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2018年3月29日 (木)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(12)

  第11回 倶利伽羅から汐越の松まで

 

 11回目の旅は、すがすがしい初夏の5月22日から25日までです。今回は富山県・石川県と、福井県のごく一部を歩きます。

 

倶利伽羅峠

 

 『おくのほそ道』には、一気に「かゞの国に入」ると書いてありますが、越中と加賀の境に、卯の花山、倶利伽羅谷があります。倶利伽羅峠は、1183(寿永2年)に木曽義仲が牛の角に松明をともして平家の陣に追い入れる奇襲を行ったところです。

 私たちの旅の初日は、石動駅から倶利伽羅峠を目指して歩き始めます。旧北陸街道の砂川橋一里塚跡を経て、護国八幡宮(埴生八幡宮)に立ち寄ります。歩き始めると暑さを感じるようになります。

 1183(寿永2年)5月、木曽義仲は埴生に陣を張り、倶利伽羅峠の平維盛との決戦を前に護国八幡宮(埴生八幡宮)に祈願をします。相手は2倍の軍勢です。護国神社は各地にあって、明治以降の戦争と関係深いものが多いのですが、ここは違います。江戸時代の慶長年間に凶作が続き、庶民生活が苦しいときに、前田利長が祈願をしたところ霊験が著しかったので、護国の名を奉ったと言います。本殿から石段を下ったところに、倶利伽羅山中から3キロの距離を引いたという鳩清水がありますので喉を潤します。近くに、馬上の義仲の勇ましい像があります。ここでは勝ち戦をした義仲が、大きな像で称えられています。

 「義仲公戦勝の源 埴生」というが標柱が立っている先に、倶利伽羅源平の里という建物があります。さまざまな展示と説明がありますが、ありがたいのは、床面に倶利伽羅峠の大きな航空写真があって、地点の説明が記されていることで、峠道の様子を大づかみにできます。

 山門に大きな仁王像がある医王院に立ち寄り、そのすぐ先の旧埴生村役場跡のところから道が二手に分かれ、右側の急な坂を上っていくと、ぐんぐん展望が開けます。遠くに見えるのは118メートルもあるクロスランドおやべのタワーだとわかります。砺波平野の散居村の様子が広がります。

 歩いているのは加賀藩などが参勤交代に利用した旧北陸道です。道標などが充実していて、どこまでの距離がいくらであるのかがわかります。説明板もたくさんありますが、歌碑の多さにもびっくりします。遊行上人歌碑、たるみの茶屋跡、堀川院歌碑、藤原定嗣歌碑、藤原家良歌碑、峠茶屋跡などと続き、応接にいとまがない感じです。

 峠茶屋跡の道ばたに、チェーンソーアートの芭蕉像があります。「木曾の情雪や生えぬく春の草」という芭蕉句がそばに墨書されています。この句は、木曽義仲の心意気そのままに、春草は残雪の下から芽を伸ばしている、という意味です。これは近江の義仲寺の無名庵での吟であろうと言われています。この草と同じようにいろいろな困難にうち勝って木曾の山奥から天下に名をとどろかせた義仲のことが偲ばれるという気持ちが詠まれています。

 峠茶屋の場所には明治の中頃まで農家があって、茶屋を営んで餅を売っていたそうです。北陸街道の往来が盛んなときには、多くの旅人が足を休めたことでしょう。「爰元は柴栗からの茶屋なれや はかり込むほど往来の客」という十返舎一九の歌碑が建っていますが、往来の客で賑わっていた様子が詠われています。

 このあたりには、火牛の像がいくつも再現されています。たくさんあって、くどい感じがしないでもありません。近くに、「一里塚といわれるところ」という表示もありますが、北陸街道の一里塚そのものは消え失せてしまっています。位置も明確でなくなってしまったのでしょうか。

 新しい感じの芭蕉の句碑があって、「義仲の寝覚めの山か月悲し」が刻まれています。句意は明瞭で、義仲が夜半の寝覚めに月を眺めた山がここであると思うと、月も悲しげに感じられる、と言っているのです。この句を詠んだ場所は越前の燧ヶ城ですが、義仲の戦歴の中で最も輝かしい勝利をおさめた闘いを記念して、ここに建てられたそうです。芭蕉は、義仲のはかない運命を思い返すと、いま照らしている月がまことに悲しく眺められると嘆じているのでしょう。

