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2018年3月19日 (月)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(2)

  第1回 深川から鹿沼まで

 

 私たちの『おくのほそ道』の旅の始まりは2016(平成18)4月13日から16日までです。これから3泊4日を繰り返します。芭蕉は旧暦3月27日に江戸を出立しました。暦によると2016年4月13日は旧暦の3月7日です。桜の季節は過ぎましたが、「弥生の上の七日」で、芭蕉の出立日より20日ほど早いのです。今回は東京都・埼玉県・栃木県を歩きます。

 

旅立ち

 

 「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光をさまれるものから、不二の峯幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千ぢゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく。

   行春や鳥啼魚の目は泪 

 是を矢立の初として行道なほすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。」

 私たちの旅の初日は、まず芭蕉の高弟の杉風の別墅である採荼庵跡に立ち寄ります。復元された庵の濡れ縁に腰を下ろした芭蕉像は旅姿ですが、これからの長途行脚で「呉天に白髪の恨を重ぬ」というような悲壮感は感じません。ちょいと一休みというような風情です。芭蕉像の向かって左側は、一人が座れるだけの広さがあります。真ん中にどーんと座るのではなく片方に寄っています。この像を設けた人が配慮しているのですが、横に並んで座ると、背丈は同じくらいで、自分が曾良になったような気分にもなります。左手に笠を持ち、右手で長い竹の杖を突いて座っている姿です。

 仙台堀川に沿って、「水辺の散歩道」と名付けられた細道を歩きます。『おくのほそ道』の順に17句が並んでいます。句の数が多くて石碑は無理だったのでしょうが、板に書かれているのはちょっと寂しい気持ちがします。

 句の板が終わるところで右に折れて仙台堀川を渡り、清澄庭園の前を通ります。江戸時代の国学者・村田春海の墓のある本誓寺の前を過ぎ、現代的な建築の臨川寺に着きます。

 臨川寺は芭蕉に縁のある寺です。杉風・其角・嵐雪らの優秀な門弟を擁して江戸俳壇に勢力を確立した芭蕉は、1680(延宝8年)冬に、深川の草庵に移ります。この頃に臨川寺の佛頂禅師と深交を結び、たびたび参禅に訪れています。境内には墨直しの碑など、ゆかりの石碑が4基あります。佛頂禅師との問答の中から得たのが桃青という俳号ですが、のちに芭蕉に改めています。

 深川稲荷神社に寄ってから、相撲部屋が並んで横綱通りと言われているところを通ります。萬年橋で小名木川を渡ります。1930(昭和5年)に鋼橋に架け替えられる前は木橋で、江戸時代は富士山の眺めがよいところとして、北斎や広重も描いています。「不二の峯幽にみえて」と、芭蕉も富士山との別れを惜しんでいます。

 芭蕉庵史跡である芭蕉稲荷神社に寄ります。草庵は1680(延宝8年)に、門人の杉山杉風から譲られた生け簀の番小屋のようなものに手を加え、翌年春に門人の李下から芭蕉を贈られ、それが繁ったので芭蕉庵と称したと言われます。その後、火事で焼失したので再建するなどという経緯をたどります。ここは、芭蕉の没後は武家屋敷となって消滅したのですが、大正時代に稲荷を祀って再興したのです。境内には「史蹟 芭蕉庵跡」「奥の細道旅立三百年祈念」などの碑が立っています。「ふる池や」などの句碑もあります。

 神社の近くに芭蕉庵史跡展望公園があります。小名木川が隅田川に合流する地点です。石段を上ると、隅田川の展望が開けます。青空に雲が浮かんで、川面が広がります。

 ここにも芭蕉像があります。座って、腹の前で両手を組んで、自分と対話しているように感じます。横から見ると首から上がぐんと前の方に出ていて、じっと隅田川の川面を見つめているような風情もあります。

 隅田川の堤防へ下りて、その内側を歩きます。川の東岸のテラスは、大川端芭蕉句選として「花の雲鐘は上野か浅草歟」「芭蕉葉を柱にかけん庵の月」など9句が金属プレートに刻まれています。気持ちのよいそぞろ歩きですが、短い区間ですから、あっと言う間に終わってしまいます。

