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2018年3月24日 (土)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(7)

  第6回 塩竃から平泉まで

 

 6回目の旅は、10月4日から7日までです。太平洋側の旅が終わります。今回は宮城県・岩手県を歩きます。

 

塩竃

 

 「早朝鹽がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仭に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。誠人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。」

 私たちの旅の初日。東北線塩釜駅に降りて、北に向かって鹽竈神社を目指します。駅から左手の坂を下っていくと四つ辻がありますが、そこでは神社が鎮座している山が目の前に迫ります。右折して東に向かうと、鹽竈海道という標識があります。本塩釜駅に向かって延びている広い道路です。

 ほどなく神社の表参道に着きます。「東北鎮護鹽竈神社」という石柱があり、鳥居には陸奥国一宮とあります。「九仭に重り」と書かれている202段の「石の階」を上ると、楼門があります。

 芭蕉は早朝に参詣していますが、私たちは午後のお参りですから「朝日あけの玉がきをかゝやかす」という状況ではありません。けれども、10月の青空の強い日射しのもとで、建物の朱色が鮮やかです。楼門をくぐると右宮と左宮が一体となった拝殿があります。正面向かって左にあるのが右宮で、右にあるのが左宮です。右手には、別宮の拝殿があります。

 「国守再興せられて」と書いていますが、1200年の歴史を持つこの神社を、伊達政宗が1607(慶長12)に修造しています。芭蕉が訪れるより80年以上前のことですが、現在の社殿は、芭蕉が訪れた後の1695(元禄8年)に工事に着手したものです。

 神前の「古き宝燈」、すなわち文治の神燈は、拝殿の脇にあります。「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」という文字が読みとれます。藤原秀衡の三男、三郎忠衡が父との約束を守り、自分の命に代えてでも源義経を守るという誓いを込めて寄進したものです。文治3年は1187年ですから芭蕉の時代から見て「五百年来の俤」になります。

 天然記念物の鹽竈桜の前を通って下り、志波彦神社に向かいます。このあたりからは、塩竃から松島にかけての青い海が望まれます。『おくのほそ道』旅では、久しぶりの海です。

 鹽竈神社博物館の前には、大きな甑炉型の鋳銭釜物があります。その近くに奥の細道碑がありますが、案内板もなく見過ごしてしまいそうです。保存状態も良くなくて文字が読みとりにくくなっています。左へ続く坂を下りていくと「芭蕉止宿の地」があります。法蓮寺は明治4年に廃寺となったと書いてあります。

 坂を下りきって鹽竈海道を横断して、御釜神社へ行きます。塩土老翁神が製塩に使ったという大きな御神釜4口があります。ここでは藻塩焼の神事も行われます。塩竃の地名の由来となったという神社です。しばらく歩くと仙石線本塩釜駅に着きます。駅構内を通って反対側に出て、東園寺に立ち寄ります。寺の建物の背中の位置は山になっていて、そこが狛犬城跡です。

 JRの駅名は「塩釜」、郵便局も税務署も「塩釜」であるのに、市の名前は「塩竃」で、神社の名前は「鹽竈」の文字を使っています。漢字の新字体・旧字体ということから言えば、2文字とも新字体の「塩釜」、2文字とも旧字体の「鹽竈」は納得するのですが、新字体の「塩」と旧字体の「竈」を合わせて「塩竃」とする根拠がわかりません。塩竃市の地名の由来となったと言われる御釜神社は、鳥居に掲げられているのも「釜」の文字です。

 

松嶋

 

 「日既午にちかし。船をかりて松嶋にわたる。其間二里余、雄嶋の磯につく。

 抑ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。嶋々の数を尽して、そばだつものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たわめて、屈曲おのづからためたるがごとし。其気色、?然として美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山つみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。」

 塩竃に泊まって2日目の朝、私たちは松島に向かいます。芭蕉は正午前に船に乗って、「船をかりて」塩竃から松嶋へ渡っています。2里余りの船旅で、雄嶋に着いています。

 私たちはマリンゲート塩釜から定期遊覧船に乗ります。待合所に芭蕉像があります。実際の身の丈よりも小さい像で、笠を背に負って、杖を持った立ち姿ですが、大きな目を閉じて瞑想しているような格好です。あちこちで芭蕉像を見ますが、瞑目しているように感じる像は珍しいのです。ふと、「予は口をとぢて眠らんとしていねられず。」という一節が頭に浮かびますが、それは夜に横臥して目を閉じているはずです。

