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2018年3月31日 (土)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(14)

  第13回 出羽三山と鶴岡

 

 13回目の旅は、梅雨が明けた7月24日から27日までです。月山と湯殿山は標高も高く、夏の間しか登ることができません。後回しにしていた出羽三山に向かいます。今回は山形県を歩きます。

 

羽黒山の麓

 

 芭蕉が羽黒や月山に泊まったのは、旧暦6月3日から9日までです。この年の旧暦を新暦に直すと、7月19日から25日にかけてです。当時の山登りにどのような制約があったのかはわかりませんが、出羽三山にさしかかったのは、山に登るのに望ましい時期でした。羽黒では幾夜も泊まっていますが、月山と湯殿山を歩いたときは、月山で1泊しているだけです。

 ところで、私たちの山登りの装備は、特別なことはしません。これまでの旅支度に、防寒の要素を少し加えるという程度です。芭蕉が登ったのだからと高をくくっているわけではありませんが、この時期は登山者とともに修行のために山へ行く人も多いはずです。日程的に少し苦しいことは覚悟の上で、月山から湯殿山へのルートを辿るつもりです。

 『おくのほそ道』は、「六月三日、羽黒山に登る。…」という文章と、「八日、月山にのぼる。…」という文章に分かれていますが、私たちは月山・湯殿山を歩き終えてから羽黒山上に立ち寄るつもりですから、『おくのほそ道』の引用も逆転させます。

 私たちの旅の初日は、前日までの強雨の影響で、羽越線の特急が新潟を出たところでのろのろ運転や停車を繰り返しました。鶴岡からのバスに遅れはしまいかとはらはらしたのですが、なんとか間に合いました。鶴岡駅前から羽黒までのバスは45分ほどですが、山深いところを走るわけでもなく、ごく普通の田園や集落を縫って、羽黒荒町に着きます。泊まるのはかつて宿坊であり、今は旅館となっているところです。

 

月山

 

 「八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏でのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶、身こゞえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。

 谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に劍を淬とかや。干將・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜の、つぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花、爰にかをるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々、短冊に書。

   涼しさやほの三か月の羽黒山

   雲の峯幾つ崩て月の山

   語られぬ湯殿にぬらす袂かな

   湯殿山銭ふむ道の泪かな  曾良 」

 芭蕉の旅は馬や舟に助けられることはありましたが、それ以外は自分の足で歩いています。芭蕉に比べると軟弱な現代人である私たちは、月山八合目までバスで行きます。羽黒山から月山まで歩くのは、登山を専門にしている人たちぐらいなものでしょう。

 2日目。宿を出ると、近くに芭蕉出羽三山句碑があります。「涼しさやほの三か月の羽黒山」「雲の峯幾つ崩て月の山」「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の3つの句が、ひとつの碑に刻まれています。このあたりにはいくつもの宿坊が並んでいます。しばらく歩くと、羽黒山随神門に着きます。随神門から羽黒山頂へは長い石段が続いています。私たちは、羽黒随神門前のバス停から、石段からは離れて走る羽黒山頂行のバスに乗ります。そして月山八合目行のバスに乗り継ぐのです。

 月山に向かうバスは、羽黒山頂近くの休暇村やビジターセンターの前には停まりましたが、そこから先は八合目終点まで停留所はありません。けれども、運転手は無線で連絡を取りながら、まるで列車のように、月山四合目(強清水)や月山六合目(平清水)を通過する時刻をきちんと守って走っています。狭い登山道路ですから、降りてくるバスとすれ違うところが設定されているのです。四合目、六合目と高くなるにつれて、霧が深くなったり晴れたりします。

 冷気に包まれた月山八合目に着いたのが、ちょうど9時です。駐車場が設けられ、ここから先は車は入れません。磐梯朝日国立公園・月山八合目という石碑もありますし、環境省や山形県が立てた案内板などもあります。

 いよいよ山登りです。ここから先、月山山頂を経て湯殿山神社までは、自分の足以外に交通機関はありません。八合目という言葉からは、山頂は近いような印象を受けますが、山頂までは6㎞近い石ころ道を登らなければなりません。「日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶、身こゞえて頂上に」着くことになるでしょう。月山は盛夏でも雪が残っているところがあります。

 駐車場のあるところから石段を登ると、弥陀ヶ原の湿原が広がっています。しばらく行くと御田原参籠所があり、月山中ノ宮があります。このあたりでは、団体で訪れている白装束の参拝者をたくさん見かけます。参拝を済ませて出発すると、ちょっと雨模様になります。広い湿原ですが、木道や細い石ころ道を進みます。この湿原を一周して観察する道も作られていますが、そんな時間の余裕はありませんので、月山山頂への道をたどります。