 堤防に上って、少し引き返します。江東区芭蕉記念館に裏側入口から入ります。芭蕉研究家・真鍋犠十の収集物を中心にして、芭蕉や俳文関係の資料が多く集められています。芭蕉稲荷神社の地が狭いのでここに記念館を作ったという経緯があるようです。庭の築山には芭蕉庵の小さな復元模型があり、その中に芭蕉像が見え、近くに「ふる池や」の句碑、そして記念館の建物入口には「草の戸も」の句碑があります。記念館は東の道路側が表口ですが、道端に大きな芭蕉の木が植えられています。記念館の庭園がこぢんまりとしているのに比べて、芭蕉の木は見上げる大きさです。

 続いて要津寺に立ち寄ります。境内に芭蕉翁俤塚があり、ここにも「ふる池や」の句碑があります。

 

千住

 

 芭蕉は隅田川を舟で千住へ向かっています。せっかくの長旅なのだから、初めから歩いて旅立ちをしてもよいのではないかと思います。交通路として舟に乗るのが当然というようには思えないのですが、前夜の集いの余韻を小さな舟に閉じこめて深川を後にしたのかもしれません。

 南千住駅前には芭蕉像が立っています。2015(平成27)3月にできた、新しいものです。矢立初めの句を詠み、したためようとする姿のようです。体はやや前のめりで、遙かな陸奥路を見つめている眼差しのようにも見えます。

 南千住駅からほど近いところに素盞雄神社があります。795(延暦14)の創建と伝えられる古社です。厳密に言うと、芭蕉はこの近くを舟に乗って通っているはずですが、千住というのは広い地域ですから、1820(文政3年)に境内に旅立ちの句碑が建てられました。江戸時代の文人に因む碑などもあります。神社の境内の片隅に富士塚があります。江戸時代は富士山信仰が盛んで、富士講という集まりがあり、江戸にいても富士に登れるようにしたのが富士塚です。富士塚は土を富士山の形に盛り上げて、その表面に熔岩の塊を置いて造り上げた人工の小山で、頂上に石祠があります。私たちは、「不二の峯幽にみえて」という記述に沿えませんので、この富士塚を眺め上げて、江戸に別れを告げることにします。

 徳川家康が江戸に入って隅田川に初めて架けたという千住大橋を渡ります。1594(文禄3年)の架橋です。現在の橋は1927(昭和2年)に架けられた鋼橋ですが、それでも90年近くを経ています。千住宿が日光道中・奥州道中の初宿と定められたのは1625(寛永2年)です。かつては橋の上に綱を渡して両側の人たちが引き合うという神事があったと言います。

 旅立って最初の句は、春が終わろうとしているのを惜しむ気持ちを、鳥や魚の心にまで移入して詠んでいます。鳥は啼いてもおかしくはありませんし、魚の目は潤んでいるように見えるのが自然でしょう。芭蕉は自分の思いと等しいもののように鳥や魚を見つめています。

 千住大橋を渡り終えたところが大橋公園になっていて、「奥の細道 矢立初めの地」という大きな碑が立っています。『おくのほそ道』の旅立ちの部分の原文を刻んだ碑もあります。

 堤防の内側に下りることができて、千住大橋を下から眺めたり、このあたりを描いた浮世絵、全国の川の番付、橋の番付などを見て楽しむことができるようになっています。南千住は荒川区ですが、隅田川を越えた北千住は足立区です。私たちは京成電鉄千住大橋駅の手前で右に折れて、旧日光道中の街道に入ります。

 足立市場のそばに、奥の細道プチテラスがあって、矢立初芭蕉像が建っています。筆を持つ姿の石の像です。笠を背にして、太く綴じた横長の冊子を胸の前で広げて、筆を走らせている姿です。目や口もとには笑みがあるように感じられます。また、千住宿歴史プチテラスには「鮎の子のしら魚送る別哉」の芭蕉句碑が建っています。鮎の子が白魚を追うようにして川を遡るのと同じように、私もみんなに見送ってもらって、ここでいよいよ別れることだ、という意味です。

 私たちは北千住に泊まって、2日目の朝は、江戸四宿のひとつである千住の町を一巡りします。年中無休のラジオ体操の会場にもなっている千住本氷川神社に参ります。かんかん地蔵の安養院には「ゆく春や」の句碑があります。

