言葉の移りゆき(76)
どんなに長くても「的」は使えるのか
現代語の文章の中に横行する「的」という文字は、もともとは「romantic(浪漫的)」などの「tic」の部分を日本語で書き表すために考え出されたものだと言われます。それは優れた考案であったのですが、「的」の使い方がこんなに広がるとは、昔の人は考えなかったでしょう。「私的には、こう考える」とか、「夏目漱石的なものの考え方」とか、止まるところがないほどの広がりを見せています。
大学入試の英語が変わるということを論じた文章の中に、こんな表現がありました。
その入試がついに変わる。「戦後最大の改革」という人もいる。だが変化が大きい割に、大人たちの多くはひとごとみたいだ。「それで話せるようになるなら、いいんじゃない?」的な声も聞く。
(朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月3日・夕刊、3版、7ページ、「英語をたどって」、刀祢館正明)
述べている意味はわかりますが、こんな表現を野放しにしてよいのでしょうか。「的」の前の言葉は、本来は名詞のような言葉が一つだけであったように思います。「異国的な風景」とか「根本的な改革」とかの短い表現が、すこし長くなって「長崎情緒的なたたずまい」のようになりました。けれども、「的」の守備範囲はそのあたりが限界ではないでしょうか。上の記事では、ひとつの文の全体を「的」が受けた表現になっています。しかも「?」すら含んでいるのです。これを見過ごせば、段落全体を「的」が受けることにもなるでしょう。
〈「なんたらかんたら、なんたらかんたら、そして、なんたらかんたら」的な主張をする人がいます。〉などという表現があらわれるかもしれません。「的」の安易な使い方です。
新聞が新しい表現を開拓していくことは理解できます。けれども、言葉の乱れを牽引するようなことだけはやめてほしいと願います。
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