« 言葉の移りゆき(68) | トップページ | 言葉の移りゆき(70) »

2018年6月29日 (金)

言葉の移りゆき(69)

言葉の定義するもの

 

 「男」「女」という言葉の語義を論じた文章を読んで、考えさせられることがありました。その文章の中に、こんなことが書かれていました。

 

 広辞苑の編集者・平木靖成さんは「辞書は共通部分を抽出する作業だ」という。

 ことばは、物事を定義する道具となる。あるものを定義すれば、そこから外れるものが出てくる。仮に「鳥は空を飛ぶもの」とすれば、ペンギンやダチョウは鳥という枠から除外される。意識すべき溝とは物事をどう定義するか、ということにもつながる。時にこの枠を取り払って、そのあわいにあるものに思いをはせたい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月6日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 引用したのは、文章の末尾、いわば結論にあたる部分です。

 この文章の筆者がいう「言葉」は名詞に限定されているのではないでしょうか。「男」だの「女」だの「鳥」だのということを詳しく定義しても、定義をし尽くすことはできません。そこから漏れる部分を「あわい」と言っているようですが、言葉は「あわい」に満ちています。「あわい」の広がりこそが、言葉の奥行きであるのです。

 言葉にはたくさんの品詞があります。例えば形容詞や形容動詞のことを考えてみれば瞭然です。「赤い」や「おもしろい」や「快い」の形容詞の表す範囲を限定することなどできません。「元気だ」や「静かだ」の形容動詞の表す範囲も同じです。私たちは基本的な意味範囲を理解していて、それらの言葉を使っているのです。「あわい」の範囲は無限に広いのです。他の品詞についても同様です。「辞書は共通部分を抽出する作業だ」というのは、そういうことを言っているのでしょう。

 名詞は、極度につきつめて考えていけば、その語義を詳しく言い表すことができるかもしれません。けれども、名詞と同じように、他の品詞についてもそれが可能だと考えるのは思い違いであると思います。ひとつの言葉の説明が、国語辞典によって異なることこそが日本語の(あるいは、全ての言語の)の豊かさを表しているのだと考えるべきでしょう。

|

« 言葉の移りゆき(68) | トップページ | 言葉の移りゆき(70) »