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2018年3月23日 (金)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(6)

  第5回 白石から多賀城まで

 

 5回目の旅は、暑さが少しおさまりかけた頃を選んで、9月5日から8日までです。今回は福島県のごく一部と宮城県を歩きます。

 

越河から斎川へ

 

 旅の初日、前回の最北端であった貝田駅に降ります。白石に向かって歩くとすぐに福島・宮城県境になります。国道4号の東京から293㎞地点を過ぎたところです。

 『おくのほそ道』は「鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば…」としていて、白石周辺の記述は少ないのですが、『曾良随行日記』には越河、貝田、斎川という地名が書かれています。

 県境を超えてすぐ「下紐の石」があります。大きな石がごろりと据えられています。このあたりは坂上田村麻呂が関所を置いて以来、下紐の関として歌枕にもなっています。下紐の石は、用明天皇の妃である玉世姫がこの石の上でお産の紐を解いたという伝説が残っています。東北線の線路の向こう側、左手の山際に越河番所という大きな文字が見えますが、近寄ることはできません。

 越河宿の跡の道筋を歩きますが、奥州街道の宿場としての雰囲気は消えかかっています。途中で左に折れて、東北線のガードをくぐり、見当をつけて古びた石段を上っていった先に諏訪神社があります。小さな本殿があって、その前に芭蕉の句碑があるのですが、石が風化していて文字は読みとれません。立てられている標柱によって「咲きみだす桃の中より初さくら」という句であることを知ります。咲き乱れる桃の花の中から初桜がほころび始めたという意味ですから、桃から桜への交替という季節感を表しています。桃は桜より少し早い時期に咲きますが、この句は「初さくら」が主題です。

 元の道に戻って、越河小学校を過ぎ、越河駅の近くを通り、田園・山間風景の中を歩き続けます。貝田駅から2時間で、水辺の風景にたどり着きます。冬になると白鳥が飛来するという馬牛沼です。春は桜が美しいということですが、桜にも白鳥にも縁のない季節で、曇り空で夕方が近づいた水面は静まり返っています。

 馬牛沼を過ぎてすぐの左手に「斎川孫太郎餅」と書いた店があり、5分ほど歩くと右手に孫太郎虫供養碑があります。孫太郎虫は蛇やトンボの幼虫ですが、子どもの疳の妙薬とされました。全国の清流にすんでいますが、とりわけ斎川のものが有名であったのです。江戸時代に山東京伝が「敵討ち孫太郎虫」という本を出したら、本が売れて、孫太郎虫も売れるようになったという話が伝わっています。江戸時代におけるマスコミの力です。

 供養碑のそばに「あぶみすり坂」という標柱が立っています。道は下り坂で、右手は小さな丘になっています。義経の一行が馬の鐙を巨石に摺って通ったと伝えられているところです。歩いている道は広くて難路のようにも感じません。右手の丘に上る石段道がありますので上ってみます。少し行くと段がなくなって、茂みの中で頂上のようなところに出ます。さらに細くなった道が先の方に続いているように思われますが、そこまでで進むのをやめて元の道に戻ります。難路を実感することはできませんでした。

 元の道に戻って、ほんのちょっと進むと、「甲冑堂 源義経の家臣 継信・忠信の妻 楓・初音の像」と書いた大きな標柱が見えてきます。田村神社の甲冑堂です。

 医王寺を訪れて、芭蕉は「二人の嫁がしるし」に涙したと書いていますが、この田村神社には、その引用文「ふたりの嫁がしるし まずあわれなり 女なれども かいがいしき名の 世に聞こえつるものかなと 袂をぬらしぬ」の石碑があります。

 甲冑堂の中を拝見できるか尋ねたところ、詳しい説明を聞かせていただき、中を見せてもらえました。義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信・忠信の2人の嫁は、夫の形見の甲冑を身につけて、病床の義母を慰めたと伝えられていますが、その姿の木像です。顔かたちは女性らしく作られていますが、武具を携えた2人の姿は男性と変わらない強さを感じさせます。芭蕉は、佐藤兄弟の嫁のしるしを見たと書いていますが、それを実際に見たのは甲冑堂でのことと思われます。