 進んで行くと荒川の土手に突き当たり、それを上ると展望が開けます。堤防から下りて氷川神社を通ります。「どぶ板で名倉しましたと駕籠で来る」という川柳にも詠まれ江戸時代以来「骨接ぎの名倉」として知られた千住名倉医院、地漉紙問屋「松屋」の面影を伝える横山家住宅、江戸時代後期から絵馬・地口絵・凧などを描いてきた現役の絵馬屋の吉田家、そして、千住宿高札場。そんなところを通って北千住駅に折り返します。

 

草加

 

 「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸草加と云宿にたどり着にけり。

 痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。」

 「ことし元禄二とせにや」と述べていますが、元禄への改元からまだ長く経っていませんから、その元号を身近に感じていないのかもしれません。旅の大きな目的地は奥羽、すなわち陸奥・陸中・陸前・羽前・羽後です。かなりの覚悟が必要であったはずですから、「かりそめに思ひたち」というのは文章のあやです。都から遠く離れた辺鄙な「呉天」を旅して、旅の辛苦を重ねて「白髪」となろうとも、「耳にふれていまだめに見ぬ」境をたどって生還できたら幸いだという、当てにならない僅かな期待をかけて旅に出るというのです。

 初日は草加にたどり着いたように書いていますが、『曾良随行日記』によれば、草加ではなく粕壁に泊まっています。この表現については、「草加と云宿にたどり着」いて「痩骨の肩にかゝれる物」に苦しんだのだという解釈があります。草加に宿したのではなく、草加宿で肩の重さに苦しんだというのです。言いたいこと(苦しい状況)を強く表現し、言葉を削り上げた結果、こういう文章になったのだという考えです。『おくのほそ道』には芭蕉の虚構も多くありますが、ここでは、そのような文章解釈も成り立たないわけではないように思います。

 私たちはまず草加市立歴史民俗資料館に立ち寄ります。旧・草加小学校西校舎を活用した資料館です。関東大震災の教訓から耐震や耐火を考えて、埼玉県下で初めての鉄筋コンクリート造りの校舎として建てられました。縄文時代から昭和に至る郷土資料が保管・展示されていますが、草加生まれの作家・豊田三郎と、その長女である作家・森村桂のコーナーもあります。

 東福寺に行きます。草加宿の設置に尽力した大川図書が創設した寺で、彼の墓があります。本堂の欄間が見事です。そこから旧日光道中に出て、草加せんべいの店をのぞきます。焼いているのを見学し、そして、焼きたてを店先で食べられるのは嬉しいものです。

 おせん茶屋公園を通ってから、草加宿神明庵でしばらく休みます。飲食業を営んでいた旧・久野家(大津屋)の建物です。神明庵はボランティアが運営しており、お茶をいただきながら説明を聞きます。1階が休憩所、2階がギャラリーになっています。草加宿の最後の大火は1870(明治3年)だったそうですが、神明庵はその時、かろうじて炎上を免れた建物です。

 庵を出て右カーブの道を少し行くと、おせん公園があって、そこに曾良の像が建っています。高い台座の上にほぼ等身大の曾良がいます。笠をかぶった姿で、右手を上げて、視線を高くして行く先を見据えている姿です。そこから県道を横断して、札場河岸公園へ歩きます。公園の横を綾瀬川が流れています。煉瓦造りのアーチ型水門の甚左衛門堰、「梅を見て野を見て行きぬ草加まで」の正岡子規句碑、木造の五角形の望楼などがあります。

 奥の細道旅立ち300年を記念して建てられた芭蕉像があります。この像も高い台座の上に設置されていますが、ほぼ等身大です。右手に杖を持ち、左手で笠を肩の辺りに保ち、顔をぐいと左の方に向けています。視線はほぼ水平ですが、ちょっと気難しい顔つきのようにも思えます。視線の先は、おせん公園の曾良像の方向と思えなくもありません。ただし、1989(平成元年)3月の建立ですから、2008(平成20)10月建立の曾良像より前に作られています。

 芭蕉像の辺りから草加松原の遊歩道が始まります。県道と交差するところに和風の太鼓橋が設けられていて、それを上り下りすれば交差道路に遮られることなく歩けます。橋の欄干には常夜灯が付けてあります。橋の名は矢立橋です。