 ここで大勝した義仲は京に軍を進め、征夷大将軍に任じられます。朝日将軍と称しますが、近江の粟津で源範頼・義経に攻められ、31歳で討ち死にします。誠にはかない栄華でした。義仲に強い関心を示しながらも、平泉の表現に近づくことを嫌ってからでしょうか、『おくのほそ道』は倶利伽羅での細かい記述を割愛してしまつています。

 猿ヶ馬場は平家の本陣跡で、平維盛が武将を集めて軍議を開いたところで、近くに源平供養塔もあります。芭蕉塚があります。「義仲の寝覚めの山か月悲し」の句を彫り込んでいますが、こちらは宝暦年間に建てられたもので、文字が読み取りにくくなりつつあります。近くに、芭蕉の敬慕した宗祇の句碑もあります。「もる月にあくるや関のとなみ山」と詠まれています。

 近くに倶利伽羅公園という広場があって、そこには倶利伽羅峠一帯に桜の苗木を19年にわたって7千本も植え続けたという高木勝己翁の胸像があります。昭和の花咲か爺さんと呼ばれ、その意思を継いだ人たちによって桜は守られているようです。このあたりが富山県と石川県の境界です。

 倶利伽羅不動寺は奈良時代初期の創建で、日本三不動のひとつだと言います。境内には開運不動剣という大きな剣が、高さ15メートルほどもあって、空を刺すように作られています。夕刻に近い時刻の、静かな境内でひとときを過ごします。境内には茶店もあるのですが店終いの様子で、伽藍を含めてあたり全体が一日の終わりを告げているような雰囲気に包まれています。

 ここからはゆっくり坂を下って、1時間ほどで、あいの風とやま鉄道とIRいしかわ鉄道の境界の倶利伽羅駅に着きます。ホームの長さは旧・北陸本線の貫禄を示しています。

 

金沢

 

 「卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人、何處と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名の、ほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、

    塚も動け我泣声は秋の風

       ある草庵にいざなはれて

    秋涼し手毎にむけや瓜茄子

       途中?

    あかあかと日は難面もあきの風

       小松と云所にて

    しをらしき名や小松吹萩すゝき 」

 金沢に旧暦7月15日に着いた芭蕉は9泊します。まだ暑い最中です。『おくのほそ道』には4つの句が並んでいます。そのうちの2句を見ます。「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」は、犀川のほとりにあった庵に迎えられての作です。秋の涼しさがあふれている草庵でもてなしを受けて有り難く思い、瓜や茄子の皮をめいめいの手で剥いて、いただこうではないか、という意味です。「あかあかと日は難面もあきの風」には途中吟とあって、金沢までの途中、金沢から小松までの途中、金沢での滞在の途中、というように説が分かれるようです。もう秋になっているのに、日の光はそしらぬ様子で照りつけるが、それでも吹く風にはひんやりしたものが混じって何となく秋らしさも感じるという意味です。

 私たちは、金沢をまる一日かけて、芭蕉の跡をたどってみることにします。せっかくの金沢ですから、芭蕉以外の人とのゆかりも求めて歩きます。

 2日目の朝、金石に向かってバスに乗ります。バス乗り場はJRのガード下ですが、ここから海の方向に広い道が続いています。金石に着くと駅名板のモニュメントが作られています。この道をかつて電車が走っていました。金石は北前船の寄港地であって、幕末に豪商の銭屋五兵衛が活躍したところです。

 本龍寺には銭屋五兵衛の墓がありますが、五兵衛は「海の百万石」と言われるほどに財をなした人です。その本龍寺に、芭蕉の「小鯛さす柳すゞしや海士が軒」の句碑があります。曾良は随行しなかったのですが、芭蕉は宮ノ越で俳諧の席を持っています。その時の作は「海士が妻」であったようで、句碑は誤伝に基づいて刻まれたようです。「小鯛さす柳すゞしや海士が妻」という句は、漁師の妻が小鯛の口に柳の枝を刺して持ち歩いているが、その柳の葉がなんとも涼しげである、という意味です。句の形が石に刻まれてしまうと、それが正しいものとして流布するだろうと思います。

