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2018年3月22日 (木)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(5)

  第4回 安積山から伊達の大木戸まで

 

 4回目の旅は、すっかり夏景色となった7月4日から7日までです。今回は福島県を歩きます。

 

安積山

 

 「等窮が宅を出て、五里斗、檜皮の宿を離れて、あさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比も、やゝ近うなれば、いづれの草を花がつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」

 『おくのほそ道』の文章は、須賀川から日和田に直行したように読みとれますが、実際は、4月29日に郡山に宿泊し、翌朝早く檜皮に向かっています。

 私たちの旅の初日は、かつみの生えている沼のことを気にかけて、安積沼跡の説明板があるところに立ち寄りたいと思ったのですが、よくわからないまま通り過ぎてしまったようです。

 西方寺と蛇骨地蔵に立ち寄ります。仏堂建築の蛇骨地蔵は東勝寺が廃寺となって後、西方寺に移されたそうです。境内にイチイの木があり、傘松もあります。西方寺の堂の前に「健康十訓」が石に刻まれています。その言葉は、「少肉多菜 少塩多酢 少糖多果 少食多齟 少衣多浴 少車多歩 少煩多眠 少忿多笑 少言多行 少欲多施」です。食生活などに関することはともかくも、「少車多歩」が気に入ります。車を運転せず、乗ることも極力控えて、なるべく歩こうとしている私たちの考えと同じです。

 しばらく歩くと、右手に安積山公園が見えてきます。「花かつみ記念植栽」という説明板があります。「芭蕉が安積山をたずねてさがし歩いた花かつみを『奥の細道』300年を記念して植栽する」と書いてあります。「花かつみ(学名・ひめしゃが)昭和49年6月郡山市の花に指定」と注記があります。淡い紫色の花びらで中央の部分が白く、脈は紫色で、とさかのような突起がある姿です。胡蝶花とも呼ばれるシャガの花は初夏に咲きますが、ここの花かつみも今は葉が繁っているだけです。

 山というほどではなく小さな丘陵ですが、安積山公園という石柱が建っているところから緩やかな坂道を上っていきます。丘の上には大きな松が何本も生えています。

 北寄りに少し下ってくると、丘の中腹に、万葉集安積釆女の歌碑が建ち、万葉集・巻16の安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」が刻まれています。歌の意味は、安積山の山影まで映って見える山の井の水のように、私は浅い心であなたのことを思いはしません、ということです。万葉集の歌には左注が書いてあって、葛城王が陸奥の国に派遣されたときに、国司たちからの接待が粗略であったので、王は怒りの顔色となり宴席を楽しもうとしなかった、そのとき、以前に釆女であった女性がこの歌を吟詠したところ王の機嫌が直っていった、という経緯が記されています。こうして、安積山が歌に詠まれる名所(歌枕)となっていったようです。芭蕉は花かつみに執着したように書いていますが、歌枕の地として関心を持っていたことは間違いありません。

 近くに「奥の細道の碑」が建てられ、山裾をめぐる小道は「芭蕉の小径」と名付けて整備されています。丘から北の方へ下っていったところに、山裾から湧き出る一筋の水があります。山ノ井清水と名付けられていますが、万葉歌に因んだものでしょうか。石組みの中に少しの水が貯えられています。

 安積山から少し離れたところから、奥州街道の松並木が始まります。松並木は、郡山から日和田を経て北に向かう間に何か所か残っています。路傍に説明板があって、1604(慶長9年)に奥州街道が整備されたときに並木ができたと書いてあります。その後に植えかえも行われたようです。このあたりの道路はうねうねと曲がりくねっていて、それが風情を醸し出しています。曲がり角の向こうから旅人がひょいと現れてくるような錯覚すら感じます。左手遠くに磐梯の山並みが見えます。

 「にごり池」というバス停を過ぎて、集落に入っていくとお寺などもありますが、適当なところで見当をつけて、左の方へ折れて、五百川駅を目指します。高倉橋で五百川を渡ります。川幅はありますが、水の流れているところはわずかです。五百川は阿武隈水系ですが、この川の名前に興味を引かれます。京都にいた萩姫という姫君が病気になったとき、不動明王が現れて「京から北に五百番目の川を上りなさい」という言葉があったので、旅を続けてその五百番目が磐梯熱海温泉の近くを流れるこの川であったという伝説が残っているそうです。