 黄色いニッコウキスゲ、紅紫色のハクサンチドリをはじめいろんな花が目を楽しませてくれます。あちこちに小さな池もあります。小さな石が凸凹に敷かれているのを踏み、右へ左へ身をよじらせて、大きな石は迂回しながら、ゆっくり登っていきます。小雨が霧に変わり、それが止んでも、なかなか青空にはなりません。

 参籠所のあたりから1時間余り、やっと鳥海山が、雲の間から見えるようになります。姿の美しい鳥海山も山頂の辺りには、雪の縦縞が見えます。登っている月山も、目の下に雪が残っている部分があります。道が雪の下に消えているところがありますから、雪の上を歩きます。大勢がここを歩いていますから雪が黒く見えるところがあります。背の低い灌木だけになって、見晴らしが良くなります。

 ようやく月山九合目に着き、仏生池小屋で休憩し昼食をとります。標高1743メートルと書いてあります。頂上までの道のりの半分が終わったのですが、予想していたよりも時間が速く過ぎています。疲労回復のためにゆっくりと食事をします。

 ハクサンシャクナゲの白い花が目立つようになります。小さなイワウメも咲いています。オモワシ山の麓を経て、行者返しをかきつくように登り、また木道を歩いたりします。山頂が近付くと、また雪の上を歩きます。少しずつ溶けている雪ですから、洞穴のようになっいるところもあります。山頂の堂宇が見えるようになって、やっと月山山頂に着きます。登ってくる途中は人をあまり見かけなかったのですが、山頂の周りには大勢の人たちが休んでいます。

 月山神社に参拝します。拝観料(お祓い料)を払うと、お祓いをしていただいて、登拝認定証をいただきます。「あなたは、標高1984mの出羽三山の主峰月山を踏破し月山頂上鎮座、月山神社本宮を参拝されました。其の健脚を称え、ここに認定証を授与します。」と書いてあります。八合目からは、歩く以外の方法はないのです。頂上の境内をぐるりと一周しますが、ここは撮影禁止になっています。

 

月山から湯殿へ

 

 『おくのほそ道』は「笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。」と書いているように月山で一夜を過ごしています。月山を詠んだ句の「雲の峯幾つ崩て月の山」は、いろいろな解釈ができるのですが、次のように理解することにします。昼間は峯のようにそびえていた入道雲(雲の峯)が、一つ崩れ、二つ崩れるようにして、幾つ崩れたのかわからないが、夜に入るとともに晴れ上がって山全体が月光に照らされている、という情景です。「月の山」という言葉には、月に照らされている山という意味と、月山という固有名詞とが掛けられています。「頂上に臻れば、日没て月顕る。」と書かれていますが、旧暦6月6日ですから半月より小さい月であったのです。私たちは昼間に通過しますから、芭蕉の詠んだような景色に巡りあうことはありません。

 月山山頂で参拝や休息をして、私たちはこのまま湯殿山に向かって歩きます。石ころのガタガタ道を登ってきましたから、私たちの体もガタついています。

 月山神社本宮から少し下って、月山頂上小屋の横を抜ける道が続いています。すぐに登りにかかりますが、月山神社を振り返ります。空は雲が覆っています。少し行くと「雲の峯幾つ崩て月の山」の句碑が建っています。背丈よりも大きい堂々としたものです。

 ここから本格的な下山道で湯殿に向かうのですが、登ってきた道よりも難渋します。いろんな石の上を歩く道であり、傾斜が急なところがあります。まるで土石流が流れ下ったような道筋で、しかも足元は、大小の石が重なり合っています。進む方向は判断できますが、案内板はほとんどありません。そんなところがしばらく続きます。

 牛首というところに来て初めて標柱に出会いますが、月山頂上まで1.1㎞、湯殿山神社まで4.5㎞と書いてあります。この後、少しの間は整備された石畳道を歩きますが、道は雪の中に消えて、雪を踏んで歩くところもあります。金姥というところが月山から下りきった位置になるのですが、私たちはその手前で、月山がよく見えるところで一休みします。

 予定していた時刻よりもかなり遅れています。泊めていただく湯殿山参籠所に連絡して到着が遅れることを連絡します。雪が雪庇のように張り出している下を通ったり、ミズバショウの群落を見たりして進みます。梯子が掛けられているところがあることは知っていましたが、何か所も何か所もあってびっくりします。狭くなって、大小の石ころだらけの道に水が流れ込んできます。左右よりも窪んだところが道になっているのですから、水はすべてこの道に流れ込んでくるのです。ゆっくりゆっくり進みます。夏ではありますが、そのうちに夕暮れの時刻が気になり始めます。

