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2018年3月20日 (火)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(3)

  第2回 日光から殺生石まで

 

 

 2回目の旅は5月8日から11日までです。この年の5月8日は、旧暦では4月2日にあたります。今回の旅は日光から始めますが、芭蕉が日光を訪れた時期とほぼ同じ頃です。今回は栃木県を歩きます。

 

日光山の麓

 

 「卅日、日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう『我名を佛五左衛門と云。万、正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も、打解て休み給へ。』と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。」

 私たちはそれぞれ、日光道中をすべて歩いております。それもあって、今回の旅の初日は日光へ直行して、そこから歩き始めます。田植えを終えたばかりの水田が鏡のように広がっています。空の色を映して青い水の田圃です。

 日光道中の終着点の宿場名になっている鉢石に寄ります。既に訪れたことがあるところです。岩盤が地中から顔を出して、鉢を伏せたような形であるので、この名が付いています。勝道上人の日光開山伝説と結びついて、古くから親しまれている石ですが、有り難みが格別ある石のようにも見えません。苔むして白黒まだらの感じの石です。

 『おくのほそ道』では五左衛門のことを「佛」という言葉まで付けて紹介しています。抜け目のない人は当時にもいたはずですが 芭蕉にとってそんな人は苦手だったのでしょう。「無智無分別」は批判の言葉でなく、世俗的な利害や得失を超越しているという賛辞です。正直一徹で朴訥な宿の主人の人柄に感じ入っています。ここは芭蕉の人間観が現れ出た一節のように思います。日光は東照宮に参拝することが大きな目的であったはずですが、そのことよりも前に五左衛門のことを述べています。人に出会う旅という『おくのほそ道』の方向性を端的に示しているところです。

 

日光

 

 「卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖、穏なり。猶、憚多くて、筆をさし置ぬ。

   あらたふと青葉若葉の日の光  」

 御山とは広く言えば日光の黒髪山(男体山)など山々のことですが、ここは「詣拝」という言葉を使っていますから日光東照宮を指しています。二荒(ふたら)山は、この山を開基した勝道上人が補陀洛(ふだらく)山と称したことに由来すると言われます。空海が開基したわけでなく、二荒(にこう)を日光(にこう、にっこう)に改めたという確証もないようです。けれども、文章の流れとしては、空海が日光と改めたのは、徳川家の廟所として光り輝いている今日を予測されたのであろうかと考えて、徳川家の威光が天下に行きわたっていることを芭蕉は讃えているのです。

 芭蕉は「墨筆のたぐひ」を携行していますが、俳句ができると曾良に書き留めさせたのでしょうか。「あらたふと」の句は、曾良の「俳諧書留」では、「あなたふと木の下暗も日の光」の句形になっています。室の八嶋から日光に向かう途中吟であったものを、文章の流れに応じて、この位置に変えたのかもしれません。

 あまりにもよく知られた句ですが、文章の流れの中で、この位置に置くと、この句は日光の神域で詠まれたことになり、浄化されたところの青葉若葉に降り注ぐ日の光を表現していることになります。「あらたふと」というのは、東照宮に祀られている徳川家康についてであり、天下泰平の世の中に対してでもあるのでしょう。謙虚に手を合わせている芭蕉の姿が感じられます。

 大谷川に架かる日光橋を渡ります。江戸時代の神橋は日光に参詣する将軍と、山々で修行をする修験者だけに通行が許されており、一般の人は仮橋(日光橋の前身)を通行しました。30メートル弱の橋は重要文化財に指定されていて、拝観料を納めれば通れますが、向こう岸に出ることはできません。

 日光橋を渡りきると、太郎杉がそびえています。その根元を国道120号が通っていますが、道路が狭くなって渋滞が起きています。近くを歩くのも危険を感じます。太郎杉など老杉15本を伐採して道路を広げることを国や県が計画し、それに反対する東照宮が提訴するということが全国的な話題になったことがありました。1964(昭和39)から9年間にもわたる訴訟は、頭に強く残っています。結局は東照宮の考えが通って、環境保護の先駆的な例になりました。