 

二本松

 

 『おくのほそ道』では、あさか山について書いた後は「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」となっています。二本松は地名が書かれているだけです。

 旅の2日目、二本松駅から黒塚を経て安達駅まで歩きます。残念ながら、朝から雨が降っています。

 二本松をゆっくり歩くのは、智恵子との関連です。駅前にある戊辰戦争二本松少年隊の像を見てから二本松神社に寄り、そこから東に向かい、亀谷坂入口という交差点を北に折れます。ゆるやかな上り坂をたどっていくと、路傍に幸田露伴の文学碑があります。「文豪・幸田露伴 ペンネームゆかりの地」と書かれた石碑に「里遠しいざ露と寝ん草まくら」の句が彫り込まれています。文学を志した露伴が通信技手として赴任していた北海道余市から上京しようとして、福島から郡山まで歩く途中で体力も気力も限界となり野宿を決意して、野垂れ死にをする時になればこんな気持ちになるだろうと思ったときの句だと言います。東北本線が郡山まで開通していた時代のことです。

 この碑の左の方へ上ったところに亀谷観音堂があって、「人も見ぬ春や鏡のうらの梅」の芭蕉句碑があります。1776(安永5年)の建立で、文字は読みづらくなっています。

 根崎という交差点を北に折れてから、鯉川という細い流れを渡ります。それから10分ほど歩いていくと智恵子物産店という看板を掲げた戸田屋という店があります。店内には智恵子に関する展示があり、関連書物が並び、天井からは杉玉がぶら下がり、置物など様々なお土産品が並んでいます。ヒット歌謡「智恵子抄」でコロンビア・ローズさんが訪れた写真も掲示してあります。おもちゃ箱をひっくり返したようなという形容がぴったりするほど、魅力あふれる店です。

 戸田屋の隣が「智恵子の生家」です。智恵子は1886(明治19)に酒造の家の長女として生まれていますが、その長沼酒造家が復元されているのです。「花霞」の薦樽なども並び、機織り機や蓄音機や琴まで並べてあります。

 その隣にある、酒蔵をイメージした智恵子記念館には、智恵子が制作した紙絵や油絵の世界が広がっています。紙絵は、南品川で病院生活を送っている智恵子を見舞う光太郎が持ってきた色紙、レッテル、銀紙などを台紙に貼り付けることから始まり、次第に創意が加わり、驚くように上達したと言われています。一人の美術作家の人生の跡や、その人の内面世界をのぞき見るような思いになります。

 記念館を出て、「智恵子の杜」と書かれた石柱のあるところから石段を上っていきます。稲荷八幡神社を過ぎて、両側に紫陽花がぎっしり植えられた石段が続きます。あじさいロードと名付けられていますが、愛の小径という名も付けられています。帰郷した智恵子を見舞って光太郎は何度も長沼家を訪れ、裏山のこの道を散歩したと言います。

 光太郎の「道程」詩碑があり、ふれあい広場、彫刻の丘というところを過ぎて上っていくと、やがて鎮魂の丘に着き、そこには「樹下の二人」詩碑があります。鞍掛石旧蹟という碑も建っています。「あれが阿多多羅山…」という方角は説明板によってわかるのですが、雨に煙って山は見えません。

 

黒塚の岩屋

 

 高村光太郎・智恵子ゆかりの丘の頂から下ってきて、次は黒塚の岩屋に向かいます。鯉川を渡り、国道4号に出ます。高いところに架けられた安達ヶ橋で、一気にJRの線路と阿武隈川を越えます。雨は止んできましたが鈍い空で、それが鏡のように静かな阿武隈の川面に映っています。

 橋の左手の下に見えてくるのが黒塚です。一部を塀で囲っています。橋を渡り終えて、堤防の内側に下ります。奈良時代の726(神亀3年)に、東光坊阿闍梨祐慶が破魔の真弓に金剛の矢をつがえ鬼婆を射て埋葬したところであるという説明が書いてあります。平兼盛の「みちのくの安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」が知られていますが、歌舞伎、謡曲、浄瑠璃などでも取り上げられています。