 少し行くと、綾瀬川の対岸へ渡るハープ橋があります。橋を渡って対岸に行ってみます。雨交じりの曇り空ですが、川面は光って見えます。川には人工的な入り江も作られていて、さまざまな動物への配慮がされています。再びハープ橋を通って草加松原の遊歩道に戻ります。芭蕉とハープは結びつきませんが、草加市は音楽と文化の町づくりにも力を入れているそうです。

 遊歩道には、「名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原」というドナルド・キーンさんの筆跡を刻んだ碑、草加松原の説明板、キーンさんの萩の記念植樹、奥の細道の冒頭文の碑などがありますから、芭蕉に心を寄せる者にとっては嬉しいところです。

 矢立橋と同じような形の百代橋を上り下りします。橋下の道は交通量が多く、こちらの太鼓橋の方が先に架けられた橋だそうです。橋を下りて進むと、「松尾芭蕉文学碑」があって「ことし元禄二とせにや」から始まる文が刻まれています。

 「草紅葉草加煎餅を干しにけり」の水原秋桜子句碑があり、円形のモニュメントなどがあって松原は終わります。歩く人、駆け抜ける人などさまざまですが、名勝でありながら、人々の生活に溶け込んだ1㎞余りの道です。

 文化庁は2013(平成25)1月に、名勝の裾野を広げるという考えで、近世や近代の人たちが観賞の対象とした『おくのほそ道』に関連する風致景観も保護の対象とするという方針を打ち出しました。そして2014(平成26)3月に、各地にある『おくのほそ道』風景地とともに、草加松原は国の名勝に指定されました。

 

小山

 

 少し早い時刻に電車で小山に着いたので、小山市内を巡り歩きます。小山評定跡・小山御殿広場を通って城跡に向かいます。坂を上って小山城(祇園城)址の城山公園をぐるっと巡ります。桜祭り会場という横断幕がありますが、わずかに残る桜に人通りは少ししかありません。城山公園を回り終えて、下りてきて思川の観晃橋に出ます。広々とした川の風景です。対岸には白鴎大学が見え、手前側は川に沿って桜並木が続いています。公園とは違って見事な花盛りです。桜並木の中に、小山氏の祖である小山政光と妻・寒川尼の石像があります。

 市役所の近くを通って、須賀神社へ寄ります。京都の八坂神社から分霊を迎えて10世紀に創建されたという伝えがあり、町を祭り一色に染める小山祇園祭は京都と同じように盛夏に催されます。

 『おくのほそ道』は草加の次に室の八嶋のことを書いていますが、『曾良随行日記』にはカスカベ、栗橋ノ関所、マヽダ、小山という地名が出てきます。芭蕉は、間々田に泊まった翌日は鹿沼に泊まっています。歌枕にあたるものがなくて、小山に関心を示さなかったのでしょうか。

 

日光道中壬生通

 

 小山に泊まって、3日目は室の八嶋まで歩きます。熊本地震についてのニュースがテレビで次々と伝えられている朝、ホテルを後にします。

 小山駅の西口を出て、国道4号を北に向かいます。両毛線の踏切を渡ってから20分ほどして、馬頭観世音や馬力神などが集め置かれているところから斜め左に折れます。喜沢の追分です。ここからは国道4号と分かれて、日光道中壬生通をたどります。

 しばらく行くと、日光街道西一里塚があります。道の両側に、丸く盛り上がった土がしっかりと残っています。ここは日光道中壬生通なのですが、日光街道という名称の説明板が掲げられています。

 しばらくして姿川を渡ります。河原に黄色が広がっています。空の青を映した川面と、菜の花の黄色の対比が目に鮮やかです。堤防の内側だけでなく堤防外にも黄色が広がっています。橋の南側には桜の並木が見えて、さわやか空気があたりを支配しています。土地の起伏の加減でしょうか、麦畑を強い風が吹き渡るようになります。

 飯塚宿を通ると、清水屋、小蔦屋などの古い屋号を掲げた家が並んでいますが、宿場としての雰囲気はもはや失われています。『曾良随行日記』には、「小田ヨリ飯塚ヘ一リ半、木澤ト云所ヨリ左ヘ切ル。」とあります。「小田」は小山の誤記のようです。芭蕉もこの街道を室の八嶋に向かったのです。

 「しもつけ風土記の丘」の案内板があって、摩利支天塚古墳があり、古墳を上っていくと頂の小さなお堂で祭礼が行われています。また、ふもとが菜の花に囲まれているように見える琵琶塚古墳は、6世紀前半に作られた前方後円墳です。東側のふもとの方を発掘調査していますが、ここでも階段のようになっているところを通って古墳の頂上まで上ります。

