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2018年3月25日 (日)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(8)

  第7回 岩出山から大石田まで

 

 7回目の旅は、晩秋の色が濃い1025日から28日までです。陸奥から出羽へ抜ける旅です。今回は宮城県・山形県を歩きます。

 

岩出山

 

 「南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて出羽の国に越んとす。此路、旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて、日既暮ければ、封人の家を見かけて、舎を求む。三日、風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

   蚤虱馬の尿する枕もと  」

 旅の初日は岩出山からです。岩出山には伊達政宗が1603(慶長8年)に仙台の青葉城に移るまでの12年間にわたって居城とした岩出山城があります。駅前には「独眼流政宗のさと岩出山」「伊達な小京都・岩出山」と書かれたポールが立てられています。小型のジーゼル機関車が展示され、小さな鉄道資料館もあります。かつては鉄道の拠点だったのでしょう。

 南町に芭蕉像があります。人通りの少ない商店街を歩き、左に折れて広い道に出ると、芭蕉像のあるポケットパークに着きます。ほぼ等身大の芭蕉像は、頭陀袋を提げて、笠と杖をお腹の前に持っている姿です。ちょっと一休みというような風情です。ここに立ち続けて、ちょっとくたびれた感じがして、像のあちこちが白くはげ落ちつつあるのが痛々しいのです。目を細めた顔ですから、なんだか耐えているようにも見えます。

 「伊達政宗公居城の地 城山公園」という大きな看板に引かれて、坂道を上っていきます。足元に岩出山の町が広がります。一関方面から岩出山に向かって芭蕉が歩いたのは、右の向こうからこちらに向かってであっただろうと、丘の連なりを眺めながら想像します。

 丘の広場から北西の方角に進むと白い像が見えてきます。平服を着た伊達政宗の大きな立像です。もと仙台の青葉城址にあったものを1964(昭和39)にこちらへ寄贈されたといいます。そこから少し上ったところが岩出山城址です。東西800メートル、南北700メートルの範囲に本丸などがあったそうですが、今はそのような広さは感じません。このあたりは起伏に富んだ地形です。

 案内板に従って有備館の方へ下りていきます。林道のようなところを通り、水路を渡って進むと有備館が近づきます。有備館は、岩出山伊達家の下屋敷や隠居所として使われ、後に伊達家の家臣子弟の学問所となった建物です。建てられたのは1677(延宝5年)頃で、庭園は1715(正徳5年)に作られました。大崎市が管理しているようですが、主屋(御改所)と附属屋を、私たち2人と夫婦連れ2人のために、係の方が丁寧に説明してくれて、申し訳ないような気持ちです。

 岩出山城の断崖を借景としている庭園は主屋の縁から眺めるだけでも趣がありますが、せっかくですから下りて、庭園を一周します。池に浮かぶ御中島や小さな島を眺めやりつつ一回りしてきたときから雨が降り始めます。しばらく主屋の縁に座ってあたりを眺めたりしていましたが、閉園時刻が近づいたので、すぐ近くにある有備館駅に向かいます。

 

尿前の関

 

 芭蕉は岩出の里から、小黒崎・みづの小島を通って、鳴子温泉を経て尿前の関へと進んでいます。私たちは鳴子温泉に泊まって尿前の関へ行き、そのあと小黒崎・みづの小島を訪ねます。

 2日目の朝。鳴子温泉駅前から道は少しずつ下り坂になります。道のあちこちにこけしの工房があります。第六北羽前街道踏切を渡って線路の反対側に出ます。鳴子峡鳴子口のバス停を少し進むと大谷川に架かる橋があります。車道の他に歩行者向けの橋がありますが、古めかしさが漂います。ここが鳴子峡の入口で、川は右カーブして上流は見えませんが、紅葉の美しさの一端が見えています。鳴子峡は大谷川の侵食によって刻まれた深さ100メートルにも及ぶ峡谷です。

 橋を渡り終えてから国道47号に戻ります。地名は大崎市鳴子温泉字尿前となっています。少し行くと「おくのほそ道入口」という表示がありますので、右の方に下ります。しばらく杉林の中の道を歩くと関所らしい趣の場所があらわれます。私たちは長い時間をかけて『おくのほそ道』の旅を続けていますから、ここが「おくのほそ道入口」だという表示に戸惑いを感じますが、出羽街道中山越えの入口であるという意味で書かれたもののようです。

