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2018年5月31日 (木)

言葉の移りゆき(44)

「対面」通行とは何か

 

 「対面」とは、顔を合わせることです。自動販売機の増加で、対面でものを買うことが少なくなりつつあります。「対面」には、互いに向き合うことという意味もあります。

 「対面交通」という言葉は、子どもの頃から聞き慣れた言葉です。歩道や車道の区別のない道路で、人は右、車は左というように、人と車が向かい合って通行することです。

 次のような交通の形にも「対面」を使うのでしょうか。

 

 片側1車線の高速道路で、車が対向車線に飛び出す事故を防ぐため、国土交通省が中央線にワイヤロープを張る実証実験を行ったところ、事故が激減した。国内の高速道路では対面通行が約4割を占めるが、飛び出し事故は年間3000件前後発生しており、同省は実験結果を検証し、今年度から本格的な設置を目指す。

 (読売新聞・大阪本社発行、2018年5月8日・夕刊、3版、10ページ)

 

 道を通るときに相手の人や車を見ないということはありえませんから、すべて「対面」のはずです。

 ところが、人と車の関係では、前述のように、歩道や車道の区別のない道路で、人は右、車は左というように、人と車が向かい合って通行します。高速道路の場合は、「片側1車線」の場合を「対面通行」と呼んでいるようです。

 この二つの場合を比べると、歩道や車道の区別のない道路での「対面交通」、中央に分離帯がない(すなわち、上下線の区別や区切りがきちんと行われていない)1車線道路の「対面通行」という使い方のようです。要は、「区別(区切り)がない」ということを基準にして、「対面」であるかないかという使い分けが行われているようです。そのことは、国語辞典に明確に示されていないように思います。

 

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2018年5月30日 (水)

言葉の移りゆき(43)

2つで1つの「ニコイチ」

 

 古くなった団地の2つの部屋を、1つにつなげて広くなるように改修するというニュースがありました。

 

 隣り合う二つの住居を一つにつなげた上でリノベーション(改造)した物件を、大阪府住宅供給公社が「ニコイチ」と呼んで供給に力を入れている。高齢化や空き家の増加に悩む団地に若い家族を呼び込むための「秘策」は、大阪の外にも広がり出した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月8日・朝刊、13版、6ページ、中島嘉克)

 

 「ニコイチ」というのは、漢字で書けば「二戸一」ということでしょうか。

 私にとって「ニコイチ」という言葉は耳新しいものではありません。今でも使っているかどうかわかりませんが、兵庫県明石市周辺の方言としての「ニコイチ」は、しばしば耳にしたことがあります。漢字で書けば「二個一」であるのかも知れません。

 例えば、乾電池などを一個売りでなく、二個のセットで売っているとすれば、「ニコイチで売っとる。」と言います。まったく同じものでなくても、「(書道の)太筆と細筆がニコイチになっとるのを買()ーた。」というような言い方もありました。二つで一つのセットであるという意味です。

 極端な言い方として、仲のよい友達同士がいつも行動を共にしているのを見て、「あいつらは、いつもニコイチや。」と言ったりもしたように思います。二人で一人前というのではなく、二人が一心同体であるように見えるというのです。

 記事にあるような住宅改修の方式が普及していったとして、横書きの外来語で目新しさを表現しようとするよりは、日本語を工夫して新しい事象を表現しようとすることには賛成です。それが古い言い回しや方言表現と関連があったりすると、ほっとした温もりを感じることになります。「リノベーション」も、「作り替え」や「作り直し」で十分ではありませんか。

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2018年5月29日 (火)

言葉の移りゆき(42)

くだけた言葉の「かも」

 

 「か」という副助詞があります。「誰いませんか。」のように人やものなどを特定しないで指し示したり、「明日明後日に行きます。」のように列挙してそのうちの一つであることを示したりします。

 「も」という副助詞があります。「誰知っている人はいません。」のように一例や全体を示したり、「明日明後日予定が詰まっています。」のように同類の人やものなどを並べたり付け加えたりしたりします。

 その「か」と「も」が合わさると「かも」という言葉になります。「私は出席するかもしれません。」のように、不確かながら可能性があることを表現する場合などに使われます。「かも」を書き言葉の文末に使うこともありますが、くだけた印象は拭えません。

 あるテレビ番組を紹介(批評)した記事の最後が、次のような言葉で締めくくられていました。

 

 気軽な頭の体操は日曜の夜にぴったり。新規ビジネスのヒントになるかも?

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月4日・朝刊、13版、19ページ、「記者レビュー」、矢田萌)

 

 文章の末尾で「……かも」と言われたら、結論はどうなっているのだろうかと首を傾げざるを得ません。ヒントになると言っているのか、ヒントにならないと言っているのか、わけがわかりません。

 驚くのは、その言葉に「?」が付いていることです。「かもしれない」という曖昧な表現に、さらに疑問符が付くということは、記者は結局、何の判断も持っていないということなのでしょうか。

 

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2018年5月28日 (月)

言葉の移りゆき(41)

「大丈夫です」の違和感

 

 新聞の投稿欄に「大丈夫です」という言葉についての意見が載っていました。54歳の主婦の方です。

 

 若者がよく口にする「大丈夫です」という言い回し。三十代の娘も多用するが、聞くたびに違和感を覚える。 …(中略)

 「結構です」「いりません」「見ません」で十分だと思うが、「結構です」は気取りすぎ、「いりません、見ません」はぞんざいな印象だと娘は言う。どうやら「大丈夫です」は、程良い「丁寧さ」「謙虚さ」があり、断言することを避けたがる日本人的「曖昧さ」が、今どきの感性にマッチして重宝なようだ。

 (東京新聞、2018年5月24日・朝刊、11版、4ページ、皆藤京子)

 

 「大丈夫です」に違和感を覚えるということに私も同じです。「大丈夫です」に程よい丁寧さ、謙虚さがあるという若者の意見は、そのような感じ取り方もあるのかと思います。

 それでもやっぱり、この言葉は使いたくはありませんし、聞きたくもありません。「大丈夫」というのは、もともと、しっかり安定している様子や、間違いなく確実である様子などを表す言葉です。

 「大丈夫ですか」という問いかけは、相手を思いやる気持ちは表れていますが、仰々しく感じられる場合があります。怪我をしている人に「大丈夫ですか」と尋ねるのは自然なことですが、注文した品々を並べあげて「これで大丈夫ですか」と確認するのは大げさ過ぎます。あなたは間違っていませんか、と迫られているような気がしないでもありません。

 一方、「大丈夫です」という答え方は、「はい」という応答のレベルを超えて、私は大丈夫だ、あなたの助力は要りませんというような拒否感すら漂う場合があります。

 言葉は人と人とをつなぐものですが、その場にふさわしい、やわらかい言葉を、場面場面に応じて使い分けたいと思います。

 「大丈夫です」は、いろんな場面に使える汎用語として登場し、言葉を使い分ける能力を失わせる方向に働いているように思われてなりません。

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2018年5月27日 (日)

言葉の移りゆき(40)

「東西」という場所

 

 JRや地下鉄などには「東西線」という名称が使われています。南北に貫くのでもなく、環状に回るのでもなく、ほぼ東西に走る路線であれば、わかりやすい名称です。

 ところで、この「東西」が物議をかもしました。大阪都構想の一環で、区を再編する案の中に「東西区」という名称があったのです。東区・西区・北区・南区なら市全体の中での位置を想像できますが、東西区と聞いて、位置を想像できるでしょうか。このことが報じられると、当然ながら異論続出となりました。

 「東西区」は、東西を貫く細長い区のように聞こえますが、北寄りにあるのか、南寄りにあるのか、想像できません。しかも、名称案では、北区や中央区よりも北側にある地域を「東西区」と呼ぼうとしたのです。言葉の感覚を疑いたくなる名付けです。

 

 都構想の具体案を議論する今月6日の法定協議会では、大阪市を「東西区」「北区」「中央区」「南区」の4特別区に再編する事務局案が示された。しかし、維新市議によると「東西区」の案には「東にあるのか西にあるのか分からない」といった意見が市民から寄せられていた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月27日・朝刊、13版、31ページ)

 

 結局は東西区ではなく「淀川区」という案に変更されました。それにしても、阿倍野・天王寺・住吉・浪速・福島・生野・都島などという旧の区名が、無機質な北・南・中央という名前に変えられてしまいます。古くからの土の匂いのある場所が、コンクリートの街に覆われていくのと軌を一にしているように感じられます。

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2018年5月26日 (土)

