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2018年7月31日 (火)

【掲載記事の一覧】

 このブログは、2006年8月29日に開設しましたから、もうすぐ満12年になろうとしています。その間、1日も休み無く記事を掲載してきました。長期間にわたって無休を続けているブログは稀少だと思いますから、ギネスものと言ってもよいかもしれません。

 1日に複数の記事を掲載したこともありますから、現在までの掲載記事数は5530に達しました。

 最近は写真の掲載を行っていませんが、この12年間の画像数は6381枚です。

 また、このブログへのアクセス数は、57万回を超えました。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでにブログに連載した記事を、内容ごとに分類して、一覧を記します。掲載日をもとにして検索してください。

 

 

【日本語に関する記事】

 

◆言葉の移りゆき ()(101)~掲載を継続中

    [2018年4月18日 ~ 最新は2018年7月31日]

 

◆日本語への信頼 ()(261)

    [2015年6月9日 ~ 2016年7月8日]

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日 ~ 2010年3月10日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)

    [201310月1日 ~ 20131031日]

 

◆ところ変われば ()()

    [2017年3月1日 ~ 2017年5月4日]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日 ~ 2009年6月4日]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日 ~ 2007年7月7日]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日 ~ 2012年7月8日]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日 ~ 20071030日]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日 ~ 20061226日]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日 ~ 2012年1月4日]

 

 

【兵庫県明石市などの方言に関する記事】

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(2605)

    [2009年7月8日 ~ 20171229日]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日 ~ 2011年9月13日]

 

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-

                        ()()

    [20171230日 ~ 2018年1月7日]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日 ~ 2007年9月29日]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日 ~ 2007年8月20日]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日 ~ 20061015日]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日 ~ 2007年9月12日]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日 ~ 2007年5月7日]

 

 

【郷土(明石市の江井ヶ島)に関する記事】

 

◆名寸隅の船瀬があったところ ()()

    [2016年1月10日 ~ 2016年1月14日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)

    [2012年9月20日 ~ 2013年9月5日]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日 ~ 2011年6月1日]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日 ~ 2014年4月12日]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日 ~ 2008年1月18日]

 

◆名寸隅舟人日記 ()(16)

    [2016年1月1日 ~ 2016年4月2日]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

 

【『おくのほそ道』に関する記事】

 

◆『おくのほそ道の旅』【集約版】 ()(16)

    [2018年3月18日 ~ 2018年4月2日]

 

◆『おくのほそ道』ドレミファそら日記【集約版】 ()(15)

    [2018年4月3日 ~ 2018年4月17日]

 

◆奥の細道を読む・歩く ()(292)

    [2016年9月1日 ~ 2018年3月17日]

 

 

【江戸時代の五街道に関する記事】

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日 ~ 2015年3月31日]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58)

    [2015年4月1日 ~ 2015年6月23日]

 

◆奥州道中10次 ()(35)

    [20151012日 ~ 20151121日]

 

 

【ウオーキングに関する記事】

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日 ~ 2014年5月9日]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日 ~ 2014年5月30日]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日 ~ 2012年5月3日]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日 ~ 2009年6月30日]

 

 

【国語教育に関する記事】

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日 ~ 20071212日]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日 ~ 2008年7月20日]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日 ~ 200610月4日]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日 ~ 2007年8月10日]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日 ~ 200612月7日]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日 ~ 20061222日]

 

 

【教員養成に関する記事】

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日 ~ 2008年9月24日]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日 ~ 20061011日]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日 ~ 200611月2日]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日 ~ 2007年6月6日]

 

 

【花に関する記事】

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日 ~ 2009年6月22日]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日 ~ 2009年5月8日]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日 ~ 2009年3月16日]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日 ~ 20081113日]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日 ~ 20081215日]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日 ~ 2007年6月30日]

 

 

【鉄道に関する記事】

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日 ~ 2007年7月31日]

 

 

【その他、いろいろ】

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日 ~ 20061231日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日 ~ 2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日 ~ 2013年8月28日]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日 ~ 2009年9月10日]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日 ~ 2008年1月10日]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日 ~ 20081125日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日 ~ 2010年1月3日]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日 ~ 2007年8月27日]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日 ~ 2007年8月30日]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日 ~ 2012年9月19日]

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言葉の移りゆき(101)

固有名詞の「盛り合わせ」

 

 いくつかの国や企業や団体などを合わせて表現するときには、できるだけ短く言う方が能率的であると思います。けれども、漢字表現の場合はイメージがわきやすいと思いますがアルファベットではそうはいきません。

 日米韓とか、英仏独伊とか、中露印と言えば、すぐにわかります。日米韓をJAKなどと言うことはないと思いますが、外国企業名などではアルファベットを使うことが増えています。

 

 グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン-頭文字をとってGAFA(ガーファ)と呼ばれる米IT企業が世界を席巻している。便利だけれど、情報独占の懸念も指摘されている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月6日・朝刊、10版、13ページ、「耕論 オピニオン&フォーラム」)

 

 1ページの紙面を使った特集のタイトルは〈「ガーファ」の世界で〉となっており、引用したのは、そのリード文です。カギカッコを使うことはしていますが、もはや「ガーファ」という言葉が市民権を得ているような扱いです。これからは、この無味乾燥なアルファベットやカタカナがたびたび紙面に現れることになるのでしょう。大きな見出し文字に使って、新聞が率先して「ガーファ」を使い始めているのです。

 日本ではこのような場合に漢字を使いますから、親近感を持ちます。関西の大学名を例に挙げてみます。「関関同立」は、関西の私大をリードする関西、関西学院、同志社、立命館大学のそれぞれの頭文字を並べたものですが、一つ一つの学校が思い浮かびます。「GAFA」の味気なさとは雲泥の差でしょう。

 「さんきんこうりゅう(産近甲龍)」という面白い使い方もあります。参勤交代という言葉と、交流という言葉を連想し、イメージが定着します。京都産業、近畿、甲南、龍谷の頭文字を並べようとしたものですが、京都産業は「京都」の部分を犠牲にしています。

 こういうものは、そのうちの一つが欠けるような状況になれば、その言葉自体は消滅の方向をたどることになるのでしょうが、興亡は関西の私立大学よりも、IT企業の方がたぶん速いでしょう。けれども、そうなるまで新聞は、便利な表現として「GAFA」または「ガーファ」を使い続けるのでしょう。だいたい、「ガーファ」などという滑らかさのない発音は日本語の文脈には向いていませんが、新聞は、制限された字数の見出しには使いやすいと考えて、使い続けることでしょう。本文では遠慮がちに使いながらも、見出しにはそんな配慮などありません。美しい日本語というような価値基準をかなぐり捨てて、新聞の見出しは、日本語破壊の先鋒の役割を果たしているのです。

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2018年7月30日 (月)

言葉の移りゆき(100)

饂飩と蕎麦の「ちゃんぽん」

 

 違った種類のものを混ぜ合わすことを「ちゃんぽん」と言います。「日本酒とウイスキーをちゃんぽんで飲んだら、悪酔いするぞ」などと言います。食べ物以外の場合にも、この言葉は使います。

 食べ物の「チャンポン」は、肉・魚介・野菜などを中華麺と一緒にスープで煮たもののことですが、種類の違う食べ物を合わせて作り上げたものも「チャンポン」と言うことがあります。

 けれども、本来の「チャンポン」は中華麺で作られていますから、次のような「チャンポン」は勇み足かもしれません。

 

 JR高岡駅(富山県高岡市)の改札と直結のフロアにある「うどん・そば今庄」の「チャンポン」だ。「当店オリジナル!! うどんとそばがいっしょに食べられる、おいしい一品です」とある。つまり、うどんとそばの合い盛りなのだ。これはもう食べるしかないだろうと思って、「天ぷらチャンポン」を注文した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月16日・朝刊、be7ページ、「食べテツの女」、若宮和子)

 

 確かに、うどんにすればうどんだけ、そばにすればそばだけというのが一般的ですから、その両方が食べられるのは面白いかもしれません。

 けれども、それを「チャンポン」と称するのは、本来のチャンポン()の領分を侵すという遠慮からか、次のような名付けもあります。

 

 立ち食い専門で間仕切りもない「王冠」には、珍メニュー「大盛紅白うどんそば」がある。これは、一杯の丼にそば1玉とうどん1玉を両方盛りつけたもの。食感の違和感が生じそうに思うかもしれないが、細うどん(この店には普通のうどんと細うどんがある)を使っているので違和感は少ない。水菜で仕切りを作るなど、遊び心もあって面白い。

 (鈴木弘毅『全国駅そば名店100選』、2015年2月20日発行、洋泉社〔新書y〕、152ページ、「近畿日本鉄道南大阪線・大阪阿部野橋駅 王冠」)

