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2018年3月26日 (月)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(9)

  第8回 山寺から象潟まで

 

 8回目の旅は、初冬の風情が漂う1122日から25日までです。22日に東北地方で地震がありました。今回は山形県・秋田県を歩きます。

 

山形市

 

 旅の初日から予定変更の恐れが出てきます。東京駅の乗車予定は1100分発・つばさ135号で、1344分山形駅着です。案内板を見ると、東北・山形・秋田新幹線は乱れていることがわかりますから、1057分発・やまびこ47号・盛岡行に乗ります。時刻表より遅れての発車です。いちばん早い列車で福島まで行っておこうという判断です。福島駅に着いたのは1235分です。

 福島駅で、つばさ135号は運休になったことを知り、その次のつばさ137号が福島を発車するのは何時になるかわからないと教えられます。駅構内を歩いたり待合室でテレビを見たりして時間を費やします。多賀城市内の川に津波が遡上している映像が流れています。つばさ137号が福島を発車したのは14時ちょうどです。初日に立石寺へ行って山形に戻るという計画は不可能です。

 山形新幹線のような単線区間のある鉄道は、いったんダイヤが乱れ始めると、ますます遅れが増幅していきます。特急でありながら、米沢の手前の駅で普通列車との行き違いのために長い時間待たされたりしながら、山形駅に着いたのは1533分でした。

 この日は山形市内からは動けないと覚悟して、駅前の霞城セントラルの展望階に上って、山形市内を眺めます。足元に見える霞城公園の左手奥に芭蕉が登った月山があるはずですが曇ってしまっています。山形駅の向こう側、東の方向には陸奥と出羽を区切る山々の連なりが続いています。

 『おくのほそ道』は尾花沢から立石寺に行き、引き返して大石田に向かっていますから、山形市には来ていません。けれども県都には敬意を表しておこうと思い、山形に泊まる計画です。駅前のホテルに荷物を置いてから市内を散策することにしますが、晩秋ゆえにすぐに暗くなります。山形城跡の霞城公園を歩きます。体育館や県立博物館などがありますが、閉まっています。いろんなモニュメントなども暗くなって見えません。山形市郷土館だけがライブアップされています。

 

山寺

 

 「山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

   閑さや岩にしみ入蝉の声  」

 芭蕉は大石田で清風や素英などに勧められたのでしょう、北に向かう予定を南に変えて、立石寺に向かいました。「其間七里」とあるように、往路で1日、復路で1日が必要です。『曾良随行日記』によれば途中の楯岡まで馬で送ってもらっていますし、帰りも馬を借りたと記されています。何がどんな結果をもたらすかは芭蕉自身も予測できなかったでしょうが、この寄り道は『おくのほそ道』の中でも優れた文章となり、印象的な句を作ることになります。

 2日目は7時前にホテルを発ち、7時30分過ぎに仙山線の山寺駅に着きます。ホームから山寺を眺め、駅構内の見晴台から改めて岩山全体が境内となっている立石寺を見上げてから、歩き始めます。

 赤い欄干の山寺宝珠橋で立谷川を渡ります。水は少なく、川底の岩が現れています。開店していない土産物屋などの前を歩き、日枝神社登山口を過ぎて、しばらく行くと「奥の細道 立石寺」の標柱や案内板のあるところに着きます。清和天皇の勅許をもらった慈覚大師により860(貞観2年)に開かれたと書いてあるのは、芭蕉も述べているとおりです。長い石段が延びていますが、色づいた木々がしっとりとした風情を見せています。上りきるとそこが本堂(根本中堂)で、赤や黄色の木々が華やかに見えます。一画にはイチョウが散り敷いているところがあります。

 私は立石寺に来るのは3度目です。かつてとは異なったルートを歩いているように思います。本堂から左手に進むと、清和天皇の御宝塔があり、手前に芭蕉の句碑があります。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の碑面は、1853(嘉永6年)の建立から時を経て、読みづらくなっています。進むとすぐに日枝神社になりますが、ご神木である大イチョウの木が葉を落として立っています。