言葉の移りゆき(39)

市民権を得ていない「ガチャガチャ」

 

 「ガチャガチャ」というのはクツワムシの俗称です。けれども、もう一つ別の「ガチャガチャ」があります。残念なことにたいていの国語辞典には載っていません。

 

 日本一高いビルのあべのハルカス(大阪市)に、巨大な「ガチャガチャ」が登場した。29日から5月5日まで、5千円の買い物をするごとに1回、挑める。

 高さ4メートル、幅、奥行き各2・4メートル。大当たりのカプセルは直径20センチで、ホテルのペア宿泊券や5万円分の商品券などが入っている。毎日、先着千人。

 黄金週間の集客の目玉にと同ビルが企画した。「はずれ」でもビル展望台の割引券などがもらえる。「日本有数のガチャと絶景を楽しんで」と担当者。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月28日・朝刊、13版、34ページ、「青鉛筆」)

 

 この文章で、どういうものか察しがつくと思います。もともとは、少ない金額で「当てもの」をしてカプセルの中の商品をもらうという、子ども向けのものです。「日本有数の」とありますから、このようなものは全国に普及しているのでしょうか。しかも「ガチャ」という略称まで書いてあります。

 国語辞典の編集者は、新しい言葉を見つけようと細心の努力を続けておられることと思いますが、「ガチャガチャ」に市民権を与えることを忘れているようです。日常語でありますから、国語辞典で見つからないと寂しいものです。

 同様に、大売り出しのときなどの抽選で、取っ手を持ってぐるぐる回して、ポトンと1個の小さな玉が落ちるという器具は、昔からあるのですが、あれは何という名前で呼ばれているのでしょうか。関西では、ガラガラとか、ガラガラポンとか、ガラポンとか言っていますが、この言葉も、国語辞典には見落とされている傾向が強いようです。小型の国語辞典こそ、日常生活と密着した言葉を収めてほしいと思います。ガチャガチャもガラガラも方言であるとは思えないのですが。

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2018年5月25日 (金)

言葉の移りゆき(38)

謙遜で「なんて」を使うか

 

 「なんて」という言葉は副詞または副助詞として使われます。副助詞としての「なんて」は謙遜で使われる言葉なのでしょうか。記事の見出しが、「感動と謙遜の『なんて』」となっているのが気になりました。記事の中の、Aの文例は副詞で詠嘆や驚嘆を表す言葉です。

 

 A「プレゼントありがとう。なんてすてきなんでしょう」

 B「そんなに喜んでくれるなんて、私もうれしい」

 それぞれのセリフに出てくる「なんて」は意味や使い方が違う、別の言葉です。 …(中略)

 Bの「なんて」は、意外な思いを表す言葉です。「わたしなんて、もてるわけがない」のように、謙遜したり、軽く見たりするときにも口にします。「などと」が変化した言い方で、だから「何て」とは書けません。

 (読売新聞・東京本社発行、2018年5月23日・朝刊、12S、12ページ、「なぜなに日本語」、関根健一)

 

 確かに、「わたしなんて、もてるわけがない」というのは謙遜のように見えます。しかし、それはこの話題(文脈)の場合に、そのように感じられるに過ぎません。

 「あんたなんて、嫌いだ」というのは、相手を軽んじる気持ちを表現しています。「わたしなんて」というのは、自分を軽んじる表現なのであって、謙遜というのとは次元が少し違うように思います。

 このコラム名からすると日本語についての啓蒙記事のようですが、品詞(自立語と付属語の違い)などに言及しないで、突然のように意味を(しかも、辞書的な意味でなく、文脈上の意味を)述べるとすれば、言葉についての誤解を与えかねないことにもなります。

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2018年5月24日 (木)

言葉の移りゆき(37)

「行けたら行く」という言葉②

 

 「行けたら行く」という言葉について特集した記事がありました。その記事の見出しは「『行けたら行く』の返事は不愉快」となっていて、方向性がはっきりしているのですが、そこに載せられている8つの意見には、誘われて困惑する様子と、誘う側の対応策などが語られていました。( )内は投稿ネームです。

 

 一度でもそのように言われたら二度と誘わないことにしています。(ころころ)

 失礼な言葉だと思います。「気が向いたら行ってやるよ」と同じ意味。(シナモンベーグル)

 「いつ来るのかと待つのも落ち着かないので欠席にさせて」。 …(中略)… 誘った相手からの返事に対してモヤモヤと我慢せず、こう言えばよかったんですね。(茶々呑)

 私は急な仕事などが入りやすいので、割とそういう返事をしてしまう気がします……。 …(中略)… なるべく、そう言わないように気をつけます。(ねこ)

 即断で出欠の返答を求める方が、「私の誘いへの対応を最優先しろ」と迫っているようで、自己中心的ではないでしょうか。(白鳥)

 誘う側に事情があるように、誘われる側にも事情はあるのです。(natu)

 「行けたら行くね」と言われたら、「来られたら来てね」と表面的には言いながら、内心では冷静に「欠席」とします。(akireta)

 私の場合、期限を決めて参加申し込みと会費の集金を一緒にします。期限まで会費がもらえなかったら、欠席にします。(紅葉)

 (読売新聞・大阪本社発行、20171212日・夕刊、3版、4ページ、「発言小町」)

 

 「行けたら行く」というのは面と向かって誘われたり電話を受けたりの場合の答えです。葉書などで回答する場合は、こんな曖昧な返事をすることはないでしょう。面と向かって、あるいは電話などで誘われた場合、その場で回答を求められることが多く、きっぱり断りにくくて「行けたら行く」という言葉に逃げ込むのかもしれません。

 本当に行けるか行けないかがわからない場合は、何日までに改めて返事をすると伝えるようにして、行けない(行くつもりがない)場合ははっきりと「欠席」と言うべきでしょう。

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2018年5月23日 (水)

言葉の移りゆき(36)

「行けたら行く」という言葉①

 

 例えば日曜日にハイキングに誘われて、それがまだかなり先の日のことであるとき、「どっちにする?」と尋ねられて、「行けたら行く」と返事をしたことがあります。実際には、当日までに、行くか行かないかを決めて、そのように伝えました。ずいぶん先のことを尋ねられても決めかねることがあるのです。けれども、その行事を中心になって推進してくれている人にとっては、曖昧な返事は迷惑だったに違いありません。実施日が近づかないと正確な人数を把握できないのですから。

 ところが、この「行けたら行く」という言葉には、慣用的な意味が付与されているということを知りました。しかも、ごく近年のことです。

 

 「関西人の『行けたら行くわ』は、来ない確率100%」

 ネットで調べると出てくる「関西人あるある」だ。大阪生まれの記者も、こう返事して行ったためしはない。むしろ断っているつもりです。 …(中略)

 飲み会の幹事を務めたときのこと。手違いで仲の悪いAさんとBさんの両方に声をかけてしまった。Aさんは「行く」、Bさんは「行けたら行く」という返事だった。男性はホッとした。ところが当日、Bさんは来た。「もちろん席は用意していないし、Aさんは不機嫌に。えらい目に遭いました。『行けたら行く』って言ったら、来ないでほしい」 …(中略)

 大阪は、「10%。他の用事はないけど、行きたくないときに使う」(60代自営業男性)といった気が乗らない意味合いが強いのに対し、東京は、「80%。せっかく誘ってくれたから、他に用事があっても都合をつけて行こうと思ったときに言う」(70代主婦)、「行ける確率は20%でも何とか調整は試みる」(50代男性会社員)と前向きな人が目立った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2016年8月24日・夕刊、3版、2ページ、「まだまだ勝手に関西遺産」、向井大輔)

 

 「こう返事して行ったためしはない。むしろ断っているつもり」という言葉に仰天しました。上の引用は、かなり長い文章のうちの一部分だけですが、それでも、私にとっては刺激的でした。

 私の場合は、「他に用事があっても都合をつけて行こうと思ったとき」にとりあえず返事をする言葉ですから、第2信を発することを予定しての第1信であるのですが、関西人の「行けたら行く」は最終的な返事であるというのです。

 この言葉に関しては、私は東京人の感覚に近いのです。この言葉を多用している関西人にとっては、断り文句と受け取って、第2信などは期待していないということでしょう。それなのに、当日前とはいいながら、「行けたら行く」を「行く」に変更したら迷惑だったでしょう。

 「行けたら行く」は、あからさまに断って相手を傷つけない配慮から生まれた言い回しでしょう。関西にはそのような配慮の言葉は他にもありますが、「行けたら行く」については、私は誤用していたということになります。