 私たちが塩釜から乗るのは第三芭蕉丸です。船体に大きく「芭蕉コース巡り」と書いてあります。定員は300余人の船ですが、私たち以外は団体の十数人だけです。出航してすぐ、籬島が姿を見せて、赤い鳥居や灯籠が見えます。そして小さな入江になっている塩釜湾から、多数の島々が散りばめられている、広い松島湾へ出ていきます。海上保安庁の大型の巡視船が泊まっています。湾内には小さな船も行き交っています。

 ガイドさんの口からは、東日本大震災の時の津波がどの高さまで来たとか、島が崩れて形が変わってしまったとかいう話題が次々に出てきます。たしかに大きな波が来たらひとたまりもないような「造化の天工」です。それが津波によって変化してしまったところがあるのです。

 馬放島の南を通って 真っ白な仙台火力発電所を間近に見ます。このあたりまでは西から東に向かっていましたが、夫婦島の間を抜けてからしだいに北に向かい始めます。次々に小さな島が現れます。船が進むにつれて、「そばだつものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり」という表現の巧みさに感じ入ります。船は時々は速力を緩めたり、見せるべき場所へ接近してみたり、ぐるりと回転するコースをとったりと、サービス精神に富んだ操船です。雄嶋を海から眺めて、遊覧船は雄嶋の少し先にある観光桟橋に着きます。

 芭蕉は中国の洞庭湖や西湖を見たわけではありませんが、「抑ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。」と最大限の賛辞を贈っています。須磨・明石の海浜に住んで、瀬戸内の多島海にも馴染んでいる私たちですから、松嶋に特別の驚きを持ちませんが、静かな海の景色にひたっていると、穏やかな時間の流れを感じます。

 松嶋の観光桟橋のあたりは、松嶋観光の中心のようなところです。大勢の人が行き交っています。桟橋からちょっと歩くと日本三景碑があります。丹後の天橋立、安芸の宮島とともに松嶋を三景としたのは、江戸初期の儒学者である林鵞峰の『日本国事跡考』であると考えられていますが、芭蕉の頃には名所としての名が高くなっていたのでしょう。

 縁結び橋とも言う透かし橋を渡って、五大堂に行きます。江戸時代中期から、身も心も乱れなく、足元に注意して気持ちを引き締めるようにと、このような構造になっていたそうです。五大明王を祀る五大堂は、807(大同2年)に坂上田村麻呂が毘沙門堂を建てたのが最初と言われ、現在の建物は1589(慶長9年)に伊達政宗が修造に着手したものです。やや荒れた感じがしないでもありませんが、むしろ時代の流れを感じさせる建物です。

 

瑞巌寺

 

 「十一日、瑞巌寺に詣。当寺三十二世の昔、眞壁の平四郎出家して入唐帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。」

 五大堂のあとは瑞巌寺に向かいます。土産物屋などが並んでいるところに瑞巌寺入口があり、右折します。人の背丈の2倍以上の石柱に「国宝瑞巌寺」と書かれていて、そこからが門前の参道です。

 正面の山門をくぐって右に折れて進むと、洞窟遺跡群があって、その前に西国三十三観音巡拝所として一つ一つの札所の仏像が並びます。洞窟遺跡群は納骨や供養のための施設で、その造営は鎌倉時代から江戸時代まで続いたと書かれています。

 境内にある宝物館を一巡します。書画や像などの展示物が並んでいて瑞巌寺の歴史の長さと重みを感じます。宝物館の向かいの庫裏は、大屋根の上に煙出しがついた堂々とした建物ですが、狭い土間だけが見学可能です。入ったところに高村光雲作の光雲観音があります。

 工事のため囲われた中門をくぐって本堂に向かいます。本堂は長さが40メートル近い建物で、入母屋造りの本瓦葺きです。左手の建物が本堂の玄関にあたるようで、そこから入って、本堂内を拝観します。欄間の彫刻が見事です。本堂内は中央奥に仏壇があり、全体がいくつかの間に区切られていますが、左手奥に上段の間、上々段の間があって、きらびやかさを感じます。縁に沿って建物の内側を一巡します。瑞巌寺の伽藍は、江戸時代には熊野の桧・杉・欅の材木を集め、京都・根来の名工によって、伊達政宗が修造しています。