 宝物館の前に芭蕉の像と曾良の像があります。ここの像は、他で見てきたものとは少し違っています。左側に芭蕉の像、右側に曾良の像があって、その間(芭蕉に近い位置)に「閑さや…」の句碑が設けられています。2人とも腰掛けた姿ですが、2人の位置は離れています。像は同じぐらいの大きさですが、台座は芭蕉が高く、曾良が低いので、それなりの均衡を保っています。別々の像である理由は、傍らにある説明の碑から、芭蕉像が1972(昭和47)に建てられ、曾良像が1989(平成元年)に建てられたからであることがわかります。芭蕉像は、頭巾を被って、濃い眉に、やや目が窪んだ穏やかな顔で、角張った頭陀袋を膝に膝に置いています。耳を澄まして、顔を傾けているように思われます。曾良像は、真ん丸頭に何も被らず、以下にも精悍な顔つきで前を見据え、右手に長い杖を、左手に笠を持っています。両足を開いた姿勢で、芭蕉を守り抜くというような気概を感じます。

 常行念仏堂や鐘楼の前を通って山門に入ります。ここから奥之院まで800余の石段があります。山門を入ったところは紅葉が散り敷いています。しばらく先に姥堂があります。小さなお堂に、赤い頭巾を被った姥たちの像が安置されています。ここから下が地獄、ここから上が極楽という浄土口です。

 修行者の通った参道は、最も狭いところは幅14㎝の四寸道で、このあたりから石碑、石像、木柱などの数が増えていきます。平安時代初期の磨崖仏もあり、見上げると垂直の岸壁も見えます。「芭蕉翁」と刻んだ丸い感じの塚が「せみ塚」で、「閑さや…」の句をしたためた短冊を埋めています。

 1848(嘉永元年)に再建されたという仁王門は優美な姿で、紅葉の風景の中にたたずんでいますが、左右に安置された仁王は鋭く人々を睨み付けています。この門を抜けたあたりから、みぞれが降り始めましたが、岩山が左右から迫り来る景色が続きます。「岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に」という芭蕉の筆は誇張ではありません。岩を這い上るようなところはありませんが、芭蕉の頃は修行者のみが行き通う難路もあったことでしょう。

 江戸時代には山内に12の支院があって多くの僧が修行を続けていたそうですが、今は4つの院が残っています。修行の岩場や、岩に立てかけられたようなお堂も見えますが、金乗院の前を通って近づいてみると、準提堂・六観音堂への道には立入禁止の立て札があります。

 最上義光公御霊の前を過ぎると、奥之院と大仏殿の前に着きます。みぞれが降り注ぐ中でガサッという音がして、見上げると木の上で猿が動いています。

 「閑さや岩にしみ入蝉の声」の初五は、「山寺や」から「さびしさや」に変わり、「閑や」に落ち着いたようです。「山寺や」では場所の説明になりますし、「さびしさや」では主観の強い表明になりそうです。「閑さや」は自分をその場所に置いて、視覚・聴覚を澄んだものにしている様子が読みとれます。「岩にしみ入」についても、「しみつく」「しみ込む」という言葉を考えた過程があるようですが、「しみつく」では表面的な印象が残りますし、「しみ込む」ではゆっくり柔らかく入っていくような感じですから、「しみ入()」に定めたのでしょう。「岩にしみ入」の「岩」は、「岩に巌を重て山とし」とあるように、一つや二つの岩を思い眺めているのではないでしょう。幾匹かの蝉がひとつの声となって鳴いていたのが全山の巌の中に吸い込まれているように感じたのではないでしょうか。

 奥之院、大仏殿から、華蔵院、三重小塔に立ち寄り、行啓山寺記念堂を見てから、開山堂と五大堂に行きます。開山堂は慈覚大師を祀るところですが、そこを通って五大堂に上ります。

 五大堂は、五大明王を祀って天下泰平を祈る道場ですが、境内随一の展望所でもあります。舞台のように突き出たところからは、眼下に山寺駅や集落や川が見えます。左右からは岩壁と紅葉の山が迫ってきています。

 仁王門から下って、その門を振り返った風景は、立石寺の看板のようなところです。さまざまなポスターやリーフレットにも載せらています。ただし、仁王門を見たとき、一本の大杉が立ちはだかります。自分の身を右に寄せても左に寄せても、ここからは大杉を省いて仁王門を眺めることはできません。立ちはだかる大杉は寺の主のような存在で、写真に必ず写り込むのです。

 上ってきた道とは違う、細い道を選んで下りていきます。私が過去2回歩いて印象に残っているのはこんな道であったようです。幅2メートルほどで、段になっているところもあり、緩やかな傾斜の道が続いているところもあります。これがかつての登山道で、今は拡幅されて別のルートに変更されているのでしょう。便利になり安全になったのと引き換えに、観光地化し俗化してゆくのでしょう。

 

天童

 