 しばらく行くと、道の左右に飯塚一里塚があります。道の左側にあるのは草に覆われてごつごつした感じのものですが、道の右側に盛り上げられた塚はいかにも最近積み上げられた感じです。何かの工事の都合で作り替えられたのでしょうか。けれども、壊されてなくなってしまっている一里塚のことを思えば、このように作り継いでいるのは好ましいものです。

 小山市の市域が終わります。「おやまぁ またきてね」という駄洒落のような広告柱を立てています。反対側(小山に入る人が見る側)には「思川桜の里へようこそ」と書いてあります。思川桜は、1954(昭和29)に発見され、1978(昭和53)に市の花に認定されました。

 道の右手に下野国分寺跡が広がります。奈良時代に全国60余か所に建てられた国立寺院の跡地が整備されたものです。その一画に甲塚古墳があります。少し進んで、花見ヶ岡という交差点を左折して、蓮華寺でしばらく休みます。

 寺の近くに大光寺橋があり、思川を渡ります。思川はこのあたりでは流れがゆったりとしていて、河原が広がっています。日光の方角の山々がきれいに見えます。

 大光寺橋から西に向かい、しばらくして北に折れて、大神神社に向かいます。田圃が広がる中に道が縦横に延びている感じで、「遙に一村を見かけて行く」(『おくのほそ道』の那須の記述)と言うにふさわしい風景の中を、室の八嶋・大神神社に近づいていきます。大神神社は、大和の大神神社(大三輪神社)の神を迎えて祀ったので、同じ名で呼ばれていると言います。

室の八嶋

 

 「室の八嶋に詣す。同行曾良が曰『此神は木の花さくや姫の神と申て、富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより、室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也』。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍し。」

 芭蕉は、曾良の言として縁起を紹介しているだけで、室の八嶋の実景についての記述がありません。ここには、木の花さくや姫と、火々出見のみこととの2柱の名がありますが、神社が社殿に掲出している「ご祭神」には6柱の名が挙げられています。天照大御神、木花咲耶姫命、天忍穂耳命、瓊々杵命、彦火々出見命、大山祇命です。木花咲耶姫命は子育て・安産・婦人の守護神で、瓊々杵命の妻です。彦火々出見命は、その二人の長男で、神武天皇の祖父にあたります。

 このしろを禁じることについても理由は書かれていません。このしろというのは、鮨の材料などになる「こはだ」という魚ですが、この魚を焼くと、煙は人を焼く臭いに似ているので嫌ったと言われます。また、このしろは「子の代」と書いたり「この城」と書いたりできるので、「この城を食べる」ということで嫌ったという言い伝えもあります。

 室の八嶋は、写真などから判断して、じめじめした湿地に小さな社が点在しているように思っていましたが、違いました。大神神社の一隅が池になって水がたたえられて、それぞれに小さな社が祀られています。筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、浅間神社、熊野神社、二荒神社、香取神社の順に一巡します。きちんと整備されているのが驚きです。

 室の八嶋の傍らに「いと遊に結びつきたる煙かな」の芭蕉句碑があります。「いと遊(糸遊)」はかげろうのことです。煙で名高い室の八嶋では、陽炎にも煙が結びついて見えることだ、という意味です。室の八嶋では煙を詠むのが慣わしだと言っても、芭蕉の目には煙は見えず、想像上のものだったのでしょう。この句に満足せず『おくのほそ道』には採り上げなかったのでしょうが、曾良が書き留めておいたもので、それが碑になっています。

 古来、歌枕の地として名高い室の八嶋ですから、いくつもの歌碑が建っています。碑面は古びて読みとれませんが、そばに立っている説明板によれば「下野や室の八嶋に立つけぶり思ひありとも今こそは知れ」(詠み人知らず、古今六帖)と「いかでかは思ひありとは知らすべき室の八嶋のけぶりならでは」(藤原実方)という歌碑のようです。ちょっと離れた所に「絶えず炊く室の八嶋の煙にもなを立ち勝る恋もするかな」(源崇宇)の歌碑もあります。いずれも煙を詠み込んでいます。

 

栃木

 