 瑞巌寺を出て右に向かうと、仙台藩主等が松島を遊覧する際に御座船を操った人たちが集団で住んでいたという御水主町の民家があります。多いときには48軒あったと言います。藩主たちも松島の景観に深い思いを寄せて、海に繰り出す船に関係する人たちが大勢いたのです。

 圓通院や、覚満禅師の防火石などを通ってから、伊達政宗の長女である伊達五郎八姫の廟がある天麟院へ寄ります。圓通院も伊達政宗の孫で、若くして急逝した光宗の廟所ですから、松島は鎮魂の地としても選ばれたのです。

 天麟院から海岸の方に向かって歩くと、観瀾亭へ出ます。これは伏見桃山城にあった茶室で、伊達政宗が拝領して江戸品川の藩邸に移築したものを、さらにここに移したと言います。簡素な建物ですが、海に面した高台にありますから、藩主の納涼、観月などにも活用されました。松島の島々は見るところによって、その姿が変化しますが、観瀾亭からは、遠くの島影が近くの島々を抱き守っているように見えます。

 

雄嶋

 

 「雄嶋が磯は地つゞきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂松笠など打けぶりたる草の菴、閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。

   松島や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良

 予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂松島の詩あり、原安適松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。」

 海岸に沿って雄嶋に向かいます。雄嶋の入口まで来ると、東日本大震災の時の津波浸水の深さの表示があって、近づいてみると自分の顔の高さまであります。松島湾の一帯がそのような状態であったことを想像すると、恐怖感に襲われます。巨岩を切り開いた真ん中に細い道が通じているようなところもあって、たどっていくと真っ赤な渡月橋が雄嶋をつないでいます。渡月橋は、悪縁を絶つ縁切り橋だそうです。五大堂の橋が縁結びで、渡月橋が縁切りという役割分担をしているのです。

 雄嶋は僧侶などが修行をしたところで、島の中にはたくさんの洞窟があります。仏像などが彫られ、島全体が霊場のようになっています。歌枕としても知られ、藤原俊成の「立ち帰りまたも来てみん松嶋や雄嶋の苫屋浪にあらすな」などの歌があります。

 雲居禅師の坐禅堂に立ち寄ります。小さな粗末な堂に「把不住」の3文字が掲げられています。芭蕉の頃のものでなく、一見して比較的新しいものであることがわかります。坐禅石というものがどこにあるのかはわかりません。坐禅堂から細い道を下っていくと、芭蕉と曾良の碑があります。「芭蕉翁」と書かれた碑には「朝よさを誰まつ島ぞ片心」の句が、その隣には曾良の「松嶋や鶴に身をかれほととぎす」の句が彫られた碑があります。この「朝よさを誰まつ島ぞ片心」は、誰かを待つと言われる松嶋のことが、朝に夕べに何とはなしに心にかかって離れない、という気持ちを表現した句です。自分は松嶋のことを思い慕っているが、その松嶋で誰が私を待っているのだろうかという意味にも取れます。これは『おくのほそ道』に旅立つよりも前に作られた句で、季語はありません。ただただ歌枕の地に引き寄せられる気持ちが詠み込まれているのです。

 島の北端にまで来ると、「芭蕉翁松嶋吟並序碑」がありますが、文字はほとんど読みとれません。雄島をぐるっと一周したことになり、巨石をくり抜いたトンネルのようなところを通って、渡月橋に戻ります。対岸に着いて少し歩いてから雄嶋を振り返ると、砂浜の向こうの雄嶋は静かな海に松の姿を映していました

 JR仙石線の松島海岸駅前はひっそりとして観光客の姿はほとんどありません。観光船の松嶋桟橋のあたりの賑わいとは格段の差があります。旅館や船の案内所もあるのに人影が乏しく、松嶋の玄関口とは思えない有様です。「ようこそ松島へ」という看板がうつろに見えます。