 太郎杉を行き過ぎてから、長坂をゆっくり上って日光の二社一寺へ近づいていきます。坂を上りきると、錫杖を手にした勝道上人の像が建っています。像を仰ぎ見ながら、日光山輪王寺の三仏堂に近づきますが、素屋根に覆われています。大修理が行われているのです。

 重要文化財である御仮殿に行きます。ご本社を修理する際にご祭神をお移ししてお祀りする仮の御殿であるという説明板が立っています。現在の社殿は1639(寛永16)の建立だそうですから、もし芭蕉がこれを目にしているのなら、同じものを私たちも見ていることになります。

 五重塔を仰ぎ見てから、1636(寛永13)に家康21回忌に合わせて大造替がなされた東照宮を拝観します。いろんなものが次々に現れます。校倉造りを模した三神庫は、渡御祭の奉仕者の装束が1200人分収められています。境内で唯一の素木造りである神厩舎があります。長押の上の三猿は「見ざる、言わざる、聞かざる」です。欄間に飾られた8つの猿の彫刻は、猿が馬の健康安全を守るという信仰に基づいているそうですが、あちらこちらの塗りが落ちたりしています。

 屋根柱が花崗岩で作られている唐破風の手水舎があります。北側には、一切経を収めた経蔵があって、中には輪蔵という八角形の回転式書架があるそうです。櫓造りになつている鐘楼の前を通ります。

 いつまでも見飽きないところから日暮門とも言われる陽明門は、前回の修理から40年が経過して外装の痛みが著しいという理由で、2013(平成25)から2019(平成31)まで保存修理工事が行われています。漆や彩色の塗り直し、錺金具の表面仕上げを再生することなども行われています。東照宮の創建当時の姿は想像するしかありません。神楽殿を通って坂下門に向かいます。頭上に飛弾の左甚五郎作の眠り猫があります。牡丹の花が咲いている下で、日の光を浴びて猫がうたた寝をしています。眠り猫や三猿などのお色直しが、およそ60年ぶりに行われるそうです。彩色がはげて痛みが目立っているので、顔料を塗り直したり金箔を施したりするのです。一枚石でできている長い石段を上っていくと御宝蔵や狛犬があり、唐銅で鋳造した鋳抜門があります。

 最も高い位置にある奥宮御宝塔は、柩を収めた徳川家康の墓所です。九段の基盤の上に高さ5メートルの塔があります。ぐるりと回って下る道に、樹齢約600年の叶杉があり、幹がほこらになつているところに注連縄が張られています。足早に下ってきて、薬師堂で、鳴き龍の説明を聞き、その音を聞きます。

 続いて二荒山神社へ行き、次いで、徳川家光公の霊廟である大猷院へ足を向けます。

 芭蕉は「猶、憚多くて、筆をさし置ぬ。」と書いています。家康に対する思いが深いのです。私はそのことよりも、どれほどの技術をそなえた人たちが、どれほどの人数が集まって、どれほどの年月をかけて造営したのが東照宮なのかということを思います。気の遠くなるような話だと思います。

 

 「黒髪山は霞かゝりて雪いまだ白し。

   剃捨て黒髪山に衣更    曾良

 曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁、髪を剃て墨染にさまをかへ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。衣更の二字力ありてきこゆ。」

 ここで曾良のことが詳しく紹介されます。芭蕉は、気心が合わないなら長旅を共に続けようとは思わなかったでしょうが、曾良はどんな人柄だったのでしょうか。曾良は上諏訪の出身ですが、江戸では芭蕉庵と軒を並べるようにすぐ近くに住んでいたようです。『おくのほそ道』の旅の苦しみを助けて慰めようと行動を共にしたのです。芭蕉は曾良のことを批判的に書いたりしていませんが、どこかで何かのヒントを探すことをしてみたいものだと思います。