 将棋の町として知られ、温泉にも恵まれている天童ですが、私たちが天童に立ち寄るのは短い時間だけです。スロープのように伸びる駅の階段を下って、町に出ます。駅正面から真っ直ぐ延びる通りを行くと、「奥の細道」の碑があります。芭蕉の足どりが簡単に書かれて、「羽州街道をとおり天童の念仏堂を経て山寺に一泊する。」と書いてあります。根拠として『曾良随行日記』が刻んであります。

 天童公園となっている舞鶴山のふもとの道を進んでいくと天童市立東村山郡役所資料館の前に出ます。1879(明治12)に東村山郡役所として建てられ、1986(昭和61)に資料館として開館しています。3階に塔屋を持ち、瓦葺きで漆喰壁の白亜洋風で、均整がとれた美しい建物です。

 資料館の前に、奥の細道ゆかりの地として翁塚跡という標柱があります。資料館の右手の方へ行くと「念仏寺跡 翁塚」という碑がありますが、これは1978(昭和53)に建てられたものです。傍らに説明の碑があって、その中に「芭蕉翁が天童を通り山寺を尋ねたのが元禄二年旧五月二十七日、二十八日である。宝暦八年旧八月十二日、菱華亭池青が念仏堂に 古池や蛙飛びこむ水の音 の句碑を行脚七十年記念に建立し翁塚と称した」と書いてあります。宝暦8年は1758年です。翁塚については、1760(宝暦10)に山形の俳人、雨声庵皓が旅をしたときに「天童念仏堂の境内に翁塚を拝す」と書いてあると説明されています。

 次に、「北目の道標」を見るべく南の方に向かいます。「奥の細道 山寺への道 北目」という木柱が立っています。芭蕉も辿っただろうと思われる道筋です。ところが肝腎の石の道標がありません。辺りを見回したところ、道の向こう側、工事をしている道路の一画に石が転がっているのを見つけて近寄ると、「右若松道 左湯殿山道」と彫ってあります。これこそが北目の道標と言われるものですが、道路工事中とはいえ、誰もいないところに、まるで無造作に横たえられているのに驚きます。

 さらにそこから南の方に、芭蕉の休石があるのですが、地図を頼りにしながらも、見つけるのにちょっと難渋します。据えられている石そのものに「休石」と彫られています。ほんとうに芭蕉が腰を掛けた石なのか、いつそれに文字を刻みつけたのか、不思議な〝文学遺跡〟です。

 

新庄

 

 天童から新庄まで列車で移動します。駅から南の方に向かって、升形川を新栄橋で渡り、八幡神社の前を過ぎ、JRの下をくぐって少し行くと柳の清水の遺跡です。

 柳の清水は、大きな石で囲まれた縦横1メートル余りの湧水です。昭和の初めまで清水が豊かに湧き出していたそうですが、今は貯まっている水に動きはありません。傍らの説明板には、鳥越一里塚を通り過ぎた芭蕉のことを「この日は六月一日(七月十七日)の昼ごろであった。訪ねる風流亭(澁谷甚兵衛宅)は間近と聞いていても、この涼しげな柳と清冽な清水を見て、芭蕉と曾良も小憩をとって一掬咽喉をうるおし、汗も沈めたことであろう。『水の奥氷室尋ぬる柳かな』これが風流亭での芭蕉の挨拶の句であった。」と説明しています。

 ここには「水の奥氷室尋ぬる柳かな」の句碑があり、蓼太の「涼しさや行先々へ最上川」もあります。この句は、柳の陰を流れる水は涼しげで、その水の奥の方を尋ねていけば氷室に行き当たりそうだ、という意味です。奥の方にある氷室を尋ねていこうという意味にもとれますし、氷室が澁谷甚兵衛を指していると考えることもできます。

 柳の清水の近くに、鳥越の一里塚があり、羽州街道の昔の姿を保っています。一里塚は松や榎を植えることが多いのですが、ここはブナの大木で、珍しい例のようです。北側の塚だけが残り、南側はなくなっています。この手前には舟形町紫山に一里塚があり、この先には新庄の上茶屋町にあったそうですが、今ではどちらも失われています。芭蕉はここまで来て新庄が近いことを知り、柳の清水で一休みしたのでしょう。大木の傍に「羽州街道跡 新庄城下南入口」という黒い標柱が立っています。

 新庄駅に引き返して、泊まる予定の酒田に向かいます。夕暮れから闇の世界へと変化していくローカル線を旅することは大好きです。ところどころに光が見えて、あとは闇の中という車窓で、ひとつずつ駅を過ぎていくのも旅の味わいです。