 

 「チャンポン」という名付けと、「うどんそば」と並べた名付けとの間には、発想の違いのようなものも感じられます。どう食べるかは自由ですが、「チャンポン」は交互に食べたり、混ぜ合わせたりして食べることを連想しますが、「うどんそば」は一方を平らげてから他方へ移るような食べ方が正統派であるように思ってしまいます。

 ついでながら、「紅白」と言う理由がわかりません。トッピングで紅白のものが載せられているわけでもないようです。「大盛うどんそば」では満腹感ばかりが強調されるようなので、言葉で彩りを添えたのかもしれません。

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2018年7月29日 (日)

言葉の移りゆき(99)

寿司の「一丁」と「一貫」

 

 見出しを見て、握り寿司の数え方として「一貫」の他に「一丁」というのがあるのかと思いました。その見出しは〈軽やかに一丁 こだわり握り〉となっていました。記事を読むと、これは見出しの付け方の間違いだということがわかります。

 

 右手でまとめられたシャリが左手のひらのネタ載るや否や、両手ともに軽やかに動き、あっという間に一丁あがり。「指に力を入れへんのがコツかな」。次々と11貫が出来上がり、鉄火巻き3つと共に、吸い物に添えて供された。 …(中略)

 いただきながら、「お寿司って、なんで1貫、2貫と数えるのかなあ」とふと。「江戸前握りは、せっかちな職人のお客相手に始まったから、1個が大きくて一文銭千個分、つまり1貫の大きさに例えたらしいですよ」。手を止めずに、蘊蓄を語る姿にも惚れ惚れした。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月3日・夕刊、3版、3ページ、「味な人」、井上理津子)

 

 「味処 利休」の林時春さんの紹介記事です。豆腐ではありませんから握り寿司を「一丁」と数えるはずはありません。見出しは、「一丁あがり」を「一丁」と約めて書いたのです。いくら字数の都合とは言え、「一丁あがり」を「一丁」と書くのはあまりにも乱暴です。これは筆者の責任ではなく、誌面を編集した人の行き過ぎです。

 ところで、寿司を1貫、2貫と数える理由は、さまざまな語源説があるのでしょうね。

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2018年7月28日 (土)

言葉の移りゆき(98)

「鵜と鵜匠」の「鵜ィン・鵜ィン」の関係

 

 前回の話題「鵜の目」の「鵜」についての話です。鵜飼と言えば、鵜が飲み込んだ魚を吐き出させて漁が成り立っているのだと思っていました。けれども……。

 

 首縄を調整して、複数匹飲み込んだうち、胃に入るものと喉に残るものを分けているそうです。つまり、鵜は食事をしながら、仕事をしているというで、首縄も鵜のその日の体調によって調整されるのだとか。今風に言うと鵜匠と鵜は「ウィンウィンの関係」です。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月2日・夕刊、3版、6ページ、「猫派ですが、」、湊かなえ)

 

 鵜飼とは、飼い慣らした鵜を使って、夏に、篝火をたいて鮎などを寄せて獲る漁のことだとは衆知のことであり、テレビ番組でも鵜匠に取材したものも放送されています。けれども、この文章に書いてあるような内容は見聞したことがありません。

 国語辞典にはそのようなことは書かれていませんが、そこまで詳しく書かないのは当然のことかもしれません。百科事典にも書かれていないかもしれません。

 けれども、書き加えるとすればわずか1行ほどの内容です。手元にある国語辞典を何冊か引いてみると、ほとんど同じような記述になっています。

 この「鵜飼い」の一件で感じたことは、国語辞典の説明の中には、項目によっては、ごく普通の説明を踏襲して、新しみを加える必要はないと判断して書かれているもの、すなわち、マンネリ化している項目もあるのではないかということでした。

 なかなか定義しにくい言葉「右」「左」、「上」「下」、「東」「西」などの名詞には様々な工夫が凝らされ、多様な意味を持つ動詞も詳しく解説され、微妙な意味合いをそなえた形容詞・形容動詞などもわかりやすく説明されている辞典が増えました。けれども、当然のような説明に終始している言葉にも、改めて目を向ける必要があるのかもしれません。

 国語辞典は、編集者と読者(利用者)にも「ウィンウィンの関係」がなければなりません。

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2018年7月27日 (金)

言葉の移りゆき(97)

テニスコートの「鵜の目鷹の目」

 

 日本には、飼い慣らした鵜を使って鮎などをとる「鵜飼い」があります。また、飼い慣らした鷹を山野に放って鳥や兎を捕らえさせる「鷹狩り」もありました。その「鵜」と「鷹」を用いて、「鵜の目鷹の目」という言葉があります。鵜や鷹が獲物を探し求めるような目つきのことです。この言葉は、しつこくものを探し出そうとするときの鋭い目つきのことを表現しているのです。他人の欠点・欠陥などを探して表立てるときに使う言葉です。

 テニスで、打球がコートの内側に落ちたかどうかを判断するときに「タカの目」が役立つのだそうです。

 

 打球は時速200キロを超えることもあり、コートをいっぱいに使ったラインぎりぎりの攻防が繰り広げられます。ここでは、「タカの目」が重要な役割を担います。

 ライン際の正確な判定は人間の目では難しく、その支援のため、4大大会では2006年の全米から導入されたシステムが、タカの目を意味する「ホークアイ」です。 …(中略)

 獲物に向かって飛び立つタカの鋭い目つきやその探知能力は、国は違っても似た印象で捉えられてきました。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月27日・朝刊、10版、15ページ、「ことばの広場 校閲センターから」、岩本真一郎)

 

 この「タカの目」は、欠点・欠陥を探すのではなく、正確な位置の判断のために使われているようです。科学者から見ると、「鵜の目」よりも「鷹の目」の方に、目つきや探知能力との共通点が感じられたのでしょうか。「鵜の目」にとっては残念なことです。

 「鵜の目鷹の目」が科学分野の言葉に広がったことを喜ぶべきでしょうか、それとも、鵜の目鷹の目で監視していなかったから他の事柄に使われるようになってしまったと残念がるべきでしょうか。

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2018年7月26日 (木)

言葉の移りゆき(96)

ラジオ・テレビ的な文章表現

 

 ラジオやテレビで使われているような、カタカナ語や流行語()の多い文章を、新聞記事で目にすると、戸惑いを感じることがあります。ファッションに関する記事の場合は仕方がないと思いますが、地域版のトップ記事であったりすると、もう少し違った表現があっても良いのではないかと思います。

 

 「ファンシー絵みやげ」なるものを集めている人がいるらしい。1980~90年代にかけて、全国の観光地で売っていた 土産物で、愛らしくも、どこかジャンクな香りが、ナウなヤングに大人気だったという。何ですか、それ? 見せてもらえますか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月25日・朝刊、「神戸」版、13版△、25ページ、秋山惣一郎)

 

 リード文の全文を引用しましたが、記事を読むと、「ファンシー絵みやげ」とは、子どもや若者向けのキーホルダーや暖簾や湯飲みなどであることがわかります。

 けれども、「どこかジャンクな香りが、ナウなヤングに大人気だった」というようにカタカナ語を羅列されると、若さにあふれる記者が使っている日常語がそのまま文字になったように感じます。「ジャンクな香り」は小型の国語辞典には出ておりませんから意味がわかりませんが、「ナウなヤング」は、「現代的な若者」とはニュアンスが異なるのでしょうか。

 記事の中身は収集家にインタビューしたものになっているのですが、そこではごく普通の外来語しか使われていません。

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2018年7月25日 (水)

言葉の移りゆき(95)

他の学校の「別校」と統合

 

 その記事の見出しを見たとき、北海道には「別」という文字を使う地名があるから、そういう名前の学校だろうかと思いました。愛別、芦別、江別、然別、士別、登別、女満別、紋別、……。けれども、これらは地名の後ろの文字が「別」なのであって、前に「別」の文字がある地名は思い浮かびません。

 その見出しは次のような言葉でした。

 

 「最後の夏」誇りを持って / 部員15 卒業生や家族に勝利を / 来春別校と統合する函館西

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月23日・夕刊、3版、10ページ、見出し)

 

 1952年に春夏連続で甲子園に出場した函館西高校が、来年の春に「別の学校」と統合されるというニュースです。

 見出しを見るだけで記事のおおよその内容は推測できます。学校の統廃合のニュースはしばしば目にします。函館西高校が「別〇高校」と統合されるというように感じ取りました。

