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2018年3月21日 (水)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(4)

  第3回 遊行柳から郡山まで

 

 

 3回目の旅は6月6日から9日までです。田植えの季節で、梅雨空を気にしながらの旅です。今回は栃木県・福島県を歩きます。

 

蘆野

 

 「又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畦に残る。此所の郡守、戸部某の、『此柳みせばや』など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。

   田一枚植て立去る柳かな  」

 「清水ながるゝの柳」とは、新古今集にある西行の歌「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」に詠まれた柳です。道のほとりに清らかな小川が流れているがそこにある柳の木陰にほんのしばらくの間と思って立ち止まった、という意味です。その柳をこの土地の領主が見せたいと言っていたので、芭蕉は立ち寄ったのです。

 謡曲にも「遊行柳」がありますが、西行が実際にこの地まで来て歌を詠んだのかということについては疑いが残るようです。芭蕉が遊行柳という通称を使わずに「清水ながるゝの柳」と表現したのも、そのようなことに由来するのかもしれません。

 芦野の里は、奥州道中歩きのときに通っています。けれども、その時は街道を歩き続けることを目的にしていて、一日で大田原市の中心部から、白河市の手前の白坂宿までの長距離を歩きましたので、遊行柳に立ち寄りませんでした。柳は念頭にあったのですが、通り過ぎてしまってから気付きました。

 旅の初日。黒田原駅から1時間半かけて歩きます。黒田原の駅前は人影がほとんどありません。駅の正面を進んでから左に折れて県道28号を歩きます。那須高校の前を過ぎると人家は少なくなり、田植えがすんでいる田圃が広がります。黒川に架かる橋を渡ってから、木々がかぶさるようになっている道を抜けると芦野小学校の前に出て、芦野の里が近づきます。芦野支所前というバス停の前から左に折れて細い道を進むと、こんもりとした柳が見えてきます。

 遊行柳の左側の、大きなイチョウの木の根元にある上宮温泉神社に参っておいてから、鳥居をくぐって遊行柳の境内地に入ります。玉垣に囲まれて、左右に大きな2本の柳があります。石柱や案内板などがいくつもあり、投句箱も設けられています。室町時代に時宗19世の上人がここに来たとき、柳の精の老翁を念仏させたという伝説が残っています。以来、歌枕の地として有名です。観光バスが1台くれば、人であふれてしまうようなところですが、ありがたいことに今は静かです。

 「田一枚植て立去る柳かな」の句にはいろいろな解釈があります。実際に芭蕉が田を植えたわけではありません。田を植えなくても、植えたつもりになるという解釈も成り立つでしょうが、そんな仮想体験でなくてよいでしょう。田を一枚植えて立ち去るのは、この土地の早乙女であって、植え終わって引き上げたあとは田圃のそばに柳が立っているという情景でしょう。

 けれども、「今日此柳のかげにこそ立より侍つれ」と表現する芭蕉のことですから、「立より」から「立去る」までの時間の流れの中に、西行の「立ちどまりつれ」を思い返しているに違いありません。芭蕉の脳裏にあるのは、この柳のもとに立ち寄っている西行の姿です。折しも、あたりはちょうど田植えが終わっています。田圃の水面を静かに風が通りすぎて早苗が揺らぎます。

 芦野の集落に向かって歩いて、奈良川を渡って、奥州道中のときに歩いた、なじみの道に行ってみます。十三夜塔などが並んでいるところ、武家屋敷のしだれ桜のあるところ、旧平久江家の門の前、芦野御殿山への入口などを通って、那須歴史探訪館までを往復します。芦野氏の墓所である建中寺に立ち寄って芦野の里を見下ろすこともします。

 

白河の関

 

 「心許なき日かず重るまゝに、白河の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも理也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

   卯の花をかざしに関の晴着かな   曾良」

 奥州道中を歩いたときに白河の関を通りましたが、それは新しい関所です。芭蕉も同様で新関を通ってから、引き返すようにして古い関所に向かっています。

 『おくのほそ道』の「白河の関にかゝりて、旅心定りぬ」という表現はどちらの関を指しているのでしょうか。白河の関は蝦夷の南下を防ぐために奈良時代以前に設けられたと伝えられます。平安時代の能因や西行は古い道をたどったはずですが、それが廃れて江戸時代には新しい道が官道になったようです。古い関所があったところについては諸説がありますが、現在の国指定史跡となっているところを古関と考えます。芭蕉の旅心が定まったのも、古関で古人を思い浮かべてのことでしょう。

