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2018年3月27日 (火)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(10)

  第9回 酒田から新潟まで

 

 年が改まって2017(平成29)です。寒い間は冬眠をしておりましたが、これから日本海を南へ歩きます。9回目の旅は、3月28日から31日までです。今回は山形県・新潟県を歩きます。

 

再び酒田

 

 旅の初日は酒田にたどり着くだけで終わります。

 2日目の朝、酒田を歩きます。前年の旅は日和山公園で終わりました。芭蕉の文学遺跡は日和山のあたりに多く集まっているのですが、市内で見逃したものがありますから、酒田からの再開です。山居倉庫を見て、一回りしようと思います。

 新井田川のほとりに出ると、目の前に山居倉庫が現れます。土蔵造り12棟の山居倉庫は1893(明治26)に米の保管倉庫として建造され、現役の農業倉庫です。芭蕉の頃にはなかったものですが、酒田観光のシンボルです。倉庫の背後にケヤキ並木が続いています。この季節は、観光写真で見るものとは違って、葉を落とした裸の木です。40本以上が立ち並び、屋根より高く太い枝を伸ばしたケヤキは、百余年の時を重ねた倉庫のどっしりとした構えに負けてはいません。

 芭蕉が酒田にいたのは、秋の半ば近い頃です。春の初めに旅する私たちは、ちょうど逆の季節に酒田に居るのですが、青空が広がっていて、ケヤキの緑だけが欠けているように感じます。観光客の姿はありません。新井田川の河畔の屋形船も、シーズンの幕開けをのんびりと待っている風情です。川に架かる木製の山居橋の上で、上流・下流を眺めながら、うーんと思いっきり背伸びをします。

 山居倉庫からの帰途は、本間家旧本邸、酒田市道路元標、近江屋三郎兵衛宅跡、酒田三十六人衆ゆかりの地、旧鐙屋などを通りますが、いわば駆け足の通過です。けれども、米の集散地・積出港として大坂と直結していた酒田の繁栄の一端を垣間見る思いにはなります。芭蕉が訪れる6年前、1683(天和3年)には、上方からの船の出入りが急増し、およそ3000隻の船が入港したと伝えられていますから、華やかで闊達な文化が形作られており、芭蕉も目にしたことでしょう。

 

出羽の国から越の国へ

 

 「酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで百卅里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。

   文月や六日も常の夜には似ず

   荒海や佐渡によこたふ天河  」

 『おくのほそ道』は、酒田から鼠ヶ関を経て市振までを短くまとめています。親不知と市振のことは改めて書いているのですが、通過したり宿泊したりした温海や村上のことは書いていません。

 『曾良随行日記』によると、芭蕉は馬で鼠ヶ関へ赴いたが、曾良は温海温泉の湯本でゆっくりしたのかもしれないような記述になっています。時に師弟が異なった行動をとることもあったのでしょう。

 『おくのほそ道』に地名しか書かれていない鼠ヶ関は、県境にあたるところですから、歩いて越えようと考えます。鼠ヶ関の海岸に出て、そこから府屋駅まで歩きます。鼠ヶ関は奥羽3大古関のひとつですが、念珠関所跡は、府屋とは逆方向にあるので割愛します。推定樹齢400年の「念珠の松庭園」の臥龍松と枯山水の庭を見てから海岸へ出ます。「マリンパークねずがせき」と名付けられて整備された海岸が広がっています。

 鼠ヶ関の海岸の右手に少し突き出て岬のようになっているところが弁天島で、そこには小さな灯台が建ち、灯台の足元には赤い鳥居が見えます。時化に見舞われたら様子が一変するかもしれませんが、今は穏やかな入江の風景です。風はありませんが、雨が少し降り出します。

 江戸時代の五街道を歩いたとき、県境を幾つも越えました。中山道の碓氷峠の頂上には群馬・長野の両県に属する神社が並んでいましたし、奥州街道の新しい白河関も同様に栃木・福島の両県に属する神社がありました。家並みが続いているのにひょいと溝をまたげば県境を越えるというのは「寝物語の里」と呼ばれている、中山道の岐阜・滋賀の県境でした。それと同様に、あっけないほどの県境が山形・新潟の県境です。