 黒塚の近くに、真弓山観世寺があります。鬼婆が住んだ岩屋があるという寺ですが、どうしてこの境内だけにこんな大きな岩や変わった形の岩があるのかと驚くようなところです。岩屋は笠石で、巨岩の上に笠のような巨岩が重なっています。仮に人工が加えられたとしても、古い時代においてはなかなかの技術が必要であったことでしょう。

 柵で囲まれた「夜泣き石」というものもあります。鬼婆に殺された赤子の泣き声が夜になると聞こえたという石です。二つに割れた形の、苔むした石です。甲羅石というのは確かに亀甲を思わせる割れ目の入った石です。安堵石は胸の内の苦しみを聞き受けてくれるという石です。胎内潜りと言って岩窟の中へ入ることができるところもありますが、ちょっと中を覗くだけで敬遠します。他にも鬼婆供養石とか、出刃洗いの池とかがあって、ドラマチックな仕立てになっています。蛇石は、白蛇が巨岩の一帯に住み着いて、如意輪観音の化身として崇められ、参詣人の安心・無事を守ったと言います。

 芭蕉に関しては、芭蕉休み石というのがあります。腰を掛けることができるような平らなところがある石です。正岡子規も訪れていて「涼しさや聞けば昔は鬼の家」の句碑がありますが、芭蕉の影は薄いようです。

 安達ヶ橋を渡って国道4号に戻ります。東日本大震災の応急仮設住宅団地という案内板が目に入ります。浪江町の方々が入居していると書いてあります。国道から左斜めに折れて歩き、油井川を渡って、新装成ったばかりという感じのする安達駅に着きます。

 

医王寺

 

 「月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋々行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ふるにまかせて、泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義經の太刀、辧慶が笈をとゞめて什物とす。

   笈も太刀も五月にかざれ紙幟

五月朔日の事也。」

 『おくのほそ道』の文章は、信夫文字摺り石、月の輪の渡し、飯塚(飯坂)…という順序で書かれていますが、私たちは、医王寺、飯坂温泉、桑折…という順で訪ねて、その後で文字摺り石に立ち寄ります。

 安達駅から福島駅に出て、福島交通の飯坂線に乗り換えます。飯坂温泉行の電車を医王寺前駅で降りて、医王寺まで歩きます。道端には「おくのほそ道・芭蕉路」という木柱も立てられています。「芭蕉坂」という木柱もあります。医王寺は『おくのほそ道』に「かたはらの古寺に一家の石碑を残す。」と書かれている寺です。

 奥州平泉の藤原氏の下で信夫郡を治めた佐藤庄司というのは、佐藤基治のことで、藤原秀衡の家臣です。源義経に従って死んだ佐藤継信・佐藤忠信兄弟の父です。「二人の嫁」というのは継信・忠信のそれぞれの妻のことです。継信は、屋島の合戦で義経をかばって戦死し、忠信は、吉野で義経に代わって敵を防ぎ、後に京都で討ち死にしています。兄の死は1185(文治元年)、弟はその翌年のことです。芭蕉は、義経に忠義を尽くし他国で死んだ佐藤兄弟とその妻の話に涙を流しているのです。

 医王寺の山門を入ると、常緑広葉樹のシラカシの巨木が目を引きます。寛永年間の植栽で樹齢300年と言います。内門を入って本堂を拝みますが、その左横に芭蕉の句碑があります。そばで紫陽花が花を咲かせている碑に「笈も太刀もさつきにかざれ紙のぼり」と刻まれています。5月の節句の頃で、家々では紙幟(紙製の鯉幟)を立て武者人形を飾って祝っているが、勇ましい男の節句であるから、紙幟とともに、寺に収められている辨慶の笈や義経の太刀も一緒に飾ってほしい、という意味です。眼前の景である紙幟から、過去の人とのつながりのある笈や太刀に思いを馳せています。

 医王寺の本堂には、若桜(継信の妻)と楓(忠信の妻)の像が祀られていると言います。姑・乙和の悲しみの深さに対して、兄弟の武将姿をして慰めようとしたという2人の人形です。

