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2018年3月28日 (水)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(11)

  第10回 高田から奈呉の浦まで

 

 10回目の旅は、4月23日から26日までです。この年の4月23日を旧暦に直すと3月27日です。旧暦3月27日は、「弥生も末の七日」で、芭蕉が深川を出立した日でした。今回は新潟県・富山県を歩きます。

 

直江津

 

 直江津から私たちの旅を始めます。芭蕉は、7月5日は鉢崎(柏崎市内)に泊まり、6日と7日は直江津に、8日から10日までは高田に泊まっています。

 私たちの旅の初日。直江津市内にある芭蕉の句碑2つ、それが目的地です。森鴎外の「山椒大夫」の碑と、安寿姫と厨子王丸の供養塔のあるところの近くに琴平神社があります。ここの芭蕉句碑は、「文月や六日も常の夜には似ず」です。文化年間(18041818)に地元の俳人たちが建てたものが、幾度かの大火にあい、慶応年間(18651868)に再建されたと言います。両方ともが残っていて、古い歌碑は菱形に近い形、新しい歌碑は長方形に近い形です。この句は、今夜は七月六日であって七夕を明日に控えている、明日は牽牛と織女が天の川を渡って逢う夜である、そのような思いで眺めると、今夜もどこかいつもの夜とは違う気配がする、という意味です。『おくのほそ道』では、「荒海や」の句と並べて、この句を前に出しています。出雲崎で詠んだような体裁にも見えますが、直江津での句会で初めて発表しているようです。

 五智国分寺に向かう途中で聴信寺に立ち寄ります。曾良の日記によれば、7日に雨止みを待って出発を見合わせているうちに聴信寺に招かれたと書いてあります。けれども、この寺の境内には芭蕉のゆかりとなるものは残っていません。

 五智国分寺に立ち寄ろうと考えて、急ぎ足で道をたどります。親鸞上人ゆかりの鏡ヶ池というところに出て、池とは道の反対側に五智国分寺の山門があります。ささやかな門をくぐって境内に入ると、境内が広がっています。ここも親鸞上人の旧跡で、上人の像が建っています。本堂は昭和の末年に焼失し再建されたものです。形の整った三重塔は1856(安政3年)に着工し、いまだに未完成であるというから驚きます。

 ここにある芭蕉句碑は、「薬欄にいづれの花をくさ枕」です。句の文字は定かではありませんが「芭蕉翁」という文字だけはしっかり見えます。句意は、秋の薬園に咲くさまざまな美しい草の中から、どの草を枕に結んで旅寝をしようか、ということです。

 国分寺の境内の一画では、八重咲きの薄赤い梅が満開です。

 

高田

 

 直江津から高田に向かいます。高田といえば豪雪の町というイメージが浮かびます。家の軒先を出してその下を通路にした雁木のことも頭の中にあります。1945(昭和20)の終戦の年、その2月26日の積雪量が3メートル77センチであったという記録が残っているようです。雁木は私有地を提供した雪国の生活の知恵で、高田の雁木は総延長が16キロの長さで全国一だそうです。

 芭蕉が旅したのは秋の初めであり、私たちの今回の旅は晩春です。左右に櫓のようなものが作られて独特の形をしている高田駅に着いて、宿にチェックインして、そのまま市内を歩きます。東に向かって北城神明宮を目指します。そこに芭蕉句碑があります。

 商店街を歩いて儀明川を渡り、続いて青田川を渡ります。青田川は細い流れですが一級河川で、川沿いに散策の道が延びています。

 高田城の外堀が終わったところをさらに進むと北城神明宮に着きます。芭蕉句碑には、「薬欄にいづれの花をくさ枕」と「文月や六日も常の夜には似ず」の二つの句が並べて刻まれています。直江津にあったものと同じ句が刻まれているのですが、「奥の細道」に記されている句とそうでない句とを並べてひとつの碑面にしているのは独特のやり方です。高田ではやはり「薬欄にいづれの花をくさ枕」を重んじたいのでしょう。