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2018年5月22日 (火)

言葉の移りゆき(35)

コップは投げられても、水は投げられない

 

 「か()ける」という動詞はいろいろな意味で使われますが、液体や粉末のものを浴びせるという意味でも使われます。一方、「投げる」という動詞は、物体(固体)を空中に放り出したり、遠くへ飛ばしたりするという意味でも使われます。

 韓国の大韓航空会長の二人の娘が起こした行動が話題になり、揶揄するような言葉も生まれました。ひとつは「ナッツ姫」ですが、もうひとつについて、次のような新聞見出しがありました。

 

 韓国「水投げ姫」、暴行容疑で捜査

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月18日・朝刊、13版、14ページ、記事見出し)

 

 見出しを目にした瞬間に、水を投げるとはどうすることを言っているのだろうかと思いました。氷を投げることはあっても、水は投げられません。水を塊として投げることはできないではないかという疑問です。記事を読むと「大韓航空の趙顕専務(34)が会議で激高して水の入ったコップを投げつけたという騒ぎについて、韓国警察は17日、暴行容疑で捜査を始めたと明らかにした。」とあります。

 投げたのはコップで、その中に水が入っていたというのです。その状況なら、「コップ投げ姫」と言わなくてはなりません。いくらコップの中に入っていても、水を固体と同じように見ることはできません。

 

 「水掛け姫」「ナッツ姫」退任へ / 財閥グループの全役職

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月23日・夕刊、3版、7ページ、記事見出し)

 

 数日後の見出しの言葉は変化しました。記事には「会議で激高して水の入ったコップを投げつけたとして暴行容疑で警察の捜査を受けている。」とあって、前項の記事内容と変わりません。記事を整理して見出しを付ける人の言葉の感覚に変化が生じたのでしょう。

 文学作品ならいざ知らず、日常的な言葉遣いの中では、言葉の基本的な意味・用法を壊しかねない造語は慎むべきでしょう。

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2018年5月21日 (月)

言葉の移りゆき(34)

「時点」と「地点」

 

 ゴールデンウイークの交通機関の混雑についてのニュース記事に、次のような表現がありました。

 

 JR西日本によると、新幹線は、新大阪発鹿児島中央行き「みずほ」と東京発博多行き「のぞみ」の自由席の乗車率が、ともに新神戸駅の時点で110%に。神戸空港では、那覇や新千歳、羽田へ向かう午前中の全日空(ANA)便が全て満席となった。

 また午前10時半時点で、名神高速道路の上り線が蝉丸トンネル(滋賀県大津市)を先頭に15キロの渋滞。中国自動車道も混雑した。

 (神戸新聞、2018年4月28日・夕刊、4版、1ページ)

 

 この記事を書いた記者は「時点」という言葉がお好きなようです。一般には「午前10時半現在で」という表現が多いと思いますが、それを「10時半時点で」と言っています。「時点」は、時刻の推移の上のある一点を表す言葉です。

 一方、一般には軽く「新神戸駅で」という表現が多いと思いますが、それを「新神戸駅の時点で」と言っています。理屈を言えば、これは「時点」ではなく「(新神戸駅という)地点」です。空間の推移の上のある一点を表しているからです。善意に解釈すれば、新神戸駅に到着(あるいは新神戸駅を発車)する時ということですから、「時点」が間違いとは言い切れないでしょう。けれども、「10時半時点で」に比べると、これが何時何分頃のことを言っているのかは不明です。

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2018年5月20日 (日)

言葉の移りゆき(33)

「半端でない」と「半端ない」

 

 俳優の西田敏行さんのインタビュー記事に次のような表現があります。

 

 北野武監督の「アウトレイジ最終章」も10月に公開される。関西を拠点とする暴力団幹部の西野。すごみを利かせながら、権謀術数を繰り広げる。こちらの存在感も半端ではない。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2017年9月22日・夕刊、3版、2ページ、石飛徳樹)

 

 この記事には「半端ではない」という言葉が1度だけ使われています。

 1ページの題字の下に、その記事が2ページに掲載されているということを知らせる欄があって、次のような見出しです。

 

 西田敏行 半端ない存在感 2面

 (朝日新聞・大阪本社発行、2017年9月22日・夕刊、3版、1ページ)

 

 ここでは「半端ない」という言葉に変わっています。しかも、「東野圭吾原作の映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』に西田敏行さんが出演。半端ではない存在感で、複雑な群像劇の扇の要になっている。」とあります。見出しだけが「半端ない」なのです。この記事を整理した人の愛用語なのでしょうか。

 不思議なことに、「半端ではない」演技をした映画は、2つのページで別々の題名が書かれています。

 2012年の文化庁の国語世論調査で「半端ない」が調査項目になったことに関連した、次のような記事がありました。

 

 調査を担当した文化庁国語課を訪ねました。若者の話し言葉の「半端ない」が書き言葉になり始めたのは00年ごろだそうです。担当者が国立国語研究所のデータベースを検索したところ、01年出版の雑誌に現れ、08年には多くのブログで目につくようになります。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2016年1月20日・朝刊、10版、13ページ、「ことばの広場 校閲センターから」、奈良岡勉)

 

 「半端ではない」を「半端ない」と置き換えることによって、失われたものがあります。「半端」すなわち、どっちつかずではっきりしないこと。それを「ではない」と打ち消すことによって、二重否定の強調表現になっているのですが、その語気は失せてしまいます。まして、上記記事に紹介されている「ぱない」とか「パネェ」という安易な発音は、何をか言わんやです。

 私は言葉の変化は肯定的に捉えているつもりですが、「半端ない」を受け入れるつもりはありません。私にとって「半端ない」という言い方は、なんとも不完全な、半端な言い方に聞こえます。

 

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2018年5月19日 (土)

言葉の移りゆき(32)

「お」を付ける言葉

 

 過剰に接頭語「お」を付けることを嫌う意見をしばしば目にします。けれども実際には「お」の付いた言葉は満ちあふれています。

 

 お仕事ドラマって、なんでわざわざ「お」をつける? 仕事ドラマでいいじゃないか。「お」をつけるほうが言葉として据わりがいい、またはセンスがいいとでもいうのか。 …(中略)… お仕事ドラマの「お」がもっぱら女性仕様とされているところに、ものすごーい違和感があるのですが。 …(中略)

 もちろん仕事も描かれているのだが、恋愛や家族、働く女性が主人公のドラマにつきものの女3人の飲み会場面が、「はい、ここにいれておきましょう」というタイミングで挟み込まれている。このあたり、定石というよりお手軽に映り、「お」だからかとひがみそうになる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月9日・朝刊、13版、24ページ、「キュー」、島崎今日子)

 

 ある特定のドラマのことを論じているのですが、「仕事も描かれているのだが」「女性仕様」のドラマであるから「お仕事ドラマ」という触れ込みであるのだろう、と述べています。とは言え、そのような内容のものを「仕事ドラマ」と言ってもよいはずです。

 

 テレビだけではありません。新聞記事にも現れます。

 

 「以下の条件を満たす鉄道旅に出よ!」という師匠のお題に沿って、弟子が旅程を考えながら日帰りの小旅行に出るストーリー仕立てのテツ旅ガイドだ。

 (読売新聞・大阪本社発行、2018年4月23日・夕刊、3版、5ページ、「くらし本」、屋敷直子)

 『鉄トレ!』(交通新聞社刊)という本を紹介する記事です。「お題」という言葉は、本文にはここだけしか出ていませんが、記事の見出しは「お題に沿って鉄旅へG0」となっています。

 

 飲料メーカーのダイドードリンコが各地の県警と協力し、防犯を呼び掛ける「しゃべる自動販売機」の設置を進めている。方言交じりの親しみやすい言葉や、現役の警察官が吹き込んだ音声で、利用者に交通安全や特殊詐欺への注意を促す。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年4月18日・夕刊、5ページ)

 

 この記事は本文全体に「お」は使われていませんが、見出しは「防犯『お声かけ』自販機」となっています。

 「お題」とか「お声かけ」と言っておけばやわらかく聞こえて、印象がよいという判断なのでしょう。上記の記事では、相手(二人称)との関係で使っているのではなく、丁寧語(美辞)の働きだけです。このような「お」は省いていくのがよいと思いますが、新聞や放送はお客さん(読者・視聴者)を意識して、「お」を減らすことをためらっているのでしょうか。

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2018年5月18日 (金)

言葉の移りゆき(31)

簡単に「一致」するはずはない

 

