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2018年4月 2日 (月)

『おくのほそ道』の旅【集約版】(16)

  第15回 補遺の旅(登米・最上川など)

 

 

 最終回は、9月26日から29日までです。列車ダイヤの乱れなどによって、計画どおりに実施できなかったところを巡る旅です。今回は宮城県・山形県を歩きます。

 

北上川に沿って登米へ

 

 『おくのほそ道』は登米に強い関心を示さず、「はるかなる堤を行く。心ぼそき、長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に至る。」と素っ気ない記述です。明治の一時期に、岩手県南部と宮城県北部が水沢県となっていた時期があり、登米はその頃の県政の中心地です。今は「みやぎの明治村」として、さまざまな建物などが保存され活用されています。

 宮城県登米(とめ)市にある登米(とよま)の町へ行くことについて、もともとはJR瀬峰駅からのバスを計画したのですが、今回はルートを変えて、JR柳津駅から北上川に沿って歩くことにします。

 旅の初日、小牛田駅から前谷地駅までは石巻線の列車です。前谷地駅からの気仙沼線は、柳津駅までは列車も走っているのですが、柳津駅から気仙沼駅まではBRTです。計画した時刻の柳津行も、鉄道ではなくてBRTでした。BRTというのはバスによる代行輸送です。

 柳津駅からは集落の中を歩き、しばらくして北上川の堤防上の道に出ます。北上川の左岸に、河口から26.8㎞という表示があります。堤防の内側には薄が風に揺れています。堤防上の立派な国道342号を歩きますが、車は時たまにしか通りません。道の両側の雑草が刈り取られて、樽のような形で束ねられています。刈草を提供するという案内板が出ていますから家畜の飼料などに利用されているのでしょう。機械を使って刈り取って束ねる作業をしている人たちにも出会います。夕方の逆光の中で、黒ずんだ感じの北上川がゆったりと流れています。

 やっと前方に登米大橋が見えてきます。北上川を渡って右岸に出れば登米の町です。上流側の川は左にゆるやかにカーブしています。1947(昭和22)9月16日に洪水があって、水位が12メートルも上がったことを示す標識板があります。

 橋を渡り終えたところの堤防の上流側に「芭蕉翁一宿之跡」の説明板があります。傍に、河東碧梧桐による文字が刻まれた碑が建っています。堤防上ではなくて、この近くで宿をとったことを示しているのでしょう。登米の町では毎年6月に登米芭蕉祭俳句大会を行っていると言います。橋から下っていくと登米の町になり、宿が目の前に見えます。

 

登米の町

 

 2日目の早朝に地震があり、びっくりして目が覚めました。岩手県沖を震源としたもので、登米市は震度4です。午前中は登米の町を歩きます。観光の拠点になっている遠山之里はまだ開いていませんが、そこを通って真っ直ぐ進みます。松並木の中に「奥の細道一宿の地」の石碑があり、石碑の裏側には「古池や…」の句が刻まれています。一宿の地は、北上川堤防にも同様のものがありましたが、二つの記念物は少し距離が離れています。この辺りには「遠山の小道」という愛称板が立てられています。少し先に、煉瓦の門柱に「国指定重要文化財 登米高等尋常小学校」という分厚い木の校名板が掲げられたところがあります。ここは教育資料館ですが、時間が早くてまだ開いていません。

 そのまま進んで右側の家並みが切れたところを右に折れると、仙北鉄道の駅跡があります。木の標識に説明が書かれていて、道床とレール、鉄道車両の車輪、シグナルポイントが保存されています。東北本線瀬峰駅からの鉄路の終点がこの地点であったのです。近くに市役所の一部の部署が入っている総合支所があって、一日の動きが始まっています。

 ここから同じ道を引き返しますが、反対側にある歩道を歩きます。宮城芸術文化館というのがあって、その先に旧水沢県庁舎があって記念館になっています。

 歩いている道から直角に右に延びる道がありますが、先の方には武家屋敷の通りが見えます。その道を歩きます。ところで、旧水沢県庁舎の隣に碑があって、一宿庵の記という碑が作られています。碑文を読むと、一宿庵というのは、庵を建てたのではなく、登米の俳人の一人が芭蕉が来たのを来たのを記念して一宿庵と号し、その後二代、三代と続き、平成初めには二十代一宿庵にまで続いているのだそうです。