 帰路のバスは近江町市場の近くで降りて、市場の様子を見ながら通ります。通り抜けて、彦三大通りを歩いていくと、浅野川の彦三大橋に出ます。そして、重要伝統的建造物群保存地区のひがし茶屋街に着きます。旧涌波家主屋、茶屋建築の志摩などなどがあって、落ち着いた一画です。土産物や飲食の店が多いようです。遠足か旅行かの中学生や高校生も行き交っています。大きな声も出さず、ゆっくりと歩いています。その中に、加賀棒茶・喫茶「一笑」という店もあります。『おくのほそ道』に「一笑と云ものは、此道にすける名の、ほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催す」とある「一笑」に因んだものでしょう。

 豪快な流れから犀川が「男川」と呼ばれるのに対して、浅野川は「女川」と呼ばれています。川のそばに徳田秋聲記念館があります。企画展は、秋聲の長男、徳田一穂の「父への手紙」展です。一穂の生い立ちは、秋聲の出世作といわれる小説「黴」に詳しく描かれています。記念館の2階の窓からは、浅野川や梅ノ橋の様子などが広がっています。梅ノ橋を渡るまでの浅野川沿いには「秋聲のみち」という愛称がつけられていますが、橋を渡ると「鏡花のみち」になります。川沿いに「瀧の白糸碑」があって、鏡花の出世作「義血侠血」の主人公の像があります。近くに歌謡曲「友禅流し」の歌詞碑もあり、川に沿って松の並木が続きます。

 金沢の三文豪として称えられているのは徳田秋声、泉鏡花、室生犀星で、金沢城公園のそばを通ると、三文豪が並んでいる像があります。百間掘を通って、兼六園に入ります。

 兼六園では、まず芭蕉の句碑を目指して歩きます。碑面は文字が読みとりにくい状態になっていますか、これは「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」を刻んだものです。太陽は夏と同じように照りつけてはいるが、風には秋の風情が漂ってくる、という意味です。「あかあかと」は明々とともとれるし、赤々とともとれます。この句は、金沢に着くより前に想を得て、金沢での句会で披露したようです。ただし、『おくのほそ道』の文章の流れの中では、小松への途中の吟とされています。

 園内は花菖蒲などが満開です。和服姿の女性もいて華やかです。兼六亭で昼食をとることにして、治部煮を注文します。この店には、「室生犀星の小説『性に眼覚める頃』、お玉の掛茶屋が今の兼六亭です」という説明板が掛けられています。治部煮は代表的な加賀料理の一つのようですが、私たちが注文したのは観光客向けのものでしょうから、本格的なものとどう違うのかはわかりません。

 真弓坂口から、兼六園を出て、犀川のほとりに到ると、高浜虚子・年尾父子句碑があります。「北国の時雨日和やそれが好き 虚子」と「秋深き犀川ほとり蝶飛べり 年尾」とが一つの石に刻まれています。詠まれた季節を一致させているのは、父子が伴っての旅であったのでしょうか。このあたりは「犀星のみち」と呼ばれていて、室生犀星文学碑もあります。「あんずよ 花着け 地ぞ早やに輝けり あんずよ花着け あんずよ燃えよ」が刻まれています。

 桜橋で犀川を渡り、坂を上って寺町寺院群に向かいます。ここには70に及ぶ寺社がありますから、寺を離れるとまた寺、小道を抜けるとまた寺、というような風情です。静音(しずね)の小径と呼んでいるようですが、観光客の足さえなければ、静かなたたずまいが広がっています。長久寺に芭蕉の句碑があります。「ある草庵にいざなはれて」という言葉に続いて、「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」の句が彫られています。秋のすがすがしい空気の中で、瓜や茄子は自分自分の手で皮をむき、いただくことにしよう、という句趣です。ある草庵とは、犀川のほとりの一泉亭だと言われています。