 曾良は「剃捨て」の句を詠んでいます。この衣更には、春から夏への衣更えとともに、俗衣を僧衣に替えた感慨が込められています。黒髪山の地名に、曾良が剃り捨てた黒髪の意味も掛けているのは言うまでもありません。「衣更の二字力ありてきこゆ」という文末が強く響いて、余韻がただよいます。

 折はちょうど4月1日。訪れた時のことを「黒髪山は霞かゝりて」と書いているのはともかくとして、「雪いまだ白し」は今年の旧暦4月初めの実景ではありません。「黒髪」との対比で「雪白し」と表現しただけなのでしょうか。

 

裏見の滝、含満が淵

 

 「廿余丁、山を登って滝有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也。

   暫時は滝に籠るや夏の初  」

 含満が淵に近い位置にあるという小さな宿で一夜を過ごします。川の水音が聞こえ続け、窓を開けるとその音が大きくなる宿です。夜のニュースは、那須岳の開山祭のことを伝えています。今回の旅の最後は那須の殺生石です。

 2日目の朝、裏見の滝へ向かいます。大谷川の細い流れを見ながら、国道120号に出ます。そして中禅寺湖の方向に向かって歩きます。

 日光奉行所跡、青龍神社などは、少し立ち止まる程度で先を急ぎます。田母沢御用邸記念公園の前を通ります。当時の皇太子(後の大正天皇)の静養地として1899(明治32)に造営されています。殉死の墓や八幡神社があり、田母沢川を渡ります。寂光の滝の入口があり、しばらく行くと道の右側に夜泣き石があります。

 「裏見の滝入口」というバス停があります。裏見の滝まで2.5㎞という表示が出ています。芭蕉が書いている「廿余丁、山を登って」というのは、どこからの経路であるのかはわかりませんが、このあたり、安良沢というところからの距離もちょうどそれぐらいです。バス停を行き過ぎたところから右に折れて、緩やかな坂道にかかります。道路は車が通れるように整備されていますが、「熊出没注意」という看板にどきりとします。右手にある安良沢浄水場の大きなタンクを見送ってしばらく行くと、滝まであと1㎞の表示があります。このあたりでは道幅が狭まって、左右の木々が迫ってきます。右側は崖が立ち上がり、左側は崖が下へ落ちています。新緑の中をぜいたくに歩きます。道の行く手がなくなったところに駐車場があり、滝へはここから左へ分け入っていきます。

 はじめは木を櫛のようにして段を刻んだ道を上ります。折り返したり、ぐるりと回ったりしながら上ります。石を積み上げたケルンがあります。しだいに水音が大きくなり、滝が近いことを思わせます。左手の木々の間からは細い滝が見えます。

 ぱっと開けた場所に出ると、正面に裏見の滝が見えます。芭蕉は「岩洞の頂より飛流して」と書いています。大きな岩と岩とに挟まれたところから流れ落ちていますが、頂ではなく、山はもっと上まで続いています。けれども「百尺千岩の碧潭に落たり」が誇張とは感じられないほど貫禄がそなわっています。ここは大谷川の支流である荒沢川の滝です。

 今は「岩窟に身をひそめ」て滝に近づくことはできないようになっています。デッキのよう作られているところが滝に近づく最終地点です。そこから見ると、滝の左側には、滝に向かって少しずつ上がっていく道筋は見えますが、そこを上って「滝の裏よりみ」ることはできません。

 飛沫を見ながら、しばらく過ごすと「暫時は滝に籠るや夏の初」の思いに近づいたように感じます。夏()とは夏行とか夏安居とか言うこともありますが、僧侶が陰暦4月15日から7月15日までの90日間、一室に籠もって読経や写経などをして修行することです。滝のほとりの清浄な空気の中にいると、僧と同じように自分も夏籠もりをここでしているように思われるというのです。実際に滝の裏に籠もり続けたり滝の水に打たれたわけではありません。