 武家屋敷の通りには、説明板なども設けられて、落ち着いたたたずまいになっています。その一つの鈴木家は春蘭亭として公開されています。入ると、刈り取られた柴が束ねられ、柿や栗が置かれ、曼珠沙華が咲いています。古い屋敷内を一巡して拝見します。少し行くと廻船問屋の資料館などもあります。そして、鉤形の小路を通って、登米神社のある丘へ続く道を登っていきます。

 登米神社には「降らずとも竹植る日は蓑と笠」の句碑があります。中国では竹を移植すると枯れないと言われているそうです。5月13日の竹酔日というときにするのが慣わしのようですが、日本ではちょうど五月雨(梅雨)の季節です。その作業には蓑や笠が必要です。それにちょっと風趣を感じて「降らずとも」と戯れているのです。

 登米神社から下ってきて、再び旧・登米高等尋常小学校へ行きます。1888(明治21)に建てられた、すべて木造の2階建ての建物です。コの字型になっている建物全体は黒い色ですが、2階にはバルコニーが設けられ、白く塗られて建物全体のアクセントになっています。屋根は寄せ棟、瓦葺きです。廊下は、外とは遮断されず吹き抜けになっています。時鐘として、お寺の鐘の小さな形のものが吊り下げられています。建物の中は教室が再現され、教育資料が展示されているようですが、それよりも何よりも、校門の辺りから建物を眺め、校庭を歩きながら建物の中を見つめるだけで、とても嬉しい気持ちになります。ここにも昭和22年のカスリン台風の洪水水位が示されていて、子どもの背丈ほどにはなります。

 すこし歩いたところに、「玄昌石の館」というのがあり、その隣が旧・登米警察署庁舎で警察資料館になっています。これも1889(明治22)建築という古いもので、昭和43年まで現役の警察庁舎として使われたと言います。これも木造2階建て、吹き抜けのバルコニーが付いています。こちらは小学校と違って、全体が白いペンキで塗られています。小学校にも警察署にも、社会見学の小学生や中学生の団体がいます。

 昭和30年代や40年代には、私たちの周りにもこのような建物はたくさんあって、現役として使われていました。それがあっと言う間に建て替えられて、古いものが姿を消してしまったように思います。壊さないで大切に保存したものが、今となっては珍しく、価値のあるものとなりました。

 北上河畔の料理店で鰻に舌鼓をうってから、引き返して寺池城址公園のあたりを歩いてから、遠山之里に戻り、近くのバス停から登米市民バスに乗って柳津駅前に向かいます。

 気仙沼線の柳津駅からは、今度は列車で小牛田行に乗ります。小牛田駅で陸羽東線の新庄行に乗り換えます。古川から先にある、岩出山、有備館、川渡温泉、鳴子温泉、中山平温泉、堺田、赤倉温泉の各駅は、201610月の旅で、乗ったり降りたりした駅です。懐かしく感じて車窓を見つめます。

 

本合海

 

 雨になった3日目の朝、新庄駅前から大蔵村村営バスで本合海に向かいます。本合海は新庄市内ですが、バスのルートはこれのみです。肘折温泉で知られる大歳村は自前で、新庄と結ぶバスルートを作っているのですが、病院の前なども通りますから、新庄市民の足にもなっているようです。肘折は豪雪地帯としても知られるところです。

 本合海寺前でバスを降ります。芭蕉像などがあるのはまっすぐ右手の方らしいと見当つけて歩くと、そのとおりでした。バス停のあるところからの短い道は兜太通りと名付けられています。金子兜太がNHKテレビの番組制作のために訪れたり、この地での俳句大会の撰者を務めたりしたことを記念するのだそうです。