 他の会社は「他社」であり、他の図書館は「他館」であり、他の学校は「他校」です。「別社」と言えば、分社して出来た別の会社を連想します。「別館」は本館とは異なる建物のことだと思います。「別校」という言葉は見たことがありませんが、分校のことを意味しているかもしれませんし、同一系列校の別の学校のことかもしれないと思うのが、自然な解釈というものでしょう。

 記事の中に「別の学校」という言葉があったとしても、見出しで短く「別校」とするのは、あまりにも短絡的な言葉遣いであると感じました。

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2018年7月24日 (火)

言葉の移りゆき(94)

音声言語の「活字化」

 

 「活版印刷」という言葉がありました。活版とは、活字を組んで作った印刷用の版のことです。その活版を使って印刷することを活版印刷と言いました。印刷方法の変化に伴って、新聞や雑誌で活版印刷をしているものは、もはや皆無と言ってよいでしょう。

 それはすなわち、活字がなくなったということに等しいのです。「活字」は、活版印刷に用いる金属製の文字の型ですが、活字の出番は、今では趣味の世界あたりにしかないように思います。

 もっとも、「活字」には、本や雑誌のような印刷物という意味もあります。2005年7月に「文字・活字文化振興法」が公布されましたが、出版物などの文化的所産などを視野に入れた法律です。活版印刷が盛んであったころには「活字文化」と言えばよかったでしょうが、その後の印刷形態の変化によって「文字文化」という言い方も必要になったのでしょう。「文字・活字文化」という言葉は苦肉の結果のようです。

 ところが、実物としての「活字」が消えても、活字によって印刷される「文字」のことを活字と称する使い方は残っているようです。

 

 若者のラジオ離れが進む中、新たなリスナーをどう掘り起こすか。ラジオ局が知恵を絞っている。そのひとつが、放送した番組から話題を呼びそうな内容を「ニュース」や「読み物」して活字化し、インターネットに発信する試みだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月23日・朝刊、13版、35ページ、丸山ひかり)

 

 この記事の見出しは、〈ラジオ活字化し配信 / 新リスナー掘り起こし 各局模索〉となっており、記事の中にも「活字化」という言葉が使われているのですが、その他に、〈放送を聴きながら、話題を呼びそうな部分を文字に起こす〉とか、〈文字に起こすと、もとのニュアンスより強い印象になる場合がある。〉とかの表現もあります。

 私は、長年にわたって方言を研究していますが、方言談話として録音した資料を「文字に起こす」ことを、方言研究の世界では古くから「文字化」と言ってきました。活字が存在した時代であっても「活字化」とは言いませんでした。

 ラジオで放送した言葉を文字に直すことは、即座に印刷物を作ることではありませんから、「活字化」と言うよりは「文字化」と言う方が良いのではないかと思います。

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2018年7月23日 (月)

言葉の移りゆき(93)

言葉を大げさに使う傾向

 

 前回の「立ち位置」と関係がありそうな言葉の話です。

 研究者や評論家は、他の人との違いを強調するためでしょうか、安易に言葉を作りたがるものです。言葉は、いくらでも大袈裟な使い方が可能ですし、一方で、謙虚で控えめな言葉遣いもできるようにできています。

 

 私は、もっと本質的な議論をするためにも、「哲学対話」や子どもたち自らが問を立てて実行する「プロジェクト型」の道徳教育などを提案しています。

 たとえば、指導要領に「生命の尊さ」とあった場合は、「安楽死」「死刑」といったテーマについて、自ら問を立てて、答えていくと学びです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月26日・朝刊、10版、13ページ、苫野一徳、聞き手・杉原里美)

 

 この文章は道徳教育について書かれたものですが、小学校、中学校、高等学校のどの段階での教育を述べているのかが明確ではありません。それらすべてに共通することなのかもしれません。

 さて、「位置」とだけ言えばよいのに「立ち位置」と言う。「問う」とだけ言えばよいのに「問を立てる」と言う。この二つには共通する姿勢がありそうです。目立った表現になり、力強い感じが伴うということです。けれども、ほとんど内容に違いはないのではないかと思います。

 「立論」という言葉があって、議論の趣旨や筋道を組み立てること、またその議論、という意味で使われています。そのような「立」という文字に引かれたのかもしれませんが、「問を立てる」というのは、大人にとっても子どもにとっても、日常生活の言葉とはかけ離れているように思います。

 「立てる」は日常的な言葉です。けれども、文脈が違えば、それは異質な言葉になりかねません。

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2018年7月22日 (日)

言葉の移りゆき(92)

「立ち位置」の「立ち」とは?

 

 「立ち位置」とは、立っている位置のことです。だから、国語辞典には載っていません。当然のことです。「バッターボックス内での〇〇選手の立ち位置はやや前寄りです」などという表現なら、何の違和感もありません。

 けれども、次のような表現になると、心中穏やかではなくなります。

 

 放送中のテレビ番組を視聴している世帯の割合を示す「リアルタイム視聴率」は、CM料金の基準であり、番組評価の物差しにもなってきた。しかし、ネット視聴が広がり、好きな時間に好きな場所で番組が見られるようになった今、その立ち位置は変わりつつある。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年5月30日・夕刊、8ページ、「ザッピング」、井上知大)

 

 この立ち位置というのは、「リアルタイム視聴率」が自己の意思でしっかり立脚している場所のことを言っているのでしょうか。それとも、「リアルタイム視聴率」が周囲の事情によって場所を揺れ動かされていることを言っているのでしょうか。「立ち位置」という言葉が浮き上がって、何を言っているのかよくわかりません。

 「位置」とだけ言えばよいのに「立ち」という言葉を被せる理由について、説明を見聞きしたことがありません。「位置」という言葉は、物や人が全体や他との関係で、ある位置を占めることを表しています。「立ち」が付こうが付くまいが、同じことです。

 上の記事には、〈変わる「視聴率」の立ち位置〉という見出しが付いていますが、それは、「視聴率」の価値(重要度)に変化が生じてきているということでしょう。けれども、「立ち位置」は価値(重要度)という意味ではないでしょう。

 「立ち位置」という言葉は、誰かがふと使った言葉に新鮮味を感じて、追随して使う人が増えたということでしょうが、何とも曖昧な言葉です。こんな言葉が、日常語の世界ではなく、論理的な文章の中で大手を振って使われるようになることだけは排斥したいと思います。

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2018年7月21日 (土)

言葉の移りゆき(91)

災害の「現場」に「はいる」

 

 同じ言葉であっても、その言葉に対する受け取り方・感じ方は、立場の違いなどによって異なるものです。そのことは承知しているのですが、敢えて申したいことがあります。

 学校というところを、教育の「現場」だとする言い方があります。この言葉は、実際に学校に勤務している人が使うというよりは、むしろ教育研究者や教育委員会職員が使うことが多いように思います。

 教育の理論ではこういうことが考えられるが、実際の教育の姿はこうなっているというような場合に「現場」という言葉を使ったり、あるいは、教育理論ではこうなるのだから実際の教育指導の場ではそのように行ってほしいというような場合に「現場」という言葉を使ったりするようです。しばしば「現場」を使いたがる人もあれば、そうでない人もあります。

 教育委員会職員が使うともっと高飛車な姿勢を感じます。指導の歯車となっている教員はしっかり指導せよというような場合、あるいは何かの問題が生じた場合などに、「現場」を使うようです。指導の相手先が「現場」の教員であるのです。

 さて、教育に関することとは違うのですが、西日本豪雨の報道に際しても、この「現場」を耳にしました。現場から中継するとか、カメラが現場に入るとかの言い方は、ずいぶん耳障りな表現です。ここには、報道機関は中央(都会)に構えていて、事件・事故があるとその場所(地方)に立ち入るという姿勢が感じられます。もちろん大都会の真ん中で事件・事故が起きることもありますが、その場合も拠点を構える報道機関が真ん中にそびえていて、そこから当該の場所に立ち入るという印象です。

 「私は今日、現場にはいりました」とか、「初めてカメラが現場にはいったので、その映像をお届けします」とか言っています。まるで手柄を立てたような言い方です。その場所に着いたことを、なぜ「はいる」と言うのでしょう。周りのものをかき分けて「はいる」という印象、中央から堂々とやってきて「はいる」という印象、そんなことを強調しているように聞こえます。謙虚さが欠ける表現です。その場の状況を伝えさせていただいているのだという姿勢ではありません。困難をおして報道してやっているのだというような姿勢は排除してほしいと思います。

 追加を一つ。慇懃無礼な表現も耳にします。のど自慢などの公開収録番組などで、しばしば「今日は兵庫県明石市にお邪魔しています」というような言い方を耳にします。

 「明石駅前の〇〇商店にお邪魔しています」というのは自然な表現です。実際に、〇〇商店には、営業上の迷惑をかけているかもしれないのです。(それが宣伝効果になるというのは別問題です。)