 私たちは2日目の朝、白河駅前の宿から白河古関に向かいますが、まずは駅の周辺を歩いて、阿武隈川を渡って少し行っちたところにある聯芳寺に立ち寄ります。境内に「関守の宿を水鶏にとはふもの」の芭蕉句碑があります。「白河何云(かうん)へ」という前書きのある句で、何云の家はどこだろうかと、水鶏に聞いてみたらよかったのに、という意味です。白河の関のある地に住んでいる人だから、何云のことを「関守」と洒落ているのです。白河では何云に会えなくて、須賀川に滞在したときに何云あての手紙に添えて、会えなかったことを残念がって挨拶としている句です。たぶん何云の居所について須賀川で聞き知ったから手紙を出しているのでしょう。水鶏は人の家をたたく鳥だから、水鶏に聞けばよかったというようなユーモアも含まれています。

 続いて小峰城へ歩きます。三層三階の端正な櫓です。全体として黒い印象ですが、まっ白な壁の部分も印象的です。城址は東日本大震災からの修復工事が進められています。美しい石垣がこわれて積み直す工事も行われています。

 芭蕉像を見るために、バスで新白河駅へ行きます。新幹線の駅前の芭蕉像は、台座が人の背丈ほどで、その上に芭蕉が立っています。右手で杖を持ち、左手は胸のあたりで握り、遠くを眺めている姿は、それこそ旅心が定まって、奥州路の行く先を見据えているようにも思われます。

 再びバスに乗って、団地前という停留所で降ります。ここから南湖公園を経て白河古関までを歩き続けることにします。芭蕉と似ているのは北から南に向かって白河の関を目指すということです。

 南湖は、白河藩主の松平定信によって1801(享和元年)に築造された公園です。李白の「南湖秋水夜無煙」の言葉から南湖の名を採り、小峰城の南に位置していることも理由になっています。芭蕉はもちろん南湖を目にしているわけではありませんが、ここは江戸時代の風雅を伝えるところです。 私たちは南湖公園の西縁から北側に回って、松平定信が定めた南湖十七景と呼ばれる名勝をたどって歩きます。「常磐清水」「真萩が浦」「鏡の山」などと続きますが、それぞれの場所には石柱が建てられ、和歌を書いた板と漢詩を書いた板があります。翠楽苑と南湖神社などを巡ってから、白河古関へ続く道に出ます。

 南湖公園を離れて、白河実業高校の前の交差点からは県道76号を歩きます。進むにつれて峠のようになってきて、しだいに車の通行が少なくなります。旗宿という地名は『曾良随行日記』にも出てきますが、そのあたりの道端に大きな水車のモニュメントが作られています。白河の関まで2.7㎞と書いてあり、南湖公園からは5.4㎞と書いてありますから、3分の2を歩き終えたことになります。

 山道から少しずつ下ってきて、水田が広がるようになって、庄司戻しの桜に出会います。源義経と信夫の庄司・佐藤基治にまつわる桜です。さらに歩いて、ようやく古関が近づきます。

 白河の関のすぐ手前に、「西か東か先早苗にも風の音」の芭蕉句碑があります。能因の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」を念頭に置いて、白河の風を味わおうとする姿勢を詠んでいます。西から吹く風なのか東から吹く風なのか、白河の関を越えたとき、早苗を揺らせる風の音がまず自分をとらえたという感慨です。能因の場合は物寂しい秋風を聞いたのでしょうが、芭蕉は早苗に吹き渡る、爽やかな夏の風の音を聞いたというのでしょう。

 左手に広がる境内の狛犬のそばに、「史跡白河関跡」という石柱が建てられて、ここが白河古関の正面です。古関はその位置が不詳であったのを、白河藩主・松平定信が考証をして位置を断定し、「古関蹟」と書いた碑を建てました。周りを玉垣のような石で囲った碑は堂々としたものです。