 このあたりは陸奥と出羽の境に近く、別の場所にあった関所が17世紀初めにここに移されて、尿前の関と呼ばれるようになりました。芭蕉が通る70年ほど前のことです。芭蕉は、関守に怪しまれて、簡単に通過できなかったようです。

 下っていった道の突き当たりのようなところ、その右側が尿前の関の跡になっています。木の柵が施され、入口は木でできた鳥居形の門です。下が広場になっていて、石段を下ります。広場の斜め左手に芭蕉の像があります。繁った木立に隠れるようなところに、ややほっそりした姿で、筆で何かをしたためようとする姿が等身大で作られています。立ち止まって、右手に筆を持ち、左手に冊子と矢立をつかんでいます。ずっと立ち続けているから、表面の塗装がちょっとはげ落ちているところがあります。そばに文学碑があって、『おくのほそ道』の一節が活字体で記されています。碑の下の部分には、蕪村の描いた画巻の一部が彫り込まれています。

 舗装道路の左手の先から山道が始まるようになっていて、そこに「出羽街道中山越」の石碑があります。道は森の中に消えていきます。芭蕉がたどって、「大山をのぼつて、日既暮ければ、封人の家を見かけて、舎を求む。」という旅をした道です。封人の家までは10㎞近くの距離があります。

 その中山越の道が始まる手前の場所に、自然石でできた芭蕉句碑があります。石積みの台の上にあって、表の面に「芭蕉翁」と書かれ、裏面に「蚤虱馬の尿する枕元」と刻まれています。作られたのは明和5年です。その碑の奥の方には崩れかかった小さな祠があります。

 『おくのほそ道』にある「三日、風雨あれて、よしなき山中に逗留す。」は封人の家に泊まってからのことですが、芭蕉がこのあたりを歩いたのは五月雨(梅雨)の最中です。旅の印象は天候に左右されますが、私たちにとっての尿前の関は、快晴です。中山越の道こそは鬱蒼とした森の中へ消えていますが、関所の周りは明るい日の光に満ちています。

 

小黒崎、みづの小島

 

 歌枕として知られる小黒崎とみづの小島に行きます。JR川渡温泉駅から歩きます。国道47号を歩いていくと、大崎市鳴子温泉黒崎という地名表記があって、そこから数分進んだところに、「芭蕉もここでひとやすみ… 名勝小黒崎 小黒崎観光センター」という看板が見えてきます。ところが、その観光センターは閉鎖されてしまっていて、人の姿がありません。北側の小山に向かって矢印があって「景勝小黒ヶ崎」と書いた案内板があります。

 道路の南側の、草が茂っているところに芭蕉の像があります。杖を突いて、頭陀袋に手をかけて、ちょっと頭を右に傾げている姿で、等身大です。そばに『おくのほそ道』本文と、『曾良随行日記』から、このあたりについての記述が抄出された案内板があります。

 肝腎の小黒崎は、高さ200メートルほどの山ですが、とりたてて珍しい姿でもありません。手元に持っている写真と比べて、この山がそうだろうと判断しますが、いくつもの山々が連なっているところですから、ここがなぜ好まれたのだろうかと首を傾げます。山の木々は黄色くなっているものや赤くなっているものが混じっています。

 小黒崎から引き返して、みづの小島に向かいます。国道47号の南側、みづの小島への入口の案内板は、来る途中で確認しています。小黒崎の山は、先ほどの観光センターのあたりから見上げるよりも、少し離れてみる方が、なだらかで優しい姿のように感じられます。

 国道47号から左手の小道をたどっていくと、みづの小島が見えてきます。ススキの原のように見えているところの向こうに、ぽっかりと浮かんだ低い山です。

 案内板などが設けられているのは、そこよりも手前にある広場です。近くに歌碑があります。「をぐろ崎みつの小島の人ならば都のつとにいざと言はましを」という古今集・巻20に載っている東歌が刻まれています。小黒崎は、かすかで暗いという名を持ち、みづの小島は「見つ」(見た)という名を持っているのですが、もしそれらが人であるのなら、遠い都へのお土産として、さあ一緒に行きましょうと言うのにねぇ、というような意味の歌です。東歌ですから、作者不詳で東国民謡のような趣がある歌です。みづの小島を詠んだものとしては、続古今集に四条天皇や順徳院の歌も残されています。