 観光客が多く集まっている妙立寺は、数々の仕掛けが施されていて、忍者寺として親しまれていますが、その横を通り抜けて、芭蕉と一笑ゆかりの願念寺へ向かいます。願念寺は蕉門の俳人・一笑の菩提寺です。門前に「芭蕉翁来訪地・小杉一笑墓所」とあって「塚も動け我泣く声は秋の風」の芭蕉句が刻まれています。一笑は、金沢の蕉風の先駆としての役割を果たした人で、400句近い遺作が伝えられています。芭蕉が訪れる前年の冬に36歳で早世し、金沢に来てそれを知った芭蕉は慟哭したようです。その追善のために詠んだのが「塚も動け我泣く声は秋の風」です。あなたを悼んで泣く私の声は、もの寂しい秋の風とともにあなたに呼びかける、塚よ、この声に応じて動いてほしい、という意味です。無念さがにじむ句です。境内に一笑塚があります。一笑の辞世の句「心から雪うつくしや西の雲」が刻まれ、大きく「一笑塚」と書いてあります。

 芭蕉は『おくのほそ道』の旅に際して、各地の門人達と予め連絡をとっていたと思われますが、一笑の死は、知らなかったのでしょうか。当時の通信手段を考えれば、知らなくても不思議ではありませんが、たとえ知っていたとしても落胆の気持ちは大きく、「一笑と云ものは、此道にすける名の、ほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、」という文章になったのでしょう。追善供養は芭蕉来訪によって突然に企画されたものではないでしょう。

 犀川大橋が見えるところを通って、室生犀星記念館に向かいます。「犀星歳時記・春夏編」という展示をしています。展示資料を見ながらゆっくりと静かな時間を過ごすように仕組まれたような雰囲気に満ちています。記念館の近くにある雨宝院は、室生犀星が、寺の子として育った幼少時代を描いた「性に目覚める頃」に登場するところです。犀星生い立ちの寺として、犀星展示室も設けられているようです。成学寺の境内には「あかあかと日は難面も秋の風」の芭蕉句碑(秋日塚)があります。ここにも一笑塚があります。

 にし茶屋街に立ち寄りますが、夕方ですから観光客の姿はありません。閉館間際の金沢市西茶屋資料館をさっと一見します。かつての部屋の雰囲気が残され、芸妓さんたちが使っていた品々も展示されています。ここは作家・島田清次郎が青年期を過ごした吉米楼の跡だそうです。「ひがし茶屋街」と「にし」とはもともと違った趣を呈していたのか、それとも訪れている観光客の多寡に理由があるのか、ともかく夕方の「にし」には、暮れゆく一抹の寂しい風情があります。

 頑丈で古風な、国登録有形文化財である犀川大橋を渡って、芭蕉の辻に向かいます。芭蕉の辻は、芭蕉が10日間ほど滞在した、旅人宿の宮竹屋があった場所です。

 

小松

 

 「此所太田の神社に詣。實盛が甲、錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打たり。實盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。

    むざんやな甲の下のきりぎりす 」

 3日目。金沢から列車に乗って小松に着きます。小松には安宅の関がありますから、ここは歌舞伎の町です。隈取りの絵などもあって、駅前にはそんな雰囲気が漂います。

 駅から真っ直ぐ西(海側)に向かいます。真行寺などの寺が並んでいます。寺町通りを北に向かってたどっていくと、左手に建聖寺があります。室町時代後期に能美郡寺井の地に創建され、1640(寛永17)に現在地に移ったと言います。この寺には、加賀藩3代藩主の前田利常の子・亀松が5歳で早逝したのを悼んで乳母・侍女たちが追善のため寄進した仏涅槃図があって、小松市指定の文化財になっています。広くはないお寺ですが、門前に「はせを留杖の地」という碑が建っており、門を入ると右手に芭蕉の碑があります。「蕉翁」と刻んだ石碑があり、その右側に小さな句碑があります。「しをらしき名や小松吹く萩薄」の句です。小松というのは何と控えめでいじらしい名前であるのだろう、風はこの地の小さな松の木の上を吹き、萩や薄をなびかせている、と詠んでいます。

 建聖寺の住職は留守とのことですが、奥様に招き入れられます。所蔵されている芭蕉木像のことを話題にしたら、拝見できることになりました。厨子の中から取り出されたのは、芭蕉の門人・立花北枝が作った像です。北枝は、金沢から松岡までの16日間ほど、体調のすぐれない曾良に代わって同行しています。のちに芭蕉十哲のひとりに数えられています。

