます。境内に「飯坂温泉発祥の地」という石柱と解説碑があり、与謝野晶子の歌と正岡子規の句とを並べて刻んだ文学碑もあります。

 源泉を汲み出している櫓があって、その隣が鯖湖湯です。飯坂温泉で最も古い湯だそうで、芭蕉もここの湯を使ったのでしょう。「芭蕉と曾良入浴の地」という石碑もあります。道後温泉の建物よりも古く、かつては日本最古の木造建築共同浴場と言われたそうですが、現在は改築されています。

 鯖湖湯を過ぎて旧・堀切邸の横の坂を上りかけたところで雨が強くなりました。しばらく鯖湖湯の軒下に避難し、雨の対策を整えます。それでも止まないので、公園の中の屋根のあるところで腰掛けて、しばらく時間を過ごします。

 やや小降りになってきたのを見計らって歩くことを再開します。旧堀切邸の前を通って「ちゃんこちゃんこ」に向かいます。「俳聖松尾芭蕉ゆかりの地入口」という石柱があり、その真後ろに「ちゃんこちゃんこ」の説明板があります。飯坂小唄に歌われる「ちゃんこちゃんこ」は「滝の湯」に下りていく73段の石段だそうです。下駄を履いて石段を下りていくとチャンコチャンコと音が鳴るというのです。「滝の湯」は飯坂の名湯であったが1937(昭和12)の火災によって焼失したという説明があります。細い石畳道は左に曲がって下っていき、摺上川のそばに出ます。

 「俳聖松尾芭蕉ゆかりの地」という碑があって、『おくのほそ道』の飯塚の一節が刻まれています。そばには「長らく芭蕉が入浴したのは滝ノ湯であると言われてきて、その跡地に芭蕉の碑を建立した。しかし、奥の細道の研究が進み、芭蕉と曾良が入ったのは滝ノ湯ではなく鯖湖湯あるいは当座湯であるという考えが有力になっている」という旨が書かれた謙虚な説明板が建っています。滝ノ湯のかつての写真も掲出されて、河畔に立つ滝ノ湯の建物と摺上川に渡し船が往来する様子が紹介してあります。明治・大正時代の写真です。

 戻って、旧堀切邸へ行きます。江戸時代から続いていた豪農・豪商の旧家です。1578(天正6年)に若狭の国から移住した梅山太郎左衛門があたりを開作し農業や養蚕に力を注ぎ、氾濫を繰り返した赤川の堀を切って流れを変えたので堀切と呼ぶようになったそうです。堀切家は地域の経済に貢献するとともに、衆議院議長を務めた堀切善兵衛や、東京市長を務めた堀切善次郎などを輩出しています。堂々とした表門を入ると左手に主屋があり、部屋を回って係の方の説明を聞きます。米蔵などとして使われた「十間蔵」や、井戸小屋などを見ているうちに雨が止んできます。

 駅に向かって歩いていると、西覚寺の掲示板に「雨の日には雨のおめぐみ」と墨書したものが張られています。まさにその通り、この日にぴったりです。この言葉に感じ入り、これから後、雨模様になったときには、私たちの合い言葉になりました。

 駅前の十綱橋を対岸まで往復し、川岸に「十綱の渡し」と書かれているのを見てから、駅前広場の芭蕉像に別れを告げます。

 

桑折

 

 飯坂から桑折までは遠くはありませんが、私たちは迂回して、いったん福島駅に出て、東北線で桑折駅へ行きます。桑折の町を見た後、伊達の大木戸を目指して、福島県最北端の貝田駅まで歩きます。

 桑折の駅前には「異国の丘」の歌詞を刻んだ碑が建っています。作曲者の吉田正を有名にしたこの歌の作詞者・増田幸治が桑折の出身であるのだそうです。

 桑折駅からはいったん南に向かって歩きます。無能寺には笠松(御蔭廼松)があります。笠の頂の高さは6メートル余なのに、東西南北に6~9メートルの枝を伸ばしています。枝の下を真っ直ぐに延びる参道を通って本堂に向かいます。

 方圓寺には田植塚があって、「風流の初やおくの田植うた」の句碑があります。田植塚記という碑もあります。この地の俳人・佐藤馬耳が「風流の」の句の短冊を埋めて、「芭蕉翁」と刻んだ石碑を建てたのは1719(享保4年)のことです。この碑は風化していますが文字は読みとれます。

 休憩施設である桑折御蔵を過ぎ、梵鐘のある大安寺を過ぎると、桑折町道路元標があって、目の前に旧伊達郡役所が迫ってきます。1883(明治16)に誘致運動の末、この地に建てられたという郡役所は、2階建てでバルコニーと塔屋を持つ建物です。1926(大正15)の郡役所廃止まで、伊達郡の行政の中心となりました。廊下や階段などは歩くたびにギシギシと鳴りますが、それはこのような建物の常です。2階のバルコニーからさっきまで歩いてきた道筋を眺めやります。郡役所の建物の東側には、桑折陣屋跡があります。

 郡役所の少し西に芭蕉像があります。しっかりとした体格で、鼻筋の通ったたくましい感じの顔です。この像からは「野ざらしを心に」思い浮かべているようには感じられず、この姿では行き倒れることはないだろうと頼もしく感じます。像の下には、「月の輪の渡しを越えて」から「伊達の大木戸を越す」までの文章が記された銘板がはめこまれています。

 郡役所から西に進むと桑折寺があります。木造で銅板葺きの黒い山門は、遠くから見ると旅笠のように見えないでもありません。境内を歩いてから、もと来た道を引き返します。

 桑折駅が近づいてきたところに追分があります。ここからは初めて歩く道になります。追分のところは、柳の木の両脇で道が二手に分かれています。奥州街道と羽州街道の分岐点です。五街道の奥州街道は日本橋から白河までですが、その延長として福島、仙台、盛岡を経て津軽半島へ延びています。羽州街道は桑折から分岐し、七ケ宿、上山、山形、秋田、弘前を経て奥州街道と結びつく道です。桑折にある道標には「右 奥州仙台道 左 羽州最上道」と書かれていたそうです。その先に奥州街道谷地一里塚跡というのがありますが、木柱が立っているだけです。

 桑折には、江戸時代に佐渡、生野とともに日本三大鉱山といわれた半田銀山がありました。資源枯渇を理由に閉山とされていた銀山を、明治になって再興したのが五大友厚です。ただし、銀山がどのあたりにあったのかは知りません。

 小さな流れの佐久間川を渡るあたりでは次第に道が細くなっていき、いつの間にか桑折町が終わって伊達郡国見町に入ります。福島県の最北端の町です。特に注目するような名所旧跡のようなものもなく淡々とした歩きが続きます。

 

伊達の大木戸

 

 『おくのほそ道』は、飯塚について書いた末尾を「路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。」と締めくくっています。桑折から歩いてきた私たちの目的地も「伊達の大木戸」ですが、その位置は明確ではありません。伊達の大木戸というのは、国境の関所で、そこから北が伊達領ということです。

 国道4号は福島・宮城の県境を越えるために上り坂になっていきますが、山が迫ってくるようなところはありません。大木戸支所バス停というのがありますが、これは町役場の支所のことでしょうか。

 道の左手に阿津賀志山防塁が見えてきます。大きな看板に、国指定史跡とあり、文治5年奥州合戦古戦場跡と書いてあります。源頼朝が率いる鎌倉軍を迎え撃つために、藤原秀衡の平泉軍が築いた堀と土塁の要塞です。およそ3㎞にわたる土塁は、堀が二重になっているそうですが、この国道4号のあたりでは外堀が完全に埋まってしまっているようです。

 いよいよ奥州道中国見峠長坂跡です。国道から左に入って、上っていく道は木々の枝がかぶさってくるような感じで古道の面影が残っています。路傍の案内板は、ここに官道が走って奥羽地方の幹線道路として機能し、登り詰めたところが国見峠であると記しています。

 矢印に従って上っていくと、空が広がって、丘の上に平坦な道が続いているようになります。道が改善されたのかもしれませんが、車馬の通行に適さない難路の面影は消えてしまっています。

 国道4号に戻ると、東京から291㎞という表示が出ています。道の傍の果物即売店に尋ねて、貝田駅が近いことを教えられ、元気が出ます。雨はわずかですが、やむことなく降り続いています。貝田駅は宮城県境の少し手前ですが、ここから電車で福島駅に戻ります。

 

信夫の里

 

 「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遙山陰の小里に、石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける。昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。

   早苗とる手もとや昔しのぶ摺 」

 4日目の朝、福島駅前からバスに乗って、文知摺という停留所で降り、広い道を少し歩いてから、左に折れて細い道に入ります。文知摺観音に着く手前に「虎が清水」があります。山口長者の娘・虎女が源融との再会を文知摺観音に祈願したときに身を清めた清水だといいます。源融は都からの按察使としてこの地に来ています。

 文知摺観音の境内入口に、芭蕉像と『おくのほそ道』文学碑が一体になったものがあります。俳聖松尾芭蕉像とあるとおり、悟りを開いた僧侶のような風情が漂っています。像は文学碑の上部にあって、見上げる高さです。文学碑には、「月日は百代の過客にして…」の冒頭部分、「二本松より右に切れて…」という安積山の末尾部分、そして「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て…」から「早苗とる」の句までが刻まれています。このような編集をした碑文は珍しいと思います。

 説明板には、ここは観音札所として、また文知摺石をめぐる伝説の地として古くから市民に親しまれてきて、この信仰と伝説が中核となって、この地には長い歳月にわたり堂塔が建立され多くの碑が配置されてきた、という旨のことが書いてあります。

 ここは百人一首の「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」の歌で知られているところです。作者は河原左大臣、すなわち源融です。しのぶもぢずりは、福島県の信夫地方で産出した、乱れ模様に摺り染めた布のことですが、歌ではここまでが序詞です。けれども、単に言葉を導き出す働きなのではなく、複雑な乱れ模様のイメージと、作者の心の乱れとを重ね合わせるように詠んでいます。この歌の骨格は、私の乱れた恋心はあなたゆえのことなのですということです。この相手の女性は虎女のことでしょう。境内には「河原左大臣源融公 虎女の墓」として2つの墓が並んでいるのですが、石柱には「昭和五十八年四月十日開眼す」と書かれているように、新しい墓です。

 「文知摺石(鏡石)」という標柱のある石は、地上に出ている部分だけでも人の背丈ほどあります。横幅や奥行きは、高さよりも長いと思われます。玉垣のような石の柵によって文知摺石は囲まれています。ともかく、大きいのです。石は、上の方にびっしりと苔が はえており、その他のあちこちにも苔が見えます。あちこちに小さく円い形の白いものが表面に見えます。

 芭蕉は「石半土に埋てあり。」と書いていますが、埋もれているのが「半ば」なのかどうかはよくわかりません。子どもが芭蕉に説明したという話は、子どもの想像(あるいは、大人の作り話)としては面白いのですが、この巨石を簡単に突き落とせるものかどうか、大いに疑問です。「谷につき落」とすという表現から、もっと小さいものだろうと想像していたのですが、あまりにも大きな石でした。

 この石の垣の傍らに「石の伝説」という説明板があって、再会を約して帰京した源融に対する、虎姫の情愛の深さが語られています。再会を待ちわびた虎女が百日詣りの願を掛け満願の日を迎えたが源融は現れず、嘆いた虎女が文知摺石の表面に源融の面影が浮かんだと思ったので駆け寄るとすぐに消えてしまった、という話です。それが、鏡石とも称する理由のようです。

 現在の文知摺観音は、石が突き落とされたものであるという説明を避けているようです。ごく普通の巨石ですが、それに源融と虎女の話が付与されて物語性を帯び、歌枕になっていったのでしょう。境内には、これを出発点としたさまざまの碑などが広がっています。

 「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」という句は、この地方で行われた忍ぶ摺はもう昔のものになってしまったが、せっせと田植えをしている早乙女の手つきを見て、昔のしのぶ摺の所作を偲ぶことにしよう、という意味です。忍ぶ摺は、信夫地域の名産で、布を模様のある石の上に置いて、忍ぶ草で染めたもののようです。

 文知摺観音の境内は、ともかく様々なものが集積されていますから見るのに忙しいのです。1812(文化9年)建立の安洞院多宝塔は修理中ですが、福島県重要文化財に指定されています。多宝塔は近畿地方では見慣れていますが、関東以北には10棟ほどしかなく、東北地方では唯一のものだそうです。観音堂は1709(宝永6年)に改築されたものですが、他に経蔵・三十三観音堂もあります。鐘楼は古びた感じです。

 

月の輪、瀬の上

 

 月の輪へ行く道のことを文知摺観音で教えられて、山裾をめぐるような道に出て、月の輪を目指します。かなりの距離があります。教えられたとおりに歩いていきます。

 阿武隈川に向かって道路が少しずつ上っていったところに月の輪大橋があります。堤防が高くなっており、大橋の欄干が始まるところが「早苗とる手もとやむかししのぶ摺」の句碑を兼ねています。

 橋から眺めると、南の方には信夫山が見え、北の方には阿武隈急行の橋梁が見えます。川はゆったりとした流れで、水面はあまり波立ってはいません。

 橋を渡り終えたところの欄干に「橋名の由来」が彫られています。そこには、月の輪というのは阿武隈川が蛇行を繰り返した際に三日月形に残った湖を呼んだもので、芭蕉が通った渡し場に因んで橋の名とした、という旨が書かれています。阿武隈川の下流の右岸が向瀬上という地名で、左岸が瀬上ですが、このあたりには近年まで渡しがあったそうで、月の輪大橋の開通で1995(平成7年)に廃止されたと言います。

