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2018年7月23日 (月)

言葉の移りゆき(93)

言葉を大げさに使う傾向

 

 前回の「立ち位置」と関係がありそうな言葉の話です。

 研究者や評論家は、他の人との違いを強調するためでしょうか、安易に言葉を作りたがるものです。言葉は、いくらでも大袈裟な使い方が可能ですし、一方で、謙虚で控えめな言葉遣いもできるようにできています。

 

 私は、もっと本質的な議論をするためにも、「哲学対話」や子どもたち自らが問を立てて実行する「プロジェクト型」の道徳教育などを提案しています。

 たとえば、指導要領に「生命の尊さ」とあった場合は、「安楽死」「死刑」といったテーマについて、自ら問を立てて、答えていくと学びです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月26日・朝刊、10版、13ページ、苫野一徳、聞き手・杉原里美)

 

 この文章は道徳教育について書かれたものですが、小学校、中学校、高等学校のどの段階での教育を述べているのかが明確ではありません。それらすべてに共通することなのかもしれません。

 さて、「位置」とだけ言えばよいのに「立ち位置」と言う。「問う」とだけ言えばよいのに「問を立てる」と言う。この二つには共通する姿勢がありそうです。目立った表現になり、力強い感じが伴うということです。けれども、ほとんど内容に違いはないのではないかと思います。

 「立論」という言葉があって、議論の趣旨や筋道を組み立てること、またその議論、という意味で使われています。そのような「立」という文字に引かれたのかもしれませんが、「問を立てる」というのは、大人にとっても子どもにとっても、日常生活の言葉とはかけ離れているように思います。

 「立てる」は日常的な言葉です。けれども、文脈が違えば、それは異質な言葉になりかねません。

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