 海岸から左に入って、集落の中を歩いていくと、道路を横切って一本の黄色い線が引かれ、その線上の道路左側に「左 山形県 右 新潟県 境標」と刻まれた石柱が建っています。足元の線の左右には足形がふたつ書かれており、その足形の上に立てば体は両県にまたがっていることになります。都府県の境というものは 山や川などの自然物によって区画されることも多いのですが、平野部に県境があってもおかしくはありません。そんな場合でも家並みが途切れたようなところにあれば違和感はありませんが、建て込んでくると家並みが続いてしまいます。ここは、しだいに家並みが続くようになったのか、それとも続いているところに区画線を設けたのか、歴史的な経緯は知りませんが、都市部でないだけに、不思議な気がします。この近く、山形県側に「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」という石標があります。

 いよいよ出羽の国(羽前)から、越の国(越後)に足を踏み入れます。象潟から敦賀までは日本海に沿って歩くことが続きます。天が慮ったのかどうか、鼠ヶ関を過ぎて集落が途切れたあたりから、急に黒い雲が空を覆って、しだいに雨脚が強くなって、傘が必要になります。風もきつくなって歩くのがすこし困難になります。『おくのほそ道』象潟には「蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。」という記述がありますが、私たちは、塩を作って販売をしている小屋で雨宿りです。あるじの若者が迎え入れて、親切に説明をしてくれます。

 やや小降りになってきたので、府屋駅に向かって歩き始めます。よほどのことがない限り、風雨の中でも歩き続けるのが私たちの基本の姿勢です。強い風雨は一時的なものとして通り過ぎたようで、しばらくすると傘が要らなくなります。薄い日が射してくるようになると 海は穏やかさを取り戻します。冬の厳しさから春の穏やかさへの変化を感じます。戊辰東北戦争の古戦場などというところもありますが、眺めるのは左手の山と、右手の日本海ばかりです。

 岩崎というところで、国道7号からわかれて左の道へ入ります。真っ直ぐ進むと笹川流れまで8㎞、左に進むと日本国まで8㎞、とあります。日本国というのは県境にある555メートルの山のことですが、その名前ゆえに話題になることが多いのです。

 集落の中を歩きます。ブロック塀の上に、木などで塀を継ぎ足して風除けにしている家があります。冬の厳しい風を防ぐためのものです。集会所の前に、手製の看板が掲げられて、「岩崎 ゆたかな村」と書いてあります。魚を持ち上げている人、稲束をかかえている人、西瓜や南瓜を持っている人が描かれています。厳しい自然の中にあっても、農業・漁業の幸に恵まれているのでしょう。

 羽越線の線路をくぐって山側に出ます。「雷~関川間、除雪のため当分の間 全面交通止」という看板があって、海岸から離れて山間部に入るところでは、冬の最中の感じがします。このあたりは、厳冬と早春が混在しているようです。「日本国登山口」という表示のあるところで 川を渡ります。府屋の集落の中心であるようなところを通ってから、造船所踏切の手前を左に折れると、すぐに府屋駅に着きます。

 府屋は一部の特急列車が停まる駅です。駅のホームからは、彼方に鼠ヶ関の弁天島の灯台がかすかに見えます。ホームには小さな鯉幟を逆さにしたようなものが並んで吊り下げられています。頭が下向きになっていますから、家々の軒下に吊される塩引き鮭です。これは村上の冬の風物詩です。日本海の景色を窓辺に、村上へ向かいます。

 

村上

 

 列車が三面川を渡ると村上駅です。駅前広場に、「今は山中今は濱 今は鉄橋渡るぞと 思ふ間も無くトンネルの 闇を通って廣野原」という「汽車」の歌碑があります。この尋常小学校唱歌の作詞者については諸説があるようですが、作曲者が村上市出身の大和田愛羅です。

 『おくのほそ道』には村上の記述はありませんが、芭蕉は村上で2泊しています。『曾良随行日記』によると、6月28日の夕方近くなって村上に着き、29日は終日、村上で過ごしています。久左衛門という人が旅籠の主人です。

 村上の町は、歩き始めてみると、ずいぶん広いことを実感します。尋ねたいと思う地点が離れています。最初に目指した稲荷神社まで、駅前から40分近くかかります。ここに芭蕉句碑があります。「雲折々人をやすむる月見かな」です。月の美しい光を眺めている人に、雲が月に折々かかって、人をしばし休ませることだ、という句意は明瞭ですが、これは、西行の歌「なかなかに時々雲のかかるこそ月をもてなす飾りなりけれ」を踏まえています。