 月の輪大橋を過ぎて、工場団地のようなところを通ってから、りんご畑の中を通り抜けて、阿武隈急行の瀬上駅に出て、福島行きの列車に乗ります。

 福島駅前のロータリーの向こう側の大きな石の上に芭蕉と曾良の像が立っています。芭蕉は両手を前に組んで、その手で杖を握っています。曾良は芭蕉の左斜め後ろに笠を肩の上に持ち上げるようにして立っています。顔つきは芭蕉も曾良も元気にあふれています。

 

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2018年3月21日 (水)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(4)

  第3回 遊行柳から郡山まで

 

 

 3回目の旅は6月6日から9日までです。田植えの季節で、梅雨空を気にしながらの旅です。今回は栃木県・福島県を歩きます。

 

蘆野

 

 「又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畦に残る。此所の郡守、戸部某の、『此柳みせばや』など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。

   田一枚植て立去る柳かな  」

 「清水ながるゝの柳」とは、新古今集にある西行の歌「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」に詠まれた柳です。道のほとりに清らかな小川が流れているがそこにある柳の木陰にほんのしばらくの間と思って立ち止まった、という意味です。その柳をこの土地の領主が見せたいと言っていたので、芭蕉は立ち寄ったのです。

 謡曲にも「遊行柳」がありますが、西行が実際にこの地まで来て歌を詠んだのかということについては疑いが残るようです。芭蕉が遊行柳という通称を使わずに「清水ながるゝの柳」と表現したのも、そのようなことに由来するのかもしれません。

 芦野の里は、奥州道中歩きのときに通っています。けれども、その時は街道を歩き続けることを目的にしていて、一日で大田原市の中心部から、白河市の手前の白坂宿までの長距離を歩きましたので、遊行柳に立ち寄りませんでした。柳は念頭にあったのですが、通り過ぎてしまってから気付きました。

 旅の初日。黒田原駅から1時間半かけて歩きます。黒田原の駅前は人影がほとんどありません。駅の正面を進んでから左に折れて県道28号を歩きます。那須高校の前を過ぎると人家は少なくなり、田植えがすんでいる田圃が広がります。黒川に架かる橋を渡ってから、木々がかぶさるようになっている道を抜けると芦野小学校の前に出て、芦野の里が近づきます。芦野支所前というバス停の前から左に折れて細い道を進むと、こんもりとした柳が見えてきます。

 遊行柳の左側の、大きなイチョウの木の根元にある上宮温泉神社に参っておいてから、鳥居をくぐって遊行柳の境内地に入ります。玉垣に囲まれて、左右に大きな2本の柳があります。石柱や案内板などがいくつもあり、投句箱も設けられています。室町時代に時宗19世の上人がここに来たとき、柳の精の老翁を念仏させたという伝説が残っています。以来、歌枕の地として有名です。観光バスが1台くれば、人であふれてしまうようなところですが、ありがたいことに今は静かです。

 「田一枚植て立去る柳かな」の句にはいろいろな解釈があります。実際に芭蕉が田を植えたわけではありません。田を植えなくても、植えたつもりになるという解釈も成り立つでしょうが、そんな仮想体験でなくてよいでしょう。田を一枚植えて立ち去るのは、この土地の早乙女であって、植え終わって引き上げたあとは田圃のそばに柳が立っているという情景でしょう。

 けれども、「今日此柳のかげにこそ立より侍つれ」と表現する芭蕉のことですから、「立より」から「立去る」までの時間の流れの中に、西行の「立ちどまりつれ」を思い返しているに違いありません。芭蕉の脳裏にあるのは、この柳のもとに立ち寄っている西行の姿です。折しも、あたりはちょうど田植えが終わっています。田圃の水面を静かに風が通りすぎて早苗が揺らぎます。

 芦野の集落に向かって歩いて、奈良川を渡って、奥州道中のときに歩いた、なじみの道に行ってみます。十三夜塔などが並んでいるところ、武家屋敷のしだれ桜のあるところ、旧平久江家の門の前、芦野御殿山への入口などを通って、那須歴史探訪館までを往復します。芦野氏の墓所である建中寺に立ち寄って芦野の里を見下ろすこともします。

 

白河の関

 

 「心許なき日かず重るまゝに、白河の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも理也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

   卯の花をかざしに関の晴着かな   曾良」

 奥州道中を歩いたときに白河の関を通りましたが、それは新しい関所です。芭蕉も同様で新関を通ってから、引き返すようにして古い関所に向かっています。

 『おくのほそ道』の「白河の関にかゝりて、旅心定りぬ」という表現はどちらの関を指しているのでしょうか。白河の関は蝦夷の南下を防ぐために奈良時代以前に設けられたと伝えられます。平安時代の能因や西行は古い道をたどったはずですが、それが廃れて江戸時代には新しい道が官道になったようです。古い関所があったところについては諸説がありますが、現在の国指定史跡となっているところを古関と考えます。芭蕉の旅心が定まったのも、古関で古人を思い浮かべてのことでしょう。

 私たちは2日目の朝、白河駅前の宿から白河古関に向かいますが、まずは駅の周辺を歩いて、阿武隈川を渡って少し行っちたところにある聯芳寺に立ち寄ります。境内に「関守の宿を水鶏にとはふもの」の芭蕉句碑があります。「白河何云(かうん)へ」という前書きのある句で、何云の家はどこだろうかと、水鶏に聞いてみたらよかったのに、という意味です。白河の関のある地に住んでいる人だから、何云のことを「関守」と洒落ているのです。白河では何云に会えなくて、須賀川に滞在したときに何云あての手紙に添えて、会えなかったことを残念がって挨拶としている句です。たぶん何云の居所について須賀川で聞き知ったから手紙を出しているのでしょう。水鶏は人の家をたたく鳥だから、水鶏に聞けばよかったというようなユーモアも含まれています。

 続いて小峰城へ歩きます。三層三階の端正な櫓です。全体として黒い印象ですが、まっ白な壁の部分も印象的です。城址は東日本大震災からの修復工事が進められています。美しい石垣がこわれて積み直す工事も行われています。

 芭蕉像を見るために、バスで新白河駅へ行きます。新幹線の駅前の芭蕉像は、台座が人の背丈ほどで、その上に芭蕉が立っています。右手で杖を持ち、左手は胸のあたりで握り、遠くを眺めている姿は、それこそ旅心が定まって、奥州路の行く先を見据えているようにも思われます。

 再びバスに乗って、団地前という停留所で降ります。ここから南湖公園を経て白河古関までを歩き続けることにします。芭蕉と似ているのは北から南に向かって白河の関を目指すということです。

 南湖は、白河藩主の松平定信によって1801(享和元年)に築造された公園です。李白の「南湖秋水夜無煙」の言葉から南湖の名を採り、小峰城の南に位置していることも理由になっています。芭蕉はもちろん南湖を目にしているわけではありませんが、ここは江戸時代の風雅を伝えるところです。 私たちは南湖公園の西縁から北側に回って、松平定信が定めた南湖十七景と呼ばれる名勝をたどって歩きます。「常磐清水」「真萩が浦」「鏡の山」などと続きますが、それぞれの場所には石柱が建てられ、和歌を書いた板と漢詩を書いた板があります。翠楽苑と南湖神社などを巡ってから、白河古関へ続く道に出ます。

 南湖公園を離れて、白河実業高校の前の交差点からは県道76号を歩きます。進むにつれて峠のようになってきて、しだいに車の通行が少なくなります。旗宿という地名は『曾良随行日記』にも出てきますが、そのあたりの道端に大きな水車のモニュメントが作られています。白河の関まで2.7㎞と書いてあり、南湖公園からは5.4㎞と書いてありますから、3分の2を歩き終えたことになります。

 山道から少しずつ下ってきて、水田が広がるようになって、庄司戻しの桜に出会います。源義経と信夫の庄司・佐藤基治にまつわる桜です。さらに歩いて、ようやく古関が近づきます。

 白河の関のすぐ手前に、「西か東か先早苗にも風の音」の芭蕉句碑があります。能因の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」を念頭に置いて、白河の風を味わおうとする姿勢を詠んでいます。西から吹く風なのか東から吹く風なのか、白河の関を越えたとき、早苗を揺らせる風の音がまず自分をとらえたという感慨です。能因の場合は物寂しい秋風を聞いたのでしょうが、芭蕉は早苗に吹き渡る、爽やかな夏の風の音を聞いたというのでしょう。

 左手に広がる境内の狛犬のそばに、「史跡白河関跡」という石柱が建てられて、ここが白河古関の正面です。古関はその位置が不詳であったのを、白河藩主・松平定信が考証をして位置を断定し、「古関蹟」と書いた碑を建てました。周りを玉垣のような石で囲った碑は堂々としたものです。

 いったん県道に戻って、少し先まで歩いてみると、白河神社社務所のそばに「関守の宿を水鶏に問はふもの」の句碑があります。聯芳寺に建てられているのと同じ句です。

 古関の正面に戻って石段を上っていくと途中に、源義経が戦勝を占うため弓矢を射立てたという「矢立の松」があり、上り切ると白河神社の社殿があります。そばに「古歌碑」があって、平兼盛の「便りあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」、能因の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」、梶原景季「秋風に草木の露を払はせて君が越ゆれば関守もなし」の3首が刻まれています。社殿から右へやや下ったところに「奥の細道白河の関の碑」があり、『おくのほそ道』の白河の関のくだりが加藤楸邨の文字で刻まれています。

 あたりには、源義家が社前の楓に幌を掛けてしばらく休息したという「幌掛の楓」、新古今集の撰者の一人である藤原家隆が手植えをしたという「従二位の杉」、源義経が戦勝祈願してこの木に旗を立てたという「旗立の桜」などがあります。この丘の一帯は、神社を中心とした特別な場所であったということです。

 丘を下りた道沿いにかたくりの花の群生地があり、また、真っ白の卯の花がこぼれるように咲いているところがあります。現在の卯の花は「白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする」というほどではありませんが、芭蕉が見た風景を想像できます。

 曾良の「卯の花をかざしに関の晴着かな」の句は、昔の人はこの関を越えるときに古人を敬い衣冠を正したが、行脚の身の自分は衣装の持ち合わせもないことだから、目の前に咲き乱れる卯の花を挿頭にして晴れ着として関を越える、という意味です。芭蕉が旅の目的地のひとつとして考えていた白河の関ですが、多くの文人たちが心を尽くしたところに立ち寄り、また、奥州への関門を通ることによって、旅への思いがますます定まっていったことでしょう。

 関跡の周辺は「白河関の森公園」として整備されています。公園内には茅葺き民家が移築してあったり、交流センターなどの施設も作られていますが、広場の中に立つ芭蕉と曾良の像が目を引きます。芭蕉の左斜め後ろに曾良が立ち、芭蕉は笠を背中に負った姿、曾良は笠を右手で頭の後ろに持ち上げた姿です。芭蕉は両手を前で組んで杖をついています。正面から見ると前にいる芭蕉の背が高いように見えるのですが、横から見ると曾良の方が高く見えるのが面白いと思います。ふたりは大きな岩を踏まえるようにして立っているのですが、その岩には、芭蕉の「風流の初めやおくの田植うた」と、曾良の「卯の花を」の句が刻まれています。ここにも、ちょうど満開の季節を迎えた卯の花が咲いていて、よい季節に巡り会ったと思います。

 帰りのバスで白河市内に入ったところ、旭町1丁目で降ります。宗祇戻しの碑を見るためです。白河領主が催した連歌興行に参加しようとした宗祇が、ここで行き会った女性にそれが終わったことを告げられ引き返します。その時に女性が背負う綿を見て「売るか」と尋ねたところ、「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそうるかと言へるわたはありけれ」と返され、この歌に驚いたと言います。「売るか」と「ウルカ(鮎のはらわた)」、「綿」と「(はら)わた」を掛けた、即興的な歌を庶民が詠んだことに感じ入ったのです。宗祇戻しには、この話とは別の言い伝えも残っているようです。

 宗祇戻しの碑のそばに「早苗にも我色くろき日数かな」という芭蕉の句碑があります。芭蕉の150回忌に建立されたもので、文字が読みにくくなっています。白河の関のあたりまで歩いてきて、早苗が植えられた美しい水面を見ると、我が顔色の日焼けして黒くなったのが目につき、これまで歩いてきた日数の多いことを今更のように感じる、という意味です。

 白河駅前までゆっくり歩きます。古い民家や商家などをいくつも見てから、『岩波国語辞典』の編纂者で国語学者の岩淵悦太郎さんの生家跡を通ります。近くの皇徳寺には会津塗師久五郎の墓があります。その名前よりも小原庄助の名で知られています。墓石は徳利と盃をかたどっていて「朝によし昼になほよし晩によし飯前飯後その間もよし」が墓石に刻まれていて、戒名は米汁呑了信士というから仰天します。ドームと白い壁が印象的でビザンチン様式の白河ハリスト正教会聖堂も見ます。

 

岩瀬牧場

 

 『おくのほそ道』の文章は、白河の関を越えると、次は須賀川になっています。3日目の私たちは、鏡石駅から乙字が滝に立ち寄って、須賀川まで歩くことにします。

 鏡石駅から乙字が滝の方に向かって歩いていくと、途中に岩瀬牧場があります。「ただいちめんに立ちこめた 牧場の朝の霧の海 ポプラ並木のうっすりと 黒い底から勇ましく 鐘が鳴る鳴るかんかんと」というのは、「牧場の朝」という歌の一番の歌詞で、メロディも歌詞も大好きです。作詞は杉村楚人冠、作曲は船橋栄吉です。杉村楚人冠は作詞当時は東京朝日新聞の記者ですが、船橋栄吉は文部省教科書編集委員として作曲に携わっています。