 白石市内まで歩く計画でしたが、田村神社で17時を過ぎました。思案しながら、田村神社を出発します。「鬼ずるす石」の標柱のあるところを過ぎ、斎川を渡り、斎川宿という表示のあるところへ来ます。近くに白石市民バスの甲冑堂停留所があり、1日6本だけのバスですが、次の通過時刻が1715分となっています。何と良いタイミングだと幸せを感じつつ、バスに乗ります。

 

白石

 

 2日目。朝の空気の中を白石城に向かいます。駅から西に向かい、壽丸屋敷の前を過ぎます。明治の中頃に店蔵として建てられ、その後いろいろな建物が造られたようです。現在は町づくりの拠点のようですが早朝は静まっています。北西に向かうと武家屋敷の前に出ます。沢端川に面して中級武士の屋敷があったところです。旧小関家のあたりは庭木に囲まれて、寄せ棟、茅葺きの母家が朝の陽を受けています。

 川に沿って少し後戻りして、白石城へ向かいます。城址のいくつかの文学碑の中に芭蕉の「かげろふの我肩に立かみこかな」の句碑があります。冬の紙子を着替えずに身につけている私の肩のあたりにも陽炎が立っていることだ、という意味です。江戸で詠まれ、奥州に出発する前の作のようです。いよいや春になったなぁという思いで、奥州への思いもますますつのっていた頃だったことでしょう。

 近くに、虚子の「羽と陸と併せて蔵王夏の山」の句碑があります。出羽の国と陸奥の国の真ん中にそびえる蔵王の夏山の雄大さを感じます。平安時代に坂上田村麻呂が創基したという神明社の前を通って、菱御門から城内に入ります。本丸は益岡公園として整備されています。黒い瓦と白壁の城が、朝の日光を浴びて青空に映えます。古い石垣の残るあたりを南に向かって坂を下ります。

 町の中に入って、舘堀川に沿って南に進み、常林寺、清林寺などを過ぎて、舘堀川に沿って左に曲がっていくと、片倉家の菩提寺である傑山寺があります。ここには片倉小十郎景綱をはじめ代々の城主などが弔われています。門を入ったところにどんと座った景綱の銅像があります。

 本堂の前を左の方に回って進むと、杉林の中に佐藤孝郷の墓があります。戊辰戦争の後、旧片倉家中の者は、白石で農民となるか、士族として北海道に入植するかの岐路に立たされますが、この時19歳の家老であった孝郷は、士族として生きることを家中の者に決意させ、咸臨丸で苦難の航海をしたと言います。現在の札幌市白石区の地域の基盤を作るとともに、初代札幌区長にもなっています。白石区という地名に誇らしさを感じます。

 景綱の墓は敵に暴かれぬように墓標を設けず、一本杉を印にしています。その杉の巨木を竹垣が囲い、その囲いの中に小さな塔が建てられています。墓所として大きな石造物を設けるよりも、自然物に託して葬るということに、当時の人たちの想像力の大きさを感じます。

 能楽堂と茶室があるという碧水園のあたりから北に向かって歩き、当信寺を経て駅前に戻ります。

 

武隈の松

 

 「武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先、能因法師思ひ出。往昔、むつのかみにて下りし人、此木を伐て名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、『松は此たび跡もなし』とは詠みたり。代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。

 『武隈の松みせ申せ遅桜』と、擧白と云ものゝ餞別したりければ、

   桜より松は二木を三月越シ 」

 『おくのほそ道』は、「鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、」として中将實方の塚を探して箕輪・笠嶋へ行こうとしますが、五月雨に阻まれて行くのを諦めて、岩沼に泊まるとしています。その後で武隈の松のことを述べていますが、実際には武隈の松の方が手前にあります。

 白石駅から岩沼駅まで電車に乗って、岩沼にある武隈の松や、竹駒神社、竹駒寺を見ます。

 能因法師の歌は後拾遺集にあります。「みちの国にふたゝび下りて、後のたび、たけくまの松も侍らざりければ、よみ侍りける。」という詞書きがある、「武隈の松はこの度跡もなしちとせを経てや我は来つらむ」という歌です。武隈の松に来てみると跡形もなくなっているが、松は千年の命を保つということから考えれば、私がこの前に来たときから千年も経ってしまったのであろうか、という意味です。能因は奥州へは少なくとも二度の旅をして、最初の時には武隈の松を見、この度はそれが消え失せているということを詠んでいるのです。