 引き返して駅前に向かいますが、帰路は高田城址に作られた高田公園の中を通ります。高田城はわずか4か月で完成させたそうで、石垣を築かず天守閣も作られていません。城址には威圧感がなくて、ゆったりとした風情です。しだいに夕闇が迫ってくる時刻になり、高田城の三重櫓を仰ぎ見て通り過ぎます。高田で生まれた小林古径の記念塔、小川未明の文学碑などが並んでいるところを過ぎ、いくつもの彫刻が並んでいるブロンズプロムナードを通って、駅前に向かいます。高田は雪に苦しむ町ではなく、文学・芸術にゆかりが深いことを認識します。

 2日目の朝、高田の町を北に向かって歩きます。駅前の通りと儀明川が交わるところに芭蕉宿泊地があるようで、あたりを細かく探してみましたが、説明板も何もありません。

 本町通りという、雁木の続く通りを歩きます。高田小町という町屋交流館の向かい側に、高田世界館という映画館があって現役で上映しているのだそうです。文化庁の登録有形文化財であり、経済産業省の近代化産業遺産にもなっています。

 少し進んでから東に折れて、小川未明生誕地を訪ねます。そして、本町通りのひとつ東側の通りを引き返します。一階の屋根から二階の屋根に梯子がかけられている家が続いています。何か工事中かと思って見ていると、豪雪にそなえて常設のままにしてあるのだということに気づきます。

 通りでは朝市の準備が始まっています。開店している店もあります。時刻は8時を過ぎたばかりです。野菜、果物、漬け物、菓子、日用品など、様々なものが商われています。道ばたに四九市場という石柱が建っていて、ここは四のつく日と九のつく日に開かれている市場なのだそうです。石柱の裏側には創立大正拾参年という文字が見えます。例えば飛弾の高山市のような観光客相手の朝市とは異なるようです。地域の生活と結びついているからこそ1世紀近くも続いているのでしょう。

 

糸魚川

 

 糸魚川は、前年1222日の大火の記憶が新しい町です。糸魚川へは、相馬御風に引かれて20代の頃に来たことがあります 御風の生家が大火の延焼区域の外にあったのは幸いです。

 糸魚川に着くと、「ヒスイが日本の国石になりました」というPRが目を引きます。日本鉱物科学会での投票で決まったそうですが、姫川の流域や糸魚川がヒスイの産地であることは知っています。

 相馬御風旧居、駅前海望公園、虹の展望台とたどっていると、いつの間にか大火の跡地へ出ます。土台やコンクリート部分だけが残っていて、再建の槌音を聞くには、もう少し時間が必要なように感じられます。

 塩の道起点、糸魚川町道路元標、牛つなぎ、経王寺の梵鐘などを見巡って、駅に向かおうとすると、再び大火の跡地へ戻ってきます。150棟近くが焼けたといいますから、ともかく広いのです。跡地はきちんと整理され、再建のための力をためこんでいるようにも感じます。江戸時代は言うまでもなく昭和の戦前まで、大火は各地で頻発し、その度に人々は新しい息吹を作り上げてきたのです。

 

親不知

 

 親不知もかつて、歩いたことがあります。親不知駅を降りて、西に向かって歩いたのはもうずいぶん前のことです。その後、北陸線を往来したことは何度かありますが、トンネルに潜って親不知駅の前後を通り過ぎるようになったのは寂しいことでした。便利さと旅情とは相反するものになっています。今回は、親不知駅から市振駅まで歩きます。

 駅の少し東の方にある水上勉の文学碑に立ち寄ります。「……美しい親不知の海にいま身を果てて死ぬるより生きようとおしんは思うた。」という『越後つついし親不知』の一節が刻まれています。快晴で、海は穏やかですから、日本海に身を投げるような風情はまったくありません。

 鉄道線路に沿った道を西に向かいます。親不知ピアパークという施設や高速道路の料金所などあって、芭蕉が見たら卒倒するに違いない風景です。高速道路の橋脚が海上に出たかと思うと頭上を越えて山の中へのトンネルが始まったりします。景色が次々と変化します。鉄道にもいくつものトンネルが断続します。