 船橋栄吉は1889(明治22)、明石市の生まれです。1988(昭和63)に菩提寺である明石市大観町の善楽寺戒光院に歌碑が建立されました。歌碑といっても和歌の碑ではなく、五線譜を刻んだ碑です。楽譜、歌詞、作詞者と作曲者の略歴が、栄吉の長女・船橋豊子さんの文字で刻まれています。

 岩瀬牧場はわが国最初の国営牧場で、宮内省御開墾所として創設されました。周辺に雉が生息していたことから岩瀬御猟場となったとも言いますが、のちに民間の牧場になっています。オランダからホルスタイン種牛を輸入して、欧米式の大型酪農経営が進められ、ホルスタイン輸入の際に記念の鐘が贈られて、この鐘が「牧場の朝」に歌われたのです。

 岩瀬牧場は道の両側に広がっていますが、左側の構内に入ると岩瀬牧場旧事務所の建物が歴史資料館として使われています。鐘の実物もあり、武蔵野音楽大学教授という肩書きの船橋栄吉の色紙もあり、さまざまの写真も展示されています。ひとつひとつに思わず見入ってしまいます。スイッチを押すと曲が流れます。

 

乙字ヶ滝

 

 芭蕉は乙字ヶ滝を訪れていますが、『おくのほそ道』にそのことを書いていません。『曾良随行日記』は、4月29日の項に、石河滝へ行ったと記録していますが、それが乙字ヶ滝のことです。須賀川から郡山に向かう途中で、南東の方向へ1里以上も後戻りしていることになります。その日は快晴ですが、折からの五月雨によって阿武隈川が増水していたのでしょう、滝からかなり下ったところで川を渡って対岸に出て北上しています。

 私たちは乙字が滝の手前にある赤い欄干の橋を渡って対岸(右岸)に出ます。渡り終えたところに乙字ヶ滝という大きな石柱があります。川に沿って下っていくと、古峯神社があり、滝見不動堂があり、そして芭蕉・曾良像や芭蕉句碑へと続きます・

 芭蕉と曾良のそれぞれの石像が並んでいますが、実際の身長よりも小さく作られた像です。これまでに見てきた像に比べると、二人ともがっしりとした体格で、屈強の旅人のように感じられます。石像であるというのも理由なのでしょうが、このような力強さがなければ旅は続けられなかったのではないかと思うほどです。近くに「奥の細道 石河の滝」という小さな石柱もあります。

 「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」の芭蕉句碑があります。梅雨時で川がたいそう増水した様子を詠んでいますが、「五月雨の降り残してや光堂」や「五月雨をあつめて早し最上川」ほどには知られた句にはなっていません。

 現在の乙字ヶ滝は水しぶきを上げて流れ落ちていますが、川の右岸だけです。川の流れの左側は岩肌がむき出しの感じで水の流れはありません。滝の高低差は人の背丈の2倍はありません。河原に下りて眺めると小型ナイアガラのような感じを持ちますが、上から見下ろすと迫力は乏しく思われます。下流の水の流れも穏やかです。

 

須賀川

 

 「とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて、山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇りて物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四五日とゞめらる。

先『白河の関いかにこえつるや』と問。『長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。

  風流の初やおくの田植うた

無下にこえんもさすがに』と語れば、脇・第三とつゞけて、三巻となしぬ。

 此宿の傍に大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやと閒に覚られて、ものに書付侍る。其詞、

     栗といふ文字は、西の木と書て、西方浄土に便ありと、

     行基菩薩の、一生、杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

  世の人の見付ぬ花や軒の栗  」

 『おくのほそ道』にある会津根は磐梯山のことであって左(西)の山であり、岩城・相馬・三春の庄は右()の地名です。これは地理的な説明であって、歩いている芭蕉の目に入っているとは言いにくいでしょう。「かげ沼」については、須賀川の西郊に言い伝えられているところがあるようです。

 阿武隈川は南から北に向かって流れているのですが、私たちは、乙字ヶ滝を見て、川の左岸に戻ってから、北に向かって歩きます。そして国道118号の和田六軒という交差点を左折して西に向かいます。田園風景が広がっています。JR東北線のガードをくぐって少し行くと須賀川一里塚があります。ここは日本橋から59番目の塚ですが、道の両側に立派なものが残っています。

 一里塚からJR線路の東側に戻って歩き、須賀川の市街地にに入ります。南の黒門坂は、江戸時代に設けられた黒塗りの木戸のあったところで、番小屋が置かれて、朝夕には開閉されたそうです。

 芭蕉は相楽等窮をたずねて須賀川に1週間ほど滞在します。等窮は宿場の駅長を務める豪商ですが、奥州では知られた俳人であったようです。等窮の問に答えて、芭蕉は、旅の疲れ、風景の美しさ、古人を懐かしむ気持ちなどを語っていますが、ここで聞いた田植歌の素朴さに風流を感じ取っています。

 須賀川の町の入口と言ってもよいようなところに、軒の栗庭園があります。ここは文学遺跡と言うよりは、散策する人の休憩広場という感じです。端座している像がありますが、それは芭蕉を迎えた相楽等窮の像です。ちょっと離れて、芭蕉と曾良の旅姿の像もあります。いずれも石像ですが、乙字ヶ滝で見たのと同様に、でっぷりとした姿です。

 小さな町ですから、少し歩くとすぐに軒の栗・可伸庵跡に着きます。等窮の屋敷の一隅に住んでいたと伝えられる可伸という僧の庵の跡です。石段を上るとささやかな庭があり東屋もあります。『おくのほそ道』の一節を刻んだ石碑があり、「世の人の」の句碑も立っています。栗の木は太い幹ですが、あまり生い茂ってはいません。芭蕉は、栗の木の下にある可伸の庵で、等窮らと歌仙を巻いています。そのときの句、「世の人の見付ぬ花や軒の栗」は、世間の人が目に留めないのに、軒先の栗に花が咲いている、という意味です。栗は真っ白の雄花が房の形に咲いて、独特の香りを放ちます。属目のようにも感じられますが、これは相手に対する挨拶の句であるのでしょう。

 須賀川市芭蕉記念館に立ち寄ります。1階は休憩室を兼ねた展示室になっていますが、私たちが着いてすぐ、団体の人たちがやってきました。係の人による説明が始まりましたが、私たちはそれを聞きつつ、一団が引き上げるのを待ちます。掛け軸、碑の拓本、絵地図、旅の用具などの展示物を見ます。小さな町がこのような記念館を運営しているのは嬉しいことです。

 記念館のすぐ近くに「結の辻」があります。ちょっとした広場なのですが、樹木の剪定作業が行われているそばに芭蕉と曾良の像があります。ここの像もやはり石像ですが、ひとりが立ち、ひとりが座っています。立っている像は荷物を背負っている姿で、これは曾良でしょう。何かに腰掛けている像は膝の上に荷のようなものをかかえている姿で、これは芭蕉でしょう。正面から見ると芭蕉はややほっそりとした顔つきですが、曾良は円やかな力強い顔のように見えます。従者である曾良が弱々しくては話になりませんから、これが望ましい姿なのでしょう。

 等窮の菩提寺である長松院に立ち寄ります。等窮の「あの辺はつく羽山哉炭けぶり」の句碑があります。石の表面に白さがあって、やや読みにくくなっています。寺の裏の方に回ると墓所になっていて、相楽家の墓の群の中に等窮の墓もあります。折しも縁者の方が墓を掃除して花を供えています。

 続いて神炊館神社に向かいます。ここは須賀川の総鎮守で、芭蕉も参詣しています。何人もの句碑が並んでいますが、『曾良随行日記』の一節も碑に刻まれています。子規の「芭蕉忌や吾に派もなく傳もなし」の句碑もあります。

 「宮の辻」は幕末の女流俳人・市原多代女の生家跡に作られた小公園です。碑に刻まれている「めかくしを取ればひゝなの笑顔かな」はほほえましい句です。最後に十念寺を訪れます。この寺に「風流の初やおくの田植うた」の句碑が市原多代女によって建立されたのは1855(安政5年)のことで、植え込みの中にある碑面の文字はしっかり読みとれます。

 「風流の初やおくの田植うた」は、陸奥の田植え歌こそ白河の関を越えて最初に味わう風流であるという意味ですが、雅やかな歌を聞いたときにひなびた地域の風流を感じ取ったというところに芭蕉の心が表現されています。この田植え歌が原初的な歌の姿を漂わせているというようにも取れますし、陸奥の地域の風流の出発点がこのような田植え歌にあるというようにも取れます。どちらにしても、この地域のことをほめている挨拶句としての性格もそなえています。

 

郡山

 

 須賀川に7泊したのち、芭蕉は郡山に向かいます。郡山の宿の印象は良くなかったようです。芭蕉が泊まった宿がどこにあったのかは特定されていないようです。郡山の町が宿場町として認められたのは1824(文政7年)ですから、芭蕉が訪れた当時は宿泊施設などが整っていなかったのでしょう。

 須賀川に宿泊した私たちは、4日目に郡山に移動し、市内を見て回ります。まず、郡山総鎮守の安積国造神社に立ち寄ります。大きな石が囲まれたところに「安積発祥」と書いてあります。江戸時代の木造建築が残っている古い社で、駅から近いのに、静かな一画です。

 善導寺や如宝寺に立ち寄ってから、現在の郡山の発展とつながりの強い麓山公園へ行きます。弁天池に周りの木々が映り、あたりにはツツジの花が広がっています。郡山は明治以降に開拓が進んで、1879(明治12)には猪苗代湖の水を安積の大地に引く安積疎水の事業が始まります。麓山公園にある「安積疎水麓山の飛瀑」は、安積疎水の最終地点に作られた記念碑の建造物です。その公園と続いた場所に、21世紀記念公園と銘打って「麓山の杜」が作られています。

 芭蕉とのつながりは薄いのですが、郡山は文学との縁が深いところです。「こおりやま文学の森」があって、久米正雄記念館と郡山市文学資料館とが設けられています。

 久米正雄の「魚城移るにや寒月の波さざら」という句碑を見てから記念館に入ります。「まあ、上がりたまえ」という言葉が書かれていて、それに迎えられるような気持ちになります。この記念館は1930(昭和5年)鎌倉に建てられた旧久米邸を、2000(平成12)に移築したそうです。

 郡山市文学資料館は、郡山に縁のある文学者たちを紹介しています。「滝口入道」の高山樗牛、「貧しき人々の群」「伸子」「播州平野」の宮本百合子、「厚物咲」の中山義秀、そして石井研堂、鈴木善太郎、諏訪三郎、真船豊、東野辺薫、現在の作家では、郡山市の隣の三春町に在住の玄侑宗久の紹介があります。文学の町としての面目躍如という感じです。文学の背景として、安積開拓と開成館のことも説明しています。久米正雄の母・幸子は、安積開拓の指導者である立岩一郎の娘であり、宮本百合子の祖父は、安積開拓に心血を注いだ中條政恒です。百合子は安積開拓が地域を発展させたこととともに貧しい人々を多く生み出したということに気付いて、それが後の作品モチーフにもなっています。

 開成せせらぎこみちを通って開成山公園に向かいます。安積開拓発祥の地は、全体が郡山市開成館として管理されています。安積開拓入植者住宅(旧小山家)、安積開拓官舎(旧立岩一郎家)、安積開拓入植者住宅(旧坪内家)などの移築復元されたものが並んでいます。緩やかな上り坂の先に「安積開拓発祥の地」の標柱があります。

 近代化産業遺産に指定されている開成館を見て回ります。1階は、安積開拓と古文書、安積開拓と文学、開成館の歴史など、2階は、安積疎水の開削、開成社による開拓など、3階は、行在所の再現と、開拓に縁のある人たちの紹介などがあります。

 最後に県立安積高等学校構内にある安積歴史博物館を訪れます。国の重要文化財や近代化産業遺産に指定されている旧福島県尋常中学校本館です。建物の前に安積健児の像があって、旧制中学校の剛健さを表しています。建物は1889(明治22)に建てられた木造の洋風建築です。玄関の上にバルコニーがあります。中には復元教室や講堂があり、さまざまな展示もされていますが、建物は現役で、生徒たちともすれ違います。ぎしぎしと鳴る階段や手すりは懐かしさ満点です。

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2018年3月20日 (火)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(3)

  第2回 日光から殺生石まで

 

 

 2回目の旅は5月8日から11日までです。この年の5月8日は、旧暦では4月2日にあたります。今回の旅は日光から始めますが、芭蕉が日光を訪れた時期とほぼ同じ頃です。今回は栃木県を歩きます。

 

日光山の麓

 

 「卅日、日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう『我名を佛五左衛門と云。万、正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も、打解て休み給へ。』と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。」

 私たちはそれぞれ、日光道中をすべて歩いております。それもあって、今回の旅の初日は日光へ直行して、そこから歩き始めます。田植えを終えたばかりの水田が鏡のように広がっています。空の色を映して青い水の田圃です。

 日光道中の終着点の宿場名になっている鉢石に寄ります。既に訪れたことがあるところです。岩盤が地中から顔を出して、鉢を伏せたような形であるので、この名が付いています。勝道上人の日光開山伝説と結びついて、古くから親しまれている石ですが、有り難みが格別ある石のようにも見えません。苔むして白黒まだらの感じの石です。