 

吹浦から三崎へ

 

 「羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云もののふの家にむかへられて、誹諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。

   あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

   暑き日を海にいれたり最上川  」

 『おくのほそ道』歩きは遂に日本海に出会います。出羽三山の旅を終えた芭蕉は、鶴岡から舟に乗って赤川を下って酒田に向かいます。今の赤川は日本海に直接流れ入っていますが、昔は最上川の下流に合流していました。芭蕉は酒田に泊まってから北に向かい、吹浦や三崎を経て象潟に着きます。三崎は現在の山形・秋田県境です。芭蕉の句にある「あつみ山(温海山)」は酒田市の南方にある700メートルを超える山であり、「吹浦」は飽海郡遊佐町の吹浦のことです。

 3日目、私たちは吹浦駅で下車し、小砂川駅まで歩きます。朝のニュースは、東京都心の11月の降雪は54年ぶりで、11月の積雪は昭和36年以降では初めてであると伝えています。庄内地方は曇っていますが、そんなに寒くはありません。酒田駅の電車にはわずかですが雪が付いています。

 8時前に酒田を出る秋田行は空いていますが、高校生の姿もあちこちに見えます。酒田から遊佐町に向かうにつれて鳥海山が前方から右の車窓に移り、南鳥海駅では田圃と民家の向こうに大きな姿が迫ってきます。青空が見え始めました。頂上が手に取るように近く見えて、真っ白です。遊佐駅では高校生たちが下車し、私たちはその次の駅で下車します。吹浦駅には、墨で書かれた「芭蕉止宿の地」と「鳥海山と十六羅漢岩の吹浦」という2枚の板が下げられています。芭蕉の句の「吹浦」は「ふくうら」と読みますが、現在の駅名は「ふくら」です。

 待合室には鉄道唱歌を書いた額が掲げられていますが、言葉が少し違っています。「汽笛一声吹浦を 早我が汽車ははなれたり 日本海に入り残る 月を旅路の友として」「左は名高き出羽の冨士 麓は名士のい出どころ 雲は消えても消え残る 名は千歳の後までも」…と8番まで続きますが、このあたりの地名や名所などに置き換えた替え歌です。なぜ鉄道唱歌がという疑問は、駅前広場に出るとわかります。初代鉄道助の佐藤政養(与之助)の像が建ち、彼は遊佐町高瀬升川の出身であるのです。

 線路の東側の道を鳥海山大物忌神社へ歩きます。手前の道路に木でできた一の鳥居があり、鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮の境内となるところにも木でできた二の鳥居があります。うっそうとした丘が後ろに広がる神社です。神社の本社は海抜2236メートルの鳥海山頂に鎮座しており、麓に里宮として吹浦と蕨岡に口ノ宮があります。この神社は日本最北の一之宮だと書いてあります。長い石段が真っ直ぐに続いていますが、上るのは敬遠します。目の前にある下拝殿から遙拝します。

 琴平神社の横を通って、積み石で囲まれた小さなガードをくぐって、羽越線の海側へ抜けます。水辺が広がり、小さな舟がつながれています。月光川の河口部分で、歩くとすぐに日本海です。風は強くはありませんが、渚近くの海は白波が立っています。

 国道345号を右にカーブして歩いていくと碑が見えてきます。「あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ」が海を背にして建っています。温海山と吹浦は離れたところにあります。温海山が遠くに見えて吹浦は目の前です。温海山から吹浦にかけて見渡したという印象を出すためには、字余りの「や」が必要なのでしょう。「あつみ(温い・暑い)」ものを「ふく(吹く)」ことによって、涼しさを呼び寄せるという気持ちが感じられます。眺望をほしいままにして夕涼みをしているという伸びやかさがあります。これまでの山旅から、海岸に出ることによってほっとした思いになっているにちがいありません。

 句碑の下の海岸は出羽二見と呼ばれる景勝の地です。伊勢の二見浦と同じように、対となった岩に注連縄が渡されています。右側の大きい方の岩には赤い鳥居が立ち、鳥居の後ろが一段高くなって、松の木が生えています。

 道は海岸に沿って曲がりくねっていきます。しばらく歩くと左手に小高い丘が現れて、それを上ります。赤くなった松の落ち葉が幾重にも積もったところを歩くと、松の木陰から平らな島が見えてきます。沖合に浮かぶ飛島です。丘の上は広場で、地元の人たちの句碑なども建てられています。