 結局、道とも言えないようなところを下っていると夕闇が迫ってきました。ほぼ下りきったときに、前方に懐中電灯が見えました。湯殿神社の2人の神職の方が来られたのでした。後からわかったことを書きます。私たちは、遅くなっても参籠所に着けばよいと考えていましたが、道は湯殿神社のそばを通っていて、神社を通らなくては参籠所に行けないのでした。携帯電話が通じなかったから、参籠所から神社に連絡があったのでしょう、暗くなりそうだから、迎えに(というよりは、道に迷っていないかという心配で)来ていただいたのです。なお、電話は、このあたりではNTTドコモは通じるが、auの機種は通じないのだそうです。この後、湯殿神社から参籠所まで車で送っていただくということまでしていただきました。

 

湯殿神社

 

 3日目は、抜けるような青空の朝です。参籠所の前には真っ赤な大鳥居が立っています。朱色でなく落ち着いた濃い赤色です。鳥居の額には「出羽三山神社奥宮 湯殿山本宮」と書かれています。この鳥居を下から眺めたとき、坂道を上っていく方角に湯殿山本宮があるのです。

 参籠所から本宮へは、ごく短時間、バスに揺られますが、バスを降りるとすぐに撮影禁止のエリアとなります。芭蕉も「此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。」と記しています。

 月山と同じようにお祓いを受けます。湯の湧き出ているご神体の赤い巨岩があり、その左横を通って、巨岩の上の方に出られるようになっています。周りの山々を見回していると、ここが霊場であることを感じさせられます。

 芭蕉は「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」という句を詠んでいます。湯殿山中のことは人に語ることを許されない、それゆえにこの場所から受ける感動が心の中に籠もって、いっそうありがたく感じて涙で袖を濡らすばかりである、という意味です。これは挨拶の句ではなく、芭蕉は心底から敬虔な思いになっているのでしょう。曾良が詠んだ句「湯殿山銭ふむ道の泪かな」の「銭ふむ」は、道の辺りに散らばっている賽銭のようです。湯殿山に参拝するとその賽銭を踏んで歩かなければならないが、やはり霊山の尊さが感じられて涙がこぼれるばかりである、という意味です。

 近頃のテレビは秘仏であろうと何であろうと引っ張り出して、白日の下にさらけ出して、それが報道の役割だと誤解している傾向が強いのですが、人間には、心の中だけで存在させておくようなものも大事だと思います。映像は仮のものであって、心の中に存在するものこそ本物である、という感じ取り方も必要だと思います。

 バスで参籠所に戻ります。次の目的地は羽黒山頂です。当初の計画では、月山を経由して同じ道を引き返すことも考えていましたが、昨日のことを振り返ると、時間的に無理だと判断します。

 参籠所から羽黒山上までの直通バスのリーフレットを見つけましたが、これは休日のみの運行だと知って落胆です。結論は、やむを得ずタクシーを利用することにしました。湯殿山から下って鶴岡市の郊外を通って羽黒山に向かうという、迂回のような道筋ですが仕方がありません。

 

羽黒山と南谷

 

 「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代會覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐憫の情こまやかにあるじせらる。四日、本坊において誹諧興行。

   有難や雪をかをらす南谷

 五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。延喜式に羽州里山の神社と有。書写、黒の字を里山となせるにや。羽州黒山を中略して、羽黒山と云にや。出羽といへるは、鳥の毛羽を此国の貢に献ると風土記に侍とやらん。月山・湯殿を合て三山とす。当寺、武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、圓頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にしてめで度御山と謂つべし。」

 羽黒山上を歩きます。杉木立に囲まれた山上駐車場から三社合祭殿の方に向かうと、静かな世界になります。まず、芭蕉の像に出会います。桃聖芭蕉と書かれた高い台座の上で、頭陀袋を胸に掛けて、枝木がちょっと曲がったような格好の杖を左手に持って、左前方をじっと見つめている姿です。笠はありません。「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句碑もあります。なんと涼しいことだろうか、羽黒山の上には月が見えることだ、という意味です。「ほの三日月」というのは、「ほの見える」と「三日月」の掛詞です。この句はいつ詠まれたものであるかということは問題です。『おくのほそ道』本文に従えば、羽黒山南谷の別院に帰ったときのように受け取れますが、月山・湯殿山を巡って帰ったときとすれば旧暦6月7日以降になります。「三日月」ではなくなっています。南谷にはその前の6月3~5日にも泊まっていますから、その頃に詠んだとするのがふさわしいかもしれません。

 広場を前にして、茅葺きで朱塗りの大きな建物がありますが、三社合祭殿です。「出羽神社(羽黒山神社)」「月山神社」「湯殿山神社」の額が掲げられています。出羽三山を巡ることは、死と再生をたどる「生まれかわりの旅」と言われてきたそうですが、すべてを巡る旅ができない人は合祭殿でその代わりをしたのでしょう。羽黒山が現在、月山が過去、湯殿山が未来という見立てもされています。合祭殿の前には楕円形の鏡池があります。羽黒の神が姿を現す池だと考えられていますが、200面近い銅鏡が発見されて重要文化財に指定されています。