 『おくのほそ道』では五左衛門のことを「佛」という言葉まで付けて紹介しています。抜け目のない人は当時にもいたはずですが 芭蕉にとってそんな人は苦手だったのでしょう。「無智無分別」は批判の言葉でなく、世俗的な利害や得失を超越しているという賛辞です。正直一徹で朴訥な宿の主人の人柄に感じ入っています。ここは芭蕉の人間観が現れ出た一節のように思います。日光は東照宮に参拝することが大きな目的であったはずですが、そのことよりも前に五左衛門のことを述べています。人に出会う旅という『おくのほそ道』の方向性を端的に示しているところです。

 

日光

 

 「卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖、穏なり。猶、憚多くて、筆をさし置ぬ。

   あらたふと青葉若葉の日の光  」

 御山とは広く言えば日光の黒髪山(男体山)など山々のことですが、ここは「詣拝」という言葉を使っていますから日光東照宮を指しています。二荒(ふたら)山は、この山を開基した勝道上人が補陀洛(ふだらく)山と称したことに由来すると言われます。空海が開基したわけでなく、二荒(にこう)を日光(にこう、にっこう)に改めたという確証もないようです。けれども、文章の流れとしては、空海が日光と改めたのは、徳川家の廟所として光り輝いている今日を予測されたのであろうかと考えて、徳川家の威光が天下に行きわたっていることを芭蕉は讃えているのです。

 芭蕉は「墨筆のたぐひ」を携行していますが、俳句ができると曾良に書き留めさせたのでしょうか。「あらたふと」の句は、曾良の「俳諧書留」では、「あなたふと木の下暗も日の光」の句形になっています。室の八嶋から日光に向かう途中吟であったものを、文章の流れに応じて、この位置に変えたのかもしれません。

 あまりにもよく知られた句ですが、文章の流れの中で、この位置に置くと、この句は日光の神域で詠まれたことになり、浄化されたところの青葉若葉に降り注ぐ日の光を表現していることになります。「あらたふと」というのは、東照宮に祀られている徳川家康についてであり、天下泰平の世の中に対してでもあるのでしょう。謙虚に手を合わせている芭蕉の姿が感じられます。

 大谷川に架かる日光橋を渡ります。江戸時代の神橋は日光に参詣する将軍と、山々で修行をする修験者だけに通行が許されており、一般の人は仮橋(日光橋の前身)を通行しました。30メートル弱の橋は重要文化財に指定されていて、拝観料を納めれば通れますが、向こう岸に出ることはできません。

 日光橋を渡りきると、太郎杉がそびえています。その根元を国道120号が通っていますが、道路が狭くなって渋滞が起きています。近くを歩くのも危険を感じます。太郎杉など老杉15本を伐採して道路を広げることを国や県が計画し、それに反対する東照宮が提訴するということが全国的な話題になったことがありました。1964(昭和39)から9年間にもわたる訴訟は、頭に強く残っています。結局は東照宮の考えが通って、環境保護の先駆的な例になりました。

 太郎杉を行き過ぎてから、長坂をゆっくり上って日光の二社一寺へ近づいていきます。坂を上りきると、錫杖を手にした勝道上人の像が建っています。像を仰ぎ見ながら、日光山輪王寺の三仏堂に近づきますが、素屋根に覆われています。大修理が行われているのです。

 重要文化財である御仮殿に行きます。ご本社を修理する際にご祭神をお移ししてお祀りする仮の御殿であるという説明板が立っています。現在の社殿は1639(寛永16)の建立だそうですから、もし芭蕉がこれを目にしているのなら、同じものを私たちも見ていることになります。

 五重塔を仰ぎ見てから、1636(寛永13)に家康21回忌に合わせて大造替がなされた東照宮を拝観します。いろんなものが次々に現れます。校倉造りを模した三神庫は、渡御祭の奉仕者の装束が1200人分収められています。境内で唯一の素木造りである神厩舎があります。長押の上の三猿は「見ざる、言わざる、聞かざる」です。欄間に飾られた8つの猿の彫刻は、猿が馬の健康安全を守るという信仰に基づいているそうですが、あちらこちらの塗りが落ちたりしています。

 屋根柱が花崗岩で作られている唐破風の手水舎があります。北側には、一切経を収めた経蔵があって、中には輪蔵という八角形の回転式書架があるそうです。櫓造りになつている鐘楼の前を通ります。

 いつまでも見飽きないところから日暮門とも言われる陽明門は、前回の修理から40年が経過して外装の痛みが著しいという理由で、2013(平成25)から2019(平成31)まで保存修理工事が行われています。漆や彩色の塗り直し、錺金具の表面仕上げを再生することなども行われています。東照宮の創建当時の姿は想像するしかありません。神楽殿を通って坂下門に向かいます。頭上に飛弾の左甚五郎作の眠り猫があります。牡丹の花が咲いている下で、日の光を浴びて猫がうたた寝をしています。眠り猫や三猿などのお色直しが、およそ60年ぶりに行われるそうです。彩色がはげて痛みが目立っているので、顔料を塗り直したり金箔を施したりするのです。一枚石でできている長い石段を上っていくと御宝蔵や狛犬があり、唐銅で鋳造した鋳抜門があります。

 最も高い位置にある奥宮御宝塔は、柩を収めた徳川家康の墓所です。九段の基盤の上に高さ5メートルの塔があります。ぐるりと回って下る道に、樹齢約600年の叶杉があり、幹がほこらになつているところに注連縄が張られています。足早に下ってきて、薬師堂で、鳴き龍の説明を聞き、その音を聞きます。

 続いて二荒山神社へ行き、次いで、徳川家光公の霊廟である大猷院へ足を向けます。

 芭蕉は「猶、憚多くて、筆をさし置ぬ。」と書いています。家康に対する思いが深いのです。私はそのことよりも、どれほどの技術をそなえた人たちが、どれほどの人数が集まって、どれほどの年月をかけて造営したのが東照宮なのかということを思います。気の遠くなるような話だと思います。

 

 「黒髪山は霞かゝりて雪いまだ白し。

   剃捨て黒髪山に衣更    曾良

 曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁、髪を剃て墨染にさまをかへ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。衣更の二字力ありてきこゆ。」

 ここで曾良のことが詳しく紹介されます。芭蕉は、気心が合わないなら長旅を共に続けようとは思わなかったでしょうが、曾良はどんな人柄だったのでしょうか。曾良は上諏訪の出身ですが、江戸では芭蕉庵と軒を並べるようにすぐ近くに住んでいたようです。『おくのほそ道』の旅の苦しみを助けて慰めようと行動を共にしたのです。芭蕉は曾良のことを批判的に書いたりしていませんが、どこかで何かのヒントを探すことをしてみたいものだと思います。

 曾良は「剃捨て」の句を詠んでいます。この衣更には、春から夏への衣更えとともに、俗衣を僧衣に替えた感慨が込められています。黒髪山の地名に、曾良が剃り捨てた黒髪の意味も掛けているのは言うまでもありません。「衣更の二字力ありてきこゆ」という文末が強く響いて、余韻がただよいます。

 折はちょうど4月1日。訪れた時のことを「黒髪山は霞かゝりて」と書いているのはともかくとして、「雪いまだ白し」は今年の旧暦4月初めの実景ではありません。「黒髪」との対比で「雪白し」と表現しただけなのでしょうか。

 

裏見の滝、含満が淵

 

 「廿余丁、山を登って滝有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也。

   暫時は滝に籠るや夏の初  」

 含満が淵に近い位置にあるという小さな宿で一夜を過ごします。川の水音が聞こえ続け、窓を開けるとその音が大きくなる宿です。夜のニュースは、那須岳の開山祭のことを伝えています。今回の旅の最後は那須の殺生石です。

 2日目の朝、裏見の滝へ向かいます。大谷川の細い流れを見ながら、国道120号に出ます。そして中禅寺湖の方向に向かって歩きます。

 日光奉行所跡、青龍神社などは、少し立ち止まる程度で先を急ぎます。田母沢御用邸記念公園の前を通ります。当時の皇太子(後の大正天皇)の静養地として1899(明治32)に造営されています。殉死の墓や八幡神社があり、田母沢川を渡ります。寂光の滝の入口があり、しばらく行くと道の右側に夜泣き石があります。

 「裏見の滝入口」というバス停があります。裏見の滝まで2.5㎞という表示が出ています。芭蕉が書いている「廿余丁、山を登って」というのは、どこからの経路であるのかはわかりませんが、このあたり、安良沢というところからの距離もちょうどそれぐらいです。バス停を行き過ぎたところから右に折れて、緩やかな坂道にかかります。道路は車が通れるように整備されていますが、「熊出没注意」という看板にどきりとします。右手にある安良沢浄水場の大きなタンクを見送ってしばらく行くと、滝まであと1㎞の表示があります。このあたりでは道幅が狭まって、左右の木々が迫ってきます。右側は崖が立ち上がり、左側は崖が下へ落ちています。新緑の中をぜいたくに歩きます。道の行く手がなくなったところに駐車場があり、滝へはここから左へ分け入っていきます。

 はじめは木を櫛のようにして段を刻んだ道を上ります。折り返したり、ぐるりと回ったりしながら上ります。石を積み上げたケルンがあります。しだいに水音が大きくなり、滝が近いことを思わせます。左手の木々の間からは細い滝が見えます。

 ぱっと開けた場所に出ると、正面に裏見の滝が見えます。芭蕉は「岩洞の頂より飛流して」と書いています。大きな岩と岩とに挟まれたところから流れ落ちていますが、頂ではなく、山はもっと上まで続いています。けれども「百尺千岩の碧潭に落たり」が誇張とは感じられないほど貫禄がそなわっています。ここは大谷川の支流である荒沢川の滝です。

 今は「岩窟に身をひそめ」て滝に近づくことはできないようになっています。デッキのよう作られているところが滝に近づく最終地点です。そこから見ると、滝の左側には、滝に向かって少しずつ上がっていく道筋は見えますが、そこを上って「滝の裏よりみ」ることはできません。

 飛沫を見ながら、しばらく過ごすと「暫時は滝に籠るや夏の初」の思いに近づいたように感じます。夏()とは夏行とか夏安居とか言うこともありますが、僧侶が陰暦4月15日から7月15日までの90日間、一室に籠もって読経や写経などをして修行することです。滝のほとりの清浄な空気の中にいると、僧と同じように自分も夏籠もりをここでしているように思われるというのです。実際に滝の裏に籠もり続けたり滝の水に打たれたわけではありません。

 「暫時は」というところに旅人としての心持ちが現れていますが、芭蕉は『おくのほそ道』の旅そのものを僧の修行のように見ているのでしょう。もっとも、芭蕉が裏見の滝を訪れたのは4月初めですから、夏行が始まる時期より半月間も早かったのです。

 裏見の滝からの帰路は、含満が淵へ寄ります。「裏見の滝入口」というバス停のところで国道120号を横断して、集落の中へ分け入ります。安良沢小学校の校庭に「しばらくは」の句碑があるので立ち寄ります。小杉放菴の書で1956(昭和31)の建立です。

 しばらく行くと、休憩所があって「歩多留庵(ほたるあん)」と名付けられています。憾満の路というウオーキングルートの案内板があります。そこから大日堂跡に向かうと、大谷川が目の前に広がってきます。日光山輪王寺の境内地があって石仏が並んでいます。そして、かつて大日如来を祀ったお堂があったという大日堂跡園地には、芭蕉の「あらたふと」の句碑があります。大洪水で流失したので1909(明治42)に再建したのだそうです。小さな句碑ですが、文字は読みづらくなっています。

 目の前にどっしりした吊り橋が見えてきます。大日橋です。河原から上っていって橋を渡って対岸に向かいます。人気のない橋で、下には大谷川の渓谷が見えます。

 細い道をたどっていくと憾満ヶ淵に出ます。黒髪山(男体山)から噴出した溶岩によってできた奇勝で、不動明王が現れる霊地だと言われます。不動明王の真言を唱えるように川の流れが響くので、真言最後の句「カンマン」と名付けられたと伝えられています。含満という文字遣いもあります。私の耳にそのように聞こえないのは信仰心の薄さによるのでしょう。

 渓谷に沿った道に並び地蔵があります。明治の洪水に遭って、もとは100余体あったものが、今はおよそ70体ほどになっています。数を数えるとその都度違うから化け地蔵とも呼ばれています。一体一体に真新しい真っ赤な帽子とよだれ掛けが付けられています。護摩壇の四阿造りの霊庇閣のあたりから眺めると、深い水色の急流に洗われた、艶やかな岩が川全体に広がり、岩にぶつかる急流が白いしぶきをあげています。木々の葉の黄緑色が鮮やかに川に迫っています。

 慈雲寺、大正天皇御製の歌碑、西町太子堂などをちらりと見ながら、含満大谷橋を渡って、宿に戻ります。荷物を受け取って、神橋を経て、早足で駅へ急ぎます。

 

黒羽

 

 「那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遙に一村を見かけて行に、雨降、日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行く。そこに野飼の馬あり。草刈をのこになげきよれば、野夫といへども、さすがに情しらぬには非ず。『いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うひうひ敷旅人の道ふみたがへん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ』と、かし侍ぬ。ちひさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、

   かさねとは八重撫子の名成べし  曾良

 頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。」

 私たちは日光から黒羽に直行します。芭蕉は、黒羽に向かって那須野の「野越」をしています。集落は「遙に一村」があるという心細い状況であったようです。「農夫の家に一夜をかり」て、翌日も野中を歩き続けています。

 「情しらぬには非」ぬ男から芭蕉は馬を借りますが、曾良は歩いたことでしょう。日光では五左衛門という正直者にあって感激したのですが、ここでも素朴な男の親切にすがる話になっています。道をよく知っている馬を貸して、途中で追い返せというのはなかなかの知恵ですが、とっさの問答ですからユーモラスに聞こえます。