 『おくのほそ道』で芭蕉は自分の句を書き記すをしないで、曾良の「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」を紹介しています。折から空をほととぎすが鳴き渡っており、その声は感慨深いと思うが、この大きな景色の中ではほととぎすの姿のままではふさわしくないので、できれば鶴の姿を借りて、鳴き渡ってほしい、という意味です。松嶋で芭蕉が作った句として「島々や千々に砕きて夏の海」が伝えられていますが、いささか説明的で、芭蕉の気持ちに満たなかったのかもしれません。

 私たちは仙石線で石巻に向かいます。松島湾から石巻湾へと変わりゆく海景を眺めますが、野蒜駅や陸前赤井駅や蛇田駅などのあたりは大震災の津波で浸水被害を受けたところです。ときどき車窓をかすめる湾は、少し曇った空のもとで、ことのほか静かに見えます。

 

石巻

 

 「十二日、平和泉と心ざし、あねはの松、緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道、そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。『こがね花咲』とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船、入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人もなし。漸、まどしき小家に一夜をあかして、明れば又、しらぬ道まよひ行。袖のわたり、尾ぶちの牧、まのゝ萱はらなどよそめにみて、遙なる堤を行。心細き長沼にそうて、戸伊麻と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどとおぼゆ。」

 芭蕉は、山道に迷って石巻に来てしまったというのですが、それにしては、残念がったり憤慨したりする様子はなく、ここへ来たことをむしろ喜んでいます。「宿からんとすれど、更に宿かす人もなし。漸、まどしき小家に一夜をあかして、」というところだけが意に反した内容になっています。

 私たちはまず、石巻駅からほぼ真南の位置にある日和山に向かいます。日和山は震災報道でも聞き知っている地名です。商店街には石ノ森章太郎の作品に出てくる人気キャラクターのモニュメントが目に入ります。モニュメントは駅前にもありましたが、このあたりの道路をマンガロードとして町づくりに力を入れているようです。街角に津波浸水点という表示がありますが、背丈をはるかに超えて2メートル以上の位置ですから、背筋が寒くなります。

 しだいに坂道になってきます。上りきったところに鹿島御児神社があって、境内に、芭蕉の「雲折々人を休める月見かな」の句碑があります。月の光を眺めていると、ときどき雲が出て月をおおうので、月を見ている人をしばらく休ませる、という意味です。この句は、西行の歌「なかなかにときどき雲のかかるこそ月をもてなす飾りなりけれ」を踏まえていると言われます。芭蕉の墓は大津市の義仲寺にありますが、その墓に詣でることができない芭蕉門下の人たちが各地に作った供養碑のひとつだと言われています。

 ちょっと下ったところに芭蕉と曾良の像が設けられています。奥の細道紀行300年記念として1988(昭和63)に作られ、台石には、奥の細道の文章の一節と芭蕉の足跡地図が記されています。像は、芭蕉の後ろに曾良が寄り添うように立って、そっと芭蕉の背中を押しているような風情です。背丈の高い芭蕉は元気で、それより背の低い曾良は静かに付き従っているようにも感じられます。他の場所にある芭蕉・曾良の像とはすこし雰囲気が異なります。

 日和山は眼下に石巻の港のあたりを眺めることができます。大きな石の鳥居のそばから見下ろすと、河口に架かる橋を行き来している車は見えますが、あたりは津波の被害からまだ復興が進んでいないように感じられます。自然の脅威に立ち向かってきたのも人間の歴史の一面ですが、そこに生きている一人ひとりの運命や、生かされている有り難さや不思議さも感じて、眼前の風景に見入ります。

 3日目。山陰沖にあって北上していた台風18号が温帯低気圧になったと報じられた翌朝、私たちは袖の渡りへ行きます。石巻の空は真っ青です。大嶋神社があり、近くに川開由緒之碑がありますが、文字を読み取ることはできません。神社のすぐ横は北上川がゆったりと流れて、人の背丈ほどの「名蹟袖の渡」という碑があります。北上川の渡し場ですが、芭蕉は袖の渡も「よそめにみて」、北上川の堤を歩いたようです。