 「一致」という言葉は、2つ以上のものの内容や形や数量などが、ぴったりと同じになることです。個人と個人の間でも、考えや感じ方や、能力や趣味などが「一致」することは難しいでしょう。集団同士の考えなどが「一致」することはもっと困難です。まして国家間のことになるとなおさらです。

 

 安倍晋三首相は9日午前、中国の李克強首相、韓国の文在寅大統領と東京・迎賓館で会談し、北朝鮮の完全な非核化に向けた連携で一致した。

 (神戸新聞、2018年5月9日・夕刊、4版、1ページ)

 

 新聞でもテレビでも、ニュースで「一致」という言葉を多用しています。報道機関が自主的に使い始めたのではなく、政治家が「一致」という言葉をやたらに使うから、使わざるを得なくなっているようです。

 一時代前には、この「一致」という言葉はあまり耳目に届かなかったように思います。「合意した」とか「折り合いをつけた」とか「交渉が妥結した」とかの言葉を使っていたように思います。つまり、苦労をして話し合いをした結果、やっと一定の地点にたどり着いたということです。

 ちょっと顔を合わせただけで、簡単に「一致」するはずはないのです。そんなに簡単に「一致」するから、すぐにその約束も壊れてしまうのです。

 自慢顔に「一致した」「一致した」という言葉を振り回す人間がおるから、報道機関もこの言葉を使わざるを得なくなったのでしょう。国と国との間の交渉事が、わずか数日の話し合いで「一致」に達するとは思えません。どんな政治家が乗り出しても、何から何まで「一致」するはずがありません。「一致」という言葉は、自分の手柄を振りかざしたい人が多用している言葉であるように思います。記者会見で、「一致した」と自慢顔で言っても、報道機関は別の言葉で表現してもよいのではないでしょうか。

 

 対北朝鮮では「一致している」。ネクタイのストライブ柄まで一致は偶然か。日米首脳の蜜月アピール。

 「明日はゴルフも」と歓待の2日間。シンゾーとドナルドの思惑も一致? 通商協議ではすれ違いも。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年4月18日・夕刊、3版、1ページ、「近時片々」)

 

 そうです、「一致」という発言にはカギカッコを付ければよいのです。政治家がそのように発言しても、現実がそうでないと思われるのならば、いわゆる「一致」。政治家の言う「一致」。カギカッコを付けるのが正しい表現ではないでしょうか。

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2018年5月17日 (木)

言葉の移りゆき(30)

会社などを「さん」付けで呼ぶ

 

 折り込みチラシや、街角の看板などで、店の場所を地図で表したものに出会うことがあります。ご丁寧に、周辺の店の名前にいちいち「吉野家さん」「ローソンさん」…と書いているのがあります。中には「郵便局さん」などとも書いてあります。さすがに駅や学校には「さん」がついていません。周囲のものに敬意を示しておこうという意図はわからないではありませんが、過剰な「さん」付けにはうんざりします。

 次のような文章を読んだことがありますが、私はこの考えに賛成です。

 

 最近身ぶるいするほど嫌なものに「NHKさん」「ナショナルさん」「朝日サン」「読売サン」などと企業にさんづけをする言い方である。「アメリカさん」「ソビエトさん」と言うならば「タンザニヤさん」とも言ってくれなければ困る。ふるさとにまで「ふるさとさん」とつく。

 これらは慇懃無礼を通りこして、ぶざまである。民族、企業、物の名は、尊称、美称をつけず、そのものズバリの方が、はるかに美しいのだということを、日常の瞬時、瞬時に発した相手に伝えたいときには、どうしたらいいのだろう?

 (茨木のり子『言の葉さやげ』、19751120日初版発行、花神社、新装版34ページ)

 

 例外と言ってよいのかどうかわかりませんが、次のような文章に出会いました。

 

 「今、コープさんで〇〇が安いで」「ほんま? ほなコープさん行ってくるわ」-。生活協同組合コープこうべ。言わずと知れた、東灘区に本拠を置く生活協同組合だが、年配を中心に神戸の人は「コープさん」「生協さん」と敬称で呼ぶ。流通最大手イオンも、神戸発祥のダイエーも「さん」付けにはしないのに。なぜか、コープこうべだけが「コープさん」なのだ。

 (神戸新聞、2018年1月1日・朝刊、神戸版、29ページ、「続・神戸遺産 1」、勝浦美香)

 

 これは、コープの従業員に「さん」を付けているのではなく、コープそのものに「さん」を付けているのです。ただし、わが家もコープこうべの組合員ですが、「さん」付けの習慣はついていません。

 消費者との距離の近さとか、家庭に商品を届けるシステムがあるという理由も考えられますが、同様の生協などは他にもあるのに「さん」付けはコープこうべ特有の現象のようです。

 記事には、「生協の父」として知られる社会運動家・賀川豊彦の指導で神戸購買組合、灘購買組合が誕生したことに触れて、賀川さんへの信頼がこもっているのではという説を紹介しています。

 また、大阪人が飴を「あめちゃん」と呼ぶ現象とは少し違って、神社を「天神さん」「生田さん」と呼ぶ感覚に近く、親しみと敬意を込めたのではないかという考えも紹介しています。

 相手を無難に持ち上げておこうとする「NHKさん」「アメリカさん」は見たくも聞きたくもありませんが、「コープさん」には嫌味がありません。カタカナ語ですが、思いは古くからのものにつながっている言葉のようです。

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2018年5月16日 (水)

言葉の移りゆき(29)

コラムの専用語「小欄」

 

 自分や、自分に関わりのあるものをへりくだって表現することは広く行われています。名詞でいうと、小生だとか拙宅とかの言葉があります。

 

 きのうの小欄で、公民権運動の指導者キング牧師に触れた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月20日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 新聞ではときどき、「小欄」を目にします。どのような記事にでも現れるのではなく、その新聞を代表するようなコラムに現れることがあります。

 上記の引用は、ごく普通の使い方ですが、次のような例に出会うと、文字(記事)がむくむく動き出したような、不思議な気持ちになります。

 

 はて、月に水があったのか、と首をかしげる小欄は、よほどの科学オンチである。北極と南極の表面に存在することは、人工衛星による観測ですでに知られていたようだ。

 (産経新聞・ホームページ、2018年5月4日、「産経抄」)

 

 コラムの執筆者自身を「小欄」と言っているのです。同様の言い方は読売新聞のコラムでも見たような記憶があります。

 欄の執筆者 イコール 「欄」であり、執筆者がへりくだることが「小欄」という言葉になるのでしょう。けれども、これに類する言葉はあるのでしょうか。これが成り立つなら、「拙宅はスーパーへ買い物に出かけた。」と言うのも許されることになるでしょう。

 思うに、コラムだけが、他の記事と区別して「小欄」という言葉を使うのはなぜなのでしょうか。「きのうのこの欄で…」とか「きのうの文章で…」と言えばよく、「首をかしげる筆者は、」と言えばよいでしょう。その新聞を代表するコラムだけが、やたら胸を反らしていて、えらそうに聞こえてしまいます。謙譲表現とは逆の働きをしているのです。

 

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2018年5月15日 (火)

言葉の移りゆき(28)

技術者の「凄腕」、記者の「凄腕」

 

 マスコミは数字が好きです。まるで数値の多寡が人間の価値を決めるかのように、数字にこだわった記事や番組を多く見かけます。驚くような数字を提示して読者や視聴者を仰天させたいという魂胆も透けて見えます。

 

 開発したコーンの生産数 年間約2200万個  日世 コーン生産部技術開発課 大和田勉さん(54)

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月7日・夕刊、3版、2ページ、「凄腕つとめにん」、千葉卓朗)

 

 上記の引用は、見出しに当たる部分です。数字はゴチック体で大きく書かれ、この数字が「凄腕」の証であるかのように書かれています。しかも、この数値は、紹介された個人の手腕であるかのような印象を与えるように仕組まれています。本文には「コーンの開発一筋で、これまで200種類以上に関わってきた。開発した主なコーンの年間生産数は約2200万個にのぼる。」と書いてあります。〈コーンの型を200種類以上開発〉と書くと迫力が失せてしまうのでしょう。実際の生産に携わるのは別の現場の人ですが、紹介する人の「凄腕」を強調するためには、この人に2200万個という数字を被せしまうのです。2200万個というのは、昼夜休まず働くとして、1.4秒に1個の割合で作るということなのです。現実の問題を除外して、特定の人の手腕として、大きな数字を付与する意図を持った記事ですが、この連載は長く続いています。