 「暫時は」というところに旅人としての心持ちが現れていますが、芭蕉は『おくのほそ道』の旅そのものを僧の修行のように見ているのでしょう。もっとも、芭蕉が裏見の滝を訪れたのは4月初めですから、夏行が始まる時期より半月間も早かったのです。

 裏見の滝からの帰路は、含満が淵へ寄ります。「裏見の滝入口」というバス停のところで国道120号を横断して、集落の中へ分け入ります。安良沢小学校の校庭に「しばらくは」の句碑があるので立ち寄ります。小杉放菴の書で1956(昭和31)の建立です。

 しばらく行くと、休憩所があって「歩多留庵(ほたるあん)」と名付けられています。憾満の路というウオーキングルートの案内板があります。そこから大日堂跡に向かうと、大谷川が目の前に広がってきます。日光山輪王寺の境内地があって石仏が並んでいます。そして、かつて大日如来を祀ったお堂があったという大日堂跡園地には、芭蕉の「あらたふと」の句碑があります。大洪水で流失したので1909(明治42)に再建したのだそうです。小さな句碑ですが、文字は読みづらくなっています。

 目の前にどっしりした吊り橋が見えてきます。大日橋です。河原から上っていって橋を渡って対岸に向かいます。人気のない橋で、下には大谷川の渓谷が見えます。

 細い道をたどっていくと憾満ヶ淵に出ます。黒髪山(男体山)から噴出した溶岩によってできた奇勝で、不動明王が現れる霊地だと言われます。不動明王の真言を唱えるように川の流れが響くので、真言最後の句「カンマン」と名付けられたと伝えられています。含満という文字遣いもあります。私の耳にそのように聞こえないのは信仰心の薄さによるのでしょう。

 渓谷に沿った道に並び地蔵があります。明治の洪水に遭って、もとは100余体あったものが、今はおよそ70体ほどになっています。数を数えるとその都度違うから化け地蔵とも呼ばれています。一体一体に真新しい真っ赤な帽子とよだれ掛けが付けられています。護摩壇の四阿造りの霊庇閣のあたりから眺めると、深い水色の急流に洗われた、艶やかな岩が川全体に広がり、岩にぶつかる急流が白いしぶきをあげています。木々の葉の黄緑色が鮮やかに川に迫っています。

 慈雲寺、大正天皇御製の歌碑、西町太子堂などをちらりと見ながら、含満大谷橋を渡って、宿に戻ります。荷物を受け取って、神橋を経て、早足で駅へ急ぎます。

 

黒羽

 

 「那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遙に一村を見かけて行に、雨降、日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行く。そこに野飼の馬あり。草刈をのこになげきよれば、野夫といへども、さすがに情しらぬには非ず。『いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うひうひ敷旅人の道ふみたがへん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ』と、かし侍ぬ。ちひさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、

   かさねとは八重撫子の名成べし  曾良

 頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。」

 私たちは日光から黒羽に直行します。芭蕉は、黒羽に向かって那須野の「野越」をしています。集落は「遙に一村」があるという心細い状況であったようです。「農夫の家に一夜をかり」て、翌日も野中を歩き続けています。

 「情しらぬには非」ぬ男から芭蕉は馬を借りますが、曾良は歩いたことでしょう。日光では五左衛門という正直者にあって感激したのですが、ここでも素朴な男の親切にすがる話になっています。道をよく知っている馬を貸して、途中で追い返せというのはなかなかの知恵ですが、とっさの問答ですからユーモラスに聞こえます。

 「かさねとは八重撫子の名成べし」という曾良の句は、可憐な幼女のことを詠んでいます。撫子は夏から秋に咲いて、秋の七草に数えられますが、俳諧では夏の植物です。子どもや女性を撫子に喩えることは古くから行われていたようです。「小姫」の名を聞けば「かさね」だと言います。着物の襲(かさね)というイメージも伴いますが、花弁の重なった八重咲きということを重んじた表現です。撫子には八重咲きのものはないと言われますが、ここは想像をふくらませたということでしょう。