 いったん県道に戻って、少し先まで歩いてみると、白河神社社務所のそばに「関守の宿を水鶏に問はふもの」の句碑があります。聯芳寺に建てられているのと同じ句です。

 古関の正面に戻って石段を上っていくと途中に、源義経が戦勝を占うため弓矢を射立てたという「矢立の松」があり、上り切ると白河神社の社殿があります。そばに「古歌碑」があって、平兼盛の「便りあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」、能因の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」、梶原景季「秋風に草木の露を払はせて君が越ゆれば関守もなし」の3首が刻まれています。社殿から右へやや下ったところに「奥の細道白河の関の碑」があり、『おくのほそ道』の白河の関のくだりが加藤楸邨の文字で刻まれています。

 あたりには、源義家が社前の楓に幌を掛けてしばらく休息したという「幌掛の楓」、新古今集の撰者の一人である藤原家隆が手植えをしたという「従二位の杉」、源義経が戦勝祈願してこの木に旗を立てたという「旗立の桜」などがあります。この丘の一帯は、神社を中心とした特別な場所であったということです。

 丘を下りた道沿いにかたくりの花の群生地があり、また、真っ白の卯の花がこぼれるように咲いているところがあります。現在の卯の花は「白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする」というほどではありませんが、芭蕉が見た風景を想像できます。

 曾良の「卯の花をかざしに関の晴着かな」の句は、昔の人はこの関を越えるときに古人を敬い衣冠を正したが、行脚の身の自分は衣装の持ち合わせもないことだから、目の前に咲き乱れる卯の花を挿頭にして晴れ着として関を越える、という意味です。芭蕉が旅の目的地のひとつとして考えていた白河の関ですが、多くの文人たちが心を尽くしたところに立ち寄り、また、奥州への関門を通ることによって、旅への思いがますます定まっていったことでしょう。

 関跡の周辺は「白河関の森公園」として整備されています。公園内には茅葺き民家が移築してあったり、交流センターなどの施設も作られていますが、広場の中に立つ芭蕉と曾良の像が目を引きます。芭蕉の左斜め後ろに曾良が立ち、芭蕉は笠を背中に負った姿、曾良は笠を右手で頭の後ろに持ち上げた姿です。芭蕉は両手を前で組んで杖をついています。正面から見ると前にいる芭蕉の背が高いように見えるのですが、横から見ると曾良の方が高く見えるのが面白いと思います。ふたりは大きな岩を踏まえるようにして立っているのですが、その岩には、芭蕉の「風流の初めやおくの田植うた」と、曾良の「卯の花を」の句が刻まれています。ここにも、ちょうど満開の季節を迎えた卯の花が咲いていて、よい季節に巡り会ったと思います。

 帰りのバスで白河市内に入ったところ、旭町1丁目で降ります。宗祇戻しの碑を見るためです。白河領主が催した連歌興行に参加しようとした宗祇が、ここで行き会った女性にそれが終わったことを告げられ引き返します。その時に女性が背負う綿を見て「売るか」と尋ねたところ、「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそうるかと言へるわたはありけれ」と返され、この歌に驚いたと言います。「売るか」と「ウルカ(鮎のはらわた)」、「綿」と「(はら)わた」を掛けた、即興的な歌を庶民が詠んだことに感じ入ったのです。宗祇戻しには、この話とは別の言い伝えも残っているようです。

 宗祇戻しの碑のそばに「早苗にも我色くろき日数かな」という芭蕉の句碑があります。芭蕉の150回忌に建立されたもので、文字が読みにくくなっています。白河の関のあたりまで歩いてきて、早苗が植えられた美しい水面を見ると、我が顔色の日焼けして黒くなったのが目につき、これまで歩いてきた日数の多いことを今更のように感じる、という意味です。

 白河駅前までゆっくり歩きます。古い民家や商家などをいくつも見てから、『岩波国語辞典』の編纂者で国語学者の岩淵悦太郎さんの生家跡を通ります。近くの皇徳寺には会津塗師久五郎の墓があります。その名前よりも小原庄助の名で知られています。墓石は徳利と盃をかたどっていて「朝によし昼になほよし晩によし飯前飯後その間もよし」が墓石に刻まれていて、戒名は米汁呑了信士というから仰天します。ドームと白い壁が印象的でビザンチン様式の白河ハリスト正教会聖堂も見ます。

 

岩瀬牧場

 