 陸奥の国司がこの松を伐って名取川の橋杭にしたことがあったが、伐ったり植え継いだりしながらも、芭蕉の頃には「千歳のかたち」が立派にそなわった姿になっているというのです。芭蕉が江戸を出るときに擧白が「武隈の松みせ申せ遅桜」という句を餞別として贈ってくれたということを書きながら、芭蕉は「桜より松は二木を三月越シ」という句を作っています。

 岩沼の駅前広場に等身大の芭蕉像が立っています。にっこり微笑んで、左手に持った冊子として綴じたものに、右手で何かをしたためています。大きな顔、たくましい腕と手が強調されている像です。かたわらに「桜より松は二木を三月越シ」の句碑があります。

 駅から南に向かって歩くと、武隈の松があります。斜めに伸びた二本の松は歩道の上だけでなく車道の上にも張り出さんばかりになっています。道路の反対側から見ると、途中から別の枝が張り出しているようにも見えますが、これは、二本の松がきちんと並んで、同じような曲がり具合を示しているからです。松に並んで古歌の歌碑も立てられています。

 西行もここへ訪れており、陸奥の国の象徴のような歌枕になっていたようです。説明板によれば、陸奥の国司の藤原元善が植えて、その後は植え継がれて、現在のものは1862(文久2年)に植えられた7代目だそうです。芭蕉が見たものとは異なる松です。「武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。」と感嘆しつつも、「根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。」として、千年と言われる松も植え継がれて、昔の姿を継承しているということがわかっていたようです。

 奥の細道300年記念事業として「二木の松史跡公園」が作られています。東屋があり、「桜より松は二木を三月越シ」の句碑もあります。「桜より」の句は、訪れたのは旧暦5月4日で、新暦に直すと6月20日です。もはや遅桜の季節も過ぎてしまったが、二つの幹に分かれた二木の姿を、江戸・深川を出発してから三月越しに見ることができたと詠んでいます。

 近くに竹駒神社があります。842(承和9年)に小野篁が陸奥守として多賀城に赴任したときに、奥州の鎮護を願って創建したと言いますから、武隈の松よりも歴史があるようです。ここは日本三稲荷のひとつだと言っていますが、さすがに荘厳な造りです。この神社にも細長い石柱の「桜より松は二木を三月越シ」句碑があります。竹駒神社を出て、竹駒寺を見て、そして岩沼駅に向かいます。

 

名取

 

 「鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将實方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、是より遙、右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠嶋と云、道祖神の社、かたみの薄、今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、箕輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、

   笠嶋はいづこさ月のぬかり道

 岩沼に宿る。」

 名取駅前にレンタサイクルがあることを聞いて、急遽の変更でそれを利用します。芭蕉は「五月雨に道いとあしく……、よそながら眺やりて過る」と書いていますが、私たちは天候に恵まれています。

 駅からほぼ真西に向かって、東北新幹線の高架をくぐって、少し南に行ったところに「中将藤原実方朝臣の墓」という看板に矢印が書かれています。小川に沿って近くまで来ると、「実方橋」というのが架けられており、それを渡ると「松尾芭蕉 おくのほそ道」という黒い石碑があります。その横に「笠嶋はいづこ皐月のぬさり道」の句碑があり、そばに薄が一群あって、「かたみのすすき」と書いてあります。西行は實方の墓参りをして、「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞ見る」という歌を詠んでいます。芭蕉は、歌に出てくる「形見のすすき」も見たかったことでしょう。

 「笠嶋は」の句は、實方の塚があるという笠嶋はいったいどのあたりだろうか、五月雨が降り続いて泥深く歩きにくくなった道では尋ねていくこともできず残念でならない、という意味です。五月雨の「雨」と縁のある、笠嶋の「笠」という地名のゆかりもあって、何とか行ってみたいと思ったのでしょうが、それが叶わなかったのです。みのわの「蓑」という地名も「雨」に縁があります。

 句碑のあるところから、少し奥まった感じのする林の中へ歩いていくと、實方の墓があります。手前に西行の「朽ちもせぬ」の歌碑、その奥に實方の墓標、そして石組みの上に木の柵で囲まれたところが墓です。後ろには實方の「桜がり雨はふりきぬおなじくはぬるとも花のかげに隠れむ」の万葉仮名による歌碑があります。墓前には誰が供えたのか、左右に黄色い花が一輪ずつあり、木々全体の薄暗い中で、その花だけが彩りを感じます。