 芭蕉の宿泊した宿久左衛門の跡という、井筒屋の前を通ります。旅館井筒屋という看板は掲げていますが、その営業は休止しているそうで、「塩引鮭お茶漬」と書かれたのれんがかかっています。

 井筒屋からは、黒塀通りと呼ばれている道をたどります。城下町らしい昔ながらの景観に戻そうとする活動が行われているようです。ブロック塀の上に板を張りペンキを塗るというやり方ですが、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。

 1400年代末の明応年間に開基という浄念寺は、芭蕉が訪れた頃には泰叟寺と称していた寺です。本堂は白壁土蔵造りで国の重要文化財に指定されていますが、1818(文化2年)に建てられたそうですから、芭蕉はこれとは違った本堂に参詣したのです。

 

良寛の分水

 

 芭蕉は、村上に宿泊した後、7月1日は築地(中条町。現在は胎内市)、2日は新潟、3日は弥彦、4日は出雲崎、5日は鉢崎(米山町。現在は柏崎市)に泊まっています。6日と7日は直江津、8日・9日・10日は高田が宿泊地です。

 「荒海や佐渡によこたふ天河」の句は出雲崎で、「文月や六日も常の夜には似ず」の句は直江津で想を得たのではないかと言われています。越後の国は駆け抜けたわけではありませんが『おくのほそ道』に収められている句が少ないのは残念です。

 今回の旅は、村上を歩いたあとは、新潟、分水・国上山などを目的地にしています。私たちは2人とも良寛に心引かれています。せっかくだから良寛ゆかりの地に時間を割こうと決めました。1758(宝暦8年)に生まれて、1831(天保2年)に亡くなっている良寛は、芭蕉(1644年~1694)より1世紀以上も後の人ですが、出雲崎が芭蕉ゆかりの土地であり、良寛ゆかりの土地でもあることもあって、良寛に関係の深いところで時間を費やそうと考えるのです。

 芭蕉は、東北地方では観光資源という意味も強くて句碑や像も多く、案内標識なども充実しています。ところが新潟県南部ではその様子が変化します。観光面では、郷土の人である良寛の方が重んじられています。『おくのほそ道』の文章自体が希薄になっていますから、当然かもしれません。

 私たちの旅の3日目。越後線の分水駅の駅前には「水の文化と良寛の里」という案内板が立っています。これから国上山にある五合庵を目指します。足元にあるマンホールのふたにも「水の文化と良寛の里」という文字と、合併前の分水町という名が刻まれています。桜とダムと手鞠のデザインです。良寛といえば手鞠の絵がふさわしいのでしょう。

 信濃川はひとたび豪雨となれば洪水を引き起こし、越後の平野に暴れ出します。その治水のために作られたのが大河津分水です。分水駅から西に向かってその分水路の堤まで歩き、右岸の堤の下の道を川に沿って北西に向かいます。堤の法面は桜並木になっていて、花盛りの頃は圧巻でしょう。

 五合庵は国上山の中腹にある簡素な草庵です。良寛が五合庵に住むようになったのは40歳の頃で、そこで20年ほどを過ごしてから、乙子神社の草庵に移っています。乙子神社草庵での生活は10年に及びますから、国上山での暮らしは合わせて30年になります。40代から60代までの30年間です。良寛が修行を重ねて、詩歌や書の芸術が円熟を迎える時期と言って良いのでしょう。

 分水路を離れて坂道にかかり、急坂の舗装道路を汗をかきながら登っていくと、道路から左の方を指し示して、「良寛修行の地 乙子神社」という案内板があります。小さな鳥居をくぐって木立の間を登ると、すぐに社殿が見えてきます。1885(明治18)に再建されたという本殿の左側には草庵があり、「史跡 良寛修業之地」という石柱が建っています。草庵は、良寛の在庵当時により近いものとして、このたび再建したとの説明板があります。本殿の右側には良寛の漢詩と和歌を記した碑があります。漢詩の中には「嚢中三升米 炉辺一束薪」という言葉があります。手元にあるのは米3升と薪1束だけというつましさを憂えている風情はありません。