 川を見下ろすところに史跡俳聖松尾芭蕉翁乗船之地という石碑が建っていて、「五月雨をあつめて早し最上川」の句碑があります。木の下に芭蕉像と曾良像が並んでいます。芭蕉は何かに腰掛けて笠を膝の上に置いている姿であり、曾良はその傍らで荷物を背にして立っている姿です。芭蕉の視線はやや上向きですが、曾良は背の荷物のせいでしょうか、もっと高いところを見つめている様子です。芭蕉は頭巾を被っていますが、現代の知識人のような凛々しさを感じさせます。

 ここは最上川ビューポイント選定地点なのだそうです。雨にけぶって川はゆったりと流れています。自然堤防のままですから、なんとも穏やかな感じがしています。少し先で、最上川はぐるりと迂回するように180度、流れの方向を変えますが、そこに支流の新田川が流れ込んでいます。

 私たちは川の右岸にいるのですが、芭蕉像の後ろに見えている本合海大橋を渡って、川の左岸に出ます。長い橋を渡ってから少し歩けば本合海プラザというところに着きます。けれども雨は本降りです。濡れながら歩きます。本合海プラザと言っても、特別な施設はありません。川岸近くに展望と休憩を兼ねた施設が一つ、屋根があるのが嬉しいのです。対岸に岩山が見えます。

 ここから上流方向に少し戻ると、矢向神社の赤い鳥居が川に向かって立っています。ご神体は対岸にあるようです。また金子兜太の「郭公の声降りやまぬ地蔵渦」と金子皆子の「ひぐらしの網かぶりたり矢向楯」を一つの石に刻んだ碑があります。川縁に船着き場も作られていますが、あたり全体が雨にけぶっています。

 本合海大橋を渡って引き返します。芭蕉像が立っているところの下の方、川縁へ降りていく細い道があります。そこに「本合海の渡し」の碑があります。刻まれている説明によれば、ここは最上川を上り下りする船の乗降場であるとともに、対岸への渡し場でもあったと言います。渡しは1934(昭和9年)の本合海大橋の開通まで存続していたそうです。川の水面には石を並べた遺構が見えます。

 バス停の前の積雲寺には子規の歌碑があります。「草枕夢路かさねて最上川ゆくへもしらず秋立ちにけり」という歌です。

 

最上川

 

 「最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云、おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は、青葉の隙々に落て、仙人堂岸に臨で立。水みなぎつて、舟あやふし。

   五月雨をあつめて早し最上川 」

 芭蕉は本合海から最上川下りをしたようですが、私たちは新庄駅に戻って陸羽西線で古口駅に行って、その近くから舟に乗ります。最上川の辺りを鉄道で眺めることは既に何回も経験しています。鉄道から見る川の様子は知っていても、やはり芭蕉と同じように舟の旅をしないではおれません。

 古口駅から戸澤藩船番所のあったところへ移動し、軽い昼食をとって舟の時刻を待ちます。乗船場の前には子規の句碑「朝霧や船頭うたふ最上川」があります。しばらくして、アナウンスに促されて、乗船場の階段を下って舟に乗ります。ちょうど雨が止んできたところです。

 最上川は急流ですから、川下りを、京都の保津川下りになぞらえて想像していましたが、まったく異なりました。船頭さんが棹を操る舟ではなく、エンジンが付いている舟でした。船頭さんはのんびりとマイクで案内をするだけです。保津川下りの舟は、囲いもなくて水と戯れて下る風情ですが、こちらは覆いが作られていて、ビニールハウスの中から川をわずかにのぞき見るという様子です。左右も前方もビニールで覆われています。そのビニールの下の方を捲りあげて外を見ることはできますが、視界は広くありません。右舷に座ると、左舷側を見ようとしてもビニールハウスに遮られています。

 右舷に座ったものにとっては、僅かに川の右岸を盗み見るような状態で舟が進んで行きます。川は僅かに波立っていて、川岸に白い鳥が浮かんでいます。左岸に神代杉があるという説明があっても、仰ぎ見ることはできません。しばらく行くと、右岸に水上コンビニがあるということで、そこでしばらく停まります。商魂がたくましく感じられて、芭蕉の旅の風情は失せてしまっています。