 『おくのほそ道』全体からすれば、訪れるつもりであったのにそれが叶わなかったというところはあちこちにあっただろうと思われますが、この笠嶋には特別の思い入れがあったようです。訪れることができなかった理由を書き残し、句作までしているのです。藤原一門の中でも由緒ある家柄に生まれたのに、都での不祥事がもとで「歌枕を見て参れ」と陸奥守として左遷され、この地で没した實方は、芭蕉の心を陸奥へかき立ててくれた歌人の一人だったのでしょう。

 實方は、笠嶋の道祖神の前を禁を破って馬に乗ったまま通ろうとして、暴れた馬から落ち病に臥して、帰らぬ人となったと言われています。出羽の国の阿古耶の松を尋ねての帰途にこの地を通り過ぎたのです。「みちのくの阿古耶の松をたずね得て身は朽ち人となるぞ悲しき」という痛恨の歌を残しています。

 その道祖神は、日本武尊の勧請で創建されたと言われる佐倍乃神社で、別名を笠島道祖神社と言います。佐倍乃神社は訪れる人もなく静かなたたずまいです。鳥居などには正一位道祖神と書かれています。路傍の道祖神はこれまでに数限りなく見てきましたが、それが神社そのものになっているのは初めてです。

 

仙台

 

 「名取川を渡て仙臺に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。爰に画工加右衛門と云ものあり。聊心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比さだかならぬ名どろこを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、『みさぶらひみかさ』とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松島・鹽がまの所々画に書て贈る。且紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。

   あやめ草足に結ん草鞋の緒 」

 仙台に着いた日を、芭蕉は「あやめふく日」と書いています。端午の節句の前日に菖蒲を軒や屋根に挿しているのを見たのでしょう。

 私たちは3日目の朝、榴ケ岡天満宮に向かいます。「つゝじが岡はあせび咲ころ也。」と芭蕉は書いていますが、今はその季節ではありません。天満宮ですから菅原道真を祀っており、社殿の前に撫で牛が置かれています。源頼朝の奥州侵攻に際しては、平泉方の藤原泰衡の本拠がこの天満宮の境内に設けられました。

 境内にはたくさんの句碑などが、両脇に整理して建てられています。「芭蕉翁 蓮二翁」と書かれた句碑のそばには、これは芭蕉五十回忌蓮二(支孝)十三回忌追善碑であり、1743(寛保3年)2月に作られたという説明があります。芭蕉の句は「あかあかと日はつれなくも秋の風」で、蓮二の句は「十三夜の月見やそらにかへり花」です。

 「あかあかと」の句は、『おくのほそ道』の金沢で詠まれたことになっているのですが、それ以前に想を得ていたという説もあります。けれども『おくのほそ道』の道順で言うと、「あやめふく」頃には合致しません。追善のために選んだ句ということでしょう。この句は、太陽は夏と同じように赤々と照りつけても、風は秋らしさを感じさせる優しさになっている、という意味です。蓮二の句の「十三夜」は、旧暦9月13日の月で、中秋の名月に対して、後の月とも言います。華やかな名月に対してもの寂びた感じがします。芭蕉の句よりも遅い時季を詠んでいます。

 榴ケ岡天満宮から南に向かい、妙心院に立ち寄ります。ここに芭蕉翁蓑塚があります。芭蕉が残していった蓑を埋めて、芭蕉の没後100年に塚を築いたのです。脱ぎ捨てた蓑をよくぞ保存していたと言うべきでしょうか。蓑塚の隣に経緯を説明した「芭蕉翁蓑衣塚銘」の石碑があります。妙心院からは、南東の方角に向かって、木ノ下公園と陸奥国分寺を目指します。

 芭蕉は「昔もかく露ふかければこそ、『みさぶらひみかさ』とはよみたれ。」と書いていますが、「みさぶらひ御笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」というのは古今和歌集にある、詠み人知らずの歌です。お供の方よ、ご主人に笠をかぶるように申し上げてください、宮城野の木の下に落ちる露は雨よりも強いのですから、という意味です。当時は、古木が森のように茂っていたようです。

 陸奥国分寺は741(天平13)の建立ですが、1189(文治5年)の頼朝の奥州攻めの際にすべてを焼失し、1607(慶長12)に伊達政宗が再建したのが現在の薬師堂です。朱色が鮮やかな准胝堂のそばに芭蕉の句碑があります。