 私たちは西那須野駅からバスで黒羽に向かいますが、この駅の大きさに驚きます。西那須野駅のひとつ先には那須塩原駅(新幹線との併設駅)があり、さらにもう一つ先は黒磯駅(普通電車の始発・終着の拠点駅)です。西那須野駅は小さな駅に過ぎないはずなのですが、風格があります。ここからは、かつては東野鉄道が黒羽に通じていたのです。

 黒羽の町の中心部まで、バスで30分余りです。黒羽出張所というバス停で降りて、国道294号に出ます。北に向かって少し行くと明王寺です。室町時代後期の創建で、那須三十三所観音霊場第一番札所になっています。芭蕉の「今日も又朝日を拝む石の上」の碑が建っています。黒羽で14日間の滞在をした間に歌仙の興行があって、そのうちの一句を選んで句碑にしたという説明があります。

 右手に川が見え隠れするようになって、次の信号で右折すると高岩大橋になります。曲線を描いていく長い橋です。ゆったりと広い河原の那珂川を渡ります。渡り終えると南に向かって引き返す形になっています。丘の上に芭蕉公園などがあるはずですが、上り口がありません。だいぶ歩いて黒羽小学校の前に出ます。武家屋敷の侍門が小学校に移築されています。

 黒羽小学校の前から、北に向かう大宿街道という道を歩きます。大雄寺を左に見て少し行くと、「芭蕉の館」への案内板が見えてきます。「行春や鳥啼き魚の目は泪」の句碑があって、街道を離れて細い道を上っていくと芭蕉の里に着きます。「山も庭も動き入るや夏座敷」の句碑があります。庭に面して風通しのよい夏向きの座敷にから眺めると、新緑の山が動いて庭に入ってくるように感じられて快いという趣を詠んでいます。浄法寺邸の庭園の美しさを詠んだものでしょう。

 句碑からすぐのところに旧浄法寺邸があります。そして、細い道をたどっていくと、「芭蕉の広場」に出ます。「鶴鳴や其声に芭蕉やれぬべし」の句碑があります。鶴と芭蕉を描いた絵を見ていると、この絵の鶴は鳴いているようで、その鋭い声によって風に弱い芭蕉の葉は破れてしまうだろうという趣向です。黒羽滞在中の作ですが、芭蕉は秋の季語です。絵を見ての即興の句だったのでしょう。

 入母屋造りの「芭蕉の館」は閉館時刻が1630分で、その時刻をちょっと過ぎています。建物の前に、芭蕉と曾良が旅をしている像があります。芭蕉が馬に乗り、その右側を曾良が歩いている姿です。芭蕉は手綱を取って視線はやや下向きですが、曾良は少し腰を屈めた姿で、右手で前方の何かを指さしています。曾良はちょっと疲れているのではあるまいかと思われますが、曾良の「かさねとは」の句ができたのは、こんな馬上と徒歩の旅の途中であったのでしょう。

 公園から下ってくると、『おくのほそ道』の一節を刻んだ碑があります。少し行くと、黒羽藩校・作新館跡の碑があります。「田や麦や中にも夏のほととぎす」の芭蕉句碑も建っています。青々とした早苗、そして黄金色の麦の穂という夏らしい風景の中でも、ほととぎすの鳴く声はとりわけ素晴らしいという意味です。

 小学校の前を通って下ってくると、那珂川歩道橋があります。那珂川は、高岩大橋のあたりとは違った景色ですが、河原が広がっています。

 橋を渡ると、黒羽の町の中心部に近づいていきます。常念寺に寄ります。門前に芭蕉の「野を横に馬牽むけよほととぎす」の句碑があります。これは、「奥の細道」の殺生石のところで出てくる句ですが、黒羽の館代・浄法寺によって馬で送ってもらったときの、馬の口付きの男とのやりとりから生まれた句です。