 「かさねとは八重撫子の名成べし」という曾良の句は、可憐な幼女のことを詠んでいます。撫子は夏から秋に咲いて、秋の七草に数えられますが、俳諧では夏の植物です。子どもや女性を撫子に喩えることは古くから行われていたようです。「小姫」の名を聞けば「かさね」だと言います。着物の襲(かさね)というイメージも伴いますが、花弁の重なった八重咲きということを重んじた表現です。撫子には八重咲きのものはないと言われますが、ここは想像をふくらませたということでしょう。

 私たちは西那須野駅からバスで黒羽に向かいますが、この駅の大きさに驚きます。西那須野駅のひとつ先には那須塩原駅(新幹線との併設駅)があり、さらにもう一つ先は黒磯駅(普通電車の始発・終着の拠点駅)です。西那須野駅は小さな駅に過ぎないはずなのですが、風格があります。ここからは、かつては東野鉄道が黒羽に通じていたのです。

 黒羽の町の中心部まで、バスで30分余りです。黒羽出張所というバス停で降りて、国道294号に出ます。北に向かって少し行くと明王寺です。室町時代後期の創建で、那須三十三所観音霊場第一番札所になっています。芭蕉の「今日も又朝日を拝む石の上」の碑が建っています。黒羽で14日間の滞在をした間に歌仙の興行があって、そのうちの一句を選んで句碑にしたという説明があります。

 右手に川が見え隠れするようになって、次の信号で右折すると高岩大橋になります。曲線を描いていく長い橋です。ゆったりと広い河原の那珂川を渡ります。渡り終えると南に向かって引き返す形になっています。丘の上に芭蕉公園などがあるはずですが、上り口がありません。だいぶ歩いて黒羽小学校の前に出ます。武家屋敷の侍門が小学校に移築されています。

 黒羽小学校の前から、北に向かう大宿街道という道を歩きます。大雄寺を左に見て少し行くと、「芭蕉の館」への案内板が見えてきます。「行春や鳥啼き魚の目は泪」の句碑があって、街道を離れて細い道を上っていくと芭蕉の里に着きます。「山も庭も動き入るや夏座敷」の句碑があります。庭に面して風通しのよい夏向きの座敷にから眺めると、新緑の山が動いて庭に入ってくるように感じられて快いという趣を詠んでいます。浄法寺邸の庭園の美しさを詠んだものでしょう。

 句碑からすぐのところに旧浄法寺邸があります。そして、細い道をたどっていくと、「芭蕉の広場」に出ます。「鶴鳴や其声に芭蕉やれぬべし」の句碑があります。鶴と芭蕉を描いた絵を見ていると、この絵の鶴は鳴いているようで、その鋭い声によって風に弱い芭蕉の葉は破れてしまうだろうという趣向です。黒羽滞在中の作ですが、芭蕉は秋の季語です。絵を見ての即興の句だったのでしょう。

 入母屋造りの「芭蕉の館」は閉館時刻が1630分で、その時刻をちょっと過ぎています。建物の前に、芭蕉と曾良が旅をしている像があります。芭蕉が馬に乗り、その右側を曾良が歩いている姿です。芭蕉は手綱を取って視線はやや下向きですが、曾良は少し腰を屈めた姿で、右手で前方の何かを指さしています。曾良はちょっと疲れているのではあるまいかと思われますが、曾良の「かさねとは」の句ができたのは、こんな馬上と徒歩の旅の途中であったのでしょう。

 公園から下ってくると、『おくのほそ道』の一節を刻んだ碑があります。少し行くと、黒羽藩校・作新館跡の碑があります。「田や麦や中にも夏のほととぎす」の芭蕉句碑も建っています。青々とした早苗、そして黄金色の麦の穂という夏らしい風景の中でも、ほととぎすの鳴く声はとりわけ素晴らしいという意味です。

 小学校の前を通って下ってくると、那珂川歩道橋があります。那珂川は、高岩大橋のあたりとは違った景色ですが、河原が広がっています。

 橋を渡ると、黒羽の町の中心部に近づいていきます。常念寺に寄ります。門前に芭蕉の「野を横に馬牽むけよほととぎす」の句碑があります。これは、「奥の細道」の殺生石のところで出てくる句ですが、黒羽の館代・浄法寺によって馬で送ってもらったときの、馬の口付きの男とのやりとりから生まれた句です。

 

 「黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひかけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、一日郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。與市、扇の的を射し時、別しては我国氏神正八まんとちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感応殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。

 修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。

   夏山に足駄を拝む首途哉  」

 黒羽での芭蕉の逗留先は、江戸において芭蕉の門人となっていた黒羽藩城代家老浄法寺高勝(桃雪)と、その弟である鹿子畑豊明(翠桃)です。翠桃の「自の家」は、黒羽の西の方にある余瀬の光明寺の近くであったようですが、今は田圃になっているそうです。「犬追物の跡」の位置も現在でははっきりしていません。「玉藻の前の古墳」として言い伝えられているのは2箇所あると言いますが、「光明寺」は明治初年に廃寺になっています。

 芭蕉たちが一日に歩く距離はかなりのものです。けれども芭蕉の旅は拠点となるところを想定しているようで、そこではゆっくり滞在して疲れを癒しています。そして、拠点と拠点の間は忙しく移動しています。江戸を出発して最初にゆっくり逗留したところが黒羽です。13泊もしています。

 その長い滞在の間に、芭蕉はあちらこちらへ足を延ばしています。『おくのほそ道』の旅を追体験する人は大勢いると思いますが、芭蕉と滞在日数を同じにして旅を続ける人は、おそらく一人もいないでしょう。私たちも黒羽に泊まるのは一夜だけです。

 芭蕉が訪ねた修験光明寺ですが、今はありません。行者堂も残っていませんが、修験道の開祖である役行者の像が残されていたのが行者堂だったのでしょう。光明寺跡には「夏山に」の句碑があるようですが、限られた時間の中でそこまで歩いて句碑を確かめることは割愛します。

 「夏山に」の句は、夏山の中でという意味と、夏山に向かってという意味と、二様に解釈できますが、後者を採ります。これから越えて行くはずの奥羽の山々を仰ぎ見て、鬱蒼と茂った緑の濃い山々を踏み越えていこうとする心持ちが表現された句です。足駄とは、行者の高足駄(高下駄)ですが、行者の健脚にあやかり、そのゆかりの足駄を拝んでいるのです。

 

雲岸寺

 

 「当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。

   竪横の五尺にたらぬ草の庵

     むすぶもくやし雨なかりせば

と松の炭して、岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと、雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さわぎて、おぼえず、彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遙に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天、今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。

 さて、かの跡はいづくのほどにやと後の山によぢのぼれば、石上の小菴、岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。

   木啄も庵はやぶらず夏木立

と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。」

 芭蕉は、江戸俳壇に勢力を確立した頃に深川の草庵に移り、臨川寺の佛頂禅師と深交を結んでいます。私たちはこの旅の初めに臨川寺に立ち寄りました。その佛頂和尚が籠もった寺を芭蕉は訪れます。雲岸寺と書いていますが、現在の名は雲巌寺です。

 和尚の「竪横の」の歌は、自分は竪横五尺にも満たない小さな庵に住んでいるが、一定の場所に住むことをしない僧の身としては、そんな小庵も要らないものであって、雨さえ降らなかったら作りたくもなかったのに、という意味です。五尺というのは一丈の半分で、竪横ともに方丈の半分ですが、庵を結んだのはやむを得ないことであって、悔しいことなのです。

 雲岸寺へは、「人々すゝんで共にいざなひ…」行ったとありますが、なかなか賑やかなことです。

 私たちは3日目の朝、バスで雲巖寺に向かいます。バスの本数が少ないので帰路は歩くことにしますが、雲巖寺と黒羽中心部の距離は12㎞ほどです。

 雲巌寺は写真で見たとおりの景色です。真っ赤な欄干の反り橋が架かり、下は武茂川の流れです。大きな杉の木があたりを圧しています。両側に丸みを帯びて剪定された植え込みの中を、どっしりとした石段が上に向かっています。上りきると山門をくぐり、仏殿、鐘楼、禅堂、方丈、その他の堂宇が目に入ります。

 『おくのほそ道』の文章を引用した大きな説明板があります。「木啄も」の句碑は古くなって、黒い碑面に白い斑点がいっぱいあって、文字が読みにくくなっています。手入れが行き届いた境内ですが、人の姿がなく、静まっています。庫裏にも人影はありません。

 参拝を終えて、黒羽まで歩いて引き返します。錦雲橋で武茂川を渡り、須賀川小学校の横で、心橋を渡ります。田植えを終えた田圃が広がる県道13号を歩きます。途中の道の分岐点に「おくのほそ道」という石標があって、ここから右手へハイキングコースが設定されているようです。

 海抜343メートルの唐松峠を越えると下り坂になり、いつのまにか国道461号になります。あちこちで鯉のぼりが泳いでいます。国道の47㎞ポストから52㎞ポストまでのあたりは、1㎞につき15分のペースで歩いていることを確認しながら、那珂橋を渡って黒羽の町に戻ります。雲巖寺から3時間余り、旅館に立ち寄って、預けた荷物を受け取ります。

 『おくのほそ道』は「八幡宮」のことに筆を割いておりますから、私たちも八幡宮に寄ります。那須は中世から近世にかけて那須氏の拠点が置かれたところで、那須與一はここで生まれ成長したと伝わっています。八幡宮すなわち那須神社は、與一が社殿を再建し、自分の太刀を奉納しています。参道は森閑としていて、道の駅の辺りの明るさとは異なった気配が立ちこめます。

 道の駅の一画にある那須与一伝承館に入ると、「扇の的劇場」というところがあって、ロボットと映像で與一の活躍を伝えています。1185(元暦2年)の屋島で、源義経に命じられた与一が海中に馬を乗り入れて、扇の的を射抜くという物語が語られます。あまりにも有名な場面ですが、誓った神社がこの八幡神社というわけで、芭蕉は「感応殊しきりに覚えらる」と書いています。芭蕉は、歌枕のことはもちろんですが、故事にもすぐに反応します。いや、むしろ反省すべきは現代人の持つ冷ややかさの方であるのかもしれません。

 

殺生石

 

 「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のをのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、

   野を横に馬牽むけよほとゝぎす

 殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど、かさなり死す。」

 長い間の黒羽逗留に区切りをつけて、芭蕉は殺生石に向かいます。黒羽から殺生石までは6里ほどの距離です。殺生石へ寄り道しようというのは、よほど興味を引かれたからなのか、黒羽の人たちに行くことを強く勧められたからなのか、どちらなのでしょう。

 黒羽に向かうときにも芭蕉は馬の背に揺られ、曾良が「かさねとは」の句を作っています。そして、黒羽を離れるときも芭蕉は馬に乗り、今度は芭蕉の「野を横に」の句です。黒羽の前後の那須野で、馬に関連づけて、芭蕉と曾良が句を詠み合っているのです。「馬牽むけよ」という言葉は、いくさに出立するような勇ましさがにじんでいるという批判もありますが、一種の誇張表現でしょう。馬の進んでいるあたりを、ほととぎすが横切ります。野原の真ん中ではなく、近くに丘があるような場所なのでしょう。ほととぎすの声の方向に馬の轡を引き向けてくれという言い方になっていますが、実際には、不意の鳴き声に対して咄嗟にそのような姿勢になったということであるのかもしれません。実際には、ほととぎすが鳴いていなくてもよいでしょう。馬の口を取る男の風流に感じ入った句であると考えてよいでしょう。

 芭蕉の関心は、俳諧との接点などがないような男の心の殊勝さの方に向いているのでしょうか、目的地である殺生石については、その様子を淡々と述べています。

 4日目。私たちは黒磯駅前からバスで殺生石に向かいます。晩翠橋を過ぎてからは赤松林の中を進んで高原に分け入っていきます。お菓子工場や小さな美術館などが目に入ります。那須湯本のバス停で降りますが、バスは那須ロープウエイ行きで、茶臼岳の方へ上っていきます。

 目の前にある鳥居をくぐって那須温泉神社に向かいます。那須温泉開湯1385年と書かれた幟が立っています。境内は平らなところと石段とを繰り返して本殿に近づいていきます。那須與一が奉納した鳥居があります。天皇や皇族のお手植えの松とか、天皇御製の歌碑などもあります。本殿は高いところにありますから、右手の下に殺生石のあるあたりが見えます。はじめてその地域を見下ろしますが、左右の緑の山の間に、帯状の灰色の世界が延びています。

 神社の境内に、芭蕉の「湯をむすぶ誓ひも同じ石清水」の句碑があります。句碑全体が古さびていて、苔に覆われんばかりです。那須温泉神社は7世紀の創建と伝えられ、八幡宮も祀っています。芭蕉の句は、この神社は京都の石清水八幡宮と同じように八幡宮を祀るのであるから、すくった湯で手を浄めるのも、清水をすくうのと同じことだ、という意味です。石清水も那須八幡もどちらも願いを聞き届けてくれるだろうという意味が込められています。

 神社から下ってきて、さらに下って湯川の流れに近づきます。温泉水を沈澱させて乾燥させて硫黄を取り出すという「湯の素採取場」があって、強い匂いがします。湯治宿の並ぶ「鹿の湯」を通ります。「御所の湯源泉」には、硫化水素が発生しているので危険だという看板があります。川の近くには「湯本温泉源」という石柱も立っています。少しずつ上っていくと殺生石の全体が見えてきます。