 境内には義経公主従像もあって、義経を真ん中にして、向かって右に継信、左に忠信の像が並んでいます。「乙和の椿」というのもあります。継信・忠信の2人を失った母・乙和の深い悲しみが乗り移ったかのように、花が開かず蕾のままで落ちてしまう椿だと言います。瑠璃光殿(宝物殿)には、芭蕉像の他に、辨慶の笈や、継信の木地鞍などの展示があります。

 医王寺を出て、小川という名の川の医王寺橋を渡ります。蚕業試験場跡にある「蚕の供養塔」や、乙和稲荷神社を見たりしながら、花水坂駅の前を通って飯坂温泉駅まで歩きます。

 飯坂温泉の駅前広場には、芭蕉の像があります。摺上川を背にして建つ像は、笠を背中に負い、左手で杖をつき、ゆったりと落ち着いた姿です。傍らには「日本最初のラジウム発見の地」のモニュメントもあります。摺上川に架かるのが十綱橋です。崖下の深いところを流れる川には吊り橋が架けられたり渡し船があったりしたようですが、鋼アーチの十綱橋は1915(大正4年)に完成し既に1世紀を経過しています。土木学会選奨の土木遺産に選ばれています。

 

飯塚(飯坂温泉)

 

 「其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に莚を敷て、あやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て、雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて、眠らず。持病さへおこりて、消入斗になん。短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。猶、夜の余波、心すゝまず。馬かりて桑折の駅に出る。遙なる行末をかゝへて、斯る病覚束なしといへど、羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん是天の命なりと、気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。」

 芭蕉は飯塚に泊まった書いていますが、それは飯坂温泉のことです。飯坂温泉のことを印象悪く書いていますが、当時の飯坂は湯治場のようなところであったのかもしれません。空模様の悪さもあって宿に当たり散らしているようにも感じられます。「あやしき貧家」であったことや、芭蕉がこの宿で持病に苦しんだことは、『曾良随行日記』には書かれていません。

 3日目の朝、私たちは宿を出て飯坂温泉を一巡りします。少し雨模様です。緩い坂を上っていくと左手に「ゆざわ芭蕉の道公園」という小公園があります。このあたりを芭蕉が歩いたというのでしょう。道が右にカーブしていったところに「鯖湖湯跡地」という石柱があり、休憩施設があります。向こうに鯖湖神社が見えてきます。境内に「飯坂温泉発祥の地」という石柱と解説碑があり、与謝野晶子の歌と正岡子規の句とを並べて刻んだ文学碑もあります。

 源泉を汲み出している櫓があって、その隣が鯖湖湯です。飯坂温泉で最も古い湯だそうで、芭蕉もここの湯を使ったのでしょう。「芭蕉と曾良入浴の地」という石碑もあります。道後温泉の建物よりも古く、かつては日本最古の木造建築共同浴場と言われたそうですが、現在は改築されています。

 鯖湖湯を過ぎて旧・堀切邸の横の坂を上りかけたところで雨が強くなりました。しばらく鯖湖湯の軒下に避難し、雨の対策を整えます。それでも止まないので、公園の中の屋根のあるところで腰掛けて、しばらく時間を過ごします。

 やや小降りになってきたのを見計らって歩くことを再開します。旧堀切邸の前を通って「ちゃんこちゃんこ」に向かいます。「俳聖松尾芭蕉ゆかりの地入口」という石柱があり、その真後ろに「ちゃんこちゃんこ」の説明板があります。飯坂小唄に歌われる「ちゃんこちゃんこ」は「滝の湯」に下りていく73段の石段だそうです。下駄を履いて石段を下りていくとチャンコチャンコと音が鳴るというのです。「滝の湯」は飯坂の名湯であったが1937(昭和12)の火災によって焼失したという説明があります。細い石畳道は左に曲がって下っていき、摺上川のそばに出ます。

 「俳聖松尾芭蕉ゆかりの地」という碑があって、『おくのほそ道』の飯塚の一節が刻まれています。そばには「長らく芭蕉が入浴したのは滝ノ湯であると言われてきて、その跡地に芭蕉の碑を建立した。しかし、奥の細道の研究が進み、芭蕉と曾良が入ったのは滝ノ湯ではなく鯖湖湯あるいは当座湯であるという考えが有力になっている」という旨が書かれた謙虚な説明板が建っています。滝ノ湯のかつての写真も掲出されて、河畔に立つ滝ノ湯の建物と摺上川に渡し船が往来する様子が紹介してあります。明治・大正時代の写真です。