 

 「黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひかけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、一日郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。與市、扇の的を射し時、別しては我国氏神正八まんとちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感応殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。

 修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。

   夏山に足駄を拝む首途哉  」

 黒羽での芭蕉の逗留先は、江戸において芭蕉の門人となっていた黒羽藩城代家老浄法寺高勝(桃雪)と、その弟である鹿子畑豊明(翠桃)です。翠桃の「自の家」は、黒羽の西の方にある余瀬の光明寺の近くであったようですが、今は田圃になっているそうです。「犬追物の跡」の位置も現在でははっきりしていません。「玉藻の前の古墳」として言い伝えられているのは2箇所あると言いますが、「光明寺」は明治初年に廃寺になっています。

 芭蕉たちが一日に歩く距離はかなりのものです。けれども芭蕉の旅は拠点となるところを想定しているようで、そこではゆっくり滞在して疲れを癒しています。そして、拠点と拠点の間は忙しく移動しています。江戸を出発して最初にゆっくり逗留したところが黒羽です。13泊もしています。

 その長い滞在の間に、芭蕉はあちらこちらへ足を延ばしています。『おくのほそ道』の旅を追体験する人は大勢いると思いますが、芭蕉と滞在日数を同じにして旅を続ける人は、おそらく一人もいないでしょう。私たちも黒羽に泊まるのは一夜だけです。

 芭蕉が訪ねた修験光明寺ですが、今はありません。行者堂も残っていませんが、修験道の開祖である役行者の像が残されていたのが行者堂だったのでしょう。光明寺跡には「夏山に」の句碑があるようですが、限られた時間の中でそこまで歩いて句碑を確かめることは割愛します。

 「夏山に」の句は、夏山の中でという意味と、夏山に向かってという意味と、二様に解釈できますが、後者を採ります。これから越えて行くはずの奥羽の山々を仰ぎ見て、鬱蒼と茂った緑の濃い山々を踏み越えていこうとする心持ちが表現された句です。足駄とは、行者の高足駄(高下駄)ですが、行者の健脚にあやかり、そのゆかりの足駄を拝んでいるのです。

 

雲岸寺

 

 「当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。

   竪横の五尺にたらぬ草の庵

     むすぶもくやし雨なかりせば

と松の炭して、岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと、雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さわぎて、おぼえず、彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遙に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天、今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。

 さて、かの跡はいづくのほどにやと後の山によぢのぼれば、石上の小菴、岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。

   木啄も庵はやぶらず夏木立

と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。」

 芭蕉は、江戸俳壇に勢力を確立した頃に深川の草庵に移り、臨川寺の佛頂禅師と深交を結んでいます。私たちはこの旅の初めに臨川寺に立ち寄りました。その佛頂和尚が籠もった寺を芭蕉は訪れます。雲岸寺と書いていますが、現在の名は雲巌寺です。

 和尚の「竪横の」の歌は、自分は竪横五尺にも満たない小さな庵に住んでいるが、一定の場所に住むことをしない僧の身としては、そんな小庵も要らないものであって、雨さえ降らなかったら作りたくもなかったのに、という意味です。五尺というのは一丈の半分で、竪横ともに方丈の半分ですが、庵を結んだのはやむを得ないことであって、悔しいことなのです。

 雲岸寺へは、「人々すゝんで共にいざなひ…」行ったとありますが、なかなか賑やかなことです。

 私たちは3日目の朝、バスで雲巖寺に向かいます。バスの本数が少ないので帰路は歩くことにしますが、雲巖寺と黒羽中心部の距離は12㎞ほどです。

 雲巌寺は写真で見たとおりの景色です。真っ赤な欄干の反り橋が架かり、下は武茂川の流れです。大きな杉の木があたりを圧しています。両側に丸みを帯びて剪定された植え込みの中を、どっしりとした石段が上に向かっています。上りきると山門をくぐり、仏殿、鐘楼、禅堂、方丈、その他の堂宇が目に入ります。