 殺生石は、那須岳から続く丘が温泉街に迫る斜面にあります。亜硫酸ガスの噴出は続いて硫黄のにおいはしますが、昆虫が重なり死んでいるという姿は見えません。芭蕉の頃とは様子が違うのです。

 ここには「九尾の狐」の伝説があります。中国や印度で美女に化けて悪行を重ねて世を乱していた九尾の狐が日本にやってきて、「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え国を滅ぼそうとしますが、その時の陰陽師に正体を見破られ、那須野に逃げ込んで討ち取られます。狐は大きな毒石となって怨念をはらそうとしたのですが、それが殺生石であるという言い伝えです。芭蕉は古人にまつわる事跡には大いに関心を示しますが 伝説などには無頓着であるのか、九尾の狐のことは書いていません。

 行き止まりに、太い注連縄が張られた大きな石があって、それが殺生石と呼ばれるものです。斜面にたくさんの石がありますが、そのうちの最も大きな石がここでの中心の存在です。黒灰色で、細いひびが入っている石です。殺生石の右手にある草むらに上ったりしてみますが、全体の規模からして、ちょっと高い位置に移っても風景が変わったりはしません。

 近くの草むらに、芭蕉の「石の香や夏草赤く露あつし」の句碑が建っています。この句は『曾良随行日記』に書き留められています。石の毒気のことは本文に書いていますが、この句を『おくのほそ道』に書き加えることはしていません。この句は、石から漂ってくる有毒ガスのにおいが鼻を突き、その石のあたりの夏草は緑色でなく赤く焼けて、その葉に置く冷たい露までが熱いもののように感じられる、と言っているのです。当時は現在と違って、強い臭いや刺激があったのでしょう。故意に異様さを演出しているのではなく、これがあたり一帯の自然な姿であったのかもしれません。

 那須温泉神社の前に戻ってきて、「こんばいろの湯」という足湯でひとときを過ごします。熱い湯で、常に水を加え続けていなければならない温度ですが、ゆったりとした時間を過ごせます。

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2018年3月19日 (月)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(2)

  第1回 深川から鹿沼まで

 

 私たちの『おくのほそ道』の旅の始まりは2016(平成18)4月13日から16日までです。これから3泊4日を繰り返します。芭蕉は旧暦3月27日に江戸を出立しました。暦によると2016年4月13日は旧暦の3月7日です。桜の季節は過ぎましたが、「弥生の上の七日」で、芭蕉の出立日より20日ほど早いのです。今回は東京都・埼玉県・栃木県を歩きます。

 

旅立ち

 

 「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光をさまれるものから、不二の峯幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千ぢゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく。

   行春や鳥啼魚の目は泪 

 是を矢立の初として行道なほすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。」

 私たちの旅の初日は、まず芭蕉の高弟の杉風の別墅である採荼庵跡に立ち寄ります。復元された庵の濡れ縁に腰を下ろした芭蕉像は旅姿ですが、これからの長途行脚で「呉天に白髪の恨を重ぬ」というような悲壮感は感じません。ちょいと一休みというような風情です。芭蕉像の向かって左側は、一人が座れるだけの広さがあります。真ん中にどーんと座るのではなく片方に寄っています。この像を設けた人が配慮しているのですが、横に並んで座ると、背丈は同じくらいで、自分が曾良になったような気分にもなります。左手に笠を持ち、右手で長い竹の杖を突いて座っている姿です。

 仙台堀川に沿って、「水辺の散歩道」と名付けられた細道を歩きます。『おくのほそ道』の順に17句が並んでいます。句の数が多くて石碑は無理だったのでしょうが、板に書かれているのはちょっと寂しい気持ちがします。

 句の板が終わるところで右に折れて仙台堀川を渡り、清澄庭園の前を通ります。江戸時代の国学者・村田春海の墓のある本誓寺の前を過ぎ、現代的な建築の臨川寺に着きます。

 臨川寺は芭蕉に縁のある寺です。杉風・其角・嵐雪らの優秀な門弟を擁して江戸俳壇に勢力を確立した芭蕉は、1680(延宝8年)冬に、深川の草庵に移ります。この頃に臨川寺の佛頂禅師と深交を結び、たびたび参禅に訪れています。境内には墨直しの碑など、ゆかりの石碑が4基あります。佛頂禅師との問答の中から得たのが桃青という俳号ですが、のちに芭蕉に改めています。

 深川稲荷神社に寄ってから、相撲部屋が並んで横綱通りと言われているところを通ります。萬年橋で小名木川を渡ります。1930(昭和5年)に鋼橋に架け替えられる前は木橋で、江戸時代は富士山の眺めがよいところとして、北斎や広重も描いています。「不二の峯幽にみえて」と、芭蕉も富士山との別れを惜しんでいます。

 芭蕉庵史跡である芭蕉稲荷神社に寄ります。草庵は1680(延宝8年)に、門人の杉山杉風から譲られた生け簀の番小屋のようなものに手を加え、翌年春に門人の李下から芭蕉を贈られ、それが繁ったので芭蕉庵と称したと言われます。その後、火事で焼失したので再建するなどという経緯をたどります。ここは、芭蕉の没後は武家屋敷となって消滅したのですが、大正時代に稲荷を祀って再興したのです。境内には「史蹟 芭蕉庵跡」「奥の細道旅立三百年祈念」などの碑が立っています。「ふる池や」などの句碑もあります。

 神社の近くに芭蕉庵史跡展望公園があります。小名木川が隅田川に合流する地点です。石段を上ると、隅田川の展望が開けます。青空に雲が浮かんで、川面が広がります。

 ここにも芭蕉像があります。座って、腹の前で両手を組んで、自分と対話しているように感じます。横から見ると首から上がぐんと前の方に出ていて、じっと隅田川の川面を見つめているような風情もあります。

 隅田川の堤防へ下りて、その内側を歩きます。川の東岸のテラスは、大川端芭蕉句選として「花の雲鐘は上野か浅草歟」「芭蕉葉を柱にかけん庵の月」など9句が金属プレートに刻まれています。気持ちのよいそぞろ歩きですが、短い区間ですから、あっと言う間に終わってしまいます。

 堤防に上って、少し引き返します。江東区芭蕉記念館に裏側入口から入ります。芭蕉研究家・真鍋犠十の収集物を中心にして、芭蕉や俳文関係の資料が多く集められています。芭蕉稲荷神社の地が狭いのでここに記念館を作ったという経緯があるようです。庭の築山には芭蕉庵の小さな復元模型があり、その中に芭蕉像が見え、近くに「ふる池や」の句碑、そして記念館の建物入口には「草の戸も」の句碑があります。記念館は東の道路側が表口ですが、道端に大きな芭蕉の木が植えられています。記念館の庭園がこぢんまりとしているのに比べて、芭蕉の木は見上げる大きさです。

 続いて要津寺に立ち寄ります。境内に芭蕉翁俤塚があり、ここにも「ふる池や」の句碑があります。

 

千住

 

 芭蕉は隅田川を舟で千住へ向かっています。せっかくの長旅なのだから、初めから歩いて旅立ちをしてもよいのではないかと思います。交通路として舟に乗るのが当然というようには思えないのですが、前夜の集いの余韻を小さな舟に閉じこめて深川を後にしたのかもしれません。

 南千住駅前には芭蕉像が立っています。2015(平成27)3月にできた、新しいものです。矢立初めの句を詠み、したためようとする姿のようです。体はやや前のめりで、遙かな陸奥路を見つめている眼差しのようにも見えます。

 南千住駅からほど近いところに素盞雄神社があります。795(延暦14)の創建と伝えられる古社です。厳密に言うと、芭蕉はこの近くを舟に乗って通っているはずですが、千住というのは広い地域ですから、1820(文政3年)に境内に旅立ちの句碑が建てられました。江戸時代の文人に因む碑などもあります。神社の境内の片隅に富士塚があります。江戸時代は富士山信仰が盛んで、富士講という集まりがあり、江戸にいても富士に登れるようにしたのが富士塚です。富士塚は土を富士山の形に盛り上げて、その表面に熔岩の塊を置いて造り上げた人工の小山で、頂上に石祠があります。私たちは、「不二の峯幽にみえて」という記述に沿えませんので、この富士塚を眺め上げて、江戸に別れを告げることにします。

 徳川家康が江戸に入って隅田川に初めて架けたという千住大橋を渡ります。1594(文禄3年)の架橋です。現在の橋は1927(昭和2年)に架けられた鋼橋ですが、それでも90年近くを経ています。千住宿が日光道中・奥州道中の初宿と定められたのは1625(寛永2年)です。かつては橋の上に綱を渡して両側の人たちが引き合うという神事があったと言います。

 旅立って最初の句は、春が終わろうとしているのを惜しむ気持ちを、鳥や魚の心にまで移入して詠んでいます。鳥は啼いてもおかしくはありませんし、魚の目は潤んでいるように見えるのが自然でしょう。芭蕉は自分の思いと等しいもののように鳥や魚を見つめています。

 千住大橋を渡り終えたところが大橋公園になっていて、「奥の細道 矢立初めの地」という大きな碑が立っています。『おくのほそ道』の旅立ちの部分の原文を刻んだ碑もあります。

 堤防の内側に下りることができて、千住大橋を下から眺めたり、このあたりを描いた浮世絵、全国の川の番付、橋の番付などを見て楽しむことができるようになっています。南千住は荒川区ですが、隅田川を越えた北千住は足立区です。私たちは京成電鉄千住大橋駅の手前で右に折れて、旧日光道中の街道に入ります。

 足立市場のそばに、奥の細道プチテラスがあって、矢立初芭蕉像が建っています。筆を持つ姿の石の像です。笠を背にして、太く綴じた横長の冊子を胸の前で広げて、筆を走らせている姿です。目や口もとには笑みがあるように感じられます。また、千住宿歴史プチテラスには「鮎の子のしら魚送る別哉」の芭蕉句碑が建っています。鮎の子が白魚を追うようにして川を遡るのと同じように、私もみんなに見送ってもらって、ここでいよいよ別れることだ、という意味です。

 私たちは北千住に泊まって、2日目の朝は、江戸四宿のひとつである千住の町を一巡りします。年中無休のラジオ体操の会場にもなっている千住本氷川神社に参ります。かんかん地蔵の安養院には「ゆく春や」の句碑があります。

 進んで行くと荒川の土手に突き当たり、それを上ると展望が開けます。堤防から下りて氷川神社を通ります。「どぶ板で名倉しましたと駕籠で来る」という川柳にも詠まれ江戸時代以来「骨接ぎの名倉」として知られた千住名倉医院、地漉紙問屋「松屋」の面影を伝える横山家住宅、江戸時代後期から絵馬・地口絵・凧などを描いてきた現役の絵馬屋の吉田家、そして、千住宿高札場。そんなところを通って北千住駅に折り返します。

 

草加

 

 「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸草加と云宿にたどり着にけり。

 痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。」

 「ことし元禄二とせにや」と述べていますが、元禄への改元からまだ長く経っていませんから、その元号を身近に感じていないのかもしれません。旅の大きな目的地は奥羽、すなわち陸奥・陸中・陸前・羽前・羽後です。かなりの覚悟が必要であったはずですから、「かりそめに思ひたち」というのは文章のあやです。都から遠く離れた辺鄙な「呉天」を旅して、旅の辛苦を重ねて「白髪」となろうとも、「耳にふれていまだめに見ぬ」境をたどって生還できたら幸いだという、当てにならない僅かな期待をかけて旅に出るというのです。

 初日は草加にたどり着いたように書いていますが、『曾良随行日記』によれば、草加ではなく粕壁に泊まっています。この表現については、「草加と云宿にたどり着」いて「痩骨の肩にかゝれる物」に苦しんだのだという解釈があります。草加に宿したのではなく、草加宿で肩の重さに苦しんだというのです。言いたいこと(苦しい状況)を強く表現し、言葉を削り上げた結果、こういう文章になったのだという考えです。『おくのほそ道』には芭蕉の虚構も多くありますが、ここでは、そのような文章解釈も成り立たないわけではないように思います。

 私たちはまず草加市立歴史民俗資料館に立ち寄ります。旧・草加小学校西校舎を活用した資料館です。関東大震災の教訓から耐震や耐火を考えて、埼玉県下で初めての鉄筋コンクリート造りの校舎として建てられました。縄文時代から昭和に至る郷土資料が保管・展示されていますが、草加生まれの作家・豊田三郎と、その長女である作家・森村桂のコーナーもあります。

 東福寺に行きます。草加宿の設置に尽力した大川図書が創設した寺で、彼の墓があります。本堂の欄間が見事です。そこから旧日光道中に出て、草加せんべいの店をのぞきます。焼いているのを見学し、そして、焼きたてを店先で食べられるのは嬉しいものです。

 おせん茶屋公園を通ってから、草加宿神明庵でしばらく休みます。飲食業を営んでいた旧・久野家(大津屋)の建物です。神明庵はボランティアが運営しており、お茶をいただきながら説明を聞きます。1階が休憩所、2階がギャラリーになっています。草加宿の最後の大火は1870(明治3年)だったそうですが、神明庵はその時、かろうじて炎上を免れた建物です。

 庵を出て右カーブの道を少し行くと、おせん公園があって、そこに曾良の像が建っています。高い台座の上にほぼ等身大の曾良がいます。笠をかぶった姿で、右手を上げて、視線を高くして行く先を見据えている姿です。そこから県道を横断して、札場河岸公園へ歩きます。公園の横を綾瀬川が流れています。煉瓦造りのアーチ型水門の甚左衛門堰、「梅を見て野を見て行きぬ草加まで」の正岡子規句碑、木造の五角形の望楼などがあります。