 渡の近くに説明板があって、仙台城下と結ばれている石巻街道は、このあたりで金花山道と一関街道に分かれていて、一関街道は石巻から登米を経て一関に至って奥州街道に接続する、と書いてあります。芭蕉はその一関街道をたどって戸伊麻(登米)で宿泊したのでしょう。

 JR石巻線の小牛田行は高校生でいっぱいです。ちょうど通学時間帯ですが、鹿又駅で高校生が降りると、車内はがらがらになります。列車は田園風景の中を走ります。気仙沼線との分岐駅の前谷地まではダイヤ通りであったのですが、涌谷駅から様子がおかしくなります。台風の影響が及んでいるのでしょうか、単線区間の対向列車が遅れているということで、小牛田に遅れて着きます。東北線の列車は待ってくれていたのですが、瀬峰駅に遅れて着いたので、予定していたバスには乗れません。

 バスの回数は少ないので、登米へ行くことは諦めて、急遽、予定を変更します。一関の町をすこし歩いてから平泉に向かうことにします。登米へは何としても行きたいのですが、別の機会にします。

 

一関

 

 瀬峰駅からの東北線は宮城県の北端を走って、いったん岩手県に入りながら、ぐるっと迂回するようなコースをたどって再び宮城県に入ります。一ノ関駅のひとつ手前の有壁駅のあるところは宮城県で、東北新幹線と並行するように走ってから、やっと一ノ関駅に着きます。

 駅舎には「世界遺産の浄土の風薫る“平泉”」と大書された看板が掲げられています。まるでここが平泉であるかと錯覚しそうです。駅前には大槻三賢人の像があります。蘭学者の大槻玄沢、その次男で儒学者の大槻磐渓、磐渓の三男で国語学者の大槻文彦です。一関が誇る人たちで、特別扱いを受けているようです。わが国初の国語辞典「言海」を完成させた大槻文彦を身近に感じます。

 西に向かう駅前大通りにも一関出身の賢人を紹介する碑などがいくつも設置されていて「先賢の路」と書いてあります。その道を真っ直ぐ進んで、磐井川の橋に出る少し手前で右に折れます。日本キリスト教団一関教会は国の登録有形文化財です。その隣に旧沼田家武家屋敷があります。

 磐井川が見えるところに出ると、松尾芭蕉二夜庵跡があります。芭蕉はここの金森邸に2泊したと伝えられています。『おくのほそ道』は一関のことを書いておりませんから、二夜庵跡を示す碑と、曾良の日記を刻んだ碑が建てられています。芭蕉は平泉に泊まっていませんから、一関が陸奥で最も北の宿泊地です。平泉を見た後、再びここに泊まり尿前の関から出羽に向かっているのです。磐井川は川幅も広くゆったりと流れています。河原には青空が広がっていて、伸びやかです。

 

平泉

 

 「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。  夏草や兵どもが夢の跡

  卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良 」

 平泉駅に降りて毛越寺に向かいます。しばらく行くと、史跡公園になっている観自在王院跡を通ります。藤原二代目の基衡の妻が建立しましたが建物はすべて失われてしまっています。

 すぐに毛越寺の表門に着きます。平泉は平安時代後期に藤原三代が、仏教文化を中心において、およそ100年にわたって築いた文化です。中尊寺は初代の清衡が造営し、毛越寺は2代目の基衡と3代目の秀衡が造営して、中尊寺をしのぐ伽藍であったのが焼失してしまいます。堂宇や庭園の遺跡が残されて、それを今、目にすることができるのです。

 外観も朱色で、建物の内部も朱色が満ちている本堂は1989(平成元年)に建てられたものです。古さを感じられないのは当然です。

 『曾良随行日記』には、「高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・光堂・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等を見ル」という記述がありますが、毛越寺については書かれていません。『おくのほそ道』にある「大門の跡は一里こなたに有。」という表現について、毛越寺の南大門の跡を中尊寺の門と見誤ったのではないかという説があります。けれども芭蕉は毛越寺をとりたてて記述していません。

 毛越寺の境内に広がる大泉が池をぐるりと回ります。平安時代の浄土庭園を伝えている池で、池は海を表現しています。汀にはやわらかい曲線の州浜や、石組みによる荒磯などが表現されています。池には南大門から中島をへて金堂円隆寺へ続く2つの橋があったそうですが、今は失われています。対岸の堂宇は夢の跡なのです。