 『おくのほそ道』の文章を引用した大きな説明板があります。「木啄も」の句碑は古くなって、黒い碑面に白い斑点がいっぱいあって、文字が読みにくくなっています。手入れが行き届いた境内ですが、人の姿がなく、静まっています。庫裏にも人影はありません。

 参拝を終えて、黒羽まで歩いて引き返します。錦雲橋で武茂川を渡り、須賀川小学校の横で、心橋を渡ります。田植えを終えた田圃が広がる県道13号を歩きます。途中の道の分岐点に「おくのほそ道」という石標があって、ここから右手へハイキングコースが設定されているようです。

 海抜343メートルの唐松峠を越えると下り坂になり、いつのまにか国道461号になります。あちこちで鯉のぼりが泳いでいます。国道の47㎞ポストから52㎞ポストまでのあたりは、1㎞につき15分のペースで歩いていることを確認しながら、那珂橋を渡って黒羽の町に戻ります。雲巖寺から3時間余り、旅館に立ち寄って、預けた荷物を受け取ります。

 『おくのほそ道』は「八幡宮」のことに筆を割いておりますから、私たちも八幡宮に寄ります。那須は中世から近世にかけて那須氏の拠点が置かれたところで、那須與一はここで生まれ成長したと伝わっています。八幡宮すなわち那須神社は、與一が社殿を再建し、自分の太刀を奉納しています。参道は森閑としていて、道の駅の辺りの明るさとは異なった気配が立ちこめます。

 道の駅の一画にある那須与一伝承館に入ると、「扇の的劇場」というところがあって、ロボットと映像で與一の活躍を伝えています。1185(元暦2年)の屋島で、源義経に命じられた与一が海中に馬を乗り入れて、扇の的を射抜くという物語が語られます。あまりにも有名な場面ですが、誓った神社がこの八幡神社というわけで、芭蕉は「感応殊しきりに覚えらる」と書いています。芭蕉は、歌枕のことはもちろんですが、故事にもすぐに反応します。いや、むしろ反省すべきは現代人の持つ冷ややかさの方であるのかもしれません。

 

殺生石

 

 「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のをのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、

   野を横に馬牽むけよほとゝぎす

 殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど、かさなり死す。」

 長い間の黒羽逗留に区切りをつけて、芭蕉は殺生石に向かいます。黒羽から殺生石までは6里ほどの距離です。殺生石へ寄り道しようというのは、よほど興味を引かれたからなのか、黒羽の人たちに行くことを強く勧められたからなのか、どちらなのでしょう。

 黒羽に向かうときにも芭蕉は馬の背に揺られ、曾良が「かさねとは」の句を作っています。そして、黒羽を離れるときも芭蕉は馬に乗り、今度は芭蕉の「野を横に」の句です。黒羽の前後の那須野で、馬に関連づけて、芭蕉と曾良が句を詠み合っているのです。「馬牽むけよ」という言葉は、いくさに出立するような勇ましさがにじんでいるという批判もありますが、一種の誇張表現でしょう。馬の進んでいるあたりを、ほととぎすが横切ります。野原の真ん中ではなく、近くに丘があるような場所なのでしょう。ほととぎすの声の方向に馬の轡を引き向けてくれという言い方になっていますが、実際には、不意の鳴き声に対して咄嗟にそのような姿勢になったということであるのかもしれません。実際には、ほととぎすが鳴いていなくてもよいでしょう。馬の口を取る男の風流に感じ入った句であると考えてよいでしょう。