 奥の細道旅立ち300年を記念して建てられた芭蕉像があります。この像も高い台座の上に設置されていますが、ほぼ等身大です。右手に杖を持ち、左手で笠を肩の辺りに保ち、顔をぐいと左の方に向けています。視線はほぼ水平ですが、ちょっと気難しい顔つきのようにも思えます。視線の先は、おせん公園の曾良像の方向と思えなくもありません。ただし、1989(平成元年)3月の建立ですから、2008(平成20)10月建立の曾良像より前に作られています。

 芭蕉像の辺りから草加松原の遊歩道が始まります。県道と交差するところに和風の太鼓橋が設けられていて、それを上り下りすれば交差道路に遮られることなく歩けます。橋の欄干には常夜灯が付けてあります。橋の名は矢立橋です。

 少し行くと、綾瀬川の対岸へ渡るハープ橋があります。橋を渡って対岸に行ってみます。雨交じりの曇り空ですが、川面は光って見えます。川には人工的な入り江も作られていて、さまざまな動物への配慮がされています。再びハープ橋を通って草加松原の遊歩道に戻ります。芭蕉とハープは結びつきませんが、草加市は音楽と文化の町づくりにも力を入れているそうです。

 遊歩道には、「名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原」というドナルド・キーンさんの筆跡を刻んだ碑、草加松原の説明板、キーンさんの萩の記念植樹、奥の細道の冒頭文の碑などがありますから、芭蕉に心を寄せる者にとっては嬉しいところです。

 矢立橋と同じような形の百代橋を上り下りします。橋下の道は交通量が多く、こちらの太鼓橋の方が先に架けられた橋だそうです。橋を下りて進むと、「松尾芭蕉文学碑」があって「ことし元禄二とせにや」から始まる文が刻まれています。

 「草紅葉草加煎餅を干しにけり」の水原秋桜子句碑があり、円形のモニュメントなどがあって松原は終わります。歩く人、駆け抜ける人などさまざまですが、名勝でありながら、人々の生活に溶け込んだ1㎞余りの道です。

 文化庁は2013(平成25)1月に、名勝の裾野を広げるという考えで、近世や近代の人たちが観賞の対象とした『おくのほそ道』に関連する風致景観も保護の対象とするという方針を打ち出しました。そして2014(平成26)3月に、各地にある『おくのほそ道』風景地とともに、草加松原は国の名勝に指定されました。

 

小山

 

 少し早い時刻に電車で小山に着いたので、小山市内を巡り歩きます。小山評定跡・小山御殿広場を通って城跡に向かいます。坂を上って小山城(祇園城)址の城山公園をぐるっと巡ります。桜祭り会場という横断幕がありますが、わずかに残る桜に人通りは少ししかありません。城山公園を回り終えて、下りてきて思川の観晃橋に出ます。広々とした川の風景です。対岸には白鴎大学が見え、手前側は川に沿って桜並木が続いています。公園とは違って見事な花盛りです。桜並木の中に、小山氏の祖である小山政光と妻・寒川尼の石像があります。

 市役所の近くを通って、須賀神社へ寄ります。京都の八坂神社から分霊を迎えて10世紀に創建されたという伝えがあり、町を祭り一色に染める小山祇園祭は京都と同じように盛夏に催されます。

 『おくのほそ道』は草加の次に室の八嶋のことを書いていますが、『曾良随行日記』にはカスカベ、栗橋ノ関所、マヽダ、小山という地名が出てきます。芭蕉は、間々田に泊まった翌日は鹿沼に泊まっています。歌枕にあたるものがなくて、小山に関心を示さなかったのでしょうか。

 

日光道中壬生通

 

 小山に泊まって、3日目は室の八嶋まで歩きます。熊本地震についてのニュースがテレビで次々と伝えられている朝、ホテルを後にします。

 小山駅の西口を出て、国道4号を北に向かいます。両毛線の踏切を渡ってから20分ほどして、馬頭観世音や馬力神などが集め置かれているところから斜め左に折れます。喜沢の追分です。ここからは国道4号と分かれて、日光道中壬生通をたどります。

 しばらく行くと、日光街道西一里塚があります。道の両側に、丸く盛り上がった土がしっかりと残っています。ここは日光道中壬生通なのですが、日光街道という名称の説明板が掲げられています。

 しばらくして姿川を渡ります。河原に黄色が広がっています。空の青を映した川面と、菜の花の黄色の対比が目に鮮やかです。堤防の内側だけでなく堤防外にも黄色が広がっています。橋の南側には桜の並木が見えて、さわやか空気があたりを支配しています。土地の起伏の加減でしょうか、麦畑を強い風が吹き渡るようになります。

 飯塚宿を通ると、清水屋、小蔦屋などの古い屋号を掲げた家が並んでいますが、宿場としての雰囲気はもはや失われています。『曾良随行日記』には、「小田ヨリ飯塚ヘ一リ半、木澤ト云所ヨリ左ヘ切ル。」とあります。「小田」は小山の誤記のようです。芭蕉もこの街道を室の八嶋に向かったのです。

 「しもつけ風土記の丘」の案内板があって、摩利支天塚古墳があり、古墳を上っていくと頂の小さなお堂で祭礼が行われています。また、ふもとが菜の花に囲まれているように見える琵琶塚古墳は、6世紀前半に作られた前方後円墳です。東側のふもとの方を発掘調査していますが、ここでも階段のようになっているところを通って古墳の頂上まで上ります。

 しばらく行くと、道の左右に飯塚一里塚があります。道の左側にあるのは草に覆われてごつごつした感じのものですが、道の右側に盛り上げられた塚はいかにも最近積み上げられた感じです。何かの工事の都合で作り替えられたのでしょうか。けれども、壊されてなくなってしまっている一里塚のことを思えば、このように作り継いでいるのは好ましいものです。

 小山市の市域が終わります。「おやまぁ またきてね」という駄洒落のような広告柱を立てています。反対側(小山に入る人が見る側)には「思川桜の里へようこそ」と書いてあります。思川桜は、1954(昭和29)に発見され、1978(昭和53)に市の花に認定されました。

 道の右手に下野国分寺跡が広がります。奈良時代に全国60余か所に建てられた国立寺院の跡地が整備されたものです。その一画に甲塚古墳があります。少し進んで、花見ヶ岡という交差点を左折して、蓮華寺でしばらく休みます。

 寺の近くに大光寺橋があり、思川を渡ります。思川はこのあたりでは流れがゆったりとしていて、河原が広がっています。日光の方角の山々がきれいに見えます。

 大光寺橋から西に向かい、しばらくして北に折れて、大神神社に向かいます。田圃が広がる中に道が縦横に延びている感じで、「遙に一村を見かけて行く」(『おくのほそ道』の那須の記述)と言うにふさわしい風景の中を、室の八嶋・大神神社に近づいていきます。大神神社は、大和の大神神社(大三輪神社)の神を迎えて祀ったので、同じ名で呼ばれていると言います。

室の八嶋

 

 「室の八嶋に詣す。同行曾良が曰『此神は木の花さくや姫の神と申て、富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより、室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也』。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍し。」

 芭蕉は、曾良の言として縁起を紹介しているだけで、室の八嶋の実景についての記述がありません。ここには、木の花さくや姫と、火々出見のみこととの2柱の名がありますが、神社が社殿に掲出している「ご祭神」には6柱の名が挙げられています。天照大御神、木花咲耶姫命、天忍穂耳命、瓊々杵命、彦火々出見命、大山祇命です。木花咲耶姫命は子育て・安産・婦人の守護神で、瓊々杵命の妻です。彦火々出見命は、その二人の長男で、神武天皇の祖父にあたります。

 このしろを禁じることについても理由は書かれていません。このしろというのは、鮨の材料などになる「こはだ」という魚ですが、この魚を焼くと、煙は人を焼く臭いに似ているので嫌ったと言われます。また、このしろは「子の代」と書いたり「この城」と書いたりできるので、「この城を食べる」ということで嫌ったという言い伝えもあります。

 室の八嶋は、写真などから判断して、じめじめした湿地に小さな社が点在しているように思っていましたが、違いました。大神神社の一隅が池になって水がたたえられて、それぞれに小さな社が祀られています。筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、浅間神社、熊野神社、二荒神社、香取神社の順に一巡します。きちんと整備されているのが驚きです。

 室の八嶋の傍らに「いと遊に結びつきたる煙かな」の芭蕉句碑があります。「いと遊(糸遊)」はかげろうのことです。煙で名高い室の八嶋では、陽炎にも煙が結びついて見えることだ、という意味です。室の八嶋では煙を詠むのが慣わしだと言っても、芭蕉の目には煙は見えず、想像上のものだったのでしょう。この句に満足せず『おくのほそ道』には採り上げなかったのでしょうが、曾良が書き留めておいたもので、それが碑になっています。

 古来、歌枕の地として名高い室の八嶋ですから、いくつもの歌碑が建っています。碑面は古びて読みとれませんが、そばに立っている説明板によれば「下野や室の八嶋に立つけぶり思ひありとも今こそは知れ」(詠み人知らず、古今六帖)と「いかでかは思ひありとは知らすべき室の八嶋のけぶりならでは」(藤原実方)という歌碑のようです。ちょっと離れた所に「絶えず炊く室の八嶋の煙にもなを立ち勝る恋もするかな」(源崇宇)の歌碑もあります。いずれも煙を詠み込んでいます。

 

栃木

 

 『おくのほそ道』の本文は、室の八嶋の次は、日光山の麓です。けれども、『曾良随行日記』には、室の八嶋の後、壬生、楡木を経て鹿沼に向かったことが書かれています。

 室の八嶋も今では栃木市に含まれていますが、栃木市は蔵の町として知られ、小京都とか小江戸とか言われています。私たちは栃木の駅前に泊まって、栃木と鹿沼の2つの町を歩くことにします。

 夕方の栃木市内を歩きます。例幣使街道の宿場町として、また舟運で栄えた町です。巴波川の流れの上には可愛らしい鯉のぼりが掲げられ、それが行けども終わることなく続きます。その数は何千という単位でしょう。元の木材回漕問屋の蔵の黒い板塀が続くところなどもあって、落ち着いた空気が流れています。川には遊覧船が運航されていますが、時刻が遅いからでしょう、出会いませんでした。

 「山本有三生誕の地」という碑があり、土蔵づくりの山本有三ふるさと記念館があります。近くの近龍寺にある墓には、山本有三の言葉として「動くもの砕けるものの中に動かないもの砕けないものが大きくからだに伝わってくる」というのが刻まれ、「右 無事の人より 友人・土屋文明抄す」とあります。あちこちに蔵の町らしい建物を見ながら、宿に帰ります。

 4日目の朝。深夜に熊本で再び震度6強、M6.0の地震があったというニュースを見ながら、宿を出ます。大きな余震が続いているようです。

 蔵の町並みを見ながら、神明宮に立ち寄ります。栃木のお伊勢さまと書いてあります。地元の商人の信仰を集めた神のようです。続いて、蔵を生かした美術館とちぎ歌麿館に立ち寄ります。「深川の雪」「吉原の花」の参考資料とともに、アメリカのフリーア美術館蔵の歌麿「品川の月」の高精度複製画が掲げられています。この三幅対の名画のことは、いつかNHKテレビの番組で見ました。

 栃木市役所の前を通ってから、嘉右衛門町重要伝統的建造物群保存地区をたどります。江戸時代から商家として繁栄したところで、1842(天保13)の絵図には83軒の店舗の記載があると言います。地区の西側に巴波川が流れ、町並みの真ん中を南北に日光例幣使街道が通っています。

 

鹿沼

 

 東武鉄道の電車に揺られて栃木市から鹿沼市に着きます。駅前で芭蕉像と対面します。等身大のチェーンソーカービングです。地場産の杉材を使ってチェーンソーだけで作ったものだと言います。ややほっそりとした芭蕉の顔と姿で、旅装束と言うよりは、普段の散歩姿のようにも感じられます。

 駅前を左折すると例幣使街道になります。街道に、二荒山神社(鳥居跡)があります。町の中に入っていくと、「まちの駅 新・鹿沼宿」というところにもチェーンソーの芭蕉と曾良の像があります。ひとりが立ち、ひとりが何かに腰掛けています。二人とも頭と首に赤いものを巻き付けています。帽子とマフラーのように見えて、現代風でちょっといただけません。

 仲町屋台公園には屋台展示収蔵庫があります。係員はいませんが、ガラス越しに見学できようになっています。豪華で細密な彫刻が施された屋台です。

 道の右手にある屋台のまち中央公園には、屋台展示館、観光物産館、掬翠園などがあります。掬翠園に入ります。掬翠園の入口には、ここにもチェーンソーの芭蕉が立っています。ここのは旅姿です。掬翠園は、麻商人であった長谷川唯一郎が明治末~大正初めに造営した庭園で、園内に「入あひのかねもきこへずはるのくれ」の句碑があります。芭蕉の別号である風羅坊という名前になっています。片田舎のこととて鐘の音さえも聞こえず寂しい気持ちがすると詠んでいます。夕暮れの寂しさは、和歌では例の「三夕の歌」などのように秋の夕暮れを歌うものが多いのですが、芭蕉は俳諧で春の暮れを詠んでいます。「春の暮」は、春の夕暮れでもあり、暮春でもあるようです。

 市役所前の交差点を右折して、黒川に架かる府中橋を渡って、JR鹿沼駅に着きます。駅前のロータリーにも等身大の芭蕉像があります。左手で笠を背に持ち、視線を高くして遠くを見つめる旅姿です。鹿沼ではあちらこちらで芭蕉に会いました。