 本殿から池に出たところに南大門跡の標柱が立っています。南大門は両脇に仁王像があったそうですが、1573(天正元年)に兵火で焼かれています。礎石12個が現存しています。芭蕉の頃には焼失してしまっていましたから「大門の跡は一里こなたに有。」という表現とは符合します。

 人影がまばらの散策道は気持ちよいものです。池の南西の位置に、水面より4メートルの高さに作られた築山があります。海岸に迫るように岩山の姿が作られています。足元は木の根がむき出しになっていて、険しさを表現しているようにも見えます。小道は、慈覚大師を祀る開山堂を通り過ぎて、嘉祥寺跡に向かいます。毛越寺の前身は850(嘉祥3年)に慈覚大師が嘉祥寺を開いたことに遡ると言われます。少し進むと講堂跡がありますが、礎石だけが残っています。さらに金堂円隆寺跡がありますが、講堂も金堂円隆寺も1226(嘉禄2年)の火災で焼失したと説明されています。「奥の細道」は平泉で戦乱による変化に涙していますが、いくつもの堂宇が失せてしまっているこのあたりを芭蕉が見たら、同じような無常の思いを抱いたかもしれません。

 草原の中を細い遣り水が流れているところがあります。山から池に取り入れるための水路ですが、ゆったりと平野を蛇行しながら進む水の流れを表現しているように見えます。発掘調査中に発見されたそうですが、底には玉石が敷きつめられ、あちこちに石組みが作られています。遣り水といえば、曲水の宴を思い浮かべます。遣り水の中に杯を浮かべて、それが流れ来る間に歌を詠み、色紙に歌を記していく優雅な催しですが、歌を詠み競う平安王朝絵巻が都から離れたここでも行われていたと想像するのは楽しいことです。

 真昼の毛越寺や大泉が池を見たのですが、明け方や夕刻にはもっと違った浄土の姿が感じられるのではないかと、それだけが心残りです。

 「秀衡が跡」は高館の南にあって、華美であった伽羅御所のことが言い伝えられています。「金鶏山」は秀衡が富士山を真似て築かせて、黄金作りの鶏を作って山上に埋めたと伝えられています。

 毛越寺を後にした私たちは、伽羅御所跡には寄らず、平泉文化遺産センターの方へ歩きます。センターの手前に「金鶏山入口」という案内板があります。標高100メートルに足りない山です。センターは、芭蕉の行脚の跡を描いた真新しい屏風なども展示しています。

 中尊寺道踏切でJR東北線を横切ると、高館へ上っていく手前の位置に「卯の花清水」という石組みがあります。曾良の句碑は建立後80年ほど経って読みにくくなっていますが、「卯の花に兼房みゆる白毛かな」が刻まれています。折から咲き乱れている卯の花を見ると、白髪を振り乱して戦った兼房の姿が眼前に現れてくる、という意味です。1189(文治5年)閏4月、高館落城の時に、主君義経と妻子の最期を見届け、死力を尽くして奮戦し、猛火に飛び込んで亡くなった白髪の老臣・増尾十郎兼房は66歳であったと言います。私たちが白河の関を訪ねたときは、ちょうど卯の花の季節でしたが、芭蕉と曾良は、白河も平泉もともに卯の花の季節を旅しているのです。

 高館へ上り切ると北上川の展望が開けて、ゆったりと流れる自然堤防の向こうに束稲山の山塊が裾野を引いています。コンクリート護岸で固められた川ばかりを見ている目には、水害の心配が頭をかすめますが、なんともおだやかな風景です。岡の上の平坦なところは狭いのですが、かつてはもっと広くなっていて、それが北上川の洪水で崩れて狭くなったということを聞くと、北上川をゆったりとした川だとばかりは言っておれません。

 高館のあたりは要害の土地です。義経はこの土地に秀衡から居館を与えられて住み、最後は戦の場になります。少しずつ上っていった先にある義経堂は、1683(天和3年)に仙台藩主が義経を偲んで建て、中には義経の木像が安置されています。芭蕉が訪れたのは1689(元禄2年)ですから、わずか6年後のことです。高館から眼下に、風に揺れる夏草を眺め、奥州藤原氏の栄華や、ここで亡くなった義経の悲運を思って句を詠みました。義経堂は小さな建物ですが、ガラス越しに中を見ると、眉と髭をぴんと撥ねた義経の像が見えます。勇ましい甲冑の姿です。