 のど自慢の収録を明石で行ったとしても、市民全体に何の迷惑もかけていません。それを「明石市にお邪魔する」というのは、言葉の柔らかさを装いながら、逆に放送局がその町へ行ってやっているのだということを述べているように感じられるのです。「今回の会場は明石市です」と言う方が、うんと爽やかです。

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2018年7月20日 (金)

言葉の移りゆき(90)

「話す」という語義の広がり

 

 言葉の生活では「話す」「聞く」「書く」「読む」の4つの活動をしていると言われますが、その4つは対等の重さを持つものではないようです。1日中の言葉の運用を振り返って、その4つの活動のどれが多いかと尋ねると、個人個人によって答えは違ってくるだろうと思います。

 けれども、いま話題としたいのは、語義の範囲としての「話す」です。「聞く」は聞くことに限定され、「読む」は読むことに限定されるかもしれませんが、「話す」というのは言語活動の広い範囲のことを意味しているように思えるのです。

 例えば、「あなたは英語を話せますか」という質問は、「話す」ことに限定してはいないと思います。話したり聞いたりする力がありますか、もっと広げると、書いたり読んだりする力も備えていますか、と尋ねられているようです。答える側もそれらの力を総合して考えて、「話せます」とか「少ししか話せません」と答えるはずです。

 また例えば、紛糾している問題に「話をつける」と言いますが、それは言葉を使って議論や調整を尽くして、決着をつけるということでしょう。話すことも聞くことも書くことも読むことも含めて、互いに交渉力を発揮しているはずです。

 つまり、「話す」ということの語義、「話をする」ということの語義は、話す、聞く、書く、読むという活動のすべてを包括しているように思えます。

 次のような記事を読みました。

 

 「最近、彼女とはLINEでしか話してないからなあ」

 電車を待っているホームで、耳に飛び込んできた会話の一節。電話機能もあるのでそのことかと思いきや、「いまLINEしてみるわ」と、文字を入力し始めた。

 リアルタイムのやりとりは、まさに文字でおしゃべりする感覚。雑談とかおしゃべりという意味のチャット(chat)ということばがぴったりだ。「メールで話す」とは言わない。「LINEで話す」はこの感覚の違いを表現しているんだな、と思いつつ電車に乗り込んだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月25日・夕刊、3版、7ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 LINEで「話す」というのはおかしいだろう、LINEに「書く」だろう、という意見もあるでしょう。上の文章の筆者は〈「メールで話す」とは言わない。〉と述べています。

 けれども、LINEであろうとメールであろうと、言葉で何かを伝え、その返信を受けることを広義の「話す」と言ってもおかしくないでしょう。

 科学技術の発達によって、現在とはちがう伝達手段も出現してくるでしょうが、言葉を交わし合うことはすべて「話す」ことの範疇に含まれてしまうのではないでしょうか。ただ、残念なのは、狭義の「話す」ことが少なくなり、「打つ(書く)」や「見る(読む)」だけで意思疎通がなされるのは残念なことです。リアルに「話す」ことが減少し、「リアル」などという言葉が、珍しい現象を指すかのように使われ始めている今、科学技術の行き過ぎに歯止めをかけなければならないと、人々は気づかなければなりません。

 

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2018年7月19日 (木)

言葉の移りゆき(89)

「えげつい」と「えげつない」とは同じ意味

 

 「半端ない」という言葉の原点が滝川二(滝川第二高等学校)のサッカー選手であるとするなら、この言葉は私にとっては、ずいぶん身近なところから発祥したということになります。

 滝川第二高等学校の所在地は神戸市西区です。神戸市のうち垂水区と西区は、もとは明石郡であった地域が神戸市に合併したところです。明石郡は旧・播磨の国に属します。言葉でいえば播磨方言の地域です。もっとも、滝川第二高等学校は私立高校ですから、生徒の出身地に制限はありません。この言葉を発した生徒がどこの出身であったのかは知りません。

 そうではありますが、「半端ない」を播磨方言の使い方と関連して考えておきたいと思うのです。広く言えば関西方言全体とも関連しているかもしれない事象です。

 「えげつい」という言葉を例にします。えげついとは、思慮分別や思いやりがなくて露骨である、図々しくて下品である、というような意味です。「えげつい勝ち方をした」と言えば、ルールから外れていないが、褒められた試合展開ではなかったということです。その場合、「えげつい」という言い方の他に「えげつない」という言い方もあります。「えげつない」の方が使用頻度は高いかもしれません。「えげつい」=「えげつない」。つまり、「ない」という部分が有っても無くても同じ意味なのです。

 似たような例を探してみます。「おもろい漫才を見た」は「おもろないな漫才…」と同じであり、「しんどい仕事をした」は「しんどないな仕事…」と同じであり、「どくしょい(無慈悲な)叱り方をする」は「どくしょないな叱り方…」と同じです。「ない」が有る場合も無い場合も意味に変わりはありません。性質・状態や、感情・感覚などを表す言葉(すなわち、形容詞や形容動詞)にはこのような用法が、方言にはあるのです。

 形容動詞に広めて言えば、「元気な走り方をする」は「元気ないな走り方…」と同じ意味と受け取ることができます。

 そこで、ちょっと言い過ぎになるかもしれないことを敢えて言います。「半端な力しか持っていない」は「半端ないな力…」と言っても同じ意味になります。そのように考えると「半端ない()」は評価を低めて言っているということにもなりかねないのです。

 滝川二の選手が口にした「半端ない」は、「半端ないな」と言っていないから、褒め言葉として使われたことに間違いはないでしょう。けれども、播磨方言(関西方言)を使い慣れた者からは、逆の意味を思い浮かべることがあっても不思議ではないということを言いたかったのです。

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2018年7月18日 (水)

言葉の移りゆき(88)

「半端ない」という言葉の意味・用法

 

 「半端」という言葉には、名詞としての使い方と、形容動詞としての使い方とがあります。一般的な意味は、ある基準でまとめた数量や種類などがきちんと揃っていないということです。半端物と言えばあまり望ましい品物ではありませんし、半端な時間は扱いに困ることになるかもしれません。中途半端という言葉からもわかるように、どっちつかずではっきりしないという意味で使うこともあります。気が利かなく間が抜けているという意味で使うこともあります。いずれにしても、あまり歓迎すべからざる内容です。

 「半端ない」は、それを打ち消した言葉ですから、きちんと揃っている、はっきりしている、気が利いている、という意味でしょう。

 すなわち、サッカーの試合で使われた場合は、実力が見事にそなわっている、、能力のあることがはっきりしている、対応力がついている、という意味なのでしょう。それらを合わせると、並みの選手の持ち合わせていないものを、見事にそなえた選手だということを称えた言葉であるのでしょう。

 そこから、意味が拡大していくようです。前回(87)に引用した「手がける企画の数が半端ない」は、数のことですから、多いという意味になっているようです。けれども、並はずれたということでは共通しているようです。

 この「半端ない」は、「半端」が無いと言っているのではないでしょうから名詞としての使い方ではありません。半端でないということでしょうから、「半端だ」という形容動詞の使い方です。

 名詞の用法ならば「半端・ない」という言い方は許容できますが、形容動詞の用法で「半端で・ない」の活用語尾「で」を省くのはちょっと乱暴なようにも見えます。

 けれども、名詞・形容動詞の両方の働きをそなえた言葉「元気」と比べて考えてみますと、体力を消耗したり、気力が落ち込んだりしている様子を「元気ない」と言いますから、あながち破格の用法でもないような気がしてきます。

 と、ここまで書いてきても、私の胸の中では、「半端ない」という言葉の意味・用法をすんなりとは受け入れたくないという気持ちが残っています。

 それは、前回(87)に引用したように、この言葉の原点が滝川二という播磨地域の学校であることと関係があるのですが、それは次回に述べることにします。

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2018年7月17日 (火)

言葉の移りゆき(87)

話し言葉から書き言葉への昇格

 

 まずは、ある新聞記事の冒頭の段落を引用します。

 

 手がける企画の数が半端ない。運動が苦手な人も楽しめる「ゆるスポーツ」、義足をつけた女性たちのファッションショー、高齢のアイドルグループなど、ゆうに10は超える。生涯や老いに光をあてるプロジェクトの仕掛け人。本業は、大手広告会社のコピーライター兼プロジューサーだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月14日・朝刊、be1ページ、「フロントライナー」、佐藤陽)

 