 『おくのほそ道』に書かれているように、画工加右衛門が仙台の名所を案内して、紺の染緒を付けた草鞋を二足、餞として贈っています。芭蕉は「さればこそ風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。」と讃えていますが、その感謝の気持ちをこめた句が「あやめ草足に結ん草鞋の緒」です。折から端午の節句であるので家々の軒端には菖蒲がふいてあるが、行脚の身である自分は、紺色に染めた布で作った草鞋の緒に菖蒲を結んで、道中の安全を祈ることにしよう、という意味です。邪気を払うとともに、菖蒲を草鞋に結ぶという風流心に興じています。画工加右衛門が宮城野、玉田、横野、榴ケ岡、木ノ下、薬師堂などを案内してくれたので、芭蕉の旅心は高潮していたのでしょう。このような風流人に会えた喜びと感謝をこめて作られた句です。日光で出会った仏五左衛門と同様な人物に出会った嬉しさがにじみ出ています。

 国分尼寺にも立ち寄ってみます。文治の兵火で焼けたのですが、緑の中に本堂が建っています。境内に「聖武天皇 国分寺国分尼寺建立の詔(訳文)」という石柱があります。近くの薬師堂駅から地下鉄に乗って、青葉山に向かいます。

 地下鉄大町西公園駅を降りて桜岡大神宮に向かいます。大神宮とはいえ社殿はこぢんまりとしています。目的は「風流のはし免や奥の田植宇た」の芭蕉句碑です。外苑を探すと見つかります。この碑は1893(明治26)の芭蕉200回忌に建立され、田植塚と呼ばれています。

 神宮から広い通りに出て、だらだらと長い坂を下っていきます。道標には「大坂」とあります。下りきったところに、広瀬川に架かる「大橋」があります。仙台国際センターを右に見て、青葉山のエリアに入っていきます。五色沼という水堀は、ちょっと茶色っぽく淀んでいます。「日本フィギュアスケート発祥の地」と書いてあります。

 本丸に向かって坂道を上っていきます。仙台城三の丸跡には仙台市博物館があります。その先には魯迅像や魯迅の碑などがあり、伊達政宗胸像もあります。魯迅が仙台で学んだことは広く知られています。造酒屋敷跡などもあって、坂道には旧跡が続きます。高くそびえる本丸北壁石垣を仰ぎつつ坂を上ります。宮城県護国神社の鳥居をくぐって、上りきると本丸大広間跡遺構が表示されています。傍らに仙台城見聞館もあります。かつての本丸には数多くの建物がありましたが、その中心が1610(慶長15)に完成した大広間だそうです。本丸からは、仙台の町並みが眼下に広がります。

 伊達政宗騎馬像は仙台の象徴のような像ですが、ほんの少し離れたところに土井晩翠の胸像と詩碑が建っています。「荒城の月」を刻んだものです。「荒城の月」の作詩も、詩集「天地有情」の出版も、30歳になるまでのことであるのに驚きます。

 本丸から下って、仙台市博物館にちょっと立ち寄り、地下鉄・国際センター駅から仙台駅に出て、JRに乗り換えます。次の目的地は仙台東照宮です。芭蕉は東照宮のことには触れていません。日光でじゅうぶん筆を費やしたからなのでしょうか。仙台駅の次が東照宮駅です。玉手崎と呼ばれる小高いところに仙台東照宮がありますが、海が望めるところだったと言います。かつて徳川家康が岩出山から江戸に帰る途中で休息した場所であるという故事により鎮座地に選ばれたそうです。美しい形の石鳥居をくぐり、両側に石灯籠が並んでいる長い石段を上り詰めたところが重厚な随身門です。寺院の仁王門にあたりますが、左右に随身像が安置されています。本殿は入母屋造りの銅瓦葺きで、どっしりと扉は閉じられています。右側の方へ回って下山します。

 

 「かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。」

 芭蕉は「おくの細道」の山際に「十符の菅」を見たと書いていますので、そこを目指して、岩切駅から歩きます。30分ほど西に向かって歩くと東光寺に着きます。山門の手前に「おくのほそ道」と書いた石柱があります。また、石碑があって『おくのほそ道』の文が刻まれています。「奥の細道とは、この付近から東へ続く古道に由来している」という旨の言葉も彫られていますが、具体的にはどこにその道筋があるのかはわかりません。