 広場から海の方に見えるのが羅漢岩です。吹浦海禅寺の寛海和尚が、日本海の荒波で命を失った人を供養するとともに、海上の安全と仏道の興隆を願って、岩に刻みつけた羅漢像です。数百メートルにわたる奇岩に、石工とともに十六羅漢とその他の仏像を刻んで、明治初年に完成させたと言われます。茶色を帯びた岩には白波が寄せては返していきます。

 北の方に見える岬が、山形・秋田県境の三崎のあたりだろうと思われ、そこを目指して歩きます。三崎に向かう海岸線は、ジオパークになっています。人の気配には乏しく、国道を行き来する車もまばらです。道の横を秋田に向かう羽越線の電車が通り過ぎます。

 民家に風除けを設けているのが目につく地域があります。細い棒を縦に並べて縄で結んでいます。冬になれば強い風が吹くのでしょう。このあたりの日本海はなかなか手ごわそうです。

 女鹿バス待合所という小さな建物があり、その少し先の延命地蔵大菩薩があるところから右の方へ入る道があるので、そちらへ歩を進めてみます。少し後戻りするような方向になるのですが、神泉の水(かみこのみず)のところへ出ます。この水の流れは、6つの水槽に仕切られて、上の方から下の方に向かって、その使い方を決めて守ってきたものです。一番下の水の傍には砥石で刃物を研いでいる人がいます。「湧き水を山の神より普請して引いてきた」のでこのような名になったという説明が書いてあります。

 

三崎、小砂川

 

 「奥の細道 三崎峠」という標柱があります。説明板には、「前日酒田を出立したものの激しい雨に逢い、やむなく吹浦に一泊し、当日も雨であったが、芭蕉は象潟への期待から雨にもめげず、むかし有耶無耶の関があったというこの難所を越えて行ったのである。」と書いてあります。

 海の方角に向かって丘を上っていくと、大きな石がごろごろするところを縫って細い道が続きます。芭蕉の辿った難所を思わせますが、すぐに観光客用に整備されているところに出ます。山肌は枯れた雑草で灰茶色ですが、彼方に鳥海山が見えます。四阿のあたりへ上っていくと、足元に打ち寄せる白波が見えるようになります。さらに上っていくと吹浦のあたりの海岸線も見えるようになります。

 白い小さな灯台があり、そちらへ続く道をたどります。旧街道と三崎公園への道の分岐点がありますが、三崎公園への道を歩きます。しばらくすると下の方へ続く長い石段が始まります。下りたところに「三崎峠からウヤムヤの関を訪ねる道」という、秋田県自然保護課が設置した案内板があって、現在地が山形・秋田の県境にあたると書いてありますが、有耶無耶の関の位置は表示されていません。

 三崎茶屋と書いてある管理棟へ行って、係の方に説明を聞きます。管理棟の前のあたりは広場になっていますが、そこから上り道になって国道7号の方へ続きます。上っていくと、曾良随行日記の碑の前に出ます。『おくのほそ道』はこのあたりのことを書いていませんから、曾良の日記が彫られています。碑の前が旧街道との合流点です。その途中に一里塚跡があったはずですが、私たちは海岸を経由したので、立ち寄らないで過ぎました。国道7号へ出て、少し後戻りすると県境地点があります。山形県遊佐町と秋田県にかほ市を示す表示板がそれぞれ設置されています。標高33メートルです。

 天候に恵まれて、青空が広がります。寒さは感じません。芭蕉が雨に悩まされながら象潟に向かったことは『曾良随行日記』に見えますし、『おくのほそ道』の象潟の部分も雨のことを書いています。このあたりは昨日、寒くて雪がちらついたのだそうですが、快適に歩けます。

 国道の傍らに「秋田県史跡 三崎山旧街道」という白い標柱が立っていて、そこから見る海は青く穏やかです。渚だけには白い波が見えます。県境から歩くこと15分弱で道が二股に分かれます。国道7号からわかれて、集落の中へと続く道を歩きます。集落の中に「菅江真澄が宿泊した磯家跡」があります。どっしりとした建て方で、かつての旅籠です。文人紀行家の菅江真澄は1784(天明4年)9月、三崎山を通って小砂川に入り、悪天候のためここで2泊して汐越(象潟)に向かったのです。

