« 言葉の移りゆき(66) | トップページ | 言葉の移りゆき(68) »

2018年6月27日 (水)

言葉の移りゆき(67)

坂本龍馬や吉田松陰は「用語」なのか

 

 歴史は暗記科目なのか、覚えることが多すぎないかという提起があり、議論を呼んでいます。歴史教科書に出ている概念を表す言葉やキーワードなどを精選しようという考えです。それに関して、こんな記事がありました。

 

 「高校の世界史や日本史で覚える用語が多すぎ、暗記科目になってしまっている」。こう考えた高校や大学の教員らで作る団体が、用語の絞り込みについてインターネット上などでアンケートを実施したところ、6割以上の回答者が教科書の用語削減に賛成だった。 …(中略)

 昨秋にも、教科書本文に載せる「最低限の用語」のリスト案などを公表し、「坂本龍馬」「吉田松陰」らの人名を削除したことが議論を呼んだ。 …(中略)

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月3日・朝刊、10版、17ページ、氏岡真弓)

 

 学界で使われているような専門「用語」を覚えさせたり、それを入試問題として尋ねたりすることに歯止めをかけようとしていることには賛成です。歴史の教育の目標は、歴史の流れを理解させ、考えさせることにあるはずで、それは「用語」の多寡とは必ずしも比例しないでしょう。

 政治・経済や文化・社会現象などを表す「用語」は多岐にわたります。何でもかでも覚えることが大切だというような考えには賛成できません。けれども、それらの「用語」と、地名や人名は同じものではないと思います。

 覚えさせようとしている地名や人名の数を減らそうということには反対ではありません。けれども、坂本龍馬や吉田松陰を一律に「用語」から外す・外さないという議論は何だかおかしいと思います。まるで高校教科書が大学出題リストであるかのような考えです。概念を表すような言葉と地名・人名などとを一律に「用語」という言葉で括ってしまって、それを減らそうという議論に、硬直したものを感じます。

 私たちが目にし耳にする地名や人名はどんどん拡大していきます。それは「用語」というようなものではなく、経験として広がっていくものです。試験のために地名・人名をたくさん覚えさせようとすることには賛成できませんが、覚えなくてもよいと判定するような地名・人名があるわけではありません。地名・人名は「用語」ではありません。

|

« 言葉の移りゆき(66) | トップページ | 言葉の移りゆき(68) »