 歩いているのは国道8号です。幹線道路ですから大型トラックなどの交通量は相当なものです。そうこうしているうちにトンネルが始まります。洞門になっていて光が射し込んでいるので暗くはありません。歩道が狭いので懐中電灯を振りながら歩きますが、傍を車が走り抜けていきます。

 大竹沢というトンネルを抜けると、天険断崖などが展望できるところに着きます。そこに親不知記念広場が設けられています。相馬御風の「かくり岩によせてくだくる沖つ波のほのかに白きほしあかりかも」という歌碑があり、また、安全への祈りを込めたのであろう母子像も設置されています。道路よりは高く組まれた展望所からは、西側に広がる断崖絶壁が展望できます。南から続いてきた山塊がどっと海に落ち込んでいるところで、その向こうは日本海が広がります。

 切り立った断崖の下には日本海の波が寄せています。ほとんど砂浜らしきものは見えず、波打ち際が白く見えます。静かな海が広がっている日でも、このような有様です。荒れたらどうなるのか。鉄道や道路がひらかれるまでは、天候を見計らって、旅人はわずかな波打ち際を駆け抜けたはずです。親は子を忘れ、子は親を顧みることなく、わが命だけを守ろうとしたのです。源平の頃、平頼盛に会いに行く妻が赤子を波にさらわれ、その悲しみを「親知らず子はこの浦の波まくら越路の磯のあわと消えゆく」と詠んだと伝えられています。

 『おくのほそ道』は、市振の様子を述べる前に「今日は、親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなど云、北国一の難所を越てつかれ侍れば…」と書いていて、具体的にどのように難渋したのかは書いていません。『曾良随行日記』にも親不知という文字はありません。芭蕉が歩いた日も快晴であったようです。けれども、海面すれすれで駆け抜けた芭蕉たちは、かなり高いところにある道路を歩いている私たちとは恐怖感が異なります。芭蕉も曾良も、親不知を越えたときの様子を書いていないのは、そんな苦しみは日常的なことであったからなのでしょうか。

 風波のトンネルを抜けて、風波川を渡ります。国道8号は少し上り坂になっていって、やがて親不知観光ホテルの前に着きます。国道を離れて、ホテルの裏側に回ると四阿があって、展望台になっています。先ほどしばらく休んだ親不知記念広場が彼方の下の方に見えます。この場所は、親不知の険しさを克服するために四世代にわたって建設された道路の変遷を一望できるスポットです。道なき道を歩いた時代から、岩壁を切り開いた国道の時代、トンネルで貫いた国道の時代、そして現代の高速道路へと変化しているのですが、それは明治はじめから四世代にわたる苦闘の結果だというのです。芭蕉の時代は、それよりももっと困難な親不知越えであったはずです。

 かつての国道を整備してできた遊歩道は「親不知コミュニティ道路」と名付けられています。歩き始めるとすぐに、岩壁に「如砥如矢」という文字が刻まれているところがあります。砥石のように平らで、矢のように真っ直ぐだという意味で、1883(明治16)に切り開かれた道を讃える言葉だそうです。ここは最大の難所である天険の真上、高さ80メートルの位置です。

 しばらく歩くと、親不知レンガトンネルへの下り口があります。1965(昭和40)まで北陸本線として使われてきた、レンガ積みのトンネルで、今は歩いて通り抜けられるのです。時間の都合で割愛しますが、急な斜面を下りていくとトンネルの入口に着くようになっているのです。

 コミュニティ道路が国道8号に合流して、いくつものトンネルを、壁に身を寄せるようにして歩きます。大型トラックなどに恐怖を感じながら歩き続けて、少しずつ市振の町が近づいてきます。

 

市振

 