 『曾良随行日記』の記述によれば、川の中に岩の島があって、松が3本とその他の小さな木が生えて、川の向こう側と地続きになっていたようです。川の流れは何度も変化して、川のあちら側になったり、こちら側になったりしたのでしょう。小島は1890(明治23)の洪水で荒廃したようです。

 近づくにつれて岩は黒々としたものであることがわかります。川の側にまわっていくと、案外に上りやすい形になっています。上っていくと赤い鳥居があって、その向こうに小さな祠があります。これまで川の水は見えなかったのですが、鳥居のあたりからは川の中が見えます。江合川はゆったりと流れているのですが、川底が浅いので岩に当たって白いさざ波が立っています。

 

出羽街道中山越

 

 再び列車で移動します。鳴子温泉駅を出た列車は、トンネルとトンネルの間の、鳴子峡が見えるところでスピードを落として、紅葉風景を満喫させてくれます。鉄道写真の名所で、列車がトンネルから顔を出した瞬間を切り取ったものは、あまりにもポピュラーです。紅葉の季節は、列車がゆっくり走ってくれるから、国道から写真を撮る人にとっても好都合なのでしょう。

 中山平温泉駅で下車します。尿前の関から大深沢越を経て中山平までの区間を省略しましたが、ここから堺田駅までを歩きます。標高251メートルの駅前には中山平の大桜があります。1917(大正6年)の駅開業に際して植えられた吉野桜で、根元は太い幹で、人の背丈のあたりから四方に枝を広げています。『おくのほそ道』の案内板が充実していて、封人の家まで4.5㎞と書いてあります。

 緩やかな下り坂を歩いていくと、中山宿駅跡があります。ここからは国道47号を離れて、北側の細い道をたどります。岩出山から中山までは玉造五宿駅と言われ、1625(寛永2年)に宿が設けられました。とは言え、幕末の頃に戸数10戸、人口46人であったそうですから、寂しい街道筋でした。

 杉林の中の道を辿っていくと、空が明るくなって原っぱに出ます。西原というところです。しばらく、田畑や遠くの山を見ながら歩きます。山の一部は紅葉を見せています。しばらく歩いて、左手の山道に分け入ります。頭の上から降り注ぐ日光で、木々の葉が黄色く見えます。

 小さな流れと出会って、そこには板の橋が架けられています。軽井沢というところです。岸辺は少し荒れた感じがしますが、水は澄んでいます。森の中の静かな一画です。少し上って、落ち葉で覆われた道を気持ちよく歩きます。国道47号への緊急避難道路という案内板を目にしますが、悪天候の時にここを歩くのは大変なことなのでしょう。

 軽井沢から10分余りで甘酒地蔵に着きます。1187(文治3年)、源義経が北の方と弁慶を伴って平泉に向かっていて、ここで日が暮れてしまったときに、野猿がお堂を建てて甘酒で接待したので、そのお礼に地蔵尊を祀ったという話が伝わっています。粗末なお堂に石仏が祀られています。

 後沢で小さな流れと出会いますが、ここは橋が架けられていません。流れに向かって下っていく石段はあるのですが、肝腎の橋はありません。浅い流れですから、石を踏んで流れを跳び越えます。今日は問題なく通り過ぎることができますが、増水すれば足止めを食らいそうです。

 四阿のようなところの前を通り、木立に覆われた道を抜け出したところで国道47号に出ます。出口には「出羽街道中山越」の石柱が立っています。県境がどの地点であったのかはよくわかりませんが、国道脇には「ようこそ山形県へ」という看板が見えます。

 

封人の家

 

 国道47号を歩いて、ほどなく封人の家に着きます。封人とは国境を警備する、地元の村の庄屋のような人のことですが、この家の当主は15代目だそうです。ここは仙台領と境を接する新庄領です。