 『おくのほそ道』の本文は、室の八嶋の次は、日光山の麓です。けれども、『曾良随行日記』には、室の八嶋の後、壬生、楡木を経て鹿沼に向かったことが書かれています。

 室の八嶋も今では栃木市に含まれていますが、栃木市は蔵の町として知られ、小京都とか小江戸とか言われています。私たちは栃木の駅前に泊まって、栃木と鹿沼の2つの町を歩くことにします。

 夕方の栃木市内を歩きます。例幣使街道の宿場町として、また舟運で栄えた町です。巴波川の流れの上には可愛らしい鯉のぼりが掲げられ、それが行けども終わることなく続きます。その数は何千という単位でしょう。元の木材回漕問屋の蔵の黒い板塀が続くところなどもあって、落ち着いた空気が流れています。川には遊覧船が運航されていますが、時刻が遅いからでしょう、出会いませんでした。

 「山本有三生誕の地」という碑があり、土蔵づくりの山本有三ふるさと記念館があります。近くの近龍寺にある墓には、山本有三の言葉として「動くもの砕けるものの中に動かないもの砕けないものが大きくからだに伝わってくる」というのが刻まれ、「右 無事の人より 友人・土屋文明抄す」とあります。あちこちに蔵の町らしい建物を見ながら、宿に帰ります。

 4日目の朝。深夜に熊本で再び震度6強、M6.0の地震があったというニュースを見ながら、宿を出ます。大きな余震が続いているようです。

 蔵の町並みを見ながら、神明宮に立ち寄ります。栃木のお伊勢さまと書いてあります。地元の商人の信仰を集めた神のようです。続いて、蔵を生かした美術館とちぎ歌麿館に立ち寄ります。「深川の雪」「吉原の花」の参考資料とともに、アメリカのフリーア美術館蔵の歌麿「品川の月」の高精度複製画が掲げられています。この三幅対の名画のことは、いつかNHKテレビの番組で見ました。

 栃木市役所の前を通ってから、嘉右衛門町重要伝統的建造物群保存地区をたどります。江戸時代から商家として繁栄したところで、1842(天保13)の絵図には83軒の店舗の記載があると言います。地区の西側に巴波川が流れ、町並みの真ん中を南北に日光例幣使街道が通っています。

 

鹿沼

 

 東武鉄道の電車に揺られて栃木市から鹿沼市に着きます。駅前で芭蕉像と対面します。等身大のチェーンソーカービングです。地場産の杉材を使ってチェーンソーだけで作ったものだと言います。ややほっそりとした芭蕉の顔と姿で、旅装束と言うよりは、普段の散歩姿のようにも感じられます。

 駅前を左折すると例幣使街道になります。街道に、二荒山神社(鳥居跡)があります。町の中に入っていくと、「まちの駅 新・鹿沼宿」というところにもチェーンソーの芭蕉と曾良の像があります。ひとりが立ち、ひとりが何かに腰掛けています。二人とも頭と首に赤いものを巻き付けています。帽子とマフラーのように見えて、現代風でちょっといただけません。

 仲町屋台公園には屋台展示収蔵庫があります。係員はいませんが、ガラス越しに見学できようになっています。豪華で細密な彫刻が施された屋台です。

 道の右手にある屋台のまち中央公園には、屋台展示館、観光物産館、掬翠園などがあります。掬翠園に入ります。掬翠園の入口には、ここにもチェーンソーの芭蕉が立っています。ここのは旅姿です。掬翠園は、麻商人であった長谷川唯一郎が明治末~大正初めに造営した庭園で、園内に「入あひのかねもきこへずはるのくれ」の句碑があります。芭蕉の別号である風羅坊という名前になっています。片田舎のこととて鐘の音さえも聞こえず寂しい気持ちがすると詠んでいます。夕暮れの寂しさは、和歌では例の「三夕の歌」などのように秋の夕暮れを歌うものが多いのですが、芭蕉は俳諧で春の暮れを詠んでいます。「春の暮」は、春の夕暮れでもあり、暮春でもあるようです。

 市役所前の交差点を右折して、黒川に架かる府中橋を渡って、JR鹿沼駅に着きます。駅前のロータリーにも等身大の芭蕉像があります。左手で笠を背に持ち、視線を高くして遠くを見つめる旅姿です。鹿沼ではあちらこちらで芭蕉に会いました。

 

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