 「今日は、親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなど云、北国一の難所を越てつかれ侍れば、枕引よせて寝たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人斗ときこゆ。年老たるをのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までをのこの送て、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。『白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなし』と物云をきくきく寝入て、あした旅立に、我々にむかひて、『行方しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に、大慈のめぐみをたれて、結縁せさせ給へ』と泪を落す。不便の事には侍れども、『我々は所々にてとゞまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護かならず恙なかるべし』と云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。

   一家に遊女もねたり萩と月

曾良にかたれば、書とゞめ侍る。」

 市振は親不知の難所を越える拠点にありますから、宿場として繁栄していたでしょう。いろんな人たちが宿場を利用したはずですから、遊女が混じっていても不思議ではないでしょう。芭蕉が書いたのは、遊女たちの会話が漏れ聞こえてきてその境遇がわかり、翌朝、遊女たちから見え隠れにでも後を付いていきたいと言われ、それを断ったという話です。市振での出来事は虚構だろうというのが大方の見方ですが、市振のくだりがなかったら、『おくのほそ道』に記される俳句は「荒海や佐渡によこたふ天河」の次が「わせの香や分入右は有磯海」になって、長い空白になってしまいます。

 それに、『おくのほそ道』には女性にまつわる話はありません。連句の取り合わせのことを考えたら、この紀行文にもどこか華やいだ部分があってもよいはずです。「恋」の内容は、仮に虚構であっても、前半に置くのは早過ぎます。中盤までは歌枕を訪ねる旅という色合いを強く出しています。

 尾花沢や酒田などには知人と出会ったりすることがあり、金沢や福井にもそれがあります。旧知の人との関わりが少ない地域は越後路ということになります。市振でなければならない理由はありませんが、難所を越えた場所で、女の人たちの会話を聞くともなく聞くというのは、文章表現上は自然な成り行きです。『おくのほそ道』の旅も終わりが近づき、歌枕のこともほぼ終えて、肩の荷が軽くなりつつあったでしょう。言葉を凝縮して文章を綴ってきた芭蕉であるのですが、市振の段は言葉を節約することなく、ゆったりと文章を書き連ねています。

 「一家に遊女もねたり萩と月」の句は、遊女と会話を交わす前夜のことを詠んでいます。みすぼらしい姿をした自分たちと同じ宿に可憐な遊女も泊まっているようだ、折しも庭の萩には月が清らかな光を投げかけている、というのが句の内容です。互いに無縁の境遇にいるような者どうしが偶然にも一夜の宿を同じくしているということを、人の世のひとつの有様とみているのでしょう。

 私たちはまず、長圓寺に行きます。「一家に遊女もねたり萩と月」の句碑が、相馬御風の筆によって建立されています。1925(大正14)に作られたものですから風化が進んでいますが、豪快な筆遣いです。「弘法の井戸」を通って、ちょっと引き返して「海道の松」のあったところへ寄ります。市振宿の東の入口には、海道の松がありました。西から旅をしてきた人にとっては親不知の寄せ来る波を覚悟しなければならない位置にありますし、東からの人はここまで辿り着いてようやく胸をなで下ろすという役割を果たしていたと思われます。写真で見ると、高さおよそ20メートルで、目には優しい枝振りです。ところが近年、強風によって倒れてしまった、ということは訪れる前に既に知っていました。残されているのは切り株で、中心部分が空洞になっています。市振宿の東口の風景が一変してしまったのは残念なことです。仮に、後継の松を植えるにしても、同じ風景を取り戻すまでには、ずいぶんと時間がかかることでしょう。

 桔梗屋の跡を通ります。1856(安政3年)に刊行された俳人・中江晩籟の句集『三富集』に、「市振の桔梗屋に宿る。むかし蕉翁、この宿に一泊の時、遊女も寝たるの旧地なり。」とあるのが拠り所になっていると言います。元禄と安政では160年以上の隔たりがありますが、信頼すべき記述なのでしょうか。その桔梗屋は市振宿の脇本陣でしたが、1914(大正3年)の大火で焼けて、今は跡地が残るのみです。言い伝えであれ、「一家に」の句が詠まれた縁の場所があるのは嬉しいと思います。