 建物の様式や技法は元禄以前のものだと考えられています。芭蕉が実際に泊まった家で現在も残っているものは稀で、もしかしたらここが唯一かもしれません。入口左側には木の像が2つ並んでいます。左の像は、がっしりした体格で、正面を見ています。右の像は、笠をかぶって視線がやや上に向いており、小柄な感じがします。どちらの像も杖を突いています。左の像が芭蕉のように見えますが、右の像を曾良であるとは断言しにくいと思います。もしかしたら、どちらも芭蕉の像なのでしょうか。入口右側には、冬に備えてのことでしょう、割られた薪が積まれています。

 建物は茅葺き寄せ棟造りで、入ったところは土間で、土間には竈や水屋があります。土間の右手は馬屋になっています。左手は、手前が「ござしき」という板の間で、囲炉裏が切ってあります。その向こうに畳敷きの座敷が2つあり、床の間があって、板の間の納戸もあります。納戸には、藁ぐつやその他の生活用品などが展示してあります。この家の模型や、「奉上棟旧有路家住宅」と書いた板もあって、昭和4710月と書いてあります。大がかりな改修をしたときのものなのでしょうか。

 家の庭先に「蚤虱馬の尿する枕もと」の句碑があります。芭蕉たちは強い風雨に阻まれて、ここで3日間を過ごしています。蚤や虱にせめられて、一晩中寝付くことができないで過ごし、すぐ枕元では馬が小便をする音が聞こえるというのです。芭蕉たちは冷遇されたわけではないでしょうから、座敷で寝ただろうと想像します。けれども一つ屋根の下に人と馬とが一緒にいる状態であり、家じゅうの物音は芭蕉の耳に届いていたでしょう。旅のわびしさのように感じられますが、これを奥州での生活体験の一齣として味わっているような趣もあります。

 

堺田の分水嶺

 

 分水嶺というのはなじみの言葉ですが、分水嶺を実際に見るのは初めてです。封人の家から国道47号の左手に入ります。広い土地を細い道が蛇行するように続いていますが、公園予定地のような感じで、この先に分水嶺があるのだろうかといぶかしく思うようなところです。数分歩くと、整備された一画に着きます。堺田の分水嶺から海に至るルートについての説明板があります。太平洋側へは、大谷川支流、大谷川、江合川、旧北上川を流れて、石巻市まで116.2㎞です。日本海側へは、芦ヶ沢川、明神川、最上小国川、最上川を流れて、酒田市まで102.6㎞です。太平洋側の海は石巻の日和山から眺めました。日本海側の海は、次回の旅で、同じ名前の、酒田の日和山から眺める予定です。

 分水嶺の標高は338メートルです。東北地方の背骨である奥羽山脈はあちらこちらに分水嶺があるはずですが、人々の生活している身近なところにあることが嬉しい気持ちになります。

 何ということもない細い用水路が向こうからこちらへゆっくりとし水の動きを見せています。その突き当たりで左右2本のやや太い用水路にわかれて、両方にゆっくりと動いています。水が分かれるところには、最上石で、向かって右が太平洋へ、向かって左が日本海へつながることを示すモニュメントがあります。目の前で水が東西にわかれているのです。山の頂上や稜線が分水嶺になっている場合は、このような目に見える形のものではありませんから、平坦な土地にある分水嶺は珍しい存在であるのでしょう。周りには大きなモニュメントも作られ、ベンチが置かれています。

 木で作られた分水嶺表示板に堺田駅という文字も書かれていて、そこまで行くと、低い位置にある堺田駅が見えてきます。ホームには「奥羽山脈分水嶺 県境の駅堺田」という駅名表示板が立っています。堺田駅から一駅だけ乗って赤倉温泉駅で降りて、迎えに来ていただいた旅館の車で日山温泉の宿に向かいます。隣の赤倉温泉と違って、一軒だけの宿です。この夜のニュースは富士山が初冠雪したと告げています。1956(昭和31)と並んで最も遅い記録だそうです。

 

大山越え(山刀伐峠)

 

 「あるじの云、『是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て、越べきよし』を申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟の若者反脇指をよこたへ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必あやふきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして、後について行。あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり、岩に躓て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしをのこの云やう『此みち、必不用の事有。恙なうおくりまゐらせて、仕合したり』と、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ、胸とゞろくのみ也。」