 書き言葉をもとにして流行して定着していく言葉もありますが、話し言葉がもとで社会に広まっていく言葉の方が圧倒的に多いと思います。

 「半端ない」という言葉も、話し言葉をを原点にして、打ち言葉(インターネットやスマートホンで使われる言葉)を経て、書き言葉になっていくのでしょう。

 ところが、そのスピードがあまりにも速いと思います。新聞記事(書き言葉)の冒頭にこの言葉が現れているのです。記事の中で記者が積極的に使い始めているのです。

 この言葉の由来を記した記事がありました。

 

 元になったのは2009年の全国高校サッカー選手権準々決勝。大迫擁する鹿児島城西に敗れた滝川二(兵庫)の選手が叫んだ。「大迫半端ないって、あいつ半端ないって。後ろ向きのボールめっちゃトラップするもん。そんなのできひんやん普通」。この様子がテレビで放映され、注目を浴びた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月21日・朝刊、13版、32ページ、河崎優子)

 

 この記事の見出しは〈「大迫、半端ないって」ネット拡散 / 元ネタは高校時代の対戦相手〉となっています。これが事実であるのなら、言葉の流行の原点がこれほど明確になっている例は稀少だと思います。

 「半端ない」が2009年発祥だとすれば、本年までの9年間、この言葉がどのような命脈を辿って、2018年の流行語に台頭したのかも興味あるところです。きっと誰かがそのあたりのことを明らかにしてくれるだろうと期待しています。

 さて、同じ日の夕刊記事の見出しは〈大迫 やっぱり半端なかった / 押し相撲も圧勝■練習相手の監督「なんだ、こいつ」〉となっており、記事の冒頭は次のような表現になっています。

 

 中学生で大学生相手にゴールを決め、おまけに相撲も強かった-。サッカーワールドカップ(W杯)ロシア大会で格上のコロンビアから決勝ゴールを決め、日本を勝利に導いたFW大迫勇也(28)=独1部・ブレーメン=は、若いころから「半端ない」逸話を残してきた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月21日・夕刊、3版、11ページ、カザン=堤之剛)

 

 次回は、この「半端ない」という言葉についての私の思いについて書きます。

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2018年7月16日 (月)

言葉の移りゆき(86)

文化財とは何か

 

 文化財保護法は、有形文化財、無形文化財、民俗文化財、埋蔵文化財などの章にわかれています。実際の調査などに費やされる予算は、埋蔵文化財には多額が注がれますが、民俗文化財は軽んじられています。目に見えるものが重視され、目に見えないものは軽視されているのです。国も都道府県も市町村も、習俗や方言・俚言の調査・保存に力を入れているところは稀少でしょう。

 こんな記事がありました。

 

 文化財保護法の改正案が国会で可決され、来年4月から施行される。文化財を町づくりなどに積極的に活用していこうという趣旨だが、観光への活用ばかりが注目されている印象だ。5月に東京で開かれた日本考古学協会の研究発表会でも、様々な疑問の声が上がった。

 大阪大の福永伸哉教授は「文化財に『勝ち組』と『負け組』が出てくるのでは」と、文化財の価値が話題性や集客力で評価されることに懸念を示した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月13日・夕刊、3版、10ページ、「葦 夕べに考える」、今井邦彦)

 

 目に見える文化財でもこの通りです。目に見えない文化財の価値などは無視されているに等しいのです。「勝ち組」「負け組」というように区別するなら、民俗や言葉という貴重な文化財は、はじめから「負け組」に分類されているのです。

 体育には教育的要素が強いのですが、スボーツは金儲けの手段に堕しています。国全体がそちらに向かって急傾斜しています。体育の日をスボーツの日と改める、オリンピックの日程は報道や投資の観点から決められる、大学もスポーツを宣伝の材料にする……。

 それと同じことが、文化財にも起こるとすれば、「文化財保護」という言葉は換骨奪胎です。文化財を商売にされたのではたまりません。そして、目に見えない文化財(言葉や習俗など)が消え去ることなどを何とも思わないようになったら、日本の伝統も文化も風前の灯火になるでしょう。

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2018年7月15日 (日)

言葉の移りゆき(85)

坊さんが屁をこいた

 

 「ぼ・ん・さ・ん・が・へ・を・こ・い・た」。綺麗な言葉ではありませんが便利な言葉です。例えば、ビー玉が100個近くある場合、その個数を数えるのに、子どもたちはこの言葉を使いました。何回か繰り返して唱えて、数えていきます。

 一つを一音ずつで発音しますから、「いち・に・さん・し・……」と数えるよりも少しは速く数えられます。別に急いで数える必要がなくても、この言葉をよく使いました。しかも、坊さんが屁をこいた、という驚くような内容の言葉ですから、楽しみながら数えていけます。私たちが子どもの頃の言葉ですから、もう消えてしまっている言葉かもしれません。

 一字一音での読み方には「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と」もありましたが、これは「ぼ・ん・さ・ん……」を唱えるのをはばかる女の子たちが使っていたようにも思います。

 さて、こんな文章を読みました。

 

 幼い子どもに、ぼうやはいくつ? と歳をたずねると、以前は、みっつ、とあどけない言葉がかえってきたものだ。だが、今では、三歳という言葉がかえってくる。ひ、ふ、み、よ、という言葉と、いち、に、さん、しとどちらが美しいひびきを持っているかと問えば、その答えは自ずから明らかだろう。

 (中央公論新社編『わたしの「もったいない語」辞典』、2018年1月25日発行、中央公論新社〔中公文庫〕、240241ページ、「ひ、ふ、み、よ、」、小川英晴)

 

 言葉は、伝達の機能を果たせばこと足れりというわけではありますまい。「ひ・ふ・み・よ…」の美しく滑らかな響きを快く感じる心も大切ですし、言葉を使うことを楽しむ気持ちも大切だと思います。

 テレビのニュースなどで、小学生にインタビューしているのを見ると、大人が使うような漢語が飛び出してきて、驚くことがあります。かつての子どもたちよりも高度な言葉を身に付けていると感心すべきか、大人びた言葉遣いの陰に純朴さが失われていると嘆くべきか。言葉はその年齢にふさわしい言葉遣いをしながら、ゆっくり少しずつ育っていってほしいと願わないではおれません。

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2018年7月14日 (土)

言葉の移りゆき(84)

「特別」への疑義

 

 前回に続いて、「特別」について考えます。出発点は次のような記事です。

 

 「障害者」の表記について、「害」ではなく「がい」や「碍」にした方がいい、という議論がある。2010年の常用漢字表見直しの際にも「碍」を入れて「障碍」という表記にすべきだとの意見が出た。「碍」には「さまたげ」という意味がある。 …(中略)… そもそも目の不自由な人にとっては「しょうがい」という音をどう表記するかではなく、ことばそのものに疑義があるかもしれないのだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月13日・夕刊、3版、6ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 表記の問題ではなく「しょうがい」という言葉を使うことに疑義があるという論旨に同感です。

 さて、今、特別支援学校というものがあります。法律で決まっているからでしょう、全国の学校の校名が盲学校、聾学校、養護学校から、視覚特別支援学校、聴覚特別支援学校、特別支援学校に改められました。どうしてここに「特別」の語を加える必要があるのでしょうか。小学校や中学校が一般であり、障害児学校は特別だと意識が働いているからでしょう。都道府県の中には、「特別」を省いて視覚支援学校、聴覚支援学校、支援学校という名称を使っているところがありますが、その方が自然に聞こえます。

 今となっては信じられないかもしれませんが、()文部省はこの分野の教育を特殊教育と称していました。平成10年代でも、横須賀市にある国の研究・研修機関の名前は国立特殊教育研究所でした。一般の教育からはずれた特殊なものだという意識があったのでしょう

 「特殊」を「特別」に替えても、国の体質は変わっていないように思います。地方公共団体が「特別」を省いて、支援学校と称することの方が望ましいように思います。

 「しょうがい」と同様に「支援(教育)」という言葉が望ましい言葉であり続けられるかどうかということは、別の問題として存在しますが、「特別」という言葉は排除するのがよいのではないでしょうか。

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2018年7月13日 (金)

言葉の移りゆき(83)

「一般の人」という書き方

 

 若くして名を知られている人がいます。例えば、芸能人、スポーツ選手、評論家、研究者、……と並べて、それらの人が結婚するという報道をする場合、相手が「一般の人」であるという書き方をするでしょうか。評論家や研究者の結婚相手は「一般の人」であっても、ことさらに「一般の人」とは書かないでしょう。スポーツ選手の相手を「一般の人」と書くことはあるかもしれませんし、書かないかもしれません。

 ところが芸能人の場合は、ずいぶん様子が異なります。「一般の人」と結婚するのが特異な現象であるかのように書かれます。そのような書き方は、記者の偏見であるのかもしれませんし、芸能界がそのような世界であるからなのかもしれません。

 こんな記事がありました。

 