 建聖寺を出て北に進むと、広い道路のそばに、すわまえ芭蕉公園というのが設けられています。芭蕉句碑「ぬれて行や人もをかしき雨の萩」があります。雨にぬれる萩は趣深く、これを見ながらやはりぬれていく人の姿もまた風情がある、という意味です。歓生に招かれて句会を開きましたが、この句は歓生宅の庭をたたえた挨拶の句でしょう。これを立句に五十韻が巻かれています。句会に同席した小松の俳人達が詠んだ五十韻を刻んだ句碑が作られています。活字体の日です。句会は1689(元禄2年)7月26日のことです。広い道路を横断すると、そこが菟橋神社で、ここにも「しをらしき名や小松吹く萩薄」の句碑があります。

 菟橋神社から引き返して多太神社に向かう途中に本折日吉神社があります。真っ赤な鳥居の神社は、山王さんとして親しまれており、芭蕉は小松滞在中に神主の藤村伊豆宅の句会に招かれています。境内に芭蕉留杖の地という石碑が建っていますが、近江屋という旅宿に泊まった翌朝、出立しようとしたときに小松の人達に引き留められ、神主宅に泊まって句会を催したということが彫り込まれています。その時に披露した句が「しをらしき名や小松吹く萩薄」だというのです。

 多太神社は、6世紀はじめに創建されたと伝えられています。胸のあたりに笠を持って、右手で杖を突いている芭蕉像が、高い台座の上に建てられています。力強い足どりで、遠くをじっと見据えている姿です。芭蕉は、多太神社で斎藤別当実盛の兜などを見ています。実盛と木曽義仲の巡り合わせに感慨を覚えたのでしょうか、「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句を残しています。筆太の文字で書かれた句碑があります。さらに斎藤別当実盛公の像も作られています。

 越前が生国である斎藤別当実盛は加賀の篠原の地で討ち死にをしています。はじめ源義朝につかえ、平治の乱ののち、平宗盛につかえています。幼少の頃の木曽義仲の命を救いましたが、巡り巡って平家敗走のときには、義仲軍の手塚太郎光盛に討たれています。「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句は、討ち死にをした実盛の甲の下できりぎりすが鳴いている、これはなんといたましいことだ、という意味ですが、そんな訳文では言い尽くせないものがあります。老武者と侮られまいとして白髪を染めて義仲軍との戦いに参加し、討ち死にした実盛の甲を取り上げてみると、その下にきりぎりす(今のコオロギ)がいたというのですが、戦乱の世の中の一点景として見ると、実盛の他にもこのような結末をたどった者は幾人もいたことでしょう。謡曲などに取り上げられる人もいれば、そういうこととは無縁の人も大勢いたはずです。

 多太神社は木曽義仲が戦勝を祈願した神社であり、義仲は命の恩人であり、節を重んじて戦った実盛の供養として、その甲冑や弓矢を奉納して慰霊したのです。芭蕉は簡潔に、「まのあたり縁起にみえたり。」と書いています。

 

那谷寺

 

 「山中の温泉に行ほど、白根が嶽後にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふとや。那智・谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

    石山の石より白し秋の風  」

 小松駅前から那谷寺へのバスは40分余りかかりますが、意外に山深いところではありません。『おくのほそ道』に言う「白根が嶽」は石川・岐阜県境にある白山のことです。四季にわたって雪が消えることがないので白山と呼ばれます。小松から山中へ向かう道では、白山は東南の方角、つまり前方に見えるはずですが、道の曲がり具合で「後にみなしてあゆむ」こともあったのでしょう。「左の山際」にある「観音堂」が那谷寺のことです。花山法皇が天皇を退位したときのことは『大鏡』などにも書かれています。在位3年で退位させられ、退位後に西国巡礼を始めたと言われており、西国三十三所の霊場とつながりの深い方です。

 那谷寺は717(養老元年)開創ですから、今年でちょうど1300年になります。高僧・泰澄によって白山が開かれたのと同時です。ここは白山信仰とつながりの深い寺です。那谷寺の「那」は那智の那、「谷」は谷汲の谷です。花山法皇の御幸のときに、岩屋寺を那谷寺に改められたと伝わります。