 『おくのほそ道』の文章は、白河の関を越えると、次は須賀川になっています。3日目の私たちは、鏡石駅から乙字が滝に立ち寄って、須賀川まで歩くことにします。

 鏡石駅から乙字が滝の方に向かって歩いていくと、途中に岩瀬牧場があります。「ただいちめんに立ちこめた 牧場の朝の霧の海 ポプラ並木のうっすりと 黒い底から勇ましく 鐘が鳴る鳴るかんかんと」というのは、「牧場の朝」という歌の一番の歌詞で、メロディも歌詞も大好きです。作詞は杉村楚人冠、作曲は船橋栄吉です。杉村楚人冠は作詞当時は東京朝日新聞の記者ですが、船橋栄吉は文部省教科書編集委員として作曲に携わっています。

 船橋栄吉は1889(明治22)、明石市の生まれです。1988(昭和63)に菩提寺である明石市大観町の善楽寺戒光院に歌碑が建立されました。歌碑といっても和歌の碑ではなく、五線譜を刻んだ碑です。楽譜、歌詞、作詞者と作曲者の略歴が、栄吉の長女・船橋豊子さんの文字で刻まれています。

 岩瀬牧場はわが国最初の国営牧場で、宮内省御開墾所として創設されました。周辺に雉が生息していたことから岩瀬御猟場となったとも言いますが、のちに民間の牧場になっています。オランダからホルスタイン種牛を輸入して、欧米式の大型酪農経営が進められ、ホルスタイン輸入の際に記念の鐘が贈られて、この鐘が「牧場の朝」に歌われたのです。

 岩瀬牧場は道の両側に広がっていますが、左側の構内に入ると岩瀬牧場旧事務所の建物が歴史資料館として使われています。鐘の実物もあり、武蔵野音楽大学教授という肩書きの船橋栄吉の色紙もあり、さまざまの写真も展示されています。ひとつひとつに思わず見入ってしまいます。スイッチを押すと曲が流れます。

 

乙字ヶ滝

 

 芭蕉は乙字ヶ滝を訪れていますが、『おくのほそ道』にそのことを書いていません。『曾良随行日記』は、4月29日の項に、石河滝へ行ったと記録していますが、それが乙字ヶ滝のことです。須賀川から郡山に向かう途中で、南東の方向へ1里以上も後戻りしていることになります。その日は快晴ですが、折からの五月雨によって阿武隈川が増水していたのでしょう、滝からかなり下ったところで川を渡って対岸に出て北上しています。

 私たちは乙字が滝の手前にある赤い欄干の橋を渡って対岸(右岸)に出ます。渡り終えたところに乙字ヶ滝という大きな石柱があります。川に沿って下っていくと、古峯神社があり、滝見不動堂があり、そして芭蕉・曾良像や芭蕉句碑へと続きます・

 芭蕉と曾良のそれぞれの石像が並んでいますが、実際の身長よりも小さく作られた像です。これまでに見てきた像に比べると、二人ともがっしりとした体格で、屈強の旅人のように感じられます。石像であるというのも理由なのでしょうが、このような力強さがなければ旅は続けられなかったのではないかと思うほどです。近くに「奥の細道 石河の滝」という小さな石柱もあります。

 「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」の芭蕉句碑があります。梅雨時で川がたいそう増水した様子を詠んでいますが、「五月雨の降り残してや光堂」や「五月雨をあつめて早し最上川」ほどには知られた句にはなっていません。

 現在の乙字ヶ滝は水しぶきを上げて流れ落ちていますが、川の右岸だけです。川の流れの左側は岩肌がむき出しの感じで水の流れはありません。滝の高低差は人の背丈の2倍はありません。河原に下りて眺めると小型ナイアガラのような感じを持ちますが、上から見下ろすと迫力は乏しく思われます。下流の水の流れも穏やかです。

 

須賀川

 

 「とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて、山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇りて物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四五日とゞめらる。

先『白河の関いかにこえつるや』と問。『長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。

  風流の初やおくの田植うた

無下にこえんもさすがに』と語れば、脇・第三とつゞけて、三巻となしぬ。

 此宿の傍に大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやと閒に覚られて、ものに書付侍る。其詞、

     栗といふ文字は、西の木と書て、西方浄土に便ありと、

     行基菩薩の、一生、杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

  世の人の見付ぬ花や軒の栗  」

 『おくのほそ道』にある会津根は磐梯山のことであって左(西)の山であり、岩城・相馬・三春の庄は右()の地名です。これは地理的な説明であって、歩いている芭蕉の目に入っているとは言いにくいでしょう。「かげ沼」については、須賀川の西郊に言い伝えられているところがあるようです。