 寺の裏山は、仙台市指定文化財の「東光寺の石窟群域」になっています。薬師如来や阿弥陀如来などの石仏が刻まれていますが、鎌倉時代から室町時代にかけてのものだろうと推定されています。

 東光寺からしばらく進むと、「十符の菅 十符の池跡」という小さな説明板があります。ここの菅は、編み目が十筋ある良質なものに織られたが、十符の菅は陸奥の歌枕として知られていた、という説明があり、古地図も添えられているのですが、具体的にどの地点を示しているのかはわかりません。何か残っているのではないかと思って、説明板のあるところから、細い道を上っていきましたが、何も見つけることはできません。たまたま通りかかった地元の方に尋ねてみると、庭先の一画を指して、ここに菅があると告げられます。仙台藩主に献上するほどのものであったのなら、保存の策を施したり、その地点に説明板を設けたりしほしかったと思いますが、もはや望むべくもないのでしょう。

 結局は、「奥の細道」も「十符の菅」もきちんと確認できなかったのですが、そのような状況こそ自然な有様なのではないかとも思います。観光資源にせず、押しつけがましさを排除しているのを好ましく感じます。

 

壺の碑

 

 「壺碑  市川村多賀城に有。

 つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺斗歟、苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。『此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年、参議、東海東山節度使同将軍恵美朝臣朝?修造而。十二月朔日』と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩、川流て、道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。」

 4日目です。多賀城市の中心は仙石線の多賀城駅ですが、私たちは東北線の国府多賀城駅から歩き始めます。北口の駅前には楼門を思わせる時計台があり、その向こうは田園風景です。北へ歩いて浮嶋神社を見てから、西に向かいます。間もなく小高い丘が見えてきて、これが多賀城碑(壺碑)のあるところです。

 『おくのほそ道』は壺碑について詳しく記述しています。芭蕉が訪れた他の場所に比べると、壺碑は碑面の文字まで紹介して、特別扱いのように見えます。本文にも書かれているように、多賀城は神亀元年(724)に陸奥の国府及び鎮守府として置かれ、ほぼ200年の間、東北地方の政治や軍事の中心として機能しました。この碑は「天平宝字六年」(762)の「十二月朔日」の日付で建立され、今は覆いの建物の中に西に面して立っています。

 碑は、江戸時代の初めに発見されたと言われています。新井白石の書いた『同文通考』という書物には、万治・寛文の頃に土中から見つかったと書かれています。芭蕉がここを訪れた時から2030年前のことになります。芭蕉にとって、この発見は現代的な大きな出来事であったのかもしれません。

 「壺碑」は平安時代から歌枕として詠まれてきています。西行は「陸奥のおくゆかしくそ思ほゆるつぼのいしぶみそとの浜風」と詠んでいます。けれども、その碑が実際にあったのか、それがどこにあるのかも明らかでなく、歌枕が一人歩きしていたのかもしれません。多賀城碑は、発見と同時に「壺碑」の名で呼ばれることになり、多くの文人の関心を集めることになります。

 多賀城碑のある丘の上り口のあたりはきちんと整備されて、この一帯についての説明板や、縮尺1000分の1の多賀城跡地形模型などが設けられています。外郭南門跡などには標柱があります。

 壺碑の覆屋は中を覗くことはできますし写真も撮れます。前は碑面で文字が書かれていますが、後ろはずんぐりと太い石のままで、背中から下の表面部分は剥がれ落ちています。芭蕉は「苔を穿て文字幽也。」と書いていますが、碑面の文字はある程度まで読みとれます。

 碑は、上に「西」という一文字が記され、細い線で囲んだ中に11行、140字が書かれています。前半5行は芭蕉が「四維国界之数里をしるす。」と書いているように、多賀城と京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国との間の距離が書かれています。覆堂の近くに芭蕉翁礼賛碑があります。芭蕉は筆を費やして壺碑のことを書いていますが、句を残していません。この碑は1927(昭和2年)建立ですが、多賀城に来る前に仙台で詠んだ「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」を刻んで、この地を訪れた記念としたようです。

 壺碑のある丘の北側に、多賀城の政庁跡があります。奈良・平安時代に陸奥の国府が置かれたところで、11世紀の中頃まで東北地方の政治・文化・軍事の中枢としての機能を持っていたようです。多賀城碑(壺碑)の発見によって、調査や保存に弾みがついたようです。