 「一般男性と結婚」が気になる。「一般」の反対語は「特別」「格別」などだ。この女性はメディアへの露出も多い「特別な人」だが、結婚相手はそうではない。だから相手への取材などは控えてほしい、という意味合いを発表資料に込めているように思える。ならば、記事に「一般」と書く必要があるのだろうか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月20日・夕刊、3版、6ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 芸能人を特別視するのなら「特別」と言ってよいかもしれませんが、私たちの大多数は、いわば一般の人間です。一般の人をわざわざ「一般」と言う必要はあるでしょうか。特別だ、一般だと区別しようとするから、芸能人の相手を「一般の人」と言いたくなるのでしょう。上の記事の文末は、〈「〇〇さんが結婚したことが明らかになった」で、十分じゃないかな。〉と結ばれていますが、その通りだと思います。

 もうひとつ言うならば、芸能人の結婚を一大事件のように報道しようとする姿勢こそにも問題があるということに気づいてほしいと思います。

 上の記事に、「相手への取材などは控えてほしい、という意味合いを発表資料に込めている」とありますが、発表資料を読むのは限られた人だけでしょう。

 限られた人向けに資料を配り、その限られた人が記事を書くのであって、ファンが取材をするわけではありません。狭い世界で記事は書かれており、記者は「一般の人」「特別な人」と意識してしまうような土壌の上にいるのでしょう。

 読者が知りたがっているから書くのだ、という論理は捨てて、書くべきか書かざるべきか、書くならどう書くべきかということをじゅうぶん吟味してほしいと思います。

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2018年7月12日 (木)

言葉の移りゆき(82)

便利な言葉、具体性のない言葉

 

 文部科学省の私立大学支援事業の対象校に選定されることの見返りに、自分の子を大学入試で合格させてもらったという、信じられないような事件が起きました。次の2つの文は、そのニュースを伝える、1面トップ記事のリード文です。

 

 関係者によると、選定を依頼したのは東京医科大学(東京都新宿区)の関係者だという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月5日・朝刊、13版、1ページ)

 

 文部科学省の私立大学支援事業をめぐる汚職事件で、事業の対象校に選定されるよう前科学技術・学術政策局長の佐野太容疑者(58)に依頼していたのは東京医科大学の臼井正彦理事長(77)だったことが、関係者の話でわかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月6日・朝刊、13版◎、1ページ)

 

 ニュース源を秘匿するという趣旨は理解できますが、その場合に「関係者」という言葉は使い勝手のよいもののようです。

 同時に、明らかになっていない(もしくは、明らかにすることをはばかる)人物のことを指す場合にも「関係者」は便利な言葉のようです。

 けれども、読者からすれば、この言葉によって内容をあいまいにされているという気持ちが生じます。

 5日付けの文は、「関係者によると、……の関係者だという。」という、あいまいさに輪をかけたような表現です。読み返して表現を改めようという気持ちが生じなかったのだろうかと、首を傾げます。

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2018年7月11日 (水)

言葉の移りゆき(81)

「蛇」という比喩

 

 西日本各地で起こった土砂崩れや河川氾濫は、被害の全容が明らかになるにつれて平成以降では最悪のものになりそうです。「崖崩れ」や「土砂崩れ」という言葉は古いものではなく、古人はそれを「蛇崩れ」と言ったようです。

 『日本国語大辞典』では、『甲陽軍鑑』の「霖(ながあめ)にてじゃ崩して、重宝なる土が必人を殺すは、過てあしき事也」という例文と、『武将感状記』の「折しも二三日雨ふりつづき夜に入りて川岸にわかに崩れて水中におちいる音おびただし。是を俗語に蛇崩と云ふ」という例文とを載せています。堤防(河川)や崖などの土砂が緩んで崩れることです。昔は治山治水が進んでいなかったから「霖(ながあめ)にて」とか、「二三日雨ふりつづき」とかの状況で被害が生じたのでしょう。

 『広辞苑』にも「蛇崩れ」は載っており、〈がけなどの崩れること。また、その崩れた所。山くずれ。〉という説明があります。堤防の決壊よりも山崩れに重点を置いた説明ですが、例文はありません。

 この「蛇崩れ」などを引用した文章に出会いました。

 

 かつて土砂崩れは「蛇崩れ」「蛇落」などと呼ばれた。大きな蛇の出現になぞらえたものだと、歴史学者の磯田道史さんが著書で述べていた。ものすごいスピードで人家に迫り、人間の暮らしをのみ込むさまを表したのだろう

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月8日・朝刊、13版●、1ページ、「天声人語」)

 

 筆者の言う「ものすごいスピードで人家に迫り、人間の暮らしをのみ込むさま」を蛇に喩えたというのは理解できます。けれども「蛇崩れ」という言葉を、私はちょっと違った感じ取り方をしています。の

 昔の川は「蛇行(だこう)」しているのが常でした。また、平地と山(や丘や崖)との境界線も一直線ではありません。私は「蛇」という比喩から、くねくねと曲がって連なっている線のことを思い浮かべてしまいます。その曲がりくねった形をしている河川や崖などが崩れることを「蛇崩(じゃくず)れ」「蛇落(じゃらく)」と言ったのではないでしょうか。

 もっとも、磯田道史さんがどの著書で述べているのか書かれていませんから、さしあたっては調べようがありません。その著書の何ページに書かれているのかはともかくも、せめて著書名ぐらいは書いておくのが親切というものだと思います。

 「蛇落」という言葉は『日本国語大辞典』にも『広辞苑』にも載っていません。この言葉を調べてみたいという欲求が生じましたが、今のところ、手がかりはありません。

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2018年7月10日 (火)

言葉の移りゆき(80)

「劇勝」とは何か

 

 日本チームが敗退しても、ワールド杯サッカーの報道は縮小される気配がありません。新聞も放送も、準備を整えていたのだから、報道を続けなければ損害が発生すると言わんばかりの状況です。新聞の場合は、ワールド杯に割くページ数が多く、スポーツ面だけでなく、フロントページも社会面も見境なく、サッカーの話題に占領されています。

 記事の数が多いということは、見出しの本数も多いということです。自社に限っても同じような見出しを何度も使うわけにはいかない、他社の見出しを真似るわけにもいかない、という事情があるのでしょう。時々は、意図のわからない見出しや、その言葉を使った人の自己満足のような表現もあります。

 「劇」という言葉に注目します。

 

 サッカーW杯開幕の話題をさらったのはスペインの監督交代劇だった。就任以来20戦無敗のロペテギ前監督(51)が初戦を2日後に控えて解任された。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月17日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 「監督交代劇」という場合の「劇」の使い方に違和感はありません。けれども、「劇」という言葉には、筆者の考え方が強く反映されています。「……スペインの監督交代だった。」と言えばよいものを「劇」と見なしたのは筆者です。一種の芝居のような出来事だったと判断したから「劇」という言葉を挿入したのです。

 ついでながら、「前監督が……解任された」という表現はおかしいと思います。解任された結果、「前監督」になったのです。

 

 さて、次のような見出しの記事がありました。

 

 20年ぶり劇勝 まさかじゃない / 耐えて焦らせ 終了間際にオウンゴール

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月16日・夕刊、3版、7ページ、見出し)

 

 「激勝」という言葉は時々、目にします。それに対して、「劇勝」とはどういう勝ち方のことでしょうか。「劇的な勝利」を約めたのでしょうか。そうだとしたら、乱暴な言葉遣いです。

 そもそも本文には使われていない言葉です。本文にあるのは次のような表現です。

 

 その後も、イランはゆっくり選手交代をしたり、けがで試合が止まると再開を遅らせたり、徹底的にモロッコを焦らせた。その成果が、相手の不用意な反則で奪ったFKのチャンスであり、相手のミスによるオウンゴールだった。

 (上記の記事と同じ、河野正樹)

 

 記事の表現が見出しに反映されていますが、「劇勝」だけが浮き上がった感じです。ゆっくりした行動で相手を焦らせたことが、劇(芝居)の筋書きを実践したように見えたと言うのでしょうか。

 最近の新聞は、新聞記事の本文を離れて、見出しだけが高揚感を見せる表現が多くなりました。悪く言うと、見出しの一人芝居です。それは、このブログでたびたび指摘してきたことです。

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2018年7月 9日 (月)

言葉の移りゆき(79)

「書き込む」ではなくて「落とし込む」

 

 例えば地図の中に、調査の結果を幾種類かの記号に分けて書き込んでいくとします。かつては手書きであった作業が、パソコンの操作でたやすく行えるようになったのは嬉しいことです。手作業の場合は「書き込む」作業であったのですが、今では…。

 