 確かにここは岩屋の寺です。村里にあるように思いましたが、山門を入ると様子が一変します。芭蕉が詠んだ「石山の石より白し秋の風」は、芭蕉150回忌に建てられた句碑に刻まれています。那谷寺の石山は、近江にある石山寺のように白く、それよりもさらに白い秋風がここを吹き巡っている、という風情です。

 山門を入ったところは、寛永年間に作庭された庫裏庭園です。杉の木の根元など、あたり一面は苔でおおわれています。普門閣・宝物館は、寺院とは異なる感じがするのですが、1965(昭和40)に白山の山麓、旧新保村の春木家を移築・保存したものだと言います。休憩所・売店を兼ねています。商業的な施設も、寺の運営のためには必要なのでしょう。大きな木々の間を参道が貫いていますが、それが終わって空が見えたところで 左手に池が現れて、その向こうに奇岩遊仙境が見えます。ここは「おくのほそ道の風景地」として国名勝に指定されています。山門までの田舎の村落風景、山門を入ってからの古木のたたずまい、そして奇岩霊石の世界と、眼前のものが次々に変化していきます。

 真っ赤な紅葉の向こうに本殿である大悲閣が見えます。観音霊水の前を通って、大悲閣への石段を上ります。一向一揆の兵乱で荒れたものを1642(寛永19)に前田利常が再建したということですが、岩壁に依りかかるように建てられています。殿内には胎内くぐりもあります。岩を切り開いたような、狭い切り通しの道を通って下に向かいます。同じ寛永期に建立された三重塔があり、色鮮やかな楓月橋を渡って、展望所に出ます。下から仰ぎ見た奇岩遊仙境に対峙する高さになります。ここは浄土を思わせる境地です。紅葉もありますが 全山が緑におおわれた静かな世界です。

 芭蕉150回忌の天保年間に建立された句碑に刻まれているのは「石山の石より白し秋の風」ですが、すぐ右側には翁塚があって、『おくのほそ道』の一節と「石山の」の句が刻まれています。あたり全体が苔むした感じになっています。はじめて「石山の」の句に接したときは、近江の石山寺と比べてそれよりももっと白く、という意味であると理解しましたが、「石山」を那谷寺の眼前の石山と見て、その石山よりももっと白く、秋の風を感じると考えてもよいのだという気持ちになりました。

 すこし上っていったところに、修法を行う護摩堂と、袴腰の上部まで石造りの鐘楼があります。どちらも寛永年間の建立で国の重要文化財ですが、このあたりまで足を延ばす人は少なくて、静かな雰囲気を味わえます。

 

全昌寺

 

 「大聖寺の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶、加賀の地也。曾良も前の夜此寺泊て、

    終宵秋風聞やうらの山

と残す。一夜の隔、千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う、読経声すむままに、鐘板鳴て、食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかゝへ、階のもとまで追来る。折節、庭中の柳散れば、

    庭掃て出ばや寺に散柳

とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。」

 芭蕉と曾良は山中温泉で別れて、曾良が先に泊まった全昌寺に、芭蕉も一日遅れで泊まります。

 小松で泊まった私たちは、4日目の朝、小松天満宮に行って「あかあかと日は難面もあきの風」の句碑などを見て、葭島神社などを巡ってから、電車で小松駅から大聖寺駅に向かいます。

 大聖寺という駅名は、北陸線の拠点駅のような印象が残っているのが、古びた感じで、大きな駅ではありません。かつては山中温泉方面への電車が発着していましたから、特急も停まる駅であったのでしょうが、今では加賀温泉駅からのバスが山中、山代などの温泉を結んでいます。

 駅から歩いて10分ほどで全昌寺に着きます。全昌寺のことを、山麓の高低差のあるところに堂宇があるように、勝手に想像していました。「鐘板鳴て、食堂に入。」から「心早卒にして堂下に下る」というあたりの文を、建物を下り降りているように解釈したのですが、実際は平坦な土地にあります。