 さて、同じシリーズの別の記事を、上記と同様に、見出しに当たる部分だけ引用します。

 

 栽培に関わるジャガイモ ポテチ年4万5千袋分  カルビーポテト フィールドマン 桑原萌さん(32)

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月16日・夕刊、3版、2ページ、「凄腕つとめにん」、筒井竜平)

 

 本文には、「農家にポテトチップスに使うジャガイモづくりを指導する。肩書は『フィールドマン』。65人を担当し、年間1万トンの栽培に関わる。ポテチに換算すると約4万5千袋分だ。」とあり、実際に栽培するのは別の人です。〈65人の農家に指導〉と書くと迫力が失せてしまうのでしょう。

 それにしても、一読してすぐにおかしいと思いました。ジャガイモ1万トンでポテトチップ4万5千袋。ということは、10トンで45袋。ポテトチップにそれほどのジャガイモは要らないだろう…。研究開発のために、大量のジャガイモを使ったとは書いてありませんでした。

 果たせるかな、翌日の訂正記事です。

 

 16日付「凄腕つとめにん」の見出しと本文で、栽培に関わるジャガイモをポテトチップに換算した場合、「4万5千袋分」とあるのは「4500万袋分」の誤りでした。確認が不十分でした。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月17日・夕刊、3版、8ページ)

 

 「4500万袋分」という大きな数字になったことを喜ばなくてはならないのでしょうが、「確認が不十分でした。」という言葉が何ともなさけなく聞こえます。

 それにしても、この記事を書いた記者こそ「凄腕」です。同僚記者が読んでも気づくことなく、記事を整理して紙面を作った人も気づくことなく、校正担当者も気づくことなく、それらをすり抜けて、堂々と紙面を飾った手腕はなかなかのものだと言わなければならないでしょう。

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2018年5月14日 (月)

言葉の移りゆき(27)

「打ち言葉」は単語レベルか、文体レベルか

 

 空間を飛び交う言葉の世界、狭めて言うと携帯メールのやりとりなどを、「打ち言葉」と言うことがあるのを知って、面白いなぁと思ったのは1年半ほど前のことでした。

 

 インターネット世帯別普及率が八割を超えたころに文化庁が実施した平成一三(二〇〇一)年度「国語に関する世論調査」における、日常的な人との「話しことば」以外のコミュニケーション手段について尋ねた結果を見ても、すでに世代差は明瞭です。調査当時の四〇歳台を境に若い世代は「携帯メール」、すなわち「打ちことば」が第一選択肢となっていますが、四〇歳台以上では「手紙・はがき」と「書きことば」が第一選択肢となっています。

 「打ちことば」は、基本的に互いの顔が見えない状態で行われる非対面かつコミュニケーションにタイムラグを伴う非同期的なものです。キーボード等を介するとはいえ「文字」によるコミュニケーションである点は、「書きことば」的です。

 (田中ゆかり『方言萌え!? ヴァーチャル方言を読み解く』、20161220日発行、岩波書店〔岩波ジュニア新書845〕、6768ページ)

 

 筆者は、この文章の後で、話すように打ちたいという欲求から工夫した、()()のようなカッコ文字や、顔文字や、絵文字などが「打ち言葉」の特徴の一つだと述べています。言葉自体がやわらかく、くだけた言葉が用いられ、極端に短い文になっていきます。そんな中で方言が、情的な価値を伴う特別な働きをするようになったとも述べています。

 ただし、〈「打ちことば」は、基本的に互いの顔が見えない状態で行われる非対面かつコミュニケーションにタイムラグを伴う非同期的なもの〉という指摘には、ちょっと首をかしげます。手紙であろうと、きちんとした文章で書かれるEメールであろうと基本的には同様であるからです。

 さて、「打ち言葉」という言い方を、それ以降、私は目にすることがありませんでした。久しぶりに、次のような記事に出会いました。

 

 インターネットやIT機器の広がりにあわせて、文字は手で書くものであると同時に、「打つ」ものともなりました。 …(中略)

 文化庁は3月、「分かり合うための言語コミュニケーション」という報告を出しました。その中で「おk」などを「『打ち言葉』の特性に由来する独特な表記」と位置づけています。

 「打ち言葉」は「書き言葉」の一種ですが、携帯メールやSNSでやりとりする際に用いられる「くだけた話し言葉的文体」のことを指します。

 東洋大学の三宅和子教授(社会言語学)は、こうした文体を「超言文一致体」と名づけました。その文体に用いられる独特の表記には、正しいとされる規範からあえて逸脱しようとする性格が見られるといいます。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月2日・朝刊、10版、13ページ、「ことばの広場 校閲センターから」、田島恵介)

 

 この新聞記事には「『おk』『草』…個性表現の形?」という見出しが付いていますが、こういうものを「個性」と言うのかどうか疑問です。文字を打つ際にはいろいろな試行錯誤をしているようですが、言葉をどう書くかという表記上の工夫だけです。個性を表現しようというような意図はなく、仲間とつながりたいという欲求を文字や記号に託しているだけだろうと思います。

 また、「打ち言葉」と言うのはともかくも、「超言文一致体」という名付けには疑問があります。「超」というのは、それの最も進んだものという意味と、それを逸れてしまっているものという意味とがあります。「くだけた話し言葉的文体」は、言文一致が最大限に進歩したものでもないでしょうし、言文一致でなくなってしまっているものでもないでしょう。そもそも、ここで言う「打ち言葉」は、文体を左右するほどのものでしょうか。単語のレベルから大きく離れていないように思うのです。

 いずれにせよ、今後、「打ち言葉」というものが、どのような意味で使われるようになるのか、興味を持って見守りたいと思います。

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2018年5月13日 (日)

言葉の移りゆき(26)

「?」の働き

 

 私は日本語の文章の中に「?」や「!」などの符号・記号を使うことを好まないのですが、今では使うのが当たり前であるかのような状況にあります。

 ところで「?」は、クエスチョン・マークとか疑問符とか言われているように、疑問を表す符号であると考えられています。

 

 次の文章は、映画「モリのいる場所」に主演した俳優・山崎努さんにインタビューをした記事の冒頭です。

 

 「実在の人物で、しかも自分の好きな人でしょう? 演じるのは難しかったですよ」

 その言葉の裏には、緻密な役の設計がある。

 無駄をそぎ落とした絵と清貧の暮らしぶりで「仙人」と呼ばれた画家・熊谷守一(1880~1977)を演じた。十数年前から熊谷の絵と人柄にほれ、映画「キツツキと雨」で組んだ沖田修一監督にも勧めた。5年ほどして、自身を熊谷役に当て書きした沖田監督の脚本が届いた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月11日・夕刊、3版、2ページ、小原篤)

 

 「実在の人物で、しかも自分の好きな人でしょう?」というのは、疑問を投げかけて相手に答えを求めているのでしょうか。そうではないと思います。

 (熊谷さんは)自分の好きな人なんですよ、(あなたは)わかってくれますよね、とインタビューをしている人に同意を求めている言葉だと思います。どうしてこの位置に「?」が施されているのか、不自然ではありませんが、「自分の好きな人でしょうか」という疑問でないことは確かです。

 例えば、若い人がメールなどで、「私って引っ込み思案です?」と書いて、あなたもそう思いますよねと気持ちを伝えようとしているとすれば、それは疑問を投げかけているではなく、同意を求めていることになるでしょう。記事の文章はちょうど、そのような気持ちを表現しているように思うのです。

 つまり「?」に新しい使い方が始まっていると思うのですが、国語辞典はどのように対応しているのでしょうか。

 「?」という見出しはありませんので、「クエスチョン・マーク」の見出しで引いてみます。

 

 広辞苑・4版……疑問符。「?」

 明鏡国語辞典・初版……疑問を表す符号。疑問符。インタロゲーションマーク。はてな。記号「?」

 現代国語例解辞典・2版……疑問を表す符号「?」。通常、疑問文の後に付ける。疑問符。

 岩波国語辞典・3版……疑問符。「?」

 新明解国語辞典・4版……疑問符。「?」

 三省堂国語辞典・3版……疑問符。クエッションマーク。「?」

 

 「?」は疑問を表す符号だということで共通しています。逆に「疑問符」という見出しで引いても、新しいことは何も書いてありません。

 符号の説明ですから仕方がないのかもしれませんが、まだ「同意・同感を求める」働きはどこにも書いてありません。

 上記の記事だけではありません。宣伝のためのフレーズなどにも、同意・同感を求める用法は現れているように思いますから、国語辞典もそろそろ重い腰を上げてはどうでしょうか。