 政庁跡は、壺碑の丘を下りてから、ゆっくりとした上り坂をたどると木々に囲まれた跡地に着きます。あたりには赤紫色の宮城野萩が咲いています。多賀城全体の規模は900メートル四方で築地塀に囲まれていたと言い、その中央に100メートル四方の政庁跡があります。大正・昭和の時代に史跡指定や発掘調査がありましたが、現在も調査が続いています。

 国府多賀城駅へ引き返した時から雨が激しく降り出します。駅の南側に出て、東北歴史博物館の横を通って、雨の中、新しく開かれた広い道を南へ急ぎます。鎌倉時代の供養碑があるという化度寺のあたりから東に向かい、仙石線多賀城駅の手前を南に折れて、西に引き返してから砂押川を渡ります。

 芭蕉は壺碑からいったん塩竃へ行き、昼食を済ませてから、末の松山や興井(沖の石)に戻っています。多賀城と塩竃の距離は近いのですが、それにしても食事のために塩竃に行って帰ってくるとは、マイカー時代の気軽さのようで、。歩くことをさほど苦にしていないようです。

 

末の松山、沖の石

 

 「それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て、末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、鹽がまの浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜目盲法師の琵琶をならして奥浄るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。」

 末の松山は、百人一首の清原元輔の歌「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」で知られた歌枕の地です。この歌は、お互いに袖の涙をしぼりながら、あの末の松山を波が越すことがないように、私たちの仲も決して変わることがないようにと固く約束した、という意味です。末の松山を波が越すことはないとは、起こり得ないということの比喩です。どのような高波が来ても決して越すことがないと言われていたのが末の松山です。この歌は、古今集にある「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」を踏まえた作品です。

 末の松山は、宝国寺の裏の丘にあって、推定樹齢480年の二本の黒松がそびえています。ゆるやかな坂になっていますが、松の木の手前に「君をおきて」の歌碑が建っています。芭蕉は、男女の約束が深く比翼連理の間柄であっても、没した後は墓が残るだけだという、百人一首や古今集の歌を詠んだ人たちを含めて、生きる者の無常に思いを馳せています。

 雨の中ですから、野田の玉川へ足を延ばすことはしませんが、野田の玉川を詠んだ歌としては、能因法師の「ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり」などが知られています。その野田の玉川に架かる「おもわくの橋」は、西行の「ふままうきもみぢのにしき散りしきて人もかよはぬおもわくのはし」の歌があります。次に訪れる沖の石を含めて、このあたりには歌枕が多くあります。多賀城の壺碑も近くて、訪れる文人も多かったに違いありません。

 西行は生涯に2度、陸奥を訪れていると言われます。30歳前後に藤原実方や能因の足跡を追って旅をし、晩年には奥州藤原氏に東大寺復興資金を依頼する旅をしたようです。その西行や能因に心を寄せた芭蕉がこの地を訪ねるのはごく当たり前のことだったのでしょう。

 末の松山から沖の石(興井)までは、すぐ近くです。案内板に従って下っていくと、変わった形の石が連なっている池が見えます。周りは住宅地です。島のようになった石の群があって、松の木も生えています。水面には雨の輪が次々とできています。池の周りがコンクリートの壁になっているのが不粋ですが、こんな小さな旧跡が現在まで大切にされているのは嬉しいことです。

 沖の石も、百人一首の二条院讃岐の「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし」で知られています。千載集に出ている歌です。この歌は、私の着物の袖は、潮が引くときにも見えない沖の石のように、人は知らないだろうが、あなたを恋い慕って涙で乾くひまもない、という意味です。二条院讃岐は源三位頼政の娘で、女房として出仕し、讃岐と呼ばれました。その時代に、式子内親王と並ぶ一流の歌人でした。この女性が奥州を訪れたとは考えにくいと思いますが、「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の」は序詞として詠まれていますから、実際に沖の石を見ていなくても歌は成り立ちます。この歌は、人知れぬ片思いの悲しみを歌ったものでしょう。石の間に立てられた説明板には、「おきのゐて身をやくよりもかなしきは宮こしまべのわかれなりけり」という小野小町の歌も記されています。これも悲しい別れが主題になっています。

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