 阿武隈川は南から北に向かって流れているのですが、私たちは、乙字ヶ滝を見て、川の左岸に戻ってから、北に向かって歩きます。そして国道118号の和田六軒という交差点を左折して西に向かいます。田園風景が広がっています。JR東北線のガードをくぐって少し行くと須賀川一里塚があります。ここは日本橋から59番目の塚ですが、道の両側に立派なものが残っています。

 一里塚からJR線路の東側に戻って歩き、須賀川の市街地にに入ります。南の黒門坂は、江戸時代に設けられた黒塗りの木戸のあったところで、番小屋が置かれて、朝夕には開閉されたそうです。

 芭蕉は相楽等窮をたずねて須賀川に1週間ほど滞在します。等窮は宿場の駅長を務める豪商ですが、奥州では知られた俳人であったようです。等窮の問に答えて、芭蕉は、旅の疲れ、風景の美しさ、古人を懐かしむ気持ちなどを語っていますが、ここで聞いた田植歌の素朴さに風流を感じ取っています。

 須賀川の町の入口と言ってもよいようなところに、軒の栗庭園があります。ここは文学遺跡と言うよりは、散策する人の休憩広場という感じです。端座している像がありますが、それは芭蕉を迎えた相楽等窮の像です。ちょっと離れて、芭蕉と曾良の旅姿の像もあります。いずれも石像ですが、乙字ヶ滝で見たのと同様に、でっぷりとした姿です。

 小さな町ですから、少し歩くとすぐに軒の栗・可伸庵跡に着きます。等窮の屋敷の一隅に住んでいたと伝えられる可伸という僧の庵の跡です。石段を上るとささやかな庭があり東屋もあります。『おくのほそ道』の一節を刻んだ石碑があり、「世の人の」の句碑も立っています。栗の木は太い幹ですが、あまり生い茂ってはいません。芭蕉は、栗の木の下にある可伸の庵で、等窮らと歌仙を巻いています。そのときの句、「世の人の見付ぬ花や軒の栗」は、世間の人が目に留めないのに、軒先の栗に花が咲いている、という意味です。栗は真っ白の雄花が房の形に咲いて、独特の香りを放ちます。属目のようにも感じられますが、これは相手に対する挨拶の句であるのでしょう。

 須賀川市芭蕉記念館に立ち寄ります。1階は休憩室を兼ねた展示室になっていますが、私たちが着いてすぐ、団体の人たちがやってきました。係の人による説明が始まりましたが、私たちはそれを聞きつつ、一団が引き上げるのを待ちます。掛け軸、碑の拓本、絵地図、旅の用具などの展示物を見ます。小さな町がこのような記念館を運営しているのは嬉しいことです。

 記念館のすぐ近くに「結の辻」があります。ちょっとした広場なのですが、樹木の剪定作業が行われているそばに芭蕉と曾良の像があります。ここの像もやはり石像ですが、ひとりが立ち、ひとりが座っています。立っている像は荷物を背負っている姿で、これは曾良でしょう。何かに腰掛けている像は膝の上に荷のようなものをかかえている姿で、これは芭蕉でしょう。正面から見ると芭蕉はややほっそりとした顔つきですが、曾良は円やかな力強い顔のように見えます。従者である曾良が弱々しくては話になりませんから、これが望ましい姿なのでしょう。

 等窮の菩提寺である長松院に立ち寄ります。等窮の「あの辺はつく羽山哉炭けぶり」の句碑があります。石の表面に白さがあって、やや読みにくくなっています。寺の裏の方に回ると墓所になっていて、相楽家の墓の群の中に等窮の墓もあります。折しも縁者の方が墓を掃除して花を供えています。

 続いて神炊館神社に向かいます。ここは須賀川の総鎮守で、芭蕉も参詣しています。何人もの句碑が並んでいますが、『曾良随行日記』の一節も碑に刻まれています。子規の「芭蕉忌や吾に派もなく傳もなし」の句碑もあります。

 「宮の辻」は幕末の女流俳人・市原多代女の生家跡に作られた小公園です。碑に刻まれている「めかくしを取ればひゝなの笑顔かな」はほほえましい句です。最後に十念寺を訪れます。この寺に「風流の初やおくの田植うた」の句碑が市原多代女によって建立されたのは1855(安政5年)のことで、植え込みの中にある碑面の文字はしっかり読みとれます。