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2018年5月12日 (土)

言葉の移りゆき(25)

堂々と「潜入」する無神経さ

 

 他人の領分にほんのわずか「侵入」しても罪になります。「潜入」などという行為に及べば大犯罪です。その潜入を日常的に繰り返している集団があります。しかも、その行為を公開し、その実態を大多数の人に見せようと画策しているのですから、始末に負えません。

 「潜入」を『広辞苑・4版』で見ると、4つの意味が書いてあります。けれども、「②水中にもぐり入ること。」は特別な場面であり、「③〔天文〕(省略)」と「④〔動物〕()」とは学術語・専門語としての使い方です。日常語としての「潜入」は、「①こっそり入り込むこと。」であり、「敵地に-する」という用例が載っています。

 「潜入」は、見つけられないように、密かに、忍び入ることです。しかも、自分が何者であるのかという立場などを隠して行うことが多いと思います。普通の感覚の持ち主ならば、行うことをはばかる行為です。当然のことですが、入り込む相手先の了解を取り付けるはずはありません。

 自分が誰だということを明かして、相手の了解を取り付けてから「潜入」するような愚か者はいません。その「潜入」を日常的に繰り返しているのは、テレビのクルーです。例えば、NHKテレビの、ある日の午後7時30分からの番組と午後11時からの番組は、次のように紹介されています。

 

 プラタモリ 京都へ宇治名茶誕生の秘密?創業800年茶店潜入国宝平等院と茶の謎タモリ抹茶づくり挑戦

 SONGS ドリカム前代未聞のライブSP万博・太陽の塔から名曲&ヒット曲を熱唱48年ぶり!内部潜入

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月5日・朝刊、13版、28ページ)

 

 これは、一例に過ぎません。それぞれの民放も同様です。「潜入」という言葉を番組表で見ない日は無いと言ってもよいでしょう。番組表だけではありません。テレビの画面ではもっと頻度が高いでしょう。

 相手方の了解を得た後、大勢で入り込むことが「潜入」に当たるはずがありません。商品を誇大に宣伝すれば、排除命令を受けたり処分をされることがあります。テレビ番組の誇大宣伝はまったくの野放しと言ってもおかしくはないでしょう。報道の自由などと言う前に、自己に厳しい姿勢を持たなくてはなりません。大げさな表現で、徐々に日本語を壊していっているのがテレビであるということを自覚しなければなりません。単に「取材に訪れた」だけなのに「潜入した」と言うのは、普通の人間の感覚ではありません。

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2018年5月11日 (金)

言葉の移りゆき(24)

「瞬き」の時間

 

 「瞬」という文字は、またたく、まばたく、まばたきをする、という意味を表します。けれども、熟語としては「一瞬」「瞬間」「瞬時」「瞬発力」のように使われて、極めて短い時間を表す使い方が多いように思われます。まばたくという意味の熟語はあるのでしょうか。眼科か何かの専門用語にはありそうな気がしますが…。

 ところで、「一瞬」というのは、一度まばたきをするほどの極めてわずかの時間のことですが、それはどれぐらいの長さなのでしょうか。一秒にも満たない時間であるとは思いますが、どれぐらいの長さであるかと改めて尋ねられると困ります。

 「一瞬の誤読」という見出しのついた文章(新聞記事)があって、次のようなことが書いてありました。

 

 10年ほど前のことだが、新幹線の車窓から外を見ていると、名古屋駅のそばでしばしば「クラヤ三星堂」という横書きの立て看板が目に入った。

 そのたびに、私はこれを「クラヤミ」と読んでしまうのが常だった。「三」という文字の書体がカタカナの「ミ」と紛らわしいだけでなく、同時に視界に入る「星」の文字が、夜を連想させるためらしい。

 (神戸新聞、2018年3月24日・夕刊、3ページ、「カマキラズの斧」、貴志祐介)

 

 見出しには「一瞬」という言葉が使われていますが、本文にはありません。それはさて置いての話です。

 人間の頭は、それこそ瞬時に文字を読み、連想を働かせているのですが、それは一秒にも満たない時間内でのことでしょう。頭の中の瞬間的な働きのスピードは相当なものですが、「瞬間」を物理的な長さで説明するのは難しいと思います。

 ところが、それに関する記事に出会いました。

 

 「一瞬いいですか」と言って、長々と話をする彼。一瞬って何だ? そもそも一瞬って時間は存在するのか。 …(中略)

 ドイツの生物学者ユクスキュルは「生物から見た世界」のなかで、「人間にとって一瞬の長さは18分の1秒」だと言った。映画も1秒に18コマでつくられている、と。「いまは機器の性能もあがったので、自然な動きを見せるには、映画は1秒に24コマ、テレビは約30コマが標準」と、映像制作会社てびも社長でディレクターの堀江將一郎さん。技術の進歩とともに、一瞬の時間は短くなっている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月11日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 「一瞬」は科学技術の進歩とともに短くなっているとはいえ、人間が実感する「一瞬」の長さはどれぐらいなのかを計測することは不可能でしょう。

 一秒間を何コマにも分けて撮影し、それを超スローに再現する映像に慣れてしまっている現代人には、心を張りつめるようにして「一瞬」に対峙する心の動きは失せてしまっているのかもしれません。

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2018年5月10日 (木)

言葉の移りゆき(23)

「本土」と「本州」

 

 淡路島の洲本に務めていた頃、「本土」という言葉をしばしば耳にしたことがあります。「息子は本土の会社に勤めとる。」とか「奥さんは本土の人や。」などと言っていました。明石海峡大橋で結ばれていて地続き同然ですが、島という意識は強く残っているようです。同じ兵庫県にありながら、海を隔てているという意識があるのだなぁと思いました。「息子は神戸の会社に勤めとる。」とか「奥さんは明石の人や。」と言うこともできるのに、淡路島内であるか島外であるかという区別の意識が、このような言葉を残しているのかもしれないと思いました。

 

 この度の、刑務所作業場から逃走した容疑者が逮捕されたというニュースで、同じようなことに出会いました。

 

 潜伏先の広島県尾道市の向島から4月24日夜、本州側に泳いで渡った後、民家に数日間潜んでいたと供述していることが捜査関係者への取材で分かった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月2日・朝刊、13版、1ページ)

 

 今度は「本州」です。向島は尾道大橋で結ばれていて、尾道市に属しています。地続き同然です。狭い尾道水道に隔てられているだけですが、向島は本州に属していないということになります。朝日新聞だけでなく他の報道機関も「本州側」という表現を使っていますが、同じ尾道市にありながら、言葉の上では隔絶されている印象が残ります。

 わざわざ「本州側に泳いで渡った」と言わなくても、「尾道水道を泳いで渡った」と言えばよいと思います。報道機関はどのような意識で「本土側」という言葉を使い、右にならえということになったのでしょうか。

 前述の「本土」が地元の人の使う言葉であるのに比べて、「本州側」は地元以外の人が使う言葉であるのが気になります。

 例えば日本海側の、飛島(山形県酒田市)や舳倉島(石川県輪島市)のように大きく離れた島ならば「本土側」と言われても納得するでしょうが、泳いで渡れるほどの島を〈本土ではない〉とするのは、言葉の感覚からずれているのではないでしょうか。

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2018年5月 9日 (水)

言葉の移りゆき(22)

「あけおめ」語の宝庫はNHK

 

 LINEなどSNSで使われることばはどんどん省略されている、ということを述べた文章の中に、次のようなことが書いてありました。

 

 コミュニケーションが専門の事業構想大学院大学の田中里沙学長は「『あけおめ ことよろ』(あけましておめでとう。今年もよろしく)がはやったように、ことばを省略することで新しい価値や親しみを作り出しているのではないか」と指摘する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月2日・夕刊、3版、7ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 NHKはかつて、日本語の正しさや美しさを守る働きをしてきたと思います。そのNHKが、今では日本語を壊す役割も担っているように思われます。

 NHK総合テレビには、4音で番組名とする「あけおめ」語が並んでいます。それは記事にあるように「新しい価値や親しみ」を考えてのことなのでしょうか。放送は個人的なコミュニケーションではありません。公共の役割を果たしているのを忘れかけているのかもしれません。

 「あさイチ」から始まって「ごごナマ」、そして「シブ5時」と続きます。「サラメシ」や「うたコン」「Nスペ」「デジなび」「オシばん」という番組もあります。かつての教育テレビは「Eテレ」という名になっていますが、そこにも「バリバラ」などという番組名があります。