 引き返して少し下っていくと、「夏草や兵どもが夢の跡」の芭蕉句碑があります。奥の細道300年を記念して建てられた碑には、この句が上の方に書かれ、その下には「三代の栄耀一睡の中にして」から始まる一節が刻まれています。

 義経の家来たちが最後の奮戦をしますが、その功名はすぐに消え去って、草原が広がるのみです。杜甫の詩「春望」の「国破レテ山河在リ、城春ニシテ草木深シ、…」を口ずさんで、国は滅んだが山河は昔のまま残り、城(あるいは町)のあたりは春が巡ってくると草が青く萌えているという情景になぞらえて反芻しているのです。芭蕉は古戦場などを訪ねたときには感に堪えず涙してしまいます。

 「夏草や」の句は、杜甫の春景色を、目の前の夏草に転じています。夏草は乱雑に生い茂り、むっとするような暑苦しさを感じます。戦いのために荒れ狂っている兵どもの姿に通じるところがあるでしょう。「夢の跡」という言葉には、かつて栄華の夢にひたっていた人たちの跡ということと、戦いで功名をたててもそれがもはや夢と消え去ってしまった跡ということの、2つのことが響いているようです。自然の悠久さに比べれば、人間の所業ははかないということにつながっていきます。義経の時代、芭蕉の時代、そして現在と、時は流れても高館のあたりの自然は大きくは変わっていません。けれども人は移りゆくのです。

 

中尊寺

 

 「予て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雪を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

   五月雨の降のこしてや光堂 」

 高館から下って、中尊寺に向かいます。表参道である月見坂に入る前に、武蔵坊辨慶之墓とする石碑があって五輪塔があります。月見坂の途中には辨慶堂があります。最後まで主君を守り立ち往生した辨慶に寄せる人々の思いの強さがあらわれています。

 中尊寺は、850(嘉祥3年)に慈覚大師が開山しましたが、12世紀初めに藤原清衡が前九年の役、後三年の役で亡くなった人たちを供養するために大伽藍を造営しました。14世紀に堂塔の多くは焼失しますが、金色堂と経蔵だけが1124(天治元年)の創建当初のまま残っています。

 辨慶堂を過ぎたあたりから、右手の下に北上川や国道バイパスなどが見えてきます。いくつもの堂宇の前を通っていくと金色堂に達します。かつての覆堂は別の場所にあり、現在の覆堂はがっしりとした建物です。金色堂は観光の中心ですから大勢の人々がいて、記念撮影をする段も設けられています。

 引き返して中尊寺本堂に寄ります。現在、四寺廻廊という観光コースが設けられているようです。4つの寺を回って朱印を集めたり写経をしたりするという企画です。いずれも慈覚大師が開いたところで、松島の瑞巌寺、平泉の毛越寺と中尊寺、山寺として知られる立石寺です。

 芭蕉は光堂と経堂のことを「耳驚したる」と表現し、噂に聞いて驚嘆していたとしています。実際には、『曾良随行日記』によれば、経堂は別当が留守で開けてもらえなかったようです。

 「五月雨や」の句は、五月雨(梅雨の雨)がここだけは降り残したのであろうか、光堂がこのように今でも残っている、という意味です。ただし、覆堂があるから雨がかからないで残っているという意味にも取れますし、雨が降って暗いのに光堂のあたりだけはぼんやり明るい光が感じられるという意味にも取れます。

 しかも、『曾良随行日記』によれば、この日は晴れていました。雨の中の実景ではありませんが、季節は五月雨の頃です。中尊寺の堂塔は既に頽廃してしまっているのに、風雪に耐えてきた光堂のことを五月雨にことよせて讃えているのです。

 

伊豆沼

 

 平泉から引き返して、東北線の新田駅前の旅館に泊まります。国民体育大会が開催中の一関での宿泊がかなわないとわかって新田に決めたとき、近くに伊豆沼があることを知って、『おくのほそ道』とは別の楽しみが生まれました。