 全昌寺の境内には、『おくのほそ道』本文を記した碑があります。芭蕉の自筆を刻んだものです。「終宵秋風聞やうらの山」の曾良の句碑と、「庭掃て出ばや寺に散柳」の芭蕉の句碑もあります。曾良の句は、師と別れて今夜はひとり寺に泊まったが、一晩中眠ることができず、裏山に吹く秋風を聞きながら夜を明かしたと詠んでいます。技巧も凝らさず、ありのままの様子を述べているのです。

 曾良の残した句を芭蕉は目にしたはずですが、曾良に呼応した句は作っていません。芭蕉の句は、寺を出立しようとすると庭の柳が散ってきた、せめてこの柳だけでも掃き清めてから発ちたいものであるという、感謝の気持ちを込めた挨拶の句になっています。「心早卒にして堂下に下る」という言葉には、曾良を追って先を急ぎたいという気持ちも込められているようです。

 師弟の句碑の近くには、「全昌寺、芭蕉忌における深田久弥(九山)作・全句」と題した句碑があります。「翁忌や師をつぐ故に師を模さず」をはじめとする11句が刻まれています。大聖寺は日本百名山などで知られる文学者・深田久弥の出身地です。「翁忌や」の句だけ独立した別の句碑もあります。

 本堂の左前の方に羅漢堂があって、江戸時代の末期に作られた五百羅漢が安置されています。本堂には芭蕉坐像があり、芭蕉が泊まったとされる部屋を復元して芭蕉庵と名付けている一隅があります。

 7万石あるいは10万石と言われる小さな城下町であった大聖寺ですが、九谷焼をはじめ独自の文化や美意識が開花しました。その落ち着いた町をゆっくり歩いて駅に戻ります。駅のホームの片隅にある芭蕉句碑には「山中や菊はたをらぬ湯の匂」が刻まれています。駅構内の句碑は珍しいです。

 

汐越の松

 

 「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。

    終夜嵐に波をはこばせて

     月をたれたる汐越の松   西行

 此一首にて数景尽きたり。もし、一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。}

 大聖寺駅前からバスで汐越の松を尋ねます。吉崎というバス停で降りて、そのまま松林のある方向に向かって歩き始めましたが、汐越の松は芦原ゴルフクラブの場内にありますので、方向が怪しくなります。やはり勘違いであり、かなり離れていることがわかりました。

 芭蕉は「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。」と書いていますが、そんな優雅な舟もありません。バスを降りたところは石川県ですが、引き返してから福井県境を通り、蓮如上人の吉崎御坊の建物などが集まっているところを通り過ぎます。しばらく行くと北潟湖が広がり、小さな浜坂漁港を過ぎます。この湖が「吉崎の入江」です。

 上り道にかかるところに石の道標があり、汗をかきながら上っていくと、やっとゴルフクラブの入口に着きます。西行の歌は、嵐が一晩中吹いて汐越の松に波が打ちかかる、その水が松の枝から滴り落ちるところへ月の光が射すと、まるで月が松の枝から垂れ下がったように見える、という情景です。

 ゴルフ場で来意を告げると快く案内をしてくださいます。けれども、海は見えませんから、更に少し離れたところまで歩かなければならないことを覚悟します。

 ゴルフクラブの場内をしばらく歩くと松林の向こうに真っ青な海が見えてきます。段丘になっていて、海からは高い位置であることがわかります。海岸に近づいたところで左に折れて進むと「奥の細道汐越の松遺跡」という石柱があり、木の札も立っています。右横の小さな祠には仏像がおさまっています。碑の向こうに、枯れた古い木が横たえられています。木と言っても残骸のようなものです。松の木はたくさん立ち並んでいるのですが、わざわざ朽ちた古木が横たえられているということは、これが汐越の松だという意思表示のように思われます。

 汐越の松は、一本の松のことなのか、数本あるいは数十本の松のことなのか、いろいろな説があるようですが、特定の一本ということではないようです。西行の歌に詠まれているような情景が特定の一本で見られたということではないはずです。この辺りは強い風にさらされるのでしょうか、巨木は見当たりません。崖の下に広がる日本海はあくまで青く澄んでいます。崖の下まで、背の低い木や草が続いていますから、西行が目にしたのは、もっと下の方にある松であったのかもしれないと思ったりします。

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