 「サラメシ」は、サラリーマンのメシ(やや下品な言葉)ということでしょう。「うたコン」は歌のコンサート、「Nスペ」はNHKスペシャルの略でしょう。「デジなび」も見当はつきますが、なぜ「なび」はひらがななのでしょうか。「オシばん」と「バリバラ」はよくわかりません。「Nスペ」のように、かつてはフルネームで称していたものを短縮したのがありますが、たった数音を短くする理由はあるのでしょうか。

 圧巻は「シブ5時」です。はじめは「シブ」の意味がわかりませんでした。それが渋谷を指していると知って、むしろ腹立たしさを感じました。これは「渋()5時」とは絶対に書けません。カタカナでカムフラージュしているのです。それにしても、公共放送のニュース番組名が「シブ5時」とは何という思い上がりでしょう。東京が(というより、渋谷が)日本の中心であるかのような名称を付けて、全国に流しているのです。東京以外の地域の人の感情などは無視していることが端的に現れています。

 他の4音番組名も、知っている人にはわかるだろう(知らない人は、普段から番組を見ていないからだ)という思い上がりのように思えます。これらの名称から「新しい価値や親しみ」を感じ取ることは無理でしょう。民放がどうであれ、NHKはきちんした日本語を使う習慣を身に付けてほしいと思います。

 これは番組名から拾い上げたのですが、例えば朝の番組「おはよう日本」などではコーナーの名称にも「あけおめ」語が使われています。甘ったれた子供のような言葉を、爽やかな朝の時間に聞きたいとは思いません。

 しっかりした内容の番組であるのに、番組名やコーナー名のせいで、軽薄で浮き上がってしまっている内容のように思われるのは得策ではありません。番組名は表札です。しっかりした表札を掲げて、信頼感のある番組にしてほしいと思います。

 ラジオ第1放送を番組表で眺めると、「旅ラジ」「Nらじ」「ごごラジ!」という番組があります。聴覚に訴える番組は、省略をやめて、きちんとした言葉で行ってほしいと思います。「ラジ」と「らじ」と「ラジ!」は、なぜカタカナとひらがなに書き分けるのでしょうか。ラジオ番組名であるのに感嘆符が付いているのはなぜでしょうか。一度、この3つを発音し分けて聞かせてほしいと思います。

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2018年5月 8日 (火)

言葉の移りゆき(21)

「人害」という言葉が無い

 

 スキー場のゲレンデでスイセン約30万株が満開となっているというニュースに、こんな表現がありました。

 

 今年は鹿の食害もなく順調に育ち、暖かい日が続いたため例年より10日ほど早く開花した。見ごろは5月前半まで。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年5月1日・夕刊、3版、1ページ、木葉健二)

 

 この文章を書いた人をとがめるつもりは、まったくありません。私もあなたも、誰も彼もみんな同じです。「食害」という言葉が気になるのです。

 人間が生きていくということは、周りのものに「害」を与え続けていることに他なりません。人間が作り出して他の人間に迷惑をかけるものは、「公害」というような言葉でカムフラージュしてしまいます。動物が人間に対して不利益を与えれば「獣害」だの「食害」だのと言います。鹿にとっては生命維持のための営みであっても、それを「害」と言うのです。水産資源が枯渇するのは人間のなせる技であって、動物()にとっては大変な「害」であっても、それを、人が動物に及ぼす「害」とは言いません。人間は勝手な存在です。

 「環境汚染」という言葉はきれいすぎるのではありませんか。人間は周囲に大変な「害」を与えているのです。「環境に対して優しくする」というのも思い上がりです。人間が作り出している「害」を除去しなければならないという意識が必要です。

 いつの日か、国語辞典に、動植物や環境に対する「人害」という言葉が記載されるときは来るのでしょうか。言葉が無いということは、そのような意識を持ち合わせていないということなのです。

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2018年5月 7日 (月)

言葉の移りゆき(20)

「しれっと」の意味と用法

 

 「しれっと」という擬態語は、私にとって、守備範囲(文脈に応じて使いこなせる力)がありません。歓迎すべき内容を言っているのではなかろうという印象は持ちますが、細かな意味・用法はわかりません。

 

 あの「2年程度」は何だった。日銀が6度も先送りした「物価上昇率2%」の達成時期を、しれっと削除した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月1日・夕刊、3版、1ページ、「素粒子」)

 

 私が勝手に、この言葉から得られる語感を述べると、〈周りに内緒にしておいて、そしらぬ顔をしている〉、〈周囲の人の思いなどを無視して、冷淡に動いている〉というようなことです。

 試みに『広辞苑・4版』を開いてみると、「他からの働きかけにも動ぜず平然としているさま。何事もなかったかの如く振舞うさま。」とだけ書かれていて、用例がありません。

 かえって、小型の国語辞典の方に用例が出ています。

 『明鏡国語辞典・初版』は、意味を「何事もなかったように平然としているさま。」として、「不始末をしでかしながら-している」という用例を載せています。歓迎すべきでないことのようです。

 『新明解国語辞典・4版』は、「何か有ったあと、その事に気を取られたりしないで、ふだんの態度を失わないことを表す。」として、「どんなに大酒を飲んでも-している」という用例です。この意味・用例は、むしろ称賛すべきことのようにも見えます。

 『三省堂国語辞典・3版』には興味を引かれます。〔もと海軍の俗語〕と書いてあって、「平気なようす。なんとも思わないようす。」として、「どんなに大酒を飲んでも-している」という用例では、『新明解』と一致しています。

 一方、『岩波国語辞典・3版』、『現代国語例解辞典・2版』には見出し語がありません。「しれっと」は新しい言葉で、これから広がっていく言葉なのでしょうか。

 

 〔もと海軍の俗語〕という注記に触発されて、『日本方言大辞典』を見てみます。「しれっと」は「しろりと」を見るようにと、矢印が施されています。そこで、「しろりと」を見ると、(その言葉が使われている地域名は省略しますが、)次のような意味が列記されています。

 ①平然として知らん顔しているさま。

 ②にやりと笑うさま。

 ③人の様子をうかがうような卑屈な目つきをするさま。

 ④ぶしつけに見守るさま。じろじろ。

 ⑤人の気配がしなくなって寂しいさま。

 ⑥全く。

 ⑦いっそ。

 ⑧始終。しょっちゅう。いつも。

 それぞれの意味で使う地域は異なっているのですが、国語辞典(共通語)の「しれっと」は上記の①の意味に重点が置かれています。日銀は〈これまでの約束などには目もくれず、平然と、①〉削除に及んだのでしょう。

 それだけではなく、日銀は〈内心は不敵な笑みを浮かべて、②〉、〈わずかに国民の様子をうかがいながら、③〉、〈あまりにもぶしつけに、④〉に、達成時期を削除したのかもしれません。そんなことをしていると、〈国民の気配がなくなって、日銀が孤立してしまう、⑤〉ことにならないとも限りません。

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2018年5月 6日 (日)

言葉の移りゆき(19)

「鍬焼き」は古い言葉か

 

 鍋料理の「鋤焼き(すきやき)」を知らない人はいませんが、似たような言葉に「鍬焼き(くわやき)」があります。国語辞典は新しい言葉を収集して載せることには熱心ですが、ちょっと古くなりかけていて、それでも消えてしまっていない言葉には冷淡な姿勢が見られます。「鍬焼き」もそのひとつです。

 

 「たこ坊」は昭和26(1951)年創業の「串くわ焼き」の店だ。

 「くわ焼き」とは、農具の「鍬」を使って鳥獣や肉を焼いて食べたことが起源という。すき焼きも「鋤」であり、同類の語源だと指摘されている。が、この店をはじめ大阪で「くわ焼き」を掲げる店の多くは、鉄板で焼いた串焼きであり、感覚的には串カツや焼き鳥と同様の、肩肘張らずに気軽に食べられる「串もの」である。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年4月24日・夕刊、7ページ、江弘毅)

 

 小型の国語辞典を開いても「くわ焼き」は載っていません。かろうじて『広辞苑・4版』には、「鍬焼」のことを「たれで下味をした肉・野菜などを鉄板で焼いた料理。昔、野良仕事の合間、野鳥をつかまえ鍬で焼いたことによるという。」と説明しています。「鉄板で焼いた」という説明は、現在の店での提供の仕方をそのまま表現しているようです。「くわ焼き」は現代語としての市民権を得ているように思うのですが、主として関西地方で使われる言葉であるから国語辞典に載らないのでしょうか。