 市振の町には人の姿は少ないのです。市振関所跡を過ぎて、その隣の小学校の前を通ります。芭蕉は遊女の一行に出会いますが、私たちは小学校から下校していく小学生3人に出会って、しばらく一緒に歩きます。人懐こい子どもたちです。市振駅よりもっと向こうまで帰るのだそうです。この小学校の児童は10人に満たないと言います。過疎に向かっている地域のようです。

 町のあちこちには「奥の細道」のPR看板があって句も書かれているのですが、市振の句はこどもたちとは無縁の遊女の句です。地元で作られた句を知っているのだろうかと、恐る恐る「一家に…」と口にしてみたら、即座に「遊女もねたり萩と月」という言葉が返ってきます。看板で知ったのではなく、学校でこ教えているようです。郷土文学を知ることは、郷土をいつくしむ心につながります。

 

魚津

 

 「くろべ四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。擔籠の藤浪は春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじと、いひおどされて、かゞの国に入。

    わせの香や分入右は有磯海 」

 旅の3日目は魚津からです。魚津は蜃気楼と、米騒動発祥地ということとが思い浮かびます。駅前の観光案内所に寄ると、「昨日は蜃気楼が見えたから、今日も見えるかもしれないよ」と嬉しいお達しです。駅前には「うまい水」という碑があって、「ほんとうに魚津は水がうまく空気がうまい 長生きしたけりゃ魚津においでうまい空気に水がある」という池田彌三郎さんの言葉が彫られています。

 旧北陸街道を歩いて海岸に向かいます。たてもん伝承館というのがあって、タテモン行事についての説明板があります。海岸に面して諏訪神社がありますが、タテモンは諏訪神社の行事です。ユネスコの無形文化遺産として「山・鉾・屋台行事」として33件が登録されましたが、そのひとつです。

 神社の前の大町海岸には、海岸に沿ってしんきろうロードが延びていますが、蜃気楼を見ることはできませんでした。タテモン行事も蜃気楼も、あちこちに立てられている看板などで想像することにします。

 穏やかな富山湾を眺めながら歩いていくと、ほどなく米騒動のモニュメントのある大町海岸公園に着きます。船の舳先とそこに積んである米俵の形です。米騒動は1世紀近く前のことですが、魚津の名は頭に刻印されています。騒動は8月に富山県内各地に広がり、さらに全国に波及していきました。公園から少し離れたところに「米騒動発祥の地」の碑があり、また旧十二銀行の土蔵造りの米倉も残されています。

 海岸を離れて東に向かうと、ほどなく大町小学校です。構内に二代目の常盤の松と、上杉謙信の歌碑とが並んでいます。ここは魚津城址でもあります。商店街を歩いて、富山地方鉄道の電鉄魚津駅に着きます。高架になっている駅からは、青空の下に雲もありますが、立山連峰の僧ヶ岳、釜谷山、剱岳などがはっきりと望めます。

 

滑川

 

 滑川駅の正面から延びる道には「ほたるいかのまち滑川」のバナーがずらりと吊り下げられています。海岸の、はまなす公園には、ほたるいかの句碑が並んでいます。角川源義の「花の後はやも賜はる蛍烏賊」などです。

 滑川は芭蕉宿泊の町です。魚津には芭蕉につながるものはありませんでしたが、滑川は芭蕉との関係を強調しています。櫟原神社には、芭蕉の「しばらくは花の上なる月夜かな」の句碑があります。満開の花の上に月がさしかかり、今宵は絶景であることだ、ということを詠んでいます。夜もしだいに更けてあたりには物音もなく、しばらくの間だけでも、静かに花と月の世界があるというのです。

 神社から、神明町、中町と古い道をたどって歩きます。荒町の海沿いの小公園に、「芭蕉翁おくのほそ道宿泊のまち」という碑があって、その傍らの碑には曾良の日記の一節が刻まれています。『曾良随行日記』には滑河(滑川)に泊まったと書いてありますが、宿屋の名前などはありません。旅籠の川瀬屋に泊まったというのが地元の有力な説で、その川瀬屋はこの碑の近くにあったというのです。ここりは、東西に北国街道が通っていて、両側に家並みが連なっていたようです。本陣跡もあります。