 3日目。陸奥と出羽を隔てる奥羽山脈を越えます。芭蕉は大山を越えると表現していますが、山刀伐峠です。山刀伐峠の頂上は標高470メートルですから、堺田の分水嶺の標高338メートルと比べると高低差は大きくはないのですが、『おくのほそ道』の言葉を目にすると、身構えたくなります。現代の旅では山賊の恐れなどはありませんが、難儀な道だろうと想像します。

 県道28号を歩きます。赤倉スキー場というバス停や、一刎という地名を過ぎて、県道262号との分岐点を過ぎると、道は左にカーブしていきます。上り勾配が続きます。紅葉している木々が目に入って、気持ちよく朝の道を歩き続けます。「只今の気温9度」という電光表示を見て、蛇行する道を上っていくと、トンネルが現れます。トンネルの入口左側が山刀伐峠への登り口です。トンネル入口に設けられている「尾花沢19㎞」という表示は直進の表示ですから県道の距離で、「山刀伐峠1.8㎞」という表示は左斜め向きに矢印が添えてありますから、歩行者向けのものです。私たちは山刀伐峠を越えて、尾花沢市中心部まで歩く予定です。

 峠道が始まるところにある「熊出没注意!」という表示にはどきりとしますが、『おくのほそ道』は、山道を越えるときにも熊の心配を書いている箇所はありません。芭蕉の時代には熊出没が少なかったのか、山賊などの恐れの方が大きかったのか、どちらなのでしょうか。

 山刀伐峠への道にかかります。左手下には少し広い道があるのですが、本来の峠道らしいところを案内表示に沿って上っていきます。2人が横に並ぶことはできない、細い道です。「大曲り登り」という矢印が設けられていますが、ブナの原生林に覆われて、行きつ戻りつしながら標高差150メートルを登っていく道は「二十七曲がり」と言われています。褐色になった落ち葉が道に敷きつめられて土が見えないようなところが続きます。しばらくして、いったん車道を横切ります。地図を見ると車道は、細い道の何倍もの距離を走って勾配をゆるやかにしています。峠道の途中には、芭蕉が腰を下ろして休んだところという設定もしてありますが、誰が厳密にそんなことを調べたのでしょうか。けれども、そのような虚構を楽しむのも楽しいことです。

 登り始めてから30分足らずで、駐車場に出ます。ここは峠の頂上ではありませんが、最上町と尾花沢市の境界で、芭蕉庵と名付けられた休憩施設やトイレが設けられています。あたりは紅葉・黄葉の交響楽です。しばらく休みます。

 車道を少し下ってから、右手の山道に入ります。峠まで250メートルと書かれています。あっけなく山刀伐峠の頂上に着きます。ハイキングコースとしての整備が進められたからでしょうか、芭蕉が書いているような「道さだかならざれば、道しるべの人を頼て、越べき」心配はありません。

 峠の頂上には「奥の細道山刀伐峠」の碑があり、「高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり、岩に躓て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ」の文章が加藤楸邨の筆で書かれています。

 頂上には、小さなお堂もあって、子宝地蔵尊が祀られています。また、そのそばに立つ子持ち杉は神霊の宿る杉として信仰されているようです。休憩施設としての四阿もあります。

 山刀伐峠という名前については、山賊に鉈で襲われる恐れがあることから名付けられたのではないかというような連想をしていました。資料を調べたりするうちにそうではないことがわかり、封人の家で、「山刀伐」というかぶり物を見ました。山仕事や狩りの際に付けたもので、その形になぞらえて峠の名にしたことを知りました。山刀伐は一方がなだらかで、もう一方がすとんと落ちる形をしています。ここまでの傾斜が急で、尾花沢に向かってゆっくり長く下っていくことをあらわしています。

 熊笹が生い茂っている頂上からの下りは、あまり人手が入っていないような林の中を分けて進みます。山伏澤橋のあたりは水害の跡のようで、荒れています。与市の茶屋跡というのは杉の木にその名を書いた板がぶら下げられているだけです。さらに、暗渠工事が近年に行われたという札もあります。鍋割の三吉茶屋跡地というのも杉の木に板が下がっています。こんなところに昔は茶屋があったというのが不思議なくらいです。杉林の中は人通りが絶えているかのような雰囲気も感じます。山刀伐峠の頂上までの道と、それを過ぎてからの道とは趣が異なっているのです。そのような道を40分ほど歩いて、車の通れる舗装道路に出ます。