 もとの舗装道路に戻って、急な坂道を登り詰めると朝日山展望台に着きます。展望台の後ろ側に、子どもたちと遊ぶ良寛の像があります。良寛の前に3人、後ろに1人の子どもがいて、その間に良寛の姿があります。鞠を持って戯れている群像です。良寛は子どもたちに視線を投げかけて、俯きかげん、細面の柔和な顔です。「子どもらと手まりつきつつ此の里に遊ぶ春日はくれずともよし」という心そのままの姿です。

 709(和銅2年)に開山して1300年になるという国上寺は越後で最古の古刹です。境内にある良寛像は、口をへの字にして、細面で静かに座っている姿です。本堂(阿弥陀堂)の右側に大師堂があり、その横手から国上山への登山道が始まります。本堂の左側には六角堂があります。

 国上寺の山門を出て鏡井戸の前を下っていくと、五合庵に出ます。五合庵は国上寺の塔頭ですが、本堂などから少し離れて、静けさに包まれたようなところにあります。南北朝から戦国時代にかけて衰微した国上寺の再建に尽力したのが、前述の萬元上人です。上人は国上寺から小さな庵を与えられ、一日あたり米五合を給されたそうで、それが五合庵という名前の由来です。上人の後は国上寺の住職が隠居所として使ったりしましたが、1804(文化元年)から良寛が住みました。木立の中の現在の草庵は1914(大正3年)の再建だそうですが、もう1世紀を経た建物というようには見えません。手入れが行き届いているからなのでしょうか。それにしても、6畳か8畳ぐらいのたった一間で、仏間、床の間が付いているだけのような建物です。仏道修行の場としては理解できますが、炊事などはどのようにしたのでしょうか。茅葺きの小さな建物からは想像できません。庵は開け放たれていますから、縁側部分にしばし腰をおろしてみます。

 傍に「堂久保登盤閑勢閑毛天久留於知者可難」という良寛の句碑が建っています。「たくほどはかぜがもてくるおちばかな」です。炊事や暖をとるための落ち葉と思うと、少しだけ生活臭を感じることができます。庵の裏の方には萬元上人墓碑も建てられています。

 五合庵から下っていくと本覚院の境内に入っていきます。良寛の言葉の一節が書かれた碑を2つほど見たりしていると、唐突に「青葉分け行く良寛さまも行かしたろ」という山頭火の句碑が現れます。

 赤く塗られた千眼堂吊り橋を渡って朝日山展望台に戻ります。国上寺を経て、ぐるっと一周したことになります。展望台の眼下には大河津分水と平野が広がっています。下山途中の道では、薄紫のかたくりの花をいくつも目に入ります。

 分水の市街地に戻ってから、良寛が13歳から18歳まで寄宿したという中村家に立ち寄りますが、外観は何と言うこともない普通の民家です。近くに願王閣という寺院があります。

 良寛の旅の最後に燕市分水良寛史料館に寄ります。ここの良寛像は、膝の上に書物を広げて読みつ考えつしている姿です。歌碑には「わがいほを たづねてきませ あしびきの やまのもみぢを たをりがてらに」が万葉仮名のような漢字で刻まれています。

 

新潟の町と日本海

 

 4日目。ゆっくりと、芭蕉のゆかりを尋ねながら、海が見えるところまで歩くことにします。信濃川に架かる300メートルあまりの萬代橋は、6連のアーチで御影石で作られています。現在の橋は1929(昭和4年)に架けられましたから、もう1世紀近くになるのですが、ひとつの風景を形作っています。橋を渡り終えて左側に、虚子の「千二百七十歩なり露の橋」の句碑があります。ずいぶん真面目に歩数を数えたものと感心しますが、この句を詠んだ当時は木製の二代目萬代橋で長さ782メートルであり、現在の三代目萬代橋は307メートルであるという注記があります。

 まず宗現寺に向かいます。蓑塚は、芭蕉が新潟に立ち寄ったことを偲んで、後の人が善導寺に建立したものを、何度かの火災を経て、1917(大正6年)にこの寺に移設されたと言われます。「芭蕉翁蓑塚」と彫られただけのものです。境内には白い梅が咲いています。

 海に向かって歩きます。ほぼ真西にあたるところを目指すのですが、道路は東西に通じていませんから、地図を見ながら都合の良い経路を探しながら歩きます。どっぺり坂という面白い名前のところを通って、海が近づくと林の中の足元に「日本海まで200メートル」という表示があります。普通は「海岸まで200メートル」と書くだろうと思いながらも、ここは朝鮮半島やロシアに続いている海なのだということを意識します。海に風はほとんどありませんが、海岸は少し波立っていて防波のための並行堤にあたって砕けています。少し引き返して、会津八一の「降り立てば夏なほ浅き潮風の裾吹き返す故郷の浜」(碑面は平仮名書き)の歌碑に立ち寄ってから、新潟県護国神社に向かいます。