 「まいかた」ちゃうで、「ひらかた」やで-。読み間違えられることが多い大阪府枚方市が、市名の知名度について全国調査している。9月末まで続け、結果を落とし込んだ全国地図を作製。難読名をPRに生かすべく、年内の公表を目指す。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月15日・夕刊、3版、12ページ、古田寛也)

 

 私たちはパソコンで文章を書くことをしていますが、それを「書く」とは言わないで「打つ」と言うことがあります。言葉の生活には「話す」「聞く」「書く」「読む」の4つの他に「打つ」という活動があるという説まで現れています。つまり、手書きで伝えるのとパソコン(や携帯電話、スマートホンなど)で書いて伝えるのとでは、行動そのものが違うし、文体などにも違いが生まれてきているという考えです。

 同様に、記号などを「書き込む」ことも、パソコンを使えば行動が違うというのでしょうか、「落とし込む」という言い方がされています。記号を書き入れる場合も「書き込む」「打ち込む」でもかまわないと思いますが、それを「落とし込む」と言うのはなぜでしょう。

 この「落とす」の意味は、上から下へ物を移動させるという意味で、手に持っている資料(調査結果)からパソコン画面に移動させるという意味でしょう。けれども、書き込むという丁寧さではなく、次々と無造作に移動させているというイメージがないとは言えません。「突き落とす」や「蹴り落とす」などという印象と重なるからでしょうか、

 同じ動きであることが「書く」「打つ」「落とす」と表現がさまざまになることを、日本語の豊かさとして歓迎すべきか、あまり望ましくない言葉が増えていくと考えるべきか、言葉を発信する側でちょっと立ち止まって考えてみることも必要なのではないでしょうか。

 

 なお記事には、枚方の地名について、『播磨国風土記』に、「河内国茨田郡枚方里」と記されているという記述があります。

 『播磨国風土記』(新編日本古典文学全集、小学館発行)を読んでみますと、揖保郡の項に、「枚方の里。枚方と名づくる所以は、河内の国茨田の郡枚方の里の漢人、来到りて、始めてこの村に居みき。故れ、枚方の里と曰ふ。」とあります。河内の枚方の地名が、播磨の枚方の地名の由来になっていることがわかります。

 また、『播磨国風土記』の飾磨郡の項には、「枚野の里」という地名があります。「枚方(ひらかた)」「枚野(ひらの)」ともに、「枚」は「ひら」と読んでいますから、「ひらかた」という読みは、ずいぶん古くから定着していた読み方なのです。

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2018年7月 8日 (日)

言葉の移りゆき(78)

「密着」の気持ち悪さ

 

 「密着」という言葉は、ぴったりとくっつくことを表しています。愛し合っている男女ならともかく、一般に人は、他の人から密着されるのは気持ちのよいことではないと思います。

 ところがテレビは、「密着」して取材することがまるで手柄であるかのように、この言葉をふりかざして宣伝文句に使います。「密着」は褒め言葉であり、評価を高めることであるかのように聞こえます。

 どれほど気楽にカメラを回していても、取材が1週間続けば、それは「1週間の密着取材」という言葉になるようです。言葉どおりに「密着」すると、取材される側は悲鳴をあげざるをえないでしょう。

 ところが、そのようなテレビ用語を、受け売りで新聞も使い始めています。

 

 俳優の佐々木蔵之介(50)が、カンボジアの農園でコショウづくりに情熱を傾ける日本人に密着取材した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月14日・夕刊、3版、2ページ、杢田光)

 

 これは宣伝広告の文章ではありません。きちんとした記事です。新聞記者はどこまで確かめたのか知りませんが、密着取材をしたのだと言っています。

 文章を読むと取材の様子は述べられていますが、俳優自身は「私は密着取材をした」とは言っていません。記者がテレビ局の宣伝文句をそのまま使って、番組を盛り上げようとしているように感じられます。

 しかも、この記事の見出しは、〈カンボジアで「夢」密着 / 佐々木蔵之介 コショウづくり取材〉となっています。人に密着したというよりは、その人の夢に密着したというのです。心の中まで密着されたらたまりません。

 現今の新聞は、客観取材や客観表現という立場を離れて、宣伝媒体という立場に傾斜を深めていっているのでしょうか。芸能だけでなく、スポーツ記事にもこの傾向は顕著であるように思います。

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2018年7月 7日 (土)

言葉の移りゆき(77)

「丁字路」と「T字路」

 

 タイの洞窟で行方不明になっていた少年など13人の生存が確認されたというニュースは明るい話題でした。それを伝える記事に、「タムルアン洞窟の捜索状況(イメージ)」という図が添えられていましたが、その図の中の説明に次のような文字が使われていました。

 

 丁字路

 丁字路まで約3㎞

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年7月3日・夕刊、3版、11ページ)

 

 「十字路」「丁字路」は漢字の文字の形に添った言い方ですが、その「丁字路」は「T字路」という文字遣いも目にします。「丁字路」と「T字路」は、文字の形も似ていて、発音も類似していますから、文字の置き換えも容易です。「丁字路」の他に、「丁字定規」や「丁字帯」などの言葉もありますが、それらも「T」に置き換えられている場合もあります。

 「T字路」にあたる英語表記は「three-forked road」とか「three-way junction」が主流です。「T-junction」という言い方もあるようですが少数派のようです。「T字路」は和製の表記ということになるのでしょう。

 「丁字路」は道路交通法などの法律にも使われている言葉ですから、「丁字路」の言い方がすたれることはないでしょう。NHKは「丁字路」「T字路」両方の表記を採用しているようですが、今回の事故についてのニュースをホームページで見ると、「丁字路」と「T字路」の両方が各社の方針によって使われているようです。

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2018年7月 6日 (金)

言葉の移りゆき(76)

どんなに長くても「的」は使えるのか

 

 現代語の文章の中に横行する「的」という文字は、もともとは「romantic(浪漫的)」などの「tic」の部分を日本語で書き表すために考え出されたものだと言われます。それは優れた考案であったのですが、「的」の使い方がこんなに広がるとは、昔の人は考えなかったでしょう。「私的には、こう考える」とか、「夏目漱石的なものの考え方」とか、止まるところがないほどの広がりを見せています。

 大学入試の英語が変わるということを論じた文章の中に、こんな表現がありました。

 

 その入試がついに変わる。「戦後最大の改革」という人もいる。だが変化が大きい割に、大人たちの多くはひとごとみたいだ。「それで話せるようになるなら、いいんじゃない?」的な声も聞く。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月3日・夕刊、3版、7ページ、「英語をたどって」、刀祢館正明)

 

 述べている意味はわかりますが、こんな表現を野放しにしてよいのでしょうか。「的」の前の言葉は、本来は名詞のような言葉が一つだけであったように思います。「異国的な風景」とか「根本的な改革」とかの短い表現が、すこし長くなって「長崎情緒的なたたずまい」のようになりました。けれども、「的」の守備範囲はそのあたりが限界ではないでしょうか。上の記事では、ひとつの文の全体を「的」が受けた表現になっています。しかも「?」すら含んでいるのです。これを見過ごせば、段落全体を「的」が受けることにもなるでしょう。

 〈「なんたらかんたら、なんたらかんたら、そして、なんたらかんたら」的な主張をする人がいます。〉などという表現があらわれるかもしれません。「的」の安易な使い方です。

 新聞が新しい表現を開拓していくことは理解できます。けれども、言葉の乱れを牽引するようなことだけはやめてほしいと願います。

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2018年7月 5日 (木)

言葉の移りゆき(75)

インターネット上の伝達でも「口コミ」か

 

 「口コミ」というのは「マスコミ」をもじった言葉ですが、評判や噂などが口から口へ伝えられて広がることです。対面して行われるコミュニケーションです。ところが最近、「口コミ」という言葉が人間関係の上に築かれていることを“悪用”した言葉遣いが見られます。実際にはそうでないものに、「口コミ」という言葉の表す長所だけを利用しているのです。

 

 訪日客には、西日本の観光地が人気-。旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」は12日、訪日客に人気の観光地トップ30を発表した。 …(中略)

 トリップアドバイザーの広報担当者は「口コミが新たな口コミを呼び、上位の観光地を訪れる人が増えている」という。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月13日・朝刊、13版、8ページ、久保田侑暉)

 

 このようなサイトがあっては困るとは思いませんが、これを「口コミサイト」と自称するのはおかしいと思います。広告も掲載され、効果も計算されたサイトは立派なマスコミです。「口コミ」という言葉を使うことによって、何ものにも歪められずに生の意見が反映されているように装うのはおかしいと思います。「口コミ」という言葉を利用して宣伝効果などを上げるのは控えるべきでしょう。

 効果があると思われるものに飛びついて、自分たちの利益を上げようとするのが現代の風潮です。同時に誇大広告は規制されています。誇大でなくても、口コミでないものを口コミと称するのは、言葉の上での明らかな「違反」と考えるべきでしょう。

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2018年7月 4日 (水)

言葉の移りゆき(74)

「見える化」は報道・商業用語?