 林の中と違って青空が広がり、緑の小山が見え、あたりが薄の原になっています。そして、道路縁に広場が作られているところに着きます。「芭蕉ねまる石」と名付けられた石など、大きな石がいくつも並んで、腰をかけて休むのにふさわしいところです。「ここは思い木坂」という板が木にかけられています。

 車の通る道を歩いたり、細い道を下ったりしていると、急に視界が広くなって、峠道が終わったことが感じられるようになります。山刀伐ハス園という表示が見えて、広い道路の横に「尾花沢」と書いた高い標柱があります。峠の麓の駐車場です。「山刀伐峠入口」という大きな表示もあります。

 ここからは、車の走る道を尾花沢の町に向かって歩きます。砂防指定地になっている赤井川の流れに沿って進みます。路傍に市野々地区と書かれた花壇があって黄色や紫の花々が咲いています。振り返ると峠のあたりの山々が青空の下に丸みをもった姿を見せています。かつての日本にはどこにでもあった風景ですが、懐かしさを感じます。傾斜の急な川ですから水はところどころで段差を作って流れています。田圃も段々になっています。

 峠を下りきったところから1時間もかかって、やっとバス停のあるところに着きますが、一日6便のバスを無視して、私たちは歩き続けます。宮沢地区では広く伸びている道路から右の方に矢印があってそれが旧街道であるように示していますが、そのまま県道28号を進むと、やがて合流します。高橋というところは、山形の棚田20選の一つだと書いてあります。尾花沢市立高橋小学校は廃校となって、3階建ての校舎に「136年ありがとう高橋小」という大きな文字が見えます。金色の田圃を見ながら歩き続けます。銀山温泉への道の分岐点を過ぎて、尾花沢市街に向かって歩き続けます。

 宮沢地区の押切橋で赤井川を渡ります。「赤井川は人口河川です」という説明板があります。川を新しく作ったというのではなく、上流の山裾を削った土砂が川床を高くして、しばしば洪水を引き起こしたので、流れの一部を変えたという説明が書いてあります。昭和初年の工事です。「芭蕉の道フラワーロード」という看板が見え、続いて伝順徳天皇陵という案内板があります。鎌倉幕府を打倒するために挙兵したが朝廷側が敗北し、順徳天皇は佐渡島に流されその地で崩御したと言われるが、島を脱出してこの宮沢地区で亡くなったとも伝えられているそうです。

 市野々もそうですが宮沢も、その名前で示している地域名がずいぶん広いのに驚きます。30分歩いても同じ地域名というのは、歩いている者にとっては変化の乏しさを嘆きたくなります。道路に沿って鉄パイプの構築物が続いているところにさしかかります。近くに人家がなく田圃の中の道です。風が強くなる季節には板をはさみ込んで、防風としての対策をするところです。今はその季節ではないはずですが、ここを歩いていると意外と強い風が吹き始めました。前へ進むのに力が要ります。地形の関係でこの場所がいつも風が強いところなのか、今日はたまたまこの時刻に強風となったのか、どちらであるのかわかりませんが、ちょっと体力を消耗します。

 集落のとっかかりに御所神社があります。順徳天皇を祀っているといいます。境内に入ると風が弱くなります。上横道というところで正厳大堰を通り過ぎます。細い流れですが田圃への用水路としての役割を果たしてきたものです。浦宿あたりで道は90度左カーブして尾花沢に向かいます。少しずつ上り坂になって長い橋で丹生川を渡り、このあたりから市街地らしい様子になってきます。それでも、橋から40分以上も歩いてやっと、清風邸跡という説明板のあるところにたどり着きます。

 

尾花沢

 

 「尾花澤にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

   涼しさを我宿にしてねまる也

   這出よかひやが下のひきの声

   まゆはきを俤にして紅粉の花

   蚕飼する人は古代のすがた哉  曾良 」

 芭蕉清風歴史資料館は1630分までの開館です。ぎりぎりの時刻に着きましたが、しばらく時間を延長して見せていただきます。旧丸屋・鈴木弥兵衛家の店舗と母屋を、清風宅跡に移転復元したもので、この地方の江戸時代町家の完成した姿を伝えています。