 小さな鳥居をくぐると、下へと続く石段が始まります。随神門までの距離は1700メートルほどですが、石段の前後の幅が狭いところもあり、かなり急なところもあります。ゆっくり下りていきます。上ってくる人もいますが、上り・下りとも人数はまばらです。

 蜂子社、厳島神社などを過ぎて、石段の両側に杉並木が続きます。右手の斎館からは中学生と思われる人たちが出てきています。羽黒山参籠所として使われています。なだらかな石畳の坂道があったり石段になったりします。小さな石に「十五丁」と彫られたのがあります。尾崎神社、八幡神社と過ぎて、かなり急な石段がカーブしているところもあります。三ノ坂と呼ばれているところです。縁結びの埴山姫神社を過ぎ、右側の谷間にある奉納植樹された田谷村杉を通り過ぎると、南谷の入口です。

 案内板が掲げられていますが、南谷は石段の道から外れて辿らなければなりません。南谷から戻ってきた人がいて、道がぬかるんでいて大変だったと教えてくれます。しかし、南谷は難路を厭っていてはなりません。道いっぱい泥水が広がっていて、時には水たまりに足を踏み入れながらたどると、「県指定史跡 羽黒山南谷」の標石があって広場に出ます。木立が遠のいて太陽が注いでいます。芭蕉の句碑は苔むして文字が読み取りにくくなっています。小さな池があり、四阿も作られています。芭蕉が泊まった寺(紫苑寺)は解体移築されてしまいましたから、礎石だけが残っています。

 本坊(若王寺)の誹諧興行で作った芭蕉の句が「有難や雪をかをらす南谷」です。冷たくて身にしみるような雪が残っているが、ここには草木の香りを含んで吹いてくる風があって、清浄な感じがして貴く感じられる、と言っているのです。真夏の南谷の近くに残雪があったとは思えませんから、遠くの高い山の雪を見ての感懐なのでしょうか。

 片道500メートルほどの南谷を往復してから、二ノ坂を下ります。御本坊跡、いくつもの小さな神社が続きます。石段の傍らに芭蕉翁三日月塚という石の塚が建っています。「涼しさやほの三か月の羽黒山」に因んで、江戸中期に鶴岡の俳人達が作りました。名物力餅と書かれた二の坂茶屋が右手にあり、少し行くと左手に湯殿山遙拝所がありますが木立が繁っています。

 一ノ坂にかかっても、いくつかの小さな神社があります。そして右手に国宝の羽黒山五重塔が見えてきます。高さは30メートルほどで、平安時代創建の素木造りの塔です。きらびやかではありませんが、しっとりとした木立の中に、均整のとれた姿で堂々としています。この辺りになると、団体の人が多くなってにぎやかになります。

 樹齢1000年という天然記念物の爺杉、祓川をはさんで流れ落ちる須賀の滝、真っ赤な神橋を見て、継子坂の石段を上って随神門をくぐります。随神門前からは、バスに揺られて鶴岡に向かいます。

 

鶴岡

 

 今回の3泊4日の旅は、出羽三山が大きな目的ですが、4日目に鶴岡の町を見て回ります。

 駅前から歩いて向かった最初の目的地は日枝神社です。赤い鳥居をくぐり、右手の小さな橋を渡ると、「珍しや山をいで羽の初茄子」の芭蕉句碑があります。山(出羽三山)を出たばかりの私は、珍しい出羽の初茄子でもてなされている、という意味です。「いでは」には、出たとたん(出で端)という意味と、出羽(いでは)の地名との掛詞です。鶴岡周辺は小粒の民田茄子の産地です。

 神社から近いところに庄内藩士の長山重行宅跡があります。狭い場所が小公園のようになっていて、芭蕉滞留地の石碑と「珍しや…」の句碑とがあります。「長山氏重行と云もののふの家にむかへられて、誹諧一巻有。」とあるように、重行宅で歌仙を巻き、ここに3泊してから、川舟で酒田に向かいます。

 すぐ近くに内川の細い流れがあって乗船地跡があります。ここからは「川舟に乗て、酒田の湊に下る。」という旅です。酒田までは7里ほどで、ほぼ半日の行程です。

 芭蕉にまつわるところはそれでお終いですが、その後は内川河川公園を経て、鶴ヶ岡城五日町口木戸跡、豪商の旧風間家住宅・丙申堂などを通ります。鶴岡公園に入って庄内神社、藤沢周平記念館、大宝館、致道博物館などのあたりを歩きますが、時間の関係で中に入ることはしません。駆け足のように歩いた鶴岡市内ですが、それでも城下町の風情はじゅうぶん堪能できました。

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