 駒形の滝、七滝、大滝が右岸に続きますから、それらを見ることはできます。かなり高いところから細い水の流れがありますが、豪快な感じはしません。最上川は山間を流れていますが「左右山覆ひ、茂みの中に船を下す」というようには感じません。

 芭蕉の乗った舟はこの観光舟よりもだいぶ小さかったのでしょうか。しばらく水の流れの速いところも通りますが、「水みなぎつて、舟あやふし」という経験はしないで終わりそうです。下流から上流に向かって、速いスピードで回送されていく舟と何度も出会うのも風情のぶちこわしです。

 そうこうしているうちに、「白糸の瀧は、青葉の隙々に落て、仙人堂岸に臨で立」と表現されているところに来ます。仙人堂には赤い鳥居が見えます。白糸の滝は山の中腹から水の流れが見えて、いったん左に折れてから下に落ちて流れています。

 あっと言う間の1時間弱。日本3急流というイメージはどこへやら、「五月雨をあつめて早し最上川」というのとはずいぶん異なる舟旅でした。五月雨の頃であれば、もっと違った印象であっただろうと、自分の頭の中で想像をかき立てることにしましょう。最上川リバーポートというところで舟を降ります。白糸の滝が見えていますから、しばらく対岸を眺めます。ここからは、すっかり雨の上がった国道47号を歩いてJR高屋駅へ向かいます。

 陸羽西線の運転時間の間隔は、びっくりするほど長いところがあります。高屋駅では1時間30分ほどの時間を、辺りを歩いたり、ぼんやり佇んだりして過ごします。慌ただしい生活の中では、珍しい時間の過ごし方であり、貴重な体験です。

 

米沢

 

 予定していた『おくのほそ道』の旅は終わりました。4日目、新庄からの帰途に途中下車して米沢に立ち寄ります。伊達氏が200余年、上杉氏が300年近く居城を構えて城下町が形作られたところです。時間が限られていますから、上杉神社を往復して、その途中にも目を向けることにします。

 駅は町の中心からすこし外れているようです。西に向かって歩き相生橋で最上川を渡ります。昨日の最上川とは違って、この辺りは水量が多くありません。土木学会の土木遺産という万世大路があります。寺町寺院の続くところで左折して南下、しばらく行ってから右折して西に向かいます。札の辻跡などがあります。

 上杉神社前というバス停がある辺りから、観光客の姿が見えるようになります。博物館と文化ホールが一緒になっている「伝国の杜」という建物には、能舞台が作られ、さまざまな展示があります。目の前に神社の森が見えてきます。

 短いけれども明治の古風を残した舞鶴橋を渡って神社に近づいていきます。伊達政宗公生誕の地の碑、上杉謙信の像、上杉景勝と直江兼続の主従の天地人像、上杉鷹山の「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり」の碑、上杉鷹山の像、上杉謙信祠堂跡など、応接に暇ないほど、次々と続きます。上杉神社にお参りし、社務所で朱印を頂いてから、松岬神社に立ち寄ります。

 時間が有れば見て回るべきところはたくさんあるのですが、米沢の一部分だけを見て離れます。

 

 

  終わりに

 

 『おくのほそ道』を巡る旅は、いったん終了です。58日間にわたる旅でした。機会があれば改めてもう一度、という気持ちが無いわけではありませんが、自分の年齢を考えれば可能性はありません。現代の旅ですから「野ざらし」を覚悟するほどのものではありませんでしたが、それでも、病に襲われることなく、事故に遭遇することなく終えられることは嬉しいことです。

 日本の国土は広い。その土地その土地に生きる人たちの生活ぶりや文化に接してきました。また、先人たちはこの国の隅々まで旅をしていることにも驚きます。文学遺跡に限らず、あらゆる分野の先人の足跡が各地に残されています。

 私たち2人の旅はこれからも続きます。『おくのほそ道』が終わったら、別の企画をして、街道歩きなどをしようと相談をしています。私たちの旅は、2人のうちのどちらかが歩けなくなったときに終わります。けれども、それはずーっと先のことであって欲しいと願っています。好奇心を失わず、これからも自分の足で、この広い日本を歩き続けようと思います。

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