 1651(慶安4年)生まれの鈴木八右衛門(三代目)は芭蕉より7歳若く、清風は俳号です。金融業や、紅花などの商品取引で財をなしたのですが、芭蕉の言うように「富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれ」という人であったようです。商売の関係で京都や江戸へしばしば出かけて、文化活動でも交友関係を築いていったのです。芭蕉は尾花沢で10泊しています。芭蕉が尾花沢に着いたのは5月17日で、それを太陽暦に直すと7月3日に当たります。遠来の客を迎えて清風はいろいろな配慮をして迎えたでしょうが、真夏のことゆえ、涼しさを演出する工夫も含まれていたことでしょう。「涼しさを我宿にしてねまる也」は、もてなしに対する感謝の気持ちも含まれているでしょう。「ねまる」というのは、寝そべるという意味や、楽な姿勢で座るという意味などがあるようですが、歓待を受けて、まるで自分の家にいるような気持ちになってくつろいでいる様子が浮かんできます。

 私たちは4日目の朝、芭蕉清風歴史資料館の前にある芭蕉像に立ち寄ります。人の背丈に近い高さの大きな石の上に芭蕉像が立っています。長い杖を右手に持って、どっしりと構えた姿です。下から見上げる芭蕉の顔は、鼻筋が通って、眉毛が濃くて、ぱっちりと見開いた目です。顎がちょっと突き出たような感じですが、全体としては現代風な美男子に見えます。旅の疲れなどは感じさせず、元気はつらつという感じが漂っています。

 養泉寺まで歩いて10分弱です。仁王門をくぐると、木立に囲まれた境内に、銅板葺きの小さなお堂が建っています。その前に「涼しさを我宿にしてねまる也」の句碑があり、涼し塚と書いてあります。清風宅と同じように、この寺にも身を寄せて、くつろいだ時間を過ごしたのでしょう。芭蕉ゆかりの井戸もあります。寺は1895(明治28)の大火で類焼して、往時の面影が失せたようで、この外井戸だけが芭蕉当時を偲ぶ唯一のものだと書いてありますから、寂しい限りです。「十泊のまち尾花沢 芭蕉翁」の石碑があり、芭蕉・清風・曾良・素英の句を並べて刻んだ歌仙の碑も建っています。

 知教寺の前を通り、本堂伽藍が清風の私財によって建立されたという念通寺に立ち寄り、村川素英の生前墓を目指します。素英は、芭蕉の尾花沢滞在中に、忙しい清風に代わって接待役を務めたといわれる俳人で、養泉寺に刻まれている4人の句のひとりです。生前墓は、観音堂の近くにあって、四角い石が土に埋められています。土の上に出ているのは一辺30センチ程度の立方体ですが、側面に刻まれている文字の一部が見えています。

 芭蕉は、尾花沢での句を3つ載せて、曾良の句を1つ紹介しています。芭蕉が尾花沢に着いた頃は、紅花の花盛り、清風にとっては忙しい季節であったようですから、芭蕉の接待を素英に頼んだという事情があったのでしょう。清風宅での宿泊よりも養泉寺の方が多かったのもそのためであったのかもしれません。ただし清風はさまざまなもてなしの手配を整えていたことは確かでしょう。

 「這出よかひやが下のひきの声」の句は、蚕を飼っている家の床下で、声を忍ばせるようにして、ひき(大きなガマガエル)が鳴いているが、そんな陰気なところで鳴いていないで這い出して来いよ、と呼びかけている句です。旅の孤独な気持ちが、ひきの声に託されているのかもしれません。この地方は紅花の他に養蚕も盛んであったのでしょう。「まゆはきを俤にして紅粉の花」は、紅花は摘んで紅を作り、女性の口紅に用いたり、染料として使ったりします。眉掃は女性が使う化粧用具です。紅花は形が眉掃に似ているので、紅掃の形を真似て咲いていると詠んでいるのです。紅花から女性の化粧を連想し、化粧用具に思いを広げているのです。曾良の「蚕飼する人は古代のすがた哉」は、蚕の世話をしている人の簡素な姿に興味を感じた句です。作業をしている人たちの姿は大昔もこのようであったのであろうかと、昔が偲ばれると言っているのです。曾良の句は説明的ですが、清風に対する挨拶を曾良にもさせようとして、この句を並べたのかもしれません。