 小砂川駅に着いて、発車時刻まで間があるので海岸へ出てみます。砂浜ではなく断崖の上のようなところです。松の木の間から、台地のような飛島が見えます。空も海も青く広がっています。少し離れたところに頭白稲荷神社という小さな社があります。

 

象潟

 

 「江山水陸の風光、数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、磯を伝ひ、いさごをふみて、其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して雨も又奇也とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能は霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先、能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上こぐとよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり、神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をさゝへ、其影うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまへて、浪打入る所を汐ごしと云。江の縦横一里ばかり、俤松嶋にかよひて、又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。

   象潟や雨に西施がねぶの花

   汐越や鶴はぎぬれて海涼し

    祭礼

   象潟や料理何くふ神祭     曾良

   蜑の家や戸板を敷て夕涼    みのゝ国の商人・低耳

    岩上に?鳩の巣をみる

   波こえぬ契ありてやみさごの巣 曾良 」

 『おくのほそ道』の象潟は、松島と同じように、改まった書き方になっています。象潟駅には「奥の細道最北の地 象潟」という横幕が掲げられています。平泉と象潟を比べてみると、平泉が北緯39度ちょうどぐらい、象潟が3912分あたりですから、確かに象潟の方が最北ということになります。現代的な感覚で言うと、芭蕉は粋な計らいをしたのかもしれません。何しろ岩手県にも秋田県にもちょっとだけ立ち寄って、観光資源になるように配慮しています。

 駅前から南に向かって細い道を歩き、しばらく行ってから左折して踏切を越えてます。鳥海山の手前に、田圃やいろいろな建物や人家が見えます。にかほ市象潟郷土資料館に寄ります。そこから北に向かって能因島へ歩きます。

 九十九島、八十八潟として景勝の地であった象潟は、1804(文化元年)の地震によって、島々が陸地の風景に変わりました。今は、ところどころに小山が点在して、ごく普通の田圃の風景です。隆起した後の農耕作業によって平板な田圃になったのでしょう。航空写真を見ると、区画された田圃の中に小山(かつての島)が点在しているのがわかります。かつての潟の姿は、一帯の田圃に水が張られる季節に限って再現されるのでしょう。

 芭蕉は汐越に近い象潟橋のたもとから舟に乗って、能因島を経て干満珠寺の境内に舟を寄せて西行の古歌の名所を訪ねています。『曾良随行日記』によれば、舟に乗ったのは、象潟に着いた翌日の夕方です。真夏ですから、涼しくなる時刻を選んだのかもしれません。

 能因法師がこの風景を愛でて3年間幽居していたという伝説の残る能因島ですが、近くに立てられている説明板には、めぐり島と呼ばれていたものが、いつしか伝承を踏まえて能因島と呼ばれるようになったのではないか、と書いています。能因島という呼び名が定着したのは芭蕉の頃より後のことのようで、能因島と呼んだのは、芭蕉が先駆けのようになったのかもしれません。この島はちょっと盛り上がっただけの丘で、姿の良い松が10本ほど枝を伸ばしております。

 能因島から少し歩くと、記念位置標というのがあって、この地点の経緯度とともに、標高が記されて、3メートル021とあります。刈り取られた水田のそばの道を歩いて蚶満寺に向かいます。

 蚶満寺は853(仁寿3年)に慈覚大師が開山したと伝えられています。かつては島々の一つであり、象潟の景色の要になっていたのでしょう。裏門らしきところから、古木に囲まれた境内に入ると、あたり全体が静けさに包まれています。鐘楼が目に入ります。本堂の左側にある通路から裏の史跡庭園へ進むと、ちょっと明るくなって潟の風景が見えるところに「舟つなぎの石」があります。境内近くまで田圃が広がっていますが、人々は潟からここへ上陸したのでしょう。近くに「西行法師の歌桜」があります。西行は「象潟の桜は波に埋もれて花の上こぐ蜑の釣舟」と詠んでいます。芭蕉が訪れた季節はそれとは違うのですが、脳裏に西行の詠んだ景色を思い浮かべたことでしょう。

 少し高いところに芭蕉の句碑があります。真ん中に大きく芭蕉翁と書かれ、その左右に「象潟の雨や」「西施がねぶの花」と刻まれています。裏には宝暦十三年九月と彫られています。宝暦13年は1763年ですので、句形は初案のものです。

 『おくのほそ道』の文章にあるように「風景一眼の中に尽て」いますが、地理の様子を東西南北として書いているのは、かなり大まかな表現のようです。旅の大きな目的地であったところを眼前にしているという、気負い立った気持ちがあったことでしょう。