 

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2018年3月18日 (日)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(1)

  はじめに

 

 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すうるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

   草の戸も住替る代ぞひなの家

 面八句を庵の柱に懸置。」

 月日は永遠の旅人であるということには同感です。けれども、文頭はやや抽象的な表現ですから、景色のようなものが眼前にあらわれてくることがありません。月日は旅人だとは思いますが、その年が行き交っているというような印象を私は抱きません。四季は繰り返したり、行きつ戻りつしたりしますが、時間とは一本の棒のようなものが過去から未来へ続いていくように感じています。私たちは、流れ行く時間の中を、やはり流れるように生きている存在であると思います。

 今の時代でも、外航船に乗って仕事を続けている人がいますし、バスやトラックを運転して全国を走り回っている人がいます。まさに旅を住みかとしている人たちです。

 ところが私は定住人間です。ふだんの生活では、先祖代々が住み続けてきた土地の一住民に過ぎません。長い人生の大半は勤め先を持ち、自宅を拠点に通勤をしました。

 けれども、ひとたび歩きはじめると、旅人という意識の中に身を置きます。『おくのほそ道』をたどって歩きますが、そのときは旅をする人間、すなわち歩く人間です。たとえ3泊4日ずつであっても、五街道のときと同じように、旅を住みかとする時間を過ごそうと思います。

 芭蕉の言う古人が、西行、宗祇、杜甫、李白などを指すことに疑いはありません。旅が苦しい営みであった時代に、旅をした人たちです。死と隣り合わせの旅であったというのは誇張ではありません。

 今の時代は、路傍で野垂れ死にをすることはありません。仮にそれを望んでも、そんなことは許されません。救急車が飛んできて病院へ運ばれてしまうでしょう。

 むしろ私は、旅を続けて、旅を続けている期間の或る日に人生最後の日を迎えることを望んでいます。最後の日の直前まで、どこかを歩いていたいと願っています。

 芭蕉は「鹿島紀行」「笈の小文」「更科紀行」などの続きとして『おくのほそ道』の旅に出ています。私たちは江戸時代の五街道を歩き終えた続きとして『おくのほそ道』をたどります。

 関西に住んでいますと道端に道祖神を見ることは稀なのですが、五街道を歩いて数限りない道祖神を見てきました。けれども私は、旅に招いてくれるのは道端の道祖神というよりは、空のかなたの無数の神の手招きであるように感じています。

 芭蕉ほどの健脚ではありませんが、長い長い街道を歩き通したという自信はあります。いつも飲んでいる薬を忘れないように持ちますが、いざに備えるのは救急絆創膏とテーピング用品ぐらいのものです。何かを忘れても道中で購入できる気安さは、芭蕉の時代とは異なります。

 芭蕉は旅に出るに際して芭蕉庵を手放します。「住み替る代」として、人も物もすべて変転していくということを感じ取っています。後に住む人が市井の人であるのに対して、自分はこれまで以上に俳諧の世界に踏み入っていくのだという思いを強く持っているのでしょう。

 現代に生きている私たちは住居はそのままにして、4日間の留守だけです。何とも気ままな旅で、芭蕉には申し訳ないと思います。どれ一つとっても、芭蕉の時代の困難な旅とは対極にあるように感じますが、移動には鉄道・バスを利用するとは言え、それぞれの場所では自分たちの足だけを頼りにして歩き続けたいと思います。

 

  『おくのほそ道』旅の一覧

 1回 2016 4月13  4月16

  深川から鹿沼まで 泊…千住、小山、栃木市

 2回 2016 5月 8日  5月11

 日光から殺生石まで 泊…日光、黒羽、黒磯

 3回 2016 6月 6日  6月 9日

 遊行柳から郡山まで 泊…白河、白河、須賀川

 4回 2016 7月 4日  7月 7日

 安積山から伊達の大木戸まで 泊…郡山、飯坂、福島

 5回 2016 9月 5日  9月 8日

 白石から多賀城まで   泊…白石、仙台、仙台

 6回 201610 4日  10 7日

 塩竃から平泉まで 泊…塩竃、石巻、新田

 7回 20161025  1028

 岩出山から大石田まで 泊…鳴子、赤倉、尾花沢

 8回 20161122  1125

 山寺から象潟まで 泊…山形、酒田、酒田

 9回 2017 3月28  3月31

 酒田から新潟まで 泊…酒田、新潟、新潟

10回 2017 4月23  4月26

 高田から奈呉の海まで 泊…高田、富山、富山

11回 2017 5月22  5月25

 倶利伽羅から汐越の松まで  泊…金沢、金沢、小松

12回 2017 6月26  6月29

 山中温泉から敦賀まで 泊…山中、福井、敦賀

13回 2017 7月24  7月27

 出羽三山と鶴岡 泊…羽黒山、湯殿山、鶴岡

14回 2017 8月30  8月31

 大垣と伊賀上野 泊…岐阜

15回 2017 9月26  9月29

  補遺の旅(登米・最上川)   泊…登米、新庄、新庄

 

 

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2018年3月17日 (土)

奥の細道を読む・歩く(292)

ドレミファそら日記(58)     2017年9月29

 

8時45 ルートイン新庄駅前発。

9時16分 山形新幹線、新庄駅発。つばさ136号・東京行。

1036分 米沢駅着。

1050分 最上川を渡る。

1115分 伝国の杜。(1120)

1125分 上杉神社。(1145)

1150分 松岬神社。

1230分 米沢駅に帰る。

1308分 JR奥羽本線、米沢駅発。普通・福島行。

1354分 福島駅着。

1416分 東北新幹線、福島駅発。やまびこ142号・東京行。

1548分 東京駅着。

1603分 東海道新幹線、東京駅発。ひかり479号。

1900分 新大阪駅着。

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2018年3月16日 (金)

奥の細道を読む・歩く(291)

米沢に立ち寄る

 

 予定していた「奥の細道」の旅は終わりました。新庄からの帰途に途中下車して米沢に立ち寄ります。米沢の町は初めてですが伊達氏が200余年、上杉氏が300年近く居城を構えて城下町が形作られたところです。時間が限られていますから、上杉神社を往復して、その途中にも目を向けることにします。

 駅は町の中心からすこし外れているようです。西に向かって歩き相生橋で最上川を渡ります。昨日の最上川とは違って、この辺りは水量が多くありません。

 土木学会の土木遺産という万世大路があります。寺町寺院の続くところで左折して南下、しばらく行ってから右折して西に向かいます。札の辻跡などがあります。

 上杉神社前というバス停がある辺りから、観光客の姿が見えるようになりました。博物館と文化ホールが一緒になっている「伝国の杜」という建物には、能舞台が作られ、さまざまな展示があります。目の前に神社の森が見えてきました。

 短いけれども明治の古風を残した舞鶴橋を渡って神社に近づいていきます。伊達政宗公生誕の地の碑、上杉謙信の像、上杉景勝と直江兼続の主従の天地人像、上杉鷹山の「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり」の碑、上杉鷹山の像、上杉謙信祠堂跡など、応接に暇ないほど、次々と続きます。

 上杉神社にお参りし、社務所で朱印を頂いてから、松岬神社に立ち寄ります。

 時間が有れば見て回るべきところはたくさんあるのですが、米沢の一部分だけを見て離れます。

         ◇  ◇  ◇

 「奥の細道」を巡る旅は、いったん終了です。58日間にわたる旅でした。機会があれば改めてもう一度、という気持ちが無いわけではありませんが、自分の年齢を考えれば可能性はありません。現代の旅ですから「野ざらし」を覚悟するほどのものではありませんでしたが、それでも、病に襲われることなく、事故に遭遇することなく終えられることは嬉しいことです。

 日本の国土は広い。その土地その土地に生きる人たちの生活ぶりや文化に接してきました。また、先人たちはこの国の隅々まで旅をしていることにも驚きます。文学遺跡に限らず、あらゆる分野の先人の足跡が各地に残されています。好奇心を失わず、これからも自分の足で、この広い日本を歩き続けようと思います。

 

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2018年3月15日 (木)

奥の細道を読む・歩く(290)

ドレミファそら日記(57)     2017年9月28

 

0815 ルートイン新庄駅前発。

0835分 大蔵村営バス、新庄駅前発。肘折温泉行。

0854分 本合海寺前着。

0905分 芭蕉乗船の地。芭蕉・曾良の陶像。(~9時10)

0920分 本合海水辺プラザ。(~9時45)

1005分 本合海の渡し場。

1020分 積雲寺。子規の句碑。

1036分 大蔵村営バス、本合海寺前発。県立病院行。

1055分 新庄駅前着。

1115分 JR陸羽西線、新庄駅発。普通・酒田行。

1134分 古口駅着。(乗船場まで徒歩5分)

1135分 ¥100 連絡バス 古口駅前~古口港

1140分 最上川舟番所で昼食。(1220)

1250分 最上峡芭蕉ライン舟下り、古口港発。

1350分 草薙港着。

1455分 草薙港から歩いて、高屋駅に着く。

1620分 JR陸羽西線、高屋駅発。普通・新庄行。

1651分 新庄駅着。

1715分 ルートイン新庄駅前着。

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2018年3月14日 (水)

奥の細道を読む・歩く(289)

最上川芭蕉ライン

 

 最上川下りの船の出発です。最上川は急流ですから、私は川下りを、京都の保津川下りになぞらえて想像していましたが、まったく異なりました。船頭さんが棹を操るような舟ではなく、エンジンが付いている舟でした。船頭さんはのんびりとマイクで案内をするだけでした。保津川下りの舟は、囲いもなくて水と戯れて下る風情ですが、こちらは覆いが作られていて、ビニールハウスの中から川をわずかにのぞき見るという様子です。

 左右も前方もビニールで覆われています。そのビニールハウスの下の方を捲りあげて外を見ることはできますが、視界広くはありません。私は右舷に座りましたが、左舷側を見ようとしてもビニールハウスに遮られています。

 右舷に座ったものにとっては、僅かに川の右岸を盗み見るような状態で舟が進んで行きます。川は僅かに波立っていて、川岸に白い鳥が浮かんでいます。左岸に神代杉があるという説明があっても、仰ぎ見ることはできません。しばらく行くと、右岸に水上コンビニがあるということで、そこでしばらく停船します。商魂がたくましく感じられて、芭蕉の旅の風情は失せてしまっています。

 駒形の滝、七滝、大滝が右岸に続きますから、それらを見ることはできます。かなり高いところから細い水の流れがありますが、豪快な感じはしません。最上川は山間を流れていますが「左右山覆ひ、茂みの中に船を下す」というようには感じません。

 芭蕉の乗った舟はこの観光舟よりもだいぶ小さかったのでしょうか。しばらく水の流れの速いところも通りますが、「水みなぎつて、舟あやふし」という経験はしないで終わりそうです。下流から上流に向かって、速いスピードで回送されていく舟と何度も出会うのも風情のぶちこわしです。

 そうこうしているうちに、「白糸の瀧は、青葉の隙々に落て、仙人堂岸に臨で立」と表現されているところに出会います。仙人堂には赤い鳥居が見えます。白糸の滝は山の中腹から水の流れが見えて、いったん左に折れてから下に落ちて流れています。

 あっと言う間の1時間弱 日本3急流というイメージはどこへやら、「五月雨をあつめて早し最上川」というのとはずいぶん異なる舟旅でした。五月雨の頃であれば、もっと違った印象であっただろうと、自分の頭の中で想像をかき立てることにしましょう。

 最上川リバーポートというところで舟をおります。白糸の滝が見えていますから、しばらく対岸の滝を眺めます。ここからは、すっかり雨の上がった国道47号を歩いてJR高屋駅へ向かいます。

 陸羽西線の運転時間の間隔は、びっくりするほど長いところがあります。高屋駅では1時間30分ほどの時間を、辺りを歩いたり、ぼんやり佇んだりして過ごしました。慌ただしい生活の中では、珍しい時間の過ごし方であり、貴重な体験でした。

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2018年3月13日 (火)

奥の細道を読む・歩く(288)

本合海から古口へ

 

 「最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云、おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は、青葉の隙々に落て、仙人堂岸に臨で立。水みなぎつて、舟あやふし。

   五月雨をあつめて早し最上川 」

 

 本合海大橋を渡って引き返します。芭蕉像が立っているところの下の方、川縁へ降りていく細い道があります。そこに「本合海の渡し」の碑があります。刻まれている説明によれば、ここは最上川を上り下りする船の乗降場であるとともに、対岸への渡し場でもあったと言います。渡しは1934(昭和9年)の本合海大橋の開通まで存続していたそうです。川の水面には石を並べた遺構が見えます。

 もとの道に上って、再び芭蕉像などを見てからバス停に戻ります。雨は降り続いています。

 バス停の前の積雲寺には子規の歌碑があります。「草枕夢路かさねて最上川ゆくへもしらず秋立ちにけり」という歌です。

 芭蕉は本合海から最上川下りをしたようですが、私たちは新庄駅に戻って陸羽西線で古口駅に行って、その近くから舟に乗ります。

 最上川の辺りを鉄道で眺めることは既に何回もしています。最初は二十代の頃で、ここがあの最上川だと心を躍らせたことがあります。鉄道から見る川の様子は知っていても、やはり芭蕉と同じように舟の旅をしないではおれません。

 古口駅から戸澤藩船番所のあったところへ移動し、軽い昼食をとって舟の時刻を待ちます。乗船場の前には子規の句碑「朝霧や船頭うたふ最上川」があります。しばらくして、アナウンスに促されて、乗船場の階段を下って舟に乗ります。ちょうど雨が止んできたところです。