 

大石田

 

 「最上川のらんと大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。」

 『おくのほそ道』は、尾花沢、立石寺、大石田…という順序ですが、私たちの今回の旅は、尾花沢から大石田へ歩いて、大石田を見て回った後、大石田駅から帰途につくという計画です。

 尾花沢の素英の生前墓を見た後、田園風景の中を、東北中央自動車道を越えて、35分ほど歩くと大石田町に入ります。芭蕉は最上川下りに都合のよい天候を待つために大石田で3泊していますが、『曾良随行日記』によれば、それほどの悪天候ではなかったようです。むしろ俳諧の愛好者たちと交流し指導するために時間を費やしたからであったのかもしれません。

 大石田は最上川が重要な水運の役割を果たしていた頃、その河岸として栄えました。文学者としては斎藤茂吉が1946(昭和21)1月から翌年11月まで大石田で疎開生活を送っていますし、神戸生まれの洋画家の金山平三も移り住んで茂吉と親交を結んでいます。乗舩寺には斎藤茂吉の墓があります。茂吉の墓は、東京の青山墓地と、生地の上山市と、大石田の3か所にあります。茂吉は1953(昭和28)2月に没していますが、ここの墓はそれより20年近く後に作られています。境内には、斎藤茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふゞくゆふべとなりにけるかも」の歌碑、正岡子規の「ずんずんと夏を流すや最上川」句碑も建立されています。

 乗舩寺から下っていくと、最上川に出会います。大橋は、その名の通り大きな鉄橋です。折しも工事中ですが、対岸(左岸)まで渡って、引き返します。渡るにつれて最上川が広がります。最上川は日本三急流のひとつですが、このあたりではゆったりと流れていて、波立っているところはありません。五月雨の季節には違った姿を見せるのでしょうか。芭蕉が最上川下りの舟に乗るのは本合海です。

 大石田は最上川舟運の中枢ですから1792(寛政4年)に幕府の舟役所が設置されましたが、川縁にその建物が復元されています。堤防に沿って石垣や塗り壁を連ねて、長い壁画が描かれています。対岸にある「大石田塀蔵の実物模型」という説明板によれば、最上川の洪水はたびたび起こり、築堤の必要に迫られたと書いてあります。もともとは自然堤防であったものを防災工事を施し、石垣・塗り壁や舟役所なども整備・復元されたのでしょう。芭蕉の頃の景色とはだいぶ違ったものになっているでしょう。河原に下りてみると、石垣・塗り壁は見上げる高さになっています。

 右岸の堤防上の道を少し歩くと、「芭蕉翁真蹟歌仙〝さみだれを〟の碑」という小さな木柱があります。堤防を下りて、細い道を入ります。説明板には、「芭蕉翁は、元禄二年に大石田を訪れ、新古ふた道に踏み迷っている、一榮と川水に俳諧の指導をしました。そして、出来ましたのが歌仙〝さみだれを〟といわれる一巻です。芭蕉翁は、自ら筆を執ってこの歌仙を書きました。」と書いてあります。碑には、芭蕉・曾良・一榮・川水がそれぞれ9句ずつ、一榮宅で催された36句の歌仙のうち、初折の表6句、名残の裏6句、奥書が刻まれています。

 さらに進んで、西光寺の大きな門には左右に真っ赤な仁王像があります。1868(慶應4年)に町の船大工たちが刻みあげたものだと言います。本堂から裏手に回っていくと、3つの石碑に屋根がかけられています。真ん中が「さみだれをあつめてすゞしもがみ川」の芭蕉句碑です。これは、1769(明和6年)に建てられた句碑の副碑として1975(昭和50)に作られたものです。

 本堂の近くに小さな芭蕉像があります。目深に頭巾を被って、ちょっと首を傾げて何かを見つめている姿です。屋外に設置されているものとしては、これまで見てきた芭蕉像の中でも最小のものです。

 大石田からは山形新幹線で帰途につきます。3日目・4日目と歩き続けて、日山温泉(赤倉温泉駅近く)から大石田駅までは、交通機関を使うことなく、自分の足でたどり着きました。長い区間を続けざまに歩くと旅の成就感はいっそう強くなります。

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