 

 言葉は的確な意味を伝えるべきですが、それを曖昧にしてしまうようなことをする場合があります。

 言葉を短くしようとする場合に使われる「的」「性」「化」などはその代表です。「社会的な問題をはらんでいる」「子どもたちに社会性を指導する」「遊びを通じて社会化を図る」などという表現の「社会化」「社会性」「社会化」は、意味が広がって、焦点がぼんやりしてしまって、肝心なところが明確でないことが多いのです。

 この「的」「性」「化」などを使わないように努めることによって、すなわち、他の言葉を使って表現しようと工夫することによって、言葉は伝えようとする力が強くなってゆくと思います。

 新聞の見出しは、1文字でも節約したいという欲求があるからでしょうか、漢語で短く表現しようとする傾向があり、「的」「性」「化」がどんどん現れてきます。

 

 はじめて目にしたときには新鮮さを感じた「見える化」という言葉も陳腐になり、曖昧な表現に感じられるようになりました。

 

 片付けや時間の使い方について講演を重ねる整理収納アドバイザー、井田典子さん(58)=神奈川県相模原市=は問いかける。

 「まずは3日間、時間の使い方を記録して、目に見えるようにしてみましょう」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月7日・朝刊、10版、23ページ、松尾由紀)

 

 この記事は90行近い文章ですが、どこにも「見える化」という言葉は使われていません。見出しだけが独自に、

 24時間 「見える化」しよう

と書いてあります。記事にある「目に見えるように」することが「見える化」すると置き換えられているのです。記事を整理した人が「見える化」という言葉に飛びついたのでしょう。この場合の「見える化」は、文字や図表に表すということでしょう

 「見える化」という言葉に飛びついた例は次の記事にもあります。これは、「見える化」という言葉をセールスに結び付けたものです。

 

 勉強すればするほど「やる木」が育ちます-。文具大手のコクヨが、鉛筆に装着して文字や数字を書いた量を「みえる化」する文具「しゅくだいやる気ペン(仮称)」を開発中だ。 …中略…

 子供の努力の量をアプリで「見える化」し、宿題に取り組む習慣作りを手助けするのが狙いだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月8日・朝刊、13版、9ページ、久保田侑暉)

 

 この場合の「見える化」とは、グラフか何かで表すということでしょう。「見える化」と言っても特別なことではないように思います。

 これまでは「視覚化」などと言っていたものを「見える化」としたときには新鮮に感じました。けれども、動詞に「化」を付ける言い方は「見える化」以外に広がりはありませんから、いずれは消え去っていく用法であるのでしょう。「見える化」自体も使い捨てられる運命にある言葉でしょう。

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2018年7月 3日 (火)

言葉の移りゆき(73)

人生の「峠」と「坂」

 

 自分が年齢を重ねてきたせいかもしれませんが、年齢を表す数字に「峠」や「坂」という言葉が付いた表現に出会うと、いったい何歳あたりのことを表しているのだろうかと、立ち止まって考えるようなことが多くなりました。

 

 80歳の坂をこえたあたりから昼寝を貪るようになった。朝食をとったあとや昼めしをすますと眠くなる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月9日・朝刊、be9ページ、「生老病死」、山折哲雄)

 

 「峠」というのは、高くなっていって、そこから低くなっていくところです。変化が起きる地点です。例えば「80の峠にさしかかる」と言うと、70歳台が終わって、80歳台という新しいステージを迎えることだろうと思います。「80の峠を越えた」も同じように受け取られます。

 一方、「坂」というのは一方が高く一方が低いところです。また、傾斜そのものも表します。例えば、「80の坂にさしかかる」と言うと、80歳台が始まるということでしょう。それは誤解なく伝わると思います。

 ところが、「80の坂をこえる」と言うのは、80歳台が始まるということでしょうか、80歳台が終わるということでしょうか。少しあいまいに聞こえます。

 「78の坂」とか「79の坂」という言い方をする人はありません。それによって、「80の坂」という言い方は、細かく区切ったものではなく、おおまかに80歳台を指しているようにも受け取れます。80歳という1年間を意味するのではなく、おおまかな80歳あたりを指しているようにも感じられるのです。そのおおまかな数字が、80歳台(10年間)というあたりまで広がって解釈されることもあり得ると思います。つまり、「80の坂」をこえたら「90」ではないかということになるのですが…。

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2018年7月 2日 (月)

言葉の移りゆき(72)

「熱視線」は国語辞典に載るか

 

 NHK大阪放送局が制作している番組に「かんさい熱視線」というタイトルがあって、関西のさまざまな話題を取り上げています。この「熱視線」という言葉はまだ国語辞典には取り上げられていないように思います。

 その「熱視線」を続けざまに、新聞の見出しで見ました。

 

 神戸発 水素発電に熱視線 / 市街地に供給 世界初 / 大林組・川重が実証

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月5日・朝刊、13版、8ページ、見出し)

 

 流転の巨大砂時計 / 8年前 大阪駅から明石へ 「大きすぎ」休眠 / 砂のまち鳥取 PRへ熱視線

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月8日・夕刊、3版、12ページ、見出し)

 

 大阪万博を再び 熱視線

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月9日・朝刊、13版、21ページ、見出し)

 

 立て続けに「熱視線」という言葉が使われています。共通することは、記事の中には「熱視線」は使われずに、見出しだけで使われていること、そして、関西を話題にしている記事で使われていることです。

 「熱視線」がどれほど広く使われ始めているのか、私にはよくわかりません。全国的な使われ方なのか、関西で主に使われているのかもわかりません。けれども、記者が文章の中で使っていない言葉を、記事を整理した人が見出しとして使っていることから考えると、注目を引きやすい単語であるということは確かでしょう。これは特定の新聞の傾向かもしれませんし、記事を整理した人の個人的な好みであるのかもしれません。

 この言葉はたぶん、「注目を集めている」ということの強調表現でしょう。強い関心を持って見つめられている、期待や好意を持った眼差しが感じられる、ということでしょう。ところで「熱視線」に続く動詞は何と言うのでしょう。熱視線を集める、熱視線を受ける、熱視線を注ぐ、熱視線を浴びせる、…。いずれの表現もしっくりとした感じにはなりません。述語との関係を考えるよりは、上記の見出しのように、「熱視線」という単語だけをぽつんと放り出すような使い方がふさわしい言葉であるのかもしれません。

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2018年7月 1日 (日)

言葉の移りゆき(71)

△は格好良いか

 

 新聞は中学3年生が読めるように作られていると聞いたことがあります。政治・経済・文化・その他の専門用語をじゅうぶんに知っているわけではありませんから、あくまでも文章の難易度についての話です。けれども、新聞を読まない若者が増えて、新聞を読む力は低下しているかもしれません。

 一般の大人にとっても、経済面は経済の知識などがなければ読解できない部分があるでしょうし、スポーツや芸術などについても同様だろうと思います。それに対して、社会面などは、格別の深い内容の専門用語や流行語・隠語などを知らなくても読めるように書かれているはずだと思います。

 サッカーのワールドカップを報じる記事にこんな表現がありました。

 

 セネガル戦で同点弾を決めた本田圭佑(32)にも「本田はいらないって言ってごめんなさい」という謝罪や「本田△」を「ほんださん、かっけー」と読ませる称賛の投稿が多く見られた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月26日・朝刊、13版、32ページ、高野遼、河崎優子、平山亜理)

 

 初めて「本田△」という文字遣いを見た人には、意味がわかったでしょうか。「△」を「さん、かっけー」と読ませていることはわかっても、「かっけー」の意味は理解できたでしょうか。

 私は、NHKラジオの「NHKジャーナル」でこの言葉のことを聞いていましたから、わかりました。「さん、かっけー」の「かっけー」は「かっこいい」の音変化だそうですが、文字からは分かりにくいと思います。このような文字遣いをしている人はどれぐらいの人数に上るのか、また、それを理解できる人はどれほどの人数なのでしょうか。記者はそういうことを考えて、記事を書いているのでしょうか。

 それにしても「本田△」は称賛の文字遣いに見えるでしょうか。「本田◎」と書けば、説明不要の称賛の表現です。「本田〇」よりも「本田△」は下位にあたると理解してもしかたないでしょう。

 「△」を使い始めた人の感覚や、それに追随して使っている人の心理が、いまひとつ私には納得がいかないのです。

 

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