 戻って、旧堀切邸へ行きます。江戸時代から続いていた豪農・豪商の旧家です。1578(天正6年)に若狭の国から移住した梅山太郎左衛門があたりを開作し農業や養蚕に力を注ぎ、氾濫を繰り返した赤川の堀を切って流れを変えたので堀切と呼ぶようになったそうです。堀切家は地域の経済に貢献するとともに、衆議院議長を務めた堀切善兵衛や、東京市長を務めた堀切善次郎などを輩出しています。堂々とした表門を入ると左手に主屋があり、部屋を回って係の方の説明を聞きます。米蔵などとして使われた「十間蔵」や、井戸小屋などを見ているうちに雨が止んできます。

 駅に向かって歩いていると、西覚寺の掲示板に「雨の日には雨のおめぐみ」と墨書したものが張られています。まさにその通り、この日にぴったりです。この言葉に感じ入り、これから後、雨模様になったときには、私たちの合い言葉になりました。

 駅前の十綱橋を対岸まで往復し、川岸に「十綱の渡し」と書かれているのを見てから、駅前広場の芭蕉像に別れを告げます。

 

桑折

 

 飯坂から桑折までは遠くはありませんが、私たちは迂回して、いったん福島駅に出て、東北線で桑折駅へ行きます。桑折の町を見た後、伊達の大木戸を目指して、福島県最北端の貝田駅まで歩きます。

 桑折の駅前には「異国の丘」の歌詞を刻んだ碑が建っています。作曲者の吉田正を有名にしたこの歌の作詞者・増田幸治が桑折の出身であるのだそうです。

 桑折駅からはいったん南に向かって歩きます。無能寺には笠松(御蔭廼松)があります。笠の頂の高さは6メートル余なのに、東西南北に6~9メートルの枝を伸ばしています。枝の下を真っ直ぐに延びる参道を通って本堂に向かいます。

 方圓寺には田植塚があって、「風流の初やおくの田植うた」の句碑があります。田植塚記という碑もあります。この地の俳人・佐藤馬耳が「風流の」の句の短冊を埋めて、「芭蕉翁」と刻んだ石碑を建てたのは1719(享保4年)のことです。この碑は風化していますが文字は読みとれます。

 休憩施設である桑折御蔵を過ぎ、梵鐘のある大安寺を過ぎると、桑折町道路元標があって、目の前に旧伊達郡役所が迫ってきます。1883(明治16)に誘致運動の末、この地に建てられたという郡役所は、2階建てでバルコニーと塔屋を持つ建物です。1926(大正15)の郡役所廃止まで、伊達郡の行政の中心となりました。廊下や階段などは歩くたびにギシギシと鳴りますが、それはこのような建物の常です。2階のバルコニーからさっきまで歩いてきた道筋を眺めやります。郡役所の建物の東側には、桑折陣屋跡があります。

 郡役所の少し西に芭蕉像があります。しっかりとした体格で、鼻筋の通ったたくましい感じの顔です。この像からは「野ざらしを心に」思い浮かべているようには感じられず、この姿では行き倒れることはないだろうと頼もしく感じます。像の下には、「月の輪の渡しを越えて」から「伊達の大木戸を越す」までの文章が記された銘板がはめこまれています。

 郡役所から西に進むと桑折寺があります。木造で銅板葺きの黒い山門は、遠くから見ると旅笠のように見えないでもありません。境内を歩いてから、もと来た道を引き返します。

 桑折駅が近づいてきたところに追分があります。ここからは初めて歩く道になります。追分のところは、柳の木の両脇で道が二手に分かれています。奥州街道と羽州街道の分岐点です。五街道の奥州街道は日本橋から白河までですが、その延長として福島、仙台、盛岡を経て津軽半島へ延びています。羽州街道は桑折から分岐し、七ケ宿、上山、山形、秋田、弘前を経て奥州街道と結びつく道です。桑折にある道標には「右 奥州仙台道 左 羽州最上道」と書かれていたそうです。その先に奥州街道谷地一里塚跡というのがありますが、木柱が立っているだけです。