 芭蕉の関心は、俳諧との接点などがないような男の心の殊勝さの方に向いているのでしょうか、目的地である殺生石については、その様子を淡々と述べています。

 4日目。私たちは黒磯駅前からバスで殺生石に向かいます。晩翠橋を過ぎてからは赤松林の中を進んで高原に分け入っていきます。お菓子工場や小さな美術館などが目に入ります。那須湯本のバス停で降りますが、バスは那須ロープウエイ行きで、茶臼岳の方へ上っていきます。

 目の前にある鳥居をくぐって那須温泉神社に向かいます。那須温泉開湯1385年と書かれた幟が立っています。境内は平らなところと石段とを繰り返して本殿に近づいていきます。那須與一が奉納した鳥居があります。天皇や皇族のお手植えの松とか、天皇御製の歌碑などもあります。本殿は高いところにありますから、右手の下に殺生石のあるあたりが見えます。はじめてその地域を見下ろしますが、左右の緑の山の間に、帯状の灰色の世界が延びています。

 神社の境内に、芭蕉の「湯をむすぶ誓ひも同じ石清水」の句碑があります。句碑全体が古さびていて、苔に覆われんばかりです。那須温泉神社は7世紀の創建と伝えられ、八幡宮も祀っています。芭蕉の句は、この神社は京都の石清水八幡宮と同じように八幡宮を祀るのであるから、すくった湯で手を浄めるのも、清水をすくうのと同じことだ、という意味です。石清水も那須八幡もどちらも願いを聞き届けてくれるだろうという意味が込められています。

 神社から下ってきて、さらに下って湯川の流れに近づきます。温泉水を沈澱させて乾燥させて硫黄を取り出すという「湯の素採取場」があって、強い匂いがします。湯治宿の並ぶ「鹿の湯」を通ります。「御所の湯源泉」には、硫化水素が発生しているので危険だという看板があります。川の近くには「湯本温泉源」という石柱も立っています。少しずつ上っていくと殺生石の全体が見えてきます。

 殺生石は、那須岳から続く丘が温泉街に迫る斜面にあります。亜硫酸ガスの噴出は続いて硫黄のにおいはしますが、昆虫が重なり死んでいるという姿は見えません。芭蕉の頃とは様子が違うのです。

 ここには「九尾の狐」の伝説があります。中国や印度で美女に化けて悪行を重ねて世を乱していた九尾の狐が日本にやってきて、「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え国を滅ぼそうとしますが、その時の陰陽師に正体を見破られ、那須野に逃げ込んで討ち取られます。狐は大きな毒石となって怨念をはらそうとしたのですが、それが殺生石であるという言い伝えです。芭蕉は古人にまつわる事跡には大いに関心を示しますが 伝説などには無頓着であるのか、九尾の狐のことは書いていません。

 行き止まりに、太い注連縄が張られた大きな石があって、それが殺生石と呼ばれるものです。斜面にたくさんの石がありますが、そのうちの最も大きな石がここでの中心の存在です。黒灰色で、細いひびが入っている石です。殺生石の右手にある草むらに上ったりしてみますが、全体の規模からして、ちょっと高い位置に移っても風景が変わったりはしません。

 近くの草むらに、芭蕉の「石の香や夏草赤く露あつし」の句碑が建っています。この句は『曾良随行日記』に書き留められています。石の毒気のことは本文に書いていますが、この句を『おくのほそ道』に書き加えることはしていません。この句は、石から漂ってくる有毒ガスのにおいが鼻を突き、その石のあたりの夏草は緑色でなく赤く焼けて、その葉に置く冷たい露までが熱いもののように感じられる、と言っているのです。当時は現在と違って、強い臭いや刺激があったのでしょう。故意に異様さを演出しているのではなく、これがあたり一帯の自然な姿であったのかもしれません。

 那須温泉神社の前に戻ってきて、「こんばいろの湯」という足湯でひとときを過ごします。熱い湯で、常に水を加え続けていなければならない温度ですが、ゆったりとした時間を過ごせます。

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