 徳城寺に有磯塚があります。「早稲の香やわけ入る右は有磯海」の句碑は富山県下に10基以上もあるそうですが、建立年代がはっきりしていて最も古いのが、この有磯塚です。芭蕉70回忌の翌年、1764(明和元年)1012日に、海岸の石を担い運んで、句を刻んだと言います。今は真新しい碑が作られていて、もとの句碑には覆屋が作られ、透明板で囲われた中に入っています。

 「早稲の香やわけ入る右は有磯海」は、「奥の細道」の記述に沿えば、黒部川を渡り那古の浦に出て、それから加賀の国に入ろうとして詠んだ句であるということになります。有磯海という言葉は固有名詞でありませんが、万葉集などにも詠まれて、いつしか越中の歌枕になりました。道の両側の早稲の田圃は実りを迎えた香りが漂ってくる、そのような道を分けて進むと、右手には遙かに海が見えて、磯の香も届いてくるようだという句境で、歩を進めながらの感慨が込められています。

 加賀の国に入れば有磯海ではなくなるのですが、越中である限り、特定の地点を指しているのではなさそうです。この句の碑が10基以上もあるということは、この句の世界を感じることができる場所はあちこちにあるということでもあるのでしょう。

 滑川駅への帰路に、市民交流プラザのビルの展望スペースに上って、立山連峰を眺めます。残雪の模様が青空に映えています。高いビルなどがなかった江戸時代では、この風景を地上のどこからでも眺められたことでしょう。海側には富山市、射水市から氷見市へかけての海岸線が見えて、これがまさしく有磯海です。

 

奈古の浦

 

 高岡駅前から万葉線電車に乗ります。万葉線は愛称ではなく正式の社名です。高岡駅から南に走って伏木に向かい、庄川を渡ってからは射水市を東に走ります。市内電車で、道路に敷かれた軌道では、車輪のきしみが直接に伝わってきます。そのうちに専用軌道になりますが、旧型電車はかなり揺れます。六渡寺駅の手前辺りは草ぼうぼうの軌道を走って、ローカル気分を満喫できます。

 駅には、「奈古の海に舟しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む」とか「あゆをいたみ奈古の浦みに寄する波いや千重しきに恋ひわたるかも」とか、越中で詠まれた万葉集の歌が、歌の意味や詠まれた事情などとともに説明された掲示があります。いよいよ奈古の浦に近づいたという気持ちが高まるような仕掛けが施されているのです。

 越ノ潟に着くとそこで線路が終わります。目の前に富山県営渡船の越の潟発着場があって、小型の船が待っています。料金は無料であると知っていましたので、駆け込んで乗るとすぐに出航します。この辺りは富山新港と呼ばれているところで、左側(富山湾側)には巨大な斜張橋の新湊大橋が頭上高く見えます。5分余りで堀岡発着場に着きますが、すぐに引き返す時刻表になっていますから、下船せずにそのまま引き返します。客は私たち以外は数人もいません。

 船を下りてからは海王丸のつながれている方向へ歩き始めます。あいの風プロムナードという案内板に引かれて進むと、新湊大橋に上る歩行者用エレベーターへ導かれます。あっと言う間に海面から50メートルほどの展望所に運び上げられます。海王丸はもちろん、氷見へと続く海岸線が見えます。振り返ると雪を残した立山連峰が立ちはだかっています。展望所は主塔の部分に設けられているのですが、プロムナードは対岸の主塔までの500メートルほどを行き来できます。有磯海の海岸線を近々と見たことに満足して、ここで引き返します。

 私たちは『おくのほそ道』を追体験しているような気持ちになっていますが、『おくのほそ道』に現代文明が加わったと思ってはいけないでしょう。『おくのほそ道』には見えていて、現代の私たちには見えなくなってしまったものがたくさんあるに違いないと思います。