 桑折には、江戸時代に佐渡、生野とともに日本三大鉱山といわれた半田銀山がありました。資源枯渇を理由に閉山とされていた銀山を、明治になって再興したのが五大友厚です。ただし、銀山がどのあたりにあったのかは知りません。

 小さな流れの佐久間川を渡るあたりでは次第に道が細くなっていき、いつの間にか桑折町が終わって伊達郡国見町に入ります。福島県の最北端の町です。特に注目するような名所旧跡のようなものもなく淡々とした歩きが続きます。

 

伊達の大木戸

 

 『おくのほそ道』は、飯塚について書いた末尾を「路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。」と締めくくっています。桑折から歩いてきた私たちの目的地も「伊達の大木戸」ですが、その位置は明確ではありません。伊達の大木戸というのは、国境の関所で、そこから北が伊達領ということです。

 国道4号は福島・宮城の県境を越えるために上り坂になっていきますが、山が迫ってくるようなところはありません。大木戸支所バス停というのがありますが、これは町役場の支所のことでしょうか。

 道の左手に阿津賀志山防塁が見えてきます。大きな看板に、国指定史跡とあり、文治5年奥州合戦古戦場跡と書いてあります。源頼朝が率いる鎌倉軍を迎え撃つために、藤原秀衡の平泉軍が築いた堀と土塁の要塞です。およそ3㎞にわたる土塁は、堀が二重になっているそうですが、この国道4号のあたりでは外堀が完全に埋まってしまっているようです。

 いよいよ奥州道中国見峠長坂跡です。国道から左に入って、上っていく道は木々の枝がかぶさってくるような感じで古道の面影が残っています。路傍の案内板は、ここに官道が走って奥羽地方の幹線道路として機能し、登り詰めたところが国見峠であると記しています。

 矢印に従って上っていくと、空が広がって、丘の上に平坦な道が続いているようになります。道が改善されたのかもしれませんが、車馬の通行に適さない難路の面影は消えてしまっています。

 国道4号に戻ると、東京から291㎞という表示が出ています。道の傍の果物即売店に尋ねて、貝田駅が近いことを教えられ、元気が出ます。雨はわずかですが、やむことなく降り続いています。貝田駅は宮城県境の少し手前ですが、ここから電車で福島駅に戻ります。

 

信夫の里

 

 「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遙山陰の小里に、石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける。昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。

   早苗とる手もとや昔しのぶ摺 」

 4日目の朝、福島駅前からバスに乗って、文知摺という停留所で降り、広い道を少し歩いてから、左に折れて細い道に入ります。文知摺観音に着く手前に「虎が清水」があります。山口長者の娘・虎女が源融との再会を文知摺観音に祈願したときに身を清めた清水だといいます。源融は都からの按察使としてこの地に来ています。

 文知摺観音の境内入口に、芭蕉像と『おくのほそ道』文学碑が一体になったものがあります。俳聖松尾芭蕉像とあるとおり、悟りを開いた僧侶のような風情が漂っています。像は文学碑の上部にあって、見上げる高さです。文学碑には、「月日は百代の過客にして…」の冒頭部分、「二本松より右に切れて…」という安積山の末尾部分、そして「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て…」から「早苗とる」の句までが刻まれています。このような編集をした碑文は珍しいと思います。

 説明板には、ここは観音札所として、また文知摺石をめぐる伝説の地として古くから市民に親しまれてきて、この信仰と伝説が中核となって、この地には長い歳月にわたり堂塔が建立され多くの碑が配置されてきた、という旨のことが書いてあります。

 ここは百人一首の「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」の歌で知られているところです。作者は河原左大臣、すなわち源融です。しのぶもぢずりは、福島県の信夫地方で産出した、乱れ模様に摺り染めた布のことですが、歌ではここまでが序詞です。けれども、単に言葉を導き出す働きなのではなく、複雑な乱れ模様のイメージと、作者の心の乱れとを重ね合わせるように詠んでいます。この歌の骨格は、私の乱れた恋心はあなたゆえのことなのですということです。この相手の女性は虎女のことでしょう。境内には「河原左大臣源融公 虎女の墓」として2つの墓が並んでいるのですが、石柱には「昭和五十八年四月十日開眼す」と書かれているように、新しい墓です。