 新潟県護国神社の本殿から、北側の少し細い道を通って引き返すと、文学碑などが見えてきます。まっさきに目にはいるのは、北原白秋の「すなやま」の碑です。「うみはあらうみ むこうはさどよ すずめなけなけ もうひはくれた みんなよべよべ おほしさまでたぞ」以下3番までの言葉が平仮名で書いてあります。白秋は1922(大正11)に童謡音楽会に招かれて新潟を訪れて、寄居浜で見た風景から、この作品が生まれたそうです。続く新潟出身の坂口安吾の碑には「ふるさとは語ることなし」という言葉が彫られています。少年時代の安吾は手のつけられない暴れん坊で、旧制新潟中学校時代は授業に出席せず寄居浜で空を眺めていたと言います。碑の肩には「坂口安吾が少年の日の夢をうづめたこの丘に彼を記念するための碑を建てる」と発起人代表・尾崎士郎の言葉が刻まれています。神社の境内は木立が並んでいますが、その境内の外側は寄居浜に続きます。

 しばらく行くと芭蕉堂があります。各地に芭蕉記念館などがありますが、ここにあるのは異色です。黒い大きな石に、現代風の赤い文字で「芭蕉」と書いてあります。永久保存のため堂の中は全部コンクリート詰めにして中に翁の肖像画と由来書を鋼筒にいれてあるという説明があり、1966(昭和41)に吉原芳仙氏が自費で建設して新潟市に寄贈したと書いてあります。できてから半世紀を経ていても、現代的過ぎて唐突な建築物に見えますが、時間が経てば芭蕉に寄り添うものになっていくのでしょうか。

 芭蕉堂の近くに「蓑塚」がありますが、芭蕉堂とは別の存在です。この蓑塚は、宗現寺のものに比べると造りが新しく感じられますが、背の低い木々に囲まれて、なかなか好ましい趣があります。蓑は、古くなったり破れかけたりしたら取り替えなければなりませんが、そのたびに蓑塚などというものを作っていたら大変だとは思います。旅の記念碑としては、履き物である草鞋塚などよりも、上半身に身につける蓑塚や笠塚が望ましいと思って作っているのでしょうか。

 新潟市役所の近くを通って、新潟総鎮守という白山神社に立ち寄ります。神社の前には「新潟地域十四市町村 広域合併記念 平成十七年十月」という黒い碑があります。新潟市は日本海側では最大の都市ですが、かつての人口は4050万人で推移していたように思います。それが2005年に新津市・白根市・豊栄市などと合併して、80万人規模になり、政令指定都市になりました。

 新潟の文学者として地元で重んじられているのは、会津八一、坂口安吾、平出修、良寛などで、芭蕉は文章も俳諧もはかばかしく残していませんから扱いが軽いのでしょう。句碑は船江大神宮(神明宮)にあるのみです。船江大神宮は狭い境内ですが、芭蕉句碑「海に降る雨や恋しきうき身宿」が、1857(安政4年)に建てられました。この句は元禄2年、新潟での作かと言われていますから、『おくのほそ道』の途次のものなのでしょう。季語がありませんが、秋の句のように思われます。浮身というのは、旅商人などが滞在しているときに、妾のような役割を果たす人で、その家を浮身宿というのだそうです。女の人がしきりに降る雨を通して海の方を眺めている、海の方には商人の乗った船が通るのか、それを恋しく思っているようだというような意味でしょう。

 今回の旅は新潟で終わります。現在の鉄道事情は東京中心の経路になっています。上越新幹線と東海道新幹線を乗り継いで帰ります。東京一極集中を緩和しようという議論はあっても、現実はますます一極集中に輪をかけているように思います。鉄道線路はつながっていても、「奥の細道」のような越後~越中~加賀~越前という陸路、あるいは北前船の日本海に沿った航路のようにはいきません。かつてのような日本海縦貫の特急列車は姿を消しました。北陸新幹線も東京と結びつき、その開業によって、日本海沿いの鉄道線路は、むしろ寸断されてしまったような印象になりました。

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