 係留され観光施設になっている帆船の海王丸は、商船大学生・商船高等専門学校生などの海の男たちを育ててきた船です。たしか、この船の誘致をめぐって、商船大学のある神戸市も手を挙げていたような記憶があります。大橋や立山を背にした海王丸は、絵葉書のような姿です。あたりは海王丸パークとして整備され、恋人の聖地というような若者向けのスポットも作られています。

 富山の言葉では、ものがピカピカ光る様子や、混じりけのない様子や、気力の充実している様子などを指して「きときと」と言います。それを食べ物にあてはめるといかにも新鮮な様子を表します。その名を冠した「新湊きっときと市場」をのぞくと、紅ズワイガニやほたるいかも並んでいます。

 市場からしばらく歩くと放生津八幡宮です。その裏手、つまり海側に「奈呉之浦」の石柱が立っています。けれども、八幡宮の海側を道路が走り、植林も行われて、ここから海を望むことはできません。石柱のそばに、越中万葉名勝地という案内板があります。大伴家持の「東風いたく吹くらし奈呉の海人 釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」の歌、宗良親王の歌、宗祇の句と続き、最後に芭蕉の「早稲の香や」が記されています。ここでは、芭蕉よりも万葉歌人の家持が重んじられています。境内には、佐々木信綱の揮毫による大きな家持歌碑があります。「東風」は「あゆの風」と読んで、春から夏にかけて、北東の方向から吹いて豊かな海の幸を運んでくる風です。新湊ゆかりの万葉歌という案内板には10首が記されています。なにしろここは大伴家持が赴任した越中国府のおひざ元で、放生津八幡宮の祭神は大伴宿禰家持卿そのひとなのです。

 放生津八幡宮の芭蕉句碑はと探すと、少し黄ばんだ感じの石に「早稲の香や」が刻まれています。芭蕉150回忌の1843(天保14)に建てられたというだけあって、傷みが激しく、判読しにくい部分もあります。上下二つに折れた石を真ん中でつないで修復しているように見えます。

 少し歩いて荒屋神社へ行きます。ここにも「早稲の香や」の句碑がありますが、解説の碑文が付いているのが珍しいと思います。句の解釈や文学的価値などについては、時代の流れの中でさまざまな考えが現れてきて当然だろうと思います。ある時代の、ある人の解釈や評価が石に刻まれてしまうのは、すこし行き過ぎではないかという気がします。

 有磯海という言葉の出発点は、大伴家持が弟の死を知って、悲しみの中で詠んだ「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」という歌であると言われます。越中国府は伏木にありましたから、八幡宮を勧請した放生津に近い海を表していたのかもしれません。けれども、東を見れば放生津海岸、西を見れば雨晴海岸ですから、今となってはどちらに軍配を上げるわけにもいかないでしょう。『曾良随行日記』によれば、芭蕉は氷見へ行きたいと考えましたが行っていません。なぜ氷見のことを考えたのかと言えば雨晴海岸のことが脳裏にあったのかもしれません。

 さて、ちょっと信じられないことかもしれませんが、私たちが『おくのほそ道』歩きをして、雨にあうことは本当に少ないのです。3泊4日の旅ですから、その期間の天気は気になります。日程は1か月以上前に決めて、宿泊予約や鉄道切符購入も済ませます。4日間とも晴れという予報などはほとんどありません。ときには1日~2日が雨という予報もあります。

 けれども、出発してしまうと意外なことに天気が好転してくれるのです。この文章で雨のことをほとんど書いていませんが、それは降雨を内緒にしているのではありません。まる一日中、降られたという経験はありませんし、雨にあうこと自体が少ないのです。今回はそれが覆されることになりました。4日目は、朝から雨です。風は強くはありませんが、一日中降り続くことは明らかです。旅の最終日です。どのように変更しようと、翌日からの日程に影響することはありません。氷見線で雨晴駅を往復し、男岩・女岩のあたりの景色を見るという計画を振り捨てて、帰途につきます。雨晴海岸は2人とも曽遊の地であるということも理由です。

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