 「俤松嶋にかよひて、又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。」「寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。」という表現は、太平洋側と日本海側という違いとともに、訪れた日の天候の違いにも左右された印象でしょう。けれども、類似点を見出すよりは、対照的な表現の方が面白いという判断はじゅうぶん働いていたことでしょう。私たちの訪れた日は、天候に恵まれましたから、恨むがごとき陰鬱さはまったくありません。

 「象潟や雨に西施がねぶの花」という句は、雨にけぶっている象潟の風景を眺めやると、何か恨んでもいるような悩ましさが感じられてきて、あたりに合歓の花が咲いているが、雨粒を受けたその花の趣は、西施が物思いにふけるように目を閉じている風情を思い出させるというのです。中国の越の国の美女・西施は、敗戦の後に敵の呉の国王のもとに送られます。呉王は西施を寵愛しますが、敵地での彼女は憂いに沈んでいたに違いありません。そんな表情を、象潟の風景に投影しているのです。

 蚶満寺の山門を出ると公園が広がっています。小さな池の傍らに「九十九島の碑」があり、少し行くと、背丈ほどもある大きな石の上に芭蕉像が立っています。杖を抱え込むようにして両袖の手を胸の前で結んだ姿です。長い杖の先に頭陀袋をひっかけて、それを背中にまわしているのです。ほっと一休みした、ゆったりとした気持ちで周りの風景を眺めているような感じです。このような芭蕉の姿は初めて見ました。近くに「象潟の雨や西施がねぶの花」の句碑があります。新しい句碑のように思われますが、宝暦の句碑と同じように初案を刻んでいます。

 離れたところに西施の像があります。高い石の上に像がありますが、芭蕉像が黒っぽいのに比べて、西施は白い像です。風を受けながら何かにもたれかかるようなポーズで、右手で自身の長い髪を持ち上げて、左手で籠のようなものを提げているのですが、見た瞬間は、紀元前500年頃の人の像とは思われず、こんなところに何の像があるのかと思ったほどです。薄暗く感じるほどの松林の中で、この像のあたりだけ直接の日光を受けていたことも加わって、現代に近い時代を感じてしまいます。

 寺を出て、国道7号を横断して、集落の中に続く道をたどります。「おくのほそ道 芭蕉の歩いた道」という案内柱があちこちに立っています。しばらく行くと、船つなぎ石の史跡に出ます。象潟川の象潟橋(欄干橋)のたもとに道しるべの石が残っています。川を上ってきた船を停めるのに利用した石ですが、九十九島、八十八潟への船はこのあたりから出ていったようです。芭蕉たちも能因島などに向かってここから乗り込んだのでしょう。この象潟橋から見る鳥海山は絶景です。真っ白な山頂が青空に映えています。すぐ前で川が二股になっているのも風景のアクセントです。

 『おくのほそ道』には「浪打入る所を汐ごしと云。」という言葉がありますが、地図を見るとこの近くには塩越城跡などと書かれていますから、このあたりが潟と海とを結んでいたところでしょう。「汐越や鶴はぎぬれて海涼し」は、潮が満ちて寄せてくる汐越に鶴が下り立っている様子を詠んでいます。鶴の脚は海水に濡れていて、あたりの海の景色はいかにも涼しげであると感じているのです。

 曲がりくねって道が続いていきます。橋から近いところに熊野神社があります。石段を上ったところに境内地があります。芭蕉が象潟に着いた日はたまたまこの神社の祭礼の日でした。『曾良随行日記』には、宿が女客でいっぱいであったので向屋に泊まったと書かれています。

 この祭りに際しての曾良の句が「象潟や料理何くふ神祭」です。象潟に着いてみると折から熊野神社の祭礼が行われているが、このような海辺の田舎では、祭りのご馳走としてどんなものを作って食べるのであろうかという意味です。好奇心を持って即興的に作った句でしょう。

 細い道を歩いていくと、次々とゆかりの地が現れます。芭蕉を迎えた今野又左衛門の家、その弟の嘉兵衛の家、1784(天明4年)に三崎を経て象潟を訪れた菅江真澄が滞在した岡本屋の跡、芭蕉が宿泊した能登屋の跡などです。これらの住居や宿屋の跡は、古いまま残っているのではなく、ここがその地にあたるというだけですが、きちんと説明板が設けられているのです。