 「風流の初やおくの田植うた」は、陸奥の田植え歌こそ白河の関を越えて最初に味わう風流であるという意味ですが、雅やかな歌を聞いたときにひなびた地域の風流を感じ取ったというところに芭蕉の心が表現されています。この田植え歌が原初的な歌の姿を漂わせているというようにも取れますし、陸奥の地域の風流の出発点がこのような田植え歌にあるというようにも取れます。どちらにしても、この地域のことをほめている挨拶句としての性格もそなえています。

 

郡山

 

 須賀川に7泊したのち、芭蕉は郡山に向かいます。郡山の宿の印象は良くなかったようです。芭蕉が泊まった宿がどこにあったのかは特定されていないようです。郡山の町が宿場町として認められたのは1824(文政7年)ですから、芭蕉が訪れた当時は宿泊施設などが整っていなかったのでしょう。

 須賀川に宿泊した私たちは、4日目に郡山に移動し、市内を見て回ります。まず、郡山総鎮守の安積国造神社に立ち寄ります。大きな石が囲まれたところに「安積発祥」と書いてあります。江戸時代の木造建築が残っている古い社で、駅から近いのに、静かな一画です。

 善導寺や如宝寺に立ち寄ってから、現在の郡山の発展とつながりの強い麓山公園へ行きます。弁天池に周りの木々が映り、あたりにはツツジの花が広がっています。郡山は明治以降に開拓が進んで、1879(明治12)には猪苗代湖の水を安積の大地に引く安積疎水の事業が始まります。麓山公園にある「安積疎水麓山の飛瀑」は、安積疎水の最終地点に作られた記念碑の建造物です。その公園と続いた場所に、21世紀記念公園と銘打って「麓山の杜」が作られています。

 芭蕉とのつながりは薄いのですが、郡山は文学との縁が深いところです。「こおりやま文学の森」があって、久米正雄記念館と郡山市文学資料館とが設けられています。

 久米正雄の「魚城移るにや寒月の波さざら」という句碑を見てから記念館に入ります。「まあ、上がりたまえ」という言葉が書かれていて、それに迎えられるような気持ちになります。この記念館は1930(昭和5年)鎌倉に建てられた旧久米邸を、2000(平成12)に移築したそうです。

 郡山市文学資料館は、郡山に縁のある文学者たちを紹介しています。「滝口入道」の高山樗牛、「貧しき人々の群」「伸子」「播州平野」の宮本百合子、「厚物咲」の中山義秀、そして石井研堂、鈴木善太郎、諏訪三郎、真船豊、東野辺薫、現在の作家では、郡山市の隣の三春町に在住の玄侑宗久の紹介があります。文学の町としての面目躍如という感じです。文学の背景として、安積開拓と開成館のことも説明しています。久米正雄の母・幸子は、安積開拓の指導者である立岩一郎の娘であり、宮本百合子の祖父は、安積開拓に心血を注いだ中條政恒です。百合子は安積開拓が地域を発展させたこととともに貧しい人々を多く生み出したということに気付いて、それが後の作品モチーフにもなっています。

 開成せせらぎこみちを通って開成山公園に向かいます。安積開拓発祥の地は、全体が郡山市開成館として管理されています。安積開拓入植者住宅(旧小山家)、安積開拓官舎(旧立岩一郎家)、安積開拓入植者住宅(旧坪内家)などの移築復元されたものが並んでいます。緩やかな上り坂の先に「安積開拓発祥の地」の標柱があります。

 近代化産業遺産に指定されている開成館を見て回ります。1階は、安積開拓と古文書、安積開拓と文学、開成館の歴史など、2階は、安積疎水の開削、開成社による開拓など、3階は、行在所の再現と、開拓に縁のある人たちの紹介などがあります。

 最後に県立安積高等学校構内にある安積歴史博物館を訪れます。国の重要文化財や近代化産業遺産に指定されている旧福島県尋常中学校本館です。建物の前に安積健児の像があって、旧制中学校の剛健さを表しています。建物は1889(明治22)に建てられた木造の洋風建築です。玄関の上にバルコニーがあります。中には復元教室や講堂があり、さまざまな展示もされていますが、建物は現役で、生徒たちともすれ違います。ぎしぎしと鳴る階段や手すりは懐かしさ満点です。

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