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2018年5月 5日 (土)

言葉の移りゆき(18)

「詠み人知らず」と「詠み人多数」

 

 古事記や日本書記に載っている歌は、歌謡と言われ、万葉集に収められている歌は、長歌・短歌・旋頭歌など、いわゆる和歌として分類されています。

 歌謡は、一般的に言うと作者が特定されず、いわば民謡のような作品であると言われます。和歌は、特定の作者が作った作品です。

 もちろん、万葉集に限らず、古今集や新古今集などにも、作者不詳の「詠み人知らず」の歌がたくさんあります。

 歌謡が多くの人に共通する思いを詠んでいるのに対して、長歌・短歌などは作者の個性が表れた作品です。

 けれども、短詩形の文学ですから、同じ形の作品が現れても不思議ではないでしょう。「八月や」で始まる、例えば「八月や六日九日十五日」という俳句があります。上五が「八月に」「八月の」「八月は」などとなっているのもあるそうですが、「八月や」が大半だと言います。八月六日は広島原爆忌、九日は長崎原爆忌、十五日は敗戦の日です。日付を並べただけのように見えますが、句を詠んでいる人にとっては忘れがたい日であるのです。この句について述べた文章があります。

 

 八月や六日九日十五日  詠み人多数

 この句は日本の過ちを記憶し、非戦平和を希求する人々の心に刻まれ、伝えられてきた。その過程に教育者がおり、宗教指導者がおり、心ある市民がいた。今後も歴史を証言する「日本人の口の端に上る句」として、次の世代に伝えられることを願ってやまない。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年3月26日・朝刊、13版、13ページ、小林良作)

 

 「詠み人多数」という表現は初めて見ましたが、それは、多くの人に共通する思いであるということでもあります。歌謡に近い性格をそなえているのでしょう。類似作だと非難するよりも「詠み人多数」として、それぞれの作者を尊重する姿勢に同感です。

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2018年5月 4日 (金)

言葉の移りゆき(17)

書き写すのにふさわしい文章を読みたい

 

 NIEの活動では、新聞を教材にすることを奨めています。そのことには反対ではありません。朝日新聞は書き写し用の専用ノートまで作って、コラムの文章を推奨しています。けれども、それにふさわしい文章が書かれているのかどうかは疑問です。

 

 野球を愛する米国作家ロジャー・エンジェル氏はこう書く。その面白さと深さ、未来に「誰もが、戸惑いながら学びつづけるほかない」。今季ソフトバンクに加わった金星根さん(75)も新しい挑戦を始めた

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月30日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 コラムの冒頭の一節ですが、一読して苦い味を感じる文章です。「こう」書くというのは、次の文を指すのでしょう。「その」面白さと深さというのは、野球の、と言うことでしょう。けれども、冒頭の文から指示語が連続するのを読むと、落ち着いた気持ちになれません。

 問題は、〈その面白さと深さ、未来に「誰もが、戸惑いながら学びつづけるほかない」。〉という表現です。〈その面白さと深さ、未来に〉を地の文にして、〈「誰もが、戸惑いながら学びつづけるほかない」〉という引用文にするのはなぜなのでしょう。まとまった引用文を書かないのはなぜなのでしょうか。うがって考えれば、筆者の都合の良いところだけを短く引用したのかもしれないと思うのです。ロジャー・エンジェル氏の著書名が書かれていませんから、引用部分が野球だけについて述べられたものであるのかどうかは確かめようがありません。ちょっと不親切です。

 3つめの文で金さんが登場するのは唐突です。〈金星根さん(75)も新しい挑戦を始めた〉という表現の、「も」は何なのでしょう。何と何とが同類の内容を表しているのでしょうか。〈戸惑いながら学びつづける〉のと〈挑戦を始め〉ることとが同じだと言うのでしょうか。厳密さに欠ける表現であるように思います。

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2018年5月 3日 (木)

言葉の移りゆき(16)

自分がする評価と、他人からの評価

 

 「キラキラ」の次は「サバサバ」です。「サバサバ女」などという言葉が生まれているとは知りませんでした。

 

 世にあまたのオノマトペ(擬態語)あれど、「サバサバ」ほどいわく付きの言葉もそうないと思います。

 試しに「サバサバ」をインターネットで検索すると、なかなか意地悪な結果が出てきます。「サバサバ女はモテる!」と持ち上げたかと思えば、「本当は恐ろしい自称・サバサバ女」と落とし、同性からも「正直、イラッとする」と評される。

 どうやら、他称は愛されるが自称は疎まれるようで、「私ってサバサバしてるからさー」と言う女性ほど、他人からは本当は粘着質だと思われているようです。

 (読売新聞・大阪本社発行、2018年4月3日・夕刊、4ページ、「小町拝見」、ジェーン・スー)

 

 「さばさば」は、小さなことにこだわらずさっぱりしている様子、嫌なことや気がかりなことがなくなって気持ちが爽やかになる様子、を表す言葉です。国語辞典には「試験が終わってさばさばした。」のような例も挙げられています。つまり、「さばさば」はプラスの評価を表す言葉です。新聞記事に「他称は愛されるが自称は疎まれる」とあるのは当然です。「サバサバ」は、いわく付きの言葉というほどの、特別な言葉というわけでもないでしょう。

 自分で自分をプラス評価をする人が警戒されるということであって、それは「サバサバした性格の人」であっても、「キラキラと目立つ人」であっても、自分で口にする言葉ではないということでしょう。もっとも、自称「サバサバ」な人は、他人からの評価などは気にしない、心の強い人なのかもしれません。

 世事に通じていて物わかりの良い人のことを「さばけた人」と言うことがありますが、その言葉も、他人からの評価を表すものであって、「私はさばけた人だ。」などと言うことはありません。

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2018年5月 2日 (水)

言葉の移りゆき(15)

難読文字は、「キラキラ」輝いてはいない

 

 子どもの名付けを話題にした記事のリード文に、次のような表現がありました。

 

 子どもの名前をどうやって決めましたか? 漢字の読み方が分かりにくいキラキラネームは、何かと話題になります。34歳の記者(毛利光輝)も漢字がキラキラしている上、「戦国武将の子孫ですか?」と幾度となく聞かれ、そのたびに「違います」と説明するのが疲れます。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201711月4日・朝刊、10版、20ページ、毛利光輝)

 

 記事の文章は長いのですが、キラキラという言葉は出てきません。けれども、見出しは〔子の名付け 「胱」はキラキラ?〕となっていて、キラキラという言葉が強調されています。

 記事によると、キラキラは「漢字の読み方が分かりにくい」ことのようです。毛利光輝という漢字もキラキラしているというのですから、輝かしい文字遣いという意味もあるのかもしれません。けれども、こういう使い方は、国語辞典には出てきません。

 ホームページで検索してみると、漢字の音読みや訓読みではわからない読み方や、イメージで名付けられた名前のことのようです。一般常識から著しく外れていると思われる珍名です。

 親によって付けられた名前は、子どもが変えることはなかなか難しいことです。一時的な親の思いによって、子どもに大きな迷惑がかかることは避けなければならないと思います。

 ところで、このような名付けをなぜ「キラキラ」と言うのでしょうか。「難読」というようなマイナス・イメージを、「キラキラ」というプラス・イメージで表現すること自体が、親が子にキラキラネームを名付けるのと同根であるように思えてなりません。

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2018年5月 1日 (火)

言葉の移りゆき(14)

「〇〇ハラ」の増殖

 

 財務省に関わるセクハラ、レスリング界のパワハラなど、ハラスメントに関する話題があふれています。「〇〇ハラ」という言葉はいくつあるのでしょうか。

 

 電車の女性専用車両に男性があえて乗り込み、トラブルになるケースが起きている。「男性に対する差別だ」と主張し、女性客と口論する動画もインターネットに投稿されている。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年4月24日・夕刊、3版、9ページ、川上珠実)

 

 間違って女性専用車に乗ってしまってモジモジする男性もいるでしょうが、わざと乗り込んでいくという行為が増えているという記事です。この記事は100行を超える長文で、写真も掲載されています。

 ところが、この記事の中には「差別」は使われていますが、「ハラスメント」という表現はどこにもありません。記者はそのような意識で書いているのではないようです。それにも関わらず、一番大きな見出しは、

  女性車両に「乗りハラ」

となっています。この記事を整理した人が「乗りハラ」を使ったのです。「乗りハラ」という言葉が定着するとは思いませんが、報道関係者が安易に「〇〇ハラ」を増殖させるのは困りものです。

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