 町の入口に設けられていた木戸の跡、年貢米を保管する米倉と番所が置かれていた御蔵屋敷の跡を経て、象潟駅に戻ってきます。

 なお低耳の句「蜑の家や戸板を敷て夕涼」は、海岸の漁師の家では雨戸を持ち出して腰を下ろして夕涼みをしているという、素朴な情景を詠んでいます。岩上のみさごの巣を見て作った曾良の句「波こえぬ契ありてやみさごの巣」は、波が越えそうにない岩の上だから安心するとともに、夫婦仲も決して変わることがないと信じて、睦まじく巣を営んでいると詠んでいるのです。

 

酒田の日和山

 

 4日目の朝、駅前のホテルを出て、西に向かいます。この辺りかなという見当をつけたところを進んでいくと、道が少しずつ上り坂になってきます。鮮魚店の店頭に大きな秋鮭がいくつも並べて干してあるのが目に入り、「鮭おくり風干」と書いてあります。何日も何日も干し続けているのでしょう。銀色の背中を見せるものと薄褐色の腹を見せるものとが、頭を下にして吊り下げられています。

 坂道の右側に日吉神社の鳥居が見えてきます。左の方に広がるのが日和山公園です。最上川と日本海を望んで、酒田港に出入りした船乗りたちが、ここからの日和を見て、出航の判断をしたところです。桜の名所にもなっており、あたり一帯は文学の散歩道になっています。入り口に井上靖の文学碑が座っています。大きく交わるような形に配された石に、「氷壁」からの文章が刻まれています。

 その奥に芭蕉の像があります。やや細身のように感じられる芭蕉が頭陀袋を首から提げて、右手には腰のあたりまでの短い杖を持って、左手で笠をやはり腰のあたりに持っている姿です。視線はやや上向きで、遠くに注がれています。近くに「暑き日を海にいれたりもがみ川」の句碑があります。私たちが訪れたのは11月ですが、芭蕉は暑い最中に酒田に来ています。もとは「涼しさや海に入たる最上川」の形であったようです。「日和山公園の日の入り時刻」という案内板があって、それぞれの月の1日と15日の時刻が書いてあります。1115日は1627分ですが、8月1日は1853分です。芭蕉が訪れた日を新暦に直すと8月初めの暑い頃です。「暑き日」というのは、暑い太陽という意味か、暑い一日という意味か、どちらとも取れそうですが、私は、初めて読んだときから後者の意味に取っていました。けれども両方を合わせて、暑い太陽が最上川が海に注ぐ辺りに落ちていって、暑い一日を最上川に洗い流したように感じたと解釈してもよかろうと思います。

 展望広場から目の下に見える背割堤は最上川と酒田港を分離する目的で行われ、10年以上にわたる大工事で1932(昭和7年)に完成しています。人工的な景色は否めませんから、最上川の川幅が狭まって、芭蕉の句の持つ大きさがそがれた感じがしないでもありません。右下に六角灯台が見えます。1895(明治28)から最上川河口左岸に設けられていたもので、1958(昭和33)に建て替えられた際にここに移されました。真っ白な木造の建物で、一度見たら印象に残る形をしています。

 広場の手前に常夜灯があって、石の柵で囲まれています。大きく文化十年正月の文字が見えますが、1813年に全国各地の商人たちが寄進したものです。酒田港が力を誇示していた時代のものです。公園の一帯には文学の散歩道が広がっていて、与謝蕪村、斎藤茂吉、正岡子規、若山牧水など30基近い碑があります。

 芭蕉の筆跡をもとにした碑は「あふみや玉志亭にして」で始まる言葉が書かれていて、続いて即興の句会で詠んだ芭蕉、曾良、不玉、玉志の句が記されています。芭蕉の句は「初真桑四にや断ん輪に切ん」です。この真桑瓜の初物は四つ割りにしようか輪切りにしようかという意味で、食べ物を前にして無邪気に戯れる様子があらわれています。

 修景池の中に北前船があります。池を海に見立てて、西回り航路の寄港地の説明板を設置し、北前船の2分の1の模型があります。船に乗り込むことができないことと帆が降ろされている姿であるのは残念ですが、かつての繁栄を感じ取ることができます。河村瑞賢の像が、堂々とした風格で、高い台座の上に立っています。少し行くと今度は芭蕉の「温海山や吹浦かけて夕涼」の句碑があります。やはり芭蕉は別格のようで、3つの碑と1つの像があるのです。

 文学散歩道は広い道路の東側にも続いているのですが、本格的な洋風医院建築である旧白崎医院を眺めやりつつ、酒田駅に向かいます。

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