 伊豆沼と内沼は、渡り鳥の飛来地で、白鳥やガンをはじめさまざまな鳥が越冬します。特にマガンが多いのです。鳥が飛んでくるということは、水生植物はもちろん、魚や昆虫などの多様な生物が生息しているということです。1996年に環境庁(当時)が選定した「日本の音風景100選」に伊豆沼・内沼のマガンが入っています。視覚ではなく聴覚として選ばれているということは、マガンが飛び立つときの羽音や鳴き声のことでしょう。ここは、ラムサール条約に登録されている湿地です。登録は1985(昭和60)で、日本では釧路湿原に次いで2番目です。

 4日目は、朝食前の6時20分に宿を出ます。家並みが切れたところを左折して、東北線の踏切を渡れば、目の前に伊豆沼が見えてきます。

 線路と沼との間の広場に、伊豆沼・内沼の鳥類およびその生息地が天然記念物であることをあらわす高い石柱とその説明碑があります。天然記念物の指定は1967(昭和42)でした。50年ほど前まではあまり注目されていなかった湿地帯であったのでしょう。

 しだいに伊豆沼全体の展望が開けます。右手に伊豆沼野鳥観察館という白い建物があるので、そちらに向かいます。屋上に上れるようになっていて、かなり遠くまで見渡せます。沼の水深は深くありませんから植物が水面を覆い尽くしているところが広がり、水の色になっている部分は意外に狭いのです。野鳥にとっては都合のよいところです。伊豆沼は細長い形で、手前側に鳥の気配はありませんが、離れた対岸に鳥たちがいます。ときどき集団となって舞い上がり、すぐに下りていきます。ずっと向こうで、水面すれすれにたくさんの鳥たちが乱舞している様子も見えます。[スケッチ番号52]

 登米市伊豆沼・内沼サンクチュアリセンター淡水魚館が9時に開館するというので、朝食の後で再び伊豆沼へ行きます。伊豆沼・内沼は周囲が20㎞もあります。水深は、深いところで1.6メートル、平均は78センチだそうで、水面が全面凍結することはほとんどないと言います。伊豆沼は太平洋岸からは離れていますが、水面は海抜6.2メートルだそうで、驚きます。リーフレットによると、化学的酸素要求量の値による水質は、全国ワースト10に入っていて、対策が求められているようです。

 2階からは沼を展望できますが、センターを出て、広い道路を先の方まで歩いてみることにします。道からは、林に隔てられて沼の様子はよくわからないままに歩くのですが、10分余り歩くと、溝のようなものに沿って沼の岸に出られそう思われるところがありますので、そこを進んでみます。早朝に野鳥観察館の屋上から眺めた風景と違うのは、植物が水面を覆っているのではなく、水が広がっていることです。空を映して青い水面です。

 

再び一関

 

 旅の最後に再び一関の町を歩いてから、新幹線に乗ります。駅の近くにある「芭蕉の辻」に行きます。芭蕉が通ったルートという設定なのでしょうが、このように開発された市街地ではどこまで信頼できるのかはわかりません。そばに、「日本の道百選 〝おくのほそ道〟」という石碑が立っています。1986(昭和61)に「道の日」が制定され、その記念事業として建設省(当時)が「日本の道100選」を選んだということです。

 駅前の大通りを西に進んでから南に折れて、市街地に隣接した小高い丘である釣山公園へ行きます。意外に急な坂道もありますが、上るにつれて市街地や磐井川の展望が開けていきます。一気に上りきってしまうと、頂上には千畳敷と呼ばれる平坦な場所があります。おさん稲荷神社があり、田村神社があります。下り道に、「さまざまの事思ひ出す桜かな」や「木枯しや竹に隠れてしづまりぬ」やの句を書いて、その歌の解釈が手短く書かれている小さな板が、あちこちに設けられています。手書きのものですが、芭蕉に親近感を抱いている雰囲気があって、これは好ましいと思います。

 公園から下ってきて、旧沼田家武家屋敷を通って、世嬉の一という銘柄の酒蔵の敷地内に島崎藤村の文学碑があるので見ます。「自分のやうなものでも どうかして生きたい」という言葉が刻まれています。ここは藤村が寄寓した豪商・熊谷家の跡地であると書かれています。

 

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