 「文知摺石(鏡石)」という標柱のある石は、地上に出ている部分だけでも人の背丈ほどあります。横幅や奥行きは、高さよりも長いと思われます。玉垣のような石の柵によって文知摺石は囲まれています。ともかく、大きいのです。石は、上の方にびっしりと苔が はえており、その他のあちこちにも苔が見えます。あちこちに小さく円い形の白いものが表面に見えます。

 芭蕉は「石半土に埋てあり。」と書いていますが、埋もれているのが「半ば」なのかどうかはよくわかりません。子どもが芭蕉に説明したという話は、子どもの想像(あるいは、大人の作り話)としては面白いのですが、この巨石を簡単に突き落とせるものかどうか、大いに疑問です。「谷につき落」とすという表現から、もっと小さいものだろうと想像していたのですが、あまりにも大きな石でした。

 この石の垣の傍らに「石の伝説」という説明板があって、再会を約して帰京した源融に対する、虎姫の情愛の深さが語られています。再会を待ちわびた虎女が百日詣りの願を掛け満願の日を迎えたが源融は現れず、嘆いた虎女が文知摺石の表面に源融の面影が浮かんだと思ったので駆け寄るとすぐに消えてしまった、という話です。それが、鏡石とも称する理由のようです。

 現在の文知摺観音は、石が突き落とされたものであるという説明を避けているようです。ごく普通の巨石ですが、それに源融と虎女の話が付与されて物語性を帯び、歌枕になっていったのでしょう。境内には、これを出発点としたさまざまの碑などが広がっています。

 「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」という句は、この地方で行われた忍ぶ摺はもう昔のものになってしまったが、せっせと田植えをしている早乙女の手つきを見て、昔のしのぶ摺の所作を偲ぶことにしよう、という意味です。忍ぶ摺は、信夫地域の名産で、布を模様のある石の上に置いて、忍ぶ草で染めたもののようです。

 文知摺観音の境内は、ともかく様々なものが集積されていますから見るのに忙しいのです。1812(文化9年)建立の安洞院多宝塔は修理中ですが、福島県重要文化財に指定されています。多宝塔は近畿地方では見慣れていますが、関東以北には10棟ほどしかなく、東北地方では唯一のものだそうです。観音堂は1709(宝永6年)に改築されたものですが、他に経蔵・三十三観音堂もあります。鐘楼は古びた感じです。

 

月の輪、瀬の上

 

 月の輪へ行く道のことを文知摺観音で教えられて、山裾をめぐるような道に出て、月の輪を目指します。かなりの距離があります。教えられたとおりに歩いていきます。

 阿武隈川に向かって道路が少しずつ上っていったところに月の輪大橋があります。堤防が高くなっており、大橋の欄干が始まるところが「早苗とる手もとやむかししのぶ摺」の句碑を兼ねています。

 橋から眺めると、南の方には信夫山が見え、北の方には阿武隈急行の橋梁が見えます。川はゆったりとした流れで、水面はあまり波立ってはいません。

 橋を渡り終えたところの欄干に「橋名の由来」が彫られています。そこには、月の輪というのは阿武隈川が蛇行を繰り返した際に三日月形に残った湖を呼んだもので、芭蕉が通った渡し場に因んで橋の名とした、という旨が書かれています。阿武隈川の下流の右岸が向瀬上という地名で、左岸が瀬上ですが、このあたりには近年まで渡しがあったそうで、月の輪大橋の開通で1995(平成7年)に廃止されたと言います。

 月の輪大橋を過ぎて、工場団地のようなところを通ってから、りんご畑の中を通り抜けて、阿武隈急行の瀬上駅に出て、福島行きの列車に乗ります。

 福島駅前のロータリーの向こう側の大きな石の上に芭蕉と曾良の像が立っています。芭蕉は両手を前に組んで、その手で杖を握っています。曾良は芭蕉の左斜め後ろに笠を肩の上に持ち上げるようにして立っています。顔つきは芭蕉も曾良も元気にあふれています。

 

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